2025年07月19日

京都市交響楽団第702回定期演奏会

☆京都市交響楽団第702回定期演奏会

 指揮:高関健
 独奏:中山航介(ティンパニ)
管弦楽:京都市交響楽団

 座席:3階LB1列5番
(2025年7月19日14時半開演/京都コンサートホール大ホール)


 おらが街のオーケストラ自慢なんかじゃなくて、今や日本のプロオーケストラの中で京都市交響楽団が何本かの指に入る実力を持った存在であることは、衆目の一致するところではないか。
 もちろんそれは、前任の常任指揮者広上淳一を第一とした優れた指揮者陣のオーケストラビルディング、京都市・スタッフ陣のバックアップ、定期会員その他、熱心な観客の支持支援、そして、楽団員のソロ・アンサンブル両面における高水準の演奏によるものであることは言うまでもない。
 そうした京都市交響楽団の楽団員の中から誰か一人だけ名前を挙げろと言われても、そんな殺生なと口にするほかないけれど、無理を承知で挙げるならば、首席打楽器奏者の中山航介だ。
 ここぞというところで響き渡るティンパニの一閃に何度はっとさせられたことか。
 実際、中山さんのティンパニがプログラミングの扇の要となっていたことも少なくない。
 少なくとも、中山さんなかりせば、京都市交響楽団のコンサートは相当物足りなくなると思う。

 京都市交響楽団の今回の定期演奏会では、その中山さんが独奏をつとめるカーゲルのティンパニとオーケストラのための協奏曲が前半に演奏された。
 独奏者がダミーのティンパニに上半身をぶち込むラストで知る人ぞ知る作品だけれど、マレットその他各種道具と素手や声まで「武器」にして繰り広げる中山さんのティンパニの妙技こそがこの曲の神髄、肝だと確信した次第。
 高関健の指揮するオーケストラも過不足なく中山さんを支えていた。
 それにしても、飯森範親がぶっ倒れる映像で有名になった『フィナーレ』もそうだが、この作品でもついつい落語の『死神』のサゲを思い出してしまう。
 笑ったあとで、ぞっとするのだ。
 深淵を見せられたようで。

 休憩を挟んだ後半は、マーラーの交響曲第5番。
 ちなみに、今回のコンサートマスターは石田組の石田泰尚組長で、ファースト・ヴァイオリンとセカンド・ヴァイオリンが向かい合う対抗配置。
 人間にファーストもセカンドもないけど、ヴァイオリンにはファーストとセカンドがあるのだ。
 そうそう、野球にも。
 ユダヤ系の作曲家でケルンで活動したカーゲルのあとに、ケルンで初演された同じユダヤ系の作曲家マーラーの交響曲第5番をプログラミングするとは、流石学究肌の高関健だけある。
 高関さんと京響のマーラーは、第7番「夜の歌」、第6番「悲劇的」を聴いているが、いずれにも共通しているのは句読点のはっきりした音楽処理と、スコアの読み込みの深さだろう。
 例えば、昭和のヤマカズ山田一雄やその弟子の小林研一郎らの身も世もあらぬとばかり感情を爆発させるやり方とは、まさしく対極的な演奏である。
 作品の持つ要所急所を丹念に読み解き、オーケストラに的確な指示を与え、実際の音楽として私たちの前に表わす。
 にもかかわらず、いやそうだからこそ、この交響曲第5番の内包する劇性、精神性も適切に示されていたのではないか。
 おなじみ第4楽章のアダージェットでは、ロマンティシズムの頂点とでも言いたくなるような激しい感情の動きも表現されていた。
 終演後、これが全てだとばかり、高関さんがスコアに手を置いたのも大いに納得がいった。
 とともに、この交響曲が、管弦楽のための協奏曲というのか、ソロ・アンサンブル両面でオーケストラの技量力量をはかる作品であることも改めて痛感した。
 というのも、冒頭のハラルド・ナエスのトランペット・ソロ、わざわざ指揮者の傍に立った第3楽章の垣本昌芳のホルン・ソロをはじめ、弦管打の奏者たちが精度の高い演奏を披歴していたからだ。
 こういう演奏を聴くと、やっぱり音楽は生がいいと強く思ってしまう。
 いやあ、素晴らしかった!
posted by figarok492na at 20:36| Comment(0) | TrackBack(0) | コンサート記録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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