*犬神家の末裔 第32回
部屋に戻ると、瑞希がキッチンの木製の椅子に腰掛けて、両脚をぶらぶらさせながら文庫本を読んでいた。
「おばさんは」
「病院」
「入れ違いか。なんか言ってた」
「いろいろ。あん子はどがんとかこがんとか」
「私のこと」
「うん。あと、明日の飛行機で帰るって」
「そっか。食べる」
早百合は、沙紀にもらったマレーシア産のチョコチップクッキーをトートバックから取り出した。
「いらない」
瑞希は首を小さく横に振ると、あの人信光にそっくり、と呟いた。
「何読んでるの」
瑞希は黙って文庫本の表紙を早百合に向けた。
キッチンでキッチン。
と口にしかけて、早百合はやめた。
本気で瑞希に軽蔑されそうな気がしたからだ。
「ばなな」
「読んだことある」
「高校生の頃。友だちに薦められて」
「私も」
「学校の」
「うん。福島からの転校生。今入院してる」
「そっか」
「これ」
瑞希は文庫本を閉じると、テーブルの上の輪ゴムで束ねられた封筒を手に取った。
「大ばあちゃんが」
早百合が検めると、焦げ茶色に変色した封筒の表には、青のインクの万年筆で認められた野々村珠世様の宛名があり、裏返すとそこには送り主として横溝正史の名前があった。
「これ、何」
「読み終わったら、あたしんとこに来なさいって」
「小枝子おばさんが」
瑞希は頷くと、
「書くの」
と訊いてきた。
「そのつもりだけど」
瑞希はしばらく早百合のことを見つめると、帰る、とだけ口にして部屋を出て行った。
2016年05月03日
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