2016年05月16日

犬神家の末裔 投稿終了のお知らせ

*犬神家の末裔 投稿終了のお知らせ


 4月の初めから約ひと月、断続的に投稿してきた『犬神家の末裔』ですが、作品が最終盤となったことに加え、切りよく40回を迎えたこともあって、今回で投稿を終了したいと思います。
 万一ですが、もし続きをお読みになりたいという方がおられましたら、中瀬のほうまでメッセージをお送りください。
 それでは、今後とも何とぞよろしくお願い申し上げます。
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犬神家の末裔 第40回

*犬神家の末裔 第40回

 早百合は、目の前の小枝子の言葉を待っていた。
 そんな早百合の気の焦りをいなすかのように、小枝子はしばらく黙っていたが、瑞希の入れた緑茶を啜るとようやく唇を動かした。
「うウちのうウらのせんざいにイ
 すずめが三匹とオまってエ」
「おばさん」
 小枝子の悪い冗談に、思わず早百合は大きな声を上げた。
 小枝子はぺろっと舌を出すと、あんたもまじめだね、と再びお茶を啜った。
「だって」
 言葉が続かず、早百合は横溝正史からの手紙の束を小枝子のほうに突き出した。
「あんたの気持ちはよくわかるよ。そんなもん、急に読まされたんだから」
「だったら」
「だけどさあ、いくら慌てたところで、起こっちまったことなんだから仕方がないじゃないか」
 そう言うと、小枝子は今度はカステラを口にした。
 カステラは、小枝子の子供の頃からの好物だ。
「でも、慌てるなって言われたって」
「まあね、あたしもいつまで生きていられるかわからないし、あんたのお母さんだって具合もよくないみたいだから。話しておくなら今かなとも思ったんだ。あんたも戌神家のことを書くつもりなんだろう」
 早百合は黙って頷いた。
「瑞希、灰皿持って来て」
 小枝子が声をかけると、瑞希はぶすっとした表情で、それでもすぐにやって来た。
「身体の毒」
 瑞希が炬燵の上に灰皿を置きながら言った。
「あたしにとっちゃ薬だよ」
 小枝子は、使い込んで飴色に変わった文机の引き出しの中から煙草とライターを取り出した。
 そして、煙草に火を点けて大きく煙を吐き出した。
「あんたも吸うかい」
「吸わない」
 とだけ言って、瑞希はぶすっとした表情のまま小枝子の部屋を出て行った。
「あの子、昔のあんたにそっくりだね」
「そうかな」
「そうだよ」
 小枝子は微笑むと、
「あたしも耄碌してるから、どこまであんたの気持ちに応えられるかわからないけど、あたしが知ってることを話しておくよ」
と続けた。
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2016年05月14日

犬神家の末裔 第39回

*犬神家の末裔 第39回

拝復
野々村珠世様

 麗らかなる季節が到来し、心持ちも晴れやかな今日この頃、如何お過ごしでしょうか。
 先日は、貴方、恒清君、仁科君、小枝子君と久方ぶりにお会いすることができ、何よりでした。
 犬神家の一族の件、ご了承いただけたことに感謝いたします。
 角川春樹君も安堵しておりました。
 この間の顛末、一切伝えてはおりませんので、小枝子君の切った啖呵には、春樹君も驚いたことでしょう。
 内弁慶のくせをして、根が出たがりの性分ゆえ、映画にも出演することとなりましたが、小枝子君の役者ぶりには毛頭敵いません。
 貴方も恒清君も元気そうで何よりです。
 時を経てなお、忘却できぬことは多々あるかとは存じますが、それもまたこの世に生きる者の定めなのだと思います。
 それでは、改めて那須に御挨拶に伺います。

昭和五十一年四月
横溝正史
敬具

追伸
 康夫君にも、一度遊びに来るようお伝えください。
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2016年05月13日

犬神家の末裔 第38回

*犬神家の末裔 第38回

前略
野々村珠世様

 先日は拙家にお越しいただき、誠にありがとうございます。
 こちらの病気への格別のご配慮、心より感謝。
 笠目の佃煮も皆で美味しくいただきました。

 貴方、恒清君より事件の詳しい話を伺えて、改めて腑に落ちること多々ありました。
 たとえどのような相手であろうとも、許されざることは許されない。それは、言うまでもないことです。
 だからこそ、私はあえて貴方や恒清君を責めることはしません。ただただ責めることは、ただただ慰めること、ただただ許すこととコインの裏表でしかないからです。

 広島とともに、満洲での出来事は恒清君にとって辛く苦しい記憶でしょうが、こうして口にすることで少しでも彼の心の重荷がとれるのであれば、よしとすべきなのかもしれません。
 帝銀事件については、その菊池なる人物の仕業ではなさそうですが、到底平沢画伯が真犯人とも私には思えません。
 この事件も、いずれ探偵小説にできればと考えています。

 戌神家での事件のこと。
 私は、虚で虚を表し、虚で真を表す作業を重ねてきましたが、貴方がおっしゃるように、虚で真を蔽うという趣向、非常に興味深く感じます。
 むろん、貴方や恒清君、戌神家の人たちの今後を考えぬわけではありませんが、やはり現実に起こった事件をどこまで虚構に仕立て直すことができるのか、それで世の人々を欺くことができるのか。
 それは、八つ墓村の比ではありません。
 そのことに、作家としての私は心を動かされます。
 結果、それが貴方や恒清君たちを傷つけ苛むこととなるかもしれませんが、それが私の作家としての業なのです。
 探偵小説のためであれば、私は鬼ともなります。
 その点、何卒ご理解のほど。

 それでは、まだまだ暑さ厳しき折、くれぐれもご自愛ください。

昭和二十四年九月
横溝正史
草々
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2016年05月12日

犬神家の末裔 第37回

*犬神家の末裔 第37回

前略
野々村珠世様

 昨年来、再び東京での生活です。
 千客万来、良くも悪くも騒々しい毎日が続いております。
 最近、新青年のために八つ墓村という作品を書き始めました。これまた岡山を舞台にした作品です。
 恒清君、出所されたとのこと。お身体の具合は、如何でしょうか。大禍なければ何よりですが。
 これからが、貴方と恒清君にとって本当の正念場となるでしょう。
 後ろ指を差す者、陰口を叩く者、少なくないでしょう。
 それもこれも、生きていればこそです。
 生ある限り、恒清君と手を携えて、耐え難き日々を歩み続けてください。
 また一度ゆっくりお話できれば。
 寒さ厳しき折、くれぐれもご自愛くださいませ。

昭和二十四年二月
横溝正史
草々
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2016年05月11日

犬神家の末裔 第36回

*犬神家の末裔 第36回

前略
野々村珠世様

 戌神家の事件、月子さんの自死、恒清君逮捕の報に驚愕していた折も折、貴方よりのお手紙届きました。
 もし貴方が書かれたことが全て事実であるとするならば、私の推理は大凡当たっていたこととなります。
 貴方は深くお悩みになっておられることでしょう。
 確かに、罪は罪。罰せられるべきは罰せられるのが当然のことです。
 さりながら、現行の法律のみが正義を体現したものと言い切ることができるでしょうか。誤った法律によって、数知れぬ人々が国賊非国民の汚名を着せられ、獄中において命を奪われたのは、つい数年前までのことではないですか。戸坂潤、三木清、皆しかりです。
 そして、法律によって裁かれ、刑に服することのみが、果たして本当に罪を償うこととなるのでしょうか。
 貴方の懊悩は想像に難くありません。
 けれど、自らの生命を差し出した月子さん、全てを引き受けた恒清君の意志もまた尊ばれてしかるべきだと私は考えます。
 恒清君はもちろんのこと、貴方への風当たりは今後ますます強いものとなりましょうが、どうか早まることなく。

昭和二十二年十一月
横溝正史
草々
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2016年05月10日

犬神家の末裔 第35回

*犬神家の末裔 第35回

拝復
野々村珠世様

 国破れて山河あり、という言葉を改めて想う今日この頃ですが、如何お過ごしでしょうか。
 お便り、心より感謝をいたします。
 八月十五日のあの終戦の詔勅を聴いた瞬間、私は、長年の間私たちの頭上に覆い被さっていた黒々とした暗雲が一掃されるような、澄み切って晴々しい気持ちとなりました。
 馬鹿で愚かな連中が馬鹿で愚かな行為を繰り返す、それがまた正しいこととされる、そんな狂った時代が遂に終わった。
 これで思うがままに、心置きなく探偵小説を書くことができる。
 もはや仕事を奪われることはない。
 私は心の高鳴りを抑えることができないでいます。

 さりながら一方で、私は沸々と沸き上がる怒りに囚われてもいます。
 やれ八紘一宇だ、それ聖戦だ。
 そのような美辞麗句に踊らされて、どれほど多くの人々の血が、若者たちの血が流され続けてきたか。
 命奪われずとも、どれほど多くの人々が塗炭の苦しみを味あわされ続けてきたか。
 終戦の翌日、私を頼ってこの岡山の一寒村に辿り着いた恒清君を目の当たりにし、私は言い様のない哀しみと激しい怒りを覚えました。
 八月六日、恒清君は新型爆弾の熱線によってその身体を蝕まれたのです。
 あの日、あの朝、一瞬の鮮光ののち、気がつけば恒清君は偶さか訪れていた工場の事務所から吹き飛ばされていた。一面の焼け野原、身体中火傷を負って赤裸となった人々、数知れぬ黒焦げの亡骸、まさしく阿鼻叫喚、地獄絵図だったと恒清君は洩らしました。
 それまで張り続けていた心が、身体が緩んだのか、恒清君は二昼夜昏々と眠り続けましたが、その合間も言葉にならぬ叫び声を上げ続けていました。
 彼が見た惨状を思うだに、私は我が身が震えてなりません。

 私はあのときの貴方の姿、月子さんや京大の専門の先生と一緒にやって来られた貴方の姿を忘れることもできません。
 恒清君の枕元で一心に、静かに看病を続ける貴方の姿には、神々しさを感じたほどです。
 月子さんは私に、貴方への感謝の言葉を口にされるとともに、恒兵衛翁の意に反してでも二人を添わせておくべきだったと嘆いておられました。
 月子さんの流す涙に、私は同情を禁じ得ません。

 金輪際戦争などやってはならない。
 そして、私たち作家と呼ばれる者たちこそ、御先棒を担ぐような真似をしてはならないと私は強く感じています。
 虚構の中で殺人が繰り広げられることが許されるのは、殺人に関する謎解きを遊戯として愉しむことが許されるのは、平和な時代なればこそです。
 私はそのためにも、私なりの探偵小説を書き続けます。

 神風を祈る心よ仇なれや たのまず我は爪で耕す

 恒清君の快復を切に祈りつつ。
 貴方も御心確かに。

昭和二十年十月
横溝正史
敬具
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2016年05月09日

犬神家の末裔 第34回

*犬神家の末裔 第34回

拝復
野々村珠世様

 春の盛りとはいえ、未だ暁を覚えぬ今日この頃、如何お過ごしでしょうか。
 那須に戻られたとのこと。
 こちらは、疎開以来の雑然とする毎日がようやく落ち着きました。
 相も変らぬ捕物帳。あとはただただ読書。晴耕雨読ならぬ、晴読雨読にあけくれております。
 恒清君より葉書届きました。
 御出征とのこと。
 今は武運長久をと記すのみです。
 また皆でお会いできるときを心待ちにしております。
 それでは、くれぐれもくれぐれもご自愛くださいませ。

昭和二十年五月
横溝正史
敬具
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2016年05月04日

犬神家の末裔 第33回

*犬神家の末裔 第33回

拝復
野々村珠世様

 目出度さもちう位也おらが春

 新春は迎えど未だ春なお遠き冬の日々、寒さ厳しき折、そちらはなおのこと厳しかろうと上諏訪での生活を思い起こす今日この頃ですが、お元気でお過ごしですか。
 こちらは過日夜暗闇の中を歩いていて、雪解けの泥濘に足を盗られて散々な目にあいました。
 大いなる災難ですが、自業自得の極みでもあります。
 お手紙、心より感謝。転宅等々、諸事繁忙につきお返事年を跨いでしまったこと、平に御容赦ください。
 お手紙によると、信濃毎日の小品を切り抜いて何度か読み返されているとのこと。
 恐縮。勢いに任せて筆を進めたものゆえ、汗顔の到りです。
 感想、なるほどと首肯しております。岸田國士氏の戯曲を想い出したとは、貴方の目、なかなか侮れませんね。
 それにしても、あの小品も彼是一年も前のもので、時の流れの速さを痛感します。
 恒清君より葉書届きました。
 元気そうで何より。満洲はなお寒かろうですが。
 こちらも無理は避けて、執筆に努めます。
 春からは東京と。こちらでの生活が実り多きものとなりますように。
 それでは、時節柄くれぐれもご自愛くださいませ。

昭和十五年一月
横溝正史
敬具

追伸
 恒兵衛翁はさぞ寂しがっておられることでしょう。
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2016年05月03日

犬神家の末裔 第32回

*犬神家の末裔 第32回

 部屋に戻ると、瑞希がキッチンの木製の椅子に腰掛けて、両脚をぶらぶらさせながら文庫本を読んでいた。
「おばさんは」
「病院」
「入れ違いか。なんか言ってた」
「いろいろ。あん子はどがんとかこがんとか」
「私のこと」
「うん。あと、明日の飛行機で帰るって」
「そっか。食べる」
 早百合は、沙紀にもらったマレーシア産のチョコチップクッキーをトートバックから取り出した。
「いらない」
 瑞希は首を小さく横に振ると、あの人信光にそっくり、と呟いた。
「何読んでるの」
 瑞希は黙って文庫本の表紙を早百合に向けた。
 キッチンでキッチン。
 と口にしかけて、早百合はやめた。
 本気で瑞希に軽蔑されそうな気がしたからだ。
「ばなな」
「読んだことある」
「高校生の頃。友だちに薦められて」
「私も」
「学校の」
「うん。福島からの転校生。今入院してる」
「そっか」
「これ」
 瑞希は文庫本を閉じると、テーブルの上の輪ゴムで束ねられた封筒を手に取った。
「大ばあちゃんが」
 早百合が検めると、焦げ茶色に変色した封筒の表には、青のインクの万年筆で認められた野々村珠世様の宛名があり、裏返すとそこには送り主として横溝正史の名前があった。
「これ、何」
「読み終わったら、あたしんとこに来なさいって」
「小枝子おばさんが」
 瑞希は頷くと、
「書くの」
と訊いてきた。
「そのつもりだけど」
 瑞希はしばらく早百合のことを見つめると、帰る、とだけ口にして部屋を出て行った。
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2016年05月02日

犬神家の末裔 第31回

*犬神家の末裔 第31回

「ただね、犬神家の一族にはモデルとなった事件があるわけでしょ」
 早百合は、再びどきりとした。
「関係者の中にはご存命の方もいるっていうじゃないですか。那須の生まれだったら、早百合さんもご存じなんじゃないですか」
「ええ、有名な人たちですから」
 早百合は何気ない口調で応えた。
「その方たちがあの小説を読んだら、一体どう思うんでしょうね。あんな風に書かれてしまったら」
「ううん、難しい質問ですね」
 早百合は首を傾げてみせた。
「ほら、僕のところも三島由紀夫のお芝居になってるでしょう。あれも大概なものだけれど、うちの場合は伯父、父の兄が三島さんと親友で、書け書けってそそのかしたのも伯父のほうだから、仕方ないといえば仕方ないわけだけど」
 経康は眼鏡をかけ直すと、
「でも、細雪も犬神家の一族も三島さんのも、この国の家族のありようを描いていることに違いはないんですよね。三島さんは美化、というか極端に文学化して、谷崎はソフトタッチで意地悪く、横溝正史は身も蓋もなくグロテスクに描いたってだけで。そういえば、横溝正史自身、成長期にいろいろとあったみたいですよ」
と言った。
 早百合は黙って頷いた。
「そうそう、僕は犬神家の一族を読んでいると、あの作品が日本の象徴のように思えて仕方がなくなるときがあるんです」
「この国の家族の象徴ですか」
「それもそうですが、ほら三種の神器繋がりで」
「ああ、象徴」
 早百合はようやく合点がいった。
「僕のところなんて、あのご一家に比べたらなんてことありませんからね。あのご一家は本当に大変でしょうね」

「お客さん着きましたよ」
「あんた、早く降りてよ。ずっと待ってんだから」
 運転手に続いて、初老の女性の図太い声が轟いた。
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2016年05月01日

犬神家の末裔 第30回

*犬神家の末裔 第30回

「実はね、具体的な証拠もいくつかあるんですよ」
「証拠があるんですか」
「そうです。まず犬神佐兵衛の長女の名前は松子、谷崎夫人の名前も松子。って、これは少しこじつけっぽいかな。あと、犬神家の一族では琴が重要な役割を果たしますが、細雪でも琴が効果的に使われています」
 早百合は、『細雪』を思い返しながら頷いた。
 確かに、次女の幸子は琴を嗜んでいた。
「そして、なんと言っても菊畑。犬神家の一族の中に、犬神佐武の首が置かれる菊人形の場面があるでしょう」
「ありますね」
 映画では、地井武夫を模した見るからに造り物っぽい首が、ごとんと菊人形の上から転げ落ちるのだ。
「あれって、歌舞伎の鬼一法眼三略巻三段目菊畑の場面をあしらったものなんですが、雪子が結婚相手の御牧たちと行った歌舞伎座でかかっているのも菊畑なんですよ」
「えっ、それは気づかなかった」
「でしょう。細雪ではさらっと書いてあるだけですからね。ここで菊畑を演じているのが、六代目の尾上菊五郎。細雪の姉妹たちは、音羽屋がひいきなんですよ。まあ、谷崎自身、六代目を意識していた節もあるので、それこそ楽屋落ち的な意味合いもあったのかもしれませんが」
 経康が活き活きとした表情をしている。
「そして、犬神家の一族の斧、琴、菊」
「犬神佐兵衛の全遺産を象徴する、三種の神器ですよね」
「そうです。で、その斧琴菊、よきこときくというのは、音羽屋の役者文様ですからね、これはもう決まりじゃないかと僕は思うんです」
「すごい」
 思わず早百合は拍手をしてしまった。
「まあ、あくまでも僕の推理です。それに、万一犬神家の一族に細雪の影響があったとしても、トリビアルなことに違いはないわけで」
「そんな、すごいですよ。私、両方とも読んでたけど、全然気がつかなかったもの。市川崑さんだって気づいてなかったんじゃないですか」
「市川監督は、犬神家のあとに細雪を撮ってますからね」
「経康さん、やっぱりすごいですよ」
「いやあ、早百合さんに誉められると、照れちゃいますね」
 経康は、絹のハンカチで眼鏡を拭き始めた。
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2016年04月30日

犬神家の末裔 第29回

*犬神家の末裔 第29回

 そういえば、以前朱雀経康が興味深い話をしていた。
 あれは、付き合い始めてしばらく経ってからのことだ。
 経康が大学で日本文学を専攻していることの流れから、話が谷崎潤一郎の『細雪』に跳び、そのまま『犬神家の一族』へと繋がっていったのである。
「早百合さんは、那須の出身でしたよね」
「ええ、大学に入るまではずっと」
「だったら、犬神家の一族を読んだことはありますか」
 早百合は一瞬どきりとしたが、ええと小さく頷き、映画も観ていますと付け加えた。
「実はね、犬神家の一族は、細雪の影響を受けてるんじゃないかと僕は思うんですよ」
「犬神家の一族が細雪の」
「そう。横溝正史が谷崎から大きな影響を受けてたってのは、割と有名な話なんです」
「えっ、そうなんですか」
「ええ。例えば江戸川乱歩なんかは、横溝正史が意識無意識は別にして、谷崎の着想を借りてたって趣旨の言葉を遺してますし、横溝正史自身、小林信彦との対談で谷崎からの影響を語ってますよ。だいたい、谷崎の作品ってサスペンスフルですからね」
 そこで言葉を切ると経康は、
「あっ、ごめんなさい。こういう話をし始めると、僕はついつい止まらなくなってしまうんですよ」
と謝った。
「いえ、そんなことないです。興味深い話なので、ぜひ聴かせてください」
 急に早百合が大きな声を出したので、経康はほんの少し怪訝そうな表情を見せたが、すぐに笑顔に戻ると、
「それじゃあ、遠慮なく」
と、続きを話し始めた。
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2016年04月29日

犬神家の末裔 第28回

*犬神家の末裔 第28回

 那須駅前のバスロータリーで、なす市民総合病院行きの循環バスを待ちながら、早百合は沙紀との会話について思い返していた。

 女性、だけではない。
 男性だってきっとそうだ。
 この国では、人が物心両面で一個の自律した存在として生きていくことは、本当に難しい。
 もちろん、それは不可能なことではないのだけれど、そうあるためには少なくとも覚悟、というか、なんらかの自覚が必要だと早百合は思う。
 そしてそこには、私負けないといった奮闘努力的な覚悟ばかりではなく、私ってナチュラルだからふふふと鼻歌交じりで口ずさんでみせる矜持や見栄も含まれている。
 そもそも、私たちは一個の自律した存在であることを求められていないのではないか。
 良くも悪くも、社会的組織の一手段であることのみが、私たちの存在理由というか。
 だから、家族であれ、学校であれ、会社であれ、国家であれ、そこから逸脱しようとする者には、手を変え品を変え懐柔と脅迫が行われ、ついに逸脱してしまった者には罰則が与えられる。
 罰則を与えられなくとも、放置され無視される。
 むろん、社会的な組織によって私たちが護られていることも否定できない。
 社会的組織の恩恵は計り知れないし、早百合自身、存分にその恩恵を享受してきた。
 けれど、そうした社会的組織が、時として私たち一人一人の桎梏となり得ることもまた事実だ。
 家族とて同じである。
 赤の他人の夫婦は当然のこと、血の繋がった親子であろうと、兄弟姉妹であろうと、所詮は別の人格なのだ。
 性格が違おうが、趣味趣向が違おうが、思想信条が違おうが、なんら不思議はない。
 そう割り切ってしまった上で、適度な距離感を保っていくことができるとすれば、どれほど楽なことだろう。
 ところがなかなかそういう具合にはいかない。
 それどころか、家族は仲睦まじく愛し合うことが正常であるかのように喧伝される。

 うちとおんなじね
 なかよしね
 わたしもサザエさん
 あなたもサザエさん
 笑う声までおんなじね
 はっはっはっはっ
 おんなじね

 という歌があったけれど、早百合はあの歌を耳にするたび、なんとも言えない気持ちの悪さを感じてきた。
 複製人間(クローン)大増殖。
 家符重製的独裁主義(ファッシズム)。
 だいたい、家族関係の桎梏に金が絡んで爆発したのが、戌神家の事件だったのではないか。
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2016年04月28日

犬神家の末裔 第27回

*犬神家の末裔 第27回

 と、そのとたん、沙紀のスマホからクライスラーの愛の喜びが鳴り出した。
 だが、沙紀は電話に出ようとしなかった。
 すぐに愛の喜びは鳴り止んだ。
「出ないの」
「出なくていいの」
 沙紀はそう言うと、再びスマホの液晶画面を早百合のほうに向けた。
 着信履歴には、非通知着信、非通知着信、非通知着信の文字が並んでいた。
「えっ、それどういうこと」
「こういうことだぺ」
 沙紀の眼から急に涙が零れ出した。

 沙紀はスヌーピーのイラストがプリントされたハンカチで目頭を押さえると、すっきりした表情で夫の不倫について語り始めた。
 相手は夫の職場の部下で、夫とは一回り半近くも下、沙紀が二番目の子供を妊娠中に付き合い始めた。
 沙紀はそのことに全く気付いていなかったが、子供を出産してしばらくすると、急に非通知の無言電話がかかってくるようになった。
 なんの気もなく、沙紀が変な電話がかかってくると口にしたとたん、夫は土下座をした。
「俺やっちまった、って言ったんだ」
 沙紀は早百合にそう言った。
 気の迷いだった、相手とは別れた、相手は松本が実家でそっちに移動になった、相手とはもう連絡もとっていない。
 夫は土下座をしたまま、矢継ぎ早に口にしたそうだ。
 そして、本当に本当にごめん、とキッチンの床におでこを擦りつけながら謝ったという。
「あの人の禿げかけたおでこが真っ赤になっててさ、もう笑うしかなかった」
 そこで沙紀は、冷め切ったカプチーノを飲み干した。
「ほんとは別れようかとも思ったんだ。だけどさあ、子供も生まれたばっかりだし、そういうわけにもいかないからね」
 それが二年前。
 それ以来、月に一度、判で押したように決まって非通知の無言電話がかかってくる、と沙紀は続けた。
「ちっともずれてないんだよ。うらやましいわ」
 沙紀は再び微妙な笑みを浮かべて、よくある話だぺ、と呟いた。

 ジャコモを出た二人は、アーケード街の入口のところで別れた。
「書いてもいいよ」
 別れ際、おばさんお大事にと言ってから、沙紀はそう続けたが、早百合には返す言葉がなかった。
 そして、沙紀に尋ねたいことはいくつもあったが、早百合はどうしてもそうすることができなかった。
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2016年04月27日

犬神家の末裔 第26回

*犬神家の末裔 第26回

「ああ、美味しかった」
 そう言って、沙紀がカプチーノを口に運んだ。
 苦味の効いたエスプレッソを味わいながら、早百合は大きく頷いた。
 本場で五年間修業を積み、さらに東京や横浜で腕を磨いたというだけあって、戸倉のつくるイタリア料理は本格的で実に美味しかった。
 その上で、地産地消というのか、那須菜や白戸鱒など地元那須の食材がふんだんに使用されているのも魅力的だ。
 早百合たちがランチを注文してしばらくすると、観光客らしい若い女性の三人組が入ってきたので、戸倉も由美子もそちらにかかりきりになっている。
「人気あるんだね」
「雑誌とか、あとネットでも取り上げられてるから」
「へえ、そうなんだ」
 三人組の一人が那須菜と川エビのサラダをスマホで撮影しているのが目に入った。
「あれ、フェイスブックとかツイッターにアップするんだよ」
「ふうん」
「やってないよね」
「だって、あんまりそういうの得意じゃないから」
「私、やってるよ。ほら」
 沙紀はジャンパーのポケットからスマホを取り出して器用に操作すると、液晶画面を早百合のほうに向けた。
 ペパーミントパティのイラストをアイコンにした、キサキサキ!というアカウントで、「朝起きるのつらいわ」とか「今から買い物。ついでにランチ」といった短めのツイートが続いている。
「キサキサキ」
「そうだよ」
 小学生の頃、沙紀は少女漫画家になるのが夢だった。
 そんな沙紀のために早百合が付けたペンネームが、キサキサキなのだ。
「ツイッターなんてやってたっけ」
「うん。二年ぐらい前からね」
「そっかあ」
「やんないの」
「やったらどうかって、言われてるんだけどね」
「やったらいいのに。フォローするよ」
「面倒だぺ」
「らっしいなあ」
「まあね」
 早百合は冷水を口に含んだ。
「なんで始めたの」
「いろいろ」
「いろいろ」
「そう、いろいろ」
 沙紀は微妙な笑顔を浮かべた。
 そして、早百合に一言断ると、「ともだちとおしゃべり中」とツイートした。
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2016年04月26日

犬神家の末裔 第25回

*犬神家の末裔 第25回

「いらっしゃい、早百合ちゃんはほんと久しぶりだねえ。小学校の同窓会以来だよねえ」
 由美子が二人分のグラスと、冷水の入ったワインの瓶をテーブルの上に置いた。
「ほんとお久しぶり。てっか、びっくりした」
「さゆっぺ、二人のこと気がつかないんだよ」
「だって、ゆみちゃんが戸倉君とお店やってるなんて」
「まあ、私たちもいろいろあってさあ」
 由美子が厨房の戸倉のほうにちらと視線をやった。
「早百合ちゃんは帰省」
「母さんが倒れちゃって」
「ええっ、どうしたのお」
「軽い心筋梗塞だって」
 早百合に代わって沙紀が答えた。
「うちの親類が担当で、一応命に別条はないって。今朝病院に行ったら、意識が戻ってた」
「そうかあ、それはほっとするよねえ。心臓、怖いもんねえ」
「そうだ、由美子知ってた、吉富先生のこと」
「亡くなったんでしょ」
「嘘、よっちゃん先生亡くなったの」
「そう。先生、急性の心筋梗塞だったって」
「ああ、よっちゃん先生三年から六年までずっと担任だったのに」
「私は四年から六年、由美子は」
「三年と六年。いい先生だったよねえ」
「うん、私なんかいろいろ庇ってもらったし」
「先生、亡くなってしばらくしてから見つかったんだよねえ」
「三、四日経ってからだって。先生、旦那さんが亡くなってからはずっと一人暮らしだったもんね」
「一人暮らしかあ」
「先生も、子供さんいなかったからねえ」
 由美子の言葉に、三人が黙り込んだところで、
「ねえ、何食べる」
という戸倉の陽性なバリトンの声が聞こえてきた。
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2016年04月25日

犬神家の末裔 第24回

*犬神家の末裔 第24回

「さゆっぺ」
 と、大きな声がしたのは、早百合がアーケード街の文具店に入ろうとしたときだった。
 驚いて振り返ると、そこには膨らみきった百円ショップのビニール袋を手にした沙紀が立っていた。
「さっちゃん」
「帰ってたんだ」
「うん、母さんが倒れちゃって」
「えっ、おばさん」
「軽い心筋梗塞だって」
「大丈夫なの」
「腎臓も弱ってるらしいけど、今のところは。今朝病院に言ったら、意識も戻ってた」
「そうかあ。それはよかったね」
「さっちゃんは」
「買い物買い物。たいしたもんじゃないけど」
 沙紀はビニール袋の中から、マレーシア産のチョコチップクッキーの箱を取り出してみせた。
「おやつ」
「私んじゃないよ、子供たちの」
 沙紀は微笑むと、
「今から空いてる」
と訊いてきた。
「空いてる」
「じゃあ、お昼でもどう」
「いいよ」
 早百合は軽い調子で応じた。

 沙紀と早百合はアーケード街を細い路地に逸れてすぐのところにある、ジャコモというイタリアン・レストランに入った。
 作曲家のファーストネームが店名の由来というだけあってか、プッチーニの『ラ・ボエーム』が小さな音で流されている。
 どうやら沙紀はこの店の常連らしく、シェフに一言断ると、窓際のテーブル席に腰を下ろした。
 ランチのピークを過ぎたこともあってか、早百合と沙紀以外、店内に客はいなかった。
 と、シェフの傍にいる早百合たちと同年代らしき女性が、こちらのほうに軽く手を振っている。
「ほら、さゆっぺ」
「えっ」
「二人」
「何」
「戸倉君と由美子」
「えっ」
 沙紀の言葉によく確かめてみると、二人は早百合の小学校時代の同級生、戸倉学と井田由美子だった。
 慌てて早百合は手を振り返した。
「相変わらずだなあ」
「しょうがないっぺ」
 早百合はわざとらしく那須の方言を使った。
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2016年04月24日

犬神家の末裔 第23回

*犬神家の末裔 第23回

 三菱銀行那須支店における田山兵三の一件と戌神家の事件の関係については、推理作家の熊倉徹が『日本の青い霧』中の一篇「戌神月子の毒薬と帝銀事件」で詳しく述べている。
 熊倉氏は雑誌編集者を経て作家デビューを果たした人物で、タイトルからもわかる通り、デビュー作の『日本の青い霧』は、松本清張の『日本の黒い霧』から多大な影響を受けている。
 ただ、熊倉氏の場合は、「櫟公爵夫妻の自動車転落事故死」や「フィルムは消えた」のように、自らの身近な人々に起こった事件を積極的に取り上げるなど、私小説的な要素が多分に含まれている点も興味深い。
 実は、熊倉氏は小枝子の日本女子大の先輩にあたり、事件の発生前からすでに二人は面識があったという。

 熊倉氏は、一九四七年十月十四日に起こったある事件から筆を起こす。
 その日、閉店直後の安田銀行荏原支店に、厚生省技官、医学博士、厚生省予防局松井蔚の名刺を手にした男性が現われ、「赤痢菌の感染者が、午前中預金に訪れており、全ての行員と全ての金を消毒する必要がある」旨、告げる。
 支店長は巡査を呼んで赤痢の発生の有無について尋ねたものの、巡査はそのことを知らず、警察署へと確認に向かう。
 その間、男は帝銀事件と同様の手段で行員に薬液を飲ませたが、行員に死者は出なかった。
 なお、松井蔚は実在する人物で名刺も本物だった。
 いわゆる帝銀事件の予備的犯行とも目される安田銀行荏原支店事件だが、その手口は三菱銀行那須支店で試されようとしたものと非常に類似している。
 そこで熊倉氏は、田山兵三を名乗った男性は、安田銀行荏原支店で松井蔚を名乗った男性同様、帝銀事件と密接に関係している人物であると断定する。
 さらに熊倉氏は、この男性がなんらかの理由で戌神月子に接触し、結果として戌神恒猛や青柳達也、若槻修治殺害の際に使用されることとなる毒物を譲渡したのではなかったか、と筆を進めて行く。
 熊倉氏のこの仮説には、早百合も納得させられるところが少なくなかった。
 だから、適うことならばご本人に直接お話をうかがいたいと思っていたのだけれど、あいにく熊倉氏は昨年末より病気療養のため入院中である。
 当然早百合は熊倉氏の著書を引用したいと考えていたが、可能な限り原資料にあたってみるのが物書きとしての礼儀だとも思い、今回の帰省を利用したのだった。
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2016年04月23日

犬神家の末裔 第22回

*犬神家の末裔 第22回

 さらに、信濃民衆新聞那須版・十月十八日付朝刊には、この「奇怪なる訪問者現わる」の続報が掲載されている。

[北那須駅に田山兵三]

 昨日付朝刊にて報じた奇怪なる訪問者、厚生省技官甲信越担当予防官 田山兵三を名乗る人物の足取りが、本紙の独自調査によって判明した。
 本紙調査によると、十月十五日の夕刻北那須駅で、東京発の急行列車から田山兵三と名乗る人物と同様の風体をした男性が降車したことを、同駅駅員の田沼則公氏他数名が目撃している。
 さらに調査を重ねたところ、同日十九時半頃、北那須駅前の旅館北那須ホテルに田山兵三を名乗る人物が入室したことがわかった。
 北那須ホテルの主人伊勢九兵衛氏は語る。
 思えばちょいとばかり妙なお客でしたな。戦闘帽を目深に被って、襟巻を鼻の上まで巻いてるんで、顔の中で見えるのは目だけだったんですからな。
 宿帳には、東京都麹町区三番町二十一番地、厚生省技官 田山兵三 三十歳と金釘流の文字で記されているとのこと。
 本紙が確認すると、厚生省の技官の中に田山兵三なる人物は実在するものの、田山氏は当年とって四十八歳、しかもこの三ヶ月ほどずっと東京に滞在していたというのだから、謎は深まるばかり。
 田山兵三を名乗った人物の正体や如何に。

 と、結んでいるが、本来ならば信濃民衆新聞はこの田山兵三を名乗る人物について、さらに取材を続ける予定だったのではないか。
 ところが、戌神家の事件が発生したために、その余裕がなくなってしまったのだろう。
 事実、その後しばらくの間、田山兵三の名は信濃民衆新聞紙上から消える。
 田山兵三の名が再び信濃民衆新聞に登場するのは、翌年一九四八年の一月に、あの帝銀事件が起こってからだ。
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2016年04月22日

犬神家の末裔 第21回

*犬神家の末裔 第21回

 二年前に帰省した際、すでに事件そのものの記事に関してプリントアウトをすませておいた早百合が、何ゆえ事件直前の新聞に目を通そうとするのか。
 それは、戌神家の事件の二日前、一九四七年十月十六日の午後、三菱銀行那須支店で起こったある不思議な出来事を確認するためだった。
 そして、早百合が信濃民衆新聞那須版・一九四七年十月十七日付朝刊のマイクロフィルムを追っていくと、次の記事が見つかった。

[奇怪なる訪問者現わる]

 昨十月十六日、閉店直後の三菱銀行那須支店に、年の頃なら三十前後、厚生省技官・甲信越担当予防官 田山兵三を名乗る背広服姿の男性が現われた。
 田山兵三曰く、本日午前の預金者中、赤痢の感染者があり、ついては全行員、全紙幣の消毒を行わねばならぬ。
 驚愕、支店長の岡崎正勝氏が詳細確認をと告げて近隣の派出所に向かった隙に、田山兵三は持参の薬物を行員たちに飲ませようとしたが、行員中鼻っ柱の強さで知られたE君が、そんな奇態なもの飲めるかと反抗。
 しばし田山兵三とE君の言い争いが続いた末、田山兵三は責任部署の許可を得ると告げて、那須支店を退散した。
 一方、岡崎支店長が派出所を通じて確認したところ、一切然様な事実はないとのことで、またも驚愕。
 派出所の巡査共々支店に戻ったところで、田山兵三とE君の顛末を知らされた由。
 田山兵三はそれきり那須支店には戻ってこなかったというが、果たしてこの奇怪なる訪問者の目論見とは一体なんだったのだろうか。
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2016年04月21日

犬神家の末裔 第20回

*犬神家の末裔 第20回

 朝食をすませた早百合がなす市民総合病院へ向かうと、母はすでに意識を取り戻していて、早百合の言葉に黙って頷き返した。
 和俊の言葉では、母の状態は今のところ安定しているとのことだった。

 マンションに戻った早百合は、ちょうどパートに出かけるところという睦美の車に同乗して那須市の中心街まで行った。
 睦美がこぼしていた通り、この二年の間に、那須の街はますます寂れてきているようで、全国チェーンのドラッグストアや百円ショップ、カラオケ店、牛丼屋、コーヒーショップの派手派手しい看板がやけに目についた。
 中高生の頃足繁く通った老舗の古本屋が取り壊されて、ブックオフに変わっているのには、早百合は本当に哀しくなった。

 那須市長選はカドワキダイサク
 地域活性化の旗手カドワキダイサク
 那須再生化計画のカドワキダイサク
 をよろしくお願いいたします。

 そんな早百合の前を選挙カーが通り過ぎて行った。

 那須市の中央図書館は、アーケード街を北向きに進み、緩やかな坂道を登り切った小高い丘の上、旧那須城跡にある。
 早百合が東京に出るまでは、中央図書館は、レンガ造りの平屋だったが、十五年ほど前に小ホールを併設した五階建てのビルディングに生まれ変わった。
 自動ドアの正面玄関を入ったちょうど左手に、那須の作家たちという大きなコーナーがあって、萬代耕造や金庭圓内といった文豪たちとともに自分の著書が何冊も並べられているのが遠目にも面映ゆく、早百合は思わず駆け足で通り過ぎてしまった。
 早百合が図書館を訪れたのは、戌神家での事件が起こる前々日前日の新聞のマイクロフィルムを目にしておこうと思ったからだった。
 昔の図書館の司書といえば、どうしてああも無愛想な物言いができるのかと思うほどに居丈高な態度をとる、それも初老の男性が多くて、早百合は何度も泣かされかかったものだが、早百合よりも一回り近く若く見える女性の司書は、とても親切に対応してくれた。
 一つには、早百合が那須の作家たちの一人であることも大きかったのだろうけれど。
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2016年04月20日

犬神家の末裔 第19回

*犬神家の末裔 第19回

 翌朝、早くに目が醒めた早百合は、キッチンのテーブルの上に美穂子宛のメモを置くと、パジャマ代わりのスポーツウェアのまま部屋を出た。
 マンションの玄関から歩いてすぐのところが那須湖のほとりで、コンクリートで整備された船着き場には、戌神家のボートが網で結わえられて停まっていた。
 睦美によると、時折夫の信哉が気分転換に漕ぎ出しているという。
 瑞希はもちろんのこと、最近では信光も一緒に乗りたがらないそうで、信哉はそれが不満らしい。
 早百合は恐る恐るボートに乗ると、網を外してオールを漕ぎ始めた。
 久しぶりだから大丈夫かなと思ったが、えいと力をこめると、あとは自然に両手が動いた。
 早百合が自分でボートを漕げるようになったのは、小学校の五年生の頃だ。
 早百合ちゃん、自分で漕いでみる。
 と、ボートの漕ぎ方を早百合に教えたのは祖母である。
 祖母は東京の女子高等師範学校に進学する前は、地元の女学校のボート部の部員として相当ならしたそうで、その漕ぎ方はとても本格的だった。
 『犬神家の一族』には、野々宮珠世がボートに乗っている場面が何度かあるが、横溝正史はそうした祖母の細かいプロフィールまで知っていたのだろうか。
 見た目とは裏腹に、祖母にはどこか体育会系的な芯の強さがあったのだけれど、横溝正史はその点もまたしっかり踏まえているように思う。
 五分ほどゆっくり漕いだところで、早百合はボートを停めた。
 あまり遠くまで出ると帰りが面倒だし、無理をすればあとで身体も痛む。
 早百合は両手を挙げて、ああ、と大きな声を上げた。
 湖面の水鳥たちが早百合の声に驚いて飛び立って行く。
 あの日、祖父は三人の遺体をボートに乗せて、ここに投げ入れた。
 そのまま遺体を放置しておくわけにはいかない。
 どこかに隠さなければならない。
 もっとも近い場所にあるのは、この那須湖だ。
 おまけにモーターボートもある。
 だから、湖に出て投げ入れた。
 一応、そう説明はつく。
 説明はつくのだけれど、早百合にはどうにもしっくりとこない違和感が残る。
 それに、戦争が終わってずっと病弱だったという祖父に、果たして三人もの人間の遺体を運び込むだけの体力が本当にあったのか。
 早百合には、そのことも大きな謎だった。
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2016年04月19日

犬神家の末裔 第18回

*犬神家の末裔 第18回

「眠とうなったけん、あたしはもう寝るね」
 美穂子は大きなあくびをすると、来客用の寝室へと消えて行った。
 救急車の微かなサイレンの音が、早百合の耳に届く。
 早百合は風呂に入ることにした。
 いつもながら、大きな浴室だと思う。
 せせこましいユニットバスは苦手なので、浴室とトイレが別れたセパレートタイプのマンションには住んでいるものの、あそことここではあまりにも広さが違い過ぎる。
 それにしても、目の前に張り巡らされた鏡のなんと残酷なことだろう。
 鏡に映る自分の姿に、早百合は小さくため息を吐いた。
 四十を過ぎて急に増え始めた白髪、張りが減って小さな斑点が浮き始めた肌、徐々に前に膨らみ始めた下腹。
 これまで出来るだけ直視しないように努めてきた厳しい現実を一挙に突き付けられたような気がして、早百合はうんざりする。
 そして、母もまた入浴するたびに、自分自身の老いと向き合ってきたのだろうと思い、どうにもたまらない気持ちになった。
 早百合は小さく頭を振ると、くまなく全身を洗ってからたっぷりと湯をはった浴槽に身体を沈めた。
 思わず、はあという声が出る。
 昔の家の風呂はもっと小さかったなあ、と手足を大きく拡げながら早百合は思い出した。
 子供の頃はこうやって浴槽に浸かっているのが嫌で、すぐに出ようとしたものだ。
 にわとりがとんでった、って十回数えたら出てもいいよ。
 そんな早百合に優しく言ったのは、祖父だった。
 小学校の修学旅行で、にわとりがとんでったにわとりがとんでったと繰り返して、だるまさんがころんだじゃないの、と親友の沙紀ちゃんにからかわれたのがとても懐かしい。
 祖父は左の頬に大きな火傷の跡があった。
 それに、背中やお腹、太腿といたるところに小さな火傷や傷の跡があった。
 それ、どうしたの。
 という、幼い早百合の問いかけに、これはねえ、戦争で兵隊に行っていたとき、と祖父は言いかけて言葉を止めると、戦争なんかもう二度とやっちゃいけないんだ、どんな理由があったって戦争は人殺しなんだよ、と哀しそうな顔をして吐き出すように言った。
 戦争は人殺しなんだよ。
 祖父のあの言葉には絶対に嘘がなかった。
 祖父の想いは、幼いなりにも早百合にしっかりと伝わった。
 それなのに、祖父はあんなことをした。
 もう戦争は終わっていたというのに。
 そのことが、早百合にはどうしてもわからないのだ。
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2016年04月18日

犬神家の末裔 第17回

*犬神家の末裔 第17回

「あら、瑞希ちゃんは反抗期ね」
「そんなことは、ないです」
 瑞希は不機嫌そうな表情でそう応えると、美穂子の土産物だという博多の明太子を一切れごはんにのせた。
「信光はおじゃけもんだから」
 睦美が沢庵を齧った。
「おじゃけもんてなんね」
「お調子もんのこと、那須の言葉」
「へえ」
「ぼく、おじゃけもんじゃないよおー」
 信光が口をぷうと膨らませて言った。
「嘘つけ、昨日だって」
「ああ、あいは面白かったね。石坂浩二も目ば丸うしとったもんね」
 と、美穂子が口にするや否や信光は突然立ち上がって両手を大きく振りながら、キクチャカキクチャカミキクチャカ、キクチャカキクチャカミキクチャカ、あわせてキクチャカムキクチャカ、と踊り念仏のような動きをしてみせた。
 最近流行りのHANPENという関西の漫才コンビの人気ギャグだった。
「馬鹿」
 と、瑞希が軽く頭を叩いたので、あいたたたあと信光は大げさに頭を抱えた。
「信光君、それやったの」
「はい、やりました」
「ほんと、おじゃけもんなんだから」
「信光君は芸人さんにでもなっとね」
「なれないよ」
 聞こえるか聞こえないかの大きさで、瑞希が呟いた。
「石坂浩二は老けたね。昔はもっとスマートだったのに」
「誰だって年をとったら太るか痩せるかするの。ばあちゃんは特別」
「身体のことじゃないよ、心のことだよ」
 小枝子は、ごちそうさまでした、と両手を合わせた。
「ばあちゃん、もういらないの」
「あとでカステラよばれるからね」
「カステラカステラ」
 信光が繰り返す。
「あんたは、早くごはんを食べなさい」
「はああい」
「うっさい」
 瑞希が呟く。
「よかねえ、みんなでごはんば食ぶっとは。昨日は姉さんと二人だけやったけんね」
 美穂子が緑茶を口に含んだ。
「早百合ちゃん、しばらくこっちにいるんだよね」
「うん。週末に一度東京に戻らなきゃいけないんだけど。しばらくこっちにいようかなと思って。和俊おじさんもそのほうがいいって言うし」
「早百合さん、こっちで小説書くの」
「たぶんね」
 ふうんと瑞希は頷くと、ごちそうさまと言って立ち上がった。
「カステラは」
「いらない」
 瑞希は、自分の食器類を手にしてキッチンのほうへ向かって行った。
「あの子ね、早百合ちゃんのファンみたい」
「本当に」
「うん、贈ってもらった本、熱心に読んでるもん」
「そうなんだ」
「瑞希ちゃんもすごかね、あたしはこん子の書くもんは難し過ぎていっちょんわからんとに」
「きっと、そういうものに憧れる年ごろなんですよ」
「そがんですか」
 美穂子の言葉に、小枝子は黙って微笑んだ。
 早百合はふと、小枝子の若い頃のことを想像した。
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2016年04月17日

犬神家の末裔 第16回

*犬神家の末裔 第16回

 その日、早百合と美穂子は同じマンションの五階にある睦美や小枝子の部屋で夕飯をとった。
 もともと小枝子は三鷹で暮らしていたのだが、夫の雅康が亡くなったのを機に、那須に居を移したのである。
「私は、田舎暮らしは嫌だったんだけどね」
 と言いながら、小枝子はナイフとフォークで器用にビーフステーキを切り分けながら言った。
 いくら少量とはいえ、九十過ぎの女性とは思えぬ健啖家ぶりだ。
 早百合が驚きの目で見ていると、私は肉食系だからねと小枝子は笑った。
「ばあちゃん一人にしておくわけにはいかんでしょ。ほっといてごみ屋敷にでもなったらかなわんし」
「馬鹿なことお言いでないよ」
 山手育ちのくせに、小枝子はわざと伝法な口調を使いたがる。
 日本女子大在学中に、前進座の出し物を真似て前代未聞と言わしめた人物だけはある。
「そんじょそこらのおあねえさんと一緒にしてもらっちゃ困るよ」
「おあねえさんじゃなくて、おばばあちゃんでしょ」
「睦美は無粋だねえ」
「ばってん、あのごみ屋敷のじいさんばあさんには困っとですよ」
「長崎にもいるんですか」
 睦美が美穂子の茶碗にご飯をよそいながら尋ねた。
「そがんですよ。うちの近所にも。まあだ七十にもならんとに、三菱ば辞めたとたん奥さんに先立たれて。そいで気がついたら、家の周りに発泡スチロールだとか古新聞だとか壊れた傘だとかば並べ出して」
 美穂子が睦美に軽く頭を下げて、茶碗を受け取った。
「奥さんが亡くなったのが大きいんじゃない」
「そいはわかっとっとやけど、あがんされたら近所迷惑たい」
「行政は動かないんですか」
「役所はもう、ほったらかしですよ。あがんじいさんは知らんて。ああ、こん煮びたしは美味しかですね」
 美穂子が那須菜の煮びたしを誉めた。
「役所なんてもんは、いつだってそうですよ。良くも悪くも前例第一主義」
 そう言うと、小枝子は未だに入れ歯が一本も入っていない自分の歯でステーキを噛み切った。
「まあ、ばあちゃんは断捨離名人だからね」
「そのダンシャリて言うとはなんですか」
「少し前に流行ったんですよ、いらなくなったものはぽいぽい捨てて行くって。もとは、仏教の言葉じゃなかったかなあ」
「へえ。だったらあたしは夫ばダンシャリしようかしら」
 美穂子の笑い声につられて、信光も笑い声を上げた。
 そんな信光を、中一になった姉の瑞希が冷ややかな視線で見ている。
「夫を捨てるのには反対しないけど、私ゃダンシャリなんて言葉は大嫌い」
「あら、そがんですか」
「だいたい、シャリシャリシャリシャリお香香じゃあるまいし」
 小枝子の応えに美穂子が笑い声を上げると、再び信光も笑い声を上げた。
「信光、静かにしな」
 ついに瑞希が口を開いた。
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2016年04月16日

犬神家の末裔 第15回

*犬神家の末裔 第15回

「早百合ちゃんはよか人はおらんとね」
「よか人って」
「よか人はよか人たい」
 空になった早百合の湯呑みに、美穂子はほうじ茶を注いだ。
「なかなか、見つからなくって」
 早百合は、ゆっくりとほうじ茶を口に含んだ。
「そがんね。早百合ちゃんのごたっ美人やったら、相手の一人や二人、すぐに見つかろうもん」
「美人じゃないと思うけど」
 あんたがもう少しきれいだったらね。
 早百合が子供の頃から、母は事あるごとにそう言って早百合の顔を見つめた。
「なんば言いよっとね、早百合ちゃんが美人じゃなかったら、だいが美人ね。世の中ぶさいくだらけになっとよ」
 美穂子は軽く笑い声を上げた。
「今は仕事の忙しかとやろうけん、結婚ごたっとはよか、仕事のほうが面白かてなっとっとかもしれんけど」
「母さん、何か言ってた」
「姉さん、姉さんはなんも言いよらんよ。あん人は早百合ちゃんに結婚してもらいたくはなかとじゃなかと」
「結婚してもらいたくない」
「そがんよ」
「やっぱり、そうか」
「そがん見ゆってだけよ。だけん、本当はどがん考えとらすとかは私にもわからん」
 美穂子はほうじ茶を一息に飲み干した。
「だいたい、人の気持ちなんてわからんもんさ。だけんか、私はこがんして人とおしゃべりばすっとさ。子供や孫たちにはけむたがらるっけどね」
「叔父さんは」
「ああ、あん人、あん人はもう酒さえ飲めれば恩の字の人やけんね」
 美穂子がわずらわしそうに右手を上下に振った。
「泣かされたこともいっぱいあったし、やぜらしかこともいっぱいあったし、何度別れようと思うたか。ばってん、そいはあん人だっておんなじたい。あん人はあん人でいろいろあったやろうけん。お互い様たい」
「お互い様かあ」
「そがんさ。相手があってこそのお互い様さ。早百合ちゃんがどがんしても一人がよかて言うとやったら、私はなんも言わんけどね。結局は早百合ちゃん次第さ」
 美穂子はカステラの最後の一切れを口の中に放り込んだ。
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2016年04月15日

犬神家の末裔 第14回

*犬神家の末裔 第14回

 そこまで一息に打ち込んで、早百合は手を止めた。
 書かなければという意欲はあるものの、気ばかりが急いて、言葉が生きたものにはなっていない。
 『犬神家の一族』と実際の戌神家の違いを説明する部分は必要だが、もっとこなれた文章にしていかなければと早百合は思った。
 それに、手持ちの文献や資料だけでは書ける内容も限られてくる。

「早百合ちゃん、ちょっとよか」
 叔母の美穂子が声をかけた。
「はい」
 ノートパソコンの電源を切って自分用の部屋を出ると、早百合はキッチンに向かった。
「よかったら、お茶でもどがんね」
 テーブルの上には、カステラの載った皿とほうじ茶の入った湯呑みが二人分用意されていた。
「カステラ、福砂屋の」
「そがんよ。姉さんと食べようと思うとったと。ばってん、あがんことにならしたもんやけん」
 早百合の母と美穂子とでは、十五以上も歳が離れている。
 東京で育った母とは異なり、幼稚園以降長崎市内で暮らし続けてきた美穂子は、長崎の訛りが抜けない。
 そんな彼女のことを母は、美穂子は九州の人だからとよく口にしていた。
「おばさんのおかげで本当に助かりました」
「なんば言いよっとね。私はたあだ石坂浩二に会いたかけん、遊びに来ただけたい」
 そこで美穂子はほうじ茶を啜ると、
「さあ、早百合ちゃんも食べんね」
と続けた。
「はい」
「姉さんもこいからが大変たいね」
 美穂子は大きなため息を吐くと、フォークに突き刺さったカステラの塊を口に運んだ。
「ああ、美味しか」
 早百合は小さく頷くと、マホガニー製の戸棚に視線を移した。
 隙がないというか、これまでは神経質なほどに整然と収納されていたはずの食器類が、微妙にずれて重ねられていた。
「早百合ちゃんはこっちに戻ってくっとね」
「少なくともしばらくは」
「そいば聞いて私も一安心たい。近くに立派な病院があるて言うても、やっぱり一人暮らしじゃなんかあったときが心配かけんね」
 戌神家の邸宅は、なす市民総合病院が建設される際に全てが取り壊され、改めて新たな家屋が建てられた。
 だが、早百合が高校を卒業するまで過ごしたその家屋も、父の死の数年後に六階建てのマンションに建て替えられ、それ以来、最上階の二部屋分のスペースに母は一人で暮らしている。
「姉さんも早百合ちゃんが頼りたい。なんて言うたって、最後は血よ。血は水より濃かとよ」
 そう言い切った美穂子は、もう一度カステラの塊を口に運んだ。
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2016年04月14日

犬神家の末裔 第13回

*犬神家の末裔 第13回

 犬神佐兵衛の三人の娘松子、竹子、梅子は、それぞれ別の母親から産まれたことになっているが、実際の戌神家の三人姉妹月子、星子、陽子の場合、月子と星子の母親は恒兵衛の前妻依子であり、陽子の母親は後妻の彩子である。
 恒兵衛はこの時代の傑物にありがちな色を好む人物だったようで、依子と彩子以外の女性との間にも、複数の子供があったと噂されている。
(青柳達也以外、その実在は不明)
 それにしても、母親を異にする陽子とよりも、月子と星子との間のほうが非常に険悪な仲であったと伝えられているのは、とても興味深い。
 恒清珠世と恒猛の対立には、もしかしたら月子と星子の代理戦争的な色合いも強かったのではないか。

 さらに犬神家の一族には、竹子の夫で犬神製紙東京支店支配人の寅之助、その子佐武と小夜子、梅子の夫で犬神製紙神戸支店支配人の幸吉、その子佐智がいるが、戌神邸での事件が起こった際実在した戌神家の一族を記せば、恒清、星子の夫で戌神製糸大阪支店代表の辰巳、その子恒猛、陽子の夫で戌神製糸東京支店代表の織田宗吉、その子小枝子ということになる。
 ただし、小説とは異なり、月子恒清母子のほかに戌神邸に滞在していたのは、星子、恒猛、小枝子の三人だけだ。
 そのうち、星子恒猛母子は恒兵衛の遺産分配を巡って長らく那須に在ったが、小枝子のほうはのちに夫となる経済学徒仁科雅康の研究論文の資料収集のため偶然戌神邸を訪ねていたという。

 そして、『犬神家の一族』の野々宮珠世と同様、野々村珠世もまた戌神邸で暮らしていた。
 早くに両親を亡くした珠世は、恒兵衛の厚意で戌神邸に身を寄せていたのである。
 しかしながら、野々宮珠世とは異なり、恒兵衛の援助を受けて東京女子高等師範学校で学んだ(同校在学中は、宗吉陽子夫妻のもとで暮らしていた)野々村珠世は、那須市内の明涼女子学院で教壇に立っていた。
 また、恒兵衛が亡くなる前より、珠世と恒清の間には結婚の約束が交わされていたのだけれど、敗戦後恒清が極度に体調を崩していたため、それは長く延期されていた。
 事件が起きたのは、ようやく二人の挙式が決まったまさにその矢先のことだった。
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犬神家の末裔 第12回

*犬神家の末裔 第12回

 ここでは、小説『犬神家の一族』で描かれた犬神家の人々と、実際の戌神家の人々との違いについて詳しく確認しておきたい。
 横溝正史は、『犬神家の一族』の発端で犬神佐兵衛について、「幼にして孤児となった」「自分の郷里を知らない」「両親がなんであったか、それすらもわきまえない」「第一犬神という妙な姓からして、ほんとうのものかどうか明らかでない」と記した。
 しかしながら、実際の戌神恒兵衛の出自は明らかである。
(戌神恒兵衛に関する記述は、主に戌神恒兵衛顕彰会発行の『戌神恒兵衛伝』を参考としているため、そこに「正史」ゆえの誇張や虚偽が含まれている可能性はある)
 戌神恒兵衛は、幕末の一八六七年・慶応三年八月、近江国能登川の名主山田喜兵衛を父に千代を母に生れた。
 一八八三年・明治十五年、その恒兵衛を那須に呼び寄せたのは、那須神社の神官野々村大弐に嫁いでいた姉春世である。
 能登川は、那須藩八万二千石富形松平氏の飛び地として代官所が設けられており、幕末の代官滝藤左衛門は野々村家の出身で、その縁から春世は野々村大弐に嫁いだものと思われる。
 なお、『犬神家の一族』では、犬神佐兵衛、野々宮大弐晴世夫妻を巡る一種異様な人間関係が物語の鍵となっているが、野々村大弐春世夫妻の一子範子が生れたのは、恒兵衛が那須に移る一年前だ。

 次に戌神の姓であるが、『戌神恒兵衛伝』に、以下の記述がある。
「もともと戌神家は那須神社の神事と深く関わりのある家柄だったが、嘉永の頃途絶して長く野々村家が姓を預かったままであった。
 それが、幼少の頃より秀才の誉れが高かったものの、山田家の没落によって高等教育を受ける機会を逸した弟を不憫に感じた姉春世の口添えもあり、恒兵衛を那須に呼び寄せ、戌神の姓を復活させることになったのである。
 恒兵衛翁曰く。
 わしは、戌神だの蛇神だの大嫌いや、と言うたんやが、義兄や姉がやいのやいのと言うんやな。明治の御世に、山田なんぞでは平凡に過ぎる。商売をやるんやったら、まずは人に覚えてもらわな損や。那須で戌神言うたら誰でも知っとる。いや、これがその通りやったんや。世の中、わからんもんやな」
(原文ママ)
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2016年04月13日

犬神家の末裔 第11回

*犬神家の末裔 第11回

 その談判中、凶事は起こった。
 激しい怒りに襲われた月子が、青酸化合物の入ったウイスキーを恒猛らに飲ませ、三人を殺害してしまったのだ。
 それは、関係者の証言をもとに、同夜午後十一時前後のことと類推されている。
 この夜、珠世や小枝子とともに、那須市青年団主催の懇話会に参加していた恒清が帰宅したのは、日付が変わる午前十二時少し前。
 はじめ、月子は自らの犯した罪を覚られまいとしたが、不穏な空気を察した恒清が詰め寄ると、観念したのか彼女は全てをありのままに告げた。
 惨状を目にした恒清は、戌神家所有のモーターボートを利用して三人の遺体を那須湖へと投棄した。
 翌二十二日午前一時過ぎ、恒猛が戻って来ないことを不審に思った星子(戌神家の別棟に滞在中)が月子を訪ねたが、月子は意味不明な言葉を繰り返すだけでらちが明かない。
 しかも、珠世らと帰宅したはずの恒清もいない。
 曰く言い難い感情を覚えた星子だったが、その夜は引き下がった。
 同日午前六時頃、地元の漁師より那須湖で男性の遺体を発見した旨通報があり、那須警察署が出動する。
 同日午前中、所持品等から発見された遺体が戌神恒猛であること、解剖の結果恒猛が薬殺されたことが判明、那須警察署捜査一課が戌神邸での捜査を開始する。
 警察の聴き取り調査に対して知らぬ存ぜぬを繰り返していた月子だったが、応接間に残った異臭と夥しい血痕の跡を追及されるに到り、私が恒猛、達也、若槻の三人を殺したと自白して、月子は服毒自殺をはかった。
 那須警察病院に搬送された月子は、手当ても虚しく同日午後三時過ぎに亡くなる。
 同日夕刻、NHKのラジオが戌神邸での殺人事件を臨時ニュースとして伝える。
 一方、三人の遺体を投棄後行方のわからなかった恒清は、捜査の末、同日午後十時過ぎに那須湖畔の豊端村にある戌神家所有の空き家で発見された。
 二十三日、新聞各紙が朝刊一面で戌神邸での毒殺事件を報じ、以後しばらくの間那須市は、警察やマスコミその他入り混じった大きな混乱の渦に巻き込まれることとなる。
(以上、熊倉徹著「戌神月子の毒薬と帝銀事件」『日本の青い霧』上巻<文春文庫>所収を参考)
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犬神家の末裔 第10回

*犬神家の末裔 第10回

「信州財閥界の一巨頭、犬神財閥の創始者犬神佐兵衛は、血で血を洗う葛藤を予期したかのような条件を課した遺言状を残して他界した。それをめぐって次々と奇妙な殺人事件が起こる……」
 とは、今手元にある文庫本(角川文庫/一九九三年一月十日六十版発行)に付された『犬神家の一族』の梗概である。
 『犬神家の一族』といえば、一九五〇年一月号から翌年五月号に渡って「キング」誌に掲載された横溝正史を代表する長篇小説の一つだ。
 特に、市川崑監督、石坂浩二主演による一九七六年の映画作品は、角川春樹率いる角川書店の宣伝戦略と相まってセンセーショナルなブームを巻き起こしたほか、その市川監督によるリメイク版やテレビドラマなど、何度も映像化されている。
(角川映画より遡ること二十年ほど前の一九五四年に、『犬神家の謎 悪魔は語る』のタイトルで映画化されたのがその端緒だが、このときの金田一耕助役はスーツ姿の片岡千恵蔵だった)

「犬神家の全財産、全事業相続権を意味する三種の家宝、斧・琴・菊(よきこときく)は、犬神佐兵衛の三人の孫、佐清、佐武、佐智の中より配偶者を選択したときにかぎり、犬神佐兵衛にとって大恩のある那須神社の神官野々宮大弐の孫珠世に譲られるものとなり、結果としてそれが為されない場合は、佐兵衛と愛人青沼菊乃の間に生まれた青沼静馬に全財産の五分の二が与えられる。
 という犬神佐兵衛の奇怪な遺言状が引き金となって、連続殺人事件が発生する。
 遺言状の発表を前に依頼者を殺害された探偵金田一耕助は、調査と推理を重ねる中で、犬神佐兵衛の秘められた過去と、彼に纏わる複雑な人間関係が事件の背景にあることを知る」
 『犬神家の一族』の大略を改めて記してみたが、実際に戌神家で起こった事件とでは、大きな相違点が幾つもある。

 戌神家で実際に起こった事件のあらましは以下の通りだ。

 一九四七年十月十八日の午後八時前後、同年八月に亡くなった戌神恒兵衛の遺産相続に関して、戌神恒猛(佐兵衛の次女星子の長男)、青柳達也(恒兵衛と愛人青柳喜久子との子息)、若槻修治(恒猛の学生時代からの親友でブローカー)の三人が、戌神月子(恒兵衛の長女)のもとを訪れる。
 ちなみに、当時の戌神邸には、約五百坪の本屋敷のほか、別棟の住居が複数建てられており、月子と恒清(月子の長男)はもっとも那須湖に近い日本式の家屋に住んでいた。
 恒兵衛の遺言状は、総額十二億円にのぼるという全財産のうち、その四割を恒清に、二割を野々村珠世(戌神恒兵衛の姉春世の孫で、恒清の許嫁)に、一割ずつを恒猛と小枝子(恒兵衛の三女陽子の長女)に、一割五分をその他の親類と戌神事業会に、残りの五分を青柳達也に、それぞれ与えるというもので、結果として恒清珠世が全財産の過半数を占めるという内容に恒猛は激しく反発し、青柳達也とともに分配の変更を求めていた。
 恒清珠世の側も、変更自体については認めていたものの、その方法でどうしても折り合いがつかず、業を煮やした恒猛は、達也、若槻を連れて恒清の母月子に談判を申し入れたのだった。
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2016年04月12日

犬神家の末裔 第9回

*犬神家の末裔 第9回

 お世話になります、諸田です。
 小林です。
 今、よろしいでしょうか。
 はい。
 お母様、お加減如何ですか。
 ご心配おかけしました。軽度の心筋梗塞だという診断で。
 軽度の心筋梗塞。
 ええ、今のところ命に別条はないそうです。
 それはよかったですね。
 親類が担当の医師で、万一のことがあるかもとは言われましたが。まずはほっとしました。
 そうですか。
 ただ、どうも腎臓の具合が悪いみたいで。
 腎臓。
 数値が相当悪いそうなんです。
 ううん。
 一二週間ほど様子を見てから、そちらの治療も始めたいと親類は言ってました。
 実は、私の父も慢性腎不全で。
 お加減は。
 いやあ、ずっと透析なもので。あれは、やはり辛いと思います。あっ、これは失礼しました。
 いえ。よろしければ、また詳しく教えていただけませんか。
 こちらでお役に立てるのであれば、ぜひ。
 ありがとうございます。
 いいえ、こちらこそ。それで、ご予定、メールでいただきましたが、しばらくご実家のほうに。
 週末に一度戻るつもりにはしてるんですが、母のことが落ち着くまではしばらく那須にいようかと。
 そうですか。こちらとしては、小林さんのご都合を最優先していただければ。
 申し訳ありません。
 いや、そんな。
 それで、ご相談というか、諸田さんにお願いがあるんですが。
 どういったことでしょうか。
 以前、諸田さんからお話いただいた、私の実家の件なんですけど。
 戌神家の。
 あれ、やってみようかと思って。
 本当ですか。よろしいんですか。
 ええ。かえってこういう機会でなければ、いつまで経っても先延ばしにしてしまいそうな気がして。
 私としては大賛成です。
 それで、お手数かけますが、できる限りで構わないので、資料や文献を揃えていただけませんか。自分でもやるだけやってみようとは思っているんですが。
 いやいや、それはご心配なく。すぐに集めさせていただきます。
 ありがとうございます。よろしくお願いします。詳しくは、今度戻ったときに。
 ぜひ、お待ちしております。きっと小林さんにとって大きな、機会になると思いますので。
 それでは、スケジュールが決まり次第、メールかお電話で。
 承知いたしました。お母様のお加減が少しでも早く落ち着かれますように。小林さんもご自愛くださいね。
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2016年04月11日

犬神家の末裔 第8回

*犬神家の末裔 第8回

 点滴で投与されている薬剤もあってか、母は小さい呼吸を繰り返しながら眠っていた。
 和俊の話では、少なくとも一週間から二週間は安静状態で様子を見た上で、その後改めて精密検査を行い、腎臓の治療に入るとのことだった。
 二年ぶりに目にした母の顔は、ますます小さくなっていた。
 夏目のことに、作家として早百合がデビューしたことも加わって、早百合と母との間には一層深い溝ができていた。
 あんたこれからどうするの、そんなんでちゃんと生きていけるの、世間様に恥ずかしい生き方だけはせんといてな。
 という母の言葉に、早百合は反発した。
 なんにもわからんくせに、えらそうなこと言わんで。
 そう言って電話を切ったことも度々だったし、携帯電話を持つようになってからは、母の着信番号を目にすると無視を決め込むようにもなった。
 だが、こうやって静かに眠り続ける母の姿を目にしたとき、早百合は頑なだったのは、母よりも自分のほうではなかったかと反省するのだった。
 父が亡くなったあと、小枝子をはじめとした親類縁者や友人知己の助けを借りつつも、最悪の事態を避ける形で戌神家の事業の一切を整理したのは母だった。
 プロの作家となったばかりの早百合は、戌神家と自分とを重ね合わせられたくないために、全てを母に任せたきり我関せずを通した。
 そういえば、ちょうどその頃だった。
 お義母さんが羨ましい。
 と、何かの拍子に母がこぼしたのは。
 祖母は、祖父が亡くなったちょうど二年後、日課の墓参りに出かけたまま還らぬ人となった。
 祖母は祖父の墓前で心臓発作のため亡くなっていたのだ。
 母には、父のあとを追うことなどできるはずがなかった。
 あのときは、母の言葉を冷ややかに受け止めていた早百合だったが、今となって母の想いが強く深く伝わってくる。
 涙が零れそうになった早百合は、ごめんなさいと呟くと母を残して部屋をあとにした。
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2016年04月10日

犬神家の末裔 第7回

*犬神家の末裔 第7回

 那須湖を眼下に眺める絶好のロケーションに、なす市民総合病院は建てられている。
 戌神家の広大な邸宅と庭園の約八割を利用して、なす市民総合病院が設立されたのは、昭和三十年代の半ばだった。
 メセナなどという言葉で言い表せば、何か表層的な薄っぺらさを感じてしまいそうだけれど、それが、祖父母や小枝子、その夫の雅康たちの、過分な所得は出来得る限り社会に還元すべきという強い理想主義の結実であることは、やはり事実である。
 もちろん、罪滅ぼしの偽善といった評判が少なからずあったことも確かだし、その頃はまだ戌神製糸や戌神林業等、各方面の業績が好調だったことも忘れてはならないのだけれど。
 その後、社会的経済的な状況の変化の中で、戌神家は経営の中心からは退く形となったものの、歴代の院長をはじめ、経営陣、医師職員たちの努力の結果、なす市民総合病院が長野県ばかりでなく、東日本を代表する高度医療センターの一つとなったことは広く知られている。
 今、この病院で内科部長を務めているのが、小枝子の次男で早百合の従兄弟叔父にあたる和俊だ。
 医療に励む人々の姿を身近な場所で目にするうちに、和俊は医師の道を志すようになったが、本人は門前の小僧だよといつも照れてみせる。
 国境なき医師団の活動で二年間ほど中東地域に赴いていたときに生やした髭がトレードマークで、赤ひげならぬ白ひげの愛称で親しまれている。
 買い物に行くという睦美と別れ、早百合は受付で案内された三階のミーティングルームに足を運んだ。

「早百合ちゃんは、これでよかったよね」
 ブラックコーヒーの入ったプラスチック製のカップを早百合の前に置くと、和俊は向かい側の椅子に腰を下ろした。
「ありがとうございます」
「いやいや」
 和俊は右手を小さく横に振ると、テーブルの上に造影写真や心電図の検査結果等を並べた。
「お母さん、ここのところあんまり調子がよくなかったみたいなんだけど。今朝早く、ごはんの準備をし始めたところで気分が悪くなったそうなんだ。たまたま妹さんが来てたんで、すぐにうちに連絡があって」
「むっちゃんは軽い心筋梗塞だって」
「うん、原因はここなんだけど」
 と言って、和俊は心臓の造影図を早百合に指し示した。
「ここのところに血栓、血の栓ができかかっていて、これが血流、血の流れを悪くして今回の発作につながったんだね。今、薬剤を投与してこの血栓を溶かすようにしているところなんだ」
「命に別条は」
「この症状ならば八割方は大丈夫だと思う。ただ、お母さんももう八十近くだからね。不安を煽るつもりはないけど、万一のときのことは考えておいて欲しい。それに」
 そこで和俊は咳を一つした。
「それに」
「それに、こっちの数値がね。これね、数値が平均値より極端に上がってて、あと腎臓の数値も。お母さん、相当しんどかったと思うんだよ。体調が安定したら、すぐにこっちのほうの治療も受けてもらおうと思って」
「悪いんですか」
「よくはないね」
「そうですか」
「早百合ちゃん、こっちに来るのは大丈夫なの」
「来ること自体、問題ないです。仕事が仕事ですから」
「そうか。お母さんも一人だとなかなかね。こっちももっと気をつけておくべきだったんだけど、かえって親戚だと」
 和俊は自分が用意した緑茶を口に含んだ。
「しばらく、こっちに戻って来ようかと思って」
「そうしてもらえると、こっちもありがたいな。お母さんもきっと喜ぶだろうし」
「私、調べようと思ってるんです」
「調べるって」
「ひいおばあさんとおじいさんのこと」
「ううん。そうか」
 和俊は表情を曇らせ、しばらく黙りこむと、
「調べることには反対しない。反対しないけど、お母さんにはしばらく知らせないで欲しいんだ。うちの人間よりも、お母さんのほうがそのことにナーバスだと思うから」
と続けた。
「わかりました」
「そうそう、早百合ちゃんはきちんと健康診断とか受けてるの」
「それが、実は」
「そりゃ駄目だよ。せっかくの機会だから、丸ごと検査を受けといたら。何しろ、ここは日本で一、二を争う病院なんだからね」
「受けておいたほうがいいですか」
「もちろん。早百合ちゃんだってもう若くないんだからさ」
 という言葉に早百合が睨みつけると、ごめんと言って和俊は小さく頭を下げた。
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2016年04月09日

犬神家の末裔 第6回

*犬神家の末裔 第6回

「いつもメールありがとう」
「こっちこそ。PTAに生協、おまけにパートまでやってるから、短いのしか送れないんだけど」
「相変わらずアクティヴだね」
「いやあ、これも血だよ」
 睦美が笑い声を上げた。
「あっ、この前贈ってもらった本も面白かったよ」
「そう言ってもらえると嬉しいなあ」
「昔っからお話作るの上手かったからねえ」
「まさか物書きになるとは思ってなかったけどね」
「最近、忙しいんだよね」
「まあ一応」
「おばちゃんがさあ、早百合はちっとも連絡くれんて言ってたもんだから」
「そっか。母さん、携帯持ってないからなあ」
「まあ、電話はなかなかね」

 立憲政治を護る、フルハシキョウイチロウ。
 立憲政治を護る、フルハシキョウイチロウ。

「古橋って、顧問弁護士の」
「うん、あの人もあけーから」
 再び睦美が笑い声を上げた。
「実はね、私あのこと調べようと思ってるんだ」
「あのことって」
「ひいおばあさんやおじいさんのこと」
「うちのことか」
「そう。横溝正史の小説って、モデルはうちのことだけど、八割方フィクションじゃない」
「ばあちゃん、未だに怒ってるもんね。私はこんなおかしな女じゃないって」
 小枝子は戦前戦中戦後と穂高の相馬黒光女史に学ぶなどして、男勝りとまで言われた人物だ。
 犬神小夜子の造形に腹を立てるのも当然だろう。
「おまけに、映画で小夜子の役やったの川口晶でしょ、ばあちゃんカンカン」
「奥菜恵もやってたけどね」
「そっちは観てないんだ、ばあちゃん。二番煎じはやだよ言うて」
「らしいなあ」
「で、川口晶って、三益愛子だっけ、娘でしょう。ばあちゃん、なんでか三益愛子が大嫌いなんだよ。昔、お涙頂戴の映画に出ててうんざりしたって。石坂浩二は大好きだったらしいけど、昨日久しぶりに会って、あんたも老けちゃったねえって。石坂浩二も、ばあちゃんに言われたくはないわ」
「えっ、石坂さんにそんなこと言ったの」
「そう。石坂浩二、ぶすっとしてた」
 早百合には、石坂浩二の憮然とした表情が目に浮かぶようだった。
「私も作家だから、横溝さんの気持ちはよくわかるの。実際に起こったことをそのまま書いたって、ちっとも面白くないから」
「うん」
「だけど、ていうか、だからか。それじゃあ、実際に起こったことって一体なんだったのかなあと思って」
「実際に起こったことねえ」
「そう。なんでひいおばあさんはあんなことしちゃったんだろうとか。いくら自分の母親を庇うためとはいえ、おじいさんだってひどいことしたわけじゃない。私は、優しくて静かなおじいさんしか覚えてないから」
「そうかあ」
 そこで、ふうと大きくため息を吐くと、
「この前ばあちゃんが言ってたんだよね。NHKのファミリー・ヒストリーだっけ、あれ見てて。きれいごとだよって。ええって訊き返すとさあ、こんなのテレビジョンでやっても差し障りのない人間だけが出てるんだから、きれいごとだ、だったらあたしのファミリー・ヒストリーやってみろ、って。もう怖いもんなしなんだよね」
と、睦美は続けた。
「そっか。そんなこと言ってたんだ」
「やったら。まあ、早百合ちゃんならやるなって言ってもやっちゃうんだろうけど」
「たぶんね。私は私だもん」
 早百合がようやく笑い声を上げた。
「もうすぐ着くよ」
 目の前に那須湖が見えてきた。
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2016年04月08日

犬神家の末裔 第5回

*犬神家の末裔 第5回

 那須市長選は地域活性化の現職カドワキダイサクをご支援ください。
 那須市長選は地域活性化の現職カドワキダイサクをご支援ください。

 喧しい選挙カーが対向車線を走り抜けて行った。
「市長選か」
「次の日曜日が投票日」
「門脇って現職だよね」
「うん。今度の選挙に勝ったら、市民会館潰して、ムジークなんたろいう立派なコンサートホール建てる言ってて。地域活性化じゃ、松本や長野には負けておられんのじゃ言って」
「松本は小澤征爾で、長野は久石譲だもんね」
「なんか鈴ちゃんにまで連絡あったんだって。ぜひ、N響で杮落ししたいからって。それで、一応うちにも断りの挨拶に来たんだけど、ばあちゃん、無駄金使ってどうするか、この抜け作がって一喝したんだ」
「抜け作」
「うん、抜け作」
「小枝子おばさん、百近いんじゃない」
「今年で九十四だけど、まあだ矍鑠としてる。朝昼晩て、しっかりごはんも食べてるし。頭もしっかりしたもんで、和俊おじさんなんか、百二十ぐらいまで生きるかもしれんよて。憎まれっ子世に憚るだって自分で言うてるくらい」
「小枝子おばさんらしいなあ」
「そうだよ。まあ、コンサートホールはばあちゃんの言う通りだと思うよ。あんなの造ったところで、ゼネコン喜ばすだけだから」
「田中さんが知事になって、だいぶん変わったんじゃないの」
「いやあ、なかなか。那須もまだまだ田舎だからね。地元の人間が潤うんならまだしも、美味しいところは全部大手が持って行くんだって、これは信哉の受け売りだけどね」
 信哉は睦美の夫で、信州新報の記者をやっている。
「だいたい古いお店が潰れて、ドラッグストアや百均ばっかり建ってるんだ。地域活性化もへったくれもないわ。あっ、こんなことばっかり言ってるから、戌神の家はあけーて噂されるんだった」
 睦美がちろっと舌を出した。
 もともと信州は左翼の強い土地柄だし、私生活は置くとして、戌神恒兵衛自身、東の戌神西の大原と呼ばれた進歩的経営者として知られた人だった。
 戦前陰ながら無産政党を支援していたという逸話もあるだけに、その末裔たちがリベラルな思想に走ったところでなんら不思議ではない。
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犬神家の末裔 第4回

*犬神家の末裔 第4回

 早百合が物思いにふけっているうちに、新幹線は那須駅に着いた。
 長野新幹線が開業してからというもの、一時間半足らずで東京と那須は結ばれるようになった。
 ただ、時間的な距離が短くなった分、精神的な距離も短くなったかといえば、たぶんそれは違うと早百合は思う。
 電車を降りたとたん、冷たい風が早百合の頬を打った。
 バッグの中からマフラーを取り出して、早百合は首に巻き付けた。
 たった一時間半の差で、これだけ気温が違う。
「早百合さん、ですよね」
 早百合がはっとして視線を移すと、若い男性を連れた長身の壮年の男性が、東京行きのホームに向かおうとしているところだった。
 端正な声にもしやと思っていたら、やはり彼だった。
「ご無沙汰しております」
 早百合が頭を下げると、先方も同様に頭を下げた。
「お母様、早くよくなりますように」
 男性はもう一度頭を下げてから、階段を上がって行った。

 駅の玄関口を出ると、メールに書かれていた通り、バスロータリーの隅に青のボルボが停まっていた。
 早百合が軽く手を振ると、運転席の睦美が頷き返す。
 かまってかまってかまってちゃん。
 こまったこまったこまったちゃん。
 助手席のドアを開けると、流行りを過ぎたアイドル・グループの陽気を装った歌が零れてきた。
「お疲れ」
「そっちこそありがとう」
 睦美は小枝子の次女の美智子の長女だから、早百合にとっては、はとこにあたる。
 早百合とは、八つ違いだ。
「母さんの具合は」
「軽い心筋梗塞やって。詳しくは和俊おじさんが説明してくれると思うけど」
「そっか」
「そしたら出すね」
 ゆっくりとボルボが動き始めた。
「あっ、さっき石坂さんに会ったよ。母さんのことも知ってたんでびっくりした」
「石坂浩二、昨日うちに来てたんよ」
 バックミラーを気にしながら、睦美が応えた。
「えっ、うちに」
「うん。なんか今度WOWWOWで金田一耕助の特集やるんで、また那須で撮影するんやって。で、その前に戌神家にもご挨拶にって」
「知らんかった」
「おばちゃん、調子がようないもんですからって挨拶しただけですぐに部屋に戻ったんやけど。信光がもう大はしゃぎしてかなわんかった」
「信光君、いくつやったっけ」
「再来月で九歳」
 睦美が軽やかにハンドルを切った。
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2016年04月07日

犬神家の末裔 第3回

*犬神家の末裔 第3回

 早百合が夏目と出会ったのは、彼女が社会人となってしばらくしてからのことだ。
 早百合は学生生活の終わりとともに、彼女にとって幸福ではない恋愛にも終止符を打っていた。
 だが、
「お前には壁があるんだよ。だから、お前とやっててもちっとも楽しくなかったんだ」
という、前の恋人の別れ際の無思慮な言葉は、早百合の心の中で癒えない傷となって残っていた。
 前の恋人の歪んだ表情と一緒にその言葉が脳裏に浮かぶたび、早百合は、死ね、と口にしかけて自分の感情をすぐに押し留めた。
「たとえどんな相手でも、死ねなんてこと言ってはだめなの」
 あれは、早百合がまだ幼稚園か小学校の低学年の頃だった。
 何かにかっとなって、死ね、死んでしまえと叫んだとき、傍にいた祖母が早百合の目をじっと見つめながら、そう諭したのだ。
 それ以来、心の中では、死ね、死ねばいいのに、死んでしまえと思っていても、早百合はその言葉を口に出すことを躊躇うようになった。
 もしかしたら、その躊躇いこそ、自分の心の壁を生み出す一因となっているのではないかと思いつつも。
 そんな早百合の想いを知ってか知らずか、夏目は彼女に対してとても優しく接しかけてきた。
 まるで、最初から壁などなかったかのように。

 早百合が勤務する広告会社にイラストレーターとしてよく出入りしていた夏目と親しくなったのは、たまたま休みの日に出かけた新宿御苑でだった。
 陽の光を浴びながら大の字になって寝転がっている男性が、なんだかとても気持ちよさそうだ。
 おそるおそる近寄ってみると、なんとそれが夏目だったのである。
「夏目さん」
 と、声をかけると、夏目は上半身を起こして、おお早百合ちゃんと言った。
 さらに早百合が近寄ると、夏目は再びごろんとなって、
「こうしてるとさあ、次から次にアイデアが浮かんでくるんだよね」
と、さも嬉しそうに続けた。
 思わず早百合も夏目の横にごろんとなって、手足を大きく拡げ、ううわあと声を出した。
 夏目も早百合を真似して、ううわあと声を出した。

 夏目と付き合い始めてすぐに、父が亡くなった。
 入院して僅か二週間。
 早百合には、ゆっくり別れの言葉を父と交わす時間が与えられなかった。
 混乱する早百合を自動車で那須の実家まで送ってくれたのも、夏目だった。
 お願いだからお通夜や葬儀にも出て、と早百合は口にしたが、それはだめだよ、と言って夏目は東京へと戻って行った。

 早百合が夏目を母に紹介したのは、父の一周忌の席だった。
 夏目が同行することは、すでに電話で知らせてあった。
 母は、そうなのとだけ素っ気なく応えた。
「私にとって大事な人なの」
「よろしくお願いいたします」
 二人が頭を下げたとたん母は、あなたたちはこんな場所で、なんてふしだらな、常識知らずで恥知らずの男、情けない、うちには分ける遺産なんてない、と切れ切れの言葉で罵り始めた。
「こんなことぐらいで取りのぼせてどうするの」
 と、大叔母の小枝子に平手で頬を叩かれて、母はようやく正気に返ったが、今度は夏目が立ち上がり、一同に深々とお辞儀をすると、黙ってその場を去って行った。

 それっきり、早百合は夏目と連絡がとれなくなった。
 人づてに、夏目が郷里の帯広に戻ったと聞いたのは、それからだいぶん経ってからのことだ。
 今となっては、夫を亡くした哀しみや、一人娘を奪われてしまうかもしれない動揺や、さらには親類縁者を前にした緊張といった心の中の諸々が、一瞬母を狂わせてしまったのだと想像することはできるものの、あの日の母の醜い顔を早百合はどうしても忘れることができない。
posted by figarok492na at 17:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 犬神家の末裔 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

犬神家の末裔 第2回

*犬神家の末裔 第2回

 朱雀経康は早百合にとって初めての恋人だった。
 同じサークルの緑に紹介されたのがきっかけで、経康は学習院の文学部に通っていた。
 彼って、元侯爵家の次男坊なの。
 と、緑が耳元で囁いたが、確かに長身で色白、人懐こい表情は元華族の家柄に相応しかった。
 最初のデートがサントリーホールでのコンサートというのも、また非常にそれらしかった。
 早百合がチケットのことを気にすると経康は、叔父が新聞社の芸術部門担当だから、と言って微笑んだ。
 地元にいた頃、早百合にクラシック音楽に触れる機会がなかったわけではない。
 それどころか、早百合の実家が援助して建設された市民会館で行われるコンサートには、両親ともどもよく足を運んだものだ。
 そういえば、音楽の道に進んで今ではNHK交響楽団のフルート奏者をやっている従妹の鈴世は、何かのコンクールの本選まで進んだとき、審査員を務めていた音楽評論家で横溝正史の長男の亮一氏に、「私、犬神家の一族です」と声をかけて面喰われたと言っていた。
 そういう性格だからこそ、臆せず戌神の姓を名乗っていられるのだろう。
 ただ、囹圄の人であった祖父を一生庇い続けた祖母の人柄もあってか、早百合の実家は質素質実を旨ともしていた。
 だから、サントリーホールの煌びやかな内装の中で、シャンパンでも飲みますか、と経康に訊かれたときは、まだ未成年ですから、と早百合は慌てて手を横に振った。
 そんな早百合の言葉と仕草に、早百合さんは面白い人ですね、と経康は再び微笑んだ。
 その日は、レナード・バーンスタインが自作の『ウェストサイド・ストーリー』を指揮するのを早百合は愉しみにしていたのだけれど、バーンスタインは見るからに体調が悪そうで、その曲に限って、彼の弟子という日本人の青年がタクトを執った。
 会場からは、失望と怒りの入り混じった声も聞かれたが、コンサートのあとに入った喫茶店でも、経康はそのことに一切触れようとはしなかった。
 ただ、
「最初に演奏されたブリテンの『ピーター・グライムズ』にしても、『ウェストサイド・ストーリー』にしても悲劇ですよね。概してフィクションというものは、バッドエンドはバッドエンド、ハッピーエンドはハッピーエンドで閉じられてしまいがちなんだけど。僕は、どうしてもその先のことを考えてしまうんですよ。悲劇のあと、喜劇のあとに取り残された登場人物たちのことを」
という経康の言葉を、早百合は今でも覚えている。
 それから、経康に誘われて何度かデートをし、彼の自宅を訪ねたこともあった。
 経康だけではなく、元外交官の彼の父親も、私だって平民の家の出なんだからと笑う彼の母親も、思っていた以上に気さくな人たちだったのだが、屋敷の中にある弁財天の社が、中高とクリスチャン系の女子校に通った早百合には、どうにも禍々しくて仕方なかった。
 あれだけは、潰せなくってね。
 早百合の僅かな表情の変化に気付いたのだろう、経康の父は申し訳なさそうにそう言うと、パイプの煙を燻らせた。
 結局、世界の違いが大きかったのか、一年半ほどして二人はどちらからともなく疎遠となってしまった。
 早百合と経康は清い関係のままだった。
posted by figarok492na at 10:11| Comment(0) | TrackBack(0) | 犬神家の末裔 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年04月06日

犬神家の末裔 第1回

*犬神家の末裔 第1回

 禍福は糾える縄の如し、というけれど、何が禍で何が幸福なのかは、結局長い歳月を経てみないとわからないものだと早百合は思った。
 四十を二つか三つ過ぎたばかりで父は亡くなってしまったが、その後に起こった様々な出来事を考えてみれば、もしかしたらそれで父にとっては幸せだったのかもしれない。
 いや、傾きつつある家業をなんとしても守ろうとして、無理に無理を重ねた結果があの急な病だったのかもしれず、そういえば亡くなる直前の白髪が増えて目の下に深い隅のできた父の顔は、実際の年齢よりも十以上老けて見えたものだった。
 そんな父や、黙って父に従う母の姿を目にするのも辛くて、早百合はなかなか帰省しようとはしなかった。
 一つには、バブルの残り香のするシティライフとやらの一端を享受していたことも小さくはなかったが、それより何より、地方特有のねっとりと絡みつくような湿った雰囲気が、早百合はたまらなく嫌だったのだ。
 特に、かつて早百合の実家は、彼女が生れた地方では指折りの財閥として知られていた。
 しかも、半世紀近く前の話とはいえ、その一族では遺産相続に纏わる複雑な人間関係の末に、殺人事件が起こったりまでもした。
 実際、早百合の祖父母はその事件の中心人物でもあった。
 だから、と言うよりも、父方の姓があまりにもおどろどろしく、かつ有名であることもあって、早百合は母方の姓である小林をずっと名乗っていたほどだ。
 今朝早く、母が倒れたと叔母から電話があったとき、早百合はわけもなく、ずっと後回しにしてきたつけを払うときが来たのだという想いにとらわれた。
posted by figarok492na at 16:31| Comment(0) | TrackBack(0) | 犬神家の末裔 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする