☆溶解する曲線(もしくは、メルトダウン)
極局所的に公開している『溶解する曲線』という小説の登場人物のイメージ。
極私的メモ。
*南雲紗英/浜辺美波
作中第一部の「私」(第二部は三人称)。
*谷田千賀/小松菜奈
紗英のアルバイト先の友人。
*南雲庸一/田中哲司
紗英の父。
*南雲佳代子/吉田羊
紗英の母。
*北条美知子/梶芽衣子
紗英の祖母。佳代子の母。
*比嘉譲/西島秀俊
庸一の後輩。
*籾島泰一郎/北村有起哉
ネットニュース「アーユーライト?」の編集長兼主筆。元東洋新聞記者。
*飾磨五郎/浜野謙太
元漫才コンビ・ベビーフェイス。「やつらをとめろ!」代表。
*石清水大地/今野浩喜
元漫才コンビ・ベビーフェイス。グッドなショー・コメンテーター。
*国重舞花/岸井ゆきの
庸一の不倫相手。殺害される。
*二之部精道/松尾スズキ
資源エネルギー省政務官。国権党代議士。かつて籾島の後輩記者をレイプしたが、逮捕されなかった。後輩は自殺する。何者かにペニスを切断され、心臓を刺されて殺害される。
*榊原信隆/利重剛
内閣総理大臣。国権党総裁。
*室戸昭/野間口徹
紗英のアルバイト先の上席。
*西端圭太/駿河太郎
渦岡県警刑事。
*藤井綾子/大西礼芳
渦岡県警刑事。
*日下部修人/古舘寛治
千賀の父。科学者。福井地震の際に死亡。
*日下部恭子/占部房子
千賀の母。科学者。福井地震の際に死亡。
*谷田巳代松/中村嘉葎雄
千賀の祖父。
2021年03月09日
2020年07月31日
作道雄をめぐる冒険 もしくは剖見 その4
作道雄をめぐる冒険 もしくは剖見 その4
「君と二人だからやれたんだ」と彼は言った。「これまで一人で何かをやろうとして、うまくいったためしがないんだよ」
(村上春樹『羊をめぐる冒険』<講談社文庫>より)
厳しい現実の中で考えたこと
月面クロワッサンの解散ののち、作道君は自ら率いる株式会社クリエイティブスタジオゲツクロを根城にプロとしての活動を本格化させる。
だが、プロとしての仕事は、例えば『最後のパズル』で彼が予想していたよりもなお一層困難で、その神経をすり減らすものでもあった。
限られた時間の中で、一定の水準をクリアしたプロットや脚本をコンスタントに提供していかなければならない。
作品の修正手直しはざらであり、場合によっては根本からの書き換えも要求される。
しかも、時には不条理とすら思われる理由でクライアントの要望は二転三転する。
そうした作道君の状況は、ステキブンゲイに連載公開されているステキブンゲイに連載公開されている『人生の満足度、測ります』のepisode1「夢のはなし」の新人監督若本透にストレートに投影されている。
一方で、プロとしての厳しい日々は、時間的にも内容的にも制約が少なく、自分の思い通りの作品づくりが可能だった、アマチュアとしての創作活動の面白さや愉しみを作道君に改めて思い出させ、さらには月面クロワッサンでの失敗を反省させる契機ともなった。
作道君の初長篇監督作品となった『神さまの轍-CHECKPOINT OF THE LIFE-』では、ロードレーサーとして精神的に追い詰められている佐々岡勇利(荒井敦史さん)とままならぬ就職活動で日々鬱屈している小川洋介(岡山天音さん)の二人が、郷里の京都府井手町で開催されるロードバイクレースによって快復していく姿が、中学時代の想い出を交えながら描かれている。
当然、勇利と洋介の関係は、作道君自身と月面クロワッサンのメンバーや学生劇団時代以来の仲間たちとの関係に重なり合うし、活動の場は変わっても自分たちにとって大切なものを続けていきたいという作道君の真摯な願いを読み取ることもできる。
また、作道君が脚本を担当した瀬木直貴監督の『いのちスケッチ』では、プロの漫画家になる夢を失って故郷の福岡県大牟田市に戻った田中亮太(佐藤寛太さん)が、ひょんなことからアルバイトを始めた「延命」動物園で、動物たちや周囲の人々との触れ合いの中で、再び漫画を描こうとするようになる。
その2で明らかにした、命の尊さや生と死の問題という重要な主題に加え、信頼し合える仲間がいるかぎり、人はどのような場でも自分にとって大切なもの=創作活動を続けていける可能性を持っている、という作道君の希望と願望が『いのちスケッチ』には強く込められているように感じられた。
地域での映画づくりで見つけたこと
しかしながら、プロとしての厳しい研鑽だけが作道君にこうした精神的な大きな変化を与えたと考えれば、それは間違いだろう。
忘れてならないのは、上述した『マザーレイク』や『神さまの轍-CHECKPOINT OF THE LIFE-』、『いのちスケッチ』、愛知県半田市での『1979はじまりの物語〜はんだ山車まつり〜』等々、作道君が様々な地域で様々な人々と出会い、共同作業を行って来たということである。
その好例が、長篇映画の制作を目標として掲げている兵庫県佐用町での佐用町映画プロジェクト=SAYO映画学校だ。
地元のほぼアマチュアの面々が、作道君らの指導を受けながら脚本・演技両面を担当、二日間で短篇映画を一本撮影仕上げるという企画で、中でも第3回目に撮影された『こども町長』はこども町長を演じる小学生役の女の子をはじめとした町民の方々のすれない初々しい演技と、橋ヶ谷典生君の精度の高い撮影編集が相まって、実にほのぼの清々しい気分にさせてくれる。
とともに、その映像から作道君と参加者たちの信頼関係が垣間見えもした。
(あと、こども町長とお母さんの関係には、ひとり親の家庭で育つというその2で触れた作道君らしい設定も見え隠れする。ただし、そうとは断言できない形ではあるが)
もしかしたら、『人生の満足度、測ります』での弓削と由家の関係には、昨年4月に株式会社クリエイティブスタジオゲツクロに加わった長尾淳史君とばかりでなく、こうした地域での特に自分より若い世代との経験や体験も反映されているのではないだろうか。
例えば、自らの方針に過度の自信を持ち、度々正論を口にする弓削を過去の作道君と、彼がこの間接してきた様々な人たちや地域、社会の優しさの象徴を由家ととらえることができる。
もしくは、由家こそ、現在の作道君が変わっていきたいと思う自分自身の姿であり、弓削と由家というコンビは、これまでとこれからの作道君そのものと言えるかもしれない。
そして、作道雄は心から謝る
いずれにしても、こうした積み重ねを知っているからこそ、『人生の満足度、測ります』のepisode1「夢のはなし」で若本が、『ショート・ショウ』の第1話「サティスファクション」で重要な役回りを果たした元月面クロワッサン・メンバーの横山清正君、ならぬ横山隆に告白する、
「本当にごめん…ごめん。あの時の俺は、自分一人だけで生きていた。一人だけで生きていけると思ってた(後略)」
という言葉がひと際痛切に響く。
なぜならそれは、様々な経験や体験を通して作道君がようやく辿り着いた、横山君はじめ、月面クロワッサンの面々そのほかへの作道君の心からの謝りの言葉、剥き出しの真情であるからだ。
もちろん、現実が小説通りに展開するわけではない。
一度失われた時間や生命を取り戻すことは絶対にできない。
だからこそ、彼は現実とは異なるフィクションの世界を創り続ける。
僅かな希望を失わないために、生き抜いていくために。
そして、僅かな希望を失って欲しくないために、生き抜いていって欲しいために。
その意味でも、『人生の満足度、測ります』にこれからも目が離せない。
鬼ガール!!
ところで、作道君は今後も演劇の世界と距離を置き続けるつもりなのだろうか。
作道君が脚本を担当した、近々公開予定の瀧川元気監督、中村航さん原作による『鬼ガール!!』にそのヒントが隠されているような気がして、僕には仕方がないのだが。
まずは公開を心待ちにしたい。
「君と二人だからやれたんだ」と彼は言った。「これまで一人で何かをやろうとして、うまくいったためしがないんだよ」
(村上春樹『羊をめぐる冒険』<講談社文庫>より)
厳しい現実の中で考えたこと
月面クロワッサンの解散ののち、作道君は自ら率いる株式会社クリエイティブスタジオゲツクロを根城にプロとしての活動を本格化させる。
だが、プロとしての仕事は、例えば『最後のパズル』で彼が予想していたよりもなお一層困難で、その神経をすり減らすものでもあった。
限られた時間の中で、一定の水準をクリアしたプロットや脚本をコンスタントに提供していかなければならない。
作品の修正手直しはざらであり、場合によっては根本からの書き換えも要求される。
しかも、時には不条理とすら思われる理由でクライアントの要望は二転三転する。
そうした作道君の状況は、ステキブンゲイに連載公開されているステキブンゲイに連載公開されている『人生の満足度、測ります』のepisode1「夢のはなし」の新人監督若本透にストレートに投影されている。
一方で、プロとしての厳しい日々は、時間的にも内容的にも制約が少なく、自分の思い通りの作品づくりが可能だった、アマチュアとしての創作活動の面白さや愉しみを作道君に改めて思い出させ、さらには月面クロワッサンでの失敗を反省させる契機ともなった。
作道君の初長篇監督作品となった『神さまの轍-CHECKPOINT OF THE LIFE-』では、ロードレーサーとして精神的に追い詰められている佐々岡勇利(荒井敦史さん)とままならぬ就職活動で日々鬱屈している小川洋介(岡山天音さん)の二人が、郷里の京都府井手町で開催されるロードバイクレースによって快復していく姿が、中学時代の想い出を交えながら描かれている。
当然、勇利と洋介の関係は、作道君自身と月面クロワッサンのメンバーや学生劇団時代以来の仲間たちとの関係に重なり合うし、活動の場は変わっても自分たちにとって大切なものを続けていきたいという作道君の真摯な願いを読み取ることもできる。
また、作道君が脚本を担当した瀬木直貴監督の『いのちスケッチ』では、プロの漫画家になる夢を失って故郷の福岡県大牟田市に戻った田中亮太(佐藤寛太さん)が、ひょんなことからアルバイトを始めた「延命」動物園で、動物たちや周囲の人々との触れ合いの中で、再び漫画を描こうとするようになる。
その2で明らかにした、命の尊さや生と死の問題という重要な主題に加え、信頼し合える仲間がいるかぎり、人はどのような場でも自分にとって大切なもの=創作活動を続けていける可能性を持っている、という作道君の希望と願望が『いのちスケッチ』には強く込められているように感じられた。
地域での映画づくりで見つけたこと
しかしながら、プロとしての厳しい研鑽だけが作道君にこうした精神的な大きな変化を与えたと考えれば、それは間違いだろう。
忘れてならないのは、上述した『マザーレイク』や『神さまの轍-CHECKPOINT OF THE LIFE-』、『いのちスケッチ』、愛知県半田市での『1979はじまりの物語〜はんだ山車まつり〜』等々、作道君が様々な地域で様々な人々と出会い、共同作業を行って来たということである。
その好例が、長篇映画の制作を目標として掲げている兵庫県佐用町での佐用町映画プロジェクト=SAYO映画学校だ。
地元のほぼアマチュアの面々が、作道君らの指導を受けながら脚本・演技両面を担当、二日間で短篇映画を一本撮影仕上げるという企画で、中でも第3回目に撮影された『こども町長』はこども町長を演じる小学生役の女の子をはじめとした町民の方々のすれない初々しい演技と、橋ヶ谷典生君の精度の高い撮影編集が相まって、実にほのぼの清々しい気分にさせてくれる。
とともに、その映像から作道君と参加者たちの信頼関係が垣間見えもした。
(あと、こども町長とお母さんの関係には、ひとり親の家庭で育つというその2で触れた作道君らしい設定も見え隠れする。ただし、そうとは断言できない形ではあるが)
もしかしたら、『人生の満足度、測ります』での弓削と由家の関係には、昨年4月に株式会社クリエイティブスタジオゲツクロに加わった長尾淳史君とばかりでなく、こうした地域での特に自分より若い世代との経験や体験も反映されているのではないだろうか。
例えば、自らの方針に過度の自信を持ち、度々正論を口にする弓削を過去の作道君と、彼がこの間接してきた様々な人たちや地域、社会の優しさの象徴を由家ととらえることができる。
もしくは、由家こそ、現在の作道君が変わっていきたいと思う自分自身の姿であり、弓削と由家というコンビは、これまでとこれからの作道君そのものと言えるかもしれない。
そして、作道雄は心から謝る
いずれにしても、こうした積み重ねを知っているからこそ、『人生の満足度、測ります』のepisode1「夢のはなし」で若本が、『ショート・ショウ』の第1話「サティスファクション」で重要な役回りを果たした元月面クロワッサン・メンバーの横山清正君、ならぬ横山隆に告白する、
「本当にごめん…ごめん。あの時の俺は、自分一人だけで生きていた。一人だけで生きていけると思ってた(後略)」
という言葉がひと際痛切に響く。
なぜならそれは、様々な経験や体験を通して作道君がようやく辿り着いた、横山君はじめ、月面クロワッサンの面々そのほかへの作道君の心からの謝りの言葉、剥き出しの真情であるからだ。
もちろん、現実が小説通りに展開するわけではない。
一度失われた時間や生命を取り戻すことは絶対にできない。
だからこそ、彼は現実とは異なるフィクションの世界を創り続ける。
僅かな希望を失わないために、生き抜いていくために。
そして、僅かな希望を失って欲しくないために、生き抜いていって欲しいために。
その意味でも、『人生の満足度、測ります』にこれからも目が離せない。
鬼ガール!!
ところで、作道君は今後も演劇の世界と距離を置き続けるつもりなのだろうか。
作道君が脚本を担当した、近々公開予定の瀧川元気監督、中村航さん原作による『鬼ガール!!』にそのヒントが隠されているような気がして、僕には仕方がないのだが。
まずは公開を心待ちにしたい。
2020年07月28日
作道雄をめぐる冒険 もしくは剖見 その3
作道雄をめぐる冒険 もしくは剖見 その3
「キー・ポイントは弱さなんだ」と鼠は言った。「全てはそこから始まってるんだ。きっとその弱さを君は理解できないよ」
(村上春樹『羊をめぐる冒険』<講談社文庫>より)
三谷幸喜そっくり
ステキブンゲイに連載公開されている『人生の満足度、測ります』の弓削がどこか古畑任三郎のようであるように、今さらその影響は言うまでもない。
だが、それだけでなく、オリジナル作品へのこだわりや己の才能への自信の高さ、愛されたいという強い願望などなど、三谷幸喜さんと作道雄君はそっくりでもある。
ただ、作道君は、たぶん三谷さん以上に自分自身をむき出しのまま表にすることへの含羞の持ち主であり、それが時に反転して後戻りできないガチンコ勝負、感情と感情の激突を生んでしまう甘え下手のようにも感じられる。
例えば、三谷さん同様、照れ隠しとサービス精神、トリックスター気質がないまぜになった不用意な発言を半ば確信犯的に作道君もよくしていたけれど、その発言に対する周囲の受け留め方が月面クロワッサンという劇団の消長にどこかで繋がってしまったように感じられて、僕には仕方がない。
月面クロワッサンの誕生と発展と転落
2011年、当時21歳だった作道雄君を中心に旗揚げされた月面クロワッサンは、早速その年2月の京都学生演劇祭で観客賞を受賞。
その後も続けざまに公演を開催し、観客動員数も好調を誇り、劇団員も大きく増加させた。
そして、遂には念願の映像作品の制作も軌道に乗り出した。
そんな月面クロワッサンが僅か数年で活動を停止せざるをえなくなった理由を、創作面での志向と嗜好の違いに感情面での行き違いと記せばあまりにも単純に過ぎるだろうか。
作道君の明快な指針に感化され月面クロワッサンに参加した劇団のメンバーたちだったが、webドラマ『虹をめぐる冒険』やKBS京都で放映されたドラマ『ノスタルジア』のタイトな制作過程で、彼彼女らの不満は日増しに高まっていく。
自らの劇団ユニットなどで作・演出を手掛けてきたことのある男優陣の大半には、内心「(作道君よりも)自分の作品のほうが面白い」という自負があるし、京都小劇場という身近なものさしで測ればそれもあながち的外れではない。
それに、女優陣には、それぞれの特性魅力が存分に活かされていないという不満が鬱積している。
(確かに、当時の作道君の描く女性像は精神面で底が浅く、どこか幼い感じがした。その点、『人生の満足度、測ります』のepisode2「恋愛の話」やインタールード〜弓削のはなし〜では、大人の女性との関係性がリアルさを持って描かれている)
対する作道君の側には、自らが指し示すロードマップに確固とした自信がある。
劇団の仲間と一緒にステップアップし、創作面での一層の充実を図りたいという強い意欲もある。
技術的な弱さがあるからこそ、一気に次のステージに上がり、その場に相応しい研鑽を積まなけれなならない。
ところが、劇団の面々は、往々にしてある種の低回趣味やアマチュアリズムの規範に拘泥しがちのように見える。
たとえお客さんの支持はあったにせよ、作道君の作品について日々の交流や客演先の現場で演劇面での先輩や同じ世代の人々から厳しい意見を突き付けられれば、当然動揺も起こる。
作道君は理路整然とした言葉、正論でもって彼彼女らの態度を批判し、その不満を退けた。
しかし、いくら理屈ではわかっていても、即感情が付き従うわけではない。
しかも、ドラマ制作にまつわる負担も減りはしない。
そんな状況では、それまでならば「はは、また言うてはるわ」と笑って流すこともできた作道君の軽口さえ、反感不快感の対象となってしまう。
作道君と劇団の面々の齟齬は一層拡がり、最終的には、作道君対劇団員という構図すら生まれてしまった。
両者のそうした方向性の違いについて僕は、芥川龍之介の『蜘蛛の糸』の逆バージョン、作道君をみんなまとめて天国へと這い上がろうと必死になるカンダタに、劇団員たちを地獄のぬるま湯的世界を満喫する縁なき衆生にそれぞれなぞらえてみたこともあったし、月面クロワッサン番外公演・月面クロワッサンのおもしろ演劇集『無欲荘』(2014年2月、稲葉俊君脚本・演出)の感想では、
>(前略)組織をまとめる確固としたイニシアティヴは必要だろうし、傍で口にするほど相互理解や共通認識を築くということは簡単なことではないだろう。
けれど、だからと言って手間暇を惜しんで(中略)一者独裁を選ぶことが、結果として多数に幸福をもたらすとは、とうてい考えられないことも事実だ。
今回の公演、並びに一連の企画が月面クロワッサンの面々にとって、「自分自身と自分が所属する集団組織が何を目標としそれをどう実現していくか、そのためには自分自身と自分が所属する集団組織に何が必要か」を改めて考え、なおかつ実践していく重要な契機となることを心から望みたい<
と、作道君ばかりでなく、劇団員全体の再考を促しもした。
けれど、一度拡がった溝を修復することは、作道君にも劇団の面々にもできなかった。
結局、2014年に月面クロワッサンは活動を停止してしまう。
それでも、橋ヶ谷典生が残った
実は、感情の行き違いはひとまず置くとして、方向性の違いから袂を分かつメンバーがいるだろうことは、作道君自身、早くから予測していたことだ。
月面クロワッサンのvol.5『最後のパズル』では、厳しい現実に直面しながらも、一定期間作業を続ければ夢を実現することができるという国家が設けた塔へと向かおうとする人と、あえて向かわないと決断する人とを作道君は描いた。
そこに僕は、プロになるためには孤立すら厭わない彼の覚悟と、仲間との決別への諦念を観る想いがした。
それでも、作道君の下には、技術面=撮影編集でのバディ、橋ヶ谷典生君が残った。
2014年夏に株式会社クリエイティブスタジオゲツクロを設立した作道君は、演劇から映像へと舞台を完全に移し、創作活動を積極的に続けて行く。
他方、作道君は、劇団の仲間を失った心の隙間を埋めるかのように信頼のおける俳優を探す試みをスタートさせる。
KBS京都での『ショート・ショウ2』(2015年1月〜3月)やwebドラマ『フェイク・ショウ』(2015年)等で、ネオラクゴ家を標榜する月亭太遊さんと密接な共同作業を重ねていたのも、月面クロワッサン以後の演技面でのバディ(相棒)探しと見てまず間違いはない。
また、『神さまの轍-CHECKPOINT OF THE LIFE-』で主演をつとめた岡山天音さんのことも忘れてはなるまい。
岡山さんの演じた役回りには、作道君の自己投影が色濃くうかがえるし、作道君自身、岡山さんを非常に重要な存在であるとツイキャスなどで公言してもいる。
2016年、そうした作道君に大きなターニングポイントが訪れる。
『マザーレイク』での瀬木直貴監督との出会いがそれである。
以降、作道君は若手で注目される書き手の一人として、活躍の場を拡げて行く。
次回に続く。
「キー・ポイントは弱さなんだ」と鼠は言った。「全てはそこから始まってるんだ。きっとその弱さを君は理解できないよ」
(村上春樹『羊をめぐる冒険』<講談社文庫>より)
三谷幸喜そっくり
ステキブンゲイに連載公開されている『人生の満足度、測ります』の弓削がどこか古畑任三郎のようであるように、今さらその影響は言うまでもない。
だが、それだけでなく、オリジナル作品へのこだわりや己の才能への自信の高さ、愛されたいという強い願望などなど、三谷幸喜さんと作道雄君はそっくりでもある。
ただ、作道君は、たぶん三谷さん以上に自分自身をむき出しのまま表にすることへの含羞の持ち主であり、それが時に反転して後戻りできないガチンコ勝負、感情と感情の激突を生んでしまう甘え下手のようにも感じられる。
例えば、三谷さん同様、照れ隠しとサービス精神、トリックスター気質がないまぜになった不用意な発言を半ば確信犯的に作道君もよくしていたけれど、その発言に対する周囲の受け留め方が月面クロワッサンという劇団の消長にどこかで繋がってしまったように感じられて、僕には仕方がない。
月面クロワッサンの誕生と発展と転落
2011年、当時21歳だった作道雄君を中心に旗揚げされた月面クロワッサンは、早速その年2月の京都学生演劇祭で観客賞を受賞。
その後も続けざまに公演を開催し、観客動員数も好調を誇り、劇団員も大きく増加させた。
そして、遂には念願の映像作品の制作も軌道に乗り出した。
そんな月面クロワッサンが僅か数年で活動を停止せざるをえなくなった理由を、創作面での志向と嗜好の違いに感情面での行き違いと記せばあまりにも単純に過ぎるだろうか。
作道君の明快な指針に感化され月面クロワッサンに参加した劇団のメンバーたちだったが、webドラマ『虹をめぐる冒険』やKBS京都で放映されたドラマ『ノスタルジア』のタイトな制作過程で、彼彼女らの不満は日増しに高まっていく。
自らの劇団ユニットなどで作・演出を手掛けてきたことのある男優陣の大半には、内心「(作道君よりも)自分の作品のほうが面白い」という自負があるし、京都小劇場という身近なものさしで測ればそれもあながち的外れではない。
それに、女優陣には、それぞれの特性魅力が存分に活かされていないという不満が鬱積している。
(確かに、当時の作道君の描く女性像は精神面で底が浅く、どこか幼い感じがした。その点、『人生の満足度、測ります』のepisode2「恋愛の話」やインタールード〜弓削のはなし〜では、大人の女性との関係性がリアルさを持って描かれている)
対する作道君の側には、自らが指し示すロードマップに確固とした自信がある。
劇団の仲間と一緒にステップアップし、創作面での一層の充実を図りたいという強い意欲もある。
技術的な弱さがあるからこそ、一気に次のステージに上がり、その場に相応しい研鑽を積まなけれなならない。
ところが、劇団の面々は、往々にしてある種の低回趣味やアマチュアリズムの規範に拘泥しがちのように見える。
たとえお客さんの支持はあったにせよ、作道君の作品について日々の交流や客演先の現場で演劇面での先輩や同じ世代の人々から厳しい意見を突き付けられれば、当然動揺も起こる。
作道君は理路整然とした言葉、正論でもって彼彼女らの態度を批判し、その不満を退けた。
しかし、いくら理屈ではわかっていても、即感情が付き従うわけではない。
しかも、ドラマ制作にまつわる負担も減りはしない。
そんな状況では、それまでならば「はは、また言うてはるわ」と笑って流すこともできた作道君の軽口さえ、反感不快感の対象となってしまう。
作道君と劇団の面々の齟齬は一層拡がり、最終的には、作道君対劇団員という構図すら生まれてしまった。
両者のそうした方向性の違いについて僕は、芥川龍之介の『蜘蛛の糸』の逆バージョン、作道君をみんなまとめて天国へと這い上がろうと必死になるカンダタに、劇団員たちを地獄のぬるま湯的世界を満喫する縁なき衆生にそれぞれなぞらえてみたこともあったし、月面クロワッサン番外公演・月面クロワッサンのおもしろ演劇集『無欲荘』(2014年2月、稲葉俊君脚本・演出)の感想では、
>(前略)組織をまとめる確固としたイニシアティヴは必要だろうし、傍で口にするほど相互理解や共通認識を築くということは簡単なことではないだろう。
けれど、だからと言って手間暇を惜しんで(中略)一者独裁を選ぶことが、結果として多数に幸福をもたらすとは、とうてい考えられないことも事実だ。
今回の公演、並びに一連の企画が月面クロワッサンの面々にとって、「自分自身と自分が所属する集団組織が何を目標としそれをどう実現していくか、そのためには自分自身と自分が所属する集団組織に何が必要か」を改めて考え、なおかつ実践していく重要な契機となることを心から望みたい<
と、作道君ばかりでなく、劇団員全体の再考を促しもした。
けれど、一度拡がった溝を修復することは、作道君にも劇団の面々にもできなかった。
結局、2014年に月面クロワッサンは活動を停止してしまう。
それでも、橋ヶ谷典生が残った
実は、感情の行き違いはひとまず置くとして、方向性の違いから袂を分かつメンバーがいるだろうことは、作道君自身、早くから予測していたことだ。
月面クロワッサンのvol.5『最後のパズル』では、厳しい現実に直面しながらも、一定期間作業を続ければ夢を実現することができるという国家が設けた塔へと向かおうとする人と、あえて向かわないと決断する人とを作道君は描いた。
そこに僕は、プロになるためには孤立すら厭わない彼の覚悟と、仲間との決別への諦念を観る想いがした。
それでも、作道君の下には、技術面=撮影編集でのバディ、橋ヶ谷典生君が残った。
2014年夏に株式会社クリエイティブスタジオゲツクロを設立した作道君は、演劇から映像へと舞台を完全に移し、創作活動を積極的に続けて行く。
他方、作道君は、劇団の仲間を失った心の隙間を埋めるかのように信頼のおける俳優を探す試みをスタートさせる。
KBS京都での『ショート・ショウ2』(2015年1月〜3月)やwebドラマ『フェイク・ショウ』(2015年)等で、ネオラクゴ家を標榜する月亭太遊さんと密接な共同作業を重ねていたのも、月面クロワッサン以後の演技面でのバディ(相棒)探しと見てまず間違いはない。
また、『神さまの轍-CHECKPOINT OF THE LIFE-』で主演をつとめた岡山天音さんのことも忘れてはなるまい。
岡山さんの演じた役回りには、作道君の自己投影が色濃くうかがえるし、作道君自身、岡山さんを非常に重要な存在であるとツイキャスなどで公言してもいる。
2016年、そうした作道君に大きなターニングポイントが訪れる。
『マザーレイク』での瀬木直貴監督との出会いがそれである。
以降、作道君は若手で注目される書き手の一人として、活躍の場を拡げて行く。
次回に続く。
2020年07月24日
作道雄をめぐる冒険 もしくは剖見 その2
作道雄をめぐる冒険 もしくは剖見 その2
「ベートーベン、ピアノ協奏曲第3番、グレン・グールド、レナード・バーンステイン。ム……聴いたことないね。あんたは?」
(村上春樹『風の歌を聴け』<講談社文庫>より)
作道雄は変奏する
12のコントルダンスの第7曲、バレエ音楽『プロメテウスの創造物』の終曲、創作主題による15の変奏曲とフーガ、そして交響曲第3番「英雄」の終楽章。
今年生誕250年を迎えるベートーヴェンは、同一の主題を基にして、より規模の大きい、かつ充実した作品を生み出していった。
そんな楽聖と重ね合わせれば面はゆい想いをするかもしれないが、作道君もベートーヴェンと同様、過去の作品の主題を新しい作品に転用発展させる創作者の一人だ。
例えば、琵琶湖を舞台に、少年と謎の生物ビワッシーのひと夏の記憶を描いた作道君脚本、瀬木直貴監督の『マザーレイク』は、とある湖畔に建つ病院の男性患者が謎の生物と遭遇するという月面クロワッサンVol.4『夏の目撃者』(作道君作・演出/2012年6月)のバリエーションと断じてまず間違いはあるまい。
ステキブンゲイに連載公開されている『人生の満足度、測ります』もまた、作道君のかつての作品のモティーフを大きく受け継いだものとなっている。
国家によってひとりひとりの人生の満足度が管理され、満足度が低い国民には秘密裡に公務員が派遣される。
というその設定に、古くから作道君の作品に接してきた人たちの中には、KBS京都で放映された月面クロワッサンのテレビドラマ『ショート・ショウ』(2014年4月〜6月)の第1話「サティスファクション」を思い起こす人も少なくないのではないか。
ボブ・マーサムさん演じるいささか謎めいた男は、この第1話において、次のような言葉をある登場人物に投げかける。
人生の満足度を知りたくはないですか、と。
(ちなみに、この第1話にはあの吉岡里帆さんも出演していた)
メメントモリ 彼は村上春樹に憧れる
しかし、作道君にとってより重要な主題、肝となるべき部分はさらにその先に存在する。
それは、『人生の満足度、測ります』と『ショート・ショウ』双方に共通する、満足度があまりにも低くなった人間は自殺の可能性が非常に高いという設定であり、登場人物が別の登場人物の自殺を回避させるためその満足度を上げるべく努力するという展開である。
いや、この二作品だけではない。
前回少し触れた『どっちみち阪急河原町』の核となるのは、森麻子さん演じる女性の自殺を如何にして食い止めるかということだったし、月面クロワッサンのVol.1『バイバイセブンワンダー』では学校内での登場人物の自殺(実は他殺)が作中の謎を解く大きな鍵となっていた。
そして、月面クロワッサンのVol.3『望遠鏡ブルース』の冬篇では、今は亡い大切な人との幻想的な再会がリリカルに描かれた。
実は、前回引用した『望遠鏡ブルース』に対する感想を、僕は次のように続けている。
>単に対お客さんという理由からだけではなく、(村上春樹がそうであるように)作道君がかつて大切な誰かを失って、そのことを表現するためのバランスから笑いを重視しているというのであれば話しはまた別だが、もしそうでないのなら、過度な笑いの技・仕掛けはあえて封印してみせてもいいのではないだろうか。
封印してもなお、笑いの要素に満ちた作品が完成したのであれば、それこそ作道君が本当に創り上げたい劇世界だということになるはずだし<
なお、感想では明示していないけれど、ここで村上春樹の名を出しているのは、冬篇の展開に彼の『羊をめぐる冒険』のエコーを聴き取ったからである。
そういえば、KBS京都での『ノスタルジア』放映の先駆けとなる月面クロワッサンのwebドラマのタイトルは『虹をめぐる冒険』だった。
それと、新型コロナウイルスの非常事態宣言中の7日間ブックカバーチャレンジの一冊として作道君は村上春樹の『風の歌を聴け』を選び、「繰り返し読んでいる作品」、「僕にとって特別な小説」と記してもいた。
以降、月面クロワッサンの一連の作品はもとより、『マザーレイク』、自らメガホンをとった『神さまの轍-CHECKPOINT OF THE LIFE-』、大牟田市の「延命」動物園を舞台にした『いのちスケッチ』に到るまで様々に形を変えつつも、かけがえのない人の喪失、自殺(を止める)は、作道君の作品にとって切り離すことのできないモティーフであり、テーマである。
作道雄の核となり続けるもの
それでは、何ゆえそうしたモティーフ、テーマが作道君の作品の根幹部分となるのであろうか。
それこそ村上春樹がそうであるように、そこには作道君自身の個人的な体験が大きく関係している。
作道君は、早いうちにお父様を亡くしているのだ。
そのこととの関連で、「父親がいない環境で育ったため、自分と一定の年齢差がある男性との会話が少なく、関係の持ち方についても難しさを感じていた。ただ最近ではそれも徐々に埋まってきた」、といった趣旨の言葉を作道君本人の口から聴いたこともある。
その意味でも強く印象に残るのが、『人生の満足度、測ります』の「仕事のはなし episode3」(昭和生まれの広告代理店社員星乃孝明と自殺防止対策本部の由家)、彼の好意で読ませてもらった商業作品用の未発表のプロットで、作道君がそうした年長の男性と主人公との交流、意志の疎通を積極的に取り上げていることだ。
また、西村まさ彦さんの『西村のライブ2018 愛こそすべて』で作・演出にあたった一幕物の芝居『Sing with Me』では、年長の男性の視点を通して先述した主題が語られており、この間の作家としての研鑽とともに、作道君の精神面での変化を僕は感じたりもした。
そうそう、作道君といえば、常々三谷幸喜さんからの大きな影響を公言しているが、三谷さんも作道君と同様の体験を持った人でもある。
むろん、そうした共通の体験を即創作面での影響やシンパシーと結び付けることは安易に行うべきではないだろう。
が、しかし、成長過程における小さからぬ体験がもたらした性格性質、人間関係の在りようの類似性が、作品の内容や創作姿勢への親近感を一層強める原因となることもやはり否定はできまい。
(余談だけれど、三谷さんに大きな影響を受けた劇作家・演出家の一人で、笑の大学ならぬ、笑の内閣の高間響君も三谷さんや作道君と同じ体験の持ち主であることを僕は知っている)
いずれにしても、かつて意図的に封印するよう努めたこともある作道君だが、プロになってなお、いや、プロになったからなおさらのこと、かけがえのない人の喪失、自殺(を止める)、命の尊さといったモティーフやテーマは彼にとって当為のものであり続けるはずだ。
今後年齢を重ねる中で、そうしたモティーフやテーマがどのように変化し変容していくのか、僕はこれからも注視していきたい。
次回に続く
「ベートーベン、ピアノ協奏曲第3番、グレン・グールド、レナード・バーンステイン。ム……聴いたことないね。あんたは?」
(村上春樹『風の歌を聴け』<講談社文庫>より)
作道雄は変奏する
12のコントルダンスの第7曲、バレエ音楽『プロメテウスの創造物』の終曲、創作主題による15の変奏曲とフーガ、そして交響曲第3番「英雄」の終楽章。
今年生誕250年を迎えるベートーヴェンは、同一の主題を基にして、より規模の大きい、かつ充実した作品を生み出していった。
そんな楽聖と重ね合わせれば面はゆい想いをするかもしれないが、作道君もベートーヴェンと同様、過去の作品の主題を新しい作品に転用発展させる創作者の一人だ。
例えば、琵琶湖を舞台に、少年と謎の生物ビワッシーのひと夏の記憶を描いた作道君脚本、瀬木直貴監督の『マザーレイク』は、とある湖畔に建つ病院の男性患者が謎の生物と遭遇するという月面クロワッサンVol.4『夏の目撃者』(作道君作・演出/2012年6月)のバリエーションと断じてまず間違いはあるまい。
ステキブンゲイに連載公開されている『人生の満足度、測ります』もまた、作道君のかつての作品のモティーフを大きく受け継いだものとなっている。
国家によってひとりひとりの人生の満足度が管理され、満足度が低い国民には秘密裡に公務員が派遣される。
というその設定に、古くから作道君の作品に接してきた人たちの中には、KBS京都で放映された月面クロワッサンのテレビドラマ『ショート・ショウ』(2014年4月〜6月)の第1話「サティスファクション」を思い起こす人も少なくないのではないか。
ボブ・マーサムさん演じるいささか謎めいた男は、この第1話において、次のような言葉をある登場人物に投げかける。
人生の満足度を知りたくはないですか、と。
(ちなみに、この第1話にはあの吉岡里帆さんも出演していた)
メメントモリ 彼は村上春樹に憧れる
しかし、作道君にとってより重要な主題、肝となるべき部分はさらにその先に存在する。
それは、『人生の満足度、測ります』と『ショート・ショウ』双方に共通する、満足度があまりにも低くなった人間は自殺の可能性が非常に高いという設定であり、登場人物が別の登場人物の自殺を回避させるためその満足度を上げるべく努力するという展開である。
いや、この二作品だけではない。
前回少し触れた『どっちみち阪急河原町』の核となるのは、森麻子さん演じる女性の自殺を如何にして食い止めるかということだったし、月面クロワッサンのVol.1『バイバイセブンワンダー』では学校内での登場人物の自殺(実は他殺)が作中の謎を解く大きな鍵となっていた。
そして、月面クロワッサンのVol.3『望遠鏡ブルース』の冬篇では、今は亡い大切な人との幻想的な再会がリリカルに描かれた。
実は、前回引用した『望遠鏡ブルース』に対する感想を、僕は次のように続けている。
>単に対お客さんという理由からだけではなく、(村上春樹がそうであるように)作道君がかつて大切な誰かを失って、そのことを表現するためのバランスから笑いを重視しているというのであれば話しはまた別だが、もしそうでないのなら、過度な笑いの技・仕掛けはあえて封印してみせてもいいのではないだろうか。
封印してもなお、笑いの要素に満ちた作品が完成したのであれば、それこそ作道君が本当に創り上げたい劇世界だということになるはずだし<
なお、感想では明示していないけれど、ここで村上春樹の名を出しているのは、冬篇の展開に彼の『羊をめぐる冒険』のエコーを聴き取ったからである。
そういえば、KBS京都での『ノスタルジア』放映の先駆けとなる月面クロワッサンのwebドラマのタイトルは『虹をめぐる冒険』だった。
それと、新型コロナウイルスの非常事態宣言中の7日間ブックカバーチャレンジの一冊として作道君は村上春樹の『風の歌を聴け』を選び、「繰り返し読んでいる作品」、「僕にとって特別な小説」と記してもいた。
以降、月面クロワッサンの一連の作品はもとより、『マザーレイク』、自らメガホンをとった『神さまの轍-CHECKPOINT OF THE LIFE-』、大牟田市の「延命」動物園を舞台にした『いのちスケッチ』に到るまで様々に形を変えつつも、かけがえのない人の喪失、自殺(を止める)は、作道君の作品にとって切り離すことのできないモティーフであり、テーマである。
作道雄の核となり続けるもの
それでは、何ゆえそうしたモティーフ、テーマが作道君の作品の根幹部分となるのであろうか。
それこそ村上春樹がそうであるように、そこには作道君自身の個人的な体験が大きく関係している。
作道君は、早いうちにお父様を亡くしているのだ。
そのこととの関連で、「父親がいない環境で育ったため、自分と一定の年齢差がある男性との会話が少なく、関係の持ち方についても難しさを感じていた。ただ最近ではそれも徐々に埋まってきた」、といった趣旨の言葉を作道君本人の口から聴いたこともある。
その意味でも強く印象に残るのが、『人生の満足度、測ります』の「仕事のはなし episode3」(昭和生まれの広告代理店社員星乃孝明と自殺防止対策本部の由家)、彼の好意で読ませてもらった商業作品用の未発表のプロットで、作道君がそうした年長の男性と主人公との交流、意志の疎通を積極的に取り上げていることだ。
また、西村まさ彦さんの『西村のライブ2018 愛こそすべて』で作・演出にあたった一幕物の芝居『Sing with Me』では、年長の男性の視点を通して先述した主題が語られており、この間の作家としての研鑽とともに、作道君の精神面での変化を僕は感じたりもした。
そうそう、作道君といえば、常々三谷幸喜さんからの大きな影響を公言しているが、三谷さんも作道君と同様の体験を持った人でもある。
むろん、そうした共通の体験を即創作面での影響やシンパシーと結び付けることは安易に行うべきではないだろう。
が、しかし、成長過程における小さからぬ体験がもたらした性格性質、人間関係の在りようの類似性が、作品の内容や創作姿勢への親近感を一層強める原因となることもやはり否定はできまい。
(余談だけれど、三谷さんに大きな影響を受けた劇作家・演出家の一人で、笑の大学ならぬ、笑の内閣の高間響君も三谷さんや作道君と同じ体験の持ち主であることを僕は知っている)
いずれにしても、かつて意図的に封印するよう努めたこともある作道君だが、プロになってなお、いや、プロになったからなおさらのこと、かけがえのない人の喪失、自殺(を止める)、命の尊さといったモティーフやテーマは彼にとって当為のものであり続けるはずだ。
今後年齢を重ねる中で、そうしたモティーフやテーマがどのように変化し変容していくのか、僕はこれからも注視していきたい。
次回に続く
2020年07月22日
作道雄をめぐる冒険 もしくは剖見 その1
作道雄をめぐる冒険 もしくは剖見 その1
「文章を書くという作業は、とりもなおさず自分と自分をとりまく事物との距離を確認することである。必要なものは感性ではなく、ものさしだ。」
(デレク・ハートフィールド「気分が良くて何が悪い?」1936年より)
作道雄が小説を書くことについて
作家の中村航さんに誘われて新しい文芸サイトで小説を書くことになった旧知の作道雄君が会話中僕にそれを教えてくれた。
そのとき、僕にやっかみの気持ちが全く起こらなかったと言えば正直嘘になる。
むろん、創作面ばかりでなく、セルフプロデュースやセルフマネージメントにおける彼の長年の努力をずっと観てきたことも確かだし、作道君が相当の小説読みであることも知っている。
満を持しての小説執筆に対しても盛大な拍手を送りたいところではあるのだけれど、いかんせん僕はプロの作家を目指して長年足掻き続けている人間なのだ。
残念ながら、そこまで善人ではいられない。
だから、ステキブンゲイに作道君の『人生の満足度、測ります』が初めて公開されたときはそれこそ小舅根性全開、とまではいかないものの、いささか底意地の悪い視点で彼の作品に接したことも事実である。
実際、重箱の隅をつつこうと思いさえすれば、言葉を重ねることができないわけではない。
例えば、ストーリー展開の流れのよさや淀みの少ない登場人物の言葉のやり取りは、ときに純然とした小説よりも、映画やテレビドラマのノベライズを感じさせる原因になっているように思える。
また、episode2「恋愛の話」における半田市の名店の意図的な強調は、当然作道君が制作している『1979はじまりの物語〜はんだ山車まつり〜』との兼ね合いからであることは想像に難くないものの、そうした目くばせが小説という形式にはあまりなじまないものであること、少なくとも小説全体の結構からは若干浮いたものになっていることもやはり否定できない。
しかしながら、裏返せばそれは、ステキブンゲイの読み手の性格を十分に把握した上でのリーダビリティやコンフォータビリティの表れと言い換えることも大いに可能だろう。
そして、そうした彼の特質は、2011年2月に開催された第一回目の京都学生演劇祭における、作道君率いる劇団、月面クロワッサンのvol.0『どっちみち阪急河原町』ですでに如実に示されていた。
45分という限られた尺の中で、些細な行き違いから生まれたどたばたが、いささかの感傷をためて小気味よく解消されていく。
作道君の手際のよさと、彼が私淑する三谷幸喜流儀のシットコム(シチュエーションコメディ)というフォルムへの意志を強く感じたものだ。
2012-2014 京都小劇場界隈は作道雄を評価しなかった
だが、そんな作道君の創作のあり方は、同世代を中心とした京都小劇場界隈からの好意的な理解をなかなか得ることができなかった。
一つには、作品の根幹となるアイデアやスピーディーな展開に比して、登場人物像の肉付けの弱さや筋運びの無理がまま観受けられたこと。
特に、作中の笑いの要素を重視する分、玄人好みの笑いにこだわる人たちからあまり芳しくない評価を受けていた。
僕自身、月面クロワッサンのVol.3『望遠鏡ブルース〜秋・冬篇〜』の秋篇に対する感想の中で、以下のような一文を記している。
> 京都学生演劇祭の第0回公演から、この秋・冬篇と4回の月面クロワッサンの公演を観て、作道君の本質は、冬篇のような抒情的で、それでいてウェットに過ぎない散文的な世界にこそ十二分に発揮されるのではないかと僕は感じた。
確かに、上述した如く、作道君は笑いの骨法をよく心得ているし、また自身、そのことに自信や自負を抱いているだろうことも想像に難くはない。
けれども、それが高じると、技のための技、手のための手の部分が必要以上に目立ってしまうおそれもなくはない。
実際、『バイバイセブンワンダー』や今回の『望遠鏡ブルース』には、過度に笑いを組み込もうとして無理が生じているように感じられた部分が少なからずあった<
(2011年12月24日当ブログ公開観劇記録より。一部略)
さらに、作道君のプロへのステップアップの意志やそれと軌を一にする映像面への進出が、演劇を最重要視し、良くも悪くもアマチュアリズムとセミプロフェッショナリズムのあわいを貴ぶ京都小劇場界隈の面々に、安易な上昇志向と同一視されてしまった点も指摘せねばなるまい。
事実、公の場で演劇に関して挑発的な発言を作道君が行っていたことを僕は覚えている。
加えて、彼の先行者たるヨーロッパ企画の上田誠さん(よくよく考えてみれば、上田さんも、かつての京都小劇場界隈では異端分子扱いを受けていた)をゲストに招くなどした大喜利・コントイベント「企画外企画劇場」の開催や、KBS京都における連続ドラマ『ノスタルジア』の制作放映に見せる作道君のプロデュース能力、第3回京都学生演劇祭におけるインタートークや大交流会、閉会式の仕切りが端的に示す表方としての能力が、かえって彼の創作面での評価にマイナス面での影響を与えていたようにも思う。
その延長線上で、月面クロワッサンがプロを目指すのであれば、その能力を十全に活かすためにも作道君はプロデューサーに専念すべきではないか、という声が彼の親しい人々の間から少なからず起こったりもした。
月面クロワッサンという組織を重視する観点からすればそのような声は首肯できる部分もあり、テレビドラマ制作で多忙という理由もあってだが、劇団の活動後期には作道君以外のメンバーが演劇公演の作・演出を行うという試みも何度か為された。
それでも、彼は創り続ける
ただ一方で、僕は作道君が、プロデューサーや表方として脚光を浴びることで自己顕示欲を満たせばそれで十分だと考えるような人間ではないということも、彼の一連の作品から強く感じ取っていた。
文芸と演劇・映画という違いはあれど、同じ実作者だからよくわかる。
彼もまた、何かを表出し、何かを表現していなければ満たされない、それどころか、生きていけない人間の一人なのだ。
そして、『人生の満足度、測ります』には、そんな作道君の表現者としての過去現在未来と共に、彼の創作の根本的な主題、レゾンデートルが明確に表されている。
その意味でも、『人生の満足度、測ります』は僕にとって非常に興味深い作品である。
次回に続く
「文章を書くという作業は、とりもなおさず自分と自分をとりまく事物との距離を確認することである。必要なものは感性ではなく、ものさしだ。」
(デレク・ハートフィールド「気分が良くて何が悪い?」1936年より)
作道雄が小説を書くことについて
作家の中村航さんに誘われて新しい文芸サイトで小説を書くことになった旧知の作道雄君が会話中僕にそれを教えてくれた。
そのとき、僕にやっかみの気持ちが全く起こらなかったと言えば正直嘘になる。
むろん、創作面ばかりでなく、セルフプロデュースやセルフマネージメントにおける彼の長年の努力をずっと観てきたことも確かだし、作道君が相当の小説読みであることも知っている。
満を持しての小説執筆に対しても盛大な拍手を送りたいところではあるのだけれど、いかんせん僕はプロの作家を目指して長年足掻き続けている人間なのだ。
残念ながら、そこまで善人ではいられない。
だから、ステキブンゲイに作道君の『人生の満足度、測ります』が初めて公開されたときはそれこそ小舅根性全開、とまではいかないものの、いささか底意地の悪い視点で彼の作品に接したことも事実である。
実際、重箱の隅をつつこうと思いさえすれば、言葉を重ねることができないわけではない。
例えば、ストーリー展開の流れのよさや淀みの少ない登場人物の言葉のやり取りは、ときに純然とした小説よりも、映画やテレビドラマのノベライズを感じさせる原因になっているように思える。
また、episode2「恋愛の話」における半田市の名店の意図的な強調は、当然作道君が制作している『1979はじまりの物語〜はんだ山車まつり〜』との兼ね合いからであることは想像に難くないものの、そうした目くばせが小説という形式にはあまりなじまないものであること、少なくとも小説全体の結構からは若干浮いたものになっていることもやはり否定できない。
しかしながら、裏返せばそれは、ステキブンゲイの読み手の性格を十分に把握した上でのリーダビリティやコンフォータビリティの表れと言い換えることも大いに可能だろう。
そして、そうした彼の特質は、2011年2月に開催された第一回目の京都学生演劇祭における、作道君率いる劇団、月面クロワッサンのvol.0『どっちみち阪急河原町』ですでに如実に示されていた。
45分という限られた尺の中で、些細な行き違いから生まれたどたばたが、いささかの感傷をためて小気味よく解消されていく。
作道君の手際のよさと、彼が私淑する三谷幸喜流儀のシットコム(シチュエーションコメディ)というフォルムへの意志を強く感じたものだ。
2012-2014 京都小劇場界隈は作道雄を評価しなかった
だが、そんな作道君の創作のあり方は、同世代を中心とした京都小劇場界隈からの好意的な理解をなかなか得ることができなかった。
一つには、作品の根幹となるアイデアやスピーディーな展開に比して、登場人物像の肉付けの弱さや筋運びの無理がまま観受けられたこと。
特に、作中の笑いの要素を重視する分、玄人好みの笑いにこだわる人たちからあまり芳しくない評価を受けていた。
僕自身、月面クロワッサンのVol.3『望遠鏡ブルース〜秋・冬篇〜』の秋篇に対する感想の中で、以下のような一文を記している。
> 京都学生演劇祭の第0回公演から、この秋・冬篇と4回の月面クロワッサンの公演を観て、作道君の本質は、冬篇のような抒情的で、それでいてウェットに過ぎない散文的な世界にこそ十二分に発揮されるのではないかと僕は感じた。
確かに、上述した如く、作道君は笑いの骨法をよく心得ているし、また自身、そのことに自信や自負を抱いているだろうことも想像に難くはない。
けれども、それが高じると、技のための技、手のための手の部分が必要以上に目立ってしまうおそれもなくはない。
実際、『バイバイセブンワンダー』や今回の『望遠鏡ブルース』には、過度に笑いを組み込もうとして無理が生じているように感じられた部分が少なからずあった<
(2011年12月24日当ブログ公開観劇記録より。一部略)
さらに、作道君のプロへのステップアップの意志やそれと軌を一にする映像面への進出が、演劇を最重要視し、良くも悪くもアマチュアリズムとセミプロフェッショナリズムのあわいを貴ぶ京都小劇場界隈の面々に、安易な上昇志向と同一視されてしまった点も指摘せねばなるまい。
事実、公の場で演劇に関して挑発的な発言を作道君が行っていたことを僕は覚えている。
加えて、彼の先行者たるヨーロッパ企画の上田誠さん(よくよく考えてみれば、上田さんも、かつての京都小劇場界隈では異端分子扱いを受けていた)をゲストに招くなどした大喜利・コントイベント「企画外企画劇場」の開催や、KBS京都における連続ドラマ『ノスタルジア』の制作放映に見せる作道君のプロデュース能力、第3回京都学生演劇祭におけるインタートークや大交流会、閉会式の仕切りが端的に示す表方としての能力が、かえって彼の創作面での評価にマイナス面での影響を与えていたようにも思う。
その延長線上で、月面クロワッサンがプロを目指すのであれば、その能力を十全に活かすためにも作道君はプロデューサーに専念すべきではないか、という声が彼の親しい人々の間から少なからず起こったりもした。
月面クロワッサンという組織を重視する観点からすればそのような声は首肯できる部分もあり、テレビドラマ制作で多忙という理由もあってだが、劇団の活動後期には作道君以外のメンバーが演劇公演の作・演出を行うという試みも何度か為された。
それでも、彼は創り続ける
ただ一方で、僕は作道君が、プロデューサーや表方として脚光を浴びることで自己顕示欲を満たせばそれで十分だと考えるような人間ではないということも、彼の一連の作品から強く感じ取っていた。
文芸と演劇・映画という違いはあれど、同じ実作者だからよくわかる。
彼もまた、何かを表出し、何かを表現していなければ満たされない、それどころか、生きていけない人間の一人なのだ。
そして、『人生の満足度、測ります』には、そんな作道君の表現者としての過去現在未来と共に、彼の創作の根本的な主題、レゾンデートルが明確に表されている。
その意味でも、『人生の満足度、測ります』は僕にとって非常に興味深い作品である。
次回に続く
2019年05月28日
ほそゆきのパイロット版25
☆ほそゆきのパイロット版25
結局、雪子と詠美が笑顔を見せたのは、約二時間半にも及ぶ上演の間、それが最初で最後であった。あとは、またもや自己顕示と自己満足と自己懐疑と自己卑下のオンパレード。雪子や詠美ばかりか、たぶん大多数のお客さんにとって、地獄の責め苦が続きに続いたのである。
四度も続いた偽のフィナーレの末、はい、おわります、の一言で尻切れトンボに上演が終わったとき、ずっと生理現象を我慢していたと思しき最前列左端の頭髪の薄い男性は、阿修羅の如き形相で会場入口横のトイレへと向かって行った。
最前列真ん中の派手な女性はささっとアンケートを書き上げると、着信音を鳴らした中年女性を睨みつけつつ憤然とした様子で会場を後にした。
「なあ、ともちゃんどこに出てた」
「ううん、わからんかったなあ」
「にしても、あれやなあ」
「ほんまやな」
という疲れ切った親御さんたちの会話も聞こえてくる。
詠美は雪子と顔を見合わせて、はあ、と大きなため息を吐くと、
「杉浦さんとあさがおちゃんはよかったな」
と言った。
「杉浦さんって」
「おじいちゃん。杉浦さんは、スタジオ・カホウって劇場の小屋主さんなんやけど、昔すぐり座って劇団の劇団員やってたんよ」
「へえ、そうなん。あの歌、ほんまよかったなあ」
「うん。それに、あさがおちゃんも流石やな」
「十五役やってた子やんね」
「そう。舞台芸術学科の後輩なんやけど、彼女ほんま凄いわ」
と、トイレから出て来た頭髪の薄い男性が、雪子や詠美と同じ列に座った若い女性に声をかけられ苦笑いを浮かべた。
「あっ、トイレ行ってくるわ」
そう言って詠美が席を立ったので、雪子はアンケート用に配られた鉛筆をくるくると左手で器用に回しながら、会場中を見るとはなしに見ていた。
すると、それまでアンケートを書き続けていた平原が急に後ろを振り返った。雪子が一人であることに気づいた平原は、これ幸いと彼女のほうにやって来る。
「なあ、野川さん、隣にいたのは野川さんの妹さんなんやろ。野川さんなあ、あんなんではあかんで。社会的常識ってもんがなさ過ぎるんとちゃう。映画の世界で生きようって段階で、普通の女性とはいろいろと異なってはいるんやろうから、そこはまあしゃあないとして、それでもやっぱり日本人としての、日本の女性としての道徳観念と貞操観念はしっかり持たせなあかんよ。妹さんは、異常者や。残念ながら正真正銘の異常者や。それで、そんな妹さんを野放しにしている野川さんも異常者や。正常極まる僕のような人間から見たら、もうこれは恐怖でしかないよ。異常者は矯正していかなあかん。矯正が不可能やったら排除していかなあかん」
などと言い募ることに必死な平原は、迫り来る恐怖を一切察知することはなかった。
「何が異常者じゃ、この異常者のちんかす野郎が」
詠美の蹴りがストレートに腰に決まった平原は、ひでぶぶぶう、と意味不明な叫びを上げて、最前列まで吹っ飛んだ。
「二度と私の前に近づくな。ゆっこちゃんの前にも近づくな。佐田の前にも近づくな」
平原は慌てて起き上がり、
「めろう、覚えてろ」
と陳腐な捨て台詞を残すと、腰を擦り擦り荷物をまとめて、脱兎の勢いで逃げ去った。
集中する周囲の視線を意識して、ほんま怖かったわあ、あのストーカー、と声を上げた詠美に、
「ほんまに怖いんは、詠美ちゃんのほうや」
と、雪子はたまらず呟いた。
結局、雪子と詠美が笑顔を見せたのは、約二時間半にも及ぶ上演の間、それが最初で最後であった。あとは、またもや自己顕示と自己満足と自己懐疑と自己卑下のオンパレード。雪子や詠美ばかりか、たぶん大多数のお客さんにとって、地獄の責め苦が続きに続いたのである。
四度も続いた偽のフィナーレの末、はい、おわります、の一言で尻切れトンボに上演が終わったとき、ずっと生理現象を我慢していたと思しき最前列左端の頭髪の薄い男性は、阿修羅の如き形相で会場入口横のトイレへと向かって行った。
最前列真ん中の派手な女性はささっとアンケートを書き上げると、着信音を鳴らした中年女性を睨みつけつつ憤然とした様子で会場を後にした。
「なあ、ともちゃんどこに出てた」
「ううん、わからんかったなあ」
「にしても、あれやなあ」
「ほんまやな」
という疲れ切った親御さんたちの会話も聞こえてくる。
詠美は雪子と顔を見合わせて、はあ、と大きなため息を吐くと、
「杉浦さんとあさがおちゃんはよかったな」
と言った。
「杉浦さんって」
「おじいちゃん。杉浦さんは、スタジオ・カホウって劇場の小屋主さんなんやけど、昔すぐり座って劇団の劇団員やってたんよ」
「へえ、そうなん。あの歌、ほんまよかったなあ」
「うん。それに、あさがおちゃんも流石やな」
「十五役やってた子やんね」
「そう。舞台芸術学科の後輩なんやけど、彼女ほんま凄いわ」
と、トイレから出て来た頭髪の薄い男性が、雪子や詠美と同じ列に座った若い女性に声をかけられ苦笑いを浮かべた。
「あっ、トイレ行ってくるわ」
そう言って詠美が席を立ったので、雪子はアンケート用に配られた鉛筆をくるくると左手で器用に回しながら、会場中を見るとはなしに見ていた。
すると、それまでアンケートを書き続けていた平原が急に後ろを振り返った。雪子が一人であることに気づいた平原は、これ幸いと彼女のほうにやって来る。
「なあ、野川さん、隣にいたのは野川さんの妹さんなんやろ。野川さんなあ、あんなんではあかんで。社会的常識ってもんがなさ過ぎるんとちゃう。映画の世界で生きようって段階で、普通の女性とはいろいろと異なってはいるんやろうから、そこはまあしゃあないとして、それでもやっぱり日本人としての、日本の女性としての道徳観念と貞操観念はしっかり持たせなあかんよ。妹さんは、異常者や。残念ながら正真正銘の異常者や。それで、そんな妹さんを野放しにしている野川さんも異常者や。正常極まる僕のような人間から見たら、もうこれは恐怖でしかないよ。異常者は矯正していかなあかん。矯正が不可能やったら排除していかなあかん」
などと言い募ることに必死な平原は、迫り来る恐怖を一切察知することはなかった。
「何が異常者じゃ、この異常者のちんかす野郎が」
詠美の蹴りがストレートに腰に決まった平原は、ひでぶぶぶう、と意味不明な叫びを上げて、最前列まで吹っ飛んだ。
「二度と私の前に近づくな。ゆっこちゃんの前にも近づくな。佐田の前にも近づくな」
平原は慌てて起き上がり、
「めろう、覚えてろ」
と陳腐な捨て台詞を残すと、腰を擦り擦り荷物をまとめて、脱兎の勢いで逃げ去った。
集中する周囲の視線を意識して、ほんま怖かったわあ、あのストーカー、と声を上げた詠美に、
「ほんまに怖いんは、詠美ちゃんのほうや」
と、雪子はたまらず呟いた。
2019年05月23日
ほそゆきのパイロット版23
☆ほそゆきのパイロット版23
京都の底冷えはとても厳しい。
だから、しっかり厚着をして出て来はしたのだけれど、古屋の「来てくれると思ってたんだ」という笑顔に案内されて入った劇場内のあまりに閑散とした様子に、雪子は激しい寒気に襲われた。
東大路通から近衛通を東に歩いて五分ほど。劇団あぶらむしの公演会場ステージ・ヴァリアンテは、開演十五分前というのに、お客さんの数が自分と詠美を入れてたったの四人。胸元が広く開いた真っ赤な薄手のブラウスを着た三十代と思しき女性が最前列の真ん中に陣取り、同じ列の左端には頭髪の薄い四十代後半と思しき男性が苦虫を噛み潰したような表情で腕を組んでいる。
何がヴァリアンテか。結局詠美に押し切られてやって来はしたものの、雪子の微かな勇気はすぐさま萎えた。
「言うてた通りやね」
詠美がにやりとする。
「えっ」
「古屋さん」
「ああ、詠美ちゃんは人が悪いなあ」
「どっちが」
雪子が公演プログラムを開くと、あぶらむしの主宰で劇作家・演出家の柴辻健作という人のあいさつが書かれている。
俺の心の襞を見ろ、などと大見得を切ってはいるものの、ストレートに自分の心の襞を見せるなんて思っていたら大間違いである。世の中はそんなに思い通りに行くものではない。演劇というのは、そうした世の思い通りに行かない様、世の不条理を情理を尽くして定離させる作業の集積なのだ。今回の公演では、約三十人もの出演者たちがその作業に快く加わってくれた。これほどの喜びがあるだろうか。まさしく奇跡だ。奇跡なのだ。皆さんには、この奇跡の軌跡を心して目にして欲しい。それは大いなる輝石とも
雪子は途中で読むのをやめて、分厚いチラシの束に目を移す。
演劇集団汚点、新浦纏演出、レッシング『賢者ナータン』。
「好みやないけど、観て損はないな」
詠美が解説を加える。
こじつけ、『泳げぬたいやきくん沈没』。
「そこはおもろいよ」
怒頭倶楽部、『何かを問えば何かがかえってくる』。
「当たりやな。ただ、そこは苦手な人がいんねん」
上賀茂社中、『放浪者の群れ』。
「ゆっこちゃん好きやと思うわ。そこの作演の鍋島さん、京大の出身やねん」
「大学とか関係ないんと違う」
「関係してるんやてそれが」
「そうなんや」
「そうなんよ」
劇団ポップコーン、『愛の騒めき』。
「外れやな」
玉出家天宙、ヌーベルバーグラクゴ公演『アートの祭り』。
「その落語家さん、お芝居とかも出てはんねん」
三ヶ島薫一人芝居京都公演、『KYO KO MACHI』。
「これは観なあかん、絶対に観なあかん。三ヶ島さんの一人芝居が三千円なんてありえへん」
と、詠美が興奮していると、ようやく何人かお客さんが入って来た。知り合いに声をかけられた最前列左端の男性は、急ににこやかな顔付きになった。
「ともちゃん、どんな役なんやろう」
「さあなあ、ようわからん」
などと語り合っている中年の男女は、出演者の親御さんだろうか。
「あっ、野川さん」
という声がして雪子と詠美が振り返ると、そこには平原がいた。
「またお前か、いね、ぼけが」
雪子よりも前に、詠美が平原に強い言葉を浴びせかけた。お客さんの目が一瞬にして詠美に集まる。
「ああっ」
と唸ったきり、平原の声は出ない。そして、ひきつった表情のまま、平原はそそくさと最前列右端の席に腰掛けた。
「詠美ちゃん、知ってんの」
「知ってるどころやないよ、あいつほんまくずやわ」
「まあ、くずやなあ」
「ゆっこちゃんの知り合い」
「ほら、とびうめのイベントのとき遅れてしまったやろ、あのときの原因」
雪子が平原を指差す。
「まじか、あれがあいつか」
雪子が黙って頷いた。
「ほんま、死んだらええねん」
詠美の声が劇場中に響き渡るとともに、平原が大きく身体を震わせた。
京都の底冷えはとても厳しい。
だから、しっかり厚着をして出て来はしたのだけれど、古屋の「来てくれると思ってたんだ」という笑顔に案内されて入った劇場内のあまりに閑散とした様子に、雪子は激しい寒気に襲われた。
東大路通から近衛通を東に歩いて五分ほど。劇団あぶらむしの公演会場ステージ・ヴァリアンテは、開演十五分前というのに、お客さんの数が自分と詠美を入れてたったの四人。胸元が広く開いた真っ赤な薄手のブラウスを着た三十代と思しき女性が最前列の真ん中に陣取り、同じ列の左端には頭髪の薄い四十代後半と思しき男性が苦虫を噛み潰したような表情で腕を組んでいる。
何がヴァリアンテか。結局詠美に押し切られてやって来はしたものの、雪子の微かな勇気はすぐさま萎えた。
「言うてた通りやね」
詠美がにやりとする。
「えっ」
「古屋さん」
「ああ、詠美ちゃんは人が悪いなあ」
「どっちが」
雪子が公演プログラムを開くと、あぶらむしの主宰で劇作家・演出家の柴辻健作という人のあいさつが書かれている。
俺の心の襞を見ろ、などと大見得を切ってはいるものの、ストレートに自分の心の襞を見せるなんて思っていたら大間違いである。世の中はそんなに思い通りに行くものではない。演劇というのは、そうした世の思い通りに行かない様、世の不条理を情理を尽くして定離させる作業の集積なのだ。今回の公演では、約三十人もの出演者たちがその作業に快く加わってくれた。これほどの喜びがあるだろうか。まさしく奇跡だ。奇跡なのだ。皆さんには、この奇跡の軌跡を心して目にして欲しい。それは大いなる輝石とも
雪子は途中で読むのをやめて、分厚いチラシの束に目を移す。
演劇集団汚点、新浦纏演出、レッシング『賢者ナータン』。
「好みやないけど、観て損はないな」
詠美が解説を加える。
こじつけ、『泳げぬたいやきくん沈没』。
「そこはおもろいよ」
怒頭倶楽部、『何かを問えば何かがかえってくる』。
「当たりやな。ただ、そこは苦手な人がいんねん」
上賀茂社中、『放浪者の群れ』。
「ゆっこちゃん好きやと思うわ。そこの作演の鍋島さん、京大の出身やねん」
「大学とか関係ないんと違う」
「関係してるんやてそれが」
「そうなんや」
「そうなんよ」
劇団ポップコーン、『愛の騒めき』。
「外れやな」
玉出家天宙、ヌーベルバーグラクゴ公演『アートの祭り』。
「その落語家さん、お芝居とかも出てはんねん」
三ヶ島薫一人芝居京都公演、『KYO KO MACHI』。
「これは観なあかん、絶対に観なあかん。三ヶ島さんの一人芝居が三千円なんてありえへん」
と、詠美が興奮していると、ようやく何人かお客さんが入って来た。知り合いに声をかけられた最前列左端の男性は、急ににこやかな顔付きになった。
「ともちゃん、どんな役なんやろう」
「さあなあ、ようわからん」
などと語り合っている中年の男女は、出演者の親御さんだろうか。
「あっ、野川さん」
という声がして雪子と詠美が振り返ると、そこには平原がいた。
「またお前か、いね、ぼけが」
雪子よりも前に、詠美が平原に強い言葉を浴びせかけた。お客さんの目が一瞬にして詠美に集まる。
「ああっ」
と唸ったきり、平原の声は出ない。そして、ひきつった表情のまま、平原はそそくさと最前列右端の席に腰掛けた。
「詠美ちゃん、知ってんの」
「知ってるどころやないよ、あいつほんまくずやわ」
「まあ、くずやなあ」
「ゆっこちゃんの知り合い」
「ほら、とびうめのイベントのとき遅れてしまったやろ、あのときの原因」
雪子が平原を指差す。
「まじか、あれがあいつか」
雪子が黙って頷いた。
「ほんま、死んだらええねん」
詠美の声が劇場中に響き渡るとともに、平原が大きく身体を震わせた。
2019年05月21日
ほそゆきのパイロット版22
☆ほそゆきのパイロット版22
「開けてもええ」
「ええよ」
という雪子の返事を待って詠美は障子を開けた。
雪子は、詠美が誕生日にプレゼントした飛永梅太郎のイラスト入りの枕を頭にして、畳の上に寝転がっていた。
「何してんの」
「ぼおっと」
「また河童か」
雪子が手にした絵葉書に詠美が突っ込みを入れる。
「うん」
「尻子玉抜かれんで、そんなんばっかり見てたら」
「やらしいなあ」
雪子がくすっと笑う。
「はっ、何がやらしいねん。尻子玉やで」
「わかってるよ」
と言ってまた笑うと、雪子は絵葉書に目を移す。
「ちょ、ちょっ」
「何い」
「何いやないよ、何してんの」
「ぼおっと」
「ほんま、殴ったろうか」
「堪忍堪忍、殴らんといて」
雪子はわざとらしく応えてから、身体を起こした。
「で、何」
「これやこれ」
詠美が右手を突き出した。
「ああ」
「ああて、他人事みたいに。なんやのんこれ」
詠美の手にはチケットが二枚握られている。
「古屋さんがくれたの」
「古屋さんって、あのあぶらむしの彼女」
「あぶらむしの彼女はないよ」
「だって、あぶらむしの演出の彼女なんやろ」
「彼女やなくて、元カノ。でも、古屋さんは、あぶらむしやなくて、カマキリにそっくり」
「ゆっこちゃん、そういうとこほんまに辛辣やなあ」
「ほんまのことやから。あっ、古屋さんには言わへんよ。しゅっとした顔してはるねえってしか」
「そっちのほうがよっぽど失礼な気するわ」
「そっかな」
と言って、雪子は寝転がろうとする。
「ちょ、待てえ」
「何い」
「何いて、なんでこれが私の机の上においてあんの」
「詠美ちゃん、お芝居観るの好きなんやろ」
「好きやけど、あぶらむしは外れって言うたやんか」
「言うたねえ」
「やったら、観に行くわけなんかないやん」
「詠美ちゃん」
急に雪子が姿勢を正す。
「詠美ちゃんは、将来の日本を、いや世界を代表する表現者になりたい思うてるんやんね」
「そうや」
「それなら、今度のあぶらむしの公演が詠美ちゃんの表現活動にとって大きな刺激にならんともかぎらんのとちゃうのん。お姉さんはそう思うんやけどね」
「こういうときだけお姉さんて。そんなんでだまされると思うたら大間違いや」
「あかん」
「あかんよ」
「日本国民のマジョリティは、今の言葉で、はいわかりました、わたくし喜んで観に行かさせていただきます、って納得すると思うんやけど」
「何言うてんの」
「なあ、詠美ちゃん、お姉ちゃんもな、詠美ちゃんには悪い思うてんねんで。でもな、古屋さんがどうしても、どうしてもってお姉ちゃんに言うてきはんねん。そこまで言われて知らん顔もでけへんやろ。やけど、お姉ちゃん、どうしてもあぶらむしは観に行かれへんねん。あぶらむしも南京虫もごきぶりも大嫌いやろ。そやから、お姉ちゃんを助けると思うて。詠美ちゃん、こんな弱いお姉ちゃんを堪忍してな」
雪子は小刻みに震えながら、両手で顔を隠した。隠したとたん、身体の震えが大きくなった。
「なめとんか、ええかげんにしいよし」
「ああ、おかしい」
「おかしいのは、ゆっこちゃんの頭ん中身や」
「日本国民のマジョリティは、涙流して、はいわかりました、わたくし喜んで観に行かさせていただきます、って納得すると思うんやけど」
「行くか、ぼけ」
「しゃあないな、やったらそれほかしといて」
「ほかす」
「誰も観に行かへんのやったら、ほかすしかないやん。プチ断捨離」
「これ、当精やないやん」
「当精て」
「当日精算券」
「ああ。ヨーロッパ行ったばっかりでお金ないって断ったら、チケットあげるから観に来て、集客に苦労してるからって、古屋さんが押し付けてきたん。あんだけ断ってんのに、押し付けてくるんやもん。しつこい人はほんま苦手や」
「ゆっこちゃん、そのこと古屋さんには」
「そんな失礼なこと言わへんよ」
「あんた、ほんまに、ほんま」
「何い」
「内弁慶やなあ」
「くろうかけます」
雪子は会心の笑みを浮かべると、再び寝転がった。
「開けてもええ」
「ええよ」
という雪子の返事を待って詠美は障子を開けた。
雪子は、詠美が誕生日にプレゼントした飛永梅太郎のイラスト入りの枕を頭にして、畳の上に寝転がっていた。
「何してんの」
「ぼおっと」
「また河童か」
雪子が手にした絵葉書に詠美が突っ込みを入れる。
「うん」
「尻子玉抜かれんで、そんなんばっかり見てたら」
「やらしいなあ」
雪子がくすっと笑う。
「はっ、何がやらしいねん。尻子玉やで」
「わかってるよ」
と言ってまた笑うと、雪子は絵葉書に目を移す。
「ちょ、ちょっ」
「何い」
「何いやないよ、何してんの」
「ぼおっと」
「ほんま、殴ったろうか」
「堪忍堪忍、殴らんといて」
雪子はわざとらしく応えてから、身体を起こした。
「で、何」
「これやこれ」
詠美が右手を突き出した。
「ああ」
「ああて、他人事みたいに。なんやのんこれ」
詠美の手にはチケットが二枚握られている。
「古屋さんがくれたの」
「古屋さんって、あのあぶらむしの彼女」
「あぶらむしの彼女はないよ」
「だって、あぶらむしの演出の彼女なんやろ」
「彼女やなくて、元カノ。でも、古屋さんは、あぶらむしやなくて、カマキリにそっくり」
「ゆっこちゃん、そういうとこほんまに辛辣やなあ」
「ほんまのことやから。あっ、古屋さんには言わへんよ。しゅっとした顔してはるねえってしか」
「そっちのほうがよっぽど失礼な気するわ」
「そっかな」
と言って、雪子は寝転がろうとする。
「ちょ、待てえ」
「何い」
「何いて、なんでこれが私の机の上においてあんの」
「詠美ちゃん、お芝居観るの好きなんやろ」
「好きやけど、あぶらむしは外れって言うたやんか」
「言うたねえ」
「やったら、観に行くわけなんかないやん」
「詠美ちゃん」
急に雪子が姿勢を正す。
「詠美ちゃんは、将来の日本を、いや世界を代表する表現者になりたい思うてるんやんね」
「そうや」
「それなら、今度のあぶらむしの公演が詠美ちゃんの表現活動にとって大きな刺激にならんともかぎらんのとちゃうのん。お姉さんはそう思うんやけどね」
「こういうときだけお姉さんて。そんなんでだまされると思うたら大間違いや」
「あかん」
「あかんよ」
「日本国民のマジョリティは、今の言葉で、はいわかりました、わたくし喜んで観に行かさせていただきます、って納得すると思うんやけど」
「何言うてんの」
「なあ、詠美ちゃん、お姉ちゃんもな、詠美ちゃんには悪い思うてんねんで。でもな、古屋さんがどうしても、どうしてもってお姉ちゃんに言うてきはんねん。そこまで言われて知らん顔もでけへんやろ。やけど、お姉ちゃん、どうしてもあぶらむしは観に行かれへんねん。あぶらむしも南京虫もごきぶりも大嫌いやろ。そやから、お姉ちゃんを助けると思うて。詠美ちゃん、こんな弱いお姉ちゃんを堪忍してな」
雪子は小刻みに震えながら、両手で顔を隠した。隠したとたん、身体の震えが大きくなった。
「なめとんか、ええかげんにしいよし」
「ああ、おかしい」
「おかしいのは、ゆっこちゃんの頭ん中身や」
「日本国民のマジョリティは、涙流して、はいわかりました、わたくし喜んで観に行かさせていただきます、って納得すると思うんやけど」
「行くか、ぼけ」
「しゃあないな、やったらそれほかしといて」
「ほかす」
「誰も観に行かへんのやったら、ほかすしかないやん。プチ断捨離」
「これ、当精やないやん」
「当精て」
「当日精算券」
「ああ。ヨーロッパ行ったばっかりでお金ないって断ったら、チケットあげるから観に来て、集客に苦労してるからって、古屋さんが押し付けてきたん。あんだけ断ってんのに、押し付けてくるんやもん。しつこい人はほんま苦手や」
「ゆっこちゃん、そのこと古屋さんには」
「そんな失礼なこと言わへんよ」
「あんた、ほんまに、ほんま」
「何い」
「内弁慶やなあ」
「くろうかけます」
雪子は会心の笑みを浮かべると、再び寝転がった。
2019年05月19日
ほそゆきのパイロット版21
☆ほそゆきのパイロット版21
×月×日
帰国して、そろそろひと月近くが経つ。ヨーロッパで過ごしたのと、ちょうど同じくらいの時間。けれど、過ごした時間の長さは同じでも、その質は大きく異なっている。稀薄。本当は重苦しくって仕方がないのに、そんなことなどなんでもないかの如くさらさらと毎日が過ぎ去っていく。あまりにも薄っぺらい。私のように。
今日学校で平原を見かけた。韓国の兵士みたいな服装をしている。気持ちが悪い。あのこけしみたいな首がギロチンで切り落とされるところを想像して、ますます気持ちが悪くなった。早く消えてしまえ。
研究室で古屋さんに演劇の公演(劇団あぶらむし)を誘われたが、なんとか断る。知らない劇団のお芝居なんかに二千五百円も払いたくない。帰ってえみちゃんに話をしたら、その劇団は外れやでと即答した。やっぱり断ってよかった。古屋さんの元彼が演出しているそう。腐れ縁。腐った縁。
夕飯後、ベルンハルトにメールを送る。ディーツェンバウムの『Dの死』(フランス語版)のテキストを送ってもらったことへのお礼。ベルリンのHAUで観た『Dの死』は、とても面白かった。
*
×月×日
岩谷大三さんが亡くなられた。梅之助じいちゃん。梅じい。とびうめの春のイベントではお元気そうだったのに。本当に哀しい。岩谷さんやったら『親知らず』(鹿ケ谷浩介監督)やで、とえみちゃんからDVDを貸してもらう。主人公を追い詰める刑事役。映画自体は今一つやけど、岩谷さんがむっちゃええねん、というえみちゃんの言葉通りだった。岩谷さんの目!
夕方、佳穂姉と北山のアンゲリカでお茶をした。佳穂姉とは半年ぶり。さつまいものソフトクッキー、習ってきたわ、と焼き上がったばかりのクッキーをもらう(帰宅後、みんなで食べる。とても美味しかった)。お土産のオーデコロンを渡したら、ゆっこちゃんの気ぃつかい、と頭を撫でられた。佳穂姉の指は細くて長い。
息抜き代わりにでもなればと、『Dの死』を少し訳してみたが、全然息抜きにはならなかった。何事も難しい。
*
×月×日
日野君に誘われて、岡崎の国立近代美術館まで小川芋銭展を観に行く。いたずら描きのような滑稽で、でもどこかかなしさをためた作品が並ぶ。とても気に入ったので、河童の絵葉書を買った。
ぽつりぽつりときたので、六盛でスフレを食べた。美味しい。日野君はぽつりぽつりとしゃべる。研究のこととか、地元の倉敷のこととか。小川芋銭の絵みたい。
日野君とは、図書館の前で別れた。
家に帰って、ずっと河童を眺めている。
*
×月×日
古屋さんにまた劇団あぶらむしを誘われる。ベルリンやロンドンでお芝居を観て来たことを話したから、演劇好きと思われてしまったのか。しつこい人は苦手だ。チラシを渡されたが、黄色地に赤で、俺の心の襞を見ろって題名だけが書かれている。裏には、大勢出ます!愉しいよ!面白いよ!泣けるよ!損はしないよ! という!の連打。悪趣味。大勢出るのは本当だろうけど、愉しくないだろうし面白くないだろうし泣けないだろうし、損した気分になると思う。
余裕がないからと断ったけど、公演日直前にまた何か言ってきそう。しつこい人は苦手だ。
今日も河童を眺める。
×月×日
帰国して、そろそろひと月近くが経つ。ヨーロッパで過ごしたのと、ちょうど同じくらいの時間。けれど、過ごした時間の長さは同じでも、その質は大きく異なっている。稀薄。本当は重苦しくって仕方がないのに、そんなことなどなんでもないかの如くさらさらと毎日が過ぎ去っていく。あまりにも薄っぺらい。私のように。
今日学校で平原を見かけた。韓国の兵士みたいな服装をしている。気持ちが悪い。あのこけしみたいな首がギロチンで切り落とされるところを想像して、ますます気持ちが悪くなった。早く消えてしまえ。
研究室で古屋さんに演劇の公演(劇団あぶらむし)を誘われたが、なんとか断る。知らない劇団のお芝居なんかに二千五百円も払いたくない。帰ってえみちゃんに話をしたら、その劇団は外れやでと即答した。やっぱり断ってよかった。古屋さんの元彼が演出しているそう。腐れ縁。腐った縁。
夕飯後、ベルンハルトにメールを送る。ディーツェンバウムの『Dの死』(フランス語版)のテキストを送ってもらったことへのお礼。ベルリンのHAUで観た『Dの死』は、とても面白かった。
*
×月×日
岩谷大三さんが亡くなられた。梅之助じいちゃん。梅じい。とびうめの春のイベントではお元気そうだったのに。本当に哀しい。岩谷さんやったら『親知らず』(鹿ケ谷浩介監督)やで、とえみちゃんからDVDを貸してもらう。主人公を追い詰める刑事役。映画自体は今一つやけど、岩谷さんがむっちゃええねん、というえみちゃんの言葉通りだった。岩谷さんの目!
夕方、佳穂姉と北山のアンゲリカでお茶をした。佳穂姉とは半年ぶり。さつまいものソフトクッキー、習ってきたわ、と焼き上がったばかりのクッキーをもらう(帰宅後、みんなで食べる。とても美味しかった)。お土産のオーデコロンを渡したら、ゆっこちゃんの気ぃつかい、と頭を撫でられた。佳穂姉の指は細くて長い。
息抜き代わりにでもなればと、『Dの死』を少し訳してみたが、全然息抜きにはならなかった。何事も難しい。
*
×月×日
日野君に誘われて、岡崎の国立近代美術館まで小川芋銭展を観に行く。いたずら描きのような滑稽で、でもどこかかなしさをためた作品が並ぶ。とても気に入ったので、河童の絵葉書を買った。
ぽつりぽつりときたので、六盛でスフレを食べた。美味しい。日野君はぽつりぽつりとしゃべる。研究のこととか、地元の倉敷のこととか。小川芋銭の絵みたい。
日野君とは、図書館の前で別れた。
家に帰って、ずっと河童を眺めている。
*
×月×日
古屋さんにまた劇団あぶらむしを誘われる。ベルリンやロンドンでお芝居を観て来たことを話したから、演劇好きと思われてしまったのか。しつこい人は苦手だ。チラシを渡されたが、黄色地に赤で、俺の心の襞を見ろって題名だけが書かれている。裏には、大勢出ます!愉しいよ!面白いよ!泣けるよ!損はしないよ! という!の連打。悪趣味。大勢出るのは本当だろうけど、愉しくないだろうし面白くないだろうし泣けないだろうし、損した気分になると思う。
余裕がないからと断ったけど、公演日直前にまた何か言ってきそう。しつこい人は苦手だ。
今日も河童を眺める。
2019年05月12日
ほそゆきのパイロット版20
☆ほそゆきのパイロット版20
「これ読むのに、いくらもろたん」
詠美が用紙の束を右手の人差し指で軽くつつく。
「二千円」
「やっす」
「お金ないっていうから、まあ、しょうがないと」
「何がしょうがないん。お金ないなら、こんな映画撮れるわけないやろ。どうやって電車の脱線するとことか撮んねん」
「あっ、それは大丈夫。なんだっけ、えっと、松なんとか事件とか、昔の鉄道事故の写真使えばいいからって、ネットにあるのを」
「こいつが言うたん、こいつが」
詠美が用紙の束を連打する。
「そう」
「あほとちゃうか」
「ごめん」
「あんたちゃう、綾波平次や」
「綾波悟郎、平原平次」
「わかってるわ」
詠美はアイスカフェオレのグラスに残った氷を頬張ると、がりがりと噛み砕いた。
「相手が学生やと思って、なめてんとちゃうん」
「そういう感じじゃないけどね」
「やったら、なおのことあかんわ」
「まあ、そう言われてもしょうがないかな」
佐田がお冷を口に含んだ。
「言われて当然や。ほんま、しょうもない」
と、詠美が口にしたとき、からんころんとカフェのガラス戸が開く音がした。
「ああ、佐田君、やっと見つけたあ」
佐田と詠美が声のほうに顔を向けると、そこにはアーミージャケットを着込んだこけしのような頭の形をした男が立っていた。
「高原の学舎に行ったら、ちょうど通りかかった宇野君がどっか出かけたって教えてくれて」
宇野も町家の夜通し映画祭の常連だ。
「ほんと、あちこち探したで。これで十八軒目。はじめ、高原の近くのお店をあたったんやけど、どこにもおらへんやろ。しゃあないから百万遍のサイゼにマクド、京大のルネカフェまで足伸ばしたで。まさか高野のほうに隠れてるとは思わんかったわ。まあ、僕も約束せずに来たのは悪いんやけど、佐田君も一言どこに行くかぐらい友達には断っておいたほうがええんやないかな、そういうとこ社会に出たとき大きく問われると思うから。あっ、これ説教やないよ、人生の先輩からの助言やと思うてな」
男はねちゃねちゃとした声で話し続ける。
「なあ、誰なん」
詠美が小声で尋ねると、佐田は無言でシナリオの表紙を軽くつついた。
「まじかあ」
思わず詠美は声を上げた。
「これ読むのに、いくらもろたん」
詠美が用紙の束を右手の人差し指で軽くつつく。
「二千円」
「やっす」
「お金ないっていうから、まあ、しょうがないと」
「何がしょうがないん。お金ないなら、こんな映画撮れるわけないやろ。どうやって電車の脱線するとことか撮んねん」
「あっ、それは大丈夫。なんだっけ、えっと、松なんとか事件とか、昔の鉄道事故の写真使えばいいからって、ネットにあるのを」
「こいつが言うたん、こいつが」
詠美が用紙の束を連打する。
「そう」
「あほとちゃうか」
「ごめん」
「あんたちゃう、綾波平次や」
「綾波悟郎、平原平次」
「わかってるわ」
詠美はアイスカフェオレのグラスに残った氷を頬張ると、がりがりと噛み砕いた。
「相手が学生やと思って、なめてんとちゃうん」
「そういう感じじゃないけどね」
「やったら、なおのことあかんわ」
「まあ、そう言われてもしょうがないかな」
佐田がお冷を口に含んだ。
「言われて当然や。ほんま、しょうもない」
と、詠美が口にしたとき、からんころんとカフェのガラス戸が開く音がした。
「ああ、佐田君、やっと見つけたあ」
佐田と詠美が声のほうに顔を向けると、そこにはアーミージャケットを着込んだこけしのような頭の形をした男が立っていた。
「高原の学舎に行ったら、ちょうど通りかかった宇野君がどっか出かけたって教えてくれて」
宇野も町家の夜通し映画祭の常連だ。
「ほんと、あちこち探したで。これで十八軒目。はじめ、高原の近くのお店をあたったんやけど、どこにもおらへんやろ。しゃあないから百万遍のサイゼにマクド、京大のルネカフェまで足伸ばしたで。まさか高野のほうに隠れてるとは思わんかったわ。まあ、僕も約束せずに来たのは悪いんやけど、佐田君も一言どこに行くかぐらい友達には断っておいたほうがええんやないかな、そういうとこ社会に出たとき大きく問われると思うから。あっ、これ説教やないよ、人生の先輩からの助言やと思うてな」
男はねちゃねちゃとした声で話し続ける。
「なあ、誰なん」
詠美が小声で尋ねると、佐田は無言でシナリオの表紙を軽くつついた。
「まじかあ」
思わず詠美は声を上げた。
2019年05月11日
ほそゆきのパイロット版19
☆ほそゆきのパイロット版19
「あかん、こんなん読んでられへん」
詠美が用紙の束を放り投げた。どんという音がして、テーブルが軽く揺れる。
「やっぱりそっか」
佐田が頷く。
「なんやのんこれ」
「だよね」
「だよねやないわ。どないせいっちゅうの、こんなん」
「俺らで映画にして」
「こんなんできるわけないやろ」
佐田の言葉を遮って、詠美は言った。
「シナリオ書いた人間がどんな考え方してようが、それはまあしゃあないよ。私は大っ嫌いやけど、そんなん本人の勝手やし。やけど、これはないやろ、これは。映画撮るって、自主やんなあ」
「たぶん、俺らに頼んでくるくらいだから」
「東映とか角川の昔の映画やあるまいし。こんだけのキャスト、どこから集めてくるつもりなん。その他大勢ってなんやの」
「いっぱい出演者がいるってことだよ。全部読めばわかる」
「あんた全部読んだん。ほんま、物好きやなあ」
「一応、仕事だし」
「仕事って」
詠美はアイスカフェオレを飲み干した。
「このモノローグもひどいでえ。声が低くなってるって、ニュースとかワイドショーでよう使ってるやつやろ。いやあ、まさかあんなことになるとは思ってもみませんでしたねえ」
詠美の声真似に反応して、佐田があははあははと大きな笑い声を上げる。
「何笑ってんねん」
「だって、のがちゃんのそれ、だめだ、ツボに」
あははあははと、佐田はしばらく笑い続けた。
「それや」
「えっ」
「観る人の反応、つくりもんの声で、広大な宇宙の燈台、母の夢を、やとか、守よ、早く覚醒せよ、とかだらだら続けてみ、コントやでコント」
「ああ、確かに、ああ、やばい」
詠美が再び声真似をしたものだから、佐田はまたもあははあははと笑い声を上げ始めた。
「笑ってる場合ちゃうで。なあ、この綾波悟郎か平原平次って、どういう人間なん」
「どういうって、まあ、町家の夜通し映画祭で知り合ったんだよね」
「佃さんたちのやってる」
「そう。もともと慎澄社に勤めてたらしいんだけど、今は京大の院目指して実家に帰ってるんだって。向日とか、あっちのほうに住んでるはず」
「映画の経験は」
「ああ、それはない。観るのは好きで、年に三百本は観てるらしいよ。あと、高校で放送部やってたって」
「観るのとやるのとではなあ」
「まあね。なんか、町家に通ってるうちに、創作意欲がむくむく湧いてきたんだって」
「それがこれか。だいたい、京大の院目指してんとちゃうん。ゆっこちゃんだって、毎日熱心に勉強してはんで」
思わず詠美は顔を顰めた。
「あかん、こんなん読んでられへん」
詠美が用紙の束を放り投げた。どんという音がして、テーブルが軽く揺れる。
「やっぱりそっか」
佐田が頷く。
「なんやのんこれ」
「だよね」
「だよねやないわ。どないせいっちゅうの、こんなん」
「俺らで映画にして」
「こんなんできるわけないやろ」
佐田の言葉を遮って、詠美は言った。
「シナリオ書いた人間がどんな考え方してようが、それはまあしゃあないよ。私は大っ嫌いやけど、そんなん本人の勝手やし。やけど、これはないやろ、これは。映画撮るって、自主やんなあ」
「たぶん、俺らに頼んでくるくらいだから」
「東映とか角川の昔の映画やあるまいし。こんだけのキャスト、どこから集めてくるつもりなん。その他大勢ってなんやの」
「いっぱい出演者がいるってことだよ。全部読めばわかる」
「あんた全部読んだん。ほんま、物好きやなあ」
「一応、仕事だし」
「仕事って」
詠美はアイスカフェオレを飲み干した。
「このモノローグもひどいでえ。声が低くなってるって、ニュースとかワイドショーでよう使ってるやつやろ。いやあ、まさかあんなことになるとは思ってもみませんでしたねえ」
詠美の声真似に反応して、佐田があははあははと大きな笑い声を上げる。
「何笑ってんねん」
「だって、のがちゃんのそれ、だめだ、ツボに」
あははあははと、佐田はしばらく笑い続けた。
「それや」
「えっ」
「観る人の反応、つくりもんの声で、広大な宇宙の燈台、母の夢を、やとか、守よ、早く覚醒せよ、とかだらだら続けてみ、コントやでコント」
「ああ、確かに、ああ、やばい」
詠美が再び声真似をしたものだから、佐田はまたもあははあははと笑い声を上げ始めた。
「笑ってる場合ちゃうで。なあ、この綾波悟郎か平原平次って、どういう人間なん」
「どういうって、まあ、町家の夜通し映画祭で知り合ったんだよね」
「佃さんたちのやってる」
「そう。もともと慎澄社に勤めてたらしいんだけど、今は京大の院目指して実家に帰ってるんだって。向日とか、あっちのほうに住んでるはず」
「映画の経験は」
「ああ、それはない。観るのは好きで、年に三百本は観てるらしいよ。あと、高校で放送部やってたって」
「観るのとやるのとではなあ」
「まあね。なんか、町家に通ってるうちに、創作意欲がむくむく湧いてきたんだって」
「それがこれか。だいたい、京大の院目指してんとちゃうん。ゆっこちゃんだって、毎日熱心に勉強してはんで」
思わず詠美は顔を顰めた。
2019年05月09日
ほそゆきのパイロット版18
☆ほそゆきのパイロット版18
映画 星の守りびと
原案/脚本 綾波悟郎(平原平次)
登場人物
星井守 主人公。高校生。
宙美奈代 ヒロイン。守の同級生。
愛野國士 高校生。守の友人。
星井新一 守の伯父。
星井薫子 守の伯母。
愛野國臣 國士の父。宇宙防衛隊長。
大和猛三 日本国総理大臣。
武蔵瑞穂 日本国内閣官房長官。
東郷平次 日本国宇宙防衛大臣。
剛力梅太郎 日本国科学エネルギー大臣。
小松右京 Mプロジェクト代表。
キムチャンゴン ピョンヨン星将軍。
プクチンスキ ロシミン星大総統。
トントンファ チョアン星首席。
曽利玄太 毎朝新聞記者。スパイ。
丸田葛生 日本労農党委員長。スパイ。
尾崎穂積 守のクラスの担任。スパイ。
星井保 守の父。科学者。Mプロジェクト提唱者。
星井海 守の母。
その他大勢
*
宇宙。星々が煌めく。
蒼い星地球。
男の声(ボイスチェンジャーで声が低くなっている)
守よ、お前は今眠りについている。
なんと健やかな寝顔だろう。
よい夢を見ているのか、守。
広大な宇宙(そら)の燈台、母の夢を。
ああ、だが守よ、お前はもう目醒めなければならない。
なぜなら、お前が住む星は、お前が住む国は、今や破壊破滅の危機に晒されているのだから。
この美しい宇宙(そら)には、しかし、お前が思いもつかぬ悪逆非道の者たちが住んでいるのだ。
ピョンヨン星。そしてそのピョンヨン星を裏で操るチョアン星にロシミン星。
この者どもは、私たちの尊い星地球を、私たちの尊い国日本を攻め滅ぼそうとしている。
キムチャンゴン、プクチンスキ、トントンファが手を携えるカット。
男の声
しかも、私たちの尊い地球では、私たちの尊い日本では、彼ら悪党の手先となって恥じぬスパイが日夜破壊工作を進めてもいる。
深夜、黒づくめの男たちが、鉄道の線路のボルトを抜いているカット。
続いて、電車が脱線するカット。
水道局員の格好をした男が、水道に怪しげな薬品を投げ込むカット。
続いて、人々が水を飲んでもだえ苦しむカット。
男の声
おお、なんと恐ろしいことだ。
おお、なんと嘆かわしいことだ。
守よ、もはや眠っているときではない。
守よ、早く目醒めよ。
守よ、早く覚醒せよ。
守よ、早く立ち上がれ。
この危機から、私たちの尊い地球を、私たちの尊い日本を救わねばならぬ。
それができるのは、守よ、お前だけなのだ。
お前の身体に秘められた崇高なる、神秘なる、強大なるエネルギーこそが、全てに打ち勝つのだ。
打ちてし止まん。
守、守、守、お前こそ星の守りびと。
太陽の光に日の丸の旗がオーバーラップする。
タイトル 星の守りびと
映画 星の守りびと
原案/脚本 綾波悟郎(平原平次)
登場人物
星井守 主人公。高校生。
宙美奈代 ヒロイン。守の同級生。
愛野國士 高校生。守の友人。
星井新一 守の伯父。
星井薫子 守の伯母。
愛野國臣 國士の父。宇宙防衛隊長。
大和猛三 日本国総理大臣。
武蔵瑞穂 日本国内閣官房長官。
東郷平次 日本国宇宙防衛大臣。
剛力梅太郎 日本国科学エネルギー大臣。
小松右京 Mプロジェクト代表。
キムチャンゴン ピョンヨン星将軍。
プクチンスキ ロシミン星大総統。
トントンファ チョアン星首席。
曽利玄太 毎朝新聞記者。スパイ。
丸田葛生 日本労農党委員長。スパイ。
尾崎穂積 守のクラスの担任。スパイ。
星井保 守の父。科学者。Mプロジェクト提唱者。
星井海 守の母。
その他大勢
*
宇宙。星々が煌めく。
蒼い星地球。
男の声(ボイスチェンジャーで声が低くなっている)
守よ、お前は今眠りについている。
なんと健やかな寝顔だろう。
よい夢を見ているのか、守。
広大な宇宙(そら)の燈台、母の夢を。
ああ、だが守よ、お前はもう目醒めなければならない。
なぜなら、お前が住む星は、お前が住む国は、今や破壊破滅の危機に晒されているのだから。
この美しい宇宙(そら)には、しかし、お前が思いもつかぬ悪逆非道の者たちが住んでいるのだ。
ピョンヨン星。そしてそのピョンヨン星を裏で操るチョアン星にロシミン星。
この者どもは、私たちの尊い星地球を、私たちの尊い国日本を攻め滅ぼそうとしている。
キムチャンゴン、プクチンスキ、トントンファが手を携えるカット。
男の声
しかも、私たちの尊い地球では、私たちの尊い日本では、彼ら悪党の手先となって恥じぬスパイが日夜破壊工作を進めてもいる。
深夜、黒づくめの男たちが、鉄道の線路のボルトを抜いているカット。
続いて、電車が脱線するカット。
水道局員の格好をした男が、水道に怪しげな薬品を投げ込むカット。
続いて、人々が水を飲んでもだえ苦しむカット。
男の声
おお、なんと恐ろしいことだ。
おお、なんと嘆かわしいことだ。
守よ、もはや眠っているときではない。
守よ、早く目醒めよ。
守よ、早く覚醒せよ。
守よ、早く立ち上がれ。
この危機から、私たちの尊い地球を、私たちの尊い日本を救わねばならぬ。
それができるのは、守よ、お前だけなのだ。
お前の身体に秘められた崇高なる、神秘なる、強大なるエネルギーこそが、全てに打ち勝つのだ。
打ちてし止まん。
守、守、守、お前こそ星の守りびと。
太陽の光に日の丸の旗がオーバーラップする。
タイトル 星の守りびと
2019年05月08日
ほそゆきのパイロット版17
☆ほそゆきのパイロット版17
「でさあ、本題なんだけど」
佐田がわざとらしく切り出す。
「シナリオのことやろ」
「そうそう」
と言って、佐田がA4の用紙の束を詠美に突き出す。
「わっちゃあ、もしかしてこれ全部」
「大丈夫大丈夫、一枚二十字×十行だし」
「半ペラか。それでもだいぶん量があるで」
そう言いながら詠美は、しぶしぶ佐田が書いたシナリオに目を走らせ出す。
「半ペラって」
「知らんなら、自分で検索してみいさ」
という詠美の言葉に、佐田はすぐにスマホを取り出す。
「そうだそうだ、二百字詰めの原稿用紙のことだ。前、伊地知先生が教えてくれたんだよね」
ようやく佐田は思い出す。
「しっ、静かに。今読み出すところなんやから」
「ありがとうございます」
と頭を下げて、佐田は右手を突き出す。
そして、ゆっくりと手刀を切った。
「でさあ、本題なんだけど」
佐田がわざとらしく切り出す。
「シナリオのことやろ」
「そうそう」
と言って、佐田がA4の用紙の束を詠美に突き出す。
「わっちゃあ、もしかしてこれ全部」
「大丈夫大丈夫、一枚二十字×十行だし」
「半ペラか。それでもだいぶん量があるで」
そう言いながら詠美は、しぶしぶ佐田が書いたシナリオに目を走らせ出す。
「半ペラって」
「知らんなら、自分で検索してみいさ」
という詠美の言葉に、佐田はすぐにスマホを取り出す。
「そうだそうだ、二百字詰めの原稿用紙のことだ。前、伊地知先生が教えてくれたんだよね」
ようやく佐田は思い出す。
「しっ、静かに。今読み出すところなんやから」
「ありがとうございます」
と頭を下げて、佐田は右手を突き出す。
そして、ゆっくりと手刀を切った。
2019年05月06日
ほそゆきのパイロット版16
☆ほそゆきのパイロット版16
「まるでドラマだなあ」
チーズケーキを切り崩しながら佐田が言う。
「あの人、そういうとこは何やらかすかわからへんねん」
そう言って、詠美はアイスカフェオレを口に運んだ。
「いつもはおしとやかなんだよね」
「おしとやかっていうか、なんていうか」
「どっちにしても、のがちゃんとは正反対」
佐田がチーズケーキの欠片をこぼした。
「あんた、ほんまきったない食べ方するなあ」
「しゃあないやんか」
嘘くさい関西弁で答えて、佐田はあははと笑った。答えはするが、応えてはいない。毎度のことだ。
「帰って来たの」
「一昨日な」
「てことは、ひと月近く」
「そんなもん。なんか院の大事な発表があるんで、しぶしぶ帰って来たんやて」
「へえ」
「ケルンやろ、ウィーンやろ、プラハやろ、ザルツブルクやろ、ミュンヘンやろ、ニュルンベルクやろ、ドレスデンやろ、ライプツィヒやろ、ベルリンやろ、ハンブルクやろ、アーヘンやろ、ブリュッセルやろ、ブリュージュやろ、カレーやろ、ロンドンやろ、バーミンガムやろ、パリやろ、リヨンやろ、あっ、あとアムステルダムにユトレヒトもや」
詠美が指を折りながら、雪子の旅路を辿る。
「よく覚えてんなあ」
「記憶力なら任せて。台詞覚えも完璧や」
「ほんまかいな」
「ほんまや」
「にしても、お金あるんだね」
佐田がチーズケーキの残りを一気に頬張った。
「ゆっこちゃんは吝嗇家やからな」
「りんしょく」
「しぶちんのこと」
「しぶちん、ちんちん」
「だほ、いねぼけかす」
詠美はストローの紙の包みを丸めて、佐田に投げ付けた。
「ごめんごめん、でもしぶちんって」
「ほんまに知らんの」
「知らん、知りません」
「ようそれで映画監督なんか志望できるなあ、佐田啓一君は」
「まあ、そこはそれ、インスピレーションで補うということで」
黙ったままの詠美に、佐田は首をすくめてみせた。
「けちってこと」
「ああ、けち」
「やけど、ここぞというときはぱっと身銭を切らはんねん、ゆっこちゃんって人は」
詠美が自慢げにそう言った。
「まるでドラマだなあ」
チーズケーキを切り崩しながら佐田が言う。
「あの人、そういうとこは何やらかすかわからへんねん」
そう言って、詠美はアイスカフェオレを口に運んだ。
「いつもはおしとやかなんだよね」
「おしとやかっていうか、なんていうか」
「どっちにしても、のがちゃんとは正反対」
佐田がチーズケーキの欠片をこぼした。
「あんた、ほんまきったない食べ方するなあ」
「しゃあないやんか」
嘘くさい関西弁で答えて、佐田はあははと笑った。答えはするが、応えてはいない。毎度のことだ。
「帰って来たの」
「一昨日な」
「てことは、ひと月近く」
「そんなもん。なんか院の大事な発表があるんで、しぶしぶ帰って来たんやて」
「へえ」
「ケルンやろ、ウィーンやろ、プラハやろ、ザルツブルクやろ、ミュンヘンやろ、ニュルンベルクやろ、ドレスデンやろ、ライプツィヒやろ、ベルリンやろ、ハンブルクやろ、アーヘンやろ、ブリュッセルやろ、ブリュージュやろ、カレーやろ、ロンドンやろ、バーミンガムやろ、パリやろ、リヨンやろ、あっ、あとアムステルダムにユトレヒトもや」
詠美が指を折りながら、雪子の旅路を辿る。
「よく覚えてんなあ」
「記憶力なら任せて。台詞覚えも完璧や」
「ほんまかいな」
「ほんまや」
「にしても、お金あるんだね」
佐田がチーズケーキの残りを一気に頬張った。
「ゆっこちゃんは吝嗇家やからな」
「りんしょく」
「しぶちんのこと」
「しぶちん、ちんちん」
「だほ、いねぼけかす」
詠美はストローの紙の包みを丸めて、佐田に投げ付けた。
「ごめんごめん、でもしぶちんって」
「ほんまに知らんの」
「知らん、知りません」
「ようそれで映画監督なんか志望できるなあ、佐田啓一君は」
「まあ、そこはそれ、インスピレーションで補うということで」
黙ったままの詠美に、佐田は首をすくめてみせた。
「けちってこと」
「ああ、けち」
「やけど、ここぞというときはぱっと身銭を切らはんねん、ゆっこちゃんって人は」
詠美が自慢げにそう言った。
2019年05月05日
ほそゆきのパイロット版15
☆ほそゆきのパイロット版15
そこまで書いたところで、スマホが鳴った。
「ゆっこちゃん、どないしたの」
「さおねえ、ごめんなさい。今、大丈夫」
「大丈夫よ、家に帰ってゆっくりしてたとこ」
「よかった」
雪子が安堵の息を漏らす。
「まだ起きてたの」
ドイツとの時差は七時間だから、日本はもう真夜中の三時過ぎだ。
「う、うん」
という雪子の声に、微かな人のざわめきが重なった。
「今外なん」
「駅にいる」
終バスでも逃してしまったのだろうか。それにしても遅過ぎると、沙織は雪子のことが心配になった。
「大丈夫」
「大丈夫」
また微かなざわめきが聞こえた。
「誰かと一緒なん」
「ううん、違う。一人」
雪子の声がしっかりしているので、沙織は少しほっとする。
「なあ、どないしたん。なんかあったの」
「なんかあったっていうか」
そこで、雪子は一瞬言い淀むと、
「ねえ、さおねえのところに行っていい」
と続けた。
「ドイツに、ゆっこちゃんが来たいんやったら来てもええけど、いつ」
「今から」
「今から、それじゃあ、もしかして関空行きのバス待ってんの」
だから、雪子はこんな遅い時間に京都駅にいるのか。
「ううん、違う」
「違うって、駅なんやろ」
「そう」
「駅って、まさか、えっ、ほんまに」
「ほんま、今ケルンの駅に着いたとこ」
「ゆっこちゃん、あんたは」
それだけ言って、沙織は絶句した。
そこまで書いたところで、スマホが鳴った。
「ゆっこちゃん、どないしたの」
「さおねえ、ごめんなさい。今、大丈夫」
「大丈夫よ、家に帰ってゆっくりしてたとこ」
「よかった」
雪子が安堵の息を漏らす。
「まだ起きてたの」
ドイツとの時差は七時間だから、日本はもう真夜中の三時過ぎだ。
「う、うん」
という雪子の声に、微かな人のざわめきが重なった。
「今外なん」
「駅にいる」
終バスでも逃してしまったのだろうか。それにしても遅過ぎると、沙織は雪子のことが心配になった。
「大丈夫」
「大丈夫」
また微かなざわめきが聞こえた。
「誰かと一緒なん」
「ううん、違う。一人」
雪子の声がしっかりしているので、沙織は少しほっとする。
「なあ、どないしたん。なんかあったの」
「なんかあったっていうか」
そこで、雪子は一瞬言い淀むと、
「ねえ、さおねえのところに行っていい」
と続けた。
「ドイツに、ゆっこちゃんが来たいんやったら来てもええけど、いつ」
「今から」
「今から、それじゃあ、もしかして関空行きのバス待ってんの」
だから、雪子はこんな遅い時間に京都駅にいるのか。
「ううん、違う」
「違うって、駅なんやろ」
「そう」
「駅って、まさか、えっ、ほんまに」
「ほんま、今ケルンの駅に着いたとこ」
「ゆっこちゃん、あんたは」
それだけ言って、沙織は絶句した。
2019年05月04日
ほそゆきのパイロット版14
☆ほそゆきのパイロット版14
帰宅した沙織は、ライ麦パンと作り置きのグラーシュ、野菜サラダで手早く夕食をすませると、フォルテピアノのオルガ・トヴェルスカヤが弾いたメンデルスゾーンの無言歌集を聴きながら、手紙を書き始めた。
拝啓
都築正臣様
秋も徐々に深まり、肌寒さを覚える今日この頃ですが、如何お過ごしでしょうか。ここケルンでも木々がめっきり色付いてきて、まるで冬の足音が聞こえるようです。
先日は丁寧なお手紙をいただき、誠にありがとうございます。ゼミOB会のお写真、とても懐かしかったですよ。永富先生がお元気そうで何よりでした。都築君はじめ、近藤、目加田、稲葉、網代の諸兄姉、皆々これぞ大人といった感じで、私など未だに学生気分をどこかで引きずっているような。そうそう、目加田君からは来月ベルリンを訪問する旨のメッセージがありました。残念ながら、ベルリンとケルンでは相当距離があるので、急な出張でもないかぎり、まあ、たぶんないですね。
それと、新しい集まりのお誘いもありがとうございます。官、政、財にメディアを横断する同世代の会とのことで、コンペティションの書記長時代の都築君をすぐに思い出しました。もし都築君の狙い通り会が結成されれば、たぶん十中八九そうなると思いますが、さぞ熱の入った議論が続出することでしょうね。
都築君の手腕は重々承知していますし、今は基金に出向しているとはいえ、私も本来は外務省の職員ですし、現在の諸状況を「憂いて」いることに違いはありません。ですから、会の趣旨、都築君の真情には首肯する部分も少なくありません。
ただ、国榮会という会の名称や、国を愛し国を憂うといったスローガンを前面に押し出すこと、会の同質性を貴ぶという姿勢には、やはり大きな違和感を覚えてしまうことも事実です。
コンペティション時代を振り返れば、確かに毎回異論反論続出で、徹夜もざら。都築君ならずとも、お前らええかげんにせいよと内心いらいらが募ったものでした。お互い、感情が爆発したこともありましたよね。ですが、そうしたうっとうしい議論を重ねたことで、私も、都築君も、他の面々も、徐々に確実に鍛えられていったのではないでしょうか。
いえ、都築君が私にどのような役割を期待しているかも理解はしているのです。理解はしてはいるのですが、各自の思想信条の違いを認めた上で、それぞれの課題に対しコンセンサスを得ていくコンペティションと異なり、当初から会の同質性に重きを置く国榮会では、正直都築君の期待に応える自信を私は持てないのです。
それに、もう一つ付け加えるならば、私は出向が終わっても、もう外務省には
帰宅した沙織は、ライ麦パンと作り置きのグラーシュ、野菜サラダで手早く夕食をすませると、フォルテピアノのオルガ・トヴェルスカヤが弾いたメンデルスゾーンの無言歌集を聴きながら、手紙を書き始めた。
拝啓
都築正臣様
秋も徐々に深まり、肌寒さを覚える今日この頃ですが、如何お過ごしでしょうか。ここケルンでも木々がめっきり色付いてきて、まるで冬の足音が聞こえるようです。
先日は丁寧なお手紙をいただき、誠にありがとうございます。ゼミOB会のお写真、とても懐かしかったですよ。永富先生がお元気そうで何よりでした。都築君はじめ、近藤、目加田、稲葉、網代の諸兄姉、皆々これぞ大人といった感じで、私など未だに学生気分をどこかで引きずっているような。そうそう、目加田君からは来月ベルリンを訪問する旨のメッセージがありました。残念ながら、ベルリンとケルンでは相当距離があるので、急な出張でもないかぎり、まあ、たぶんないですね。
それと、新しい集まりのお誘いもありがとうございます。官、政、財にメディアを横断する同世代の会とのことで、コンペティションの書記長時代の都築君をすぐに思い出しました。もし都築君の狙い通り会が結成されれば、たぶん十中八九そうなると思いますが、さぞ熱の入った議論が続出することでしょうね。
都築君の手腕は重々承知していますし、今は基金に出向しているとはいえ、私も本来は外務省の職員ですし、現在の諸状況を「憂いて」いることに違いはありません。ですから、会の趣旨、都築君の真情には首肯する部分も少なくありません。
ただ、国榮会という会の名称や、国を愛し国を憂うといったスローガンを前面に押し出すこと、会の同質性を貴ぶという姿勢には、やはり大きな違和感を覚えてしまうことも事実です。
コンペティション時代を振り返れば、確かに毎回異論反論続出で、徹夜もざら。都築君ならずとも、お前らええかげんにせいよと内心いらいらが募ったものでした。お互い、感情が爆発したこともありましたよね。ですが、そうしたうっとうしい議論を重ねたことで、私も、都築君も、他の面々も、徐々に確実に鍛えられていったのではないでしょうか。
いえ、都築君が私にどのような役割を期待しているかも理解はしているのです。理解はしてはいるのですが、各自の思想信条の違いを認めた上で、それぞれの課題に対しコンセンサスを得ていくコンペティションと異なり、当初から会の同質性に重きを置く国榮会では、正直都築君の期待に応える自信を私は持てないのです。
それに、もう一つ付け加えるならば、私は出向が終わっても、もう外務省には
2019年05月02日
ほそゆきのパイロット版13
☆ほそゆきのパイロット版13
定時を三十分ほど過ぎたあたりで、沙織は会館を出た。
本当はあと少しだけ処理しておきたい案件があったのだが、無理をするほどでもないかと判断し切り上げることにした。極力残業はしない、させないという佐々部の方針もあるからだ。
「あの人は特別ですよ」
演劇の世界にも詳しい栃尾はそう言って笑う。
佐々部が特別かどうかはわからないけれど、学生劇団にどっぷりはまっていた沙織の男友達やその仲間たちは、確かに時間にルーズだった。むろん、それはあくまでも沙織の知る範囲でのケースにすぎないが。そういえば、俺はプロの役者になるんだと意気込んでいた彼は、今どこで一体どうしているのか。
「野川さん、こんばんは」
振り返ると、長身の青年が立っていた。
「ああ、ベルンハルト。お久しぶり」
ベルンハルトは、ケルン大学で日本学を専門に学んでいる。会館主催の日本語教室に熱心に通っていて、沙織もそこで知り合った。
「お久しぶりです」
「日本には、どれぐらい滞在してたの」
「四ヶ月です」
「日本はどうだった」
ベルンハルトはしばらく考え込んでから、
「一言では言い表せません」
と答えた。
「印象に残ったところは」
「いろいろです。秋葉原、靖国神社、福島、広島、長崎、それから京都。野川さんは京都のご出身ですよね」
「そう、京都の出身よ。下鴨神社の近くに住んでいたの」
「私、下鴨神社も行きました」
「本当に」
「はい、夕方でした。森、森がとても神秘的でした」
「子供の頃、私はあの森がとても怖かったの」
「怖かった。恐怖ですか」
「恐怖もだけど。畏怖」
「イフ」
「畏怖の念。エアフルト」
「ああ」
ベルンハルトが大きく頷いた。
「そうだ、野川さん。京都で撮影した映像があります」
リュックの中からビデオカメラを取り出して、ベルンハルトが言った。
「今から友人の家で、私が撮影した京都の映像を観る予定なんです」
ビデオカメラには、金閣寺や銀閣寺、清水寺や平安神宮、下鴨神社や二条城といったおなじみの名所旧跡に加え、京都大学の熊野寮や吉田寮、百万遍の立て看板、さらには東九条やウトロ地区まで収められていた。
「あと、ここはなんと言いますか」
ビデオカメラの画面に、寺町通りが映っている。
「ここは寺町通り」
「おお、テラ。お寺、テンプル」
急に映像は、ハンプティダンプティか京都のご当地キャラクターのまゆまろの頭に三つ編みのウイッグをちょこんとのっけたような身体つきをした女性が両手を大きく振り回している姿に切り替わった。
「これは何」
「アニメショップの前で、この女性が大きな声で叫んでました。日本のクレーマーだと思い、私、撮影しました」
「クレーマー、確かにクレーマー。あっ」
急に、沙織が驚きの声を上げた。
「どうしました、野川さん」
「この二人、私の妹」
沙織が指し示した先に、雪子と詠美がいた。
「ヴンダバールヴンダヴェルト」
と、ベルンハルトが感嘆の声を漏らした。
定時を三十分ほど過ぎたあたりで、沙織は会館を出た。
本当はあと少しだけ処理しておきたい案件があったのだが、無理をするほどでもないかと判断し切り上げることにした。極力残業はしない、させないという佐々部の方針もあるからだ。
「あの人は特別ですよ」
演劇の世界にも詳しい栃尾はそう言って笑う。
佐々部が特別かどうかはわからないけれど、学生劇団にどっぷりはまっていた沙織の男友達やその仲間たちは、確かに時間にルーズだった。むろん、それはあくまでも沙織の知る範囲でのケースにすぎないが。そういえば、俺はプロの役者になるんだと意気込んでいた彼は、今どこで一体どうしているのか。
「野川さん、こんばんは」
振り返ると、長身の青年が立っていた。
「ああ、ベルンハルト。お久しぶり」
ベルンハルトは、ケルン大学で日本学を専門に学んでいる。会館主催の日本語教室に熱心に通っていて、沙織もそこで知り合った。
「お久しぶりです」
「日本には、どれぐらい滞在してたの」
「四ヶ月です」
「日本はどうだった」
ベルンハルトはしばらく考え込んでから、
「一言では言い表せません」
と答えた。
「印象に残ったところは」
「いろいろです。秋葉原、靖国神社、福島、広島、長崎、それから京都。野川さんは京都のご出身ですよね」
「そう、京都の出身よ。下鴨神社の近くに住んでいたの」
「私、下鴨神社も行きました」
「本当に」
「はい、夕方でした。森、森がとても神秘的でした」
「子供の頃、私はあの森がとても怖かったの」
「怖かった。恐怖ですか」
「恐怖もだけど。畏怖」
「イフ」
「畏怖の念。エアフルト」
「ああ」
ベルンハルトが大きく頷いた。
「そうだ、野川さん。京都で撮影した映像があります」
リュックの中からビデオカメラを取り出して、ベルンハルトが言った。
「今から友人の家で、私が撮影した京都の映像を観る予定なんです」
ビデオカメラには、金閣寺や銀閣寺、清水寺や平安神宮、下鴨神社や二条城といったおなじみの名所旧跡に加え、京都大学の熊野寮や吉田寮、百万遍の立て看板、さらには東九条やウトロ地区まで収められていた。
「あと、ここはなんと言いますか」
ビデオカメラの画面に、寺町通りが映っている。
「ここは寺町通り」
「おお、テラ。お寺、テンプル」
急に映像は、ハンプティダンプティか京都のご当地キャラクターのまゆまろの頭に三つ編みのウイッグをちょこんとのっけたような身体つきをした女性が両手を大きく振り回している姿に切り替わった。
「これは何」
「アニメショップの前で、この女性が大きな声で叫んでました。日本のクレーマーだと思い、私、撮影しました」
「クレーマー、確かにクレーマー。あっ」
急に、沙織が驚きの声を上げた。
「どうしました、野川さん」
「この二人、私の妹」
沙織が指し示した先に、雪子と詠美がいた。
「ヴンダバールヴンダヴェルト」
と、ベルンハルトが感嘆の声を漏らした。
2019年04月29日
ほそゆきのパイロット版12
☆ほそゆきのパイロット版12
「失礼します」
「どうぞ」
館長室から、佐々部のよく響くバリトンの声がした。
「デュッセルドルフ、お疲れ様でした」
と言って、佐々部は沙織を来客用のソファに促した。かつては自らも舞台に立っていたというだけあって、佐々部は身のこなしが実に美しい。
「それで、例の件なんですが」
対面のソファに腰を下ろした佐々部が切り出した。
「書類上の不備さえなければ、大丈夫かと。念のため、沓脱さんにも確認のほうをお願いしておきました」
「そうですか、それは助かりました。本当にありがとうございます」
佐々部が深々と頭を下げた。
「そんな、私はただ当たり前のことをしているまでですから」
「いいえ、その当たり前のことができない人が多いんです。多過ぎるんですよ。いや、これは失礼しました」
佐々部はそこで言葉を断ち切った。
「でも、どうして館長は」
一瞬怪訝そうな表情をして、ああと頷くと、
「彼彼女らに才能があると思ったからです。むろん、ああいうことを書かれちゃ、正直私だって何をこの野郎ってかちっときますよ。佐々部正太は前世紀の遺物だ、もはや才能は枯渇して過去の栄光に縋り付くしかない哀れな存在だ、かつての反権力者はどこに消えた、なんて。それがたとえレトリックだとしてもね、もっと表現の仕方があるだろうがお前たちはって。だけど、それは一面の真理でもあるわけです。少なくとも、彼彼女らにそう思わせてしまっているのが私であることも事実なんですよ。それに、私だって若い頃は彼彼女らと同じような、いやもっと激しい、もっとひどい言葉を先輩たちに投げ付けてきたんです。気負い、青臭い。それでも、そんな私を受け止めてくれた人たち、真正面からぶつかってくれた人たちがいたんです。そのおかげで、まかりなりにも私は表現活動を続けてこられたんですよ。今度は、私が彼彼女らにそれを返す番だと思いましてね。もう一ついえば、真っ当な表現活動を行っていくことがこれからますます難しくなっていくはずなんです、日本という国では。だからね、ほんの少しでも、雨宿りのできる場所をつくっておきたいというのが私の願いなんですよ。まあ、私も表現者という自己顕示欲の強い人種の一人ですから、人によく思われたいという気持ちがないといえば嘘になりますね。それと、私だってまだまだ現役のつもりです。彼彼女らに迎合する気なんてさらさらないけれど、彼彼女らから貪欲に吸収してやろうって気は満々なんですよ。いや、これは私のつまらない話に時間をとらせてしてしまって、本当に失礼しました」
と佐々部は続け、再び深々と頭を下げた。
「珍しいですね、佐々部さんが長話をするなんて」
執務室に戻った沙織に栃尾が不思議そうに尋ねたが、沙織は、いえ、まあ、と言葉少なに応えただけだった。
「失礼します」
「どうぞ」
館長室から、佐々部のよく響くバリトンの声がした。
「デュッセルドルフ、お疲れ様でした」
と言って、佐々部は沙織を来客用のソファに促した。かつては自らも舞台に立っていたというだけあって、佐々部は身のこなしが実に美しい。
「それで、例の件なんですが」
対面のソファに腰を下ろした佐々部が切り出した。
「書類上の不備さえなければ、大丈夫かと。念のため、沓脱さんにも確認のほうをお願いしておきました」
「そうですか、それは助かりました。本当にありがとうございます」
佐々部が深々と頭を下げた。
「そんな、私はただ当たり前のことをしているまでですから」
「いいえ、その当たり前のことができない人が多いんです。多過ぎるんですよ。いや、これは失礼しました」
佐々部はそこで言葉を断ち切った。
「でも、どうして館長は」
一瞬怪訝そうな表情をして、ああと頷くと、
「彼彼女らに才能があると思ったからです。むろん、ああいうことを書かれちゃ、正直私だって何をこの野郎ってかちっときますよ。佐々部正太は前世紀の遺物だ、もはや才能は枯渇して過去の栄光に縋り付くしかない哀れな存在だ、かつての反権力者はどこに消えた、なんて。それがたとえレトリックだとしてもね、もっと表現の仕方があるだろうがお前たちはって。だけど、それは一面の真理でもあるわけです。少なくとも、彼彼女らにそう思わせてしまっているのが私であることも事実なんですよ。それに、私だって若い頃は彼彼女らと同じような、いやもっと激しい、もっとひどい言葉を先輩たちに投げ付けてきたんです。気負い、青臭い。それでも、そんな私を受け止めてくれた人たち、真正面からぶつかってくれた人たちがいたんです。そのおかげで、まかりなりにも私は表現活動を続けてこられたんですよ。今度は、私が彼彼女らにそれを返す番だと思いましてね。もう一ついえば、真っ当な表現活動を行っていくことがこれからますます難しくなっていくはずなんです、日本という国では。だからね、ほんの少しでも、雨宿りのできる場所をつくっておきたいというのが私の願いなんですよ。まあ、私も表現者という自己顕示欲の強い人種の一人ですから、人によく思われたいという気持ちがないといえば嘘になりますね。それと、私だってまだまだ現役のつもりです。彼彼女らに迎合する気なんてさらさらないけれど、彼彼女らから貪欲に吸収してやろうって気は満々なんですよ。いや、これは私のつまらない話に時間をとらせてしてしまって、本当に失礼しました」
と佐々部は続け、再び深々と頭を下げた。
「珍しいですね、佐々部さんが長話をするなんて」
執務室に戻った沙織に栃尾が不思議そうに尋ねたが、沙織は、いえ、まあ、と言葉少なに応えただけだった。
2019年04月26日
ほそゆきのパイロット版11
☆ほそゆきのパイロット版11
Uバーンを降りて会館に向かう沙織の横を、牧野の車がゆっくりと通り過ぎた。助手席には同じ館員のパウルが乗っている。博物館の搬入を確認してきたのだろう。ちょうど玄関のところで牧野とかち合った。
「お疲れ様です」
「おそようさまです」
いつもの如く慇懃無礼、ならぬ慇懃有礼とでも呼びたくなるような牧野の物腰だ。本省の面々とは、やはりどこか色合いが違う。
「展示ですか」
「そうそう、一応こっちの人間がチェックしておかないと」
牧野はそう言うとドアを開け、沙織を促した。
「ありがとうございます」
と言って、沙織は中に入った。
「グーテンターク」
窓口に詰めるマリアが沙織に声をかける。
「グーテンターク」
軽く右手を上げた沙織に、マリアは微笑んだ。マリアは今年で二十五歳、ケルン大学の大学院で行政学を学んでいる。
「グーテンターク」
「グーテンターク」
「こにちは」
「こんにちは」
沙織は館員たちと挨拶を交わして、二階の執務室に向かった。ガラスの仕切りを挟んで約六畳ずつと、一階の事務室に比べると少し手狭だが、沙織にはこのぐらいの広さがちょうどいい。
「こんにちは」
「こんにちは」
奥のスペースでノートパソコンに向かっていた栃尾が顔を上げた。
「デュッセル、どうでした」
「相変わらずですね」
沙織の言葉に、栃尾が苦笑する。
「佐橋君がよろしくって」
「彼、元気にしてます」
「ええ」
「なら、よかった」
佐橋は栃尾のゼミ出身で、この春デュッセルドルフの総領事館に配属になった。
「そうそう、ケルンの駅で金井さんに会いました」
「彼女、戻って来てたんですね」
「そうみたいです」
「今度は落ち着くのかな」
「ううん、どうでしょう」
栃尾に応じながらノートパソコンを開きかけたところに、内線電話が入った。
「はい、野川です」
「ああ、私です。今、ちょっと大丈夫」
「はい、すぐに伺います」
沙織はノートパソコンをそのままにして立ち上がった。
Uバーンを降りて会館に向かう沙織の横を、牧野の車がゆっくりと通り過ぎた。助手席には同じ館員のパウルが乗っている。博物館の搬入を確認してきたのだろう。ちょうど玄関のところで牧野とかち合った。
「お疲れ様です」
「おそようさまです」
いつもの如く慇懃無礼、ならぬ慇懃有礼とでも呼びたくなるような牧野の物腰だ。本省の面々とは、やはりどこか色合いが違う。
「展示ですか」
「そうそう、一応こっちの人間がチェックしておかないと」
牧野はそう言うとドアを開け、沙織を促した。
「ありがとうございます」
と言って、沙織は中に入った。
「グーテンターク」
窓口に詰めるマリアが沙織に声をかける。
「グーテンターク」
軽く右手を上げた沙織に、マリアは微笑んだ。マリアは今年で二十五歳、ケルン大学の大学院で行政学を学んでいる。
「グーテンターク」
「グーテンターク」
「こにちは」
「こんにちは」
沙織は館員たちと挨拶を交わして、二階の執務室に向かった。ガラスの仕切りを挟んで約六畳ずつと、一階の事務室に比べると少し手狭だが、沙織にはこのぐらいの広さがちょうどいい。
「こんにちは」
「こんにちは」
奥のスペースでノートパソコンに向かっていた栃尾が顔を上げた。
「デュッセル、どうでした」
「相変わらずですね」
沙織の言葉に、栃尾が苦笑する。
「佐橋君がよろしくって」
「彼、元気にしてます」
「ええ」
「なら、よかった」
佐橋は栃尾のゼミ出身で、この春デュッセルドルフの総領事館に配属になった。
「そうそう、ケルンの駅で金井さんに会いました」
「彼女、戻って来てたんですね」
「そうみたいです」
「今度は落ち着くのかな」
「ううん、どうでしょう」
栃尾に応じながらノートパソコンを開きかけたところに、内線電話が入った。
「はい、野川です」
「ああ、私です。今、ちょっと大丈夫」
「はい、すぐに伺います」
沙織はノートパソコンをそのままにして立ち上がった。
2018年12月31日
大つごもり もしくは、一場のコント
☆大つごもり
もしくは、一場のコント
四時半を過ぎたあたりから白いものがちらつき始めた。
「雪か」
窓の外を眺めながら、木佐貫が呟く。
「降ってきましたね」
そう言って、志織がデスクの上にコーヒーの入ったカップをゆっくりと置いた。
「ありがとう」
木佐貫は志織に軽く頭を下げると、コーヒーを口に含んだ。ふうと大きなため息が出る。
「来ませんね、石野さん」
「いつものことだよ」
木佐貫が苦笑いする。
「でも、今日は」
「あいつらしいじゃないか」
「そうですけど」
「いいよ、先に上がってもらって」
「そんな」
と、志織が言いかけたところで、ドアの開く音がした。
「噂をすればだね」
志織が黙って頷く。
「丼、いただきに参りました」
「なんだ、善ちゃんか」
つい立の陰から現れたのは、長寿庵の長男坊渋谷善吉だった。
「なんだじゃないですよ、先生」
と言いながらも、善吉はいつもの如く嬉々としている。
「善さん、忙しいんじゃないの」
「忙しいっちゃ忙しいんだけど、忙中閑ありってやつさ」
志織の言葉に、善吉がすかさず応える。
「はい、ごちそうさま」
水切りを済ませて布巾で拭いた丼を二つ、志織が善吉に手渡した。
「毎度ありがとうござい」
ますまで言わず出て行こうとした善吉が、そうだ志織ちゃん、と声をかけた。
「うん、どうしたの」
「志織ちゃん、今夜はどうしてる」
「寝正月」
「なんだよ、若い娘が」
「悪かったわね」
「ごめんごめん、寝る子は育つっていうからね」
「何言ってんの」
「あのさ、みんなで初詣に行くんだけど、志織ちゃんもどうだい」
「みんなって」
「葛西や田所、駒ちゃんに和美、溝川さん、あっあと久太郎」
「ふうん、なら行ってもいいかな」
「だったら、年が明けたらうちの前に集合ってことで」
「OK」
「それじゃあ、また今夜。先生も、よいお年を」
善吉は駆け足で出て行った。
「善ちゃんはその名の通り善人だからな」
「いい人過ぎますよ」
「いい人は嫌いかい」
「好きでも嫌いでも」
「そうか」
という木佐貫の言葉にあわせたかのように、電話機が鳴った。
「はい、木佐貫探偵事務所です。はい、木佐貫ですね、少々お待ちください」
通話口を右手で押さえた志織が、男性の方ですと木佐貫に告げた。
「はい、お電話変わりました、木佐貫保です。はい、なるほど、そうですか。どちらで。ああ、石野の。はい、はい、お名前は、峰松、はい、警察には、なるほどそういうことですか、それではお待ちしています。そちらの番号は、はい、はい、はい、×××の××××ですね」
受話器を置くと、木佐貫はデスクの上のメモ用紙に書き留めた会話の要点を改めて確認した。
「どうしたんですか」
「娘さんが家出したらしいんだ」
「家出」
「部屋に書き置きがあったって」
「今日ですか」
「うん。朝のうちは家にいたそうなんだけどね」
「娘さん、お幾つです」
「十八歳」
「多感な年ごろですね」
「家出したいなんて思ったことあるかい」
「そりゃありますよ、私にも」
志織は呟くように言うと、窓の外に視線を移した。
「雪、降ってますね」
「本当だ」
すると、ゆっくりとドアの開く音がする。
「石野かな」
だが、つい立の陰から現れたのは、見知らぬ若い女性だった。志織より少し若いか、同じくらいだろう。
「あのお、探偵さんに用事があって来たんですけどお」
女性の言葉には強い訛りがあった。
「私が探偵の木佐貫保ですが」
「ああ、あなたがあ探偵の木佐貫さんですかあ」
「そうですよ」
「よかったあ、これを届けてくれってえ頼まれたんでえ」
女性は、肩にかけた萌黄色のバッグの中から分厚い封筒を取り出した。
「誰からですか」
「それが私にもわかんないんですよお。今さっき近くを歩いてたらあ、じゃがいもみたいな男の人があ、このビルの二階に探偵事務所があるからあ、そこの探偵さんにこれ渡してくれってえ」
「もしかして、こんな顔の男」
木佐貫は、左右の目を左右の人差し指でぎゅっと真横に引っ張った。
「そうそう、そんな顔の人ですよお」
女性は大きな笑い声を上げながら頷いた。
「石野だな」
木佐貫が志織に向かって言った。
「そうみたいですね」
「彼は、他に何か言ってなかったかい」
「いいええ、なんにも言ってなかったですよお。ただあ、お礼にこれをあげるよってえ千円札二枚くれましたあ。早めのお年玉だってえ」
今度は財布の中から千円紙幣二枚を取り出した。
「なるほどね」
「それじゃあ、これから私い用があるんでえ」
「ありがとう」
「いいええ」
女性は右手を大きく横に振った。
「そうだ、あなたのお名前は」
「名乗るほどのおもんじゃありませんよお」
ひょこりと頭を下げると、
「よいお年をお」
と言って、女性は出て行った。
「多過ぎるな、これは」
封筒の中には、一万円札が三十枚ほど入っている。
「石野さん、奮発したんじゃないですか」
「あいつが、まさか。いくらなんでもこれは」
と、またもやドアの開く音がする。
「いやあ、失敬」
つい立の陰から現れたのは、シルクハットにフロックコートを身に纏った、モノクルに八の字髭の五十前後の紳士である。紳士は手にした蝙蝠傘を傘立てに入れると、おほんと大きく咳をした。
「これまた失敬」
「どちらさまでしょう」
志織が尋ねる。
「ああ、これは重ね重ねの失敬。わたくし、大日本譴責推進協会総裁の等々力大造と申します」
等々力は胸ポケットから名刺を取り出し、木佐貫に手渡した。
「大日本、譴責、協会、総裁」
「はい、その通りです」
「一体どのようなご用件でしょう」
「馬鹿もんが、ももんが、大久保彦左衛門があ」
等々力は木佐貫を大音声で一喝すると悠然とつい立の陰に去って行った。が、すぐに戻って来ると、傘立ての蝙蝠傘を手にした。
「こいつは失敬」
聞こえるか聞こえないかの小声に続いて頭を下げた等々力は、良いお年をと呟くと、そのままそそくさと部屋を出て行った。
「なんです今の。気違いですか」
「まあ、ある意味気違いだろうね」
木佐貫が等々力の名刺を軽く手で弾いた。
すると、間髪入れずドアの開く音がして、つい立の陰から三十前後の女性が登場した。
女性は、チャーチャラチャラチャーチャララーとラヴェルのボレロの旋律を、時に鼻歌風に唸りながら、時に詠嘆調と歌いながら、時にシュプレッヒシュテンメ風に朗唱しながら、事務所の中を縦横無尽に踊りまくる。唖然とする、木佐貫と志織。
そして、一しきり踊り終えると、女性は、
「お粗末様でした。よいお年を」
と、カーテンコールに応えるダンサーであるかのように深々とお辞儀をすると、軽やかに退場して行った。
「なんです今の、怖い」
「まあ、ある意味彼女も気違いだろうね」
志織を宥めるかのように、木佐貫が言った。
「本当に、先に上がっていいよ」
「嫌ですよ。今出て行くのは」
ぎぎぎーっと大きな音を立ててドアが開く。
志織が、ぎゃあっと叫んだ。
「何、何かあったの」
と言いながら現れたのは、木佐貫の旧友石野だ。
「いやあわりいわりい、なんとか最後で大逆転してさ。いやあ、ほんと焦ったわ」
石野は、よれよれのコートの中から裸でしわくちゃの一万円札を十枚ほど取り出した。
「馬鹿な真似するなよ」
木佐貫の鋭い声に、一瞬目をぱちくりとした石野は、
「そりゃばれるか。名探偵だもんな。ほんと悪かった。時間稼ぎに、近所のちんどん屋の親父に頼んだんだ。あっあと、踊り踊ってたのは、今度の公演に出てくれる女優さん、石井漠の弟子の従兄の知り合いの嫁さんの妹さんなんだ」
と言って頭を下げる。
「えっ、あれってみんな石野さんの知り合いなの。もう、びっくりしたんだから」
「ああ、わりいわりい、勘弁勘弁」
「じゃあ、三十万円も」
志織が重ねて尋ねる。
「えっ、三十万円。何、それ」
「石野、お前、福井弁を真似するのが得意な女の子を知ってるだろ」
「うん、知ってるよ峰ちゃんって言ってさ、今度うちの劇団に入ることになったんだ。ブルジョア、相当ええとこしの娘さんでさ、親父さんは商工会議所の会頭務めてるんだぜ。もともと俺が家庭教師やっててさ、って、どうしてお前そんなこと知ってんの」
「訳はあとだ、早く駅に行け。まだ今なら間に合うはずだから。いいか、もし峰松さんを見つけたら、必ずここまで連れて来るんだぞ」
木佐貫の言葉に圧された石野は、わかった、わかったよと応えると慌てて事務所を飛び出した。
「一体どういうことなんです、全然意味がわからない」
「意味、意味ね、降る雪に意味はありますか」
「えっ、なんですか」
「いや、なんでもない。独り言さ。まあ、二人が帰ってくれば、全てわかるよ」
「そうなんですか」
「意味なんて、全てわかればいいってものでもないけどね」
「はあ」
と答えたものの、志織は今一つ釈然としていない。
「本格的に降ってきたね」
木佐貫が窓の外を見つめながら言う。
「積もりそうですね」
志織も窓の外を見つめる。
「大つごもりらしいな」
「大つごもり」
「大晦日のことだよ。樋口一葉って知らないかな」
「知ってますけど、読んだことは」
「そうか」
「ああーあ、初詣やめとこうかな」
木佐貫は志織の言葉に返事をしない。
ますます雪は強くなってくる。
もしくは、一場のコント
四時半を過ぎたあたりから白いものがちらつき始めた。
「雪か」
窓の外を眺めながら、木佐貫が呟く。
「降ってきましたね」
そう言って、志織がデスクの上にコーヒーの入ったカップをゆっくりと置いた。
「ありがとう」
木佐貫は志織に軽く頭を下げると、コーヒーを口に含んだ。ふうと大きなため息が出る。
「来ませんね、石野さん」
「いつものことだよ」
木佐貫が苦笑いする。
「でも、今日は」
「あいつらしいじゃないか」
「そうですけど」
「いいよ、先に上がってもらって」
「そんな」
と、志織が言いかけたところで、ドアの開く音がした。
「噂をすればだね」
志織が黙って頷く。
「丼、いただきに参りました」
「なんだ、善ちゃんか」
つい立の陰から現れたのは、長寿庵の長男坊渋谷善吉だった。
「なんだじゃないですよ、先生」
と言いながらも、善吉はいつもの如く嬉々としている。
「善さん、忙しいんじゃないの」
「忙しいっちゃ忙しいんだけど、忙中閑ありってやつさ」
志織の言葉に、善吉がすかさず応える。
「はい、ごちそうさま」
水切りを済ませて布巾で拭いた丼を二つ、志織が善吉に手渡した。
「毎度ありがとうござい」
ますまで言わず出て行こうとした善吉が、そうだ志織ちゃん、と声をかけた。
「うん、どうしたの」
「志織ちゃん、今夜はどうしてる」
「寝正月」
「なんだよ、若い娘が」
「悪かったわね」
「ごめんごめん、寝る子は育つっていうからね」
「何言ってんの」
「あのさ、みんなで初詣に行くんだけど、志織ちゃんもどうだい」
「みんなって」
「葛西や田所、駒ちゃんに和美、溝川さん、あっあと久太郎」
「ふうん、なら行ってもいいかな」
「だったら、年が明けたらうちの前に集合ってことで」
「OK」
「それじゃあ、また今夜。先生も、よいお年を」
善吉は駆け足で出て行った。
「善ちゃんはその名の通り善人だからな」
「いい人過ぎますよ」
「いい人は嫌いかい」
「好きでも嫌いでも」
「そうか」
という木佐貫の言葉にあわせたかのように、電話機が鳴った。
「はい、木佐貫探偵事務所です。はい、木佐貫ですね、少々お待ちください」
通話口を右手で押さえた志織が、男性の方ですと木佐貫に告げた。
「はい、お電話変わりました、木佐貫保です。はい、なるほど、そうですか。どちらで。ああ、石野の。はい、はい、お名前は、峰松、はい、警察には、なるほどそういうことですか、それではお待ちしています。そちらの番号は、はい、はい、はい、×××の××××ですね」
受話器を置くと、木佐貫はデスクの上のメモ用紙に書き留めた会話の要点を改めて確認した。
「どうしたんですか」
「娘さんが家出したらしいんだ」
「家出」
「部屋に書き置きがあったって」
「今日ですか」
「うん。朝のうちは家にいたそうなんだけどね」
「娘さん、お幾つです」
「十八歳」
「多感な年ごろですね」
「家出したいなんて思ったことあるかい」
「そりゃありますよ、私にも」
志織は呟くように言うと、窓の外に視線を移した。
「雪、降ってますね」
「本当だ」
すると、ゆっくりとドアの開く音がする。
「石野かな」
だが、つい立の陰から現れたのは、見知らぬ若い女性だった。志織より少し若いか、同じくらいだろう。
「あのお、探偵さんに用事があって来たんですけどお」
女性の言葉には強い訛りがあった。
「私が探偵の木佐貫保ですが」
「ああ、あなたがあ探偵の木佐貫さんですかあ」
「そうですよ」
「よかったあ、これを届けてくれってえ頼まれたんでえ」
女性は、肩にかけた萌黄色のバッグの中から分厚い封筒を取り出した。
「誰からですか」
「それが私にもわかんないんですよお。今さっき近くを歩いてたらあ、じゃがいもみたいな男の人があ、このビルの二階に探偵事務所があるからあ、そこの探偵さんにこれ渡してくれってえ」
「もしかして、こんな顔の男」
木佐貫は、左右の目を左右の人差し指でぎゅっと真横に引っ張った。
「そうそう、そんな顔の人ですよお」
女性は大きな笑い声を上げながら頷いた。
「石野だな」
木佐貫が志織に向かって言った。
「そうみたいですね」
「彼は、他に何か言ってなかったかい」
「いいええ、なんにも言ってなかったですよお。ただあ、お礼にこれをあげるよってえ千円札二枚くれましたあ。早めのお年玉だってえ」
今度は財布の中から千円紙幣二枚を取り出した。
「なるほどね」
「それじゃあ、これから私い用があるんでえ」
「ありがとう」
「いいええ」
女性は右手を大きく横に振った。
「そうだ、あなたのお名前は」
「名乗るほどのおもんじゃありませんよお」
ひょこりと頭を下げると、
「よいお年をお」
と言って、女性は出て行った。
「多過ぎるな、これは」
封筒の中には、一万円札が三十枚ほど入っている。
「石野さん、奮発したんじゃないですか」
「あいつが、まさか。いくらなんでもこれは」
と、またもやドアの開く音がする。
「いやあ、失敬」
つい立の陰から現れたのは、シルクハットにフロックコートを身に纏った、モノクルに八の字髭の五十前後の紳士である。紳士は手にした蝙蝠傘を傘立てに入れると、おほんと大きく咳をした。
「これまた失敬」
「どちらさまでしょう」
志織が尋ねる。
「ああ、これは重ね重ねの失敬。わたくし、大日本譴責推進協会総裁の等々力大造と申します」
等々力は胸ポケットから名刺を取り出し、木佐貫に手渡した。
「大日本、譴責、協会、総裁」
「はい、その通りです」
「一体どのようなご用件でしょう」
「馬鹿もんが、ももんが、大久保彦左衛門があ」
等々力は木佐貫を大音声で一喝すると悠然とつい立の陰に去って行った。が、すぐに戻って来ると、傘立ての蝙蝠傘を手にした。
「こいつは失敬」
聞こえるか聞こえないかの小声に続いて頭を下げた等々力は、良いお年をと呟くと、そのままそそくさと部屋を出て行った。
「なんです今の。気違いですか」
「まあ、ある意味気違いだろうね」
木佐貫が等々力の名刺を軽く手で弾いた。
すると、間髪入れずドアの開く音がして、つい立の陰から三十前後の女性が登場した。
女性は、チャーチャラチャラチャーチャララーとラヴェルのボレロの旋律を、時に鼻歌風に唸りながら、時に詠嘆調と歌いながら、時にシュプレッヒシュテンメ風に朗唱しながら、事務所の中を縦横無尽に踊りまくる。唖然とする、木佐貫と志織。
そして、一しきり踊り終えると、女性は、
「お粗末様でした。よいお年を」
と、カーテンコールに応えるダンサーであるかのように深々とお辞儀をすると、軽やかに退場して行った。
「なんです今の、怖い」
「まあ、ある意味彼女も気違いだろうね」
志織を宥めるかのように、木佐貫が言った。
「本当に、先に上がっていいよ」
「嫌ですよ。今出て行くのは」
ぎぎぎーっと大きな音を立ててドアが開く。
志織が、ぎゃあっと叫んだ。
「何、何かあったの」
と言いながら現れたのは、木佐貫の旧友石野だ。
「いやあわりいわりい、なんとか最後で大逆転してさ。いやあ、ほんと焦ったわ」
石野は、よれよれのコートの中から裸でしわくちゃの一万円札を十枚ほど取り出した。
「馬鹿な真似するなよ」
木佐貫の鋭い声に、一瞬目をぱちくりとした石野は、
「そりゃばれるか。名探偵だもんな。ほんと悪かった。時間稼ぎに、近所のちんどん屋の親父に頼んだんだ。あっあと、踊り踊ってたのは、今度の公演に出てくれる女優さん、石井漠の弟子の従兄の知り合いの嫁さんの妹さんなんだ」
と言って頭を下げる。
「えっ、あれってみんな石野さんの知り合いなの。もう、びっくりしたんだから」
「ああ、わりいわりい、勘弁勘弁」
「じゃあ、三十万円も」
志織が重ねて尋ねる。
「えっ、三十万円。何、それ」
「石野、お前、福井弁を真似するのが得意な女の子を知ってるだろ」
「うん、知ってるよ峰ちゃんって言ってさ、今度うちの劇団に入ることになったんだ。ブルジョア、相当ええとこしの娘さんでさ、親父さんは商工会議所の会頭務めてるんだぜ。もともと俺が家庭教師やっててさ、って、どうしてお前そんなこと知ってんの」
「訳はあとだ、早く駅に行け。まだ今なら間に合うはずだから。いいか、もし峰松さんを見つけたら、必ずここまで連れて来るんだぞ」
木佐貫の言葉に圧された石野は、わかった、わかったよと応えると慌てて事務所を飛び出した。
「一体どういうことなんです、全然意味がわからない」
「意味、意味ね、降る雪に意味はありますか」
「えっ、なんですか」
「いや、なんでもない。独り言さ。まあ、二人が帰ってくれば、全てわかるよ」
「そうなんですか」
「意味なんて、全てわかればいいってものでもないけどね」
「はあ」
と答えたものの、志織は今一つ釈然としていない。
「本格的に降ってきたね」
木佐貫が窓の外を見つめながら言う。
「積もりそうですね」
志織も窓の外を見つめる。
「大つごもりらしいな」
「大つごもり」
「大晦日のことだよ。樋口一葉って知らないかな」
「知ってますけど、読んだことは」
「そうか」
「ああーあ、初詣やめとこうかな」
木佐貫は志織の言葉に返事をしない。
ますます雪は強くなってくる。
2018年12月30日
和久峻三さんを悼む
☆和久峻三さんを悼む
今日の朝日新聞の朝刊に、作家の和久峻三さんの訃報が掲載されていた。
昨夜、たまたまWikipediaの今年の物故者の項目を確認した際、和久さんの名前を見つけていたので驚きはなかったが、それでもやはり感慨は深い。
和久さんは大阪市の出身で京都大学法学部を卒業(同窓に大島渚がいる)、中日新聞の記者を経て弁護士となり、その後作家としての活動も始めた。
和久さんといえば、赤かぶ検事こと柊茂を主人公とする赤かぶ検事シリーズや京都府警の音川音次郎警部補を主人公とする京都殺人案内シリーズ、告発弁護士猪狩文助を主人公とする告発弁護士シリーズと、自らの経験体験と法律的知識を駆使した法廷ミステリの書き手として有名で、いずれもドラマ化されている。
小学校三年生の頃に横溝正史にはまったのが小説の読み始めという人間ではあるものの、ミステリ小説というジャンルそのものには正直愛着がないため、学生時代のほんの一時期、古本屋で買い求めた赤かぶ検事シリーズなどに触れた以外、和久さんの作品に接したことはない。
ただ、今思い返すと、技巧的な謎解きよりも、男女の人間関係のもつれだとか、遺産相続に象徴される愛憎の念であるとか、それより何より柊茂という屈折した人間造形であるとか、結局人の心の謎を描くことにその力点が置かれていたようにも感じられる。
(特に初期の頃の藤田まこと主演の京都殺人案内シリーズのウェットな感じは、その「京都らしさ」も含めて、和久さんの作品の世界観によく副っているかもしれない)
ほかに、和久さんでは『噂の真相』に対する名誉棄損訴訟も記憶に残っているが、手元に原本がないため詳細は省略する。
そんな和久さんと僕は一度だけお会いしたことがあった。
大学院を出る少し前のことだから、もう25年以上も前になるか。
和久さんの口述筆記を「おこし」たり、和久さんに代わって取材を行ったりする執筆補佐の人材募集があって、一次試験を合格した僕は、最終面接として三宅八幡にある和久さん宅を訪れた。
20時過ぎか21時近くだったろうか、冬の夜だ。
まず秘書を務める夫人(後日、京都市バスの運転手の無謀な運転のため、手を骨折されたことがある)から職務内容や条件などの説明があるとともに、一次試験の「あなたが好きな推理小説」なる質問へのドストエフスキーの『罪と罰』と『カラマーゾフの兄弟』という僕の答えが面白かったといった選考理由を聴く。
それから10分か15分経った頃、徹夜執筆後の仮眠をとった和久さんがいささか憔悴した感じでやって来られ、こちらが提出した学生時代の卒業論文や大学生協に掲載されたブックレビューへの感想を挟みつつ、質疑応答を行った。
その際、もっとも印象に残ったのが、「売れ過ぎると書きたいものが書けなくなる」旨の言葉だった。
そのとき、僕はすぐに、革新政党(明らかに日本共産党)を首班とする革新連合政権の誕生に対する保守反動の側による策謀策動を描いた『権力の朝』<角川文庫>という作品を思い起こしたが、あえて口にすることはしなかった。
(和久さんはリベラルな、と言っても、現在のそれとはニュアンスが異なり、1990年代半ば頃までは日本共産党に立場の近い人をそう呼んでいたが、リベラルな立場に立つ人であった。赤かぶ検事の柊茂と同姓同名の実在の人物が立命館大学の校友会の役員をやっていて、1950年代前後の学生運動について語っていたことがあるのだけれど、和久さんは政治運動絡みで学生時代の柊茂氏と面識があったのかもしれない*)
結局、別の就職先が見つかったため、最終結果を待たずお断りすることになったが、もし和久峻三の執筆補佐に選ばれていたら、今の僕はどうしていただろうか。
もしかしたら、小説を書き続けてはいなかったかもしれない。
そうそう、フランキー堺に橋爪功、中村梅雀と一癖も二癖もある役者が演じてきた赤かぶ検事だけれど、痩身の長身で飄々然とした人物と、どちらかといえば僕自身のほうが原作の彼に近い。
もちろん、それではドラマとして成功しなかったような気もするが。
深く、深く、深く、深く黙禱。
*当時の立命館大学は広小路の学舎だったので、今の衣笠学舎よりも京都大学に近い。
今日の朝日新聞の朝刊に、作家の和久峻三さんの訃報が掲載されていた。
昨夜、たまたまWikipediaの今年の物故者の項目を確認した際、和久さんの名前を見つけていたので驚きはなかったが、それでもやはり感慨は深い。
和久さんは大阪市の出身で京都大学法学部を卒業(同窓に大島渚がいる)、中日新聞の記者を経て弁護士となり、その後作家としての活動も始めた。
和久さんといえば、赤かぶ検事こと柊茂を主人公とする赤かぶ検事シリーズや京都府警の音川音次郎警部補を主人公とする京都殺人案内シリーズ、告発弁護士猪狩文助を主人公とする告発弁護士シリーズと、自らの経験体験と法律的知識を駆使した法廷ミステリの書き手として有名で、いずれもドラマ化されている。
小学校三年生の頃に横溝正史にはまったのが小説の読み始めという人間ではあるものの、ミステリ小説というジャンルそのものには正直愛着がないため、学生時代のほんの一時期、古本屋で買い求めた赤かぶ検事シリーズなどに触れた以外、和久さんの作品に接したことはない。
ただ、今思い返すと、技巧的な謎解きよりも、男女の人間関係のもつれだとか、遺産相続に象徴される愛憎の念であるとか、それより何より柊茂という屈折した人間造形であるとか、結局人の心の謎を描くことにその力点が置かれていたようにも感じられる。
(特に初期の頃の藤田まこと主演の京都殺人案内シリーズのウェットな感じは、その「京都らしさ」も含めて、和久さんの作品の世界観によく副っているかもしれない)
ほかに、和久さんでは『噂の真相』に対する名誉棄損訴訟も記憶に残っているが、手元に原本がないため詳細は省略する。
そんな和久さんと僕は一度だけお会いしたことがあった。
大学院を出る少し前のことだから、もう25年以上も前になるか。
和久さんの口述筆記を「おこし」たり、和久さんに代わって取材を行ったりする執筆補佐の人材募集があって、一次試験を合格した僕は、最終面接として三宅八幡にある和久さん宅を訪れた。
20時過ぎか21時近くだったろうか、冬の夜だ。
まず秘書を務める夫人(後日、京都市バスの運転手の無謀な運転のため、手を骨折されたことがある)から職務内容や条件などの説明があるとともに、一次試験の「あなたが好きな推理小説」なる質問へのドストエフスキーの『罪と罰』と『カラマーゾフの兄弟』という僕の答えが面白かったといった選考理由を聴く。
それから10分か15分経った頃、徹夜執筆後の仮眠をとった和久さんがいささか憔悴した感じでやって来られ、こちらが提出した学生時代の卒業論文や大学生協に掲載されたブックレビューへの感想を挟みつつ、質疑応答を行った。
その際、もっとも印象に残ったのが、「売れ過ぎると書きたいものが書けなくなる」旨の言葉だった。
そのとき、僕はすぐに、革新政党(明らかに日本共産党)を首班とする革新連合政権の誕生に対する保守反動の側による策謀策動を描いた『権力の朝』<角川文庫>という作品を思い起こしたが、あえて口にすることはしなかった。
(和久さんはリベラルな、と言っても、現在のそれとはニュアンスが異なり、1990年代半ば頃までは日本共産党に立場の近い人をそう呼んでいたが、リベラルな立場に立つ人であった。赤かぶ検事の柊茂と同姓同名の実在の人物が立命館大学の校友会の役員をやっていて、1950年代前後の学生運動について語っていたことがあるのだけれど、和久さんは政治運動絡みで学生時代の柊茂氏と面識があったのかもしれない*)
結局、別の就職先が見つかったため、最終結果を待たずお断りすることになったが、もし和久峻三の執筆補佐に選ばれていたら、今の僕はどうしていただろうか。
もしかしたら、小説を書き続けてはいなかったかもしれない。
そうそう、フランキー堺に橋爪功、中村梅雀と一癖も二癖もある役者が演じてきた赤かぶ検事だけれど、痩身の長身で飄々然とした人物と、どちらかといえば僕自身のほうが原作の彼に近い。
もちろん、それではドラマとして成功しなかったような気もするが。
深く、深く、深く、深く黙禱。
*当時の立命館大学は広小路の学舎だったので、今の衣笠学舎よりも京都大学に近い。
2018年12月17日
『ほそゆき』のパイロット版10
☆『ほそゆき』のパイロット版10
十
熱して赤茶色に変わったフライパンのグラニュー糖にバターを溶かし込んだ苑子が、そこに棗の実を入れていった。
皮と種とを取り去った棗の実は、ちょうど半分ずつに切り分けられている。
「こうやってしっかり絡めていくの」
苑子が木べらを動かす。
「カラメルに絡めるんですね」
という佳穂の言葉に、苑子が小さく笑った。
「えっ、どうかしました」
「だって、カラメルに絡めるって」
「ああ」
佳穂はようやく自分の言葉が駄洒落になっていたことに気が付いた。
「わざとじゃないんです」
「わかってるわよ。だから、面白いの」
大きく手を横に振る佳穂を見て、苑子がまた小さく笑った。
「すいません」
「謝ることはないじゃない」
「でも。あっ、いい香り」
カラメルと棗の実の香りが混ざり合って、佳穂の鼻腔を刺激する。
「このまま食べたいくらい」
「我慢我慢」
苑子が木べらを再び動かしながら言う。
「焦がさないように気を付けてね」
「はい」
佳穂は苑子から木べらを受け取ると、棗の実をゆっくりと転がした。
「そういうちょっとした手間が大事なの。ついつい忘れがちだけど」
「忘れちゃいますね、確かに」
「柔らかさが出てきたら、火を止めて」
木べらで軽くつつくと、ちょうどよさそうな頃合いだ。佳穂はコンロを止めた。
「しばらく置いて、熱をとる。その間に、生地と型のほうを用意しましょ」
苑子の動きには、全く無駄がない。それでいて、いや、だからここそか、少しも焦っている感じがしない。
「どうしたの」
不思議そうな表情で、苑子が佳穂に訊く。
「いえ、苑子さんの所作が美しいので」
「何言ってるの」
泡だて器を手にした苑子が言う。
「羨ましいです」
「どこが」
「だって、苑子さんみたいにてきぱきと動くことはできないもの」
「いつも言ってることだけど、無理してできないことをやる必要なんてないじゃない。佳穂さんは佳穂さんにあったやり方をすればいいの」
「わかってはいるんですけどね」
佳穂はボウルの中にバターとグラニュー糖を入れた。
「ねえ、佳穂さん」
「はい」
「あなた、私の娘になってくれない」
「えっ」
突然の苑子の言葉に、佳穂は思わず手にした卵を落としそうになった。
十
熱して赤茶色に変わったフライパンのグラニュー糖にバターを溶かし込んだ苑子が、そこに棗の実を入れていった。
皮と種とを取り去った棗の実は、ちょうど半分ずつに切り分けられている。
「こうやってしっかり絡めていくの」
苑子が木べらを動かす。
「カラメルに絡めるんですね」
という佳穂の言葉に、苑子が小さく笑った。
「えっ、どうかしました」
「だって、カラメルに絡めるって」
「ああ」
佳穂はようやく自分の言葉が駄洒落になっていたことに気が付いた。
「わざとじゃないんです」
「わかってるわよ。だから、面白いの」
大きく手を横に振る佳穂を見て、苑子がまた小さく笑った。
「すいません」
「謝ることはないじゃない」
「でも。あっ、いい香り」
カラメルと棗の実の香りが混ざり合って、佳穂の鼻腔を刺激する。
「このまま食べたいくらい」
「我慢我慢」
苑子が木べらを再び動かしながら言う。
「焦がさないように気を付けてね」
「はい」
佳穂は苑子から木べらを受け取ると、棗の実をゆっくりと転がした。
「そういうちょっとした手間が大事なの。ついつい忘れがちだけど」
「忘れちゃいますね、確かに」
「柔らかさが出てきたら、火を止めて」
木べらで軽くつつくと、ちょうどよさそうな頃合いだ。佳穂はコンロを止めた。
「しばらく置いて、熱をとる。その間に、生地と型のほうを用意しましょ」
苑子の動きには、全く無駄がない。それでいて、いや、だからここそか、少しも焦っている感じがしない。
「どうしたの」
不思議そうな表情で、苑子が佳穂に訊く。
「いえ、苑子さんの所作が美しいので」
「何言ってるの」
泡だて器を手にした苑子が言う。
「羨ましいです」
「どこが」
「だって、苑子さんみたいにてきぱきと動くことはできないもの」
「いつも言ってることだけど、無理してできないことをやる必要なんてないじゃない。佳穂さんは佳穂さんにあったやり方をすればいいの」
「わかってはいるんですけどね」
佳穂はボウルの中にバターとグラニュー糖を入れた。
「ねえ、佳穂さん」
「はい」
「あなた、私の娘になってくれない」
「えっ」
突然の苑子の言葉に、佳穂は思わず手にした卵を落としそうになった。
2018年09月02日
喪服の似合うカサンドラ(パイロット版4)
加奈子と会った翌日、私は朝早くに家を出て、郊外の西部霊園へと向かった。
菊の花は昨日のうちに買っておいた。
昨夜遅くに降り始めた雨も朝には止み、青空には入道雲がむくむくと拡がっている。
「今日も暑くなりそうですね」
と、タクシーの運転手さんが口にした。
「そうですね」
と、私は応えた。
霊園は小高い丘の上にあった。
タクシーを降りて管理事務所を覗いたが、時間が時間だけにまだ誰もいない。
私は小さくお辞儀をすると、事務所横の木枠にかけてあるポリバケツと柄杓を手にして石段を上り始めた。
黒や灰色の墓石が目の前にいくつもいくつも整然と並んでいる。
眩暈を起こしそうになるのを我慢しながら、私は石段を上って行った。
石段には、うっすらと影のように雨のあとが残っていた。
ビルに直すと、三階分程度になるだろうか。
石段の三分の二まで上り切ったところで、私は備え付けの蛇口からポリバケツに水を汲み、そのまま左側の通路に足を進めた。
一つ、二つ、三つ、四つ、五つ目が尾関先生のお墓だ。
墓石の横の墓誌には、戒名とともに平成二十年八月九日、尾関悟、二十七歳の文字だけが彫られている。
私は墓石に水をかけ、花立ての辺りを軽く濯いで菊の花を挿し、用意した線香に火をつけて線香立てに立てると、目を瞑って尾関先生に手を合わせた。
先生、今年もご挨拶に来ました。
とうとう先生よりも年上になってしまいました。
あっと言う間に二十八です。
だけど、あの頃の先生に比べればまだまだ子供です。
ただただ恥ずかしい。
日々迷って、迷って、迷ってばかりです。
仕事はけっこうハードだし。
直の上司がパワハラ気味で、早朝出勤や残業しろってねちねちねちねち繰り返して。
先々月も一人退社しちゃって、本来ならば五人で回すところを三人で回してます、二人足りません。
もう我慢の限界です。
すぐにいーってなります。
恋愛だってなかなかうまくいかないし。
付き合っても、なあんか違うって感じですぐに別れちゃう。
智沙は贅沢だよって友達には言われるけど、違うもんは違うんだから仕方ないでしょ。
なのに、母は顔を合わせばすぐに結婚しろ結婚しろってうるさいし。
結婚したい相手なんてどこにもいない。
一人もいない。
ほんとは帰省なんてしたくないんです、でも、そうしないとこうしてご挨拶にも来れないから。
先生にお会いして、いろんなお話がしたいです。
木崎はよく頑張ってるよ、大丈夫大丈夫、ってまた言って欲しいです。
先生、どうして死んでしまったんですか。
菊の花は昨日のうちに買っておいた。
昨夜遅くに降り始めた雨も朝には止み、青空には入道雲がむくむくと拡がっている。
「今日も暑くなりそうですね」
と、タクシーの運転手さんが口にした。
「そうですね」
と、私は応えた。
霊園は小高い丘の上にあった。
タクシーを降りて管理事務所を覗いたが、時間が時間だけにまだ誰もいない。
私は小さくお辞儀をすると、事務所横の木枠にかけてあるポリバケツと柄杓を手にして石段を上り始めた。
黒や灰色の墓石が目の前にいくつもいくつも整然と並んでいる。
眩暈を起こしそうになるのを我慢しながら、私は石段を上って行った。
石段には、うっすらと影のように雨のあとが残っていた。
ビルに直すと、三階分程度になるだろうか。
石段の三分の二まで上り切ったところで、私は備え付けの蛇口からポリバケツに水を汲み、そのまま左側の通路に足を進めた。
一つ、二つ、三つ、四つ、五つ目が尾関先生のお墓だ。
墓石の横の墓誌には、戒名とともに平成二十年八月九日、尾関悟、二十七歳の文字だけが彫られている。
私は墓石に水をかけ、花立ての辺りを軽く濯いで菊の花を挿し、用意した線香に火をつけて線香立てに立てると、目を瞑って尾関先生に手を合わせた。
先生、今年もご挨拶に来ました。
とうとう先生よりも年上になってしまいました。
あっと言う間に二十八です。
だけど、あの頃の先生に比べればまだまだ子供です。
ただただ恥ずかしい。
日々迷って、迷って、迷ってばかりです。
仕事はけっこうハードだし。
直の上司がパワハラ気味で、早朝出勤や残業しろってねちねちねちねち繰り返して。
先々月も一人退社しちゃって、本来ならば五人で回すところを三人で回してます、二人足りません。
もう我慢の限界です。
すぐにいーってなります。
恋愛だってなかなかうまくいかないし。
付き合っても、なあんか違うって感じですぐに別れちゃう。
智沙は贅沢だよって友達には言われるけど、違うもんは違うんだから仕方ないでしょ。
なのに、母は顔を合わせばすぐに結婚しろ結婚しろってうるさいし。
結婚したい相手なんてどこにもいない。
一人もいない。
ほんとは帰省なんてしたくないんです、でも、そうしないとこうしてご挨拶にも来れないから。
先生にお会いして、いろんなお話がしたいです。
木崎はよく頑張ってるよ、大丈夫大丈夫、ってまた言って欲しいです。
先生、どうして死んでしまったんですか。
2018年08月28日
喪服の似合うカサンドラ(パイロット版3)
尾関先生と下総さんを見かけたのは、それから数日後のことだった。
夏風邪をひいて寝込んだ母の代わりに買い物をすませた私は、たまたま文栄堂から出て来る二人を目にしたのだ。
肩を並べて歩く長身どうしの後ろ姿はあまりにもつり合いがとれていて、どうしても声をかけることができなかった。
私は二人のあとを息を殺して歩いた。
なぜだか気づかれてはいけないと思った。
二人はアーケードの外れにある公園へ入って行くと、四阿の下の木製のベンチに腰を掛けた。
ちょうど木陰になっているので二人の表情はよくわからなかったが、いつものように快活な尾関先生とは対照的に、下総さんは緊張しているというか、打ち沈んでいるように見える。
何を話しているのかわからないのが、本当にもどかしい。
蝉の鳴き声だけが私の耳を打つ。
ジジジジジジ ジジジジジジ
ジジジジジジ
ジジジジジジ ジジジジジジ
ジジジジジジ
ジジジジジジ ジジジジジジ
ジジジジジジ
ジジジジジジ ジジジジジジ
ジジジジジジ
しばらくすると尾関先生は立ち上がって、下総さんにじゃあなといった感じで手を振ると、反対側の門のほうから足早に去って行った。
私が尾関先生を見たのは、それが最後だった。
下総さんは陽が暮れかかる頃まで、じっとベンチに座ったままでいた。
夏風邪をひいて寝込んだ母の代わりに買い物をすませた私は、たまたま文栄堂から出て来る二人を目にしたのだ。
肩を並べて歩く長身どうしの後ろ姿はあまりにもつり合いがとれていて、どうしても声をかけることができなかった。
私は二人のあとを息を殺して歩いた。
なぜだか気づかれてはいけないと思った。
二人はアーケードの外れにある公園へ入って行くと、四阿の下の木製のベンチに腰を掛けた。
ちょうど木陰になっているので二人の表情はよくわからなかったが、いつものように快活な尾関先生とは対照的に、下総さんは緊張しているというか、打ち沈んでいるように見える。
何を話しているのかわからないのが、本当にもどかしい。
蝉の鳴き声だけが私の耳を打つ。
ジジジジジジ ジジジジジジ
ジジジジジジ
ジジジジジジ ジジジジジジ
ジジジジジジ
ジジジジジジ ジジジジジジ
ジジジジジジ
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ジジジジジジ
しばらくすると尾関先生は立ち上がって、下総さんにじゃあなといった感じで手を振ると、反対側の門のほうから足早に去って行った。
私が尾関先生を見たのは、それが最後だった。
下総さんは陽が暮れかかる頃まで、じっとベンチに座ったままでいた。
2018年08月27日
喪服の似合うカサンドラ(パイロット版2)
あの日、私は尾関先生と下総さんと一緒に図書室にいた。
ほかにも司書の小泉さんや図書委員のメンバーがいたはずだが、はっきりとは覚えていない。
書庫に溜まった雑誌や新聞類、古い蔵書の整理や虫干しをするのが夏休み前の終業日の決まりで、例年の如く私たちは図書室に集まっていたのだ。
作業がほぼ終わったところで、ご褒美のアイスクリームが振る舞われる。
なんの変哲もないカップ入りのバニラアイスだけれど、一汗かいたあとにはその甘さと冷たさが嬉しい。
まだ融け切らないアイスのひやっとした感触が、今も私の舌には蘇るほどだ。
「木崎、受験はどうするんだ」
一足先にアイスを食べ終えた尾関先生が言った。
「東京の私学です」
「そうか。まあ、木崎はそうだよな」
進路に関しては、二年生のときに何度も尾関先生と話をしてきた。
「ごみせんからは、国公立も受けろって言われてますけど」
三年の担任は文系コースだというのに、なぜだか数学担当の五味先生で、国公立大学を受験しろ受験しろとどうにもうるさかった。
「五味先生には五味先生のお考えがあるだろうが」
尾関先生はそこまで言うと私をじっと見て、
「最後は木崎自身が決めることだからな」
と、続けた。
私は黙って頷いた。
「下総は」
尾関先生は今度は下総さんに尋ねる。
「私は、地元の大学を受けるつもりです」
下総さんの声は小さいけれど、とても澄んでいた。
歌を歌えばきれいだろうなと私は思った。
「英文に行きたいんだよな」
「はい、できれば」
私は、下総さんがよくイギリスの作家の小説を読んでいることを知っていた。
「去年の読書感想文、あれ面白かったからな。高慢と偏見」
「いえ、そんな」
「謙遜するなって」
オースティンの『プライドと偏見』は、少し前にDVDで観た。
エリザベス役のキーラ・ナイトレイが美しかった。
「木崎のミーナの行進の感想も面白かったけどな」
尾関先生のこういうところが、好きだった。
非常にわかりやすいけど、でも、私は好きだった。
「まあ、今年の夏休みは勉強勉強で読書感想文どころじゃないだろうけどな」
「先生は夏休み、どこか行くんですか」
「そうだなあ、今年は北海道でも走ろうかと思ってるんだ。学生時代の友達が小樽に転勤になってな。島流しだからさびしいさびしいってせっつくんだよな」
私の質問に尾関先生が答えたとたん、えっと下総さんが小さく声を上げた。
私は驚いて下総さんに視線を移した。
「ごめんなさい、何もないです」
下総さんはすぐにそう返事をしたが、彼女の顔はいつもと違ってとても薄白く見えた。
ほかにも司書の小泉さんや図書委員のメンバーがいたはずだが、はっきりとは覚えていない。
書庫に溜まった雑誌や新聞類、古い蔵書の整理や虫干しをするのが夏休み前の終業日の決まりで、例年の如く私たちは図書室に集まっていたのだ。
作業がほぼ終わったところで、ご褒美のアイスクリームが振る舞われる。
なんの変哲もないカップ入りのバニラアイスだけれど、一汗かいたあとにはその甘さと冷たさが嬉しい。
まだ融け切らないアイスのひやっとした感触が、今も私の舌には蘇るほどだ。
「木崎、受験はどうするんだ」
一足先にアイスを食べ終えた尾関先生が言った。
「東京の私学です」
「そうか。まあ、木崎はそうだよな」
進路に関しては、二年生のときに何度も尾関先生と話をしてきた。
「ごみせんからは、国公立も受けろって言われてますけど」
三年の担任は文系コースだというのに、なぜだか数学担当の五味先生で、国公立大学を受験しろ受験しろとどうにもうるさかった。
「五味先生には五味先生のお考えがあるだろうが」
尾関先生はそこまで言うと私をじっと見て、
「最後は木崎自身が決めることだからな」
と、続けた。
私は黙って頷いた。
「下総は」
尾関先生は今度は下総さんに尋ねる。
「私は、地元の大学を受けるつもりです」
下総さんの声は小さいけれど、とても澄んでいた。
歌を歌えばきれいだろうなと私は思った。
「英文に行きたいんだよな」
「はい、できれば」
私は、下総さんがよくイギリスの作家の小説を読んでいることを知っていた。
「去年の読書感想文、あれ面白かったからな。高慢と偏見」
「いえ、そんな」
「謙遜するなって」
オースティンの『プライドと偏見』は、少し前にDVDで観た。
エリザベス役のキーラ・ナイトレイが美しかった。
「木崎のミーナの行進の感想も面白かったけどな」
尾関先生のこういうところが、好きだった。
非常にわかりやすいけど、でも、私は好きだった。
「まあ、今年の夏休みは勉強勉強で読書感想文どころじゃないだろうけどな」
「先生は夏休み、どこか行くんですか」
「そうだなあ、今年は北海道でも走ろうかと思ってるんだ。学生時代の友達が小樽に転勤になってな。島流しだからさびしいさびしいってせっつくんだよな」
私の質問に尾関先生が答えたとたん、えっと下総さんが小さく声を上げた。
私は驚いて下総さんに視線を移した。
「ごめんなさい、何もないです」
下総さんはすぐにそう返事をしたが、彼女の顔はいつもと違ってとても薄白く見えた。
2018年08月25日
喪服の似合うカサンドラ(パイロット版)
☆喪服の似合うカサンドラ(パイロット版)
下総明日香という名前を耳にして、私はすぐに色白で背が高くてショートカットの彼女のことを思い出した。
同じクラスになったことは一度もなかったものの、高校の三年間、彼女と私はずっと図書委員仲間だった。
「下総さんがどうしたの」
無花果入りのジェラートをひと舐めした目の前の近藤加奈子に、私は訊き返した。
「あのひと、おかしくない」
「おかしいって」
「だから、なんか感じが、変」
「そうかなあ。ていうか、卒業以来ずっと会ってないし。加奈子は会ってるの」
「会ってるっていうか、会ったっていうか」
まどろこしい加奈子の話をまとめると、先週の木曜日、仕事帰りに駅前のアーケードをぶらぶらしていたら、下総さんに出くわしたそうだ。
「文栄堂からちょうど出て来たとこで、ああって声かけられて」
文栄堂は老舗の書店兼文具店である。
「下総さんって加奈子と仲良かったっけ」
「良くも悪くもない。てか、よく知らない」
加奈子は、下総さんと高校時代同じクラスになったこともなければ、ろくに話をしたこともないと言う。
ただ一度を除いては。
「三年生の夏休み、尾関先生が亡くなったじゃない」
尾関悟先生は国語の担当で、私と加奈子にとっては二年生のときの担任でもあった。
「尾関先生が亡くなって、今年で十年なんだよね」
「もう十年か」
「そうだよ。あのときは本当にショックだった」
「確かに」
尾関先生は愛車のバイクで北海道をツーリング中、対向車線から急に飛び出して来た飲酒運転のトラックと正面衝突し、亡くなってしまったのだ。
「ちゃんとお別れできなかったんだよね、私たち」
尾関先生の柩の蓋はずっと閉じられたままだった。
「智沙は尾関先生のこと好きだったから」
「そういうんじゃないよ」
私は、半ばとけてしまった宇治金時を匙で掬うと口に運んだ。
「それで、下総さんがどうしたの」
「お葬式のときね、ほんとたまたまなんだけど、傍に彼女がいて」
そこで、加奈子はジェラートを口に含む。
じれったい。
「たまたま、彼女のほうに顔向けたら、あれだけだめだって言ったのにって」
「加奈子に言ったの、下総さん」
「違う、ぼそぼそって独り言。なんか気持ちが悪かった」
「聞いたことなかったな」
「言わなかった。言うのも不謹慎な感じがしたし。気持ち悪いし。彼女のことよく知らないし」
加奈子らしいといえば加奈子らしい反応だ。
「声かけられたとき、誰だかわかんなかったくらい。でも、すぐに思い出して、お葬式のときのこと。やじゃない。こっちも、ああって頭下げて、それじゃあって別れようと思ったんだけどさ」
加奈子が急に黙り込む。
「何かあったの」
「何かって、ことじゃ、ない。ないけど」
また黙り込む。
「もう、なんなんだよ」
思わず私は口にする。
「あのひとね、あたしのこと見て、何か言いたそうにしてた。お葬式のときみたいな目で」
「思い込みじゃないの」
「違う、あのひと、ここんとこじっと見てた」
そう言って、加奈子は左手の薬指を突き出した。
フィアンセの高遠君が奮発したというダイヤのリングが、小さく光る。
「ううん、それって考え過ぎだよ、加奈子の」
「考え過ぎ」
「そうそう、考え過ぎだって」
けれど、私は自分で自分の言葉を今一つ信じ切ることができないでいた。
そんな私の心を見透かしたかのように、うそでしょ、と加奈子は口にした。
結局、そのあとも十一月の挙式に関して盛り上がらないまま、加奈子とは別れた。
下総明日香という名前を耳にして、私はすぐに色白で背が高くてショートカットの彼女のことを思い出した。
同じクラスになったことは一度もなかったものの、高校の三年間、彼女と私はずっと図書委員仲間だった。
「下総さんがどうしたの」
無花果入りのジェラートをひと舐めした目の前の近藤加奈子に、私は訊き返した。
「あのひと、おかしくない」
「おかしいって」
「だから、なんか感じが、変」
「そうかなあ。ていうか、卒業以来ずっと会ってないし。加奈子は会ってるの」
「会ってるっていうか、会ったっていうか」
まどろこしい加奈子の話をまとめると、先週の木曜日、仕事帰りに駅前のアーケードをぶらぶらしていたら、下総さんに出くわしたそうだ。
「文栄堂からちょうど出て来たとこで、ああって声かけられて」
文栄堂は老舗の書店兼文具店である。
「下総さんって加奈子と仲良かったっけ」
「良くも悪くもない。てか、よく知らない」
加奈子は、下総さんと高校時代同じクラスになったこともなければ、ろくに話をしたこともないと言う。
ただ一度を除いては。
「三年生の夏休み、尾関先生が亡くなったじゃない」
尾関悟先生は国語の担当で、私と加奈子にとっては二年生のときの担任でもあった。
「尾関先生が亡くなって、今年で十年なんだよね」
「もう十年か」
「そうだよ。あのときは本当にショックだった」
「確かに」
尾関先生は愛車のバイクで北海道をツーリング中、対向車線から急に飛び出して来た飲酒運転のトラックと正面衝突し、亡くなってしまったのだ。
「ちゃんとお別れできなかったんだよね、私たち」
尾関先生の柩の蓋はずっと閉じられたままだった。
「智沙は尾関先生のこと好きだったから」
「そういうんじゃないよ」
私は、半ばとけてしまった宇治金時を匙で掬うと口に運んだ。
「それで、下総さんがどうしたの」
「お葬式のときね、ほんとたまたまなんだけど、傍に彼女がいて」
そこで、加奈子はジェラートを口に含む。
じれったい。
「たまたま、彼女のほうに顔向けたら、あれだけだめだって言ったのにって」
「加奈子に言ったの、下総さん」
「違う、ぼそぼそって独り言。なんか気持ちが悪かった」
「聞いたことなかったな」
「言わなかった。言うのも不謹慎な感じがしたし。気持ち悪いし。彼女のことよく知らないし」
加奈子らしいといえば加奈子らしい反応だ。
「声かけられたとき、誰だかわかんなかったくらい。でも、すぐに思い出して、お葬式のときのこと。やじゃない。こっちも、ああって頭下げて、それじゃあって別れようと思ったんだけどさ」
加奈子が急に黙り込む。
「何かあったの」
「何かって、ことじゃ、ない。ないけど」
また黙り込む。
「もう、なんなんだよ」
思わず私は口にする。
「あのひとね、あたしのこと見て、何か言いたそうにしてた。お葬式のときみたいな目で」
「思い込みじゃないの」
「違う、あのひと、ここんとこじっと見てた」
そう言って、加奈子は左手の薬指を突き出した。
フィアンセの高遠君が奮発したというダイヤのリングが、小さく光る。
「ううん、それって考え過ぎだよ、加奈子の」
「考え過ぎ」
「そうそう、考え過ぎだって」
けれど、私は自分で自分の言葉を今一つ信じ切ることができないでいた。
そんな私の心を見透かしたかのように、うそでしょ、と加奈子は口にした。
結局、そのあとも十一月の挙式に関して盛り上がらないまま、加奈子とは別れた。
2017年10月31日
『ほそゆき』のパイロット版9
☆『ほそゆき』のパイロット版9
九
烏丸で古城戸と別れた佳穂は、そこから地下鉄に乗り換えて北山へ向かった。地下鉄は仕事帰りの乗客で混雑していたが、それも概ね北大路までで、北山に着く頃には三分の二程度に減った。
急な階段を上って出口を出ると、沈む陽が山の稜線を照らしている。
はあ、と佳穂は思わず声を漏らした。
しばらくその場に佇んで、薄水色と橙色のあわいをしっかりと目に焼き付けてから、佳穂は下鴨中通りを北のほうへと歩き始めた。
吹く風が肌に冷たい。佳穂は薄手のカーディガンのボタンをかけた。
自転車に乗った洛北高校の女の子が二人、歌いながら目の前を走り去る。前の高音と後ろの低音が巧く重なり合っていてとても心地よい。後輩たちにつられて、佳穂もスピッツの『空も飛べるはず』のサビの部分を口ずさんだ。
数年前にリニューアルされた老舗の洋食レストランの横の小さな通りを左に曲がり、四軒ほど入った瀟洒な洋館の前に立ち止まると、佳穂はインターホンを押す。
「はい」
という苑子の張りのある声に、
「野川です」
と佳穂は応じた。
「どうぞ」
「失礼します」
佳穂が玄関の扉を開けると、いつものように薄茶色のスリッパが用意されていた。キッチンからは、ハーブティーの微かな香りが漂ってくる。
「お借りします」
と一言断って、佳穂は洗面所で手を洗った。
「こんばんは」
「いらっしゃい」
苑子は軽い笑みを浮かべて振り返ると、手で椅子に腰掛けるよう促した。下唇の左端がほんの少しだけ引きつっているのは、お転婆だった頃の勲章だと苑子は皮肉交じりに口にする。
佳穂に少し遅れて、苑子が対面の椅子に腰を下ろした。
「いただきます」
どうぞと言って苑子が差し出したティーカップを受け取ると、佳穂はゆっくりとカモミールティーを口に含んだ。
「ああ、ほっこりします」
「お疲れ様」
苑子もカモミールティーを口に含んだ。
「どう、調子のほうは」
「まあ、相変わらずです」
「そう」
「苑子さんは」
「まあ、相変わらず。でもないか」
佳穂の無言の問いかけに、
「もうちょっとしたらね」
と応じて、苑子はもう一度カモミールティーを口に含んだ。
「そうそう、タルトタタンなんだけど」
「はい」
佳穂はほんの少し姿勢を正した。
「今日は林檎じゃなくて、棗を使おうかと思うの」
「棗、ですか」
「そう。うちの庭に棗の木があってね、たくさん実が生るの。いつもはシロップで漬けたり、干したりしてるんだけど、佳穂さんからタルトタタンのお話があったでしょう。だったら、ちょうどいいかなと思って。ほら」
苑子が指し示したシンクの上には、棗の実が山盛りになったステンレス製のザルが置いてあった。
「さっき捥いでおいたの」
棗の実はほんのりと赤みがかかっていた。
「熟れ過ぎて落ちてしまうのも嫌だから」
「私、生の棗を見るの初めてかもしれません」
「だったら、齧ってみたら」
言うが早いか、苑子はザルの中から棗を二個摘まみ上げると、一個を佳穂に渡し、残りのほうは自分の口に運んだ。
「いただきます」
佳穂が棗を齧ると、口の中にほのかな甘みと酸味が広がった。食感は林檎に比べるとしゃくしゃくした感じが強いというか、けっこう粗い。
「生の棗もいけますね。ちょっと野暮ったい感じもしますけど、私は好きです」
「ならよかった。下ごしらえがそこそこ面倒なんだけど、佳穂さんだったら大丈夫でしょう」
「よろしくお願いいたします」
佳穂は神妙な面持ちで頭を下げた。
九
烏丸で古城戸と別れた佳穂は、そこから地下鉄に乗り換えて北山へ向かった。地下鉄は仕事帰りの乗客で混雑していたが、それも概ね北大路までで、北山に着く頃には三分の二程度に減った。
急な階段を上って出口を出ると、沈む陽が山の稜線を照らしている。
はあ、と佳穂は思わず声を漏らした。
しばらくその場に佇んで、薄水色と橙色のあわいをしっかりと目に焼き付けてから、佳穂は下鴨中通りを北のほうへと歩き始めた。
吹く風が肌に冷たい。佳穂は薄手のカーディガンのボタンをかけた。
自転車に乗った洛北高校の女の子が二人、歌いながら目の前を走り去る。前の高音と後ろの低音が巧く重なり合っていてとても心地よい。後輩たちにつられて、佳穂もスピッツの『空も飛べるはず』のサビの部分を口ずさんだ。
数年前にリニューアルされた老舗の洋食レストランの横の小さな通りを左に曲がり、四軒ほど入った瀟洒な洋館の前に立ち止まると、佳穂はインターホンを押す。
「はい」
という苑子の張りのある声に、
「野川です」
と佳穂は応じた。
「どうぞ」
「失礼します」
佳穂が玄関の扉を開けると、いつものように薄茶色のスリッパが用意されていた。キッチンからは、ハーブティーの微かな香りが漂ってくる。
「お借りします」
と一言断って、佳穂は洗面所で手を洗った。
「こんばんは」
「いらっしゃい」
苑子は軽い笑みを浮かべて振り返ると、手で椅子に腰掛けるよう促した。下唇の左端がほんの少しだけ引きつっているのは、お転婆だった頃の勲章だと苑子は皮肉交じりに口にする。
佳穂に少し遅れて、苑子が対面の椅子に腰を下ろした。
「いただきます」
どうぞと言って苑子が差し出したティーカップを受け取ると、佳穂はゆっくりとカモミールティーを口に含んだ。
「ああ、ほっこりします」
「お疲れ様」
苑子もカモミールティーを口に含んだ。
「どう、調子のほうは」
「まあ、相変わらずです」
「そう」
「苑子さんは」
「まあ、相変わらず。でもないか」
佳穂の無言の問いかけに、
「もうちょっとしたらね」
と応じて、苑子はもう一度カモミールティーを口に含んだ。
「そうそう、タルトタタンなんだけど」
「はい」
佳穂はほんの少し姿勢を正した。
「今日は林檎じゃなくて、棗を使おうかと思うの」
「棗、ですか」
「そう。うちの庭に棗の木があってね、たくさん実が生るの。いつもはシロップで漬けたり、干したりしてるんだけど、佳穂さんからタルトタタンのお話があったでしょう。だったら、ちょうどいいかなと思って。ほら」
苑子が指し示したシンクの上には、棗の実が山盛りになったステンレス製のザルが置いてあった。
「さっき捥いでおいたの」
棗の実はほんのりと赤みがかかっていた。
「熟れ過ぎて落ちてしまうのも嫌だから」
「私、生の棗を見るの初めてかもしれません」
「だったら、齧ってみたら」
言うが早いか、苑子はザルの中から棗を二個摘まみ上げると、一個を佳穂に渡し、残りのほうは自分の口に運んだ。
「いただきます」
佳穂が棗を齧ると、口の中にほのかな甘みと酸味が広がった。食感は林檎に比べるとしゃくしゃくした感じが強いというか、けっこう粗い。
「生の棗もいけますね。ちょっと野暮ったい感じもしますけど、私は好きです」
「ならよかった。下ごしらえがそこそこ面倒なんだけど、佳穂さんだったら大丈夫でしょう」
「よろしくお願いいたします」
佳穂は神妙な面持ちで頭を下げた。
2017年09月15日
京都映画百景 等持院「はりま」
☆京都映画百景 等持院「はりま」
年に一回か二回、どうしても急に食べたくなるものがある。
烏丸今出川・まろみ屋のコンビーフカレー、西院・三番食堂のとん汁と焼き鯖定食、百万遍・チックタックのボロネーゼ、そして等持院・はりまの豆腐丼。
学生時代、はりまには何度となく通ったものだ。
おつゆがしっかりしみ込んだ厚揚げ、玉子、牛すじ、こんにゃく、大根、ちくわのおでん定食。
わらじ大のチキンカツがどんと鎮座したビッグチキンカツ定食。
けれど、やっぱり一番先に選んでしまうのは、はりま名物の豆腐丼だった。
大ぶりの丼鉢にあつあつのごはん、その上に刻み海苔を敷き、絹ごし豆腐を一丁載せてじゃこと薄切りのおくらを散らし、かつぶし、みりん、薄口醤油で味付けした出汁をたっぷりかける。
竜安寺商店街の名店の絹ごしと代々秘伝の出汁が絡み合って、これがもう本当に美味いのだ。
特に夏の暑い盛り、めっきり食欲が落ちている時分でも、はりまの豆腐丼ならぺろりといける。
先日、映画関係のシンポジウムで母校を訪ねる機会があったので、せっかくだからとはりまに足を伸ばした。
文学部棟前の門を出て、等持院横の小さな道を嵐電の駅に向かってぶらぶらと歩く。
しばらくすると、年季が入った建物が見えてくる。
濃紺に白地で右斜め上からはりまと染められた暖簾をくぐって、ガラス戸を開けると、
「いらっしゃい、おお」
と、ご主人が声をかけてきた。
ご主人の播磨和夫さん、などと書いてしまうとなんだかこそばゆい。
と、言うのも、播磨と私は学生時代、同じサークルに所属していた同回生なのである。
久しぶりやな、一年ぶりやね、どうしてまた、映画のシンポジウムがあって、にしても立命に映画の学部ができるなんて思わんかったよな、という毎度のやり取りをすませたのち、一番奥のテーブルに腰を下ろした。
お茶を持ってくるのは、播磨のお嫁さん登美子さん。
「豆腐丼やんね」
登美子さんともかれこれ三十年近くの付き合いだ。
「もちろん。ああ、ゆっくりで構わんし」
「わかってるよ」
厨房から播磨が応える。
ルイボスティーを口に含みながら、店内を見回す。
あるべきものがきちんとそこにある、そんな些細なことがとても嬉しい。
はりまでは、今は亡き川谷拓三さんや有川博さんといった映画演劇関係の諸兄姉をお見かけしたことがあったが、軽く会釈をする程度で、話しかけるなんて無粋な真似は一切しなかった。
だいたい、はりま自体があれだけ映画人の通う店だというのに、サインの一枚も貼り出してはいない。
ただ、播磨の高祖父にあたる先々々々代の弥太郎さんと勝見善三が肩を組んだセピア色に変色した写真が一葉架けてあるだけだ。
それも、店の片隅にひっそりと。
よほどの映画ファンでも、勝見善三の名をご存じの方は少ないのではないか。
勝見善三。
大正の末から昭和の初めにかけて離合集散を繰り返した等持院撮影所(そう、等持院には映画の撮影所が設けられていた)の中で、大きく異彩を放った映画監督が彼である。
よし、はい、いいよ、でついたあだ名は早撮りの勝見、韋駄天の善さん。
それでいて、出来上がった作品に全く隙はない。
盟友中村辨之丞と組んだ一連のチャンバラ作品は中辨物として大いに人気を博した。
『七転八倒起ノ介』、『天下泰平碁盤の目』、『大流鏑馬』その他諸々。
けれど、実は勝見善三の作品は数多くの無声映画がそうであるように、一本たりとて現存していない。
今から二十五年ほど前になるか、コレクターとして著名な神戸のO氏が香芝市の旧家で『天下泰平碁盤の目』の保存状態のよいフィルムの一部を発見し大きな話題となったが、さあこれから公開するぞという折も折、阪神大震災が発生し、その他の貴重なコレクションと共に失われてしまった。
しかも、等持院撮影所が閉鎖されて以降の勝見善三の消息も不明だ。
東京に移った、満洲に渡った、アメリカに渡ったなどと、巷間様々に噂はされているのだけれど、実際のところは謎のままなのである。
そんな勝見善三は、はりまの豆腐丼を愛した。
と、言うより、そもそも勝見善三のために弥太郎さんは豆腐丼を考案したのであった。
「勝見さんは早撮りの人やろう。食事もささっと取りたがったそうやねんけど、あいにく細長いものは苦手とかで麺類が大嫌い。おまけに、肉や魚もほとんど食べん人で、豆腐がやたらに好きやったとか。それで、弥太郎さんが考え出したんがこの豆腐丼やねんな」
とは、当代主人の播磨の言。
そうそう、豆腐丼におくらが使われているのも、勝見善三がネギを嫌っていたからだとか。
彼は相当な偏食家だったようだ。
それにしても、はりまの豆腐丼がこうして残ったことは非常に嬉しい反面、結局勝見善三の名を現在に伝えるものがこれだけだとすると、なんとも哀しい。
そういえば、先ごろ亡くなった母校の恩師が、芸術は長く人生は短しという言葉を好んで口にしていたが、ときにそれは生活は長く芸術は短しと言い換えなければならないのではないか。
勝見善三に倣って七味をたっぷりとかけた豆腐丼を頬張りながら、私はそう思わずにはいられなかった。
年に一回か二回、どうしても急に食べたくなるものがある。
烏丸今出川・まろみ屋のコンビーフカレー、西院・三番食堂のとん汁と焼き鯖定食、百万遍・チックタックのボロネーゼ、そして等持院・はりまの豆腐丼。
学生時代、はりまには何度となく通ったものだ。
おつゆがしっかりしみ込んだ厚揚げ、玉子、牛すじ、こんにゃく、大根、ちくわのおでん定食。
わらじ大のチキンカツがどんと鎮座したビッグチキンカツ定食。
けれど、やっぱり一番先に選んでしまうのは、はりま名物の豆腐丼だった。
大ぶりの丼鉢にあつあつのごはん、その上に刻み海苔を敷き、絹ごし豆腐を一丁載せてじゃこと薄切りのおくらを散らし、かつぶし、みりん、薄口醤油で味付けした出汁をたっぷりかける。
竜安寺商店街の名店の絹ごしと代々秘伝の出汁が絡み合って、これがもう本当に美味いのだ。
特に夏の暑い盛り、めっきり食欲が落ちている時分でも、はりまの豆腐丼ならぺろりといける。
先日、映画関係のシンポジウムで母校を訪ねる機会があったので、せっかくだからとはりまに足を伸ばした。
文学部棟前の門を出て、等持院横の小さな道を嵐電の駅に向かってぶらぶらと歩く。
しばらくすると、年季が入った建物が見えてくる。
濃紺に白地で右斜め上からはりまと染められた暖簾をくぐって、ガラス戸を開けると、
「いらっしゃい、おお」
と、ご主人が声をかけてきた。
ご主人の播磨和夫さん、などと書いてしまうとなんだかこそばゆい。
と、言うのも、播磨と私は学生時代、同じサークルに所属していた同回生なのである。
久しぶりやな、一年ぶりやね、どうしてまた、映画のシンポジウムがあって、にしても立命に映画の学部ができるなんて思わんかったよな、という毎度のやり取りをすませたのち、一番奥のテーブルに腰を下ろした。
お茶を持ってくるのは、播磨のお嫁さん登美子さん。
「豆腐丼やんね」
登美子さんともかれこれ三十年近くの付き合いだ。
「もちろん。ああ、ゆっくりで構わんし」
「わかってるよ」
厨房から播磨が応える。
ルイボスティーを口に含みながら、店内を見回す。
あるべきものがきちんとそこにある、そんな些細なことがとても嬉しい。
はりまでは、今は亡き川谷拓三さんや有川博さんといった映画演劇関係の諸兄姉をお見かけしたことがあったが、軽く会釈をする程度で、話しかけるなんて無粋な真似は一切しなかった。
だいたい、はりま自体があれだけ映画人の通う店だというのに、サインの一枚も貼り出してはいない。
ただ、播磨の高祖父にあたる先々々々代の弥太郎さんと勝見善三が肩を組んだセピア色に変色した写真が一葉架けてあるだけだ。
それも、店の片隅にひっそりと。
よほどの映画ファンでも、勝見善三の名をご存じの方は少ないのではないか。
勝見善三。
大正の末から昭和の初めにかけて離合集散を繰り返した等持院撮影所(そう、等持院には映画の撮影所が設けられていた)の中で、大きく異彩を放った映画監督が彼である。
よし、はい、いいよ、でついたあだ名は早撮りの勝見、韋駄天の善さん。
それでいて、出来上がった作品に全く隙はない。
盟友中村辨之丞と組んだ一連のチャンバラ作品は中辨物として大いに人気を博した。
『七転八倒起ノ介』、『天下泰平碁盤の目』、『大流鏑馬』その他諸々。
けれど、実は勝見善三の作品は数多くの無声映画がそうであるように、一本たりとて現存していない。
今から二十五年ほど前になるか、コレクターとして著名な神戸のO氏が香芝市の旧家で『天下泰平碁盤の目』の保存状態のよいフィルムの一部を発見し大きな話題となったが、さあこれから公開するぞという折も折、阪神大震災が発生し、その他の貴重なコレクションと共に失われてしまった。
しかも、等持院撮影所が閉鎖されて以降の勝見善三の消息も不明だ。
東京に移った、満洲に渡った、アメリカに渡ったなどと、巷間様々に噂はされているのだけれど、実際のところは謎のままなのである。
そんな勝見善三は、はりまの豆腐丼を愛した。
と、言うより、そもそも勝見善三のために弥太郎さんは豆腐丼を考案したのであった。
「勝見さんは早撮りの人やろう。食事もささっと取りたがったそうやねんけど、あいにく細長いものは苦手とかで麺類が大嫌い。おまけに、肉や魚もほとんど食べん人で、豆腐がやたらに好きやったとか。それで、弥太郎さんが考え出したんがこの豆腐丼やねんな」
とは、当代主人の播磨の言。
そうそう、豆腐丼におくらが使われているのも、勝見善三がネギを嫌っていたからだとか。
彼は相当な偏食家だったようだ。
それにしても、はりまの豆腐丼がこうして残ったことは非常に嬉しい反面、結局勝見善三の名を現在に伝えるものがこれだけだとすると、なんとも哀しい。
そういえば、先ごろ亡くなった母校の恩師が、芸術は長く人生は短しという言葉を好んで口にしていたが、ときにそれは生活は長く芸術は短しと言い換えなければならないのではないか。
勝見善三に倣って七味をたっぷりとかけた豆腐丼を頬張りながら、私はそう思わずにはいられなかった。
2017年09月06日
京都映画百景 北山「しのぶ堂」
先日、北山を舞台にした映画のシナハンを行っている際に、しのぶ堂という一軒の喫茶店を見つけた。
コンサートホール側の出口から地下鉄の駅を出て、横断歩道を東に向かって渡り、二つ目の通りを南に入ってしばらく歩くと三階建ての小ぶりなビルがあって、その一階がしのぶ堂である。
焦げ茶色地に白でしのぶ堂と記された木製の看板よりも、その横に貼ってある市川雷蔵主演、田中徳三監督の『眠狂四郎 女地獄』のポスターのほうがとても目立つ。
現に私もそのポスターに釣られた口で、思わずガラス戸を開けると、ブラームスの弦楽六重奏曲第一番の第二楽章と、いらっしゃいませというマスターの低くて落ち着きのある声に迎えられた。
マスターの名は、信夫謙介。
つまり、しのぶ堂とはマスター自身の名前にちなむものだ。
敗戦の年、一九四五年の十月生まれだそうだが、銀髪長身の飄々然としたその容姿を目にすれば、一回りは若いと口にしても満更お世辞にはあたるまい。
シックで落ち着いた店内には、大映京都で制作された田中徳三監督の作品のポスターが程よい具合に貼り付けられてある。
「全部、本物ですよ」
私の視線に気がついたのだろう、マスターがそう言った。
「恥ずかしながら、全部私が出演した映画なんです」
訊けば、マスターは忍剣介の芸名で大映京都撮影所に所属していたという。
地元洛北高校から京大法学部へストレートで入学。
そんな前途洋々な信夫さんには、中学生の頃から秘めた想いがあったそうだ。
「とにかく映画が好きだったんですよ。できればそっちの世界で仕事がしたくて」
と言いながら、信夫さんはブレンドコーヒーを差し出した。
香り、味わいともに絶妙のバランスで、実に美味しい。
「たまたま私の父が田中徳三監督の関学時代の同期だったんです。子供の頃から、何度もお会いしてましたしね」
それで、日参直談判を繰り返した末に、大映撮影所に入所することが適ったというのだから、まさしく一念岩をも通す。
「はじめはあかんあかんの一点張りで。けど、そのうち徳三先生も音を上げて。お父さんには内緒やでって申し訳なさそうに。自ら泥舟に乗るなんて君もあほやなとも言われました」
信夫さんが入所したのは、一九六七年の春。
その年の秋には、大映の経営不振が明らかになるわけで、確かに信夫さんの乗った永田ラッパ丸は泥舟だった。
「本当は裏方志望だったんですけど、お前たっぱあるから役者やれって言われて。そうなったら、嫌も応もありません。本名が信夫謙介やから、荒木忍さん(大映京都のベテラン俳優)にあやかって忍剣介はどないやって芸名のほうもするすると。名前の件で荒木さんにご挨拶に伺ったら、いいよいいよ、ちっともかまわんよって。優しい方でした」
初出演作は、恩人田中徳三監督の『ひき裂かれた盛装』。
黒岩重吾の『夜間飛行』を原作とした、成田三樹夫、藤村志保、安田(現大楠)道代出演による現代劇だ。
中でも、悪女役を演じた藤村志保が強く印象に残る。
「出演といっても、その他大勢の一人なんですが。それでも緊張しましたよ。一応、中学高校大学と演劇はやってましたけど。プロと学生では違うじゃないですか。それに、映画では芝居の質も違いますし」
以降、忍剣介は数々の作品に出演を重ねる。
けれど、なかなか芽が出ない。
いや、芽が出ないどころか、出演するといっても台詞などないエキストラばかりが続く。
そうした中、あの市川雷蔵が信夫さんにとって忘れられない一言を発する。
「君な、図体のでかい人間が縮こまって見せたら、それだけで目立ってしまうんや。電信柱は電信柱でええやないか。ぼそっとね、聞こえるか聞こえない感じで。それこそ眠狂四郎にばっさりやられたような気分でした」
それでも信夫さんは必死で努力した。
寝る間も惜しんで演技の稽古に勤しんだ。
殺陣に乗馬、舞踊に歌唱と励みに励んだ。
しかし、もがいてももがいても道は開けて来なかった。
「努力すれば夢は適うって言うでしょう。あるところまでは確かに適うんです。でも、そこから先が難しいんですね」
そうこうするうち、市川雷蔵は亡くなり(同じ一九六九年に荒木忍も亡くなっている)、大映の経営はますます悪化していった。
「最後の頃はやること為すこと裏目裏目でした。みんな、なんともぎすぎすした感じでね」
そして、一九七一年の大映の倒産を機に信夫さんは映画の世界を後にする。
「中途半端な形になって申し訳ありませんと頭を下げたんです。せっかくお骨折りいただいたのにもかかわらずと。先生は、いや、こっちこそすまんことしたな。ぽつりとそうおっしゃったんです。思わず涙が零れました」
信夫さんは友人の伝手である私立大学の事務職員に採用され、定年までそこで務めた。
夫人の優子さんと出会ったのも、その私立大学でだ。
「ここもね、もとはといえば妻の実家の土地なんですよ。彼女が一人娘だったもので。何が幸いするかわかりませんね」
信夫さんはそう微笑む。
「しんどいことも嫌なこともたくさんあったけれど、やはり撮影所時代の生活は懐かしいですよ。雷蔵さんや勝新さんはもちろんのこと、南部(彰三)さん、水原(浩一)さん、伊達(三郎)さん、伴(勇太郎)さん、一癖も二癖もある方が揃ってましたしね。テレビなどで平泉(成)さんの活躍を目にすると、なんだか我が事のように嬉しいですね。あとは、木村(元)さんや上野山(功一)さんがご存命なのかな男優では。ただね、徳三先生も亡くなられたし、五味龍(太郎)さんも亡くなられたし、どんどん寂しくなっていって。場所は北山ですが、大映京都の記憶をちょっとでも伝えられたらなと私は思っているんです」
もしかしたら、しのぶ堂とは偲ぶ堂でもあるのかもしれない。
2017年08月27日
『ほそゆき』のパイロット版8
☆『ほそゆき』のパイロット版8
八
定時で庁舎をあとにした佳穂は、いったんマンションに戻って準備をすませてから阪急の駅へと向かった。特急の先頭車両に乗り込むと、ちょうど四人掛けの席の通路側が一つ空いている。譲るべき相手もいなさそうだったので、佳穂はそのまま腰を下ろした。
「野川さんやろ」
佳穂がトートバッグの中からレシピを記したノートを取り出して眺め始めたとき、左斜め前から男性の声がした。
「古城戸君」
「やっぱり野川さんや」
古城戸はくしゃくしゃっと相好を崩すと、
「久しぶりやんな」
と続けた。
「ごめん、気付かんかった。ほんま久しぶりやね」
「卒業式以来やから、五年ぶりにはなるんやないかな」
「そっか、もう五年かあ」
「あっという間やね」
「そやね。最近、時間が過ぎるのがほんと速いわ」
「確かにね」
古城戸は小さく頷いた。
「仕事帰り」
「ううん、ちょっと用事があって。古城戸君は」
「取引先との打ち合わせ」
佳穂は古城戸の膝の上に載ったクリーム色の封筒に目をやった。封筒には、住所や電話番号と共に近畿経済ネットワークという会社名がプリントされていた。
「これから」
「まあ、打ち合わせといっても、祇園で飲むだけやけどね」
「祇園で」
「接待ってやつ」
「ああそっか。大変やねえ」
「野川さんはどうしてんの」
「一応公務員。詳しく言うと、市役所の外郭団体の職員ってことになるんやけどね」
「へえ、野川さんがねえ」
古城戸が心底驚いたような表情を見せた。
「自分でも、まさか自分が公務員って感じやわ」
「言うても、安定してるからなあ」
「ありがたいことやけど、でも、まあ」
そこで佳穂は言葉を止めた。
「そうそう、お姉さんと妹さんはどうしてんの」
「あっ、覚えてた」
「覚えてるよ。あれってゼミの自己紹介のときやったかな。私は四人姉妹の二番目ですって野川さんが言って。こっちが三人兄弟の長男ですって言ったとたん、うわあ、誰かトレードして欲しいわって野川さんが」
「えっ、そんなことあったっけ」
「あったよ、大きな声で」
「そんな大きな声やなかったよ」
「覚えてるやん」
「今思い出した」
「もう。そういうとこちっとも変わってへんね」
古城戸が苦笑した。
「姉は今ドイツ」
「ベルリン」
「いや、ケルン。国際交流基金かな、そこに出向してる」
「へえ」
「すぐ下の妹は京大の院生で、末っ子は造形の映画学科に入った」
「映画学科」
「うん、俳優コース」
「凄いなあ、黒木華とか吉岡里帆を目指してるんかな」
「本人は、シナリオの書ける俳優になるんやって言うてるわ」
「ふうむ」
と言って腕組みするのは、何か感心することがあったときの古城戸の癖だ。
「古城戸君はどんな仕事してんの」
「僕か。僕は、京都の街のリノベーションとイノベーションのお手伝いやなあ」
佳穂の反応を見て、
「わかりやすく言うと、再開発ってこと」
と古城戸は言い換えた。
「再開発」
「ほら、今度京都に文化庁が移転するやろ」
「なんかそうみたいやね」
「あれにあわせて、京都市の南っかわ、あの辺りを文化芸術に特化した地域に再生しようって動きがあんねん。市芸を移転させたりして。うちもそれに関係することになって」
「へええ、私は左京の人間やから、あっこら辺のことはようわからんなあ」
「そうなんや」
「うん。だいいち、京都駅から南側ってそもそも行く機会がないし」
「そっか。まあ、うちはホテルとか民泊とか、観光客の誘致を狙ってるんやけどね」
「なるほどなあ。確かにあっこら辺は京都以外の人のほうがなじみやすいかもな」
佳穂は小さく咳をした。
「そうや、野川さんって長池の連絡先知らんかな」
「雅人の」
「うん、ちょっと確認したいことがあってね」
「そっか。ごめんやけど、私もあの人の連絡先知らんのよ。もう三年以上会ってへんし」
「野川さんも知らんのか」
「わからへんなあ」
佳穂は大きく首を横に振った。
「いや、それならしゃあないね」
そう言いながらも、古城戸はとても残念そうな顔をした。
八
定時で庁舎をあとにした佳穂は、いったんマンションに戻って準備をすませてから阪急の駅へと向かった。特急の先頭車両に乗り込むと、ちょうど四人掛けの席の通路側が一つ空いている。譲るべき相手もいなさそうだったので、佳穂はそのまま腰を下ろした。
「野川さんやろ」
佳穂がトートバッグの中からレシピを記したノートを取り出して眺め始めたとき、左斜め前から男性の声がした。
「古城戸君」
「やっぱり野川さんや」
古城戸はくしゃくしゃっと相好を崩すと、
「久しぶりやんな」
と続けた。
「ごめん、気付かんかった。ほんま久しぶりやね」
「卒業式以来やから、五年ぶりにはなるんやないかな」
「そっか、もう五年かあ」
「あっという間やね」
「そやね。最近、時間が過ぎるのがほんと速いわ」
「確かにね」
古城戸は小さく頷いた。
「仕事帰り」
「ううん、ちょっと用事があって。古城戸君は」
「取引先との打ち合わせ」
佳穂は古城戸の膝の上に載ったクリーム色の封筒に目をやった。封筒には、住所や電話番号と共に近畿経済ネットワークという会社名がプリントされていた。
「これから」
「まあ、打ち合わせといっても、祇園で飲むだけやけどね」
「祇園で」
「接待ってやつ」
「ああそっか。大変やねえ」
「野川さんはどうしてんの」
「一応公務員。詳しく言うと、市役所の外郭団体の職員ってことになるんやけどね」
「へえ、野川さんがねえ」
古城戸が心底驚いたような表情を見せた。
「自分でも、まさか自分が公務員って感じやわ」
「言うても、安定してるからなあ」
「ありがたいことやけど、でも、まあ」
そこで佳穂は言葉を止めた。
「そうそう、お姉さんと妹さんはどうしてんの」
「あっ、覚えてた」
「覚えてるよ。あれってゼミの自己紹介のときやったかな。私は四人姉妹の二番目ですって野川さんが言って。こっちが三人兄弟の長男ですって言ったとたん、うわあ、誰かトレードして欲しいわって野川さんが」
「えっ、そんなことあったっけ」
「あったよ、大きな声で」
「そんな大きな声やなかったよ」
「覚えてるやん」
「今思い出した」
「もう。そういうとこちっとも変わってへんね」
古城戸が苦笑した。
「姉は今ドイツ」
「ベルリン」
「いや、ケルン。国際交流基金かな、そこに出向してる」
「へえ」
「すぐ下の妹は京大の院生で、末っ子は造形の映画学科に入った」
「映画学科」
「うん、俳優コース」
「凄いなあ、黒木華とか吉岡里帆を目指してるんかな」
「本人は、シナリオの書ける俳優になるんやって言うてるわ」
「ふうむ」
と言って腕組みするのは、何か感心することがあったときの古城戸の癖だ。
「古城戸君はどんな仕事してんの」
「僕か。僕は、京都の街のリノベーションとイノベーションのお手伝いやなあ」
佳穂の反応を見て、
「わかりやすく言うと、再開発ってこと」
と古城戸は言い換えた。
「再開発」
「ほら、今度京都に文化庁が移転するやろ」
「なんかそうみたいやね」
「あれにあわせて、京都市の南っかわ、あの辺りを文化芸術に特化した地域に再生しようって動きがあんねん。市芸を移転させたりして。うちもそれに関係することになって」
「へええ、私は左京の人間やから、あっこら辺のことはようわからんなあ」
「そうなんや」
「うん。だいいち、京都駅から南側ってそもそも行く機会がないし」
「そっか。まあ、うちはホテルとか民泊とか、観光客の誘致を狙ってるんやけどね」
「なるほどなあ。確かにあっこら辺は京都以外の人のほうがなじみやすいかもな」
佳穂は小さく咳をした。
「そうや、野川さんって長池の連絡先知らんかな」
「雅人の」
「うん、ちょっと確認したいことがあってね」
「そっか。ごめんやけど、私もあの人の連絡先知らんのよ。もう三年以上会ってへんし」
「野川さんも知らんのか」
「わからへんなあ」
佳穂は大きく首を横に振った。
「いや、それならしゃあないね」
そう言いながらも、古城戸はとても残念そうな顔をした。
2017年08月18日
『ほそゆき』のパイロット版7
☆『ほそゆき』のパイロット版7
七
「あう、あう、あう、あう」
主任補佐の松本がいつものように発作を起こしている。いつものことなので、誰も気に留めない。もしくは、気に留めないそぶりを見せている。佳穂も同じだ。
「あう、あう、あう、あう」
と繰り返してから、松本の発作はようやく治まった。
と、今度は局次長の石室が、ぜいぜいぜいと咳をし始める。
ファイル類で間を挟んだ真向かいの席の泉はファッション雑誌を読みふけり、右隣の席の粕谷は半月前から欠勤し続けたままである。
「なあ、野川さん」
左隣の席の高鍋が低く押し殺した声で尋ねてきた。佳穂は手を止めて、
「なんですか」
と訊き返した。
「野川さん、ほんま真面目やなあ」
「真面目」
「そうやない、今日もずっと仕事してるんやもの」
「だって、それは」
という佳穂の言葉を遮るように、
「まあ、水無瀬さんに頼まれてるんやからしゃあないよね」
と言って、高鍋はクラッカーを口に入れた。口の周りに付いた小さなかすが机の上へと落ちて行く。
「仕事頼むんなら、あの子に頼めばいいのに。そのための派遣さんやろう」
高鍋は佳穂と同じ列の一番右端の仁科を顎で指すと、ペットボトルのコーラを口に含んで、うぶっとげっぷをした。仁科は完璧なブラインドタッチでPC作業を進めている。
「そら、水無瀬さんはあと一年半もすれば移動やろうけど。あたしらはずっとここか支所なんやから。そこら辺のこときちんと理解しといてもらわんとあかんわ。野川さんもそう思うやろ」
「私は」
高鍋は佳穂の返事を聞こうともせずに立ち上がり、右手で背中をせわしなく掻きながら部屋を出て行った。
ぜいぜいぜい、と石室がまた重苦しい咳を始めた。
七
「あう、あう、あう、あう」
主任補佐の松本がいつものように発作を起こしている。いつものことなので、誰も気に留めない。もしくは、気に留めないそぶりを見せている。佳穂も同じだ。
「あう、あう、あう、あう」
と繰り返してから、松本の発作はようやく治まった。
と、今度は局次長の石室が、ぜいぜいぜいと咳をし始める。
ファイル類で間を挟んだ真向かいの席の泉はファッション雑誌を読みふけり、右隣の席の粕谷は半月前から欠勤し続けたままである。
「なあ、野川さん」
左隣の席の高鍋が低く押し殺した声で尋ねてきた。佳穂は手を止めて、
「なんですか」
と訊き返した。
「野川さん、ほんま真面目やなあ」
「真面目」
「そうやない、今日もずっと仕事してるんやもの」
「だって、それは」
という佳穂の言葉を遮るように、
「まあ、水無瀬さんに頼まれてるんやからしゃあないよね」
と言って、高鍋はクラッカーを口に入れた。口の周りに付いた小さなかすが机の上へと落ちて行く。
「仕事頼むんなら、あの子に頼めばいいのに。そのための派遣さんやろう」
高鍋は佳穂と同じ列の一番右端の仁科を顎で指すと、ペットボトルのコーラを口に含んで、うぶっとげっぷをした。仁科は完璧なブラインドタッチでPC作業を進めている。
「そら、水無瀬さんはあと一年半もすれば移動やろうけど。あたしらはずっとここか支所なんやから。そこら辺のこときちんと理解しといてもらわんとあかんわ。野川さんもそう思うやろ」
「私は」
高鍋は佳穂の返事を聞こうともせずに立ち上がり、右手で背中をせわしなく掻きながら部屋を出て行った。
ぜいぜいぜい、と石室がまた重苦しい咳を始めた。
2017年08月15日
『ほそゆき』パイロット版6
☆『ほそゆき』パイロット版6
六
急に寒気がしたので、佳穂は目を醒ました。九月に入って朝方は特に気温が下がってきたから、用心をして厚手のタオルケットをかけて寝たのだが、どうやらそれだけでは足りなかったらしい。枕元に置いたスマホを確認すると、まだ六時過ぎだ。
「あんた、なんしてんの」
佳穂は上半身を起こすと、腹這いになってスマホをいじっている隣の布団の優の後頭部を軽くはたいた。
「あいたたたっ、何すんのや」
優が左手で後頭部を擦りながら言った。
「あんたこそ何してんの」
「何て、今日の集合場所の」
「そやない。なんでエアコンなんか入れんのよ」
佳穂は優の手元にあったリモコンを取り上げて、エアコンの電源を切った。
「だって、まだ暑いやんか」
「どこが暑いん。全然暑ないやないの」
「それはまあ、前ほどには暑くはないかもしれんけども。けどもやなあ、僕にはちょっとだけ暑いような気がしたんやからしゃあないやんか」
仰向けになった優が、ぼそぼそとした声で言った。
「ほんま」
小さく舌打ちをして、佳穂は再び横になった。
「あれ、起きへんの」
「起きひんよ。あんたおじいちゃんか」
「おじいちゃんではないけど、おっさんではあるなあ」
あはは、と桂枝雀のように優はわざとらしい笑い方をした。
「あははやないわ」
「佳穂ちゃん、今日ってお菓子の日やんなあ」
「そや、タルトタタンを教えてもらうことになってんの」
「僕なんか、ヤルトタタンやなあ」
「あほが」
佳穂は再び上半身を起こすと、優の禿げ上がった額をぱんと思い切りはたいた。
六
急に寒気がしたので、佳穂は目を醒ました。九月に入って朝方は特に気温が下がってきたから、用心をして厚手のタオルケットをかけて寝たのだが、どうやらそれだけでは足りなかったらしい。枕元に置いたスマホを確認すると、まだ六時過ぎだ。
「あんた、なんしてんの」
佳穂は上半身を起こすと、腹這いになってスマホをいじっている隣の布団の優の後頭部を軽くはたいた。
「あいたたたっ、何すんのや」
優が左手で後頭部を擦りながら言った。
「あんたこそ何してんの」
「何て、今日の集合場所の」
「そやない。なんでエアコンなんか入れんのよ」
佳穂は優の手元にあったリモコンを取り上げて、エアコンの電源を切った。
「だって、まだ暑いやんか」
「どこが暑いん。全然暑ないやないの」
「それはまあ、前ほどには暑くはないかもしれんけども。けどもやなあ、僕にはちょっとだけ暑いような気がしたんやからしゃあないやんか」
仰向けになった優が、ぼそぼそとした声で言った。
「ほんま」
小さく舌打ちをして、佳穂は再び横になった。
「あれ、起きへんの」
「起きひんよ。あんたおじいちゃんか」
「おじいちゃんではないけど、おっさんではあるなあ」
あはは、と桂枝雀のように優はわざとらしい笑い方をした。
「あははやないわ」
「佳穂ちゃん、今日ってお菓子の日やんなあ」
「そや、タルトタタンを教えてもらうことになってんの」
「僕なんか、ヤルトタタンやなあ」
「あほが」
佳穂は再び上半身を起こすと、優の禿げ上がった額をぱんと思い切りはたいた。
2017年08月12日
『ほそゆき』パイロット版5
☆『ほそゆき』パイロット版5
五の二
「お先」
Tシャツと短パン姿の詠美はキッチンに現れると、雪子のグラスを掴んで麦茶を飲み干した。
「ああ、美味しい」
「あんたはもお」
「ええやない、姉妹なんやから」
「ちゃんとお風呂入ったの」
「シャワーだけ」
詠美はそのまま居間に向かった。
「聖子さん、何観てるん」
「牡丹燈籠」
「うわっ、怪談やん」
「山本薩夫さんが撮りはった」
「山本薩夫って、あの山本薩夫」
詠美が驚きの声を上げた。
「せや。太秦の大映で撮りはったんや」
「へえ。あっ、西村晃と小川真由美。濃いいなあ」
「なあ、お母さん、お風呂入る」
「お前の耳は節穴かあ」
聖子が芝居風な口調で応えた。
「はいはい。入る」
「うん」
雪子が頷くや否や、
「ちょっと待って、歯あ磨くわ」
と俊明が洗面所に駆けて行った。
「ほんま、あの人せわしない」
聡子が再び麦茶を口に含んだ。
「なあ」
「何」
「ゆっこちゃん、どないすんの」
「ううん」
「研究続けるんやったら、それはそれでかまへんのやけど」
「うん」
「まあ、まだ一年はあるしな。そや、街中に出るんやったら、化粧ぐらいしといたほうがええんやないの。いつまでもわこないんやから」
「わかった」
「おまっとさん」
俊明が戻って来たので、雪子は立ち上がって洗面所へ向かった。
しばらく鏡の中の自分を見つめてから丁寧に歯を磨くと、雪子は着ている物を全て脱いだ。詠美のソックスの片方が落ちていたので、洗濯機の中へ一緒に放り込んでおいた。
もう一度鏡に目をやると、丸みの少ない裸の姿がそこには映っていた。
身体を洗い髪を洗い終えた雪子は、ゆっくりと湯舟に浸かった。
はあとため息を吐いたとたん、急に涙が零れ出た。
なかなか涙が止まりそうになかったので、雪子は目を閉じ左手の親指と人差し指で鼻を摘まむと、思い切ってお湯の中へと全身を潜らせた。
五の二
「お先」
Tシャツと短パン姿の詠美はキッチンに現れると、雪子のグラスを掴んで麦茶を飲み干した。
「ああ、美味しい」
「あんたはもお」
「ええやない、姉妹なんやから」
「ちゃんとお風呂入ったの」
「シャワーだけ」
詠美はそのまま居間に向かった。
「聖子さん、何観てるん」
「牡丹燈籠」
「うわっ、怪談やん」
「山本薩夫さんが撮りはった」
「山本薩夫って、あの山本薩夫」
詠美が驚きの声を上げた。
「せや。太秦の大映で撮りはったんや」
「へえ。あっ、西村晃と小川真由美。濃いいなあ」
「なあ、お母さん、お風呂入る」
「お前の耳は節穴かあ」
聖子が芝居風な口調で応えた。
「はいはい。入る」
「うん」
雪子が頷くや否や、
「ちょっと待って、歯あ磨くわ」
と俊明が洗面所に駆けて行った。
「ほんま、あの人せわしない」
聡子が再び麦茶を口に含んだ。
「なあ」
「何」
「ゆっこちゃん、どないすんの」
「ううん」
「研究続けるんやったら、それはそれでかまへんのやけど」
「うん」
「まあ、まだ一年はあるしな。そや、街中に出るんやったら、化粧ぐらいしといたほうがええんやないの。いつまでもわこないんやから」
「わかった」
「おまっとさん」
俊明が戻って来たので、雪子は立ち上がって洗面所へ向かった。
しばらく鏡の中の自分を見つめてから丁寧に歯を磨くと、雪子は着ている物を全て脱いだ。詠美のソックスの片方が落ちていたので、洗濯機の中へ一緒に放り込んでおいた。
もう一度鏡に目をやると、丸みの少ない裸の姿がそこには映っていた。
身体を洗い髪を洗い終えた雪子は、ゆっくりと湯舟に浸かった。
はあとため息を吐いたとたん、急に涙が零れ出た。
なかなか涙が止まりそうになかったので、雪子は目を閉じ左手の親指と人差し指で鼻を摘まむと、思い切ってお湯の中へと全身を潜らせた。
『ほそゆき』パイロット版4
☆『ほそゆき』パイロット版4
五の一
「それで、そのあとどないなったの」
冷蔵庫に千枚漬けの入ったタッパーを収めた聡子が、俊明の隣の椅子に腰掛けて尋ねた。俊明は妻と娘の会話を聴くとはなしに聴きながら、お茶漬けを流し込んでいる。
「サイン会には並ばれへんかったけど、イベントには参加してはった」
雪子はそう言って麦茶を口に含んだ。
「なあんや」
と、つまらなさそうに応じると、聡子も麦茶を口に含んだ。
「なあんやてなんや」
お茶漬けを食べ終えた俊明が口を挟む。聡子は俊明の茶碗に麦茶を注いだ。
「だって、もっとなんかおかしなことになるんやないのかなあて」
「おかしなことなんて、それ以上起こるわけないやないか」
という俊明の言葉に、雪子は黙って頷いた。
「それで、ごはんはすませてきたの」
「うん。詠美ちゃんと二人で」
「何食べたん」
「シェーキーズのピザとかパスタ。ついでにカレーも」
「ふうん」
聡子が菓子盆から胡桃の柚餅子を摘まんだ。聡子につられて雪子も菓子盆に手を伸ばした。
「まあだ食べるんか」
「ええやないの、別腹別腹」
野川家の女性は皆、健啖家であるにも関わらずスリムな体系を維持している。
「ほんまに母娘やなあ」
そう言って立ち上がった俊明に向かって、
「どこ行かはるの」
と聡子が尋ねた。
「どこて、歯磨きやないか」
「詠美がお風呂に入ってるやない」
「あっ、そうやった」
俊明は自分の使った食器類を器用に重ねて手にすると、シンクで軽く水洗いしてから備え付けの食洗機に並べた。
「おおきに」
「滅相もない」
俊明はそのまま居間に足を向けると、テレビで衛星放送の邦画を観ている聖子に、
「ごっつぉはんでした」
と声をかけた。
「よろしゅうおあがり」
と返事をした聖子は再びテレビに視線を移した。俊明は俊明でテーブルの上の夕刊を手に取り、老眼鏡をかけてそれを捲り始めた。
五の一
「それで、そのあとどないなったの」
冷蔵庫に千枚漬けの入ったタッパーを収めた聡子が、俊明の隣の椅子に腰掛けて尋ねた。俊明は妻と娘の会話を聴くとはなしに聴きながら、お茶漬けを流し込んでいる。
「サイン会には並ばれへんかったけど、イベントには参加してはった」
雪子はそう言って麦茶を口に含んだ。
「なあんや」
と、つまらなさそうに応じると、聡子も麦茶を口に含んだ。
「なあんやてなんや」
お茶漬けを食べ終えた俊明が口を挟む。聡子は俊明の茶碗に麦茶を注いだ。
「だって、もっとなんかおかしなことになるんやないのかなあて」
「おかしなことなんて、それ以上起こるわけないやないか」
という俊明の言葉に、雪子は黙って頷いた。
「それで、ごはんはすませてきたの」
「うん。詠美ちゃんと二人で」
「何食べたん」
「シェーキーズのピザとかパスタ。ついでにカレーも」
「ふうん」
聡子が菓子盆から胡桃の柚餅子を摘まんだ。聡子につられて雪子も菓子盆に手を伸ばした。
「まあだ食べるんか」
「ええやないの、別腹別腹」
野川家の女性は皆、健啖家であるにも関わらずスリムな体系を維持している。
「ほんまに母娘やなあ」
そう言って立ち上がった俊明に向かって、
「どこ行かはるの」
と聡子が尋ねた。
「どこて、歯磨きやないか」
「詠美がお風呂に入ってるやない」
「あっ、そうやった」
俊明は自分の使った食器類を器用に重ねて手にすると、シンクで軽く水洗いしてから備え付けの食洗機に並べた。
「おおきに」
「滅相もない」
俊明はそのまま居間に足を向けると、テレビで衛星放送の邦画を観ている聖子に、
「ごっつぉはんでした」
と声をかけた。
「よろしゅうおあがり」
と返事をした聖子は再びテレビに視線を移した。俊明は俊明でテーブルの上の夕刊を手に取り、老眼鏡をかけてそれを捲り始めた。
2017年08月10日
『ほそゆき』パイロット版3
☆『ほそゆき』パイロット版3
四
速足の詠美のあとを三歩ほど遅れて雪子が歩く。
あれから平原にしつこく付け回されて、なんとか家まで帰り着いたことを雪子はタクシーの中で詠美に詳しく説明した。それは災難やったねと口では言うものの、詠美は頬を軽く膨らませたままだった。
支払いを雪子に任せると、詠美はタクシーを降りて黙って歩き始めた。輪ゴムでまとめた詠美の後ろ髪がゆらゆらと左右に揺れているのを目にして、雪子は思わず微笑んだ。
「何わろてんの」
振り向きざまに詠美が言った。
「詠美ちゃん、ポニーテールやなあ」
「はっ」
と声を上げただけで、詠美は再び前を向いた。
「あっ、あそこや」
詠美が指差した先には、けっこうな人だかりが出来ていた。
「わっちゃあ、混んでんなあ」
「流石はとびうめ」
詠美と肩を並べた雪子が応じた。
「はよ行かな」
「うん」
と頷くと、雪子は詠美につられて駆け出した。
ちょうど六角と蛸薬師の真ん中辺り、寺町通りに面したアニメワンダーワールドという書店とグッズショップを兼ねた三階建てのビルが雪子と詠美の目指す場所であった。五時からここで、テレビアニメの『とびうお梅太郎』、通称とびうめのイベントが開催されるのである。いわゆるオタクの雪子はとびうめにどっぷりとはまっていたのだが、一人でイベントに参加するのはどうにも気が重い。それで雪子は、オタクとまでは言わないけれどアニメにも十分理解のある妹の詠美を誘ったのだ。
「そんなこと聞いてないよお」
甲高い女性の声が轟いた。
とびうめファンと思しき人たちが集結していること自体に間違いはなさそうなものの、どうも様子がおかしい。詠美と雪子が人だかりの中を覗くと、ハンプティダンプティか京都のご当地キャラクターのまゆまろの頭に三つ編みのウイッグをちょこんとのっけたような身体つきをした女性が両手を大きく振り回しながら、オレンジ色の制服を着たアニメワンダーワールドの社員の男性に向かって激しく捲し立てていた。レモン地のTシャツの背中に緑でプリントされたとびうめのマスコットキャラ、波乗りイルカが膨れ上がってまるで鯱か鯨のように見える。
「誠に申し訳ございませんが、本日のサイン会に関しては、当店の商品をお買い上げの際にお渡しするイベント参加券をお持ちいただく必要がござ」
「だから、私は知らなかったんだよお」
「知らないと申されましても」
「いい、私は純君にサインしてもらうために東京からやって来たの。ほら、この入鹿っちのフィギュア見て、私とびうめの大ファンなんだよお」
女性がぼろぼろの手提げカバンの中から、主人公飛永梅太郎のライバルである曽我部入鹿のフィギュアを取り出した。
「あの、それはどちらのお店で」
「どこだっていいじゃない、入鹿っちは入鹿っちなんだから。これがお見合い三連発だとかまたたびにゃんごろうのフィギュアだったら、私だってそんなの絶対だめだよおって怒っちゃうとこだけどねえ」
「いや、ですから本日のイベントは」
「もお、これだけ言ってもわかってくれないのお、三階チーフのあらがき君は」
女性は男性のネームプレートに目を走らせていたらしい。
「あの、わたくしにいがきと」
「そんなことはどうだっていいのよお。いや、にいがき君にとっちゃよくないことだろうけど、今はいいのよお。ねえ、お願い。純君のサイン会に私も並ばせてよお」
「ですからそれは」
「ここまで言ってもわかんないならもういい」
そう言うと、女性は手提げカバンの中から銀色の小さな何かを取り出して頭上にかざした。それまで彼女を取り囲むようにしていた人々が瞬時にその場を離れる。一方で、通りがかりの観光客らが彼女にデジカメやスマホを向け始めた。
「マジカルラジカルテクニカル、マジカルラジカルテクニカル、お前の頭に革命よ起きろお」
それは、『魔法少女人生革命ミズホ』でヒロインのマホロバミズホが唱える人生革命の呪文だった。
「いったあ、あんなんおるから。なあ」
詠美はそう話しかけたが、雪子は黙って女性のことを凝視したままだ。
と、二人の警察官が三条のほうからやって来て、雪子らとびうめファンや野次馬連中の間に分け入った。一人は五十年輩の穏和な顔付きで、はい、どうもなどと周囲に声をかけ、もう一人は如何にも警察官なり立てといった感じの体育会系男子で、トランシーバーに向かって状況を説明している。
「どうしたの、うん」
ベテランの警察官がどちらを見るともなく尋ねた。
「誠に申し訳ありません」
深々と頭を下げるにいがき君に対して、いいからいいからという風に手を小さく上下に動かしたベテランの警察官が、
「どうしたの、一体」
と、今度は女性のほうを向いて尋ねた。
「だって、あらがき、じゃないにいがき君が何度言ってもわかってくれなくてえ。私、純君のお」
「純君というのは」
「声優の入山純一郎さんです。まもなく当店でサイン会が行われる予定でして」
すかさずにいがき君が答えた。
「あなた、その純君のファンなんだね」
「そうなんですう、私、純君の大大大ファンなんですう」
といった女性の話を、うんうんと頷きながら聴き続けていた警察官が、
「あなた、だったら純君に迷惑かけちゃいけないよ」
と女性を諭した。
「えっ、私が純君に迷惑をかけてるう」
「そうだよ、ここで騒ぎを起こしちゃ、それこそ純君、彼が一番迷惑するよ。あなたも大ファンなんだから、それぐらいわかってあげなさいよ」
警察官の言葉に、女性はひっと悲鳴を上げて、その場に泣き崩れた。
「ごめんなさあい、私、わからなかったあ。純君に迷惑かけてたなんて、私、ちっともわからなかったあ」
どちらからともなく雪子と詠美が顔を見合わせたとき、しばらく前からビデオカメラで撮影を続けていた長身の白人の男性が、ヴンダバールヴンダヴェルトと感嘆の声を漏らした。
四
速足の詠美のあとを三歩ほど遅れて雪子が歩く。
あれから平原にしつこく付け回されて、なんとか家まで帰り着いたことを雪子はタクシーの中で詠美に詳しく説明した。それは災難やったねと口では言うものの、詠美は頬を軽く膨らませたままだった。
支払いを雪子に任せると、詠美はタクシーを降りて黙って歩き始めた。輪ゴムでまとめた詠美の後ろ髪がゆらゆらと左右に揺れているのを目にして、雪子は思わず微笑んだ。
「何わろてんの」
振り向きざまに詠美が言った。
「詠美ちゃん、ポニーテールやなあ」
「はっ」
と声を上げただけで、詠美は再び前を向いた。
「あっ、あそこや」
詠美が指差した先には、けっこうな人だかりが出来ていた。
「わっちゃあ、混んでんなあ」
「流石はとびうめ」
詠美と肩を並べた雪子が応じた。
「はよ行かな」
「うん」
と頷くと、雪子は詠美につられて駆け出した。
ちょうど六角と蛸薬師の真ん中辺り、寺町通りに面したアニメワンダーワールドという書店とグッズショップを兼ねた三階建てのビルが雪子と詠美の目指す場所であった。五時からここで、テレビアニメの『とびうお梅太郎』、通称とびうめのイベントが開催されるのである。いわゆるオタクの雪子はとびうめにどっぷりとはまっていたのだが、一人でイベントに参加するのはどうにも気が重い。それで雪子は、オタクとまでは言わないけれどアニメにも十分理解のある妹の詠美を誘ったのだ。
「そんなこと聞いてないよお」
甲高い女性の声が轟いた。
とびうめファンと思しき人たちが集結していること自体に間違いはなさそうなものの、どうも様子がおかしい。詠美と雪子が人だかりの中を覗くと、ハンプティダンプティか京都のご当地キャラクターのまゆまろの頭に三つ編みのウイッグをちょこんとのっけたような身体つきをした女性が両手を大きく振り回しながら、オレンジ色の制服を着たアニメワンダーワールドの社員の男性に向かって激しく捲し立てていた。レモン地のTシャツの背中に緑でプリントされたとびうめのマスコットキャラ、波乗りイルカが膨れ上がってまるで鯱か鯨のように見える。
「誠に申し訳ございませんが、本日のサイン会に関しては、当店の商品をお買い上げの際にお渡しするイベント参加券をお持ちいただく必要がござ」
「だから、私は知らなかったんだよお」
「知らないと申されましても」
「いい、私は純君にサインしてもらうために東京からやって来たの。ほら、この入鹿っちのフィギュア見て、私とびうめの大ファンなんだよお」
女性がぼろぼろの手提げカバンの中から、主人公飛永梅太郎のライバルである曽我部入鹿のフィギュアを取り出した。
「あの、それはどちらのお店で」
「どこだっていいじゃない、入鹿っちは入鹿っちなんだから。これがお見合い三連発だとかまたたびにゃんごろうのフィギュアだったら、私だってそんなの絶対だめだよおって怒っちゃうとこだけどねえ」
「いや、ですから本日のイベントは」
「もお、これだけ言ってもわかってくれないのお、三階チーフのあらがき君は」
女性は男性のネームプレートに目を走らせていたらしい。
「あの、わたくしにいがきと」
「そんなことはどうだっていいのよお。いや、にいがき君にとっちゃよくないことだろうけど、今はいいのよお。ねえ、お願い。純君のサイン会に私も並ばせてよお」
「ですからそれは」
「ここまで言ってもわかんないならもういい」
そう言うと、女性は手提げカバンの中から銀色の小さな何かを取り出して頭上にかざした。それまで彼女を取り囲むようにしていた人々が瞬時にその場を離れる。一方で、通りがかりの観光客らが彼女にデジカメやスマホを向け始めた。
「マジカルラジカルテクニカル、マジカルラジカルテクニカル、お前の頭に革命よ起きろお」
それは、『魔法少女人生革命ミズホ』でヒロインのマホロバミズホが唱える人生革命の呪文だった。
「いったあ、あんなんおるから。なあ」
詠美はそう話しかけたが、雪子は黙って女性のことを凝視したままだ。
と、二人の警察官が三条のほうからやって来て、雪子らとびうめファンや野次馬連中の間に分け入った。一人は五十年輩の穏和な顔付きで、はい、どうもなどと周囲に声をかけ、もう一人は如何にも警察官なり立てといった感じの体育会系男子で、トランシーバーに向かって状況を説明している。
「どうしたの、うん」
ベテランの警察官がどちらを見るともなく尋ねた。
「誠に申し訳ありません」
深々と頭を下げるにいがき君に対して、いいからいいからという風に手を小さく上下に動かしたベテランの警察官が、
「どうしたの、一体」
と、今度は女性のほうを向いて尋ねた。
「だって、あらがき、じゃないにいがき君が何度言ってもわかってくれなくてえ。私、純君のお」
「純君というのは」
「声優の入山純一郎さんです。まもなく当店でサイン会が行われる予定でして」
すかさずにいがき君が答えた。
「あなた、その純君のファンなんだね」
「そうなんですう、私、純君の大大大ファンなんですう」
といった女性の話を、うんうんと頷きながら聴き続けていた警察官が、
「あなた、だったら純君に迷惑かけちゃいけないよ」
と女性を諭した。
「えっ、私が純君に迷惑をかけてるう」
「そうだよ、ここで騒ぎを起こしちゃ、それこそ純君、彼が一番迷惑するよ。あなたも大ファンなんだから、それぐらいわかってあげなさいよ」
警察官の言葉に、女性はひっと悲鳴を上げて、その場に泣き崩れた。
「ごめんなさあい、私、わからなかったあ。純君に迷惑かけてたなんて、私、ちっともわからなかったあ」
どちらからともなく雪子と詠美が顔を見合わせたとき、しばらく前からビデオカメラで撮影を続けていた長身の白人の男性が、ヴンダバールヴンダヴェルトと感嘆の声を漏らした。
2017年08月04日
『ほそゆき』のパイロット版の続き
☆『ほそゆき』のパイロット版の続き
三
「野川さん」
百万遍側の門を出ようとしたところで、雪子は急に呼び止められた。驚いて振り返ると、学部のときに同じゼミだった平原が立っていた。こけしのような頭の形をした平原は、満面に笑みと汗とを浮かべていた。雪子は思わず顔を伏せた。
「いやあ、奇遇やね」
相変わらず平原の声は大きい。
「野川さん、勉強」
「うん」
雪子は小さく頷いた。
「流石は院生やな」
「そんなことはないけど」
と言ったきり、雪子が続きを口にしないことに痺れを切らしたか、
「僕もちょっと勉強に。実は、僕も院を受けようと思うてな。ほら、慎澄社って大手の出版社に僕入ったやろ。けどなあ、やっぱりサラリーマンは僕には向いてへんわ。上司がパワハラ。むちゃくちゃえげつないねんな。もうこんなとこいたら絶対殺されてまう思うて、それですぐに見切りつけたんや。まあ、もともと研究者もありやと思うてたし」
と、平原は言い募った。
「そう」
「そうやで、野川さんにはわかってもらえへんやろうけど、社会はそんなに甘ないわ」
平原が左右に大きく手を振った。
「ところで、野川さんはマジノ線についてどう思う」
「えっ」
「いや、野川さん、フランス現代史が専門やろ。マジノ線についても一家言あるんやないかと思うてね」
「私は、人民戦線の女性政策について研究してるから」
「だから、マジノ線についても何か考えがあるんとちゃうの。マジノ線も女性政策も国家防衛という意味では軌を一にしてるはずやろう」
「ううん」
と言って、雪子は黙り込んだ。
「まあ、ええわ。僕はマジノ線について研究するつもりやから、そのときはよろしくな。そうそう、会社の上司には馬鹿にされたんやけど、にっぽん政府はにっぽん海沿岸にマジノ線みたいな防壁を築くべきやと僕は思うてんねん」
「日本海、沿岸」
「そう。北朝鮮からミサイルが飛んで来たら、壁からびゅんってバリアを張って撥ね返すんや」
「バリアって。そんなこと、でき」
「いやいやいやいや、にっぽん国の科学技術を結集したら不可能な話やないよ。そや、野川さん今から時間ある。お茶でもしながらマジノ線について話せえへん。お茶ぐらい、心配せんでも僕が奢るから」
「ごめん、今から用事あるし」
「そうなんや」
と、平原は不服そうに応じると、
「こんなん言うのはなんやけど、野川さんのそういうとこちょっとあかんと思うな」
と付け加えた。
三
「野川さん」
百万遍側の門を出ようとしたところで、雪子は急に呼び止められた。驚いて振り返ると、学部のときに同じゼミだった平原が立っていた。こけしのような頭の形をした平原は、満面に笑みと汗とを浮かべていた。雪子は思わず顔を伏せた。
「いやあ、奇遇やね」
相変わらず平原の声は大きい。
「野川さん、勉強」
「うん」
雪子は小さく頷いた。
「流石は院生やな」
「そんなことはないけど」
と言ったきり、雪子が続きを口にしないことに痺れを切らしたか、
「僕もちょっと勉強に。実は、僕も院を受けようと思うてな。ほら、慎澄社って大手の出版社に僕入ったやろ。けどなあ、やっぱりサラリーマンは僕には向いてへんわ。上司がパワハラ。むちゃくちゃえげつないねんな。もうこんなとこいたら絶対殺されてまう思うて、それですぐに見切りつけたんや。まあ、もともと研究者もありやと思うてたし」
と、平原は言い募った。
「そう」
「そうやで、野川さんにはわかってもらえへんやろうけど、社会はそんなに甘ないわ」
平原が左右に大きく手を振った。
「ところで、野川さんはマジノ線についてどう思う」
「えっ」
「いや、野川さん、フランス現代史が専門やろ。マジノ線についても一家言あるんやないかと思うてね」
「私は、人民戦線の女性政策について研究してるから」
「だから、マジノ線についても何か考えがあるんとちゃうの。マジノ線も女性政策も国家防衛という意味では軌を一にしてるはずやろう」
「ううん」
と言って、雪子は黙り込んだ。
「まあ、ええわ。僕はマジノ線について研究するつもりやから、そのときはよろしくな。そうそう、会社の上司には馬鹿にされたんやけど、にっぽん政府はにっぽん海沿岸にマジノ線みたいな防壁を築くべきやと僕は思うてんねん」
「日本海、沿岸」
「そう。北朝鮮からミサイルが飛んで来たら、壁からびゅんってバリアを張って撥ね返すんや」
「バリアって。そんなこと、でき」
「いやいやいやいや、にっぽん国の科学技術を結集したら不可能な話やないよ。そや、野川さん今から時間ある。お茶でもしながらマジノ線について話せえへん。お茶ぐらい、心配せんでも僕が奢るから」
「ごめん、今から用事あるし」
「そうなんや」
と、平原は不服そうに応じると、
「こんなん言うのはなんやけど、野川さんのそういうとこちょっとあかんと思うな」
と付け加えた。
2017年08月03日
『ほそゆき』のパイロット版
☆『ほそゆき』のパイロット版
一
「四人姉妹のおしまいやからな、私」
と言って、詠美は溶け切った宇治金時を二、三度かき混ぜた。
「佐田は」
と訊かれた佐田は、
「俺、一人」
と答えた。
「一人っ子か」
詠美はもう一度宇治金時をかき混ぜた。
「なあ」
「何」
「四人姉妹って、ほそゆきみたいだよね」
「ほそゆき」
「ほら、谷崎なんとかの」
「冗談きっつ」
「冗談じゃないよ」
「まじか」
詠美は佐田の顔を馬鹿にするような憐れむような目でしばらく見つめたあと、
「それ、ささめゆきや」
と口にした。
二
詠美は自転車を飛ばして、十分程度で自宅に着いた。途中、蓼倉橋の信号で幼なじみの梓と遭遇したが、一声かけただけでそのまま走り去った。門と玄関の間の敷石のところでスマホを確認すると、「おんにゃ?」とlineが入っていたから、「ほなや!」と返事を送っておいた。
「いやまあ、ぎょうさん汗かいて。えいみちゃんも元気なこと」
「ただいま」
と挨拶をして居間の前を通り抜けたとき、向こうを向いたままの祖母の聖子が芝居風な口調で言った。勘の鋭さはいつものことなので、詠美は少しも驚かない。そういえば、聖子だけが詠美のことをえいみと呼ぶ。
タオル地のハンカチで首筋の辺りを軽く押さえながら二階に上がった詠美は、障子の前で、
「お待たせ」
と呼びかけた。
返事がないので、
「ええね」
と一言断って障子を開けると、中はもぬけの殻だ。
「あれ、どこ行ったんやろ」
一階に下りるとすかさず聖子が、
「ゆきちゃんならまだやで」
と、今度は詠美のほうを向いて告げた。
「えっ、ほんまに」
「はい、ほんまです」
「もう、なんやのあの人」
詠美は思わず声を上げた。
一
「四人姉妹のおしまいやからな、私」
と言って、詠美は溶け切った宇治金時を二、三度かき混ぜた。
「佐田は」
と訊かれた佐田は、
「俺、一人」
と答えた。
「一人っ子か」
詠美はもう一度宇治金時をかき混ぜた。
「なあ」
「何」
「四人姉妹って、ほそゆきみたいだよね」
「ほそゆき」
「ほら、谷崎なんとかの」
「冗談きっつ」
「冗談じゃないよ」
「まじか」
詠美は佐田の顔を馬鹿にするような憐れむような目でしばらく見つめたあと、
「それ、ささめゆきや」
と口にした。
二
詠美は自転車を飛ばして、十分程度で自宅に着いた。途中、蓼倉橋の信号で幼なじみの梓と遭遇したが、一声かけただけでそのまま走り去った。門と玄関の間の敷石のところでスマホを確認すると、「おんにゃ?」とlineが入っていたから、「ほなや!」と返事を送っておいた。
「いやまあ、ぎょうさん汗かいて。えいみちゃんも元気なこと」
「ただいま」
と挨拶をして居間の前を通り抜けたとき、向こうを向いたままの祖母の聖子が芝居風な口調で言った。勘の鋭さはいつものことなので、詠美は少しも驚かない。そういえば、聖子だけが詠美のことをえいみと呼ぶ。
タオル地のハンカチで首筋の辺りを軽く押さえながら二階に上がった詠美は、障子の前で、
「お待たせ」
と呼びかけた。
返事がないので、
「ええね」
と一言断って障子を開けると、中はもぬけの殻だ。
「あれ、どこ行ったんやろ」
一階に下りるとすかさず聖子が、
「ゆきちゃんならまだやで」
と、今度は詠美のほうを向いて告げた。
「えっ、ほんまに」
「はい、ほんまです」
「もう、なんやのあの人」
詠美は思わず声を上げた。
2016年12月31日
執筆依頼等につきまして
2016年05月27日
痾紅毛日記
☆痾紅毛(やまいこうもう)日記
×月×日
6時に起きて、町内会のドブ浚い。集まるのは、お年寄りばかり。中に我。重宝される。疲れて、帰宅後朝食も食べずまた眠る。目醒めれば、11時過ぎ。空腹で仕方なく、近くの四川亭へ。麻婆豆腐定食。美味。カウンターのドブのような目つきをした男、必死になってバラモンさんを読んでいた。何かやらかしそうだ。昼過ぎ、東京からK社のI氏入洛。新しい企画の打ち合わせ。4時間。KSの話も聞かされる。馬鹿につける薬はない。夜、I氏とシトロエンへ。マダムは元気だ。西田佐智子を熱唱。ホテルにI氏を送り、タクシーで帰宅。
×月×日
9時に起きて、原稿3枚。週刊騒論のコラム。近所の公園で出会ったキジトラの話。正午、とんこつとん太郎をつくっていたら、宗教関係の女が来て麺がのびる。腹立たしい。邪教徒に天罰よ下れ。昼過ぎ、原稿2枚。木津川演戯のパンフレット用。わざと武富さんを持ち上げ、田端君をけなす。散歩。四川亭で見かけたドブのような目つきをした男が、セブンイレブンの前で縄跳びをしていた。三度に一度は必ず失敗する。明らかに、何かやらかしそうだ。内田百閧読む。
×月×日
朝早く、庭に鳩。ぽるっぽぽるっぽとうるさいので、大豆缶の残りを投げ付けたが、鳩に豆鉄砲とはいかず、喜んで食べていた。原稿12枚。『ちんばさん狂詩曲』。昼過ぎ、妻、実家より戻る。義父、ただのぎっくり腰と。ほっとする。土産の川蝦の佃煮でお茶漬。美味。夜、DVDで『どですかでん』を観る。よく見たら、渡辺篤が渡辺篤史と表記されている。それじゃあ、建物を誉める人だ。内田百閧読む。
×月×日
原稿用紙13枚。『ちんばさん狂詩曲』。来月分脱稿。近所でパトカーのサイレン。すは一大事と野次馬根性を発揮。が、おなじみアル中のアルチュセール主義者の元大学教授が酔っぱらって裸踊りをしているだけだった。帰りがけ、近所の公園で、ドブのような目つきをした男と朝黒龍のような容姿をした女が、ジャングルジムの上で縄跳びの引っ張り合いをしていた。こちらのほうが一大事ではないのか。首相、暗殺される。藤堂健太、宍戸晴子、そして安保全造。今年に入って三人目だ。内田百閧読む。
×月×日
6時に起きて、町内会のドブ浚い。集まるのは、お年寄りばかり。中に我。重宝される。疲れて、帰宅後朝食も食べずまた眠る。目醒めれば、11時過ぎ。空腹で仕方なく、近くの四川亭へ。麻婆豆腐定食。美味。カウンターのドブのような目つきをした男、必死になってバラモンさんを読んでいた。何かやらかしそうだ。昼過ぎ、東京からK社のI氏入洛。新しい企画の打ち合わせ。4時間。KSの話も聞かされる。馬鹿につける薬はない。夜、I氏とシトロエンへ。マダムは元気だ。西田佐智子を熱唱。ホテルにI氏を送り、タクシーで帰宅。
×月×日
9時に起きて、原稿3枚。週刊騒論のコラム。近所の公園で出会ったキジトラの話。正午、とんこつとん太郎をつくっていたら、宗教関係の女が来て麺がのびる。腹立たしい。邪教徒に天罰よ下れ。昼過ぎ、原稿2枚。木津川演戯のパンフレット用。わざと武富さんを持ち上げ、田端君をけなす。散歩。四川亭で見かけたドブのような目つきをした男が、セブンイレブンの前で縄跳びをしていた。三度に一度は必ず失敗する。明らかに、何かやらかしそうだ。内田百閧読む。
×月×日
朝早く、庭に鳩。ぽるっぽぽるっぽとうるさいので、大豆缶の残りを投げ付けたが、鳩に豆鉄砲とはいかず、喜んで食べていた。原稿12枚。『ちんばさん狂詩曲』。昼過ぎ、妻、実家より戻る。義父、ただのぎっくり腰と。ほっとする。土産の川蝦の佃煮でお茶漬。美味。夜、DVDで『どですかでん』を観る。よく見たら、渡辺篤が渡辺篤史と表記されている。それじゃあ、建物を誉める人だ。内田百閧読む。
×月×日
原稿用紙13枚。『ちんばさん狂詩曲』。来月分脱稿。近所でパトカーのサイレン。すは一大事と野次馬根性を発揮。が、おなじみアル中のアルチュセール主義者の元大学教授が酔っぱらって裸踊りをしているだけだった。帰りがけ、近所の公園で、ドブのような目つきをした男と朝黒龍のような容姿をした女が、ジャングルジムの上で縄跳びの引っ張り合いをしていた。こちらのほうが一大事ではないのか。首相、暗殺される。藤堂健太、宍戸晴子、そして安保全造。今年に入って三人目だ。内田百閧読む。
2016年04月06日
花は花でもお江戸の花だ(文章の訓練)
☆花は花でもお江戸の花だ 弦太郎八番勝負より(文章の訓練)
鵜野部左文字町を抜けて西厳寺の前を通り、刈沢の材木置き場に来たところで、矢沢弦太郎はやはりなと思った。
振り返れば、すぐに気付かれる。
弦太郎は何気ない調子で下駄の鼻緒を直すふりをすると、一目散に駆け出した。
たったったったっ、と弦太郎を追い掛ける足音がする。
脚力には相当自身のある弦太郎だったが、向こうもなかなかの走りっぷりのようだった。
仕方ない、ここは荒業を使うか、と二ツ木橋のちょうど真ん中辺りで、弦太郎はえいやとばかり水の中に飛び込んだ。
「無茶ですよ、弦さんも」
ありったけの布団やら何やらを頭の上から押し被せたおもんが、甘酒の入った湯呑みを弦太郎に手渡した。
「春ったって、花はまだ三分咲き。風邪でもひいたらどうするんです。あたしゃ、殿様に合わせる顔がありませんよ」
「そうやいのやいのと言われたら、それこそ頭が痛くなってくる」
弦太郎はふうふうと二、三度息を吹きかけてから甘酒を啜った。
甘酒の暖かさと甘さが、芯から冷え切った弦太郎の身体をゆっくりと解き解していく。
「で、誰なんですよ」
「そいつはまだわからねえ。ただ」
「ただ」
「髭田の山がな」
「髭田の山って、それじゃ白翁の」
前の側用人高遠摂津守頼房は齢六十にして職を辞すると、隠居所と称する髭田の小ぶりな屋敷に居を移し、自ら白翁を号した。
だが、髭田の屋敷には、幕閣や大商人たち、それに連なる者たちが、白翁の威をなんとしてでも借りんものと連日足を運んでいた。
世にいう、髭田詣である。
「流石は掃部頭の息子よの」
西海屋より献上された李朝の壺のすべすべとした手触りを愉しみながら、白翁は微笑んだ。
「御前、如何いたしましょう」
「慌てることはない、様子を見るのじゃ。急いては事を仕損じるというではないか」
「はっ」
白翁の言葉に頷くや否や、目の前の男はすぐさまその場を後にした。
白翁は、なおも白磁の壺を撫で続けた。
鵜野部左文字町を抜けて西厳寺の前を通り、刈沢の材木置き場に来たところで、矢沢弦太郎はやはりなと思った。
振り返れば、すぐに気付かれる。
弦太郎は何気ない調子で下駄の鼻緒を直すふりをすると、一目散に駆け出した。
たったったったっ、と弦太郎を追い掛ける足音がする。
脚力には相当自身のある弦太郎だったが、向こうもなかなかの走りっぷりのようだった。
仕方ない、ここは荒業を使うか、と二ツ木橋のちょうど真ん中辺りで、弦太郎はえいやとばかり水の中に飛び込んだ。
「無茶ですよ、弦さんも」
ありったけの布団やら何やらを頭の上から押し被せたおもんが、甘酒の入った湯呑みを弦太郎に手渡した。
「春ったって、花はまだ三分咲き。風邪でもひいたらどうするんです。あたしゃ、殿様に合わせる顔がありませんよ」
「そうやいのやいのと言われたら、それこそ頭が痛くなってくる」
弦太郎はふうふうと二、三度息を吹きかけてから甘酒を啜った。
甘酒の暖かさと甘さが、芯から冷え切った弦太郎の身体をゆっくりと解き解していく。
「で、誰なんですよ」
「そいつはまだわからねえ。ただ」
「ただ」
「髭田の山がな」
「髭田の山って、それじゃ白翁の」
前の側用人高遠摂津守頼房は齢六十にして職を辞すると、隠居所と称する髭田の小ぶりな屋敷に居を移し、自ら白翁を号した。
だが、髭田の屋敷には、幕閣や大商人たち、それに連なる者たちが、白翁の威をなんとしてでも借りんものと連日足を運んでいた。
世にいう、髭田詣である。
「流石は掃部頭の息子よの」
西海屋より献上された李朝の壺のすべすべとした手触りを愉しみながら、白翁は微笑んだ。
「御前、如何いたしましょう」
「慌てることはない、様子を見るのじゃ。急いては事を仕損じるというではないか」
「はっ」
白翁の言葉に頷くや否や、目の前の男はすぐさまその場を後にした。
白翁は、なおも白磁の壺を撫で続けた。
2016年04月05日
内田秋子のこと
*内田秋子のこと
早いもので、演劇界の友人内田秋子が亡くなって、かれこれ十五年が過ぎようとしている。
良くも悪くも俺が俺が我が我がの自己顕示欲が欠かせないこの世界で、彼女はあまりにも臆面があり過ぎる俳優であり、企画者だった。
まるでクマノミか何かのように稽古場の隅に潜んで「通し」の進行を見つめる彼女の姿を、私はどうしても忘れることができない。
そんな性分が災いしてか、嫌な想いをさせられることも少なくなく、学生劇団時代以来の友人で恋人でもあった日根野貴之など、「あんなだから秋は損をするんですよ」と憤然とした口調で、しかし彼女には絶対に聞かれることのない場所で度々こぼしたものだ。
本来ならば、彼女と日根野の鍛錬研鑚の場所として始まったトランスクリプション(最初は久松のアトリエ・スキップだったのが、最後には輪多の市民劇場で開催されるまでになった)が、回を重ねるうちに先輩たちの芸の見せ場になってしまったのにも、当然内田秋子の人柄、性根の良さが関係しているのではないか。
チェーホフの『ワーニャおじさん』をやるとなったとき、ソーニャをやらせろソーニャをやらせろと壊れたレコード・プレイヤーの如く繰り返した車戸千恵子に向かって、「大根役者が恥を知れ」と叱りつけて大もめにもめたことが今では懐かしい。
その車戸千恵子も、内田秋子が亡くなった次の年に自動車事故で亡くなってしまった。
内田秋子にとって最後の舞台となった、ブレヒトの詩による一幕物『どうして道徳経はできたのか もしくは、老子亡命記』で、どうしても童子の役をやりたいと言ったときは、まさか病魔に侵されているとは思ってもみなかったので、ようやく彼女も我を張るようになったと私は大いに喜んだほどだ。
確かに、出たいと意地を通しただけに、あの作品での彼女の熱の入れようは半端なかった。
臼杵昌也の老子、布目進の税関吏、牛尾舞の税関吏の妻と伍して、彼女は童子の役を演じ切った。
中でも、税関吏に対して、
「水は柔軟で、つねに流れる、
流れて、強大な岩に時とともにうちかってゆく。
つまり、動かぬものがついに敗れる」
と、師匠の老子の教えを語るときの軽みがあって柔らかで誇らしげな言葉と表情は、内田秋子という演技者の最高の場面だったと評しても過言ではない。
水はつねに流れる、といえば、彼女は井深川の川べりに佇んで、長い時間水の流れを見つめているのが好きだった。
なんだか動かぬものばかりが目につく今日この頃だけれど、こういうときにこそ、あの日の彼女の台詞を、もう一度思い起こしたいと思う。
早いもので、演劇界の友人内田秋子が亡くなって、かれこれ十五年が過ぎようとしている。
良くも悪くも俺が俺が我が我がの自己顕示欲が欠かせないこの世界で、彼女はあまりにも臆面があり過ぎる俳優であり、企画者だった。
まるでクマノミか何かのように稽古場の隅に潜んで「通し」の進行を見つめる彼女の姿を、私はどうしても忘れることができない。
そんな性分が災いしてか、嫌な想いをさせられることも少なくなく、学生劇団時代以来の友人で恋人でもあった日根野貴之など、「あんなだから秋は損をするんですよ」と憤然とした口調で、しかし彼女には絶対に聞かれることのない場所で度々こぼしたものだ。
本来ならば、彼女と日根野の鍛錬研鑚の場所として始まったトランスクリプション(最初は久松のアトリエ・スキップだったのが、最後には輪多の市民劇場で開催されるまでになった)が、回を重ねるうちに先輩たちの芸の見せ場になってしまったのにも、当然内田秋子の人柄、性根の良さが関係しているのではないか。
チェーホフの『ワーニャおじさん』をやるとなったとき、ソーニャをやらせろソーニャをやらせろと壊れたレコード・プレイヤーの如く繰り返した車戸千恵子に向かって、「大根役者が恥を知れ」と叱りつけて大もめにもめたことが今では懐かしい。
その車戸千恵子も、内田秋子が亡くなった次の年に自動車事故で亡くなってしまった。
内田秋子にとって最後の舞台となった、ブレヒトの詩による一幕物『どうして道徳経はできたのか もしくは、老子亡命記』で、どうしても童子の役をやりたいと言ったときは、まさか病魔に侵されているとは思ってもみなかったので、ようやく彼女も我を張るようになったと私は大いに喜んだほどだ。
確かに、出たいと意地を通しただけに、あの作品での彼女の熱の入れようは半端なかった。
臼杵昌也の老子、布目進の税関吏、牛尾舞の税関吏の妻と伍して、彼女は童子の役を演じ切った。
中でも、税関吏に対して、
「水は柔軟で、つねに流れる、
流れて、強大な岩に時とともにうちかってゆく。
つまり、動かぬものがついに敗れる」
と、師匠の老子の教えを語るときの軽みがあって柔らかで誇らしげな言葉と表情は、内田秋子という演技者の最高の場面だったと評しても過言ではない。
水はつねに流れる、といえば、彼女は井深川の川べりに佇んで、長い時間水の流れを見つめているのが好きだった。
なんだか動かぬものばかりが目につく今日この頃だけれど、こういうときにこそ、あの日の彼女の台詞を、もう一度思い起こしたいと思う。
2011年12月31日
個人創作誌『赤い猫』第4号刊行延期のお知らせ
6月末までの刊行を予定していた『赤い猫』第4号ですが、諸般の事情から刊行を延期させていただくこととなりました。
お問い合わせをいただいた方々をはじめ、皆様方にはご迷惑をおかけしますが、何とぞご容赦ご寛容のほどよろしくお願い申し上げます。
なお、 お問い合わせ等に関しては、こちらまでご連絡いただければ幸いです。
お問い合わせをいただいた方々をはじめ、皆様方にはご迷惑をおかけしますが、何とぞご容赦ご寛容のほどよろしくお願い申し上げます。
なお、 お問い合わせ等に関しては、こちらまでご連絡いただければ幸いです。
2010年05月09日
5月の創作活動予定
1:『Kiss for Two』
『Kiss for Two』は、1950年代のアメリカを舞台とした一幕物の二人芝居。
いわゆるスクリューボールコメディの執筆を試みたものだが、出来はいまいち。
それでも、5月中に読み直し手直しを終えて、某所に送付してみるつもり。
2:『山中貞雄餘話』
ここのところ、ちびちびと書き続けて来たこの小説も、なんとか先が見えてきた?
が、予想していたよりも短くなりそうで、ちょっとこれは拙い。
水増しするわけにもいかないし。
ううん、参った。
いずれにしても、5月中に第一稿を完成させたいのだが。
3:『魔王』
伊坂幸太郎作品と題名がだだかぶり。
けれど、執筆したのは僕のほうが先なのですよ。
前々から、挿入部分の出来の悪さが気になっていたため、思い切って改作に挑んだのだけれど、いやはや難航難業。
完成は7月以降になるのではないか…。
4:『告悔』
『不在証明』の姉妹篇(兄妹篇?)となる作品。
が、アイデアを少し考えただけで、未だ海のものとも山のものともつかず。
プロット程度は考えておきたいところ。
まいてまいて。
まあ、やるべきことをどんどんやっていけってことですね。
頑張らなくては!
『Kiss for Two』は、1950年代のアメリカを舞台とした一幕物の二人芝居。
いわゆるスクリューボールコメディの執筆を試みたものだが、出来はいまいち。
それでも、5月中に読み直し手直しを終えて、某所に送付してみるつもり。
2:『山中貞雄餘話』
ここのところ、ちびちびと書き続けて来たこの小説も、なんとか先が見えてきた?
が、予想していたよりも短くなりそうで、ちょっとこれは拙い。
水増しするわけにもいかないし。
ううん、参った。
いずれにしても、5月中に第一稿を完成させたいのだが。
3:『魔王』
伊坂幸太郎作品と題名がだだかぶり。
けれど、執筆したのは僕のほうが先なのですよ。
前々から、挿入部分の出来の悪さが気になっていたため、思い切って改作に挑んだのだけれど、いやはや難航難業。
完成は7月以降になるのではないか…。
4:『告悔』
『不在証明』の姉妹篇(兄妹篇?)となる作品。
が、アイデアを少し考えただけで、未だ海のものとも山のものともつかず。
プロット程度は考えておきたいところ。
まいてまいて。
まあ、やるべきことをどんどんやっていけってことですね。
頑張らなくては!
2009年05月04日
妙な夢
こんな夢を見た。
私は本を読んでいる。
花田清輝の評論集や林光さんの書いたものだから、全て愛読書と呼べるものである。
すると、そこに顔の見えない男がやって来て、これを読まなきゃだめじゃないかと、ある本を差し出した。
なんだうっとうしいと思いながら、本の表紙をのぞくと、そこにはマルクスだのエンゲルスだのという言葉が仰々しく並んでいた。
何をいまさらと腹が立って顔の見えない男に文句を言おうとしたところで、目が覚めた。
私は本を読んでいる。
花田清輝の評論集や林光さんの書いたものだから、全て愛読書と呼べるものである。
すると、そこに顔の見えない男がやって来て、これを読まなきゃだめじゃないかと、ある本を差し出した。
なんだうっとうしいと思いながら、本の表紙をのぞくと、そこにはマルクスだのエンゲルスだのという言葉が仰々しく並んでいた。
何をいまさらと腹が立って顔の見えない男に文句を言おうとしたところで、目が覚めた。
2009年04月21日
贋作破れ傘刀舟悪人狩り(朗読のための小品)
*登場人物
叶刀舟
兵庫頭=山口兵庫頭
木曾屋=木曾屋太兵衛
兵庫頭「むふふふふ、そのほうのおかげでこのわしも、間もなく勘定奉行の要職を手に入れることができそうだ。木曾屋、これからもよろしく頼んだぞ」
木曾屋「滅相もございません山口様。この木曾屋こそ、山口様のおかげで公儀御用達の看板をいただけたのでございます。この木曾屋太兵衛、山口様がお命じならば、たとえ火の中水の中」
兵庫頭「うむ。あとは、瑞泉寺の叶刀舟とかいう厄介者を始末するだけだな」
木曾屋「はっ、そのとおりでございます」
叶刀舟「どけどけどけ、てめえら雑魚には用はねえんだ。斬られたくなかったらどきな」
兵庫頭「貴様、いったい何奴。ここを材木奉行、山口兵庫頭の邸宅と知っての狼藉か」
叶刀舟「てめえらか、清吉を殺したのは」
木曾屋「山口様、こやつでございますよ、例の叶刀舟とかいう藪医者は」
兵庫頭「なに、こやつが。飛んで火に入る夏の虫とは貴様のことだな」
叶刀舟「やかましいやい、この野郎。てめえら、材木の値上がりをはかるために、なんの罪もねえ江戸の家々につけ火なんかしやがって。
それだけじゃねえや、てめえらよくも清吉を殺したな。
いいか、清吉はなあ、口は悪いが心根の優しい男なんだよ。てめえらみてえなうすら汚ねえ下種下郎千人万人かかったって適うことのねえ、いい奴なんだよ。
それをてめえら、よってたかって虫けらみてえに殺しやがって。
てめえら人間じゃねえや、たたっ斬ってやる」
叶刀舟
兵庫頭=山口兵庫頭
木曾屋=木曾屋太兵衛
兵庫頭「むふふふふ、そのほうのおかげでこのわしも、間もなく勘定奉行の要職を手に入れることができそうだ。木曾屋、これからもよろしく頼んだぞ」
木曾屋「滅相もございません山口様。この木曾屋こそ、山口様のおかげで公儀御用達の看板をいただけたのでございます。この木曾屋太兵衛、山口様がお命じならば、たとえ火の中水の中」
兵庫頭「うむ。あとは、瑞泉寺の叶刀舟とかいう厄介者を始末するだけだな」
木曾屋「はっ、そのとおりでございます」
叶刀舟「どけどけどけ、てめえら雑魚には用はねえんだ。斬られたくなかったらどきな」
兵庫頭「貴様、いったい何奴。ここを材木奉行、山口兵庫頭の邸宅と知っての狼藉か」
叶刀舟「てめえらか、清吉を殺したのは」
木曾屋「山口様、こやつでございますよ、例の叶刀舟とかいう藪医者は」
兵庫頭「なに、こやつが。飛んで火に入る夏の虫とは貴様のことだな」
叶刀舟「やかましいやい、この野郎。てめえら、材木の値上がりをはかるために、なんの罪もねえ江戸の家々につけ火なんかしやがって。
それだけじゃねえや、てめえらよくも清吉を殺したな。
いいか、清吉はなあ、口は悪いが心根の優しい男なんだよ。てめえらみてえなうすら汚ねえ下種下郎千人万人かかったって適うことのねえ、いい奴なんだよ。
それをてめえら、よってたかって虫けらみてえに殺しやがって。
てめえら人間じゃねえや、たたっ斬ってやる」
2009年04月13日
微速前進 『赤い猫』第2号小報
今日、烏丸通のキンコーズまで行って個人創作誌『赤い猫』第2号の版元をプリントアウトし、さらにそれを京都こぴいで縮小コピーする。
第2号発行に向けての作業をなんとか再開したというわけだが、まだまだ先は長い。
まあ、焦ってみても仕方ないやね。
ここは微速前進。
ちょっとずつでも進めていくしかないのだ。
と、自分自身に言い聞かせているところである。
頑張らなくっちゃ!
第2号発行に向けての作業をなんとか再開したというわけだが、まだまだ先は長い。
まあ、焦ってみても仕方ないやね。
ここは微速前進。
ちょっとずつでも進めていくしかないのだ。
と、自分自身に言い聞かせているところである。
頑張らなくっちゃ!
2009年04月09日
館佐武郎を探してのメモ
以前書きあげた『伊達三郎を探して』は、今から二十年近くも前、当時はまだ存命だった大映出身の役者伊達三郎にインタビューを申し込もうとして果たせず、その後しばらくして伊達さんが亡くなってしまう、という個人的なエピソードを軸に、事実2割虚構8割という形で仕立て上げた小説だが、今回新たに書き始めた『館佐武郎を探して』は、その『伊達三郎を探して』からスタートしつつ、物語の展開など、事実0・5割虚構9・5割と、ほぼ作者自身の空想妄想の産物と称してもよい内容になると思う。
ただ、以下に記す登場人物の設定からは、実在の人物を強く想像される方々がいてもおかしくはないのではないか。
けれど、上述した如く、この『館佐武郎を探して』は、ほぼほとんど作者、中瀬宏之自身の空想妄想の産物なのである。
その点、何とぞご承知おきいただきたい。
で、以下が主な登場人物。
☆私
映画や演劇、音楽に関する雑文書きを生業にしている人物。
『來三を観る』という著書を出版する。
☆内川來三<故人>
時代劇から現代劇まで幅広くこなした大活(大日本活劇)のトップスター。
今も根強い人気を誇る。
☆館佐武郎<故人>
來三と多数共演した、元大活専属の男優。
個性的なバイプレイヤーとして知られる。
☆綿貫八十助
かつて館佐武郎のマネージャーを務めた人物。
私に、ある仕事を依頼する。
☆泊昌子
木屋町通にある「あかねぞら」の主人。
大活出身の元女優。
☆小野塚糺
戦前戦後大活で活躍した映画監督、のちに脚本家。
齢百を数える。
☆島村小夜
元大活専属の女優。
來三作品に数多く出演。
☆田所謙蔵
元大活専属の映画監督。
來三と親しく、彼主演の作品を多数撮影する。
☆佐々龍之進
元大活専属の男優。
ささりゅうの愛称で親しまれる。
☆浅野信弘
かつらがわ出版社長。
私に、『來三を観る』の出版を勧めた人物。
さあ、書くぞ!
ただ、以下に記す登場人物の設定からは、実在の人物を強く想像される方々がいてもおかしくはないのではないか。
けれど、上述した如く、この『館佐武郎を探して』は、ほぼほとんど作者、中瀬宏之自身の空想妄想の産物なのである。
その点、何とぞご承知おきいただきたい。
で、以下が主な登場人物。
☆私
映画や演劇、音楽に関する雑文書きを生業にしている人物。
『來三を観る』という著書を出版する。
☆内川來三<故人>
時代劇から現代劇まで幅広くこなした大活(大日本活劇)のトップスター。
今も根強い人気を誇る。
☆館佐武郎<故人>
來三と多数共演した、元大活専属の男優。
個性的なバイプレイヤーとして知られる。
☆綿貫八十助
かつて館佐武郎のマネージャーを務めた人物。
私に、ある仕事を依頼する。
☆泊昌子
木屋町通にある「あかねぞら」の主人。
大活出身の元女優。
☆小野塚糺
戦前戦後大活で活躍した映画監督、のちに脚本家。
齢百を数える。
☆島村小夜
元大活専属の女優。
來三作品に数多く出演。
☆田所謙蔵
元大活専属の映画監督。
來三と親しく、彼主演の作品を多数撮影する。
☆佐々龍之進
元大活専属の男優。
ささりゅうの愛称で親しまれる。
☆浅野信弘
かつらがわ出版社長。
私に、『來三を観る』の出版を勧めた人物。
さあ、書くぞ!
2009年04月06日
なんと冷笑的な
思うところがあって、今から10年以上も前に書き上げた、『ヘンゼルとグレーテル もしくは、舞台の裏の表の裏』という戯曲を読み返している。
『ヘンゼルとグレーテル、以下省略』は、フォン・ディーツェンバウムなる架空のドイツ人作家がものしたという体をとった「D三部作」の二番目にあたる作品で、おなじみグリム童話、というよりも、フンパーディンクのオペラに加えてヴェーデキントのルル二部作(『地霊』、『パンドラの箱』)を下敷きにし、ナチスが政権を奪取するかしないかの1930年代前半のドイツに舞台を設定した、と語るだけで、察しのよい方ならば、だいたいどのような展開をたどっていくかがおわかりになると思う。
まあ、冒頭に置いた、
>あるじゃあないかよ
金貨がたっぷり
お札もどっさり
ばばあの呻きが聞こえても
思いやりなど微塵もねぇ<*注
という、ヴェーデキントの『伯母殺し』という詩の一部が全てを象徴しているのではないか。
それにしても、「かわいいお子様のための舞台劇」と銘打ちながら、途中絶命館大学の大波総長、御徒町革命部長(当時、上野何某という教授がいたのだ、立命館大学に)が登場したり、登場人物が放送禁止用語を連発したりと、なんともかともな内容には、我ながら穴があったら入りたい心境だ。
おまけに、幕切れ(本当は、このあとに八つ裂きジャックなる怪人物が登場するのだが)に置いたヴォードヴィルの歌詞たるや、以下に記す通りなのだから、シニカルさもここに極まれりではないか。
★幕切れのヴォードヴィル
1:ペーターとゲルトルート(ヘンゼルとグレーテルの両親)
ひとを愛せよ慈しめ
争いごとなく抱き合え
しょせんこの世は茶番劇
腹を立てるな諍うな
しょせんこの世は茶番劇
2:ウンズィン=ばかとケーゼ=おろか
ひとを笑うな笑われよ
賢いことなどやめておけ
しょせんこの世は茶番劇
腹を抱えて笑っても
しょせんこの世は茶番劇
3:ヘンゼルとグレーテル
ひとを頼るな信じるな
優しい言葉は嘘ばかり
しょせんこの世は茶番劇
腹を開いて語っても
しょせんこの世は茶番劇
4:全員
しょせんこの世は茶番劇
腹を立てても怒っても
しょせんこの世は茶番劇
しょせんこの世は茶番劇
正直、今ではこういう内容の作品を書けはしない。
なぜなら、シニカルを気取ることができるのは、結局目の前のあらゆる状況に対して甘えていられる余裕があるということなのだ。
今は、そんな余裕など、どこにもない。
はずだ。
*注
岩波文庫の『ドイツ名詩選』所収の檜山哲彦訳を参考にして、それに少し手を加えたものである。
『ヘンゼルとグレーテル、以下省略』は、フォン・ディーツェンバウムなる架空のドイツ人作家がものしたという体をとった「D三部作」の二番目にあたる作品で、おなじみグリム童話、というよりも、フンパーディンクのオペラに加えてヴェーデキントのルル二部作(『地霊』、『パンドラの箱』)を下敷きにし、ナチスが政権を奪取するかしないかの1930年代前半のドイツに舞台を設定した、と語るだけで、察しのよい方ならば、だいたいどのような展開をたどっていくかがおわかりになると思う。
まあ、冒頭に置いた、
>あるじゃあないかよ
金貨がたっぷり
お札もどっさり
ばばあの呻きが聞こえても
思いやりなど微塵もねぇ<*注
という、ヴェーデキントの『伯母殺し』という詩の一部が全てを象徴しているのではないか。
それにしても、「かわいいお子様のための舞台劇」と銘打ちながら、途中絶命館大学の大波総長、御徒町革命部長(当時、上野何某という教授がいたのだ、立命館大学に)が登場したり、登場人物が放送禁止用語を連発したりと、なんともかともな内容には、我ながら穴があったら入りたい心境だ。
おまけに、幕切れ(本当は、このあとに八つ裂きジャックなる怪人物が登場するのだが)に置いたヴォードヴィルの歌詞たるや、以下に記す通りなのだから、シニカルさもここに極まれりではないか。
★幕切れのヴォードヴィル
1:ペーターとゲルトルート(ヘンゼルとグレーテルの両親)
ひとを愛せよ慈しめ
争いごとなく抱き合え
しょせんこの世は茶番劇
腹を立てるな諍うな
しょせんこの世は茶番劇
2:ウンズィン=ばかとケーゼ=おろか
ひとを笑うな笑われよ
賢いことなどやめておけ
しょせんこの世は茶番劇
腹を抱えて笑っても
しょせんこの世は茶番劇
3:ヘンゼルとグレーテル
ひとを頼るな信じるな
優しい言葉は嘘ばかり
しょせんこの世は茶番劇
腹を開いて語っても
しょせんこの世は茶番劇
4:全員
しょせんこの世は茶番劇
腹を立てても怒っても
しょせんこの世は茶番劇
しょせんこの世は茶番劇
正直、今ではこういう内容の作品を書けはしない。
なぜなら、シニカルを気取ることができるのは、結局目の前のあらゆる状況に対して甘えていられる余裕があるということなのだ。
今は、そんな余裕など、どこにもない。
はずだ。
*注
岩波文庫の『ドイツ名詩選』所収の檜山哲彦訳を参考にして、それに少し手を加えたものである。