2018年09月02日

喪服の似合うカサンドラ(パイロット版4)

 加奈子と会った翌日、私は朝早くに家を出て、郊外の西部霊園へと向かった。
 菊の花は昨日のうちに買っておいた。
 昨夜遅くに降り始めた雨も朝には止み、青空には入道雲がむくむくと拡がっている。
「今日も暑くなりそうですね」
 と、タクシーの運転手さんが口にした。
「そうですね」
 と、私は応えた。
 霊園は小高い丘の上にあった。
 タクシーを降りて管理事務所を覗いたが、時間が時間だけにまだ誰もいない。
 私は小さくお辞儀をすると、事務所横の木枠にかけてあるポリバケツと柄杓を手にして石段を上り始めた。
 黒や灰色の墓石が目の前にいくつもいくつも整然と並んでいる。
 眩暈を起こしそうになるのを我慢しながら、私は石段を上って行った。
 石段には、うっすらと影のように雨のあとが残っていた。
 ビルに直すと、三階分程度になるだろうか。
 石段の三分の二まで上り切ったところで、私は備え付けの蛇口からポリバケツに水を汲み、そのまま左側の通路に足を進めた。
 一つ、二つ、三つ、四つ、五つ目が尾関先生のお墓だ。
 墓石の横の墓誌には、戒名とともに平成二十年八月九日、尾関悟、二十七歳の文字だけが彫られている。
 私は墓石に水をかけ、花立ての辺りを軽く濯いで菊の花を挿し、用意した線香に火をつけて線香立てに立てると、目を瞑って尾関先生に手を合わせた。


 先生、今年もご挨拶に来ました。
 とうとう先生よりも年上になってしまいました。
 あっと言う間に二十八です。
 だけど、あの頃の先生に比べればまだまだ子供です。
 ただただ恥ずかしい。
 日々迷って、迷って、迷ってばかりです。
 仕事はけっこうハードだし。
 直の上司がパワハラ気味で、早朝出勤や残業しろってねちねちねちねち繰り返して。
 先々月も一人退社しちゃって、本来ならば五人で回すところを三人で回してます、二人足りません。
 もう我慢の限界です。
 すぐにいーってなります。
 恋愛だってなかなかうまくいかないし。
 付き合っても、なあんか違うって感じですぐに別れちゃう。
 智沙は贅沢だよって友達には言われるけど、違うもんは違うんだから仕方ないでしょ。
 なのに、母は顔を合わせばすぐに結婚しろ結婚しろってうるさいし。
 結婚したい相手なんてどこにもいない。
 一人もいない。
 ほんとは帰省なんてしたくないんです、でも、そうしないとこうしてご挨拶にも来れないから。
 先生にお会いして、いろんなお話がしたいです。
 木崎はよく頑張ってるよ、大丈夫大丈夫、ってまた言って欲しいです。
 先生、どうして死んでしまったんですか。
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2018年08月28日

喪服の似合うカサンドラ(パイロット版3)

 尾関先生と下総さんを見かけたのは、それから数日後のことだった。
 夏風邪をひいて寝込んだ母の代わりに買い物をすませた私は、たまたま文栄堂から出て来る二人を目にしたのだ。
 肩を並べて歩く長身どうしの後ろ姿はあまりにもつり合いがとれていて、どうしても声をかけることができなかった。
 私は二人のあとを息を殺して歩いた。
 なぜだか気づかれてはいけないと思った。
 二人はアーケードの外れにある公園へ入って行くと、四阿の下の木製のベンチに腰を掛けた。
 ちょうど木陰になっているので二人の表情はよくわからなかったが、いつものように快活な尾関先生とは対照的に、下総さんは緊張しているというか、打ち沈んでいるように見える。
 何を話しているのかわからないのが、本当にもどかしい。
 蝉の鳴き声だけが私の耳を打つ。
 ジジジジジジ ジジジジジジ
 ジジジジジジ
 ジジジジジジ ジジジジジジ
 ジジジジジジ
 ジジジジジジ ジジジジジジ
 ジジジジジジ
 ジジジジジジ ジジジジジジ
 ジジジジジジ
 しばらくすると尾関先生は立ち上がって、下総さんにじゃあなといった感じで手を振ると、反対側の門のほうから足早に去って行った。
 私が尾関先生を見たのは、それが最後だった。
 下総さんは陽が暮れかかる頃まで、じっとベンチに座ったままでいた。
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2018年08月27日

喪服の似合うカサンドラ(パイロット版2)

 あの日、私は尾関先生と下総さんと一緒に図書室にいた。
 ほかにも司書の小泉さんや図書委員のメンバーがいたはずだが、はっきりとは覚えていない。
 書庫に溜まった雑誌や新聞類、古い蔵書の整理や虫干しをするのが夏休み前の終業日の決まりで、例年の如く私たちは図書室に集まっていたのだ。
 作業がほぼ終わったところで、ご褒美のアイスクリームが振る舞われる。
 なんの変哲もないカップ入りのバニラアイスだけれど、一汗かいたあとにはその甘さと冷たさが嬉しい。
 まだ融け切らないアイスのひやっとした感触が、今も私の舌には蘇るほどだ。
「木崎、受験はどうするんだ」
 一足先にアイスを食べ終えた尾関先生が言った。
「東京の私学です」
「そうか。まあ、木崎はそうだよな」
 進路に関しては、二年生のときに何度も尾関先生と話をしてきた。
「ごみせんからは、国公立も受けろって言われてますけど」
 三年の担任は文系コースだというのに、なぜだか数学担当の五味先生で、国公立大学を受験しろ受験しろとどうにもうるさかった。
「五味先生には五味先生のお考えがあるだろうが」
 尾関先生はそこまで言うと私をじっと見て、
「最後は木崎自身が決めることだからな」
と、続けた。
 私は黙って頷いた。
「下総は」
 尾関先生は今度は下総さんに尋ねる。
「私は、地元の大学を受けるつもりです」
 下総さんの声は小さいけれど、とても澄んでいた。
 歌を歌えばきれいだろうなと私は思った。
「英文に行きたいんだよな」
「はい、できれば」
 私は、下総さんがよくイギリスの作家の小説を読んでいることを知っていた。
「去年の読書感想文、あれ面白かったからな。高慢と偏見」
「いえ、そんな」
「謙遜するなって」
 オースティンの『プライドと偏見』は、少し前にDVDで観た。
 エリザベス役のキーラ・ナイトレイが美しかった。
「木崎のミーナの行進の感想も面白かったけどな」
 尾関先生のこういうところが、好きだった。
 非常にわかりやすいけど、でも、私は好きだった。
「まあ、今年の夏休みは勉強勉強で読書感想文どころじゃないだろうけどな」
「先生は夏休み、どこか行くんですか」
「そうだなあ、今年は北海道でも走ろうかと思ってるんだ。学生時代の友達が小樽に転勤になってな。島流しだからさびしいさびしいってせっつくんだよな」
 私の質問に尾関先生が答えたとたん、えっと下総さんが小さく声を上げた。
 私は驚いて下総さんに視線を移した。
「ごめんなさい、何もないです」
 下総さんはすぐにそう返事をしたが、彼女の顔はいつもと違ってとても薄白く見えた。
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2018年08月25日

喪服の似合うカサンドラ(パイロット版)

☆喪服の似合うカサンドラ(パイロット版)



 下総明日香という名前を耳にして、私はすぐに色白で背が高くてショートカットの彼女のことを思い出した。
 同じクラスになったことは一度もなかったものの、高校の三年間、彼女と私はずっと図書委員仲間だった。
「下総さんがどうしたの」
 無花果入りのジェラートをひと舐めした目の前の近藤加奈子に、私は訊き返した。
「あのひと、おかしくない」
「おかしいって」
「だから、なんか感じが、変」
「そうかなあ。ていうか、卒業以来ずっと会ってないし。加奈子は会ってるの」
「会ってるっていうか、会ったっていうか」
 まどろこしい加奈子の話をまとめると、先週の木曜日、仕事帰りに駅前のアーケードをぶらぶらしていたら、下総さんに出くわしたそうだ。
「文栄堂からちょうど出て来たとこで、ああって声かけられて」
 文栄堂は老舗の書店兼文具店である。
「下総さんって加奈子と仲良かったっけ」
「良くも悪くもない。てか、よく知らない」
 加奈子は、下総さんと高校時代同じクラスになったこともなければ、ろくに話をしたこともないと言う。
 ただ一度を除いては。
「三年生の夏休み、尾関先生が亡くなったじゃない」
 尾関悟先生は国語の担当で、私と加奈子にとっては二年生のときの担任でもあった。
「尾関先生が亡くなって、今年で十年なんだよね」
「もう十年か」
「そうだよ。あのときは本当にショックだった」
「確かに」
 尾関先生は愛車のバイクで北海道をツーリング中、対向車線から急に飛び出して来た飲酒運転のトラックと正面衝突し、亡くなってしまったのだ。
「ちゃんとお別れできなかったんだよね、私たち」
 尾関先生の柩の蓋はずっと閉じられたままだった。
「智沙は尾関先生のこと好きだったから」
「そういうんじゃないよ」
 私は、半ばとけてしまった宇治金時を匙で掬うと口に運んだ。
「それで、下総さんがどうしたの」
「お葬式のときね、ほんとたまたまなんだけど、傍に彼女がいて」
 そこで、加奈子はジェラートを口に含む。
 じれったい。
「たまたま、彼女のほうに顔向けたら、あれだけだめだって言ったのにって」
「加奈子に言ったの、下総さん」
「違う、ぼそぼそって独り言。なんか気持ちが悪かった」
「聞いたことなかったな」
「言わなかった。言うのも不謹慎な感じがしたし。気持ち悪いし。彼女のことよく知らないし」
 加奈子らしいといえば加奈子らしい反応だ。
「声かけられたとき、誰だかわかんなかったくらい。でも、すぐに思い出して、お葬式のときのこと。やじゃない。こっちも、ああって頭下げて、それじゃあって別れようと思ったんだけどさ」
 加奈子が急に黙り込む。
「何かあったの」
「何かって、ことじゃ、ない。ないけど」
 また黙り込む。
「もう、なんなんだよ」
 思わず私は口にする。
「あのひとね、あたしのこと見て、何か言いたそうにしてた。お葬式のときみたいな目で」
「思い込みじゃないの」
「違う、あのひと、ここんとこじっと見てた」
 そう言って、加奈子は左手の薬指を突き出した。
 フィアンセの高遠君が奮発したというダイヤのリングが、小さく光る。
「ううん、それって考え過ぎだよ、加奈子の」
「考え過ぎ」
「そうそう、考え過ぎだって」
 けれど、私は自分で自分の言葉を今一つ信じ切ることができないでいた。
 そんな私の心を見透かしたかのように、うそでしょ、と加奈子は口にした。
 結局、そのあとも十一月の挙式に関して盛り上がらないまま、加奈子とは別れた。
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2017年10月31日

『ほそゆき』のパイロット版9

☆『ほそゆき』のパイロット版9





 烏丸で古城戸と別れた佳穂は、そこから地下鉄に乗り換えて北山へ向かった。地下鉄は仕事帰りの乗客で混雑していたが、それも概ね北大路までで、北山に着く頃には三分の二程度に減った。
 急な階段を上って出口を出ると、沈む陽が山の稜線を照らしている。
 はあ、と佳穂は思わず声を漏らした。
 しばらくその場に佇んで、薄水色と橙色のあわいをしっかりと目に焼き付けてから、佳穂は下鴨中通りを北のほうへと歩き始めた。
 吹く風が肌に冷たい。佳穂は薄手のカーディガンのボタンをかけた。
 自転車に乗った洛北高校の女の子が二人、歌いながら目の前を走り去る。前の高音と後ろの低音が巧く重なり合っていてとても心地よい。後輩たちにつられて、佳穂もスピッツの『空も飛べるはず』のサビの部分を口ずさんだ。
 数年前にリニューアルされた老舗の洋食レストランの横の小さな通りを左に曲がり、四軒ほど入った瀟洒な洋館の前に立ち止まると、佳穂はインターホンを押す。
「はい」
 という苑子の張りのある声に、
「野川です」
と佳穂は応じた。
「どうぞ」
「失礼します」
 佳穂が玄関の扉を開けると、いつものように薄茶色のスリッパが用意されていた。キッチンからは、ハーブティーの微かな香りが漂ってくる。
「お借りします」
 と一言断って、佳穂は洗面所で手を洗った。
「こんばんは」
「いらっしゃい」
 苑子は軽い笑みを浮かべて振り返ると、手で椅子に腰掛けるよう促した。下唇の左端がほんの少しだけ引きつっているのは、お転婆だった頃の勲章だと苑子は皮肉交じりに口にする。
 佳穂に少し遅れて、苑子が対面の椅子に腰を下ろした。
「いただきます」
 どうぞと言って苑子が差し出したティーカップを受け取ると、佳穂はゆっくりとカモミールティーを口に含んだ。
「ああ、ほっこりします」
「お疲れ様」
 苑子もカモミールティーを口に含んだ。
「どう、調子のほうは」
「まあ、相変わらずです」
「そう」
「苑子さんは」
「まあ、相変わらず。でもないか」
 佳穂の無言の問いかけに、
「もうちょっとしたらね」
と応じて、苑子はもう一度カモミールティーを口に含んだ。
「そうそう、タルトタタンなんだけど」
「はい」
 佳穂はほんの少し姿勢を正した。
「今日は林檎じゃなくて、棗を使おうかと思うの」
「棗、ですか」
「そう。うちの庭に棗の木があってね、たくさん実が生るの。いつもはシロップで漬けたり、干したりしてるんだけど、佳穂さんからタルトタタンのお話があったでしょう。だったら、ちょうどいいかなと思って。ほら」
 苑子が指し示したシンクの上には、棗の実が山盛りになったステンレス製のザルが置いてあった。
「さっき捥いでおいたの」
 棗の実はほんのりと赤みがかかっていた。
「熟れ過ぎて落ちてしまうのも嫌だから」
「私、生の棗を見るの初めてかもしれません」
「だったら、齧ってみたら」
 言うが早いか、苑子はザルの中から棗を二個摘まみ上げると、一個を佳穂に渡し、残りのほうは自分の口に運んだ。
「いただきます」
 佳穂が棗を齧ると、口の中にほのかな甘みと酸味が広がった。食感は林檎に比べるとしゃくしゃくした感じが強いというか、けっこう粗い。
「生の棗もいけますね。ちょっと野暮ったい感じもしますけど、私は好きです」
「ならよかった。下ごしらえがそこそこ面倒なんだけど、佳穂さんだったら大丈夫でしょう」
「よろしくお願いいたします」
 佳穂は神妙な面持ちで頭を下げた。
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2017年09月15日

京都映画百景 等持院「はりま」

☆京都映画百景 等持院「はりま」


 年に一回か二回、どうしても急に食べたくなるものがある。
 烏丸今出川・まろみ屋のコンビーフカレー、西院・三番食堂のとん汁と焼き鯖定食、百万遍・チックタックのボロネーゼ、そして等持院・はりまの豆腐丼。
 学生時代、はりまには何度となく通ったものだ。
 おつゆがしっかりしみ込んだ厚揚げ、玉子、牛すじ、こんにゃく、大根、ちくわのおでん定食。
 わらじ大のチキンカツがどんと鎮座したビッグチキンカツ定食。
 けれど、やっぱり一番先に選んでしまうのは、はりま名物の豆腐丼だった。
 大ぶりの丼鉢にあつあつのごはん、その上に刻み海苔を敷き、絹ごし豆腐を一丁載せてじゃこと薄切りのおくらを散らし、かつぶし、みりん、薄口醤油で味付けした出汁をたっぷりかける。
 竜安寺商店街の名店の絹ごしと代々秘伝の出汁が絡み合って、これがもう本当に美味いのだ。
 特に夏の暑い盛り、めっきり食欲が落ちている時分でも、はりまの豆腐丼ならぺろりといける。
 先日、映画関係のシンポジウムで母校を訪ねる機会があったので、せっかくだからとはりまに足を伸ばした。
 文学部棟前の門を出て、等持院横の小さな道を嵐電の駅に向かってぶらぶらと歩く。
 しばらくすると、年季が入った建物が見えてくる。
 濃紺に白地で右斜め上からはりまと染められた暖簾をくぐって、ガラス戸を開けると、
「いらっしゃい、おお」
と、ご主人が声をかけてきた。
 ご主人の播磨和夫さん、などと書いてしまうとなんだかこそばゆい。
 と、言うのも、播磨と私は学生時代、同じサークルに所属していた同回生なのである。
 久しぶりやな、一年ぶりやね、どうしてまた、映画のシンポジウムがあって、にしても立命に映画の学部ができるなんて思わんかったよな、という毎度のやり取りをすませたのち、一番奥のテーブルに腰を下ろした。
 お茶を持ってくるのは、播磨のお嫁さん登美子さん。
「豆腐丼やんね」
 登美子さんともかれこれ三十年近くの付き合いだ。
「もちろん。ああ、ゆっくりで構わんし」
「わかってるよ」
 厨房から播磨が応える。
 ルイボスティーを口に含みながら、店内を見回す。
 あるべきものがきちんとそこにある、そんな些細なことがとても嬉しい。
 はりまでは、今は亡き川谷拓三さんや有川博さんといった映画演劇関係の諸兄姉をお見かけしたことがあったが、軽く会釈をする程度で、話しかけるなんて無粋な真似は一切しなかった。
 だいたい、はりま自体があれだけ映画人の通う店だというのに、サインの一枚も貼り出してはいない。
 ただ、播磨の高祖父にあたる先々々々代の弥太郎さんと勝見善三が肩を組んだセピア色に変色した写真が一葉架けてあるだけだ。
 それも、店の片隅にひっそりと。
 よほどの映画ファンでも、勝見善三の名をご存じの方は少ないのではないか。
 勝見善三。
 大正の末から昭和の初めにかけて離合集散を繰り返した等持院撮影所(そう、等持院には映画の撮影所が設けられていた)の中で、大きく異彩を放った映画監督が彼である。
 よし、はい、いいよ、でついたあだ名は早撮りの勝見、韋駄天の善さん。
 それでいて、出来上がった作品に全く隙はない。
 盟友中村辨之丞と組んだ一連のチャンバラ作品は中辨物として大いに人気を博した。
 『七転八倒起ノ介』、『天下泰平碁盤の目』、『大流鏑馬』その他諸々。
 けれど、実は勝見善三の作品は数多くの無声映画がそうであるように、一本たりとて現存していない。
 今から二十五年ほど前になるか、コレクターとして著名な神戸のO氏が香芝市の旧家で『天下泰平碁盤の目』の保存状態のよいフィルムの一部を発見し大きな話題となったが、さあこれから公開するぞという折も折、阪神大震災が発生し、その他の貴重なコレクションと共に失われてしまった。
 しかも、等持院撮影所が閉鎖されて以降の勝見善三の消息も不明だ。
 東京に移った、満洲に渡った、アメリカに渡ったなどと、巷間様々に噂はされているのだけれど、実際のところは謎のままなのである。
 そんな勝見善三は、はりまの豆腐丼を愛した。
 と、言うより、そもそも勝見善三のために弥太郎さんは豆腐丼を考案したのであった。
「勝見さんは早撮りの人やろう。食事もささっと取りたがったそうやねんけど、あいにく細長いものは苦手とかで麺類が大嫌い。おまけに、肉や魚もほとんど食べん人で、豆腐がやたらに好きやったとか。それで、弥太郎さんが考え出したんがこの豆腐丼やねんな」
 とは、当代主人の播磨の言。
 そうそう、豆腐丼におくらが使われているのも、勝見善三がネギを嫌っていたからだとか。
 彼は相当な偏食家だったようだ。
 それにしても、はりまの豆腐丼がこうして残ったことは非常に嬉しい反面、結局勝見善三の名を現在に伝えるものがこれだけだとすると、なんとも哀しい。
 そういえば、先ごろ亡くなった母校の恩師が、芸術は長く人生は短しという言葉を好んで口にしていたが、ときにそれは生活は長く芸術は短しと言い換えなければならないのではないか。
 勝見善三に倣って七味をたっぷりとかけた豆腐丼を頬張りながら、私はそう思わずにはいられなかった。
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2017年09月06日

京都映画百景 北山「しのぶ堂」


 先日、北山を舞台にした映画のシナハンを行っている際に、しのぶ堂という一軒の喫茶店を見つけた。
 コンサートホール側の出口から地下鉄の駅を出て、横断歩道を東に向かって渡り、二つ目の通りを南に入ってしばらく歩くと三階建ての小ぶりなビルがあって、その一階がしのぶ堂である。
 焦げ茶色地に白でしのぶ堂と記された木製の看板よりも、その横に貼ってある市川雷蔵主演、田中徳三監督の『眠狂四郎 女地獄』のポスターのほうがとても目立つ。
 現に私もそのポスターに釣られた口で、思わずガラス戸を開けると、ブラームスの弦楽六重奏曲第一番の第二楽章と、いらっしゃいませというマスターの低くて落ち着きのある声に迎えられた。
 マスターの名は、信夫謙介。
 つまり、しのぶ堂とはマスター自身の名前にちなむものだ。
 敗戦の年、一九四五年の十月生まれだそうだが、銀髪長身の飄々然としたその容姿を目にすれば、一回りは若いと口にしても満更お世辞にはあたるまい。
 シックで落ち着いた店内には、大映京都で制作された田中徳三監督の作品のポスターが程よい具合に貼り付けられてある。
「全部、本物ですよ」
 私の視線に気がついたのだろう、マスターがそう言った。
「恥ずかしながら、全部私が出演した映画なんです」
 訊けば、マスターは忍剣介の芸名で大映京都撮影所に所属していたという。
 地元洛北高校から京大法学部へストレートで入学。
 そんな前途洋々な信夫さんには、中学生の頃から秘めた想いがあったそうだ。
「とにかく映画が好きだったんですよ。できればそっちの世界で仕事がしたくて」
 と言いながら、信夫さんはブレンドコーヒーを差し出した。
 香り、味わいともに絶妙のバランスで、実に美味しい。
「たまたま私の父が田中徳三監督の関学時代の同期だったんです。子供の頃から、何度もお会いしてましたしね」
 それで、日参直談判を繰り返した末に、大映撮影所に入所することが適ったというのだから、まさしく一念岩をも通す。
「はじめはあかんあかんの一点張りで。けど、そのうち徳三先生も音を上げて。お父さんには内緒やでって申し訳なさそうに。自ら泥舟に乗るなんて君もあほやなとも言われました」
 信夫さんが入所したのは、一九六七年の春。
 その年の秋には、大映の経営不振が明らかになるわけで、確かに信夫さんの乗った永田ラッパ丸は泥舟だった。
「本当は裏方志望だったんですけど、お前たっぱあるから役者やれって言われて。そうなったら、嫌も応もありません。本名が信夫謙介やから、荒木忍さん(大映京都のベテラン俳優)にあやかって忍剣介はどないやって芸名のほうもするすると。名前の件で荒木さんにご挨拶に伺ったら、いいよいいよ、ちっともかまわんよって。優しい方でした」
 初出演作は、恩人田中徳三監督の『ひき裂かれた盛装』。
 黒岩重吾の『夜間飛行』を原作とした、成田三樹夫、藤村志保、安田(現大楠)道代出演による現代劇だ。
 中でも、悪女役を演じた藤村志保が強く印象に残る。
「出演といっても、その他大勢の一人なんですが。それでも緊張しましたよ。一応、中学高校大学と演劇はやってましたけど。プロと学生では違うじゃないですか。それに、映画では芝居の質も違いますし」
 以降、忍剣介は数々の作品に出演を重ねる。
 けれど、なかなか芽が出ない。
 いや、芽が出ないどころか、出演するといっても台詞などないエキストラばかりが続く。
 そうした中、あの市川雷蔵が信夫さんにとって忘れられない一言を発する。
「君な、図体のでかい人間が縮こまって見せたら、それだけで目立ってしまうんや。電信柱は電信柱でええやないか。ぼそっとね、聞こえるか聞こえない感じで。それこそ眠狂四郎にばっさりやられたような気分でした」
 それでも信夫さんは必死で努力した。
 寝る間も惜しんで演技の稽古に勤しんだ。
 殺陣に乗馬、舞踊に歌唱と励みに励んだ。
 しかし、もがいてももがいても道は開けて来なかった。
「努力すれば夢は適うって言うでしょう。あるところまでは確かに適うんです。でも、そこから先が難しいんですね」
 そうこうするうち、市川雷蔵は亡くなり(同じ一九六九年に荒木忍も亡くなっている)、大映の経営はますます悪化していった。
「最後の頃はやること為すこと裏目裏目でした。みんな、なんともぎすぎすした感じでね」
 そして、一九七一年の大映の倒産を機に信夫さんは映画の世界を後にする。
「中途半端な形になって申し訳ありませんと頭を下げたんです。せっかくお骨折りいただいたのにもかかわらずと。先生は、いや、こっちこそすまんことしたな。ぽつりとそうおっしゃったんです。思わず涙が零れました」
 信夫さんは友人の伝手である私立大学の事務職員に採用され、定年までそこで務めた。
 夫人の優子さんと出会ったのも、その私立大学でだ。
「ここもね、もとはといえば妻の実家の土地なんですよ。彼女が一人娘だったもので。何が幸いするかわかりませんね」
 信夫さんはそう微笑む。
「しんどいことも嫌なこともたくさんあったけれど、やはり撮影所時代の生活は懐かしいですよ。雷蔵さんや勝新さんはもちろんのこと、南部(彰三)さん、水原(浩一)さん、伊達(三郎)さん、伴(勇太郎)さん、一癖も二癖もある方が揃ってましたしね。テレビなどで平泉(成)さんの活躍を目にすると、なんだか我が事のように嬉しいですね。あとは、木村(元)さんや上野山(功一)さんがご存命なのかな男優では。ただね、徳三先生も亡くなられたし、五味龍(太郎)さんも亡くなられたし、どんどん寂しくなっていって。場所は北山ですが、大映京都の記憶をちょっとでも伝えられたらなと私は思っているんです」
 もしかしたら、しのぶ堂とは偲ぶ堂でもあるのかもしれない。
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2017年08月27日

『ほそゆき』のパイロット版8

☆『ほそゆき』のパイロット版8





 定時で庁舎をあとにした佳穂は、いったんマンションに戻って準備をすませてから阪急の駅へと向かった。特急の先頭車両に乗り込むと、ちょうど四人掛けの席の通路側が一つ空いている。譲るべき相手もいなさそうだったので、佳穂はそのまま腰を下ろした。
「野川さんやろ」
 佳穂がトートバッグの中からレシピを記したノートを取り出して眺め始めたとき、左斜め前から男性の声がした。
「古城戸君」
「やっぱり野川さんや」
 古城戸はくしゃくしゃっと相好を崩すと、
「久しぶりやんな」
と続けた。
「ごめん、気付かんかった。ほんま久しぶりやね」
「卒業式以来やから、五年ぶりにはなるんやないかな」
「そっか、もう五年かあ」
「あっという間やね」
「そやね。最近、時間が過ぎるのがほんと速いわ」
「確かにね」
 古城戸は小さく頷いた。
「仕事帰り」
「ううん、ちょっと用事があって。古城戸君は」
「取引先との打ち合わせ」
 佳穂は古城戸の膝の上に載ったクリーム色の封筒に目をやった。封筒には、住所や電話番号と共に近畿経済ネットワークという会社名がプリントされていた。
「これから」
「まあ、打ち合わせといっても、祇園で飲むだけやけどね」
「祇園で」
「接待ってやつ」
「ああそっか。大変やねえ」
「野川さんはどうしてんの」
「一応公務員。詳しく言うと、市役所の外郭団体の職員ってことになるんやけどね」
「へえ、野川さんがねえ」
 古城戸が心底驚いたような表情を見せた。
「自分でも、まさか自分が公務員って感じやわ」
「言うても、安定してるからなあ」
「ありがたいことやけど、でも、まあ」
 そこで佳穂は言葉を止めた。
「そうそう、お姉さんと妹さんはどうしてんの」
「あっ、覚えてた」
「覚えてるよ。あれってゼミの自己紹介のときやったかな。私は四人姉妹の二番目ですって野川さんが言って。こっちが三人兄弟の長男ですって言ったとたん、うわあ、誰かトレードして欲しいわって野川さんが」
「えっ、そんなことあったっけ」
「あったよ、大きな声で」
「そんな大きな声やなかったよ」
「覚えてるやん」
「今思い出した」
「もう。そういうとこちっとも変わってへんね」
 古城戸が苦笑した。
「姉は今ドイツ」
「ベルリン」
「いや、ケルン。国際交流基金かな、そこに出向してる」
「へえ」
「すぐ下の妹は京大の院生で、末っ子は造形の映画学科に入った」
「映画学科」
「うん、俳優コース」
「凄いなあ、黒木華とか吉岡里帆を目指してるんかな」
「本人は、シナリオの書ける俳優になるんやって言うてるわ」
「ふうむ」
 と言って腕組みするのは、何か感心することがあったときの古城戸の癖だ。
「古城戸君はどんな仕事してんの」
「僕か。僕は、京都の街のリノベーションとイノベーションのお手伝いやなあ」
 佳穂の反応を見て、
「わかりやすく言うと、再開発ってこと」
と古城戸は言い換えた。
「再開発」
「ほら、今度京都に文化庁が移転するやろ」
「なんかそうみたいやね」
「あれにあわせて、京都市の南っかわ、あの辺りを文化芸術に特化した地域に再生しようって動きがあんねん。市芸を移転させたりして。うちもそれに関係することになって」
「へええ、私は左京の人間やから、あっこら辺のことはようわからんなあ」
「そうなんや」
「うん。だいいち、京都駅から南側ってそもそも行く機会がないし」
「そっか。まあ、うちはホテルとか民泊とか、観光客の誘致を狙ってるんやけどね」
「なるほどなあ。確かにあっこら辺は京都以外の人のほうがなじみやすいかもな」
 佳穂は小さく咳をした。
「そうや、野川さんって長池の連絡先知らんかな」
「雅人の」
「うん、ちょっと確認したいことがあってね」
「そっか。ごめんやけど、私もあの人の連絡先知らんのよ。もう三年以上会ってへんし」
「野川さんも知らんのか」
「わからへんなあ」
 佳穂は大きく首を横に振った。
「いや、それならしゃあないね」
 そう言いながらも、古城戸はとても残念そうな顔をした。
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2017年08月18日

『ほそゆき』のパイロット版7

☆『ほそゆき』のパイロット版7




「あう、あう、あう、あう」
 主任補佐の松本がいつものように発作を起こしている。いつものことなので、誰も気に留めない。もしくは、気に留めないそぶりを見せている。佳穂も同じだ。
「あう、あう、あう、あう」
 と繰り返してから、松本の発作はようやく治まった。
 と、今度は局次長の石室が、ぜいぜいぜいと咳をし始める。
 ファイル類で間を挟んだ真向かいの席の泉はファッション雑誌を読みふけり、右隣の席の粕谷は半月前から欠勤し続けたままである。
「なあ、野川さん」
 左隣の席の高鍋が低く押し殺した声で尋ねてきた。佳穂は手を止めて、
「なんですか」
と訊き返した。
「野川さん、ほんま真面目やなあ」
「真面目」
「そうやない、今日もずっと仕事してるんやもの」
「だって、それは」
 という佳穂の言葉を遮るように、
「まあ、水無瀬さんに頼まれてるんやからしゃあないよね」
と言って、高鍋はクラッカーを口に入れた。口の周りに付いた小さなかすが机の上へと落ちて行く。
「仕事頼むんなら、あの子に頼めばいいのに。そのための派遣さんやろう」
 高鍋は佳穂と同じ列の一番右端の仁科を顎で指すと、ペットボトルのコーラを口に含んで、うぶっとげっぷをした。仁科は完璧なブラインドタッチでPC作業を進めている。
「そら、水無瀬さんはあと一年半もすれば移動やろうけど。あたしらはずっとここか支所なんやから。そこら辺のこときちんと理解しといてもらわんとあかんわ。野川さんもそう思うやろ」
「私は」
 高鍋は佳穂の返事を聞こうともせずに立ち上がり、右手で背中をせわしなく掻きながら部屋を出て行った。
 ぜいぜいぜい、と石室がまた重苦しい咳を始めた。
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2017年08月15日

『ほそゆき』パイロット版6

☆『ほそゆき』パイロット版6





 急に寒気がしたので、佳穂は目を醒ました。九月に入って朝方は特に気温が下がってきたから、用心をして厚手のタオルケットをかけて寝たのだが、どうやらそれだけでは足りなかったらしい。枕元に置いたスマホを確認すると、まだ六時過ぎだ。
「あんた、なんしてんの」
 佳穂は上半身を起こすと、腹這いになってスマホをいじっている隣の布団の優の後頭部を軽くはたいた。
「あいたたたっ、何すんのや」
 優が左手で後頭部を擦りながら言った。
「あんたこそ何してんの」
「何て、今日の集合場所の」
「そやない。なんでエアコンなんか入れんのよ」
 佳穂は優の手元にあったリモコンを取り上げて、エアコンの電源を切った。
「だって、まだ暑いやんか」
「どこが暑いん。全然暑ないやないの」
「それはまあ、前ほどには暑くはないかもしれんけども。けどもやなあ、僕にはちょっとだけ暑いような気がしたんやからしゃあないやんか」
 仰向けになった優が、ぼそぼそとした声で言った。
「ほんま」
 小さく舌打ちをして、佳穂は再び横になった。
「あれ、起きへんの」
「起きひんよ。あんたおじいちゃんか」
「おじいちゃんではないけど、おっさんではあるなあ」
 あはは、と桂枝雀のように優はわざとらしい笑い方をした。
「あははやないわ」
「佳穂ちゃん、今日ってお菓子の日やんなあ」
「そや、タルトタタンを教えてもらうことになってんの」
「僕なんか、ヤルトタタンやなあ」
「あほが」
 佳穂は再び上半身を起こすと、優の禿げ上がった額をぱんと思い切りはたいた。
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2017年08月12日

『ほそゆき』パイロット版5

☆『ほそゆき』パイロット版5


五の二


「お先」
 Tシャツと短パン姿の詠美はキッチンに現れると、雪子のグラスを掴んで麦茶を飲み干した。
「ああ、美味しい」
「あんたはもお」
「ええやない、姉妹なんやから」
「ちゃんとお風呂入ったの」
「シャワーだけ」
 詠美はそのまま居間に向かった。
「聖子さん、何観てるん」
「牡丹燈籠」
「うわっ、怪談やん」
「山本薩夫さんが撮りはった」
「山本薩夫って、あの山本薩夫」
 詠美が驚きの声を上げた。
「せや。太秦の大映で撮りはったんや」
「へえ。あっ、西村晃と小川真由美。濃いいなあ」
「なあ、お母さん、お風呂入る」
「お前の耳は節穴かあ」
 聖子が芝居風な口調で応えた。
「はいはい。入る」
「うん」
 雪子が頷くや否や、
「ちょっと待って、歯あ磨くわ」
と俊明が洗面所に駆けて行った。
「ほんま、あの人せわしない」
 聡子が再び麦茶を口に含んだ。
「なあ」
「何」
「ゆっこちゃん、どないすんの」
「ううん」
「研究続けるんやったら、それはそれでかまへんのやけど」
「うん」
「まあ、まだ一年はあるしな。そや、街中に出るんやったら、化粧ぐらいしといたほうがええんやないの。いつまでもわこないんやから」
「わかった」
「おまっとさん」
 俊明が戻って来たので、雪子は立ち上がって洗面所へ向かった。
 しばらく鏡の中の自分を見つめてから丁寧に歯を磨くと、雪子は着ている物を全て脱いだ。詠美のソックスの片方が落ちていたので、洗濯機の中へ一緒に放り込んでおいた。
 もう一度鏡に目をやると、丸みの少ない裸の姿がそこには映っていた。
 身体を洗い髪を洗い終えた雪子は、ゆっくりと湯舟に浸かった。
 はあとため息を吐いたとたん、急に涙が零れ出た。
 なかなか涙が止まりそうになかったので、雪子は目を閉じ左手の親指と人差し指で鼻を摘まむと、思い切ってお湯の中へと全身を潜らせた。
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『ほそゆき』パイロット版4

☆『ほそゆき』パイロット版4


五の一


「それで、そのあとどないなったの」
 冷蔵庫に千枚漬けの入ったタッパーを収めた聡子が、俊明の隣の椅子に腰掛けて尋ねた。俊明は妻と娘の会話を聴くとはなしに聴きながら、お茶漬けを流し込んでいる。
「サイン会には並ばれへんかったけど、イベントには参加してはった」
 雪子はそう言って麦茶を口に含んだ。
「なあんや」
 と、つまらなさそうに応じると、聡子も麦茶を口に含んだ。
「なあんやてなんや」
 お茶漬けを食べ終えた俊明が口を挟む。聡子は俊明の茶碗に麦茶を注いだ。
「だって、もっとなんかおかしなことになるんやないのかなあて」
「おかしなことなんて、それ以上起こるわけないやないか」
 という俊明の言葉に、雪子は黙って頷いた。
「それで、ごはんはすませてきたの」
「うん。詠美ちゃんと二人で」
「何食べたん」
「シェーキーズのピザとかパスタ。ついでにカレーも」
「ふうん」
 聡子が菓子盆から胡桃の柚餅子を摘まんだ。聡子につられて雪子も菓子盆に手を伸ばした。
「まあだ食べるんか」
「ええやないの、別腹別腹」
 野川家の女性は皆、健啖家であるにも関わらずスリムな体系を維持している。
「ほんまに母娘やなあ」
 そう言って立ち上がった俊明に向かって、
「どこ行かはるの」
と聡子が尋ねた。
「どこて、歯磨きやないか」
「詠美がお風呂に入ってるやない」
「あっ、そうやった」
 俊明は自分の使った食器類を器用に重ねて手にすると、シンクで軽く水洗いしてから備え付けの食洗機に並べた。
「おおきに」
「滅相もない」
 俊明はそのまま居間に足を向けると、テレビで衛星放送の邦画を観ている聖子に、
「ごっつぉはんでした」
と声をかけた。
「よろしゅうおあがり」
 と返事をした聖子は再びテレビに視線を移した。俊明は俊明でテーブルの上の夕刊を手に取り、老眼鏡をかけてそれを捲り始めた。
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2017年08月10日

『ほそゆき』パイロット版3

☆『ほそゆき』パイロット版3





 速足の詠美のあとを三歩ほど遅れて雪子が歩く。
 あれから平原にしつこく付け回されて、なんとか家まで帰り着いたことを雪子はタクシーの中で詠美に詳しく説明した。それは災難やったねと口では言うものの、詠美は頬を軽く膨らませたままだった。
 支払いを雪子に任せると、詠美はタクシーを降りて黙って歩き始めた。輪ゴムでまとめた詠美の後ろ髪がゆらゆらと左右に揺れているのを目にして、雪子は思わず微笑んだ。
「何わろてんの」
 振り向きざまに詠美が言った。
「詠美ちゃん、ポニーテールやなあ」
「はっ」
 と声を上げただけで、詠美は再び前を向いた。
「あっ、あそこや」
 詠美が指差した先には、けっこうな人だかりが出来ていた。
「わっちゃあ、混んでんなあ」
「流石はとびうめ」
 詠美と肩を並べた雪子が応じた。
「はよ行かな」
「うん」
 と頷くと、雪子は詠美につられて駆け出した。
 ちょうど六角と蛸薬師の真ん中辺り、寺町通りに面したアニメワンダーワールドという書店とグッズショップを兼ねた三階建てのビルが雪子と詠美の目指す場所であった。五時からここで、テレビアニメの『とびうお梅太郎』、通称とびうめのイベントが開催されるのである。いわゆるオタクの雪子はとびうめにどっぷりとはまっていたのだが、一人でイベントに参加するのはどうにも気が重い。それで雪子は、オタクとまでは言わないけれどアニメにも十分理解のある妹の詠美を誘ったのだ。
「そんなこと聞いてないよお」
 甲高い女性の声が轟いた。
 とびうめファンと思しき人たちが集結していること自体に間違いはなさそうなものの、どうも様子がおかしい。詠美と雪子が人だかりの中を覗くと、ハンプティダンプティか京都のご当地キャラクターのまゆまろの頭に三つ編みのウイッグをちょこんとのっけたような身体つきをした女性が両手を大きく振り回しながら、オレンジ色の制服を着たアニメワンダーワールドの社員の男性に向かって激しく捲し立てていた。レモン地のTシャツの背中に緑でプリントされたとびうめのマスコットキャラ、波乗りイルカが膨れ上がってまるで鯱か鯨のように見える。
「誠に申し訳ございませんが、本日のサイン会に関しては、当店の商品をお買い上げの際にお渡しするイベント参加券をお持ちいただく必要がござ」
「だから、私は知らなかったんだよお」
「知らないと申されましても」
「いい、私は純君にサインしてもらうために東京からやって来たの。ほら、この入鹿っちのフィギュア見て、私とびうめの大ファンなんだよお」
 女性がぼろぼろの手提げカバンの中から、主人公飛永梅太郎のライバルである曽我部入鹿のフィギュアを取り出した。
「あの、それはどちらのお店で」
「どこだっていいじゃない、入鹿っちは入鹿っちなんだから。これがお見合い三連発だとかまたたびにゃんごろうのフィギュアだったら、私だってそんなの絶対だめだよおって怒っちゃうとこだけどねえ」
「いや、ですから本日のイベントは」
「もお、これだけ言ってもわかってくれないのお、三階チーフのあらがき君は」
 女性は男性のネームプレートに目を走らせていたらしい。
「あの、わたくしにいがきと」
「そんなことはどうだっていいのよお。いや、にいがき君にとっちゃよくないことだろうけど、今はいいのよお。ねえ、お願い。純君のサイン会に私も並ばせてよお」
「ですからそれは」
「ここまで言ってもわかんないならもういい」
 そう言うと、女性は手提げカバンの中から銀色の小さな何かを取り出して頭上にかざした。それまで彼女を取り囲むようにしていた人々が瞬時にその場を離れる。一方で、通りがかりの観光客らが彼女にデジカメやスマホを向け始めた。
「マジカルラジカルテクニカル、マジカルラジカルテクニカル、お前の頭に革命よ起きろお」
 それは、『魔法少女人生革命ミズホ』でヒロインのマホロバミズホが唱える人生革命の呪文だった。
「いったあ、あんなんおるから。なあ」
 詠美はそう話しかけたが、雪子は黙って女性のことを凝視したままだ。
 と、二人の警察官が三条のほうからやって来て、雪子らとびうめファンや野次馬連中の間に分け入った。一人は五十年輩の穏和な顔付きで、はい、どうもなどと周囲に声をかけ、もう一人は如何にも警察官なり立てといった感じの体育会系男子で、トランシーバーに向かって状況を説明している。
「どうしたの、うん」
 ベテランの警察官がどちらを見るともなく尋ねた。
「誠に申し訳ありません」
 深々と頭を下げるにいがき君に対して、いいからいいからという風に手を小さく上下に動かしたベテランの警察官が、
「どうしたの、一体」
と、今度は女性のほうを向いて尋ねた。
「だって、あらがき、じゃないにいがき君が何度言ってもわかってくれなくてえ。私、純君のお」
「純君というのは」
「声優の入山純一郎さんです。まもなく当店でサイン会が行われる予定でして」
 すかさずにいがき君が答えた。
「あなた、その純君のファンなんだね」
「そうなんですう、私、純君の大大大ファンなんですう」
 といった女性の話を、うんうんと頷きながら聴き続けていた警察官が、
「あなた、だったら純君に迷惑かけちゃいけないよ」
と女性を諭した。
「えっ、私が純君に迷惑をかけてるう」
「そうだよ、ここで騒ぎを起こしちゃ、それこそ純君、彼が一番迷惑するよ。あなたも大ファンなんだから、それぐらいわかってあげなさいよ」
 警察官の言葉に、女性はひっと悲鳴を上げて、その場に泣き崩れた。
「ごめんなさあい、私、わからなかったあ。純君に迷惑かけてたなんて、私、ちっともわからなかったあ」
 どちらからともなく雪子と詠美が顔を見合わせたとき、しばらく前からビデオカメラで撮影を続けていた長身の白人の男性が、ヴンダバールヴンダヴェルトと感嘆の声を漏らした。
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2017年08月04日

『ほそゆき』のパイロット版の続き

☆『ほそゆき』のパイロット版の続き





「野川さん」
 百万遍側の門を出ようとしたところで、雪子は急に呼び止められた。驚いて振り返ると、学部のときに同じゼミだった平原が立っていた。こけしのような頭の形をした平原は、満面に笑みと汗とを浮かべていた。雪子は思わず顔を伏せた。
「いやあ、奇遇やね」
 相変わらず平原の声は大きい。
「野川さん、勉強」
「うん」
 雪子は小さく頷いた。
「流石は院生やな」
「そんなことはないけど」
 と言ったきり、雪子が続きを口にしないことに痺れを切らしたか、
「僕もちょっと勉強に。実は、僕も院を受けようと思うてな。ほら、慎澄社って大手の出版社に僕入ったやろ。けどなあ、やっぱりサラリーマンは僕には向いてへんわ。上司がパワハラ。むちゃくちゃえげつないねんな。もうこんなとこいたら絶対殺されてまう思うて、それですぐに見切りつけたんや。まあ、もともと研究者もありやと思うてたし」
と、平原は言い募った。
「そう」
「そうやで、野川さんにはわかってもらえへんやろうけど、社会はそんなに甘ないわ」
 平原が左右に大きく手を振った。
「ところで、野川さんはマジノ線についてどう思う」
「えっ」
「いや、野川さん、フランス現代史が専門やろ。マジノ線についても一家言あるんやないかと思うてね」
「私は、人民戦線の女性政策について研究してるから」
「だから、マジノ線についても何か考えがあるんとちゃうの。マジノ線も女性政策も国家防衛という意味では軌を一にしてるはずやろう」
「ううん」
 と言って、雪子は黙り込んだ。
「まあ、ええわ。僕はマジノ線について研究するつもりやから、そのときはよろしくな。そうそう、会社の上司には馬鹿にされたんやけど、にっぽん政府はにっぽん海沿岸にマジノ線みたいな防壁を築くべきやと僕は思うてんねん」
「日本海、沿岸」
「そう。北朝鮮からミサイルが飛んで来たら、壁からびゅんってバリアを張って撥ね返すんや」
「バリアって。そんなこと、でき」
「いやいやいやいや、にっぽん国の科学技術を結集したら不可能な話やないよ。そや、野川さん今から時間ある。お茶でもしながらマジノ線について話せえへん。お茶ぐらい、心配せんでも僕が奢るから」
「ごめん、今から用事あるし」
「そうなんや」
 と、平原は不服そうに応じると、
「こんなん言うのはなんやけど、野川さんのそういうとこちょっとあかんと思うな」
と付け加えた。
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2017年08月03日

『ほそゆき』のパイロット版

☆『ほそゆき』のパイロット版





「四人姉妹のおしまいやからな、私」
 と言って、詠美は溶け切った宇治金時を二、三度かき混ぜた。
「佐田は」
 と訊かれた佐田は、
「俺、一人」
と答えた。
「一人っ子か」
 詠美はもう一度宇治金時をかき混ぜた。
「なあ」
「何」
「四人姉妹って、ほそゆきみたいだよね」
「ほそゆき」
「ほら、谷崎なんとかの」
「冗談きっつ」
「冗談じゃないよ」
「まじか」
 詠美は佐田の顔を馬鹿にするような憐れむような目でしばらく見つめたあと、
「それ、ささめゆきや」
と口にした。





 詠美は自転車を飛ばして、十分程度で自宅に着いた。途中、蓼倉橋の信号で幼なじみの梓と遭遇したが、一声かけただけでそのまま走り去った。門と玄関の間の敷石のところでスマホを確認すると、「おんにゃ?」とlineが入っていたから、「ほなや!」と返事を送っておいた。
「いやまあ、ぎょうさん汗かいて。えいみちゃんも元気なこと」
「ただいま」
 と挨拶をして居間の前を通り抜けたとき、向こうを向いたままの祖母の聖子が芝居風な口調で言った。勘の鋭さはいつものことなので、詠美は少しも驚かない。そういえば、聖子だけが詠美のことをえいみと呼ぶ。
 タオル地のハンカチで首筋の辺りを軽く押さえながら二階に上がった詠美は、障子の前で、
「お待たせ」
と呼びかけた。
 返事がないので、
「ええね」
と一言断って障子を開けると、中はもぬけの殻だ。
「あれ、どこ行ったんやろ」
 一階に下りるとすかさず聖子が、
「ゆきちゃんならまだやで」
と、今度は詠美のほうを向いて告げた。
「えっ、ほんまに」
「はい、ほんまです」
「もう、なんやのあの人」
 詠美は思わず声を上げた。
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2016年12月31日

執筆依頼等につきまして

 中瀬宏之と申します。
 演劇、クラシック音楽、映画、書籍に関するレビューの執筆のほか、演劇台本や映画のシナリオのプロットドクターのご依頼を請け賜わっております。
 お問い合わせをはじめ、ご興味ご関心がおありの方は、こちらまでお気軽にご連絡ください。

 個人創作誌『赤い猫』の発行以来、ありがたいことに文章執筆のご依頼やお問い合わせを多数いただくようになりました。
 そのこともありまして、改めてこちらに一文掲載させていただいた次第です。

 mixiにも参加しておりますので、気軽にのぞいていただければ幸いです。
 どうぞ、よろしくお願いいたします。
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2016年05月27日

痾紅毛日記

☆痾紅毛(やまいこうもう)日記

×月×日
 6時に起きて、町内会のドブ浚い。集まるのは、お年寄りばかり。中に我。重宝される。疲れて、帰宅後朝食も食べずまた眠る。目醒めれば、11時過ぎ。空腹で仕方なく、近くの四川亭へ。麻婆豆腐定食。美味。カウンターのドブのような目つきをした男、必死になってバラモンさんを読んでいた。何かやらかしそうだ。昼過ぎ、東京からK社のI氏入洛。新しい企画の打ち合わせ。4時間。KSの話も聞かされる。馬鹿につける薬はない。夜、I氏とシトロエンへ。マダムは元気だ。西田佐智子を熱唱。ホテルにI氏を送り、タクシーで帰宅。

×月×日
 9時に起きて、原稿3枚。週刊騒論のコラム。近所の公園で出会ったキジトラの話。正午、とんこつとん太郎をつくっていたら、宗教関係の女が来て麺がのびる。腹立たしい。邪教徒に天罰よ下れ。昼過ぎ、原稿2枚。木津川演戯のパンフレット用。わざと武富さんを持ち上げ、田端君をけなす。散歩。四川亭で見かけたドブのような目つきをした男が、セブンイレブンの前で縄跳びをしていた。三度に一度は必ず失敗する。明らかに、何かやらかしそうだ。内田百閧読む。

×月×日
 朝早く、庭に鳩。ぽるっぽぽるっぽとうるさいので、大豆缶の残りを投げ付けたが、鳩に豆鉄砲とはいかず、喜んで食べていた。原稿12枚。『ちんばさん狂詩曲』。昼過ぎ、妻、実家より戻る。義父、ただのぎっくり腰と。ほっとする。土産の川蝦の佃煮でお茶漬。美味。夜、DVDで『どですかでん』を観る。よく見たら、渡辺篤が渡辺篤史と表記されている。それじゃあ、建物を誉める人だ。内田百閧読む。

×月×日
 原稿用紙13枚。『ちんばさん狂詩曲』。来月分脱稿。近所でパトカーのサイレン。すは一大事と野次馬根性を発揮。が、おなじみアル中のアルチュセール主義者の元大学教授が酔っぱらって裸踊りをしているだけだった。帰りがけ、近所の公園で、ドブのような目つきをした男と朝黒龍のような容姿をした女が、ジャングルジムの上で縄跳びの引っ張り合いをしていた。こちらのほうが一大事ではないのか。首相、暗殺される。藤堂健太、宍戸晴子、そして安保全造。今年に入って三人目だ。内田百閧読む。
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2016年04月06日

花は花でもお江戸の花だ(文章の訓練)

☆花は花でもお江戸の花だ 弦太郎八番勝負より(文章の訓練)


 鵜野部左文字町を抜けて西厳寺の前を通り、刈沢の材木置き場に来たところで、矢沢弦太郎はやはりなと思った。
 振り返れば、すぐに気付かれる。
 弦太郎は何気ない調子で下駄の鼻緒を直すふりをすると、一目散に駆け出した。
 たったったったっ、と弦太郎を追い掛ける足音がする。
 脚力には相当自身のある弦太郎だったが、向こうもなかなかの走りっぷりのようだった。
 仕方ない、ここは荒業を使うか、と二ツ木橋のちょうど真ん中辺りで、弦太郎はえいやとばかり水の中に飛び込んだ。

「無茶ですよ、弦さんも」
 ありったけの布団やら何やらを頭の上から押し被せたおもんが、甘酒の入った湯呑みを弦太郎に手渡した。
「春ったって、花はまだ三分咲き。風邪でもひいたらどうするんです。あたしゃ、殿様に合わせる顔がありませんよ」
「そうやいのやいのと言われたら、それこそ頭が痛くなってくる」
 弦太郎はふうふうと二、三度息を吹きかけてから甘酒を啜った。
 甘酒の暖かさと甘さが、芯から冷え切った弦太郎の身体をゆっくりと解き解していく。
「で、誰なんですよ」
「そいつはまだわからねえ。ただ」
「ただ」
「髭田の山がな」
「髭田の山って、それじゃ白翁の」

 前の側用人高遠摂津守頼房は齢六十にして職を辞すると、隠居所と称する髭田の小ぶりな屋敷に居を移し、自ら白翁を号した。
 だが、髭田の屋敷には、幕閣や大商人たち、それに連なる者たちが、白翁の威をなんとしてでも借りんものと連日足を運んでいた。
 世にいう、髭田詣である。

「流石は掃部頭の息子よの」
 西海屋より献上された李朝の壺のすべすべとした手触りを愉しみながら、白翁は微笑んだ。
「御前、如何いたしましょう」
「慌てることはない、様子を見るのじゃ。急いては事を仕損じるというではないか」
「はっ」
 白翁の言葉に頷くや否や、目の前の男はすぐさまその場を後にした。
 白翁は、なおも白磁の壺を撫で続けた。
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2016年04月05日

内田秋子のこと

*内田秋子のこと

 早いもので、演劇界の友人内田秋子が亡くなって、かれこれ十五年が過ぎようとしている。
 良くも悪くも俺が俺が我が我がの自己顕示欲が欠かせないこの世界で、彼女はあまりにも臆面があり過ぎる俳優であり、企画者だった。
 まるでクマノミか何かのように稽古場の隅に潜んで「通し」の進行を見つめる彼女の姿を、私はどうしても忘れることができない。
 そんな性分が災いしてか、嫌な想いをさせられることも少なくなく、学生劇団時代以来の友人で恋人でもあった日根野貴之など、「あんなだから秋は損をするんですよ」と憤然とした口調で、しかし彼女には絶対に聞かれることのない場所で度々こぼしたものだ。
 本来ならば、彼女と日根野の鍛錬研鑚の場所として始まったトランスクリプション(最初は久松のアトリエ・スキップだったのが、最後には輪多の市民劇場で開催されるまでになった)が、回を重ねるうちに先輩たちの芸の見せ場になってしまったのにも、当然内田秋子の人柄、性根の良さが関係しているのではないか。
 チェーホフの『ワーニャおじさん』をやるとなったとき、ソーニャをやらせろソーニャをやらせろと壊れたレコード・プレイヤーの如く繰り返した車戸千恵子に向かって、「大根役者が恥を知れ」と叱りつけて大もめにもめたことが今では懐かしい。
 その車戸千恵子も、内田秋子が亡くなった次の年に自動車事故で亡くなってしまった。
 内田秋子にとって最後の舞台となった、ブレヒトの詩による一幕物『どうして道徳経はできたのか もしくは、老子亡命記』で、どうしても童子の役をやりたいと言ったときは、まさか病魔に侵されているとは思ってもみなかったので、ようやく彼女も我を張るようになったと私は大いに喜んだほどだ。
 確かに、出たいと意地を通しただけに、あの作品での彼女の熱の入れようは半端なかった。
 臼杵昌也の老子、布目進の税関吏、牛尾舞の税関吏の妻と伍して、彼女は童子の役を演じ切った。
 中でも、税関吏に対して、
「水は柔軟で、つねに流れる、
 流れて、強大な岩に時とともにうちかってゆく。
 つまり、動かぬものがついに敗れる」
と、師匠の老子の教えを語るときの軽みがあって柔らかで誇らしげな言葉と表情は、内田秋子という演技者の最高の場面だったと評しても過言ではない。
 水はつねに流れる、といえば、彼女は井深川の川べりに佇んで、長い時間水の流れを見つめているのが好きだった。
 なんだか動かぬものばかりが目につく今日この頃だけれど、こういうときにこそ、あの日の彼女の台詞を、もう一度思い起こしたいと思う。
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2011年12月31日

個人創作誌『赤い猫』第4号刊行延期のお知らせ

 6月末までの刊行を予定していた『赤い猫』第4号ですが、諸般の事情から刊行を延期させていただくこととなりました。
 お問い合わせをいただいた方々をはじめ、皆様方にはご迷惑をおかけしますが、何とぞご容赦ご寛容のほどよろしくお願い申し上げます。

 なお、 お問い合わせ等に関しては、こちらまでご連絡いただければ幸いです。
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2010年05月09日

5月の創作活動予定

 1:『Kiss for Two』
 『Kiss for Two』は、1950年代のアメリカを舞台とした一幕物の二人芝居。
 いわゆるスクリューボールコメディの執筆を試みたものだが、出来はいまいち。
 それでも、5月中に読み直し手直しを終えて、某所に送付してみるつもり。


 2:『山中貞雄餘話』
 ここのところ、ちびちびと書き続けて来たこの小説も、なんとか先が見えてきた?
 が、予想していたよりも短くなりそうで、ちょっとこれは拙い。
 水増しするわけにもいかないし。
 ううん、参った。
 いずれにしても、5月中に第一稿を完成させたいのだが。


 3:『魔王』
 伊坂幸太郎作品と題名がだだかぶり。
 けれど、執筆したのは僕のほうが先なのですよ。
 前々から、挿入部分の出来の悪さが気になっていたため、思い切って改作に挑んだのだけれど、いやはや難航難業。
 完成は7月以降になるのではないか…。


 4:『告悔』
 『不在証明』の姉妹篇(兄妹篇?)となる作品。
 が、アイデアを少し考えただけで、未だ海のものとも山のものともつかず。
 プロット程度は考えておきたいところ。
 まいてまいて。


 まあ、やるべきことをどんどんやっていけってことですね。
 頑張らなくては!
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2009年05月04日

妙な夢

 こんな夢を見た。
 私は本を読んでいる。
 花田清輝の評論集や林光さんの書いたものだから、全て愛読書と呼べるものである。
 すると、そこに顔の見えない男がやって来て、これを読まなきゃだめじゃないかと、ある本を差し出した。
 なんだうっとうしいと思いながら、本の表紙をのぞくと、そこにはマルクスだのエンゲルスだのという言葉が仰々しく並んでいた。
 何をいまさらと腹が立って顔の見えない男に文句を言おうとしたところで、目が覚めた。
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2009年04月21日

贋作破れ傘刀舟悪人狩り(朗読のための小品)

*登場人物

 叶刀舟
 兵庫頭=山口兵庫頭
 木曾屋=木曾屋太兵衛


兵庫頭「むふふふふ、そのほうのおかげでこのわしも、間もなく勘定奉行の要職を手に入れることができそうだ。木曾屋、これからもよろしく頼んだぞ」

木曾屋「滅相もございません山口様。この木曾屋こそ、山口様のおかげで公儀御用達の看板をいただけたのでございます。この木曾屋太兵衛、山口様がお命じならば、たとえ火の中水の中」

兵庫頭「うむ。あとは、瑞泉寺の叶刀舟とかいう厄介者を始末するだけだな」

木曾屋「はっ、そのとおりでございます」

叶刀舟「どけどけどけ、てめえら雑魚には用はねえんだ。斬られたくなかったらどきな」

兵庫頭「貴様、いったい何奴。ここを材木奉行、山口兵庫頭の邸宅と知っての狼藉か」

叶刀舟「てめえらか、清吉を殺したのは」

木曾屋「山口様、こやつでございますよ、例の叶刀舟とかいう藪医者は」

兵庫頭「なに、こやつが。飛んで火に入る夏の虫とは貴様のことだな」

叶刀舟「やかましいやい、この野郎。てめえら、材木の値上がりをはかるために、なんの罪もねえ江戸の家々につけ火なんかしやがって。
 それだけじゃねえや、てめえらよくも清吉を殺したな。
 いいか、清吉はなあ、口は悪いが心根の優しい男なんだよ。てめえらみてえなうすら汚ねえ下種下郎千人万人かかったって適うことのねえ、いい奴なんだよ。
 それをてめえら、よってたかって虫けらみてえに殺しやがって。
 てめえら人間じゃねえや、たたっ斬ってやる」
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2009年04月13日

微速前進 『赤い猫』第2号小報

 今日、烏丸通のキンコーズまで行って個人創作誌『赤い猫』第2号の版元をプリントアウトし、さらにそれを京都こぴいで縮小コピーする。
 第2号発行に向けての作業をなんとか再開したというわけだが、まだまだ先は長い。
 まあ、焦ってみても仕方ないやね。
 ここは微速前進。
 ちょっとずつでも進めていくしかないのだ。
 と、自分自身に言い聞かせているところである。
 頑張らなくっちゃ!
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2009年04月09日

館佐武郎を探してのメモ

 以前書きあげた『伊達三郎を探して』は、今から二十年近くも前、当時はまだ存命だった大映出身の役者伊達三郎にインタビューを申し込もうとして果たせず、その後しばらくして伊達さんが亡くなってしまう、という個人的なエピソードを軸に、事実2割虚構8割という形で仕立て上げた小説だが、今回新たに書き始めた『館佐武郎を探して』は、その『伊達三郎を探して』からスタートしつつ、物語の展開など、事実0・5割虚構9・5割と、ほぼ作者自身の空想妄想の産物と称してもよい内容になると思う。
 ただ、以下に記す登場人物の設定からは、実在の人物を強く想像される方々がいてもおかしくはないのではないか。
 けれど、上述した如く、この『館佐武郎を探して』は、ほぼほとんど作者、中瀬宏之自身の空想妄想の産物なのである。
 その点、何とぞご承知おきいただきたい。

 で、以下が主な登場人物。

 ☆私
 映画や演劇、音楽に関する雑文書きを生業にしている人物。
 『來三を観る』という著書を出版する。

 ☆内川來三<故人>
 時代劇から現代劇まで幅広くこなした大活(大日本活劇)のトップスター。
 今も根強い人気を誇る。

 ☆館佐武郎<故人>
 來三と多数共演した、元大活専属の男優。
 個性的なバイプレイヤーとして知られる。

 ☆綿貫八十助
 かつて館佐武郎のマネージャーを務めた人物。
 私に、ある仕事を依頼する。

 ☆泊昌子
 木屋町通にある「あかねぞら」の主人。
 大活出身の元女優。

 ☆小野塚糺
 戦前戦後大活で活躍した映画監督、のちに脚本家。
 齢百を数える。

 ☆島村小夜
 元大活専属の女優。
 來三作品に数多く出演。

 ☆田所謙蔵
 元大活専属の映画監督。
 來三と親しく、彼主演の作品を多数撮影する。

 ☆佐々龍之進
 元大活専属の男優。
 ささりゅうの愛称で親しまれる。

 ☆浅野信弘
 かつらがわ出版社長。
 私に、『來三を観る』の出版を勧めた人物。


 さあ、書くぞ!
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2009年04月06日

なんと冷笑的な

 思うところがあって、今から10年以上も前に書き上げた、『ヘンゼルとグレーテル もしくは、舞台の裏の表の裏』という戯曲を読み返している。

 『ヘンゼルとグレーテル、以下省略』は、フォン・ディーツェンバウムなる架空のドイツ人作家がものしたという体をとった「D三部作」の二番目にあたる作品で、おなじみグリム童話、というよりも、フンパーディンクのオペラに加えてヴェーデキントのルル二部作(『地霊』、『パンドラの箱』)を下敷きにし、ナチスが政権を奪取するかしないかの1930年代前半のドイツに舞台を設定した、と語るだけで、察しのよい方ならば、だいたいどのような展開をたどっていくかがおわかりになると思う。
 まあ、冒頭に置いた、
>あるじゃあないかよ
 金貨がたっぷり
 お札もどっさり
 ばばあの呻きが聞こえても
 思いやりなど微塵もねぇ<*注
という、ヴェーデキントの『伯母殺し』という詩の一部が全てを象徴しているのではないか。

 それにしても、「かわいいお子様のための舞台劇」と銘打ちながら、途中絶命館大学の大波総長、御徒町革命部長(当時、上野何某という教授がいたのだ、立命館大学に)が登場したり、登場人物が放送禁止用語を連発したりと、なんともかともな内容には、我ながら穴があったら入りたい心境だ。

 おまけに、幕切れ(本当は、このあとに八つ裂きジャックなる怪人物が登場するのだが)に置いたヴォードヴィルの歌詞たるや、以下に記す通りなのだから、シニカルさもここに極まれりではないか。

★幕切れのヴォードヴィル
 1:ペーターとゲルトルート(ヘンゼルとグレーテルの両親)
 ひとを愛せよ慈しめ
 争いごとなく抱き合え
 しょせんこの世は茶番劇
 腹を立てるな諍うな
 しょせんこの世は茶番劇

 2:ウンズィン=ばかとケーゼ=おろか
 ひとを笑うな笑われよ
 賢いことなどやめておけ
 しょせんこの世は茶番劇
 腹を抱えて笑っても
 しょせんこの世は茶番劇

 3:ヘンゼルとグレーテル
 ひとを頼るな信じるな
 優しい言葉は嘘ばかり
 しょせんこの世は茶番劇
 腹を開いて語っても
 しょせんこの世は茶番劇

 4:全員
 しょせんこの世は茶番劇
 腹を立てても怒っても
 しょせんこの世は茶番劇
 しょせんこの世は茶番劇

 正直、今ではこういう内容の作品を書けはしない。
 なぜなら、シニカルを気取ることができるのは、結局目の前のあらゆる状況に対して甘えていられる余裕があるということなのだ。
 今は、そんな余裕など、どこにもない。
 はずだ。


 *注
 岩波文庫の『ドイツ名詩選』所収の檜山哲彦訳を参考にして、それに少し手を加えたものである。
posted by figarok492na at 17:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 創作に関して | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする