2014年08月06日

二晩続けて落語を聴いた

 突然ががっと揺れて、「誰がこんなぐるぐる回ってるマンションなんかいるもんかあ!」、なんて剛毅なことは言わず、おいおい地震かい、おまけに余震ときたか、こりゃ困ったなとびくつきながらラジオを聴いている。
 で、大地震とまではいかなかったので、地震速報は入ったもののNHKのラジオ深夜便では、予定通り古今亭志ん生の『寝床』が放送された。
 1966(昭和41)年の口演だから、志ん生にとっては引退間際の録音ということになるか。
 脳出血からの復帰後ということで、元来あんにゃもんにゃの気があったものが、さらにその気を強めているのだけれど、その分ぞろっぺいな味わいも増して、会場もわきにわいている。
 ところどころ織り込まれるくすぐりのおかしさ面白さ。
 そして通常のサゲまでいかず、旦那に義太夫を無理から聴かされた番頭が「書置きをおいて行方不明になった」「今はドイツにいる」で終わる突拍子のなさ(確か、これは師匠柳家三語楼譲りのものだ)。
 解説役の当代の金原亭馬生も言っていたが、これは真似しようたって真似のできない藝である。

 昨夜は、その志ん生の長男、先代の金原亭馬生の『たが屋』が放送されていた。
 1968(昭和43)年の録音で、渋さも渋しの語り口を、そうそうこれこれとうんうん頷きながら愉しんだ。
 ところどころつっかえるのも味のうちだ。
 ただ、自分自身口跡が悪いこともあってか、落語に親しみだした小学校から中学校の頃は、先代の馬生に限らず、先代の文治とか、つっかえる落語家はあまり好みじゃなかったんだよなあ。
 だから、古今亭志ん朝とか若き日の春風亭小朝とか、すらすら流れるような語り口の落語家が大好きだった。
 それでいて、志ん生や可楽といった人たちにも魅かれていたのは我ながら不思議だが。
 そうそう、昨夜は馬生の声がときに志ん生に、ときに志ん朝に聴こえたりして、ちょっとだけ哀しくなったりもした。
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2014年08月03日

オルフのカルミナ・ブラーナを聴いて

 明け方4時過ぎに眠ったというのに、夏の朝ということもあってか9時前には目が醒めた。
 起き上った拍子に腰をぴきっとやって、超軽いぎっくり腰状態になったので、再び布団の上に横になる。
 で、ちょうど9時になったのでNHK・FMの『名演奏ライブラリー』を聴くことにした。
 今回は、先頃亡くなったスペインの指揮者ラファエル・フリューベク・デ・ブルゴスの特集で、30代の彼がニュー・フィルハーモニア管弦楽団を指揮して録音したファリャのバレエ音楽『恋は魔術師』やオルフのカルミナ・ブラーナが放送されていた。

 オルフのカルミナ・ブラーナ。
 という曲名は知らずとも、冒頭とラストに置かれた禍々しくてよい意味で大仰な音楽ならば、映画やテレビのBGMにもよく使われているから、耳にしさえすれば、あああの曲ね、と多くの方が納得されることと思う。
 まさしく、キャッチーでつかみはOKな作品だ。
 また、中世ヨーロッパのざれ歌をもとにした乱痴気騒ぎの大はしゃぎは、いわゆる現代音楽の範疇にありながらも、実に耳なじみがよい。
 合唱フリークならずとも親しみやすい音楽といっていいだろう。

 ただ、このフリューベク・デ・ブルゴスの演奏を聴いて僕は、なあんかいまひとつ乗り切れないというか、なんとも曰く言い難い気分になってしまった。
 と、言ってフリューベク・デ・ブルゴスとニュー・フィルハーモニア管他(大好きだったソプラノのルチア・ポップも独唱に加わっている)の演奏がひどい代物という訳ではない。
 どころか、解説の諸石幸生も口にしていたように、エネルギッシュでパワフル、リズミカルな上に、分離のはっきりした録音の加減もあってか実に明瞭な演奏に仕上がっている。

 が、である。
 だからこそ、主旋律の裏でポコポコガシャガシャ刻んでいる打楽器や何やらに、作曲家の巧緻さや狡知さ、それが言い過ぎならば、何か造り物を机の上で造っているかのような意図と意志を必要以上に聴きとってしまったことも事実である。
 喩えが適切かどうかわからないが、例えばアフリカの現地の人々にとって彼彼女らの踊りや歌は当為のものであり生活と密接した自然なものだ。
 またそうした踊りや歌に心動かされ、現地以外の人々が我も我もとリズムに乗って踊り歌うのも不自然なことには感じられない。
 だが、オルフのカルミナ・ブラーナには、文化人類学者がフィールドワークで彼彼女らの踊りや歌を採取採譜して、ああ、ここでは拳を三回振り上げた、ここでは槍を二回突き上げたなるほどなるほど、それじゃあ再現してみましょう、あっと、彼彼女らはもろ肌脱いで踊っていたなあ、それじゃあそれも再現してみましょう、という持って回った感じがどこかにする。

 加えて、オルフのカルミナ・ブラーナには、元ネタの素朴さ質朴さに比して、増村保造監督の『巨人と玩具』で、劇中アイドル歌手みたくなった野添ひとみが「原住民」を模した扮装をして歌う、「土人の女に売りつけろ!」という塚原哲夫(哲は、本当は口ではなく日)作曲の俗悪な歌と同様なあざとさを感じずにもいられない。
 いや、野添ひとみのあの歌は、映画そのものが持つ同時代日本への激しい批判精神と断念の象徴であるのに対し、オルフのほうは時局への迎合すらうかがえてどうにも仕方ないのだ。
(オルフのカルミナ・ブラーナは、1936年に完成し1937年に初演された。オルフ自身はナチスの積極的な党員ではなかったとされているが、時局=政治権力ではなく、当時のアトモスフェアを反映した作品であり、音楽であることも、やはり否定できまい)

 もちろん、僕自身の偏見もあるのだろうけれど、朝からちょっと心地がよくない。
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2011年08月02日

Hさんのこと

 昨夜、ふとしたきっかけからHさんのことを思い出した。

 Hさんは、僕の高校時代の放送部の一学年上の先輩である。
 細身で色白、おまけに丸縁の眼鏡をかけていたこともあって、見るからにまじめという感じの女性だった。
 加えて、その柔らかい口調から、よい意味で主張のはっきりした一学年上の女性陣の中では、どちらかといえば大人しめのタイプだと思われがちだったが、その会話のはしばしに注意を向けてさえいれば、なかなかどうして、Hさんが芯の強い女性であることがわかったはずだ。
(そうそう、歯切れがよくてスピーディーな部長のI女史とゆっくりゆるゆるとしたHさんの会話が、まるで落語の『長短』を聴いているようで妙におかしかったことを今思い出した)

 そんなHさんだが、数年後のOB会であったときの彼女の姿には本当に驚いた。
 大学デビューとでもいうのだろうか、デパートの化粧品コーナーの店員さんもここまではと思わせるほどの化粧のありようで、Hさんと久しぶりに会った面々、一瞬無言で顔を見合わせるという状態だったのだ。
 もちろん、今では物心両面でだいたいの理由の想像がつくから、20歳前後のHさんのその日の姿を微笑ましく、そして切なく思えるのだけれど。
 そういえば、Hさんとは、翌年ぐらいのOB会でも再会したが、そのときの彼女は以前のHさんらしさを残しつつ、ほんのりバランスのとれた化粧をしていたのではなかったか。

 Hさんが亡くなられたのを知ったのは、数年前に届いた高校の同窓会名簿を目にしたときだった。
(ほかにも、僕の前の前の代の生徒会長Nさんや同じ学年のUさんが亡くなられていたこともそのときに知った)
 僕はHさんに女性として好意を抱いていたわけではないが、人間としてはとても好感を抱いていた。
 関西の大学で学ばれていたこともあり、どうしてHさんとゆっくり話しをする機会を持とうとしなかったのか。
 Hさんのことを思い出して、改めてそのことが悔やまれてならない。
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2011年04月15日

モーツァルトの序曲集を聴きながら

 アンドレア・マルコンがスイス・バーゼルのピリオド楽器アンサンブル、ラ・チェトラを指揮したモーツァルトの序曲集<ドイツ・グラモフォン>に関しては、いずれCDレビューをアップするつもりでいるが、さすが劇場感覚に秀でたモーツァルトだけあって、序曲を聴いているだけでわくわくした気分になってくる。
 いや、やっぱり序曲だけだと物足りないかな。
 と、言うのも、マルコンはよい意味で煽る、メリハリのはっきりしたドラマティックな演奏を創り出しているので、序曲が終わると、つい次の曲目を聴きたくなってしまうのだ。
 ダ・ポンテ三部作などは特にそう。
 だから、『フィガロ』だったら、チンクエと、『ドン・ジョヴァンニ』だったらノッテジョルノと、『コシ』だったらラミアドラベッラとついつい口づさんでしまいたくなるほどだ。
 そういえば、あまたあるオペラの中で、僕が本当に好きなオペラはモーツァルトのダ・ポンテ三部作だ。
(他は、リヒャルト・シュトラウスの『カプリッチョ』)
 『フィガロ』は全曲、ドン・バジリオのアリアはもちろん、レチタティーヴォにいたるまでたまらなく好き。
 でも、心がどうにも落ち着かなくなるのは、『ドン・ジョヴァンニ』かな。
 中でも、第一幕のフィナーレで、いくつかの音楽がばらばらに演奏されるあのシーンは、本当にたまらない気分になる。
 今手元にあるのはカラヤンのCDだが、できればもっと別の演奏で耳にしたい。
 例えば、マルコンが指揮した演奏とか一度聴いてみたいものだ。
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2011年04月01日

嘘つきの日に

 どちらかと言えば、自分はほら吹きの部類に入るんじゃないかと常日頃から思っているが、ほらを吹くのと嘘をつくのはやはり似ているようで非なるものだ。

 正直、嘘をつくのは得意じゃない。
 特に、自分自身に嘘をつくのは苦手である。

 今日から四月、ということで、すんなり気持ちを切り換えていこうと思ったが、腹立たしさ、怒り、憤りといった負の感情は早々簡単になくなってくれるものではない。

 それでも、結局は馬鹿を支える者こそ一番の馬鹿、低劣で卑しい人間を支えるものこそもっとも低劣で卑しい人間という言葉を胸に刻みつけながら、新年度を生き抜いていきたいとは思う。

 それにしても、心苦しいとか申し訳ないという言葉を軽々に使う人間ほど信用のならない人間もいない。
 自分の痛みについては大仰に泣き叫ぶくせに、他人の痛みに鈍感な人間ほど困った存在もない。
 そんな人間、口先だけの人間にはなりたくないものだ。


 嘘つきの日に、あえて本心を語ってみた次第。
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2010年10月14日

夜に想うこと

 ここぞというときにこそ頼りがいのある人間になりたい。
 本当に。
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2010年10月09日

ゲームの法則

 絶対に無理とは言えないけれど。

 金銀抜きで格上の相手に勝とうなんて、虫のよすぎる話だ。
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2010年05月18日

社是(一方通行路・1)

☆社是(しゃぜ)


 もう十年以上、いや十五年以上も前になるか、今は芸能界を引退した上岡龍太郎と笑福亭鶴瓶の掛け合いを売りにした『鶴瓶上岡パペポTV』という深夜の人気番組があった。
 その中で、しっかり細部までは覚えていないのだけれど、上岡龍太郎が標語なんてものは、もとから守れるものではないことを標語にしてるんです、そやから「みんなで空気を吸いましょう!」なんて標語はないやないですか、といった内容の言葉を口にしていた。
 反骨精神といえばかっこいいが、ありていに言えばへんこな上岡さんらしいなと思いつつも、やはり一理、どころか二理か三理ぐらいはあるなと納得してしまったものだ。

 みんなで明るい社会をつくりましょう!
 お年寄りをいたわりましょう!
 人権を大切にしましょう!

 なるほど、確かに。

 ならば、「会社・結社の、経営方針や主張」と『広辞林』第五版<三省堂>で説明されている社是なんてものも、もとより守れるものではないからこその社是かもしれない。
 そういえば、先日元社長に有罪判決が下されたある会社の社是は、

 誠意と努力

 だ、そうだ。
 それならいっそのこと「企業利益増加への誠意と努力」とでもしたらどうだろうか。
 身も蓋もない話だが、そちらのほうが僕にはよっぽどしっくりくるし、ある意味誠実ですらあると考える。

 まあ、こと会社に留まらず、組織というものを維持し発展させるためには、対内的にも対外的にも、それが実現可能か不可能かは置くとして、高邁な理想を語った社是社訓、綱領標語、規約規範を掲げる必要があることぐらい、僕だって充分承知はしているのだけれど。
 少なくとも、僕個人としては、自分自身の身の丈に合った道徳律を心のうちに持っていたいと強く思う。
 それを、表に出すか出さないかは別として。
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2009年12月20日

峻別する力の必要性

 2009年も間もなく終わろうとしている。
 今年一年を振り返って痛感することは、自らの持つ物事を峻別する力の明らかな不足ということである。

 峻別する力。
 それは、自らの好みに合わずとも、自らが触れた対象、もの・ことの持つ魅力や水準、成果を高く評価する力と言い換えることができるかもしれない。
 逆にそれは、自らが親しいものであったとしても、つまらないものはつまらない、面白くないものは面白くない、水準が低いものは水準が低いと断じて憚らぬ力と言い換えることができるかもしれない。
 またそれは、何が自らにとって必要であり、何が自らにとって必要ではないか、何を付け加え、何を殺ぎ落とすかを見抜く力と言い換えることができるかもしれない。

 もちろん、他者を峻別するというのであれば、自らが峻別されることに対しても真摯であり、謙虚でなければならないということは、言うまでもない。
 そしてそれは、個人創作誌『赤い猫』をはじめとした自らの創作活動に止まらず、中瀬宏之という一個の人格に対する評価や批判、好悪の念を含んだものでなければ全く意味があるまい。
(当然、誰がどのような判断を自らに下したかについては、しっかり記憶しておかなければならないだろう)

 いずれにしても、与えられた人生は一回きりなのだ。
 惰性に流され、妥協を重ね、結果あれよあれよという間に一年を終えてしまうことほど虚しく馬鹿馬鹿しいこともない。
 来年こそは、もっと峻別する力を身につけていきたいと、心の底から強く思う。
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2009年11月10日

さらばモリシゲ!  森繁久彌翁を悼む

 日本を代表する役者の一人であり、芸能人の一人だった森繁久彌翁がついに亡くなってしまった。
 だが、まだ96歳。
 翁には100歳、いや150歳まで生きていていただきたかった。
 舞台人としてスタートし、戦中は満洲でアナウンサーとして過ごし、戦後は軽演劇の世界で鳴らし、藤山一郎とのラジオ番組『愉快な仲間』で一躍脚光を浴び、映画界でも、マキノ雅弘監督の『次郎長三国志』での森の石松、そして豊田四郎監督の『夫婦善哉』、さらには社長シリーズ等々大活躍、その後もテレビドラマをはじめ、森繁劇団や『屋根の上のヴァイオリン弾き』、『知床旅情』、向田邦子や久世光彦との仕事、加藤道子との『日曜名作座』と様々な分野で森繁翁ここにありの活動を続けた。
 また、芸能人の地位向上にもつとめ、日本の芸能界のゴッドファーザーと呼んでも過言ではない人脈を築いた人でもあった。
(親しみをこめて、森繁翁とその仲間、例えば、竹脇無我や今は亡き松山英太郎、藤岡琢也といった人々をまとめて、僕は「森繁一派」と呼んでいた)
 深く、深く、深く、深く、深く黙祷。

 上述した作品以外にも、森繁翁はたくさんの名作佳作を遺しているが、TBS系で放映されていた『おやじのヒゲ』を久しぶりに観てみたい。
 正直、竹脇無我その他、森繁一派が総出演の感あるドラマで、森繁翁はじめ台詞も演技もぐだぐだというか、相当むちゃがある内容だったのだけれど、今となってはそれが懐かしい。
おもらししたのか汗をかいたのか、起きて「濡れちゃった」とつぶやくあたりなど、森繁翁ならではの演技満載のドラマでもあったし。

 それにしても、先日の三遊亭圓楽、南田洋子、浜田寅彦、さかのぼれば牟田悌三、渥美國泰、佐竹明夫、大木実、山城新伍、若杉弘、金田龍之介、中丸忠雄、忌野清志郎、加藤和彦、山田辰夫、川村カオリ…、と本当にこたえる。
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2009年07月06日

朝日新聞夕刊「立ち見席 オーケストラの風景A」 新日本フィルハーモニー交響楽団に関して

 朝日新聞夕刊、「立ち見席 オーケストラの風景」(星野学署名記事)は、今日で2回目。
 大阪フィルハーモニー交響楽団に続いて、今回は新日本フィルハーモニー交響楽団の登場で、このオーケストラの近況がコンパクトにまとめられている。

 ただ、
>1972年の創立以来、小澤征爾との関係が深い<
という一文は、新日本フィルの成り立ち、いわゆる旧日本フィルハーモニー交響楽団の分裂を知る人間には、いささか白々しく感じられた。

 むろん、新日本フィル自身がホームページ等で、1972年の旧日本フィルの分裂に関する詳細ないきさつをぼかしてしまいたくなることは、たとえ『日本フィル物語』<音楽之友社>を高校生の頃から愛読し、なおかつ今は亡き日本フィル事務局の中島賢一さんとちょっとした親交もあった、「日本フィル寄り」に位置する僕ですら、充分理解のいくことだ。
 すでに、日本フィルもフジ・サンケイグループと和解しているのである。
 自ら無理をして過去の傷をほじくり返す必要はない。

 だが、だからと言って、この記事の執筆者である星野さんまでが、旧日本フィルの分裂に関して一切触れないというのは、どうしても何かが違うと思う。
 特に、オーケストラの在り方が厳しく問われる「今」だからこそ、そのことに関して何か言葉があってもよかったのではないか。
(だいたい、星野さんがこの連載を始めたのも、「今」だからこそだろうに)
 まあ、今後の連載で日本フィルが取り上げられることもあるだろうから、僕はそのときを待ちたいとも考えるが。

 それにしても、新日本フィルに「民主主義の音」という惹句は、僕にはなんともしっくりこないな、やっぱり。


 余談だけれど、神山征二郎監督によって映画化もされた今崎暁巳の『友よ!未来をうたえ 日本フィルハーモニー物語』<労働旬報社>は、日本フィルとフジ・サンケイグループが「闘争中」だったということもあってか、小澤征爾や山本直純、新日本フィルの側がいくぶん、いや、だいぶんあくどく(ひどい言葉をあえて使えば「資本家の走狗」的に)記述されているような気がして、僕には仕方がない。
 このことは以前にも記したことがあるはずだが、せっかく新日本フィルや日本フィルのことについて書いたので、改めて付け加えておくことにした。
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2009年06月12日

夜に想うこと

 今は、歯がみしてこの諸状況を乗り切ること。
 それが、僕の課題だ。
 奈落の底に吸い込まれるのは、いともたやすい。
 だが、やすきに流れてはならない。

 自分自身を笑え。
 鏡に映った自分を笑え。
 そのおかしさ、醜さ、卑しさを笑え。
 笑い、刻みつけること。
 それが、僕自身の武器になる。

 真夜中のトイレ掃除。
 おもしろい。
 真夜中の浴室掃除。
 おもしろい。
 真夜中の破れ傘刀舟の物真似。
 てめえら人間じゃねえやたたっ斬ってやらあ!
 そいつは、近所迷惑だ!!
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2009年04月27日

『東京裁判への道 上』を読了しての簡単なメモ

 粟屋憲太郎著『東京裁判への道 上』<講談社選書メチエ>を読み終えた。
 以下は、同書を読みながら再確認した、僕個人の感覚的な考え方、認識だと受け止めておいていただきたい。
 それは、この日本という国に住む人々の心性=メンタリティ・マンタリテ(意識無意識両面における)の核となるものが、長い時間の経過の中でなお、強固なものとして維持されているのではないかということである。
 むろん、経済的、政治的、文化技術的環境、いわゆる社会的環境の変化に伴い、心性の表層的な部分は大きく変容しているが、しかし、核となるもの自体は、あまりにも強固なものであるように、僕には思えてならないのだ。
 ただ、ここでは、その核となるものを具体的に明言することは、かえって現在の諸状況を単純化して把握することにつながりかねないので、あえてそうしない。
 けれど、その核となるもの、不変であるものに如何に対峙していくかが、僕自身の今後の大きな課題であるとも強く考える。
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2009年04月15日

木も見る森も見る

 木を見て森を見ず。

 と、言うが、森ばかりを見ていて細部が疎かになってしまっても、それはそれで困ったことになる。

 木も見る森も見る。

 言うは易く行うは難し、ではあるけれど、少なくともそうあるように努めていきたい。
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2009年04月10日

多産の責

 敷居が下がり、間口が広くなるということは、何事につけ大切なことだ。
 いくらお高くとまったところで、それを支える人間がいなければ、早晩そんなものは亡びてしまう。
 が、しかし、敷居を下げ過ぎ間口を広げ過ぎて、縁なき衆生がどどっと舞い込むことも、当然迎える側は覚悟しておかなければならない。
 そして、玉石混交という言葉があるが、たとえ相手が玉にならざる石であれ、少なくともその石が軽石だの漬物石だのなんだのと、使い勝手のある石となるよう努めることが、その覚悟には含まれていなければなるまい。
 敷居を下げた、間口を広げた、あら厄介な連中までがやって来た、と顔を顰めているようでは、それこそ先が思いやられる。
 また、来る者は拒まず去る者は追わずと言うけれど、少なくとも去る者に関しては、努力に努力を重ねた上でなお、そうなってしまった時に口にすべき言葉だろう。
 だいたい、そうした言葉を何のひっかかりもなしに使って平然としているような人間には、敷居を下げ間口を広げる資格などないし、逆に、こういう無責任な人間にほいほいと近寄っていくような人間は、やっぱり度し難いと、僕は強く思う。
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2009年01月18日

まみむメモメモ 1:しあわせぶとり

 以前にも記したことがあるけれど、出版社が定期的に発行している小冊子の読み応えのよさは、当たり前っちゃ当たり前とはいえ、やっぱりなまなかなものじゃない。
 もちろん、これまた以前にも記したとおり、お金を払い込んでまで年間購読しようとは思わないものの、それでも、書店のレジの下あたりにこれが並んでいるときは、お客さんの途切れるタイミングを狙って、すかさずかすめとることとしている。
 まさしく、ただより安いものはない!

 で、そうした小冊子の中でも、僕が中身のバランスのよさと、見栄えのよさでとても気に入っているのが、マガジンハウスの『ウフ』である。
 まずもって、表紙があの篤姫で一世を風靡した宮崎あおいだし、おまけに彼女が文章を書いてるし(でも、この連載は確か篤姫以前からだったはず)、斎藤美奈子の書評「世の中ラボ」はいつもの如くいい意味でひねているし、逆に柴崎友香の「アイドルたち、女の子たち」はいい意味でわかりやすいし、舞台人からの影響丸出しの水野美紀のエッセイも面白いし、玖保キリコの「ヒメママ」だって彼女らしい内容だし。
 まあ、小説のほうはあんまり僕の好みに合わなくて、2月号の特集、林真理子の『マリコ・レシピ』はますます好みに合わないけどね(それでも、きちんと全部読みました)。
 僕の場合はただなんだから、それほど文句は言えないもん。
 まさしく、ただより弱いものはない!

 それにしても、2月号でとびきりおかしかったのが、ミムラの連載エッセイ「まみむメモ」のみりん。
(宮崎あおいに水野美紀にミムラ。さすがはマガジンハウスだなあ)
>帰宅途中に連絡をくれたオットに買い物を頼んだ<ものの、これがもうちっとも役に立たない。
 はては、頼まれたみりんは「ないみたい。よーく見たんだけど、ない」と答える始末。
 おっさん、なにやっとんねん…。
 って、なにやっとんねんもないもの、ただただミムラ、のろけてるだけじゃん。
(そうそう、おっさん、なにやっとねん…、のくだりは僕のオリジナル。ミムラは、そんなこと書いてないよ)
 ただね、おかしかったのはそこじゃない。
 この>普段しっかり三十九歳らしく<しているオットというのが、誰あろう、あの指揮者の金聖響だということだ。
 そう、あの金聖響が食材売り場で、「みりんはないみたい。よーく見たんだけど、ない」ってミムラ相手に電話してるなんて。
 そりゃ金さん、幸せぶとりもするはずだよ!!
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2009年01月16日

『船上にて』を読み終えて もしくは、臆面のあるなしについて

 若竹七海の『船上にて』を読み終えた。
 これで、『プレゼント』、『閉ざされた夏』、そして『船上にて』と、三冊続けて若竹さんの作品を読み続けてきたことになるが、僕は全く読み飽きることはなかった。
 当然、それは若竹さんの柔らかい語り口と、思ってもみなかったような物語の「真層」というコントラストの妙にどっぷりとはまることが出来たからでもあるが、もう一つ忘れてはならないのは、若竹七海という作家が、いわゆる臆面のない作家ではない、ということも大きいのだと思う。
 そう、僕は臆面のある作家の作品が大好きで、臆面のない作家の作品は好きではないのだ。
 それじゃあ、何をもって臆面があり、何をもって臆面がないとするのか。
 これを言葉でくどくどくだくだと説明するのは難しくって、それこそ榎木津礼二郎の如く、「君にはあれが見えないのか!」と口にしたくもなってくる。
 つまり、わかる人にはわかるものだし、わからない人にはいつまで経ってもわからない。
 作家の臆面のあるなしなんて、読む人が読めばすぐにぴんと…。
 って、この物言いも、人によっては臆面がないと判断したりもするんだろうな、きっと。
 まあ、いいや。
 もしもヒントが欲しいというのであれば、僕の本棚を観察していただければ。
 いや、観察していただく訳にはそうそういかないか。
 しからば、ヒントはただ一つ。
 ただし、それはいたって簡単。
 このブログで常日頃から記していること、つまり僕がどの作家の作品を好んで読み、どの作家の作品は一切読もうとしていないか、ということだ。
 それでは不親切に過ぎる、という方には、思い切って、僕が臆面のない作家の代表だと感じている人間二人について重大なヒントを差し上げましょう。
 それは、嵐を呼ぶ×××!
 そして、不細工な果実!
 ちょっとは、わかっていただけたろうか、臆面のあるなしを。


 余談だけど、臆面のない演劇評論家や臆面のない大学関係者ならすぐに名前を挙げられるんだけどね。
 例えば、いくらもったいをつけようと実際の生の舞台を観ずに、京都芸術センターの演劇がらみのコンクールにFrance_panの伊藤拓君を推薦してなんとも思わない森山直人とか(まあ、この企画自体、京都造形芸大お手盛りの臆面のないものではあるけれど)、桁はずれの退職金を手にし、勲章まで平気でもらった川本八郎とか。
 てか、ここまでいくと、臆面がないというより、恥も外聞もない身も蓋もない、と言ったほうがいいのかもしれないが。
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2009年01月14日

重いドラマ

 以前にも記したことがあるかもしれないが、KBS京都では平日お昼の1時から時代劇ドラマの再放送を行っている。
 あくまでも個人的な好みと断った上でだけれど、萬屋錦之助の名演技が光る月曜日の『破れ傘刀舟悪人狩り』(「てめえら人間じゃねえや、たたっきってやる」というおなじみの台詞を、いっしょになって口にしてしまっている自分って…)は絶対に外せないし、市川雷蔵のニヒルさとは対照的な片岡義夫(現仁左衛門)の優しさがいい水曜日の『眠狂四郎無頼控』も悪くない。

 そして、これは掘り出し物、と思ったのが、火曜日の『半七捕物帳』だ。
 岡本綺堂の『半七捕物帳』といえば、それこそ捕物帳物の元祖とも呼ぶべき作品で、すでに何度も映画化・ドラマ化されてきたものだが、今KBSで再放送されているのは、1979年に朝日放送が放映していたシリーズで、しっとりしてしかも一本筋の通った尾上菊五郎の半七を皮切りに、生来のコメディエンヌぶりが愉しい若き日の名取裕子、粋で達者な浜木綿子、よい意味でつかみどころのない長門勇、酸いも甘いも噛み分けた下川辰平、初々しい坂東三津五郎(当時八十助)や森川正太、ぬーぼーとした小島三児ら、上質な商業演劇を観ているようなレギュラー陣のアンサンブルのよさが嬉しい。

 特に、先日放映された「蟹のお角」の回は、それに輪をかけた野川由美子と入川保則の重くて迫真の名演技も加わって、本当の観ものに仕上がっていたように思う。
 「蟹のお角」は、野川由美子演じる、今度捕まれば死罪になってしまうという入墨者の巾着切り(スリ)の女が、これまた入墨者の、入川保則演じる夫にほだされて再び他人の巾着を狙おうとするが、実はそれが夫のたくらみだったことを知って、逆上した女が夫を刺し殺すというとても悲しい物語なのだけれど、ラスト間際、包丁を持った野川由美子が入川保則を追いかけるシーンのリアルで真剣なこと。
 テレビドラマであるにも関わらず、野川由美子の狂気、そしてそれを受ける入川保則の怖れに本当に息を飲んでしまったほどだった。
 さらに、夫を殺してしまった野川由美子の放心した姿や、最後に飼っていた小鳥を放すその切なさ。
 監督があの山下耕作ということもあってだろうが、やはり役者の演技の持つ力を改めて考えさせられた。
(これが全てではないし、扱う作品の内容・質は当然違うのだけれど、京都小劇場界の面々には、こういう演技にもぜひふれてもらいたいものだ。少なくとも、安部聡子さんや内田淳子さんを目指すのであれば、また二口大学さんを目指すのであれば、上述した人たちの演技に接することを厭うては欲しくない)

 それにしても、30年前までは、この重さが当為のものとして受け入れられてきたのか。
 と、今の一連のドラマとついつい比較してしまう自分がいる。
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ぺらいドラマ

 軽佻浮薄には軽佻浮薄の意味があって、それこそ傲岸不遜の裏返しである慇懃無礼な物言い構えようへの鋭い批判にすらなることも稀ではない。
 そこから敷衍するならば、稲垣吾郎が演じる金田一耕助などは、横溝正史というととかく語られがちな、おどろおどろしさだとか、日本文化の底流云々かんぬんといった「それらしい」言説へのアンチテーゼとしてとびきりの存在と言えないこともないだろう。
 実際、横溝正史の原作にあたれば、金田一耕助なる人物は、戦前アメリカ生活を満喫し、たとえ身なりはオールドファッショとはいえ、時代時代の風俗に反応し、はてはアメリカへと再び旅立っていくという、よい意味で軽佻浮薄を地でいく人物であった。
 加えて、陰惨かつ強烈な殺人事件が繰り返されようと、時に「あっはっはあっはっは」と笑い声を上げ、さらには奇怪な言動や行動すら辞さないエキセントリックな性格の持ち主でもある。
 僕がかつてCXの『犬神家の一族』における稲垣金田一の演技を好評価したのも、彼のありていに言って深みのない演技が、原作の金田一耕介の持つ「おかしな」部分と巧く重なり合っているように感じられたからだ。
 そしてその後も、真面目くさって失敗した『八つ墓村』(よくも悪くも「近代能楽集」な藤原竜也の責任も大きい)は置くとして、原作通り衣笠宮(老いたな高橋昌也)が登場し栗山千秋のファムファタルぶりも見事なハーレークイン調の『女王蜂』というなかなかの観ものを、CX・星護・稲垣吾郎チームは生み出してきた。
 だが、過ぎたるは及ばざるが如し。
 いくら横溝正史の原作が軽佻浮薄や荒唐無稽の性質を有していたからといって、それをデフォルメし過ぎれば、事態は惨憺たるものとなる。
 それはもう、津山三十二人殺し、ではない、八つ墓村における大虐殺もびっくりというありさまだ。
 そう、年始に放送された、『悪魔が来たりて笛を吹く』(再放送)と『悪魔の手毬唄』の両ドラマなど、もはや軽佻浮薄という言葉ではおさまりのつかない、ぺらさもぺらしおそろししの極みだったと思う。
 ゑびす神社の残り福をいっしょにいただきに行った旧い友だち(見巧者なり)も、『悪魔が来たりて笛を吹く』は観ていて、そのぺらさのひどさで盛り上がったのだけれど、稲垣吾郎率いるぺらさチームの中で、国仲涼子(貴族の令嬢にしてはキュート過ぎるけど)と榎木孝明(狂気!)だけが大奮闘だったということで一致した。
(付け加えるならば、帝銀事件を彷彿とさせる天銀堂事件の再現場面も悪くない)
 ぺらいものをぺらいと断じるのは気がひけるが、稲垣吾郎はもちろん、ラストでフルートを吹く犯人もぺらいし(その点、ドラマ版の沖雅也はよかった。涅槃で待つ心境がよく出ていたから)、秋吉久美子も「お前ならそういう関係にもなるやろ」と言いたくなるぺらさ。
 これでは伊武雅刀の意図したぺらさが埋もれてしまって、なんのため彼を最後まで生かしたかわからなくなってしまった。
 一方、『悪魔の手毬唄』も辛かった。
 個人的な好みもあってだろうが、青池里子を演じた柴本幸の美しさと、原作の持つ二面性を表していた佐々木すみ絵(映画版の原ひさ子ではただただ善なる老女としか思えなかった)、三木のり平のかろみはないものの健闘した有薗芳記以外は、石田太郎も山口美也子もぎりぎり及第点。
(麿さんは悪くないのだが、どうしても中村伸郎と比較してしまうのだ、やっぱり僕は)
 せっかく登場した仁科亜希子は悲惨だったし(ああ、仁科明子…)、かたせ梨乃も「二時間サスペンスドラマ流儀の名演技」、そして山田優や村の青年団連中のぺらいことぺらいこと。
 特に山田優は彼女の持ついやたらしさが全面に出ていて、かえって、映画で仁科明子があの役を演じた意味がはっきりとわかったほどだった。
 まあ、そんな演者陣のぺらさより、事件の顛末を稲垣金田一に活弁調で語らせてしまった(正直、稲垣君にではなく、シチュエーションそのものに虫酸が走って仕方がなかった)演出家なりプロデューサーの結構のぺらさをまずもって責めるべきだろうが。
(そら、『笑の大学』も、映画にしてみりゃああいう代物になるわいな)
 いずれにしても、物事にはバランスというものが肝心だということだ。
 イデオロギーに翻弄されて重く重く重たるく物事を受け止めるのも困りものだが、軽佻浮薄が極まって必要以上にぺらさが勝るのも悲しい。
 ひるがえって考えてみれば、石坂浩二の金田一耕助も、古谷一行の金田一耕助も(ただし、彼の場合は毎日放送制作の1970年代のもの)、軽さと重さ、ユーモアセンスとシリアスさのバランスが巧くとれた演技を行っていたのだった。
 そして、もちろんそれは、市川崑をはじめとした、作り手の側のバランス感覚のよさの表れでもあったといえるのだろうが。
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2009年01月13日

夜明けのモーツァルト

 地球の裏に朝がくりゃ、そのまた裏は朝だろう。
 とは、宇宙の真理を説いた金言至言。
 というのは、大げさだけど、西から昇ったお日様が東に沈む、というナンセンスでシュールなフレーズとは好対照の、至極真っ当な物言いではあろう。
 確かに、地球のこちら側が朝ならば、その真裏は夜ということになる。
 そういえば、かつてドイツのケルンに滞在していた頃、そちらと日本の時差をうっかり忘れて電話をかけたりかけられたりの悲喜劇があったりなかったり。
 いや、あった。
 これがオーストラリアやニュージーランドに滞在していれば、それほどのトラブルはなかったんだろうけどなあ。
 まあ、それはいいか。
 で、こんなことを思い起こしてしまったのも、今日の朝方までなんやかんやとやっていたついでに、ネット・ラジオでフランス・ブリュッヘン指揮ハンブルク北ドイツ放送交響楽団の演奏した、モーツァルトの交響曲第35番「ハフナー」(第2楽章の途中から)と管楽器のための協奏交響曲を聴いたからだった。
 なお、これは、1995年のコンサートのライヴ録音というから、ブリュッヘンがフィリップスとの契約を切られ、はては新日本フィルとハイドン・チクルスなど催そうなどとは夢にも思わなかった頃のもので、いわゆるピリオド流儀の、ブリュッヘンらしい音楽づくりが為されていたと思う。
 それにしても、日本とヨーロッパの「時差」は本当に大きいな。
 この演奏一つとっても、そう思わざるをえないもの。
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2009年01月10日

『プレゼント』を読み終えて

 若竹七海の『プレゼント』<中公新書>を読了した。
 昨日の夕方買って読み始めて、今夜には読み終えたのだから、あっという間というほどではないが、けっこう速いスピードで読み進めてしまったということになる。
 一つには、若竹さんの筆致が非常に読みやすいということもあるだろうし、作品そのものの面白さがそうさせたと評することもできる。
 若竹さんの諸作品と同様、ミステリーとしての仕掛けがきっちりはかられている点ももちろん重要だけれど、のちの連作(『依頼人は死んだ』、『悪いうさぎ』<ともに、文春文庫>。実は、こちらのほうを僕は先に読んでしまっている)につながる葉村晶の「活躍」も嬉しい。
 ただ、それより何より僕は、若竹さんの人間観察の妙というか、「無意識の悪意」の描きっぷりに強く魅かれるのである。
 そして、それは臆面のなさへの嫌悪感、拒否感のはっきりとした表われと言い換えてもいいだろう。
 若竹七海という作家がこの国で「大」作家とはならない、全部ではないけれど、大きな理由は、そこにこそあるのだと僕は考える。
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2009年01月09日

『喰いたい放題』を読み終えて

 色川武大のエッセイ集『喰いたい放題』<光文社文庫>を読み終えた。
 そのタイトル通り、まさしく喰うもの喰うことに関して書き綴られた一冊で、もともとどこかの雑誌に連載された文章をまとめたものだろうから、どちらかと言えば軽め、それこそ佃煮か何かでお茶漬けをかっ込むような内容。
 と、言いたいところだが、そうは問屋がおろさない。
 もちろんそこは色川武大のこと、変に力が入ったり、妙に気取ってみたりなんてことは一切ないけれど、文章のありとあらゆる部分から、彼の凄味、もっと言えば、狂気が噴き出していて、やっぱり僕は圧倒されてしまった。
(しかも、ここで大切なことは、色川さん本人が自らの狂気を十二分に承知しているということだ。承知していて、それをそうしてしまう、さらにはこうやって文章にしてしまうところが凄い)
 いずれにしても、喰うものや喰うことのみに興味がある人にはあまりお薦めしたくない一冊である。
 なぜなら、喰うものや喰うことのみに興味がある人には、もっと適当な本が山ほどあるからだ。
 まあ、逆にそのような本には、ちっとも食指が動かないけどね、僕は。
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2009年01月06日

粗忽の政務官

 坂本哲志総務政務官の発言を耳にして、『赤ひげ診療譚』の、
「これまでかつて政治が貧困や無知に対してなにかしたことがあるか、貧困だけに限ってもいい、江戸開府このかたでさえ幾千百となく法令が出た、しかしその中に、人間を貧困のままに置いてはならない、という箇条が一度でも示された例があるか」
という言葉を思い出した。
 それは、ちょうど今、同じ山本周五郎の『季節のない街』を読んでいることもあってのことだけれど、昨今のこの国の諸状況を見るに、赤ひげこと小石川療養所医長新出去定ならずとも、ついついそのような憤りの言葉を口にしたくなることは疑いようのない事実である。

 ただ、だからと言って、今回の坂本総務官の発言の中に一切の真理が含まれていないと言い切るつもりは、僕にはない。
 少なくとも、現在の経済システムを維持し強化しようとする、もっとありていに言えば、いわゆる大企業大資本の代弁者であり代理者たる彼の立場からすれば、真理も真理、思いのままを語ったまでと言うことになるのではないか。
 もちろん、社会的経済的な認識という意味合いから考えて、彼の発言は根本的には間違っていると僕は思うし、よしんば、今回の発言に含まれている事どもを彼の側の真理と認めたとしても、彼の発言は一個の政治家として大きく間違っていると思う。
 なぜなら、代議士であり総務政務官という公の立場に立つ人間が、それも公の場所であのような発言を行えば、それがたとえ長い発言の中の一部だったとしても、どのように報道されどのような反応が返ってくるかをわかっていない段階で、政治家失格であろう。
 まして、昨日の今日で発言を撤回し謝罪するとは、恥知らずもよいところだ。
(「政治家は本来貧困を…」といった正論は、あえてここでは記さない。それと、大平正芳存命ならば、今回の坂本発言にどのような感想を持つだろうか。失言癖で知られた池田隼人に対して語ったように、「どうせ同じことをいうのであれば、ヴォキャブラリーの選択に、一寸注意して欲しかった」と、もしかしたら口にするのではないか)

 そういえば、坂本総務政務官は以前ウェブサイト上の選挙の当選のお礼がらみで、公職選挙法を指摘されたことがあったはずだ。
 確かにそれは、本人が説明しているように「うっかり」していてついやってしまった凡ミスかもしれないが、そうした経緯のある人物が選挙とも大きく関係している総務省の政務官という地位にあることには、やはりどうしても疑問が残る。
(これは、任命者である麻生総理の問題でもあるけれど。てか、こういう政務官や総理大臣を許容しているのも僕ら自身であって、それこそ「自己責任」ということになる)

 それにしても、この坂本哲志という人物は、相当おっちょこちょいというか、うっかりが多い人のようだ。
 今回の発言があって、彼のホームページをのぞいてみたが、その日記*で、民主党を厳しく批判しながら、あのチェ・ゲバラを高く評価している。
 チェ・ゲバラとはいったいどのような人物か?
 それこそ、赤ひげのような憤りを胸にし、人々の病を治療することに留まらず、世の病社会の病を力づくでも治していくことにその生命を賭した人物ではなかったか。
 そのような人物を、あのような発言を行った坂本総務政務官が持て囃すとは、まるできちんと文章も読まずにブッシュの馬鹿息子がサイードを誉めそやすような、まさしく粗忽の極みであり、読んでいるこちらがたまらない気持ちになってくる恥ずかしい話である。

 林達夫ではないが、結局粗忽者につける薬はないし、粗忽者は粗忽なことしかしでかさない。
 そして、粗忽者を支える者こそが一番の大粗忽者ということだ。


 *ただし、この日記は当選のお礼がらみの部分やチェ・ゲバラの記述のある一月五日の項だけを読むべきではないだろう。
 過去の記述を読めば、この坂本哲志という政治家の別の側面も見えてくるのではないか?
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2009年01月01日

なくってもなくってもいいもの、だからこそ

 かつて古今亭志ん生は自らの高座で、落語のことをなくってもなくってもいいものと言い切ってみせたという。
 むろんそこには、志ん生その人の恥じらいや、逆に矜持もあったのだろうが、落語、だけではなく、その他芸能芸術諸事万端の本質をずばり言い表した言葉だとも思わないでもない。

 そもそも人間にとって必要とされるものは、衣食住、つまり食べるものであり着るものであり住む場所であって、それを得るために労働というものもある、という風にしごくシンプルに考えてみれば、落語なりお芝居なり映画なり小説なり音楽なり、そんなもの余りものも余りもの、あってもなくてもいいもの、どころか、本当になくってもなくってもいいものと、確かに思われるからだ。
(この場合、宗教的儀式には云々かんぬんといった事どもは全く考えないことにする)

 それには当然、人間が生きていく上で、落語なりお芝居なり以下省略が精神衛生面で大きな役割を果たしているといった反論もあるはずだし、現に僕自身、上述したような諸々のものがこの世からなくなってしまったら、毎日が非常に味気なくなってしまうことは、まずもって疑いようがない。
 それに、住居の問題はひとまず置くとしても、衣や食よりもなくってもなくってもいいもののほうを優先したいと考える人間の数は、この国においてもけっこう少なくないと思う。
 例えば、食事代を削ってでも好きなアーティストのライヴのチケットやアルバムを手に入れたという経験を持つ人は、そんなに特異なケースではないのではないか。

 とはいえそれは、たとえ「貧乏だ貧乏だ」と口にはしながらも、なんとかやりくりがつくからこそそうできることなのであって、自分の財政状態が本当に逼迫してくれば、それこそ背に腹は代えられぬ、夕餉のおかず朝(あした)のトイレットペーパーと、生活に必要とされるものへの支出が家計簿全体を占めるようになるのは、当然のことであろう。
 まして、現在のような厳しい社会的経済的状況の中では、「何がなくってもなくってもいいものか。今はあっていいもの、あるべきものについてなんとかしていくべきところだろう」という動きが加速化されてなんら不思議ではない。
 事実、大阪府の橋下知事が推し進めようとしている政策などは、その潮流の最たる表われの一つだと考えることができる。

 いや、そんなことはない、俺は寒風吹き荒ぶ中ホームレスになろうが、飢えに苦しみ泥水啜り草を食もうが、なくってもなくってもいいもののために死ぬ、キリギリスは死んでもヴァイオリンを離しませんでした、と強弁広言してはばからない人間も中にはいるかもしれない。
 そしてそれは表現者として、また芸術家としては、究極の理想の姿の一つなのかもしれない。
 けれど、それは結局のところ、自らの狭い世界に惑溺することに夢中で、周囲との適切な距離感を失った稚拙な錯覚であると、僕は強く思うのである。

 と、言っても、何も僕はなくってもなくってもいいものを生業にする人間や、それを愛好し支えていこうとする人間が、現在の諸状況に迎合せよ、と教え諭したい訳では毛頭ない。
 このような状況だからこそ、なくってもなくってもいいものの持つ意味とはいったいなんなのかということを深く考え、自分の周囲にある人たちへとどう働きかけることができるのかをもっと突き詰めて欲しいということを、僕は言いたいのだ。
 もう一つ言えば、今なくってもなくってもいいものの側に立つ人間に必要とされていることは、なくってもなくってもいいものなんて本当にいらない(それは、クビを切りやすい連中のクビを切って何が悪いという思考発想とも容易に直結する)と断じてはばからない人間に直訴嘆願することではなく、彼と我との間にある多数の人々の理解や納得を促し、その多数の人々と協働することだとも、僕は考える。
 だいたい、先述したような私は芸術に殉ずる的なヒロイズムはご免こうむりたいが、自分の食いぶち、ならぬチケット料金を削ってでも多くの人たちに自分たちのなくってもなくってもいいものを観聴きしてもらいたいという気概はもっとあってもいいのではないか。
(言っておくが、これはただ働きをしろとか、芸術家は貧乏・イズ・ベストなどということを薦めているのではない)

 ピンチはチャンスというが、今年はなくってもなくってもいいものの真価が大きく問われる一年となるはずだ。
 僕はそのことを念頭に置きながら、日々頑張っていきたいと思う。
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2008年03月08日

ドイツ語の『因幡の白うさぎ』に触れて

 正午過ぎ、たまたまラジオ第2(いわゆる「教育ラジオ」)を聴いていると、ドイツ語の時間に、『因幡の白うさぎ』の話をドイツ語でやっていた。
 たぶん、ドイツ語の格式ある言葉の使い方や歴史的な表現を学ぶ教材として『因幡の白うさぎ』が選ばれたのだろうということは想像に難くないし、実際、そうした解説も施されていたのだけれど、僕にはどうにもしっくりとこない妙な感情が残ってしまった。

 と、言っても、何も「大きな袋を肩に」した大黒さんが、ひーひー苦しむ白うさぎ相手にドイツ語を口にしている場面まで空想した訳ではない。
 ただ、『因幡の白うさぎ』という、正直大時代的で、おまけに良い意味でローカル色豊かな物語がドイツ語で語られることに、妙なちぐはぐさ、アンバランスさを感じてしまったのだ。

 だが、一方で、それじゃあ、ギリシャ神話を日本語で聴いたり読んだりすることに対して、お前はしっくりこないできたのか、いや、しっくりきていただろう、という内面の声がすることも事実である。
 もっとしつこく言えば、お前はほとんどドイツ語(のテキスト)を理解できないくせにワーグナーの音楽を聴いたり(現に、ダニエル・バレンボイムがシカゴ交響楽団を指揮した彼の音楽のCDを今聴いている)、お前は全くフランス語(のテキスト)を理解できないくせにプーランクの音楽を聴いたりするのはどうなのか、という疑問・疑念と、このことは深く関わっているように、僕には思えてならない。

 いずれにしても、ドイツ語で語られる『因幡の白うさぎ』にしっくりこない自分自身と、そうした自分自身を生み出した土壌・環境について、より自覚的である必要があるのではないか。
 少なくとも、そうした自覚と考察抜きに為された表現は、非常に表層的で、不誠実であると、僕は考える。
(言っておくけど、「しっくりとこない」こと自体があかんと思っている訳ではないので、その点は悪しからず)
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2007年12月17日

ラジオは愉し!!

 日付けは昨日になってしまったが、土曜(正確には日曜)のラジオ深夜便で林芙美子の肉声を聴くことができた。
 写真からの印象では、もっとべちゃついたウェットな声質でしゃべるのかと思っていたら、なんのなんの、これが歯切れがよくってからっとした語り口の持ち主で、ちょっと以上に驚いてしまった。
 もちろん、放送用に構えているということもあるのだろうけれど、それでもこれは大収穫だった。
(坂口安吾の肉声は聴きそびれてしまった。残念)

 ラジオつながりでもう一つ。
 今さら記すことでもないだろうが、『日曜名作座』の素晴らしさ!
 今夜は、井上ひさしの『月なきみそらの天坊一座』(脚色:山元清多。昔、川谷拓三の主演でNHKがテレビ・ドラマ化していた)を放送していたが、森繁久弥と加藤道子の達者なこと達者なこと。
 本当に舌を巻く他ない。

 ラジオは愉し!!
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2007年05月12日

真夜中の雑感

 何事も、予測通りの展開になっている。
 全て、織り込みずみ。
 もちろん嬉しくはないし、ちっとも面白くもないが、かといって悲嘆したり憤慨したりすることでもない。
 まさしく予定調和。
 結局、僕は与えられた役割を演じ切るだけだ。
 もちろん微笑んで。

 って、何もかも●●らしくなってきた。
 てやんでえべらぼうめ!
 どうにでもなりやがれ!!
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次作のための断片

 今思うと、初恋の相手は彼女だったのかもしれない。

 中学1年の時に、同じクラスの喧嘩友だちの女の子が突然亡くなった。
 喧嘩をしたまま、仲直りもしないうちに亡くなってしまった。

 それ以来、僕は自分自身が生き続けていることに、どうしても「確信」が持てないでいる。

 それでもこうやって生き続けているのは、死というもの、自分自身が消失してしまうことが、あまりに恐ろしいからだ。
 そうでなければ、僕は何かをきっかけにして死を選ぶことを、たぶん厭わなかったと思う。


 何かに対し怒り憤るということは、どこかに信頼があり、どこかに甘えがあるからだろう。
 僕は生き続け、怒り憤り続ける。
 しかし、それは、大きな枠の中での、予定調和的な怒りであり憤りでしかない。
 しょせん、いつかは僕も消えてなくなる。
 必ず死ぬ。
 怒りも憤りも、死に到るまでの「緩衝材」に過ぎないのである。
 それ以上でもそれ以下でもない。


 僕は、不幸ではない。
 少なくとも、こうやって生き続けていられるということは、自分自身にとって幸いだと感じる。

 それに比べれば、僕の願い、もっともそうであって欲しいという願い、であるけれど、些細な願いが、適わないことなど、全く悲しむべきことではなかろう。

 必要以上に何かを為して欲しいと求めるからこそ、失望するのだ。
 はなから身勝手な期待などしなければいい。
 そして、僕にとってはまた「同じこと」が起こるだけだと了解すればいい。
 そうすれば、何も失望することはない。


 適うことなら、僕は死人の目を持ちたい。
 何が起ころうと失望もせず、落胆もしないような。
 そのような目を持ちえた時、僕はようやく透徹した存在となりえるのではないか。
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2007年05月09日

真夜中に

 つくづく思うこと。

 傷つきたくなければ、はなから信じないこと。

 失いたくなければ、絶対に手に入れないこと。

 平穏無事に過ごしたいならば、熱くもなく冷たくもない場所に身を置くこと。

 ただ、それだけだ。
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2007年03月15日

歴史学者の歴史性

 なんて書くと大仰だし、だいたい歴史学を専門に研究している人間にとっちゃああったり前の話なんだけど、津田秀夫の『日本の歴史・22 天保改革』<小学館>を読んでいて、そんなことを思い出してしまった。

 この『天保改革』の巻では、徳川家斉治世のいわゆる大御所時代の奢侈濫費のつけがどどっとたまってえらいことになった、さあ改革せねば改革せねばと幕府の側があっぷあっぷしている時代が取り上げられているのだが、よくよく考えてみたら、この本が刊行された1975年って、田中角栄が金権問題で失脚し、さらにロッキード事件で世の中てんやわんやになってた頃なんだよね。
 まさしく、時代状況が重なっているし、実際、筆者も強い問題意識を持って筆を進めているように思う。
 結局、歴史学を司る人間も、自分自身が生きる「現在」に縛られざるをえないってことで、研究書を読む際は、個々の歴史学者がどのような時代を生きたかにも留意しておかなきゃいけないんじゃないだろうか。
(もちろん、現在=2007年の歴史学と歴史学者の関係についてもおんなじことだけど)

 そういえば、同時期に放映されていた『暗闇仕留人』なんかも、ちょうど天保改革の前後に時代が設定されていたんじゃなかったっけ。
 これも、時代認識の強い表れだったんだろうな。

 それにしても、大御所時代や天保の改革の頃と現在の状況がどうにもそっくりのように感じられるのは、僕の勝手な思い込みなのだろうか?
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2007年02月28日

梓弓

 伏線を張ることは、創作者にとって、とても大切な作業の一つである。
 個人の感情の変化であれ、社会的に大きな事件事故であれ、それを読者に納得させるためには、それに相応しい伏線、鍵となる何かが必要とされる。
 少なくとも、物語のおしまいになって、とってつけたような説明台詞を重ねることだけは、避けなければと思う。

 また、そうした作品の主筋以外でも、張りに張られた伏線が、ラストでぱっと解き明かされ結びつく心地よさは格別だろう。
 むろん、主筋を忘れて、脇道に迷い込むような真似は忌むべきだが、遊びの伏線一つない作品は、残念ながら息苦しくって面白味に欠ける。
(一番度し難いのは、伏線らしきものを見せておきながら、ほったらかしのままで作品が終わってしまうことだ。読み手に不満を残すという点だけで、そういう作品は傑作・名作とは呼べない)

 そういえば、現実社会でも、事ここに到るまでにはきちんと伏線が張ってあったんだ、と感じることがある。
 また、今後の展開がすぐに読めてしまうような、ばればれの伏線を目の前にすることもある。
 実は、つい最近も身近でそんなことがあったのだけれど、そんな間抜けな伏線にはだまされたくないし、そんな間抜けな伏線など張りたくもないと痛感した。

 張るなら、しっかり張らなくちゃ!
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2007年02月26日

『寄席放浪記』を読みながら

 色川武大の『寄席放浪記』を読み進めている。
 僕も、落語をはじめとした寄席で繰り広げられるあまたの藝は大好きで、実際子供の頃には落語家になりたいと思いつめた時期さえあったほどなのだけれど、それでも色川さんの熱の入れようには、ほとほと舌を巻く他ない。
 それは、ある意味、「偏執」とさえ呼びたくなるような狂気を感じるものだ。
(小林信彦や筒井康隆にも、「それを」感じる時がある)
 残念ながら、僕にはどこかでそうした狂気にのめり込むことを恐れる何かが働いているような気がする。
 少なくとも、藝や藝人たちの世界に適度な距離をとっておこうという意識が強固に存在する。
 果たして、そんな人間が、例えば、落語についてや演劇について、映画について、偉そうな言葉を口にしていいのか。
 そして、そんな人間が、人の心を動かすような作品を生み出すことができるのか。
 これまで何度も重ねてきた自問を、また繰り返している。
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2007年02月22日

他人のそら似

 と、言ってもミシェル・ブランが主演したフランス映画の話ではない。
(そう言えば、この映画はハリウッドでリメイクされる云々かんぬんとか喧伝されていたが、結局どうなったんだろう。諧謔精神と反骨精神がこの作品の根底にはあったはずで、それがなくなりゃ、気の抜けたあちゃらかに過ぎないだろうに)
 コリン・デイヴィスの指揮するモーツァルトの序曲集のCDを聴いていて、ふとこの言葉が頭に浮かんできたのである。

 コアなクラシック音楽好きな方なら、もしやあれかと、お気づきかもしれないが、この序曲集には、モーツァルトの初期の歌芝居『バスティアンとバスティエンヌ』の序曲も収められている。
 実は、この曲の音型が、ベートーヴェンの交響曲第3番「英雄」の第1楽章のおなじみの主題に非常にそっくりで、ベートーヴェンがこの『バスティアンとバスティエンヌ』に接する機会があったかどうかがしかとはわからなかったこともあって、「他人のそら似」という言葉を使ってみたくなったのだ。
 まあ、音楽の世界においても「常套句」的な旋律・音型が慣用されていた時代ということもあり、何も敵の首をとったみたく大はしゃぎすることでもないのではあるけれど。
(だいいち、二つの作品で描かれていることの「違い」はあまりにも明瞭だし)

 それに、よくよく考えてみなくても、今の世の中にだって「他人のそら似」はごまんとある。
 てか、モーツァルトやベートーヴェンの時代から200年以上、音楽的にありとあらゆることが試されてきたのだ。
 どれだけ真似をすまいと頑張ったところで、どこかで何かに似てくるのは仕方のないことだろう。
 要は、自分がそんな時代に生きているということをきちんと踏まえておくことだと、僕は思う。
 商業主義もろだしの「ぱくり」常習者は度し難いが、自分に特殊なオリジナリティーが備わっていると思い込んで「他人のそら似」を量産し続けている自称天才にも困ってしまう。
 他人から見れば自分も他人、「自分は自分であって、自分ではない」という意識が必要なのではないだろうか。

 ところで、しょっぱなの話に戻ると、現代におけるリメイクって作業はどう評価すべきなんだろう。
 再創造なんて言葉を使えば、なんだかえらくかっこうがいいんだが…。
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2007年01月31日

小説と映画の違い  − 『巨人と玩具』を通して −

 小説と、それを原作として映画化された作品は、全くの別物だ。

 などと書くと、何を今さらと馬鹿にされそうだが、このところ『細雪』や『白痴』と、過去に映画化された小説を読み続けてきて、改めてその感を強めていた。
 さしずめ、今日読み終えた開高健の『巨人と玩具』(『パニック・裸の王様』<新潮文庫>所収)などは、まさしく小説と映画の違いをつまびらかに教えてくれる、優れたテキストだと僕は思う。

 すでに、増村保造監督、白坂依志夫脚本による『巨人と玩具』(1958年、大映東京作品)については、別のところで触れたから、ここではくどくどと繰り返さない。
 原作が、明らかに開高健その人の反映(何しろ、彼はサントリーで広告宣伝業務に携わっていたはずだから)であり、高度経済成長期を目前に控えた日本の資本主義システム・大衆社会に対してはっきりと距離を保った姿勢が貫かれているのに反し、映画のほうは、そうした状況に棹をさし、没入翻弄される人間の姿が、過剰に、シニカルに、なおかつエネルギッシュに描かれている。
 また、原作の「私」と「合田」が、映画化に際して、如何に、川口浩と高松英郎、信欣三、山茶花究らに分離されたかや、原作のエピソードがどう取り入れられ、原作にはないエピソード(主人公の恋愛等)がどう挿入されたかをつぶさに観察すると、なるほど、小説を映画にするということはこういうことなんだ、と手にとるようにわかる。
 いずれにしても、小説と映画の表現の主眼の違い、何に重きを置くかの違いを再認識することができて、本当に興味深かった。
(詳しくは、原作を読み、映画を観てからのお楽しみだけれど、何と言っても、ラストが違う。両者の世界観の違いは、ここにこそ表れていると思う)

 ところで、小説の映画化は、現在でも繰り返し行われている。
 「映像」の強い影響によって、小説の大きな変化(物語の展開や表現方法、文体はもちろん、作家の表現意欲そのものにいたる)が進んでいる現在では、小説の映画化はより「容易」になったと考えられても不思議ではないのだが、それほど、というか、ほとんど成功しているとも思えないのが、実際のところである。
(ただし、これは日本に限ってのことだ)
 その理由としては、シナリオ(脚本化)の弱さ、演出力の弱さを一番に挙げるべきなのだろうが、一方で、先述した小説自体の大きな変化にもその要因があるのではないかと、僕には感じられてならない。
 この点に関しては、いずれまた別の機会に、具体的に考察してみたい。
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2007年01月19日

『犬神家の一族』と『細雪』

 昨日の日記で簡単に触れたことだが、谷崎潤一郎の『細雪』を読んでいて、もしかしたら横溝正史は、『犬神家の一族』を執筆するに際し、意識無意識はひとまず置くとして、『細雪』の影響を受けたのではないかと強く感じた。
 少なくとも、谷崎潤一郎の作品を愛好した横溝正史*が、その谷崎の傑作『細雪』に全く目を通していなかったとは、僕にはとうてい思えない。
(なお、『細雪』全巻の刊行は、1947年であり、『犬神家の一族』は、1950年から51年にかけて執筆されている)

 それでは、なぜ僕がそのように感じ思ったかといえば、二つの作品にいくつかの共通点があるからである。
 まず、『犬神家の一族』で犬神佐武の生首が置かれる菊人形は、いわゆる「鬼一法眼」の三段目、菊畑の場を模したものだったが、『細雪』で雪子とその結婚相手となる御牧が歌舞伎座で観劇するのが、ちょうどこの菊畑の場面なのだ。
 また、『犬神家の一族』で効果的に利用される琴が、『細雪』でも度々登場するし、『犬神家の一族』のキーパーソンの一人である「松子」という名前は、谷崎潤一郎夫人の名前ともつながる。
 さらに言うならば、「姉妹」という設定や、日本的な「家」制度が重要なモティーフになっているという点でも、『犬神家の一族』と『細雪』は、共通しているのではないだろうか。

 あまりに両作品を結び付けると、それこそ牽強付会のそしりは免れないかもしれないけれど、僕は僕自身の考察が、あながち見当違いではないとも考える。
 適うことならば、識者事情通の方々のご意見ご教示をいただきたいものだ。

 *横溝正史が谷崎作品を愛好し、「意識してか無意識にかその着想を借り来ることがしばしばである」と江戸川乱歩が指摘していることを、横溝の『鬼火』<角川文庫>の解説中で、中島河太郎は記している。
(第2CLACLA日記にも、ほぼ同様の投稿を行いました)
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2006年11月07日

『フィガロの結婚』と『RINJIN2』

 カール・ベーム指揮ベルリン・ドイツ・オペラ管弦楽団他の演奏による、モーツァルトの歌劇『フィガロの結婚』のCD<ドイツ・グラモフォン・レーベル>を聴いている。
 高校に入ってすぐの頃に買ったCDだから、もう20年以上も聴き続けていることになるのか。
 例えば、アーノンクールやガーディナー、クイケンさん、ヤーコプスといった「ピリオド奏法」による演奏を経験してしまったので、単純な録音の古さの他に、演奏そのものの古さも感じずにはいられないのだが、一方で、フィッシャー=ディースカウやヤノヴィッツ、プライ、マティス、トロヤノスを中心とする歌手陣のバランスのよさ、さらにはベームの指揮の下で創り上げられたアンサンブルの見事さは、未だに特筆に値するものであるとも、僕は思う。

 で、そんな『フィガロの結婚』を聴きながら、先日CTTの試演会で観たテンケテンケテンケテンケの『RINJIN2』(藤本ケーンさん脚本、演出)のことをふと思い出した。
 稽古を見学し、CTTの試演会に二日間とも接した『RINJIN2』だったが、率直に言って、大いに満足のいく舞台になっていたとは、残念ながら、僕には評することができない。
 だが、合評会で藤本さんが発言したような「台本」そのものの問題や、演者陣の上手下手、努力不足をその原因だと断じることも、僕にはできない。
(身びいきではなく、演者陣の努力は充分評価すべきだろう)
 もし問題があるとすれば、それは台本の持つ特性、テンポ感やアンサンブルの重要性が演者陣に今一つ巧くとらえられていなかったことに尽きるのではないだろうか。

 すでに合評会で藤本さん自身が発言し、僕も指摘したように、この『RINJIN2』で必要とされたのは、高度な「音楽性」なのだ。
(「二重唱」があり、「三重唱」があり、「六重唱」があるという具合に考えると、この『RINJIN2』のつくりが、古典派歌劇のそれとぴったりと重なることがよくわかる)
 台本の持つ弱さを全く否定するつもりはないが、そのことがクリアされていたならば、試演会における印象は大きく変わっていたはずである。
(試演会における前後の団体との「関係」も小さくはなかったとも思うが)

 もちろんそれは、個々の演者にとって容易でないことも事実だろう。
 なぜなら、個々の演者は、台詞と台詞の掛け合いやテンポのとり方、その他あれこれと「アンサンブル」であることへの意識を強く持続して一つの舞台を創り上げなければならないからである。
(究極的には、それが演技する者にとって当然必要とされることとはいえ)
 そして、実はそのことは藤本さん自身、充分織り込みずみのことだったろうと僕は考える。

 要は、今回の上演を通して、個々の演者たちがそのこと(自らの「不足」と「課題」)を自覚できるか否かなのだ。
 テンケテンケテンケテンケの面々には、ぜひともそうした点も含めて、次回の公演につなげていってもらいたい。


 そう言えば、『RINJIN2』という作品は、「調和」を希求するという物語の内容からも、精神面で『フィガロの結婚』に「通底」するものがあるのではないか。
 どのように表現するかとともに、何を表現するかもまた大切なことだ。
 そして、それが巧く重なった時に、心動かされる作品が生まれるのだと、僕は思う。
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2006年10月24日

第13回OMS戯曲賞が近づいてきた!

 関西小劇場界にとって、秋から冬にかけては公演ラッシュが続くとともに、OMS戯曲賞レース本番の季節でもある。
 で、今年のOMS戯曲賞(第13回)の候補作品10作品が発表された。

 1枠:上田  誠(ヨーロッパ企画)
   『平凡なウェーイ』
 2枠:浦本 和典(劇団八時半)
   『腹相撲』
 3枠:黒川  猛(ベトナムからの笑い声)
   『ニセキョセンブーム』
 4枠:大正まろん(流星倶楽部)
   『昼下がりのミツバチ』
 5枠:高橋あやのすけ (劇団逆境VAND)
   『てつ子の部屋』
 6枠:竹内  佑(デス電所)
   『音速漂流歌劇団』
 7枠:中村 賢司(空の驛舎)
   『いちばん露骨な花』
 8枠:魔人ハンターミツルギ(超人予備校)
   『鶴に恩返し〜 例えば火の鳥の飲む麦茶〜 』
 9枠:水沼  健(演劇計画2005)
   『象を使う』
10枠:山口  茜(トリコ・Aプロデュース)
   『配給された男』
 以上、敬称略

 一見すると、若手台頭、勢力分散、という感じもするが、実際のところは「代理戦争」の趣きがない訳でもない。
 ほとんどの作品を観劇していないこともあって、一つ一つの作品について詳述したり、ましてや賞の行方を占うことはできないが、公正さ公平さという観点から言えば、そろそろ全ての審査員を入れ換えるべきではないか、というのが当方の偽らざる心境だ。
 あと、水沼さんの「気持ち」は痛いほど理解できるのだけれど、京都舞台芸術協会の代表者という位置にあることを鑑みれば、もっと「他己主義的」な政治性が必要とされたのではないかとも強く思う。
 それと、ベトナムからの笑い声の黒川さんの作品が候補に選ばれたことは、熱心なベトナム・ファンの一人としては本当に嬉しいかぎりだ。
 ただ、個人的には、『ニセキョセンブーム』よりも、『ブツダンサギ』や『サンサンロクビョウシ』のほうがさらに面白かったということを、あえて記しておきたい。

 さて、今年のOMS戯曲賞や如何に?

 追記:この稿、一部改訂しました。
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2006年09月16日

邪劇の先駆性

 後年の「赤いシリーズ」や『スチュワーデス物語』、『少女に何が起こったか』、そして『この子の七つのお祝に』を知っているだけに、増村保造監督の『巨人と玩具』(1958年、大映東京)は、観返せば観返すほど「完全無欠」の邪劇のように、僕には思われてならない。
(実際、『巨人と玩具』の中には、のろまな亀の堀ちえみや、復讐の鬼たる片平なぎさや岩下志麻の「ひな形」が存在している)

 もちろん、『巨人と玩具』を邪劇の中の邪劇たらしめているのは、増村監督の超モダアンな映像作劇とともに、開高健の原作を一層きわもの化した白坂依志夫の脚本であることも指摘しておかなければならないだろう。
(小林信彦は、「俗物は俗物である」*において、「開高健の原作のあまりにも観念的な部分が、白坂脚本で輪をかけられている(後略)」と批判している)

 特に、高松英郎演じる合田課長の、
>現代の人間は赤ん坊以下です。
 犬以下です。
 なぜか?
 (中略)
 頭の中が空っぽです。
 そこです、我々が狙うのは。
 この空っぽの頭の中に我々は繰り返し繰り返し叩き込む…<
という台詞には、信欣三演じる矢代部長ならずとも、「大衆への軽蔑」や「傲慢さ」を感じ、そのあまりの表層的な言葉に唖然とせざるをえない。
 こりゃ、まさしく邪劇だ!

 だが、そうした表層的な言葉を、約半世紀前の「俗物」が書き散らかした妄言妄語と言い切ることも、実は僕には出来ない。
 なぜなら、空っぽの頭の中へか否かは置くとしても、「同じ言葉」を繰り返し繰り返し叩き込まれて、よくよく考えてみれば具の骨頂でしかない人物や政策を多くの人間が諸手を挙げて支持するような一幕が、最近もあったからである。

 増村監督は、『巨人と玩具』の興行的失敗に関して「早すぎた」と悔やんだそうだが、50年が過ぎても邪劇の邪劇たるゆえんが解消されていないこの国の現状には、あまりにも「遅すぎる」と嘆く他あるまい。

 いずれにしても、邪劇だからこそ見えてくるものもあるということだ。
 ただし、それは邪劇ばかり見ていても見えてこないものだろうけれど。

 *『映画を夢みて』<ちくま文庫>所収
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2006年06月13日

リゲティの訃報に考えたこと

 ハンガリー出身の作曲家、ジョルジ・リゲティが亡くなった。

 リゲティといえば、アトモスフェールやロンターノといった管弦楽曲、ピアノやチェロのための協奏曲、弦楽4重奏曲やホルン3重奏曲などの室内楽曲、ピアノ曲をはじめとした器楽曲と、幅広いジャンルで数多い作品を作曲しているが、個人的には、何と言っても一連の声楽曲が強く印象に残る。

 20世紀に作曲された様々な歌劇の中でも、強烈さとグロテスクさで群を抜く『グラン・マカーブル』。
 リゲティのエッセンスが詰まりに詰まった『アヴァンチュール』や『新アヴァンチュール』。
 そして、キューブリックの『2001年宇宙の旅』で使用されている『レクイエム』。
 いずれをとっても、音楽的な側面からばかりではなく、テキストと音楽の関係性、テキストそのものの破壊性、解体性という意味でも、おそろしいほどの実験性にあふれた意欲的な作品と言えるだろう。
(そうした音楽とテキストの「ひずみ」の中から、ユーモアというか、滑稽さがわき上がっている点も、リゲティの声楽曲の魅力だと、僕は思う)

 で、こうしたリゲティの声楽曲を思い起こしながら感じることは、いわゆる実験性の強い作品に接する場合は、知と技に優れた演奏者による演奏でなければ、非常に辛いということだ。
(演奏者の「意」=意識と意志、意欲が高くなければならないことは、言うまでもあるまいが)

 一見(一聴)、「いいかげん」に感じられるあれこれは、実は精緻に仕掛けられ積み重ねられたものであって、それが僅かでもずれたり外れたりしてしまえば、作品の持つ効果は大きく薄れてしまう。
 まずは、テキスト(「楽譜」と「言葉」)を正確に読み解き、適確に表現しうるだけの知性と技量が、演奏者には必要とされるのである*。

 *よくよく考えれば、演奏者の知性と技量の高さは、実験性が強かろうが弱かろうが、ある楽曲を演奏するという行為に際しては、なべて必要とされることだ。
 ただ、例えば、同じモーツァルトの『魔法の笛』の中でも、パパゲーノのアリアと夜の女王のアリアとでは、求められる技量の質が異なっているように、同じ20世紀の作曲家でも、リゲティの声楽曲とバーンスタインの『キャンディード』では、求められる技量の質は大きく異なっているだろう。
(「夜の女王のアリアを、女装した斎藤晴彦がいつもの調子で歌うとして、その際の声楽的な技術の問題はどうなるんだ」、というような特異なケースはここでは除外する。それを言い出すときりがない)

 ひるがえって、僕らの身のまわりで行われている実験性の強いと評される演劇の公演はどうかと考えてみると、「意」だけが高くて、知や技が追いつかないというケースがままあるのではないかと、ついつい思ってしまう。
(これは、マネージメント、制作という部分も含めてのことだけれど)
 少なくとも、リゲティの「アポパオピョパペポパ」といった声楽曲の演奏と、京都芸術センターで時に行われている「オオオオオイイイイイ」といった演劇の公演とでは、表面的にはある程度類似した部分があったとしても、表現された結果としては、まだまだ大きな差があり過ぎると僕は思う。
 そして、表現者の意欲ばかりを評価しなければならない公演なり何なりは、それだけで失敗なのではないかとも思う。

 リゲティの訃報に、そんなことまで考えてしまった。
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2006年05月08日

菱田信也さんの指摘

 菱田信也さんといえば、先頃読売文学賞を受賞した、関西を代表する劇作家の一人で、いわゆる「小劇場」界の枠に治まり切らない、魅力的なお芝居の書き手として注目される人物でもある。
(残念ながら、読売文学賞受賞作『パウダア −おしろい』は観損ねてしまった)

 その菱田さんが先日のCTT5月上演会を観に来ていたとある人(出演者ではない)から教えてもらい、いろいろ気になって検索してみたところ、菱田さんのブログで『京都考−1』という文章を見つけることができた。

 もちろん、菱田さんの文章にあれこれと「反論」することはできると思う。
 例えば、CTTという企画自体の性格もある訳だし、京都に限らず、小劇場界というコミュニティの必要さ(と言うか、必然性)もある訳だし。
 でも、やっぱり菱田さんの指摘していることは、何らかの形で京都の小劇場界に関係している人間は肝に銘じておかなければならないのではないかとも、思うのである。

 結局、誰のためにお芝居を上演するのか?
 それは、たとえCTTという特殊な企画であっても、出演者や企画者、関係者がしっかり留意しておくべきことだろう。

 合評会における、自分自身の発言も含めて、深く考えさせられた。
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2006年05月02日

邪推のできる京都芸術センターセレクション

 京都芸術センターから、2006年度の京都芸術センターセレクション(演劇公演)を案内するDMが届いた。
 で、セレクションのラインナップを見て、あまりの邪推のしやすさに、何だかなあ、と思ってしまった。

 今回セレクションされているのは、
 Vol22:黒テント
    23:山田せつ子ダンスシリーズ
    24:遊劇体
    25:辻企画
 の4団体なのだが、23の山田せつ子は「おなじみ」京都造形芸大の人間だし(おまけに内田淳子さんまでが出演している)、25の辻企画とは、これまた造形芸大の司辻有香さんの企画だ。
(司辻さんに関して、「お手盛りの賞で佳作をとった御褒美だから、茶番もいいところ」と揶揄する人間もいるが、それは言い過ぎだと思う)
 あと、黒テントは、OMS戯曲賞の審査員を佐藤信さんがやっているつながりも否定できないだろうし、遊劇体はOMS戯曲賞を「与えなかった」罪滅ぼしの意味もあるような気がする。
(遊劇体が京都芸術センターで公演を行うこと自体は嬉しいかぎり、というかあまりにも遅きに失すると思うが)

 まあ、これはあくまでも当方の勝手な邪推に過ぎないのだし、面白い舞台(広い意味で)を観ることができるのであれば、それにこしたことはない。
 個人的には、少なくとも遊劇体と辻企画は観たいと思っている。
(黒テントは大好きな劇団なのだけれど、できれば斎藤晴彦の一人芝居をセレクションに加えて欲しかったなあ、と強く思う)

 追記:この文章を遊劇体(キタモトマサヤさん)のブログにトラックバックしておいたところ、このようなお返事をいただくことができた。
 当方の邪推には恐縮するばかりだが、遊劇体やキタモトさんの想い、姿勢を識ることができて、非常に嬉しかった。
 本当に、ありがとうございました。
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2006年04月04日

統合すればよくなるか? その2

 また、大阪の4つのプロのオーケストラは、長年に渡って独自の活動を続けてきた。
 当然それは、各オーケストラを支えた独自の「お客さん」が存在したということでもある。
 事の善し悪しは置くとしても、これまでの経緯を簡単に切り捨てることには、やはり無理があるのではないか?

 それと、大阪だけではなく、関西圏全体として考えた場合、大阪のプロ・オーケストラが一つに統合された際に、需要と供給のバランスが保たれるのかどうかもしっかりと考えておかなければなるまい。
(保てる、のであればそれにこしたことはないが)

 あと、一つのオーケストラに統合された場合、指揮者の顔触れという問題も発生してくる。
 今期の大阪センチュリー交響楽団の定期演奏会の登場指揮者に関しては、すでに一文ものしたことがあるが、一つのオーケストラにまとまることで、ある音楽事務所なりある音楽大学なりのコネクションばかりが目立つことにならないかと、僕は危惧の念を抱かざるをえない。
(特に、関西から生まれた大音楽事務所の影響力など)

 少なくとも、「達者な」奏者ばかりが集ったオーケストラが、必ずしもいいオーケストラになるとは限らない。
 オーケストラとは、一筋縄でいくものではない。

 とはいえ、個人的には、僕は大阪の4つのプロ・オーケストラの統合に絶対反対という訳ではない。
 ただ、もしそれを提言したり、ましてや実現させようとするのであれば、「近視眼的な」効率主義に陥らない長期的で広範囲な視点が必要とされると、僕は考える。
 逆に、大阪の各オーケストラの事務局の人たちや楽団員の人たち(ユニオンの加盟者をはじめとした)、音楽批評を生業とする人たちには、大阪のみならず関西圏の「お客さん」を巻き込んだ、活発で実践につながる議論を今すぐ引き起こして欲しい。
 これは、大阪の4つのプロ・オーケストラにとって大きな「ピンチ」でありつつも、大きな「チャンス」となるきっかけでもあるのだから。

 最後に言っておきたいが、今回の問題は、関西の演劇界にとっても絶対に他人事ではない。
 オーケストラでさえこうなのだ、ということを肝に銘じておくべきだろう、関西の演劇界の関係者は。
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統合すればよくなるか? その1

 朝日新聞朝刊によると、関西経済連合会の秋山会長が、「2008年度までに、(大阪の4つのプロ・オーケストラが)一つになれるよう話し合って欲しい」旨の発言を行ない、大阪府、大阪市とも協議して、統合を提言する考えを示したという。

 現在大阪には、大阪フィルハーモニー交響楽団、関西フィルハーモニー管弦楽団、大阪シンフォニカー交響楽団、大阪センチュリー交響楽団の4つのプロ・オーケストラ(細かく言えば、他にもいくつかあるのだが、ここでは割愛する)が存在するが、行政や財界が計10億円を支援していても、4つに分かれていては効率が悪い、というのが、その理由だそうである。

 自称構造改革、実は経済効率優先主義の波がついにここまで押し寄せたか、というのがまずもって率直な感想だけれど、一方で、確かに4つのオーケストラが一つにまとまれば、今よりもっとましなオーケストラができるんじゃないか、と思わないこともなくはない。
(例えば、大阪フィルの少々「くたびれて」「だれた」ロートル楽団員の姿を思い出して)

 ただ、事はそう単純ではない。

 オーケストラの合併統合論議というのは、大阪に限らず、東京でも何度も繰り返されてきたことだけれど、結果としては、東京フィルハーモニー交響楽団と新星日本交響楽団とが統合して(と言うより、前者が後者を吸収して)「新」東京フィルハーモニー交響楽団が結成されたものの、一方では、東京ニューシティ管弦楽団や東京ユニバーサル・フィルなどという新しいオーケストラが誕生しているほどである。
 例えば、音楽大学という演奏者を育てるシステムが確固として存在する限り、その受け皿となるべきプロのオーケストラが必要とされるのは自明の理だろう。
 つまり、大阪のプロ・オーケストラが一つに統合されたとしても、早晩「新大阪フィル」だの「大阪シティフィル」だの「大阪人民交響楽団」だのという名前の新しいプロ・オーケストラが誕生するだろうことは火を見るより明らかだと思う。
 だいたい、一つにまとまったオーケストラにあぶれた楽団員はどこに行くというのか?
(「そんなの俺らの知ったこっちゃない。あぶれた連中は、アマ・オケにでも参加しろ。それでもプロのオケをつくりたいなら、勝手にしくされ」、と秋山会長らは宣うのかもしれないが)
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2006年04月03日

前の記事の続き

 で、ウィーン国立歌劇場再開の50周年記念ガラを観て、日本におけるオペラをとやかく言うのは、もはや「アンフェア」以外の何ものでもないのだけれど、それでも、彼と我との違いを強く感じずにはいられない。

 ウィーン国立歌劇場でも、毎日毎日あんな公演が行なわれている訳ではない、あれはお祭りだ、といったことや、ヨーロッパだってオペラの置かれた位置は云々かんぬんといったこと、さらには日本のオペラだって云々かんぬんといったことぐらい、僕だって充分承知の上だ。
 それでもなお、彼と我には厳然とした違いがあるということを感じてしまうのである。
 そして、こうした違いを痛感したところからでないと、「何も」始まらないのではないか、とも思ってしまう。
 世界の大歌劇場(や、東欧の小歌劇場)の引っ越し公演が繰り返され、新国立劇場でオペラの公演が重ねられているから、オペラが日本という国に着実に強固に根付いていると「安心」するのは、大間違いなのではないだろうか。
 少なくとも、僕はそう思う。
(一方で、地域で行なわれている「手づくり」のオペラ公演など、注目すべき公演も多々あるが)


 余談だが、5月27日に京都芸術劇場・春秋座で、京都オペラ協会が『フィガロの結婚』の上演を予定している。
 大大大好きなオペラだし、モーツァルト・イヤーだし、原語上演だし、観に行ったろかいな、と思っているのだが。
 実は、ABCフレッシュコンサートの後、ザ・シンフォニー・ホールの裏口で、この京都オペラ協会に所属する藤山仁志の「オペラ歌手オペラ歌手した」嘘臭いしゃべり方を聴いてしまったのだ。
 これを話し出すと長くなるので割愛するけれど、一人がこういうしゃべり方をしてるってことは、協会の歌い手の何人かはこういうしゃべり方をしてるってことを予想できる訳で。
 ううん、どうなんだろうなあ。
 ちょと気になるなあ。
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ウィーン国立歌劇場再開50周年記念ガラ

 昨晩、教育テレビでウィーン国立歌劇場の再開50周年記念ガラ・コンサートの録画を観た。
 本当はきりのいいところで途中下車するつもりだったのだが、あまりに面白くて、ついつい最後まで見届けてしまった。
(なお、ウィーン国立歌劇場は、第2次世界大戦中に破壊され、1955年11月に再建再開された。こんなこと、本当は書かでもがなのことなのだけれど、日本がアメリカと戦争をしたことを知らない人間も増えているそうなので、あえて記しておくことにする)

 小澤征爾指揮の『レオノーレ』序曲第3番は置くとして、次の『ドン・ジョヴァンニ』第1幕のフィナーレの面白いこと面白いこと。
 トーマス・ハンプソンのドン・ジョヴァンニにフルッチョ・フルラネットのレポレロ、エディタ・グルベローヴァのドンナ・アンナという豪華メンバーに中堅若手のアンサンブルだったが、ここにウィーン国立歌劇場のオーケストラ(ウィーン・フィルの母体)と合唱団が加われば、鬼に金棒うまか棒だろう。
 ズビン・メータの指揮はまああんなものとしても、流石記念ガラだけはあると感心する。
 さらに、アンジェリカ・キルヒシュラーガーの入った『ばらの騎士』のフィナーレ(クリスティアン・ティーレマンの指揮)、プラシド・ドミンゴとアグネス・バルツァによる『アイーダ』からの一場面(ダニエーレ・ガッティの指揮)、ブリン・ターフェルがハンス・ザックスを歌う『ニュルンベルクのマイスタージンガー』、フランツ・ヴェルザー=メストがタクトをとった『影のない女』のハイライト、そして1955年の再開時の演目である『フィデリオ』のフィナーレと、ウィーン国立歌劇場の層の厚さを強く感じさせる内容だった。
(あと、舞台上の客席に座っていたのは、この歌劇場にゆかりのある人たちではなかったか。画像が「ひどい」ので、しかとは確認できなかったが、グンドゥラ・ヤノヴィッツが座っていたような気が僕にはした)
 いずれにしても、満足満足。
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