☆ケルビーニ:弦楽4重奏曲第3番&第4番
ハウスムジーク
(1998年7月/デジタル・セッション録音)
アンソニー・アーブラスターの『ビバ リベルタ!』<法政大学出版局>を読んでいると、フランス革命やベートーヴェンの『フィデリオ』との関係から、ケルビーニの『二日間』といった脱出劇(オペラ)について詳しく触れられていて、なるほどと思った。
ドイツ・オーストリア圏の、それも特定の作曲家ばかりが尊重されてきた日本ではなおのこと、イタリア生まれでフランスで活躍した(それもオペラで有名な)ケルビーニの作品に接する機会は未だに多くないが、それこそあのベートーヴェンがケルビーニの音楽を高く評価していたということは、やはり留意しておく必要があるのではないか。
で、そんなケルビーニが遺した弦楽4重奏曲6曲のうち、第3番と第4番の2曲が収められたCDを聴いてみた。
82年という当時としては非常に長い人生のうち、その後半生にケルビーニは弦楽4重奏曲を作曲したというが、第3番、第4番ともに、確かに長年の作曲経験が活かされた、よく練れて、しかも肩肘張らない余裕のある作風だと思う。
加えて、音楽のドラマティックな表情やアリアのような歌謡的な旋律(一例を挙げれば第4番の終楽章など)からは、ケルビーニの劇場感覚の豊かさを思い知らされる。
ヴァイオリンのモニカ・ハジェット、パヴロ・ベズノシウク、ヴィオラのロジャー・チェイス、チェロのリチャード・レスターと、イギリスの腕扱きピリオド楽器奏者が寄り集まったハウスムジークは、録音場所のデッドな音響もあって若干塩辛い音質が気になるものの、基本的にはバランスがよくとれて、なおかつ劇性にも富んだアンサンブルを披歴していると思う。
看板にとらわれず、なんでも聴いてみたい、と思う音楽好きにはなべてお薦めしたい一枚だ。
2011年12月24日
2011年12月21日
ベートーヴェン&シューマンのピアノ4重奏曲
☆ベートーヴェン&シューマン:ピアノ4重奏曲
エマニュエル・アックス(ピアノ)
アイザック・スターン(ヴァイオリン)
ハイメ・ラレード(ヴィオラ)
ヨーヨー・マ(チェロ)
(1992年3月/デジタル・セッション録音)
<SONY>SK53339
実演録音問わず、室内楽を愉しむにはいくつかの選択肢がある。
例えば、かつての百万ドル・トリオのようなその名も轟く名人上手が寄り集まってここぞとばかりに挑む真剣勝負を選ぶ手もある一方、フォーレ・カルテットのような常設団体のじっくりしっかりと練れたアンサンブルの妙味を選ぶ手だってあるわけだ。
ただし、各々一長一短あって、前者はときに我が我がの力任せな演奏に終わる危険性がなきにしもあらずだし、後者はちんまりちょこちょこと小さくまとまってしまうおそれもなくはない。
で、今回取り上げるCDは、ちょうどその真ん中ぐらいに位置する演奏ということになるのではないだろうか。
ヴァイオリンのスターンやチェロのマと、確かに名だたる名手であるけれど、実演録音と何度も演奏を重ねているだけに、アンサンブルとしてのまとまりも思っていた以上に悪くない。
カップリングの二曲のうち、まず挙げるべきは躍動感にあふれたシューマンで、非常にエネルギッシュな演奏ともなっているが、清潔感に満ちた初期のベートーヴェンのインティメートな雰囲気にも僕は強く心魅かれた。
録音もクリアで、室内楽好きには安心してお薦めできる一枚だ。
エマニュエル・アックス(ピアノ)
アイザック・スターン(ヴァイオリン)
ハイメ・ラレード(ヴィオラ)
ヨーヨー・マ(チェロ)
(1992年3月/デジタル・セッション録音)
<SONY>SK53339
実演録音問わず、室内楽を愉しむにはいくつかの選択肢がある。
例えば、かつての百万ドル・トリオのようなその名も轟く名人上手が寄り集まってここぞとばかりに挑む真剣勝負を選ぶ手もある一方、フォーレ・カルテットのような常設団体のじっくりしっかりと練れたアンサンブルの妙味を選ぶ手だってあるわけだ。
ただし、各々一長一短あって、前者はときに我が我がの力任せな演奏に終わる危険性がなきにしもあらずだし、後者はちんまりちょこちょこと小さくまとまってしまうおそれもなくはない。
で、今回取り上げるCDは、ちょうどその真ん中ぐらいに位置する演奏ということになるのではないだろうか。
ヴァイオリンのスターンやチェロのマと、確かに名だたる名手であるけれど、実演録音と何度も演奏を重ねているだけに、アンサンブルとしてのまとまりも思っていた以上に悪くない。
カップリングの二曲のうち、まず挙げるべきは躍動感にあふれたシューマンで、非常にエネルギッシュな演奏ともなっているが、清潔感に満ちた初期のベートーヴェンのインティメートな雰囲気にも僕は強く心魅かれた。
録音もクリアで、室内楽好きには安心してお薦めできる一枚だ。
2011年12月20日
コープマンが弾いたバッハのフランス組曲集
☆ヨハン・セバスティアン・バッハ:フランス組曲集
独奏:トン・コープマン(チェンバロ)
(1994年4月/デジタル・セッション録音)
<ERATO>4509-94805-2
以前どこかで記したことがあるけれど、どうにもヨハン・セバスティアン・バッハの音楽が苦手である。
(これが、息子のヨハン・クリスティアンの作品なら大好きというのだから、なんとものりが軽いやね)
と、言って、何がなんでもバッハは聴かぬ槍でもてっぽでも持って来い、などと喰わず嫌いならぬ聴かず嫌いを決め込むほどには頑固じゃない。
それで、チェンバロのトン・コープマンが弾いたバッハのフランス組曲集の中古CDがブックオフで500円で出ていたので、迷わず購入した。
で、僅か1枚の中に全6組曲を押し込んだというだけである程度予想はついていたことだが、このCD、僕にはしっくりくるな。
あっけらかん、と表現すれば言い過ぎかもしれないけれど、長調のみか短調の曲すら、軽い調子ですっきりすらんすらんと流れていく。
正直、バッハとまじめに向き合いたい人たちには、あまりお薦めできないかもしれないが、個人的には何度聴いても耳にもたれないコープマンの演奏が気に入った。
バッハを気軽に愉しみたい、それもピアノ演奏はやだ、という方には大いに推薦したい一枚だ。
独奏:トン・コープマン(チェンバロ)
(1994年4月/デジタル・セッション録音)
<ERATO>4509-94805-2
以前どこかで記したことがあるけれど、どうにもヨハン・セバスティアン・バッハの音楽が苦手である。
(これが、息子のヨハン・クリスティアンの作品なら大好きというのだから、なんとものりが軽いやね)
と、言って、何がなんでもバッハは聴かぬ槍でもてっぽでも持って来い、などと喰わず嫌いならぬ聴かず嫌いを決め込むほどには頑固じゃない。
それで、チェンバロのトン・コープマンが弾いたバッハのフランス組曲集の中古CDがブックオフで500円で出ていたので、迷わず購入した。
で、僅か1枚の中に全6組曲を押し込んだというだけである程度予想はついていたことだが、このCD、僕にはしっくりくるな。
あっけらかん、と表現すれば言い過ぎかもしれないけれど、長調のみか短調の曲すら、軽い調子ですっきりすらんすらんと流れていく。
正直、バッハとまじめに向き合いたい人たちには、あまりお薦めできないかもしれないが、個人的には何度聴いても耳にもたれないコープマンの演奏が気に入った。
バッハを気軽に愉しみたい、それもピアノ演奏はやだ、という方には大いに推薦したい一枚だ。
2011年11月25日
ジンマン&チューリヒ・トーンハレ管弦楽団による未完成交響曲他
☆シューベルト:交響曲第7(8)番「未完成」他
指揮:デヴィッド・ジンマン
独奏:アンドレアス・ヤンケ
管弦楽:チューリヒ・トーンハレ管弦楽団
(録音:2011年5月、9月/デジタル、セッション)
<RCA>88697953352
わが恋の成らざるが如く、この曲もまた未完成なり。
というウィリー・フォルスト監督の『未完成交響楽』の記憶が尾を引いて、などと言えば大げさに過ぎるかもしれないが、つい30年ほど前までは、この国でのシューベルトの未完成交響曲の人気は非常に高かった。
中でも、ベートーヴェンの運命交響曲とのカップリングなど、LPレコードの定番の一つとなっていたほどだ。
僕自身、高校生活三年間のうちに、カール・シューリヒト指揮ウィーン・フィル、アンドレ・クリュイタンス指揮ベルリン・フィル、マルコム・サージェント指揮ロイヤル・フィル、ヨーゼフ・クリップス指揮ウィーン音楽祭管弦楽団、ペーター・シュヴァルツ指揮東京フィルと、5種類の未完成交響曲のレコードを手に入れて、とっかえひっかえ愛聴していたんだっけ。
それがCD化が進み、いつの間にか第8番から第7番へと番号が呼び改められる中で、未完成交響曲の人気はずいぶん陰りを見せるようになった。
いや、今だってコンサートではよく演奏されているし、CD録音だってコンスタントに続いている、
しかしながら、第1番から第6番の交響曲がLP時代に比べて相当身近な存在に変わった分、シューベルトの交響曲は何がなくとも未完成交響曲という状況ではなくなってきたこともまた大きな事実だろう。
そんな中、もともと第1番と第2番のカップリングとアナウンスされていた、デヴィッド・ジンマン指揮チューリヒ・トーンハレ管弦楽団によるシューベルトの交響曲全集のリリース第一段が未完成交響曲他に変更されたと知ったとき、僕はちょっとだけ驚いた。
そうか、売れ筋を考えるならば、未だに未完成交響曲を優先させるのだなあと。
まあ、それはそれとして、ジンマン&チューリヒ・トーンハレ管弦楽団が演奏した交響曲第7(8)番「未完成」は、確かに彼彼女らのシューベルトの交響曲全集の劈頭を飾るに相応しい充実した内容となっているように、僕には感じられた。
ジンマンらしくピリオド・スタイルを援用した速いテンポのきびきびした造形は予想通りだったし、第2楽章での管楽器のソロなど、これまたジンマンらしい音楽的な仕掛けにも不足していない。
ただし、そうした点はそうした点として愉しみつつも、僕はシューベルトの内面の嵐が張り裂け出たような激しく、厳しい(録音の加減もあってか、ときに塩辛くも聴こえる)表現により心を魅かれた。
特に、第1楽章のこれでもかと叩きつけるような強音の連続が強く印象に残った。
一方、カップリングの独奏ヴァイオリンと管楽器のためのロンド、ポロネーズ、コンツェルトシュトゥックは、アンドレアス・ヤンケの清潔感があって伸びやかなソロもあって、交響曲との間によいコントラストを生んでいるように思う。
いずれにしても、ジンマン&チューリヒ・トーンハレ管弦楽団によるシューベルトの交響曲全集の完成が待ち遠しい。
指揮:デヴィッド・ジンマン
独奏:アンドレアス・ヤンケ
管弦楽:チューリヒ・トーンハレ管弦楽団
(録音:2011年5月、9月/デジタル、セッション)
<RCA>88697953352
わが恋の成らざるが如く、この曲もまた未完成なり。
というウィリー・フォルスト監督の『未完成交響楽』の記憶が尾を引いて、などと言えば大げさに過ぎるかもしれないが、つい30年ほど前までは、この国でのシューベルトの未完成交響曲の人気は非常に高かった。
中でも、ベートーヴェンの運命交響曲とのカップリングなど、LPレコードの定番の一つとなっていたほどだ。
僕自身、高校生活三年間のうちに、カール・シューリヒト指揮ウィーン・フィル、アンドレ・クリュイタンス指揮ベルリン・フィル、マルコム・サージェント指揮ロイヤル・フィル、ヨーゼフ・クリップス指揮ウィーン音楽祭管弦楽団、ペーター・シュヴァルツ指揮東京フィルと、5種類の未完成交響曲のレコードを手に入れて、とっかえひっかえ愛聴していたんだっけ。
それがCD化が進み、いつの間にか第8番から第7番へと番号が呼び改められる中で、未完成交響曲の人気はずいぶん陰りを見せるようになった。
いや、今だってコンサートではよく演奏されているし、CD録音だってコンスタントに続いている、
しかしながら、第1番から第6番の交響曲がLP時代に比べて相当身近な存在に変わった分、シューベルトの交響曲は何がなくとも未完成交響曲という状況ではなくなってきたこともまた大きな事実だろう。
そんな中、もともと第1番と第2番のカップリングとアナウンスされていた、デヴィッド・ジンマン指揮チューリヒ・トーンハレ管弦楽団によるシューベルトの交響曲全集のリリース第一段が未完成交響曲他に変更されたと知ったとき、僕はちょっとだけ驚いた。
そうか、売れ筋を考えるならば、未だに未完成交響曲を優先させるのだなあと。
まあ、それはそれとして、ジンマン&チューリヒ・トーンハレ管弦楽団が演奏した交響曲第7(8)番「未完成」は、確かに彼彼女らのシューベルトの交響曲全集の劈頭を飾るに相応しい充実した内容となっているように、僕には感じられた。
ジンマンらしくピリオド・スタイルを援用した速いテンポのきびきびした造形は予想通りだったし、第2楽章での管楽器のソロなど、これまたジンマンらしい音楽的な仕掛けにも不足していない。
ただし、そうした点はそうした点として愉しみつつも、僕はシューベルトの内面の嵐が張り裂け出たような激しく、厳しい(録音の加減もあってか、ときに塩辛くも聴こえる)表現により心を魅かれた。
特に、第1楽章のこれでもかと叩きつけるような強音の連続が強く印象に残った。
一方、カップリングの独奏ヴァイオリンと管楽器のためのロンド、ポロネーズ、コンツェルトシュトゥックは、アンドレアス・ヤンケの清潔感があって伸びやかなソロもあって、交響曲との間によいコントラストを生んでいるように思う。
いずれにしても、ジンマン&チューリヒ・トーンハレ管弦楽団によるシューベルトの交響曲全集の完成が待ち遠しい。
2011年11月14日
ヌリア・リアルが歌うテレマンのオペラ・アリア集
☆テレマン:オペラ・アリア集
独唱:ヌリア・リアル(ソプラノ)
独奏:ユリア・シュレーダー(ヴァイオリン)
管弦楽:バーゼル室内管弦楽団
録音:2010年10月、デジタル/セッション
(ただし、トラック14、15のみ2011年1月ライヴ録音)
<ドイツ・ハルモニアムンディ>88697922562
あれは高校に入ってすぐの頃のことだから、もう25年以上も前のことになるか。
FMから流れてくる、ニコラウス・アーノンクール指揮コンツェントゥス・ムジクス・ウィーンが演奏したモーツァルトのレクイエムを聴いて、僕はなんとも言えない不可思議な感情にとらわれた。
なんじゃこの針金を擦り合せたみたいな弦楽器の音は、それに管楽器だって鼻の詰まったような粗汚い音だし。
そう、いわゆるピリオド楽器による演奏を初めて耳にして、僕はアーノンクールの解釈云々かんぬんよりも前に、モダン楽器とのあまりの音色の違いに度肝を抜かれてしまったのだ。
で、それからだいぶん時が経ち、慣れとはおそろしいもの(?)で、今ではピリオド楽器による演奏もピリオド・スタイルによる演奏も当たり前、バロック期はもとより、古典派、初期ロマン派ですらピリオド・スタイルじゃないとしっくりこないなあ、といった感覚の持ち主になってしまった。
そんな人間からすれば、今回取り上げるソプラノのヌリア・リアルがヴァイオリンのユリア・シュレーダー率いるバーゼル室内管弦楽団(ピリオド、モダン、両刀使いのオーケストラだが、このアルバムではピリオド楽器を使用)の伴奏で歌ったテレマンのオペラ・アリア集は、それこそ好みのど真ん中、どストライクということになるのではないか。
と、言うと、残念ながらこれが、そういうわけにもいかない。
いや、CDの出来自体は、大いに推薦するに値する。
しばしば職人芸と呼ばれるテレマンの音楽だが、このアルバムで選ばれた作品も、そうした彼の腕達者ぶりが充分に示されたものばかりだ。
同時代のバッハの厳粛さやヘンデルの華美華麗さには及ばないものの、その分聴き手の心をくすぐる快活さ、聴き心地のよさに満ちている。
そうしたテレマンの音楽を、透明感があって清潔感あふれたリアルと、歯切れがよくてしっかりとまとまったバーゼル室内管弦楽のアンサンブルが丁寧に再現していく。
(そうそう、楷書の技とでも呼ぶべきシュレーダー独奏によるヴァイオリン協奏曲2曲もこのCDの聴きものの一つだろう)
まさしく、今現在のピリオド楽器による演奏、ピリオド・スタイルによる演奏の成果と評するに足る一枚と言えるのではないか。
ただね、哀しいかな僕の声のストライクゾーンは異様なほどに狭いのである。
そう、リアルの声や歌い口のちょっとした癖が、どうしても気にかかってしまうのだ。
もうこれは、自分の頑なさを恨むしかあるまい。
いやはや、なんともはや。
独唱:ヌリア・リアル(ソプラノ)
独奏:ユリア・シュレーダー(ヴァイオリン)
管弦楽:バーゼル室内管弦楽団
録音:2010年10月、デジタル/セッション
(ただし、トラック14、15のみ2011年1月ライヴ録音)
<ドイツ・ハルモニアムンディ>88697922562
あれは高校に入ってすぐの頃のことだから、もう25年以上も前のことになるか。
FMから流れてくる、ニコラウス・アーノンクール指揮コンツェントゥス・ムジクス・ウィーンが演奏したモーツァルトのレクイエムを聴いて、僕はなんとも言えない不可思議な感情にとらわれた。
なんじゃこの針金を擦り合せたみたいな弦楽器の音は、それに管楽器だって鼻の詰まったような粗汚い音だし。
そう、いわゆるピリオド楽器による演奏を初めて耳にして、僕はアーノンクールの解釈云々かんぬんよりも前に、モダン楽器とのあまりの音色の違いに度肝を抜かれてしまったのだ。
で、それからだいぶん時が経ち、慣れとはおそろしいもの(?)で、今ではピリオド楽器による演奏もピリオド・スタイルによる演奏も当たり前、バロック期はもとより、古典派、初期ロマン派ですらピリオド・スタイルじゃないとしっくりこないなあ、といった感覚の持ち主になってしまった。
そんな人間からすれば、今回取り上げるソプラノのヌリア・リアルがヴァイオリンのユリア・シュレーダー率いるバーゼル室内管弦楽団(ピリオド、モダン、両刀使いのオーケストラだが、このアルバムではピリオド楽器を使用)の伴奏で歌ったテレマンのオペラ・アリア集は、それこそ好みのど真ん中、どストライクということになるのではないか。
と、言うと、残念ながらこれが、そういうわけにもいかない。
いや、CDの出来自体は、大いに推薦するに値する。
しばしば職人芸と呼ばれるテレマンの音楽だが、このアルバムで選ばれた作品も、そうした彼の腕達者ぶりが充分に示されたものばかりだ。
同時代のバッハの厳粛さやヘンデルの華美華麗さには及ばないものの、その分聴き手の心をくすぐる快活さ、聴き心地のよさに満ちている。
そうしたテレマンの音楽を、透明感があって清潔感あふれたリアルと、歯切れがよくてしっかりとまとまったバーゼル室内管弦楽のアンサンブルが丁寧に再現していく。
(そうそう、楷書の技とでも呼ぶべきシュレーダー独奏によるヴァイオリン協奏曲2曲もこのCDの聴きものの一つだろう)
まさしく、今現在のピリオド楽器による演奏、ピリオド・スタイルによる演奏の成果と評するに足る一枚と言えるのではないか。
ただね、哀しいかな僕の声のストライクゾーンは異様なほどに狭いのである。
そう、リアルの声や歌い口のちょっとした癖が、どうしても気にかかってしまうのだ。
もうこれは、自分の頑なさを恨むしかあるまい。
いやはや、なんともはや。
2011年10月30日
プティボンのメランコリア
☆『メランコリア』
独唱:パトリシア・プティボン
伴奏:ジョセプ・ポンス指揮スペイン国立管弦楽団
<ドイツ・グラモフォン>477 9447
大好きだったJUDY AND MARYの『クラシック』を聴いてため息を一つ。
ああ、JAMにとっての旬は、やっぱりOver Drive、ドキドキ、そばかす(含むステレオ全開)、クラシック、くじら12号の頃だったんだよなあと改めて思う。
そう、当たり前っちゃ当たり前なんだけど、食べ物に旬がある如く、ジャンルを問わず芸術芸能芸事の世界にも旬があるのだ。
で、それじゃあ、パトリシア・プティボンの声の旬はいつだったんだろうと、彼女の新譜、『メランコリア』を聴きながら今度は考える。
何をおっしゃるうさぎさん、プティボンの旬は今じゃん、今中じゃん、あんたバカ?
と、呼ぶ声が聴こえてくるのもよくわかるし、芸の一語でいえばプティボンの旬はまだまだ今、それはこの『メランコリア』を聴けばよくわかる。
でもね、声の一語にかぎっていうとどうだろう。
これは彼女の大阪でのリサイタルを聴いたときにも感じたことだけど、プティボンの声の旬は、ウィリアム・クリスティとの一連のCD、フランスのバロック期のアリア集、そして『フレンチ・タッチ』を録音した頃にあったんじゃないかと僕は思う。
そして、プティボン本人もそのことをわかっているから、フランス・バロック期のアリア集でドラマティックな自分の歌の特質を試し出しし、あの『フレンチ・タッチ』のはっちゃけ具合全開に到った、言い換えれば、声そのものから歌での演技を一層磨くことにシフトするに到ったのではないか。
(その意味で、欧米の一流の音楽家たちがそうであるように、プティボンには相当優秀なブレーンがついているような気がする。むろん、彼女自身賢しい人だろうとも想像がつくが)
と、こう書くと、全てが計算づく、そんなのおもろないやん、と呼ぶ声も聴こえてきそうだが、計算がきちんとあった上で、なおかつその枠をはみ出すものがあるから愉しいわけで、『メランコリア』のトラック3。モンセルバーチェの『カンテ・ネグロ(黒人の歌)』やトラック6、ヒメネスの『タランチュラは悪い虫だ』など、プティボンの首が飛んでも歌って愉しませてみせるわの精神がよく表われている。
特に後者の「アイ!」の地声は、全盛時の篠原ともえを思い出すほど。
これだけでもプティボン・ファンにはたまらないはずである。
いずれにしても、『メランコリア』(表題作につながるバクリの歌曲集『メロディアス・ドゥ・ラ・メランコリア』はプティボンのために書かれている)は、詠嘆調の歌、官能的な歌、悲歌哀歌、おもろい歌を取り揃えてイメージとしてのスペインの光と影(なぜならヴィラ=ロボスのアリアやアフロ・ブラジルの民謡も含まれているので)を醸し出すとともに、プティボンの魅力持ち味が十二分に活かされた見事なアルバムだと思う。
ジョセプ・ポンス指揮スペイン国立管弦楽団の伴奏も堂に入っていて、歌好き音楽好きには大いにお薦めしたい一枚だ。
それにしても、JAMのファンとなるきっかけがYUKIのオールナイトニッポンで、あの番組では彼女のお茶目さと強さ、弱さ、心の動きがよく出ていてはまってしまったが、パトリシア・プティボンなどラジオ・パーソナリティーにぴったりなんじゃないか。
ただし、彼女の場合だと、中島みゆきのオールナイトニッポンのようになってしまう気もしないではないが。
(と、言うのは冗談。それはそれとして、プティボンのインタビューなどにも一度目を通していただければ幸いである)
独唱:パトリシア・プティボン
伴奏:ジョセプ・ポンス指揮スペイン国立管弦楽団
<ドイツ・グラモフォン>477 9447
大好きだったJUDY AND MARYの『クラシック』を聴いてため息を一つ。
ああ、JAMにとっての旬は、やっぱりOver Drive、ドキドキ、そばかす(含むステレオ全開)、クラシック、くじら12号の頃だったんだよなあと改めて思う。
そう、当たり前っちゃ当たり前なんだけど、食べ物に旬がある如く、ジャンルを問わず芸術芸能芸事の世界にも旬があるのだ。
で、それじゃあ、パトリシア・プティボンの声の旬はいつだったんだろうと、彼女の新譜、『メランコリア』を聴きながら今度は考える。
何をおっしゃるうさぎさん、プティボンの旬は今じゃん、今中じゃん、あんたバカ?
と、呼ぶ声が聴こえてくるのもよくわかるし、芸の一語でいえばプティボンの旬はまだまだ今、それはこの『メランコリア』を聴けばよくわかる。
でもね、声の一語にかぎっていうとどうだろう。
これは彼女の大阪でのリサイタルを聴いたときにも感じたことだけど、プティボンの声の旬は、ウィリアム・クリスティとの一連のCD、フランスのバロック期のアリア集、そして『フレンチ・タッチ』を録音した頃にあったんじゃないかと僕は思う。
そして、プティボン本人もそのことをわかっているから、フランス・バロック期のアリア集でドラマティックな自分の歌の特質を試し出しし、あの『フレンチ・タッチ』のはっちゃけ具合全開に到った、言い換えれば、声そのものから歌での演技を一層磨くことにシフトするに到ったのではないか。
(その意味で、欧米の一流の音楽家たちがそうであるように、プティボンには相当優秀なブレーンがついているような気がする。むろん、彼女自身賢しい人だろうとも想像がつくが)
と、こう書くと、全てが計算づく、そんなのおもろないやん、と呼ぶ声も聴こえてきそうだが、計算がきちんとあった上で、なおかつその枠をはみ出すものがあるから愉しいわけで、『メランコリア』のトラック3。モンセルバーチェの『カンテ・ネグロ(黒人の歌)』やトラック6、ヒメネスの『タランチュラは悪い虫だ』など、プティボンの首が飛んでも歌って愉しませてみせるわの精神がよく表われている。
特に後者の「アイ!」の地声は、全盛時の篠原ともえを思い出すほど。
これだけでもプティボン・ファンにはたまらないはずである。
いずれにしても、『メランコリア』(表題作につながるバクリの歌曲集『メロディアス・ドゥ・ラ・メランコリア』はプティボンのために書かれている)は、詠嘆調の歌、官能的な歌、悲歌哀歌、おもろい歌を取り揃えてイメージとしてのスペインの光と影(なぜならヴィラ=ロボスのアリアやアフロ・ブラジルの民謡も含まれているので)を醸し出すとともに、プティボンの魅力持ち味が十二分に活かされた見事なアルバムだと思う。
ジョセプ・ポンス指揮スペイン国立管弦楽団の伴奏も堂に入っていて、歌好き音楽好きには大いにお薦めしたい一枚だ。
それにしても、JAMのファンとなるきっかけがYUKIのオールナイトニッポンで、あの番組では彼女のお茶目さと強さ、弱さ、心の動きがよく出ていてはまってしまったが、パトリシア・プティボンなどラジオ・パーソナリティーにぴったりなんじゃないか。
ただし、彼女の場合だと、中島みゆきのオールナイトニッポンのようになってしまう気もしないではないが。
(と、言うのは冗談。それはそれとして、プティボンのインタビューなどにも一度目を通していただければ幸いである)
2011年10月14日
アバド&シカゴ響のチャイコフスキーの交響曲第1番他
☆チャイコフスキー:交響曲第1番「冬の日の幻想」、『くるみ割り人形』組曲
指揮:クラウディオ・アバド
管弦楽:シカゴ交響楽団
録音:1991年3月(デジタル/セッション)
<SONY>SK48056
チャイコフスキーの交響曲といえば、どうしても第4番、第5番、第6番「悲愴」という三つの作品を挙げざるをえまい。
美しい旋律に劇的効果、管弦楽技法の妙と、いずれをとっても「名曲」と呼ばれるに相応しい充実した内容となっている。
そうした後期の三つの交響曲に比べると若干分が悪いとはいえ、第1番から第3番(他にマンフレッド交響曲もあるが)の初期の三つの交響曲もなかなかどうして、捨て難い魅力が潜んでいるのではないか。
特に、チャイコフスキーにとっては初めての交響曲となる第1番「冬の日の幻想」は、ロシア民謡を想起させる伸びやかなメロディや、ときに前のめり感はあるものの、若書きだからこその清々しい突進力にあふれている。
当然肌理の粗さや密度の薄さを感じる部分もないではないが、個人的にはかえってそれが、左右両隣が空いた映画館で映画を観ているようなリラックスした気分につながっていて嬉しい。
アバドとシカゴ交響楽団にはところどころ粗さや、逆に喰い足りなさを覚えたりもするのだけれど、作品の全体像を識るという意味では適切な演奏を行っていると思う。
小気味よくってチャーミングな小序曲に始まって、華麗な花のワルツでフィナーレを迎える『くるみ割り人形』組曲は、チャイコフスキーという作曲家の魅力特性が十二分に発揮された作品。
隅から隅まで目配りの届いた、さらなる名演を期待したくもあるが、CDで繰り返し聴くということを考えれば基本的にお薦めできる演奏だろう。
指揮:クラウディオ・アバド
管弦楽:シカゴ交響楽団
録音:1991年3月(デジタル/セッション)
<SONY>SK48056
チャイコフスキーの交響曲といえば、どうしても第4番、第5番、第6番「悲愴」という三つの作品を挙げざるをえまい。
美しい旋律に劇的効果、管弦楽技法の妙と、いずれをとっても「名曲」と呼ばれるに相応しい充実した内容となっている。
そうした後期の三つの交響曲に比べると若干分が悪いとはいえ、第1番から第3番(他にマンフレッド交響曲もあるが)の初期の三つの交響曲もなかなかどうして、捨て難い魅力が潜んでいるのではないか。
特に、チャイコフスキーにとっては初めての交響曲となる第1番「冬の日の幻想」は、ロシア民謡を想起させる伸びやかなメロディや、ときに前のめり感はあるものの、若書きだからこその清々しい突進力にあふれている。
当然肌理の粗さや密度の薄さを感じる部分もないではないが、個人的にはかえってそれが、左右両隣が空いた映画館で映画を観ているようなリラックスした気分につながっていて嬉しい。
アバドとシカゴ交響楽団にはところどころ粗さや、逆に喰い足りなさを覚えたりもするのだけれど、作品の全体像を識るという意味では適切な演奏を行っていると思う。
小気味よくってチャーミングな小序曲に始まって、華麗な花のワルツでフィナーレを迎える『くるみ割り人形』組曲は、チャイコフスキーという作曲家の魅力特性が十二分に発揮された作品。
隅から隅まで目配りの届いた、さらなる名演を期待したくもあるが、CDで繰り返し聴くということを考えれば基本的にお薦めできる演奏だろう。
2011年09月28日
ヘンゲルブロックのメンデルスゾーン&シューマン
☆メンデルスゾーン:交響曲第1番&シューマン:交響曲第4番他
トーマス・ヘンゲルブロック指揮NDR交響楽団
<SONY>88697940022
手兵のピリオド楽器アンサンブル、バルタザール・ノイマン・アンサンブルに留まらず、ドイッチェ・カンマー・フィル等モダン楽器オーケストラとも積極的に活動を進めてきたトーマス・ヘンゲルブロックが、(ハンブルク)NDR交響楽団の新しいシェフに選ばれた。
メンデルスゾーンの交響曲第1番とシューマンの交響曲第4番(初稿)を並べたこのアルバムは、そうしたヘンゲルブロックとNDR響の今がストレートに表現された一枚といえる。
すでにドイッチェ・カンマー・フィルとのシューベルトの交響曲第1番&ヴォジーシェクの交響曲<ドイツ・ハルモニアムンディ>でも示されていたように、いわゆるピリオド奏法を援用するばかりか、金管楽器など一部の楽器にはピリオド楽器を用いており、まずもってNDR響の変容ぶりに感心する。
(特に、シューマンの交響曲の第3楽章の入りのファンファーレが印象的だ)
個人的には、冒頭から狂おしいばかりの焦燥感にあふれたメンデルスゾーンの交響曲に心魅かれた。
と、言うより、この曲がこんなに面白く、こんなに聴きどころの豊富な作品だったのかと正直びっくりしたほどである。
先述したようなぐいぐい激しく迫ってくるような部分には心掴まれるし、逆に、第2楽章や第4楽章の終結直前のゆっくりとした部分の抒情性、旋律の美しさも実に魅力的だ。
そして、機械仕掛けの神があたふたと落下してくるようなラスト!
また、同じメンデルスゾーンの弦楽8重奏曲のスケルツォ(管弦楽版)では、『夏の夜の夢』にも通じるこの作曲家ならではの飛び跳ねるような音楽の愉しさがよく表わされている。
なお、HMV等のCD紹介ではセッション録音となっているが、曲が終わったあとに拍手とブラボーが収録されていることからもわかるように、少なくともシューマンの交響曲はライヴ録音のようだ。
いずれにしても、ヘンゲルブロックとNDR響の今後に大いに注目し、大いに期待したい。
メンデルスゾーンの交響曲全集の録音なんて無理かなあ。
トーマス・ヘンゲルブロック指揮NDR交響楽団
<SONY>88697940022
手兵のピリオド楽器アンサンブル、バルタザール・ノイマン・アンサンブルに留まらず、ドイッチェ・カンマー・フィル等モダン楽器オーケストラとも積極的に活動を進めてきたトーマス・ヘンゲルブロックが、(ハンブルク)NDR交響楽団の新しいシェフに選ばれた。
メンデルスゾーンの交響曲第1番とシューマンの交響曲第4番(初稿)を並べたこのアルバムは、そうしたヘンゲルブロックとNDR響の今がストレートに表現された一枚といえる。
すでにドイッチェ・カンマー・フィルとのシューベルトの交響曲第1番&ヴォジーシェクの交響曲<ドイツ・ハルモニアムンディ>でも示されていたように、いわゆるピリオド奏法を援用するばかりか、金管楽器など一部の楽器にはピリオド楽器を用いており、まずもってNDR響の変容ぶりに感心する。
(特に、シューマンの交響曲の第3楽章の入りのファンファーレが印象的だ)
個人的には、冒頭から狂おしいばかりの焦燥感にあふれたメンデルスゾーンの交響曲に心魅かれた。
と、言うより、この曲がこんなに面白く、こんなに聴きどころの豊富な作品だったのかと正直びっくりしたほどである。
先述したようなぐいぐい激しく迫ってくるような部分には心掴まれるし、逆に、第2楽章や第4楽章の終結直前のゆっくりとした部分の抒情性、旋律の美しさも実に魅力的だ。
そして、機械仕掛けの神があたふたと落下してくるようなラスト!
また、同じメンデルスゾーンの弦楽8重奏曲のスケルツォ(管弦楽版)では、『夏の夜の夢』にも通じるこの作曲家ならではの飛び跳ねるような音楽の愉しさがよく表わされている。
なお、HMV等のCD紹介ではセッション録音となっているが、曲が終わったあとに拍手とブラボーが収録されていることからもわかるように、少なくともシューマンの交響曲はライヴ録音のようだ。
いずれにしても、ヘンゲルブロックとNDR響の今後に大いに注目し、大いに期待したい。
メンデルスゾーンの交響曲全集の録音なんて無理かなあ。
2011年05月18日
リープライヒのロッシーニの序曲集
☆ロッシーニ:序曲集
指揮:アレクサンダー・リープライヒ
管弦楽:ミュンヘン室内管弦楽団
録音:2010年6、7月(デジタル/セッション)
<SONY/BMG>88697771412
日本のオーケストラともたびたび共演を果たしている、ドイツの若手指揮者アレクサンダー・リープライヒによるロッシーニの序曲集。
いわゆるピリオド奏法を援用した演奏だが、モダン楽器のオーケストラということもあって、ピリオド楽器特有のざらついた音色とは異なり、肌理の細かい滑らかな響きとなっている。
劇場感覚には若干不足するような気もしないではないけれど、非常にテンポ感のよいスタイリッシュな音楽造形で、繰り返し聴いてもくどさを感じない。
ソロ、アンサンブルの両面で、ミュンヘン室内管弦楽団は本来の実力を発揮しているのではないか。
少なくとも、リープライヒの音楽づくりとオーケストラの若々しさが、よく合っているように、個人的には思われた。
収録曲は、『絹のきざはし』、『ブルスキーノ氏』、『幸運な錯覚』、『アルジェのイタリア女』、『イタリアのトルコ人』、『マティルデ・ディ・シャブラン』、『セビリャの理髪師』、『ウィリアム・テル』の8曲。
大好きな『どろぼうかささぎ』や『ラ・チェネレントラ(シンデレラ)』の序曲が含まれていないのは残念だが、あまりとり上げられる機会のない作品が選ばれているのでそこは我慢しよう。
コアなオペラ好きの方よりも、ロッシーニの音楽を「器楽的」に愉しみたい方にお薦めの一枚ではなかろうか。
指揮:アレクサンダー・リープライヒ
管弦楽:ミュンヘン室内管弦楽団
録音:2010年6、7月(デジタル/セッション)
<SONY/BMG>88697771412
日本のオーケストラともたびたび共演を果たしている、ドイツの若手指揮者アレクサンダー・リープライヒによるロッシーニの序曲集。
いわゆるピリオド奏法を援用した演奏だが、モダン楽器のオーケストラということもあって、ピリオド楽器特有のざらついた音色とは異なり、肌理の細かい滑らかな響きとなっている。
劇場感覚には若干不足するような気もしないではないけれど、非常にテンポ感のよいスタイリッシュな音楽造形で、繰り返し聴いてもくどさを感じない。
ソロ、アンサンブルの両面で、ミュンヘン室内管弦楽団は本来の実力を発揮しているのではないか。
少なくとも、リープライヒの音楽づくりとオーケストラの若々しさが、よく合っているように、個人的には思われた。
収録曲は、『絹のきざはし』、『ブルスキーノ氏』、『幸運な錯覚』、『アルジェのイタリア女』、『イタリアのトルコ人』、『マティルデ・ディ・シャブラン』、『セビリャの理髪師』、『ウィリアム・テル』の8曲。
大好きな『どろぼうかささぎ』や『ラ・チェネレントラ(シンデレラ)』の序曲が含まれていないのは残念だが、あまりとり上げられる機会のない作品が選ばれているのでそこは我慢しよう。
コアなオペラ好きの方よりも、ロッシーニの音楽を「器楽的」に愉しみたい方にお薦めの一枚ではなかろうか。
ケント・ナガノ指揮モントリオール交響楽団のベートーベンの交響曲第3番「英雄」他
☆ベートーヴェン:交響曲第3番「英雄」他
指揮:ケント・ナガノ
管弦楽:モントリオール交響楽団
<SONY/BMG>88697857372
あまたあふれんばかりのラーメン屋が並ぶ激戦区。
さて、いったいあなたはそのうちのどの店を選ぶのか。
名店ガイドでもおなじみのあの老舗か。
それとも、麗々しい看板を掲げたこの新入りか…。
うぬぬ、ラーメン屋とクラシック音楽のCD、それも偉大なる楽聖ベートーヴェンの交響曲のCDを比べるなどとは不敬不遜の極み、てめえは人間じゃねえやたたっ斬ってやらあ、などと目は血走り口走る原理主義的クラシック音楽愛好家の方がいらしたら本当に申し訳ないが、ケント・ナガノ指揮モントリオール交響楽団が演奏したバレエ音楽『プロメテウスの創造物』ハイライト&交響曲第3番「英雄」のCDのブックレットの表紙に掲げられた「GODS, HEROS, AND MEN(神々、英雄たち、そして人間)」というタイトルを目にしていると、どうしてもそんなことを思い起こしてしまうのだ。
つまり、前回の『エグモント』全曲(ただし、『ザ・ジェネラル』というタイトルで物語が現代に置き換えられている)&交響曲第5番同様、あまたあふれんばかりのベートーヴェンの交響曲録音の中で、できるだけ多くのファンの耳目を集めんための営業努力の必死さというかなんというか。
いや、「神々、英雄たち、そして人間」というテーマで、『プロメテウスの創造物』と交響曲第3番「英雄」を並べたこと自体に無理はない。
それに、『プロメテウスの創造物』のフィナーレ(トラック5)の旋律は、まんま交響曲第3番の終楽章(トラック9)に転用されているから、音楽としての関係性も悪くない。
ただ、ケント・ナガノとモントリオール交響楽団の演奏を聴くかぎり、ちょっとその看板は大仰すぎるんじゃないのかな、と思ってしまうことも事実なのである。
と、言っても、個人的にはこのCDの演奏が好みに合っていないというわけではない。
いわゆるピリオド奏法を意識した早めのテンポをとりながらも、打楽器などに過度なアクセントをつけることなく、バランスよくスリムに、しかもシンフォニックな性質もしっかりと活かしつつ音楽を造り上げるケント・ナガノの手腕には感心するし、モントリオール交響楽団もそうした指揮者の意図によく沿った演奏を行っていると思う。
だから、繰り返し聴くというCD本来の目的から考えれば、悪くない仕上がりのアルバムだと言えるんじゃないだろうか。
まあ、要は、そういう演奏であり録音だからこそ、あんまり神々やら英雄やら(そこには、人間宣言した現人神を加えてもいいかもしれない)についてイメージできないということで、それこそ指揮者が神であり英雄だったころの演奏を好む方たちには受け入れられないんじゃないかと思ったりするのだ。
なお、このアルバムはエンハンスドCDとなっていて、そちらに、上述した「神々、英雄たち、そして人間」に関する朗読つきの演奏が収められている。
ご興味ご関心がおありのむきは、ぜひご一聴のほど。
(ケント・ナガノとモントリオール交響楽団の一連の録音が、カナダ本国ではAnalektaレーベルからリリースされており、このアルバム朗読部分こみの2枚組として発売されているようである)
指揮:ケント・ナガノ
管弦楽:モントリオール交響楽団
<SONY/BMG>88697857372
あまたあふれんばかりのラーメン屋が並ぶ激戦区。
さて、いったいあなたはそのうちのどの店を選ぶのか。
名店ガイドでもおなじみのあの老舗か。
それとも、麗々しい看板を掲げたこの新入りか…。
うぬぬ、ラーメン屋とクラシック音楽のCD、それも偉大なる楽聖ベートーヴェンの交響曲のCDを比べるなどとは不敬不遜の極み、てめえは人間じゃねえやたたっ斬ってやらあ、などと目は血走り口走る原理主義的クラシック音楽愛好家の方がいらしたら本当に申し訳ないが、ケント・ナガノ指揮モントリオール交響楽団が演奏したバレエ音楽『プロメテウスの創造物』ハイライト&交響曲第3番「英雄」のCDのブックレットの表紙に掲げられた「GODS, HEROS, AND MEN(神々、英雄たち、そして人間)」というタイトルを目にしていると、どうしてもそんなことを思い起こしてしまうのだ。
つまり、前回の『エグモント』全曲(ただし、『ザ・ジェネラル』というタイトルで物語が現代に置き換えられている)&交響曲第5番同様、あまたあふれんばかりのベートーヴェンの交響曲録音の中で、できるだけ多くのファンの耳目を集めんための営業努力の必死さというかなんというか。
いや、「神々、英雄たち、そして人間」というテーマで、『プロメテウスの創造物』と交響曲第3番「英雄」を並べたこと自体に無理はない。
それに、『プロメテウスの創造物』のフィナーレ(トラック5)の旋律は、まんま交響曲第3番の終楽章(トラック9)に転用されているから、音楽としての関係性も悪くない。
ただ、ケント・ナガノとモントリオール交響楽団の演奏を聴くかぎり、ちょっとその看板は大仰すぎるんじゃないのかな、と思ってしまうことも事実なのである。
と、言っても、個人的にはこのCDの演奏が好みに合っていないというわけではない。
いわゆるピリオド奏法を意識した早めのテンポをとりながらも、打楽器などに過度なアクセントをつけることなく、バランスよくスリムに、しかもシンフォニックな性質もしっかりと活かしつつ音楽を造り上げるケント・ナガノの手腕には感心するし、モントリオール交響楽団もそうした指揮者の意図によく沿った演奏を行っていると思う。
だから、繰り返し聴くというCD本来の目的から考えれば、悪くない仕上がりのアルバムだと言えるんじゃないだろうか。
まあ、要は、そういう演奏であり録音だからこそ、あんまり神々やら英雄やら(そこには、人間宣言した現人神を加えてもいいかもしれない)についてイメージできないということで、それこそ指揮者が神であり英雄だったころの演奏を好む方たちには受け入れられないんじゃないかと思ったりするのだ。
なお、このアルバムはエンハンスドCDとなっていて、そちらに、上述した「神々、英雄たち、そして人間」に関する朗読つきの演奏が収められている。
ご興味ご関心がおありのむきは、ぜひご一聴のほど。
(ケント・ナガノとモントリオール交響楽団の一連の録音が、カナダ本国ではAnalektaレーベルからリリースされており、このアルバム朗読部分こみの2枚組として発売されているようである)
2011年04月29日
ヨーク・ボーウェンの交響曲第1番&第2番
☆ボーウェン:交響曲第1番、第2番
指揮:アンドリュー・デイヴィス
管弦楽:BBCフィル
録音:2010年10月(デジタル/セッション)
<CHANDOS>CHAN10670
人に慣れ親しまれた役回りを受け継ぐということほど難しいものはない。
これはあくまでも個人的な感じ方だと断った上でのことではあるけれど、例えば雨森雅司の声に慣れた耳からすると富田耕生のバカボンのパパはあまりにももっさく聴こえて仕方がないし、その後船越英二、高島忠夫、名古屋章(スペシャルでは神山繁、伊東四朗)とベテランどころにバトンタッチされた『暴れん坊将軍』の爺も、有島一郎演じる初代加納五郎左衛門の飄々とした中に時折かつての軽演劇時代のやってるやってる感をにじませた演技を知る者からすれば、なんともしっくりこない。
(付け加えると、『暴れん坊将軍』はシーズンを重ねるごとにレギュラー陣のキャスティングの劣化が激しくなり、どんどんアンサンブルとしての面白みに欠けていったような気が僕にはする)
その点、イギリスのCHANDOSが、自国の作曲家のオーケストラ作品を任せるメインの指揮者に、ブライデン・トムソンやリチャード・ヒコックス(本当はヴァーノン・ハンドリーも挙げたいところだが、彼の場合、他のレーベルでの活躍もあったりしてCHANDOS印と言う感じがあまりしない)の後継者として、すでにTELDECでブリティッシュ・ライン・シリーズを成功させたアンドリュー・デイヴィスを起用したことは、パワフルで明快明晰、それでいて繊細さにも不足しないといった音楽性の継続という意味でも、非常に適切な選択だったのではないだろうか。
(ただし、TELDECの際のBBC交響楽団に対して、こちらCHANDOSでは、同じBBCでもマンチェスターに本拠を置くBBCフィルとアンドリュー・デイヴィスはコンビを組んでいるが)
そのアンドリュー・デイヴィスとBBCフィルの演奏によるヨーク・ボーウェン(1884年〜1961年)の交響曲第1番、第2番がリリースされたので、早速聴いてみることにした。
なお、生前の高い評価が嘘のように一時期忘却の彼方に置かれていたボーウェンだけれど、ダットンで室内楽作品がまとめて録音されたり、hyperionからピアノ・ソナタ集がリリースされるなど、近年復活の兆しを見せていて、今回の交響曲の録音は、さらにそのはずみとなるかもしれない。
で、世界初録音という1902年に作曲された交響曲第1番ト長調作品番号4は、3楽章構成。
冒頭の軽く飛び跳ねるような感じからして、パリーやスタンフォードに始まるイギリスの交響曲らしい作風だなあと思っていたら、あれあれ30秒から1分を過ぎるあたりになると、なんだかチャイコフスキーの『くるみ割り人形』の小序曲っぽい曲調になっているじゃないか…。
(加えて、第3楽章=トラック3の2分55秒あたりは同じくチャイコフスキーの交響曲…)
まあ、確かに他者の影響を言い出せばほかにもいろいろと言えてきりがないのだけれど、基本的には軽快でスタイリッシュでよくまとまった、耳なじみのよい交響曲に仕上がっていると思う。
アンドリュー・デイヴィスもそうした作品の性質をスマートに描き込んでいて、全く嫌味がない。
一方、第1番の7年後に作曲された第2番ホ短調作品番号31(こちらは4楽章形式)は、「イギリスのラフマニノフ」という日本語カバーの惹句そのもののような冒頭のファンファーレにおおっと思うが、そのまま情念音塊一直線と突っ切らないところが、ボーウェンという人の弱さでもあり魅力でもあるのかもしれない。
エルガーを想起させる部分もあれば、同時代の別の作曲家の作風を想起させる部分もあるが、第1番に比してオーケストラの鳴らせ方が一層こなれている点も当然指摘しておかなければなるまい。
アンドリュー・デイヴィスとBBCフィルも、力感あふれた演奏でそうしたボーウェンの変化をよくとらえているように感じた。
BBCフィルの録音にはいつも感じる、レンジの狭さというか音のせせこましさ、何かすっきりしない音のもどかしさは正直好みではないが、イギリス音楽愛好家や後期ロマン派好きにはご一聴をお薦めしたい一枚だ。
指揮:アンドリュー・デイヴィス
管弦楽:BBCフィル
録音:2010年10月(デジタル/セッション)
<CHANDOS>CHAN10670
人に慣れ親しまれた役回りを受け継ぐということほど難しいものはない。
これはあくまでも個人的な感じ方だと断った上でのことではあるけれど、例えば雨森雅司の声に慣れた耳からすると富田耕生のバカボンのパパはあまりにももっさく聴こえて仕方がないし、その後船越英二、高島忠夫、名古屋章(スペシャルでは神山繁、伊東四朗)とベテランどころにバトンタッチされた『暴れん坊将軍』の爺も、有島一郎演じる初代加納五郎左衛門の飄々とした中に時折かつての軽演劇時代のやってるやってる感をにじませた演技を知る者からすれば、なんともしっくりこない。
(付け加えると、『暴れん坊将軍』はシーズンを重ねるごとにレギュラー陣のキャスティングの劣化が激しくなり、どんどんアンサンブルとしての面白みに欠けていったような気が僕にはする)
その点、イギリスのCHANDOSが、自国の作曲家のオーケストラ作品を任せるメインの指揮者に、ブライデン・トムソンやリチャード・ヒコックス(本当はヴァーノン・ハンドリーも挙げたいところだが、彼の場合、他のレーベルでの活躍もあったりしてCHANDOS印と言う感じがあまりしない)の後継者として、すでにTELDECでブリティッシュ・ライン・シリーズを成功させたアンドリュー・デイヴィスを起用したことは、パワフルで明快明晰、それでいて繊細さにも不足しないといった音楽性の継続という意味でも、非常に適切な選択だったのではないだろうか。
(ただし、TELDECの際のBBC交響楽団に対して、こちらCHANDOSでは、同じBBCでもマンチェスターに本拠を置くBBCフィルとアンドリュー・デイヴィスはコンビを組んでいるが)
そのアンドリュー・デイヴィスとBBCフィルの演奏によるヨーク・ボーウェン(1884年〜1961年)の交響曲第1番、第2番がリリースされたので、早速聴いてみることにした。
なお、生前の高い評価が嘘のように一時期忘却の彼方に置かれていたボーウェンだけれど、ダットンで室内楽作品がまとめて録音されたり、hyperionからピアノ・ソナタ集がリリースされるなど、近年復活の兆しを見せていて、今回の交響曲の録音は、さらにそのはずみとなるかもしれない。
で、世界初録音という1902年に作曲された交響曲第1番ト長調作品番号4は、3楽章構成。
冒頭の軽く飛び跳ねるような感じからして、パリーやスタンフォードに始まるイギリスの交響曲らしい作風だなあと思っていたら、あれあれ30秒から1分を過ぎるあたりになると、なんだかチャイコフスキーの『くるみ割り人形』の小序曲っぽい曲調になっているじゃないか…。
(加えて、第3楽章=トラック3の2分55秒あたりは同じくチャイコフスキーの交響曲…)
まあ、確かに他者の影響を言い出せばほかにもいろいろと言えてきりがないのだけれど、基本的には軽快でスタイリッシュでよくまとまった、耳なじみのよい交響曲に仕上がっていると思う。
アンドリュー・デイヴィスもそうした作品の性質をスマートに描き込んでいて、全く嫌味がない。
一方、第1番の7年後に作曲された第2番ホ短調作品番号31(こちらは4楽章形式)は、「イギリスのラフマニノフ」という日本語カバーの惹句そのもののような冒頭のファンファーレにおおっと思うが、そのまま情念音塊一直線と突っ切らないところが、ボーウェンという人の弱さでもあり魅力でもあるのかもしれない。
エルガーを想起させる部分もあれば、同時代の別の作曲家の作風を想起させる部分もあるが、第1番に比してオーケストラの鳴らせ方が一層こなれている点も当然指摘しておかなければなるまい。
アンドリュー・デイヴィスとBBCフィルも、力感あふれた演奏でそうしたボーウェンの変化をよくとらえているように感じた。
BBCフィルの録音にはいつも感じる、レンジの狭さというか音のせせこましさ、何かすっきりしない音のもどかしさは正直好みではないが、イギリス音楽愛好家や後期ロマン派好きにはご一聴をお薦めしたい一枚だ。
2011年04月22日
夕べの調べ(リスト:ピアノ作品集)
☆夕べの調べ(リスト:ピアノ作品集)
独奏:ネルソン・フレイレ
録音:2011年1月(デジタル/セッション)
<DECCA>478 2728
聴き始めればそれなりにきちんと聴くのだけれど、自分から好んで聴こうとは思わない作曲家がいる。
パガニーニやラフマニノフ、そして今年生誕200年を迎えたリストなど、その最たるものだろう。
こうやって名前を挙げてみればはっきりするが、華麗なる技巧を散りばめたいわゆるヴィルトゥオーゾ・タイプの作品がどうにも僕の好みには合わないらしいのだ。
だから、パガニーニにしてもラフマニノフにしてもリストにしても、積極的にCDを買ってはこなかった。
例えば、パガニーニのCDは今一枚も手元にないし、ラフマニノフとてもらい物の交響曲全集があるだけ。
そしてリストもまた同様で、ゾルタン・コチシュが独奏を務めたピアノ協奏曲集を譲って以来、一枚たりとて自分のCD棚に加えたことがなかった。
そんな人間が、リストのピアノ作品集のCDを購入にしてみようと思ったきっかけは、ひとえにネルソン・フレイレが自分自身の愛着の深い作品を選りに選って録音するという解説文に心魅かれたからである。
と、言うのも、僕は何年か前にたまたまフレイレが弾くショパンの練習曲集とピアノ・ソナタ第2番他<DECCA>を購入して、その誠実で丁寧な演奏に感心したことがあったからだ。
実際、森のささやき、巡礼の年第2年『イタリア』から「ペトラルカのソネット第104番」、忘れられたワルツ第1番、ハンガリー狂詩曲第8番、バラード第2番、巡礼の年第1年『スイス』から「ワレンシュタットの湖畔で」、ハンガリー狂詩曲第3番、6つのコンソレーション、超絶技巧練習曲集から「夕べの調べ」、と並べられたプログラミングを目にするだけで、このアルバムが単なるこれ見よがしの技巧のひけらかしではないことがわかるのではないか。
もちろん、二つのハンガリー狂詩曲や、アルバムのタイトルとなっている「夕べの調べ」など、フレイレのテクニックのあり様もしっかりと示されてはいるのだけれど、個人的にはやはり、比較的淡々としていて、しかしリストの音楽の持つ抒情性やインティメートな感覚をしっかりととらえた彼の音楽の歌わせ方にまずもって魅了された。
中でも、6つのコンソレーションの優美で繊細な感情表現が強く印象に残った。
いずれにしても、リスト=けばけばしい音楽、と誤解している方々にこそお薦めしたい一枚である。
そういえば、CD初期(と、言うよりLP末期)に今は亡きホルヘ・ボレットが、リスト編曲によるシューベルトの歌曲集を録音していたが、できることならフレイレにも同じようなアルバムをつくってもらいたい。
シューベルトとフレイレの音楽性はとても相性がよいように思うのだが。
独奏:ネルソン・フレイレ
録音:2011年1月(デジタル/セッション)
<DECCA>478 2728
聴き始めればそれなりにきちんと聴くのだけれど、自分から好んで聴こうとは思わない作曲家がいる。
パガニーニやラフマニノフ、そして今年生誕200年を迎えたリストなど、その最たるものだろう。
こうやって名前を挙げてみればはっきりするが、華麗なる技巧を散りばめたいわゆるヴィルトゥオーゾ・タイプの作品がどうにも僕の好みには合わないらしいのだ。
だから、パガニーニにしてもラフマニノフにしてもリストにしても、積極的にCDを買ってはこなかった。
例えば、パガニーニのCDは今一枚も手元にないし、ラフマニノフとてもらい物の交響曲全集があるだけ。
そしてリストもまた同様で、ゾルタン・コチシュが独奏を務めたピアノ協奏曲集を譲って以来、一枚たりとて自分のCD棚に加えたことがなかった。
そんな人間が、リストのピアノ作品集のCDを購入にしてみようと思ったきっかけは、ひとえにネルソン・フレイレが自分自身の愛着の深い作品を選りに選って録音するという解説文に心魅かれたからである。
と、言うのも、僕は何年か前にたまたまフレイレが弾くショパンの練習曲集とピアノ・ソナタ第2番他<DECCA>を購入して、その誠実で丁寧な演奏に感心したことがあったからだ。
実際、森のささやき、巡礼の年第2年『イタリア』から「ペトラルカのソネット第104番」、忘れられたワルツ第1番、ハンガリー狂詩曲第8番、バラード第2番、巡礼の年第1年『スイス』から「ワレンシュタットの湖畔で」、ハンガリー狂詩曲第3番、6つのコンソレーション、超絶技巧練習曲集から「夕べの調べ」、と並べられたプログラミングを目にするだけで、このアルバムが単なるこれ見よがしの技巧のひけらかしではないことがわかるのではないか。
もちろん、二つのハンガリー狂詩曲や、アルバムのタイトルとなっている「夕べの調べ」など、フレイレのテクニックのあり様もしっかりと示されてはいるのだけれど、個人的にはやはり、比較的淡々としていて、しかしリストの音楽の持つ抒情性やインティメートな感覚をしっかりととらえた彼の音楽の歌わせ方にまずもって魅了された。
中でも、6つのコンソレーションの優美で繊細な感情表現が強く印象に残った。
いずれにしても、リスト=けばけばしい音楽、と誤解している方々にこそお薦めしたい一枚である。
そういえば、CD初期(と、言うよりLP末期)に今は亡きホルヘ・ボレットが、リスト編曲によるシューベルトの歌曲集を録音していたが、できることならフレイレにも同じようなアルバムをつくってもらいたい。
シューベルトとフレイレの音楽性はとても相性がよいように思うのだが。
2011年04月18日
アンドレア・マルコンのモーツァルトの序曲集
☆モーツァルト:序曲集
指揮:アンドレア・マルコン
管弦楽:ラ・チェトラ
録音:2010年10月(デジタル/セッション)
<DG>477 9445
アンドレア・マルコンといえば、手兵ヴェニス・バロック・オーケストラとの様々なアルバムで知られるバロック音楽のスペシャリストだが、その彼がモーツァルトの序曲集を録音したというので迷わず購入した。
ただし、今回の録音は、スイス・バーゼルに本拠を置くピリオド楽器アンサンブル、ラ・チェトラを指揮したもので、このマルコン&ラ・チェトラが伴奏を務めたドイツのソプラノ歌手モイカ・エルトマンのモーストリー・モーツァルトというタイトルのアリア集(モーツァルトやサリエリ、パイジェッロ、ヨハン・クリスティアン・バッハやホルツバウアーらの)がちょうど同じタイミングで発売されている。
イタリア出身のバロック系の指揮者によるモーツァルトの序曲集では、リナルド・アレッサンドリーニ指揮ノルウェー国立歌劇場管弦楽団のCD<Naïve>をすぐに思い出すのだけれど、あちらが『皇帝ティトゥスの慈悲』や『フィガロの結婚』の行進曲を埋め込むなどカップリングに工夫をこらしていたのに対し、こちらマルコン盤のほうは、『アポロとヒュアキントス』、『バスティアンとバスティエンヌ』、『偽ののろま娘』、『ポントの王ミトリダーテ』、『救われたベトゥーリア』、『アルバのアスカニオ』、『ルーチョ・シッラ』、『羊飼いの王様』、『クレタの王イドメネオ』、『後宮からの逃走』、『劇場支配人』、『フィガロの結婚』、『ドン・ジョヴァンニ』、『コジ・ファン・トゥッテ』、『魔法の笛』、『皇帝ティトゥスの慈悲』と、ほぼ作曲順(ケッヘル番号順)に序曲を並べた非常にオーソドックスなプログラミングで、例えばハッセやホルツバウアー、ヨハン・クリスティアン・バッハといった同時代の作曲家たちの影響を受けながら、いかにしてモーツァルトが劇場感覚を磨きオリジナリティを確立していったかが理解できるような仕掛けとなっている。
(『偽の女庭師』と『レ・プティ・リアン』の二つの序曲が抜けているのは本当に残念ではあるが、その代わり、『救われたベトゥーリア』や『羊飼いの王様』のような比較的珍しい序曲を聴くことができるのでよしとしたい)
また、金管楽器やティンパニを強調したり、速いテンポで激しい感情表現を繰り広げるなど、マルコンはバロック奏法を援用した楽曲解釈を行っており、モーツァルトの序曲の持つ劇(激)性や快活さをよく示していると思う。
個人的には、悲劇性と喜劇性が混交した『ドン・ジョヴァンニ』の序曲の目まぐるしい動きが、中でもマルコンの性質に合っているような気がして、それこそエイトマンをキャスティングした全曲盤を録音してはどうかとすら感じた。
録音は、若干すっきりしない感じがしないでもないが、作品と演奏を愉しむという意味では、まず問題はないだろう。
適うことならば、マルコン&ラ・チェトラのペアによるハイドンやヨハン・クリスティアン・バッハの序曲集の録音も願いたいところだ。
指揮:アンドレア・マルコン
管弦楽:ラ・チェトラ
録音:2010年10月(デジタル/セッション)
<DG>477 9445
アンドレア・マルコンといえば、手兵ヴェニス・バロック・オーケストラとの様々なアルバムで知られるバロック音楽のスペシャリストだが、その彼がモーツァルトの序曲集を録音したというので迷わず購入した。
ただし、今回の録音は、スイス・バーゼルに本拠を置くピリオド楽器アンサンブル、ラ・チェトラを指揮したもので、このマルコン&ラ・チェトラが伴奏を務めたドイツのソプラノ歌手モイカ・エルトマンのモーストリー・モーツァルトというタイトルのアリア集(モーツァルトやサリエリ、パイジェッロ、ヨハン・クリスティアン・バッハやホルツバウアーらの)がちょうど同じタイミングで発売されている。
イタリア出身のバロック系の指揮者によるモーツァルトの序曲集では、リナルド・アレッサンドリーニ指揮ノルウェー国立歌劇場管弦楽団のCD<Naïve>をすぐに思い出すのだけれど、あちらが『皇帝ティトゥスの慈悲』や『フィガロの結婚』の行進曲を埋め込むなどカップリングに工夫をこらしていたのに対し、こちらマルコン盤のほうは、『アポロとヒュアキントス』、『バスティアンとバスティエンヌ』、『偽ののろま娘』、『ポントの王ミトリダーテ』、『救われたベトゥーリア』、『アルバのアスカニオ』、『ルーチョ・シッラ』、『羊飼いの王様』、『クレタの王イドメネオ』、『後宮からの逃走』、『劇場支配人』、『フィガロの結婚』、『ドン・ジョヴァンニ』、『コジ・ファン・トゥッテ』、『魔法の笛』、『皇帝ティトゥスの慈悲』と、ほぼ作曲順(ケッヘル番号順)に序曲を並べた非常にオーソドックスなプログラミングで、例えばハッセやホルツバウアー、ヨハン・クリスティアン・バッハといった同時代の作曲家たちの影響を受けながら、いかにしてモーツァルトが劇場感覚を磨きオリジナリティを確立していったかが理解できるような仕掛けとなっている。
(『偽の女庭師』と『レ・プティ・リアン』の二つの序曲が抜けているのは本当に残念ではあるが、その代わり、『救われたベトゥーリア』や『羊飼いの王様』のような比較的珍しい序曲を聴くことができるのでよしとしたい)
また、金管楽器やティンパニを強調したり、速いテンポで激しい感情表現を繰り広げるなど、マルコンはバロック奏法を援用した楽曲解釈を行っており、モーツァルトの序曲の持つ劇(激)性や快活さをよく示していると思う。
個人的には、悲劇性と喜劇性が混交した『ドン・ジョヴァンニ』の序曲の目まぐるしい動きが、中でもマルコンの性質に合っているような気がして、それこそエイトマンをキャスティングした全曲盤を録音してはどうかとすら感じた。
録音は、若干すっきりしない感じがしないでもないが、作品と演奏を愉しむという意味では、まず問題はないだろう。
適うことならば、マルコン&ラ・チェトラのペアによるハイドンやヨハン・クリスティアン・バッハの序曲集の録音も願いたいところだ。
2010年05月08日
セミ物神崇拝主義者の告白 もしくは、僕が手に入れたいCD
物に執着し始めると際限がないとわかっているので、基本的に○○マニアだの○○コレクターだのにはならないよう常日頃から注意を払っているのだけれど(だって、財布の中身には際限があるじゃないか)、ときに物神崇拝主義者の血が騒ぎ出すことがある。
特に、昨日みたく前々から気になっていたCDを中古で安く手に入れたあとなどでは。
で、金に糸目をつけず、ではない、つけながら、欲しい欲しい、手に入れたいと思っているクラシック音楽のCDについて記しておきたい。
(なお、いずれも輸入盤、それもヨーロッパでリリースされた初出盤に限る。そういうところが、ちょっとコレクター的であるような…)
まずは、バーバラ・ボニーが独唱陣に加わった、クルト・マズア指揮ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団他の演奏によるメンデルスゾーンの交響曲第2番<TELDEC>。
ボニーのベスト・アルバムでこの曲の一部を聴いてからというもの、マズア髭むくじゃら親父や他の歌手はどうでもいいけど(いや、よくないか)、なんとか手に入れたいなと思っている一枚。
実は、六角通にあるポコ・ア・ポコで1200円で出ているのを見つけ、ちょうど手持ちがなくて、翌日行ってみたらもう売れてしまっていたという経験があり、未だに悔しい想いをしている。
同じ、ボニーのベスト・アルバムがきっかけとなって欲しくなったCDが、ニコラウス・アーノンクール指揮コンツェントゥス・ムジクス・ウィーン他によるモーツァルトの孤児院ミサ&エクスルターテ・イウビラーテ<同>。
ボニーのエクスルターテ・イウビラーテといえば、トレヴァー・ピノック指揮イングリッシュ・コンサートの伴奏によるARCHIV盤もあるけど、劇場感覚に満ちたアーノンクールとコンツェントゥス・ムジクス・ウィーンの演奏もあって、このTELDEC盤を僕はとる。
アメリカ盤なら今も現役らしいが、上述した如く、僕が欲しいのはヨーロッパ(ドイツ)製の、それも初出盤だ。
声のCDが続くが、今は亡きルチア・ポップが歌った二枚のリヒャルト・シュトラウスのアルバムはこの10年近く、中古CDショップを探しまわって見つけられないでいるもの。
(そうそう、僕はネットショップではCDを買わないことにしているのだ。いろいろ思うところがあって)
クラウス・テンシュテット指揮ロンドン・フィルの伴奏で4つの最後の歌を録音したEMI盤(交響詩『死と変容』がカップリングされている)と、ホルスト・シュタイン指揮バンベルク交響楽団の伴奏で『ばらの騎士』、『アラベラ』、『カプリッチョ』のハイライトを録音したEURODISC盤がそれで、結局実演に接することができなかったルチア・ポップのリヒャルト・シュトラウスをせめてCDでよいから聴いておきたいと願い続けているのだけれど。
残念ながらそうは問屋が卸さない。
まあ、こうやって欲しい欲しい、手に入れたいと思っているうちが、本当は一番愉しいのかも。
なあんて書いてるようじゃ、本物の物神崇拝主義者にはなれませんな、全く。
特に、昨日みたく前々から気になっていたCDを中古で安く手に入れたあとなどでは。
で、金に糸目をつけず、ではない、つけながら、欲しい欲しい、手に入れたいと思っているクラシック音楽のCDについて記しておきたい。
(なお、いずれも輸入盤、それもヨーロッパでリリースされた初出盤に限る。そういうところが、ちょっとコレクター的であるような…)
まずは、バーバラ・ボニーが独唱陣に加わった、クルト・マズア指揮ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団他の演奏によるメンデルスゾーンの交響曲第2番<TELDEC>。
ボニーのベスト・アルバムでこの曲の一部を聴いてからというもの、マズア髭むくじゃら親父や他の歌手はどうでもいいけど(いや、よくないか)、なんとか手に入れたいなと思っている一枚。
実は、六角通にあるポコ・ア・ポコで1200円で出ているのを見つけ、ちょうど手持ちがなくて、翌日行ってみたらもう売れてしまっていたという経験があり、未だに悔しい想いをしている。
同じ、ボニーのベスト・アルバムがきっかけとなって欲しくなったCDが、ニコラウス・アーノンクール指揮コンツェントゥス・ムジクス・ウィーン他によるモーツァルトの孤児院ミサ&エクスルターテ・イウビラーテ<同>。
ボニーのエクスルターテ・イウビラーテといえば、トレヴァー・ピノック指揮イングリッシュ・コンサートの伴奏によるARCHIV盤もあるけど、劇場感覚に満ちたアーノンクールとコンツェントゥス・ムジクス・ウィーンの演奏もあって、このTELDEC盤を僕はとる。
アメリカ盤なら今も現役らしいが、上述した如く、僕が欲しいのはヨーロッパ(ドイツ)製の、それも初出盤だ。
声のCDが続くが、今は亡きルチア・ポップが歌った二枚のリヒャルト・シュトラウスのアルバムはこの10年近く、中古CDショップを探しまわって見つけられないでいるもの。
(そうそう、僕はネットショップではCDを買わないことにしているのだ。いろいろ思うところがあって)
クラウス・テンシュテット指揮ロンドン・フィルの伴奏で4つの最後の歌を録音したEMI盤(交響詩『死と変容』がカップリングされている)と、ホルスト・シュタイン指揮バンベルク交響楽団の伴奏で『ばらの騎士』、『アラベラ』、『カプリッチョ』のハイライトを録音したEURODISC盤がそれで、結局実演に接することができなかったルチア・ポップのリヒャルト・シュトラウスをせめてCDでよいから聴いておきたいと願い続けているのだけれど。
残念ながらそうは問屋が卸さない。
まあ、こうやって欲しい欲しい、手に入れたいと思っているうちが、本当は一番愉しいのかも。
なあんて書いてるようじゃ、本物の物神崇拝主義者にはなれませんな、全く。
2009年07月02日
アレッサンドリーニ指揮のモーツァルトの序曲集
☆モーツァルト:序曲集
リナルド・アレッサンドリーニ指揮ノルウェー国立歌劇場管弦楽団
2008年5月、ノルウェー国立歌劇場(オスロ)/デジタル録音
<naïve>op30479
鮨屋やおでん屋は、玉子でその味のよしあしがわかるというが。
さしずめ、オーケストラの演奏のよしあしは、モーツァルトの序曲でわかるんじゃないかと、僕は思う。
なんてことを書くと、またまた好き勝手なことを言っちゃって、「執筆業ですか。大丈夫ですか?」などといらぬ気遣いをさせそうだけど。
でも、モーツァルトの序曲の演奏を聴けば、その指揮者なりオーケストラなりの劇場感覚のあるなしや、音楽の本質のつかみ方の巧さ手際のよさ、弦楽器管楽器さらには打楽器のソロイスティックな魅力(もっと意地悪を言えば、演奏者たちの手の抜きかげん)がばっちりわかってしまうことも事実で。
あながち的外れなことを言っているつもりはない。
で、その伝でいけば、リナルド・アレッサンドリーニ指揮ノルウェー国立歌劇場管弦楽団によるモーツァルトの序曲集は、それこそアレッサンドリーニという指揮者やノルウェーのオペラのオーケストラの魅力や実力を十二分に示したアルバムになっていると評することができるのではないか。
『皇帝ティトゥスの慈悲』、『フィガロの結婚』、『魔法の笛』、『後宮からの逃走』、『劇場支配人』、『クレタの王イドメネオ』、『ポントの王ミトリダーテ』、『ドン・ジョヴァンニ』、『レ・プティ・リアン』、『バスティアンとバスティエンヌ』、『コジ・ファン・トゥッテ』という選曲自体はそれほど珍しいものではないとはいえ、各々の音楽の性質をよく踏まえた構成がとられていると思うし、『ティトゥス』や『フィガロ』、『魔法の笛』などの行進曲が収められている点が実に興味深い。
(アルバムの選曲や作品の解釈については、ブックレット中のアレッサンドリーニへのインタビューが詳しい。ここでは、ニコラウス・アーノンクールの影響などにも言及されているが、「簡にして要を得た」という言葉がぴったりのインタビュー記事になっている)
演奏は、ヴィヴァルディをはじめとしたバロック音楽を得意としてきたアレッサンドリーニだけに、打楽器の強調や弦楽器の独特なアクセントの付け方など、強弱のはっきりとした音楽づくりで、モーツァルトの序曲の持つ劇的な性格が明確に表されていると思う。
個人的には、本来「ささいなもの、つまらないもの」という意味のあるバレエ音楽『レ・プティ・リアン』序曲(トラック16)がやけに威勢よく鳴らされていたことと、ベートーヴェンの交響曲第3番『英雄』第1楽章の第1主題に旋律がそっくりな『バスティアンとバスティエンヌ』序曲(トラック17)が、いつも以上に「それらしく」聴こえたことが面白くて仕方なかった。
また、ノルウェー国立歌劇場管弦楽団も、いわゆるピリオド奏法の援用に対して全く無理を感じさせない表現で、これまでのアレッサンドリーニとの共同作業が充実したものであったことを推測させるに充分な演奏内容だった。
歌劇場での録音ということもあってか、若干セッコな(乾いた)感じがしないでもないけれど、音質自体はクリアで聴きやすいものだから、作品と演奏を愉しむという意味では基本的に問題はないだろう。
特に、ピリオド奏法によるモーツァルト演奏に親しんだ人には大いにお薦めしたい一枚だ。
それにしても、このCDを聴くと、またぞろ彼と我との違いを痛感してしまうなあ。
どうしても。
リナルド・アレッサンドリーニ指揮ノルウェー国立歌劇場管弦楽団
2008年5月、ノルウェー国立歌劇場(オスロ)/デジタル録音
<naïve>op30479
鮨屋やおでん屋は、玉子でその味のよしあしがわかるというが。
さしずめ、オーケストラの演奏のよしあしは、モーツァルトの序曲でわかるんじゃないかと、僕は思う。
なんてことを書くと、またまた好き勝手なことを言っちゃって、「執筆業ですか。大丈夫ですか?」などといらぬ気遣いをさせそうだけど。
でも、モーツァルトの序曲の演奏を聴けば、その指揮者なりオーケストラなりの劇場感覚のあるなしや、音楽の本質のつかみ方の巧さ手際のよさ、弦楽器管楽器さらには打楽器のソロイスティックな魅力(もっと意地悪を言えば、演奏者たちの手の抜きかげん)がばっちりわかってしまうことも事実で。
あながち的外れなことを言っているつもりはない。
で、その伝でいけば、リナルド・アレッサンドリーニ指揮ノルウェー国立歌劇場管弦楽団によるモーツァルトの序曲集は、それこそアレッサンドリーニという指揮者やノルウェーのオペラのオーケストラの魅力や実力を十二分に示したアルバムになっていると評することができるのではないか。
『皇帝ティトゥスの慈悲』、『フィガロの結婚』、『魔法の笛』、『後宮からの逃走』、『劇場支配人』、『クレタの王イドメネオ』、『ポントの王ミトリダーテ』、『ドン・ジョヴァンニ』、『レ・プティ・リアン』、『バスティアンとバスティエンヌ』、『コジ・ファン・トゥッテ』という選曲自体はそれほど珍しいものではないとはいえ、各々の音楽の性質をよく踏まえた構成がとられていると思うし、『ティトゥス』や『フィガロ』、『魔法の笛』などの行進曲が収められている点が実に興味深い。
(アルバムの選曲や作品の解釈については、ブックレット中のアレッサンドリーニへのインタビューが詳しい。ここでは、ニコラウス・アーノンクールの影響などにも言及されているが、「簡にして要を得た」という言葉がぴったりのインタビュー記事になっている)
演奏は、ヴィヴァルディをはじめとしたバロック音楽を得意としてきたアレッサンドリーニだけに、打楽器の強調や弦楽器の独特なアクセントの付け方など、強弱のはっきりとした音楽づくりで、モーツァルトの序曲の持つ劇的な性格が明確に表されていると思う。
個人的には、本来「ささいなもの、つまらないもの」という意味のあるバレエ音楽『レ・プティ・リアン』序曲(トラック16)がやけに威勢よく鳴らされていたことと、ベートーヴェンの交響曲第3番『英雄』第1楽章の第1主題に旋律がそっくりな『バスティアンとバスティエンヌ』序曲(トラック17)が、いつも以上に「それらしく」聴こえたことが面白くて仕方なかった。
また、ノルウェー国立歌劇場管弦楽団も、いわゆるピリオド奏法の援用に対して全く無理を感じさせない表現で、これまでのアレッサンドリーニとの共同作業が充実したものであったことを推測させるに充分な演奏内容だった。
歌劇場での録音ということもあってか、若干セッコな(乾いた)感じがしないでもないけれど、音質自体はクリアで聴きやすいものだから、作品と演奏を愉しむという意味では基本的に問題はないだろう。
特に、ピリオド奏法によるモーツァルト演奏に親しんだ人には大いにお薦めしたい一枚だ。
それにしても、このCDを聴くと、またぞろ彼と我との違いを痛感してしまうなあ。
どうしても。
2009年05月31日
気軽に聴けるモーツァルト
☆モーツァルト:交響曲第12番〜第14番他
ハンス・グラーフ指揮ザルツブルク・モーツァルテウム管弦楽団
1989年&90年、デジタル録音
<CAPRICCIO>10 329
ライヴじゃなくて、CDという音の缶詰だからこそしっくりくるという演奏がある。
はじめて耳にしたときは、ううんと首を傾げ、ありゃりゃこれ外れかな、とがっくりきたりもするのだが、何度か繰り返して聴いているうちに、おやおやけっこういけるんじゃないのと耳になじんでくるようなCDの場合が、特にそうだ。
いろいろ事情があって今は手元にない、ナクソス・レーベルから出ている、ミヒャエル・ハラスがハンガリーのアンサンブルを指揮したシューベルトの交響曲などそのわかりやすい例だけれど、今回取り上げる、ハンス・グラーフとザルツブルクのオーケストラが演奏したモーツァルトの交響曲集も、そんな一枚に加えることができると思う。
このCD、確か、1991年のモーツァルト没後200年にあてこんで比較的短いスパンで録音された全集中の一枚ということもあって、演奏そのものは、正直すこぶる見事、というようなものではない。
よくいえば流麗だけど、ハンス・グラーフ(アーノンクールの代役としてウィーン国立歌劇場の『魔法の笛』来日公演を指揮したり、ウィーン・フィルの定期に登場したり、NHK交響楽団の定期公演も振ったりしたことのあるこの指揮者は、今どうしているんだろう? デンマークのオーケストラのシェフをやってるように記憶しているが、これは間違いかもしれない)の解釈は、いわゆるオーソドックスな、「シンフォニックに流しておきました」の典型だし、ザルツブルク・モーツァルテウム管弦楽団も、例えば、アイヴァー・ボルトンとの最近の録音ほどには目が詰まっていない。
でも、これが聴けばきくほど、耳になじんでくるのだからあら不思議!
まあ、これには、モーツァルトのこの頃の音楽が、彼らしいきらめきはありつつも、まだまだ円熟の閾には達していずに、同時代のヨハン・クリスティアン・バッハの交響曲なんかと比べると、やたらと饒舌に聴こえるのと関係しているのではないだろうか。
実際、ヤープ・テル・リンデンがピリオド楽器のオーケストラ、モーツァルト・アカデミー・アムステルダムを指揮した同じ曲の演奏を聴くと、作品の持つ仕掛けははっきりわかるんだけど、その分、煩わしさも強く感じてしまったりするもの。
つまり、「無欲」の勝利ってわけだね。
(誰だ、たなぼた式だなんて言ってる輩は!)
いずれにしても、個人創作誌『赤い猫』第2号の発行作業でわじゃこじゃわじゃこじゃしていた人間には、非常にありがたかった一枚。
真のモーツァルティアンじゃなくて、音楽を気軽に愉しみたいという人たちには大推薦だ。
なお、カップリングの交響曲第48番は歌劇『アルバのアスカニオ』序曲、交響曲第51番は歌劇『にせの女庭師』序曲によるものである。
ハンス・グラーフ指揮ザルツブルク・モーツァルテウム管弦楽団
1989年&90年、デジタル録音
<CAPRICCIO>10 329
ライヴじゃなくて、CDという音の缶詰だからこそしっくりくるという演奏がある。
はじめて耳にしたときは、ううんと首を傾げ、ありゃりゃこれ外れかな、とがっくりきたりもするのだが、何度か繰り返して聴いているうちに、おやおやけっこういけるんじゃないのと耳になじんでくるようなCDの場合が、特にそうだ。
いろいろ事情があって今は手元にない、ナクソス・レーベルから出ている、ミヒャエル・ハラスがハンガリーのアンサンブルを指揮したシューベルトの交響曲などそのわかりやすい例だけれど、今回取り上げる、ハンス・グラーフとザルツブルクのオーケストラが演奏したモーツァルトの交響曲集も、そんな一枚に加えることができると思う。
このCD、確か、1991年のモーツァルト没後200年にあてこんで比較的短いスパンで録音された全集中の一枚ということもあって、演奏そのものは、正直すこぶる見事、というようなものではない。
よくいえば流麗だけど、ハンス・グラーフ(アーノンクールの代役としてウィーン国立歌劇場の『魔法の笛』来日公演を指揮したり、ウィーン・フィルの定期に登場したり、NHK交響楽団の定期公演も振ったりしたことのあるこの指揮者は、今どうしているんだろう? デンマークのオーケストラのシェフをやってるように記憶しているが、これは間違いかもしれない)の解釈は、いわゆるオーソドックスな、「シンフォニックに流しておきました」の典型だし、ザルツブルク・モーツァルテウム管弦楽団も、例えば、アイヴァー・ボルトンとの最近の録音ほどには目が詰まっていない。
でも、これが聴けばきくほど、耳になじんでくるのだからあら不思議!
まあ、これには、モーツァルトのこの頃の音楽が、彼らしいきらめきはありつつも、まだまだ円熟の閾には達していずに、同時代のヨハン・クリスティアン・バッハの交響曲なんかと比べると、やたらと饒舌に聴こえるのと関係しているのではないだろうか。
実際、ヤープ・テル・リンデンがピリオド楽器のオーケストラ、モーツァルト・アカデミー・アムステルダムを指揮した同じ曲の演奏を聴くと、作品の持つ仕掛けははっきりわかるんだけど、その分、煩わしさも強く感じてしまったりするもの。
つまり、「無欲」の勝利ってわけだね。
(誰だ、たなぼた式だなんて言ってる輩は!)
いずれにしても、個人創作誌『赤い猫』第2号の発行作業でわじゃこじゃわじゃこじゃしていた人間には、非常にありがたかった一枚。
真のモーツァルティアンじゃなくて、音楽を気軽に愉しみたいという人たちには大推薦だ。
なお、カップリングの交響曲第48番は歌劇『アルバのアスカニオ』序曲、交響曲第51番は歌劇『にせの女庭師』序曲によるものである。
2009年04月20日
最高級の音の缶詰 イーヴォ・ポゴレリチのドメニコ・スカルラッティのソナタ集
☆ドメニコ・スカルラッティ:ソナタ集(15曲)
イーヴォ・ポゴレリチ(ピアノ)
1991年、デジタル録音
<DG>435 855-2
前回のCDレビューで記した如く、畢竟CDは音楽の缶詰。
で、あることに間違いはないのだけれど、同じ缶詰でも、演奏される音楽の種類によってはそれとのつき具合、なじみ具合も変わってくるわけで。
例えば、同じクラシック音楽のくくりの中でも、演奏者しめて何人おんねんと突っ込みを入れたくなるようなマーラーの一千人の交響曲と、クラヴィコードの独奏によるバッハの器楽曲では、当然缶詰度合い、もとい自然不自然の度合いというものは大きく違ってくる。
一つには、音楽を聴くスペースと音量の関係もあって、確かに当方のようなワンルーム暮らしの人間には、四管編成のオーケストラの録音をフルヴォリュームで聴くことなどどだい無理な話だ。
(「いいじゃん、聴きなよ!」、と呼ぶ声あり。ばあか、近所迷惑だしょうが!)
加えて、管弦楽曲や合唱曲だと演奏者は多勢、こちらは一人と、多勢に無勢、ちょっとばかりしらけた気分にもなるが、相手が少人数の演奏ならばこちらも気がねなく音楽が愉しめるし、まして相手が一人なら、彼彼女の奏でる音楽に一対一で向き合える…。
って、まあ、これはそれこそ気分の問題なんだけど。
イーヴォ・ポゴレリチの弾いたドメニコ・スカルラッティのソナタ集は、まさしく一人スピーカと向かい合う人間にとっては、最高級の音の缶詰ということになる。
イーヴォ・ポゴレリチといえば、例のショパン・コンクールでの騒動に始まり、最近の仏門にでも帰依したのかと思わされるような風貌にいたるまで、どこかミステリアスで尋常ならざるピアニストで、実際一筋縄ではいかない音楽の造り手であることも確かなのだが、一方で、彼の演奏には、楽曲の把握、テンポ感、音色等々、聴く人をひき込むに十二分な魅力に満ちあふれていることも、また否定できない事実なのである。
このドメニコ・スカルラッティのソナタ集も、そうしたポゴレリチの魅力、個性がいかんなく発揮された一枚となっている。
表面的にはしごく平明で、ひとつ間違うと無味乾燥にも陥りかねないドメニコ・スカルラッティのソナタだが、ポゴレリチは個々の作品が本来持っている音楽的な仕掛けや美しさを鮮やかに描き分けているのではないか。
(個人的には、一番最後に収められたカークパトリック番号380のソナタが、とても好きだ)
何度聴いても聴き飽きない、そして聴けばきくほど発見のある一枚。
大いにお薦めしたい。
それにしても、タワーレコードのセールで購入したから、このCDがたったの1290円。
いくら生とはいえ、あの×××やこの×××××が●●●●円。
無理して不味いものを「外食」なんかするよりも、家でとびきり美味しい缶詰ですましておこうかという気になっても、やっぱり不思議じゃないよね…。
イーヴォ・ポゴレリチ(ピアノ)
1991年、デジタル録音
<DG>435 855-2
前回のCDレビューで記した如く、畢竟CDは音楽の缶詰。
で、あることに間違いはないのだけれど、同じ缶詰でも、演奏される音楽の種類によってはそれとのつき具合、なじみ具合も変わってくるわけで。
例えば、同じクラシック音楽のくくりの中でも、演奏者しめて何人おんねんと突っ込みを入れたくなるようなマーラーの一千人の交響曲と、クラヴィコードの独奏によるバッハの器楽曲では、当然缶詰度合い、もとい自然不自然の度合いというものは大きく違ってくる。
一つには、音楽を聴くスペースと音量の関係もあって、確かに当方のようなワンルーム暮らしの人間には、四管編成のオーケストラの録音をフルヴォリュームで聴くことなどどだい無理な話だ。
(「いいじゃん、聴きなよ!」、と呼ぶ声あり。ばあか、近所迷惑だしょうが!)
加えて、管弦楽曲や合唱曲だと演奏者は多勢、こちらは一人と、多勢に無勢、ちょっとばかりしらけた気分にもなるが、相手が少人数の演奏ならばこちらも気がねなく音楽が愉しめるし、まして相手が一人なら、彼彼女の奏でる音楽に一対一で向き合える…。
って、まあ、これはそれこそ気分の問題なんだけど。
イーヴォ・ポゴレリチの弾いたドメニコ・スカルラッティのソナタ集は、まさしく一人スピーカと向かい合う人間にとっては、最高級の音の缶詰ということになる。
イーヴォ・ポゴレリチといえば、例のショパン・コンクールでの騒動に始まり、最近の仏門にでも帰依したのかと思わされるような風貌にいたるまで、どこかミステリアスで尋常ならざるピアニストで、実際一筋縄ではいかない音楽の造り手であることも確かなのだが、一方で、彼の演奏には、楽曲の把握、テンポ感、音色等々、聴く人をひき込むに十二分な魅力に満ちあふれていることも、また否定できない事実なのである。
このドメニコ・スカルラッティのソナタ集も、そうしたポゴレリチの魅力、個性がいかんなく発揮された一枚となっている。
表面的にはしごく平明で、ひとつ間違うと無味乾燥にも陥りかねないドメニコ・スカルラッティのソナタだが、ポゴレリチは個々の作品が本来持っている音楽的な仕掛けや美しさを鮮やかに描き分けているのではないか。
(個人的には、一番最後に収められたカークパトリック番号380のソナタが、とても好きだ)
何度聴いても聴き飽きない、そして聴けばきくほど発見のある一枚。
大いにお薦めしたい。
それにしても、タワーレコードのセールで購入したから、このCDがたったの1290円。
いくら生とはいえ、あの×××やこの×××××が●●●●円。
無理して不味いものを「外食」なんかするよりも、家でとびきり美味しい缶詰ですましておこうかという気になっても、やっぱり不思議じゃないよね…。
2009年04月19日
畢竟、CDは音の缶詰でしかない バーンスタインのブラームス
☆ブラームス:交響曲第2番、大学祝典序曲
レナード・バーンスタイン指揮ウィーン・フィル
1982年、デジタル・ライヴ録音
<DG>410 082-2
ヘルベルト・フォン・カラヤン、レナード・バーンスタイン、カルロス・クライバー、カルロ・マリア・ジュリーニ、ラファエル・クーベリック。
いずれも、僕が実演に接したことのない、そして、もしかしたら実演に接することができたかもしれない、今は亡き世界のトップクラスの指揮者たちだ。
中でも、レナード・バーンスタインの場合は、その最後の来日となった1990年7月のロンドン交響楽団大阪公演(フェスティバルホール)のチケットはきちんと手に入れていて、あとは彼の登場を待つばかりだったのだけれど、残念ながら体調不良でキャンセルとなり、結局バーンスタインの生の演奏に触れる機会は永遠に失われてしまった。
(なお、その際の代わりの指揮者は、当時ロンドン響のシェフだったマイケル・ティルソン・トーマスだったが、確か東京公演のほうでは一部の曲を別の指揮者=大植英次?が指揮することになって、ちょっとした騒ぎになったんじゃなかったか)
レナード・バーンスタイン指揮ウィーン・フィルの演奏したブラームスの交響曲第2番のライヴ録音を聴きながら思ったことは、まずそのことであり、音楽はやっぱり生じゃないとなあ、ということだった。
もちろん、今回取り上げるCDに収められた、レナード・バースタインとウィーン・フィルによるブラームスの交響曲第2番もまた、作品に対するバーンスタインの心の動き、感興が忠実に表された、実に「動的」でかつ「抒情的」な、聴き応えのある演奏に仕上がっていると思う。
(ここで注意しなければならないのは、バーンスタインがしっかりとした楽曲解釈の上でこうした演奏を行っていることで、あえてエネルギッシュという言葉を使わなかったのも、それが単純に「それいけどんどん」的なものと受け取られるのが嫌だったからだ)
また、カップリングの大学祝典序曲も、作品の持つ高揚感がはっきりと示されていて、非常に愉しい。
加えて、ウィーン・フィルの音色の美しさを存分に味わうことができるということも、このCDの大きな魅力の一つだろう。
ただ、だからこそ、そしてこの演奏が録音されたムジークフェラインザールの実際の響きの美しさを知っているからこそ、バーンスタインとウィーン・フィルのブラームスの交響曲第2番と大学祝典序曲を生で聴くことができていたら、とどうにももどかしい気持ちにもなるのである。
畢竟、CDは音の缶詰でしかない。
缶詰には缶詰なりの美味しさ、使い勝手のよさがあって、僕はたぶんこれからずっと音の缶詰に親しみ続けるだろうけれど。
でも、やはり音楽は生があってのものだということを思い知らされるのだ、こういう充実した内容のCDを聴けば聴くほど。
レナード・バーンスタイン指揮ウィーン・フィル
1982年、デジタル・ライヴ録音
<DG>410 082-2
ヘルベルト・フォン・カラヤン、レナード・バーンスタイン、カルロス・クライバー、カルロ・マリア・ジュリーニ、ラファエル・クーベリック。
いずれも、僕が実演に接したことのない、そして、もしかしたら実演に接することができたかもしれない、今は亡き世界のトップクラスの指揮者たちだ。
中でも、レナード・バーンスタインの場合は、その最後の来日となった1990年7月のロンドン交響楽団大阪公演(フェスティバルホール)のチケットはきちんと手に入れていて、あとは彼の登場を待つばかりだったのだけれど、残念ながら体調不良でキャンセルとなり、結局バーンスタインの生の演奏に触れる機会は永遠に失われてしまった。
(なお、その際の代わりの指揮者は、当時ロンドン響のシェフだったマイケル・ティルソン・トーマスだったが、確か東京公演のほうでは一部の曲を別の指揮者=大植英次?が指揮することになって、ちょっとした騒ぎになったんじゃなかったか)
レナード・バーンスタイン指揮ウィーン・フィルの演奏したブラームスの交響曲第2番のライヴ録音を聴きながら思ったことは、まずそのことであり、音楽はやっぱり生じゃないとなあ、ということだった。
もちろん、今回取り上げるCDに収められた、レナード・バースタインとウィーン・フィルによるブラームスの交響曲第2番もまた、作品に対するバーンスタインの心の動き、感興が忠実に表された、実に「動的」でかつ「抒情的」な、聴き応えのある演奏に仕上がっていると思う。
(ここで注意しなければならないのは、バーンスタインがしっかりとした楽曲解釈の上でこうした演奏を行っていることで、あえてエネルギッシュという言葉を使わなかったのも、それが単純に「それいけどんどん」的なものと受け取られるのが嫌だったからだ)
また、カップリングの大学祝典序曲も、作品の持つ高揚感がはっきりと示されていて、非常に愉しい。
加えて、ウィーン・フィルの音色の美しさを存分に味わうことができるということも、このCDの大きな魅力の一つだろう。
ただ、だからこそ、そしてこの演奏が録音されたムジークフェラインザールの実際の響きの美しさを知っているからこそ、バーンスタインとウィーン・フィルのブラームスの交響曲第2番と大学祝典序曲を生で聴くことができていたら、とどうにももどかしい気持ちにもなるのである。
畢竟、CDは音の缶詰でしかない。
缶詰には缶詰なりの美味しさ、使い勝手のよさがあって、僕はたぶんこれからずっと音の缶詰に親しみ続けるだろうけれど。
でも、やはり音楽は生があってのものだということを思い知らされるのだ、こういう充実した内容のCDを聴けば聴くほど。
2009年04月18日
ギュンター・ヴァントのブラームス
☆ブラームス:交響曲第2番
ギュンター・ヴァント指揮ハンブルク北ドイツ放送交響楽団
1983年、デジタル録音
<EMI/DHM>CDC7 47871 2
今から15年以上昔、ちょうどヨーロッパに向かう半年ほど前、その頃はまだ出来たてだった名古屋の愛知県芸術劇場のコンサートホールで、ロリン・マゼール指揮バイエルン放送交響楽団の来日公演を聴く機会があった。
プログラムは、ブラームスの交響曲第1番と第2番の2曲だったが、前者のいわゆるオーソドックスな音楽づくりに対して、後者の音楽の進行のギクシャクとした部分をやけに強調したそれこそマゼールらしいやり口が、とても印象に残った。
むろん、とても印象に残っているからといって、何もそれに同調しているわけではない。
それどころか、いくらブラームスの音楽にそうしたギクシャクとした性質がひそんでいるからといって、無理からそれを目立たせる必要もあるまいに、といつもながらのマゼールの露悪趣味に内心うんざりしたほどだった。
ただ、ヨーロッパのケルンという街で生活し、それこそ「ヨーロッパ的」な演奏に日々触れる中で、大いに賛同はしないけれど、何ゆえマゼールがああした確信犯的な楽曲解釈に走りたがるのかという理由の一端を感じ取れたような気がしたことも事実である。
そして、マゼールという一人の音楽家の、若き日のアン・ファン・テリブルな行き方と、現在の偽悪家的なやり口とが一つの線でつながっていることにも疑いようはないと確信するにいたった。
今回取り上げる、ギュンター・ヴァントが手兵ハンブルク北ドイツ放送交響楽団を指揮して録音したブラームスの交響曲第2番は、そうしたマゼールの演奏の対極に位置するものと評することができる。
(本当は、コインの裏と表と評したい気持ちもあるのだけれど、ここではそこまで断定できない)
確かに、作品の構造、構成、性質に対する把握の細かさ、その徹底ぶりは共通するものがないとは言えないが、マゼールがデフォルメにデフォルメを重ねていく、言い換えると、作品の持つ齟齬を強調するのに反し、ヴァントのほうは、作品の持つバランス、均整の美しさに大きく重心を置いている。
だから、演奏の本質からすれば全く適当でない「自然な」という言葉を当てはめたくもなるのである。
(「自然な」という言葉が、どうして適当でないかはあえて記さない。それと、こうした言葉を使いたくなるのは、ハンブルク北ドイツ放送交響楽団が、同じドイツのオーケストラでも、ベルリン・フィルやバイエルン放送交響楽団などと比べて、よりくすんだ音色を有しているからかもしれない)
いずれにしても、全体を一つの音のドラマとしてしっかりと造り上げたという意味でも、細部の美しさ、魅力を丁寧に描き分けたという意味でも、実によく出来た、そして聴き応えのある演奏だと僕は思う*注。
指揮者とオーケストラのつき具合、音楽の完成度という面では、後年のRCAレーベルへのライヴ録音に譲るものの、ギュンター・ヴァントという音楽家の本質を識るという点でも、大いにお薦めしたい一枚だ。
多少の不満は残るが、音楽そのものを愉しむという意味では、録音もまず問題はあるまい。
余談だけれど、冒頭のバイエルン放送交響楽団のコンサートでは、指定席のチケットを持っているにもかかわらず、
「バイエルンきょうそうほうそう楽団のお客様、バイエルンきょうそうほうそう楽団のお客様」
と、わけわからんちんな言葉を絶叫する係りの青年の言うがままに4列に並ばされて、粛々とホールへ入場させられるはめになった。
「You Know? You Know?(前回のCDレビューをご参照のほど)」と「バイエルンきょうそうほうそう楽団」とのあまりの違い!
(と、言って、僕は名古屋での出来事を全否定するつもりはない。けれど、「彼」と「我」とは大きく違う土壌にあること、そしてその中で「我」われは「彼」らのものに接している、という認識はやはり必要なのではないかと、僕は強く思うのだ)
*注
本当は、ヴォルフガング・サヴァリッシュ指揮ロンドン・フィルの演奏したブラームスの交響曲第2番(<EMI>CDC7 54059 2)と比較して少し詳しく記しておこうかと思ったのだが、サヴァリッシュのほうを耳にしてやめておくことにした。
だって、一方を誉めるために他方を貶めるなんて、やっぱり芸がないもの。
ギュンター・ヴァント指揮ハンブルク北ドイツ放送交響楽団
1983年、デジタル録音
<EMI/DHM>CDC7 47871 2
今から15年以上昔、ちょうどヨーロッパに向かう半年ほど前、その頃はまだ出来たてだった名古屋の愛知県芸術劇場のコンサートホールで、ロリン・マゼール指揮バイエルン放送交響楽団の来日公演を聴く機会があった。
プログラムは、ブラームスの交響曲第1番と第2番の2曲だったが、前者のいわゆるオーソドックスな音楽づくりに対して、後者の音楽の進行のギクシャクとした部分をやけに強調したそれこそマゼールらしいやり口が、とても印象に残った。
むろん、とても印象に残っているからといって、何もそれに同調しているわけではない。
それどころか、いくらブラームスの音楽にそうしたギクシャクとした性質がひそんでいるからといって、無理からそれを目立たせる必要もあるまいに、といつもながらのマゼールの露悪趣味に内心うんざりしたほどだった。
ただ、ヨーロッパのケルンという街で生活し、それこそ「ヨーロッパ的」な演奏に日々触れる中で、大いに賛同はしないけれど、何ゆえマゼールがああした確信犯的な楽曲解釈に走りたがるのかという理由の一端を感じ取れたような気がしたことも事実である。
そして、マゼールという一人の音楽家の、若き日のアン・ファン・テリブルな行き方と、現在の偽悪家的なやり口とが一つの線でつながっていることにも疑いようはないと確信するにいたった。
今回取り上げる、ギュンター・ヴァントが手兵ハンブルク北ドイツ放送交響楽団を指揮して録音したブラームスの交響曲第2番は、そうしたマゼールの演奏の対極に位置するものと評することができる。
(本当は、コインの裏と表と評したい気持ちもあるのだけれど、ここではそこまで断定できない)
確かに、作品の構造、構成、性質に対する把握の細かさ、その徹底ぶりは共通するものがないとは言えないが、マゼールがデフォルメにデフォルメを重ねていく、言い換えると、作品の持つ齟齬を強調するのに反し、ヴァントのほうは、作品の持つバランス、均整の美しさに大きく重心を置いている。
だから、演奏の本質からすれば全く適当でない「自然な」という言葉を当てはめたくもなるのである。
(「自然な」という言葉が、どうして適当でないかはあえて記さない。それと、こうした言葉を使いたくなるのは、ハンブルク北ドイツ放送交響楽団が、同じドイツのオーケストラでも、ベルリン・フィルやバイエルン放送交響楽団などと比べて、よりくすんだ音色を有しているからかもしれない)
いずれにしても、全体を一つの音のドラマとしてしっかりと造り上げたという意味でも、細部の美しさ、魅力を丁寧に描き分けたという意味でも、実によく出来た、そして聴き応えのある演奏だと僕は思う*注。
指揮者とオーケストラのつき具合、音楽の完成度という面では、後年のRCAレーベルへのライヴ録音に譲るものの、ギュンター・ヴァントという音楽家の本質を識るという点でも、大いにお薦めしたい一枚だ。
多少の不満は残るが、音楽そのものを愉しむという意味では、録音もまず問題はあるまい。
余談だけれど、冒頭のバイエルン放送交響楽団のコンサートでは、指定席のチケットを持っているにもかかわらず、
「バイエルンきょうそうほうそう楽団のお客様、バイエルンきょうそうほうそう楽団のお客様」
と、わけわからんちんな言葉を絶叫する係りの青年の言うがままに4列に並ばされて、粛々とホールへ入場させられるはめになった。
「You Know? You Know?(前回のCDレビューをご参照のほど)」と「バイエルンきょうそうほうそう楽団」とのあまりの違い!
(と、言って、僕は名古屋での出来事を全否定するつもりはない。けれど、「彼」と「我」とは大きく違う土壌にあること、そしてその中で「我」われは「彼」らのものに接している、という認識はやはり必要なのではないかと、僕は強く思うのだ)
*注
本当は、ヴォルフガング・サヴァリッシュ指揮ロンドン・フィルの演奏したブラームスの交響曲第2番(<EMI>CDC7 54059 2)と比較して少し詳しく記しておこうかと思ったのだが、サヴァリッシュのほうを耳にしてやめておくことにした。
だって、一方を誉めるために他方を貶めるなんて、やっぱり芸がないもの。
2009年04月17日
もしもテンシュテットが振れてたなら
☆ブラームス:交響曲第4番、悲劇的序曲
ヴォルフガング・サヴァリッシュ指揮ロンドン・フィル
1989年、1990年、デジタル録音
<EMI>CDC7 54060 2
今からちょうど15年前のこと、ケルン滞在中の僕は、イギリスまで数日間足を伸ばしたことがあった。
当時ウォーリック大学に留学していた院生仲間の大塚陽子さん(現立命館大学政策科学部准教授)を訪ねることがその大きな目的だったのだけれど、他に、コヴェントガーデン・ロイヤル・オペラのマスネの『シェルバン』公演初日と、ロンドン・フィルの定期演奏会を僕はスケジュールに組み込んでもいた。
と、言っても、今ほどネットでささっとチケット予約ができる時代ではなかったから、いずれも当日券目当ての行き当たりばったりの計画だったが、二つの公演とも難なくチケットを手に入れることができた。
なぜなら、ロイヤル・オペラのほうはひとまず置くとして、ロンドン・フィルのほうは、予定されていたクラウス・テンシュテットが体調不良でキャンセルし、指揮者がロジャー・ノリントンに変更されていたからで、当日のチケットを下さいとロイヤル・フェスティヴァル・ホールの窓口に行ったとき、係りのおじさんから「You know? You Know?」と、そのことを何度も念押しされたほどだった。
僕自身は、あくまでもノリントン聴きたさの選択だったが(前年の秋、ケルンで聴いたヨーロッパ室内管弦楽団とのコンサートの印象が非常に鮮烈だったので)、ロンドンにおけるテンシュテットの絶大な人気に、こちらがどう見ても「東洋人」であるということも加味して考えれば、おじさんの反応もむべなるかなで、そのときも、そらそう念押ししたなるやろな、と内心大いに納得したものである。
で、ヴォルフガング・サヴァリッシュがロンドン・フィルを指揮したブラームスの交響曲第4番を聴きながら、ふとそんなことを思い出したのにはわけがあって、実は、ノリントンが指揮したコンサートのメインのプログラムもブラームスの交響曲第4番だったのだ。
むろん、サヴァリッシュとノリントンの演奏には4年間の開きがあるし、だいいち、二人の音楽の造り方、楽曲の解釈には、それこそ天と地ほどの開きがある。
ただ、それでも両者がはっきりと頭の中でつながったのは、単にオーケストラが同じロンドン・フィルだからということだけではなく、サヴァリッシュもまたテンシュテットの代役だったのではなかろうかと推測することができたからだ*注。
演奏自体は、よくも悪くもサヴァリッシュという指揮者の持つイメージにぴったりと添った内容になっていると思う。
作品の骨格はきちんと押さえられているし、歌うべきところもそれなり歌われているし、第1楽章や第4楽章の終わりの部分をはじめ、ドラマティックな表現にだって不足していない。
(それは、サヴァリッシュの「劇場感覚」の表れだとも言える)
加えて、ロンドン・フィルも機能性に優れたアンサンブルを披歴している。
レビューを書くまでに、10回以上このCDに接したが、聴けば聴くほど演奏のプラスの面が見えて(聴こえて)くる録音だと言い切ることができる。
だが、何かが足りない、ような気もするのだ。
ううん、なんと言ったらよいのか。
行き方でいうと、たぶんギュンター・ヴァントに近いものがあるのだろうが、彼ほど徹底しきれていないというか。
かと言って、テンシュテットのようなパトスは当然感じられない。
いいところまでいってるんだけれど、そこから先がというもどかしさが残るのである、この演奏には。
一つには、EMIの、それもアビーロード・スタジオでの録音ということに起因する音質の悪さ(それが言い過ぎなら、音質のデッドさ)が大きく影響していると言えないこともないが。
個人的には、カップリングの悲劇的序曲のほうが、サヴァリッシュの劇場感覚が冒頭よりたっぷりと発揮されていて、聴き応えがあるように思われる。
いずれにしても、本物の初心者、つまり初めてこの曲を聴くという人よりも、日本のプロのオーケストラによるこの曲の生の演奏(それも指揮者は、秋山和慶とか小泉和裕、円光寺雅彦、梅田俊明、小田野宏之、大友直人、十束尚宏、外山雄三といった人たち)に何度か触れたことのある人たちにお薦めしたい一枚だ。
*注
『レコード芸術』1998年3月号の、浅里公三によるクラウス・テンシュテットの追悼記事中に、
>(テンシュテットが)もし病魔に侵されなかったら、ベートーヴェン、シューマン、ブラームスなどの交響曲全集も完成できたろう<
という言葉がある。
やはり、サヴァリッシュによるロンドン・フィルとのブラームスの交響曲全集は、テンシュテットの代役だったようだ。
ヴォルフガング・サヴァリッシュ指揮ロンドン・フィル
1989年、1990年、デジタル録音
<EMI>CDC7 54060 2
今からちょうど15年前のこと、ケルン滞在中の僕は、イギリスまで数日間足を伸ばしたことがあった。
当時ウォーリック大学に留学していた院生仲間の大塚陽子さん(現立命館大学政策科学部准教授)を訪ねることがその大きな目的だったのだけれど、他に、コヴェントガーデン・ロイヤル・オペラのマスネの『シェルバン』公演初日と、ロンドン・フィルの定期演奏会を僕はスケジュールに組み込んでもいた。
と、言っても、今ほどネットでささっとチケット予約ができる時代ではなかったから、いずれも当日券目当ての行き当たりばったりの計画だったが、二つの公演とも難なくチケットを手に入れることができた。
なぜなら、ロイヤル・オペラのほうはひとまず置くとして、ロンドン・フィルのほうは、予定されていたクラウス・テンシュテットが体調不良でキャンセルし、指揮者がロジャー・ノリントンに変更されていたからで、当日のチケットを下さいとロイヤル・フェスティヴァル・ホールの窓口に行ったとき、係りのおじさんから「You know? You Know?」と、そのことを何度も念押しされたほどだった。
僕自身は、あくまでもノリントン聴きたさの選択だったが(前年の秋、ケルンで聴いたヨーロッパ室内管弦楽団とのコンサートの印象が非常に鮮烈だったので)、ロンドンにおけるテンシュテットの絶大な人気に、こちらがどう見ても「東洋人」であるということも加味して考えれば、おじさんの反応もむべなるかなで、そのときも、そらそう念押ししたなるやろな、と内心大いに納得したものである。
で、ヴォルフガング・サヴァリッシュがロンドン・フィルを指揮したブラームスの交響曲第4番を聴きながら、ふとそんなことを思い出したのにはわけがあって、実は、ノリントンが指揮したコンサートのメインのプログラムもブラームスの交響曲第4番だったのだ。
むろん、サヴァリッシュとノリントンの演奏には4年間の開きがあるし、だいいち、二人の音楽の造り方、楽曲の解釈には、それこそ天と地ほどの開きがある。
ただ、それでも両者がはっきりと頭の中でつながったのは、単にオーケストラが同じロンドン・フィルだからということだけではなく、サヴァリッシュもまたテンシュテットの代役だったのではなかろうかと推測することができたからだ*注。
演奏自体は、よくも悪くもサヴァリッシュという指揮者の持つイメージにぴったりと添った内容になっていると思う。
作品の骨格はきちんと押さえられているし、歌うべきところもそれなり歌われているし、第1楽章や第4楽章の終わりの部分をはじめ、ドラマティックな表現にだって不足していない。
(それは、サヴァリッシュの「劇場感覚」の表れだとも言える)
加えて、ロンドン・フィルも機能性に優れたアンサンブルを披歴している。
レビューを書くまでに、10回以上このCDに接したが、聴けば聴くほど演奏のプラスの面が見えて(聴こえて)くる録音だと言い切ることができる。
だが、何かが足りない、ような気もするのだ。
ううん、なんと言ったらよいのか。
行き方でいうと、たぶんギュンター・ヴァントに近いものがあるのだろうが、彼ほど徹底しきれていないというか。
かと言って、テンシュテットのようなパトスは当然感じられない。
いいところまでいってるんだけれど、そこから先がというもどかしさが残るのである、この演奏には。
一つには、EMIの、それもアビーロード・スタジオでの録音ということに起因する音質の悪さ(それが言い過ぎなら、音質のデッドさ)が大きく影響していると言えないこともないが。
個人的には、カップリングの悲劇的序曲のほうが、サヴァリッシュの劇場感覚が冒頭よりたっぷりと発揮されていて、聴き応えがあるように思われる。
いずれにしても、本物の初心者、つまり初めてこの曲を聴くという人よりも、日本のプロのオーケストラによるこの曲の生の演奏(それも指揮者は、秋山和慶とか小泉和裕、円光寺雅彦、梅田俊明、小田野宏之、大友直人、十束尚宏、外山雄三といった人たち)に何度か触れたことのある人たちにお薦めしたい一枚だ。
*注
『レコード芸術』1998年3月号の、浅里公三によるクラウス・テンシュテットの追悼記事中に、
>(テンシュテットが)もし病魔に侵されなかったら、ベートーヴェン、シューマン、ブラームスなどの交響曲全集も完成できたろう<
という言葉がある。
やはり、サヴァリッシュによるロンドン・フィルとのブラームスの交響曲全集は、テンシュテットの代役だったようだ。
2009年03月27日
リヒャルト・シュトラウスづくし もしくは、インテルメッツォ
レビューをアップした、アンドレ・プレヴィン指揮ウィーン・フィルの演奏によるツァラトゥストラはかく語りき&死と変容に始まって、デヴィッド・ジンマン指揮チューリヒ・トーンハレ管弦楽団の演奏によるツァラトゥストラ、ドン・ファン、ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら、ジェフリー・テイト指揮イギリス室内管弦楽団の演奏による『町人貴族』組曲&メタモルフォーゼン、アンドレ・プレヴィン指揮ウィーン・フィルとウィーン・フィル団員の演奏によるオーボエ協奏曲、ホルン協奏曲第1番、第2番、クラリネットとファゴットのための二重小協奏曲、そして今聴き始めたハインツ・ホリガー指揮ヨーロッパ室内管弦楽団管楽ソロイスツの演奏による管楽合奏のためのセレナードと、昨日から今日にかけてリヒャルト・シュトラウスの作品をずっと聴き続けている。
まさしくリヒャルト・シュトラウスづくしといったところだが、正直、クラシック音楽を聴き始めたころは、彼の作品はなんとなく苦手だった。
と、言うのも、なあんかオーケストラをばりばり鳴らして大仰というか、確かにオーケストレーションの凄さはわかるんだけど、それがどうしたと尋ねたくなるような感じで。
だから、LP時代はリヒャルト・シュトラウスのレコードは一切買うことはせず、てか、CD時代になっても、ほとんどと言っていいほど彼の作品の録音には手を出すことはしなかった。
そういえば、ウィレム・メンゲルベルクとアムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団の演奏したブラームスの交響曲第4番にドン・ファンがカップリングされてたくらいじゃないかな。
よりにもよって、メンゲルベルクとは!
そんなアンチ、とまではいかないけれど、非リヒャルト・シュトラウス陣営に所属していた人間が、いやいやリヒャルト・シュトラウス馬鹿にはできんぞ素晴らしいぞ、と心を入れ換える契機となったのは、大学院に入ってしばらくしてから何気なく購入した、カール・ベーム指揮バイエルン放送交響楽団他の演奏による、リヒャルト・シュトラウスの最後の舞台作品『カプリッチョ』を聴いたことで、いやあ、これには参りましたね。
だって、こんな巧みに巧まれた音楽をものするんだもの、一流どころか超一流の作曲家と慕って間違いない、リヒャルト・シュトラウスは。
で、それからというもの、それまで苦手にしていた英雄の生涯やツァラトゥストラはかく語りきなんかも迷わず聴くようになったわけだけれど。
まあそれには、ヘルベルト・フォン・カラヤンとベルリン・フィル流とは異なる、すっきり見通しのよいリヒャルト・シュトラウスの演奏が、1990年代以降の潮流となってきたことも大きいんじゃないのかなと思ったりなんかしたりして。
いずれにしても、今では立派なリヒャルト・シュトラウシアンの一人となった中瀬宏之です。
ちなみに、上述したディスクのほかに、ルチア・ポップが歌った歌曲集、ヴォルフガング・サヴァリッシュ指揮バイエルン放送交響楽団他の演奏による『インテルメッツォ』、ベルナルト・ハイティンク指揮バイエルン放送交響楽団他の演奏による『ダフネ』などが、僕のリヒャルト・シュトラウス愛聴盤。
残念なのは、ルチア・ポップが『ばらの騎士』と『アラベラ』のセッション録音の全曲盤を遺さなかったこと。
これは、惜しみてなお余りあり!
(ポップが歌ったバイエルン州立歌劇場の『アラベラ』の来日公演をNHKが録画していて、実際放映もされたはずだけど、あれは発売されないのかな?)
まさしくリヒャルト・シュトラウスづくしといったところだが、正直、クラシック音楽を聴き始めたころは、彼の作品はなんとなく苦手だった。
と、言うのも、なあんかオーケストラをばりばり鳴らして大仰というか、確かにオーケストレーションの凄さはわかるんだけど、それがどうしたと尋ねたくなるような感じで。
だから、LP時代はリヒャルト・シュトラウスのレコードは一切買うことはせず、てか、CD時代になっても、ほとんどと言っていいほど彼の作品の録音には手を出すことはしなかった。
そういえば、ウィレム・メンゲルベルクとアムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団の演奏したブラームスの交響曲第4番にドン・ファンがカップリングされてたくらいじゃないかな。
よりにもよって、メンゲルベルクとは!
そんなアンチ、とまではいかないけれど、非リヒャルト・シュトラウス陣営に所属していた人間が、いやいやリヒャルト・シュトラウス馬鹿にはできんぞ素晴らしいぞ、と心を入れ換える契機となったのは、大学院に入ってしばらくしてから何気なく購入した、カール・ベーム指揮バイエルン放送交響楽団他の演奏による、リヒャルト・シュトラウスの最後の舞台作品『カプリッチョ』を聴いたことで、いやあ、これには参りましたね。
だって、こんな巧みに巧まれた音楽をものするんだもの、一流どころか超一流の作曲家と慕って間違いない、リヒャルト・シュトラウスは。
で、それからというもの、それまで苦手にしていた英雄の生涯やツァラトゥストラはかく語りきなんかも迷わず聴くようになったわけだけれど。
まあそれには、ヘルベルト・フォン・カラヤンとベルリン・フィル流とは異なる、すっきり見通しのよいリヒャルト・シュトラウスの演奏が、1990年代以降の潮流となってきたことも大きいんじゃないのかなと思ったりなんかしたりして。
いずれにしても、今では立派なリヒャルト・シュトラウシアンの一人となった中瀬宏之です。
ちなみに、上述したディスクのほかに、ルチア・ポップが歌った歌曲集、ヴォルフガング・サヴァリッシュ指揮バイエルン放送交響楽団他の演奏による『インテルメッツォ』、ベルナルト・ハイティンク指揮バイエルン放送交響楽団他の演奏による『ダフネ』などが、僕のリヒャルト・シュトラウス愛聴盤。
残念なのは、ルチア・ポップが『ばらの騎士』と『アラベラ』のセッション録音の全曲盤を遺さなかったこと。
これは、惜しみてなお余りあり!
(ポップが歌ったバイエルン州立歌劇場の『アラベラ』の来日公演をNHKが録画していて、実際放映もされたはずだけど、あれは発売されないのかな?)
2009年03月26日
アンドレ・プレヴィンのN響首席客演指揮者就任を祝しつつ
☆リヒャルト・シュトラウス:交響詩『ツァラトゥストラはかく語りき』、『死と変容』
アンドレ・プレヴィン指揮ウィーン・フィル
1987年、デジタル録音
<TELARC>CD-80167
かつてコント55号で売れっ子時代の萩本欽一が小林信彦から実験映画の企画を持ちかけられて、
「本当にやりたいことは、一度、人気が落ちないとできませんね」
と、語ったことがあるという。
小林さんの労作『テレビの黄金時代』<文春文庫>の第十三章「萩本欽一の輝ける日々」に記された一挿話だが、そういえば、僕にも似たような経験があった。
もう15年近く前になるだろうか、名前を出せばあああの人ね、と多くの人が首肯するだろう人気作家の一人と一度だけお会いする機会があった際に、徹夜明けの仮眠後で少しくたびれた様子の氏が、
「書きたいと思うことを書くには、あまり売れ過ぎないこと」
という趣旨の言葉をぽつりと漏らしたのだった。
まあ、ここで気をつけておかなければならないのは、一度人気が落ちるにせよ、あまり売れ過ぎないにせよ、そこそこには認められていなければならない、言い換えれば、歯牙にもかけられないどん底状態にあっては元の黙阿弥、それはそれでやりたいこともやれない苦境に追い込まれるだろうということだけれど。
で、なぜこんなことを思い起こしたり考えたりしたかというと、アンドレ・プレヴィンがウィーン・フィルを指揮したリヒャルト・シュトラウスの交響詩『ツァラトゥストラはかく語りき』と『死と変容』を聴いているうちに、今度彼がNHK交響楽団の首席客演指揮者に就任するということを思い出したからである。
すでにプレヴィンとN響には15年以上の関係があるわけだから、フランス・ブリュッヘンと新日本フィルの組み合わせほどには、この期に及んで感はないものの、それでもやっぱり「おそかりし由良之助」ならぬ「おそかりしプレヴィンよ」という感情、感慨を抱かざるを得なかった。
さて、そんなアンドレ・プレヴィンにとって、彼がウィーン・フィルと組んでテラーク・レーベルに録音した一連のリヒャルト・シュトラウス作品は、プレヴィンという指揮者のピークを代表する仕事の一つと数え上げることができるのではないか。
特に、今回取り上げるツァラトゥストラはかく語りきと死と変容が収められた一枚は、歌うべきところをよく歌わせたプレヴィンのツボを押さえた音楽づくりと、ウィーン・フィル及び録音会場であるムジークフェラインの音色の豊かさを活かした優れた録音技術とがあいまって、実に聴き心地のよい仕上がりとなっている。
(ただし、音楽のつかみ方という意味では、デヴィッド・ジンマン指揮チューリヒ・トーンハレ管弦楽団によるシャープでクリアな演奏のほうが、より作曲家自身のそれに近いような気もするが)
ところどころ、映画音楽っぽいというか、ちょっと詰めが甘いかなと感じてしまう部分もなくはないが、「リヒャルト・シュトラウスなんだから、ただ鳴ってりゃいいじゃん! ズビン・メータ最高!!」なんてことを口にしない人たちには、安心してお薦めできるCDだと思う。
ところで、『ぶらあぼ』4月号の小耳大耳などによると、アンドレ・プレヴィンは今後N響と自作自演を含む意欲的なプログラムを予定しているそうだ。
それこそ、本当にやりたいことができるようになったということかな、アンドレ・プレヴィンも。
いずれにしても、アンドレ・プレヴィンにとってNHK交響楽団との共同作業が、彼の指揮活動の集大成となることを強く期待してやまない。
(「なんで、そうなるのっ!」、と呼ぶ声あり)
アンドレ・プレヴィン指揮ウィーン・フィル
1987年、デジタル録音
<TELARC>CD-80167
かつてコント55号で売れっ子時代の萩本欽一が小林信彦から実験映画の企画を持ちかけられて、
「本当にやりたいことは、一度、人気が落ちないとできませんね」
と、語ったことがあるという。
小林さんの労作『テレビの黄金時代』<文春文庫>の第十三章「萩本欽一の輝ける日々」に記された一挿話だが、そういえば、僕にも似たような経験があった。
もう15年近く前になるだろうか、名前を出せばあああの人ね、と多くの人が首肯するだろう人気作家の一人と一度だけお会いする機会があった際に、徹夜明けの仮眠後で少しくたびれた様子の氏が、
「書きたいと思うことを書くには、あまり売れ過ぎないこと」
という趣旨の言葉をぽつりと漏らしたのだった。
まあ、ここで気をつけておかなければならないのは、一度人気が落ちるにせよ、あまり売れ過ぎないにせよ、そこそこには認められていなければならない、言い換えれば、歯牙にもかけられないどん底状態にあっては元の黙阿弥、それはそれでやりたいこともやれない苦境に追い込まれるだろうということだけれど。
で、なぜこんなことを思い起こしたり考えたりしたかというと、アンドレ・プレヴィンがウィーン・フィルを指揮したリヒャルト・シュトラウスの交響詩『ツァラトゥストラはかく語りき』と『死と変容』を聴いているうちに、今度彼がNHK交響楽団の首席客演指揮者に就任するということを思い出したからである。
すでにプレヴィンとN響には15年以上の関係があるわけだから、フランス・ブリュッヘンと新日本フィルの組み合わせほどには、この期に及んで感はないものの、それでもやっぱり「おそかりし由良之助」ならぬ「おそかりしプレヴィンよ」という感情、感慨を抱かざるを得なかった。
さて、そんなアンドレ・プレヴィンにとって、彼がウィーン・フィルと組んでテラーク・レーベルに録音した一連のリヒャルト・シュトラウス作品は、プレヴィンという指揮者のピークを代表する仕事の一つと数え上げることができるのではないか。
特に、今回取り上げるツァラトゥストラはかく語りきと死と変容が収められた一枚は、歌うべきところをよく歌わせたプレヴィンのツボを押さえた音楽づくりと、ウィーン・フィル及び録音会場であるムジークフェラインの音色の豊かさを活かした優れた録音技術とがあいまって、実に聴き心地のよい仕上がりとなっている。
(ただし、音楽のつかみ方という意味では、デヴィッド・ジンマン指揮チューリヒ・トーンハレ管弦楽団によるシャープでクリアな演奏のほうが、より作曲家自身のそれに近いような気もするが)
ところどころ、映画音楽っぽいというか、ちょっと詰めが甘いかなと感じてしまう部分もなくはないが、「リヒャルト・シュトラウスなんだから、ただ鳴ってりゃいいじゃん! ズビン・メータ最高!!」なんてことを口にしない人たちには、安心してお薦めできるCDだと思う。
ところで、『ぶらあぼ』4月号の小耳大耳などによると、アンドレ・プレヴィンは今後N響と自作自演を含む意欲的なプログラムを予定しているそうだ。
それこそ、本当にやりたいことができるようになったということかな、アンドレ・プレヴィンも。
いずれにしても、アンドレ・プレヴィンにとってNHK交響楽団との共同作業が、彼の指揮活動の集大成となることを強く期待してやまない。
(「なんで、そうなるのっ!」、と呼ぶ声あり)
2009年03月25日
ピリスのシューベルト
☆シューベルト:ピアノ・ソナタ第21番、即興曲Op90−3、4
マリア・ジョアン・ピリス(ピアノ)
1985年、デジタル録音
<ERATO>ECD88181
皮か餡子か。
形式か中身か。
文芸音楽演劇その他諸々諸事万端、あらゆる表現行為というものを考える際に、しばしば問われるのが、表現者が上記のいずれに重きをなすかということである。
なあんて、それらしい言葉で始めてみたが、これ以上続けると、朝日新聞の斎藤美奈子の文芸時評の受け売りっぽくなりそうだからやめておく。
まあ、どっちも大事、要はバランスじゃん、というのが個人的な考えなんだけれど、言うは易く行うは難し、二兎を追って一兎も得ずの喩え通り、欲張り過ぎると、あっちもだめならこっちもだめという悲惨な結果に陥らないともかぎらない。
というか、真っ当な表現者ならば、そこら辺、事の軽重はありつつも、自分なりにきちんと折り合いをつけているような気がするのだが。
今回取り上げる、マリア・ジョアン・ピリスの弾いたシューベルトは、明らかに内実重視の演奏ということができるのではないか。
もちろん、だからと言って、作品の構成に対する意識が欠如しているだとか、ましてや技術的に大きく難があると言いたい訳ではない。
ただ、彼女の演奏を聴いていると、そうした皮の部分、外側の部分よりも、シューベルトの作品と対峙して自らの心がどう動いたのかを表現すること、自らの内面を表すことのほうに、よりピリスの関心があるように僕には感じられるのだ。
その分、ソナタのほうでは、表現にぶれが聴き受けられるような箇所があることも事実で、僕自身は、ピリスの意識とシューベルトの音楽がぴたりと添ったり逆に離れたりする様を面白いと思ったりもしたが、堅固なシューベルトを求めるむきにはあまりしっくりとこない演奏かもしれないなと思ったりもする。
その点、余白に収められた、二つの即興曲のほうが、よりピリスの特性、本質と合っているのではないだろうか。
それでも、自己の深淵と向き合うということをどこか自家薬籠中のものとしてしまった感すらある最近のピリスにはない清鮮さを噛み締めることができるという意味も含めて、僕はこのCDを繰り返し聴き続けると思う。
特に、夜更けにゆっくり聴きたい一枚だ。
マリア・ジョアン・ピリス(ピアノ)
1985年、デジタル録音
<ERATO>ECD88181
皮か餡子か。
形式か中身か。
文芸音楽演劇その他諸々諸事万端、あらゆる表現行為というものを考える際に、しばしば問われるのが、表現者が上記のいずれに重きをなすかということである。
なあんて、それらしい言葉で始めてみたが、これ以上続けると、朝日新聞の斎藤美奈子の文芸時評の受け売りっぽくなりそうだからやめておく。
まあ、どっちも大事、要はバランスじゃん、というのが個人的な考えなんだけれど、言うは易く行うは難し、二兎を追って一兎も得ずの喩え通り、欲張り過ぎると、あっちもだめならこっちもだめという悲惨な結果に陥らないともかぎらない。
というか、真っ当な表現者ならば、そこら辺、事の軽重はありつつも、自分なりにきちんと折り合いをつけているような気がするのだが。
今回取り上げる、マリア・ジョアン・ピリスの弾いたシューベルトは、明らかに内実重視の演奏ということができるのではないか。
もちろん、だからと言って、作品の構成に対する意識が欠如しているだとか、ましてや技術的に大きく難があると言いたい訳ではない。
ただ、彼女の演奏を聴いていると、そうした皮の部分、外側の部分よりも、シューベルトの作品と対峙して自らの心がどう動いたのかを表現すること、自らの内面を表すことのほうに、よりピリスの関心があるように僕には感じられるのだ。
その分、ソナタのほうでは、表現にぶれが聴き受けられるような箇所があることも事実で、僕自身は、ピリスの意識とシューベルトの音楽がぴたりと添ったり逆に離れたりする様を面白いと思ったりもしたが、堅固なシューベルトを求めるむきにはあまりしっくりとこない演奏かもしれないなと思ったりもする。
その点、余白に収められた、二つの即興曲のほうが、よりピリスの特性、本質と合っているのではないだろうか。
それでも、自己の深淵と向き合うということをどこか自家薬籠中のものとしてしまった感すらある最近のピリスにはない清鮮さを噛み締めることができるという意味も含めて、僕はこのCDを繰り返し聴き続けると思う。
特に、夜更けにゆっくり聴きたい一枚だ。
2009年03月22日
フォークフォークフォーク
☆MINO meets フォーク&ニューミュージック
加羽沢美濃(ピアノ)
<DENON>COCO-80811
学生時代、学部の後輩といっしょにフォーク・グループを組んでいたことがある。
と、言っても、ゆずだとかなんだとか、ストリートミュージシャンののりはしりを期待されるとちと困る。
トリオ・ザ・ポンチョス・ブラザースというグループ名からも明らかなように、フォークはフォークでも、元来のフォークミュージック(民俗音楽・民衆音楽)、とまではいかないが、そこから派生して60年代を席巻した、いわゆる社会的な意識の強いフォークソングを歌うことを目的として結成されたグループで、実際、レパートリーもウィ・シャル・オーバー・カムだとかダウン・バイ・ザ・リバーサイド、風に吹かれてだとか戦争の親玉、受験生ブルースだとか自衛隊に入ろうといった、今から20年近く前のこととしても、いささか時代遅れの感は否めないものだった。
まあ、それでも、なんとか集会だのなんとかチャリティーの集いだのに呼ばれたりして、あちらの「いか焼けたよー!」の屋台のおばちゃんの声や、こちらの「お兄ちゃんがたたいたー!」の子供の声にもまれつつ、なんやかんやと歌っていたことは、今さらながら懐かしく思い出される。
で、今回取り上げる加羽沢美濃のピアノ・ピュア・シリーズ中の一枚、「MINO meets フォーク&ニューミュージック」は、そんなトリオ・ザ・ポンチョス・ブラザースの歌ったフォークソングとは対照的な、それこそ流行歌・ヒットナンバーと呼ぶに相応しい有名曲の数々を加羽沢さんがピアノソロにアレンジしたものである。
基本的には、耳なじみのよさが身上、聴き流しにもってこいのCDで、くだくだくどくどといちゃもんをつける必要はないんじゃないのかな、というのが僕の正直な感想だけど、曲の性格に合わせた加羽沢さんのアレンジの妙については一言付け加えておくべきかとも思った。
(個人的には、小坂明子の『あなた』や、杏里が歌った『オリビアを聴きながら』が気に入った。逆に『時代』は、中島みゆきというより薬師丸ひろ子的な雰囲気が濃厚だ)
そういえば、左翼の闘士としても知られた作曲家ポール・ジェフスキは、かつてダウン・バイ・ザ・リバーサイドをピアノ・ソロ用にアレンジしたが(マルク・アンドレ・アムランが弾いたハイペリオン盤を所有)、加羽沢さんにも受験生ブルースや自衛隊に入ろうを…。
いや、彼女にそれを期待するのはあまりにも酷というものだ。
つまるところ、よくも悪くも、そういうことなのである。
えっ、何を言っているかわからないって?
友よ、答えは風に舞っている。
風に吹かれて舞っている。
加羽沢美濃(ピアノ)
<DENON>COCO-80811
学生時代、学部の後輩といっしょにフォーク・グループを組んでいたことがある。
と、言っても、ゆずだとかなんだとか、ストリートミュージシャンののりはしりを期待されるとちと困る。
トリオ・ザ・ポンチョス・ブラザースというグループ名からも明らかなように、フォークはフォークでも、元来のフォークミュージック(民俗音楽・民衆音楽)、とまではいかないが、そこから派生して60年代を席巻した、いわゆる社会的な意識の強いフォークソングを歌うことを目的として結成されたグループで、実際、レパートリーもウィ・シャル・オーバー・カムだとかダウン・バイ・ザ・リバーサイド、風に吹かれてだとか戦争の親玉、受験生ブルースだとか自衛隊に入ろうといった、今から20年近く前のこととしても、いささか時代遅れの感は否めないものだった。
まあ、それでも、なんとか集会だのなんとかチャリティーの集いだのに呼ばれたりして、あちらの「いか焼けたよー!」の屋台のおばちゃんの声や、こちらの「お兄ちゃんがたたいたー!」の子供の声にもまれつつ、なんやかんやと歌っていたことは、今さらながら懐かしく思い出される。
で、今回取り上げる加羽沢美濃のピアノ・ピュア・シリーズ中の一枚、「MINO meets フォーク&ニューミュージック」は、そんなトリオ・ザ・ポンチョス・ブラザースの歌ったフォークソングとは対照的な、それこそ流行歌・ヒットナンバーと呼ぶに相応しい有名曲の数々を加羽沢さんがピアノソロにアレンジしたものである。
基本的には、耳なじみのよさが身上、聴き流しにもってこいのCDで、くだくだくどくどといちゃもんをつける必要はないんじゃないのかな、というのが僕の正直な感想だけど、曲の性格に合わせた加羽沢さんのアレンジの妙については一言付け加えておくべきかとも思った。
(個人的には、小坂明子の『あなた』や、杏里が歌った『オリビアを聴きながら』が気に入った。逆に『時代』は、中島みゆきというより薬師丸ひろ子的な雰囲気が濃厚だ)
そういえば、左翼の闘士としても知られた作曲家ポール・ジェフスキは、かつてダウン・バイ・ザ・リバーサイドをピアノ・ソロ用にアレンジしたが(マルク・アンドレ・アムランが弾いたハイペリオン盤を所有)、加羽沢さんにも受験生ブルースや自衛隊に入ろうを…。
いや、彼女にそれを期待するのはあまりにも酷というものだ。
つまるところ、よくも悪くも、そういうことなのである。
えっ、何を言っているかわからないって?
友よ、答えは風に舞っている。
風に吹かれて舞っている。
2009年03月07日
我を忘れた二人の男 リヒャルト・シュトラウスのドン・ファンとドン・キホーテ
☆リヒャルト・シュトラウス:ドン・ファン、ドン・キホーテ
フランツ・バルトロメイ(チェロ)
ハインリヒ・コル(ヴィオラ)
ライナー・キュッヒル(ヴァイオリン)
アンドレ・プレヴィン指揮
1990年、デジタル録音
<TELARC>CD-80262
我を忘れる。
と、いう言葉がある。
俺のものは俺のもの、他人のものも俺のもの、俺は俺様俺流イエイ、俺俺オーレオーレ俺イエイ! と、いつもかつも自分は自分、俺は俺と唯我独尊我が道を行く自同律の権化のような人間は、まさしく不快の極みで、落語の粗忽長屋のサゲよろしく、「死んでる俺は俺だけど、抱いてる俺は誰だろう」とたまにはあんたも自分自身を疑ってみなさいよと教え諭してみたくもなるけれど、それはそれ。
過ぎたるは及ばざるが如しの喩え通り、我を忘れることも度を過ぎると、これまたたいへん難儀なことになってしまう。
忘れた我を求めて、赤の他人に頼る、金に頼る、マリファナアヘンに頼る、はては神様や宇宙人、マルクス=レーニン主義に頼る。
もしくは我を忘れて、自分が自分でないもののように思い込む。
それでも、ラミパスラミパスルルルルルー、と鏡の前で呪文を唱えているうちはまだ可愛げもあるが、原始女は太陽だった私は卑弥呼よおほほほほ、だとか、我は征夷大将軍足利銀行なんめり、だとか、イエスウイキャンアイアムオボモ、だとか、あっそう朕はたらふく喰ってるぞ…。
やめておこう、我を忘れていた。
いずれにしても、我を忘れると自分ばかりか他人にも迷惑な話だ。
で、今回取り上げるCDは、我を忘れた二人の男に関する物語。
かたや我を忘れて女性遍歴を繰り返し、結果自滅してしまうドン・ファンと、こなた我を忘れて自分を偉大な騎士だと思い込み、騎行ならぬ奇行、ばかばっかを繰り返すドン・キホーテの、いずれも面白うてやがてかなしきなんとやら。
じゃない、リヒャルト・シュトラウスのドン・キホーテは少々勝手が違って、原作と同じく銀月の騎士が登場し、主人公が治ってしまうところがみそなんだけど、ここらあたりは山田由美子の『第三帝国のR・シュトラウス』<世界思想社>に詳しく記されているので、ぜひご一読のほどを。
(ちなみに、この著書は、これまでナチスの御用楽者とばかり思い込まれてきたリヒャルト・シュトラウスの抵抗者としての側面に強い光を当てていて、とても興味深い。リヒャルト・シュトラウスの愛好家を自認するならば、必読なんめり!)
さてと、演奏演奏。
ドン・ファンのほうは、ソフトでメロウなタッチの演奏で、いくぶんしまりのなさも感じない訳ではないが、その分ウィーン・フィルの音色の魅力やアンサンブルのあり様(よう)がよく伝わってくる仕上がりになっているとも思う。
てか、ミア・ファローやアンネ・ゾフィー・ムターといった女性たちを奪ってきた、というより、多分に彼女たちに圧されてきたとおぼしきアンドレ・プレヴィンという一人の人間の私小説的な演奏であり、そこがなんとも「おかかなしい」by色川武大。
(できれば、あのウッディ・アレンにもこの曲の指揮をしてもらいたいものだと思ったりなんかしちゃったりして)
一方、ドン・キホーテは、あざとさの感じられないナチュラルなタッチの演奏。
カラヤン流儀のこれでもかこれでもかという音楽づくりに慣れたむきには少々物足りなく感じられるかもしれないが、先述した『第三帝国のR・シュトラウス』でも指摘されている第二変奏の「羊の鳴き声」をはじめとした意地悪な仕掛けをふんだんに盛り込んだ作曲そのものに比して、さっぱりすっきり即物即物的な棒振りをよしとしたリヒャルト・シュトラウスなら、「これでいいんじゃないか」、と太鼓判ではなくとも、認印ぐらいは押すような気が、僕にはする。
それに、ここでもまたウィーン・フィルのアンサンブルは光っているし。
(そういえば、ドン・キホーテのソロはウィーン・フィルのメンバーが務めているんだった)
いずれにしても、ドン・ファンとドン・キホーテという二つの作品をCDで繰り返して聴くという意味ではまずもって問題のない演奏で、フルプライスでも大いにお薦めしたい一枚だ。
テラーク・レーベルだけあって、音質もおつりが出るほどクリアなものだしね。
ところで、僕はドン・キホーテの終曲あたりを聴きながら、ふと最近の仲代達矢のことを思い出した。
黒澤明の一連の名作を持ち出さずとも、仲代さんが日本を代表する屈指の名優であることは今さら口にすることでもあるまい。
あの迫真の演技、鬼気迫る表情。
でも、僕はこの人が舞台ではなく、映画やテレビドラマで見せる大柄で大仰で、心がこもり過ぎた演技に、始終息苦しさを感じてきたことも残念ながら事実なのだ。
加えて、仲代さんにそっくりな雰囲気、というより、そっくりな眼(まなこ)の持ち主がやたらと寄り集まった無名塾の同質性、没我性に対しても、なんとも言えない息苦しさを感じてきた。
ところが、最近NHKがらみで素の(素に近い)仲代さんの風貌容姿を観、言葉を聴く機会が増えて、ちょっとずつその印象が変わってきたのである。
単にまじめな俺まじめな俺まじめな俺だけではなく、ちょっと以上に滑稽な俺、が滲み出ているような。
何か心のおもしがとれてきたような。
むろん、そこは仲代達矢のことだから、死ぬまで役者の旗自体を降ろすことはないだろうけれど、よい意味で老いを加えた仲代さんの硬軟バランスとれた演技を、僕らはこれから観ることができるのではないか。
実に愉しみだ。
そうそう、役者って、我であるべき部分とそうでない部分とのバランスが…。
って、これはいったいなんの話だ。
しまった、ドン・ファンとドン・キホーテのCDレビューだったんだ。
ついうっかりして、またも我を忘れていた!
フランツ・バルトロメイ(チェロ)
ハインリヒ・コル(ヴィオラ)
ライナー・キュッヒル(ヴァイオリン)
アンドレ・プレヴィン指揮
1990年、デジタル録音
<TELARC>CD-80262
我を忘れる。
と、いう言葉がある。
俺のものは俺のもの、他人のものも俺のもの、俺は俺様俺流イエイ、俺俺オーレオーレ俺イエイ! と、いつもかつも自分は自分、俺は俺と唯我独尊我が道を行く自同律の権化のような人間は、まさしく不快の極みで、落語の粗忽長屋のサゲよろしく、「死んでる俺は俺だけど、抱いてる俺は誰だろう」とたまにはあんたも自分自身を疑ってみなさいよと教え諭してみたくもなるけれど、それはそれ。
過ぎたるは及ばざるが如しの喩え通り、我を忘れることも度を過ぎると、これまたたいへん難儀なことになってしまう。
忘れた我を求めて、赤の他人に頼る、金に頼る、マリファナアヘンに頼る、はては神様や宇宙人、マルクス=レーニン主義に頼る。
もしくは我を忘れて、自分が自分でないもののように思い込む。
それでも、ラミパスラミパスルルルルルー、と鏡の前で呪文を唱えているうちはまだ可愛げもあるが、原始女は太陽だった私は卑弥呼よおほほほほ、だとか、我は征夷大将軍足利銀行なんめり、だとか、イエスウイキャンアイアムオボモ、だとか、あっそう朕はたらふく喰ってるぞ…。
やめておこう、我を忘れていた。
いずれにしても、我を忘れると自分ばかりか他人にも迷惑な話だ。
で、今回取り上げるCDは、我を忘れた二人の男に関する物語。
かたや我を忘れて女性遍歴を繰り返し、結果自滅してしまうドン・ファンと、こなた我を忘れて自分を偉大な騎士だと思い込み、騎行ならぬ奇行、ばかばっかを繰り返すドン・キホーテの、いずれも面白うてやがてかなしきなんとやら。
じゃない、リヒャルト・シュトラウスのドン・キホーテは少々勝手が違って、原作と同じく銀月の騎士が登場し、主人公が治ってしまうところがみそなんだけど、ここらあたりは山田由美子の『第三帝国のR・シュトラウス』<世界思想社>に詳しく記されているので、ぜひご一読のほどを。
(ちなみに、この著書は、これまでナチスの御用楽者とばかり思い込まれてきたリヒャルト・シュトラウスの抵抗者としての側面に強い光を当てていて、とても興味深い。リヒャルト・シュトラウスの愛好家を自認するならば、必読なんめり!)
さてと、演奏演奏。
ドン・ファンのほうは、ソフトでメロウなタッチの演奏で、いくぶんしまりのなさも感じない訳ではないが、その分ウィーン・フィルの音色の魅力やアンサンブルのあり様(よう)がよく伝わってくる仕上がりになっているとも思う。
てか、ミア・ファローやアンネ・ゾフィー・ムターといった女性たちを奪ってきた、というより、多分に彼女たちに圧されてきたとおぼしきアンドレ・プレヴィンという一人の人間の私小説的な演奏であり、そこがなんとも「おかかなしい」by色川武大。
(できれば、あのウッディ・アレンにもこの曲の指揮をしてもらいたいものだと思ったりなんかしちゃったりして)
一方、ドン・キホーテは、あざとさの感じられないナチュラルなタッチの演奏。
カラヤン流儀のこれでもかこれでもかという音楽づくりに慣れたむきには少々物足りなく感じられるかもしれないが、先述した『第三帝国のR・シュトラウス』でも指摘されている第二変奏の「羊の鳴き声」をはじめとした意地悪な仕掛けをふんだんに盛り込んだ作曲そのものに比して、さっぱりすっきり即物即物的な棒振りをよしとしたリヒャルト・シュトラウスなら、「これでいいんじゃないか」、と太鼓判ではなくとも、認印ぐらいは押すような気が、僕にはする。
それに、ここでもまたウィーン・フィルのアンサンブルは光っているし。
(そういえば、ドン・キホーテのソロはウィーン・フィルのメンバーが務めているんだった)
いずれにしても、ドン・ファンとドン・キホーテという二つの作品をCDで繰り返して聴くという意味ではまずもって問題のない演奏で、フルプライスでも大いにお薦めしたい一枚だ。
テラーク・レーベルだけあって、音質もおつりが出るほどクリアなものだしね。
ところで、僕はドン・キホーテの終曲あたりを聴きながら、ふと最近の仲代達矢のことを思い出した。
黒澤明の一連の名作を持ち出さずとも、仲代さんが日本を代表する屈指の名優であることは今さら口にすることでもあるまい。
あの迫真の演技、鬼気迫る表情。
でも、僕はこの人が舞台ではなく、映画やテレビドラマで見せる大柄で大仰で、心がこもり過ぎた演技に、始終息苦しさを感じてきたことも残念ながら事実なのだ。
加えて、仲代さんにそっくりな雰囲気、というより、そっくりな眼(まなこ)の持ち主がやたらと寄り集まった無名塾の同質性、没我性に対しても、なんとも言えない息苦しさを感じてきた。
ところが、最近NHKがらみで素の(素に近い)仲代さんの風貌容姿を観、言葉を聴く機会が増えて、ちょっとずつその印象が変わってきたのである。
単にまじめな俺まじめな俺まじめな俺だけではなく、ちょっと以上に滑稽な俺、が滲み出ているような。
何か心のおもしがとれてきたような。
むろん、そこは仲代達矢のことだから、死ぬまで役者の旗自体を降ろすことはないだろうけれど、よい意味で老いを加えた仲代さんの硬軟バランスとれた演技を、僕らはこれから観ることができるのではないか。
実に愉しみだ。
そうそう、役者って、我であるべき部分とそうでない部分とのバランスが…。
って、これはいったいなんの話だ。
しまった、ドン・ファンとドン・キホーテのCDレビューだったんだ。
ついうっかりして、またも我を忘れていた!
2009年03月06日
ただより嬉しいものはない!(ヴェーグのモーツァルト2)
☆モーツァルト:ディヴェルティメント第15番、第7番
シャーンドル・ヴェーグ指揮CAMS
1988年、デジタル録音
<CAPRICCIO>10 271
ただより高いものはない。
と、言うけれど、経済状況厳しい折、やっぱりただより嬉しいものはない!
例えば、ドラッグストアでもってけドロボー、じゃないもってってお客さん的に置かれている試供品の栄養ドリンク、ちっちゃなねり歯磨きエトセトラエトセトラ。
例えば、書店のレジ下に山積みされている出版社発行の小雑誌や、ぴあステーションのカウンター脇に山積みにされている『ぶらあぼ』。
そして、京都は寺町通にある中古CDショップ、Avisで、傷が入っているからエラーが出るかもしれないので「0円」のシールが貼ってあるクラシック音楽の中古のCD。
で、Avisではこれまでも、カラヤン&ベルリン・フィルの演奏したリヒャルト・シュトラウスのツァラトゥストラはかく語りきとドン・ファン、シャーンドル・ヴェーグ&カメラータ・アカデミカ・デス・モーツァルテウムス・ザルツブルク(以下、CAMSと略)の演奏したモーツァルトのカッサシオン第1番と第2番をありがたくちょうだいしてきたけれど、今回取り上げるCDはその第三弾で、前回と同じくシャーンドル・ヴェーグの指揮した一連のモーツァルト・シリーズのこちらは第5集、ディヴェルティメント第15番と第7番が収められた一枚である。
(ちなみに、これまでの2枚同様、今回のCDにエラーは起こらず全く無問題=モーマンタイ。ありがとうございます!)
すでにシャーンドル・ヴェーグ&CAMSに関しては、以前のCDレビューである程度詳しく触れているので、ここでは省略。
前回のCDではアンサンブルの粗さを云々かんぬんしたが、弦楽器とホルンを中心にした編成の作品ということもあってか、今回はその点でそれほど不満を感じることはなかった。
いわゆるオーソドックスな解釈のモーツァルトで、特に第15番のアダージョなどではロマンティックで濃密な雰囲気がたっぷりとかもし出されている。
ただし、重ったるくてべとべとの演奏かというとそうではなくて、硬からず柔らかからずの、バランスが巧くとれた演奏になっていると思う。
また、音楽的に均質というか、音楽的なまとまりのよくとれたアンサンブルそのものの魅力をたっぷりと愉しむことのできる演奏に仕上がっているとも思う。
ピリオド・スタイルのモーツァルト演奏でないと物足りないという方以外には、安心してお薦めできる一枚だ。
聴いていて、全く疲れないモーツァルトですよ。
それにしても、やっぱりただより嬉しいものはない!
シャーンドル・ヴェーグ指揮CAMS
1988年、デジタル録音
<CAPRICCIO>10 271
ただより高いものはない。
と、言うけれど、経済状況厳しい折、やっぱりただより嬉しいものはない!
例えば、ドラッグストアでもってけドロボー、じゃないもってってお客さん的に置かれている試供品の栄養ドリンク、ちっちゃなねり歯磨きエトセトラエトセトラ。
例えば、書店のレジ下に山積みされている出版社発行の小雑誌や、ぴあステーションのカウンター脇に山積みにされている『ぶらあぼ』。
そして、京都は寺町通にある中古CDショップ、Avisで、傷が入っているからエラーが出るかもしれないので「0円」のシールが貼ってあるクラシック音楽の中古のCD。
で、Avisではこれまでも、カラヤン&ベルリン・フィルの演奏したリヒャルト・シュトラウスのツァラトゥストラはかく語りきとドン・ファン、シャーンドル・ヴェーグ&カメラータ・アカデミカ・デス・モーツァルテウムス・ザルツブルク(以下、CAMSと略)の演奏したモーツァルトのカッサシオン第1番と第2番をありがたくちょうだいしてきたけれど、今回取り上げるCDはその第三弾で、前回と同じくシャーンドル・ヴェーグの指揮した一連のモーツァルト・シリーズのこちらは第5集、ディヴェルティメント第15番と第7番が収められた一枚である。
(ちなみに、これまでの2枚同様、今回のCDにエラーは起こらず全く無問題=モーマンタイ。ありがとうございます!)
すでにシャーンドル・ヴェーグ&CAMSに関しては、以前のCDレビューである程度詳しく触れているので、ここでは省略。
前回のCDではアンサンブルの粗さを云々かんぬんしたが、弦楽器とホルンを中心にした編成の作品ということもあってか、今回はその点でそれほど不満を感じることはなかった。
いわゆるオーソドックスな解釈のモーツァルトで、特に第15番のアダージョなどではロマンティックで濃密な雰囲気がたっぷりとかもし出されている。
ただし、重ったるくてべとべとの演奏かというとそうではなくて、硬からず柔らかからずの、バランスが巧くとれた演奏になっていると思う。
また、音楽的に均質というか、音楽的なまとまりのよくとれたアンサンブルそのものの魅力をたっぷりと愉しむことのできる演奏に仕上がっているとも思う。
ピリオド・スタイルのモーツァルト演奏でないと物足りないという方以外には、安心してお薦めできる一枚だ。
聴いていて、全く疲れないモーツァルトですよ。
それにしても、やっぱりただより嬉しいものはない!
2009年02月28日
ボニーが歌ったオペレッタ・アルバム
☆オペレッタ・アルバム
バーバラ・ボニー(ソプラノ)
ロナルド・シュナイダー(ピアノ)
2002年、デジタル録音
<DECCA>473 473-2
あとから来たのに追い越され、泣くのがいやならさあ歩け。
という、高度経済成長期根性丸出しの言葉は、おなじみ『水戸黄門』の主題歌「ああ人生に涙あり」の一節だ。
と、言って、なにも藍川由美が歌った木下忠司作品集のレビューをここで始めようというわけじゃない。
これはいわゆる話のマクラのマクラ、序の口序の入りである。
で、この一節をよくよく考えてみれば、追われる側もそうだけど、あとから歩いている側も先行く者を追い越そうと必死ということで、これまた相当大変ということになる。
そういえば、大塚愛がデビューしたときは、なんだこのaikoのばったもんはと鼻白み、aikoが異性との恋や愛を歌いながら同性に目を向けているのに比べて、大塚愛(を売ろうとする側)が同性に目を向けたふりをしながらちらちらと異性に視線をやっているように見えて仕方のない大人の男のやり口をやっていることにうんざりしたものだけれど、その後彼女がなんとか自分の位置を保とうと歌番組であくせくばたつく姿を観るに及んで、ああ、この子も頑張っているんだなあと後行者の苦しみを覚えるようになった。
(意識無意識は別にして、人としての計算がよく働いているのは、明らかにaikoのほうだろう、たぶん、きっと)
その点、先行者と後行者の関係は厳然とあったとしても、また詰める革袋は似通ったものだったとしても、本来の個性の違いが明瞭でありさえすれば、逃げ切るだの、追い越すだのとはなから争う必要はない。
ルチア・ポップとバーバラ・ボニーとの関係は、そのよい見本ではないか。
確かに、透明感のある声質の持ったソプラノ歌手という意味で、両者は共通していて、実際今回取り上げるオペレッタ・アルバムをはじめ、ボニー(を売ろうとする側)がルチア・ポップを意識したとおぼしきCDを少なからず録音していることは事実である。
けれど、かなたルチア・ポップは磨かれてなめされたような声が特徴だし、こなたバーバラ・ボニーはどちらかといえばナチュラルで柔らかな歌い口が魅力の歌手であって、どちらが上でどちらが下だなどと取り立てて軍配を挙げる必要もないだろう。
それこそ、なすにまかせよ、ではなく好みにまかせよだ。
さて、このバーバラ・ボニーのオペレッタ・アルバムだけど。
正直言って、21世紀に入ってからのボニーの声の衰えは残念ながらいかんともし難い。
むろん、凡百の歌い手たちに比較すれば、まだまだ澄んで伸びる歌声を披歴しているのだが、いかんせん若い頃の彼女の歌声を承知している分(僕は、CDばかりでなく、ジョン・エリオット・ガーディナーとハンブルク北ドイツ放送交響楽団のマーラーの交響曲第4番で、生の彼女の歌声に接しているのだ)、高音部その他、一層辛く感じられてしまうのである。
それでも、『メリー・ウィドウ』のヴィリアの歌(トラック14)や、リート調の同じくレハールの「野ばら」(トラック15)、ツェラーの「桜の花の咲いた頃」(トラック6)などでは、彼女の声や歌唱の魅力を存分に味わえるし、おなじみアンネン・ポルカの旋律にのせたヨハン・シュトラウスの「ほろ酔い気分」(トラック8)では、とうのたち具合の面白さを愉しむことができるので、購入してよかったとは思っているが。
それでも、このアルバムが少なくとも3、4年は早く録音されていればという想いはどうしても消えない。
それにしても。
歩き続けようが、立ち止まろうが、生ある者は必ず老い、そして死んでいくのだ。
ピアノ伴奏によるこのアルバムを聴いていると、一見華美で賑やかに見えるオペレッタの世界の裏には、そうした人生への哀感や諦念が詰まっているような気がして、僕には仕方がない。
バーバラ・ボニー(ソプラノ)
ロナルド・シュナイダー(ピアノ)
2002年、デジタル録音
<DECCA>473 473-2
あとから来たのに追い越され、泣くのがいやならさあ歩け。
という、高度経済成長期根性丸出しの言葉は、おなじみ『水戸黄門』の主題歌「ああ人生に涙あり」の一節だ。
と、言って、なにも藍川由美が歌った木下忠司作品集のレビューをここで始めようというわけじゃない。
これはいわゆる話のマクラのマクラ、序の口序の入りである。
で、この一節をよくよく考えてみれば、追われる側もそうだけど、あとから歩いている側も先行く者を追い越そうと必死ということで、これまた相当大変ということになる。
そういえば、大塚愛がデビューしたときは、なんだこのaikoのばったもんはと鼻白み、aikoが異性との恋や愛を歌いながら同性に目を向けているのに比べて、大塚愛(を売ろうとする側)が同性に目を向けたふりをしながらちらちらと異性に視線をやっているように見えて仕方のない大人の男のやり口をやっていることにうんざりしたものだけれど、その後彼女がなんとか自分の位置を保とうと歌番組であくせくばたつく姿を観るに及んで、ああ、この子も頑張っているんだなあと後行者の苦しみを覚えるようになった。
(意識無意識は別にして、人としての計算がよく働いているのは、明らかにaikoのほうだろう、たぶん、きっと)
その点、先行者と後行者の関係は厳然とあったとしても、また詰める革袋は似通ったものだったとしても、本来の個性の違いが明瞭でありさえすれば、逃げ切るだの、追い越すだのとはなから争う必要はない。
ルチア・ポップとバーバラ・ボニーとの関係は、そのよい見本ではないか。
確かに、透明感のある声質の持ったソプラノ歌手という意味で、両者は共通していて、実際今回取り上げるオペレッタ・アルバムをはじめ、ボニー(を売ろうとする側)がルチア・ポップを意識したとおぼしきCDを少なからず録音していることは事実である。
けれど、かなたルチア・ポップは磨かれてなめされたような声が特徴だし、こなたバーバラ・ボニーはどちらかといえばナチュラルで柔らかな歌い口が魅力の歌手であって、どちらが上でどちらが下だなどと取り立てて軍配を挙げる必要もないだろう。
それこそ、なすにまかせよ、ではなく好みにまかせよだ。
さて、このバーバラ・ボニーのオペレッタ・アルバムだけど。
正直言って、21世紀に入ってからのボニーの声の衰えは残念ながらいかんともし難い。
むろん、凡百の歌い手たちに比較すれば、まだまだ澄んで伸びる歌声を披歴しているのだが、いかんせん若い頃の彼女の歌声を承知している分(僕は、CDばかりでなく、ジョン・エリオット・ガーディナーとハンブルク北ドイツ放送交響楽団のマーラーの交響曲第4番で、生の彼女の歌声に接しているのだ)、高音部その他、一層辛く感じられてしまうのである。
それでも、『メリー・ウィドウ』のヴィリアの歌(トラック14)や、リート調の同じくレハールの「野ばら」(トラック15)、ツェラーの「桜の花の咲いた頃」(トラック6)などでは、彼女の声や歌唱の魅力を存分に味わえるし、おなじみアンネン・ポルカの旋律にのせたヨハン・シュトラウスの「ほろ酔い気分」(トラック8)では、とうのたち具合の面白さを愉しむことができるので、購入してよかったとは思っているが。
それでも、このアルバムが少なくとも3、4年は早く録音されていればという想いはどうしても消えない。
それにしても。
歩き続けようが、立ち止まろうが、生ある者は必ず老い、そして死んでいくのだ。
ピアノ伴奏によるこのアルバムを聴いていると、一見華美で賑やかに見えるオペレッタの世界の裏には、そうした人生への哀感や諦念が詰まっているような気がして、僕には仕方がない。
アルテミス・カルテットのドヴォルザークとヤナーチェク
☆ドヴォルザーク&ヤナーチェク:弦楽4重奏曲集
アルテミス・カルテット
2003、04年、デジタル録音
<VIRGIN>0946 353399 2 5
ADOMIRATION(称賛)とは、他人が自分に似ていることを馬鹿ていねいに評価すること、とは、町田康の『夫婦茶碗』の解説で筒井康隆が記した言葉、ではなく、引用したビアスの『悪魔の辞典』中の一項目だが、アルテミス・カルテットの演奏したドヴォルザークの弦楽4重奏曲第13番を聴きながら、僕はふとそのことを思い出した。
もちろん、他人が自分に似ているからといって、誰もが相手を称賛するわけではない。
あまりに似すぎていて近親憎悪が発生、というケースはざらにあるし、場合によっては、彼と我との類似をたびたび指摘されても、「そんなバナナ」などと本気で応える無意識過剰の人間だって中にはいないともかぎらない。
結局、似たものそっくりさんを称賛できるというのは、相手に対する尊敬の念か優越感のどちらか、もしくはその両方が、意識無意識に称賛する側の人間に存在するのではないか。
果たして、ブラームスがドヴォルザークを高く評価した大きな理由というのは、そのうちのいずれに当てはまるのだろう。
もしかしたらブラームスは、ドヴォルザークの似ている部分ばかりではなく、似て非なるところにも充分目をやっていたのかもしれないが。
けれど、このアルテミス・カルテットの演奏を聴けば、やっぱりドヴォルザークってブラームスの影響が大きいんだなとは思ってしまう。
ただし、だからと言って、僕はドヴォルザークの弦楽4重奏曲第13番がブラームスの亜流、エピゴーネンなどと評するつもりは毛頭ない。
それどころか、有名な第12番「アメリカ」に比してポピュラリティには欠けるものの、この作品にも、いわゆるボヘミアの郷愁を想起させる美しくてノスタルジーに富んだメロディや、ドヴォルザークの粘っこくてどろどろとした性質気質がそこここにうかがえる。
それに、先行者であるアルバン・ベルク・カルテットの技と覇気、ハーゲン・カルテットの技と鬼気に対して、技と熱気のアルテミス・カルテットだけに、それこそ切れば血が噴き出るような演奏に仕上がっているとも思う。
だが、それでもなお、作品の構成や骨格の確かさがはっきりと示されていることに間違いはなく、僕はそこに先述したようなブラームスとの関係性を強く感じてしまうのだ。
(もう一ついえば、内面の粘っこいものやどろどろとしたものもまた、実はブラームスと相通じ合うものではないかと僕は思ったりもするが)
一方、ヤナーチェクの弦楽4重奏曲第2番「ないしょの手紙」は、老いた作曲家のどうにもならない感情が音楽としてしたためられた作品だが、アルテミス・カルテットはそうした作品の持つ情熱や若さを力一杯表現しきっている。
ドヴォルザーク同様、これまた民族性や民俗性を求めるむきには喰い足りなさや味気なさが残るかもしれないが、個人的には音楽の普遍的な本質をとらえた充分十二分に納得のいく演奏だと思う。
いずれにしても、弦楽4重奏曲好き、室内楽好きには大いに推薦したい。
って、僕とアルテミス・カルテットの造り出した音楽って、どこか似ているんだろうか?
アルテミス・カルテット
2003、04年、デジタル録音
<VIRGIN>0946 353399 2 5
ADOMIRATION(称賛)とは、他人が自分に似ていることを馬鹿ていねいに評価すること、とは、町田康の『夫婦茶碗』の解説で筒井康隆が記した言葉、ではなく、引用したビアスの『悪魔の辞典』中の一項目だが、アルテミス・カルテットの演奏したドヴォルザークの弦楽4重奏曲第13番を聴きながら、僕はふとそのことを思い出した。
もちろん、他人が自分に似ているからといって、誰もが相手を称賛するわけではない。
あまりに似すぎていて近親憎悪が発生、というケースはざらにあるし、場合によっては、彼と我との類似をたびたび指摘されても、「そんなバナナ」などと本気で応える無意識過剰の人間だって中にはいないともかぎらない。
結局、似たものそっくりさんを称賛できるというのは、相手に対する尊敬の念か優越感のどちらか、もしくはその両方が、意識無意識に称賛する側の人間に存在するのではないか。
果たして、ブラームスがドヴォルザークを高く評価した大きな理由というのは、そのうちのいずれに当てはまるのだろう。
もしかしたらブラームスは、ドヴォルザークの似ている部分ばかりではなく、似て非なるところにも充分目をやっていたのかもしれないが。
けれど、このアルテミス・カルテットの演奏を聴けば、やっぱりドヴォルザークってブラームスの影響が大きいんだなとは思ってしまう。
ただし、だからと言って、僕はドヴォルザークの弦楽4重奏曲第13番がブラームスの亜流、エピゴーネンなどと評するつもりは毛頭ない。
それどころか、有名な第12番「アメリカ」に比してポピュラリティには欠けるものの、この作品にも、いわゆるボヘミアの郷愁を想起させる美しくてノスタルジーに富んだメロディや、ドヴォルザークの粘っこくてどろどろとした性質気質がそこここにうかがえる。
それに、先行者であるアルバン・ベルク・カルテットの技と覇気、ハーゲン・カルテットの技と鬼気に対して、技と熱気のアルテミス・カルテットだけに、それこそ切れば血が噴き出るような演奏に仕上がっているとも思う。
だが、それでもなお、作品の構成や骨格の確かさがはっきりと示されていることに間違いはなく、僕はそこに先述したようなブラームスとの関係性を強く感じてしまうのだ。
(もう一ついえば、内面の粘っこいものやどろどろとしたものもまた、実はブラームスと相通じ合うものではないかと僕は思ったりもするが)
一方、ヤナーチェクの弦楽4重奏曲第2番「ないしょの手紙」は、老いた作曲家のどうにもならない感情が音楽としてしたためられた作品だが、アルテミス・カルテットはそうした作品の持つ情熱や若さを力一杯表現しきっている。
ドヴォルザーク同様、これまた民族性や民俗性を求めるむきには喰い足りなさや味気なさが残るかもしれないが、個人的には音楽の普遍的な本質をとらえた充分十二分に納得のいく演奏だと思う。
いずれにしても、弦楽4重奏曲好き、室内楽好きには大いに推薦したい。
って、僕とアルテミス・カルテットの造り出した音楽って、どこか似ているんだろうか?
2009年02月27日
実に音楽的なベルリオーズの序曲集
☆ベルリオーズ:序曲集
コリン・デイヴィス指揮ザクセン・シュターツカペレ・ドレスデン
1997年、デジタル録音
<RCA>09026-68790-2
ドイツ文学者で、音楽評論家としても知られる岩下眞好の熱烈な賞賛と熱心な支持にもかかわらず、この国におけるコリン・デイヴィスという指揮者の評価は、今一つ高まらない。
もちろん、クラシック音楽好き、特にオーケストラ音楽好きの人間ならば、ベルリオーズやシベリウスのスペシャリストとしてのコリン・デイヴィスの名前は一応記憶にあるはずで、最近のリストラ策でメジャー・レーベルからの新譜リリースはぱったり絶えてしまったけれど、現在でもロンドン交響楽団やザクセン・シュターツカペレ・ドレスデンとのライヴ録音は定期的に発売されている。
それでも、あれやこれやの巨匠連と肩を並べるにいたっていないのは、もしかしたら、まさしくジェントルオメという言葉がぴったりと合うそのイギリス紳士的な風貌が災いしているのではないかとついつい思ってしまいたくなる。
僕自身は、バイエルン放送交響楽団と録音したベートーヴェンの交響曲第9番だけはしっくりとこなかったものの、大阪のザ・シンフォニーホールとケルンのフィルハーモニーで聴いたザクセン・シュターツカペレ・ドレスデンとのコンサートや、ウィーン国立歌劇場で観聴きしたモーツァルトの『クレタの王イドメネオ』という、都合三度の実演全てにおいて、「よい音楽に接することができた」と大いに満足することができた。
中でも、ブラームスの交響曲を中心とした二回のコンサートは、軽重のバランスのよくとれたザクセン・シュターツカペレ・ドレスデンの魅力も加味されて、よい意味で安定感抜群の内容だったし、ワーグナーばりのジークフリート・イェルザレムの気張ったタイトルロールには辟易したとはいえ、『イドメネオ』も、コリン・デイヴィスの劇場感覚と音楽把握の確かさが存分に示された公演だったように覚えている。
今回取り上げるベルリオーズの序曲集も、先述したようなコリン・デイヴィスとザクセン・シュターツカペレ・ドレスデンとののコンビネーションのよさが十二分に発揮された録音となっているのではないだろうか。
このCDには、有名なローマの謝肉祭とちょっと有名な海賊のほか、宗教裁判官、ウェーヴァリー、リア王、『ベアトリスとベネディクト』、『ベンヴェヌート・チェッリーニ』の計8曲の序曲が収められているが、音楽そのものはどれをとっても同工異曲、というか、ベルリオーズの音楽に対する根源的発想のヴァリエーションで、よくも悪くも極端には変わり映えがするものではない。
ただ、そうした作品全てに通底するベルリオーズの個性や劇性を適切に押さえつつも、コリン・デイヴィスは個々の作品の性質の違いや、一個の作品内の表情の変化を巧みに描き分けていると評することができる。
また、例えばピリオド・スタイルの雄、ロジャー・ノリントンとその手兵ロンドン・クラシカル・プレイヤーズの演奏した宗教裁判官の録音を聴けば、ピリオド楽器のすっきりとした響きの中からベルリオーズの持つ毒っ気のようなものが滲み出てくるように感じられるのに比して、コリン・デイヴィスのアルバムでは、ベルリオーズのクラシック性(古典派的、と記すよりも、あえてこういう言葉を使ってみたくなる)がよりはっきりと表れているように思える。
そして、そこに、音色という意味でも、アンサンブルという意味でも非常に「音楽的」なザクセン・シュターツカペレ・ドレスデンの存在が大きく貢献していることは、改めて言うまでもあるまい。
ベルリオーズの序曲を繰り返して愉しみたいという方には、フルプライスでも安心してお薦めできる一枚である。
そうそう、このCDの最大のネックは、RCAレーベルのつくり物めいてざらついた録音だと、僕は考える。
個人的には、聴いているうちにだいぶん慣れてきたけれど、それでも、ぺらくてざらくて薄い音だなという印象はどうしても払拭しきれていない。
ライナーやミュンシュの古いステレオ録音から、マイケル・ティルソン・トーマスの新しい録音にいたるまで、概してRCAレーベルの音質には親しみが持てないでいるが、せっかくソニー・クラシカルといっしょになったのだから、そろそろ悪しき伝統から脱却してはもらえないものか。
コリン・デイヴィス指揮ザクセン・シュターツカペレ・ドレスデン
1997年、デジタル録音
<RCA>09026-68790-2
ドイツ文学者で、音楽評論家としても知られる岩下眞好の熱烈な賞賛と熱心な支持にもかかわらず、この国におけるコリン・デイヴィスという指揮者の評価は、今一つ高まらない。
もちろん、クラシック音楽好き、特にオーケストラ音楽好きの人間ならば、ベルリオーズやシベリウスのスペシャリストとしてのコリン・デイヴィスの名前は一応記憶にあるはずで、最近のリストラ策でメジャー・レーベルからの新譜リリースはぱったり絶えてしまったけれど、現在でもロンドン交響楽団やザクセン・シュターツカペレ・ドレスデンとのライヴ録音は定期的に発売されている。
それでも、あれやこれやの巨匠連と肩を並べるにいたっていないのは、もしかしたら、まさしくジェントルオメという言葉がぴったりと合うそのイギリス紳士的な風貌が災いしているのではないかとついつい思ってしまいたくなる。
僕自身は、バイエルン放送交響楽団と録音したベートーヴェンの交響曲第9番だけはしっくりとこなかったものの、大阪のザ・シンフォニーホールとケルンのフィルハーモニーで聴いたザクセン・シュターツカペレ・ドレスデンとのコンサートや、ウィーン国立歌劇場で観聴きしたモーツァルトの『クレタの王イドメネオ』という、都合三度の実演全てにおいて、「よい音楽に接することができた」と大いに満足することができた。
中でも、ブラームスの交響曲を中心とした二回のコンサートは、軽重のバランスのよくとれたザクセン・シュターツカペレ・ドレスデンの魅力も加味されて、よい意味で安定感抜群の内容だったし、ワーグナーばりのジークフリート・イェルザレムの気張ったタイトルロールには辟易したとはいえ、『イドメネオ』も、コリン・デイヴィスの劇場感覚と音楽把握の確かさが存分に示された公演だったように覚えている。
今回取り上げるベルリオーズの序曲集も、先述したようなコリン・デイヴィスとザクセン・シュターツカペレ・ドレスデンとののコンビネーションのよさが十二分に発揮された録音となっているのではないだろうか。
このCDには、有名なローマの謝肉祭とちょっと有名な海賊のほか、宗教裁判官、ウェーヴァリー、リア王、『ベアトリスとベネディクト』、『ベンヴェヌート・チェッリーニ』の計8曲の序曲が収められているが、音楽そのものはどれをとっても同工異曲、というか、ベルリオーズの音楽に対する根源的発想のヴァリエーションで、よくも悪くも極端には変わり映えがするものではない。
ただ、そうした作品全てに通底するベルリオーズの個性や劇性を適切に押さえつつも、コリン・デイヴィスは個々の作品の性質の違いや、一個の作品内の表情の変化を巧みに描き分けていると評することができる。
また、例えばピリオド・スタイルの雄、ロジャー・ノリントンとその手兵ロンドン・クラシカル・プレイヤーズの演奏した宗教裁判官の録音を聴けば、ピリオド楽器のすっきりとした響きの中からベルリオーズの持つ毒っ気のようなものが滲み出てくるように感じられるのに比して、コリン・デイヴィスのアルバムでは、ベルリオーズのクラシック性(古典派的、と記すよりも、あえてこういう言葉を使ってみたくなる)がよりはっきりと表れているように思える。
そして、そこに、音色という意味でも、アンサンブルという意味でも非常に「音楽的」なザクセン・シュターツカペレ・ドレスデンの存在が大きく貢献していることは、改めて言うまでもあるまい。
ベルリオーズの序曲を繰り返して愉しみたいという方には、フルプライスでも安心してお薦めできる一枚である。
そうそう、このCDの最大のネックは、RCAレーベルのつくり物めいてざらついた録音だと、僕は考える。
個人的には、聴いているうちにだいぶん慣れてきたけれど、それでも、ぺらくてざらくて薄い音だなという印象はどうしても払拭しきれていない。
ライナーやミュンシュの古いステレオ録音から、マイケル・ティルソン・トーマスの新しい録音にいたるまで、概してRCAレーベルの音質には親しみが持てないでいるが、せっかくソニー・クラシカルといっしょになったのだから、そろそろ悪しき伝統から脱却してはもらえないものか。
2009年02月21日
ピリオド・スタイルのムローヴァ
☆モーツァルト:ヴァイオリン協奏曲第3番、第4番、第1番
ヴィクトリア・ムローヴァ(ヴァイオリン、指揮)
エイジ・オブ・エンライトゥンメント管弦楽団
2001年、デジタル録音
<PHILIPS>470 292-2
マルコン&ヴェニス・バロック・オーケストラやアントニーニ&イル・ジャルディーノ・アルモニコとの競演など一路ピリオド路線をひた走る最近のヴィクトリア・ムローヴァだが、今回取り上げるモーツァルトのヴァイオリン協奏曲集は、そうしたムローヴァのピリオド路線のはしりとなった一枚と言えるだろう。
いわゆるオーソドックスな楽曲解釈に添った部分がない訳ではないし、時折モーツァルトの音楽の持つ「いびつ」さが聴き受けられる部分がない訳でもないが、基本的には線が鋭くて流れのよいムローヴァのソロと、エイジ・オブ・エンライトゥンメント管弦楽団の達者な伴奏とで、耳馴染みのよい演奏になっていると思う。
僕自身は、ジュージヤ三条本店のセールで、税込999円で入手することができたが、ピリオド楽器やピリオド・スタイルの演奏に違和感を持たれない方には、フルプライス2000円程度でもお薦めできる一枚だ。
ヴィクトリア・ムローヴァ(ヴァイオリン、指揮)
エイジ・オブ・エンライトゥンメント管弦楽団
2001年、デジタル録音
<PHILIPS>470 292-2
マルコン&ヴェニス・バロック・オーケストラやアントニーニ&イル・ジャルディーノ・アルモニコとの競演など一路ピリオド路線をひた走る最近のヴィクトリア・ムローヴァだが、今回取り上げるモーツァルトのヴァイオリン協奏曲集は、そうしたムローヴァのピリオド路線のはしりとなった一枚と言えるだろう。
いわゆるオーソドックスな楽曲解釈に添った部分がない訳ではないし、時折モーツァルトの音楽の持つ「いびつ」さが聴き受けられる部分がない訳でもないが、基本的には線が鋭くて流れのよいムローヴァのソロと、エイジ・オブ・エンライトゥンメント管弦楽団の達者な伴奏とで、耳馴染みのよい演奏になっていると思う。
僕自身は、ジュージヤ三条本店のセールで、税込999円で入手することができたが、ピリオド楽器やピリオド・スタイルの演奏に違和感を持たれない方には、フルプライス2000円程度でもお薦めできる一枚だ。
2009年02月08日
粗忽の試聴者
☆ボッケリーニ:弦楽5重奏曲集作品番号27(6曲)
ラ・マニフィカ・コムニタ
2007年、デジタル録音
<BRILLIANT>93774
ええ、毎度の馬鹿馬鹿しいおはなしでございまして。
往来で大声を出す方がございますが、あれは迷惑でございますな。
酒に酔ってくだをまいてる奴も困りものですが、自分の話に酔って大声を出している奴もはた迷惑極まりないもので、位相がどうしたとか、チェホフがこうしたとか、演劇人ぶりもはなはだしい。しまいには、自分の出ている芝居の演技までしだすんだから、これは相当なきちがいで。
まあ、往来で黙って音楽を聴いてる分には、まだ罪もないものでしょうな。
「十字屋さんの番頭さん、こんちは」
「ああ、びっくりしたこりゃはっつあんじゃないか」
「ほらね、そんな風にヘッドフォン耳にして歩いてるからあたしのこと気がつかないんですよ」
「確かに、そりゃそうだけど、今聴いてる録音がなかなかいいもんだからさ」
「へえ、いい録音、どんな録音なんです」
「うん、ボッケリーニのね」
「えっ、番頭さんそんなもの聴いてるの。悪い人だね、黒シャツ着て大騒ぎしないで下さいよ」
「そりゃ、ムッソリーニだろ、あたしの聴いてるのはボッケリーニの」
「あたし、岩井志麻子の小説嫌いなんです」
「そりゃ、ぼっけえきょうていじゃなかったっけ。だから、これはボッケリーニ」
「ああ、ボッケリーニ。あなたの頭もボッケリーニ」
「呆けてんのは、はっつあんの頭のほうじゃないか」
「あっはっはあっはっは」
「だめだよ、横溝正史みたいな笑い方でごまかしても」
「へへ、ボッケリーニっていやミヌエットで有名でしょ」
「そうそう、ボッケリーニっていやミヌエットで、弦楽5重奏曲の中の一楽章だけど、これはおんなじ弦楽5重奏曲のCD録音でも、作品番号27の6曲を収めたものなんだよ」
「ははあ、弦楽5重奏曲が6曲っていや、相当な時間になりましょう」
「ううん、全部2楽章形式だから、全部で半時、一時間とちょっとかな」
「へえ、で、演奏してるのは」
「ラ・マニフィカ・コムニタ」
「アンニョンハシムニタ」
「違うよ、ラ・マニフィカ・コムニタって、イタリアのピリオド楽器アンサンブル」
「へえ、イタリアの。やっぱり黒シャツ着て」
「着るわけないよ」
「で、どんな感じの演奏なんですかい」
「そうだねえ、ピリオド楽器っていうと、よくいえば情熱的、悪くいえば騒いでなんぼの演奏が多かったけど、これは結構落ち着いた演奏かなあ。とびきりの腕っこきってわけではなさそうだけど、こうやって繰り返し音楽を愉しむ分には悪くないと思うけど」
「なら、相当なお値段がするんじゃないですか」
「ううん、これ一枚でたったの680円」
「えっ680円!」
「そう680円」
「そりゃ安いや。ねえ番頭さん、ちょっとあたしにも確かめさせてもらえませんかね」
「ああ、いいよ、はい」
「こらどうも。おっ、これはしっとりとしてなかなかいい音楽じゃないですか。部屋で音楽聴いてるみたいにくつろげそうだ」
「って、往来で座り込んじゃだめじゃないか。スキップスキップ」
「スキップスキップらんらんらん」
「あんたがスキップするんじゃないよ、機械をスキップさせるの」
「ああ、機械ね。よいしょっと。今度はトラック8でも聴いてみましょうか。おんや、これはなあんかハイドンのチェロ協奏曲みたいな雰囲気ですねえ」
「まあね、ボッケリーニもハイドンと同世代人だからねえ。ついでに、トラック10も聴いてごらんよ」
「トラック10っと。おっ、こっちはハイドンとモーツァルトのあいのこみたいに軽やかでチャーミングな曲だ」
>牛車がとおおるぞお、牛車がとおおるぞお<
「はっつあん、危ないよ牛車が通るって言ってるよ」
「ああ、ふげふげふがほげふげふげふがほげってリズムが面白い」
>牛車がとおおるぞお、牛車がとおおるぞお<
「危ないよはっつあん、危ないってば」
「ふげふげふがほげふげふげふがほげ」
>とおおるぞお!<
「あいててて」
「ほら、言わこっちゃない転んじゃったじゃないか、はっつあん大丈夫かい」
「えっ、あたしのこと心配してくれてんだ」
「当たり前じゃないか」
「ああよかった、やっぱりもろこしだった」
「何言ってんだよ。ほんと、注意しなくちゃだめだよ、往来なんだからさあ」
「へへすいません、ボッケリーニだけに、もおー見ぬえっと(干支)でした」
おあとがよろしいようで。
ラ・マニフィカ・コムニタ
2007年、デジタル録音
<BRILLIANT>93774
ええ、毎度の馬鹿馬鹿しいおはなしでございまして。
往来で大声を出す方がございますが、あれは迷惑でございますな。
酒に酔ってくだをまいてる奴も困りものですが、自分の話に酔って大声を出している奴もはた迷惑極まりないもので、位相がどうしたとか、チェホフがこうしたとか、演劇人ぶりもはなはだしい。しまいには、自分の出ている芝居の演技までしだすんだから、これは相当なきちがいで。
まあ、往来で黙って音楽を聴いてる分には、まだ罪もないものでしょうな。
「十字屋さんの番頭さん、こんちは」
「ああ、びっくりしたこりゃはっつあんじゃないか」
「ほらね、そんな風にヘッドフォン耳にして歩いてるからあたしのこと気がつかないんですよ」
「確かに、そりゃそうだけど、今聴いてる録音がなかなかいいもんだからさ」
「へえ、いい録音、どんな録音なんです」
「うん、ボッケリーニのね」
「えっ、番頭さんそんなもの聴いてるの。悪い人だね、黒シャツ着て大騒ぎしないで下さいよ」
「そりゃ、ムッソリーニだろ、あたしの聴いてるのはボッケリーニの」
「あたし、岩井志麻子の小説嫌いなんです」
「そりゃ、ぼっけえきょうていじゃなかったっけ。だから、これはボッケリーニ」
「ああ、ボッケリーニ。あなたの頭もボッケリーニ」
「呆けてんのは、はっつあんの頭のほうじゃないか」
「あっはっはあっはっは」
「だめだよ、横溝正史みたいな笑い方でごまかしても」
「へへ、ボッケリーニっていやミヌエットで有名でしょ」
「そうそう、ボッケリーニっていやミヌエットで、弦楽5重奏曲の中の一楽章だけど、これはおんなじ弦楽5重奏曲のCD録音でも、作品番号27の6曲を収めたものなんだよ」
「ははあ、弦楽5重奏曲が6曲っていや、相当な時間になりましょう」
「ううん、全部2楽章形式だから、全部で半時、一時間とちょっとかな」
「へえ、で、演奏してるのは」
「ラ・マニフィカ・コムニタ」
「アンニョンハシムニタ」
「違うよ、ラ・マニフィカ・コムニタって、イタリアのピリオド楽器アンサンブル」
「へえ、イタリアの。やっぱり黒シャツ着て」
「着るわけないよ」
「で、どんな感じの演奏なんですかい」
「そうだねえ、ピリオド楽器っていうと、よくいえば情熱的、悪くいえば騒いでなんぼの演奏が多かったけど、これは結構落ち着いた演奏かなあ。とびきりの腕っこきってわけではなさそうだけど、こうやって繰り返し音楽を愉しむ分には悪くないと思うけど」
「なら、相当なお値段がするんじゃないですか」
「ううん、これ一枚でたったの680円」
「えっ680円!」
「そう680円」
「そりゃ安いや。ねえ番頭さん、ちょっとあたしにも確かめさせてもらえませんかね」
「ああ、いいよ、はい」
「こらどうも。おっ、これはしっとりとしてなかなかいい音楽じゃないですか。部屋で音楽聴いてるみたいにくつろげそうだ」
「って、往来で座り込んじゃだめじゃないか。スキップスキップ」
「スキップスキップらんらんらん」
「あんたがスキップするんじゃないよ、機械をスキップさせるの」
「ああ、機械ね。よいしょっと。今度はトラック8でも聴いてみましょうか。おんや、これはなあんかハイドンのチェロ協奏曲みたいな雰囲気ですねえ」
「まあね、ボッケリーニもハイドンと同世代人だからねえ。ついでに、トラック10も聴いてごらんよ」
「トラック10っと。おっ、こっちはハイドンとモーツァルトのあいのこみたいに軽やかでチャーミングな曲だ」
>牛車がとおおるぞお、牛車がとおおるぞお<
「はっつあん、危ないよ牛車が通るって言ってるよ」
「ああ、ふげふげふがほげふげふげふがほげってリズムが面白い」
>牛車がとおおるぞお、牛車がとおおるぞお<
「危ないよはっつあん、危ないってば」
「ふげふげふがほげふげふげふがほげ」
>とおおるぞお!<
「あいててて」
「ほら、言わこっちゃない転んじゃったじゃないか、はっつあん大丈夫かい」
「えっ、あたしのこと心配してくれてんだ」
「当たり前じゃないか」
「ああよかった、やっぱりもろこしだった」
「何言ってんだよ。ほんと、注意しなくちゃだめだよ、往来なんだからさあ」
「へへすいません、ボッケリーニだけに、もおー見ぬえっと(干支)でした」
おあとがよろしいようで。
2009年01月22日
原節子、アルゲリッチ、モーツァルト、そして上野樹里
☆モーツァルト:2台・4手のためのピアノ作品集
マルタ・アルゲリッチ(ピアノ)
アレクサンドル・ラビノヴィチ(ピアノ)
1992、93年、デジタル録音
<TELDEC>4509-91378-2
小津安二郎や黒澤明、成瀬巳喜男らの映画から受ける印象とは異なり、原節子という人は実生活では相当姐御肌でさばけた性格の持ち主だったようだ。
確か、煙草をふかしながら麻雀を打つのが好きだと以前何かで読んだことがあるし、アルコールもけっこういける口だったのではないか。
それに、『ふんどし医者』か何かの撮影の際には、遅刻常習犯の森繁久弥を叱り飛ばすという一幕もあったという。
もちろんそれとて仮面の一つと言えないこともないだろうけれど、例えばその雰囲気や存在感の大きさ豊かさに比して、小津作品でも成瀬作品でも黒澤作品でも、演技の上手下手以前に、どこかしっくりこない感じをふと覚えてしまうのは、演じる役柄と原節子の本質との間に、歴然とした齟齬があったからのように僕には思えてならない。
実際、彼女が小津安二郎の死ととともに、映画界を去っていったのも、ただ年齢がどうしたとか自らの美貌がこうしたといった表面的な問題よりも、自らと演じる役柄の齟齬を補って余りある最高で最大の存在がいなくなってしまったからではないだろうか。
自らの本質とどう向き合うか、だけではなく、自らの本質と対象との関係をどう切り結んでいくかは、当然役者演技者だけの問題ではない。
共同作業を主とするか否かの違いはあっても、それは音楽家、演奏家においても大きな問題であり課題であり、高じてそれは重い桎梏にすらなる。
傍目には得手勝手自分勝手を押し通しているように思われ、現にそうした行動を繰り返している音楽家、演奏家とて、それは同じことだ。
特に、一対一で作品と向かい合う機会の少なくない器楽奏者、それも豊かで高い才能を持った器楽奏者ほど、そのきらいは大きいのではないか。
ホロヴィッツ、グールド、リヒテル、ミケランジェリ、近くはポゴレリチ…。
なんとかとなんとかは紙一重ではないけれど、彼彼女らの追い詰められようあがきようは、極言すれば自業自得とはいえ、やはり鬼気迫るものがある。
そして、そのことはやれ奔放だなんだと、時にゴシップの種にすらなったマルタ・アルゲリッチにもあてはまる。
確かに、彼女の演奏はよく言えば自由自在、悪く言うと奔放極まりのない、その人生と基を一にしたものだ。
けれど、その奔放さは無神経や鈍感さから生まれたものだろうか。
否、もし彼女が臆面なんて一切ない、ただの無神経で鈍感な人間だったら、一人ピアノと向き合い、ソロで演奏活動を行うことから遠ざかることはなかっただろう。
そう、彼女もまた何かと向き合ってきた一人なのだ。
彼女がある時から、コンチェルトや室内楽、そして今回取り上げるようなデュオのみで演奏活動を行うようになったこともその帰結以外のなにものでもない。
(僕は、ケルン滞在中に一度だけ彼女の実演に接したことがある。その時は、アルミン・ジョルダンの指揮したスイス・ロマンド管弦楽団をバックにバルトークのピアノ協奏曲を演奏していたが、アルゲリッチの愉しそうなこと。演奏の素晴らしさばかりでなく、彼女の「いっしょに」音楽することの喜びもはっきりと伝わってきて、僕も本当に愉しかった。そういえば、自分の出番が終わったあとも、アルゲリッチは客席に座って嬉しそうにオーケストラの演奏を聴いていたっけ)
アレクサンドル・ラビノヴィチと組んで録音したこのモーツァルトの2台・4手のためのピアノ作品集も、アルゲリッチの愉しくって嬉しくって仕方のない心情がストレートに表された一枚だと僕は思う。
正直、形式だとか様式だとか、演奏の整い具合だとか、そういうことばかりを言い出すと、突っ込みどころはいくらでもあるような気がするが、愉しくって嬉しくって仕方がないというモーツァルトの音楽の本質、全部ではないだろけどその大きな側面がよくとらえられていることも疑いようのない事実だろう。
(だから、モーツァルト自身がこの演奏を聴いたら、負けてはならじとアルゲリッチに「勝負」を挑むんじゃなかろうか。どうもそんな気がしてならない)
中でも、『のだめカンタービレ!』で一躍有名になった冒頭の2台のためのソナタ(てか、原作者の二ノ宮知子はアルゲリッチの演奏を聴いてたんじゃないか? のだめを描くときに)もそうだし、ケルビーノの「恋とはどんなものかしら」そっくりの音型が第1楽章に顔を出すラストの4手のためのソナタなど、その極だ。
と、言うことで、演奏するという行為を楽譜を撫でなぞることとしか受けとめられない人以外には、強くお薦めしたい一枚。
むろん、のだめにはまった人にも大推薦だ。
そうそう、のだめといえば、どうしても上野樹里を思い出してしまうが、彼女もまたどこかで向き合い続けている一人なんじゃないだろうか。
もしそうでなければ、『ラストフレンズ』のあの演技は生まれなかったはずだから。
そして、21世紀の日本に小津安二郎や成瀬巳喜男はいないけれど、上野樹里の魅力を十二分に発揮させうる映画監督は、必ず存在すると僕は思いたい。
マルタ・アルゲリッチ(ピアノ)
アレクサンドル・ラビノヴィチ(ピアノ)
1992、93年、デジタル録音
<TELDEC>4509-91378-2
小津安二郎や黒澤明、成瀬巳喜男らの映画から受ける印象とは異なり、原節子という人は実生活では相当姐御肌でさばけた性格の持ち主だったようだ。
確か、煙草をふかしながら麻雀を打つのが好きだと以前何かで読んだことがあるし、アルコールもけっこういける口だったのではないか。
それに、『ふんどし医者』か何かの撮影の際には、遅刻常習犯の森繁久弥を叱り飛ばすという一幕もあったという。
もちろんそれとて仮面の一つと言えないこともないだろうけれど、例えばその雰囲気や存在感の大きさ豊かさに比して、小津作品でも成瀬作品でも黒澤作品でも、演技の上手下手以前に、どこかしっくりこない感じをふと覚えてしまうのは、演じる役柄と原節子の本質との間に、歴然とした齟齬があったからのように僕には思えてならない。
実際、彼女が小津安二郎の死ととともに、映画界を去っていったのも、ただ年齢がどうしたとか自らの美貌がこうしたといった表面的な問題よりも、自らと演じる役柄の齟齬を補って余りある最高で最大の存在がいなくなってしまったからではないだろうか。
自らの本質とどう向き合うか、だけではなく、自らの本質と対象との関係をどう切り結んでいくかは、当然役者演技者だけの問題ではない。
共同作業を主とするか否かの違いはあっても、それは音楽家、演奏家においても大きな問題であり課題であり、高じてそれは重い桎梏にすらなる。
傍目には得手勝手自分勝手を押し通しているように思われ、現にそうした行動を繰り返している音楽家、演奏家とて、それは同じことだ。
特に、一対一で作品と向かい合う機会の少なくない器楽奏者、それも豊かで高い才能を持った器楽奏者ほど、そのきらいは大きいのではないか。
ホロヴィッツ、グールド、リヒテル、ミケランジェリ、近くはポゴレリチ…。
なんとかとなんとかは紙一重ではないけれど、彼彼女らの追い詰められようあがきようは、極言すれば自業自得とはいえ、やはり鬼気迫るものがある。
そして、そのことはやれ奔放だなんだと、時にゴシップの種にすらなったマルタ・アルゲリッチにもあてはまる。
確かに、彼女の演奏はよく言えば自由自在、悪く言うと奔放極まりのない、その人生と基を一にしたものだ。
けれど、その奔放さは無神経や鈍感さから生まれたものだろうか。
否、もし彼女が臆面なんて一切ない、ただの無神経で鈍感な人間だったら、一人ピアノと向き合い、ソロで演奏活動を行うことから遠ざかることはなかっただろう。
そう、彼女もまた何かと向き合ってきた一人なのだ。
彼女がある時から、コンチェルトや室内楽、そして今回取り上げるようなデュオのみで演奏活動を行うようになったこともその帰結以外のなにものでもない。
(僕は、ケルン滞在中に一度だけ彼女の実演に接したことがある。その時は、アルミン・ジョルダンの指揮したスイス・ロマンド管弦楽団をバックにバルトークのピアノ協奏曲を演奏していたが、アルゲリッチの愉しそうなこと。演奏の素晴らしさばかりでなく、彼女の「いっしょに」音楽することの喜びもはっきりと伝わってきて、僕も本当に愉しかった。そういえば、自分の出番が終わったあとも、アルゲリッチは客席に座って嬉しそうにオーケストラの演奏を聴いていたっけ)
アレクサンドル・ラビノヴィチと組んで録音したこのモーツァルトの2台・4手のためのピアノ作品集も、アルゲリッチの愉しくって嬉しくって仕方のない心情がストレートに表された一枚だと僕は思う。
正直、形式だとか様式だとか、演奏の整い具合だとか、そういうことばかりを言い出すと、突っ込みどころはいくらでもあるような気がするが、愉しくって嬉しくって仕方がないというモーツァルトの音楽の本質、全部ではないだろけどその大きな側面がよくとらえられていることも疑いようのない事実だろう。
(だから、モーツァルト自身がこの演奏を聴いたら、負けてはならじとアルゲリッチに「勝負」を挑むんじゃなかろうか。どうもそんな気がしてならない)
中でも、『のだめカンタービレ!』で一躍有名になった冒頭の2台のためのソナタ(てか、原作者の二ノ宮知子はアルゲリッチの演奏を聴いてたんじゃないか? のだめを描くときに)もそうだし、ケルビーノの「恋とはどんなものかしら」そっくりの音型が第1楽章に顔を出すラストの4手のためのソナタなど、その極だ。
と、言うことで、演奏するという行為を楽譜を撫でなぞることとしか受けとめられない人以外には、強くお薦めしたい一枚。
むろん、のだめにはまった人にも大推薦だ。
そうそう、のだめといえば、どうしても上野樹里を思い出してしまうが、彼女もまたどこかで向き合い続けている一人なんじゃないだろうか。
もしそうでなければ、『ラストフレンズ』のあの演技は生まれなかったはずだから。
そして、21世紀の日本に小津安二郎や成瀬巳喜男はいないけれど、上野樹里の魅力を十二分に発揮させうる映画監督は、必ず存在すると僕は思いたい。
王道を歩むコリン・デイヴィスのエロイカ
☆ベートーヴェン:交響曲第3番「英雄」、「エグモント」序曲
コリン・デイヴィス指揮ザクセン・シュターツカペレ・ドレスデン
1991年、デジタル録音
<PHILIPS>434 120-2
グリーグ&セヴェルーの「ペール・ギュント」組曲集へのレビューで、メジャーとマイナーの話を落語のまくらよろしく語ったが、今回はテーゼとアンチテーゼの話から。
って、メジャーとマイナーも、テーゼもアンチテーゼもおんなじじゃないの、といぶかしがるあなた、残念ながらあれとこれでは、ちょと話が違う。
これは理念、それも、あくまでも僕個人の考えでいえば、メジャーとマイナーは個々に独立して存在しているものであって、お互いが即対立するというものじゃあない。
たとえて言えば、「俺は俺、お前はお前」という感じ。
ところがそれと異なり、テーゼとアンチテーゼは字義通り、「俺はいい!」「いいえ、あたしはいやだ!」という明確な対立状態にある関係、てか、対立抜きには存在しえない言葉であり構図であり関係だと思う。
で、さらに理念系、それも独断専行のそれを突き進めば、世の中のことどもすべからく、ではないけれど、これまで当為とされてきたテーゼへのアンチテーゼが示され、それが新たな変化を促し、さらには…。
ああ、ややこしい。
哲学に関する素養もへったくれもない人間が、かつて読みかじり聴きかじったなんだかんだのアマルガムを悪用して何かかにかこねくり出そうとするほうが、土台無理な話。
餅は餅屋、生兵法は大怪我のもとってやつだね。
まあ、テーゼやアンチテーゼがどうのこうのなんて思い起こしたのも、コリン・デイヴィスがザクセン・シュターツカペレ・ドレスデンを指揮して録音したベートーヴェンの交響曲第3番「英雄」が、実に堂に入った、王道中の王道を歩む演奏だったからなのだ。
そう、コリン・デイヴィスの指揮したエロイカ・シンフォニーは、たぶんLP時代からこの作品に慣れ親しんできた人間には、「ああ、これだよこれ、英雄交響曲はこうでなくっちゃ」と強く思わせるような演奏に仕上がっているのではないか。
テンポ的にも音の質感としても重心が低くとられているし、アクセントの付け方や楽器の鳴らし方も、それこそ20世紀半ば以降の演奏慣習に則ってくるいがない。
しかも、音楽の持つ流れや劇性には充分配慮しつつも、カラヤンのような押しつけがましさやチェリビダッケのような極端さとは無縁である。
加えて、ザクセン・シュターツカペレ・ドレスデンが、機能性と音色の自然さのバランスがよくとれたまとまりのよいアンサンブルでコリン・デイヴィスの楽曲解釈を見事に表現しているとも思う。
(そういえば、コリン・デイヴィスとザクセン・シュターツカペレ・ドレスデンの実演には、大阪とケルンで二度接しているが、その時聴いたベートーヴェンの田園交響曲やブラームスの交響曲も、両者の相性のよさと共同作業の充実ぶりを強く感じさせるものだったと記憶している)
だから、コリン・デイヴィスとザクセン・シュターツカペレ・ドレスデンの演奏したこのCDを、ベートーヴェンの交響曲第3番「英雄」の名演奏名盤として推すことに一切ためらいはない。
けれど、一方でこうしたベートーヴェン演奏がある種の桎梏となっていたことも想像に難くはない。
つまり、伝統の重みというか、慣習のおりというか。
それに、全ての指揮者がコリン・デイヴィスほどの、そして全てのオーケストラがザクセン・シュターツカペレ・ドレスデンほどの音楽性を持っている訳でもない。
ピリオド楽器によるベートーヴェン演奏やピリオド奏法を援用したベートーヴェン演奏が登場し、なおかつ現代の主流となってきた背景には、そうした桎梏や惰性への対立・反抗の意識や精神があったことはいまさら繰り返すまでもあるまい。
そして僕自身は、コリン・デイヴィスとザクセン・シュターツカペレ・ドレスデンのエロイカ・シンフォニーを素晴らしい演奏と認めつつも、ニコラウス・アーノンクールやフランス・ブリュッヘン、ロジャー・ノリントンらによるベートーヴェン演奏にも強く心をひかれるのである。
むろん、彼らの演奏もまた、一つのテーゼとして対立・反抗の対象となるだろうことは、明らかなことだろうけれど。
最後になるが、カップリングの『エグモント』序曲も、コリン・デイヴィスとザクセン・シュターツカペレ・ドレスデンの劇場感覚が発揮された聴き応えのある演奏に仕上がっていると思う。
中古で、税込み1200円程度までなら、安心してお薦めできる一枚だ。
(なお、エロイカ・シンフォニーはナポレオンがらみの作品だから、タイトルは「皇道を歩む」にでもしようかと思ったが、それじゃあ日本語として変だし、だいたい皇道なんていったらああた、荒木貞夫や真崎甚三郎じゃないんだから…)
コリン・デイヴィス指揮ザクセン・シュターツカペレ・ドレスデン
1991年、デジタル録音
<PHILIPS>434 120-2
グリーグ&セヴェルーの「ペール・ギュント」組曲集へのレビューで、メジャーとマイナーの話を落語のまくらよろしく語ったが、今回はテーゼとアンチテーゼの話から。
って、メジャーとマイナーも、テーゼもアンチテーゼもおんなじじゃないの、といぶかしがるあなた、残念ながらあれとこれでは、ちょと話が違う。
これは理念、それも、あくまでも僕個人の考えでいえば、メジャーとマイナーは個々に独立して存在しているものであって、お互いが即対立するというものじゃあない。
たとえて言えば、「俺は俺、お前はお前」という感じ。
ところがそれと異なり、テーゼとアンチテーゼは字義通り、「俺はいい!」「いいえ、あたしはいやだ!」という明確な対立状態にある関係、てか、対立抜きには存在しえない言葉であり構図であり関係だと思う。
で、さらに理念系、それも独断専行のそれを突き進めば、世の中のことどもすべからく、ではないけれど、これまで当為とされてきたテーゼへのアンチテーゼが示され、それが新たな変化を促し、さらには…。
ああ、ややこしい。
哲学に関する素養もへったくれもない人間が、かつて読みかじり聴きかじったなんだかんだのアマルガムを悪用して何かかにかこねくり出そうとするほうが、土台無理な話。
餅は餅屋、生兵法は大怪我のもとってやつだね。
まあ、テーゼやアンチテーゼがどうのこうのなんて思い起こしたのも、コリン・デイヴィスがザクセン・シュターツカペレ・ドレスデンを指揮して録音したベートーヴェンの交響曲第3番「英雄」が、実に堂に入った、王道中の王道を歩む演奏だったからなのだ。
そう、コリン・デイヴィスの指揮したエロイカ・シンフォニーは、たぶんLP時代からこの作品に慣れ親しんできた人間には、「ああ、これだよこれ、英雄交響曲はこうでなくっちゃ」と強く思わせるような演奏に仕上がっているのではないか。
テンポ的にも音の質感としても重心が低くとられているし、アクセントの付け方や楽器の鳴らし方も、それこそ20世紀半ば以降の演奏慣習に則ってくるいがない。
しかも、音楽の持つ流れや劇性には充分配慮しつつも、カラヤンのような押しつけがましさやチェリビダッケのような極端さとは無縁である。
加えて、ザクセン・シュターツカペレ・ドレスデンが、機能性と音色の自然さのバランスがよくとれたまとまりのよいアンサンブルでコリン・デイヴィスの楽曲解釈を見事に表現しているとも思う。
(そういえば、コリン・デイヴィスとザクセン・シュターツカペレ・ドレスデンの実演には、大阪とケルンで二度接しているが、その時聴いたベートーヴェンの田園交響曲やブラームスの交響曲も、両者の相性のよさと共同作業の充実ぶりを強く感じさせるものだったと記憶している)
だから、コリン・デイヴィスとザクセン・シュターツカペレ・ドレスデンの演奏したこのCDを、ベートーヴェンの交響曲第3番「英雄」の名演奏名盤として推すことに一切ためらいはない。
けれど、一方でこうしたベートーヴェン演奏がある種の桎梏となっていたことも想像に難くはない。
つまり、伝統の重みというか、慣習のおりというか。
それに、全ての指揮者がコリン・デイヴィスほどの、そして全てのオーケストラがザクセン・シュターツカペレ・ドレスデンほどの音楽性を持っている訳でもない。
ピリオド楽器によるベートーヴェン演奏やピリオド奏法を援用したベートーヴェン演奏が登場し、なおかつ現代の主流となってきた背景には、そうした桎梏や惰性への対立・反抗の意識や精神があったことはいまさら繰り返すまでもあるまい。
そして僕自身は、コリン・デイヴィスとザクセン・シュターツカペレ・ドレスデンのエロイカ・シンフォニーを素晴らしい演奏と認めつつも、ニコラウス・アーノンクールやフランス・ブリュッヘン、ロジャー・ノリントンらによるベートーヴェン演奏にも強く心をひかれるのである。
むろん、彼らの演奏もまた、一つのテーゼとして対立・反抗の対象となるだろうことは、明らかなことだろうけれど。
最後になるが、カップリングの『エグモント』序曲も、コリン・デイヴィスとザクセン・シュターツカペレ・ドレスデンの劇場感覚が発揮された聴き応えのある演奏に仕上がっていると思う。
中古で、税込み1200円程度までなら、安心してお薦めできる一枚だ。
(なお、エロイカ・シンフォニーはナポレオンがらみの作品だから、タイトルは「皇道を歩む」にでもしようかと思ったが、それじゃあ日本語として変だし、だいたい皇道なんていったらああた、荒木貞夫や真崎甚三郎じゃないんだから…)
2009年01月21日
スタンフォードの交響曲を聴きましょうや!
☆スタンフォード:交響曲第5番、アイルランド狂詩曲第4番
ヴァーノン・ハンドリー指揮アルスター管弦楽団
1987年、デジタル録音
<CHANDOS>CHAN 8581
前回のCDレビューでエルガーの交響曲第1番を取り上げるにあたって、パーセル以降、イギリスは音楽の不毛地帯みたいなことを記したけれど、あれはあくまでもイギリス出身の作曲家に関する話であって、ヨハン・クリスティアン・バッハやパパハイドン、さらにはウェーバなんかを持ち出さずとも、18世紀、19世紀にも、イギリスにおける音楽活動が盛んだったことはおわかりいただけると思う。
が、一応、念のため。
それに、いくらめぼしい作曲家がいなかったからといって死んで花実が咲くものか、違う違う、それこそ枯れ木に花は咲かないし、突如として砂漠にライ麦が実るはずはない。
エルガーの交響曲が生まれるにあたっては、それなりの先行者たちがいた訳で、その中でもパリーやスタンフォードという二人の作曲家の存在は忘れちゃいけないんじゃないだろうか。
てか、好きなんだよなあ、パリーとスタンフォードの交響曲のことが、僕は。
そりゃ確かに、この二人の交響曲をけなそうと思えばいくらだってけなせるよ。
初期から中期、はては後期にいたるドイツ・ロマン派の影響ははなはだしいし、エルガーほどの作風の斬新さというものも、もちろんない。
でもね、影響大いに結構じゃないですか。
だって、パリーとスタンフォードの交響曲はとても耳なじみがいいんだもの。
まさしく、イギリスの田園風景を眺めながら、来し方行く末、ならぬ、来し方来し方に思いを馳せる、そんな柔らかくって甘やかな心持ちにどっぷりたっぷりと浸れるのだから。
なんの文句があるものや。
で、あなたパリーがひときわドイツ・ロマン派(と言うより、ブラームス)の影響丸出しなら、こなたスタンフォードは、郷里アイルランドの雰囲気が巧みにブレンドされた折衷風とでも評することができるだろう。
この交響曲第5番も、そうしたスタンフォードらしさがよく表れた、美しいメロディーに満ちあふれた作品で、全篇、実に聴き心地がよい。
また、カップリングのアイルランド狂詩曲第4番(トラック5)では、12分ちょっと過ぎあたりに打楽器連打というなかなかの聴きどころも控えている。
惜しくも昨年亡くなったヴァーノン・ハンドリーの指揮するアルスター管弦楽団は、丁寧かつ真摯な音楽づくりで、作品の長所をきっちりと表現し、短所をうまく補っていて、まさしく過不足のない演奏。
加えて、シャンドス・レーベルらしく、残響豊かでメロウな録音も申し分ない。
あくまでも個人的な好みと断った上でだが、中古で税込み1200円程度までなら即買いの一枚だと思う。
喰わず嫌い、ではない聴かず嫌いはやめて、スタンフォード(ついでにパリー)の交響曲を聴きましょうや!
ねえ、皆の衆。
ヴァーノン・ハンドリー指揮アルスター管弦楽団
1987年、デジタル録音
<CHANDOS>CHAN 8581
前回のCDレビューでエルガーの交響曲第1番を取り上げるにあたって、パーセル以降、イギリスは音楽の不毛地帯みたいなことを記したけれど、あれはあくまでもイギリス出身の作曲家に関する話であって、ヨハン・クリスティアン・バッハやパパハイドン、さらにはウェーバなんかを持ち出さずとも、18世紀、19世紀にも、イギリスにおける音楽活動が盛んだったことはおわかりいただけると思う。
が、一応、念のため。
それに、いくらめぼしい作曲家がいなかったからといって死んで花実が咲くものか、違う違う、それこそ枯れ木に花は咲かないし、突如として砂漠にライ麦が実るはずはない。
エルガーの交響曲が生まれるにあたっては、それなりの先行者たちがいた訳で、その中でもパリーやスタンフォードという二人の作曲家の存在は忘れちゃいけないんじゃないだろうか。
てか、好きなんだよなあ、パリーとスタンフォードの交響曲のことが、僕は。
そりゃ確かに、この二人の交響曲をけなそうと思えばいくらだってけなせるよ。
初期から中期、はては後期にいたるドイツ・ロマン派の影響ははなはだしいし、エルガーほどの作風の斬新さというものも、もちろんない。
でもね、影響大いに結構じゃないですか。
だって、パリーとスタンフォードの交響曲はとても耳なじみがいいんだもの。
まさしく、イギリスの田園風景を眺めながら、来し方行く末、ならぬ、来し方来し方に思いを馳せる、そんな柔らかくって甘やかな心持ちにどっぷりたっぷりと浸れるのだから。
なんの文句があるものや。
で、あなたパリーがひときわドイツ・ロマン派(と言うより、ブラームス)の影響丸出しなら、こなたスタンフォードは、郷里アイルランドの雰囲気が巧みにブレンドされた折衷風とでも評することができるだろう。
この交響曲第5番も、そうしたスタンフォードらしさがよく表れた、美しいメロディーに満ちあふれた作品で、全篇、実に聴き心地がよい。
また、カップリングのアイルランド狂詩曲第4番(トラック5)では、12分ちょっと過ぎあたりに打楽器連打というなかなかの聴きどころも控えている。
惜しくも昨年亡くなったヴァーノン・ハンドリーの指揮するアルスター管弦楽団は、丁寧かつ真摯な音楽づくりで、作品の長所をきっちりと表現し、短所をうまく補っていて、まさしく過不足のない演奏。
加えて、シャンドス・レーベルらしく、残響豊かでメロウな録音も申し分ない。
あくまでも個人的な好みと断った上でだが、中古で税込み1200円程度までなら即買いの一枚だと思う。
喰わず嫌い、ではない聴かず嫌いはやめて、スタンフォード(ついでにパリー)の交響曲を聴きましょうや!
ねえ、皆の衆。
プレヴィンが指揮したエルガーの交響曲第1番
☆エルガー:交響曲第1番
アンドレ・プレヴィン指揮ロイヤル・フィル
1985年、デジタル録音
<PHILIPS>416 612-2
英国人にとって、少なくともクラシック音楽好きの英国人にとって、エルガーという作曲家はいくら讃えても讃えきれない、偉大な存在であるという。
そういえば、15年ほど前のケルン滞在中、サイモン・ラトル率いるバーミンガム・シティ交響楽団がフィルハーモニーを訪れて、エルガーのエニグマ変奏曲を演奏したことがあったのだけれど、その終演後、さすがはラトルとバーミンガム、いい演奏やるもんだなと僕が感嘆していると、見るからにアングロサクソン系とわかる老紳士がつかつかと近寄ってきて、「どうです、すごいでしょう」と口にしてにこっと微笑むという一幕もあったっけ。
あの老紳士はきっと、ラトルとバーミンガム・シティ交響楽団のことだけじゃなくて、エルガーの作品についてもすごいと言いたかったんだろうな、といまさらながら思う。
確かに、音楽の不毛地帯、といえば言い過ぎだけれど、パーセル以降、これはという作曲家を生み出してこなかった英国人にとって、エルガーは干天の慈雨、まさしく誇るに足りうる大作曲家だと断じてよいのではないか。
当然、ワーグナーやブラームス、リヒャルト・シュトラウスをはじめとしたドイツ後期ロマン派からの影響は濃厚で、そのことを云々かんぬんうんすんかるたすることもできはするけれど、それが、ノスタルジーをたっぷりと感じさせる美しいメロディや、金管楽器の巧みな使用など、エルガーの音楽(それは、彼が日々生活した19世紀半ばから20世紀初頭にかけての文化的経済的政治的、いわゆる社会的諸状況の反映でもある)の持つ個性、魅力を否定する材料になるとも思えない。
そして、エルガーの数多くの作品の中でも、二つの交響曲は、上述したような当時のイギリスの社会的諸状況の反映という意味からも、大きな価値を持っていると僕は考える。
また、そのいった作品の印象を度外視したとしても、荘重さと穏やかさ大らかさ、さらには一種の翳りすら有したエルガーの交響曲は、非常に魅力的だと思う。
今回取り上げる、アンドレ・プレヴィン指揮ロイヤル・フィルが演奏した交響曲第1番のCDは、そうした作品全体の持つイメージや魅力を最大限に引き出した録音と言えるのではないか。
なぜなら、プレヴィンの音楽づくりは、楽曲の構造の把握という点でとても安定しているし、ロイヤル・フィルの丹念できめの細かい表現も、作品そのものの美しさを巧く伝えているからだ。
1985年というから、今からほぼ25年も前の録音になるが、繰り返し音楽を愉しむという意味で、全く問題はない。
エルガーの交響曲第1番のファーストチョイスとして、安心してお薦めできる一枚だ。
英国音楽好き以外の方にも、ぜひご一聴いただきたい。
アンドレ・プレヴィン指揮ロイヤル・フィル
1985年、デジタル録音
<PHILIPS>416 612-2
英国人にとって、少なくともクラシック音楽好きの英国人にとって、エルガーという作曲家はいくら讃えても讃えきれない、偉大な存在であるという。
そういえば、15年ほど前のケルン滞在中、サイモン・ラトル率いるバーミンガム・シティ交響楽団がフィルハーモニーを訪れて、エルガーのエニグマ変奏曲を演奏したことがあったのだけれど、その終演後、さすがはラトルとバーミンガム、いい演奏やるもんだなと僕が感嘆していると、見るからにアングロサクソン系とわかる老紳士がつかつかと近寄ってきて、「どうです、すごいでしょう」と口にしてにこっと微笑むという一幕もあったっけ。
あの老紳士はきっと、ラトルとバーミンガム・シティ交響楽団のことだけじゃなくて、エルガーの作品についてもすごいと言いたかったんだろうな、といまさらながら思う。
確かに、音楽の不毛地帯、といえば言い過ぎだけれど、パーセル以降、これはという作曲家を生み出してこなかった英国人にとって、エルガーは干天の慈雨、まさしく誇るに足りうる大作曲家だと断じてよいのではないか。
当然、ワーグナーやブラームス、リヒャルト・シュトラウスをはじめとしたドイツ後期ロマン派からの影響は濃厚で、そのことを云々かんぬんうんすんかるたすることもできはするけれど、それが、ノスタルジーをたっぷりと感じさせる美しいメロディや、金管楽器の巧みな使用など、エルガーの音楽(それは、彼が日々生活した19世紀半ばから20世紀初頭にかけての文化的経済的政治的、いわゆる社会的諸状況の反映でもある)の持つ個性、魅力を否定する材料になるとも思えない。
そして、エルガーの数多くの作品の中でも、二つの交響曲は、上述したような当時のイギリスの社会的諸状況の反映という意味からも、大きな価値を持っていると僕は考える。
また、そのいった作品の印象を度外視したとしても、荘重さと穏やかさ大らかさ、さらには一種の翳りすら有したエルガーの交響曲は、非常に魅力的だと思う。
今回取り上げる、アンドレ・プレヴィン指揮ロイヤル・フィルが演奏した交響曲第1番のCDは、そうした作品全体の持つイメージや魅力を最大限に引き出した録音と言えるのではないか。
なぜなら、プレヴィンの音楽づくりは、楽曲の構造の把握という点でとても安定しているし、ロイヤル・フィルの丹念できめの細かい表現も、作品そのものの美しさを巧く伝えているからだ。
1985年というから、今からほぼ25年も前の録音になるが、繰り返し音楽を愉しむという意味で、全く問題はない。
エルガーの交響曲第1番のファーストチョイスとして、安心してお薦めできる一枚だ。
英国音楽好き以外の方にも、ぜひご一聴いただきたい。
2009年01月20日
メジャーとマイナー 二つの「ペール・ギュント」
☆グリーグ&セヴェルー:「ペール・ギュント」組曲
アンネ=マルグレーテ・アイコース(ソプラノ)
アリ・ラシライネン指揮ノルウェー放送管弦楽団
1996年、デジタル録音
<FINLANDIA>0630-17675-2
メジャーとマイナー。
何をもってしてその二つを分かつかを口にすることはそうそう容易ではなくて、女の中に男があって男の中に女があるように、例えばモーツァルトの音楽を聴いたりしていると、長調の作品の途中でなんとも曰く言い難い翳りがうかがわれる部分があったり、逆に短調の作品から生命力のほとばしりを感じたりすることもある。
それに、ことさらこれはこうであれはああだと決めつける考え方というのは、あまりにも単純というか、それこそブッシュの馬鹿息子が終始口にしていた似非勧善懲悪論を思い起こさせるようなうっとうしさや胡散臭さすら伴う。
ただ、そうは言っても、明らかにメジャーとマイナーの区別がはっきりしたものも世の中にはあまたあって、マイナーなものをメジャーだメジャーだと騒ぎたてたところで、それはマイナーなものを讃えるどころか、かえってそのよさすら貶めることにもなりかねない。
まさしく、ひいきの引き倒し、助長というやつだ。
さて、今回取り上げるCD、アリ・ラシライネン指揮ノルウェー放送管弦楽団の演奏したグリーグとセヴェルーの「ペール・ギュント」組曲集のうち、どちらがメジャーなもので、どちらがマイナーなものかは一目瞭然、ならぬ一聴瞭然だろう。
いわゆる新劇のご本尊イプセン(何せ、あの『人形の家』をはじめ、『ヘッダ・ガブラー』や『民衆の敵』の作者なんだもの)の創作の中では、どちらかと言えば荒唐無稽の物語と言えなくもない「ペール・ギュント」(それでも、19世紀の社会的諸状況のあからさまな反映であることは否定できまいが)に付けられたグリーグの音楽は、ノルウェー情緒たっぷりで、なおかつドラマティックな要素にも事欠かない、実に耳なじみのよいものに仕上がっている。
そして、その好き嫌いは別にして、朝の気分やオーゼの死、アニトラの踊り、山の魔王の宮殿にて、ソルヴェーグの歌といった劇音楽中の美味しい部分を集めた二つの組曲を、オーケストラ作品におけるメジャー中のメジャーと位置づけることには、まずもって異論はあるまい。
一方、1947年に新たに作曲されたセヴェルーのほうは、当然のことながら祖国の先達グリーグを強く意識してのことだろう、曲球変化球主体のきわきわぎりぎりの勝負、ではない音楽のつくりで、ある種の潔さすら感じるほどだ。
それに、例えばワルキューレの騎行の音型が聴きとれる第2曲(トラック10)や、ラ・マルセイエーズやアルプス一万尺の引用も軽快な第4曲(トラック12)など、後攻者にしかできないやり口ではあるが、これはこれで、「ペール・ギュント」という作品の一面を巧みに切り取っているようにも、僕には思われる。
フィンランド出身のアリ・ラシライネンとノルウェー放送管弦楽団は、そうした二つの音楽の性格の違いを的確に描き分けているのではないか。
餅は餅屋、ノルウェーの音楽はノルウェーのオーケストラ、ではないけれど、作品の持つ特性とオーケストラの個性がしっかりと噛み合っていることは確かだし、かと言って、ヨーロッパの放送局のオーケストラに共通する機能性の高さも持ち合わせている分、純朴さ一辺倒の鄙びた演奏に終始している訳でもない。
いい意味で抑制のきいた、非常にバランスのとれた演奏であり録音であると評することができるだろう。
(セヴェルーのソルヴェーグの歌は歌つきなのに、グリーグのほうには歌がついてないのには、まあいろんな判断が働いたんだろうな、きっと)
いずれにしても、グリーグの「ペール・ギュント」を愉しむという意味においても、セヴェルーの「ペール・ギュント」を識るという意味においても、大いにお薦めしたい一枚。
聴いて損はない!
余談だけど、「ペール・ギュント」には、エックが作曲したオペラもあったんだった。
『クラシック名盤大全 オペラ・声楽曲篇』<音楽之友社>で、ヴァルベルク(!)が指揮した全曲盤を片山杜秀が推薦しているので、興味がおありの方はそちらをご参照のほど。
そういえば、この作品のタンゴか何かが入ったCDを同じ片山さんが『レコード芸術』で誉めていたような記憶があるんだけど、あれはなんのCDだったかなあ。
アンネ=マルグレーテ・アイコース(ソプラノ)
アリ・ラシライネン指揮ノルウェー放送管弦楽団
1996年、デジタル録音
<FINLANDIA>0630-17675-2
メジャーとマイナー。
何をもってしてその二つを分かつかを口にすることはそうそう容易ではなくて、女の中に男があって男の中に女があるように、例えばモーツァルトの音楽を聴いたりしていると、長調の作品の途中でなんとも曰く言い難い翳りがうかがわれる部分があったり、逆に短調の作品から生命力のほとばしりを感じたりすることもある。
それに、ことさらこれはこうであれはああだと決めつける考え方というのは、あまりにも単純というか、それこそブッシュの馬鹿息子が終始口にしていた似非勧善懲悪論を思い起こさせるようなうっとうしさや胡散臭さすら伴う。
ただ、そうは言っても、明らかにメジャーとマイナーの区別がはっきりしたものも世の中にはあまたあって、マイナーなものをメジャーだメジャーだと騒ぎたてたところで、それはマイナーなものを讃えるどころか、かえってそのよさすら貶めることにもなりかねない。
まさしく、ひいきの引き倒し、助長というやつだ。
さて、今回取り上げるCD、アリ・ラシライネン指揮ノルウェー放送管弦楽団の演奏したグリーグとセヴェルーの「ペール・ギュント」組曲集のうち、どちらがメジャーなもので、どちらがマイナーなものかは一目瞭然、ならぬ一聴瞭然だろう。
いわゆる新劇のご本尊イプセン(何せ、あの『人形の家』をはじめ、『ヘッダ・ガブラー』や『民衆の敵』の作者なんだもの)の創作の中では、どちらかと言えば荒唐無稽の物語と言えなくもない「ペール・ギュント」(それでも、19世紀の社会的諸状況のあからさまな反映であることは否定できまいが)に付けられたグリーグの音楽は、ノルウェー情緒たっぷりで、なおかつドラマティックな要素にも事欠かない、実に耳なじみのよいものに仕上がっている。
そして、その好き嫌いは別にして、朝の気分やオーゼの死、アニトラの踊り、山の魔王の宮殿にて、ソルヴェーグの歌といった劇音楽中の美味しい部分を集めた二つの組曲を、オーケストラ作品におけるメジャー中のメジャーと位置づけることには、まずもって異論はあるまい。
一方、1947年に新たに作曲されたセヴェルーのほうは、当然のことながら祖国の先達グリーグを強く意識してのことだろう、曲球変化球主体のきわきわぎりぎりの勝負、ではない音楽のつくりで、ある種の潔さすら感じるほどだ。
それに、例えばワルキューレの騎行の音型が聴きとれる第2曲(トラック10)や、ラ・マルセイエーズやアルプス一万尺の引用も軽快な第4曲(トラック12)など、後攻者にしかできないやり口ではあるが、これはこれで、「ペール・ギュント」という作品の一面を巧みに切り取っているようにも、僕には思われる。
フィンランド出身のアリ・ラシライネンとノルウェー放送管弦楽団は、そうした二つの音楽の性格の違いを的確に描き分けているのではないか。
餅は餅屋、ノルウェーの音楽はノルウェーのオーケストラ、ではないけれど、作品の持つ特性とオーケストラの個性がしっかりと噛み合っていることは確かだし、かと言って、ヨーロッパの放送局のオーケストラに共通する機能性の高さも持ち合わせている分、純朴さ一辺倒の鄙びた演奏に終始している訳でもない。
いい意味で抑制のきいた、非常にバランスのとれた演奏であり録音であると評することができるだろう。
(セヴェルーのソルヴェーグの歌は歌つきなのに、グリーグのほうには歌がついてないのには、まあいろんな判断が働いたんだろうな、きっと)
いずれにしても、グリーグの「ペール・ギュント」を愉しむという意味においても、セヴェルーの「ペール・ギュント」を識るという意味においても、大いにお薦めしたい一枚。
聴いて損はない!
余談だけど、「ペール・ギュント」には、エックが作曲したオペラもあったんだった。
『クラシック名盤大全 オペラ・声楽曲篇』<音楽之友社>で、ヴァルベルク(!)が指揮した全曲盤を片山杜秀が推薦しているので、興味がおありの方はそちらをご参照のほど。
そういえば、この作品のタンゴか何かが入ったCDを同じ片山さんが『レコード芸術』で誉めていたような記憶があるんだけど、あれはなんのCDだったかなあ。
ネーメ・ヤルヴィのシベリウス
☆シベリウス:管弦楽曲集第1集
ソイレ・イソコスキ(ソプラノ)
ネーメ・ヤルヴィ指揮エーテボリ交響楽団
1992〜95年、デジタル録音
<DG>447 760-2
エストニア出身の指揮者ネーメ・ヤルヴィといえば、BIS、CHANDOS両レーベルへの一連の録音(まさしく、当たるを幸い的な)が強く印象に残っていて、実際彼の大車輪の活躍がこの二つのレーベルをマイナー・レーベル中のメジャー・レーベルへと押し上げたと言っても過言ではないはずだけれど、その後もドイツ・グラモフォンで着々とリリースを重ねるるなど、オーケストラ音楽好きのディスク愛好家にはどうしても欠かすことのできない存在であり続けている。
もちろん、ネーメ・ヤルヴィの場合は、録音スタジオのみで偉力を発揮するタイプの音楽家ではなくて、僕自身、ケルンWDR交響楽団で実演に接したベートーヴェンの交響曲第7番など、いわゆるオーソドックスな音楽づくりだったとはいえ、ライヴ感覚にあふれたエネルギッシュな仕上がりだったし、あいにく聴きそびれてしまった京都市交響楽団の定期演奏会でも、生の魅力をフルに活かした演奏を生み出していたという。
つまるところ、ネーメ・ヤルヴィは、ライヴ・録音両面でまんべんなくその実力を知らしめてきた、現代を代表する音楽家の一人であり、そうした彼の姿勢は、息子のパーヴォ・ヤルヴィにもしっかり受け継がれていると、僕は思う。
今回取り上げるシベリウスの管弦楽曲集は、そのネーメ・ヤルヴィが手兵エーテボリ交響楽団とともにドイツ・グラモフォンに録音したシベリウス・アルバムの第1集にあたるもので、おなじみフィンランディアや「カレリア」組曲の他、ルオンノタール、アンダンテ・フェスティヴォ、大洋の女神(波の娘)、「クリスティアン2世」組曲と、有名どころからそうでない作品まで、バランスよく収録されている。
で、演奏はもう自家薬籠中のものだから…。
と、書きかけたが、これは録音場所のエーテボリのコンサートホールの残響のよさや、ドイツ・グラモフォンのスタッフの音響づくりもあってかもしれないが、「カレリア」組曲の行進曲風にやフィンランディアでは、角を矯められたというか、角がグラマラスに丸められたようなもやっとした感じがしたことも事実で、それには1990年あたりから、ネーメ・ヤルヴィがアメリカのデトロイト交響楽団のシェフを務めていたことと関係しているのではないかと一瞬思ったりもした。
逆に、そうした音楽づくり、音質がうまく活かされているのが、ルオンノタールやアンダンテ・フェスティヴォで、特にルオンノタールでは、ソイレ・イソコスキの透明感があってつんとした美しい声も加わって、神秘的な雰囲気がよく伝わってきた。
また、「クリスティアン2世」組曲も、音楽のツボ、聴かせどころをしっかりと押さえた演奏で、劇場人という一面も含めたシベリウスの個性がよく表れているのではないだろうか。
上述したような音楽づくり、音質もあって、もしかしたらそこで好みが分かれるかもしれないが、税込み1200円程度までなら、シベリウスの管弦楽曲を過不足なく愉しむという意味では、安心してお薦めすることができる一枚だと思う。
それにしても、ネーメ・ヤルヴィにはもう一度京都市交響楽団に客演してもらいたいものだなあ。
彼の指揮するベルワルドとかステンハンマルの交響曲を生で聴いてみたいもの。
ソイレ・イソコスキ(ソプラノ)
ネーメ・ヤルヴィ指揮エーテボリ交響楽団
1992〜95年、デジタル録音
<DG>447 760-2
エストニア出身の指揮者ネーメ・ヤルヴィといえば、BIS、CHANDOS両レーベルへの一連の録音(まさしく、当たるを幸い的な)が強く印象に残っていて、実際彼の大車輪の活躍がこの二つのレーベルをマイナー・レーベル中のメジャー・レーベルへと押し上げたと言っても過言ではないはずだけれど、その後もドイツ・グラモフォンで着々とリリースを重ねるるなど、オーケストラ音楽好きのディスク愛好家にはどうしても欠かすことのできない存在であり続けている。
もちろん、ネーメ・ヤルヴィの場合は、録音スタジオのみで偉力を発揮するタイプの音楽家ではなくて、僕自身、ケルンWDR交響楽団で実演に接したベートーヴェンの交響曲第7番など、いわゆるオーソドックスな音楽づくりだったとはいえ、ライヴ感覚にあふれたエネルギッシュな仕上がりだったし、あいにく聴きそびれてしまった京都市交響楽団の定期演奏会でも、生の魅力をフルに活かした演奏を生み出していたという。
つまるところ、ネーメ・ヤルヴィは、ライヴ・録音両面でまんべんなくその実力を知らしめてきた、現代を代表する音楽家の一人であり、そうした彼の姿勢は、息子のパーヴォ・ヤルヴィにもしっかり受け継がれていると、僕は思う。
今回取り上げるシベリウスの管弦楽曲集は、そのネーメ・ヤルヴィが手兵エーテボリ交響楽団とともにドイツ・グラモフォンに録音したシベリウス・アルバムの第1集にあたるもので、おなじみフィンランディアや「カレリア」組曲の他、ルオンノタール、アンダンテ・フェスティヴォ、大洋の女神(波の娘)、「クリスティアン2世」組曲と、有名どころからそうでない作品まで、バランスよく収録されている。
で、演奏はもう自家薬籠中のものだから…。
と、書きかけたが、これは録音場所のエーテボリのコンサートホールの残響のよさや、ドイツ・グラモフォンのスタッフの音響づくりもあってかもしれないが、「カレリア」組曲の行進曲風にやフィンランディアでは、角を矯められたというか、角がグラマラスに丸められたようなもやっとした感じがしたことも事実で、それには1990年あたりから、ネーメ・ヤルヴィがアメリカのデトロイト交響楽団のシェフを務めていたことと関係しているのではないかと一瞬思ったりもした。
逆に、そうした音楽づくり、音質がうまく活かされているのが、ルオンノタールやアンダンテ・フェスティヴォで、特にルオンノタールでは、ソイレ・イソコスキの透明感があってつんとした美しい声も加わって、神秘的な雰囲気がよく伝わってきた。
また、「クリスティアン2世」組曲も、音楽のツボ、聴かせどころをしっかりと押さえた演奏で、劇場人という一面も含めたシベリウスの個性がよく表れているのではないだろうか。
上述したような音楽づくり、音質もあって、もしかしたらそこで好みが分かれるかもしれないが、税込み1200円程度までなら、シベリウスの管弦楽曲を過不足なく愉しむという意味では、安心してお薦めすることができる一枚だと思う。
それにしても、ネーメ・ヤルヴィにはもう一度京都市交響楽団に客演してもらいたいものだなあ。
彼の指揮するベルワルドとかステンハンマルの交響曲を生で聴いてみたいもの。
2009年01月19日
アシュケナージの指揮したフランク
☆フランク:交響曲、プシュケ、鬼神
指揮:ウラディーミル・アシュケナージ
独奏:ウラディーミル・アシュケナージ(ピアノ。鬼神のみ)
管弦楽:ベルリン放送交響楽団(現ベルリン・ドイツ交響楽団)
録音:1988、89年
<DECCA>425 432-2
人と人との間に流れというものがあるように、人と音楽、人と楽曲の間にも流れというものがあるのではないか。
まあ、それは大仰な物言いだとしても、好き嫌いとは関係なしに、付く付かないというか、寄る寄らないというか、巡り合わせのいい悪いで、慣れ親しんだりそうでなかったりする音楽、楽曲が僕にはあるような気がする。
さしずめ、フランクの交響曲など、その後者の最たる例として挙げることができるだろう。
と、言っても、先述の如く、好き嫌いからだけいえば、僕はこの交響曲が全く嫌いではない。
確かに、許光俊や鈴木淳史が『クラシックCD名盤バトル』<洋泉社新書y>で指摘しているような、循環形式のしんねりむっつりと押しつけがましい趣きには若干重たるさを感じるものの、終楽章の「自問自答に無理から解決策を見い出し、狂喜乱舞」のあり様は、内田百間の「蘭陵王入陣曲」の狂いっぷりを愛好する者としては、実に愉しいかぎりだもの。
(だから、これまで接した二度の実演、山田一雄と京都市交響楽団、ハインツ・ヴァルベルクとケルンWDR交響楽団では、断然前者をとる。ヤマカズさんの、笛吹く上に自分も踊るからみんな踊ってくれ式のあらぶりようには、心が強く動いたほどだ。一方、ヴァルベルクのほうは何が面白いんだか。当然オケの力量はWDRに軍配を上げざるをえまいが。まるでワイマル共和国期のライヒスバンク総裁みたいなヴァルベルクのがちがちした音楽づくりはちっとも面白くなかった)
LP時代など、ヘルベルト・フォン・カラヤンがパリ管弦楽団を指揮した録音と、トマス・ビーチャムがフランス国立放送管弦楽団を指揮した録音を交互にかけて聴き比べに興じたことも一度や二度ではなかったほどだ。
だが、それがどうしたことか、CD時代になって約25年、この間一度たりとてフランクの交響曲のCDを買ってこなかったというのは魔がさしたというかなんというか。
それこそ巡り合わせ、僕とフランクの交響曲の間に、ちっとも流れがなかったということになる。
(ひとつには、これはって思える新しい録音がなかったからかもしれない。FMで聴いたジュリーニ、シャイー、デュトワの各録音も僕には今一つだったし。かといって、今さらカラヤン盤を買い直す気にもならないし…)
今回取り上げるウラディーミル・アシュケナージさん指揮ベルリン放送交響楽団の演奏したCDも、クレモナで中古が半額税込み390円になっていなかったら、たぶん買ってはいなかったんじゃないだろうか。
(付け加えるならば、昨年末に読んだCD関連のムックで、この録音のことが面白おかしく誉められていたことにも、影響されたのかもしれない)
まあ、演奏はアシュケナージさんらしいというか。
音楽の流れに沿って力強いところは力強く、美しいところは美しくと、感覚面での反応はそれなりに聴くべきものがあるように思うのだけど、構造の把握という面でどうにも物足りない。
それと、音の終わりが崩れてしまうというか、どこかしまらない感じがする。
正直、ムックの評価は高過ぎ…、てか、ひいきのひき倒し?
その点、音楽のつくりは同じく確固としているにせよ、まだ交響曲という形式にとらわれていない分、プシュケ(合唱つきの5、6章は割愛)、鬼神のほうがあらは見え(聴かれ)ないか。
鬼神では、ウラディーミル・アシュケナージさんのピアノ独奏を堪能することもできるしね。
やっぱり、アシュケナージさんはピアニストだ!
デッカのこの頃の録音のつねで、どうにもがしがしぎしがしとした機械臭い音質が時に耳になじまないということも加味した上で、税込み500円以内ならば興味がおありの方はご一聴のほど。
それにしても、僕とフランクの交響曲のCDとの関係には、まだまだよい流れというものはなさそうだ。
指揮:ウラディーミル・アシュケナージ
独奏:ウラディーミル・アシュケナージ(ピアノ。鬼神のみ)
管弦楽:ベルリン放送交響楽団(現ベルリン・ドイツ交響楽団)
録音:1988、89年
<DECCA>425 432-2
人と人との間に流れというものがあるように、人と音楽、人と楽曲の間にも流れというものがあるのではないか。
まあ、それは大仰な物言いだとしても、好き嫌いとは関係なしに、付く付かないというか、寄る寄らないというか、巡り合わせのいい悪いで、慣れ親しんだりそうでなかったりする音楽、楽曲が僕にはあるような気がする。
さしずめ、フランクの交響曲など、その後者の最たる例として挙げることができるだろう。
と、言っても、先述の如く、好き嫌いからだけいえば、僕はこの交響曲が全く嫌いではない。
確かに、許光俊や鈴木淳史が『クラシックCD名盤バトル』<洋泉社新書y>で指摘しているような、循環形式のしんねりむっつりと押しつけがましい趣きには若干重たるさを感じるものの、終楽章の「自問自答に無理から解決策を見い出し、狂喜乱舞」のあり様は、内田百間の「蘭陵王入陣曲」の狂いっぷりを愛好する者としては、実に愉しいかぎりだもの。
(だから、これまで接した二度の実演、山田一雄と京都市交響楽団、ハインツ・ヴァルベルクとケルンWDR交響楽団では、断然前者をとる。ヤマカズさんの、笛吹く上に自分も踊るからみんな踊ってくれ式のあらぶりようには、心が強く動いたほどだ。一方、ヴァルベルクのほうは何が面白いんだか。当然オケの力量はWDRに軍配を上げざるをえまいが。まるでワイマル共和国期のライヒスバンク総裁みたいなヴァルベルクのがちがちした音楽づくりはちっとも面白くなかった)
LP時代など、ヘルベルト・フォン・カラヤンがパリ管弦楽団を指揮した録音と、トマス・ビーチャムがフランス国立放送管弦楽団を指揮した録音を交互にかけて聴き比べに興じたことも一度や二度ではなかったほどだ。
だが、それがどうしたことか、CD時代になって約25年、この間一度たりとてフランクの交響曲のCDを買ってこなかったというのは魔がさしたというかなんというか。
それこそ巡り合わせ、僕とフランクの交響曲の間に、ちっとも流れがなかったということになる。
(ひとつには、これはって思える新しい録音がなかったからかもしれない。FMで聴いたジュリーニ、シャイー、デュトワの各録音も僕には今一つだったし。かといって、今さらカラヤン盤を買い直す気にもならないし…)
今回取り上げるウラディーミル・アシュケナージさん指揮ベルリン放送交響楽団の演奏したCDも、クレモナで中古が半額税込み390円になっていなかったら、たぶん買ってはいなかったんじゃないだろうか。
(付け加えるならば、昨年末に読んだCD関連のムックで、この録音のことが面白おかしく誉められていたことにも、影響されたのかもしれない)
まあ、演奏はアシュケナージさんらしいというか。
音楽の流れに沿って力強いところは力強く、美しいところは美しくと、感覚面での反応はそれなりに聴くべきものがあるように思うのだけど、構造の把握という面でどうにも物足りない。
それと、音の終わりが崩れてしまうというか、どこかしまらない感じがする。
正直、ムックの評価は高過ぎ…、てか、ひいきのひき倒し?
その点、音楽のつくりは同じく確固としているにせよ、まだ交響曲という形式にとらわれていない分、プシュケ(合唱つきの5、6章は割愛)、鬼神のほうがあらは見え(聴かれ)ないか。
鬼神では、ウラディーミル・アシュケナージさんのピアノ独奏を堪能することもできるしね。
やっぱり、アシュケナージさんはピアニストだ!
デッカのこの頃の録音のつねで、どうにもがしがしぎしがしとした機械臭い音質が時に耳になじまないということも加味した上で、税込み500円以内ならば興味がおありの方はご一聴のほど。
それにしても、僕とフランクの交響曲のCDとの関係には、まだまだよい流れというものはなさそうだ。
2009年01月12日
ブックオフで中古CDを買った
4日にクレモナで買った4枚のCDのレビューもアップしていないというのに、昨日ブックオフ京都三条駅ビル店で中古CD(いずれも輸入盤)を2枚購入してしまった。
1:サー・コリン・デイヴィス指揮ザクセン・シュターツカペレ・ドレスデンの演奏した、ベートーヴェンの交響曲第3番「英雄」と「エグモント」序曲<PHILIPS>。
(なお、これは、デイヴィスとザクセン・シュターツカペレ・ドレスデンによるベートーヴェンの交響曲全集発売以前に単売されたCDである)
2:ヴァーノン・ハンドリー指揮アルスター管弦楽団の演奏した、スタンフォードの交響曲第5番とアイルランド狂詩曲第4番<CHANDOS>。
1枚500円だから、2枚で1000円という訳で、大出費ということではないが、それこそ塵も積もれば山となる。
もっと財布のひもをかたく締めておかないと…。
1:サー・コリン・デイヴィス指揮ザクセン・シュターツカペレ・ドレスデンの演奏した、ベートーヴェンの交響曲第3番「英雄」と「エグモント」序曲<PHILIPS>。
(なお、これは、デイヴィスとザクセン・シュターツカペレ・ドレスデンによるベートーヴェンの交響曲全集発売以前に単売されたCDである)
2:ヴァーノン・ハンドリー指揮アルスター管弦楽団の演奏した、スタンフォードの交響曲第5番とアイルランド狂詩曲第4番<CHANDOS>。
1枚500円だから、2枚で1000円という訳で、大出費ということではないが、それこそ塵も積もれば山となる。
もっと財布のひもをかたく締めておかないと…。
2009年01月08日
思い出せないもどかしさ
アリ・ラシライネン指揮ノルウェー放送管弦楽団の演奏した、セヴェルーの「ペール・ギュント」組曲のCDを聴きながら、魚の小骨が喉に刺さったような、なんとも言えないもどかしさを覚えている。
セヴェルーの「ペール・ギュント」組曲は、もちろんグリーグ同様、イプセンの戯曲のために作曲された音楽の中から、いわゆるおいしい部分を取り出してまとめたものだが、祖国の先達グリーグの直球剛速球勝負を踏まえてのことだろう、セヴェルーはこれを曲球変化球を多用した一筋縄ではいかない作品に仕上げている。
で、ラ・マルセイエーズやアルプス一万尺といった、おなじみの旋律がところどころ確信犯的に引用されているのだけれど、ある作曲家の有名な旋律(音型)がその中にあって、前々からよく知っているのに、それが誰のなんという曲だったか、ぱぱっと思い出せない。
思い出せば、なあんだあれだったかということになるし、とっかかりは頭の中にうごめいているのだが。
ああ、くやしいくやしいもどかしい。
ほんと、なんだったかなあ。
*追記
やっと思い出せた、ワーグナーのワルキューレの騎行だったんだ!
セヴェルーの「ペール・ギュント」組曲は、もちろんグリーグ同様、イプセンの戯曲のために作曲された音楽の中から、いわゆるおいしい部分を取り出してまとめたものだが、祖国の先達グリーグの直球剛速球勝負を踏まえてのことだろう、セヴェルーはこれを曲球変化球を多用した一筋縄ではいかない作品に仕上げている。
で、ラ・マルセイエーズやアルプス一万尺といった、おなじみの旋律がところどころ確信犯的に引用されているのだけれど、ある作曲家の有名な旋律(音型)がその中にあって、前々からよく知っているのに、それが誰のなんという曲だったか、ぱぱっと思い出せない。
思い出せば、なあんだあれだったかということになるし、とっかかりは頭の中にうごめいているのだが。
ああ、くやしいくやしいもどかしい。
ほんと、なんだったかなあ。
*追記
やっと思い出せた、ワーグナーのワルキューレの騎行だったんだ!
2009年01月04日
クレモナで中古CDを買った
この20日に閉店するクレモナで、今日からセールが始まるというので、思わず足を運んだ。
クレモナは、新京極通を四条側から入ってすぐ、有名なロンドン焼き屋の横の小さな通りにある中古レコード店で、京都の音楽愛好家から長く親しまれてきたお店だが、ご主人の年齢のことなどもあり、今回閉店することになったのだという。
今日は、正月休みの最終日ということもあって、店内はお客さんで混み合っていた。
で、今日僕が購入した中古CDは、以下の4枚。
1:アンドレ・プレヴィン指揮ロイヤル・フィルの演奏した、エルガーの交響曲第1番<PHILIPS>。
2:ウラディーミル・アシュケナージさん*指揮ベルリン放送交響楽団の演奏した、フランクの交響曲他<DECCA>。
3:ネーメ・ヤルヴィ指揮エーテボリ交響楽団他の演奏した、シベリウスの管弦楽曲集(「カレリア」組曲やフィンランディアなど)<DG>。
4:アリ・ラシライネン指揮ノルウェー放送管弦楽団の演奏した、グリーグとセヴェルーの「ペール・ギュント」組曲集<FINLANDIA>。
なお、全て輸入盤だが、プレヴィンのエルガーには、国内盤使用の帯とブックレットが付いている。
それにしても、以前ちょっとしたトラブルがあったこともあったりして、かえって、晩年の村松克己をもっと人懐こくしたようなご主人のこのお店がなくなるのはさみしい。
仕方がないこととはわかっていても。
閉店までの間、あと何度か足を運んでみようと思う。
*アシュケナージさんは、以前ザ・シンフォニーホールでの来日リサイタルのあとに挨拶をさせてもらったことがあるので、「挨拶をしたことがあったり、面識のある人は、基本的にフルネームでも敬称をつける」というここでの表記法に従って、ウラディーミル・アシュケナージさんと表記した。
クレモナは、新京極通を四条側から入ってすぐ、有名なロンドン焼き屋の横の小さな通りにある中古レコード店で、京都の音楽愛好家から長く親しまれてきたお店だが、ご主人の年齢のことなどもあり、今回閉店することになったのだという。
今日は、正月休みの最終日ということもあって、店内はお客さんで混み合っていた。
で、今日僕が購入した中古CDは、以下の4枚。
1:アンドレ・プレヴィン指揮ロイヤル・フィルの演奏した、エルガーの交響曲第1番<PHILIPS>。
2:ウラディーミル・アシュケナージさん*指揮ベルリン放送交響楽団の演奏した、フランクの交響曲他<DECCA>。
3:ネーメ・ヤルヴィ指揮エーテボリ交響楽団他の演奏した、シベリウスの管弦楽曲集(「カレリア」組曲やフィンランディアなど)<DG>。
4:アリ・ラシライネン指揮ノルウェー放送管弦楽団の演奏した、グリーグとセヴェルーの「ペール・ギュント」組曲集<FINLANDIA>。
なお、全て輸入盤だが、プレヴィンのエルガーには、国内盤使用の帯とブックレットが付いている。
それにしても、以前ちょっとしたトラブルがあったこともあったりして、かえって、晩年の村松克己をもっと人懐こくしたようなご主人のこのお店がなくなるのはさみしい。
仕方がないこととはわかっていても。
閉店までの間、あと何度か足を運んでみようと思う。
*アシュケナージさんは、以前ザ・シンフォニーホールでの来日リサイタルのあとに挨拶をさせてもらったことがあるので、「挨拶をしたことがあったり、面識のある人は、基本的にフルネームでも敬称をつける」というここでの表記法に従って、ウラディーミル・アシュケナージさんと表記した。
2008年12月28日
ヴェーグのモーツァルト
☆モーツァルト:カッサシオン第1番、第2番、アダージョとフーガ
シャーンドル・ヴェーグ指揮カメラータ・アカデミカ・デス・モーツァルテウムス・ザルツブルク
1987年5月、デジタル録音
<CAPRICCIO>10 192
シャーンドル・ヴェーグとカメラータ・ザルツブルク(正式に言うと、当時はカメラータ・アカデミカ・デス・モーツァルテウムス・ザルツブルク。以下、CAMSと略記する)の実演には、1993年夏から1994年冬にかけてのケルン滞在中に一度だけ接したことがある。
確か、今回取り上げるCDにも入っているモーツァルトのカッサシオンや、ハイドンの交響曲第102番がプログラムに組まれていたのではなかったか。
高齢にも関わらず、ヴェーグ翁が若々しく闊達な音楽づくりを行っていたことを記憶している。
と、言うのは、あくまでも「公式見解」で、期待が大きかった分、若手中心のオーケストラのアンサンブルの粗さに、なんだかがっくりしてしまったというのが僕のその時の正直な感想だ。
(今にして思えば、とても大切なものを聴き落していたということなのだけれど、だからと言って僕は、当時の自分自身のそうした受け止め方を否定し切るつもりはない)
今回取り上げるCDは、シャーンドル・ヴェーグとCAMSが残した一連のモーツァルトの管弦楽曲の録音中の一枚で、あまり演奏される機会のない、カッサシオン第1番と第2番に加え、弦楽合奏によるアダージョとフーガハ短調が収められている。
一昨日昨日とアップしたピリオド奏法を援用した演奏や、ピリオド楽器を用いた演奏と異なり、ヴェーグとCAMSの演奏は、いわゆるオーソドックスな流れを汲むものである。
そのため、ピリオド・スタイルのモーツァルトに慣れ親しんだ聴き手からすると、若干刺激に欠ける演奏と聴こえる場合もあるかもしれない。
と、言っても、それはあくまでもピリオド・スタイルと比較すればの話で、音楽の持つ芯の強さのようなものは、流麗で明快な演奏の中にも、はっきりと示されているように僕は思う。
中でも、アダージョとフーガの後半、音楽が畳みかけてくるような部分には、ヴェーグとCAMSの特性がよく表れているのではないだろうか。
(これには、ヴェーグが名うての弦楽器奏者だったということも影響しているかもしれない)
実演で感じたアンサンブルの弱さはこのCDにおいても聴き受けられないことはないが、税込み1000円程度までなら、ピリオド・スタイル好みの人以外には問題なくお薦めできるCDだ。
なお、ヴェーグとCAMSのモーツァルト録音は、現在組み物として申し訳ないくらいの廉価で販売されているけれど、カプリッチョ・レーベル(の親会社のデルタ・ミュージック?)が潰れてしまったため、いつまで入手が可能かはさだかではない。
興味がお有りの方は、HMVやタワーのホームページなどでお調べいただければと考える。
シャーンドル・ヴェーグ指揮カメラータ・アカデミカ・デス・モーツァルテウムス・ザルツブルク
1987年5月、デジタル録音
<CAPRICCIO>10 192
シャーンドル・ヴェーグとカメラータ・ザルツブルク(正式に言うと、当時はカメラータ・アカデミカ・デス・モーツァルテウムス・ザルツブルク。以下、CAMSと略記する)の実演には、1993年夏から1994年冬にかけてのケルン滞在中に一度だけ接したことがある。
確か、今回取り上げるCDにも入っているモーツァルトのカッサシオンや、ハイドンの交響曲第102番がプログラムに組まれていたのではなかったか。
高齢にも関わらず、ヴェーグ翁が若々しく闊達な音楽づくりを行っていたことを記憶している。
と、言うのは、あくまでも「公式見解」で、期待が大きかった分、若手中心のオーケストラのアンサンブルの粗さに、なんだかがっくりしてしまったというのが僕のその時の正直な感想だ。
(今にして思えば、とても大切なものを聴き落していたということなのだけれど、だからと言って僕は、当時の自分自身のそうした受け止め方を否定し切るつもりはない)
今回取り上げるCDは、シャーンドル・ヴェーグとCAMSが残した一連のモーツァルトの管弦楽曲の録音中の一枚で、あまり演奏される機会のない、カッサシオン第1番と第2番に加え、弦楽合奏によるアダージョとフーガハ短調が収められている。
一昨日昨日とアップしたピリオド奏法を援用した演奏や、ピリオド楽器を用いた演奏と異なり、ヴェーグとCAMSの演奏は、いわゆるオーソドックスな流れを汲むものである。
そのため、ピリオド・スタイルのモーツァルトに慣れ親しんだ聴き手からすると、若干刺激に欠ける演奏と聴こえる場合もあるかもしれない。
と、言っても、それはあくまでもピリオド・スタイルと比較すればの話で、音楽の持つ芯の強さのようなものは、流麗で明快な演奏の中にも、はっきりと示されているように僕は思う。
中でも、アダージョとフーガの後半、音楽が畳みかけてくるような部分には、ヴェーグとCAMSの特性がよく表れているのではないだろうか。
(これには、ヴェーグが名うての弦楽器奏者だったということも影響しているかもしれない)
実演で感じたアンサンブルの弱さはこのCDにおいても聴き受けられないことはないが、税込み1000円程度までなら、ピリオド・スタイル好みの人以外には問題なくお薦めできるCDだ。
なお、ヴェーグとCAMSのモーツァルト録音は、現在組み物として申し訳ないくらいの廉価で販売されているけれど、カプリッチョ・レーベル(の親会社のデルタ・ミュージック?)が潰れてしまったため、いつまで入手が可能かはさだかではない。
興味がお有りの方は、HMVやタワーのホームページなどでお調べいただければと考える。
2008年12月27日
バセットホルン・ボンボン
☆モーツァルト/バセットホルン・ボンボン
演奏:シュタードラー・トリオ
録音:1988年6月
<PHILIPS>446 106-2
三者三様、千差万別、十人十色、朱に交われば赤くなり。
って、最後のだけは違ったか。
この世に同じ人間が二人といないように、ピリオド楽器による演奏も、ピリオド奏法を援用したモダン楽器による演奏も、演奏者並びに作品が変わればその内容は大きく異なったものとなる。
さしずめ、前回取り上げたニコラウス・アーノンクール指揮アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団によるハイドンの二つの交響曲がシンフォニックな拡がりを持った外向的な音楽であり演奏であるとすれば、今回取り上げるシュタードラー・トリオを中心としたこのアルバムは、インティメートな雰囲気が濃密な内向きの音楽であり演奏と評することができるのではないか。
(もちろん、ここでいう内向きとは、いわゆる「内向的」といったマイナスのイメージが伴うものではない。あくまでも、音楽の本質の違いを言い表したかっただけだ)
モーツァルトの、バセットホルン(相当単純化して説明すると、クラリネットの仲間)やクラリネットによるトリオのための小品に加え、そのトリオを伴奏とした三重唱曲を収めたこのCDは、まさしく作曲家とその仲間たちが味わっただろう愉しさや親密さに満ちあふれていて、こちらも聴くたびに本当にほっこりとした気分になってくる。
もちろんそれには、ピリオド楽器の腕扱き奏者エリック・ヘープリチをはじめとした、18世紀オーケストラメンバーによるシュタードラー・トリオ(このアルバムに収録された作品の成立にも関係した、モーツァルトの友人の名が冠されている)の力まず激さずばたつかない、柔らかくて暖かい演奏も大きくものを言っていることは、改めて言うまでもあるまい。
加えて、カミユ・ヴァン・ルネン(ソプラノ)、マイラ・クレーゼ(アルト)、ペーター・ダイクストラ(バス)の三人も、澄んだ歌声とバランスのよい歌唱で、作品やシュタードラー・トリオの演奏ととてもぴったりだと思う。
これまた中古で税込み500円で手に入れたCDだが、税込み1200円程度までなら安心してお薦めできる一枚。
特に、モーツァルト・ファンには大推薦だ。
演奏:シュタードラー・トリオ
録音:1988年6月
<PHILIPS>446 106-2
三者三様、千差万別、十人十色、朱に交われば赤くなり。
って、最後のだけは違ったか。
この世に同じ人間が二人といないように、ピリオド楽器による演奏も、ピリオド奏法を援用したモダン楽器による演奏も、演奏者並びに作品が変わればその内容は大きく異なったものとなる。
さしずめ、前回取り上げたニコラウス・アーノンクール指揮アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団によるハイドンの二つの交響曲がシンフォニックな拡がりを持った外向的な音楽であり演奏であるとすれば、今回取り上げるシュタードラー・トリオを中心としたこのアルバムは、インティメートな雰囲気が濃密な内向きの音楽であり演奏と評することができるのではないか。
(もちろん、ここでいう内向きとは、いわゆる「内向的」といったマイナスのイメージが伴うものではない。あくまでも、音楽の本質の違いを言い表したかっただけだ)
モーツァルトの、バセットホルン(相当単純化して説明すると、クラリネットの仲間)やクラリネットによるトリオのための小品に加え、そのトリオを伴奏とした三重唱曲を収めたこのCDは、まさしく作曲家とその仲間たちが味わっただろう愉しさや親密さに満ちあふれていて、こちらも聴くたびに本当にほっこりとした気分になってくる。
もちろんそれには、ピリオド楽器の腕扱き奏者エリック・ヘープリチをはじめとした、18世紀オーケストラメンバーによるシュタードラー・トリオ(このアルバムに収録された作品の成立にも関係した、モーツァルトの友人の名が冠されている)の力まず激さずばたつかない、柔らかくて暖かい演奏も大きくものを言っていることは、改めて言うまでもあるまい。
加えて、カミユ・ヴァン・ルネン(ソプラノ)、マイラ・クレーゼ(アルト)、ペーター・ダイクストラ(バス)の三人も、澄んだ歌声とバランスのよい歌唱で、作品やシュタードラー・トリオの演奏ととてもぴったりだと思う。
これまた中古で税込み500円で手に入れたCDだが、税込み1200円程度までなら安心してお薦めできる一枚。
特に、モーツァルト・ファンには大推薦だ。
2008年12月26日
アーノンクールの太鼓連打とロンドン
☆ハイドン:交響曲第103番「太鼓連打」、交響曲第104番「ロンドン」
指揮:ニコラウス・アーノンクール
管弦楽:アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団
録音:1987年6月
<TELDEC>8.43752(243 526-2)
前年に京都賞を受賞し、2006年秋には手兵コンツェントゥス・ムジクス・ウィーン、並びにウィーン・フィルとの来日公演を成功させたニコラウス・アーノンクールは、現在世界を代表する指揮者の一人であり、音楽家の一人である。
そして、彼もその一翼を担ったピリオド楽器による演奏やピリオド奏法を援用したモダン楽器による演奏は、完全とは言えないまでも、今やバロック、古典派、さらには初期ロマン派の作品を再現する際に避けては通れないものとなっている。
だが、約30年ほど前、というから、ちょうど僕がクラシック音楽を熱心に聴き始めた頃のことになるが、ニコラウス・アーノンクールがそれまでのバロック音楽に留まらず、モーツァルトやハイドンといった古典派の音楽を演奏しだした時の拒否反応というものは、今では想像のつかない激しいものだった。
確かNHK・FMで放送された、ウィーン国立歌劇場における『魔法の笛』のライヴ録音には、生々しいブーイングの声も収録されていたはずだし、コンツェントゥス・ムジクス・ウィーンとのモーツァルトのレクイエムを初めて耳にした時は、僕もそのガット弦の針金をこすり合わせたような音色やアーノンクールの強烈な音楽解釈には大きなショックと違和感を覚えたものだ。
今回ここで取り上げる、アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団との、ハイドンの交響曲第103番「太鼓連打」と第104番「ロンドン」のCDも、ニコラウス・アーノンクールへの評価が未だ賛否相半ばしていた時期、1987年6月に録音されたものである。
(ちなみに、創立100周年を記念してコンセルトヘボウ管弦楽団にロイヤルの名が冠されるのは、翌年1988年で、だからこのCDでの表記は旧名のままだ)
で、以下は上述した事どもを踏まえての感想なのだけれど、この録音から20年を経過した2008年現在においては、この両曲の演奏が奇異に感じられることは、まずもってない。
少なくとも、僕にはない。
確かに、アーノンクールの音楽づくり(強弱の付け方、アクセントの置き方等々)は独特なもので、例えば、ブルーノ・ワルターやトマス・ビーチャム、ピエール・モントゥーたちのハイドン演奏ばかりを耳にしている人ならば、必ず「えっ?!」と顔面を強張らせることは間違いないとは思うのだけれど。
でも、よい意味で(もしかしたら、悪い意味でも?)、僕はピリオド楽器による演奏やピリオド奏法の洗礼を受け過ぎてきたのだ。
ただ、その分、この二つの交響曲の持つ音楽的な拡がり(そこには、それまでのヨハン・クリスティアン・バッハやアーベルの交響曲との違いも含める)や音楽的仕掛けの在り処がよくわかるし、一つにはレーベル側の営業的な計算もあったのかもしれないが、ハイドンの後期交響曲=いわゆるザロモン・セットを録音するにあたって何ゆえアーノンクールがコンセルトヘボウ管弦楽団を選んだのかもよくわかる。
(この頃のコンセルトヘボウ管弦楽団って、見事なオーケストラだなあ。聴いていて、本当にそう思う)
いずれにしても、「太鼓連打」冒頭のティンパニ連打をはじめ、アーノンクールの音楽的個性によく添ったテルデックの録音ともども、実に聴き応えのある一枚と言える。
僕は初出時のCDを、中古で税込み500円で手に入れたが、これは税込み1500円程度までなら安心してお薦めできる一枚だ。
太鼓連打とロンドンのファーストチョイスとしても大推薦である。
指揮:ニコラウス・アーノンクール
管弦楽:アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団
録音:1987年6月
<TELDEC>8.43752(243 526-2)
前年に京都賞を受賞し、2006年秋には手兵コンツェントゥス・ムジクス・ウィーン、並びにウィーン・フィルとの来日公演を成功させたニコラウス・アーノンクールは、現在世界を代表する指揮者の一人であり、音楽家の一人である。
そして、彼もその一翼を担ったピリオド楽器による演奏やピリオド奏法を援用したモダン楽器による演奏は、完全とは言えないまでも、今やバロック、古典派、さらには初期ロマン派の作品を再現する際に避けては通れないものとなっている。
だが、約30年ほど前、というから、ちょうど僕がクラシック音楽を熱心に聴き始めた頃のことになるが、ニコラウス・アーノンクールがそれまでのバロック音楽に留まらず、モーツァルトやハイドンといった古典派の音楽を演奏しだした時の拒否反応というものは、今では想像のつかない激しいものだった。
確かNHK・FMで放送された、ウィーン国立歌劇場における『魔法の笛』のライヴ録音には、生々しいブーイングの声も収録されていたはずだし、コンツェントゥス・ムジクス・ウィーンとのモーツァルトのレクイエムを初めて耳にした時は、僕もそのガット弦の針金をこすり合わせたような音色やアーノンクールの強烈な音楽解釈には大きなショックと違和感を覚えたものだ。
今回ここで取り上げる、アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団との、ハイドンの交響曲第103番「太鼓連打」と第104番「ロンドン」のCDも、ニコラウス・アーノンクールへの評価が未だ賛否相半ばしていた時期、1987年6月に録音されたものである。
(ちなみに、創立100周年を記念してコンセルトヘボウ管弦楽団にロイヤルの名が冠されるのは、翌年1988年で、だからこのCDでの表記は旧名のままだ)
で、以下は上述した事どもを踏まえての感想なのだけれど、この録音から20年を経過した2008年現在においては、この両曲の演奏が奇異に感じられることは、まずもってない。
少なくとも、僕にはない。
確かに、アーノンクールの音楽づくり(強弱の付け方、アクセントの置き方等々)は独特なもので、例えば、ブルーノ・ワルターやトマス・ビーチャム、ピエール・モントゥーたちのハイドン演奏ばかりを耳にしている人ならば、必ず「えっ?!」と顔面を強張らせることは間違いないとは思うのだけれど。
でも、よい意味で(もしかしたら、悪い意味でも?)、僕はピリオド楽器による演奏やピリオド奏法の洗礼を受け過ぎてきたのだ。
ただ、その分、この二つの交響曲の持つ音楽的な拡がり(そこには、それまでのヨハン・クリスティアン・バッハやアーベルの交響曲との違いも含める)や音楽的仕掛けの在り処がよくわかるし、一つにはレーベル側の営業的な計算もあったのかもしれないが、ハイドンの後期交響曲=いわゆるザロモン・セットを録音するにあたって何ゆえアーノンクールがコンセルトヘボウ管弦楽団を選んだのかもよくわかる。
(この頃のコンセルトヘボウ管弦楽団って、見事なオーケストラだなあ。聴いていて、本当にそう思う)
いずれにしても、「太鼓連打」冒頭のティンパニ連打をはじめ、アーノンクールの音楽的個性によく添ったテルデックの録音ともども、実に聴き応えのある一枚と言える。
僕は初出時のCDを、中古で税込み500円で手に入れたが、これは税込み1500円程度までなら安心してお薦めできる一枚だ。
太鼓連打とロンドンのファーストチョイスとしても大推薦である。
2008年12月21日
コチシュの弾くリスト、ドホナーニ
☆リスト:ピアノ協奏曲集
リスト:ピアノ協奏曲第1番、第2番
ドホナーニ:童謡の主題による変奏曲
独奏:ゾルタン・コチシュ(ピアノ)
指揮:イヴァン・フィッシャー
管弦楽:ブダペスト祝祭管弦楽団
<PH>422 380-2
ここだけの話、ロマン派期の協奏曲ってあんまりCDで聴く気にはなれない。
なぜなら、もともと天才鬼才、いわゆるヴィルトゥオーゾたちのために書かれたものだけに、耳だけじゃなくて目でも愉しむ要素の強い作品がほとんどだし、それより何より、ダーンダーンダダダダとか、チャンスカチャラチャラバカスカジャンといった第1楽章や終楽章のこけおどし的なオーケストレーションを部屋で一人、スピーカーを前にして聴いていると、「いったい自分は何をやってるんだろう」とどうにも醒めた気持ちになってしまうもの。
(そうしたこけおどしが、劇的効果を狙った聴衆の耳目をひくための景気づけとわかっているからこそなおさら)
だから、LP時代から現在にいたるまで、今回取り上げるリストのピアノ協奏曲などついぞ手元に置いたことがなかった。
(付け加えるならば、パガニーニやドヴォルザークのヴァイオリン協奏曲、ラロのスペイン交響曲のCDも持っていない。いずれも、冒頭部分の大仰さが「室内」向きではないと思ってのことだ)
それがどうして、今頃になってリストのピアノ協奏曲のCDを購入したかというと、中古とはいえ、このアルバムが500円になっていたからであり、ドホナーニ(指揮者クリストフ・フォン・ドホナーニの祖父)の珍しい作品がカップリングされていたからである。
で、実際、このCDの聴きものは、ドホナーニのほうなんじゃないかと僕は思う。
少なくとも、僕が一番感心したのはドホナーニの童謡の主題による変奏曲だ。
ドホナーニのこの作品は、「ああ、ママに言うわ」、と言うより、キラキラ星の名でおなじみのあの旋律を主題にしたピアノと管弦楽のための変奏曲なのだけれど、大仰極まりない冒頭部分からして、批判精神とユーモア精神に満ちあふれた実に聴き応えのある音楽となっている。
自らピアニストとして活躍していたこともあって、ピアノ・ソロのつくりは当然しっかりしているし、後期ロマン派の骨法をよく身につけたオーケストレーションだって愉しいかぎりだ。
確かに大名曲とは言い難いかもしれないけれど、もっとコンサートで演奏されてもいいのではないかとすら思うほどである。
コチシュのソロは、技術的にも精神的にも過不足のないもので、この作品を識るという意味では、全くもって問題がない。
一方、リストのピアノ協奏曲においても、コチシュの特性美質は十二分に発揮されている。
透徹した抒情性とでも評するべきだろうか、リストのコンチェルトの持つリリカルな側面を的確に表しながら、それが変にべとつくことがない。
また、テクニックやパワーの面でも作品と互角に渡り合い、位負けしていない。
コチシュのソロ、だけを取り出せば、見事の一語と言うべきだろう。
問題なのは、イヴァン・フィッシャーとブダペスト祝祭管弦楽団の伴奏である。
カエサルのものはカエサルに、じゃない、マジャールのものはマジャールに、という考え方自体はもちろん悪くなくて、僕自身、あらぶるフン族魂大噴火式のフォルテ部分は面白くって仕方がなかったのだが、繰り返し聴くというCD本来の目的からいうと、少々以上に粗さが目立つ。
加えて、第1番の冒頭部分がそうであるように、テンポ感がよくないというか、どこかしまりのない感じもつきまとう。
正直、そうした点が、このアルバム自体の評価を大きく分ける原因ともなっているのではないか。
とはいえ、ドホナーニを聴くためだけでも買って損のないCDだとも、僕は考える。
税込み800円以下なら「買い」の一枚だろう。
なお、ドホナーニの童謡の主題による変奏曲は、マティアス・バーメルト指揮BBCフィル他による録音がシャンドス・レーベルからリリースされている。
また、ドホナーニには、「わらの中の七面鳥」の旋律が効果的に使用されたアメリカ狂詩曲というオーケストラのための作品があって、こちらはバーメルト指揮BBCフィルの録音(交響曲第1番とのカップリング)のほか、アラン・フランシス指揮フランクフルト放送交響楽団の録音(ヴァイオリン協奏曲第1番とのカップリング。CPOレーベル)もある。
興味がおありの方は、ご一聴のほど。
(できれば、童謡の主題による変奏曲やアメリカ狂詩曲は、交響曲第1番を録音しているレオン・ボッツタインとロンドン交響楽団による演奏のリリースをテラーク・レーベルに期待したいところなのだが、無理かなやっぱり。そういえば、ボッツタインと北ドイツ放送交響楽団の演奏したブルーノ・ワルターの交響曲がCPOレーベルから出る予定だが、ボッツタインとテラーク・レーベルの契約は切れてしまったのか?)
リスト:ピアノ協奏曲第1番、第2番
ドホナーニ:童謡の主題による変奏曲
独奏:ゾルタン・コチシュ(ピアノ)
指揮:イヴァン・フィッシャー
管弦楽:ブダペスト祝祭管弦楽団
<PH>422 380-2
ここだけの話、ロマン派期の協奏曲ってあんまりCDで聴く気にはなれない。
なぜなら、もともと天才鬼才、いわゆるヴィルトゥオーゾたちのために書かれたものだけに、耳だけじゃなくて目でも愉しむ要素の強い作品がほとんどだし、それより何より、ダーンダーンダダダダとか、チャンスカチャラチャラバカスカジャンといった第1楽章や終楽章のこけおどし的なオーケストレーションを部屋で一人、スピーカーを前にして聴いていると、「いったい自分は何をやってるんだろう」とどうにも醒めた気持ちになってしまうもの。
(そうしたこけおどしが、劇的効果を狙った聴衆の耳目をひくための景気づけとわかっているからこそなおさら)
だから、LP時代から現在にいたるまで、今回取り上げるリストのピアノ協奏曲などついぞ手元に置いたことがなかった。
(付け加えるならば、パガニーニやドヴォルザークのヴァイオリン協奏曲、ラロのスペイン交響曲のCDも持っていない。いずれも、冒頭部分の大仰さが「室内」向きではないと思ってのことだ)
それがどうして、今頃になってリストのピアノ協奏曲のCDを購入したかというと、中古とはいえ、このアルバムが500円になっていたからであり、ドホナーニ(指揮者クリストフ・フォン・ドホナーニの祖父)の珍しい作品がカップリングされていたからである。
で、実際、このCDの聴きものは、ドホナーニのほうなんじゃないかと僕は思う。
少なくとも、僕が一番感心したのはドホナーニの童謡の主題による変奏曲だ。
ドホナーニのこの作品は、「ああ、ママに言うわ」、と言うより、キラキラ星の名でおなじみのあの旋律を主題にしたピアノと管弦楽のための変奏曲なのだけれど、大仰極まりない冒頭部分からして、批判精神とユーモア精神に満ちあふれた実に聴き応えのある音楽となっている。
自らピアニストとして活躍していたこともあって、ピアノ・ソロのつくりは当然しっかりしているし、後期ロマン派の骨法をよく身につけたオーケストレーションだって愉しいかぎりだ。
確かに大名曲とは言い難いかもしれないけれど、もっとコンサートで演奏されてもいいのではないかとすら思うほどである。
コチシュのソロは、技術的にも精神的にも過不足のないもので、この作品を識るという意味では、全くもって問題がない。
一方、リストのピアノ協奏曲においても、コチシュの特性美質は十二分に発揮されている。
透徹した抒情性とでも評するべきだろうか、リストのコンチェルトの持つリリカルな側面を的確に表しながら、それが変にべとつくことがない。
また、テクニックやパワーの面でも作品と互角に渡り合い、位負けしていない。
コチシュのソロ、だけを取り出せば、見事の一語と言うべきだろう。
問題なのは、イヴァン・フィッシャーとブダペスト祝祭管弦楽団の伴奏である。
カエサルのものはカエサルに、じゃない、マジャールのものはマジャールに、という考え方自体はもちろん悪くなくて、僕自身、あらぶるフン族魂大噴火式のフォルテ部分は面白くって仕方がなかったのだが、繰り返し聴くというCD本来の目的からいうと、少々以上に粗さが目立つ。
加えて、第1番の冒頭部分がそうであるように、テンポ感がよくないというか、どこかしまりのない感じもつきまとう。
正直、そうした点が、このアルバム自体の評価を大きく分ける原因ともなっているのではないか。
とはいえ、ドホナーニを聴くためだけでも買って損のないCDだとも、僕は考える。
税込み800円以下なら「買い」の一枚だろう。
なお、ドホナーニの童謡の主題による変奏曲は、マティアス・バーメルト指揮BBCフィル他による録音がシャンドス・レーベルからリリースされている。
また、ドホナーニには、「わらの中の七面鳥」の旋律が効果的に使用されたアメリカ狂詩曲というオーケストラのための作品があって、こちらはバーメルト指揮BBCフィルの録音(交響曲第1番とのカップリング)のほか、アラン・フランシス指揮フランクフルト放送交響楽団の録音(ヴァイオリン協奏曲第1番とのカップリング。CPOレーベル)もある。
興味がおありの方は、ご一聴のほど。
(できれば、童謡の主題による変奏曲やアメリカ狂詩曲は、交響曲第1番を録音しているレオン・ボッツタインとロンドン交響楽団による演奏のリリースをテラーク・レーベルに期待したいところなのだが、無理かなやっぱり。そういえば、ボッツタインと北ドイツ放送交響楽団の演奏したブルーノ・ワルターの交響曲がCPOレーベルから出る予定だが、ボッツタインとテラーク・レーベルの契約は切れてしまったのか?)
2008年11月29日
オルフェウス室内管弦楽団のモーツァルトの協奏交響曲
☆モーツァルト:協奏交響曲K.364、K.297b
トッド・フィリップス(ヴァイオリン)
モーリーン・ギャラガー(ヴィオラ)
スティーヴン・テイラー(オーボエ)
デイヴィッド・シンガー(クラリネット)
ウィリアム・パーヴィス(ホルン)
スティーヴン・ディブナー(ファゴット)
オルフェウス室内管弦楽団
1989年12月、デジタル録音
<DG/ドイツ・グラモフォン>429 784-2
オルフェウス室内管弦楽団といえば、指揮者を置かない自発的・民主的なオーケストラという売りで、ちょうど僕がクラシック音楽を熱心に聴き始めた頃、というから、今から25年ほど前に鮮烈なデビューを果たしたアメリカのアンサンブルだが、今回はそのオルフェウス室内管弦楽団の面々によるモーツァルトの二つの協奏交響曲のCDを取り上げる。
で、この二つの作品の詳細については、それこそ、例えば『モーツァルト名盤大全』<音楽之友社>のような専門書・入門書にあたっていただきたいと思うのだけれど、簡単にいえば、協奏曲的なソロの妙技と、交響楽的なアンサンブルの妙味を同時に味わうことのできる一粒で二度美味しいつくりのジャンルの作品である。
まず、ヴァイオリンとヴィオラの独奏によるK364の協奏交響曲は、独奏者二人の折り目が正しく清新なソロや、オーボエ・ホルンの活躍には好感が持てるものの、オルフェウス室内管弦楽団の特性と大きな構えの音楽づくりにどうしてもずれを感じてしまったことも事実で、この作品の最高の名演の一つとは、残念ながら僕には言い切れない。
ただし、こうやってCDで繰り返し聴くのにはぴったりの演奏であると思ったこともはっきりと明記しておきたい。
一方、未だに偽作の疑いが濃厚な管楽器のための協奏交響曲K297bは、古くはマリナー盤、今ではハーゼルベック盤と、ロバート・レヴィンの補筆版を聴き続けてきたこともあって、本来の版を聴くと、毎回座りの悪さを感じてきたのだが、驚くことにこのオルフェウス室内管弦楽団のCDだとそうした違和感を全く持たずに全曲聴き終えることができた。
当然、それにソリストたちの優れた演奏が大きく関係していることは言うまでもないことだろうけれど、それより何より、アンサンブルとしてのバランスが見事にとれているという点を僕は強調したい。
そして、この演奏が、まさしく協奏交響曲の真骨頂を示す演奏であり、なおかつオルフェウス室内管弦楽団の本質をよく表した演奏になっているとも、僕は強く思う。
(この作品のモダン楽器による録音としては、第一にお薦めしたいとすら言い切りたいほどだ)
それにしても、これだけ愉しめるCDを、いくら中古CDとはいえ僅か452円で手に入れることができるとは。
しかも目立った傷のない、美質な盤だというのだから、これこそ本当に有り難い話だと痛感した次第。
トッド・フィリップス(ヴァイオリン)
モーリーン・ギャラガー(ヴィオラ)
スティーヴン・テイラー(オーボエ)
デイヴィッド・シンガー(クラリネット)
ウィリアム・パーヴィス(ホルン)
スティーヴン・ディブナー(ファゴット)
オルフェウス室内管弦楽団
1989年12月、デジタル録音
<DG/ドイツ・グラモフォン>429 784-2
オルフェウス室内管弦楽団といえば、指揮者を置かない自発的・民主的なオーケストラという売りで、ちょうど僕がクラシック音楽を熱心に聴き始めた頃、というから、今から25年ほど前に鮮烈なデビューを果たしたアメリカのアンサンブルだが、今回はそのオルフェウス室内管弦楽団の面々によるモーツァルトの二つの協奏交響曲のCDを取り上げる。
で、この二つの作品の詳細については、それこそ、例えば『モーツァルト名盤大全』<音楽之友社>のような専門書・入門書にあたっていただきたいと思うのだけれど、簡単にいえば、協奏曲的なソロの妙技と、交響楽的なアンサンブルの妙味を同時に味わうことのできる一粒で二度美味しいつくりのジャンルの作品である。
まず、ヴァイオリンとヴィオラの独奏によるK364の協奏交響曲は、独奏者二人の折り目が正しく清新なソロや、オーボエ・ホルンの活躍には好感が持てるものの、オルフェウス室内管弦楽団の特性と大きな構えの音楽づくりにどうしてもずれを感じてしまったことも事実で、この作品の最高の名演の一つとは、残念ながら僕には言い切れない。
ただし、こうやってCDで繰り返し聴くのにはぴったりの演奏であると思ったこともはっきりと明記しておきたい。
一方、未だに偽作の疑いが濃厚な管楽器のための協奏交響曲K297bは、古くはマリナー盤、今ではハーゼルベック盤と、ロバート・レヴィンの補筆版を聴き続けてきたこともあって、本来の版を聴くと、毎回座りの悪さを感じてきたのだが、驚くことにこのオルフェウス室内管弦楽団のCDだとそうした違和感を全く持たずに全曲聴き終えることができた。
当然、それにソリストたちの優れた演奏が大きく関係していることは言うまでもないことだろうけれど、それより何より、アンサンブルとしてのバランスが見事にとれているという点を僕は強調したい。
そして、この演奏が、まさしく協奏交響曲の真骨頂を示す演奏であり、なおかつオルフェウス室内管弦楽団の本質をよく表した演奏になっているとも、僕は強く思う。
(この作品のモダン楽器による録音としては、第一にお薦めしたいとすら言い切りたいほどだ)
それにしても、これだけ愉しめるCDを、いくら中古CDとはいえ僅か452円で手に入れることができるとは。
しかも目立った傷のない、美質な盤だというのだから、これこそ本当に有り難い話だと痛感した次第。
2008年11月19日
ムストネンの弾くシベリウスのピアノ作品集
☆シベリウス:ピアノ作品集
オリ・ムストネン(ピアノ)
2002年7月、デジタル録音
<ONDINE>ODE1014-2
デッカやRCAといったメジャー・レーベルとの契約が切れて、一時ほどの大がかりなCDリリースはなくなったオリ・ムストネンだが、世界的なコンサート活動や母国フィンランドのオンディーヌ・レーベルへの録音、さらには指揮者へのかかんな挑戦と、現在でも広範囲な活躍は続いている。
先述したオンディーヌ・レーベルからリリースされた、このシベリウスのピアノ作品集も、そうしたオリ・ムストネンの好調ぶりが十二分に発揮された一枚と言えるだろう。
シベリウスというと、どうしても交響曲を中心としたオーケストラ作品(その中には、当然ヴァイオリン協奏曲も含まれる)に関心がいきがちで、実際それに見合うだけの力作傑作ぞろいなのだけれど、こうやってピアノ作品をじっくり聴いてみると、確かに大向こうをうならせるような派手さには欠けるものの、なかなかどうして、知らないまま聴かないままでいるには惜しい魅力的な音楽世界は築き上げられている。
このアルバムには、10の小品や13の小品、ロンディーノ、バガテル集などが収めらているが、その多くが抒情性と透明感にあふれる美しいメロディと極端に走らないほどよい実験性、前衛性との調和がうまくとれた音楽に仕上がっていて、実に聴き心地がよい。
もちろんそこには、ムストネンのドライ過ぎずウェット過ぎず、高い技術力を持ちながらテクニック偏重に陥らない、なおかつ一つ一つの作品に対するテキストの読み込みの深い演奏が大きく貢献してるだろうことは、言うまでもないことだろうけれど。
作品やムストネンの音楽性によく添ったオンディーヌ・レーベルのクリアな録音も含めて、大いに満足のできる出来上がりで、特にこれから晩冬までの静かな夜、一人ゆっくり耳を傾けるのには最適なアルバムではないか。
ムストネンの熱狂的なファンやシベリウス・フリーク、北欧音楽好きピアノ音楽好きにとどまらず、その他クラシック音楽好きにも強くお薦めしたい。
大推薦。
オリ・ムストネン(ピアノ)
2002年7月、デジタル録音
<ONDINE>ODE1014-2
デッカやRCAといったメジャー・レーベルとの契約が切れて、一時ほどの大がかりなCDリリースはなくなったオリ・ムストネンだが、世界的なコンサート活動や母国フィンランドのオンディーヌ・レーベルへの録音、さらには指揮者へのかかんな挑戦と、現在でも広範囲な活躍は続いている。
先述したオンディーヌ・レーベルからリリースされた、このシベリウスのピアノ作品集も、そうしたオリ・ムストネンの好調ぶりが十二分に発揮された一枚と言えるだろう。
シベリウスというと、どうしても交響曲を中心としたオーケストラ作品(その中には、当然ヴァイオリン協奏曲も含まれる)に関心がいきがちで、実際それに見合うだけの力作傑作ぞろいなのだけれど、こうやってピアノ作品をじっくり聴いてみると、確かに大向こうをうならせるような派手さには欠けるものの、なかなかどうして、知らないまま聴かないままでいるには惜しい魅力的な音楽世界は築き上げられている。
このアルバムには、10の小品や13の小品、ロンディーノ、バガテル集などが収めらているが、その多くが抒情性と透明感にあふれる美しいメロディと極端に走らないほどよい実験性、前衛性との調和がうまくとれた音楽に仕上がっていて、実に聴き心地がよい。
もちろんそこには、ムストネンのドライ過ぎずウェット過ぎず、高い技術力を持ちながらテクニック偏重に陥らない、なおかつ一つ一つの作品に対するテキストの読み込みの深い演奏が大きく貢献してるだろうことは、言うまでもないことだろうけれど。
作品やムストネンの音楽性によく添ったオンディーヌ・レーベルのクリアな録音も含めて、大いに満足のできる出来上がりで、特にこれから晩冬までの静かな夜、一人ゆっくり耳を傾けるのには最適なアルバムではないか。
ムストネンの熱狂的なファンやシベリウス・フリーク、北欧音楽好きピアノ音楽好きにとどまらず、その他クラシック音楽好きにも強くお薦めしたい。
大推薦。
2008年10月26日
東京カルテットの「死と乙女」
☆シューベルト:弦楽4重奏曲第14番「死と乙女」&第4番
東京カルテット
1989年、デジタル録音
<RCA>7990-2-RC
桐朋学園出身でジュリアード音楽院に留学中の日本人4人によって結成された東京カルテットだが、その結成当初のメンバーによる清新な演奏や現在の落ち着いた雰囲気の漂う演奏にも増して、第1ヴァイオリン奏者をピーター・ウンジャンがつとめた1980年代から1990年代、RCA=BMGに数々の録音を重ねていた頃の演奏が、僕には強く印象に残る。
このシューベルトの弦楽4重奏曲第14番「死と乙女」と第4番がカップリングされたCDも、そうしたウンジャン時代に録音された一枚である。
(なお、シューベルトの弦楽4重奏曲では他に、第9番と第13番「ロザムンデ」、第15番の2枚がリリースされていた)
第2楽章に歌曲『死と乙女』の音型を用いた変奏曲が置かれていることでも知られる弦楽4重奏曲第14番は、激しい感情表現に貫かれた密度の濃い作品で、シューベルトの晩年を代表する一曲と言ってもまず過言ではないだろう。
東京カルテットは、強い集中力とバランスのよくとれた緊密なアンサンブルで、そうした作品の持つドラマティックな側面を巧みに浮き彫りにしている。
また、作品の持つ幅の拡がりというか、交響楽的な拡がりもよく表しているのではないか。
特に、ベートーヴェンの弦楽4重奏曲第11番「セリオーソ」からの影響が強く感じられる第1楽章では、東京カルテットの音楽づくりの魅力が十二分に発揮されているように思う。
一方、第4番の弦楽4重奏曲でも、東京カルテットの音楽的な方向性は首尾一貫していて、演奏によっては弛緩しきってしまう可能性の高い難所も隙を感じさせない演奏で見事にクリアしている。
(その分、いわゆる歌謡性には若干欠けるかもしれないが、シューベルトの音楽の持つ一つの側面を明らかにするという意味でも、アルバム全体の統一という意味でも、東京カルテットのこの録音は高く評価に値すると僕は考える)
東京カルテットの演奏によく添ったRCAドライで解像度の高い録音も含めて、繰り返し聴けば聴くほど愉しさを満喫できる一枚。
いくら中古とはいえ、税込み630円は安すぎる!
東京カルテット
1989年、デジタル録音
<RCA>7990-2-RC
桐朋学園出身でジュリアード音楽院に留学中の日本人4人によって結成された東京カルテットだが、その結成当初のメンバーによる清新な演奏や現在の落ち着いた雰囲気の漂う演奏にも増して、第1ヴァイオリン奏者をピーター・ウンジャンがつとめた1980年代から1990年代、RCA=BMGに数々の録音を重ねていた頃の演奏が、僕には強く印象に残る。
このシューベルトの弦楽4重奏曲第14番「死と乙女」と第4番がカップリングされたCDも、そうしたウンジャン時代に録音された一枚である。
(なお、シューベルトの弦楽4重奏曲では他に、第9番と第13番「ロザムンデ」、第15番の2枚がリリースされていた)
第2楽章に歌曲『死と乙女』の音型を用いた変奏曲が置かれていることでも知られる弦楽4重奏曲第14番は、激しい感情表現に貫かれた密度の濃い作品で、シューベルトの晩年を代表する一曲と言ってもまず過言ではないだろう。
東京カルテットは、強い集中力とバランスのよくとれた緊密なアンサンブルで、そうした作品の持つドラマティックな側面を巧みに浮き彫りにしている。
また、作品の持つ幅の拡がりというか、交響楽的な拡がりもよく表しているのではないか。
特に、ベートーヴェンの弦楽4重奏曲第11番「セリオーソ」からの影響が強く感じられる第1楽章では、東京カルテットの音楽づくりの魅力が十二分に発揮されているように思う。
一方、第4番の弦楽4重奏曲でも、東京カルテットの音楽的な方向性は首尾一貫していて、演奏によっては弛緩しきってしまう可能性の高い難所も隙を感じさせない演奏で見事にクリアしている。
(その分、いわゆる歌謡性には若干欠けるかもしれないが、シューベルトの音楽の持つ一つの側面を明らかにするという意味でも、アルバム全体の統一という意味でも、東京カルテットのこの録音は高く評価に値すると僕は考える)
東京カルテットの演奏によく添ったRCAドライで解像度の高い録音も含めて、繰り返し聴けば聴くほど愉しさを満喫できる一枚。
いくら中古とはいえ、税込み630円は安すぎる!
2008年10月14日
amoureuses パトリシア・プティボンが愛を叫ぶ!
☆『amoureuses(恋人たち)』
ハイドン、モーツァルト、グルックのアリア集
独唱:パトリシア・プティボン(ソプラノ)
指揮:ダニエル・ハーディング
管弦楽:コンチェルト・ケルン
録音:2008年/デジタル
<DG/ドイツ・グラモフォン>477 7468
4月の来日公演の記憶が未だ鮮明なパトリシア・プティボンの新しいアルバム、『amoureuses』を聴いてみた。
恋人たちというタイトル通り、ハイドンの『月の世界』、『薬剤師』、『アルミーダ』、『哲学者の魂、オルフェオとエウリディーチェ』、『無人島』、モーツァルトの『魔法の笛』、『フィガロの結婚』、『ルーチョ・シッラ』、『ツァイーデ』、グルックの『アルミーダ』、『タウリスのイフィゲニア』から、人の恋し愛する心を歌ったアリアを集めたアルバムだが、そこはそれ、かわいさ余って憎さ百倍! じゃない、愛憎相半ばする激しい感情を伴った歌もしっかりと収められている。
(まあ、夜の女王のアリア、復讐するは我にあり、じゃない「復讐の心は地獄のように胸に燃え」は、喉見世的意味合いも小さくないだろうけど)
で、ここでもプティボンは、これまでに発売されてきたフランス・バロック期のアリア集<Virgin>や『フレンチ・タッチ』<DECCA>同様に、感情表現豊かでテキストの読み込みの鋭い歌唱を披瀝している。
来日公演でも歌われた『フィガロの結婚』のバルバリーナとスザンナのアリア[トラック4と5](スザンナのアリアはレチタティーヴォが省かれていて、一続きの歌のように扱われている)での愛らしさと優しさ、トルコ趣味満開の『薬剤師』のアリア[トラック8]でのユーモラスさとコケティッシュさ、『ツァイーデ』のアリア[トラック15]でのプティボンお得意の台詞調雌叫び(Tiger! タイガー!)、そしてグルックの一連のアリアでの激烈さ、と挙げ出せば切りがないほど聴きどころたっぷりな一枚だ。
加えて、『月の世界』の華やかなアリア[トラック1]で幕を開け、途中いろいろな波があって − 例えば、『無人島』のアリア[トラック12]のような甘やかな歌を挟んで − 、最後、グルックの『アルミーダ』のアリア[トラック16]で大団円を迎えるアルバムの構成は、音楽的にも一つの「ドラマ」という意味でも巧みにたくまれたものだと思う。
ただ、こうやって「録音」という形でプティボンの歌唱に接すると、彼女の声の変化・変質にどうしても気づかざるをえなかったことや、彼女のテキストへの対し方へ若干違和感を抱いてしまったことも事実である。
(僕自身、独仏伊語に関し堪能ではないこともあって、テキストと歌の関係について詳しく指摘することはできない*。だからこの場合の違和感とは、「こうやって自分の部屋で聴く時に、彼女の歌が感情過多に感じられた」程度に受け取っておいてもらいたい)
また、これは「音の缶詰」ゆえの制約とはいえ、モーツァルトの代用アリア「汝らに解き明かさん、おお神よ」[トラック2]の後半で、明らかに録音のつぎはぎと思われる箇所があったことも付記しておきたい。
ダニエル・ハーディング指揮する、ドイツの腕こきピリオド楽器オーケストラ、コンチェルト・ケルンはクリアでドラマティック、プティボンの歌唱にぴったりの伴奏を行っているのではないか。
ハーディングの個性もあってだろうけれど、緩やかな部分よりもテンポが速く激しく演奏される部分のほうに、一層真価が発揮されていたように僕には感じられた。
特に、アルバム−ドラマを締めくくるラストのオーケストラのみの強奏は、強く印象に残る。
いずれにしても、聴き返せば聴き返すほど面白く、心を動かされるアルバムであることに間違いはない。
プティボンファンのみならず、歌好きオペラ好き古典派好きにも大いにお薦めしたい一枚だ。
でもね、プティボンは生(ライヴ)でしょうやっぱり。
今度は、ハーディング&コンチェルト・ケルンといっしょに来日しないものか!
*当然のことながら、これは西洋の声楽作品(テキスト)とその歌唱(演技)を評する際に無視してはならないものだと思う。
少なくとも、僕ら自身のものではない対象を語る際には蔑ろにしてはならない部分のはずだ。
そして、テキストをよく読み込めていないものがこうやってそれを語ることの如何わしさを痛感したりもする。
またその関わりで、「正しい」歌唱とは何かや、声そのものの魅力と「技術」の問題、さらには日本語を母語とする人間による西洋の声楽作品の歌唱など記したいことはあれこれとあるのだが、残念ながらここでは省略する。
ハイドン、モーツァルト、グルックのアリア集
独唱:パトリシア・プティボン(ソプラノ)
指揮:ダニエル・ハーディング
管弦楽:コンチェルト・ケルン
録音:2008年/デジタル
<DG/ドイツ・グラモフォン>477 7468
4月の来日公演の記憶が未だ鮮明なパトリシア・プティボンの新しいアルバム、『amoureuses』を聴いてみた。
恋人たちというタイトル通り、ハイドンの『月の世界』、『薬剤師』、『アルミーダ』、『哲学者の魂、オルフェオとエウリディーチェ』、『無人島』、モーツァルトの『魔法の笛』、『フィガロの結婚』、『ルーチョ・シッラ』、『ツァイーデ』、グルックの『アルミーダ』、『タウリスのイフィゲニア』から、人の恋し愛する心を歌ったアリアを集めたアルバムだが、そこはそれ、かわいさ余って憎さ百倍! じゃない、愛憎相半ばする激しい感情を伴った歌もしっかりと収められている。
(まあ、夜の女王のアリア、復讐するは我にあり、じゃない「復讐の心は地獄のように胸に燃え」は、喉見世的意味合いも小さくないだろうけど)
で、ここでもプティボンは、これまでに発売されてきたフランス・バロック期のアリア集<Virgin>や『フレンチ・タッチ』<DECCA>同様に、感情表現豊かでテキストの読み込みの鋭い歌唱を披瀝している。
来日公演でも歌われた『フィガロの結婚』のバルバリーナとスザンナのアリア[トラック4と5](スザンナのアリアはレチタティーヴォが省かれていて、一続きの歌のように扱われている)での愛らしさと優しさ、トルコ趣味満開の『薬剤師』のアリア[トラック8]でのユーモラスさとコケティッシュさ、『ツァイーデ』のアリア[トラック15]でのプティボンお得意の台詞調雌叫び(Tiger! タイガー!)、そしてグルックの一連のアリアでの激烈さ、と挙げ出せば切りがないほど聴きどころたっぷりな一枚だ。
加えて、『月の世界』の華やかなアリア[トラック1]で幕を開け、途中いろいろな波があって − 例えば、『無人島』のアリア[トラック12]のような甘やかな歌を挟んで − 、最後、グルックの『アルミーダ』のアリア[トラック16]で大団円を迎えるアルバムの構成は、音楽的にも一つの「ドラマ」という意味でも巧みにたくまれたものだと思う。
ただ、こうやって「録音」という形でプティボンの歌唱に接すると、彼女の声の変化・変質にどうしても気づかざるをえなかったことや、彼女のテキストへの対し方へ若干違和感を抱いてしまったことも事実である。
(僕自身、独仏伊語に関し堪能ではないこともあって、テキストと歌の関係について詳しく指摘することはできない*。だからこの場合の違和感とは、「こうやって自分の部屋で聴く時に、彼女の歌が感情過多に感じられた」程度に受け取っておいてもらいたい)
また、これは「音の缶詰」ゆえの制約とはいえ、モーツァルトの代用アリア「汝らに解き明かさん、おお神よ」[トラック2]の後半で、明らかに録音のつぎはぎと思われる箇所があったことも付記しておきたい。
ダニエル・ハーディング指揮する、ドイツの腕こきピリオド楽器オーケストラ、コンチェルト・ケルンはクリアでドラマティック、プティボンの歌唱にぴったりの伴奏を行っているのではないか。
ハーディングの個性もあってだろうけれど、緩やかな部分よりもテンポが速く激しく演奏される部分のほうに、一層真価が発揮されていたように僕には感じられた。
特に、アルバム−ドラマを締めくくるラストのオーケストラのみの強奏は、強く印象に残る。
いずれにしても、聴き返せば聴き返すほど面白く、心を動かされるアルバムであることに間違いはない。
プティボンファンのみならず、歌好きオペラ好き古典派好きにも大いにお薦めしたい一枚だ。
でもね、プティボンは生(ライヴ)でしょうやっぱり。
今度は、ハーディング&コンチェルト・ケルンといっしょに来日しないものか!
*当然のことながら、これは西洋の声楽作品(テキスト)とその歌唱(演技)を評する際に無視してはならないものだと思う。
少なくとも、僕ら自身のものではない対象を語る際には蔑ろにしてはならない部分のはずだ。
そして、テキストをよく読み込めていないものがこうやってそれを語ることの如何わしさを痛感したりもする。
またその関わりで、「正しい」歌唱とは何かや、声そのものの魅力と「技術」の問題、さらには日本語を母語とする人間による西洋の声楽作品の歌唱など記したいことはあれこれとあるのだが、残念ながらここでは省略する。
2008年10月09日
スメタナの管弦楽小品集
☆スメタナ:管弦楽小品集
ロベルト・スタンコフスキ指揮ブラティスラヴァ放送交響楽団
1994年、デジタル録音
<MARCO POLO>8.223705
今僕の手元に二枚のCDがある。
一枚は、先日ブックオフで購入したロベルト・スタンコフスキ指揮ブラティスラヴァ放送交響楽団の演奏によるスメタナの管弦楽小品集で、もう一枚は、クリストフ・フォン・ドホナーニ指揮クリーヴランド管弦楽団の演奏による同じくスメタナの、こちらは管弦楽名曲集<DECCA 444 867-2>だ。
で、この二枚のCDを聴き比べてまず感じたことは、やはり名曲には名曲と呼ばれるだけの理由がある、ということだった。
もちろん、だからと言って、スタンコフスキのCDに収録された作品に全く音楽的な魅力がないと言いたい訳では毛頭ない。
幻想的で抒情的な美しさ(特に、トラック8の『漁夫』にその美質がよく表れている)や、牧歌的で懐古的な親しみやすさに満ちた旋律をそこここに聴くことができるし、勇壮で躍動感にあふれたのりのよい音型もしっかりたっぷりと含まれている。
まさしく、この管弦楽小品集は、スメタナの音楽の持つ魅力の源泉を識るための恰好な教材とさえ言うことができるだろう。
しかしながら、ドホナーニのCDに収められた同じ作曲家によるおなじみ『モルダウ』や『売られた花嫁』の序曲などと並べてしまうと、小品集に収録にされた作品の音楽的な弱さに気がつかざるをえないこともまた事実なのである。
例えば、スタンコフスキ盤のトラック7の荘厳なる序曲ハ長調とドホナーニ盤のトラック2の『リブシェ』序曲と比較してみよう。
金管楽器のファンファーレが全体を支配するという点で、両者の音楽的構造には通じるものがある。
けれど、結果として生み出される音楽には、どうしても「推敲前推敲後」以上の開きを、僕は感じてしまった。
つまり、『リブシェ』の序曲があるべきものがあるべき場所に納まっているという出来上がりなのに対し、荘厳なる序曲のほうは力で押して押して押してみたけれど押してみただけといった造りの弱さと粗さが耳につくのである。
(あるべきものがあるべき場所に納まっている、という感じは、上述した『モルダウ』や『売られた花嫁』の序曲にも共通している。対して、小品集に収められた作品にはえてして、くどさというか、まとまりの悪さを感じたものが少なくない)
ただ、ここまで両者の差を大きく感じた原因の一端に、ドホナーニとスタンコフスキの音楽づくり、と言うより、クリーヴランド管弦楽団とブラティスラヴァ放送交響楽団というオーケストラの力量の差が存在することも挙げておかなければなるまい。
一方のクリーヴランド管弦楽団は、アメリカを代表する名門中の名門オーケストラの一つであり、多少の変化はありつつも、ジョージ・セルの頃から機能性の高さとアンサンブルのよさで知られた集団である。
他方、ブラティスラヴァ放送交響楽団といえば、個人的にはその素朴な音色は好みであるのだけれど、残念ながら機能面に関しては、クリーヴランド管に太刀打ちできるものではない。
(実際、小品集においても、小さいけれど、しかし明らかな傷がブラティスラヴァ放送交響楽団の演奏には聴き受けられる)
少なくとも、こうしたクリーヴランド管弦楽団の引き締まった演奏とブラティスラヴァ放送交響楽団の緩めの演奏の印象の差が、作品に対する判断の差につながっていないと断言することは僕にはどうしてもできないのだ。
と、こういう風に綴ってしまうと、結局お前はメジャー・レーベルのメジャーな演奏者によるメジャーな音楽万歳で、マイナー・レーベルのマイナーな演奏者によるマイナーな音楽はだめだめだと思ってるんじゃないかと決め込む人もいそうだが、現実というものはそんなに単純なものではない。
確かに僕は、小品集に収められた諸作品よりも、『モルダウ』や『売られた花嫁』序曲のほうがよくできた音楽であり作品であると、そちらのほうに軍配を上げる。
それだけじゃなくて、『モルダウ』や『売られた花嫁』序曲が僕は大好きだ。
だけど、僕は小品集の音楽に耳を塞いでしまうつもりにもなれない。
それどころか、繰り返し聴けば聴くほど、この小品集というCDに心ひかれてさえいるのだ。
(一つには、デッカ・レーベルのどこか作り物めいた録音より、小品集の自然な音響のほうがしっくりくるということも関係しているのかもしれないが)
正直、フルプライス(2000円程度)ではお薦めしにくいが、中古やセール品で800円以内ならお薦めできる一枚だ。
(てか、早くナクソス・レーベルに移行されればいいのに!)
ロベルト・スタンコフスキ指揮ブラティスラヴァ放送交響楽団
1994年、デジタル録音
<MARCO POLO>8.223705
今僕の手元に二枚のCDがある。
一枚は、先日ブックオフで購入したロベルト・スタンコフスキ指揮ブラティスラヴァ放送交響楽団の演奏によるスメタナの管弦楽小品集で、もう一枚は、クリストフ・フォン・ドホナーニ指揮クリーヴランド管弦楽団の演奏による同じくスメタナの、こちらは管弦楽名曲集<DECCA 444 867-2>だ。
で、この二枚のCDを聴き比べてまず感じたことは、やはり名曲には名曲と呼ばれるだけの理由がある、ということだった。
もちろん、だからと言って、スタンコフスキのCDに収録された作品に全く音楽的な魅力がないと言いたい訳では毛頭ない。
幻想的で抒情的な美しさ(特に、トラック8の『漁夫』にその美質がよく表れている)や、牧歌的で懐古的な親しみやすさに満ちた旋律をそこここに聴くことができるし、勇壮で躍動感にあふれたのりのよい音型もしっかりたっぷりと含まれている。
まさしく、この管弦楽小品集は、スメタナの音楽の持つ魅力の源泉を識るための恰好な教材とさえ言うことができるだろう。
しかしながら、ドホナーニのCDに収められた同じ作曲家によるおなじみ『モルダウ』や『売られた花嫁』の序曲などと並べてしまうと、小品集に収録にされた作品の音楽的な弱さに気がつかざるをえないこともまた事実なのである。
例えば、スタンコフスキ盤のトラック7の荘厳なる序曲ハ長調とドホナーニ盤のトラック2の『リブシェ』序曲と比較してみよう。
金管楽器のファンファーレが全体を支配するという点で、両者の音楽的構造には通じるものがある。
けれど、結果として生み出される音楽には、どうしても「推敲前推敲後」以上の開きを、僕は感じてしまった。
つまり、『リブシェ』の序曲があるべきものがあるべき場所に納まっているという出来上がりなのに対し、荘厳なる序曲のほうは力で押して押して押してみたけれど押してみただけといった造りの弱さと粗さが耳につくのである。
(あるべきものがあるべき場所に納まっている、という感じは、上述した『モルダウ』や『売られた花嫁』の序曲にも共通している。対して、小品集に収められた作品にはえてして、くどさというか、まとまりの悪さを感じたものが少なくない)
ただ、ここまで両者の差を大きく感じた原因の一端に、ドホナーニとスタンコフスキの音楽づくり、と言うより、クリーヴランド管弦楽団とブラティスラヴァ放送交響楽団というオーケストラの力量の差が存在することも挙げておかなければなるまい。
一方のクリーヴランド管弦楽団は、アメリカを代表する名門中の名門オーケストラの一つであり、多少の変化はありつつも、ジョージ・セルの頃から機能性の高さとアンサンブルのよさで知られた集団である。
他方、ブラティスラヴァ放送交響楽団といえば、個人的にはその素朴な音色は好みであるのだけれど、残念ながら機能面に関しては、クリーヴランド管に太刀打ちできるものではない。
(実際、小品集においても、小さいけれど、しかし明らかな傷がブラティスラヴァ放送交響楽団の演奏には聴き受けられる)
少なくとも、こうしたクリーヴランド管弦楽団の引き締まった演奏とブラティスラヴァ放送交響楽団の緩めの演奏の印象の差が、作品に対する判断の差につながっていないと断言することは僕にはどうしてもできないのだ。
と、こういう風に綴ってしまうと、結局お前はメジャー・レーベルのメジャーな演奏者によるメジャーな音楽万歳で、マイナー・レーベルのマイナーな演奏者によるマイナーな音楽はだめだめだと思ってるんじゃないかと決め込む人もいそうだが、現実というものはそんなに単純なものではない。
確かに僕は、小品集に収められた諸作品よりも、『モルダウ』や『売られた花嫁』序曲のほうがよくできた音楽であり作品であると、そちらのほうに軍配を上げる。
それだけじゃなくて、『モルダウ』や『売られた花嫁』序曲が僕は大好きだ。
だけど、僕は小品集の音楽に耳を塞いでしまうつもりにもなれない。
それどころか、繰り返し聴けば聴くほど、この小品集というCDに心ひかれてさえいるのだ。
(一つには、デッカ・レーベルのどこか作り物めいた録音より、小品集の自然な音響のほうがしっくりくるということも関係しているのかもしれないが)
正直、フルプライス(2000円程度)ではお薦めしにくいが、中古やセール品で800円以内ならお薦めできる一枚だ。
(てか、早くナクソス・レーベルに移行されればいいのに!)