2013年11月30日

我まとめるゆえに我あり ジンマン指揮の『英雄の生涯』と『死と変容』

☆リヒャルト・シュトラウス:交響詩『英雄の生涯』&『死と変容』

 指揮:デヴィッド・ジンマン
管弦楽:チューリヒ・トーンハレ管弦楽団
(2001年1月、2月/デジタル・セッション録音)
<Arte Nova>74321 85710 2


 我思うゆえに我あり。
 とは、おなじみデカルトの命題で、さすがは私、自己自我意識が尊ばれるヨーロッパらしい。
 と、感心してみせたが、まあ、命題は命題、理念型は理念型(byマックス・ウェーバー)、ヨーロッパの人たち全般をそうした自己自我意識の確立した人と規定してしまうのもどうかとは思うし、ましてやそれを俺が我がの我がまま勝手と解しちゃまずいだろうが。
 ただ、いわゆる芸術家となれば話は別で、俺が我が、己の表現表出欲求に長けた人々とにらんでもまず間違いはあるまい。
 中でも、ベートーヴェン以降、ロマン派の作曲家たちには、我作曲するゆえに我あり、とでも呼ぶべき自己表現と自己表出を強く感じる。
 で、ドイツの後期ロマン派を代表するリヒャルト・シュトラウスなんてその最たるもの、だって交響詩『英雄の生涯』なんて自分を英雄に見立てた私交響詩的色合いの強い作品を作曲してるんだもの!

 って、つらつらと記してみせたけど、これってどうなんすか?
 確かに、一見『英雄の生涯』は自己顕示欲の表われみたいな作品だけど、その実そんな自分をからかってみせる皮肉なまなざしだって十二分に含まれているように僕には思われてならないのだ。
 我疑うゆえに我あり。
 それに、リヒャルト・シュトラウスはオーケストラやオペラの現場をよく知った(と、言うことは演奏家や歌手たちの我がまま勝手もよく知っていた)職人なわけで、『英雄の生涯』一つとっても、ここは押してここは譲ってといった演奏者たちとのかけ引きが聴こえるような気がする。
 我さばくゆえに我あり。
 だから、ヘルベルト・フォン・カラヤンとベルリン・フィルのようなそれいけどんどん、我統べるゆえに我あり的な演奏でこの曲を聴くと、いやあ凄いねと思う反面、ちょっとげんなりしてしまうことも事実だ。
 君にはあれが見えないのか?(by榎木津礼二郎)

 ところが、デヴィッド・ジンマンと手兵チューリヒ・トーンハレ管弦楽団による録音ならば無問題。
 クリアでスマート、すっきりすいすいテンポのよい演奏で、げんなりすることなく最後まで聴き終えることができる。
 と、言って無味乾燥とは正反対、作品の要所急所、構造をしっかりきっちりと押さえた演奏で、リヒャルト・シュトラウスの音の仕掛けが明示されている。
 我まとめるゆえに我あり。
 この曲に形成肉のような脂臭さを求めるむきにはお薦めできないが、リヒャルト・シュトラウス、『英雄の生涯』というタイトルだけで敬遠している方々にこそぜひともお薦めしたい一枚だ。

 カップリングの『死と変容』も、作品の結構を巧くつかまえた演奏。
 強奏部分に到る音の動き、流れが特に魅力的である。
 こちらも、大いにお薦めしたい。

 なんて、我聴くゆえに我ありだなあ。
 いや、我書くゆえに我ありかなあ。
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2013年10月24日

「外省」的な音のドラマ ヴァレリー・ゲルギエフの悲愴と『ロメオとジュリエット』

☆チャイコフスキー:交響曲第6番「悲愴」&幻想序曲『ロメオとジュリエット』

 指揮:ヴァレリー・ゲルギエフ
管弦楽:サンクト・ペテルブルク・マリンスキー(キーロフ)劇場管弦楽団
(1997年7月/デジタル・セッション録音)
<PHILIPS>456 580-2


 いつの間にかPHILIPSレーベルもDECCAレーベルに吸収され、何を今さら15年近くも前にリリースされたCDを、の感なきにしもあらずだが、ちょうど手元に悲愴交響曲と『ロメオとジュリエット』のCDがなかったこともあって購入した一枚。
 まあ、50パーセント・オフに釣られたっちゃ釣られたんだけどね。

 一言で表わせば、劇場感覚に満ちた演奏。
 あと少し詳しく説明するならば、チャイコフスキーが歌劇『スペードの女王』や『エフゲニ・オネーギン』、そして三大バレエといった舞台音楽の優れた造り手だったことを教えてくれる演奏、ということになるだろうか。
 まさしく、両作品の持つ劇性、音のドラマの要所急所をよく押さえた演奏である。
 中でも、悲愴第3楽章など、あとに第4楽章が控えていることがわかっていても、生なら思わず拍手してしまいそうな迫力だし、第1楽章中盤の衝撃(トラック1の10分過ぎあたり)の決まり具合も見事というほかない。
 また第1楽章第2主題や『ロメオとジュリエット』での美しい旋律の歌わせ方も堂に入っている。
 ただ、悲愴の第4楽章や『ロメオとジュリエット』の強奏部分で特に感じることなのだけれど、技術的にどうこうというよりも、音楽のとらえ方、表現の仕方が大づくりというか、若干表面的な効果に傾き過ぎているように思われないでもなかった。

 いずれにしても、「外省」的に優れた音楽づくりと演奏で、両曲をエネルギッシュでドラマティックな音楽の劇として愉しみたい方々には大いにお薦めしたい。
 録音もクリアだ。
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2013年10月17日

ゲルハーエルとケント・ナガノのマーラー

☆マーラー:声楽曲集

 独唱:クリスティアン・ゲルハーエル(バリトン)
 指揮:ケント・ナガノ
管弦楽:モントリオール交響楽団
(2012年1月/デジタル・ライヴ録音)
<SONY/BMG>88883701332


 大地の歌で優れたコンビネーションを発揮した、ドイツ出身のバリトン歌手クリスティアン・ゲルハーエルとケント・ナガノ指揮モントリオール交響楽団による、マーラーの声楽曲集(さすらう若者の歌、亡き子をしのぶ歌、リュッケルトの詩による5つの歌曲)である。
 すでにゲルハーエルは、ゲロルト・フーバーのピアノ伴奏でマーラーの声楽曲集を録音していたし、さすらう若者の歌にいたってはハイペリオン・アンサンブルとシェーンベルク編曲の室内アンサンブル伴奏版すら録音しているが、今回のアルバムは、まさしく満を持してというか、ゲルハーエルのマーラー歌唱の現段階での集大成とでも呼ぶべき充実した内容となっている。
 上述したハイペリオン・アンサンブルとの若々しい歌声に比べれば、若干声の経年変化は否めないのだけれど、細部までよくコントロールされる歌唱の根幹はそのままに、より表現に厚みと安定感を加えていることも、また確かな事実だろう。
 例えば、亡き子をしのぶ歌での悲嘆と諦念、リュッケルトの5つの詩の第1曲「私の歌をのぞき見しないで」の蠱惑的なと言ってもよいような歌いまわし等、ゲルハーエルの成熟ぶりがよく示されているのではないか。
 一方、ハレ管弦楽団を指揮した、同じくドイツ出身のバリトン歌手ディートリヒ・ヘンシェルとのマーラーの声楽曲集では、ヘンシェルに合わせて鋭角的な音楽づくりを行っていたケント・ナガノだが、こちらのアルバムでは、ゲルハーエルの歌唱によく沿って柔軟な演奏を繰り広げており、亡き子をしのぶ歌の第2曲「なぜそんなに暗い眼差しか、今にしてよくわかる」でのホルンのソロなど、モントリオール交響楽団もその美質を十全に発揮している。
 管弦楽伴奏による男声のマーラーの声楽曲集のファーストチョイスとして、ぜひともお薦めしたい一枚だ。
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ジンマンとチューリヒ・トーンハレ管弦楽団によるシューベルトのザ・グレート

☆シューベルト:交響曲第8番「ザ・グレート」

 指揮:デヴィッド・ジンマン
管弦楽:チューリヒ・トーンハレ管弦楽団
(2011年5月/デジタル・セッション録音)
<SONY/BMG[RCA]>88697973982


 デヴィッド・ジンマンと手兵チューリヒ・トーンハレ管弦楽団によって進められてきたシューベルトの交響曲全集の掉尾を飾るのが、この交響曲第8番「ザ・グレート」である。
 これまでの7曲と同様、金管楽器とティンパニにピリオド楽器を用い、強弱メリハリの効いた速めのテンポ設定と、いわゆるピリオド・スタイルをとった演奏となっている。
 指揮者の解釈に加え、オーケストラの特性の違いもあって、同じくピリオド奏法を援用したトーマス・ヘンゲルブロックとハンブルクNDR交響楽団の演奏と比べると、いくぶんこじんまりとまとまった感じはしないでもないが、シャープでクリアな音楽づくりは、きびきびとして聴き心地がよい。
 また、同じ組み合わせのベートーヴェンの交響曲全集(第5番や第7番)でもそうであったように、第1楽章や第2楽章等の管楽器のソロで即興が加えられているなど、音楽的な仕掛けが要所要所で施されている点も、やはり聴き逃せない。

 そういえば、交響曲全集の完結とともに、5枚組セットが3000円(HMV)で発売される予定だ。
 予想していたとはいえ、一枚一枚丹念に買い集めてきた人間としては、少々悔しさを感じざるをえないことだが、統一された楽曲解釈によるシューベルトの交響曲全曲の優れた演奏を手ごろな値段で購入したいというむきには、これほどぴったりのセットもないものと思う。
 大いにお薦めしたい。
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2013年09月26日

アーノンクールが指揮したハイドンの交響曲集

☆ハイドン:交響曲第30番「アレルヤ」、第53番「帝国」、第69番「ラウドン」

 指揮:ニコラウス・アーノンクール
管弦楽:コンツェントゥス・ムジクス・ウィーン
(1990年6月/デジタル・セッション録音)
<TELDEC>9031-76460-2


 ニコラウス・アーノクールがTELDECレーベルに録音した一連のハイドンの交響曲のうち、第30番、第53番、第69番の3曲を収めたCDを聴く。
 もっとも有名なザロモン・セット(第93番〜第104番。ほかに第68番も)はコンセルトヘボウ管弦楽団との録音だから、今のところアーノンクールと手兵のコンツェントゥス・ムジクス・ウィーンとは、第6番〜第8番、第45番「告別」と第60番「ばかおろか」、第31番「ホルン信号」、第59番「火事」、第73番「狩り」、その後のドイツ・ハルモニアムンディ・レーベルへのパリ・セット(第82番〜第87番)を録音しているだけだ。
 このCDでの演奏を聴けば、そのことがとても残念に思えて仕方がない。
 第1楽章で聖週間に歌われるグレゴリオ聖歌の旋律が引用されていることから「アレルヤ」、当時人気があったオーストリア陸軍のラウドン元帥にあてこんだ「ラウドン」、そしてどうしてそうなったかが不明の「帝国」と、それぞれニックネームの付いた三つの交響曲だが、いずれも陽性で壮麗、実に聴き心地がよく活気のある音楽となっている。
 アーノンクールとコンツェントゥス・ムジクス・ウィーンは、そうした作品の特性をよく活かし、動と静のメリハリがよくきいた劇性に富んだ音楽を造り上げているのではないだろうか。
 指揮者の意図によく沿ったアンサンブルとともに、管楽器のソロも聴きものである。
 ハイドンの中期の交響曲の面白さを識ることのできる一枚。
 音楽好きには、なべてお薦めしたい。
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緩徐楽章が特に魅力 エロイカ・カルテットのシューマン

☆シューマン:弦楽4重奏曲第1番〜第3番

 エロイカ・カルテット
(1999年12月/デジタル・セッション録音)
<ハルモニアムンディ・フランスUSA>HMU907270


 デビューしてそれほど間もない頃の、イギリスのピリオド楽器による弦楽4重奏団、エロイカ・カルテットが録音したシューマンの弦楽4重奏曲全曲だ。
 簡単にまとめるならば、ピリオド楽器の持つ繊細でウェットな音色を活かした、インティメートな雰囲気の濃厚な演奏、ということになるだろうか。
 もちろん、音楽の文脈に応じて動と静との対比もよく考えられているのだけれど、例えば、モダン楽器のハーゲン・カルテットのような「寄らば斬るぞ」、触れてはならじ虻蜂とらじといった風情の一気呵成、鋭く激しいぎすぎすした感じはない。
 いずれの曲でも、歌謡性に富んだ緩徐楽章の演奏が強く印象に残った。
 じっくり室内楽を愉しみたいという方に大いにお薦めしたい一枚である。
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2013年08月29日

山田一雄と日本フィルが演奏したベートーヴェンの交響曲

☆山田一雄と日本フィルが演奏したベートーヴェンの交響曲

 *交響曲第3番「英雄」&モーツァルト:歌劇『後宮からの逃走』序曲
<タワーレコード>TWCO-1013

 *交響曲第5番&第7番
<タワーレコード>TWCO-1014


 ヤマカズさんの愛称で知られた山田一雄の録音が、タワーレコードから系統立ててリリースされている。
 今月は、日本フィルとの1980年代の演奏がまとめて発売されたが、そのうちベートーヴェンの交響曲を集めた2枚を聴いた。
 なお、交響曲第3番「英雄」は1988年4月4日の第100回名曲コンサートの、交響曲第5番は1986年4月11日の第381回定期演奏会の、交響曲第7番とモーツァルトの序曲は1988年2月29日の第398回定期演奏会の、それぞれライヴ録音である。

 ヤマカズさんというと、激しい身振り手振りに唸り声と、まさしく熱演爆演系の指揮者と見なされていて、実際いずれの作品でもあの指揮姿を彷彿とさせる熱のこもった演奏を繰り広げているのだけれど(第5番の第2楽章では、山田一雄の踏み込むような音すら聴こえるほどだ)、その根本には、作品の構造を明晰に再現するという新古典派流の音楽のとらえ方があるように感じられる。
 そして、ブックレット中にも引用されたインタビューにもあるように、自分自身の楽曲解釈をよく表現しきるための手段として、あの「踊るから笛吹いてくれ」と言わんばかりの身振り手振りに唸り声があったのではないかとも僕は思う。
 中でもそうした山田一雄の姿勢が如実に示されているのが、交響曲第3番「英雄」ではないだろうか。
 作品の要所急所と劇的な性格を押さえつつ、音楽の流れを重視した演奏で、最晩年のヤマカズさんと大阪センチュリー交響楽団による「英雄」(1991年3月15日の第4回定期演奏会)も、確かにこのCDと同様に見通しのよい音楽づくりだったことを思い出した。

 もともと記録用に録音された音源だが、リマスタリングの成果もあってか、思ったほどには音質に不満は感じない。
 ただし、東京文化会館での第5番と第7番、モーツァルトの序曲は、サントリーホールでの第3番に比して、相当乾いた音質であることも事実だ。
 金管と打楽器の強奏が一層粗く感じられるのも、このことが大きく関係していると思う。

 いずれにしても、山田一雄という指揮者音楽家の特性を識ることのできるCDで、東京フィルや東京交響楽団、読売日本交響楽団、東京都交響楽団、新日本フィルなどとの録音のリリースも強く期待したい。
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2013年07月31日

ヘンゲルブロックが指揮したシューベルトの「ザ・グレート」

☆シューベルト:交響曲第8番「ザ・グレート」

 指揮:トーマス・ヘンゲルブロック
管弦楽:ハンブルクNDR交響楽団
(2012年9月/デジタル・セッション録音)
<SONY/BMG>8883729982


 絶好調のトーマス・ヘンゲルブロックとハンブルクNDR交響楽団によるリリース三枚目は、シューベルトの交響曲第8番「ザ・グレート」。

 どうせピリオド・スタイルを用いたせせこましい演奏なんでしょう?
 と、思うと、これがさにあらず。
 確かに、楽節の処理や楽器の鳴らし方など、細部ではしっかりきっちり丁寧にピリオド・スタイルが援用されているのだけれど、一方で、本来この交響曲の持つ大らかさ伸びやかさ歌謡性も失われていない。
 初めて耳にした際は、昔々カール・ベーム指揮ベルリン・フィルの演奏に触れたときのような、わくわく感を覚えたものだ。
 オーケストラも、ソロ・アンサンブル両面でヘンゲルブロックの音楽づくりによく応えていて見事である。
(マクロとミクロのバランスのよさは、もしかしたらヘンゲルブロックが、バッハの受難曲のような声楽曲の大曲を得意としていることと深く関係しているかもしれない)

 この交響曲を聴き慣れた方にも、そうでない方にも大いにお薦めしたい一枚。


 できれば、ヘンゲルブロックとハンブルクNDR交響楽団のコンビには、ブルックナーの交響曲(第4番や第7番)をセッション録音してもらいたいなあ。
 のちのブルックナーを予感させる「ザ・グレート」を聴けば、なおさらのことそう思う。
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ノリントンとチューリヒ室内管弦楽団によるストラヴィンスキー

☆ストラヴィンスキー:『兵士の物語』組曲他

 指揮:ロジャー・ノリントン
管弦楽:チューリヒ室内管弦楽団
(2012年1月、3月、6月/デジタル録音)
<SONY/BMG>8725470102


 ロジャー・ノリントンと新たな手兵チューリヒ室内管弦楽団によるリリース一枚目は、ストラヴィンスキーの作品集。
 ノリントンにとって念願だったという『兵士の物語』の組曲のほか、協奏曲「ダンバートン・オークス」(委嘱者の居住地がここだったため。後年のダンバートン・オークス会議とは無関係)、ダンス・コンチェルタンテという新古典派時代の作品を中心としたカップリングがまずもって嬉しい。
 例えば、シャルル・デュトワ指揮モントリオール・シンフォニエッタの録音<DECCA>(ただし、『兵士の物語』は除く)と比べると、ノリントンの意図的な音楽づくりもあるとはいえ、いくぶんアンサンブルの精度に関して気になる点もなくはないが、作品の持つ仕掛け、コンチェルト・グロッソ的な愉悦感やジャズの影響などはよくとらえらえれていると思う。
 特に、『兵士の物語』でのヴァイオリンや管楽器、ドラムの活躍ぶりは、聴きものだ。
 録音もクリアで、とても聴き心地がよい。
 この調子で、ぜひ『プルチネッラ』あたりもリリースしてもらいたい。

 ちなみに、youtubeにノリントンとチューリヒ室内管弦楽団のコンサート(ダンバートン・オークスやモーツァルトのセレナード第9番「ポストホルン」等)がアップされている。
 両者のコンビネーションのよさがよく示されているのではないか。
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2013年07月17日

メニューインとロイヤル・フィルが演奏した大管弦楽版のヘンデル

☆メニューインとロイヤル・フィルが演奏した大管弦楽版のヘンデル

 指揮:ユーディ・メニューイン
管弦楽:ロイヤル・フィル
(1986年/デジタル・セッション録音)
<RPO>CDRPO 8002


 名ヴァイオリニストとして知られたユーディ・メニューインは、晩年積極的に指揮者としての活動を繰り広げた。
 ロンドンの五大オーケストラの一つロイヤル・フィルは、そんなメニューインが密接なつながりを持ち続けたオーケストラであり、両者は複数のレーベルに少なからぬ録音を遺している。
 今回とり上げるCDは、ロイヤル・フィルの自主レーベルからリリースされた一枚で、大管弦楽用に編曲された『王宮の花火の音楽』(ベインズ&マッケラス編曲)、『アマリリス』組曲(ビーチャム編曲。ビーチャムはロイヤル・フィルを創設したイギリスの有名指揮者)、組曲『水上の音楽』(ベインズ編曲)が収められている。
(ちなみに、メニューインとロイヤル・フィルは、同様のヘンデルのアルバムをもう一枚録音していた)
 あと数年も経ぬうちに、いわゆるピリオド・スタイルがヘンデルやバッハといったバロック音楽演奏の主流を占めることになるわけで、まさしく貴重な録音と言えるだろう。
 実際、ストコフスキー編曲による『水上の音楽』が録音されたりはしているものの、それはあくまでもストコフスキーというくくりによるもので、ヘンデルの大管弦楽版というコンセプトでの録音は、当方の知る限りほとんど為されていないのではないか。
 バッハのトランスクリプション集を録音したエサ・ペッカ・サロネンとロスアンジェルス・フィルのコンビに期待していたが、結局だめで、こうなったらシャンドス・レーベルで活躍中のアンドルー・デイヴィスあたりの奮起を待つほかあるまい。

 メニューインの若干たどたどしい音楽運びに加え、いくぶんくぐもった音質もあって、それこそ編曲者の一人であるチャールズ・マッケラスだとか、ヴァーノン・ハンドリーの指揮だったら、もっとシンフォニックシンフォニックしたロイヤル・フィルの特性魅力が巧く引き出されていただろうになあと思わずにもいられないのだけれど、堂々麗々とたっぷり鳴らされる『王宮の花火の音楽』の序曲や『水上の音楽』のホーンパイプを聴くと、これぞ「大英帝国」という気分に浸れてしまうのだからなんとも面白い。
(いやまあ、これらの作品の来歴はひとまず置くとしても、ヘンデルのイギリスでの活動、劇場での成果が後代の作曲家たちの音楽語法に影響を与えていることも確かだから、「大英帝国」云々は、あながち的外れなことじゃないのだが)

 大オーケストラでヘンデルの音楽を愉しみたい方には大いにお薦めしたい一枚である。


 なお、『王宮の花火の音楽』や『水上の音楽』の大管弦楽版でより有名なハミルトン・ハーティ編曲を利用した録音としては、ジョージ・セル指揮ロンドン交響楽団<DECCA>(ただし、セル自身による改編あり)、マルコム・サージェント指揮ロイヤル・フィル<EMI>、アンドレ・プレヴィン指揮ピッツバーグ交響楽団<PHILIPS>などが挙げられる。
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2013年06月29日

芥川也寸志の交響曲第1番、交響三章、弦楽のための三楽章

☆芥川也寸志:交響曲第1番、交響三章、弦楽のための三楽章

 指揮:芥川也寸志(交響曲、交響三章)、森正(弦楽のための三楽章)
管弦楽:旧東京交響楽団
(1963年、1961年/アナログ・セッション録音)
<EMI/タワーレコード>QIAG-50106


 坂本九じゃないけれど、この世で一番肝心なのは素敵なタイミングだ。
(ここで九ちゃんがらみのブラックな言葉を一つ挟もうと思ったが、自粛する)

 僕が中学校三年生になって中古LPを集めたり、FM放送のエアチェックを行ったりと、クラシック音楽に本格的にはまり出した頃、芥川也寸志と黒柳徹子の掛け合いが微笑ましいNHKの『音楽の広場』が最終回を迎え、芥川さんは『N響アワー』の司会へと転じた。
 入門編から応用編へ。
 僕のクラシック音楽との向き合い方の変化と時を同じくして、これまたテレビにおけるクラシック音楽の説明の仕方、伝え方を変化させた芥川也寸志は、自分自身のクラシック音楽体験を語る際に、切っても切れない人物の一人ということになった。
 だから、今回とり上げるCDの初出盤が1987年に発売されたとき、迷わず購入することにしたのも、クラシック音楽を親しむきっかけを与えてくれた芥川さんへの敬意の念が大きく働いていたことは、言うまでもない。
 ちなみに、このCDは学生時代繰り返し愛聴していたのだが、ある人物に貸したままそれきりになってしまった。
 その後、LP時代と同様の交響曲第1番と交響三章のカップリングで再発されたことはあるものの、CD初出時のスタイルでリリースされるのは、約26年ぶりということになる。

 このCDには、芥川也寸志自身が指揮した交響曲第1番と交響三章「トゥリニタ・シンフォニカ」、森正が指揮した弦楽のための三楽章「トリプティーク」という、芥川さんにとって出世作、そして代表作と呼ぶべきオーケストラ作品が収められている。
 ロシア・ソヴィエト音楽からの影響丸出しなリズミカルで激しいアレグロ楽章(交響曲は、プロコフィエフの交響曲第5番を明らかに意識したもので、同じ作曲家の交響曲第8番と偽って聴かせても疑わない人がいるんじゃないか)と、東洋的な雰囲気を醸し出す叙情的な旋律との明快なコントラスト等、『八甲田山』や『八つ墓村』といった後年の映画音楽とも共通する、芥川也寸志の作曲の特性がよく示されていて、いずれも耳なじみがよい。
 特に、表面的には紳士然とした芥川さんの内面の躁的な部分が全開となっているように感じられてならない交響曲第1番の第4楽章や交響三章の祝祭的な終楽章は、聴いていて本当にわくわくどきどきしてくる。
 また、森正(1987年に亡くなった。と、言うことは、このCDの初出盤は、彼の追悼盤にもなっていたのか)が指揮したトリプティークも、一気呵成、実にかっこよい。

 交響三章など、湯浅卓雄指揮ニュージーランド交響楽団の演奏<NAXOS>と比較すれば、オーケストラの力量と音楽づくりの精度の高さという点では、残念ながらひけをとるものの、たがの外れ具合、音楽への熱の入り方という点では、こちらも負けてはいないと思う。
 イヤホンで聴くと、どうしても録音の古さは否めないのだが、リマスタリングの効果もあって、作品と演奏を愉しむのに、あまり不満は感じない。

 芥川也寸志の入門にはうってつけの一枚。
 税込み1200円という価格もお手頃だ。


 なお、交響曲第1番と交響三章が録音されたとされる1963年前後、東京交響楽団はRKB毎日・毎日放送の契約を解除され(1962年)、アサヒビール社長の山本為三郎が理事長を退陣し、東芝音楽工業との専属契約を解除され、東京放送・TBSからも契約を解除され(1963年)、ついに解散の発表をよぎなくされ、楽団長でトロンボーン奏者の橋本鑒三郎が自責の念から入水自殺を遂げることとなった(1964年)*。
 その後、東京交響楽団は自主運営の楽団として再建されるのだけれど(だから、あえて旧東京交響楽団と表記している)、日本のオーケストラが辿ってきた歴史を振り返るという意味でもこれは貴重なCDだろう。


*日本フィルハーモニー協会編著『日本フィル物語』<音楽之友社>より
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2013年03月29日

ロジェとイザイ・カルテットが演奏したフォーレのピアノ4重奏曲&5重奏曲

☆フォーレ:ピアノ4重奏曲&ピアノ5重奏曲

 演奏:パスカル・ロジェ(ピアノ)、イザイ・カルテット

 *ピアノ5重奏曲第1番&ピアノ4重奏曲第1番
(1995年12月/デジタル・セッション録音)
<DECCA>455 149-2

 *ピアノ4重奏曲第2番&ピアノ5重奏曲第2番
(1996年4月/デジタル・セッション録音)
<DECCA>455 150-2



 そもそも音楽を言葉で表わそうということに無理があるのだけれど、それでも言葉でくどくどと説明したくなるような音楽も、世の中にはやはりある。
 一方で、言葉で説明しようとすればするほど空回り、どうにも嘘臭くなってしまって、はては「言葉が、腐れ茸のように口のなかで崩れてしまう」(byホフマンスタール『チャンドス卿の手紙』より。岩波文庫)ような、なんとも虚しい想いにとらわれてしまう音楽もある。

 さしずめ、フォーレの室内楽作品、中でもピアノ4重奏曲(2曲)とピアノ5重奏曲(2曲)など、その最たるものではないか。
 端整な表情をしていて日頃は穏やか、ユーモア感覚だってそれなりに持ち合せている。
 けれど、ときとして垣間見える憂いと、心に秘めた激しい感情…。

 ああ、なんとも嘘臭いや!

 いずれにしても、音楽をじっくり愉しみたいと思っている人にはまさしくうってつけの作品だと思う。

 パスカル・ロジェとイザイ・カルテットは、クリアでスマート、それでいて劇性にも富んだ演奏を行っている。
 作品の持つリリカルさを尊重しつつも、粘り過ぎず乾き過ぎず、過度に陥らない音楽解釈でとても聴き心地がよい。
 録音も明快で、フォーレのピアノ4重奏曲とピアノ5重奏曲に親しむのには絶好の二枚だ。
 大いにお薦めしたい。
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2013年03月20日

アルテミス・カルテットのセリオーソとラズモフスキー第1番

☆ベートーヴェン:弦楽4重奏曲第11番「セリオーソ」&第7番「ラズモフスキー第1番」

 演奏:アルテミス・カルテット
(2005年6月&7月/デジタル・セッション録音)
<Virgin>7243 5 45738 2 8


 一気呵成はまだしも、猪突猛進って言葉には、なんとも言えない危うさを感じる。
 例えば、目の前に並ぶ鉄砲隊もなんのその、進め進め、進め一億火の玉だ! と突撃して、ばたばたばたばたと倒れる、信玄亡きあとの武田騎馬軍団のような。
(最近の研究では、長篠の戦いの様相って巷間伝わっているようなものではなかったらしいけど)

 で、そんな武田騎馬軍団を想起させるといえば、最晩年のヘルマン・シェルヘンがスイス・ルガーノのスイス・イタリア語放送管弦楽団を指揮して遺したベートーヴェンの交響曲全曲のライヴ録音。
 速いテンポでぐいぐいと、と言えばよく言い過ぎだろう。
 笛吹くから踊ってくれ!
 軍配挙げるから突撃してくれ!
 てな具合の叱咤激励(唸り声が凄い!)で、あまり技量に秀でていないオーケストラを駆り立てるものだから、破れかぶれのはちゃめちゃやたけた。
 壊滅破滅のゲシュタルト崩壊寸前。
 まあ、その迫力気力には、上っ面だけ整えた中途半端に上手な演奏なんかより、何倍何十倍何百倍も、心にぐっとくるものがあるんだけどね。
 でも、一般向きとはちょと言えない。

 こなたアルテミス・カルテットが演奏した、第11番「セリオーソ」と第7番「ラズモフスキー第1番」の2曲の弦楽4重奏曲がカップリングされたアルバムは、速いテンポで一気呵成という点だけならばシェルヘンの交響曲と共通するものの、音楽への向き合い方で大きく異なっている。
 ように聴こえる。
(だいいち、まずもって4人のメンバーが達者だ)

 速いテンポ、という部分は、いわゆるピリオド・スタイルの影響で、さくさく、さ・す・そという感じ。
 メリハリがよく効いていて、名人上手がテニスのダブルスでずっとラリーを続けているような緊迫感と爽快感を覚える。
 もちろん、先達アルバン・ベルク・カルテット譲りの、細密精緻な楽曲把握も忘れちゃなるまいが、アルバン・ベルク・カルテットのようなアナリーゼアナリーゼした感じではなく、インティメートな雰囲気が勝った音楽づくりを行っている点が、耳なじみの良さにつながっていると思う。

 ほどよい残響で、録音もクリア。
 高邁で深淵な精神性を求める向きにはあまりお薦めできないが、ベートーヴェンの一面、音楽そのものとしての劇性面白さを愉しみたい方には大いにお薦めしたい一枚だ。

 それにしてもこのCD(輸入盤)、リリース後、それほど間を置かずに廃盤になってしまったんだった。
 そういう武田勝頼みたいなことをやっているから(あくまでも思い込み)、EMIレーベルといっしょにワーナー傘下に吸収されてしまうんだ、Virginレーベルは。
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2013年03月13日

カール・ベームとウィーン・フィルの来日公演から、ブラームスとワーグナーを聴く

☆ブラームス:交響曲第1番他

 指揮:カール・ベーム
管弦楽:ウィーン・フィル
(1975年3月22日/アナログ・ステレオ・ライヴ録音)
<ドイツ・グラモフォン>UCCG-4489


 独墺系を代表する巨匠指揮者だったカール・ベームが亡くなったのは、1981年の8月14日。
 僕がクラシック音楽をちらちらと気にするようになったのは、それから一年後の1982年頃。
 加えれば、僕がクラシック音楽にどっぷりとはまり込んだのは、さらに二年後の1984年頃。
 つまり、一応同じ時代を生きてはいたものの、僕がカール・ベームの存在に気付いたのは、彼が亡くなってからあとのことだった。
 だから、ベームが晩年の手兵ウィーン・フィルと録音したブラームスの交響曲第2番<ドイツ・グラモフォン/LP>やブルックナーの交響曲第4番「ロマンティック」<LONDON/CD>を愛聴はしつつも、どこか過去の人というイメージをぬぐい去ることはできなかった。
(そうそう、アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団を指揮したモーツァルトの交響曲第39番〜第41番「ジュピター」の廉価LP<fontana>も中古で入手していたが、どうも素っ気ない感じがしてあまり聴き込むことはしなかったっけ)
 そして、年長のクラシック音楽の愛好家の方から、ベームとウィーン・フィルの来日公演は凄かったと聴かされるたびに、僕はベームと自分との時間のずれを改めて強く感じたりもした。

 そんなベームとウィーン・フィルの来日公演のうち、1975年3月のライヴ録音が久しぶりに再発されることとなり、その中から3月22日のコンサートの、ブラームスの交響曲第1番とアンコールのワーグナーの楽劇『ニュルンベルクのマイスタージンガー』第1幕への前奏曲がカップリングされたものを購入することにした。
 なお、音源はNHKによるもので、国内のドイツ・グラモフォン・レーベル(ユニバーサル・ミュージック)がリリースを行っている。

 20世紀の終盤、後期ロマン派の作品に関しても、いわゆるピリオド・スタイルによる解釈が進んで、実際ブラームスの交響曲第1番でも、ロジャー・ノリントンとロンドン・クラシカル・プレイヤーズ<EMI>をはじめ、速いテンポでメリハリのよく効いた、作品の持つどこかぎくしゃくとした感じまで強調するような演奏が徐々に市民権を得るようになってきた。
 それに対して、ベームは、王道中の王道と評すべきか、過度に速からず過度に遅からず、鳴らすべきところではたっぷりと鳴らし、歌うべきところではじっくりと、しかし粘らず歌う、作品の長所は前面に押し出し、短所急所は巧く馴らして聴かせるという、実にオーソドックスな音楽づくりを行っている。
 中でも、第4楽章の有名な旋律がこれほどしっくりくる(ああ、この曲もここまでやって来たんだと思える感慨、と言い換えてもいいかな)演奏を聴くのは、本当に久しぶりのことだ。
 そして、ライヴ特有の傷は多々ありつつも、ベームの解釈にしっかりと応えるウィーン・フィルの存在も当然忘れてはならないだろう。
 特に、弦楽器の美しさには聴き惚れる。
 また、カップリングのワーグナーでは、ベームとウィーン・フィルの劇場感覚がよく示されているのではないか。
 いずれにしても、こうした演奏を生で聴くことができなかったことがとても残念でならない。
 お客さんたちの激しい拍手を聴けばなおさらのこと。

 音質はとびきりのものとは言えまいが、演奏を愉しむという意味では、それほど問題はないとも思う。
 クラシック音楽好きには、大いにお薦めしたい一枚だ。


 ところで、最後に付け加えるならば、今回の1975年3月のベームとウィーン・フィルの来日公演のライヴ録音の再発のあり様に関しては、正直僕は全く感心しない。
 と、言うのも、各公演日のプログラムを優先させたカップリングにすればよいものを、あちらからこれ、こちらからこれとごちゃまぜにした、ばらばらなカップリングを行っているからである。
 こうしたことは、LP時代の音源をCD化する際、往々にして起こりがちなことではあるのだが、少なくとも今回の録音に関しては、ドキュメント的な意味合いもあるわけで、どうしてこんなことになるのかと、非常に残念でならない。
posted by figarok492na at 15:33| Comment(0) | TrackBack(0) | CDレビュー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年03月05日

アンドルー・デイヴィスが指揮した『マドンナの宝石』

☆マドンナの宝石(オーケストラ名曲・ア・ラ・カルト)

 指揮:アンドルー・デイヴィス
管弦楽:フィルハーモニア管弦楽団
(1987年6月/デジタル・セッション録音)
<東芝EMI>CC30-9062(ANGEL BEST100)


 恥の多い生涯を送って来ました。

 齢43を数えるまで、いったいどれほど穴があったら入りたくなるような恥ずかしい事どもを繰り返して来たか。

 あれは、中学2年生の頃。
 クラシック音楽を聴き始め、おまけに吉田秀和の書いた本なんか読み始めた僕は、音楽のW先生(20代後半だったろうか。なかなかきれいな女性だった)に向かって、
「マスネの『タイス』の瞑想曲やマスカーニの『カヴァレリア・ルスティカーナ』の間奏曲とかって、通俗的で次元の低か曲ですね」
と口にしてしまったのだ。
 W先生は、にこっとして、
「あたしは、好きよ。きれいか曲やもん」
と答えてくれたのだけれど、もしかしたら内心>こん、くそガキが<と唸り声を上げていたかもしれない。

 今になって、じゃない、時を経ずして高校に入った頃には、己はなんて馬鹿なことを口にしてしまったのだろうと、自分自身の愚かさ浅はかさを呪ったものである。
 が後の祭、後悔先に立たず、覆水盆に返らず、生兵法は大けがのもと。
 いや、最後のは違うか。

 まあ、それはそれとして、30年以上いろいろなクラシック音楽を聴き続けてきて思ったことは、W先生がおっしゃたように、『タイス』の瞑想曲も『カヴァレリア・ルスティカーナ』の間奏曲も、確かにきれいで耳馴染みのよい曲で、聴けば必ず「ああ、いいなあ!」と感じるということだ。

 ところがどっこい、気がついて周りを見れば怖い蟹、じゃない、こは如何に。
 かつてあれほど録音されていた、クラシックの名曲小品と呼ばれる作品が、影も形もなくなっているではないか。
(って、ちょと大げさだね)

 と言ってこれ、中2(病)の僕のようなお高くとまったスノビストが増えて、名曲小品の価値がだだ下がりに下がったというわけではなく。
 レコードに変わって、長時間収録が可能となったCDが一般化するとともに、マーラーやブルックナーなんて大曲や、これまであんまり知られてこなかった秘曲珍曲が幅をきかせてくるようになったってことで。

 今回とり上げる、アンドルー・デイヴィスがフィルハーモニア管弦楽団を指揮して録音した『マドンナの宝石』(オーケストラ名曲ア・ラ・カルト)なぞ、それこそ名のあるオーケストラを起用して録音された名曲小品集の末尾を飾る一枚なのではないだろうか。
(そうそう、これは東芝EMIのスタッフがイギリスまで出張して録音した国内企画のアルバムで、東芝EMIからは、先頃亡くなったヴォルフガング・サヴァリッシュとバイエルン州立歌劇場管弦楽団の組み合わせで録音した同種の名曲小品集がリリースされていたし、デンオン・レーベルからは、チャールズ・グローヴズが同じフィルハーモニア管弦楽団を指揮して録音した『グローヴズ卿の音楽箱』という名曲小品集が2枚リリースされていた)

 お国物のエルガーの『愛のあいさつ』に始まり、スッペの喜歌劇『軽騎兵』序曲、レハールのワルツ『金と銀』、ポンキエルリの歌劇『ジョコンダ』から時の踊り、ワルトトイフェルのスケーターズ・ワルツ、ヴォルフ=フェラーリの歌劇『マドンナの宝石』間奏曲、イヴァノヴィッチのワルツ『ドナウ河のさざ波』、ボロディンの交響詩『中央アジアの沿う現にて』、ローザスのワルツ『波濤を越えて』、マスカーニの歌劇『カヴァレリア・ルスティカーナ』間奏曲(!)、エルガーの行進曲『威風堂々』第1番、そしてヘンデルの歌劇『クセルクセス』からラルゴで締めるという、若干脈絡はないけれど、オーケストラの魅力を存分に、そして気楽に味わうことのできるカップリングとなっている。
 カナダのトロント交響楽団のシェフを辞し、母国イギリスに腰を落ち着けたばかりのアンドルー・デイヴィスは、そうした各々の作品の特性魅力をよくとらまえて、実に聴き心地のよい音楽を造り出しているのではないか。
 フィルハーモニア管弦楽団も達者なかぎりだ。
 それにしても、『ドナウ河のさざ波』や『波濤を越えて』なんて、本当に久しぶりに耳にしたなあ。
 『ドナウ河のさざ波』の冒頭部分は、テレビドラマか何かのテーマ曲になっていたこともあって、よくリコーダーで吹いていたくらいなのに。

 例えば、自殺したヘルベルト・ケーゲルがドレスデン・フィルを指揮して録音した同種のアルバムのような「深淵」をのぞくことは適わないが、たまには気楽な気分で音楽に親しむ時間があってもいいんじゃないか。
 それこそ「深淵」ばかりのぞいていると、長年積み重ねて来た自分の恥に耐えかねて、自分の命を自分で奪ってしまうことにもなりかねないもの。

 いずれにしても、音楽好きに安心してお薦めできる、愉しい一枚だ。
posted by figarok492na at 22:30| Comment(0) | TrackBack(0) | CDレビュー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

エリアフ・インバルが指揮したブルックナーの交響曲第2番

☆ブルックナー:交響曲第2番

 指揮:エリアフ・インバル
管弦楽:フランクフルト放送交響楽団
(1988年6月/デジタル・セッション録音)
<TELDEC>243 718-2(8.44144ZK)


 エリアフ・インバルがフランクフルト放送交響楽団と録音したブルックナーの交響曲全曲のうち、初期の作品にあたる第2番を聴く。
 第1楽章の冒頭の細かい弦の動きや、金管のファンファーレと、ブルックナーらしさが明確に現れ出した頃の交響曲で、森閑とした、とでも評したくなるような澄んだ感じのする曲調が僕は好きだ。
 インバルは、曲の要所長所をよく押さえるとともに、この交響曲の持ついびつな部分、弱点短所を馴らすことなく、それもまた作品の特性と捉えて細かく表現しているように思う。
 オーケストラの動きに若干鈍さを感じるし、録音もそれほどクリアではないのだが(TELDECレーベルらしく)、ブルックナーの交響曲第2番の特質特徴をよく識るという意味では、ご一聴をお薦めしたい一枚だ。
posted by figarok492na at 19:52| Comment(0) | TrackBack(0) | CDレビュー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

アントニー・ペイ独奏によるウェーバーのクラリネット協奏曲集

☆ウェーバー:クラリネット協奏曲集

 独奏:アントニー・ペイ
管弦楽:エイジ・オブ・エンライトゥンメント管弦楽団
(1987年10月/デジタル・セッション録音)
<Virgin>VC7 90720-2


 進化には道理あり。
 いわゆる社会ダーウィニズムには、19世紀的な帝国主義臭がふんぷんとして、どうにもこうにも胡散臭さと腹立たしさを覚えるものの、時代に伴った化学技術の進化には、やはりむべなるかなと大いに納得せざるをえぬものがある。
 楽器もまたしかり。
 社会の変化に歩みを合わせるかのような、19世紀、そして20世紀の楽器の変化は、これまた当為のものであり、実際楽曲演奏両面で大きな進化をもたらした。
 でもね、今は今中今は今、と永遠の今日を続けていると、何やら惰性が働いて手垢はつくわ苔は蒸すわ。
 おまけに原子力発電所は壊滅的な事故を起こすわ。
 事は音楽だって同じ。
 オーソドックスといえば聴こえはいいし、確かに超一流の演奏を聴けば、やっぱり王道っていいな、なんて感心感嘆してしまうものの、世の中そんなに超一流ばっかりじゃない。
 惰性でお仕事やってます、的な演奏聴くと、もう萎えちゃうんだよね。

 で、温故知新じゃないけれど、前世紀の最終盤、作品が作曲された当時の楽器、もしくは復元された楽器=ピリオド楽器を使って、しかもその時代の演奏方法を鑑みながら作品を演奏しようって流れが出来てきた。
 つまり、これがピリオド・スタイルってやつ。
 今までの演奏ではいまいちわかりにくかった作品のツボや仕掛けがわかってきたし、スピーディーなテンポ設定は清新快活だし。
 少なくとも、ピリオド・スタイルの出始めはたまりにたまった塵芥を取り去ったような清々しさを感じたものだ。

 今回とり上げる、第1番と第2番の協奏曲にコンチェルティーノ(単一楽章の小協奏曲)を収めたウェーバーのクラリネット協奏曲集のCDも、そんなピリオド楽器とピリオド・スタイルの演奏が「市民権」を得始めた頃に録音された一枚だ。
(なお、これまではアントニー・ペイが吹き振りしたと思っていたが、改めてブックレットを確認すると、ヴァイオリンのロイ・グッドマンがリーダーとメンバー表に記されていた。もしかしたら、オーケストラは彼の弾き振りなんじゃなかろうか)
 いっかなピリオド楽器の名奏者アントニー・ペイと、いっかなピリオド楽器の腕扱きを集めたエイジ・オブ・エンライトゥンメント管弦楽団であろうと、ところどころ音程その他、危なっかしい部分はあったりはするんだけど、反面、作品の持つ陽性歌謡性が巧みに再現されているようにも思う。
 てか、モダン楽器の整って迫力満点の演奏だと、ときにかまびすしさ、ばかりか安っぽさすら感じるウェーバーのクラリネット協奏曲の伴奏(オーケストレーション)が、適度な華やかさで聴こえるのは、やはりこの演奏の魅力なのではないだろうか。

 ロンドンの聖バーナバス教会での録音もほどよい響きで聴きやすく、初期ロマン派好きの方には、ご一聴をお薦めしたいCDである。
posted by figarok492na at 12:05| Comment(0) | TrackBack(0) | CDレビュー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年03月01日

ピリスが弾いたシューベルトのピアノ・ソナタ第16番&第21番

☆シューベルト:ピアノ・ソナタ第16番&第21番

 ピアノ:マリア・ジョアン・ピリス
(2011年7月/デジタル・セッション録音)
<ドイツ・グラモフォン>477 8107


 以前、1985年に録音された(と、言うことは、もう30年近く前になる)、マリア・ジョアン・ピリスが弾いたシューベルトのピアノ・ソナタ第21番<ERATO>について、「自己の深淵と向き合うということをどこか自家薬籠中のものとしてしまった感すらある」最近のピリスの演奏と異なって、清新でどうこうと好意的に評したことがあった。
 で、今回改めてピアノ・ソナタ第21番の新旧二つの録音を聴き比べてみて、自分自身の言葉の浅薄さに反省した次第だ。
 いや、確かに1985年の録音の清新な雰囲気、若々しさは魅力ともなっているのだが、新しい録音と比べると、細かな部分(例えば、第2楽章)での表現のちょっとした薄さが気になってしまうのである。
 と、言っても、新旧双方で大きな解釈の違いがあるわけではなく、演奏時間も新しい録音のほうが2分程度長くなっただけではあるのだけれど。
 けれど、一音一音丁寧に紡ぎ上げていくかのような新しい録音でのピリスの演奏の懐の深さ、幅の広さに僕は強く魅かれる。
 上述した言葉を引くならば、自己の深淵と向き合いつつも、そうした状態に溺れることなく、真摯に淡々と音楽を造っている、と評することができるだろうか。
 このレビューを記すまでに、約20回ほどこのCDを聴き返したが、何度聴いても聴き飽きない、充実感に満ちた演奏だと思う。
 また、カップリングの第16番のソナタも、作品の持つ歌唱性と叙情性、躍動感をよく捉えて過不足がない。
 ドイツ・グラモフォンの録音もクリアであり、音楽好きにはぜひともご一聴をお薦めしたい一枚だ。
posted by figarok492na at 22:00| Comment(0) | TrackBack(0) | CDレビュー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

パーヴォ・ヤルヴィの指揮によるシューマンの交響曲第2番&序曲集

☆シューマン:交響曲第2番&序曲集

 指揮:パーヴォ・ヤルヴィ
管弦楽:ドイツ・カンマーフィルハーモニー・ブレーメン
(2011年4月、12月&2012年3月/デジタル・セッション録音)
<RCA SONY/BMG>88765 42979 2 SACD


 先頃hr(フランクフルト放送)交響楽団のシェフの座を降りることが伝えられたパーヴォ・ヤルヴィだが(もしかしたら、ベルリン・フィルを狙っているのか?)、このhr響をはじめ、パリ管弦楽団、そしてドイツ・カンマーフィルと精力的な演奏活動、並びに各々のオーケストラの特性をよく踏まえた録音活動を繰り広げている。
 中でも、ハインリヒ・シフ、トーマス・ヘンゲルブロック、ダニエル・ハーディングら歴代指揮者とともにピリオド・スタイルに磨きをかけ続けてきたドイツ・カンマーフィルと録音したベートーヴェンの交響曲全集は、ピリオド奏法の援用によるモダン楽器オーケストラの演奏の模範解答とでも呼ぶべき過不足のない内容となっているのではないか。

 そうしたパーヴォ・ヤルヴィとドイツ・カンマーフィルがベートーヴェンの次に着手したのは、シューマンの交響曲全集である。
 で、すでに第1番「春」&第3番「ライン」がリリースされているのだけれど、今回とり上げるのは、僕が大好きな第2番と4つの序曲が収められた一枚だ。
(なお、もともとSACDと発売されているものを、僕はCD面で聴く)

 上述したベートーヴェン同様、いわゆるピリオド奏法を援用した、スピーディーでクリアでスマート、なおかつシンフォニックで劇性に富んだ音楽づくりで、交響曲第2番では、レナード・バーンスタインがこの曲の第2楽章を評して言った「mad(気狂い)」な感じや前のめり感は若干馴らされてしまっているように思わないでもないのだが、とても見通しと聴き心地のよい演奏であることも確かだ。
 加えて、小編成ということもあってだろう、同じく交響曲など、シューマンのオーケストレーションの特異さがよくわかる演奏ともなっている。
(終楽章=トラック4の2分15秒あたりの、オルガン的、もしくは金属的な鋭い響きが強く印象に残る)

 また、このアルバムでは、『マンフレッド』、『ヘルマンとドロテア』(ゲーテの作品によるもので、フランス国歌『ラ・マルセイエーズ』がしつこいほどに引用される。急進的と伝えられるシューマンの「政治性」については、いずれ詳しく調べてみたい)、『メッシーナの花嫁』、『ゲノヴェーヴァ』の4つの序曲も聴きものだろう。
 これまでピリオド・スタイルやピリオド楽器のオーケストラでほとんど録音されてこなかった曲目だけに貴重だし*、音楽のツボをよく押さえたリリカルでドラマティックな演奏も充分に満足がいく。

 いずれにしても、パーヴォ・ヤルヴィという指揮者の力量が十二分に発揮された、安心してお薦めできるアルバムだ。


*注
 そもそもシューマンの序曲集自体、録音が少ない。
 交響曲全集のカップリングは置くとして、序曲集という形では、ヨハネス・ヴィルトナー指揮ポーランド国立放送交響楽団<NAXOS>、リオール・シャンバダール指揮ベルリン交響楽団<ARTE NOVA>、パーヴォ・ヤルヴィの父親であるネーメ・ヤルヴィ指揮ロンドン交響楽団<CHANDOS 一枚物のブラームスの交響曲全曲にカップリングされていたのをまとめたもの>を思いつく程度である。
posted by figarok492na at 17:01| Comment(0) | TrackBack(0) | CDレビュー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年01月30日

1983年にリリースされた『バロック音楽へのお誘い』

☆バロック音楽へのお誘い

 指揮:イェルゲン・エルンスト・ハンセン
管弦楽:ソチエスタ・ムジカ室内管弦楽団
(1976年1月/PCMデジタル・セッション録音)
<DENON>38C37-7037


 今手元に、『コンパクトディスク・カタログ’85<秋期>[クラシック編]』<音楽之友社>という一冊のCDカタログがある。
 1985年秋頃発売されていたCD(発売予定含む)を、ほぼ一枚ずつ、ブックレット写真や録音データ、簡単な演奏評や録音評付きで紹介したもので、高校時代に購入して何度も読み返し、はては記号やら数字やらを書き込んだため、手垢まみれの上にぼろぼろとなってしまっているのだが、CD初期のリリース状況が詳しくわかることもあって未だに重宝している。
(CDのリリース量が半端ないものになってしまったこともあってか、1992年以降こうした形でのカタログは刊行されなくなったはずだ)

 で、購入当時から気になったものもそうでないものも、このCDカタログに掲載されているCDは、ある種のノスタルジーもあるのだろう、中古CDで見つけるとこまめに購入しているのだけれど、今回とり上げるCDも、まさしくそのうちの一枚。
 北欧の演奏家たちがアルビノーニのアダージョ、ヨハン・セバスティアン・バッハのアリア(G線上のアリアの原曲)、パッヘルベルのカノンとジーグといった、バロック音楽のくくりの中で有名な作品を演奏したアルバムで、正直全く期待はしていなかったのだが、これがなかなかの聴きものだった。
 40年近く前のモダン楽器の室内オーケストラによる録音だから、いわゆるピリオド・スタイルとは全く遠く、音楽の処理の仕方に古さを感じる箇所も少なくないとはいえ、粘らず重苦しくなく、かといって軽過ぎもせず、かつ清潔感を持った演奏と音色で、聴いていてすっと音楽が耳に入ってくる。
 それこそ、北欧の家具のような演奏であり録音であると思った次第。

 それにしても、1983年4月21日のリリース時に3800円だったものが、ほぼ30年の歳月を経て105円(ブックオフの中古)とは、諸々考えざるをえないなあ。
posted by figarok492na at 19:41| Comment(0) | TrackBack(0) | CDレビュー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ザロモン弦楽4重奏団が演奏したモーツァルトの弦楽4重奏曲第20番&第22番

☆モーツァルト:弦楽4重奏曲第20番&第22番

 演奏:ザロモン弦楽4重奏団
(1990年9月/デジタル・セッション録音)
<hyperion>CDA66458


 モーツァルトの弦楽4重奏曲第20番が好きだ。
 特に、伸びやかさと愛らしさとインティメートな雰囲気に満ち満ちた第1楽章が大好きだ。
 だからこそ逆に、自分にぴたぴたっとしっくりくるCDになかなか出合えない。
 ハーゲン・カルテットのCDが今手元にあって、これもほんとに優れた演奏なのだが、どこかで、いやなんかが違うな、という気持ちにとらわれてしまっている。
 そんなこともあって、ブックオフの500円の中古コーナーで見つけた、ザロモン弦楽4重奏団の演奏によるハイペリオン盤を思わず購入してしまった。

 で、ザロモン弦楽4重奏団はヴァイオリニストのサイモン・スタンデイジが率いるピリオド楽器のアンサンブルなのだけれど、同じピリオド楽器のモザイク・カルテットのような流麗さには欠けるものの、実に親密感にあふれた演奏を造り出しているのではないか。
 目当ての第20番の第1楽章も、なかなかいい線いっていると思う。
 ただ、それじゃあこの演奏がベストチョイスとなるかというと、ううん、それはどうだろう。
 演奏の端々にふと顔を出すちょっとした野暮ったさが、どうにも気になってしまうんだよなあ。
 まあ、気にし過ぎといえば、気にし過ぎなんだろうけどね。
 とはいえ、カップリングの第22番ともども、度々聴き返すことになるCDにはなりそうだ。

 古典派の室内楽好きにはご一聴をお薦めしたい一枚だ。
posted by figarok492na at 17:05| Comment(0) | TrackBack(0) | CDレビュー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ハンス・フォンクが指揮したモーツァルトの序曲集

☆モーツァルト:序曲集

 指揮:ハンス・フォンク
管弦楽:シュターツカペレ・ドレスデン
(1985年7月/デジタル・セッション録音)
<CAPRICCIO>10 070


 今からほぼ20年前のケルン滞在中、ケルンWDR(放送)交響楽団のシェフを務めていたのがハンス・フォンクで、彼の指揮するコンサートには何度も足を運んだものだけれど、正直今一つという感は否めなかった。
 と、言うのも、細部の詰めよりも、作品の全体像の把握と音楽の波の再現を優先する彼の姿勢が、機能性に富んだケルンWDR交響楽団との間に大きなずれを生んでいたように思ったからだ。
 そういえば、同じシーズン中に、前任者のガリ・ベルティーニが特別コンサートの指揮台に立ってがっちりきっちりとオーケストラをコントロールする演奏を行ったことがあって、当代フォンクの指揮の緩さが一層気になったりもしたんだった。
 フォンクが指揮した中では、荒削りながら、ピリオド・スタイルというより、フォンクと同じオランダ出身のパウル・ヴァン・ケンペンがベルリン・フィルを指揮した古いモノラル録音をどことなく想起させる、ドラマティックなベートーヴェンの交響曲第3番「英雄」に満足した程度か。
(このときは、ギル・シャハムが同じベートーヴェンのヴァイオリン・コンチェルトで、とても美しいヴァイオリンの音色を聴かせていた)
 当時、ケルンのオペラ(ギュルツェニヒ管弦楽団)のシェフを務めていたのがジェイムズ・コンロンで、フォンクとコンロンの音楽性、持ち味、得手不得手を考えれば、二人の人事はあべこべなんじゃなかろうかと考えたほどである。
 その後、フォンクはレナード・スラットキンの後任としてセントルイス交響楽団の音楽監督に就任したが、これといった評判を聴くこともなく(近年、ようやくライヴ録音がまとまった形でリリースされた)、母国オランダのオランダ放送交響楽団とようやく柄に合った録音活動をスタートさせてすぐの2004年に、筋委縮性側索硬化症という難病のため亡くなってしまった。

 今回とり上げるCDは、そんなハンス・フォンクが1985年にシュターツカペレ・ドレスデンと録音したモーツァルトの序曲集である。
 今手元にあるリナルド・アレッサンドリーニ指揮ノルウェー歌劇場管弦楽団や、アンドレア・マルコン指揮ラ・チェトラといった、いわゆるピリオド・スタイルやピリオド楽器による演奏とは全く対照的な、実にオーソドックスな演奏だ。
 メリハリをぐぐっときかせて、激しい音楽づくりを試みるなんてことは全くない。
 粘らず快活なテンポの、それでいて音楽の要所急所はきっちり押さえた劇場感覚にあふれた演奏で、とても耳なじみがよい。
 当然そこには、シュターツカペレ・ドレスデンというとびきりの劇場オーケストラの存在も忘れてはならないだろうが。
 いずれにしても、最晩年のオランダ放送交響楽団とのCDはひとまず置いて、ハンス・フォンクという指揮者の美質特性をよく表わした一枚だと思う。

 カプリッチョ・レーベルによる録音も全く古びておらず、落ち着いた気分でモーツァルトの序曲集に親しみたいという方には絶好のCDではないか。
 中古とはいえ、これが250円とはやはり安過ぎる。

 なお、収録されているのは、『魔法の笛』、『フィガロの結婚』、『アルバのアスカーニョ』、『クレタの王、イドメネオ』、『劇場支配人』、『コジ・ファン・トゥッテ』、『後宮からの逃走』、『にせの女庭師』、『ルーチョ・シッラ』、『皇帝ティトゥスの慈悲』、『ドン・ジョヴァンニ』の、計11の序曲だ。
posted by figarok492na at 16:53| Comment(0) | TrackBack(0) | CDレビュー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年01月25日

ペーター・マークとベルン交響楽団の「スコットランド」

☆メンデルスゾーン:交響曲第3番「スコットランド」&序曲『静かな海と楽しい航海』

 指揮:ペーター・マーク
管弦楽:ベルン交響楽団
(1986年8月/デジタル・セッション録音)
<IMP>PCD849


 スイス出身の今は亡き指揮者ペーター・マークは、メンデルスゾーンの交響曲第3番「スコットランド」を十八番にしていた。
 アナログ時代に名盤の誉れの高かったロンドン交響楽団とのデッカ盤をはじめ、今回とり上げるベルン交響楽団との録音、最晩年のマドリード交響楽団との録音、さらには度々客演していた東京都交響楽団とのライブ盤と、都合4枚ものCDがリリースされている。
 未聴の東京都響との録音はひとまず置くとして、大まかに言えば、音楽の要所をしっかり押さえつつも、粘らず流れのよい快活な音楽づくりということになるだろうか。
 諸々の経験からくる表現の異動はありつつも、基本的な解釈は、このベルン交響楽団との録音でも大きく変わっていないように思う。
 よい意味で作品の持つイメージを裏切らない、耳になじみやすい演奏だ。
 ただ、終楽章のラストなどオーケストラの弱さを時折感じてしまったことも事実で(第1楽章のさびしい流麗さなど捨て難いものの)、同じスイスのオーケストラでも、機能性に勝るチューリヒ・トーンハレ管弦楽団との録音だったらなあと思わないでもない。
 加えて、もやもやとしたあまりクリアでない音質も若干残念である。
 とはいえ、中古で400円は安いな、やっぱり。
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リカルド・シャイーが指揮したツェムリンスキーの交響曲第2番

☆ツェムリンスキー:交響曲第2番&詩篇第23篇

 指揮:リカルド・シャイー
 合唱:エルンスト・ゼンフ室内合唱団
管弦楽:ベルリン放送交響楽団
(1987年9月/デジタル・セッション録音)
<DECCA>421 644-2


 CDの登場がクラシック音楽の世界に与えた恩恵の一つとして、それまであまりとり上げられてこなかった作曲家なり作品なりの録音が活発に行われるようになったことを挙げることができるのではないだろうか。
 むろん、LP時代からのマーラー・ブームや、一部の演奏家・プロデューサーによる地道な録音活動も忘れてはならないだろうが、やはりシュレーカーやコルンゴルト、そしてツェムリンスキーら独墺系の作曲家たちの再評価は、CDの誕生と分けては考えられないものであると思う。
 そして、デッカ・レーベルが1990年代に積極的に進めた「退廃音楽(ENTARTETE MUSIK)」シリーズは、ナチス・ドイツによって退廃音楽の烙印を押された結果、急速に勢いを失い、第二次世界大戦後も時代状況の変化の中でなおざりにされてしまった作曲家たちのリバイバルを期した、CDという記録媒体によく沿った意欲的な企画であったとも思う。
(世界的な経済不況の影響により、その「退廃音楽」シリーズが頓挫する形となってしまったことは、なんとも残念なことだ)

 今回とり上げる、リカルド・シャイー指揮によるツェムリンスキーの交響曲第2番を中心としたアルバムは、上述したデッカ・レーベルの「退廃音楽」シリーズの先駆けと評しても、まず間違いではないだろう。
 ただし、シャイーがロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団他と録音した同じ作曲家の叙情交響曲などと比べて、1897年に作曲された交響曲第2番では、「退廃音楽」と呼ばれるような、実験的な手法技法や鋭く激しい音楽表現は全くとられていない。
 と、言うより、彼を評価したブラームスや、ドヴォルザークら国民楽派の作品と共通するような、美しくて耳なじみのよい旋律と躍動的な快活さをためた作品に仕上がっていて、全曲実に聴き心地がよい。
 だから、ツェムリンスキーに十二音音階以降のシェーンベルク(義弟でもある)らとの共通性を求めるむきは、ちょっと物足りなさを感じるかもしれないけれど、僕はこのツェムリンスキーの若々しい音楽がとても気に入った。
 シャイーとベルリン放送響も、作品の持つ長所を巧く押さえたエネルギッシュな演奏を行っているのではないか。
 また、詩篇第23篇も、清新な雰囲気の音楽と演奏でカップリングに相応しい。

 25年以上前の録音ということで、いくぶんもやっとした感じはするものの、音楽と演奏を愉しむという意味では問題ないだろう。
 これは購入しておいて正解の一枚だった。
 ブックオフの中古CDとはいえ、税込み500円とは安い。
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2012年12月30日

山田一雄と旧日本フィルによるチャイコフスキー&プロコフィエフ

☆チャイコフスキー:交響曲第5番&プロコフィエフ:交響曲第7番

 指揮:山田一雄
管弦楽:日本フィルハーモニー交響楽団(旧日本フィル)
(1972年1月、1971年1月/アナログ・ステレオ・ライヴ録音)
<タワーレコーズ他>TWCO-1010


 笛吹けど踊らず。
 という言葉があるけれど、今は亡きヤマカズさん、山田一雄の場合は、踊るから笛吹いてくれ、ではなかったのかなあと、最晩年の彼が指揮したいくつかの演奏会のことを思い出しながら、ついつい思ってしまう。
 あまりにミスが多くって、金返せと本気で腹が立った関西フィルとのブラームスの交響曲第1番、オーケストラの機能性とヤマカズさんの新即物主義的音楽づくりがそれなりにフィットした大阪センチュリー交響楽団とのベートーヴェンの交響曲第3番「英雄」、そして狂喜乱舞の極み、京都市交響楽団とのフランクの交響曲。
 演奏の良し悪しはひとまず置くとして、いずれも「踊る人」山田一雄の面目躍如というべき指揮ぶりだった。
(余談だが、ヤマカズさんと京響のあと、ハインツ・ヴァルベルク指揮ケルンWDR交響楽団でフランクの交響曲の実演に接したことがあったが、ワイマール共和国時代の中道右派のライヒスバンク総裁みたいなヴァルベルクの堅くて硬い音楽づくりは、ちっとも面白くなかった)

 そんな山田一雄の生誕100年を記念して、彼が旧日本フィルを指揮したライヴ音源のCDがタワーレコードからリリースされた。
 今回紹介するのは、1972年1月(詳細不明)に演奏されたチャイコフスキーの交響曲第5番と、1971年1月27日の第213回定期演奏会で演奏されたプロコフィエフの交響曲第7番がカップリングされた一枚だ。

 ヤマカズさんのチャイ5といえば、新星日本交響楽団との晩年のセッション録音が有名だが、60歳前後の指揮者としてもっとも脂の乗り切った時期ということもあってか、このライヴ録音は、きびきびとして流れがよくエネルギッシュな音楽づくりで、とても若々しい。
 現在に比べて個々の技量という点では、管楽器をはじめ精度の低さは否めないが、弦楽器のアンサンブルなど、予想以上にまとまっていることも確かで、フジ・サンケイ・グループによる財団解散とオーケストラ分裂直前の旧日本フィルの水準がよく示されているのではないか。

 一方、プロコフィエフも、チャイコフスキー同様、推進力に富んだ粘らない演奏だけれど、作品の造りもあって、オーケストラのとっちらかった感じが気にならないでもない。

 いずれにしても、山田一雄という日本の洋楽史に大きな足跡を遺した音楽家と、旧日本フィルというオーケストラを記念し記憶するに相応しいCDだと思う。
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ドロテー・ミールズが歌ったテレマンのアリア集

☆テレマン:アリア集

 独唱:ドロテー・ミールズ(ソプラノ)
 伴奏:ミヒ・ガイック指揮オルフェオ・バロック・オーケストラ
(2011年3月/デジタル・セッション録音)
<ドイツ・ハルモニアムンディ>88697901822


 何度か記したことだけれど、僕は声の好みのストライクゾーンがどうにも狭い。
 特にソプラノ歌手の場合は、はなはだしくて、正直、プッチーニのヒロインたちのもわもわむわむわした声は苦手だし、ワーグナーのヒロインたちの張り詰めた声も好んで聴きたいとは思わない。
 それでは、バロック音楽を得意とする高声のソプラノ歌手ならOKかといえばさにあらず、その人の持つちょっとした声の癖がひっかかって、結局やだなあということになる。

 そんな中、当たりも当たり大当たり、直球ど真ん中のソプラノ歌手に出会うことができた。
 ドイツ人とウクライナ人を両親に持つドロテー・ミールズがその人だ。
 と、言っても、すでに今回紹介するCDと同じドイツ・ハルモニアムンディをはじめ、いくつかのレーベルでその歌声を披歴しているから、デビューしたての新人ルーキーというわけではない。
 ただ、無理をして新譜を購入したいと思えるアルバムが、あいにく今までなかったのだ。

 それが、とうとうリリースされた。
 そう、他の作曲家のオペラのためにテレマンが作曲した、いわゆる挿入アリアを中心にまとめたこの一枚である。
 いやあ、それにしてもこのCDはいいな。
 クリアでよく響く声質(もしかしたら、録音の「工夫」もあるかもしれないが)は、若い頃のバーバラ・ボニーを思い起こさせるが、ミールズの場合は、ボニーをさらにウエットにしたような、柔らかさリリカルさしっとりとした感じが魅力的だ。
 また、そうした彼女の声質に、テレマンの明瞭でよく組み立てられた音楽がぴったりと合っている。

 ミヒ・ガイック指揮オルフェオ・バロック・オーケストラは、機能性においては他のピリオド・アンサンブルに大きく勝るとまでは言い難いが、素朴な質感、音色が印象的で、ミールズの歌によく沿っているように思う。

 協奏曲のカップリングも含めて、ドイツ・ハルモニアムンディからはヌリア・レアルによる同種のアルバムがリリースされているのだけれど、僕は断然こちらを選ぶ。
 歌好き、バロック音楽好きに、大いにお薦めしたい一枚だ。

 そうそう、ドイツ・ハルモニアムンディには、ぜひともミールズのハイドンやモーツァルト、ヨハン・クリスティアン・バッハらのアリア集や歌曲集を録音してもらいたいものである。
 声のピークというのは、本当に短いものだから。
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カルミナ・カルテットらが演奏したドヴォルザーク

☆ドヴォルザーク:ピアノ5重奏曲第2番&弦楽4重奏曲第12番「アメリカ」

 カルミナ・カルテット
 テオ・ゲオルギュー(ピアノ/ピアノ5重奏曲のみ)
(2012年7月/デジタル・セッション録音)
<SONY/BMG>88725479482


 スイスの弦楽4重奏団、カルミナ・カルテットといえば、デンオン・レーベル(現日本コロムビア)に録音した一連のアルバムが有名だ。
 中でも、1997年録音のドヴォルザークの弦楽4重奏曲第12番「アメリカ」(カップリングは第14番)には、同じデンオン・レーベルのスメタナ・カルテットの1987年録音の緩やかな演奏に馴染んでいたこともあり、大きな驚きと刺激を受けた。
 と、言うのも、ピリオド・スタイルからの影響もあってだろうが、強弱のメリハリがよくきいて速いテンポ、なおかつよく目の詰まったアンサンブルに、清々しさと若々しさを強く感じたからである。

 そんなカルミナ・カルテットがソニー・クラシカルに移籍し、約15年ぶりにドヴォルザークの「アメリカ」を再々録音(第1回目は、Bayerレーベルに1991年に録音)したのだけれど、アンサンブルに余裕ができたというか、よい意味で音楽に余白の部分が増えたように、僕には感じられた。
 その分、旧録音の畳み込むような張りつめた雰囲気は弱まったようにも思うが、作品の要所急所の押さえ方、作品の結構への目配せの巧さはやはり見事というほかない。

 今回のカップリングは、ピアノ5重奏曲第2番。
 スイス生まれのゲオルギューは、2006年の『僕のピアノコンチェルト』に出演して一躍有名となったピアニストだけれど、ここではカルミナ・カルテットの、作品の持つ劇性をよくとらまえた精緻な音楽づくりに沿った演奏を行っているように感じた。

 クリアな録音も、カルミナ・カルテットらの演奏によく合っていると思う。

 ドヴォルザークが「中欧」の作曲家であったということがよくわかる演奏で、「ボヘミアの郷愁」(それはドヴォルザークの本質の一部ではあるのだが)にとらわれない聴き手、室内楽好きには特にお薦めしたい一枚だ。
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2012年12月14日

ヘンゲルブロックが指揮したドヴォルザークの交響曲第4番とチェコ組曲

☆ドヴォルザーク:交響曲第4番&チェコ組曲

 指揮:トーマス・ヘンゲルブロック
管弦楽:ハンブルクNDR交響楽団
(2012年6月/デジタル・ライヴ録音)
<SONY/BMG>88725464672


 ピリオド楽器のアンサンブル、フライブルク・バロック・オーケストラやバルタザール・ノイマン・アンサンブルに、モダン楽器の室内オーケストラ、ドイツ・カンマー・フィルと精力的な活動を続けてきたトーマス・ヘンゲルブロックのハンブルクNDR響の新しいシェフへの就任は、ヨーロッパにおけるピリオド・スタイルの隆盛を象徴する出来事の一つだと思う。
(と、言っても、すでに20年以上前にハンブルクNDR響はジョン・エリオット・ガーディナーをシェフに迎えていたのではあるが)
 そして、あいにく聴きそびれてしまったものの、今年の来日公演は、ヘンゲルブロックとハンブルクNDR響の相性のよさを発揮した非常に充実した内容だったと伝えられている。

 ヘンゲルブロックとハンブルクNDR響にとって二枚目のアルバムとなる、ドヴォルザークの交響曲第4番とチェコ組曲(ちなみに、同じドヴォルザークの交響的変奏曲やブラームスのハンガリー舞曲の抜粋とともに、先述したガーディナーもドイツ・グラモフォンにこの曲を録音している)も、そうした両者の好調ぶりがよく表われた演奏となっているのではないか。
 ピリオド・スタイル云々もそうだけど、それより何より、二つの作品の持つ力感、劇性、抒情性、歌謡性が、テンポ感よくメリハリのきいた解釈で細やかにとらえられていて、実に聴き心地がよい。
 ドヴォルザークの音楽に一種の泥臭さを期待して物足りなさを感じるむきもあるかもしれないが、交響曲の第2楽章をはじめとしたワーグナーとの関連性などにもしっかり目配りの届いたクリアな音楽づくりに、僕は好感を抱く。

 ライヴ録音ゆえ、若干こもった響きなのが残念といえば残念だけれど、作品や演奏を愉しむという意味では、まず問題はない。
 ドヴォルザークの交響曲第4番なんて知らないという方や、チェコ組曲って『のだめ』のドラマで使われてなかったっけという方にも大いにお薦めできる一枚だ。
 ヘンゲルブロックとハンブルクNDR響には、ぜひともドヴォルザークの他の交響曲、中でも第5番や第6番を録音してもらいたい。
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ジンマンが指揮したシューベルトの交響曲第5番&第6番

☆シューベルト:交響曲第5番&第6番

 指揮:デヴィッド・ジンマン
管弦楽:チューリヒ・トーンハレ管弦楽団
(2012年9月/デジタル・セッション録音)
<SONY/BMG RCA>88725463362


 デヴィッド・ジンマンが手兵チューリヒ・トーンハレ管弦楽団と進めているシューベルトの交響曲全集の第4段、第5番と第6番がリリースされた。

 まずモーツァルトの交響曲第40番を下敷きにしたと思しき第5番だが、これまでと同じくピリオド・スタイルを援用して速いテンポの粘らない音楽づくりが行われているものの、長調の中に時折厳しい突風が吹くという感じではなく、作品の持つ叙情性や歌謡性、旋律の美しさに主眼が置かれているように思う。

 一方、ハイドンの交響曲第100番の第1楽章の主題を裏返したかのような同じく第1楽章の主題が印象に残る第6番のほうは、強弱のメリハリはよくきいた、きびきびとしてリズミカルな演奏で、この交響曲の快活さをよく表わしているのではないか。
(と、言うことは、つまり、第5番と第6番を「対照的」な作品として描き分けているということか)

 チューリヒ・トーンハレ管も、ジンマンの意図によく沿って精度の高い演奏を繰り広げている。

 シューベルトの交響曲第5番と第6番のベーシックな録音としてお薦めしたい一枚だ。
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2012年12月11日

アントニーニが指揮した運命と田園

☆ベートーヴェン:交響曲第5番&第6番「田園」

 指揮:ジョヴァンニ・アントニーニ
管弦楽:バーゼル室内管弦楽団
(第5番=2008年7月、第6番=2009年7月/デジタル録音)
<SONY/BMG>88697648162


 イタリアのバロック・アンサンブル、イル・ジャルディーノ・アルモニコのリーダー、ジョヴァンニ・アントニーニがスイスのバーゼル室内管弦楽団と進めているベートーヴェンの交響曲集の最新盤(と、言っても、2010年のリリースなんだけど)にあたるのが、この第5番と第6番「田園」を収めた一枚だ。

 バーゼル室内管弦楽団は、もともとモダン楽器による室内オーケストラなのだが、最近ではピリオド楽器もお手のものの両刀使いに変貌している。
 詳しいところまではわからないけれど、たぶんこの演奏でも、ピリオド楽器が多数を占めているのではないか。
 演奏そのものも、ピリオド・スタイル、と言うよりアントニーニお得意のバロック・ロック、バロック・アクロバティックな雰囲気の強い、メリハリがよくきいて、スピーディーなものとなっている。
 推進力抜群な演奏だから、聴いていて全くだれないが、第5番の第1楽章や第2楽章など、ちょっとばかしすかっとし過ぎというか、あれよあれよという間に楽章が終わってしまって、若干味気なくもなくはない。 
 逆に、「田園」のほうは、アントニーニのテンポのよい音楽づくりが、作品の持つ活き活きとした感じ、快活さ、精神的な喜びを十全に描き表わしているようで、心がうきうきしてくる。
(と、なると、リズム感が一層命となる第7番や第8番の録音も大いに期待できるところだが、果たして全集につながってくれるのか、どうか)

 いずれにしても、清新な演奏で、ベートーヴェンのくどさが苦手という方には特にご一聴をお薦めしたいCDだ。
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2012年10月09日

カラヤンが指揮したブラームスの交響曲第2番とハイドンの主題による変奏曲

☆ブラームス:交響曲第2番&ハイドンの主題による変奏曲

 指揮:ヘルベルト・フォン・カラヤン
管弦楽:ベルリン・フィル
(交響曲=1986年6月、変奏曲=1983年2月/デジタル・セッション録音)
<ドイツ・グラモフォン>423 142-2


 昔ほどではないけれど、それでもヘルベルト・フォン・カラヤンといえば、今でも20世紀を代表する指揮者、音楽家の一人として多くの方々に知られているのではないだろうか。
 で、前回とり上げたレオポルド・ストコフスキーと同じくカラヤンもまた、と言うよりも、ストコフスキー以上にレコード録音(テクノロジー)と密接に結びついた人物で、コンパクトディスクの開発に、彼が大きく寄与したことは有名である。
 ただ、ストコフスキーが最晩年にいたるまで進取の気質というか、演奏そのものにおいても若々しさと瑞々しさを失わなかったのに対して、カラヤンの場合は年齢を重ねるごとに、よくも悪くも「保守化」していったように、僕には思われてならない。

 ちょうどストコフスキーのBOXセットに収められていたブラームスの交響曲第2番を聴き比べてみれば、そのことがよくわかる。
 確かに、アンサンブルとしての練れ具合ではベルリン・フィルのほうが何日もの長があって、全体的にとても安定した出来となっている。
 ただ、カラヤンの演奏には、老舗の新劇の劇団が老巧の演出家の下でルーティンな演技を繰り広げているといった趣もないではない。
 テキストの解釈として全く間違ってはいないし、まとまりもいいんだけれど、予定調和的ではっとする瞬間が少ないというか。
 もちろん、旋律の磨かれようは抜群だから、音楽に安定した美を求める方には、厭味ではなく大いにお薦めしたい。
 ハイドンの主題による変奏曲も、至極穏当な演奏だ。
posted by figarok492na at 19:30| Comment(0) | TrackBack(0) | CDレビュー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

レオポルド・ストコフスキー ザ・コロムビア・ステレオ・レコーディングス

☆レオポルド・ストコフスキー ザ・コロムビア・ステレオ・レコーディングス

<SONY/BMG>88691971152(10枚組BOXセット)



 レオポルド・ストコフスキーという名前を耳にして、すぐに思い出すことといえば、いったいなんだろう。
 ディズニー映画『ファンタジア』との関係や『オーケストラの少女』への出演といった、メディアにおける派手な露出もあるだろうし、楽器配置をはじめとした20世紀のオーケストラ演奏に対する大きな影響もあるだろう。
 それに、ヨハン・セバスティアン・バッハのオーケストレーションはまだしも、ある種ゲテ物的ですらある、編曲やカットを含むくせの強い演奏も忘れるわけにはいかないし(と、言うより、「とんでも指揮者」というイメージがストコフスキーにはどうしても付きまとっているのでは)、最晩年CBS(コロムビア)レーベルと結んだ100歳までの録音契約が端的に象徴するようなレコード・録音(テクノロジー)との深い関係もやっぱりそうだ。
 そして、そうして思い浮かべたあれこれを総合していくと、ストコフスキーが20世紀を代表する指揮者であり音楽家であったことが、しっかりと見えてくる。

 そんなストコフスキーが、CBS(コロムビア)[現SONY/BMG]レーベルに遺した全てのステレオ録音(先述した最晩年の録音も、当然の如く収められている)、CD10枚分をBOXセットにした、その名も「レオポルド・ストコフスキー ザ・コロムビア・ステレオ・レコーディングス」が先頃発売されたのだけれど、いやあ、これは想像していた以上に聴き応えがあったなあ。
 で、本来ならば一枚ごとに詳しくレビューをアップするべきなのかもしれないが、BOXセットを通して聴くことの意味合いも考えて、あえてどどんとまとめて記しておくことにした。


1:ファリャ:バレエ音楽『恋は魔術師』&ワーグナー:楽劇『トリスタンとイゾルデ』の愛の音楽(ストコフスキー編曲)
 管弦楽:フィラデルフィア管弦楽団
 メゾ・ソプラノ独唱:シャーリー・ヴァ―レット(ファリャ)
(1960年2月録音)

 かつてシェフを務めたフィラデルフィア管弦楽団を振って、ストコフスキーが久方ぶりに録音した一枚。
 オーケストラの鳴り方に古めかしさを感じなくもないのだが、ツボをよく押さえた演奏と編曲(ワーグナー)で、実にわくわくする。
 ヴァ―レットの地声を活かしたような歌唱も、なまなましくて悪くない。
 デジタルリマスタリングの力もあってだろうが、音質のよさにも驚いた。


2:ヨハン・セバスティアン・バッハ:ブランデンブルク協奏曲第5番&コラール前奏曲(ストコフスキー編曲)
 管弦楽:フィラデルフィア管弦楽団
 ヴァイオリン独奏:アンシェル・ブルシロウ(協奏曲)
 フルート独奏:ウィリアム・キンケイド(同)
 チェンバロ独奏:フェルナンド・ヴァレンティ(同)
(1960年2月録音)

 有名なブランデンブルク協奏曲第5番に、コラール前奏曲『イエスよ、私は主の名を呼ぶ』、『来れ異教徒の救い主よ』、『我ら唯一の神を信じる』の編曲物3曲を加えた録音で、ピリオド・スタイルとは真反対のオールド・スタイルな解釈。
 ただし、音楽を慈しむかのような演奏には、好感を抱く。
 一つには教会のオルガン奏者ということも大きいか、コラール前奏曲の編曲にも、ストコフスキーのバッハの音楽に対する真摯さを感じた。


3:ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第5番「皇帝」
 ピアノ独奏:グレン・グールド
 管弦楽:アメリカ交響楽団
(1966年3月録音)

 グレン・グールドはストコフスキーの熱烈なファンだったというが、そうしたグールドの想いにストコフスキーもよく応じているのではないか。
 ストコフスキーが創設したアメリカ交響楽団の技術的な弱さは指摘せざるをえないものの、グールドに歩調を合わせて、作品の持つ多面的な性格を細かく再現すべく健闘していると思う。


4:アイヴズ:交響曲第4番&ロバート・ブラウニング序曲、合唱曲
 管弦楽:アメリカ交響楽団
 合唱:グレッグ・スミス・シンガーズ、イサカ大学合唱団
(交響曲=1965年4月、序曲=1966年12月、合唱曲=1967年10月録音)

 ストコフスキーの現代音楽の紹介者としての側面を象徴した一枚。
 ストコフスキー自身が初演した交響曲は、精度の高さでは、その後録音された小澤征爾&ボストン交響楽団、マイケル・ティルソン・トーマス&シカゴ交響楽団、クリストフ・フォン・ドホナーニ&クリ―ヴランド管弦楽団に軍配を挙げざるをえないが、コラージュをはじめとした作品の持つとっちらかった印象、雰囲気を再現するという意味では、まだまだこの録音も負けていない。
 ボーナストラックとして収められた序曲、合唱曲『民衆』、『ゼイ・アー・ゼア!』、『選挙』、『リンカーン』、特にアイヴズの政治的な意識も垣間見える合唱曲のなんとも言えないグロテスクさも、聴きものだ。


5:ビゼー:『カルメン』&『アルルの女』組曲
 管弦楽:ナショナル・フィル
(1976年8月録音)

 ここからは腕っこきのプレーヤーを集めた録音専用のイギリスのオーケストラ、ナショナル・フィルを指揮した最晩年の録音が続く。
(惜しむらくは、4ステレオの録音のためちょっとばかりもわもわとした感じがして、ストコフスキーのシャープな解釈とすれが生じている)
 メリハリのよく聴いたドラマティックな演奏で、全篇聴き飽きない。
 中でも、『アルルの女』のファランドールといった激しい音楽でのクライマックスの築き方が巧い。


6:ストコフスキー 彼のオーケストラのための偉大な編曲集
 管弦楽:ナショナル・フィル
(1976年7月録音)

 ストコフスキーは大曲ばかりでなく、いわゆるアンコールピースの演奏編曲にも長けたが、これはそうしたストコフスキーの十八番と呼ぶべき小品を集めた録音だ。
 もちろん大向こう受けを狙った部分もなくはないのだけれど、全曲聴き終えて、一篇のドラマに接したかのような余韻が残ったことが、僕には印象深い。


7:シベリウス:交響曲第1番&交響詩『トゥオネラの白鳥』
 管弦楽:ナショナル・フィル
(1976年11月録音)

 交響曲の第3楽章での荒ぶる表現に、トゥオネラの白鳥での静謐で神秘的な表現。
 押すべきところはきっちりと押して、引くべきところはきっちりと引く。
 緩急自在、強弱自在な演奏である。
 それにしても、90歳を超えてのこの若々しい表現には驚くほかない。


8:チャイコフスキー:バレエ音楽『オーロラ姫の婚礼』
 管弦楽:ナショナル・フィル
(1976年5月録音)

 チャイコフスキーのバレエ音楽『眠りの森の美女』の第3幕、オーロラ姫の結婚式を中心にディアギレフが編曲した作品で、怒り憤りというとちょっと変かもしれないけれど、激しい感情の動きがぐいぐいと伝わってくる演奏になっている。
 シャルル・デュトワ&モントリオール交響楽団の滑らかな演奏と対照的だ。


9:メンデルスゾーン:交響曲第4番「イタリア」&ビゼー:交響曲
 管弦楽:ナショナル・フィル
(1977年6月録音)

 ストコフスキーにとって最後の録音となった一枚。
 けれど、これまたその若々しく瑞々しい表現、音楽の流れのよさに驚き、感嘆する。
 なお、ビゼーの交響曲の終楽章はワンテイク(一発録り)だったとか。


10:ブラームス:交響曲第2番&悲劇的序曲
 管弦楽:ナショナル・フィル
(1977年4月録音)

 このBOXセットの中で、僕がもっとも気に入った一枚がこれだ。
 もともと交響曲第2番が大好きだということも大きいのだが、ストコフスキーの自然で流れのよい解釈、表現は聴いていて全く無理を感じないのである。
 加えて、真っ向勝負とでも言いたくなるような悲劇的序曲の精悍な演奏も見事の一語に尽きる。


 と、これだけ盛りだくさんな内容で、HMVのネットショップなら2290円(別に手数料等が必要)というのだから、どうにも申し訳なくなってくる。
(アイヴズを除くとLP初出時のカップリングがとられているため、中には40分弱の収録時間のものもあるが、一枚一枚をじっくり愉しむという意味では、かえってそのくらいが聴きやすいようにも思う。それに、LPのオリジナル・デザインを利用した紙ジャケットという体裁が嬉しいし)

 ストコフスキー のという音楽家、指揮者の果たした役割を改めて考える上で「マスト」な、ばかりではなく、一つ一つの作品を愉しむ上でも大いにお薦めしたいBOXセットだ。
 クラシック音楽好きは、ぜひともご一聴いただければと思う。
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2012年09月28日

フランチェスコ・ザッパの6つの交響曲集

☆フランチェスコ・ザッパ:6つの交響曲集

 指揮:ヴァンニ・モレット
管弦楽:アタランタ・フーギエンス
(2008年5月/デジタル・セッション録音)
<DHM ドイツ・ハルモニアムンディ>88697901562


 ザッパといえば、なんと言ってもフランク・ザッパだが、ザッパはザッパでもここでとり上げるのは、18世紀後半に活躍したイタリアの作曲家フランチェスコ・ザッパの6つの交響曲のCD。

 で、このフランチェスコ・ザッパ、実はフランク・ザッパがたまたまその存在を見つけ出した人物で、1984年にはその名もずばり『フランチェスコ・ザッパ』というタイトルのアルバムまでリリースされている。
(フランチェスコの室内楽を電子楽器で演奏したものだそうだが、残念ながら未聴)

 ブックレットその他を紐解くと、フランチェスコという人はどうやら1763年〜1788年頃、ミラノをはじめイタリアを中心にヨーロッパで活動したチェロ奏者兼作曲家らしく、若干の作品が遺されているようだ。
(ここら辺、それこそ大ザッパな説明で失礼)

 そんなフランチェスコの6つの交響曲をまとめて再現して聴かせたのが、ヴァンニ・モレットとイタリアのピリオド楽器アンサンブル、アタランタ・フーギエンス。
(ちなみに、モレットは電子音楽の作曲家でジャズ・ベース奏者としても活動しているというから、フランク・ザッパの影響を想像することも容易だ)

 古典派時代にミラノで活躍した作曲家の交響曲=シンフォニアを継続的に録音している彼彼女らにとって、今回のアルバムがちょうど5枚目のリリースにあたるのだけれど、いやあ、これはとっても聴き心地がいいな。
 変ホ長調、ト長調、変ロ長調、ハ長調、ニ長調、変ホ長調、と、いずれも長調の作品が並んでいるのだが、アタランタ・フーギエンスの快活で歯切れのよい軽やかな演奏が、作品の持ついきいきとした感じをよく表わしていて、実に愉しい。
 加えて、緩やかな第2楽章での叙情性や歌唱性も魅力的だ。
 また、ニ長調の第2楽章(トラック14)でのチェロ独奏など、フランチェスコ・ザッパのプレーヤーとしての活動を考える上でも非常に興味深い。
(なお、このアルバムでは、第1ヴァイオリン・3、第2ヴァイオリン・3、ヴィオラ・1、チェロ・2、コントラバス・1、オーボエ、ホルン、フルート・各2、チェンバロ・1という編成がとられている)

 フランク・ザッパ云々はひとまず置くとして、古典派が好き、明るくてのりのよい音楽が好きという方には、大いにお薦めしたい一枚である。


 *追記
 変ロ長調、ニ長調の2曲には、サイモン・マーフィー指揮ニュー・オランダ・アカデミーの録音<ペンタトン・レーベル>もあるが、ちょっと重たい感じのする演奏で、モレット&アタランタ・フーギエンスの演奏のほうが僕の好みには合っている。
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2012年07月31日

シューベルトの交響曲第5番&演奏会用序曲集

☆シューベルト:交響曲第5番&演奏会用序曲集

 指揮:ミヒ・ガイック
管弦楽:オルフェオ・バロック・オーケストラ
(2011年7、8月/デジタル・セッション録音)
<SONY/DHM>88697911382


 CPOレーベルやドイッチェ・ハルモニアムンディ(DHM)などで精力的にCD録音を続けている、オーストリアのピリオド楽器オーケストラ、オルフェオ・バロック・オーケストラが、彼彼女らにとって初の初期ロマン派録音となるシューベルトの交響曲第5番と演奏会用序曲を収めたアルバムをリリースした。

 すでにジョス・ファン・インマゼール&アニマ・エテルナ(2回)、ロイ・グッドマン&ザ・ハノーヴァー・バンド、ロジャー・ノリントン&ロンドン・クラシカル・プレイヤーズ、フランス・ブリュッヘン&18世紀オーケストラと、ピリオド楽器オーケストラによる録音も少なくない交響曲第5番のほうは、よい意味でここ30年ほどのピリオドスタイルの「まとめ」というか、穏やかな雰囲気の中にときとして激しい風が吹くといった作品の性格をよくとらえた安定した演奏になっていると思う。
 若干ピッチ云々以上に重心が低い感じがしないでもないが、作品を愉しむという意味ではそれほど気にはならないだろう。

 ただ、やはりこのCDで重要となるのは、ピリオド楽器オーケストラによる初録音となる変ロ長調D.470、ニ長調D.556、ホ短調D.648の3曲をはじめとした5曲の演奏会用序曲ではないか。
 ハイドンら古典派の影響が色濃い、交響曲と同じ調性を持つD.470から、当時大流行となったロッシーニのスタイルを巧く取り込んでみせた二つのイタリア風序曲(加えて、ニ長調D.590は、『魔法の竪琴』=『ロザムンデ』序曲の雛形ともなっている)と、シューベルトの創作活動の変遷変化や音楽的な個性(歌謡性)と同時代性が如実に示されていて、非常に興味深い。
 オルフェオ・バロック・オーケストラは、とびきり達者とまでは言えまいが、メリハリのきいた清新な演奏で、作品の持ついきいきとした感じを巧く再現しているように思った。
 シューベルトや初期ロマン派好きの方にはお薦めしたい一枚だ。

 ところで、交響曲と序曲集というカップリングで思い出したが、グッドマンがザ・ハノーヴァー・バンドを指揮したケルビーニの交響曲と序曲集は、いつになったらリリースされるのだろう。
 ザ・ハノーヴァー・バンドのサイトによると、RCAレーベルに録音したことは確からしいのだけれど、ずっとペンディング状態になっているのである。
 せっかくならば、このシューベルトのアルバムと対にして聴いてみたいところなのだが。
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2012年07月30日

デヴィッド・ジンマンが指揮したシューベルトの交響曲第3番&第4番「悲劇的」

☆シューベルト:交響曲第3番&第4番「悲劇的」

 指揮:デヴィッド・ジンマン
管弦楽:チューリヒ・トーンハレ管弦楽団
(2011年2月/デジタル・セッション録音)


 今からもう20年近くも前になるか。
 シンガポールからフランクフルトに向かう飛行機の機内で、サービスのクラシック音楽の放送に耳を傾けていると、突然激しい感情表現の演奏にぶつかった。
 作品が、「悲劇的」というニックネームを持ったシューベルトの交響曲第4番であることはすぐにわかったし、ピリオド楽器が使用されていることも続けてわかった。
 それにしても、この荒々しい音の響きと狂おしいばかりの焦燥感はなんなんだろう。
 そんな風に心を強く動かされながら交響曲第4番を聴き終えたとき、この録音がロジャー・ノリントン指揮ロンドン・クラシカル・プレイヤーズによって演奏されたものであることをナレーターが告げた。
 なるほど、ノリントンだったのか。
 それからしばらくして、今度はケルンのフィルハーモニーで、ノリントンとヨーロッパ室内管弦楽団が演奏した同じ作品に接することができたのだが、生である分、さらに若き日のシューベルトの感情がほとばしり出てくるというか、「悲劇的」という名前に相応しいエネルギッシュで、なおかつクリティカルな演奏だったように記憶している。

 デヴィッド・ジンマンが手兵チューリヒ・トーンハレ管弦楽団を指揮して進めているシューベルトの交響曲全集の第三段、交響曲第3番&第4番「悲劇的」の第4番を聴きながら、ふとノリントンが指揮した同じ作品のことを思い出した。
 今回のアルバムも、第7番「未完成」や第1番&第2番(最晩年の吉田秀和が、『名曲のたのしみ』の試聴室でこの演奏をとり上げていたっけ)と同様、いわゆるピリオド奏法を援用したスピーディーでスマート、細部までクリアな目配りのよく届いた演奏で、全篇心地よく聴き通すことができる。
 CDでこの二つの交響曲に親しむという意味では、大いにお薦めしたい一枚だ。

 ただ一方で、第3番にせよ「悲劇的」にせよ、何か枠の中で巧くまとまってしまったような感じがしないでもない。
 古典的な造形と言われればそれまでだし、実際そうした楽曲解釈の立場に立てば、非常に優れた演奏なのではあるのだけれど。
 例えば、第4番の両端楽章など、聴く側の肺腑を抉るような痛み、鋭さ、激しさに若干欠けるような気がしてならないのである。
 一つには、いっとう最初にリリースされた未完成交響曲で、ジンマン&チューリヒ・トーンハレ管弦楽団が内面の嵐を描いたような激しい表現を行っていたことも大きいのかもしれないな。

 そういえば、ノリントンがシュトゥットガルト放送交響楽団を指揮した「悲劇的」と交響曲第5番のアルバムが先頃リリースされたんだった。
 聴いてみたいような、聴いてみたくないような…。
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2012年07月07日

ガッティ&フランス国立管弦楽団のドビュッシー

☆ドビュッシー:管弦楽曲集

 指揮:ダニエレ・ガッティ
管弦楽:フランス国立管弦楽団
<SONY/BMG>88697974002


 許光俊が『最高に贅沢なクラシック』<講談社現代新書>で説く「贅沢」にはほど遠いものの、20代半ばより少し前、1993年の秋口から翌年の晩冬に至る約半年間のケルン・ヨーロッパ滞在は、今さらながら僕にとって「最高に贅沢なクラシック」体験だったとつくづく思う。

 例えば、1993年11月5日から7日と、レナード・スラトキン指揮セントルイス交響楽団、ガリ・ベルティーニ指揮ケルンWDR交響楽団、アルミン・ジョルダン指揮スイス・ロマンド管弦楽団のコンサートをケルン・フィルハーモニーで三夜立て続けに聴いたことなど、一つ一つのコンサートの出来はひとまず置くとしても、やはり自分にとってとても贅沢な記憶である。

 機能性は優れているものの、ベートーヴェンのピアノ協奏曲第4番(ルドルフ・ブッフビンダーの独奏)にしろ、ストラヴィンスキーの『春の祭典』にしろCD録音以上に陰影の乏しさが気になって、ルロイ・アンダーソンのアンコールだけがやけにしっくりときたセントルイス響のコンサートについてはいずれ記すこともあるかもしれないから詳述しないが、残るWDR響とスイス・ロマンド管の二つは、今もって忘れられない印象に強く残るコンサートとなっている。

 一つには、当時の首席指揮者ハンス・フォンクとどちらかといえば緩い演奏を繰り返していたWDR響が、前任のシェフ・ベルティーニの下、非常に統制のとれた音楽を造り出していたことに感心したこともあれば、スイス・ロマンド管はスイス・ロマンド管で、前半のプログラム、バルトークのピアノ協奏曲第3番でのマルタ・アルゲリッチの胸のすくような「共演」に感激したことも大きかったのだけれど。
(マルタ・アルゲリッチは我がままだからなあ、なんて言葉を自称音楽通に吹聴されたこともなくはなかったが、この夜の愉しそうにオーケストラと「共演」している彼女の姿、さらには休憩後客席で愉しそうにオーケストラを聴いている彼女の姿を観れば、そんな言葉がどうにも怪しく思えてしまったものだ。少なくとも、我がままは我がままでも、あの晩の彼女は、『上からマルタ』ならぬ『上からマリコ』的な我がままだったんじゃないだろうか、きっと)

 加えて、これは偶然なのかどうなのか、いずれのオーケストラも、ドビュッシーの交響詩『海』とラヴェルの『ラ・ヴァルス』をプログラムに組み込んでいたのだけれど、指揮者の解釈ばかりか、オーケストラの持つ音色の違いをまざまざと知らされる想いがして、あれには本当にびっくりした。
 そういえば、あなたWDR響の細かいところまで明快に見通せるようなクリアな演奏に、こなたスイス・ロマンド管のほわんほわんほわんほわんと音がまるっこく包み込むように響く演奏と、同じ作品(ちなみにほぼ同じ座席)でも、こうも違って聴こえるのかと驚いていると、たまたま隣に座っていたフランス人が演奏終了後に、「フランスのオーケストラ以上にフランスっぽいね」と口にしてにやりとしたんだったっけ。
(WDR響の場合、ドビュッシーとラヴェルは前半のプログラムで、メインはチャイコフスキーの交響曲第5番。『海』は、カプリッチョ・レーベルからCDがリリースされていた)

 ダニエレ・ガッティがフランス国立管弦楽団を指揮したドビュッシーの管弦楽曲集(『海』、牧神の午後への前奏曲、管弦楽のための『映像』のカップリング)を聴きながら、ついついそんなことを思い出してしまった。
 「フランスのオーケストラ以上にフランスっぽいね」とは、あまりに感覚的で、ある種の偏見が入り混じったと言葉と思えなくもないとはいえ、このCDのドビュッシーを聴くに、確かにそういう風に彼が口にしてみたくなった気持ちも想像できなくはない。
 録音のかげんもあってだろうが、ガッティとフランス国立管弦楽団が造り出すドビュッシーは、細部までよく目配りが届いている上に、オペラでならしたガッティらしく歌謡性や劇場感覚にあふれているというか、音楽の肝をよく押さえた非常にメリハリのきいた音楽に仕上がっている。
 と、言っても、ベルティーニのように、がっちりきっちりと固めきってしまうのではなく、多少粗さは残っても、音楽の自然な流れ、演奏者の感興というものをより活かしているようにも感じられる。
 そうした意味もあって、『海』の終曲や、『映像』など、音のダイナミズムや劇性に富んだ作品が中でも優れた演奏になっているように思った。
 いずれにしても、単なる雰囲気としてではなく、一個の音楽作品、オーケストラ作品としてドビュッシーの作品を愉しみたい方には、大いにお薦めしたい一枚だ。

 そうそう、ベルティーニ&WDR響、ジョルダン&スイス・ロマンド管の驚きよ再びとばかり、ガッティのCDのあとに、セルジュ・チェリビダッケがシュトゥットガルト放送交響楽団とミュンヘン・フィルを指揮した二種類の『海』の録音<前者ドイツ・グラモフォン/後者EMI>を続けて聴いてみたのだが、これは失敗だった。
 なぜなら、演奏の違い、解釈の違いは頭でよく理解できるものの、あの身に沁みるような感覚感慨は、全く得られなかったからである。
 まあ、生とCD(音の缶詰)、当たり前っちゃ当たり前のことではあろうが。

 それにしても、20代半ば前に、連日連夜、それも生活の一部としてコンサートやオペラに足しげく通ったあの半年間は、僕にとって本当に贅沢な体験経験であり、記憶であるのだが、ことクラシック音楽を生で聴くという意味では、僕の人生のピークだったことも明らかな事実だろう。
 それは、とても贅沢で幸福なことではあったけれど、逆にとてつもなく不幸なことであったのかもしれないと、今の僕は思わないでもない。
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2012年06月17日

ウィーン弦楽6重奏団が演奏したドヴォルザークの室内楽曲

☆ドヴォルザーク:弦楽6重奏曲&弦楽5重奏曲第3番

 ウィーン弦楽6重奏団
(1991年4月/デジタル・セッション録音)
<EMI>CDC7 54543 2


 ボヘミアの郷愁。
 なんて言葉を口にすると、あまりにべた過ぎて、陳腐だなあと思ってしまうけど、ドヴォルザークの作品、特に室内楽のゆったりとした楽章、だけじゃなくて第1楽章ののびやかで快活な音の流れを耳にしていると、ついついそんな言葉を口にしてしまいたくなる。
 一方で、ブラームス譲りというか、がっちりきっちりした音楽の造りもそこにはわるわけだし、さらにはクルト・シュナイダーの爆発者よろしく、突然の血沸き肉躍る、ならぬ血沸き頭沸く感情の爆発もドヴォルザークの音楽には含まれている。
 だから、一つ間違うと、分裂気質丸出しのいっちゃった演奏にだってなりかねないのだけれど、ボヘミアの郷愁をひとまず脇に置いたウィーン弦楽6重奏団は、よく練れたアンサンブルを活かして、速いテンポでスマートにクリアにそこら辺りをクリアしていく。
 例えば大好きな6重奏曲の第1楽章など、スメタナ・カルテット他による演奏と比べれば若干塩辛いというか、情より理という感じもしなくはないが、ドヴォルザークの作曲家としての普遍的(と、言っても、それは中欧を中心としたヨーロッパ内におけると限定すべきかもしれない)な力量を識るという意味では、充分納得のいく一枚である。
(こうした演奏には、ニコラウス・アーノンクールとの活動やモザイク・カルテットで知られるヴァイオリンのエーリヒ・ヘーバルトの存在も大きいのではないか)
 中でも、室内楽好きの方にはお薦めしたい。
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2012年05月21日

クリスチャン・フェラスが弾いたヴァイオリン小品集

☆愛の喜び/珠玉のヴァイオリン小品集

 ヴァイオリン:クリスチャン・フェラス
 ピアノ:ジャン=クロード・アンブロシーニ
(1968年12月/アナログ・ステレオ、セッション録音)


 よくよく考えてみたら、我が家(この場合は生家、実家)は、レコード類が少ない家だった。
 一応ステレオ・セットはあったものの、目ぼしいレコードといえば、ニニー・ロッソのアルバム(父の好み)と10枚一セットの唱歌集(これは母の好み)があったきりで、あとは何かの記念でもらったおくんちの実況レコードに、僕の情操教育を目論んだらしいこれまた10枚一セットのクラシック名曲集ぐらいではなかったか。
(クラシックを本格的に聴き始めた頃は馬鹿にしきったこの名曲集だが、渡邉暁雄やヤマカズ山田一雄、はては奥田道昭が旧日本フィルを指揮するというラインナップは、今となってはとても貴重なものだ)

 と、言っても、両親が音楽嫌いかというとそうではなく、母はいわゆるママさんコーラスにも所属して家でもあれこれ歌っていたし、父は父でアルコールなんぞ入ると歌謡曲をなかなかの美声で口ずさんでいた。
 それじゃあどうしてレコードがなかったかと考えると、一つには、父が運輸省の航海訓練所に勤めていて、一年の大半は日本丸や海王丸といった練習船の航海で家を留守にしていたからかもしれない。

 そんな風だから、ヘルベルト・フォン・カラヤンが旧フィルハーモニア管弦楽団を指揮したベートーヴェンの交響曲第5番&第6番(EMIの擬似ステレオ盤)と、クリスチャン・フェラスが弾いたヴァイオリン集の2枚のLPは、我が家のレコード棚の中では結構異色の存在であった。
 そういえば、あれは僕が小学校低学年の頃、引っ越しをしてステレオ・セットを導入した際、浜町(長崎の繁華街。今ではすっかりさびれてしまった)の楽器店兼レコード店に、この2枚のLPを両親と買いに出かけた記憶がかすかに残っている。
 残念ながら、何ゆえこの組み合わせだったのかは今となっては判然としないのだけれど、もしかしたら、クラシック音楽の中でももっともポピュラーな「運命」とヴァイオリンの美しい音色を聴くことのできるレコードを、という感じでお店の人に尋ねて薦められたのが、この2枚だったのではないか。
 まあ、理由はどうあれ、NHKで放映された『音楽の広場』やベートーヴェンの第九のライヴ録画でクラシック音楽に目醒めた僕が、いっとう最初に慣れ親しんだレコードがこの2枚であることだけは間違いない。
 今度、ドイツ・グラモフォンのザ・ベスト1200という廉価盤シリーズで再発されたクリスチャン・フェラスのヴァイオリン小品集を、基本的に国内盤は敬遠している僕が思わず購入してしまったのも、そうしたあれこれを思い出して、どうにも懐かしかったからである。

 で、愛の喜び、愛の悲しみ、ベートーヴェンの主題によるロンディーノ、ウィーン奇想曲というクライスラーのおなじみの小品と、シューマンのトロイメライ、シューベルトのアヴェ・マリア、ディニクのホラ・スタッカート、ドヴォルザークのユモレスク、マスネのタイスの瞑想曲、サン=サーンスの白鳥という粒ぞろいの選曲に、フェラスの弾く艶やかで澄んだヴァイオリンの美しい音色があいまって、何度聴いても聴き飽きない、非常に聴き心地のよいアルバムに仕上がっていると改めて感心した。
 それと、過ぎ去った時間への想いを誘うというか、ノスタルジーがこのアルバムの大きなテーマになっているだろうことも、やはり指摘しておきたい。
 1960年代末の録音だが、演奏を愉しむという意味では全く問題のない音質だし、1200円という手ごろな値段ということもあって、音楽好きには大いにお薦めしたい一枚だ。

 そうそう、ただ一点大きな不満があるとすれば、ブックレットのデザイン。
 せっかくオリジナル(国内LP)と同じ写真を使っているというのに、枠を囲って、中央下にThe Best 1200なんて無粋なロゴを入れている。
 輸入盤と違って、国内盤には帯が付いているんだから、ロゴなんてそっちですませておけばいいじゃないか。
 なんとも面白くない話だ。
posted by figarok492na at 16:32| Comment(0) | TrackBack(0) | CDレビュー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年05月12日

ブレンデルが弾いたベートーヴェンの初期ピアノ・ソナタ集

☆ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第1番〜第3番

 ピアノ独奏:アルフレッド・ブレンデル
(1994年2月/デジタル・セッション録音)
<PHILIPS>442 124-2


 一言で表わすならば、手堅い演奏ということになるか。
 ベートーヴェンにとって初期のピアノ・ソナタ、作品番号2の3曲を収めた一枚だが、アルフレッド・ブレンデルは細部まで丁寧に考え抜いた演奏で、各々のソナタの特性をきっちりと表現している。
 例えば、大好きな第1番の第1楽章に感じるじりじりとした焦燥感など激しい心の動きや、逆に一音一音磨き切った音色の美しさには欠けるものの、作品の全体像を識るという意味ではまずもって問題のない演奏ではないか。
 この三つのピアノ・ソナタになじみのない方に、特にお薦めしたい。
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2012年03月31日

デヴィッド・ジンマン指揮によるシューベルトの交響曲第1番&第2番

☆シューベルト:交響曲第1番&第2番

 指揮:デヴィッド・ジンマン
管弦楽:チューリヒ・トーンハレ管弦楽団
(2011年2月/デジタル・セッション録音)


 デヴィッド・ジンマンが手兵チューリヒ・トーンハレ管弦楽団と進めているシューベルトの交響曲全集の第二段として、初期の二つの交響曲、第1番と第2番の2曲が新たにリリースされたが、いやあこのCD、想像していた以上に聴き応えがあったなあ。
 もともとシューベルトの交響曲のうちでも、この第1番と第2番の2曲はそれほど好みじゃなくて、第1番の第4楽章なんて、昔のTBSのホームドラマの「奥様、お日柄よろしくて」といったのりの軽いメロディがどうにも苦手だったんだけど、ジンマン&チューリヒ・トーンハレ管にかかればなんのなんの。
 メリハリをしっかりつけて、きびきび快活に演奏してくれるんだから、全く無問題(モーマンタイ)。
 いわゆるピリオド奏法を援用したスピーディーでスマートな演奏だが、いずれの交響曲とも第2楽章では、シューベルトらしい旋律の美しさや歌唱性、叙情性がべたつかない形で適確に再現されている。
 録音には、いくぶんがじがじじがじがした感じがないでもないけれど、音楽に親しむという意味では、それほど気にならない。
 音楽を聴く愉しみに満ちあふれた一枚で、シューベルトの交響曲第1番と第2番にあんまりなじみのない方にも大いにお薦めしたい。
 そして、残りの交響曲のリリースが本当に待ち遠しい。
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2012年03月28日

ラルキブデッリのブラームス

☆ブラームス:弦楽6重奏曲第1番&第2番

 ラルキブデッリ
(1995年6月/デジタル・セッション録音)
<SONY>SK 68252


 15年以上も前に国内盤を手に入れて、事あるごとに聴き返してきたCDだから、今さらレビューをアップするのもなんだかなあという気持ちなのだけれど、今年に入って輸入盤を購入したことも事実なわけで、一応文章を記しておくことにする。
 ピリオド楽器による演奏ゆえ、音の厚みに不足するとか、どこか刺々しい感じがするというむきもあるかもしれないが、個人的にはピリオド楽器だからこその音の見通しのよさ、清潔感あふれる音色がとても好きだ。
 特に、第1番の第1楽章のじめじめとしない清々しいノスタルジーや、同じく第1番の第2楽章(ルイ・マル監督の『恋人たち』で効果的に使用されている)の劇性に富んで透徹した叙情性には強く心魅かれる。
 失った時間を噛み締めたくなるような一枚で、大いにお薦めしたい。
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2012年03月26日

バルビローリとベルリン・フィルのマーラーの交響曲第9番

☆マーラー:交響曲第9番

 指揮:ジョン・バルビローリ
管弦楽:ベルリン・フィル
(1964年1月/アナログ・ステレオ・セッション録音)
<EMI>6 78292 2


 先週、京都文化博物館のフィルムシアターで、黒澤明の『酔いどれ天使』、『野良犬』、『生きる』を三日続けて観たんだけれど、いやあ凄いっていうかなんていうか、ああだこうだと語りたいことがいっぱいあり過ぎて、結局映画記録をアップするのをやめてしまった。
 自分一人でしんねりむっつりPCの前に向かうよりも、人とああだこうだとおしゃべりしているほうが面白いんだもの、そりゃ仕方ない。

 で、ジョン・バルビローリがベルリン・フィルを指揮して録音したマーラーの交響曲第9番のCDも、黒澤作品同様、同好の仲間とああだこうだとおしゃべりしているほうが愉しい一枚ということになるのではないか。
 だいたい、前年のコンサートの出来があまりに素晴らしく、ベルリン・フィルのメンバーが録音を希望したってエピソードからして、話の種になりそうだもの。
 録音のかげんもあってか(とはいえ、リマスターのおかげで言うほど音質自体気になるわけではないが)、細部の粗さが気になる箇所があったり、より肌理が細やかな演奏や斜に構えた演奏を好むむきもあるだろうなとは思ったりもするのだけれど、作品の叙情性や諧謔性、劇性をストレートに表現した実にわかりやすく伝わりやすい演奏であることも事実だろう。
 ベルリン・フィルの面々もバルビローリの解釈によく応えているのではないか。
 非常に聴き応えのある演奏だ。
 それにしても、輸入廉価盤ゆえ、この演奏が1000円以下で手に入るというのは、本当に申し訳ないかぎりである。
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2012年03月07日

デュトワ&モントリオール交響楽団のメンデルスゾーン

☆メンデルスゾーン:劇音楽『夏の夜の夢』ハイライト他

 指揮:シャルル・デュトワ
管弦楽:モントリオール交響楽団
(1986年5月/デジタル・セッション録音)
<DECCA>417 541-2


 もぎぎ、の愛称で知られるNHK交響楽団の首席オーボエ奏者茂木大輔の著書『はみだしオケマン挑戦記』<中公文庫>の中に、「今回のデュトワはしごく、怖い」という一文が収められている。
 デッカ・レーベルによる、ウィーンでのプロコフィエフの交響曲第6番の録音に向けて、1997年のヨーロッパ・ツアー中、NHK交響楽団をしごきにしごくシャルル・デュトワの姿が活写されているのだが、そのデュトワがかつての手兵モントリオール交響楽団といれたメンデルスゾーンの『夏の夜の夢』ハイライト他のCDを聴きながら、ふとその茂木さんの文章のことを思い出した。

 僕自身にとっては十数年ぶりの再購入となる、シャルル・デュトワ指揮モントリオール交響楽団が演奏したメンデルスゾーンの作品集は、まさしくデュトワとモントリオール響の美質特性をよく伝える一枚ではないか。
 序曲、スケルツォ、間奏曲、夜想曲、結婚行進曲と、いわゆる一番美味しいところだけを集めた『夏の夜の夢』は、個々の音楽の魅力が適確に捉えられていて実に愉しいし、カップリングの『フィンガルの洞窟』、『美しいメルジーネの物語』、『ルイ・ブラス』の三曲の序曲も、音楽の持つ劇性がよく再現されていると思う。
 また、モントリオール交響楽団も、ソロという点でもアンサンブルという点でも均整がとれていて、粗雑さを全く感じさせない。
 と、言っても、茂木さんの一文に触れることがなければ、デュトワの猛烈なしごきなど思い起こすこともない、スマートでスピーディーで活き活きとした演奏でもあるのだけれど。

 デッカ・レーベルの初期のデジタル録音は、今となってはちょっとじがっとした感じをさせないでもないが、それでも音楽を愉しむという意味ではそれほど気にはならないだろう。
 『夏の夜の夢』に加えて、三つの序曲の、モダン楽器のオーケストラによるオーソドックスな演奏として、安心してお薦めできるCDだ。
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2012年03月01日

アナトール・ウゴルスキが弾いたピアノ小品集「ショートストーリーズ」

☆ショートストーリーズ(ピアノ小品集)

 独奏:アナトール・ウゴルスキ(ピアノ)
(1994年11月/デジタル・セッション録音)
<ドイツ・グラモフォン>447 105-2


 旧ソ連出身のピアニスト、アナトール・ウゴルスキの実演に接したのは、かれこれ20年近くも前になるか。
 半年間のケルン滞在中、地元WDR交響楽団の定期演奏会でブラームスのピアノ協奏曲第1番のソロを弾いたのだが(ちなみに、指揮は先年亡くなったルドルフ・バルシャイ)、その透明感を持った音色と巧みな語り口には強く心魅かれたものだ。
 加えて、アンコールのドメニコ・スカルラッティのソナタも素晴らしかった。
 グールド流の鍵盤に身体を近づけるようなスタイルだったか、はっきりと思い出せないのがもどかしいのだけれど、一風変わった姿勢から紡ぎ出される音楽の表情の豊かで美しいこと。
 ああ、もっと彼の演奏を聴いていたいと心底思わざるをえなかった。

 そんなウゴルスキの一連の録音の中で、彼の魅力特性を過不足なく知ることができるのが、今回とり上げる「ショートストーリーズ」と題されたピアノ小品集である。
(と、こう書くと、なんでそんなことを言えるんだと訝るむきもあるかもしれないが、実は前回とり上げたブラームスのピアノ協奏曲第2番同様このCDもまた、以前国内盤を所有して長い間愛聴していたのだった)

 モーツァルトのジーグと『フィガロの結婚』第3幕の婚礼の場での舞踏曲を結び合わせたブゾーニのジーグ、ボレロと変奏曲を皮切りに、リストの愛の夢第3番、ドビュッシーの月の光、シューマンのトロイメライ、ショパンの幻想即興曲といった有名曲や、スクリャービン、ラフマニノフといった自家薬籠中の小品が、「ショートストーリーズ」(掌篇小説集)というタイトルに相応しい、旋律の美しさや音楽の劇性等々の作品の肝を適確にとらえた細やかで詩情豊かな演奏で再現されていく。
 中でも、人生の深淵が陽性な音楽の隙間からのぞき見えるウェーバーの舞踏への勧誘が強く印象に残る。
 また、メンデルスゾーンのカプリッチョやウェーバーの常動曲と、速いパッセージを聴かせ場とする作品も収められているのだけれど、ここでもテクニカルな側面より、音楽の表情をいかに素早く変化させるかという表現的な部分に演奏の主眼が置かれているように、僕には感じられた。

 いずれにしても、音楽の持つ様々な表情を味わうことのできる一枚ではないか。
 人生は一回きりということを日々噛み締めている人に強くお薦めしたい。
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久しぶりに聴いたブレンデルとアバド&ベルリン・フィルのブラームスのピアノ協奏曲第2番

☆ブラームス:ピアノ協奏曲第2番

 独奏:アルフレッド・ブレンデル(ピアノ)
 指揮:クラウディオ・アバド
管弦楽:ベルリン・フィル
(1991年9月/デジタル・セッション録音)


 実をいえばこのCD、同じ演奏者の第1番とともに今から15年ほど前に購入して、しばらくの間愛聴していたものだ。
 ただ、CDのコレクションを初出時の輸入盤(フルプライス盤)に絞り始めたことに加え、ちょうど同じ時期に京都市交響楽団の定期演奏会でこの曲をいっしょに聴いた、その頃親しくしていた女性との仲がもわもわもやもやとなってしまったこともあって、えいままよと手放してしまったのである。
 で、それからずっとこのCD、ばかりかブラームスのピアノ協奏曲第2番のCD自体、買いそびれていたのだけれど、一つには、ぐいぐい鋭く刺すような第1番の激しく強い曲調と対照的な、第2番の緩やかで穏やかな曲調にそれほど魅力を感じていなかったからかもしれない。
 今回久しぶりにブレンデルとアバド&ベルリン・フィルが演奏したこの曲を聴いて思ったのは、まずもってその緩やかで穏やかな曲調が非常にしっくりくるということだった。
 そして、ゆっくりたっぷり音を紡いでいきながら、それでいて、じっくり耳を傾ければ作曲者の様々な心の動きが透けて聴こえてくるような作品の結構が、とても興味深い。
 一方、ブレンデルとアバド&ベルリン・フィルは、非常に安定した演奏を行っていると思う。
 当然、枠をはみ出さない安定ぶりに不満を覚えるむきもあるだろうが、CDとして繰り返し聴くという意味では、やはりその安定した演奏は充分高い評価に値するのではないか。
 第1楽章のホルンや第3楽章のチェロ独奏(ゲオルク・ファウスト)など、ベルリン・フィルもすこぶる達者だし。
 ブラームスのピアノ協奏曲第2番のベーシックなコレクションとして安心してお薦めできる一枚だ。
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2012年02月13日

ペーテル・ヤブロンスキーが弾いたショパンのワルツ集

☆ショパン:ワルツ集(19曲)&ポロネーズ第6番「英雄」

 ピアノ:ペーテル・ヤブロンスキー
(1995年4月/デジタル・セッション録音)
<DECCA>448 645-2


 そんなに嫌いってわけでもないのに、気がつけば手元にショパンのCDがない。
 あるのは、ネルソン・フレイレが弾いた練習曲集(別れの曲とか革命が入ってるほう)&ピアノ・ソナタ第2番「葬送行進曲」<DECCA>きりで、ピアノ協奏曲もない、ピアノ・ソナタ第3番もない、スケルツォもない、バラード、マズルカ、ワルツもない、と吉幾三じゃないけれど、こんなCDラックいやだの状態がずっと続いていた。
 一つには、高校時代に愛聴していたサンソン・フランソワの名曲集のLP<東芝EMI>がずっと頭にこびりついていて、どうしても他のピアニストの演奏になじめなかったことも大きいのかもしれないが。
(ところで、フランソワやグレン・グールドでそのピアノ曲に初めて触れるってことは、志ん生でその噺に初めて触れるってことにつながりやしませんかね?)

 で、これではならじ、だって、ワルツ第1番「華麗なる大円舞曲」はあまたあるピアノ曲の中でも大好きな一曲だからと、ブックオフで中古CDが500円で出ているのをよいことに、スウェーデン出身の若手(と、言っても録音当時)ピアニスト、ペーテル・ヤブロンスキーが弾いたワルツ集(全19曲)&ポロネーズ第6番「英雄」を購入することにした。
 って、実はこのCD、ずいぶん前に国内盤をある人からもらったことがあるのだが、きちんと聴く間もあらばこそ、別のある人に譲ってしまったのだ。
(まあ、その事情に関してはあえてここでは省略)
 だから、ほぼ初めての気持ちで聴いてみたのだけれど、大好きな華麗なる大円舞曲など、フランソワのくだけた感じと対照的な、率直、ソリッド、ストレート、スマートな演奏で、正直ちょっと素っ気ないのではと思ってしまったものの、この調子ですとんすとんと曲が進んでいくこともあり、耳もたれせずに最後の英雄ポロネーズまで聴き終えることができたことも確かである。
 時折、あたりがきついなと思わなくもないが、清々しさと若々しさに満ち満ちた演奏であることに間違いはないだろう。

 演奏にぴったりなクリアな録音ともども、へっ、ショパンなんて甘っちょろい音楽がなんだい、なんて思っている方にこそお薦めしたい一枚だ。

 なお、国内盤にはボーナス・トラックとして夜想曲第20番も収められている。
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2012年02月10日

シュポアの序曲集

☆シュポア:序曲集(8曲)

 指揮:クリスティアン・フレーリヒ
管弦楽:ベルリン放送交響楽団
(1991年1月/デジタル・セッション録音)
<CPO>999 093-2


 先日別宮貞雄が亡くなった際、しばらしくして思い出したのが、彼が音楽をつけた本多猪四郎監督の『マタンゴ』であり、その『マタンゴ』で重要な役回りを果たしていた久保明のことだった。
 久保さん、どうしているのかなあ、弟の山内賢(僕らの世代には、日活の諸作品より『あばれはっちゃく』の担任の先生と言ったほうが通りがよいのでは)は亡くなってしまったけど。
 そう思って、ネットで調べたところ、僅かではあるが最近も出演作があるようだし、どうやら日本俳優協会の理事として俳優の地位向上に努めてもいたらしい。
(その点で、同じ東宝出身の小泉博のことを想起する)
 ただ、一時は東宝の青春スターとして将来を嘱望され、黒澤明の『蜘蛛巣城』や『椿三十郎』にも出演していた久保さんが、その後徐々に活躍の場を狭めていったことも事実で、繊細でどこか翳りのある久保さんよりも、加山雄三のような線が太くて大柄で、陽性に見える人間のほうがスターの地位を占めるのだなあと改めて感じたりもした。

 前々回CDレビューで取り上げたフェスカよりも5年前の1784年に生まれ、33年のちの1859年に亡くなったシュポアの序曲集(『マクベス』、『試練』、『アルルーナ、醜い女王』、『ファウスト』、『イェソンダ』、『山の精霊』、『ピエトロ・フォン・アバーノ』、『錬金術師』の8曲)を聴くと、どうしてもそんな久保明のことが思い起こされる。
 古典派の全盛期から初期ロマン派を経、ロマン派盛期の入口頃まで生きたシュポアの作品は、音楽の構成という意味でも、劇場感覚という意味でも全く聴き応えのないものではない。
 メロディラインだってそれなりに美しいし、曲調の激しい展開(一例を挙げると、『錬金術師』)だってよくツボが押さえられている。
 2曲目の『試練』がモーツァルトの『ドン・ジョヴァンニ』の、3曲目の『アルルーナ』が同じくモーツァルトの『魔法の笛』の、それぞれの序曲にどことなく似ているのはまあご愛嬌だろう。
 いや味ではなく、モーツァルトとシュポアのこれらの序曲をコンサートのプログラムに並べてみても面白いと思う。
 ただ、例えば近い時期に作曲されたメンデルスゾーンの『夏の夜の夢』の音楽などと比べると、どうしても物足りなさが残ってしまうことも否めない。
 言い換えれば、何かが足りていなかったり、何かが余計であったりという感じというか。
 で、結局そういった印象を与えてしまうことこそが、メンデルスゾーンとシュポアの音楽の受け入れられ方の違いにつながっているように、僕には思われてならないのだ。
 とはいえ、上述した如く、シュポアの序曲そのものの出来が悪いということではない。
 特に、ドイツの初期ロマン派作品が好きな方には安心してお薦めすることができる。
 クリスティアン・フレーリヒが指揮したベルリン放送交響楽団も手堅い演奏で、作品を愉しむという意味では、まず問題がない。

 それにしても、衝撃のラストともども『マタンゴ』の久保さんは忘れられないなあ。
 少なくとも、加山雄三にあの役柄は似合わないだろう。
posted by figarok492na at 17:03| Comment(0) | TrackBack(0) | CDレビュー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年02月03日

ブラームスのセレナード第1番&第2番

☆ブラームス:セレナード第1番&第2番

 指揮:アンドレアス・シュペリング
管弦楽:カペラ・アウグスティナ
(2005年9月/デジタル・セッション録音)
<CPO>777 300-2


 先日亡くなった玉木宏樹が、以前ツイッターでブラームスのオーケストレーションの拙さについてツイートしていたことがあった。
 さすがはオーケストレーションの妙手玉木さん(厭味じゃないよ)と感じつつ、あばたもえくぼじゃないけれど、玉木さんが指摘するような拙い部分も含めてブラームスの管弦楽作品が好きなんだよなあと改めて思ったりもした。
 そう、どこかごつごつぎくしゃくしておさまりの悪さを感じる構成だって、欲求不満突然爆発のきらいなきにしもあらずのはっちゃけはきはきステレオ全開ファインオーケー的な部分だって、しっとりしとしととウェットでリリカルな旋律同様、聴けば聴くほど魅力的に思われてならないのである。

 で、そんなブラームスの管弦楽作品のプロトタイプと言ってもよい、セレナード第1番ニ長調作品番号11と第2番イ長調作品番号16(ちなみに、この曲ではヴァイオリンが使われていない)を、アンドレアス・シュペリング指揮カペラ・アウグスティナの演奏で聴いたんだけど、上述したようなブラームスの長所と短所がよく表われていて個人的にはとても面白い一枚だった。
 大好きな第1番の第楽章は、若干もたつき気味でそれほどわくわくしなかったものの、ゆったりとした楽章ではピリオド楽器の素朴で淡々とした音色もあって、作品の持つインティメートな雰囲気や旋律の美しさが巧く表現されていたような気がする。
 その分、音質的なくぐもった感じや音楽的な野暮ったい感じが垣間見える(聴こえる)のは否定できないが、第2番の終楽章の軽やかな愉悦感など聴きどころも少なくないのではないか。
 ブラームスの二つのセレナードのファーストチョイスというよりも、二枚目、もしくは三枚目あたりにお薦めしたいCDだ。

 ところで、玉木さんだったら、このCDをどう評価しただろうな。
 ぜひともその感想を聴いてみたかったのだが。
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2012年02月01日

フェスカの交響曲第1番他

☆フェスカ:交響曲第1番他

 指揮:フランク・ベールマン
管弦楽:ハノーヴァーNDRフィル
(2002年2月、3月/デジタル・セッション録音)
<CPO>999 889-2


 昔、『知ってるつもり』というテレビ番組があったが、名前だけは知っているものの、改めて考えてみると、はていったいどんな人だっけと悩んでしまうことがままある。
 さしずめ、CPOレーベルを中心に、近年その作品のCD録音が少しずつ増えているフリードリヒ・エルンスト・フェスカという作曲家など、その最たるものだろう。
 HMVのサイトなどで、交響曲や室内楽曲の新譜がリリースされたことを目にしているから、フェスカの名前はずいぶん前から知っていて、ああフェスカね、などと「知ってるつもり」でいたのだけれど、実際どんな音楽の書き手なのかと問われたら、これが全く答えようがない。
 新年のJEUGIA三条本店の輸入盤半額のセールのワゴンで、今回取り上げる1枚を見つけて購入し、ようやくフェスカという人物が1789年(フランス大革命の年だ)に生まれ、ドイツ諸邦でヴァイオリニストとしても活躍し、1826年に30台の若さで亡くなったドイツの作曲家ということを知った。

 ほぼ、ベートーヴェンやウェーバー、シューベルトと同時代の作曲家ということで、その音楽も古典派から初期ロマン派のとば口に足を踏み入れかけた、といった内容となっている。
 まず、1810年から11年頃に作曲されたと考えられ、12年に初演された交響曲第1番変ホ長調作品番号6は、古典派の様式に則った四楽章形式の交響曲。
 ブックレットの解説にも記してあるが、第1楽章には同じ調性であるモーツァルトの交響曲第39番第1楽章とそっくりなテーマが登場する。
 加えて、これまた同じ調性のハイドンの交響曲第91番の第1楽章も想起させるなど、どこかで耳にしたことがあるような既視感、ならぬ既聴感は否めないが、構成的な破綻もなく、躍動感も兼ね備えていて、聴き心地のよい交響曲に仕上がっているとは思う。
 続く、作品番号41のニ長調、作品番号43のハ長調の二つの序曲も、明朗で快活な音楽で、それこそコンサートの開幕の序曲としてプログラミングされても全くおかしくないのではないか。
 後者の序曲では、ベートーヴェンの交響曲第5番とつながるようなダダダダンという音型が何度も登場するのが面白い。
 1822年に作曲された歌劇『オマールとイリア』の序曲は、冒頭のものものしい曲調がオリエンタル調であるとともに、まさしく初期ロマン派的で、もしもフェスカが長生きしていれば、いったいどのような作風に変化しただろうかと大いに興味が湧く。
 途中、モーツァルトの歌劇『ドン・ジョヴァンニ』の「地獄落ち」を思わせる旋律も表われるが、華々しく堂々たる終曲で、これまた非常に聴きやすい音楽だ。

 フランク・ベールマン指揮ハノーヴァーNDRフィルは、音楽を知るという意味でも、音楽を愉しむという意味でもあまり不満を感じさせない。
 少し粗さを覚えないでもないが、ソロ、アンサンブル、ともに満足のいく演奏である。

 「知ってるつもり」の人はもちろん、フェスカを知らない人にもお薦めしたい。
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2011年12月25日

ムーティ指揮ウィーン・フィルが演奏したシューベルトの交響曲第3番&第5番

☆シューベルト:交響曲第3番&第5番

 リカルド・ムーティ指揮ウィーン・フィル
(1988年/デジタル・セッション録音)

<EMI>CDC7 49850 2


 実演で接したことがないこともあってか、リカルド・ムーティという指揮者に対して、正直あまり思い入れがない。
 録音で聴くかぎり、細かいところまでいろいろ考えていそうで、それが今ひとつ効果を発揮していないというか、全体として同じ調子に聴こえるような感じがするし、逆に曲目によっては力任せとまではいかないものの、エネルギッシュでパワフルな雰囲気ばかりが目につき耳につくという結果に終わってしまっている場合すらある。
 それじゃあ、なんでそんな指揮者のCDを買うんだよと聴かれたら、大好きなシューベルトの交響曲第3番&第5番が500円(ブックオフ・中古)で出ていたからだと答えるばかりだ。

 で、それほど期待せずに聴き始めたCDだったんだけれど、これは予想に反して当たりの一枚だった。
 確かに、ムーティのそれいけずーんずーん的な前進志向はいつもの通りなのだが、それが第3番の陽性な音楽にはぴったりと合っていて、実に心地よいのだ。
(一つには、第3番がイタリア的な曲調を持っていることも大きいのかもしれない)
 一方、モーツァルトの交響曲第40番を下敷きとした思しき第5番のほうは、あとちょっと細やかさが欲しいなと感じはつつも、それが大きな不満につながるということはなかった。
 加えて、シューベルトの音楽の持つ歌謡性もけっこう巧くとらえられているのではないか。
 さらに、個々の奏者、そしてアンサンブルともにウィーン・フィルの音色が美しい。

 この二つの交響曲を一度も聴いたことがないという人にも安心してお薦めできるCDだ。
posted by figarok492na at 14:39| Comment(0) | TrackBack(0) | CDレビュー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする