2009年02月08日

粗忽の試聴者

 ☆ボッケリーニ:弦楽5重奏曲集作品番号27(6曲)

  ラ・マニフィカ・コムニタ
  2007年、デジタル録音
  <BRILLIANT>93774


 ええ、毎度の馬鹿馬鹿しいおはなしでございまして。
 往来で大声を出す方がございますが、あれは迷惑でございますな。
 酒に酔ってくだをまいてる奴も困りものですが、自分の話に酔って大声を出している奴もはた迷惑極まりないもので、位相がどうしたとか、チェホフがこうしたとか、演劇人ぶりもはなはだしい。しまいには、自分の出ている芝居の演技までしだすんだから、これは相当なきちがいで。
 まあ、往来で黙って音楽を聴いてる分には、まだ罪もないものでしょうな。
「十字屋さんの番頭さん、こんちは」
「ああ、びっくりしたこりゃはっつあんじゃないか」
「ほらね、そんな風にヘッドフォン耳にして歩いてるからあたしのこと気がつかないんですよ」
「確かに、そりゃそうだけど、今聴いてる録音がなかなかいいもんだからさ」
「へえ、いい録音、どんな録音なんです」
「うん、ボッケリーニのね」
「えっ、番頭さんそんなもの聴いてるの。悪い人だね、黒シャツ着て大騒ぎしないで下さいよ」
「そりゃ、ムッソリーニだろ、あたしの聴いてるのはボッケリーニの」
「あたし、岩井志麻子の小説嫌いなんです」
「そりゃ、ぼっけえきょうていじゃなかったっけ。だから、これはボッケリーニ」
「ああ、ボッケリーニ。あなたの頭もボッケリーニ」
「呆けてんのは、はっつあんの頭のほうじゃないか」
「あっはっはあっはっは」
「だめだよ、横溝正史みたいな笑い方でごまかしても」
「へへ、ボッケリーニっていやミヌエットで有名でしょ」
「そうそう、ボッケリーニっていやミヌエットで、弦楽5重奏曲の中の一楽章だけど、これはおんなじ弦楽5重奏曲のCD録音でも、作品番号27の6曲を収めたものなんだよ」
「ははあ、弦楽5重奏曲が6曲っていや、相当な時間になりましょう」
「ううん、全部2楽章形式だから、全部で半時、一時間とちょっとかな」
「へえ、で、演奏してるのは」
「ラ・マニフィカ・コムニタ」
「アンニョンハシムニタ」
「違うよ、ラ・マニフィカ・コムニタって、イタリアのピリオド楽器アンサンブル」
「へえ、イタリアの。やっぱり黒シャツ着て」
「着るわけないよ」
「で、どんな感じの演奏なんですかい」
「そうだねえ、ピリオド楽器っていうと、よくいえば情熱的、悪くいえば騒いでなんぼの演奏が多かったけど、これは結構落ち着いた演奏かなあ。とびきりの腕っこきってわけではなさそうだけど、こうやって繰り返し音楽を愉しむ分には悪くないと思うけど」
「なら、相当なお値段がするんじゃないですか」
「ううん、これ一枚でたったの680円」
「えっ680円!」
「そう680円」
「そりゃ安いや。ねえ番頭さん、ちょっとあたしにも確かめさせてもらえませんかね」
「ああ、いいよ、はい」
「こらどうも。おっ、これはしっとりとしてなかなかいい音楽じゃないですか。部屋で音楽聴いてるみたいにくつろげそうだ」
「って、往来で座り込んじゃだめじゃないか。スキップスキップ」
「スキップスキップらんらんらん」
「あんたがスキップするんじゃないよ、機械をスキップさせるの」
「ああ、機械ね。よいしょっと。今度はトラック8でも聴いてみましょうか。おんや、これはなあんかハイドンのチェロ協奏曲みたいな雰囲気ですねえ」
「まあね、ボッケリーニもハイドンと同世代人だからねえ。ついでに、トラック10も聴いてごらんよ」
「トラック10っと。おっ、こっちはハイドンとモーツァルトのあいのこみたいに軽やかでチャーミングな曲だ」
>牛車がとおおるぞお、牛車がとおおるぞお<
「はっつあん、危ないよ牛車が通るって言ってるよ」
「ああ、ふげふげふがほげふげふげふがほげってリズムが面白い」
>牛車がとおおるぞお、牛車がとおおるぞお<
「危ないよはっつあん、危ないってば」
「ふげふげふがほげふげふげふがほげ」
>とおおるぞお!<
「あいててて」
「ほら、言わこっちゃない転んじゃったじゃないか、はっつあん大丈夫かい」
「えっ、あたしのこと心配してくれてんだ」
「当たり前じゃないか」
「ああよかった、やっぱりもろこしだった」
「何言ってんだよ。ほんと、注意しなくちゃだめだよ、往来なんだからさあ」
「へへすいません、ボッケリーニだけに、もおー見ぬえっと(干支)でした」
 おあとがよろしいようで。
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2009年01月22日

原節子、アルゲリッチ、モーツァルト、そして上野樹里

 ☆モーツァルト:2台・4手のためのピアノ作品集

  マルタ・アルゲリッチ(ピアノ)
  アレクサンドル・ラビノヴィチ(ピアノ)
  1992、93年、デジタル録音
  <TELDEC>4509-91378-2


 小津安二郎や黒澤明、成瀬巳喜男らの映画から受ける印象とは異なり、原節子という人は実生活では相当姐御肌でさばけた性格の持ち主だったようだ。
 確か、煙草をふかしながら麻雀を打つのが好きだと以前何かで読んだことがあるし、アルコールもけっこういける口だったのではないか。
 それに、『ふんどし医者』か何かの撮影の際には、遅刻常習犯の森繁久弥を叱り飛ばすという一幕もあったという。
 もちろんそれとて仮面の一つと言えないこともないだろうけれど、例えばその雰囲気や存在感の大きさ豊かさに比して、小津作品でも成瀬作品でも黒澤作品でも、演技の上手下手以前に、どこかしっくりこない感じをふと覚えてしまうのは、演じる役柄と原節子の本質との間に、歴然とした齟齬があったからのように僕には思えてならない。
 実際、彼女が小津安二郎の死ととともに、映画界を去っていったのも、ただ年齢がどうしたとか自らの美貌がこうしたといった表面的な問題よりも、自らと演じる役柄の齟齬を補って余りある最高で最大の存在がいなくなってしまったからではないだろうか。

 自らの本質とどう向き合うか、だけではなく、自らの本質と対象との関係をどう切り結んでいくかは、当然役者演技者だけの問題ではない。
 共同作業を主とするか否かの違いはあっても、それは音楽家、演奏家においても大きな問題であり課題であり、高じてそれは重い桎梏にすらなる。
 傍目には得手勝手自分勝手を押し通しているように思われ、現にそうした行動を繰り返している音楽家、演奏家とて、それは同じことだ。
 特に、一対一で作品と向かい合う機会の少なくない器楽奏者、それも豊かで高い才能を持った器楽奏者ほど、そのきらいは大きいのではないか。
 ホロヴィッツ、グールド、リヒテル、ミケランジェリ、近くはポゴレリチ…。
 なんとかとなんとかは紙一重ではないけれど、彼彼女らの追い詰められようあがきようは、極言すれば自業自得とはいえ、やはり鬼気迫るものがある。
 そして、そのことはやれ奔放だなんだと、時にゴシップの種にすらなったマルタ・アルゲリッチにもあてはまる。
 確かに、彼女の演奏はよく言えば自由自在、悪く言うと奔放極まりのない、その人生と基を一にしたものだ。
 けれど、その奔放さは無神経や鈍感さから生まれたものだろうか。
 否、もし彼女が臆面なんて一切ない、ただの無神経で鈍感な人間だったら、一人ピアノと向き合い、ソロで演奏活動を行うことから遠ざかることはなかっただろう。
 そう、彼女もまた何かと向き合ってきた一人なのだ。
 彼女がある時から、コンチェルトや室内楽、そして今回取り上げるようなデュオのみで演奏活動を行うようになったこともその帰結以外のなにものでもない。
(僕は、ケルン滞在中に一度だけ彼女の実演に接したことがある。その時は、アルミン・ジョルダンの指揮したスイス・ロマンド管弦楽団をバックにバルトークのピアノ協奏曲を演奏していたが、アルゲリッチの愉しそうなこと。演奏の素晴らしさばかりでなく、彼女の「いっしょに」音楽することの喜びもはっきりと伝わってきて、僕も本当に愉しかった。そういえば、自分の出番が終わったあとも、アルゲリッチは客席に座って嬉しそうにオーケストラの演奏を聴いていたっけ)

 アレクサンドル・ラビノヴィチと組んで録音したこのモーツァルトの2台・4手のためのピアノ作品集も、アルゲリッチの愉しくって嬉しくって仕方のない心情がストレートに表された一枚だと僕は思う。
 正直、形式だとか様式だとか、演奏の整い具合だとか、そういうことばかりを言い出すと、突っ込みどころはいくらでもあるような気がするが、愉しくって嬉しくって仕方がないというモーツァルトの音楽の本質、全部ではないだろけどその大きな側面がよくとらえられていることも疑いようのない事実だろう。
(だから、モーツァルト自身がこの演奏を聴いたら、負けてはならじとアルゲリッチに「勝負」を挑むんじゃなかろうか。どうもそんな気がしてならない)
 中でも、『のだめカンタービレ!』で一躍有名になった冒頭の2台のためのソナタ(てか、原作者の二ノ宮知子はアルゲリッチの演奏を聴いてたんじゃないか? のだめを描くときに)もそうだし、ケルビーノの「恋とはどんなものかしら」そっくりの音型が第1楽章に顔を出すラストの4手のためのソナタなど、その極だ。
 と、言うことで、演奏するという行為を楽譜を撫でなぞることとしか受けとめられない人以外には、強くお薦めしたい一枚。
 むろん、のだめにはまった人にも大推薦だ。

 そうそう、のだめといえば、どうしても上野樹里を思い出してしまうが、彼女もまたどこかで向き合い続けている一人なんじゃないだろうか。
 もしそうでなければ、『ラストフレンズ』のあの演技は生まれなかったはずだから。
 そして、21世紀の日本に小津安二郎や成瀬巳喜男はいないけれど、上野樹里の魅力を十二分に発揮させうる映画監督は、必ず存在すると僕は思いたい。
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王道を歩むコリン・デイヴィスのエロイカ

 ☆ベートーヴェン:交響曲第3番「英雄」、「エグモント」序曲

  コリン・デイヴィス指揮ザクセン・シュターツカペレ・ドレスデン
  1991年、デジタル録音
  <PHILIPS>434 120-2


 グリーグ&セヴェルーの「ペール・ギュント」組曲集へのレビューで、メジャーとマイナーの話を落語のまくらよろしく語ったが、今回はテーゼとアンチテーゼの話から。
 って、メジャーとマイナーも、テーゼもアンチテーゼもおんなじじゃないの、といぶかしがるあなた、残念ながらあれとこれでは、ちょと話が違う。
 これは理念、それも、あくまでも僕個人の考えでいえば、メジャーとマイナーは個々に独立して存在しているものであって、お互いが即対立するというものじゃあない。
 たとえて言えば、「俺は俺、お前はお前」という感じ。
 ところがそれと異なり、テーゼとアンチテーゼは字義通り、「俺はいい!」「いいえ、あたしはいやだ!」という明確な対立状態にある関係、てか、対立抜きには存在しえない言葉であり構図であり関係だと思う。
 で、さらに理念系、それも独断専行のそれを突き進めば、世の中のことどもすべからく、ではないけれど、これまで当為とされてきたテーゼへのアンチテーゼが示され、それが新たな変化を促し、さらには…。
 ああ、ややこしい。
 哲学に関する素養もへったくれもない人間が、かつて読みかじり聴きかじったなんだかんだのアマルガムを悪用して何かかにかこねくり出そうとするほうが、土台無理な話。
 餅は餅屋、生兵法は大怪我のもとってやつだね。

 まあ、テーゼやアンチテーゼがどうのこうのなんて思い起こしたのも、コリン・デイヴィスがザクセン・シュターツカペレ・ドレスデンを指揮して録音したベートーヴェンの交響曲第3番「英雄」が、実に堂に入った、王道中の王道を歩む演奏だったからなのだ。
 そう、コリン・デイヴィスの指揮したエロイカ・シンフォニーは、たぶんLP時代からこの作品に慣れ親しんできた人間には、「ああ、これだよこれ、英雄交響曲はこうでなくっちゃ」と強く思わせるような演奏に仕上がっているのではないか。
 テンポ的にも音の質感としても重心が低くとられているし、アクセントの付け方や楽器の鳴らし方も、それこそ20世紀半ば以降の演奏慣習に則ってくるいがない。
 しかも、音楽の持つ流れや劇性には充分配慮しつつも、カラヤンのような押しつけがましさやチェリビダッケのような極端さとは無縁である。
 加えて、ザクセン・シュターツカペレ・ドレスデンが、機能性と音色の自然さのバランスがよくとれたまとまりのよいアンサンブルでコリン・デイヴィスの楽曲解釈を見事に表現しているとも思う。
(そういえば、コリン・デイヴィスとザクセン・シュターツカペレ・ドレスデンの実演には、大阪とケルンで二度接しているが、その時聴いたベートーヴェンの田園交響曲やブラームスの交響曲も、両者の相性のよさと共同作業の充実ぶりを強く感じさせるものだったと記憶している)
 だから、コリン・デイヴィスとザクセン・シュターツカペレ・ドレスデンの演奏したこのCDを、ベートーヴェンの交響曲第3番「英雄」の名演奏名盤として推すことに一切ためらいはない。

 けれど、一方でこうしたベートーヴェン演奏がある種の桎梏となっていたことも想像に難くはない。
 つまり、伝統の重みというか、慣習のおりというか。
 それに、全ての指揮者がコリン・デイヴィスほどの、そして全てのオーケストラがザクセン・シュターツカペレ・ドレスデンほどの音楽性を持っている訳でもない。
 ピリオド楽器によるベートーヴェン演奏やピリオド奏法を援用したベートーヴェン演奏が登場し、なおかつ現代の主流となってきた背景には、そうした桎梏や惰性への対立・反抗の意識や精神があったことはいまさら繰り返すまでもあるまい。
 そして僕自身は、コリン・デイヴィスとザクセン・シュターツカペレ・ドレスデンのエロイカ・シンフォニーを素晴らしい演奏と認めつつも、ニコラウス・アーノンクールやフランス・ブリュッヘン、ロジャー・ノリントンらによるベートーヴェン演奏にも強く心をひかれるのである。
 むろん、彼らの演奏もまた、一つのテーゼとして対立・反抗の対象となるだろうことは、明らかなことだろうけれど。

 最後になるが、カップリングの『エグモント』序曲も、コリン・デイヴィスとザクセン・シュターツカペレ・ドレスデンの劇場感覚が発揮された聴き応えのある演奏に仕上がっていると思う。
 中古で、税込み1200円程度までなら、安心してお薦めできる一枚だ。
(なお、エロイカ・シンフォニーはナポレオンがらみの作品だから、タイトルは「皇道を歩む」にでもしようかと思ったが、それじゃあ日本語として変だし、だいたい皇道なんていったらああた、荒木貞夫や真崎甚三郎じゃないんだから…)
posted by figarok492na at 14:53| Comment(0) | TrackBack(0) | CDレビュー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年01月21日

スタンフォードの交響曲を聴きましょうや!

 ☆スタンフォード:交響曲第5番、アイルランド狂詩曲第4番

  ヴァーノン・ハンドリー指揮アルスター管弦楽団
  1987年、デジタル録音
  <CHANDOS>CHAN 8581


 前回のCDレビューでエルガーの交響曲第1番を取り上げるにあたって、パーセル以降、イギリスは音楽の不毛地帯みたいなことを記したけれど、あれはあくまでもイギリス出身の作曲家に関する話であって、ヨハン・クリスティアン・バッハやパパハイドン、さらにはウェーバなんかを持ち出さずとも、18世紀、19世紀にも、イギリスにおける音楽活動が盛んだったことはおわかりいただけると思う。
 が、一応、念のため。
 それに、いくらめぼしい作曲家がいなかったからといって死んで花実が咲くものか、違う違う、それこそ枯れ木に花は咲かないし、突如として砂漠にライ麦が実るはずはない。
 エルガーの交響曲が生まれるにあたっては、それなりの先行者たちがいた訳で、その中でもパリーやスタンフォードという二人の作曲家の存在は忘れちゃいけないんじゃないだろうか。
 てか、好きなんだよなあ、パリーとスタンフォードの交響曲のことが、僕は。
 そりゃ確かに、この二人の交響曲をけなそうと思えばいくらだってけなせるよ。
 初期から中期、はては後期にいたるドイツ・ロマン派の影響ははなはだしいし、エルガーほどの作風の斬新さというものも、もちろんない。
 でもね、影響大いに結構じゃないですか。
 だって、パリーとスタンフォードの交響曲はとても耳なじみがいいんだもの。
 まさしく、イギリスの田園風景を眺めながら、来し方行く末、ならぬ、来し方来し方に思いを馳せる、そんな柔らかくって甘やかな心持ちにどっぷりたっぷりと浸れるのだから。
 なんの文句があるものや。
 で、あなたパリーがひときわドイツ・ロマン派(と言うより、ブラームス)の影響丸出しなら、こなたスタンフォードは、郷里アイルランドの雰囲気が巧みにブレンドされた折衷風とでも評することができるだろう。
 この交響曲第5番も、そうしたスタンフォードらしさがよく表れた、美しいメロディーに満ちあふれた作品で、全篇、実に聴き心地がよい。
 また、カップリングのアイルランド狂詩曲第4番(トラック5)では、12分ちょっと過ぎあたりに打楽器連打というなかなかの聴きどころも控えている。
 惜しくも昨年亡くなったヴァーノン・ハンドリーの指揮するアルスター管弦楽団は、丁寧かつ真摯な音楽づくりで、作品の長所をきっちりと表現し、短所をうまく補っていて、まさしく過不足のない演奏。
 加えて、シャンドス・レーベルらしく、残響豊かでメロウな録音も申し分ない。
 あくまでも個人的な好みと断った上でだが、中古で税込み1200円程度までなら即買いの一枚だと思う。
 喰わず嫌い、ではない聴かず嫌いはやめて、スタンフォード(ついでにパリー)の交響曲を聴きましょうや!
 ねえ、皆の衆。
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プレヴィンが指揮したエルガーの交響曲第1番

 ☆エルガー:交響曲第1番

  アンドレ・プレヴィン指揮ロイヤル・フィル
  1985年、デジタル録音
  <PHILIPS>416 612-2


 英国人にとって、少なくともクラシック音楽好きの英国人にとって、エルガーという作曲家はいくら讃えても讃えきれない、偉大な存在であるという。
 そういえば、15年ほど前のケルン滞在中、サイモン・ラトル率いるバーミンガム・シティ交響楽団がフィルハーモニーを訪れて、エルガーのエニグマ変奏曲を演奏したことがあったのだけれど、その終演後、さすがはラトルとバーミンガム、いい演奏やるもんだなと僕が感嘆していると、見るからにアングロサクソン系とわかる老紳士がつかつかと近寄ってきて、「どうです、すごいでしょう」と口にしてにこっと微笑むという一幕もあったっけ。
 あの老紳士はきっと、ラトルとバーミンガム・シティ交響楽団のことだけじゃなくて、エルガーの作品についてもすごいと言いたかったんだろうな、といまさらながら思う。
 確かに、音楽の不毛地帯、といえば言い過ぎだけれど、パーセル以降、これはという作曲家を生み出してこなかった英国人にとって、エルガーは干天の慈雨、まさしく誇るに足りうる大作曲家だと断じてよいのではないか。
 当然、ワーグナーやブラームス、リヒャルト・シュトラウスをはじめとしたドイツ後期ロマン派からの影響は濃厚で、そのことを云々かんぬんうんすんかるたすることもできはするけれど、それが、ノスタルジーをたっぷりと感じさせる美しいメロディや、金管楽器の巧みな使用など、エルガーの音楽(それは、彼が日々生活した19世紀半ばから20世紀初頭にかけての文化的経済的政治的、いわゆる社会的諸状況の反映でもある)の持つ個性、魅力を否定する材料になるとも思えない。
 そして、エルガーの数多くの作品の中でも、二つの交響曲は、上述したような当時のイギリスの社会的諸状況の反映という意味からも、大きな価値を持っていると僕は考える。
 また、そのいった作品の印象を度外視したとしても、荘重さと穏やかさ大らかさ、さらには一種の翳りすら有したエルガーの交響曲は、非常に魅力的だと思う。
 今回取り上げる、アンドレ・プレヴィン指揮ロイヤル・フィルが演奏した交響曲第1番のCDは、そうした作品全体の持つイメージや魅力を最大限に引き出した録音と言えるのではないか。
 なぜなら、プレヴィンの音楽づくりは、楽曲の構造の把握という点でとても安定しているし、ロイヤル・フィルの丹念できめの細かい表現も、作品そのものの美しさを巧く伝えているからだ。
 1985年というから、今からほぼ25年も前の録音になるが、繰り返し音楽を愉しむという意味で、全く問題はない。
 エルガーの交響曲第1番のファーストチョイスとして、安心してお薦めできる一枚だ。
 英国音楽好き以外の方にも、ぜひご一聴いただきたい。
posted by figarok492na at 14:44| Comment(0) | TrackBack(0) | CDレビュー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年01月20日

メジャーとマイナー 二つの「ペール・ギュント」

 ☆グリーグ&セヴェルー:「ペール・ギュント」組曲

  アンネ=マルグレーテ・アイコース(ソプラノ)
  アリ・ラシライネン指揮ノルウェー放送管弦楽団

  1996年、デジタル録音
  <FINLANDIA>0630-17675-2


 メジャーとマイナー。
 何をもってしてその二つを分かつかを口にすることはそうそう容易ではなくて、女の中に男があって男の中に女があるように、例えばモーツァルトの音楽を聴いたりしていると、長調の作品の途中でなんとも曰く言い難い翳りがうかがわれる部分があったり、逆に短調の作品から生命力のほとばしりを感じたりすることもある。
 それに、ことさらこれはこうであれはああだと決めつける考え方というのは、あまりにも単純というか、それこそブッシュの馬鹿息子が終始口にしていた似非勧善懲悪論を思い起こさせるようなうっとうしさや胡散臭さすら伴う。
 ただ、そうは言っても、明らかにメジャーとマイナーの区別がはっきりしたものも世の中にはあまたあって、マイナーなものをメジャーだメジャーだと騒ぎたてたところで、それはマイナーなものを讃えるどころか、かえってそのよさすら貶めることにもなりかねない。
 まさしく、ひいきの引き倒し、助長というやつだ。

 さて、今回取り上げるCD、アリ・ラシライネン指揮ノルウェー放送管弦楽団の演奏したグリーグとセヴェルーの「ペール・ギュント」組曲集のうち、どちらがメジャーなもので、どちらがマイナーなものかは一目瞭然、ならぬ一聴瞭然だろう。
 いわゆる新劇のご本尊イプセン(何せ、あの『人形の家』をはじめ、『ヘッダ・ガブラー』や『民衆の敵』の作者なんだもの)の創作の中では、どちらかと言えば荒唐無稽の物語と言えなくもない「ペール・ギュント」(それでも、19世紀の社会的諸状況のあからさまな反映であることは否定できまいが)に付けられたグリーグの音楽は、ノルウェー情緒たっぷりで、なおかつドラマティックな要素にも事欠かない、実に耳なじみのよいものに仕上がっている。
 そして、その好き嫌いは別にして、朝の気分やオーゼの死、アニトラの踊り、山の魔王の宮殿にて、ソルヴェーグの歌といった劇音楽中の美味しい部分を集めた二つの組曲を、オーケストラ作品におけるメジャー中のメジャーと位置づけることには、まずもって異論はあるまい。

 一方、1947年に新たに作曲されたセヴェルーのほうは、当然のことながら祖国の先達グリーグを強く意識してのことだろう、曲球変化球主体のきわきわぎりぎりの勝負、ではない音楽のつくりで、ある種の潔さすら感じるほどだ。
 それに、例えばワルキューレの騎行の音型が聴きとれる第2曲(トラック10)や、ラ・マルセイエーズやアルプス一万尺の引用も軽快な第4曲(トラック12)など、後攻者にしかできないやり口ではあるが、これはこれで、「ペール・ギュント」という作品の一面を巧みに切り取っているようにも、僕には思われる。

 フィンランド出身のアリ・ラシライネンとノルウェー放送管弦楽団は、そうした二つの音楽の性格の違いを的確に描き分けているのではないか。
 餅は餅屋、ノルウェーの音楽はノルウェーのオーケストラ、ではないけれど、作品の持つ特性とオーケストラの個性がしっかりと噛み合っていることは確かだし、かと言って、ヨーロッパの放送局のオーケストラに共通する機能性の高さも持ち合わせている分、純朴さ一辺倒の鄙びた演奏に終始している訳でもない。
 いい意味で抑制のきいた、非常にバランスのとれた演奏であり録音であると評することができるだろう。
(セヴェルーのソルヴェーグの歌は歌つきなのに、グリーグのほうには歌がついてないのには、まあいろんな判断が働いたんだろうな、きっと)
 いずれにしても、グリーグの「ペール・ギュント」を愉しむという意味においても、セヴェルーの「ペール・ギュント」を識るという意味においても、大いにお薦めしたい一枚。
 聴いて損はない!


 余談だけど、「ペール・ギュント」には、エックが作曲したオペラもあったんだった。
 『クラシック名盤大全 オペラ・声楽曲篇』<音楽之友社>で、ヴァルベルク(!)が指揮した全曲盤を片山杜秀が推薦しているので、興味がおありの方はそちらをご参照のほど。
 そういえば、この作品のタンゴか何かが入ったCDを同じ片山さんが『レコード芸術』で誉めていたような記憶があるんだけど、あれはなんのCDだったかなあ。
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ネーメ・ヤルヴィのシベリウス

 ☆シベリウス:管弦楽曲集第1集

  ソイレ・イソコスキ(ソプラノ)
  ネーメ・ヤルヴィ指揮エーテボリ交響楽団

  1992〜95年、デジタル録音
  <DG>447 760-2


 エストニア出身の指揮者ネーメ・ヤルヴィといえば、BIS、CHANDOS両レーベルへの一連の録音(まさしく、当たるを幸い的な)が強く印象に残っていて、実際彼の大車輪の活躍がこの二つのレーベルをマイナー・レーベル中のメジャー・レーベルへと押し上げたと言っても過言ではないはずだけれど、その後もドイツ・グラモフォンで着々とリリースを重ねるるなど、オーケストラ音楽好きのディスク愛好家にはどうしても欠かすことのできない存在であり続けている。
 もちろん、ネーメ・ヤルヴィの場合は、録音スタジオのみで偉力を発揮するタイプの音楽家ではなくて、僕自身、ケルンWDR交響楽団で実演に接したベートーヴェンの交響曲第7番など、いわゆるオーソドックスな音楽づくりだったとはいえ、ライヴ感覚にあふれたエネルギッシュな仕上がりだったし、あいにく聴きそびれてしまった京都市交響楽団の定期演奏会でも、生の魅力をフルに活かした演奏を生み出していたという。
 つまるところ、ネーメ・ヤルヴィは、ライヴ・録音両面でまんべんなくその実力を知らしめてきた、現代を代表する音楽家の一人であり、そうした彼の姿勢は、息子のパーヴォ・ヤルヴィにもしっかり受け継がれていると、僕は思う。

 今回取り上げるシベリウスの管弦楽曲集は、そのネーメ・ヤルヴィが手兵エーテボリ交響楽団とともにドイツ・グラモフォンに録音したシベリウス・アルバムの第1集にあたるもので、おなじみフィンランディアや「カレリア」組曲の他、ルオンノタール、アンダンテ・フェスティヴォ、大洋の女神(波の娘)、「クリスティアン2世」組曲と、有名どころからそうでない作品まで、バランスよく収録されている。
 で、演奏はもう自家薬籠中のものだから…。
 と、書きかけたが、これは録音場所のエーテボリのコンサートホールの残響のよさや、ドイツ・グラモフォンのスタッフの音響づくりもあってかもしれないが、「カレリア」組曲の行進曲風にやフィンランディアでは、角を矯められたというか、角がグラマラスに丸められたようなもやっとした感じがしたことも事実で、それには1990年あたりから、ネーメ・ヤルヴィがアメリカのデトロイト交響楽団のシェフを務めていたことと関係しているのではないかと一瞬思ったりもした。
 逆に、そうした音楽づくり、音質がうまく活かされているのが、ルオンノタールやアンダンテ・フェスティヴォで、特にルオンノタールでは、ソイレ・イソコスキの透明感があってつんとした美しい声も加わって、神秘的な雰囲気がよく伝わってきた。
 また、「クリスティアン2世」組曲も、音楽のツボ、聴かせどころをしっかりと押さえた演奏で、劇場人という一面も含めたシベリウスの個性がよく表れているのではないだろうか。
 上述したような音楽づくり、音質もあって、もしかしたらそこで好みが分かれるかもしれないが、税込み1200円程度までなら、シベリウスの管弦楽曲を過不足なく愉しむという意味では、安心してお薦めすることができる一枚だと思う。

 それにしても、ネーメ・ヤルヴィにはもう一度京都市交響楽団に客演してもらいたいものだなあ。
 彼の指揮するベルワルドとかステンハンマルの交響曲を生で聴いてみたいもの。
posted by figarok492na at 13:36| Comment(0) | TrackBack(0) | CDレビュー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年01月19日

アシュケナージの指揮したフランク

 ☆フランク:交響曲、プシュケ、鬼神

  指揮:ウラディーミル・アシュケナージ
  独奏:ウラディーミル・アシュケナージ(ピアノ。鬼神のみ)
 管弦楽:ベルリン放送交響楽団(現ベルリン・ドイツ交響楽団)

  録音:1988、89年
  <DECCA>425 432-2


 人と人との間に流れというものがあるように、人と音楽、人と楽曲の間にも流れというものがあるのではないか。
 まあ、それは大仰な物言いだとしても、好き嫌いとは関係なしに、付く付かないというか、寄る寄らないというか、巡り合わせのいい悪いで、慣れ親しんだりそうでなかったりする音楽、楽曲が僕にはあるような気がする。
 さしずめ、フランクの交響曲など、その後者の最たる例として挙げることができるだろう。
 と、言っても、先述の如く、好き嫌いからだけいえば、僕はこの交響曲が全く嫌いではない。
 確かに、許光俊や鈴木淳史が『クラシックCD名盤バトル』<洋泉社新書y>で指摘しているような、循環形式のしんねりむっつりと押しつけがましい趣きには若干重たるさを感じるものの、終楽章の「自問自答に無理から解決策を見い出し、狂喜乱舞」のあり様は、内田百間の「蘭陵王入陣曲」の狂いっぷりを愛好する者としては、実に愉しいかぎりだもの。
(だから、これまで接した二度の実演、山田一雄と京都市交響楽団、ハインツ・ヴァルベルクとケルンWDR交響楽団では、断然前者をとる。ヤマカズさんの、笛吹く上に自分も踊るからみんな踊ってくれ式のあらぶりようには、心が強く動いたほどだ。一方、ヴァルベルクのほうは何が面白いんだか。当然オケの力量はWDRに軍配を上げざるをえまいが。まるでワイマル共和国期のライヒスバンク総裁みたいなヴァルベルクのがちがちした音楽づくりはちっとも面白くなかった)
 LP時代など、ヘルベルト・フォン・カラヤンがパリ管弦楽団を指揮した録音と、トマス・ビーチャムがフランス国立放送管弦楽団を指揮した録音を交互にかけて聴き比べに興じたことも一度や二度ではなかったほどだ。
 だが、それがどうしたことか、CD時代になって約25年、この間一度たりとてフランクの交響曲のCDを買ってこなかったというのは魔がさしたというかなんというか。
 それこそ巡り合わせ、僕とフランクの交響曲の間に、ちっとも流れがなかったということになる。
(ひとつには、これはって思える新しい録音がなかったからかもしれない。FMで聴いたジュリーニ、シャイー、デュトワの各録音も僕には今一つだったし。かといって、今さらカラヤン盤を買い直す気にもならないし…)

 今回取り上げるウラディーミル・アシュケナージさん指揮ベルリン放送交響楽団の演奏したCDも、クレモナで中古が半額税込み390円になっていなかったら、たぶん買ってはいなかったんじゃないだろうか。
(付け加えるならば、昨年末に読んだCD関連のムックで、この録音のことが面白おかしく誉められていたことにも、影響されたのかもしれない)
 まあ、演奏はアシュケナージさんらしいというか。
 音楽の流れに沿って力強いところは力強く、美しいところは美しくと、感覚面での反応はそれなりに聴くべきものがあるように思うのだけど、構造の把握という面でどうにも物足りない。
 それと、音の終わりが崩れてしまうというか、どこかしまらない感じがする。
 正直、ムックの評価は高過ぎ…、てか、ひいきのひき倒し?
 その点、音楽のつくりは同じく確固としているにせよ、まだ交響曲という形式にとらわれていない分、プシュケ(合唱つきの5、6章は割愛)、鬼神のほうがあらは見え(聴かれ)ないか。
 鬼神では、ウラディーミル・アシュケナージさんのピアノ独奏を堪能することもできるしね。
 やっぱり、アシュケナージさんはピアニストだ!

 デッカのこの頃の録音のつねで、どうにもがしがしぎしがしとした機械臭い音質が時に耳になじまないということも加味した上で、税込み500円以内ならば興味がおありの方はご一聴のほど。

 それにしても、僕とフランクの交響曲のCDとの関係には、まだまだよい流れというものはなさそうだ。
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2009年01月12日

ブックオフで中古CDを買った

 4日にクレモナで買った4枚のCDのレビューもアップしていないというのに、昨日ブックオフ京都三条駅ビル店で中古CD(いずれも輸入盤)を2枚購入してしまった。

 1:サー・コリン・デイヴィス指揮ザクセン・シュターツカペレ・ドレスデンの演奏した、ベートーヴェンの交響曲第3番「英雄」と「エグモント」序曲<PHILIPS>。
(なお、これは、デイヴィスとザクセン・シュターツカペレ・ドレスデンによるベートーヴェンの交響曲全集発売以前に単売されたCDである)
 2:ヴァーノン・ハンドリー指揮アルスター管弦楽団の演奏した、スタンフォードの交響曲第5番とアイルランド狂詩曲第4番<CHANDOS>。

 1枚500円だから、2枚で1000円という訳で、大出費ということではないが、それこそ塵も積もれば山となる。
 もっと財布のひもをかたく締めておかないと…。
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2009年01月08日

思い出せないもどかしさ

 アリ・ラシライネン指揮ノルウェー放送管弦楽団の演奏した、セヴェルーの「ペール・ギュント」組曲のCDを聴きながら、魚の小骨が喉に刺さったような、なんとも言えないもどかしさを覚えている。
 セヴェルーの「ペール・ギュント」組曲は、もちろんグリーグ同様、イプセンの戯曲のために作曲された音楽の中から、いわゆるおいしい部分を取り出してまとめたものだが、祖国の先達グリーグの直球剛速球勝負を踏まえてのことだろう、セヴェルーはこれを曲球変化球を多用した一筋縄ではいかない作品に仕上げている。
 で、ラ・マルセイエーズやアルプス一万尺といった、おなじみの旋律がところどころ確信犯的に引用されているのだけれど、ある作曲家の有名な旋律(音型)がその中にあって、前々からよく知っているのに、それが誰のなんという曲だったか、ぱぱっと思い出せない。
 思い出せば、なあんだあれだったかということになるし、とっかかりは頭の中にうごめいているのだが。
 ああ、くやしいくやしいもどかしい。
 ほんと、なんだったかなあ。


 *追記
 やっと思い出せた、ワーグナーのワルキューレの騎行だったんだ!
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2009年01月04日

クレモナで中古CDを買った

 この20日に閉店するクレモナで、今日からセールが始まるというので、思わず足を運んだ。
 クレモナは、新京極通を四条側から入ってすぐ、有名なロンドン焼き屋の横の小さな通りにある中古レコード店で、京都の音楽愛好家から長く親しまれてきたお店だが、ご主人の年齢のことなどもあり、今回閉店することになったのだという。
 今日は、正月休みの最終日ということもあって、店内はお客さんで混み合っていた。

 で、今日僕が購入した中古CDは、以下の4枚。
 1:アンドレ・プレヴィン指揮ロイヤル・フィルの演奏した、エルガーの交響曲第1番<PHILIPS>。
 2:ウラディーミル・アシュケナージさん*指揮ベルリン放送交響楽団の演奏した、フランクの交響曲他<DECCA>。
 3:ネーメ・ヤルヴィ指揮エーテボリ交響楽団他の演奏した、シベリウスの管弦楽曲集(「カレリア」組曲やフィンランディアなど)<DG>。
 4:アリ・ラシライネン指揮ノルウェー放送管弦楽団の演奏した、グリーグとセヴェルーの「ペール・ギュント」組曲集<FINLANDIA>。
 なお、全て輸入盤だが、プレヴィンのエルガーには、国内盤使用の帯とブックレットが付いている。

 それにしても、以前ちょっとしたトラブルがあったこともあったりして、かえって、晩年の村松克己をもっと人懐こくしたようなご主人のこのお店がなくなるのはさみしい。
 仕方がないこととはわかっていても。
 閉店までの間、あと何度か足を運んでみようと思う。


 *アシュケナージさんは、以前ザ・シンフォニーホールでの来日リサイタルのあとに挨拶をさせてもらったことがあるので、「挨拶をしたことがあったり、面識のある人は、基本的にフルネームでも敬称をつける」というここでの表記法に従って、ウラディーミル・アシュケナージさんと表記した。
posted by figarok492na at 19:21| Comment(0) | TrackBack(0) | CDレビュー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年12月28日

ヴェーグのモーツァルト

 ☆モーツァルト:カッサシオン第1番、第2番、アダージョとフーガ

  シャーンドル・ヴェーグ指揮カメラータ・アカデミカ・デス・モーツァルテウムス・ザルツブルク

  1987年5月、デジタル録音
  <CAPRICCIO>10 192


 シャーンドル・ヴェーグとカメラータ・ザルツブルク(正式に言うと、当時はカメラータ・アカデミカ・デス・モーツァルテウムス・ザルツブルク。以下、CAMSと略記する)の実演には、1993年夏から1994年冬にかけてのケルン滞在中に一度だけ接したことがある。
 確か、今回取り上げるCDにも入っているモーツァルトのカッサシオンや、ハイドンの交響曲第102番がプログラムに組まれていたのではなかったか。
 高齢にも関わらず、ヴェーグ翁が若々しく闊達な音楽づくりを行っていたことを記憶している。
 と、言うのは、あくまでも「公式見解」で、期待が大きかった分、若手中心のオーケストラのアンサンブルの粗さに、なんだかがっくりしてしまったというのが僕のその時の正直な感想だ。
(今にして思えば、とても大切なものを聴き落していたということなのだけれど、だからと言って僕は、当時の自分自身のそうした受け止め方を否定し切るつもりはない)

 今回取り上げるCDは、シャーンドル・ヴェーグとCAMSが残した一連のモーツァルトの管弦楽曲の録音中の一枚で、あまり演奏される機会のない、カッサシオン第1番と第2番に加え、弦楽合奏によるアダージョとフーガハ短調が収められている。
 一昨日昨日とアップしたピリオド奏法を援用した演奏や、ピリオド楽器を用いた演奏と異なり、ヴェーグとCAMSの演奏は、いわゆるオーソドックスな流れを汲むものである。
 そのため、ピリオド・スタイルのモーツァルトに慣れ親しんだ聴き手からすると、若干刺激に欠ける演奏と聴こえる場合もあるかもしれない。
 と、言っても、それはあくまでもピリオド・スタイルと比較すればの話で、音楽の持つ芯の強さのようなものは、流麗で明快な演奏の中にも、はっきりと示されているように僕は思う。
 中でも、アダージョとフーガの後半、音楽が畳みかけてくるような部分には、ヴェーグとCAMSの特性がよく表れているのではないだろうか。
(これには、ヴェーグが名うての弦楽器奏者だったということも影響しているかもしれない)

 実演で感じたアンサンブルの弱さはこのCDにおいても聴き受けられないことはないが、税込み1000円程度までなら、ピリオド・スタイル好みの人以外には問題なくお薦めできるCDだ。
 なお、ヴェーグとCAMSのモーツァルト録音は、現在組み物として申し訳ないくらいの廉価で販売されているけれど、カプリッチョ・レーベル(の親会社のデルタ・ミュージック?)が潰れてしまったため、いつまで入手が可能かはさだかではない。
 興味がお有りの方は、HMVやタワーのホームページなどでお調べいただければと考える。
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2008年12月27日

バセットホルン・ボンボン

 ☆モーツァルト/バセットホルン・ボンボン

  演奏:シュタードラー・トリオ
  録音:1988年6月

  <PHILIPS>446 106-2


 三者三様、千差万別、十人十色、朱に交われば赤くなり。
 って、最後のだけは違ったか。
 この世に同じ人間が二人といないように、ピリオド楽器による演奏も、ピリオド奏法を援用したモダン楽器による演奏も、演奏者並びに作品が変わればその内容は大きく異なったものとなる。
 さしずめ、前回取り上げたニコラウス・アーノンクール指揮アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団によるハイドンの二つの交響曲がシンフォニックな拡がりを持った外向的な音楽であり演奏であるとすれば、今回取り上げるシュタードラー・トリオを中心としたこのアルバムは、インティメートな雰囲気が濃密な内向きの音楽であり演奏と評することができるのではないか。
(もちろん、ここでいう内向きとは、いわゆる「内向的」といったマイナスのイメージが伴うものではない。あくまでも、音楽の本質の違いを言い表したかっただけだ)
 モーツァルトの、バセットホルン(相当単純化して説明すると、クラリネットの仲間)やクラリネットによるトリオのための小品に加え、そのトリオを伴奏とした三重唱曲を収めたこのCDは、まさしく作曲家とその仲間たちが味わっただろう愉しさや親密さに満ちあふれていて、こちらも聴くたびに本当にほっこりとした気分になってくる。
 もちろんそれには、ピリオド楽器の腕扱き奏者エリック・ヘープリチをはじめとした、18世紀オーケストラメンバーによるシュタードラー・トリオ(このアルバムに収録された作品の成立にも関係した、モーツァルトの友人の名が冠されている)の力まず激さずばたつかない、柔らかくて暖かい演奏も大きくものを言っていることは、改めて言うまでもあるまい。
 加えて、カミユ・ヴァン・ルネン(ソプラノ)、マイラ・クレーゼ(アルト)、ペーター・ダイクストラ(バス)の三人も、澄んだ歌声とバランスのよい歌唱で、作品やシュタードラー・トリオの演奏ととてもぴったりだと思う。
 これまた中古で税込み500円で手に入れたCDだが、税込み1200円程度までなら安心してお薦めできる一枚。
 特に、モーツァルト・ファンには大推薦だ。
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2008年12月26日

アーノンクールの太鼓連打とロンドン

 ☆ハイドン:交響曲第103番「太鼓連打」、交響曲第104番「ロンドン」

  指揮:ニコラウス・アーノンクール
 管弦楽:アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団
  録音:1987年6月

  <TELDEC>8.43752(243 526-2)


 前年に京都賞を受賞し、2006年秋には手兵コンツェントゥス・ムジクス・ウィーン、並びにウィーン・フィルとの来日公演を成功させたニコラウス・アーノンクールは、現在世界を代表する指揮者の一人であり、音楽家の一人である。
 そして、彼もその一翼を担ったピリオド楽器による演奏やピリオド奏法を援用したモダン楽器による演奏は、完全とは言えないまでも、今やバロック、古典派、さらには初期ロマン派の作品を再現する際に避けては通れないものとなっている。

 だが、約30年ほど前、というから、ちょうど僕がクラシック音楽を熱心に聴き始めた頃のことになるが、ニコラウス・アーノンクールがそれまでのバロック音楽に留まらず、モーツァルトやハイドンといった古典派の音楽を演奏しだした時の拒否反応というものは、今では想像のつかない激しいものだった。
 確かNHK・FMで放送された、ウィーン国立歌劇場における『魔法の笛』のライヴ録音には、生々しいブーイングの声も収録されていたはずだし、コンツェントゥス・ムジクス・ウィーンとのモーツァルトのレクイエムを初めて耳にした時は、僕もそのガット弦の針金をこすり合わせたような音色やアーノンクールの強烈な音楽解釈には大きなショックと違和感を覚えたものだ。

 今回ここで取り上げる、アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団との、ハイドンの交響曲第103番「太鼓連打」と第104番「ロンドン」のCDも、ニコラウス・アーノンクールへの評価が未だ賛否相半ばしていた時期、1987年6月に録音されたものである。
(ちなみに、創立100周年を記念してコンセルトヘボウ管弦楽団にロイヤルの名が冠されるのは、翌年1988年で、だからこのCDでの表記は旧名のままだ)
 で、以下は上述した事どもを踏まえての感想なのだけれど、この録音から20年を経過した2008年現在においては、この両曲の演奏が奇異に感じられることは、まずもってない。
 少なくとも、僕にはない。
 確かに、アーノンクールの音楽づくり(強弱の付け方、アクセントの置き方等々)は独特なもので、例えば、ブルーノ・ワルターやトマス・ビーチャム、ピエール・モントゥーたちのハイドン演奏ばかりを耳にしている人ならば、必ず「えっ?!」と顔面を強張らせることは間違いないとは思うのだけれど。
 でも、よい意味で(もしかしたら、悪い意味でも?)、僕はピリオド楽器による演奏やピリオド奏法の洗礼を受け過ぎてきたのだ。
 ただ、その分、この二つの交響曲の持つ音楽的な拡がり(そこには、それまでのヨハン・クリスティアン・バッハやアーベルの交響曲との違いも含める)や音楽的仕掛けの在り処がよくわかるし、一つにはレーベル側の営業的な計算もあったのかもしれないが、ハイドンの後期交響曲=いわゆるザロモン・セットを録音するにあたって何ゆえアーノンクールがコンセルトヘボウ管弦楽団を選んだのかもよくわかる。
(この頃のコンセルトヘボウ管弦楽団って、見事なオーケストラだなあ。聴いていて、本当にそう思う)

 いずれにしても、「太鼓連打」冒頭のティンパニ連打をはじめ、アーノンクールの音楽的個性によく添ったテルデックの録音ともども、実に聴き応えのある一枚と言える。
 僕は初出時のCDを、中古で税込み500円で手に入れたが、これは税込み1500円程度までなら安心してお薦めできる一枚だ。
 太鼓連打とロンドンのファーストチョイスとしても大推薦である。
posted by figarok492na at 12:45| Comment(0) | TrackBack(0) | CDレビュー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年12月21日

コチシュの弾くリスト、ドホナーニ

 ☆リスト:ピアノ協奏曲集

  リスト:ピアノ協奏曲第1番、第2番
ドホナーニ:童謡の主題による変奏曲

   独奏:ゾルタン・コチシュ(ピアノ)
   指揮:イヴァン・フィッシャー
  管弦楽:ブダペスト祝祭管弦楽団
  <PH>422 380-2


 ここだけの話、ロマン派期の協奏曲ってあんまりCDで聴く気にはなれない。
 なぜなら、もともと天才鬼才、いわゆるヴィルトゥオーゾたちのために書かれたものだけに、耳だけじゃなくて目でも愉しむ要素の強い作品がほとんどだし、それより何より、ダーンダーンダダダダとか、チャンスカチャラチャラバカスカジャンといった第1楽章や終楽章のこけおどし的なオーケストレーションを部屋で一人、スピーカーを前にして聴いていると、「いったい自分は何をやってるんだろう」とどうにも醒めた気持ちになってしまうもの。
(そうしたこけおどしが、劇的効果を狙った聴衆の耳目をひくための景気づけとわかっているからこそなおさら)
 だから、LP時代から現在にいたるまで、今回取り上げるリストのピアノ協奏曲などついぞ手元に置いたことがなかった。
(付け加えるならば、パガニーニやドヴォルザークのヴァイオリン協奏曲、ラロのスペイン交響曲のCDも持っていない。いずれも、冒頭部分の大仰さが「室内」向きではないと思ってのことだ)

 それがどうして、今頃になってリストのピアノ協奏曲のCDを購入したかというと、中古とはいえ、このアルバムが500円になっていたからであり、ドホナーニ(指揮者クリストフ・フォン・ドホナーニの祖父)の珍しい作品がカップリングされていたからである。
 で、実際、このCDの聴きものは、ドホナーニのほうなんじゃないかと僕は思う。
 少なくとも、僕が一番感心したのはドホナーニの童謡の主題による変奏曲だ。
 ドホナーニのこの作品は、「ああ、ママに言うわ」、と言うより、キラキラ星の名でおなじみのあの旋律を主題にしたピアノと管弦楽のための変奏曲なのだけれど、大仰極まりない冒頭部分からして、批判精神とユーモア精神に満ちあふれた実に聴き応えのある音楽となっている。
 自らピアニストとして活躍していたこともあって、ピアノ・ソロのつくりは当然しっかりしているし、後期ロマン派の骨法をよく身につけたオーケストレーションだって愉しいかぎりだ。
 確かに大名曲とは言い難いかもしれないけれど、もっとコンサートで演奏されてもいいのではないかとすら思うほどである。
 コチシュのソロは、技術的にも精神的にも過不足のないもので、この作品を識るという意味では、全くもって問題がない。

 一方、リストのピアノ協奏曲においても、コチシュの特性美質は十二分に発揮されている。
 透徹した抒情性とでも評するべきだろうか、リストのコンチェルトの持つリリカルな側面を的確に表しながら、それが変にべとつくことがない。
 また、テクニックやパワーの面でも作品と互角に渡り合い、位負けしていない。
 コチシュのソロ、だけを取り出せば、見事の一語と言うべきだろう。
 問題なのは、イヴァン・フィッシャーとブダペスト祝祭管弦楽団の伴奏である。
 カエサルのものはカエサルに、じゃない、マジャールのものはマジャールに、という考え方自体はもちろん悪くなくて、僕自身、あらぶるフン族魂大噴火式のフォルテ部分は面白くって仕方がなかったのだが、繰り返し聴くというCD本来の目的からいうと、少々以上に粗さが目立つ。
 加えて、第1番の冒頭部分がそうであるように、テンポ感がよくないというか、どこかしまりのない感じもつきまとう。
 正直、そうした点が、このアルバム自体の評価を大きく分ける原因ともなっているのではないか。

 とはいえ、ドホナーニを聴くためだけでも買って損のないCDだとも、僕は考える。
 税込み800円以下なら「買い」の一枚だろう。


 なお、ドホナーニの童謡の主題による変奏曲は、マティアス・バーメルト指揮BBCフィル他による録音がシャンドス・レーベルからリリースされている。
 また、ドホナーニには、「わらの中の七面鳥」の旋律が効果的に使用されたアメリカ狂詩曲というオーケストラのための作品があって、こちらはバーメルト指揮BBCフィルの録音(交響曲第1番とのカップリング)のほか、アラン・フランシス指揮フランクフルト放送交響楽団の録音(ヴァイオリン協奏曲第1番とのカップリング。CPOレーベル)もある。
 興味がおありの方は、ご一聴のほど。
(できれば、童謡の主題による変奏曲やアメリカ狂詩曲は、交響曲第1番を録音しているレオン・ボッツタインとロンドン交響楽団による演奏のリリースをテラーク・レーベルに期待したいところなのだが、無理かなやっぱり。そういえば、ボッツタインと北ドイツ放送交響楽団の演奏したブルーノ・ワルターの交響曲がCPOレーベルから出る予定だが、ボッツタインとテラーク・レーベルの契約は切れてしまったのか?)
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2008年11月29日

オルフェウス室内管弦楽団のモーツァルトの協奏交響曲

 ☆モーツァルト:協奏交響曲K.364、K.297b

  トッド・フィリップス(ヴァイオリン)
  モーリーン・ギャラガー(ヴィオラ)
  スティーヴン・テイラー(オーボエ)
  デイヴィッド・シンガー(クラリネット)
  ウィリアム・パーヴィス(ホルン)
  スティーヴン・ディブナー(ファゴット)

  オルフェウス室内管弦楽団

  1989年12月、デジタル録音
  <DG/ドイツ・グラモフォン>429 784-2


 オルフェウス室内管弦楽団といえば、指揮者を置かない自発的・民主的なオーケストラという売りで、ちょうど僕がクラシック音楽を熱心に聴き始めた頃、というから、今から25年ほど前に鮮烈なデビューを果たしたアメリカのアンサンブルだが、今回はそのオルフェウス室内管弦楽団の面々によるモーツァルトの二つの協奏交響曲のCDを取り上げる。

 で、この二つの作品の詳細については、それこそ、例えば『モーツァルト名盤大全』<音楽之友社>のような専門書・入門書にあたっていただきたいと思うのだけれど、簡単にいえば、協奏曲的なソロの妙技と、交響楽的なアンサンブルの妙味を同時に味わうことのできる一粒で二度美味しいつくりのジャンルの作品である。

 まず、ヴァイオリンとヴィオラの独奏によるK364の協奏交響曲は、独奏者二人の折り目が正しく清新なソロや、オーボエ・ホルンの活躍には好感が持てるものの、オルフェウス室内管弦楽団の特性と大きな構えの音楽づくりにどうしてもずれを感じてしまったことも事実で、この作品の最高の名演の一つとは、残念ながら僕には言い切れない。
 ただし、こうやってCDで繰り返し聴くのにはぴったりの演奏であると思ったこともはっきりと明記しておきたい。

 一方、未だに偽作の疑いが濃厚な管楽器のための協奏交響曲K297bは、古くはマリナー盤、今ではハーゼルベック盤と、ロバート・レヴィンの補筆版を聴き続けてきたこともあって、本来の版を聴くと、毎回座りの悪さを感じてきたのだが、驚くことにこのオルフェウス室内管弦楽団のCDだとそうした違和感を全く持たずに全曲聴き終えることができた。
 当然、それにソリストたちの優れた演奏が大きく関係していることは言うまでもないことだろうけれど、それより何より、アンサンブルとしてのバランスが見事にとれているという点を僕は強調したい。
 そして、この演奏が、まさしく協奏交響曲の真骨頂を示す演奏であり、なおかつオルフェウス室内管弦楽団の本質をよく表した演奏になっているとも、僕は強く思う。
(この作品のモダン楽器による録音としては、第一にお薦めしたいとすら言い切りたいほどだ)

 それにしても、これだけ愉しめるCDを、いくら中古CDとはいえ僅か452円で手に入れることができるとは。
 しかも目立った傷のない、美質な盤だというのだから、これこそ本当に有り難い話だと痛感した次第。
posted by figarok492na at 14:14| Comment(0) | TrackBack(0) | CDレビュー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年11月19日

ムストネンの弾くシベリウスのピアノ作品集

 ☆シベリウス:ピアノ作品集

  オリ・ムストネン(ピアノ)
  2002年7月、デジタル録音
  <ONDINE>ODE1014-2


 デッカやRCAといったメジャー・レーベルとの契約が切れて、一時ほどの大がかりなCDリリースはなくなったオリ・ムストネンだが、世界的なコンサート活動や母国フィンランドのオンディーヌ・レーベルへの録音、さらには指揮者へのかかんな挑戦と、現在でも広範囲な活躍は続いている。
 先述したオンディーヌ・レーベルからリリースされた、このシベリウスのピアノ作品集も、そうしたオリ・ムストネンの好調ぶりが十二分に発揮された一枚と言えるだろう。
 シベリウスというと、どうしても交響曲を中心としたオーケストラ作品(その中には、当然ヴァイオリン協奏曲も含まれる)に関心がいきがちで、実際それに見合うだけの力作傑作ぞろいなのだけれど、こうやってピアノ作品をじっくり聴いてみると、確かに大向こうをうならせるような派手さには欠けるものの、なかなかどうして、知らないまま聴かないままでいるには惜しい魅力的な音楽世界は築き上げられている。
 このアルバムには、10の小品や13の小品、ロンディーノ、バガテル集などが収めらているが、その多くが抒情性と透明感にあふれる美しいメロディと極端に走らないほどよい実験性、前衛性との調和がうまくとれた音楽に仕上がっていて、実に聴き心地がよい。
 もちろんそこには、ムストネンのドライ過ぎずウェット過ぎず、高い技術力を持ちながらテクニック偏重に陥らない、なおかつ一つ一つの作品に対するテキストの読み込みの深い演奏が大きく貢献してるだろうことは、言うまでもないことだろうけれど。
 作品やムストネンの音楽性によく添ったオンディーヌ・レーベルのクリアな録音も含めて、大いに満足のできる出来上がりで、特にこれから晩冬までの静かな夜、一人ゆっくり耳を傾けるのには最適なアルバムではないか。
 ムストネンの熱狂的なファンやシベリウス・フリーク、北欧音楽好きピアノ音楽好きにとどまらず、その他クラシック音楽好きにも強くお薦めしたい。
 大推薦。
posted by figarok492na at 12:50| Comment(0) | TrackBack(0) | CDレビュー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年10月26日

東京カルテットの「死と乙女」

 ☆シューベルト:弦楽4重奏曲第14番「死と乙女」&第4番

  東京カルテット
  1989年、デジタル録音
  <RCA>7990-2-RC


 桐朋学園出身でジュリアード音楽院に留学中の日本人4人によって結成された東京カルテットだが、その結成当初のメンバーによる清新な演奏や現在の落ち着いた雰囲気の漂う演奏にも増して、第1ヴァイオリン奏者をピーター・ウンジャンがつとめた1980年代から1990年代、RCA=BMGに数々の録音を重ねていた頃の演奏が、僕には強く印象に残る。
 このシューベルトの弦楽4重奏曲第14番「死と乙女」と第4番がカップリングされたCDも、そうしたウンジャン時代に録音された一枚である。
(なお、シューベルトの弦楽4重奏曲では他に、第9番と第13番「ロザムンデ」、第15番の2枚がリリースされていた)

 第2楽章に歌曲『死と乙女』の音型を用いた変奏曲が置かれていることでも知られる弦楽4重奏曲第14番は、激しい感情表現に貫かれた密度の濃い作品で、シューベルトの晩年を代表する一曲と言ってもまず過言ではないだろう。
 東京カルテットは、強い集中力とバランスのよくとれた緊密なアンサンブルで、そうした作品の持つドラマティックな側面を巧みに浮き彫りにしている。
 また、作品の持つ幅の拡がりというか、交響楽的な拡がりもよく表しているのではないか。
 特に、ベートーヴェンの弦楽4重奏曲第11番「セリオーソ」からの影響が強く感じられる第1楽章では、東京カルテットの音楽づくりの魅力が十二分に発揮されているように思う。
 一方、第4番の弦楽4重奏曲でも、東京カルテットの音楽的な方向性は首尾一貫していて、演奏によっては弛緩しきってしまう可能性の高い難所も隙を感じさせない演奏で見事にクリアしている。
(その分、いわゆる歌謡性には若干欠けるかもしれないが、シューベルトの音楽の持つ一つの側面を明らかにするという意味でも、アルバム全体の統一という意味でも、東京カルテットのこの録音は高く評価に値すると僕は考える)

 東京カルテットの演奏によく添ったRCAドライで解像度の高い録音も含めて、繰り返し聴けば聴くほど愉しさを満喫できる一枚。
 いくら中古とはいえ、税込み630円は安すぎる!
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2008年10月14日

amoureuses  パトリシア・プティボンが愛を叫ぶ!

 ☆『amoureuses(恋人たち)』
  ハイドン、モーツァルト、グルックのアリア集

   独唱:パトリシア・プティボン(ソプラノ)
   指揮:ダニエル・ハーディング
  管弦楽:コンチェルト・ケルン
   録音:2008年/デジタル

  <DG/ドイツ・グラモフォン>477 7468


 4月の来日公演の記憶が未だ鮮明なパトリシア・プティボンの新しいアルバム、『amoureuses』を聴いてみた。
 恋人たちというタイトル通り、ハイドンの『月の世界』、『薬剤師』、『アルミーダ』、『哲学者の魂、オルフェオとエウリディーチェ』、『無人島』、モーツァルトの『魔法の笛』、『フィガロの結婚』、『ルーチョ・シッラ』、『ツァイーデ』、グルックの『アルミーダ』、『タウリスのイフィゲニア』から、人の恋し愛する心を歌ったアリアを集めたアルバムだが、そこはそれ、かわいさ余って憎さ百倍! じゃない、愛憎相半ばする激しい感情を伴った歌もしっかりと収められている。
(まあ、夜の女王のアリア、復讐するは我にあり、じゃない「復讐の心は地獄のように胸に燃え」は、喉見世的意味合いも小さくないだろうけど)

 で、ここでもプティボンは、これまでに発売されてきたフランス・バロック期のアリア集<Virgin>や『フレンチ・タッチ』<DECCA>同様に、感情表現豊かでテキストの読み込みの鋭い歌唱を披瀝している。
 来日公演でも歌われた『フィガロの結婚』のバルバリーナとスザンナのアリア[トラック4と5](スザンナのアリアはレチタティーヴォが省かれていて、一続きの歌のように扱われている)での愛らしさと優しさ、トルコ趣味満開の『薬剤師』のアリア[トラック8]でのユーモラスさとコケティッシュさ、『ツァイーデ』のアリア[トラック15]でのプティボンお得意の台詞調雌叫び(Tiger! タイガー!)、そしてグルックの一連のアリアでの激烈さ、と挙げ出せば切りがないほど聴きどころたっぷりな一枚だ。
 加えて、『月の世界』の華やかなアリア[トラック1]で幕を開け、途中いろいろな波があって − 例えば、『無人島』のアリア[トラック12]のような甘やかな歌を挟んで − 、最後、グルックの『アルミーダ』のアリア[トラック16]で大団円を迎えるアルバムの構成は、音楽的にも一つの「ドラマ」という意味でも巧みにたくまれたものだと思う。

 ただ、こうやって「録音」という形でプティボンの歌唱に接すると、彼女の声の変化・変質にどうしても気づかざるをえなかったことや、彼女のテキストへの対し方へ若干違和感を抱いてしまったことも事実である。
(僕自身、独仏伊語に関し堪能ではないこともあって、テキストと歌の関係について詳しく指摘することはできない*。だからこの場合の違和感とは、「こうやって自分の部屋で聴く時に、彼女の歌が感情過多に感じられた」程度に受け取っておいてもらいたい)
 また、これは「音の缶詰」ゆえの制約とはいえ、モーツァルトの代用アリア「汝らに解き明かさん、おお神よ」[トラック2]の後半で、明らかに録音のつぎはぎと思われる箇所があったことも付記しておきたい。

 ダニエル・ハーディング指揮する、ドイツの腕こきピリオド楽器オーケストラ、コンチェルト・ケルンはクリアでドラマティック、プティボンの歌唱にぴったりの伴奏を行っているのではないか。
 ハーディングの個性もあってだろうけれど、緩やかな部分よりもテンポが速く激しく演奏される部分のほうに、一層真価が発揮されていたように僕には感じられた。
 特に、アルバム−ドラマを締めくくるラストのオーケストラのみの強奏は、強く印象に残る。

 いずれにしても、聴き返せば聴き返すほど面白く、心を動かされるアルバムであることに間違いはない。
 プティボンファンのみならず、歌好きオペラ好き古典派好きにも大いにお薦めしたい一枚だ。

 でもね、プティボンは生(ライヴ)でしょうやっぱり。
 今度は、ハーディング&コンチェルト・ケルンといっしょに来日しないものか!


 *当然のことながら、これは西洋の声楽作品(テキスト)とその歌唱(演技)を評する際に無視してはならないものだと思う。
 少なくとも、僕ら自身のものではない対象を語る際には蔑ろにしてはならない部分のはずだ。
 そして、テキストをよく読み込めていないものがこうやってそれを語ることの如何わしさを痛感したりもする。
 またその関わりで、「正しい」歌唱とは何かや、声そのものの魅力と「技術」の問題、さらには日本語を母語とする人間による西洋の声楽作品の歌唱など記したいことはあれこれとあるのだが、残念ながらここでは省略する。
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2008年10月09日

スメタナの管弦楽小品集

 ☆スメタナ:管弦楽小品集
  ロベルト・スタンコフスキ指揮ブラティスラヴァ放送交響楽団
  1994年、デジタル録音
  <MARCO POLO>8.223705


 今僕の手元に二枚のCDがある。
 一枚は、先日ブックオフで購入したロベルト・スタンコフスキ指揮ブラティスラヴァ放送交響楽団の演奏によるスメタナの管弦楽小品集で、もう一枚は、クリストフ・フォン・ドホナーニ指揮クリーヴランド管弦楽団の演奏による同じくスメタナの、こちらは管弦楽名曲集<DECCA 444 867-2>だ。

 で、この二枚のCDを聴き比べてまず感じたことは、やはり名曲には名曲と呼ばれるだけの理由がある、ということだった。
 もちろん、だからと言って、スタンコフスキのCDに収録された作品に全く音楽的な魅力がないと言いたい訳では毛頭ない。
 幻想的で抒情的な美しさ(特に、トラック8の『漁夫』にその美質がよく表れている)や、牧歌的で懐古的な親しみやすさに満ちた旋律をそこここに聴くことができるし、勇壮で躍動感にあふれたのりのよい音型もしっかりたっぷりと含まれている。
 まさしく、この管弦楽小品集は、スメタナの音楽の持つ魅力の源泉を識るための恰好な教材とさえ言うことができるだろう。

 しかしながら、ドホナーニのCDに収められた同じ作曲家によるおなじみ『モルダウ』や『売られた花嫁』の序曲などと並べてしまうと、小品集に収録にされた作品の音楽的な弱さに気がつかざるをえないこともまた事実なのである。
 例えば、スタンコフスキ盤のトラック7の荘厳なる序曲ハ長調とドホナーニ盤のトラック2の『リブシェ』序曲と比較してみよう。
 金管楽器のファンファーレが全体を支配するという点で、両者の音楽的構造には通じるものがある。
 けれど、結果として生み出される音楽には、どうしても「推敲前推敲後」以上の開きを、僕は感じてしまった。
 つまり、『リブシェ』の序曲があるべきものがあるべき場所に納まっているという出来上がりなのに対し、荘厳なる序曲のほうは力で押して押して押してみたけれど押してみただけといった造りの弱さと粗さが耳につくのである。
(あるべきものがあるべき場所に納まっている、という感じは、上述した『モルダウ』や『売られた花嫁』の序曲にも共通している。対して、小品集に収められた作品にはえてして、くどさというか、まとまりの悪さを感じたものが少なくない)

 ただ、ここまで両者の差を大きく感じた原因の一端に、ドホナーニとスタンコフスキの音楽づくり、と言うより、クリーヴランド管弦楽団とブラティスラヴァ放送交響楽団というオーケストラの力量の差が存在することも挙げておかなければなるまい。
 一方のクリーヴランド管弦楽団は、アメリカを代表する名門中の名門オーケストラの一つであり、多少の変化はありつつも、ジョージ・セルの頃から機能性の高さとアンサンブルのよさで知られた集団である。
 他方、ブラティスラヴァ放送交響楽団といえば、個人的にはその素朴な音色は好みであるのだけれど、残念ながら機能面に関しては、クリーヴランド管に太刀打ちできるものではない。
(実際、小品集においても、小さいけれど、しかし明らかな傷がブラティスラヴァ放送交響楽団の演奏には聴き受けられる)
 少なくとも、こうしたクリーヴランド管弦楽団の引き締まった演奏とブラティスラヴァ放送交響楽団の緩めの演奏の印象の差が、作品に対する判断の差につながっていないと断言することは僕にはどうしてもできないのだ。

 と、こういう風に綴ってしまうと、結局お前はメジャー・レーベルのメジャーな演奏者によるメジャーな音楽万歳で、マイナー・レーベルのマイナーな演奏者によるマイナーな音楽はだめだめだと思ってるんじゃないかと決め込む人もいそうだが、現実というものはそんなに単純なものではない。
 確かに僕は、小品集に収められた諸作品よりも、『モルダウ』や『売られた花嫁』序曲のほうがよくできた音楽であり作品であると、そちらのほうに軍配を上げる。
 それだけじゃなくて、『モルダウ』や『売られた花嫁』序曲が僕は大好きだ。
 だけど、僕は小品集の音楽に耳を塞いでしまうつもりにもなれない。
 それどころか、繰り返し聴けば聴くほど、この小品集というCDに心ひかれてさえいるのだ。
(一つには、デッカ・レーベルのどこか作り物めいた録音より、小品集の自然な音響のほうがしっくりくるということも関係しているのかもしれないが)

 正直、フルプライス(2000円程度)ではお薦めしにくいが、中古やセール品で800円以内ならお薦めできる一枚だ。
(てか、早くナクソス・レーベルに移行されればいいのに!)
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2008年10月08日

英国軽音楽小品集

 ☆ミニアチュアズ(ブリティッシュ・ライト・ミュージック)
  アーネスト・トムリンソン指揮RTEコンサートオーケストラ
  1993年、デジタル録音
  <MALCO POLO>8.223522


 人からあたえられたものほど教条主義に陥りやすいというか、二昔三昔前のクラシック音楽ファンにもそのきらいが濃厚で、特に熱狂的な交響管弦楽愛好家など「交響曲にあらずんば管弦楽曲にあらず」的なのりすら感じたほどだった。
 それは言い過ぎとしても、例えば愛好家仲間のうちで「ぼかブルックナーのシンフォニーなんかより、ケテルビーの『ペルシャの市場にて』のほうが大好きだなあ」なんて言葉は口が裂けても言えなかったのではないだろうか。
 もちろん、本場ヨーロッパとて、オーケストラ音楽のメインストリームは交響曲という考え方はゆるぎないものだろうし、どのジャンルを誰が好むかという「クラス」の問題も厳然と存在するだろうけれど、それでもライト・ミュージック(軽音楽)の占める位置は、この日本という社会に比べればもっとずっと大きいものであるような気がする。
 少なくとも、シンフォニーオーケストラのポップス・コンサートから公園などでの小編成のバンドの演奏にいたるまで、僕らの想像以上にライト・ミュージックは欧米の「市民生活」と密接に関係を持ってきたし、今も持ち続けていると僕は思う。
 特に、ラジオ=放送媒体との兼ね合いもあってだろうが、イギリスにおけるライト・ミュージックの人気、というか人口への膾炙具合は著しいものがあって、マニアックなファンを対象とした側面もあるとはいえ、ハイペリオンやワーナー・ミュージック(UK)といった各レーベルが自国のライト・ミュージックを集めたCDをリリースしている。
 中でも、マルコポーロ・レーベルはイギリスのライト・ミュージックの録音に熱心で、個々の作曲家を特集したアルバムをも多数発売しているほどだ。
 今回とり上げる『ミニアチュアズ(小品集)』は、そうしたマルコポーロ・レーベルのシリーズばかりか、イギリスのライト・ミュージックそのものの恰好の入門篇ということになるのではないか。
 なぜなら、自らライト・ミュージックの優れた造り手でもある指揮のトムリンソン編曲によるアーンのガヴォットを含む全18曲を聴けば、イギリスのライト・ミュージックの傾向とともに、その耳なじみのよさ、愉しさなども充分に識ることができるはずだからである。
 残念ながら、アンソニー・コリンズの『ヴァニティ・フェア(虚栄の市)』やヴィヴァン・エリスの『コロネーション・スコット』、アーサー・ベンジャミンの『ジャマイカ・ルンバ』、エドワード・ホワイトの『パフィン・ビリー』を競合盤のバリー・ワーズワース指揮ロイヤル・フィルの録音<WERNER 2564 61438-2>と比較すると、オーケストラの技量という点でも、演奏のクリアさという点でも、このトムリンソンのCDは若干聴き劣りはするものの、それでも各々の作品の音楽のツボはよく押さえられているとも感じた。
(もしかしたら、このトムリンソン盤の肩ひじの張らない感じのほうが、ライト・ミュージックの本来の親しまれ方には添っているのかもしれない)
 教条主義的な愛好家相手じゃなくても、フルプライス(2000円程度)でまではお薦めしにくいが、中古やセール品で税込み500円ぐらいまでで手に入るのであれば、興味がお在りの方はぜひ。
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2008年10月03日

ショルティの『フィガロの結婚』ハイライト

 ☆モーツァルト:歌劇『フィガロの結婚』ハイライト

    伯爵夫人:キリ・テ・カナワ(ソプラノ)
    スザンナ:ルチア・ポップ(ソプラノ)
   ケルビーノ:フレデリカ・フォン・シュターデ(メゾ・ソプラノ)
    フィガロ:サミュエル・レイミー(バリトン)
      伯爵:トーマス・アレン(バリトン)
    バルトロ:クルト・モル(バス)

     管弦楽:ロンドン・フィル
      指揮:ゲオルク・ショルティ

      録音:1981年、デジタル
   <DECCA>417 395−2/旧西ドイツプレス


 モーツァルトの『フィガロの結婚』は、ブログでfigarok492naなどと名乗っていることからも推察していただけるように、僕がもっとも大好きなオペラである。
 うきうきとした序曲に始まって、許しと喜びに満ちあふれた幕切れまで、アリアや重唱はもちろんのこと、領民たちの合唱やレチタティーヴォにいたるまで、その音楽的魅力には抗い難く、実演録音ともに、それほど豊かとはいえない僕のオペラ経験の中でも大きな位置を占めている。
 だから、できればこのショルティ&ロンドン・フィル他による録音も全曲盤を手に入れたいところではあるのだけれど、経済的にも時間的にもそうそう余裕のない身であることもまた事実で、ならばハイライトぐらいはと、このCDを購入することにした。
(一つには、このCDが輸入盤で、しかも初出盤だったということも大きい。僕は、CDを集めるに際して、基本的には国内盤や廉価再発盤は買わないことにしているのだ)

 で、このCDには、序曲、フィガロのカヴァティーナとアリア2曲、ケルビーノのアリアとアリエッタ2曲、伯爵夫人のカヴァティーナとアリア2曲、スザンナのアリア2曲、伯爵のアリア、バルトロのアリアに加え、第3幕の6重唱、伯爵夫人とスザンナの手紙の2重唱、第4幕のフィガロとスザンナの仲直り以降終曲までの計15曲が収められている。
(CD初期の時間的制約も考えれば、まあ妥当な選曲とも思えるが、個人的にはバルトロのアリアを除いて、第2幕の伯爵とスザンナの2重唱を入れて欲しかった。そういえば、以前NHKが教育テレビでルネ・ヤーコプスの指揮した『フィガロ』のハイライトを放映した時も、なぜかこのバルトロのアリアが選ばれていたっけ。あの時は、フィガロの「お殿様が…」その他大事な部分が相当カットされていて、海老ジョンイルめがと腹を立てたんだった)

 この文章を記すにあたって、五回聴いてみたが、やはり聴きものは、ルチア・ポップのスザンナとショルティ指揮のオーケストラということになるだろうか。
 ただ、ポップの歌でも、第2幕のアリアはいくぶん気品があり過ぎというか、もともと上流階級にある女性が召使いに身をやつしているといった感じで、確かに素晴らしい声だけど、絶品とまでは言いにくい。
 文句なしに絶品なのは、第4幕の「とうとう嬉しい時が来た…」で、ここではポップの美質、凛として透き通るような美しい声をたっぷりと愉しむことができる。
 まさしく、聴きものだ。
 また、ショルティとロンドン・フィルも、例えばアーノンクールをはじめとしたピリオド・スタイルとは完全に異なるものの、音楽の流れを活かした、軽快かつテンポ感のよい演奏で、序曲以下、全く聴き飽きない。
 グラインドボーン音楽祭でオーケストラピットに入っているだけあって、ロンドン・フィルも巧みな伴奏ぶりである。
 一方、他の歌い手たちも概ね優れた歌唱を披瀝しているが、僕の声の好みの幅があまりにも狭いこともあって、「めっちゃええで!」と喧伝したくなるまでにはいたらなかった。
 伯爵夫人のキリ・テ・カナワは立派な歌いぶりだが、正直、僕はこの人の声と、どこか硬さの見える(聴こえる)「エロキューション」は好みではない。
 レイミーは美声の持ち主だけれど、ドン・ジョヴァンニ的な大柄さと教科書的な生真面目さが混在していて、魅力的なフィガロとは言い難い。
 逆に、アルマヴィーヴァ伯爵のアレンは、強い個性の持ち主ではないが安定した出来で、予想以上に感心した。
 声の美しさでいえば、ケルビーノのフレデリカ・フォン・シュターデだが、チェチーリア・バルトリやマグダレーナ・コジェナーを経験した今となっては、どうしても物足りなさを感じてしまう。
 それに、この人の場合、語尾がだらけるというか、節の終わりを歌い流しているというか、そういう点が非常に気になる。
 モルは、彼の役者ぶりが十二分に発揮されていて面白くはあるが、先述した如く、あえてハイライト盤に選択する必要があったかは疑問である。
 それと、これはショルティの解釈のせいもあるのだろうが、歌の後半、「Tutta Siviglia…」からの迫力がいくぶん不足しているようにも感じられた。
(ショルティという指揮者には、角々しかじか力みんぼうのイメージがあるのだけれど、第3幕の6重唱、それまで敵と思っていたマルツェリーナ・バルトロ・ペアがフィガロの実の両親と判明して大喜びの4人に対する伯爵とドン・クルツィオの間の手を比較的軽く処理していることからもわかるように、少なくともオペラでは音楽の流れに強く配慮した解釈をとっているように思われる)

 とはいえ、中古で税込み530円でこれだけ愉しめたら僕には充分だ。
 我ながら、なかなかいい買い物でした。


 なお、このCDの全曲盤に関しては、吉田秀和が『この一枚』<新潮文庫>で詳しく触れている。
 ご興味ご関心がおありの方は、ご参照のほど。
posted by figarok492na at 14:33| Comment(2) | TrackBack(0) | CDレビュー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年03月21日

ベートーヴェンの交響曲第10番?

 ☆ベートーヴェン:交響曲第10番から第1楽章
  (編曲者バリー・クーパーによるレクチャーつき)

  ウィン・モリス指揮ロンドン交響楽団
  1988年録音
  <IMP>PCD911


 今回は、先日中古CDショップのAvisで購入した、ウィン・モリス指揮ロンドン交響楽団の演奏による、ベートーヴェンの交響曲第10番から第1楽章のCDをとり上げる。

 えっ、ベートーヴェンに交響曲第10番なんてあったっけ?
 と首を捻ったあなたは、大正解。
 ベートーヴェンその人は、もちろん第10番なんて交響曲を作曲したことはない。
 けれど、そこはシューベルトの未完成交響曲を完成させてしまったり、ホルストの惑星に冥王星をひっつけてしまったりするようなお国柄、イギリスのバリー・クーパーというベートーヴェンの研究者が、遺されたスケッチ(? と言うよりもアイデア?)から、この交響曲第10番から第1楽章なる音楽をこねくりひねくり上げたのである。

 で、実はここらあたりのいきさつは、今から20年ほど前に日本テレビ系の『謎学の旅(TVムック)』という番組で詳しく紹介されていて、実際、その時に放映されたクーパー博士の指揮した読売日本交響楽団による演奏を収めた非売品のCDを僕は持っていたほどだ。
(そのCDは、大学院生の時、友人に譲ってしまったが)

 まあ、音楽そのものは…。
 ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲の第1楽章と第九の第3楽章、悲愴ソナタの第2楽章を混ぜこぜにしたような冒頭部分と終結部分は、これといったひらめきの輝きはないものの、なんとか落ち着いて聴いていられるのだけれど、スケルツォ的な中間部となるとどうにもたまらない気分になってくる。
 シューベルトチックというかシューマンチックというか、音楽がなんとも初期ロマン派初期ロマン派しているし、それより何より、音のつくりがどうにももっさい。
 加えて、この中間部分が長めのパウゼのあとに繰り返されるのが悲しいくらいにもっさい。

 しかも、ウィン・モリスという指揮者が大がまえでパワフルエネルギッシュな入魂の音楽づくりをやるもんだから、そのもっささぎこちなさが一層強調されてしまっている。
 それこそお芝居に喩えるならば、柄本明や斎藤晴彦、三宅裕司といった面子に任せておけばよいものを、仲代達矢に演出お願いしたばっかりにとことんまじめにやられてしまって公演大失敗、てな感じだ。
 その点、クーパー博士自身の場合は、のび太君がドラえもんの助けもなしに頑張って指揮してますってのりで、なんともかわいげがあった。
(となると、モリスは明らかにジャイアン的な演奏かな?)

 いずれにしても、マニアックなクラシック・ファン、それもCDコレクターにのみお薦めしたい一枚。
 なお、このCDには、バリー・クーパーによるレクチャーも収められているが、こちらは英語が得意で相当暇ならば、とだけ記しておこう。


 *余談1
 この交響曲第10番第1楽章を含め、ウィン・モリス指揮ロンドン交響楽団の演奏したベートーヴェンの交響曲全集は、国内でも、CD初期にファンハウス・レーベルから発売されていた。
 僕自身、第4番と第5番がカップリングされたCDを持っていたが、やけにくせが強かったような記憶が残っている。

 *余談2
 この交響曲第10番第1楽章には、他にヴァルター・ヴェラー指揮バーミンガム・シティ交響楽団の録音もあったはずだ。
 確か、イギリスのCHANDOSレーベルの交響曲全集(作品集)中の一枚だったと思う。
posted by figarok492na at 14:24| Comment(0) | TrackBack(0) | CDレビュー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年03月16日

カラヤンの『ツァラトゥストラはかく語りき』と『ドン・ファン』を聴く

 ☆リヒャルト・シュトラウス:交響詩『ツァラトゥストラはかく語りき』
               交響詩『ドン・ファン』
  ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮ベルリン・フィル
  1983年録音
  <DG/ドイツ・グラモフォン>410 959−2


 先日、中古CDショップのアビスでただでもらった、ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮ベルリン・フィルの演奏による、リヒャルト・シュトラウスの交響詩『ツァラトゥストラはかく語りき』と『ドン・ファン』のCDをとり上げる。
(なお、盤面に傷があるのでただということだったが、音楽を愉しむという意味では全く問題はなかった。ただより安いものはなし!)

 で、すでに日記のほうでも触れたけれど、基本的には、リヒャルト・シュトラウスの作品の持つシンフォニックな性質、管弦楽管弦楽した性格が巧みに表現され、なおかつベルリン・フィルのオーケストラとしての水準の高さが示された、「凄い」演奏だと思う。
 例えば、スタンリー・キューブリック監督の『2001年宇宙の旅』でおなじみとなった『ツァラトゥストラ』の「ぷわあーぷわあーぷわあーぷわあぷわあー、どんでんどんでんどんでんどんでん…」という出だしからしてぴしっと決まっているし、『ドン・ファン』も、カラヤン&ベルリン・フィルならではの流麗豪壮な音運びが非常に印象深い。

 しかしながら、そうした基本的な感想は感想として、なあんか押し付けがましいというか、時にくどさやうっとうしさを感じてしまったことも事実である。
 特に強奏部分など、ニーチェつながりで言えば、それこそエッケ・オケ(このオーケストラを観よ!)とでも言いたくなるような「これ聴きよがし」の強引さで、いくらニーチェが超人思想を唱えたからといって、それをオーケストラで実現しようなんて思わなきゃいいのに、と勝手に思ったほどだ。
(もっと俗っぽく言えば、こんなツァラトゥストラの説教にはあんまり耳を傾けたくないし、こんなドン・ファンとセックスしたってちっとも愉しくなさそうだなどと感じたりもした)
 まあ、これには、デジタル初期のドイツ・グラモフォンのギシガシグシガシとした硬質でいくぶん機械的な録音も大きく影響しているのかもしれないが。

 ただ、一方で、カラヤン流の流麗かつパワフル、たっぷりと音を鳴らしきる音楽づくりだからこそかえって見えて(聴こえて)くるものもある訳で、『ツァラトゥストラ』の「さすらい人の夜の歌」(トラック9)には、彼がウィーン・フィルを指揮して録音したあの『ばらの騎士』を思い起こしたし、これは『第三帝国のR・シュトラウス』を読んだこともあってだが、消えそで消えないラストにはリヒャルト・シュトラウスの「いたずら心」を感じたりもした。
 また、『ドン・ファン』のラストの「弦のさざ波」にぞくぞくしたことも、やはり付け加えておかなければなるまい。

 正直、このカラヤン&ベルリン・フィルの演奏が、『ツァラトゥストラはかく語りき』と『ドン・ファン』の「ベスト」とは僕には言い難いが、カラヤンという不世出の音楽家のプラスとマイナスの両面がよく表れた録音でもあることも、また確かだろう。
 カラヤン以外の演奏で、この二つの作品に広く触れたことのある方にこそお薦めしたい一枚だ。
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2008年01月11日

ブラヴーラ!

  ☆ブラヴーラ・アリア集

   ディアナ・ダムラウ(ソプラノ)
   ジェレミー・ローラー指揮レ・セルクル・ドゥ・アルモニー
   2006年録音
   <VIRGIN>395250 2


 ドイツ出身で、最近めきめきと頭角をあらわしているコロラトゥーラ・ソプラノ歌手、ディアナ・ダムラウが歌った、サリエリ、リギーニ、モーツァルトのアリア集をとり上げる。
 なお、アルバムのタイトルにもなっているブラヴーラ・アリア集のブラヴーラとは、高度な技巧、技術を要するといった意味合いがあって、ひらたく言えば、めっちゃ難しい!

 で、タイトル通り、モーツァルトのおなじみ『魔法の笛』の夜の女王の2つのアリアをはじめ、そのライバル(ってのは、後世のでっち上げ?)や、モーツァルトと同じ年に生まれたボローニャ出身の作曲家リギーニが作曲した難度の高いアリアの数々を、ダムラウは、軽くて透明感のある声質と高度な技巧、技術を駆使して、見事に歌い上げている。
(何箇所か、「つないだね」とわかってしまう部分もあるが、まあ、これは仕方あるまい)

 ただ、鼻のあたりで歌っている気味(別の場所では「口の中」って書いたんだけど、「鼻のあたり」のほうが、より受けた印象に近いと思う)がなくもなくって、例えば、ダニエル・デ・ニースの歌唱の持つ爽快感には若干欠けるような気がしないでもない。
 それと、ところどころ地声のようになるのは、ダムラウの癖なのか?
 個人的には、それほど嫌いじゃないが。

 ジェレミー・ローラー指揮レ・セルクル・ドゥ・アルモニーは、予想していた以上に聴き応えのある伴奏で、こうした古典派のオーケストラ作品も一度聴いてみたいと思った。
(このフランスのピリオド楽器アンサンブルには、チェロのサカイアツシも加わっている)

 いずれにしても、ディアナ・ダムラウという歌い手を識るには恰好の一枚ではないか。
 歌好き、オペラ好きには、ご一聴をお薦めしたい。
posted by figarok492na at 12:47| Comment(0) | TrackBack(0) | CDレビュー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年12月21日

武満徹のギター作品を聴く

 ☆武満徹:ギター作品集
  福田進一(ギター)
  1996年録音
  <DENON>COCO−70936


 先日購入した、福田進一の弾く武満徹のギター作品集『イン・メモリアム』をとり上げる。
 なお、このCDは、1997年1月に武満徹を追悼する意味合いもこめて発売された録音を、クレスト1000シリーズ中の一枚として再発売したものである。

 まずは、何と言っても『ギターのための12の歌』がお薦めだろう。
 と、言うのも、『ロンドン・デリーの歌』を皮切りに、『オーバー・ザ・レインボー』、『早春賦』、『星の世界』、ビートルズの『ミッシェル』、『ヘイ・ジュード』、『イエスタデイ』、そして革命歌『インターナショナル』*といった、おなじみの12の歌たちが、武満徹の手によって、リリカルで美しいギター独奏曲に生まれ変わっているからだ。
 このうち、『ミッシェル』以下の3曲は、すでにエマニュエル・バルエコの弾くビートルズ・アルバムで慣れ親しんだものであるけれど、他の歌の編曲の巧みさも見事という他ない。
(個人的には、特に『早春賦』のほのかな温もりと、『星の世界』のポップなのりが大好きだ)

 また、他の『フォリオス』、『すべては薄明の中で』、『エキノクス』(エキノコックスではない)も、武満徹の特質がよく表れた透明感と抒情性に富んだ音楽で、非常に魅力的だ。

 一方、武満徹の死を悼んでレオ・ブローウェルが作曲した『HIKA 〜イン・メモリアム・トオル・タケミツ』も、ギターという楽器の持つ機能性を十二分に活かした聴き応えのある技巧的な作品だけれど、ちょっと異質というか、微妙にしっくりこない感じがしたことも事実である。

 福田進一のギター演奏は、とても素晴らしい。
 技術的な冴えはもちろんだが、12の歌で如実に示されているセンスのよさも忘れてはならないと思う。

 税込み1050円ということもあって、ぜひとも多くの方にお聴きいただきたい一枚。
 大推薦だ。


 *追記(書き忘れ)
 社会主義共産主義が退潮してしまった今となってはなんのことやらわからないかもしれないが、「立て飢えたる者よ、今ぞ日は近し」で始まる革命歌『インターナショナル』は、このギターのための12の歌が編曲された1977年当時は、ある種のノスタルジーが含まれているだろうとはいえ、一応「コモンセンス」を得た歌の一つだったし、相当時代のずれはあったにせよ、僕も学生時代に何度か歌わされたことがある。
(歌詞もメロディーも忘れてしまったけれど、『国学連の歌』という歌も歌わされたことがあったな。さすが、立命館!)

 そういえば、岩下志麻が父親の影響か何かで映画撮影の合間にこの『インターナショナル』を口ずさんでいることがある、と以前林光さんがコンサート(確か、イシハラホールでの日本の歌関係の)で語っていたんじゃなかったっけ。
 岩下さんの歌う『インターナショナル』、一度聴いてみたいような気がする。
posted by figarok492na at 14:06| Comment(0) | TrackBack(0) | CDレビュー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年12月12日

プーランクづくし・2

 ☆プーランク:室内楽曲全集
  エリック・ル・サージュ(ピアノ)他
  1998年録音
  <RCA>74321−63211−2(2枚組)


 今度は、プーランクの室内楽曲全集をとり上げる。
 なお、このCDは、前回とり上げたピアノ協奏曲集と一まとめにされて、廉価盤=「タンデム」シリーズとして発売されている。

 これはもう、耳のごちそうと呼ぶ他ないCDではないか。
 と、言うのも、リリカルで清澄な響きを持ったフルート・ソナタに始まって、次から次へと耳なじみがよくって聴き心地のよい音楽が繰り出されるのだから。
 しかも、ただただ甘ったるいだけではなく、時に、過去を振り返るかのようなちょっとしたほろ苦さもそこには混じっていて、全編聴き飽きない仕掛けがほどこされている。
(もちろん、プーランクお得意の、おもちゃ箱をひっくり返して蹴り散らかしたような騒々しさにも不足していない)
 個人的には、管楽器のための作品が大好きなのだけれど、コリア・ブラッハーの弾いたヴァイオリン・ソナタや、フランソワ・サルクの弾いたチェロ・ソナタのしゃれた味わいにも心惹かれる。

 フルートのエマニュエル・パユ(ただし、ソナタはマチュー・デュフールの演奏。こちらも素晴らしい)、オーボエのフランソワ・ルルー、クラリネットのポール・メイエら、若手奏者陣の演奏は見事だが、そうした面々を巧みにバックアップし、時には前面に出て妙技を披露したエリック・ル・サージュのピアノ演奏も忘れてはならないだろう。

 録音も、作品と演奏によく添って実にクリア。
 フルプライスでも大推薦の2枚組CDが、ピアノ協奏曲集とあわせて税込み1500円前後で手に入るというのだから、これは
どう考えたって買うしかない。
 室内楽ファン、管楽器ファン、フランス音楽ファンならずとも、大いにお薦めしたい。
 CDショップへ急げ!!
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プーランクづくし・1

 ☆プーランク:ピアノ協奏曲集
  エリック・ル・サージュ(ピアノ)
  フランク・ブラレイ(ピアノ)
  ステファヌ・ドネーヴ指揮リェージュ・フィル
  2003年録音
  <RCA>82876−60308−2


 プーランクの2台のピアノのための協奏曲ニ短調、ピアノ協奏曲ハ短調、そしてピアノと18楽器のための舞踏協奏曲「オーバード」を集めたCDを聴く。
 なお、このCDは、次回とり上げる予定の室内楽曲全集と一まとめにされて、「タンデム」シリーズ=廉価盤として発売されている。
(僕自身も、「タンデム」シリーズ分を手に入れた)

 プーランクといえば、甘くて切なくてやかましい音楽の書き手、という印象が、僕にはどうしても強いのだけれど、まさしくこのピアノ協奏曲集は、そうした印象を裏切らない「魅力的」な一枚となっている。
 特に、まるで松竹製作、野村芳太郎監督『鬼畜の器村』*のテーマ音楽的な出だしを持ったピアノ協奏曲は、プーランクのイメージ通りの作品に仕上がっているのではないか。
 モーツァルトやらフォスターの『スワニー川』そっくりのメロディーがとび出す終楽章など、プーランクの面目躍如だろう。
(この曲のリハーサル中、オットー・クレンペラーがえらく毒づいたことは案外有名だけど)
 一方、ラフマニノフの『パガニーニの主題による狂詩曲』のようなちょっと激しい開始の2台のピアノのための協奏曲も、よい意味ですぐに腰がくだけるし(その後、打楽器の乱打があるとはいえ)、「オーバード」だってミステリアスな雰囲気を漂わせつつも、きちんと「オチ」を決めてくれる。
 いずれにしても、ニ短調、ハ短調、という調性がついていることからもわかるように、全編耳なじみがよくって聴きやすい音楽のオンパレードである。
(まあ、あまりにも歯応えがなさすぎると感じるむきもあるだろうけどさ、プーランクだって、何も自分のピアノ協奏曲ばっかり聴いてくれとは思っちゃいないだろうし。要は、バランスってことじゃないでしょうか?)

 エリック・ル・サージュの演奏は、クリアでスマートだ。
 べたべたやってしまうと、ただの馬鹿騒ぎとしか思えないところを、きちんとセンスよく聴かせてくれる。
 また、2台のピアノのための協奏曲で共演しているフランク・ブラレイも、遜色のない出来。
 ステファヌ・ドネーヴ指揮リェージュ・フィルも、基本的には不満のない伴奏で、ことに管楽器の音色が美しい。

 フルプライスでもお薦めできる録音だけに、お得な廉価盤なら買いも買い。
 「タンデム」シリーズならば大推薦だ。

 *このCDを聴いていて、芥川也寸志って、プーランクの影響も受けてたんじゃないかとふと思ったりした。
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2007年12月04日

デジタル録音時代のスタンダード

 ☆ベートーヴェン:弦楽4重奏曲第13番、大フーガ
  クリーヴランド・カルテット
  1995年録音
  <TELARC>CD−80422


 先日購入した、クリーヴランド・カルテットの演奏する、ベートーヴェンの弦楽4重奏曲第13番と大フーガのCDを聴く。
 なお、このCDは、惜しまれつつも解散したクリーヴランド・カルテットの置き土産と評してもよい、ベートーヴェンの弦楽4重奏曲全集中の一枚である。

 で、聴き応えのあるCDだなあ、というのが、僕の正直な感想である。
 もちろん、だからと言って、ベートーヴェンの後期の弦楽4重奏曲は難解でね、なんて高説をぶつつもりなんてさらさらない。
 つまりは、作品の持つ情報量の多さ、言い換えれば愉しさが巧みに表現された録音である、と僕は言いたいのだ。
 しかも、まるでオーケストラのひな形といった風に機能的で密度が濃いい演奏を行っているにもかかわらず、例えばアルバン・ベルク・カルテットやハーゲン・カルテットのように「鋭角さ」が前面に押し出されることがない。
 本来、この弦楽4重奏曲の終楽章となるはずだった大フーガも充実した内容となっており、CDとして繰り返し聴くのに相応しい一枚に仕上がっているのではないか。
(「鋭角さ」が悪いって訳じゃないけど、繰り返して聴くのにはちょっとねえ…)

 テラーク・レーベルらしい録音のよさも含めて、クリーヴランド・カルテットによるベートーヴェンの弦楽4重奏曲全集は、デジタル録音時代のスタンダードの一つとすら感じた。
 大いに推薦したい。
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2007年11月14日

ニーノ・ロータの交響曲はいいよ!

 ☆ニーノ・ロータ:交響曲第1番、第2番、第3番
  大友直人指揮日本フィル
  1997年録音
  <キング>KICC241/国内盤


 先日購入した、大友直人指揮日本フィルの演奏による、ニーノ・ロータの交響曲集(番号つきの3曲)のCDを聴く。
 なお、この録音は、ブックレットに詳細な解説を記している、片山杜秀ら「有志」の尽力によって実現したものである。

 で、ニーノ・ロータっちゃ映画音楽の雄。
 『山猫』、『太陽がいっぱい』、『ゴッドファーザー』、そしてフェデリコ・フェリーニの一連の作品と、名作映画の影、どころか正面にもニーノ・ロータの音楽は大きな刻印を残している。
 そんなニーノ・ロータには、少なからぬ純クラシック音楽の作品があって、その中でも交響曲は…。
 って、片山さんの受け売りはこのぐらいにしとこ。
(言わずもがなだけど、このCDの解説は、例のナクソスの一連のシリーズの解説の「ひな形」にあたると思う)

 前から欲しいなと思っていたCDで、もちろんニーノ・ロータの交響曲なんて聴いたこたなかったんだけど、やっぱり購入して大正解だった。
 「新古典派」などと腑分けするのもおかしいくらいの、全くもって耳なじみのよい音楽。
 ちょっとべたやなあとは思いつつも、映画音楽でならしたメロディの美しさはさすがだし、例えば第2番の第4楽章のように、聴いてて「うきうき」してくるようなのりのよさもたまらない。
 おお、フェリーニ!

 確かに「現代音楽本流」好きのむきからすりゃあ、言いたいことはいっぱいあるだろうけどさ。
(「ちょと俗っぽいぜ、おっさん」と口にしたくなる「場面」もあるにはあるから…)
 少なくとも僕は、3曲の交響曲を十二分に愉しめた。

 オーボエの広田智之をはじめ、日本フィルの演奏は聴き応えがあるし、片山さんは別所(『レコード芸術』2002年12月号
の特集「交響曲のすべて」。実はこの号に、僕の投書した文章が掲載されている…)で交響曲第3番第3楽章の解釈について「釘を刺している」が、大友直人さんの音楽づくりだって言うほど悪くないんじゃないかな。
 個人的には大いに推薦の一枚だ。


 ところで、ナクソス的なレーベルって日本で立ち上げることは無理なんだろうな、きっと。
 日本のオーケストラを使ったあまり知られていない作品の録音を「安価」でリリースしていっても、採算とれないか…。
posted by figarok492na at 11:18| Comment(0) | TrackBack(0) | CDレビュー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年11月07日

カラヤンのオペラ間奏曲集

 ☆オペラ間奏曲集
  ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮ベルリン・フィル
  1967年録音
  <DG/ドイツ・グラモフォン>477 7163

 先日購入した、ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮のベルリン・フィルによるオペラ間奏曲集のCDを聴く。
 なお、LP時代から名盤として知られていたこのオペラ間奏曲集だが、オリジナルの形でリリースされるのは、輸入盤では今回のCDが初めてとなるようである。

 音楽之友社刊行の『不滅の名盤800』で吉松隆が記しているように、冒頭の『椿姫』の第3幕への前奏曲(ヴェルディ作曲)や『カヴァレリア・ルスティカーナ』間奏曲(マスカーニ作曲)からして、『アダージョ・カラヤン』のひな形!? と口にしたくなるような「のり」で、特に3曲目の『修道女アンジェリカ』の間奏曲(プッチーニ作曲)の弦の音色などムード音楽すれすれの艶やかさなのだけれど、カラヤンの音楽づくり、音楽運びの巧さには、やはり感嘆する他ない。
 当時のコンサートマスター、ミシェル・シュヴァルベが活躍する『タイス』の瞑想曲(マスネ作曲)や、没溺惑溺的な濃厚さがたまらない『ノートルダム』間奏曲(フランツ・シュミット作曲)、かろみをおびた滑稽さがよく表現された『マドンナの宝石』第3幕への間奏曲(ヴォルフ=フェラーリ作曲。ただし、有名な間奏曲とは異なる)と、一曲一曲の出来も素晴らしいが、これまた吉松隆が記しているように、これはオリジナルの形で、全編愉しむべきアルバムだと思う。
 ベルリン・フィルの演奏も万全だし、リマスタリングが成功しているか否かはひとまず置くとして、音楽を愉しむ上では音質的にも不満はない。
 LP時代を彷佛とさせるデジパックということも加えて、多くの音楽好きにお薦めしたい一枚。
 約50分という収録時間も、こうしたアルバムには悪くないはずだ。
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2007年11月03日

フェイのハイドン

 ☆ハイドン:交響曲第52番、第49番「受難」、第58番
  トーマス・フェイ指揮ハイデルベルク交響楽団
  2005年録音
  <henssler>CD98.236


 先日購入した、トーマス・フェイ指揮ハイデルベルク交響楽団の演奏によるハイドンの交響曲のCDを聴く。
(フェイとハイデルベルク交響楽団はハイドンの交響曲の全曲録音を進めているが、いわゆる「シュトルム・ウント・ドランク=疾風怒濤」期の3曲を収めたこのCDは、その第6段にあたる)

 一聴、師匠アーノンクール譲りの歯切れがよくて激しいハイドンだと思う。
 ただ、アーノンクールがハイドンの音楽の持つ一種の「毒」を見つけ出しえぐり出していたのに対し、こちらフェイとハイデルベルク交響楽団の演奏では、いくぶんシンフォニックな、言い換えれば、スマートな音楽づくりがはかられているようにも感じないではなかった。
 ハイデルベルク交響楽団は、基本的にはモダン楽器のオーケストラということになるのだけれど、奏法音色ともにピリオド楽器の団体と遜色のない出来で、個々の作品の持つ性格を柔軟に表現しているのではないだろうか。
 個人的にはチェンバロつきのハイドンの交響曲演奏はあまり好みではないのだが、聴けば聴くほど耳になじんできたことも確かだ。
 古典派好きには特にお薦めしたい一枚。
 録音も演奏によく合っている。
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2007年10月26日

パーヴォ・ヤルヴィのベートーヴェン

 ☆ベートーヴェン:交響曲第4番、第7番
  パーヴォ・ヤルヴィ指揮ドイツ・カンマー・フィル
  2004年〜2006年録音
  <RCA>88697 129332


 パーヴォ・ヤルヴィと手兵ドイツ・カンマー・フィルがすすめているベートーヴェンの交響曲全集から、その第二段、第4番と第7番のCDを聴く。

 基本的にはピリオド奏法を援用した、非常に見通しのよい演奏だが、同じ流儀のジンマン&チューリヒ・トーンハレ管弦楽団がどこか「静的」な雰囲気を漂わせていたのに対し、こちらはエネルギッシュで活き活きとした「動的」な音楽づくりが行われていると思う。
 特に、両曲の両端楽章には、そうした音楽づくりがひときわぴたりと決まっているのではないか。

 録音の良さもあって、何度も繰り返し愉しむのに相応しい一枚。
 大いにお薦めしたい。
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2007年10月24日

若さあふれるシューマンとブラームス

 ☆シューマン、ブラームス:ピアノ5重奏曲
  レイフ・オーヴェ・アンスネス(ピアノ)
  アルテミス・カルテット
  2006年
  <Virgin>VC3951432

 ノルウェー出身のピアニスト、レイフ・オーヴェ・アンスネスと、ドイツの新鋭弦楽4重奏団、アルテミス・カルテットによる、シューマンとブラームスのピアノ5重奏曲のCDを聴く。

 一聴、若々しくって躍動感があって、とても胸踊る演奏だと感じる。

 第1楽章冒頭の華やかや元気さが印象的なシューマンはもちろんのこと、あのどうにも陰々滅々としたブラームスでさえ、何度聴いても「いいーっ」となることがない。
(もちろん、その「いいーっ」となってしまうところが、ブラームスの室内楽の魅力の一つであることは百も承知しているが)

 と言って、力任せ腕任せのごりごりぐいぐいというやり方をアンスネスとアルテミス・カルテットがとっている訳ではなく、テンポ設定の他、いわゆるフレーズの処理等々、彼彼女らの歯切れのよい音楽づくりがそう感じさせるのだと思う。

 また、両曲の第2楽章においても、抑制がきいていることによって、かえって各々の作品の持つ抒情性が巧く表されているのではないだろうか。

 特にブラームスの場合、もっとどっしりとしたりゆったりとした演奏を好まれるむきもあるだろうが、今の僕には、このアンスネスとアルテミス・カルテットの若さあふれる演奏がしっくりとくる気がする。
 どちらかと言えば、シューマンやブラームスの室内楽は苦手という方にも強くお薦めしたい一枚だ。
 録音も非常にクリアである。
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2007年10月12日

横綱相撲のショスタコーヴィチ

 ☆ショスタコーヴィチ:ピアノ協奏曲第1番、ピアノ5重奏曲他
  マルタ・アルゲリッチ(ピアノ)
  セルゲイ・ナカリャコフ(トランペット)
  アレクサンデル・ヴェデルニコフ指揮スイス・イタリア管弦楽団他
  <EMI>5 04504 2


 時節柄、相撲のすの字も口にしたくないところだけれど、マルタ・アルゲリッチを中心にしたこのショスタコーヴィチ・アルバムは、相撲も相撲、まさしく横綱相撲に徹した一枚だと思う。
 と言っても、大味でぶくぶくぶくぶく肥え太った重量級戦車大進軍といった類いの野蛮なやり口とは毛頭違う。
 切れ味鋭くて、時にスリリングで、それでも最後は堂々と押し切ってしまうという胸のすくような演奏なのだ。

 まずは、何と言ってもピアノ協奏曲第1番が面白い。
 アルゲリッチ自身の旧録音<DG>や手元にあるエリザベート・レオンスカヤ盤<TELDEC>に比べると、いわゆる「完成度」という点ではいくぶん不足するものの、ライヴ録音(ただし、何箇所かつないであるような気がしないでもない)ならではの生々しさ、活き活きとした感覚には、やはり魅了される。
(ケルン滞在中、アルゲリッチの弾くバルトークのコンチェルトを生で聴いたことがあるが、その時のことをすぐに思い出した)
 言わずもがなだが、ナカリャコフのトランペットも「聴きもの」だし、スイス・イタリア管弦楽団も、このオーケストラにしては「大健闘」以上の出来なのではないか。

 また、ルノー・カプソンやミッシャ・マイスキーらと演奏したピアノ5重奏曲も、これまたレオンスカヤ&ボロディン・カルテット盤<TELDEC>と比すると安定感には若干欠けるとはいえ、演奏の若々しさ、音楽の放つエネルギーという意味では、充分魅力魅力的だと評することができる。

 さらに、リリヤ・ジルベルシテインと弾いた2台のピアノのためのコンチェルティーノも、愉しい「インテルメッツォ」になっていて、素直に嬉しい。

 録音も非常に優れており、アルゲリッチ・ファンならずともお薦めしたい一枚だ。
(なお、3曲とも、2006年のルガーノ・フェスティヴァル、マルタ・アルゲリッチ・プロジェクトにおけるライヴ録音である)
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2007年10月07日

気軽にドヴォ6

 ☆ドヴォルザーク:交響曲第6番、チェコ組曲
  イヴァン・アンゲロフ指揮スロヴァキア放送交響楽団
  2001年録音
  <ARTE NOVA>74321 91054 2

 先日購入した、イヴァン・アンゲロフ指揮スロヴァキア放送交響楽団の演奏による、ドヴォルザークの交響曲第6番とチェコ組曲のCDを聴く。

 ドヴォルザークの交響曲第6番、特にその第1楽章は、僕の大好きな音楽の一つで、チョン・ミュンフン指揮ウィーン・フィルの録音<ドイツ・グラモフォン>を愛聴しているのだけれど、あちらがメジャーレーベルの「大名演」であるならば、こちらはバジェットプライスレーベルなりの、気軽に親しむことのできる一枚と評することができるのではないか。

 確かに、全体的に前のめり気味であるとか、力こぶが入り過ぎ気味であるとか、いちゃもんをつけようと思えばいくらでもつけることはできるだろうが、そうした点が作品の持つ性質をうまく表していることも事実だし、スロヴァキア放送交響楽団(ナクソス・レーベルでおなじみ)の出来だってそれほど悪くない。
 録音のかげんもなかなかで、個人的には気分よく全曲を聴き通すことができた。

 また、ドラマの『のだめカンタービレ』で効果的に使われていたチェコ組曲も単なるおまけ以上に聴き応えのある作品だし、税込み500円程度でこれだけ愉しめたら、まずは言うことないと思う。


 なお、アンゲロフとスロヴァキア放送交響楽団によるドヴォルザークの交響曲全集がエームス・レーベルからリリースされていて、この第6番の録音もその中に含まれているのだけれど、アルテノヴァの単独盤は、もしかしたら手に入りにくくなっているかもしれない。
posted by figarok492na at 13:40| Comment(0) | TrackBack(0) | CDレビュー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

またまたヘンデルのアリア集

 ☆ヘンデル:アリア集
  ダニエル・デ・ニース(ソプラノ)
  ウィリアム・クリスティ指揮レザール・フロリサン
  2007年録音
  <DECCA>475 8746

 先頃発売されたばかりの、ダニエル・デ・ニースの歌うヘンデルのアリア集を聴く。

 ぶっちゃけて言えば、正直好みの声質じゃない。
 バーバラ・ヘンドリックスほどじゃあないけれど、顎にひっかかったというのか、喉にひっかかったというのか、どこかこわばりのある歌いぶり、声の出し方が、まずもって僕には苦手なのである。
 加えて、抒情的なアリア(例えば、有名な『リナルド』の「涙の流れるままに」=トラック2)における、どこかべちゃついた感情表現も、あんまり好きじゃない。
 ないものねだりは承知でも、もちょっとクールに決めてくれればいいのに、とついつい感じてしまう。

 などと、いきなり悪口で始まったけれど、このCDは、歌好き、ヘンデル好きには大推薦の一枚ではないだろうか。
 と言うのも、彼女を一躍有名にした『エジプトのジュリアス・シーザー』のクレオパトラのアリア(トラック1)をはじめとして、ダニエル・デ・ニースの張りがあって晴れやかな高音を何度も愉しむことができるからだ。
 特に、陽性なアリアでの彼女の声の輝きには、感嘆する他ない。
 まさしく、耳のごちそうとでも呼ぶべき歌唱だと思う。

 また、ウィリアム・クリスティ率いるレザール・フロリサンの伴奏がいい。
 キルヒシュラーガー盤の折り目正しいバーゼル室内管弦楽団、コジェナー盤のバロック・アクロバティックなマルコン&ヴェニス・バロック・オーケストラ(誰かがヴィヴァルディみたいと評していたが、確かにそうだ)も悪くないけれど、クリスティとレザール・フロリサンの軽やかで柔らかで流麗なヘンデルは、聴いていて、本当に心地がよくって仕方がないのだ。

 と、言うことで、一聴どころか、何聴もの価値あるCD。
 大いにお薦めしたい。


 余談だけれど、ブックレットはデ・ニースの写真がふんだんに盛り込まれたアイドル仕様で、こういうのが好きな人にはたまらないんじゃないかな。
 ブックレットを取り出すのが面倒なので、僕は一回きりしかのぞいちゃいないけど。
posted by figarok492na at 12:29| Comment(0) | TrackBack(1) | CDレビュー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年09月23日

コジェナーのオペラ・アリア集

 ☆モーツァルト、グルック、ミスリヴェチェク:オペラ・アリア集
  マグダレーナ・コジェナー(メゾ・ソプラノ)
  ミシェル・スヴィエルチェフスキ指揮プラハ・フィル
  2001年録音
  <DG>469 483−2

 ジュージヤ三条本店のセールで買ったCDの3枚目、マグダレーナ・コジェナーの歌う、モーツァルト、グルック、ミスリヴェチェクのオペラ・アリア集を聴く。

 コジェナーといえば、この前ヘンデルのアリア集を買ったばかりだし、少し前にはラトルと入れたモーツァルトのアリア集も買っているのだが、こちらは今から5年ほど前に発売されたCDである。
 最近の歌唱に比べると、いくぶんストレートな表現のように感じられる部分もなくはないが、その分、コジェナーの透明感があって伸びのある声の魅力や、技術的な確かさを再認識することができる録音だと思う。
 また、モーツァルトに限らず、グルック、ミスリヴェチェクのアリアも、時にアクロバティックな表現の盛り込まれた聴き応えのある音楽で、特にミスリヴェチェクのアリアの感情表現の激しさには、よい意味での驚きを味わえた。
 ミシェル・スヴィエルチェフスキ(あいた、舌噛んじゃった)*の指揮するプラハ・フィルも、コジェナーの歌にぴったりのスマートでクリアな演奏で、耳に心地よい。

 オペラ好き、歌好き、古典派好きの方を中心に、広くお薦めしたい一枚だ。
(なお、ラトルとのアリア集では、やたらと装飾のついた『恋とはどんなものかしら』だけれど、このアルバムではノーマルな版が録音されている)


 *かつてNHK・FMの『気ままにクラシック』の中で、スタニスラフ・スクロヴァチェフスキ・コーナーというのがあったが、このミシェル・スヴィエルチェフスキも相当ややこい名前の指揮者だと思う。
 ついでに、両次大戦間にポーランドの大統領だった、スタニスワフ・ヴォイチェホフスキという人物のことまで思い出してしまったほどだ。
posted by figarok492na at 14:07| Comment(0) | TrackBack(0) | CDレビュー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年09月22日

こよなく美しき歌

 ☆こよなく美しき島(イギリス・リュート歌曲&アリア集)
  バーバラ・ボニー(ソプラノ)他
  <DECCA>466 132−2

 続けて、バーバラ・ボニーがイギリス・バロック期のリュート歌曲とアリアを歌った『こよなく美しき島』を聴く。
(なお、このアルバムのタイトル『こよなく美しき島』は、パーセルの同名のアリアからとられている)

 最近ではどうしても声の衰えを感じずにはいられないバーバラ・ボニーだが、このCDでは、彼女の澄んで清潔感あふれる美しい歌声を十二分に堪能することができる。
 ダウランド、カンピオン、バード、ジェンキンス、パーセルといったイギリス・バロック期の素朴で繊細で静けさをたたえた歌の数々が、ボニーの囁きかけるような優しい歌唱で再現されており、全篇聴き飽きることがない。
 特に、モーリーの『好いた同士の彼氏と彼女』(なんだ、このやぼたい訳は…)の、「ヘイ、ディンガディンガディン」の繰り返しの部分には、これを聴くためだけにこのCDを購入しても全く惜しくないと、あえて断言したい。

 リュートのジェイコブ・ヘリングマン、ヴィオール・アンサンブルのファンタズム、クリストファー・ホグウッド率いるアカデミー・オブ・エンシェント・ミュージックの伴奏も各々万全で、全く不満がない。

 音楽好きの方全般にお薦めしたい一枚。
 大推薦だ。
posted by figarok492na at 14:47| Comment(0) | TrackBack(0) | CDレビュー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

オッターの歌を愉しむ

 ☆マイアベーア、ベートーヴェン、シュポア:歌曲集
  アンネ・ソフィ・フォン・オッター(メゾ・ソプラノ)
  メルヴィン・タン(フォルテピアノ)他
  1999年録音
  <ARCHIV>469 074−2

 ジュージヤ三条本店のセールで購入した、アンネ・ソフィ・フォン・オッターの歌う、マイアベーア、ベートーヴェン、シュポアの歌曲のCDを聴く。

 オッターの歌声は往時に比べるといくぶん衰えが聴こえてきたことは確かで、時にペギー葉山っぽい声だなあと感じた箇所もなくはないのだが、例えば、シューベルトの『漁師の娘』のパロディ、マイアベーアの『おいで』を聴けばわかるように、音楽を愉しむという意味では、まだまだ充分張りと伸びがあるし、各々の作品の持つ性質、インティメートな雰囲気をよく表現しているとも思う。
 交響曲第9番第4楽章の有名な旋律のひな形となった合唱幻想曲のさらなるひな形である、ベートーヴェンの『愛されない者のため息−愛のこたえ』(の「愛のこたえ」のほう)や、モーツァルトの『フィガロの結婚』の伯爵夫人のアリアを思い起こさせる、同じくベートーヴェンの『愛の嘆き』など、選曲面でも実に面白く、今ではモダン楽器に「転向」してしまったメルヴィン・タンのフォルテピアノ伴奏も細やかで、見事と言う他ない。
 加えて、マイアベーアの『羊飼いの歌』でのエリック・ヘープリヒのクラリネットや、シュポアの6つの歌曲でのニルス=エーリク・スパルフのヴァイオリンもオッターの歌唱によい彩りを添えているのではないか。

 しゃっちょこばらない歌好きにはとても嬉しい一枚。
 大いにお薦めしたい。
posted by figarok492na at 13:31| Comment(0) | TrackBack(0) | CDレビュー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年09月15日

ヤマカズさんと新星日響のチャイコフスキー

 ☆チャイコフスキー:交響曲第5番
  山田一雄指揮新星日本交響楽団
  1989年録音
  <FONTEC>FOCD3239

 今は亡き山田一雄が、これまた今はなき新星日本交響楽団を指揮したチャイコフスキーの交響曲第5番のCDを聴く。
(なお、1989年初出のこのCDは長らく廃盤となっていたが、最近タワーレコードの企画によって限定最発売された)

 ヤマカズさんの愛称で知られた山田一雄といえば、全身全霊をこめたかのような激しい指揮姿と、「ううっ、いいっ、ああっ」といった演奏中の唸り声が懐かしいが(京都市交響楽団の定期演奏会でモーツァルトの交響曲をとり上げた時など、あまりの声の大きさに、隣の着物姿の女性が必死に笑いをこらえていたほどだった)、以前にも記したことがあるように、それは「笛吹くから踊ってくれよ」という、山田一雄の強い想いの表れだったような気が、僕にはするのである。

 一方、新星日本交響楽団は、東京フィルによる事実上の「吸収合併」で消滅してしまったオーケストラだけれど、その「先鋭」と呼ぶ他ない成立過程*や、日本の作曲家の作品を積極的にプログラミングしていたこと、オペラでの活動など、非常にユニークな存在だったと思う。

 で、その山田一雄と新星日本交響楽団によるチャイコフスキーの交響曲第5番だが、ライヴ録音ではないということもあって、若干熱気のようなものには不足するものの(唸り声も聴きとれない?)、その分造形のしっかりした、オーソドックスな演奏に仕上がっているのではないか。
(個人的には、第3楽章が一番好きだ)
 新星日響も、オーケストラの「限界」は感じさせつつも、山田一雄の解釈によく添った演奏を行っていると思う。

 単に貴重な記録というだけではなく、チャイコフスキーの交響曲第5番を愉しむという意味でもお薦めできる一枚。
 機会があれば、ぜひご一聴のほどを。


 *第1回目の定期演奏会でカンタータ『返せ沖縄』(抜粋)が、第2回目の定期演奏会で清瀬保二のレクイエム『無名戦士』が演奏されている、ということだけをここでは記しておく。
 以上、『日本の交響楽団 定期演奏会記録』<民音音楽資料館>より。
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2007年09月04日

コジェナーのヘンデル

 ☆ヘンデル:アリア集
  マグダレーナ・コジェナー(メゾソプラノ)
  アンドレア・マルコン指揮ヴェニス・バロック・オーケストラ
  2006年録音
  <ARCHIV>477 6547

 少し前に購入した、マグダレーナ・コジェナーの歌うヘンデルのアリア集のCDを聴く。

 ヘンデルのアリア集といえば、アンジェリカ・キルヒシュラーガーのCDをとり上げたばかりだけれど、あちらが折り目正しいスーツ姿、もしくはぱりっと決まった宝塚の衣裳風の歌唱だとすれば、こちらコジェナーは、変幻自在の早変わりとでも評したくなるような歌いぶりを発揮している。
 このCDには、『アルチーナ』、『ヘラクレス』、『アリオダンテ』、『オルランド』、『リナルド』といった10の作品から、それぞれ聴きどころ満載のアリアが選びとられているのだが、コジェナーは透明感のある美しい声と豊かな表現力を活かして、一つ一つのアリアの持つ性格性質を見事に描き分けていると、僕は思う。
 マルコンとヴェニス・バロック・オーケストラも、いわゆるイタリア流儀のバロックアクロバティックな演奏でコジェナーをよく支えているのではないだろうか。

 全曲、全く聴き飽きることのない一枚。
 多くの方にお薦めしたい。


 *追記
 ちょっとコジェナーの声が「響きすぎ」かな、と思ったことも事実。
 あと、ボーナストラックがついていないのは残念だが、『リナルド』の有名なアリアでCD的な「しめ」はきちんとついていると思うので、まあよしとしよう。
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2007年08月22日

耳もたれのしないリヒャルト・シュトラウス

 ☆リヒャルト・シュトラウス:交響詩集
  デヴィッド・ジンマン指揮チューリヒ・トーンハレ管弦楽団
  2001年録音
  <ARTE NOVA>74321 87071 2

 HMVからのCD第2陣のうち、デヴィッド・ジンマン指揮チューリヒ・トーンハレ管弦楽団の演奏による、リヒャルト・シュトラウスの交響詩『ドン・ファン』、『ティル・オイレンシュピーゲルの愉快な悪戯』、『ツァラトゥストラはかく語りき』のCDを聴く。
(ちなみに、『ドン・ファン』、『ティル』、『ツァラトゥストラ』といえば、リヒャルト・シュトラウスの交響詩の中でも一ニを争う作品であり、オーケストラの「腕力」を確かめるという意味でも、世界のオーケストラの重要なレパートリーとなっている)

 ジンマンとチューリヒ・トーンハレ管弦楽団は、ベートーヴェンの交響曲全集などでも聴かせたようなクリアでスマート、かつ均衡のよくとれた、非常に聴き心地のよい演奏を行っているのではないか。
 『ドン・ファン』なんか、少々そそくさとしすぎ、という感じもしないではないけれど、「耳もたれ」のしないジンマンの音楽づくりには、とても好感が持てる。
 特に、ティルが処刑される直前の「たあたあたあたあたあーたた」という部分は、作品の肝を巧く押さえているなと感心した。

 リヒャルト・シュトラウスってくどいやんか、と尻込みしている方にこそお薦めしたい一枚。
 なんせ、税込み700円程度なんやもの、そら絶対「買い」ですって。


 *中瀬宏之の納得いかないコーナー!

 ところで、このCDと同じ録音、同じカップリングのCDが、ソニー・BMG系から廉価盤面をして、何食わぬ顔で発売されている。
 ところがどっこいなんとこれ、アルテノヴァ盤より倍近く高い値段に設定されているのだから、性質(たち)が悪い。
 「まろは安物レーベルのCDなんて、汚らわしくて触れとうもないでおじゃるまろ」などと宣う、高尚ぶった「バカオロカ」は別にして、たいていのクラシック音楽ファンはアルテノヴァ盤を選ぶだろうから、つまりは「素人さん」相手にあこぎな商売をやっているということだ。
 榎木津礼二郎ならずとも、「こんなものがあるからいけないんだ!」とステッキで打ち据えたいかぎりである。
posted by figarok492na at 20:53| Comment(0) | TrackBack(0) | CDレビュー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ヘンデルのアリア集

 ☆ヘンデル:アリア集
  アンジェリカ・キルヒシュラーガー(メゾソプラノ)
  ローレンス・カミングス指揮バーゼル室内管弦楽団
  2006年録音
  <SONY>82876 889522

 不良品到着、返品交換、美品到着と、すったもんだの騒ぎがあったヘンデルのアリア集を聴く。

 このCDには、『アリオダンテ』、『ジュリアス・シーザー』、『クレタのアリアンナ』の3つのオペラからのアリアが収められているが、硬軟優壮悲喜哀楽、様々な曲調のアリアが選ばれていて、全篇聴き飽きないとともに、劇場人ヘンデルの手だれ具合を識ることができる。

 キルヒシュラーガーは、伸びのある美声を活かして、そうした変化の激しい音楽をしっかり歌い分けているが、(声そのものの質として)いくぶん「不安定さ」を感じたことも事実である。

 もともとモダン楽器のバーゼル室内管弦楽団だけれど、どうやらこの録音ではピリオド楽器のオーケストラに「変身」しているようで、バロックアクロバティックな「過剰」さには不足する反面、キルヒシュラーガーの歌唱によく添った、とても丁寧で清潔感のある演奏を行っていると思う。

 歌好き、バロック好きには特にお薦めしたい一枚。


 余談だけれど、秋に発売される予定の、コジェナーのアリア集との聴き比べが愉しみだ。
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2007年08月20日

久々の大外れ!?

 ☆シューベルト:交響曲第3番、第4番「悲劇的」他
  ジャナンドレア・ガヴァッツェーニ指揮
  エミリア・ロマーナ・アルトゥーロ・トスカニーニ交響楽団
  1991年(ライヴ)録音
  <FONIT CETRA>5051442-0651-2-1

 先日到着したHMVのCD第2陣から、ジャナンドレア・ガヴァッツェーニ指揮エミリア・ロマーナ・アルトゥーロ・トスカニーニ交響楽団*の演奏による、シューベルトの交響曲第3番、第4番「悲劇的」他のCDを聴く。

 LP時代末期にひっかかる人間からしてみたら、フォニト・チェトラってあんまりイメージのよくないレーベルなんだけど、まあ、今ではワーナー傘下だし、大好きなハンガリー風ディヴェルティメントのオーケストラ版も入っているし、交響曲第3番も第4番も大好きだし、オペラの指揮でならしたガヴァッツェーニの純器楽曲指揮も聴いてみたいし、という理由で購入したCDだったのだが。
 うむむ、これは久々の大外れ…。

 まずもって、CDをかけたとたん、アナログ時代の雰囲気に引きずり込まれてしまう。
 それも、ステレオ−LPをすっとばして、モノラル−SP時代の雰囲気に。
(もちろん、れっきとしたデジタル録音。けれど、かさかさとした録音具合や、オケの雑然とした感じがまさしくSPなのだ)

 で、お目当てのハンガリー風ディヴェルティメントもねえ。
 ヴィルジリオ・モルターリ(って誰だーり?)なる人物の編曲は、ウェットな曲調の合間に、フンガロン行進曲然としたジンタ調のファンファーレを詰め込むというやり口で、原曲の持つ分裂気質、じゃない統合失調症気質がさらに拡大されていて、耳のやり場がない。
(ガヴァッツェーニは、作品の持つ「両面性」をオペラ的に歌わせよう鳴らせようとしているのだが、いかんせんオケが…。第3楽章の金管のファンファーレの「ホウァワァワァワァー」という部分での音のもろ外れには、思わずこちらが「ホワッホワッホワッホワッホワァー」と叫んでしまったほど)

 交響曲のほうも、せっかくいい調子で歌っているなと思ったら、音がずれたりまとまらなかったりで、どうにもオーケストラの弱さが耳についてしまう。
 これで、オーケストラがミラノ・スカラ座のオケ、ローマ聖チェチーリア、とまでは言わなとも、統合されてしまったトリノ、ミラノ、ローマのRAI(イタリア国営放送)のオケのどれか、もしくはボローニヤかフィレンツェのオペラのオケだったら、もっとガヴァッツェーニの意図がうまく伝わっただろうに。

 残念ながら、「物好き」な方以外には、極力お薦めしかねる一枚だ。
(実際、HMVのレビューにも「だめ!」と記したんだけど、何度も聴いているうちに、結構はまってきている。あな、おそろしや…)

 *なお、今年ロリン・マゼールと来日するトスカニーニ交響楽団は、このCDのオーケストラは別団体のようなので、まずは「ご安心」のほど。
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2007年08月15日

『プルチネッラ』の元ネタ

 ☆ガッロ:12のトリオ・ソナタ集
  パルナッシ・ムジチ
  1999年録音
  <CPO>999 717−2

 先日購入した、ドメニコ・ガッロの12のトリオ・ソナタ集を聴く。

 ガロってナンガロ。
 などと、木久蔵(間もなく木久扇)師匠も真っ青な言葉を口にしたくなるほど、巷間ほとんど名前の知られていないガッロだが、ブックレットをひもとくと、18世紀前半にヴェネツィアに生まれた、作曲家兼ヴァイオリニストらしい。
 で、この12のトリオ・ソナタ集が彼にとっては主たる、というか、唯一残された作品なのだけれど、長い間ペルゴレージによる作曲と誤って伝えられていたというのだから、そりゃ知られるもへったくれもありゃしないという訳だ。

 それじゃあ、なんでそんな作曲家の作品のCDを購入したかというと、このガッロの12のトリオ・ソナタ集こそが、僕の大好きなストラヴィンスキーのバレエ音楽『プルチネッラ』の「元ネタ」の一つだからである。
 実際、CDをかけてみたら一目、ならぬ一聴瞭然。
 あの『プルチネッラ』の序奏と同じメロディーが聴こえてくるではないか。
 その後も、出てくる出てくる、あそこじゃここじゃ。
 もちろん、『プルチネッラ』に引用された部分以外も、流麗かつ快活な美しさに満ちていて、実に聴き心地がよい。

 ピリオド楽器のアンサンブル、パルナッシ・ムジチ(ヴァイオリン2、チェロ、チェンバロ)は、作品の性格や録音のかげんもあってか、いくぶん第1ヴァイオリンがきつめに感じられる部分もなくはないが、基本的には、作品の持つ魅力を十二分に引き出した、丁寧な演奏だと思う。

 バロック音楽好き全般にお薦めしたい一枚だ。


 なお、『プルチネッラ』がらみの部分にのみ興味がおありの方には、クリストファー・ホグウッド指揮セント・ポール室内管弦楽団の演奏による『プルチネッラ』全曲盤<DECCA>がお薦めかもしれない。
 と、言うのも、『プルチネッラ』に引用されたガッロのトリオ・ソナタが、ホグウッド他の演奏でカップリングされているからだ。
 ただし、残念ながらこちらは、ずいぶん前に廃盤になっている。
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2007年08月11日

真夏にヨハン・シュトラウス

 ☆ヨハン・シュトラウス:作品集
  ニコラウス・アーノンクール指揮アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団
  1986年録音
  <TELDEC>8.43337ZK

 こうなりゃやけくそ4枚目。
 もってけドロボー!
 いいや、このCDはわしのもんや。
 誰にもやらんぞ、誰にもやらん。
 ここ、『大阪物語』の中村雁治郎風に。
(「この人、暑さでおつむがおかしうなったんとちゃいまんのん」、と呼ぶ声あり。わはははは、おかしいのはもとからでさあ)

 ニコラウス・アーノンクール指揮アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団の演奏による、ヨハン・シュトラウスの作品集のCDを聴く。

 ニューイヤーコンサートならいざしらず、この夏の暑い盛りに何を好き好んでシュトラウスなんて、と心配されるむきもあるかもしれないが、なあにアーノンクールだったら大丈夫。
 めりはりのきいた「プログラム」で、刺激に満ちた50分強を過ごさせてくれる。
 もちろん、アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団も、アーノンクールの解釈によく添って、シャープでドラマティックな演奏を行っている。
(『エジプト行進曲』の叫び声も、いとおかしいとかなし)

 オーソドックスとは言えないけれど、聴いて面白いこと間違いなしの一枚なり。

 ちなみにこのCD、初期盤ということで、CD自体は、日本のコロムビアがプレスしたものである。
 歴史を感じるなあ。
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ムストネンのベートーヴェン

 ☆ベートーヴェン:ピアノ変奏曲集
  オリ・ムストネン(ピアノ)
  1992年録音
  <DECCA>436 834−2

 ええい、3枚目。
 オリ・ムストネンの弾くベートーヴェンのピアノ変奏曲集を聴く。

 ムストネンのベートーヴェンは、RCAレーベルにいれたディアベッリ変奏曲他とピアノ・ソナタ第30番他の2枚のCDを持っているし、大阪音大のザ・カレッジ・オペラハウスで実演に接したこともある。
 いずれにしても、ピリオド奏法を援用したような、歯切れがよくって、クリアでスマートで、それでいてベートーヴェンの音楽の持つ抒情性にも目配せの届いた演奏だったが、このデッカの変奏曲集もまさしくそう。
 『エロイカ(プロメテウス)変奏曲』などには、「すれすれ」を感じさせる部分もなくはないものの、基本的には危なげのない演奏を行っているのではないか。
 パイジェルロの『水車小屋の娘』による2つの変奏曲や、『ルール・ブリタニア』や『ゴッド・セイヴ・ザ・キング』による変奏曲、自作主題による32の変奏曲と、選曲も抜群で、その点でも不満はない。

 肩ひじのはらないベートーヴェンを愉しみたい方には大いにお薦めしたい一枚だ。
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ヴァントの田園と運命

 ☆ベートーヴェン:交響曲第6番、第5番
  ギュンター・ヴァント指揮ハンブルク北ドイツ放送(NDR)交響楽団
  1992年ライヴ録音
  <RCA>09026 61930 2

 続いて、ギュンター・ヴァント指揮ハンブルク北ドイツ放送(NDR)交響楽団の演奏による、ベートーヴェンの交響曲第6番と第5番のCDを聴く。

 ところで、僕がギュンター・ヴァントを「発見」したのは、今から20年以上も前の、N響アワーかNHKのFM放送だった。
 それは、このCDにも収められている「運命」の冒頭部分を聴き比べるというもので、ヴァントとN響の「運命」のシャープさに、「うむむ、これは」と高校生心に僕は驚嘆してしまったのだ。
 しばらくして、同じ演奏の全曲を聴くことができたのだけれど、「ヴァント凄し」の感想はもちろん変わることはなかった。
 が、当時のヴァントは残念ながらいまだ「巨匠」ではない。
 ただただ「ヴァントは違うな」という想いを心に刻んだまま、彼のCDを購入することもなく、時を過ごしてしまった。
(それには、彼が録音していたドイッチェ・ハルモニアムンディがちょうどEMI傘下にあった時期で、ブラームスにしてもベートーヴェンにしても、手に入れにくかったということも大きく影響している)
 その後、ヴァントはいつの間にか「巨匠」となり、ようやく彼の実演に接したのは、それから10年近くも経ってからのことだった。
(ヴァントとNDR響のブルックナーの交響曲第8番をケルンで聴いたのだが、それは演奏が終わったとたん、ほとんどの聴衆がスタンディング・オベーションするという「儀式」以外の何ものでもないものだった。まあ、ヴァントがケルンにとって「大恩人」であることを考えれば、無理もないことではあったのだけれど)

 さて。
 このCDについてくどくどと語る必要はないと思う。
 ベートーヴェンの二つの交響曲の持つ構造、音楽性、魅力が明確に表された、クリアでシャープ、なおかつ安定性の高い演奏に仕上がっている。
 第6番のほうは、第1楽章がいくぶんおとなしめに感じられるかもしれないが、第2楽章以降との対比という意味では、とてもバランスがとれているのではないか。
(いつもは、少々だるさを感じてしまう第2楽章がとても「面白い」)
 一方、第5番も、安易な「賑やかし」ではない、「音の」ドラマを愉しむことができる。

 聴けば聴くほど、凄さのわかる一枚。
 大推薦だ。

 って、いくらヴァントでも、「田園」と「運命」を繰り返し聴くのはちょとくどいかもしれないけどね。
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美しき歌の花束

 ☆シャルパンティエ:美しき歌の花束
  ウィリアム・クリスティ指揮レザール・フロリサン他
  1998年録音
  <ERAT>3984−25485−2

 先週大阪で購入した4枚の中古CDの中から、まずは、ウィリアム・クリスティ指揮レザール・フロリサン他の演奏による、マルカントワーヌ・シャルパンティエのディヴェルティスマン、エールとコンセール集をとり上げる。

 クリスティはアメリカ出身の音楽家だが、フランスのバロック音楽を得意としており、特に、自らの率いるアンサンブルにレザール・フロリサン(花咲ける芸術=シャルパンティエの作品名)の名前をいただいていることからもわかるように、シャルパンティエのスペシャリストとして知られている。

 このCDは、レザール・フロリサンの結成20周年を記念して録音されたアルバムなのだけれど、まさしくそうした記念に相応しい一枚になっているのではないか。

 まずもって、シャルパンティエの音楽そのものが美しい。
 バロック時代というと、どうしても喜怒哀楽の表現がはっきりとした、はではでしい音楽になりがちだが、シャルパンティエの作品は抑制がきいていて、細やかさと優美さに満ちているのである。

 クリスティとレザール・フロリサンは、そうしたシャルパンティエの音楽の持つ魅力を、丹念で密度の濃い演奏で、十二分に表現し尽くしている。

 加えて、ソプラノのパトリシア・プティボンをはじめとした粒ぞろいの独唱陣!
 集めも集めたり、と評したくなるような均整のとれた美しい歌声の数々には、じっくりと耳を傾ける他ない。

 バロック好き、歌好き、フランス好きの方のみならず、音楽好きの方にはなべてお薦めしたい一枚だ。
 大推薦。
posted by figarok492na at 11:24| Comment(0) | TrackBack(0) | CDレビュー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする