☆ベートーヴェン:ピアノのための変奏曲・舞曲集
独奏:オリ・ムストネン(ピアノ)
録音:1995年10月16日、17日 ロンドン・ヘンリー・ウッド・ホール
デジタル・セッション
<DECCA>452 206-2
フィンランド出身のピアニスト、オリ・ムストネンの実演にも接したことがある。
2001年11月16日の大阪音楽大学ザ・カレッジ・オペラハウスでの来日リサイタルがそうで、ベートーヴェンのピアノ・ソナタ第15番「田園」、11のバガテル、ロンド・ア・カプリッチョ、幻想曲とブラームスのヘンデルの主題による変奏曲とフーガが並んでいたが、いずれも清新な演奏だった。
今回は、そのムストネンが弾いたベートーヴェンのピアノのための変奏曲・舞曲集を聴く。
なお、このCDは、同じDECCAレーベルとの変奏曲集に続く2枚目のベートーヴェンで、その後RCAレーベルにディアベッリの主題による33の変奏曲他とピアノ・ソナタ第30番他の2枚のアルバムを残している。
おなじみ『庭の千草』(の原曲)などを盛り込んだ6つの民謡主題と変奏曲、7つのレントラー、創作主題による6つのやさしい変奏曲、ロンドハ長調、ハイベルのバレエ『邪魔された結婚』の「ヴィガーノ風メヌエット」の主題による12の変奏曲、メヌエット変ホ長調、6つのエコセーズ、6つのバガテル、ピアノ小品ロ短調と、ロンドと6つのバガテルを除くとあまり有名ではない作品が収められているが、ムストネンのピアノ演奏だと、そのいずれもが個性あふれて魅力的な音楽に聴こえてくる。
ムストネンのベートーヴェン演奏の特徴を挙げるとすれば、フォルテピアノの影響もあるだろうが、一つ一つの音を細かく跳ねるように響かせつつも、それをぶつ切りにすることなく、大きな音の流れとしてつなげていく。
また、強弱の変化にも非常に敏感だが、それでいて音の透明感は全く失われない。
さらに、楽曲ごとの丁寧な腑分け、把握が行われていて、音楽の見通しがよい、ということになるだろうか。
快活で軽やかな6つのバガテルなど、ウゴルスキの演奏ととても対照的だ。
ベートーヴェンのくどさ、しつこさにはうんざり、という方にこそお薦めしたい一枚。
暑い時期には、なおのことぴったり!
2015年07月31日
アナトール・ウゴルスキが弾いたベートーヴェンのピアノ作品集
☆ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第32番他
独奏:アナトール・ウゴルスキ(ピアノ)
録音:1992年1月、1991年7月
ハンブルク・フリードリヒ・エーベルトハレ
デジタル・セッション
<ドイツ・グラモフォン>435 881-2
アナトール・ウゴルスキの実演には、かつて一度だけ接したことがある。
1993年10月8日、ケルン・フィルハーモニーでのルドルフ・バルシャイ指揮ケルンWDR交響楽団の定期公演でブラームスのピアノ協奏曲第1番を弾いたときだ。
まるで蛸が吸盤で岩盤にへばりつくような、身を屈めて手だけ伸ばすウゴルスキの姿勢にありゃと思っていたら、オーケストラの堂々とした伴奏がひとしきり終わってピアノのソロが始まったとたん、僕は彼の世界に惹き込まれた。
一音一音が十分十二分に意味を持つというか。
ブラームスのリリシズムやロマンティシズムがウゴルスキというフィルターを通して、繊細丹念に再現されていくのだ。
呆然というほかない、演奏が終わったときの不思議な感覚を今も覚えている。
加えて、アンコールのスカルラッティのソナタも素晴らしかった。
遅いテンポで細やかに語られる音楽の美しさ。
同じ契約先のドイツ・グラモフォンからイーヴォ・ポゴレリチのソナタ集がリリースされていたこともあってか、ウゴルスキのスカルラッティが録音されなかったのは、返す返す残念だ。
で、今回取り上げるのは、そのウゴルスキがピアノ・ソナタ第32番などベートーヴェンのピアノ作品を演奏したアルバムである。
ウゴルスキのベートーヴェンといえば、作家のディーチェが自分の新作の付録として録音を要求し、そのあまりの出来栄えのよさに正式にリリースされることとなったデビュー盤のディアベッリの主題による33の変奏曲が有名だが、こちらのアルバムも、ウゴルスキというピアニスト、音楽家の特性がよく表われた内容となっている。
それを一言で言い表すならば、作品を通しての自問自答ということになるかもしれない。
そしてそれは、華美なテクニックのひけらかしではなく、自分自身の納得のいく音楽、演奏の追求と言い換えることもできるかもしれない。
例えば、ベートーヴェンにとって最後のピアノ・ソナタとなる第32番のソナタ。
第1楽章のドラマティックな部分も悪くはないが、ウゴルスキの演奏の肝は一見(聴)淡々と、しかしながらあくまでも真摯に歩んでいく第2楽章の弱音の部分にあると思う。
(だから、第2楽章のちょっとジャジーな音型のあたりははじけない。というか、慎み深く鳴らされる)
その意味でさらにウゴルスキの特性が示されているのは、作品番号126の6つのバガテルだ。
ここでは確信を持って非常に遅めのテンポが保たれている。
4曲目のプレストでも、表層的な激しさよりも感情の変化が尊ばれる。
そうすることによって、作品の構造そのものもそうだけれど、音楽自体を支えている土台に対してウゴルスキがどう向き合ったかがよく聴こえてくる。
さらに、そのゆっくりとしたテンポは、おなじみエリーゼのためにでも持続される。
その静謐さには、哀しみすら感じるほどだ。
最後は、「小銭を失くした怒り」の愛称で知られるロンド・ア・カプリッチョ。
この曲は、全てが解き放たれるように、とても速いスピードで弾かれる。
けれど、もちろんそれは「俺はこんなに速く弾くことができるんだぜ」といった自己顕示の反映などではない。
作品が求めるものと自分自身が求めるものとが重なり合った結果が、この演奏なのだ。
正直、ファーストチョイスとしてお薦めはしない。
だからこそ、強く印象に残る魅力的なアルバムでもある。
独奏:アナトール・ウゴルスキ(ピアノ)
録音:1992年1月、1991年7月
ハンブルク・フリードリヒ・エーベルトハレ
デジタル・セッション
<ドイツ・グラモフォン>435 881-2
アナトール・ウゴルスキの実演には、かつて一度だけ接したことがある。
1993年10月8日、ケルン・フィルハーモニーでのルドルフ・バルシャイ指揮ケルンWDR交響楽団の定期公演でブラームスのピアノ協奏曲第1番を弾いたときだ。
まるで蛸が吸盤で岩盤にへばりつくような、身を屈めて手だけ伸ばすウゴルスキの姿勢にありゃと思っていたら、オーケストラの堂々とした伴奏がひとしきり終わってピアノのソロが始まったとたん、僕は彼の世界に惹き込まれた。
一音一音が十分十二分に意味を持つというか。
ブラームスのリリシズムやロマンティシズムがウゴルスキというフィルターを通して、繊細丹念に再現されていくのだ。
呆然というほかない、演奏が終わったときの不思議な感覚を今も覚えている。
加えて、アンコールのスカルラッティのソナタも素晴らしかった。
遅いテンポで細やかに語られる音楽の美しさ。
同じ契約先のドイツ・グラモフォンからイーヴォ・ポゴレリチのソナタ集がリリースされていたこともあってか、ウゴルスキのスカルラッティが録音されなかったのは、返す返す残念だ。
で、今回取り上げるのは、そのウゴルスキがピアノ・ソナタ第32番などベートーヴェンのピアノ作品を演奏したアルバムである。
ウゴルスキのベートーヴェンといえば、作家のディーチェが自分の新作の付録として録音を要求し、そのあまりの出来栄えのよさに正式にリリースされることとなったデビュー盤のディアベッリの主題による33の変奏曲が有名だが、こちらのアルバムも、ウゴルスキというピアニスト、音楽家の特性がよく表われた内容となっている。
それを一言で言い表すならば、作品を通しての自問自答ということになるかもしれない。
そしてそれは、華美なテクニックのひけらかしではなく、自分自身の納得のいく音楽、演奏の追求と言い換えることもできるかもしれない。
例えば、ベートーヴェンにとって最後のピアノ・ソナタとなる第32番のソナタ。
第1楽章のドラマティックな部分も悪くはないが、ウゴルスキの演奏の肝は一見(聴)淡々と、しかしながらあくまでも真摯に歩んでいく第2楽章の弱音の部分にあると思う。
(だから、第2楽章のちょっとジャジーな音型のあたりははじけない。というか、慎み深く鳴らされる)
その意味でさらにウゴルスキの特性が示されているのは、作品番号126の6つのバガテルだ。
ここでは確信を持って非常に遅めのテンポが保たれている。
4曲目のプレストでも、表層的な激しさよりも感情の変化が尊ばれる。
そうすることによって、作品の構造そのものもそうだけれど、音楽自体を支えている土台に対してウゴルスキがどう向き合ったかがよく聴こえてくる。
さらに、そのゆっくりとしたテンポは、おなじみエリーゼのためにでも持続される。
その静謐さには、哀しみすら感じるほどだ。
最後は、「小銭を失くした怒り」の愛称で知られるロンド・ア・カプリッチョ。
この曲は、全てが解き放たれるように、とても速いスピードで弾かれる。
けれど、もちろんそれは「俺はこんなに速く弾くことができるんだぜ」といった自己顕示の反映などではない。
作品が求めるものと自分自身が求めるものとが重なり合った結果が、この演奏なのだ。
正直、ファーストチョイスとしてお薦めはしない。
だからこそ、強く印象に残る魅力的なアルバムでもある。
2015年07月30日
アンドレアス・シュタイアーが弾いたハイドンのクラヴィーア・ソナタ集VOL.2&VOL.3
☆ハイドン:クラヴィーア・ソナタ集VOL.2&VOL.3
独奏:アンドレアス・シュタイアー(フォルテピアノ)
録音:VOL.2 1991年9月9日〜12日
VOL.3 1992年6月8日〜11日
リントラー・クルトゥールゼントルム
<DHM>05472 77186 2(VOL.2) 05472 77285 2(VOL.3)
アンドレアス・シュタイアーがドイツ・ハルモニアムンディ・レーベルに録音した3枚のハイドンのクラヴィーア・ソナタ集のうち、第35番〜第39番と第20番の第2集、アリエッタと12の変奏曲第1番、第34番、アンダンテと変奏曲、第33番、皇帝讃歌『神よ、皇帝を護り給え』による変奏曲の第3集を聴く。
ハイドンのソナタといえば、ソナチネ・アルバム=初心者のための教材というイメージがどうにも付きまとうが、このシュタイアーのフォルテピアノ演奏で聴くと、そんな思い込みも一発で吹き飛んでしまう。
例えば、第2集の冒頭に収められた第35番の第1楽章を聴いて欲しい。
それこそソナチネ・アルバムでおなじみの作品だけれど、飛び跳ねるような音楽のなんと美しく軽やかなこと!
聴いていて、本当にうきうきしてくる。
同じ第2集の第38番の第1楽章もそう。
作品の持つ明るさ、愉しさ、活き活きとした感じが存分に再現されている。
と言って、シュタイアーは浮かれ調子の馬鹿っ調子で好き勝手手前勝手に弾き倒しているわけではない。
テンポ設定や強弱の変化等々、作品の構造の把握の的確さに秀でている点は、やはり高く評価せねばならないだろう。
また、ソナタの緩徐楽章や第3集の変奏曲などにおける叙情性、歌唱性への充分な配慮も忘れてはなるまい。
弦楽4重奏曲第77番「皇帝」の第2楽章ともつながる皇帝讃歌による変奏曲の静謐さ、真摯さも強く印象に残った。
ソナチネ・アルバムにうっとうしい想いをさせられた方にこそ強くお薦めしたい、とびきりのアルバムである。
独奏:アンドレアス・シュタイアー(フォルテピアノ)
録音:VOL.2 1991年9月9日〜12日
VOL.3 1992年6月8日〜11日
リントラー・クルトゥールゼントルム
<DHM>05472 77186 2(VOL.2) 05472 77285 2(VOL.3)
アンドレアス・シュタイアーがドイツ・ハルモニアムンディ・レーベルに録音した3枚のハイドンのクラヴィーア・ソナタ集のうち、第35番〜第39番と第20番の第2集、アリエッタと12の変奏曲第1番、第34番、アンダンテと変奏曲、第33番、皇帝讃歌『神よ、皇帝を護り給え』による変奏曲の第3集を聴く。
ハイドンのソナタといえば、ソナチネ・アルバム=初心者のための教材というイメージがどうにも付きまとうが、このシュタイアーのフォルテピアノ演奏で聴くと、そんな思い込みも一発で吹き飛んでしまう。
例えば、第2集の冒頭に収められた第35番の第1楽章を聴いて欲しい。
それこそソナチネ・アルバムでおなじみの作品だけれど、飛び跳ねるような音楽のなんと美しく軽やかなこと!
聴いていて、本当にうきうきしてくる。
同じ第2集の第38番の第1楽章もそう。
作品の持つ明るさ、愉しさ、活き活きとした感じが存分に再現されている。
と言って、シュタイアーは浮かれ調子の馬鹿っ調子で好き勝手手前勝手に弾き倒しているわけではない。
テンポ設定や強弱の変化等々、作品の構造の把握の的確さに秀でている点は、やはり高く評価せねばならないだろう。
また、ソナタの緩徐楽章や第3集の変奏曲などにおける叙情性、歌唱性への充分な配慮も忘れてはなるまい。
弦楽4重奏曲第77番「皇帝」の第2楽章ともつながる皇帝讃歌による変奏曲の静謐さ、真摯さも強く印象に残った。
ソナチネ・アルバムにうっとうしい想いをさせられた方にこそ強くお薦めしたい、とびきりのアルバムである。
ブルーノ・ヴァイルが指揮したハイドンの交響曲第82番〜第84番
☆ハイドン:交響曲第82番「熊」〜第84番
指揮:ブルーノ・ヴァイル
管弦楽:ターフェルムジーク
録音:1994年2月15日〜19日、トロント・グレン・グールド・スタジオ
デジタル・セッション
<SONY>SK66295
今日ほど、真の中庸の道を歩むことのむずかしく、それにもかかわらずまたそれの必要なときもないことがわかる。
中庸の道とはもちろん現状維持のことではなく、革命にさえそれはあるのだ。
それは折衷でも妥協でもなく、いちばん思慮と勇気の要る道なのだ。
とは、今は亡き林達夫の言葉だが、カナダのピリオド楽器オーケストラ、ターフェルムジークをブルーノ・ヴァイルが指揮して録音したハイドンの交響曲ほど、この言葉にぴったりの演奏もないと思う。
このアルバムには、パリのアマチュア・オーケストラ、コンセール・ド・ラ・ロージュ・オランピックの委嘱で作曲された、いわゆる「パリ・セット」のうち、前半の3曲が収められているが、ヴァイルとターフェルムジークは、祝祭的な第82番、劇性に富んだ第83番、優美な第84番といった各々の作品の性格はもちろんのこと、大編成の管弦楽のために大いに腕をふるったハイドンの音楽的な仕掛けを的確に再現している。
例えばそれは、「熊」というニックネームのもととなったとされる第82番終楽章のドゥイーンドゥイーンという音型や、「めんどり」というニックネームのもととなったとされる第83番第1楽章の第2主題、第84番終楽章の急緩強弱の変化など、挙げ始めるときりがない。
そして忘れてならないのは、こうした諸々が、実にさりげなく、一つの作品、一つの音楽の流れを壊すことなく表現されていることだ。
ニコラウス・アーノンクールや、彼の薫陶を受けたトマス・ファイが指揮したハイドンの交響曲には、そのアクロバティックなまでのめまぐるしい表情の変化を愉しむ反面、ときとしてわずらわしさを感じることがある。
その点、ヴァイルの快活なテンポを保った楽曲解釈は、何度聴いても聴き飽きることがない。
ターフェルムジークの明晰でまとまりのよいアンサンブルも、そうしたヴァイルの音楽づくりによく合っていると思う。
録音も実にクリアで、聴き心地がよい。
古典派好きには大いにお薦めしたい一枚だ。
返す返す残念なのは、ヴァイルとターフェルムジークによるハイドンの交響曲の録音が、中途で頓挫してしまったことである。
30番台〜第92番まで(つまるところ、ザロモン・セット以前)の交響曲、それが贅沢なら、少なくとも70番台、80番台と第91番、第92番「オックスフォード」はなんとか録音しておいて欲しかった。
(なお、ヴァイルは、ライヴ録音によるカペラ・コロニエンスシスとのザロモン・セットをリリースしているが、オーケストラの特性もあってか、ターフェルムジークとの録音ほどには魅力を感じない)
指揮:ブルーノ・ヴァイル
管弦楽:ターフェルムジーク
録音:1994年2月15日〜19日、トロント・グレン・グールド・スタジオ
デジタル・セッション
<SONY>SK66295
今日ほど、真の中庸の道を歩むことのむずかしく、それにもかかわらずまたそれの必要なときもないことがわかる。
中庸の道とはもちろん現状維持のことではなく、革命にさえそれはあるのだ。
それは折衷でも妥協でもなく、いちばん思慮と勇気の要る道なのだ。
とは、今は亡き林達夫の言葉だが、カナダのピリオド楽器オーケストラ、ターフェルムジークをブルーノ・ヴァイルが指揮して録音したハイドンの交響曲ほど、この言葉にぴったりの演奏もないと思う。
このアルバムには、パリのアマチュア・オーケストラ、コンセール・ド・ラ・ロージュ・オランピックの委嘱で作曲された、いわゆる「パリ・セット」のうち、前半の3曲が収められているが、ヴァイルとターフェルムジークは、祝祭的な第82番、劇性に富んだ第83番、優美な第84番といった各々の作品の性格はもちろんのこと、大編成の管弦楽のために大いに腕をふるったハイドンの音楽的な仕掛けを的確に再現している。
例えばそれは、「熊」というニックネームのもととなったとされる第82番終楽章のドゥイーンドゥイーンという音型や、「めんどり」というニックネームのもととなったとされる第83番第1楽章の第2主題、第84番終楽章の急緩強弱の変化など、挙げ始めるときりがない。
そして忘れてならないのは、こうした諸々が、実にさりげなく、一つの作品、一つの音楽の流れを壊すことなく表現されていることだ。
ニコラウス・アーノンクールや、彼の薫陶を受けたトマス・ファイが指揮したハイドンの交響曲には、そのアクロバティックなまでのめまぐるしい表情の変化を愉しむ反面、ときとしてわずらわしさを感じることがある。
その点、ヴァイルの快活なテンポを保った楽曲解釈は、何度聴いても聴き飽きることがない。
ターフェルムジークの明晰でまとまりのよいアンサンブルも、そうしたヴァイルの音楽づくりによく合っていると思う。
録音も実にクリアで、聴き心地がよい。
古典派好きには大いにお薦めしたい一枚だ。
返す返す残念なのは、ヴァイルとターフェルムジークによるハイドンの交響曲の録音が、中途で頓挫してしまったことである。
30番台〜第92番まで(つまるところ、ザロモン・セット以前)の交響曲、それが贅沢なら、少なくとも70番台、80番台と第91番、第92番「オックスフォード」はなんとか録音しておいて欲しかった。
(なお、ヴァイルは、ライヴ録音によるカペラ・コロニエンスシスとのザロモン・セットをリリースしているが、オーケストラの特性もあってか、ターフェルムジークとの録音ほどには魅力を感じない)
2015年07月29日
ヴィルムスの交響曲第6番&第7番
☆ヴィルムス:交響曲第6番&第7番
管弦楽:コンチェルト・ケルン
(2003年2月14日〜17日/デジタル・セッション録音)
<ARCHIV>474 508-2
オランダの作曲家、ヨハン・ヴィルヘルム・ヴィルムスは、1772年に生まれ1847年に亡くなっているから、ちょうどベートーヴェンと同時期に活躍したということになる。
実際、このアルバムに収められたいずれも短調の第6番ニ短調と第7番ハ短調の二つの交響曲を聴けば、古典派から初期ロマン派の端境というか、ヴィルムスが置かれた音楽史的な位置がよくわかるのではないか。
ともに4楽章で、劇性と緊張感に富んだ第1楽章、メロディカルで叙情的な緩徐楽章、といった作品の構成もすぐにベートーヴェンを想起させる。
管楽器のソロなど作曲的工夫が随所に聴き受けられる上に、表面的には粗い感触ながらも、その実技術的には的確で精度の高いアンサンブルを造り上げているヴェルナー・エールハルト率いるコンチェルト・ケルンの演奏も加わって、なかなかの聴きものになっている。
ただ、ところどころもって回った感じというのか、ベートーヴェンのようにある種の破綻や逸脱も含めて全てがきっちり決まりきらないもどかしさ、もっささを覚えたことも事実だ。
そのもどかしさ、もっささをどうとらえるかで、若干好みがわかれてくると思う。
ケルンのドイツ放送ゼンデザールでの録音は、非常にクリア。
コンチェルト・ケルンの演奏のスタイルにもよく沿っている。
管弦楽:コンチェルト・ケルン
(2003年2月14日〜17日/デジタル・セッション録音)
<ARCHIV>474 508-2
オランダの作曲家、ヨハン・ヴィルヘルム・ヴィルムスは、1772年に生まれ1847年に亡くなっているから、ちょうどベートーヴェンと同時期に活躍したということになる。
実際、このアルバムに収められたいずれも短調の第6番ニ短調と第7番ハ短調の二つの交響曲を聴けば、古典派から初期ロマン派の端境というか、ヴィルムスが置かれた音楽史的な位置がよくわかるのではないか。
ともに4楽章で、劇性と緊張感に富んだ第1楽章、メロディカルで叙情的な緩徐楽章、といった作品の構成もすぐにベートーヴェンを想起させる。
管楽器のソロなど作曲的工夫が随所に聴き受けられる上に、表面的には粗い感触ながらも、その実技術的には的確で精度の高いアンサンブルを造り上げているヴェルナー・エールハルト率いるコンチェルト・ケルンの演奏も加わって、なかなかの聴きものになっている。
ただ、ところどころもって回った感じというのか、ベートーヴェンのようにある種の破綻や逸脱も含めて全てがきっちり決まりきらないもどかしさ、もっささを覚えたことも事実だ。
そのもどかしさ、もっささをどうとらえるかで、若干好みがわかれてくると思う。
ケルンのドイツ放送ゼンデザールでの録音は、非常にクリア。
コンチェルト・ケルンの演奏のスタイルにもよく沿っている。
2015年06月18日
ワルター・ウェラーの死を悼む
☆ワルター・ウェラーの死を悼む
ここのところ朝日新聞夕刊の「人生の贈りもの わたしの半生」で、まもなくウィーン・フィルのコンサートマスターを退くライナー・キュッヒルが興味深いエピソードを語っているが、そのウィーン・フィルのコンサートマスターから指揮者に転じた、ワルター・ウェラーが亡くなった。76歳。
1939年にウィーンに生まれ、キュッヒルの師匠でもあるフランツ・サモヒルにヴァイオリンを学び、カール・ベームやホルスト・シュタインに指揮を学んだ。
幼少の頃から優れたヴァイオリニストとして注目され、10代後半でウィーン・フィルに入団し、ウィーン・フィルのメンバーとともにウェラー弦楽4重奏団を結成した。
その後、ウィーン・フィルの第1コンサートマスターに就任し、室内楽演奏ともどもさらなる活躍を嘱望されたが、1960年代末に指揮活動を開始する。
以降、ウィーン国立歌劇場やウィーン・フォルクスオーパーの指揮台に立ったほか、デュイスブルク市、ウィーン・トーンキュンストラー管弦楽団、ロイヤル・リヴァプール・フィル、ロイヤル・フィル、ロイヤル・スコティッシュ・ナショナル管弦楽団、バーゼル市歌劇場とバーゼル交響楽団、ベルギー国立管弦楽団の音楽監督や首席指揮者を歴任した。
また、1970年代に、ロヴロ・フォン・マタチッチの代理としてNHK交響楽団の定期公演に登場するなど、何度か来日している。
ウィーン・フィルやウェラー弦楽4重奏団時代からなじみの深いDECCAレーベルに、ロンドン交響楽団とロンドン・フィルを振り分けたプロコフィエフの交響曲全集、スイス・ロマンド管弦楽団とロンドン・フィルを振り分けたラフマニノフの交響曲全集、CHANDOSレーベルに、バーミンガム・シティ交響楽団とのベートーヴェンの交響曲全集(バリー・クーパー補作による第10番第1楽章も含む)、フィルハーモニア管弦楽団とのメンデルスゾーンの交響曲全集等、数々の録音を遺しており、単純な手堅さ丁寧さに留まらない、例えばプロコフィエフの第2番のようなシャープでクリアな演奏も少なくないのだけれど、それでもなお、正直彼の本領はウェラー弦楽4重奏団においてこそ十二分に発揮されていたような気がしてならない。
ウェラーを悼んで、ウェラー弦楽4重奏団が演奏した『モーツァルトのカルテット・パーティ』<DECCA/タワーレコード>を聴く。
ハイドンが第1ヴァイオリン、ディッタースドルフが第2ヴァイオリン、モーツァルトがヴィオラ、ヴァンハルがチェロを務めた弦楽4重奏のコンサートを再現したアルバムで、モーツァルトの第3番、ハイドンの第3番、ディッタースドルフの第5番、ヴァンハルのヘ長調の4曲が収められている。
ウィーン風の艶やかな音色を保ちつつも、粘らない流麗で快活な音楽運びと、均整のよくとれた演奏だ。
作品のつくりもあって、ウェラーの第1ヴァイオリンも魅力的である。
深く、深く、深く、深く黙祷。
ここのところ朝日新聞夕刊の「人生の贈りもの わたしの半生」で、まもなくウィーン・フィルのコンサートマスターを退くライナー・キュッヒルが興味深いエピソードを語っているが、そのウィーン・フィルのコンサートマスターから指揮者に転じた、ワルター・ウェラーが亡くなった。76歳。
1939年にウィーンに生まれ、キュッヒルの師匠でもあるフランツ・サモヒルにヴァイオリンを学び、カール・ベームやホルスト・シュタインに指揮を学んだ。
幼少の頃から優れたヴァイオリニストとして注目され、10代後半でウィーン・フィルに入団し、ウィーン・フィルのメンバーとともにウェラー弦楽4重奏団を結成した。
その後、ウィーン・フィルの第1コンサートマスターに就任し、室内楽演奏ともどもさらなる活躍を嘱望されたが、1960年代末に指揮活動を開始する。
以降、ウィーン国立歌劇場やウィーン・フォルクスオーパーの指揮台に立ったほか、デュイスブルク市、ウィーン・トーンキュンストラー管弦楽団、ロイヤル・リヴァプール・フィル、ロイヤル・フィル、ロイヤル・スコティッシュ・ナショナル管弦楽団、バーゼル市歌劇場とバーゼル交響楽団、ベルギー国立管弦楽団の音楽監督や首席指揮者を歴任した。
また、1970年代に、ロヴロ・フォン・マタチッチの代理としてNHK交響楽団の定期公演に登場するなど、何度か来日している。
ウィーン・フィルやウェラー弦楽4重奏団時代からなじみの深いDECCAレーベルに、ロンドン交響楽団とロンドン・フィルを振り分けたプロコフィエフの交響曲全集、スイス・ロマンド管弦楽団とロンドン・フィルを振り分けたラフマニノフの交響曲全集、CHANDOSレーベルに、バーミンガム・シティ交響楽団とのベートーヴェンの交響曲全集(バリー・クーパー補作による第10番第1楽章も含む)、フィルハーモニア管弦楽団とのメンデルスゾーンの交響曲全集等、数々の録音を遺しており、単純な手堅さ丁寧さに留まらない、例えばプロコフィエフの第2番のようなシャープでクリアな演奏も少なくないのだけれど、それでもなお、正直彼の本領はウェラー弦楽4重奏団においてこそ十二分に発揮されていたような気がしてならない。
ウェラーを悼んで、ウェラー弦楽4重奏団が演奏した『モーツァルトのカルテット・パーティ』<DECCA/タワーレコード>を聴く。
ハイドンが第1ヴァイオリン、ディッタースドルフが第2ヴァイオリン、モーツァルトがヴィオラ、ヴァンハルがチェロを務めた弦楽4重奏のコンサートを再現したアルバムで、モーツァルトの第3番、ハイドンの第3番、ディッタースドルフの第5番、ヴァンハルのヘ長調の4曲が収められている。
ウィーン風の艶やかな音色を保ちつつも、粘らない流麗で快活な音楽運びと、均整のよくとれた演奏だ。
作品のつくりもあって、ウェラーの第1ヴァイオリンも魅力的である。
深く、深く、深く、深く黙祷。
2015年06月10日
パーヴォ・ヤルヴィのベートーヴェン(交響曲第5番&第1番)
☆ベートーヴェン:交響曲第5番&第1番
指揮:パーヴォ・ヤルヴィ
管弦楽:ドイツ・カンマーフィル
録音:2006年8月27〜29日(第5番)、8月31日、9月1日(第1番)
ベルリン・フンクハウス
デジタル/セッション
<RCA>88875087872
SACDとして発売され、すでに世評の高いパーヴォ・ヤルヴィと手兵ドイツ・カンマーフィルによるベートーヴェンの交響曲全集のうち、第5番と第1番をCDとして再リリースしたものだ。
いわゆるピリオド奏法を援用しつつ、モダン楽器の機能性の高さ、アンサンブルの均整さも活かした、スピーディーで歯切れのよい明晰な演奏で、とても聴き心地がよい。
このCDでは、有名な第5番と第1番の2曲がカップリングされているが、標題性や精神性の強調よりも作品の構造を綿密に腑分けして再現することに重点を置くパーヴォ・ヤルヴィの解釈によって、前者が後者と地続きの交響曲であることを改めて実感することができた。
暑苦しくて重ったるいベートーヴェンは苦手、という方にこそ大いにお薦めしたい一枚である。
録音も、非常にクリア。
指揮:パーヴォ・ヤルヴィ
管弦楽:ドイツ・カンマーフィル
録音:2006年8月27〜29日(第5番)、8月31日、9月1日(第1番)
ベルリン・フンクハウス
デジタル/セッション
<RCA>88875087872
SACDとして発売され、すでに世評の高いパーヴォ・ヤルヴィと手兵ドイツ・カンマーフィルによるベートーヴェンの交響曲全集のうち、第5番と第1番をCDとして再リリースしたものだ。
いわゆるピリオド奏法を援用しつつ、モダン楽器の機能性の高さ、アンサンブルの均整さも活かした、スピーディーで歯切れのよい明晰な演奏で、とても聴き心地がよい。
このCDでは、有名な第5番と第1番の2曲がカップリングされているが、標題性や精神性の強調よりも作品の構造を綿密に腑分けして再現することに重点を置くパーヴォ・ヤルヴィの解釈によって、前者が後者と地続きの交響曲であることを改めて実感することができた。
暑苦しくて重ったるいベートーヴェンは苦手、という方にこそ大いにお薦めしたい一枚である。
録音も、非常にクリア。
山田一雄と大阪センチュリー交響楽団が演奏したベートーヴェンの交響曲第3番
☆ベートーヴェン:交響曲第3番「英雄」他
指揮:山田一雄
管弦楽:大阪センチュリー交響楽団
録音:1991年3月15日、ザ・シンフォニーホール
デジタル/ライヴ録音
<ライヴノーツ>WWCC-7782
以前記したことだが、僕は朝比奈隆の演奏に5回しか接することがなかったことを全く残念には思っていない。
ブルックナーの交響曲第4番「ロマンティック」、第5番、第8番、ブラームスの交響曲第4番、リヒャルト・シュトラウスのアルプス交響曲(いずれも大阪フィルの定期演奏会)と、朝比奈さんが指揮するドイツ音楽は悠然確固としたもので、確かに立派だなあとは思いつつも、正直強く心を揺り動かされることはなかった。
僕がどうにも残念でならないのは、ヤマカズさんこと山田一雄の実演に僅か4回しか接することができなかったことだ。
笛吹くから踊ってくれよ、とばかり激しく動き狂うあの指揮姿を僕は未だに忘れられない。
今年3月にライヴノーツ・レーベルからリリースされたこのアルバムは、亡くなる5ヶ月ほど前(8月13日に逝去)に山田一雄が指揮した大阪センチュリー交響楽団の第4回定期演奏会のライヴ録音をCD化したものである。
ライヴということで、細かい傷はありつつも、大ベテランのヤマカズさんの指揮の下、センチュリー響の面々が真摯で密度の濃い演奏を繰り広げている。
と、こう記すと、エネルギー全開の大熱演大爆演を期待する向きもあるかもしれないが、あいにくこのCDの魅力はそれではない。
以前取り上げた、日本フィルとの同じ曲<タワーレコード>とも通じるが、例えば第2楽章の葬送行進曲など要所急所も含め、まとまりのあるアンサンブルによって見通しがよく均整のとれた音楽を生み出そうとしている点が、このCDの魅力であると思う。
それには、室内オーケストラ=小編成という大阪センチュリー交響楽団の特性も大きく関係しているだろう。
などと、それらしいことを記しているが、実はこの演奏を僕は生で聴いている。
ならば、前々回のセルジュ・チェリビダッケ指揮ミュンヘン・フィルのCDレビューで記したように、いやそれ以上に、こうやってCDで繰り返して聴くことに違和感を覚える…。
かといえば、それがそうではない。
こうやってCDで繰り返して聴くことによって、あのときふんわりぼんやりとしか受け止めきれていなかったものが、とても鮮明に「見える」ような気がして、僕には仕方がないのである。
そうそう、このCDにはアンコールのモーツァルトの歌劇『クレタの王イドメネオ』のバレエ音楽からガヴォット(ヤマカズさんがアンコールとして好んで取り上げていた)も収録されているのだけれど、僕はこの曲が演奏されたことをずっと忘れてしまっていた。
芯がしっかりと通って粘らない演奏で、耳なじみがよい。
それにしても、山田一雄には少なくともあと数年長生きしてもらいたかった。
だいたい、このコンサートでのヤマカズさんの姿を目にして、まだまだ大丈夫だなと思い、同じ月の京都市交響楽団の定期(29日、京都会館。第332回。オール・モーツァルト・プログラム。遭難死したウィーン・フィルのコンマス、ゲルハルト・ヘッツェルが登場)をパスしたのだし、9月の京都市交響楽団の定期(20日、京都会館。第337回)ではベートーヴェンの運命が聴けるものだと信じ切っていたのだ。
悔やんでも悔やみきれない。
指揮:山田一雄
管弦楽:大阪センチュリー交響楽団
録音:1991年3月15日、ザ・シンフォニーホール
デジタル/ライヴ録音
<ライヴノーツ>WWCC-7782
以前記したことだが、僕は朝比奈隆の演奏に5回しか接することがなかったことを全く残念には思っていない。
ブルックナーの交響曲第4番「ロマンティック」、第5番、第8番、ブラームスの交響曲第4番、リヒャルト・シュトラウスのアルプス交響曲(いずれも大阪フィルの定期演奏会)と、朝比奈さんが指揮するドイツ音楽は悠然確固としたもので、確かに立派だなあとは思いつつも、正直強く心を揺り動かされることはなかった。
僕がどうにも残念でならないのは、ヤマカズさんこと山田一雄の実演に僅か4回しか接することができなかったことだ。
笛吹くから踊ってくれよ、とばかり激しく動き狂うあの指揮姿を僕は未だに忘れられない。
今年3月にライヴノーツ・レーベルからリリースされたこのアルバムは、亡くなる5ヶ月ほど前(8月13日に逝去)に山田一雄が指揮した大阪センチュリー交響楽団の第4回定期演奏会のライヴ録音をCD化したものである。
ライヴということで、細かい傷はありつつも、大ベテランのヤマカズさんの指揮の下、センチュリー響の面々が真摯で密度の濃い演奏を繰り広げている。
と、こう記すと、エネルギー全開の大熱演大爆演を期待する向きもあるかもしれないが、あいにくこのCDの魅力はそれではない。
以前取り上げた、日本フィルとの同じ曲<タワーレコード>とも通じるが、例えば第2楽章の葬送行進曲など要所急所も含め、まとまりのあるアンサンブルによって見通しがよく均整のとれた音楽を生み出そうとしている点が、このCDの魅力であると思う。
それには、室内オーケストラ=小編成という大阪センチュリー交響楽団の特性も大きく関係しているだろう。
などと、それらしいことを記しているが、実はこの演奏を僕は生で聴いている。
ならば、前々回のセルジュ・チェリビダッケ指揮ミュンヘン・フィルのCDレビューで記したように、いやそれ以上に、こうやってCDで繰り返して聴くことに違和感を覚える…。
かといえば、それがそうではない。
こうやってCDで繰り返して聴くことによって、あのときふんわりぼんやりとしか受け止めきれていなかったものが、とても鮮明に「見える」ような気がして、僕には仕方がないのである。
そうそう、このCDにはアンコールのモーツァルトの歌劇『クレタの王イドメネオ』のバレエ音楽からガヴォット(ヤマカズさんがアンコールとして好んで取り上げていた)も収録されているのだけれど、僕はこの曲が演奏されたことをずっと忘れてしまっていた。
芯がしっかりと通って粘らない演奏で、耳なじみがよい。
それにしても、山田一雄には少なくともあと数年長生きしてもらいたかった。
だいたい、このコンサートでのヤマカズさんの姿を目にして、まだまだ大丈夫だなと思い、同じ月の京都市交響楽団の定期(29日、京都会館。第332回。オール・モーツァルト・プログラム。遭難死したウィーン・フィルのコンマス、ゲルハルト・ヘッツェルが登場)をパスしたのだし、9月の京都市交響楽団の定期(20日、京都会館。第337回)ではベートーヴェンの運命が聴けるものだと信じ切っていたのだ。
悔やんでも悔やみきれない。
クナッパーツブッシュとウィーン・フィルのブラームス
☆ブラームス:管弦楽曲集
指揮:ハンス・クナッパーツブッシュ
独唱:ルクレティア・ウェスト(アルト)
合唱:ウィーン・アカデミー男声合唱団
管弦楽:ウィーン・フィル
録音:1957年6月10日〜15日、ウィーン・ソフィエンザール
アナログ・ステレオ/セッション
<タワーレコード/DECCA>PROC-1667
ユニバーサルの協力でタワーレコードが進めている独自企画、ヴィンテージ・コレクション・プラスのうち、ハンス・クナッパーツブッシュの没後50年を記念した特別シリーズ中の一枚。
国内外問わずこれまでばらばらにリリースされてきた、大学祝典序曲、ハイドンの主題による変奏曲、アルト・ラプソディ、悲劇的序曲をLPそのままのカップリング、さらにはLPそのままのジャケット・デザインで、ブラームスの管弦楽曲集として発売した点がまずもって貴重だろう。
それだけでも、ありがたい。
で、演奏のほうはというと、LPのA面にあたる大学祝典序曲とハイドンの主題による変奏曲では、良い意味でのオールドファッショというか、クナッパーツブッシュとウィーン・フィルらしい大づかみで大どかな演奏が繰り広げられている。
当然粗さやブラームス特有のぎくしゃくした感じを強く感じたりもするが、弦楽器の艶やかさや管楽器のひなびた音色、それより何より呵々大笑とした雰囲気はやはり捨て難い。
(なお、大学祝典序曲の5分13秒あたりからのホルンの強奏、その後の5分20秒あたたりのピチカートによるおなじみのメロディの強調は、クナッパーツブッシュの解釈に加えて、DECCAレーベル特有の録音の効果もあるのではないか?)
一方、B面にあたるアルト・ラプソディと悲劇的序曲では、ブラームスのシリアスな側面が、ゆったりとしたテンポの重心の低い演奏によってよくとらえられている。
アメリカ出身のウェストは、折り目正しい歌唱だ。
60年近く前の録音ということで、どうしても音の古さを感じてしまうものの、クナッパーツブッシュとウィーン・フィルの美質を識るという意味では問題あるまい。
オーケストラ音楽好きには大いにお薦めしたい。
それにしても、どうしてジョージ・セルのシリーズではクナッパーツブッシュのシリーズと同じことができなかったのだろうか。
何も足さない何もひかない。
タワーレコードの企画担当者には、もっともっと「オリジナル」にこだわってもらいたい。
指揮:ハンス・クナッパーツブッシュ
独唱:ルクレティア・ウェスト(アルト)
合唱:ウィーン・アカデミー男声合唱団
管弦楽:ウィーン・フィル
録音:1957年6月10日〜15日、ウィーン・ソフィエンザール
アナログ・ステレオ/セッション
<タワーレコード/DECCA>PROC-1667
ユニバーサルの協力でタワーレコードが進めている独自企画、ヴィンテージ・コレクション・プラスのうち、ハンス・クナッパーツブッシュの没後50年を記念した特別シリーズ中の一枚。
国内外問わずこれまでばらばらにリリースされてきた、大学祝典序曲、ハイドンの主題による変奏曲、アルト・ラプソディ、悲劇的序曲をLPそのままのカップリング、さらにはLPそのままのジャケット・デザインで、ブラームスの管弦楽曲集として発売した点がまずもって貴重だろう。
それだけでも、ありがたい。
で、演奏のほうはというと、LPのA面にあたる大学祝典序曲とハイドンの主題による変奏曲では、良い意味でのオールドファッショというか、クナッパーツブッシュとウィーン・フィルらしい大づかみで大どかな演奏が繰り広げられている。
当然粗さやブラームス特有のぎくしゃくした感じを強く感じたりもするが、弦楽器の艶やかさや管楽器のひなびた音色、それより何より呵々大笑とした雰囲気はやはり捨て難い。
(なお、大学祝典序曲の5分13秒あたりからのホルンの強奏、その後の5分20秒あたたりのピチカートによるおなじみのメロディの強調は、クナッパーツブッシュの解釈に加えて、DECCAレーベル特有の録音の効果もあるのではないか?)
一方、B面にあたるアルト・ラプソディと悲劇的序曲では、ブラームスのシリアスな側面が、ゆったりとしたテンポの重心の低い演奏によってよくとらえられている。
アメリカ出身のウェストは、折り目正しい歌唱だ。
60年近く前の録音ということで、どうしても音の古さを感じてしまうものの、クナッパーツブッシュとウィーン・フィルの美質を識るという意味では問題あるまい。
オーケストラ音楽好きには大いにお薦めしたい。
それにしても、どうしてジョージ・セルのシリーズではクナッパーツブッシュのシリーズと同じことができなかったのだろうか。
何も足さない何もひかない。
タワーレコードの企画担当者には、もっともっと「オリジナル」にこだわってもらいたい。
2015年06月06日
セルジュ・チェリビダッケが指揮したブルックナーの交響曲第7番
☆セルジュ・チェリビダッケが指揮したブルックナーの交響曲第7番
指揮:セルジュ・チェリビダッケ
管弦楽:ミュンヘン・フィル
(1990年10月18日、サントリーホール大ホール/デジタル・ライヴ録音)
<SONY国内盤>SICC1844
1990年といえば、ちょうど25年前。
大学に入って3年目となることの年は、よくオーケストラのコンサートに足を運んだ。
久しぶりに古いノートを取り出して確認したら、1月の関西フィルの定期にはじまって12月末の京都市交響楽団の第九定期に到るまで、しめて31回にものぼる。
まあ、いわゆるコンサート・ゴア(キチ)の方に比べたら物の数にも入らないだろうけれど、ほかになんやかんやと趣味嗜好の多い人間にしてみれば、月に2回強は、やはりけっこうな回数ということになる。
中でも強く記憶に残っているのは、ただし、音そのものではなくてムードであり、アトモスフェアに過ぎないのでがあるが、ゲオルク・ショルティ指揮シカゴ交響楽団(4月18日、ザ・シンフォニーホール)とセルジュ・チェリビダッケ指揮ミュンヘン・フィル(10月4日、フェスティバルホール)が演奏した、ブルックナーの交響曲第8番である。
と、言って、両者が自分にとってとびきり感動的な心を強く動かす演奏だったというわけではない。
前者はザ・シンフォニーホールという残響の高さが売り物のホールであるにもかかわらず、本拠地のデッドなホール対応の身も世も裂けよとばかりのブラス爆奏の鳴らせたい放題な音楽的マチズモにうんざりしたし、後者は後者で、その歩みの遅さには、何かとんでもないものを聴かされているという不思議な感情を抱かされた。
(第2楽章なんて、周囲は気持ちよく寝入っていたっけ…)
今回取り上げるCDは、その1990年の来日時にチェリビダッケとミュンヘン・フィルが演奏したブルックナーのCD。
ただし、こちらは第8番ではなく第7番のほう。
これまで映像として販売されていたし、海外ではCD化もされていたが、国内でのCDリリースはこれが初めてになる。
全曲75分以上、非常にゆったりとしたテンポの演奏だが、第1、第2楽章など旋律美が身上の作品ということもあって、心理的な遅さを感じることはあまりない。
第3楽章に、ちょっとおやとなったぐらいか。
それには、第1楽章のラストや第2楽章等々、音楽としての頂点がしっかりと設けられていることも大きいだろう。
(チェリビダッケのティーッという雄叫びが何度も聴こえる)
録音も鮮明で、ブルックナーの音楽にじっくりと浸りたい方々には大いにお薦めしたい一枚だ。
と、いうのは公式見解で、このライヴ録音を何度も何度も繰り返して耳にすることに、実は曰く言い難い割り切れなさを感じてもいる。
本来自分にとって不可思議で不可解なものであるかもしれないものを、こうやって再生して何度も聴くことで単純な言葉に落とし込んでしまういかがわしさというか。
しかも1枚が僅か1000円。
その点でもいろいろと想うことがある。
なお、同じ廉価シリーズで10月20日に収録された交響曲第8番も発売されているが、こちらはあえて耳にすることはないと思う。
指揮:セルジュ・チェリビダッケ
管弦楽:ミュンヘン・フィル
(1990年10月18日、サントリーホール大ホール/デジタル・ライヴ録音)
<SONY国内盤>SICC1844
1990年といえば、ちょうど25年前。
大学に入って3年目となることの年は、よくオーケストラのコンサートに足を運んだ。
久しぶりに古いノートを取り出して確認したら、1月の関西フィルの定期にはじまって12月末の京都市交響楽団の第九定期に到るまで、しめて31回にものぼる。
まあ、いわゆるコンサート・ゴア(キチ)の方に比べたら物の数にも入らないだろうけれど、ほかになんやかんやと趣味嗜好の多い人間にしてみれば、月に2回強は、やはりけっこうな回数ということになる。
中でも強く記憶に残っているのは、ただし、音そのものではなくてムードであり、アトモスフェアに過ぎないのでがあるが、ゲオルク・ショルティ指揮シカゴ交響楽団(4月18日、ザ・シンフォニーホール)とセルジュ・チェリビダッケ指揮ミュンヘン・フィル(10月4日、フェスティバルホール)が演奏した、ブルックナーの交響曲第8番である。
と、言って、両者が自分にとってとびきり感動的な心を強く動かす演奏だったというわけではない。
前者はザ・シンフォニーホールという残響の高さが売り物のホールであるにもかかわらず、本拠地のデッドなホール対応の身も世も裂けよとばかりのブラス爆奏の鳴らせたい放題な音楽的マチズモにうんざりしたし、後者は後者で、その歩みの遅さには、何かとんでもないものを聴かされているという不思議な感情を抱かされた。
(第2楽章なんて、周囲は気持ちよく寝入っていたっけ…)
今回取り上げるCDは、その1990年の来日時にチェリビダッケとミュンヘン・フィルが演奏したブルックナーのCD。
ただし、こちらは第8番ではなく第7番のほう。
これまで映像として販売されていたし、海外ではCD化もされていたが、国内でのCDリリースはこれが初めてになる。
全曲75分以上、非常にゆったりとしたテンポの演奏だが、第1、第2楽章など旋律美が身上の作品ということもあって、心理的な遅さを感じることはあまりない。
第3楽章に、ちょっとおやとなったぐらいか。
それには、第1楽章のラストや第2楽章等々、音楽としての頂点がしっかりと設けられていることも大きいだろう。
(チェリビダッケのティーッという雄叫びが何度も聴こえる)
録音も鮮明で、ブルックナーの音楽にじっくりと浸りたい方々には大いにお薦めしたい一枚だ。
と、いうのは公式見解で、このライヴ録音を何度も何度も繰り返して耳にすることに、実は曰く言い難い割り切れなさを感じてもいる。
本来自分にとって不可思議で不可解なものであるかもしれないものを、こうやって再生して何度も聴くことで単純な言葉に落とし込んでしまういかがわしさというか。
しかも1枚が僅か1000円。
その点でもいろいろと想うことがある。
なお、同じ廉価シリーズで10月20日に収録された交響曲第8番も発売されているが、こちらはあえて耳にすることはないと思う。
2015年05月04日
チャールズ・マッケラスが指揮した未完成交響曲の完成版
☆マッケラスが指揮した未完成交響曲の完成版
指揮:チャールズ・マッケラス
管弦楽:エイジ・オブ・エンライトゥンメント管弦楽団
(1990年11月、ロンドン・アビーロードスタジオ1/デジタル・セッション録音)
亡くなってからほどなくして刊行された井上ひさしの一連の未完成作品を読んで、どうしてもそこから先が読みたいと思った方も少なくないのではないか。
そして、そうした想いが高じて、そこから先を書き繋ぎ、なんとか完成した作品に仕立て上げようと挑んでみる人間が出てきても、全く不思議ではない。
水村美苗の『続明暗』など、そうした挑戦の成果の最たるものの一つだし、それより何より、シューベルトの未完の作品を再構築してみせたルチアーノ・ベリオの『レンダリング』がある。
ただ、これらは各々の原作を十分十二分に読み込みつつも、結局自分は漱石でもなければシューベルトでもない、水村美苗でありルチアーノ・ベリオであるという断念と自覚自負によって為された創作であることも忘れてはなるまい。
だから、学術的意匠を纏って為された同様の作業には、その作業への真摯さは疑わないものの、謙虚な姿勢とコインの裏表にあるだろうある種の傲慢さ、臆面のなさを感じないでもない。
いや、それが言い過ぎとしても、机上の作業というか、原作者はもちろん、上記の水村美苗やルチアーノ・ベリオの作業から感じ取れる表現意欲や生々しさには乏しい。
てか、ぶっちゃけ面白くないのだ。
例えば、CDで聴いたホルストの組曲『惑星』の「天王星」だっけ、あれもたいがいだったし、フィリップ・ヘレヴェッヘ指揮ロイヤル・フランダース・フィルの来日コンサートにおけるブルックナーの交響曲第9番の完成版も、なんでこんな初期の序曲かなんかみたいな音楽聴かされなあかんねんと呆れる代物だった。
で、このCDに収められたブライアン・ニューボールトによるシューベルトの未完成交響曲の完成版はどうかというと、シューベルトが遺した冒頭部分を駆使した第3楽章にせよ、『キプロスの女王ロザムンデ』の間奏曲第1番を転用した第4楽章にせよ、その努力は充分に認めて、箸にも棒にもかからないとまでは言わないのだけれど、やっぱり無理して完成させる必要はないやんか、というのが正直な感想だ。
ロマンティシズムの噴出とでも呼びたくなるような第2楽章までの透徹した作品世界が、一挙に地上に引きずり降ろされたというか。
マッケラスとエイジ・オブ・エンライトゥンメント管弦楽団が丁寧な演奏を心掛ければ心掛けるほど、第4楽章など前半の2楽章を受けるにはあまりにも「シアトリカル」に過ぎる等、その落差を感じずにはいられなかった。
カップリングの交響曲第5番や『ロザムンデ』のバレエ音楽第2番(オーケストラのアンコール・ピースとして有名)は、遅すぎず速すぎずのテンポに勘所をよく掴んだマッケラスの音楽づくりの手堅さと、オーケストラの安定した精度が相まって、なかなかの聴きものである。
マッケラスとエイジ・オブ・エンライトゥンメント管弦楽団には、『ロザムンデ』の全曲、もしくは抜粋版を録音しておいて欲しかった。
指揮:チャールズ・マッケラス
管弦楽:エイジ・オブ・エンライトゥンメント管弦楽団
(1990年11月、ロンドン・アビーロードスタジオ1/デジタル・セッション録音)
亡くなってからほどなくして刊行された井上ひさしの一連の未完成作品を読んで、どうしてもそこから先が読みたいと思った方も少なくないのではないか。
そして、そうした想いが高じて、そこから先を書き繋ぎ、なんとか完成した作品に仕立て上げようと挑んでみる人間が出てきても、全く不思議ではない。
水村美苗の『続明暗』など、そうした挑戦の成果の最たるものの一つだし、それより何より、シューベルトの未完の作品を再構築してみせたルチアーノ・ベリオの『レンダリング』がある。
ただ、これらは各々の原作を十分十二分に読み込みつつも、結局自分は漱石でもなければシューベルトでもない、水村美苗でありルチアーノ・ベリオであるという断念と自覚自負によって為された創作であることも忘れてはなるまい。
だから、学術的意匠を纏って為された同様の作業には、その作業への真摯さは疑わないものの、謙虚な姿勢とコインの裏表にあるだろうある種の傲慢さ、臆面のなさを感じないでもない。
いや、それが言い過ぎとしても、机上の作業というか、原作者はもちろん、上記の水村美苗やルチアーノ・ベリオの作業から感じ取れる表現意欲や生々しさには乏しい。
てか、ぶっちゃけ面白くないのだ。
例えば、CDで聴いたホルストの組曲『惑星』の「天王星」だっけ、あれもたいがいだったし、フィリップ・ヘレヴェッヘ指揮ロイヤル・フランダース・フィルの来日コンサートにおけるブルックナーの交響曲第9番の完成版も、なんでこんな初期の序曲かなんかみたいな音楽聴かされなあかんねんと呆れる代物だった。
で、このCDに収められたブライアン・ニューボールトによるシューベルトの未完成交響曲の完成版はどうかというと、シューベルトが遺した冒頭部分を駆使した第3楽章にせよ、『キプロスの女王ロザムンデ』の間奏曲第1番を転用した第4楽章にせよ、その努力は充分に認めて、箸にも棒にもかからないとまでは言わないのだけれど、やっぱり無理して完成させる必要はないやんか、というのが正直な感想だ。
ロマンティシズムの噴出とでも呼びたくなるような第2楽章までの透徹した作品世界が、一挙に地上に引きずり降ろされたというか。
マッケラスとエイジ・オブ・エンライトゥンメント管弦楽団が丁寧な演奏を心掛ければ心掛けるほど、第4楽章など前半の2楽章を受けるにはあまりにも「シアトリカル」に過ぎる等、その落差を感じずにはいられなかった。
カップリングの交響曲第5番や『ロザムンデ』のバレエ音楽第2番(オーケストラのアンコール・ピースとして有名)は、遅すぎず速すぎずのテンポに勘所をよく掴んだマッケラスの音楽づくりの手堅さと、オーケストラの安定した精度が相まって、なかなかの聴きものである。
マッケラスとエイジ・オブ・エンライトゥンメント管弦楽団には、『ロザムンデ』の全曲、もしくは抜粋版を録音しておいて欲しかった。
クナッパーツブッシュの『ポピュラー・コンサート』
☆クナッパーツブッシュの『ポピュラー・コンサート』
指揮:ハンス・クナッパーツブッシュ
管弦楽:ウィーン・フィル
(1960年2月、ウィーン/アナログ・ステレオ・セッション録音)
<タワーレコード/DECCA>PROC-1668
【収録曲】チャイコフスキー:バレエ音楽『くるみ割り人形』組曲/シューベルト(ヴェニンガー編曲):軍隊行進曲第1番/ウェーバー(ベルリオーズ編曲):舞踏への勧誘/ニコライ:歌劇『ウィンザーの陽気な女房たち』序曲
ハンス・クナッパーツブッシュがウィーン・フィルを指揮した『ポピュラー・コンサート』といえば、音楽評論家の宇野功芳による熱心な支持もあって、LP時代から親しまれ続けてきたアルバムだ。
その『ポピュラー・コンサート』が、タワーレコードの独自企画からオリジナルの形(カップリングに加えて、ブックレットのデザインも)で再発されるというので、迷わず購入した。
と、こう記すと、大のクナ党のように勘違いする向きもあるかもしれないが、実はクナッパーツブッシュのCDを買うのは、なんとこれが初めてである。
まあ、LP時代には、ウィーン・フィルとのブルックナーの交響曲第7番やミュンヘン・フィルとのベートーヴェンのエロイカ・シンフォニーなど、そこそこマニアックな音源を愛聴してはいたのだけれど。
音楽、読書、演劇、映画、落語等々、狭きところより出でて広きを愉しむのが、僕の性分なのだ。
で、これまでにもあれこれと語られてきたアルバムだけに、もはや何を今さらの感もあるのだが、一言で評するならば回顧の念に満ちた演奏、ということになるか。
むろんそこはクナッパーツブッシュの性質もあって、べったりべとべととウェットに粘りつくことはない。
ただ、全体を通して、物質的にも精神的にも、今そこにあるものではなく、かつてそこにあったものを描きとった演奏であるように強く感じられることも事実だ。
いずれにしても、遅めのテンポの音楽づくりに、独特の節回しというか、間の取り方も加わって、曰く言い難い、おかかなしい情感が生み出されている。
中でも、軍隊行進曲の中間部(2分18秒頃〜)の歌いぶりや、舞踏への勧誘の冒頭部分の静謐さには、ぐっと惹き込まれる。
また、ゆったりと進む『くるみ割り人形』の葦笛の踊りや花のワルツ、靄が徐々に晴れていくかのような『ウィンザーの陽気な女房たち』序曲の出だしも強く印象に残る。
加えて、弦楽器管楽器はもちろんのこと、『くるみ割り人形』の打楽器にいたるまで、ウィーン・フィルの美質がよく発揮されていることも忘れてはなるまい。
ハイビット・ハイサンプリングの効果だろう、音質もだいぶんクリアになっている。
何度聴いても聴き飽きない、クラシック音楽好きには大いにお薦めしたい一枚である。
指揮:ハンス・クナッパーツブッシュ
管弦楽:ウィーン・フィル
(1960年2月、ウィーン/アナログ・ステレオ・セッション録音)
<タワーレコード/DECCA>PROC-1668
【収録曲】チャイコフスキー:バレエ音楽『くるみ割り人形』組曲/シューベルト(ヴェニンガー編曲):軍隊行進曲第1番/ウェーバー(ベルリオーズ編曲):舞踏への勧誘/ニコライ:歌劇『ウィンザーの陽気な女房たち』序曲
ハンス・クナッパーツブッシュがウィーン・フィルを指揮した『ポピュラー・コンサート』といえば、音楽評論家の宇野功芳による熱心な支持もあって、LP時代から親しまれ続けてきたアルバムだ。
その『ポピュラー・コンサート』が、タワーレコードの独自企画からオリジナルの形(カップリングに加えて、ブックレットのデザインも)で再発されるというので、迷わず購入した。
と、こう記すと、大のクナ党のように勘違いする向きもあるかもしれないが、実はクナッパーツブッシュのCDを買うのは、なんとこれが初めてである。
まあ、LP時代には、ウィーン・フィルとのブルックナーの交響曲第7番やミュンヘン・フィルとのベートーヴェンのエロイカ・シンフォニーなど、そこそこマニアックな音源を愛聴してはいたのだけれど。
音楽、読書、演劇、映画、落語等々、狭きところより出でて広きを愉しむのが、僕の性分なのだ。
で、これまでにもあれこれと語られてきたアルバムだけに、もはや何を今さらの感もあるのだが、一言で評するならば回顧の念に満ちた演奏、ということになるか。
むろんそこはクナッパーツブッシュの性質もあって、べったりべとべととウェットに粘りつくことはない。
ただ、全体を通して、物質的にも精神的にも、今そこにあるものではなく、かつてそこにあったものを描きとった演奏であるように強く感じられることも事実だ。
いずれにしても、遅めのテンポの音楽づくりに、独特の節回しというか、間の取り方も加わって、曰く言い難い、おかかなしい情感が生み出されている。
中でも、軍隊行進曲の中間部(2分18秒頃〜)の歌いぶりや、舞踏への勧誘の冒頭部分の静謐さには、ぐっと惹き込まれる。
また、ゆったりと進む『くるみ割り人形』の葦笛の踊りや花のワルツ、靄が徐々に晴れていくかのような『ウィンザーの陽気な女房たち』序曲の出だしも強く印象に残る。
加えて、弦楽器管楽器はもちろんのこと、『くるみ割り人形』の打楽器にいたるまで、ウィーン・フィルの美質がよく発揮されていることも忘れてはなるまい。
ハイビット・ハイサンプリングの効果だろう、音質もだいぶんクリアになっている。
何度聴いても聴き飽きない、クラシック音楽好きには大いにお薦めしたい一枚である。
2015年04月16日
ノーベル賞授賞式典の音楽
☆ノーベル賞授賞式典の音楽
指揮:アンドルー・デイヴィス
管弦楽:ロイヤル・ストックホルム・フィル
(1996年6月/デジタル・セッション録音)
<FINLANDIA>0630-14913-2
題して、「ノーベル賞授賞式典の音楽」。
スウェーデンのストックホルムで開催されるノーベル賞の授賞式典で演奏されてきた音楽を、式典のホストオーケストラであるロイヤル・ストックホルム・フィルが当時のシェフ、アンドルー・デイヴィスの指揮で録音した興味深いアルバムだ。
アルヴェーンの祝典音楽にベルワルドの『ソリアのエストレッラ』序曲、ルーマンのドロットニングホルム宮廷のための音楽第1番、ローセンベリの『町のオルフェウス』からタンゴとフィナーレというお国ものをはじめ、ドヴォルザークのスラヴ舞曲第9番、グリンカの『ルスランとリュドミラ』序曲、シベリウスのカレリア組曲から行進曲風に、ニールセンの『アラディン』からオリエンタル・マーチといった栄えある式典に相応しい勇壮で劇的な作品とともに、バーバーの弦楽のためのアダージョやグリーグの『ペール・ギュント』第1組曲から朝も収められていて、なかなかバランスのよい構成である。
時にオーケストラ(弦楽器)の音色の細さや、セッションの加減もあってか粗さを感じる部分もなくはなかったが(特にブラームスの大学祝典序曲。明らかに音が外れている箇所がある)、基本的には機能性に優れた演奏で、アンドルー・デイヴィスも作品の肝、勘所をよく心得た音楽づくりを行っている。
中でもバーンスタインの『キャンディード』序曲は、この作品の持つうきうきとした雰囲気が巧みに表されている上にブラスの鳴りもよく、予想外の好演に感心した。
(アンドルー・デイヴィス指揮の『キャンディード』序曲といえば、「EMI100周年グラインドボーン・ガラ・コンサート」<EMI>にロンドン・フィルとのライヴ録音が収録されているが、あいにく未聴)
クリアな録音も含めて、実に聴き心地のよい一枚。
なお、国内では「これがノーベル賞のオーケストラだ!!」のタイトルで、1996年11月にリリースされていた。
ニュアンスは異なるものの、これまたアルバムの内容をよく示したタイトルだ。
指揮:アンドルー・デイヴィス
管弦楽:ロイヤル・ストックホルム・フィル
(1996年6月/デジタル・セッション録音)
<FINLANDIA>0630-14913-2
題して、「ノーベル賞授賞式典の音楽」。
スウェーデンのストックホルムで開催されるノーベル賞の授賞式典で演奏されてきた音楽を、式典のホストオーケストラであるロイヤル・ストックホルム・フィルが当時のシェフ、アンドルー・デイヴィスの指揮で録音した興味深いアルバムだ。
アルヴェーンの祝典音楽にベルワルドの『ソリアのエストレッラ』序曲、ルーマンのドロットニングホルム宮廷のための音楽第1番、ローセンベリの『町のオルフェウス』からタンゴとフィナーレというお国ものをはじめ、ドヴォルザークのスラヴ舞曲第9番、グリンカの『ルスランとリュドミラ』序曲、シベリウスのカレリア組曲から行進曲風に、ニールセンの『アラディン』からオリエンタル・マーチといった栄えある式典に相応しい勇壮で劇的な作品とともに、バーバーの弦楽のためのアダージョやグリーグの『ペール・ギュント』第1組曲から朝も収められていて、なかなかバランスのよい構成である。
時にオーケストラ(弦楽器)の音色の細さや、セッションの加減もあってか粗さを感じる部分もなくはなかったが(特にブラームスの大学祝典序曲。明らかに音が外れている箇所がある)、基本的には機能性に優れた演奏で、アンドルー・デイヴィスも作品の肝、勘所をよく心得た音楽づくりを行っている。
中でもバーンスタインの『キャンディード』序曲は、この作品の持つうきうきとした雰囲気が巧みに表されている上にブラスの鳴りもよく、予想外の好演に感心した。
(アンドルー・デイヴィス指揮の『キャンディード』序曲といえば、「EMI100周年グラインドボーン・ガラ・コンサート」<EMI>にロンドン・フィルとのライヴ録音が収録されているが、あいにく未聴)
クリアな録音も含めて、実に聴き心地のよい一枚。
なお、国内では「これがノーベル賞のオーケストラだ!!」のタイトルで、1996年11月にリリースされていた。
ニュアンスは異なるものの、これまたアルバムの内容をよく示したタイトルだ。
2015年04月10日
タワーレコードのVINTAGE COLLECTION +plus特別編〜ジョージ・セルDecca、Philips録音集を厳しく批判する
昨夜、ジョージ・セル(ハンガリー出身で、ヨーロッパからアメリカに活動の場を移した今は亡き指揮者。特に、アメリカの地方都市オーケストラであったクリーヴランド管弦楽団を世界一流のオーケストラに鍛え上げたことで有名)がDECCAやPHILIPSに遺した録音を、タワーレコードがオリジナル企画としてリリースすることを知り、おおやった! と一瞬大喜びしたのもつかの間、それがすぐに糠喜びとわかり、一転強い失望と激しい怒りに変わった。
と、言うのも、セルにとって隠れた名盤とでも呼ぶべきロンドン交響楽団とのヘンデルの管弦楽曲集が、王宮の花火の音楽は同じくロンドン交響楽団とのチャイコフスキーの交響曲第4番に、水上の音楽など残りはウィーン・フィルとのベートーヴェンの劇音楽『エグモント』にと、結果ぶつ切りにされてカップリングされることが判明したからである。
もちろん、これが元よりこだわりのない、ただただ長時間曲を詰め込みましたという寄せ集めの継ぎ接ぎ廉価アルバムであるならば文句はない。
そんないかもの、はなから目も向けぬだけだ。
だが、今回のリリースが厄介なのは、ブックレット写真はLPのオリジナルのものを使用する等、中途半端にこだわったものだからである。
ならば、何ゆえLPオリジナルのカップリングにまでこだわらないのか。
そもそも、ただ単にその録音音源を耳にしたいというのであれば、今時CDなど買わない。
ネット配信なりyoutubeなりで事足りる。
もしくは、ひとまとめになった輸入盤の廉価ボックスセットを買う。
あえて一枚物のこうしたアルバムを買おうとする人間は、LPのコレクターにまではならないものの、「全体の構成に腐心しながら」「宝石をつらねてひとつの首飾りをつくるよう」な先達たちの様々な配慮が行き届いたオリジナルのカップリングに敬意を抱きはする、マニア的な性質を持った人間であろう。
だから、一枚のアルバムの収録時間が40分だって45分だって、買うものは買う。
そうした人間が、何を好き好んでオリジナルLPの「バラバラ殺人」(以上、「」内は、俵孝太郎の『新・気軽にCDを楽しもう』<コスモの本>より引用。そういえば、俵さんはタワーレコードと関わりが深いんだった)に加担せねばならぬのか。
だいたい、セルとロンドン交響楽団によるあの王宮の花火の音楽をチャイコフスキーの交響曲第4番の前後に置くという今回の企画者の意図や神経がよくわからない。
いや、これが今回のセルのシリーズに限らず、どの企画においても、オリジナルのカップリングなんて知ったことか、俺様は全能者、あれを足してあれを引く、カップリングは俺様の想いのまま、と傍若無人なカップリングに終始するのであれば、残念だけど「機智害じゃから仕方ない」と諦めもつく。
ところが、同じタワーレコードのオリジナル企画でも、ハンス・クナッパーツブッシュとウィーン・フィルが遺した『ウィーンの休日』、『ポピュラー・コンサート』、ブラームスの管弦楽曲集は、なんとLPのオリジナルのカップリングのままで発売されている。
この統一性のなさはいったいなんなのだろう。
クナッパーツブッシュは売れるが、セルではあまり売れまいと考えたのか。
それとも、企画の予算が少なかったのか。
それでは、どうして今回チャイコフスキーのリリースは次の機会に延期し、かつて国内で1000円盤としても発売されたヘンデルをリリースするという発想に至らなかったのか。
いずれにしても、演奏や録音そのものに対する愛着や執着、細やかさ、徹底的なこだわりの欠落を僕は強く感じてしまった。
むろん、嫌なら買うな、お買い上げになるお客さんは山といる、という売り手の発想も正論である。
こちらだって、そんな中途半端なCDは買えないし、買いたくはない。
ただ、海外(輸入版)のDECCAレーベルが、「オリジナル」と称してカップリングがLPオリジナル通りではないばかりか、LPのオリジナルのジャケット写真を斜めにして使用するような無茶苦茶な状況の中、今回このような中途半端な形でのリリースが為されることで、セルの遺した音源のLP同様のカップリングとジャケット写真を使用したまさしく「オリジナル」な形でのCDリリースが今後しばらく望めなくなったことは、やはり指摘しておかなければなるまい。
全くもって、中途半端な愛着や執着、こだわりほど有難迷惑で罪深いこともあるまい。
と、言うのも、セルにとって隠れた名盤とでも呼ぶべきロンドン交響楽団とのヘンデルの管弦楽曲集が、王宮の花火の音楽は同じくロンドン交響楽団とのチャイコフスキーの交響曲第4番に、水上の音楽など残りはウィーン・フィルとのベートーヴェンの劇音楽『エグモント』にと、結果ぶつ切りにされてカップリングされることが判明したからである。
もちろん、これが元よりこだわりのない、ただただ長時間曲を詰め込みましたという寄せ集めの継ぎ接ぎ廉価アルバムであるならば文句はない。
そんないかもの、はなから目も向けぬだけだ。
だが、今回のリリースが厄介なのは、ブックレット写真はLPのオリジナルのものを使用する等、中途半端にこだわったものだからである。
ならば、何ゆえLPオリジナルのカップリングにまでこだわらないのか。
そもそも、ただ単にその録音音源を耳にしたいというのであれば、今時CDなど買わない。
ネット配信なりyoutubeなりで事足りる。
もしくは、ひとまとめになった輸入盤の廉価ボックスセットを買う。
あえて一枚物のこうしたアルバムを買おうとする人間は、LPのコレクターにまではならないものの、「全体の構成に腐心しながら」「宝石をつらねてひとつの首飾りをつくるよう」な先達たちの様々な配慮が行き届いたオリジナルのカップリングに敬意を抱きはする、マニア的な性質を持った人間であろう。
だから、一枚のアルバムの収録時間が40分だって45分だって、買うものは買う。
そうした人間が、何を好き好んでオリジナルLPの「バラバラ殺人」(以上、「」内は、俵孝太郎の『新・気軽にCDを楽しもう』<コスモの本>より引用。そういえば、俵さんはタワーレコードと関わりが深いんだった)に加担せねばならぬのか。
だいたい、セルとロンドン交響楽団によるあの王宮の花火の音楽をチャイコフスキーの交響曲第4番の前後に置くという今回の企画者の意図や神経がよくわからない。
いや、これが今回のセルのシリーズに限らず、どの企画においても、オリジナルのカップリングなんて知ったことか、俺様は全能者、あれを足してあれを引く、カップリングは俺様の想いのまま、と傍若無人なカップリングに終始するのであれば、残念だけど「機智害じゃから仕方ない」と諦めもつく。
ところが、同じタワーレコードのオリジナル企画でも、ハンス・クナッパーツブッシュとウィーン・フィルが遺した『ウィーンの休日』、『ポピュラー・コンサート』、ブラームスの管弦楽曲集は、なんとLPのオリジナルのカップリングのままで発売されている。
この統一性のなさはいったいなんなのだろう。
クナッパーツブッシュは売れるが、セルではあまり売れまいと考えたのか。
それとも、企画の予算が少なかったのか。
それでは、どうして今回チャイコフスキーのリリースは次の機会に延期し、かつて国内で1000円盤としても発売されたヘンデルをリリースするという発想に至らなかったのか。
いずれにしても、演奏や録音そのものに対する愛着や執着、細やかさ、徹底的なこだわりの欠落を僕は強く感じてしまった。
むろん、嫌なら買うな、お買い上げになるお客さんは山といる、という売り手の発想も正論である。
こちらだって、そんな中途半端なCDは買えないし、買いたくはない。
ただ、海外(輸入版)のDECCAレーベルが、「オリジナル」と称してカップリングがLPオリジナル通りではないばかりか、LPのオリジナルのジャケット写真を斜めにして使用するような無茶苦茶な状況の中、今回このような中途半端な形でのリリースが為されることで、セルの遺した音源のLP同様のカップリングとジャケット写真を使用したまさしく「オリジナル」な形でのCDリリースが今後しばらく望めなくなったことは、やはり指摘しておかなければなるまい。
全くもって、中途半端な愛着や執着、こだわりほど有難迷惑で罪深いこともあるまい。
2015年02月09日
フィルハーモニック・アンサンブル・ウィーン
☆フィルハーモニック・アンサンブル・ウィーン
演奏:フィルハーモニック・アンサンブル・ウィーン
録音:2013年12月16日&17日(デジタル)
会場:ライディング フランツ・リスト・センター(セッション)
<ドイツ・グラモフォン>481 14726
また出たと坊主びっくり貂の皮
とは、剛腕寺社奉行脇坂安薫の再登板に驚愕する生臭坊主たちの姿を揶揄した江戸時代の狂歌だが、新春の日本洋楽界に跳梁跋扈する風潮については、
また来たと客もびっくりウィーンかな
とでも、ついつい読み変えたくなる。
ウィーンなんたろオーケストラ、うんたろアンサンブル・ウィーン…。
はて、ウィーンにそんな常設の団体ってあったかしら、と首を傾げたくなる管弦楽団、室内アンサンブルの類いが来るわ来るわ。
おなじみワルツやオペレッタを流す鳴らす。
そうした中、フィルハーモニック・アンサンブル・ウィーンなんて名前を目にすれば、いやはやまたかと眉に唾をつけたくなるのだけれど、こちらはウィーン・フィルの弦楽器奏者3人とウィーンを中心に活躍するピアニスト、ゴットリーブ・ヴァリッシュ(僅か6歳でウィーン国立音大に入学したとか。Linnレーベルからハイドンとモーツァルトのソナタ、NAXOSレーベルからシューベルトのソナタがリリースされている)によるれっきとしたピアノ4重奏団のようで、現に今年のニューイヤーコンサートの休憩時間にその演奏が放映されたらしい。
で、彼らのデビュー盤となるその名も『フィルハーモニック・アンサンブル・ウィーン』を聴いてみたが、これは想像以上に聴き応えのあるアルバムとなっていた。
まず、モーツァルトのピアノ4重奏曲第1番ト短調とフックスのピアノ4重奏曲第2番ロ短調作品番号75では、バランスがとれてインティメートな感覚にあふれる、このアンサンブルの基礎的な力がよく示されている。
特に、目ならぬ耳新しさは感じられないものの、翳りと憂いをおびて美しい旋律に満ちたフックスの音楽は実に魅力的だ。
また、おなじみヨハンは避けて、リヒャルトの『ばらの騎士』のワルツ(ミヒャエル・ロートの編曲によるワルツ・パラフレーズ)でワルツの歌いぶりの巧さを披歴するあたりもしゃれている。
同じリヒャルト・シュトラウスの単一緩徐楽章のピアノ4重奏曲「恋の歌」(これもワルツ)や、ブラームスのピアノ4重奏曲第1番第4楽章の哀切さ漂うメロディにそれこそ「首の差で」ちょと違うガルデルの『ポル・ウナ・カベーサ(首の差で)』、ドビュッシーの『美しき夕暮れ』というアンコールも嬉しい。
よく歌いよく鳴らしつつも過度にべたつくことのない弦楽器に伍して、ヴァリッシュも退き過ぎず出しゃばり過ぎないピアノで応えていた。
モーツァルトの第3楽章(トラック3)の1分22秒あたりで有名なロンドニ長調風の音型が出てくるところなど、なかなか面白い。
上質なサロン音楽とでも呼ぶべき一枚で、ウィーンの看板に辟易している方々にもぜひお薦めしたい。
演奏:フィルハーモニック・アンサンブル・ウィーン
録音:2013年12月16日&17日(デジタル)
会場:ライディング フランツ・リスト・センター(セッション)
<ドイツ・グラモフォン>481 14726
また出たと坊主びっくり貂の皮
とは、剛腕寺社奉行脇坂安薫の再登板に驚愕する生臭坊主たちの姿を揶揄した江戸時代の狂歌だが、新春の日本洋楽界に跳梁跋扈する風潮については、
また来たと客もびっくりウィーンかな
とでも、ついつい読み変えたくなる。
ウィーンなんたろオーケストラ、うんたろアンサンブル・ウィーン…。
はて、ウィーンにそんな常設の団体ってあったかしら、と首を傾げたくなる管弦楽団、室内アンサンブルの類いが来るわ来るわ。
おなじみワルツやオペレッタを流す鳴らす。
そうした中、フィルハーモニック・アンサンブル・ウィーンなんて名前を目にすれば、いやはやまたかと眉に唾をつけたくなるのだけれど、こちらはウィーン・フィルの弦楽器奏者3人とウィーンを中心に活躍するピアニスト、ゴットリーブ・ヴァリッシュ(僅か6歳でウィーン国立音大に入学したとか。Linnレーベルからハイドンとモーツァルトのソナタ、NAXOSレーベルからシューベルトのソナタがリリースされている)によるれっきとしたピアノ4重奏団のようで、現に今年のニューイヤーコンサートの休憩時間にその演奏が放映されたらしい。
で、彼らのデビュー盤となるその名も『フィルハーモニック・アンサンブル・ウィーン』を聴いてみたが、これは想像以上に聴き応えのあるアルバムとなっていた。
まず、モーツァルトのピアノ4重奏曲第1番ト短調とフックスのピアノ4重奏曲第2番ロ短調作品番号75では、バランスがとれてインティメートな感覚にあふれる、このアンサンブルの基礎的な力がよく示されている。
特に、目ならぬ耳新しさは感じられないものの、翳りと憂いをおびて美しい旋律に満ちたフックスの音楽は実に魅力的だ。
また、おなじみヨハンは避けて、リヒャルトの『ばらの騎士』のワルツ(ミヒャエル・ロートの編曲によるワルツ・パラフレーズ)でワルツの歌いぶりの巧さを披歴するあたりもしゃれている。
同じリヒャルト・シュトラウスの単一緩徐楽章のピアノ4重奏曲「恋の歌」(これもワルツ)や、ブラームスのピアノ4重奏曲第1番第4楽章の哀切さ漂うメロディにそれこそ「首の差で」ちょと違うガルデルの『ポル・ウナ・カベーサ(首の差で)』、ドビュッシーの『美しき夕暮れ』というアンコールも嬉しい。
よく歌いよく鳴らしつつも過度にべたつくことのない弦楽器に伍して、ヴァリッシュも退き過ぎず出しゃばり過ぎないピアノで応えていた。
モーツァルトの第3楽章(トラック3)の1分22秒あたりで有名なロンドニ長調風の音型が出てくるところなど、なかなか面白い。
上質なサロン音楽とでも呼ぶべき一枚で、ウィーンの看板に辟易している方々にもぜひお薦めしたい。
2015年01月14日
ネーメ・ヤルヴィが指揮したウェーバーとヒンデミット
☆ウェーバー:序曲集&ヒンデミット:ウェーバーの主題による交響的変容
指揮:ネーメ・ヤルヴィ
管弦楽:フィルハーモニア管弦楽団
(1989年4月28日〜30日、ロンドン・聖ジュード教会/デジタル・セッション録音)
<CHANDOS>CHAN8766
知名度のアップという派生的効果も含めて、CDという媒体を巧みに利用した指揮者は誰かと問われれば、僕は躊躇なくネーメ・ヤルヴィの名を挙げる。
もちろん、ネーメ・ヤルヴィの実演達者ぶりなら、今から20年前のヨーロッパ滞在中にケルンWDR交響楽団との定期公演(1994年2月25日、ケルン・フィルハーモニー)で直接触れているので、彼が単なる内弁慶、ならぬスタジオ弁慶でないことは充分承知している。
けれど、当時の手兵エーテボリ交響楽団やスコティッシュ・ナショナル管弦楽団を指揮して、CHANDOS・BISの両レーベルに録音した数々のCDが彼のキャリアを強固なものへと導いたこと、そして功なり名を遂げた今もコンスタントにCDをリリースし続けていることも、また確かな事実だろう。
ヒンデミットの『ウェーバーの主題による交響的変容』と、その第2楽章「トゥーランドット・スケルツォ」の元ネタであるウェーバーの劇音楽『トゥーランドット』から序曲と行進曲、さらには『オイリアンテ』、『魔弾の射手』、『オベロン』、『幽界の支配者』の序曲4曲を加えた一粒で何度も美味しいこのアルバムは、そうしたネーメ・ヤルヴィの幅広い録音活動を象徴した一枚だ。
おどろおどろと物々しく始まって、特撮映画や大河ドラマ『炎立つ』のテーマ音楽のような安っぽい勝利に到るかのような『ウェーバーの主題による交響的変容』(1943年)は、ヒンデミットという作曲家の底意地の悪さとともに、ヨーロッパを跳梁跋扈していたナチス・ドイツに対するからかいと抵抗を示す作品だけれど、ネーメ・ヤルヴィはそうした含意に拘泥することなく、ストレートでエネルギッシュな演奏を生み出している。
だからこそ、かえって、第1楽章や終楽章のグロテスクさ空虚さが際立って聴こえてきたりもするし、中国だけではなく、日本のなんとか節も彷彿とさせるような『トゥーランドット』の行進曲のいっちゃった感もよく表われているのではないか。
序曲のほうも、裏表のない明瞭で快活な音楽づくりで聴きなじみがよい。
フィルハーモニア管弦楽団は、ソロ・アンサンブル、なべて万全の仕上がりで、ネーメ・ヤルヴィの解釈によく応えている。
ヒンデミットの『ウェーバーの主題による交響的変容』と、ウェーバーの有名な序曲を手軽に愉しみたいという方にはお薦めしたい。
なお、ヒンデミットを省いて、『ペーター・シュモル』、『シルヴァーナ』、『アブ・ハッサン』、『歓呼』、『プレチオーサ』の序曲を加えたアルバムが別途リリース(CHAN9066。廃盤)されている。
ご興味ご関心がおありの方は、こちらもぜひ。
指揮:ネーメ・ヤルヴィ
管弦楽:フィルハーモニア管弦楽団
(1989年4月28日〜30日、ロンドン・聖ジュード教会/デジタル・セッション録音)
<CHANDOS>CHAN8766
知名度のアップという派生的効果も含めて、CDという媒体を巧みに利用した指揮者は誰かと問われれば、僕は躊躇なくネーメ・ヤルヴィの名を挙げる。
もちろん、ネーメ・ヤルヴィの実演達者ぶりなら、今から20年前のヨーロッパ滞在中にケルンWDR交響楽団との定期公演(1994年2月25日、ケルン・フィルハーモニー)で直接触れているので、彼が単なる内弁慶、ならぬスタジオ弁慶でないことは充分承知している。
けれど、当時の手兵エーテボリ交響楽団やスコティッシュ・ナショナル管弦楽団を指揮して、CHANDOS・BISの両レーベルに録音した数々のCDが彼のキャリアを強固なものへと導いたこと、そして功なり名を遂げた今もコンスタントにCDをリリースし続けていることも、また確かな事実だろう。
ヒンデミットの『ウェーバーの主題による交響的変容』と、その第2楽章「トゥーランドット・スケルツォ」の元ネタであるウェーバーの劇音楽『トゥーランドット』から序曲と行進曲、さらには『オイリアンテ』、『魔弾の射手』、『オベロン』、『幽界の支配者』の序曲4曲を加えた一粒で何度も美味しいこのアルバムは、そうしたネーメ・ヤルヴィの幅広い録音活動を象徴した一枚だ。
おどろおどろと物々しく始まって、特撮映画や大河ドラマ『炎立つ』のテーマ音楽のような安っぽい勝利に到るかのような『ウェーバーの主題による交響的変容』(1943年)は、ヒンデミットという作曲家の底意地の悪さとともに、ヨーロッパを跳梁跋扈していたナチス・ドイツに対するからかいと抵抗を示す作品だけれど、ネーメ・ヤルヴィはそうした含意に拘泥することなく、ストレートでエネルギッシュな演奏を生み出している。
だからこそ、かえって、第1楽章や終楽章のグロテスクさ空虚さが際立って聴こえてきたりもするし、中国だけではなく、日本のなんとか節も彷彿とさせるような『トゥーランドット』の行進曲のいっちゃった感もよく表われているのではないか。
序曲のほうも、裏表のない明瞭で快活な音楽づくりで聴きなじみがよい。
フィルハーモニア管弦楽団は、ソロ・アンサンブル、なべて万全の仕上がりで、ネーメ・ヤルヴィの解釈によく応えている。
ヒンデミットの『ウェーバーの主題による交響的変容』と、ウェーバーの有名な序曲を手軽に愉しみたいという方にはお薦めしたい。
なお、ヒンデミットを省いて、『ペーター・シュモル』、『シルヴァーナ』、『アブ・ハッサン』、『歓呼』、『プレチオーサ』の序曲を加えたアルバムが別途リリース(CHAN9066。廃盤)されている。
ご興味ご関心がおありの方は、こちらもぜひ。
2014年12月22日
ラルキブデッリが演奏したシューベルトの弦楽4重奏曲&3重奏曲集
☆シューベルト:弦楽4重奏曲第10番、弦楽3重奏曲第1番&第2番
演奏:ラルキブデッリ
(1993年6月/デジタル・セッション録音)
<SONY>SK53982
チェロのアンナー・ビルスマを中心としたピリオド楽器のアンサンブル、ラルキブデッリが演奏したシューベルトの室内楽作品集。
インティメートな雰囲気に満ちた細やかな演奏で、作品の歌唱性や抒情性がよく再現されているとともに、その隙間からシューベルトの音楽の持つ深淵というのか、孤独さ、痛切さがこぼれ出てもいる。
すでに20年以上前の録音だが、音質的に全く問題はない。
シューベルトの音楽を愛する人に大いにお薦めしたい一枚だ。
演奏:ラルキブデッリ
(1993年6月/デジタル・セッション録音)
<SONY>SK53982
チェロのアンナー・ビルスマを中心としたピリオド楽器のアンサンブル、ラルキブデッリが演奏したシューベルトの室内楽作品集。
インティメートな雰囲気に満ちた細やかな演奏で、作品の歌唱性や抒情性がよく再現されているとともに、その隙間からシューベルトの音楽の持つ深淵というのか、孤独さ、痛切さがこぼれ出てもいる。
すでに20年以上前の録音だが、音質的に全く問題はない。
シューベルトの音楽を愛する人に大いにお薦めしたい一枚だ。
ホグウッドとAAMが演奏したテレマンの2重、3重協奏曲集
☆テレマン:2重、3重協奏曲集
指揮:クリストファー・ホグウッド
管弦楽:アカデミー・オブ・エンシェント・ミュージック
(1981年7月/デジタル・セッション録音)
<オワゾリール>411 949-2
先ごろ亡くなったクリストファー・ホグウッドが、手兵アカデミー・オブ・エンシェント・ミュージック(AAM)と録音した、テレマンの作品集だ。
昨今のメリハリがよく効いて強弱のふり幅が激しい、バロックアクロバティックな演奏と比べると、いくぶんおとなしめというか、穏やかな感じがしないでもないけれど、テレマンという作曲家の音楽づくりの巧さ、職人性がよく再現されていることも確かだろう。
ソリストたちも、音楽を愉しむという意味でまず問題はない。
今から35年近く前のデジタル初期の録音だが、音質の古さをあまり感じない。
オーソドックスなバロック音楽の演奏になじんだ方に、ピリオド楽器演奏の入門篇としてお薦めしたい一枚である。
指揮:クリストファー・ホグウッド
管弦楽:アカデミー・オブ・エンシェント・ミュージック
(1981年7月/デジタル・セッション録音)
<オワゾリール>411 949-2
先ごろ亡くなったクリストファー・ホグウッドが、手兵アカデミー・オブ・エンシェント・ミュージック(AAM)と録音した、テレマンの作品集だ。
昨今のメリハリがよく効いて強弱のふり幅が激しい、バロックアクロバティックな演奏と比べると、いくぶんおとなしめというか、穏やかな感じがしないでもないけれど、テレマンという作曲家の音楽づくりの巧さ、職人性がよく再現されていることも確かだろう。
ソリストたちも、音楽を愉しむという意味でまず問題はない。
今から35年近く前のデジタル初期の録音だが、音質の古さをあまり感じない。
オーソドックスなバロック音楽の演奏になじんだ方に、ピリオド楽器演奏の入門篇としてお薦めしたい一枚である。
ミハイル・プレトニョフが指揮したロシア序曲集
☆ロシア序曲集
指揮:ミハイル・プレトニョフ
管弦楽:ロシア・ナショナル管弦楽団
(1993年11月/デジタル・セッション録音)
<ドイツ・グラモフォン>439 892-2
ピアニストから指揮者へと活動の幅を広げたミハイル・プレトニョフが、新たに創設したロシア・ナショナル管弦楽団とともに録音した、ロシア(旧ソ連)の序曲集である。
指揮を始めて間もない頃のプレトニョフのバトン・テクニックや、まだ出来立ての頃のオーケストラということもあってか、ソロの技量に比して全体的に前のめりがちな、とっちらかった感じは否めないものの、とても有名なグリンカの『ルスランとリュドミラ』序曲や、そこそこ有名なボロディンの『イーゴリ公』序曲、ショスタコーヴィチの祝典序曲、カバレフスキーの『コラ・ブルニョン』序曲、ムソルグスキーの『ホヴァンシチーナ』前奏曲に加え、プロコフィエフの『セミョーン・コトコ』序曲、リムスキー=コルサコフの『皇帝の花嫁』序曲、チャイコフスキーの序曲ヘ長調、グラズノフの祝典序曲という非常にマニアックな作品が収められているのは、やはりこのアルバムの大きな魅力だと思う。
ロシア物・旧ソ連物がお好きな方には、ぜひともご一聴をお薦めしたい。
指揮:ミハイル・プレトニョフ
管弦楽:ロシア・ナショナル管弦楽団
(1993年11月/デジタル・セッション録音)
<ドイツ・グラモフォン>439 892-2
ピアニストから指揮者へと活動の幅を広げたミハイル・プレトニョフが、新たに創設したロシア・ナショナル管弦楽団とともに録音した、ロシア(旧ソ連)の序曲集である。
指揮を始めて間もない頃のプレトニョフのバトン・テクニックや、まだ出来立ての頃のオーケストラということもあってか、ソロの技量に比して全体的に前のめりがちな、とっちらかった感じは否めないものの、とても有名なグリンカの『ルスランとリュドミラ』序曲や、そこそこ有名なボロディンの『イーゴリ公』序曲、ショスタコーヴィチの祝典序曲、カバレフスキーの『コラ・ブルニョン』序曲、ムソルグスキーの『ホヴァンシチーナ』前奏曲に加え、プロコフィエフの『セミョーン・コトコ』序曲、リムスキー=コルサコフの『皇帝の花嫁』序曲、チャイコフスキーの序曲ヘ長調、グラズノフの祝典序曲という非常にマニアックな作品が収められているのは、やはりこのアルバムの大きな魅力だと思う。
ロシア物・旧ソ連物がお好きな方には、ぜひともご一聴をお薦めしたい。
2014年12月19日
クルレンツィスの『コジ・ファン・トゥッテ』
☆モーツァルト:歌劇『コジ・ファン・トゥッテ』
指揮:テオドール・クルレンツィス
管弦楽:ムジカ・エテルナ
(2013年1月/デジタル・セッション録音)
<SONY/BMG>88765466162 3枚組
ばたばたしていて感想を記すのが相当遅くなってしまったけれど、テオドール・クルレンツィスと手兵ムジカ・エテルナが進めている、モーツァルトのダ・ポンテ三部作録音の第二弾となる『コジ・ファン・トゥッテ』は、クルレンツィスの楽曲解釈とそれによく応えた管弦楽・合唱、そして粒揃いの歌い手による、まさしく三位一体と呼びたくなるような充実した内容となっていた。
前作『フィガロの結婚』でも示されていたように、クルレンツィスはメリハリの効いた音楽づくりで活き活きとして停滞しない演奏を生み出している。
もちろん、「恋」「愛」を通じた人の心のうつろいと激しい感情の動きが肝な『コジ』だけに、単なる鋭角的な処理が行われるのではなく、描かれる場面、対象に合わせた細やかな変化が施されていることも確かだ。
加えて、クルレンツィスが杓子定規にいわゆるピリオド奏法を援用しているわけではないことも、やはり忘れてはなるまい。
例えば、第2幕のデスピーナのアリアでの休止の取り方など、のちのベルカント・オペラやヴェルディのオペラやヨハン・シュトラウスのオペレッタへの影響、ばかりでなく、逆にそれらの作品の反映のようにも感じられた。
声質の好みという点では正直全てがストライクゾーンではないし、テイクの選択に関しても気になる点がないではないものの、ジモーネ・ケルメスのフィオルデリージ以下、歌手陣も、クルレンツィスによく沿った歌唱とアンサンブルを披歴している。
中でも、デスピーナを歌ったアンナ・カシヤンの芝居達者ぶりが強く印象に残った。
何度聴いても聴き飽きない、快活で耳なじみのよい演奏・録音な上に、2000円前後でこれが手に入るというのだから、掛け値なしにお薦めだ。
そして、ギリシャ出身でありながら、どこかドストエフスキー的な雰囲気を醸し出しているクルレンツィスが、『ドン・ジョヴァンニ』で如何なるデモーニッシュな世界を再現してくれるか、とても愉しみである。
指揮:テオドール・クルレンツィス
管弦楽:ムジカ・エテルナ
(2013年1月/デジタル・セッション録音)
<SONY/BMG>88765466162 3枚組
ばたばたしていて感想を記すのが相当遅くなってしまったけれど、テオドール・クルレンツィスと手兵ムジカ・エテルナが進めている、モーツァルトのダ・ポンテ三部作録音の第二弾となる『コジ・ファン・トゥッテ』は、クルレンツィスの楽曲解釈とそれによく応えた管弦楽・合唱、そして粒揃いの歌い手による、まさしく三位一体と呼びたくなるような充実した内容となっていた。
前作『フィガロの結婚』でも示されていたように、クルレンツィスはメリハリの効いた音楽づくりで活き活きとして停滞しない演奏を生み出している。
もちろん、「恋」「愛」を通じた人の心のうつろいと激しい感情の動きが肝な『コジ』だけに、単なる鋭角的な処理が行われるのではなく、描かれる場面、対象に合わせた細やかな変化が施されていることも確かだ。
加えて、クルレンツィスが杓子定規にいわゆるピリオド奏法を援用しているわけではないことも、やはり忘れてはなるまい。
例えば、第2幕のデスピーナのアリアでの休止の取り方など、のちのベルカント・オペラやヴェルディのオペラやヨハン・シュトラウスのオペレッタへの影響、ばかりでなく、逆にそれらの作品の反映のようにも感じられた。
声質の好みという点では正直全てがストライクゾーンではないし、テイクの選択に関しても気になる点がないではないものの、ジモーネ・ケルメスのフィオルデリージ以下、歌手陣も、クルレンツィスによく沿った歌唱とアンサンブルを披歴している。
中でも、デスピーナを歌ったアンナ・カシヤンの芝居達者ぶりが強く印象に残った。
何度聴いても聴き飽きない、快活で耳なじみのよい演奏・録音な上に、2000円前後でこれが手に入るというのだから、掛け値なしにお薦めだ。
そして、ギリシャ出身でありながら、どこかドストエフスキー的な雰囲気を醸し出しているクルレンツィスが、『ドン・ジョヴァンニ』で如何なるデモーニッシュな世界を再現してくれるか、とても愉しみである。
2014年09月14日
アルフレッド・ブレンデルが弾いたシューベルトのピアノ・ソナタ第20番他
☆シューベルト:ピアノ・ソナタ第20番&ハンガリー風のメロディ他
ピアノ独奏:アルフレッド・ブレンデル
(1987年12月、オーベルプファルツ・ノイマルクト/デジタル・セッション録音)
<PHILIPS>422 229-2
7年ぶりになるか、先日、昔親しくしていた女友達と会った。
4歳になるお嬢ちゃんもいっしょで、1時間ほどだが、お互いの近況についてあれこれ話をすることができた。
時は止まらない、だから君は美しい。
という言葉を、ふと思いついた。
帰りがけ、このCDを手に入れた。
1987年12月の録音だが、それから1年近くが経った1988年10月11日(まだ昭和だ!)、大阪のザ・シンフォニーホールでピアノ・ソナタ第20番をメインにしたブレンデルのピアノ・リサイタルを聴いた。
たぶんこのCDのリリースと絡ませたプログラミングだったのだろう。
アンコールは、確かハンガリー風のメロディではなかったか。
大学に入り立ての僕は、同じ専攻の女性を誘ってこのリサイタルを聴きに行った。
恋心までは到ってないものの、当然シンパシーを抱いていたはずで、第20番の終楽章のはにかみながら希望を語っているような旋律の心地よさが今も忘れられない。
結局、彼女とはそこそこの距離感のままに終わってしまったのだけれど、だからこそほどよい記憶が残っているのかもしれない。
こうやって改めてCDで聴いてみると、ブレンデルの演奏に不満を述べることは容易だ。
丹念なアナリーゼに裏打ちされた深い読み込みの演奏であることに間違いはないが、それがかえって音楽の激しい心の動きに結び付かないもどかしさを与えていることも否定できまい。
それに、細部のたどたどしさ。
訥弁には訥弁のよさがあるとはいえ、シューベルトの音楽の持つ歌唱性の魅力を若干そいでしまっていることも事実だ。
それでも、同じ旋律を引用したハンガリー風のディヴェルティメントの第3楽章を意識しているのだろうか、早めのテンポをとったハンガリー風のメロディの過度に陥らない叙情性には、強く心を魅かれるが。
ほかに、16のドイツ舞曲とアレグレットが収められている。
いずれにしても、やはり時は止まらないからこそ美しいのだと思う。
ピアノ独奏:アルフレッド・ブレンデル
(1987年12月、オーベルプファルツ・ノイマルクト/デジタル・セッション録音)
<PHILIPS>422 229-2
7年ぶりになるか、先日、昔親しくしていた女友達と会った。
4歳になるお嬢ちゃんもいっしょで、1時間ほどだが、お互いの近況についてあれこれ話をすることができた。
時は止まらない、だから君は美しい。
という言葉を、ふと思いついた。
帰りがけ、このCDを手に入れた。
1987年12月の録音だが、それから1年近くが経った1988年10月11日(まだ昭和だ!)、大阪のザ・シンフォニーホールでピアノ・ソナタ第20番をメインにしたブレンデルのピアノ・リサイタルを聴いた。
たぶんこのCDのリリースと絡ませたプログラミングだったのだろう。
アンコールは、確かハンガリー風のメロディではなかったか。
大学に入り立ての僕は、同じ専攻の女性を誘ってこのリサイタルを聴きに行った。
恋心までは到ってないものの、当然シンパシーを抱いていたはずで、第20番の終楽章のはにかみながら希望を語っているような旋律の心地よさが今も忘れられない。
結局、彼女とはそこそこの距離感のままに終わってしまったのだけれど、だからこそほどよい記憶が残っているのかもしれない。
こうやって改めてCDで聴いてみると、ブレンデルの演奏に不満を述べることは容易だ。
丹念なアナリーゼに裏打ちされた深い読み込みの演奏であることに間違いはないが、それがかえって音楽の激しい心の動きに結び付かないもどかしさを与えていることも否定できまい。
それに、細部のたどたどしさ。
訥弁には訥弁のよさがあるとはいえ、シューベルトの音楽の持つ歌唱性の魅力を若干そいでしまっていることも事実だ。
それでも、同じ旋律を引用したハンガリー風のディヴェルティメントの第3楽章を意識しているのだろうか、早めのテンポをとったハンガリー風のメロディの過度に陥らない叙情性には、強く心を魅かれるが。
ほかに、16のドイツ舞曲とアレグレットが収められている。
いずれにしても、やはり時は止まらないからこそ美しいのだと思う。
2014年08月24日
サイモン・ラトルとバーミンガム・シティ交響楽団のブルックナーの交響曲第7番
☆ブルックナー:交響曲第7番
指揮:サイモン・ラトル
管弦楽:バーミンガム・シティ交響楽団
(1996年9月/デジタル・セッション録音)
<EMI>CDC5 56425 2
サイモン・ラトルも、来年1月の誕生日で満60歳か。
いや、アバドもマゼールも、ブリュッヘンも亡くなったんだから、ラトルが60歳になるのも無理はないことだけど。
ちょうどクラシック音楽を聴き始めた頃とラトルの初来日が重なって、FMで聴いたその颯爽として若々しい演奏が未だに鮮明に記憶に残っているせいか、時の流れの速さにはやはり唖然としてしまう。
ラトルの実演に接したのは、まだ2回しかない。
そのうち、1991年2月12日にザ・シンフォニー・ホールで聴いたバーミンガム・シティ交響楽団の来日公演のほうは、マーラーの交響曲第9番という大曲をまだ巧く掴みきれていなかったこともあって、音の波に流されているうちに演奏が終わり、ああ左利きのヴィオラ奏者がいたなとか、終演後の拍手が早過ぎたんじゃないかとか、些末なことばかりを思い出す。
1993年9月8日、ケルンのフィルハーモニーで聴いた、これまたバーミンガム・シティ交響楽団とのコンサートのほうは、はっきりと音楽のことも覚えている。
シャープでクリア、切れ味抜群のバルトークの管弦楽のための協奏曲に始まり、バーミンガム・コンテンポラリー・グループだったかな、小編成のアンサンブルによる精度の高い、シェーンベルクの室内交響曲。
休憩後のお国物、エルガーのエニグマ変奏曲も、歌わせるべきところはたっぷり歌わせ締めるべきところはきっちり締めるドラマティックでシンフォニックな演奏で、おまけにアンコールのドビュッシーの牧神の午後への前奏曲の清澄な響きと、オーケストラ音楽の愉しさを満喫することができた。
終演後、感極まった実業家然とした恰幅のよい見知らぬ壮年の男性から、「よかったねえ!」とドイツ語で声をかけられ、「はい!」と応えたほどだった。
ラトルとバーミンガム・シティ交響楽団にとって後期の共同作業となる、このブルックナーの交響曲第7番は、彼彼女らの特性がよく表われたCDとなっている。
先達たちの演奏と同様、叙情性に富んだ部分は伸びやかに歌わせつつ、音色自体は透明感にあふれていて、重たるくべたべたと粘りついたりはしない。
また、第2楽章・トラック2の19分19秒から50秒あたりを作品の頂点に置きながらも、後半の第3、第4楽章でもしっかりメリハリをつけて飽きさせない音楽づくりなど、ラトルの本領がよく発揮されているのではないか。
バーミンガム・シティ交響楽団も、そうしたラトルの解釈によく沿って、過不足のない演奏を繰り広げている。
個々の奏者の技量云々より何より、アンサンブルとしてのまとまりのよさ、インティメートな雰囲気が魅力的だ。
ただ、だからこそ、いつもの如きEMIレーベルのくぐもってじがじがとした感じの鈍くて美しくない音質がどうにも残念だ。
実演に接したからこそなおのこと、クリアで見通しのよい録音がラトルとバーミンガム・シティ交響楽団の演奏には相応しいように感じられるのに。
正直、ベルリン・フィルのシェフに就任してなお、EMIレーベルと契約を続けたことは、ラトルにとってあまり芳しいことではなかったように思う。
いずれにしても、すっきりとして美しいブルックナーの交響曲第7番の演奏をお求めの方には、お薦めしたい一枚である。
それにしても、ベルリン・フィルを去ったあとのラトルは、一体どのような音楽を聴かせてくれるのだろうか。
非常に興味深く、愉しみだ。
指揮:サイモン・ラトル
管弦楽:バーミンガム・シティ交響楽団
(1996年9月/デジタル・セッション録音)
<EMI>CDC5 56425 2
サイモン・ラトルも、来年1月の誕生日で満60歳か。
いや、アバドもマゼールも、ブリュッヘンも亡くなったんだから、ラトルが60歳になるのも無理はないことだけど。
ちょうどクラシック音楽を聴き始めた頃とラトルの初来日が重なって、FMで聴いたその颯爽として若々しい演奏が未だに鮮明に記憶に残っているせいか、時の流れの速さにはやはり唖然としてしまう。
ラトルの実演に接したのは、まだ2回しかない。
そのうち、1991年2月12日にザ・シンフォニー・ホールで聴いたバーミンガム・シティ交響楽団の来日公演のほうは、マーラーの交響曲第9番という大曲をまだ巧く掴みきれていなかったこともあって、音の波に流されているうちに演奏が終わり、ああ左利きのヴィオラ奏者がいたなとか、終演後の拍手が早過ぎたんじゃないかとか、些末なことばかりを思い出す。
1993年9月8日、ケルンのフィルハーモニーで聴いた、これまたバーミンガム・シティ交響楽団とのコンサートのほうは、はっきりと音楽のことも覚えている。
シャープでクリア、切れ味抜群のバルトークの管弦楽のための協奏曲に始まり、バーミンガム・コンテンポラリー・グループだったかな、小編成のアンサンブルによる精度の高い、シェーンベルクの室内交響曲。
休憩後のお国物、エルガーのエニグマ変奏曲も、歌わせるべきところはたっぷり歌わせ締めるべきところはきっちり締めるドラマティックでシンフォニックな演奏で、おまけにアンコールのドビュッシーの牧神の午後への前奏曲の清澄な響きと、オーケストラ音楽の愉しさを満喫することができた。
終演後、感極まった実業家然とした恰幅のよい見知らぬ壮年の男性から、「よかったねえ!」とドイツ語で声をかけられ、「はい!」と応えたほどだった。
ラトルとバーミンガム・シティ交響楽団にとって後期の共同作業となる、このブルックナーの交響曲第7番は、彼彼女らの特性がよく表われたCDとなっている。
先達たちの演奏と同様、叙情性に富んだ部分は伸びやかに歌わせつつ、音色自体は透明感にあふれていて、重たるくべたべたと粘りついたりはしない。
また、第2楽章・トラック2の19分19秒から50秒あたりを作品の頂点に置きながらも、後半の第3、第4楽章でもしっかりメリハリをつけて飽きさせない音楽づくりなど、ラトルの本領がよく発揮されているのではないか。
バーミンガム・シティ交響楽団も、そうしたラトルの解釈によく沿って、過不足のない演奏を繰り広げている。
個々の奏者の技量云々より何より、アンサンブルとしてのまとまりのよさ、インティメートな雰囲気が魅力的だ。
ただ、だからこそ、いつもの如きEMIレーベルのくぐもってじがじがとした感じの鈍くて美しくない音質がどうにも残念だ。
実演に接したからこそなおのこと、クリアで見通しのよい録音がラトルとバーミンガム・シティ交響楽団の演奏には相応しいように感じられるのに。
正直、ベルリン・フィルのシェフに就任してなお、EMIレーベルと契約を続けたことは、ラトルにとってあまり芳しいことではなかったように思う。
いずれにしても、すっきりとして美しいブルックナーの交響曲第7番の演奏をお求めの方には、お薦めしたい一枚である。
それにしても、ベルリン・フィルを去ったあとのラトルは、一体どのような音楽を聴かせてくれるのだろうか。
非常に興味深く、愉しみだ。
ナタリー・デセイが歌ったモーツァルトのオペラ・アリア集「モーツァルト−ヒロインズ」
☆モーツァルト:オペラ・アリア集「モーツァルト−ヒロインズ」
独唱:ナタリー・デセイ(ソプラノ)
指揮:ルイ・ラングレー
管弦楽:エイジ・オブ・エンライトゥンメント管弦楽団
(2000年8月、9月/デジタル・セッション録音)
<Virgin>VC5 45447 2
流れる時間は均一でも、年齢を重ねるごとにその感覚は大きく変わっていくのではないか。
ナタリー・デセイが歌うモーツァルトのオペラ・アリア集「モーツァルト−ヒロインズ」を耳にしながら、へえ、このCDって14年も前に録音リリースされたものなのか、14年なんてほんとあっという間だなあ、という具合に。
ただ、感覚はそうであったとしても、やはり時間はしっかり経過しているのであって、実際、このアルバムできれいな高音を聴かせているデセイも、14年のうちに声がどんどん重たくなってオペラで歌う役柄を大きく変えていき、ついには昨年秋オペラからの引退を発表するに到ってしまった。
まあ、それはそれ。
有名な『魔笛』の「復習の心は地獄のように」で、コロラトゥーラの技巧をばりばりと披歴して、つかみはOK。
さらに9曲、いくぶん鼻にかかって気品があり、伸びがあってよく澄んだデセイの美しい歌声が続くのだから、これはもうこたえられない。
で、フランス出身のコロラトゥーラ・ソプラノといえば、どうしてもパトリシア・プティボンのことを思い起こすのだけれど、あちらが歌劇の「劇」にも大きく踏み込んだ行き方をするのに対し、こちらデセイは歌を中心にした、言い換えれば歌そのもので劇空間を造り込む行き方に徹しているように思う。
わかりやすい例を挙げれば、プティボンはダニエル・ハーディング指揮コンチェルト・ケルンの伴奏で歌っている<ドイツ・グラモフォン>、『ツァイーデ』の「けだもの!爪をひたすら磨ぎ澄まして」の、最後の「ティーゲル!」という一節。
プティボンが彼女の魅力でもある地声っぽい声で台詞風に言い放つのに比して、デセイはあくまでも歌として締める。
両者の違いがよく表われた部分なので、ご興味おありの方は、ぜひとも聴き比べていただきたい。
それと、デセイの柔軟性に富んだ歌唱を識るという意味では、『後宮からの逃走』の「なんという変化が…深い悲しみに」と「ありとあらゆる苦しみが待ち受けていても」の2つのアリアを忘れてはならないだろう。
前者での細やかな心の動き悲痛な表情、一転後者での激しさ力強さ。
デセイという歌い手の表現力の幅の広さが端的に示されている。
ルイ・ラングレーの指揮は、歌の要所急所をよく押さえているのではないか。
上述ハーディングのような鋭敏さには欠けるが、デセイの歌にはラングレーの抑制のきいた音楽づくりがぴったりだとも思う。
エイジ・オブ・エンライトゥンメント管弦楽団も達者だ。
モーツァルト好き、オペラ好きには大いにお薦めしたい一枚。
デセイのファンはもちろんのこと。
独唱:ナタリー・デセイ(ソプラノ)
指揮:ルイ・ラングレー
管弦楽:エイジ・オブ・エンライトゥンメント管弦楽団
(2000年8月、9月/デジタル・セッション録音)
<Virgin>VC5 45447 2
流れる時間は均一でも、年齢を重ねるごとにその感覚は大きく変わっていくのではないか。
ナタリー・デセイが歌うモーツァルトのオペラ・アリア集「モーツァルト−ヒロインズ」を耳にしながら、へえ、このCDって14年も前に録音リリースされたものなのか、14年なんてほんとあっという間だなあ、という具合に。
ただ、感覚はそうであったとしても、やはり時間はしっかり経過しているのであって、実際、このアルバムできれいな高音を聴かせているデセイも、14年のうちに声がどんどん重たくなってオペラで歌う役柄を大きく変えていき、ついには昨年秋オペラからの引退を発表するに到ってしまった。
まあ、それはそれ。
有名な『魔笛』の「復習の心は地獄のように」で、コロラトゥーラの技巧をばりばりと披歴して、つかみはOK。
さらに9曲、いくぶん鼻にかかって気品があり、伸びがあってよく澄んだデセイの美しい歌声が続くのだから、これはもうこたえられない。
で、フランス出身のコロラトゥーラ・ソプラノといえば、どうしてもパトリシア・プティボンのことを思い起こすのだけれど、あちらが歌劇の「劇」にも大きく踏み込んだ行き方をするのに対し、こちらデセイは歌を中心にした、言い換えれば歌そのもので劇空間を造り込む行き方に徹しているように思う。
わかりやすい例を挙げれば、プティボンはダニエル・ハーディング指揮コンチェルト・ケルンの伴奏で歌っている<ドイツ・グラモフォン>、『ツァイーデ』の「けだもの!爪をひたすら磨ぎ澄まして」の、最後の「ティーゲル!」という一節。
プティボンが彼女の魅力でもある地声っぽい声で台詞風に言い放つのに比して、デセイはあくまでも歌として締める。
両者の違いがよく表われた部分なので、ご興味おありの方は、ぜひとも聴き比べていただきたい。
それと、デセイの柔軟性に富んだ歌唱を識るという意味では、『後宮からの逃走』の「なんという変化が…深い悲しみに」と「ありとあらゆる苦しみが待ち受けていても」の2つのアリアを忘れてはならないだろう。
前者での細やかな心の動き悲痛な表情、一転後者での激しさ力強さ。
デセイという歌い手の表現力の幅の広さが端的に示されている。
ルイ・ラングレーの指揮は、歌の要所急所をよく押さえているのではないか。
上述ハーディングのような鋭敏さには欠けるが、デセイの歌にはラングレーの抑制のきいた音楽づくりがぴったりだとも思う。
エイジ・オブ・エンライトゥンメント管弦楽団も達者だ。
モーツァルト好き、オペラ好きには大いにお薦めしたい一枚。
デセイのファンはもちろんのこと。
2014年08月21日
オビエド・フィルが演奏したサン・サーンスのアルバム
☆サン・サーンス:ヴァイオリン協奏曲第3番&交響曲第3番「オルガン付き」他
独奏:アレクサンドレ・ダ・コスタ(ヴァイオリン)
指揮:マルツィオ・コンツィ
管弦楽:オビエド・フィラルモニア
<WARNER>2564628144
スペインのオーケストラが充実している。
経済的状況の悪化で知られるスペインだが、スペイン国立管弦楽団やRTVE(スペイン放送)交響楽団、マドリード交響楽団といった首都マドリードのオーケストラばかりでなく、定期演奏会の回数や指揮者の顔触れを見る限り、地方のオーケストラの活動も非常に活発である。
一例を挙げればガリシア交響楽団。
CDだと、村治佳織がソロを務めたロドリーゴのアランフェスの協奏曲の伴奏程度しか思い浮かばないが、楽団が公式にアップしているyoutubeの動画を観聴きすれば、その充実ぶりがわかると思う。
先頃亡くなったロリン・マゼールとのマーラーの交響曲第1番「巨人」やスタニスラフ・スクロヴァチェフスキとのブルックナーの交響曲第4番「ロマンティック」もそうだし、トン・コープマンやリチャード・エガーとのピリオド・スタイル全開の演奏もそうだけど、アンサンブルとしてのまとまりのよさ、インティメートな雰囲気が実に魅力的なのである。
技術的な高さ、ではなく音楽性の高さを持ったオーケストラだと評したい。
オビエド市交響楽団を母体に、1999年に新たに設立されたオビエド・フィラルモニアにとってメジャーレーベル・デビューとなる、このサン・サーンスの作品集も、そうしたスペインの地方オーケストラの現状を象徴する一枚になっているのではないか。
なお、CDの売れ行きを考慮してか、今回のアルバムは、ワーナー・レーベル売り出し中の若手ヴァイオリニスト、アレクサンドレ・ダ・コスタ独奏のヴァイオリン協奏曲第3番と交響曲第3番「オルガン付き」をカップリングの両端に置くという、「両A面」体制がとられている。
で、まずはヴァイオリン協奏曲だが、モントリオール出身のダ・コスタは、別のアルバムのブックレット写真から受けるイメージとは異なり、流麗で細やかな美音が持ち味のように感じられる。
パッションに任せてエネルギッシュにぐいぐいと音楽を動かす行き方に比べれば、線の細さは否めないが、その分サン・サーンスの音楽の持つ古典的な明晰さと旋律の美しさにはぴったりだ。
その意味でも、有名な序奏とロンド・カプリチオーソのほうが、よりダ・コスタの特質に合っていると思う。
コンツィ指揮のオーケストラは、若干粗さはありつつも、丁寧な伴奏を心がけている。
一方、オーケストラがメインとなる交響曲第3番では、第1楽章後半がとても印象に残る。
同じ楽章の前半部分や、第2楽章前半の早いパッセージ、そして後半の高揚する部分では、オーケストラの硬さ、表面的なならされなめされていなさが、どうしても気になるのだが、第1楽章後半部分の静謐で官能的な美しさには、やはり強く心魅かれる。
この部分を聴くためだけでも、といえば大げさになるけれど、このアルバムの聴きどころの一つであることは疑いようがない。
そして、管弦楽のための「ホタ・アラゴネーサ」。
僅か5分にも満たない小品だが、スペイン趣味にあふれた陽気で軽快なのりで、オーケストラの本領が発揮されている。
メインの作品のファーストチョイスとしてはお薦めしにくいものの、スペインのオーケストラの今を識るという意味では、外せないアルバムだろう。
独奏:アレクサンドレ・ダ・コスタ(ヴァイオリン)
指揮:マルツィオ・コンツィ
管弦楽:オビエド・フィラルモニア
<WARNER>2564628144
スペインのオーケストラが充実している。
経済的状況の悪化で知られるスペインだが、スペイン国立管弦楽団やRTVE(スペイン放送)交響楽団、マドリード交響楽団といった首都マドリードのオーケストラばかりでなく、定期演奏会の回数や指揮者の顔触れを見る限り、地方のオーケストラの活動も非常に活発である。
一例を挙げればガリシア交響楽団。
CDだと、村治佳織がソロを務めたロドリーゴのアランフェスの協奏曲の伴奏程度しか思い浮かばないが、楽団が公式にアップしているyoutubeの動画を観聴きすれば、その充実ぶりがわかると思う。
先頃亡くなったロリン・マゼールとのマーラーの交響曲第1番「巨人」やスタニスラフ・スクロヴァチェフスキとのブルックナーの交響曲第4番「ロマンティック」もそうだし、トン・コープマンやリチャード・エガーとのピリオド・スタイル全開の演奏もそうだけど、アンサンブルとしてのまとまりのよさ、インティメートな雰囲気が実に魅力的なのである。
技術的な高さ、ではなく音楽性の高さを持ったオーケストラだと評したい。
オビエド市交響楽団を母体に、1999年に新たに設立されたオビエド・フィラルモニアにとってメジャーレーベル・デビューとなる、このサン・サーンスの作品集も、そうしたスペインの地方オーケストラの現状を象徴する一枚になっているのではないか。
なお、CDの売れ行きを考慮してか、今回のアルバムは、ワーナー・レーベル売り出し中の若手ヴァイオリニスト、アレクサンドレ・ダ・コスタ独奏のヴァイオリン協奏曲第3番と交響曲第3番「オルガン付き」をカップリングの両端に置くという、「両A面」体制がとられている。
で、まずはヴァイオリン協奏曲だが、モントリオール出身のダ・コスタは、別のアルバムのブックレット写真から受けるイメージとは異なり、流麗で細やかな美音が持ち味のように感じられる。
パッションに任せてエネルギッシュにぐいぐいと音楽を動かす行き方に比べれば、線の細さは否めないが、その分サン・サーンスの音楽の持つ古典的な明晰さと旋律の美しさにはぴったりだ。
その意味でも、有名な序奏とロンド・カプリチオーソのほうが、よりダ・コスタの特質に合っていると思う。
コンツィ指揮のオーケストラは、若干粗さはありつつも、丁寧な伴奏を心がけている。
一方、オーケストラがメインとなる交響曲第3番では、第1楽章後半がとても印象に残る。
同じ楽章の前半部分や、第2楽章前半の早いパッセージ、そして後半の高揚する部分では、オーケストラの硬さ、表面的なならされなめされていなさが、どうしても気になるのだが、第1楽章後半部分の静謐で官能的な美しさには、やはり強く心魅かれる。
この部分を聴くためだけでも、といえば大げさになるけれど、このアルバムの聴きどころの一つであることは疑いようがない。
そして、管弦楽のための「ホタ・アラゴネーサ」。
僅か5分にも満たない小品だが、スペイン趣味にあふれた陽気で軽快なのりで、オーケストラの本領が発揮されている。
メインの作品のファーストチョイスとしてはお薦めしにくいものの、スペインのオーケストラの今を識るという意味では、外せないアルバムだろう。
2014年07月14日
ロリン・マゼールの死を悼む
☆ロリン・マゼールの死を悼む
>(前略)私がまず感ぜずにいられなかったことは、(中略)彼は(略)、まるで世慣れない、人見知りをする、一介の白面の青年にすぎないようなところのある点である。
(中略)
それから、<実人生>を前にした時の、彼の困惑。
そういうものも、私はよく彼の目の中にみた。
もちろん、彼の目が、いつも、そういう色で染まっているというのではない。
ことに彼の顔全体の中で、官能的なものといえば、ただ一つ比較的厚い唇なのだが、その唇も肉感的なものを感じさすのはむしろ開かれている時で、上下の唇が結ばれていると、そこには、もう、何か「素朴なまま」ではありえないような、ある表情が浮かんでくる<
上記の人物評を目にして、果たしてどれだけの方が、指揮者ロリン・マゼールを想像することができるだろうか。
「比較的厚い唇」、というあたりがヒントになるのかもしれないけれど、後年の「やってるやってる」感あふれるマゼール像しか知らない人たちには、この吉田秀和の一文(『世界の指揮者』<ちくま文庫>所収、マゼールの章より)は、相当驚きをもって受け止められることと思う。
例えば、ちょうど手元にある、マゼールがウィーン・フィルを指揮したラヴェルの管弦楽曲集<RCA、1996年6月録音>一つとってみても、彼のあざとさわざとらしさは明白だ。
作品の持つドラマティックな性格をよく表現した『ダフニスとクロエ』組曲にスペイン狂詩曲はまだしも、おなじみラ・ヴァルスとボレロのあくの強さ。
中でもボレロなど、それこそ『柳生一族の陰謀』のラストでの萬屋錦之助の演技を観聴きしているかのような大芝居ぶりである。
しかも、あなた萬屋の場合は、計算の上ではなから大仰な演技を重ねているのに対し、こなたマゼールは、しれっとした顔でずっとタクトを振りながら、終盤に到ってここぞとばかりに大見得を切る。
一聴、ああこの人はまた、と妙に感心してしまったほどだ。
ただ、そうした晩年のマゼールを知っているからこそ、1960年代の彼を活写した吉田秀和の文章が、かえって強く心にも残るのである。
そして、>私は、何も、彼の人相見をしているわけではない<と断っているが、吉田秀和の人間観察の鋭さには舌を巻かざるをえない。
1930年3月6日の生まれだから、84歳ということになるか。
先頃HMVのインターネットサイトの許光俊のコラムで、マゼールの音楽が変わってきていること、ここ数ヶ月のスケジュールがキャンセルされていることを知り、もしかしたらとうすうす感じてはいたものの、まさかこうも早く彼が亡くなるとは思ってもみなかった。
90過ぎまで生きて、それこそ最晩年のストコフスキーのような音楽を聴かせることになるだろうと思っていたからだ。
そのロリン・マゼールが亡くなってしまった。
幼い頃からヴァイオリンとピアノを学び、なんと8歳でアイダホ州立大学のオーケストラを指揮する。
9歳のときには、ニューヨークの世界博覧会の特別編成のオーケストラを指揮。
さらに、NBC交響楽団やニューヨーク・フィルの指揮台に立ったのは僅か11歳というのだから、まさしく神童と呼ぶほかない。
それでも、ピッツバーグ大学で哲学と語学を学ぶ傍ら、順調に音楽の研鑚を続け、ピッツバーグ交響楽団のヴァイオリン奏者や副指揮者を務める。
そして、1950年代にはヨーロッパに渡り、ベルリン・フィルとのレコーディングを皮切りに、ウィーン・フィル等一流のオーケストラとの録音を開始する一方で、1960年代半ばには、ベルリン放送交響楽団(現ベルリン・ドイツ交響楽団)やベルリン・ドイツ・オペラの音楽監督に就任するなど、コンサート・オペラ両面での活動を本格化させた。
吉田秀和がマゼールと出会い、彼の人物や音楽について記したのもこの頃のことだ。
(同じ時期に録音した、ベルリン放送交響楽団とのモーツァルトの交響曲第25番&第29番の中古LP<コンサート・ホール>を高校時代よく聴いていたが、出来の良し悪しはひとまず置くとして、当時のマゼールの鋭角な表現、若々しい音楽づくりがよく表われていた)
その後、1972年にジョージ・セルの後任としてクリ―ヴランド管弦楽団の音楽監督に就任したあたりから、マゼールの楽曲解釈がバランス感覚を重視した安定志向へと変わったと評されているが、この点に関しては、同時代的に彼の演奏録音に触れることができていないため、あえてどうこう述べることはしない。
僕がクラシック音楽を積極的に聴き始めた1984年は、ちょうどマゼールがウィーン国立歌劇場の総監督を辞任した年にあたるのだけれど、その前後のウィーン・フィルとのニューイヤー・コンサートにしても、同じウィーン・フィルとのマーラーの交響曲全集<CBS>(加えてフィルハーモニア管弦楽団とのワーグナーの序曲前奏曲集<同>)にしても、オーケストラを巧くコントロールした、均整のよくとれた演奏だという印象が残っている程度だ。
(マゼールは、渡辺和彦との対談で繰り返しマーラーの人と音楽の「健康」性について指摘している。『クラシック辛口ノート』<洋泉社>所収、「不健全」なマーラー像を超えて −マゼールは語る、をご参照のほど)
そうしたマゼールの音楽がさらなる変化を遂げたのは、1990年代に入ってからではなかったか。
『金色夜叉』の間貫一ではないけれど、ベルリン・フィルのポスト・カラヤンを巡る争いでクラウディオ・アバドに破れた腹いせなんて見方もなくはないが、マゼールは商業主義云々といったわかりやすい言葉だけではくくれない、一癖も二癖もある、一筋縄ではいかない演奏を披歴するようになった。
ウィーン・フィルとの峻烈な演奏<DECCA>と比較して、あまりにもグラマラスで、ためやデフォルメの多いピッツバーグ交響楽団とのシベリウスの交響曲<SONY>。
これまたウィーン・フィルとの録音<同>は、アンタル・ドラティの如き職人芸の域に留まっていたのが、小沢昭一に大泉滉、三谷昇もかくやと思わせる大騒ぎの怪演に転じたバイエルン放送交響楽団とのチャイコフスキーの1812年やベートーヴェンのウェリントンの勝利<RCA>。
おまけに指揮するだけでは飽き足らず、ヴァイオリンのソロのアルバム<同>はリリースするわ、リヒャルト・シュトラウスの『ツァラトゥストラはかく語りき』&『ドン・ファン』他のCD<同>では、演奏自体はそこまでぶっとんでいないのに、魔術師か手かざし療法士かというまがまがしいジャケット写真を使用するわ。
バイエルン放送交響楽団との来日公演(1993年3月25日、愛知県芸術劇場コンサートホール)での実に堂に入ったブラームスの交響曲第1番も、休憩前の同じブラームスの交響曲第2番が作品の持つぎくしゃくした感じをあまりにも強調した演奏だっただけに、どうにも嘘臭さを感じてしまったものだ。
そういえば、このコンサートのしばらくのちにヨーロッパを訪れて、たまさかドイツとウィーンで音楽関係者の方とお話をする機会を得た際、このマゼールのコンサートについて触れたところ、お二方がお二方とも、「マゼールはねえ…(苦笑)」という反応を返して、少し驚いたりもしたんだった。
お二方とも生粋のヨーロッパ人だったが、フランスで生まれつつもすぐにアメリカに渡ったマゼールに対して、詳しくは触れないながらも、なんらかのふくみのある言葉であったことは確かだ。
(それも流暢な日本語で。それを、アジアの人間である自分が聴いている…)
そして、冒頭の吉田秀和の言葉や、その裏返しであろう自己顕示欲、権力欲、過剰なまでの解釈、演技といったマゼールのあり様の一端に、そうしたある種の齟齬が潜んでいるのでないかと、僕は感じたりもした。
いずれにしても、最晩年のマゼールの演奏に接することができなかったのは、返す返すも残念でならない。
なお、吉田秀和は先程の文章をこう続けている。
>マゼールの<音楽>も、もちろん、これからだっていろいろ変わることもあるだろう。
しかし、あすこには<一人の人間>がいるのである。
あすこには、何かをどこかからとってきて、つけたしたり、削ったりすれば、よくなったり悪くなったりするといった、そういう意味での<技術としての音楽>は、もう十歳かそこらで卒業してしまった、卒業しないではいられなかった一人の人間の<音楽>があるのである。
それが好きか嫌いか。
それはまた別の話だ<
深く、深く、深く、深く黙祷。
>(前略)私がまず感ぜずにいられなかったことは、(中略)彼は(略)、まるで世慣れない、人見知りをする、一介の白面の青年にすぎないようなところのある点である。
(中略)
それから、<実人生>を前にした時の、彼の困惑。
そういうものも、私はよく彼の目の中にみた。
もちろん、彼の目が、いつも、そういう色で染まっているというのではない。
ことに彼の顔全体の中で、官能的なものといえば、ただ一つ比較的厚い唇なのだが、その唇も肉感的なものを感じさすのはむしろ開かれている時で、上下の唇が結ばれていると、そこには、もう、何か「素朴なまま」ではありえないような、ある表情が浮かんでくる<
上記の人物評を目にして、果たしてどれだけの方が、指揮者ロリン・マゼールを想像することができるだろうか。
「比較的厚い唇」、というあたりがヒントになるのかもしれないけれど、後年の「やってるやってる」感あふれるマゼール像しか知らない人たちには、この吉田秀和の一文(『世界の指揮者』<ちくま文庫>所収、マゼールの章より)は、相当驚きをもって受け止められることと思う。
例えば、ちょうど手元にある、マゼールがウィーン・フィルを指揮したラヴェルの管弦楽曲集<RCA、1996年6月録音>一つとってみても、彼のあざとさわざとらしさは明白だ。
作品の持つドラマティックな性格をよく表現した『ダフニスとクロエ』組曲にスペイン狂詩曲はまだしも、おなじみラ・ヴァルスとボレロのあくの強さ。
中でもボレロなど、それこそ『柳生一族の陰謀』のラストでの萬屋錦之助の演技を観聴きしているかのような大芝居ぶりである。
しかも、あなた萬屋の場合は、計算の上ではなから大仰な演技を重ねているのに対し、こなたマゼールは、しれっとした顔でずっとタクトを振りながら、終盤に到ってここぞとばかりに大見得を切る。
一聴、ああこの人はまた、と妙に感心してしまったほどだ。
ただ、そうした晩年のマゼールを知っているからこそ、1960年代の彼を活写した吉田秀和の文章が、かえって強く心にも残るのである。
そして、>私は、何も、彼の人相見をしているわけではない<と断っているが、吉田秀和の人間観察の鋭さには舌を巻かざるをえない。
1930年3月6日の生まれだから、84歳ということになるか。
先頃HMVのインターネットサイトの許光俊のコラムで、マゼールの音楽が変わってきていること、ここ数ヶ月のスケジュールがキャンセルされていることを知り、もしかしたらとうすうす感じてはいたものの、まさかこうも早く彼が亡くなるとは思ってもみなかった。
90過ぎまで生きて、それこそ最晩年のストコフスキーのような音楽を聴かせることになるだろうと思っていたからだ。
そのロリン・マゼールが亡くなってしまった。
幼い頃からヴァイオリンとピアノを学び、なんと8歳でアイダホ州立大学のオーケストラを指揮する。
9歳のときには、ニューヨークの世界博覧会の特別編成のオーケストラを指揮。
さらに、NBC交響楽団やニューヨーク・フィルの指揮台に立ったのは僅か11歳というのだから、まさしく神童と呼ぶほかない。
それでも、ピッツバーグ大学で哲学と語学を学ぶ傍ら、順調に音楽の研鑚を続け、ピッツバーグ交響楽団のヴァイオリン奏者や副指揮者を務める。
そして、1950年代にはヨーロッパに渡り、ベルリン・フィルとのレコーディングを皮切りに、ウィーン・フィル等一流のオーケストラとの録音を開始する一方で、1960年代半ばには、ベルリン放送交響楽団(現ベルリン・ドイツ交響楽団)やベルリン・ドイツ・オペラの音楽監督に就任するなど、コンサート・オペラ両面での活動を本格化させた。
吉田秀和がマゼールと出会い、彼の人物や音楽について記したのもこの頃のことだ。
(同じ時期に録音した、ベルリン放送交響楽団とのモーツァルトの交響曲第25番&第29番の中古LP<コンサート・ホール>を高校時代よく聴いていたが、出来の良し悪しはひとまず置くとして、当時のマゼールの鋭角な表現、若々しい音楽づくりがよく表われていた)
その後、1972年にジョージ・セルの後任としてクリ―ヴランド管弦楽団の音楽監督に就任したあたりから、マゼールの楽曲解釈がバランス感覚を重視した安定志向へと変わったと評されているが、この点に関しては、同時代的に彼の演奏録音に触れることができていないため、あえてどうこう述べることはしない。
僕がクラシック音楽を積極的に聴き始めた1984年は、ちょうどマゼールがウィーン国立歌劇場の総監督を辞任した年にあたるのだけれど、その前後のウィーン・フィルとのニューイヤー・コンサートにしても、同じウィーン・フィルとのマーラーの交響曲全集<CBS>(加えてフィルハーモニア管弦楽団とのワーグナーの序曲前奏曲集<同>)にしても、オーケストラを巧くコントロールした、均整のよくとれた演奏だという印象が残っている程度だ。
(マゼールは、渡辺和彦との対談で繰り返しマーラーの人と音楽の「健康」性について指摘している。『クラシック辛口ノート』<洋泉社>所収、「不健全」なマーラー像を超えて −マゼールは語る、をご参照のほど)
そうしたマゼールの音楽がさらなる変化を遂げたのは、1990年代に入ってからではなかったか。
『金色夜叉』の間貫一ではないけれど、ベルリン・フィルのポスト・カラヤンを巡る争いでクラウディオ・アバドに破れた腹いせなんて見方もなくはないが、マゼールは商業主義云々といったわかりやすい言葉だけではくくれない、一癖も二癖もある、一筋縄ではいかない演奏を披歴するようになった。
ウィーン・フィルとの峻烈な演奏<DECCA>と比較して、あまりにもグラマラスで、ためやデフォルメの多いピッツバーグ交響楽団とのシベリウスの交響曲<SONY>。
これまたウィーン・フィルとの録音<同>は、アンタル・ドラティの如き職人芸の域に留まっていたのが、小沢昭一に大泉滉、三谷昇もかくやと思わせる大騒ぎの怪演に転じたバイエルン放送交響楽団とのチャイコフスキーの1812年やベートーヴェンのウェリントンの勝利<RCA>。
おまけに指揮するだけでは飽き足らず、ヴァイオリンのソロのアルバム<同>はリリースするわ、リヒャルト・シュトラウスの『ツァラトゥストラはかく語りき』&『ドン・ファン』他のCD<同>では、演奏自体はそこまでぶっとんでいないのに、魔術師か手かざし療法士かというまがまがしいジャケット写真を使用するわ。
バイエルン放送交響楽団との来日公演(1993年3月25日、愛知県芸術劇場コンサートホール)での実に堂に入ったブラームスの交響曲第1番も、休憩前の同じブラームスの交響曲第2番が作品の持つぎくしゃくした感じをあまりにも強調した演奏だっただけに、どうにも嘘臭さを感じてしまったものだ。
そういえば、このコンサートのしばらくのちにヨーロッパを訪れて、たまさかドイツとウィーンで音楽関係者の方とお話をする機会を得た際、このマゼールのコンサートについて触れたところ、お二方がお二方とも、「マゼールはねえ…(苦笑)」という反応を返して、少し驚いたりもしたんだった。
お二方とも生粋のヨーロッパ人だったが、フランスで生まれつつもすぐにアメリカに渡ったマゼールに対して、詳しくは触れないながらも、なんらかのふくみのある言葉であったことは確かだ。
(それも流暢な日本語で。それを、アジアの人間である自分が聴いている…)
そして、冒頭の吉田秀和の言葉や、その裏返しであろう自己顕示欲、権力欲、過剰なまでの解釈、演技といったマゼールのあり様の一端に、そうしたある種の齟齬が潜んでいるのでないかと、僕は感じたりもした。
いずれにしても、最晩年のマゼールの演奏に接することができなかったのは、返す返すも残念でならない。
なお、吉田秀和は先程の文章をこう続けている。
>マゼールの<音楽>も、もちろん、これからだっていろいろ変わることもあるだろう。
しかし、あすこには<一人の人間>がいるのである。
あすこには、何かをどこかからとってきて、つけたしたり、削ったりすれば、よくなったり悪くなったりするといった、そういう意味での<技術としての音楽>は、もう十歳かそこらで卒業してしまった、卒業しないではいられなかった一人の人間の<音楽>があるのである。
それが好きか嫌いか。
それはまた別の話だ<
深く、深く、深く、深く黙祷。
2014年06月18日
ドロテー・ミールズが歌ったハイドンの歌曲集『アン・ハンターのサロン』
☆ハイドン:スコットランド民謡集&英語によるカンツォネッタ集
独唱:ドロテー・ミールズ(ソプラノ)
伴奏:レザミ・ド・フィリップ
(2013年2月/デジタル・セッション録音)
<CPO>777 824-2
ロンドン滞在中のハイドンが作曲した英語によるカンツォネッタと、別途編曲したスコットランド民謡の一部を、ドロテー・ミールズが歌ったアルバム『アン・ハンターのサロン』だ。
ちなみに、カンツォネッタの作詞者であるアン・ハンターは当時未亡人の詩人で、ハイドンと親密な関係にあったとも伝えられている。
ハイドンとアン・ハンターとの信頼関係も表われているのかどうか、カンツォネッタにせよスコットランド民謡にせよ、明晰で質朴、それでいて細やかな感情表現とリリカルさ、音楽的仕掛けに満ちた作品である。
そうした音楽の特性魅力と、ミールズのよく澄んで伸びのあるウェットな声質がまた非常によく合っていて、何度聴いても全く聴き飽きない。
特に、豊かで抒情的な感興をためた『誠実 Fidelity』(トラック12)と、軽快愉快な『ジェニーの半ペニー Jenny’s Bawbee』(トラック17)は、ミールズの歌唱の幅の広さを識るという意味でも聴き逃がせまい。
ルドガー・レミー(フォルテピアノ)、エヴァ・サロネン(ヴァイオリン)、グレゴール・アンソニー(チェロ)によるピリオド楽器の伴奏も、出しゃばり過ぎず退き過ぎず、過不足のない伴奏で、このアルバムの愉しみを増している。
ハイドンなんてつまんない、と思い込んでいる方にこそお薦めしたい一枚だ。
独唱:ドロテー・ミールズ(ソプラノ)
伴奏:レザミ・ド・フィリップ
(2013年2月/デジタル・セッション録音)
<CPO>777 824-2
ロンドン滞在中のハイドンが作曲した英語によるカンツォネッタと、別途編曲したスコットランド民謡の一部を、ドロテー・ミールズが歌ったアルバム『アン・ハンターのサロン』だ。
ちなみに、カンツォネッタの作詞者であるアン・ハンターは当時未亡人の詩人で、ハイドンと親密な関係にあったとも伝えられている。
ハイドンとアン・ハンターとの信頼関係も表われているのかどうか、カンツォネッタにせよスコットランド民謡にせよ、明晰で質朴、それでいて細やかな感情表現とリリカルさ、音楽的仕掛けに満ちた作品である。
そうした音楽の特性魅力と、ミールズのよく澄んで伸びのあるウェットな声質がまた非常によく合っていて、何度聴いても全く聴き飽きない。
特に、豊かで抒情的な感興をためた『誠実 Fidelity』(トラック12)と、軽快愉快な『ジェニーの半ペニー Jenny’s Bawbee』(トラック17)は、ミールズの歌唱の幅の広さを識るという意味でも聴き逃がせまい。
ルドガー・レミー(フォルテピアノ)、エヴァ・サロネン(ヴァイオリン)、グレゴール・アンソニー(チェロ)によるピリオド楽器の伴奏も、出しゃばり過ぎず退き過ぎず、過不足のない伴奏で、このアルバムの愉しみを増している。
ハイドンなんてつまんない、と思い込んでいる方にこそお薦めしたい一枚だ。
ゲオルゲ・ペトルーとアルモニア・アテネアによるベートーヴェンの『プロメテウスの創造物』全曲
☆ベートーヴェン:バレエ音楽『プロメテウスの創造物』全曲
指揮:ゲオルゲ・ペトルー
管弦楽:アルモニア・アテネア
(2013年9月/デジタル・セッション録音)
<DECCA>478 6755
序曲と、交響曲第3番「英雄」の第4楽章に転用された終曲のみが有名なバレエ音楽『プロメテウスの創造物』(序曲・序奏と16曲。1800〜01年)だが、ベートーヴェンという作曲家の特性本質を知ろうとするのであれば、ぜひとも全曲に耳を通していただきたい。
『プロメテウス』という題材自体もそうだけれど、交響曲第2番(1801〜02年)、ピアノ協奏曲第3番(1800年)、ヴァイオリン・ソナタ第5番「春」(1800〜01年)、ピアノ・ソナタ第14番「月光」(1801年)等々、ベートーヴェンの初期から中期への変容変化を彩る名曲佳品とほぼ同じ時期に作曲されただけあって、交響曲のスケルツォを彷彿とさせる諧謔精神に満ちたナンバーや、ハープを効果的に使用した優美で軽妙なナンバー(トラック7。まるで、ベルリオーズが編曲したウェーバーの『舞踏への勧誘』や、チャイコフスキーの『くるみ割り人形』の「花のワルツ」の先駆けみたい)と、一曲一曲が創意と工夫、音楽的魅力にあふれている。
ギリシャの若手指揮者ゲオルゲ・ペトルーと手兵のピリオド楽器オーケストラ、アルモニア・アテネア(彼らが起用されたのは、題材が題材だけにか)も、スピーディーでメリハリの利いた演奏で、一気呵成、劇性に富んだ音楽を生み出していく。
(オルフェウス室内管弦楽団が演奏した同じ曲のCD<ドイツ・グラモフォン/1986年3月録音>が手元にあって、念のため、昨日の夜聴いてみたのだけれど、インティメートで丁寧な演奏に好感は抱きつつも、ペトルーとアルモニア・アテネアの演奏のあとでは、正直もっささというか、じれったさを感じてしまったことも事実だ)
音の重たさに淫しないベートーヴェンをお求めの方々には、大いにお薦めしたい一枚である。
そして、ペトルーとアルモニア・アテネアには、ベートーヴェンつながりの『エグモント』の音楽や、ご当地つながりのシューベルトの『キプロスの女王ロザムンデ』の音楽も録音してもらえたらと強く思う。
指揮:ゲオルゲ・ペトルー
管弦楽:アルモニア・アテネア
(2013年9月/デジタル・セッション録音)
<DECCA>478 6755
序曲と、交響曲第3番「英雄」の第4楽章に転用された終曲のみが有名なバレエ音楽『プロメテウスの創造物』(序曲・序奏と16曲。1800〜01年)だが、ベートーヴェンという作曲家の特性本質を知ろうとするのであれば、ぜひとも全曲に耳を通していただきたい。
『プロメテウス』という題材自体もそうだけれど、交響曲第2番(1801〜02年)、ピアノ協奏曲第3番(1800年)、ヴァイオリン・ソナタ第5番「春」(1800〜01年)、ピアノ・ソナタ第14番「月光」(1801年)等々、ベートーヴェンの初期から中期への変容変化を彩る名曲佳品とほぼ同じ時期に作曲されただけあって、交響曲のスケルツォを彷彿とさせる諧謔精神に満ちたナンバーや、ハープを効果的に使用した優美で軽妙なナンバー(トラック7。まるで、ベルリオーズが編曲したウェーバーの『舞踏への勧誘』や、チャイコフスキーの『くるみ割り人形』の「花のワルツ」の先駆けみたい)と、一曲一曲が創意と工夫、音楽的魅力にあふれている。
ギリシャの若手指揮者ゲオルゲ・ペトルーと手兵のピリオド楽器オーケストラ、アルモニア・アテネア(彼らが起用されたのは、題材が題材だけにか)も、スピーディーでメリハリの利いた演奏で、一気呵成、劇性に富んだ音楽を生み出していく。
(オルフェウス室内管弦楽団が演奏した同じ曲のCD<ドイツ・グラモフォン/1986年3月録音>が手元にあって、念のため、昨日の夜聴いてみたのだけれど、インティメートで丁寧な演奏に好感は抱きつつも、ペトルーとアルモニア・アテネアの演奏のあとでは、正直もっささというか、じれったさを感じてしまったことも事実だ)
音の重たさに淫しないベートーヴェンをお求めの方々には、大いにお薦めしたい一枚である。
そして、ペトルーとアルモニア・アテネアには、ベートーヴェンつながりの『エグモント』の音楽や、ご当地つながりのシューベルトの『キプロスの女王ロザムンデ』の音楽も録音してもらえたらと強く思う。
2014年06月15日
ルドルフ・ケンペとシュターツカペレ・ドレスデンによるリヒャルト・シュトラウスの管弦楽曲・協奏曲集
☆リヒャルト・シュトラウス:管弦楽・協奏曲集(9CD BOXセット)
指揮:ルドルフ・ケンペ
管弦楽:シュターツカペレ・ドレスデン
1枚目:交響詩『ツァラトゥストラはかく語りき』、同『死と変容』、『ばらの騎士』組曲、『カプリッチョ』から月の光の音楽
2枚目:交響詩『ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら』、同『ドン・ファン』、同『英雄の生涯』
3枚目:メタモルフォーゼン、アルプス交響曲
4枚目:交響詩『ドン・キホーテ』、クープランのクラヴサン曲による舞踏組曲
5枚目:交響的幻想曲『イタリアから』、交響詩『マクベス』
6枚目:『サロメ』から7つのヴェールの踊り、『町人貴族』組曲、『泡立ちクリーム』からワルツ、『ヨーゼフ伝説』の交響的断章
7枚目:ヴァイオリン協奏曲(ウルフ・ヘルシャー独奏)、家庭交響曲
8枚目:ホルン協奏曲第1番&第2番(ペーター・ダム独奏)、オーボエ協奏曲(マンフレッド・クレメント独奏)、クラリネットとファゴットのための二重小協奏曲
9枚目:ブルレスケ、家庭交響曲余禄、交響的練習曲『パンアテネの行列』(以上、ペーター・レーゼルのピアノ独奏)
<WARNER>999 4317802
先日生誕150年を迎えたリヒャルト・シュトラウスの管弦楽作品を語る際、どうしても忘れてはならないのが、1970年から76年にかけてドレスデンのルカ教会で継続的にセッション録音されたルドルフ・ケンペとシュターツカペレ・ドレスデンによるこの管弦楽曲・協奏曲集だろう。
収録作品の多さでは、先頃亡くなったカール・アントン・リッケンバッハーとバンベルク交響楽団等が進めたKOCHレーベルのシリーズに譲るものの、演奏の質の高さでは、やはりケンペとシュターツカペレ・ドレスデンのほうに軍配を挙げざるをえまい。
オーケストレーションの巧さ、鳴りや響きの良さ(例えば、『ティル』の死刑執行前の高ぶりや、『イタリアから』の「フニクリ・フニクラ」の熱さなど、ぞくぞくする)はもちろんだけれど、リヒャルト・シュトラウスの音楽の持つ別の一面、抒情性や寂寞感(『ドン・ファン』やメタモルフォーゼン等々)に対する感度の的確さも一連の録音の大きな魅力である。
シュターツカペレ・ドレスデンも、そうしたケンペによく応えて、インティメートな雰囲気に満ちたまとまりとバランスのよいアンサンブルを造り上げている。
また、『ばらの騎士』組曲など、劇場作品からの管弦楽曲では、指揮者オーケストラの劇場経験の豊かさがよく発揮されて、音楽の勘所の押さえ具合に全くくるいがない。
『ドン・キホーテ』のポール・トルトゥリエ(チェロ。渋い)とマックス・ロスタル(ヴィオラ)、二重小協奏曲のマンフレッド・ヴァイセ(クラリネット)とヴォルフガング・リープシャー(ファゴット)も含めて、独奏陣もあざとさのない演奏を繰り広げており、ケンペとシュターツカペレ・ドレスデンの音楽性によく重なっていると思う。
そして、このBOXの目玉と言ってもよいのが、『カプリッチョ』の月の光の音楽だ。
EMIレーベルの計画に入っていなかったため、旧東ドイツのエテルナ・レーベルからLPとしてリリースされて以降、長らく日の目を見てこなかった録音だけれど、ホルン協奏曲でも優れたソロを聴かせるペーター・ダムが美しい旋律を朗々と吹き切って心をぐっとつかまれる。
3分と少しのこの一曲のためだけに、9枚組のセットを購入しても惜しくないと思えるほどである。
(一応、1枚目と同じカップリングの廉価CDが今年になってリリースされたが)
そうそう、このBOXでは、国内のEMIレーベルのSACD用にリマスタリングされた音源が使われているが、あまりの分離の良さに、これってちょっとやり過ぎなんじゃないの、とすら言いたくなるほどのクリアな音質となっている。
EMI特有のじがじがした感じは否めないが、音楽を愉しむという意味では全く問題あるまい。
しかも、タワーレコードやHMVのネットショップでは、この9枚組のBOXセットが税込み3000円を切るというのだから驚く。
というか、なんとも申し訳ないかぎりだ。
リヒャルト・シュトラウスの生誕150年に相応しいCDで、クラシック音楽好きにはなべてお薦めしたい。
指揮:ルドルフ・ケンペ
管弦楽:シュターツカペレ・ドレスデン
1枚目:交響詩『ツァラトゥストラはかく語りき』、同『死と変容』、『ばらの騎士』組曲、『カプリッチョ』から月の光の音楽
2枚目:交響詩『ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら』、同『ドン・ファン』、同『英雄の生涯』
3枚目:メタモルフォーゼン、アルプス交響曲
4枚目:交響詩『ドン・キホーテ』、クープランのクラヴサン曲による舞踏組曲
5枚目:交響的幻想曲『イタリアから』、交響詩『マクベス』
6枚目:『サロメ』から7つのヴェールの踊り、『町人貴族』組曲、『泡立ちクリーム』からワルツ、『ヨーゼフ伝説』の交響的断章
7枚目:ヴァイオリン協奏曲(ウルフ・ヘルシャー独奏)、家庭交響曲
8枚目:ホルン協奏曲第1番&第2番(ペーター・ダム独奏)、オーボエ協奏曲(マンフレッド・クレメント独奏)、クラリネットとファゴットのための二重小協奏曲
9枚目:ブルレスケ、家庭交響曲余禄、交響的練習曲『パンアテネの行列』(以上、ペーター・レーゼルのピアノ独奏)
<WARNER>999 4317802
先日生誕150年を迎えたリヒャルト・シュトラウスの管弦楽作品を語る際、どうしても忘れてはならないのが、1970年から76年にかけてドレスデンのルカ教会で継続的にセッション録音されたルドルフ・ケンペとシュターツカペレ・ドレスデンによるこの管弦楽曲・協奏曲集だろう。
収録作品の多さでは、先頃亡くなったカール・アントン・リッケンバッハーとバンベルク交響楽団等が進めたKOCHレーベルのシリーズに譲るものの、演奏の質の高さでは、やはりケンペとシュターツカペレ・ドレスデンのほうに軍配を挙げざるをえまい。
オーケストレーションの巧さ、鳴りや響きの良さ(例えば、『ティル』の死刑執行前の高ぶりや、『イタリアから』の「フニクリ・フニクラ」の熱さなど、ぞくぞくする)はもちろんだけれど、リヒャルト・シュトラウスの音楽の持つ別の一面、抒情性や寂寞感(『ドン・ファン』やメタモルフォーゼン等々)に対する感度の的確さも一連の録音の大きな魅力である。
シュターツカペレ・ドレスデンも、そうしたケンペによく応えて、インティメートな雰囲気に満ちたまとまりとバランスのよいアンサンブルを造り上げている。
また、『ばらの騎士』組曲など、劇場作品からの管弦楽曲では、指揮者オーケストラの劇場経験の豊かさがよく発揮されて、音楽の勘所の押さえ具合に全くくるいがない。
『ドン・キホーテ』のポール・トルトゥリエ(チェロ。渋い)とマックス・ロスタル(ヴィオラ)、二重小協奏曲のマンフレッド・ヴァイセ(クラリネット)とヴォルフガング・リープシャー(ファゴット)も含めて、独奏陣もあざとさのない演奏を繰り広げており、ケンペとシュターツカペレ・ドレスデンの音楽性によく重なっていると思う。
そして、このBOXの目玉と言ってもよいのが、『カプリッチョ』の月の光の音楽だ。
EMIレーベルの計画に入っていなかったため、旧東ドイツのエテルナ・レーベルからLPとしてリリースされて以降、長らく日の目を見てこなかった録音だけれど、ホルン協奏曲でも優れたソロを聴かせるペーター・ダムが美しい旋律を朗々と吹き切って心をぐっとつかまれる。
3分と少しのこの一曲のためだけに、9枚組のセットを購入しても惜しくないと思えるほどである。
(一応、1枚目と同じカップリングの廉価CDが今年になってリリースされたが)
そうそう、このBOXでは、国内のEMIレーベルのSACD用にリマスタリングされた音源が使われているが、あまりの分離の良さに、これってちょっとやり過ぎなんじゃないの、とすら言いたくなるほどのクリアな音質となっている。
EMI特有のじがじがした感じは否めないが、音楽を愉しむという意味では全く問題あるまい。
しかも、タワーレコードやHMVのネットショップでは、この9枚組のBOXセットが税込み3000円を切るというのだから驚く。
というか、なんとも申し訳ないかぎりだ。
リヒャルト・シュトラウスの生誕150年に相応しいCDで、クラシック音楽好きにはなべてお薦めしたい。
2014年05月30日
ブニアティシヴィリが弾いたピアノ小品集「マザーランド」
☆ピアノ小品集「マザーランド」
ピアノ独奏:カティア・ブニアティシヴィリ
(2013年4月/デジタル・セッション録音)
<SONY/BMG>88883734622
グルジア出身の若手ピアニスト、カティア・ブニアティシヴィリが「マザーランド(故国)」のタイトルで録音したピアノ小品集だ。
ヨハン・セバスティアン・バッハ(ペトリ編曲)の「羊は憩いて草を食み」で始め、チャイコフスキーの四季から「10月」、メンデルスゾーンの無言歌「失われた幻影」、ドビュッシーの「月の光」、カンチェリの「アーモンドが生るとき」、リゲティのムジカ・リチェルカータ第7番、ブラームスの間奏曲作品番号117から第2番、リストの「子守歌」、ドヴォルザークのスラヴ舞曲作品番号72から第2番、ラヴェルの「亡き王女のためのパヴァーヌ」、ショパンの練習曲嬰ハ短調作品番号25−7、スクリャービンの練習曲嬰ハ短調作品番号2−1、ドメニコ・スカルラッティのソナタ変ホ長調K.380、グリーグの抒情小曲集から「郷愁」、トラディショナルの「私を愛してる?」、ヘンデル(ケンプ編曲)のメヌエット、そしてペルトの「アリーナのために」で閉めるという、とても凝った選曲で、精神的な故郷とでもいおうか、清謐なノスタルジーを喚起させられる。
ブニアティシヴィリも、そうした選曲に相応しいリリシズムをたたえた、柔らかく丁寧な演奏を繰り広げていて、実に聴き心地がいい。
響きのよいベルリンのイエス・キリスト教会での録音ということもあってか、いくぶん音がこもった感じもしないではないが、アルバムの趣旨や作品、ブニアティシヴィリの演奏によく合っているとも思う。
夜遅く、カモミールティーでも飲みながらゆっくりと耳を傾けたい一枚だ。
ピアノ独奏:カティア・ブニアティシヴィリ
(2013年4月/デジタル・セッション録音)
<SONY/BMG>88883734622
グルジア出身の若手ピアニスト、カティア・ブニアティシヴィリが「マザーランド(故国)」のタイトルで録音したピアノ小品集だ。
ヨハン・セバスティアン・バッハ(ペトリ編曲)の「羊は憩いて草を食み」で始め、チャイコフスキーの四季から「10月」、メンデルスゾーンの無言歌「失われた幻影」、ドビュッシーの「月の光」、カンチェリの「アーモンドが生るとき」、リゲティのムジカ・リチェルカータ第7番、ブラームスの間奏曲作品番号117から第2番、リストの「子守歌」、ドヴォルザークのスラヴ舞曲作品番号72から第2番、ラヴェルの「亡き王女のためのパヴァーヌ」、ショパンの練習曲嬰ハ短調作品番号25−7、スクリャービンの練習曲嬰ハ短調作品番号2−1、ドメニコ・スカルラッティのソナタ変ホ長調K.380、グリーグの抒情小曲集から「郷愁」、トラディショナルの「私を愛してる?」、ヘンデル(ケンプ編曲)のメヌエット、そしてペルトの「アリーナのために」で閉めるという、とても凝った選曲で、精神的な故郷とでもいおうか、清謐なノスタルジーを喚起させられる。
ブニアティシヴィリも、そうした選曲に相応しいリリシズムをたたえた、柔らかく丁寧な演奏を繰り広げていて、実に聴き心地がいい。
響きのよいベルリンのイエス・キリスト教会での録音ということもあってか、いくぶん音がこもった感じもしないではないが、アルバムの趣旨や作品、ブニアティシヴィリの演奏によく合っているとも思う。
夜遅く、カモミールティーでも飲みながらゆっくりと耳を傾けたい一枚だ。
2014年05月18日
たまにはラフマニノフのCDを買ってみる
☆ラフマニノフ:ピアノ協奏曲第2番&パガニーニの主題による狂詩曲
独奏:ジャン・イヴ・ティボーデ(ピアノ)
指揮:ウラディーミル・アシュケナージ
管弦楽:クリーヴランド管弦楽団
(1993年3月/デジタル・セッション録音)
<DECCA>440 653-2
ラフマニノフって、ちょっと苦手なんですよ。
これが生の演奏会なら話は別だし、交響曲第2番の第3楽章やヴォカリーズみたくリリカルで美しい旋律の書き手であることだってわかっちゃいるんですけどね。
でも、家でホロヴィッツやリヒテルが弾いたピアノ作品や、スヴェトラーノフ指揮ロシア国立交響楽団が演奏したオーケストラ作品を聴いていると、すごいはすごいんだけど、そのすごさってなんなんなあ、って感じで。
内心、感心感嘆もしてないのに思わず「お見事!」って口走って、三船敏郎じゃないや、ホロヴィッツやリヒテル、スヴェトラーノフたちに叱責されそう。
で、ラフマニノフのCDにはあんまり手を出してこなかったんだけれど、ピアノ協奏曲第2番とパガニーニの主題による狂詩曲という有名どころを集めたこのアルバムならば、こんなラフマニノフ苦手人間でも安心して愉しむことができる。
もちろん、作品自体がそういうつくりだから、ピアノのオケも鳴るべきところはジャンガジャンガしっかり鳴ってはいるのだが、まだ抑制がきいているというのかなあ。
コンチェルトでいえば第2楽章、ラプソディでいえばおなじみ第18変奏だとか、先述したリリカルで美しい旋律、言い換えればラフマニノフのロマンティシズムに重点が置かれた演奏になっていると思う。
一つには、ティボーデのピアノの音色もあるんだろうけれど。
アシュケナージのほうも勝手知ったる作品だけに(同じDECCAレーベルにソリストとして2回、ラフマニノフのコンチェルト全集を録音している)、過不足のない音楽づくりを行っているのではないか。
何しろ、クリーヴランド管弦楽団が巧い。
これ見よがしの派手さには欠けるものの、部屋で何度も繰り返して聴くという意味では最適の一枚だと思う。
独奏:ジャン・イヴ・ティボーデ(ピアノ)
指揮:ウラディーミル・アシュケナージ
管弦楽:クリーヴランド管弦楽団
(1993年3月/デジタル・セッション録音)
<DECCA>440 653-2
ラフマニノフって、ちょっと苦手なんですよ。
これが生の演奏会なら話は別だし、交響曲第2番の第3楽章やヴォカリーズみたくリリカルで美しい旋律の書き手であることだってわかっちゃいるんですけどね。
でも、家でホロヴィッツやリヒテルが弾いたピアノ作品や、スヴェトラーノフ指揮ロシア国立交響楽団が演奏したオーケストラ作品を聴いていると、すごいはすごいんだけど、そのすごさってなんなんなあ、って感じで。
内心、感心感嘆もしてないのに思わず「お見事!」って口走って、三船敏郎じゃないや、ホロヴィッツやリヒテル、スヴェトラーノフたちに叱責されそう。
で、ラフマニノフのCDにはあんまり手を出してこなかったんだけれど、ピアノ協奏曲第2番とパガニーニの主題による狂詩曲という有名どころを集めたこのアルバムならば、こんなラフマニノフ苦手人間でも安心して愉しむことができる。
もちろん、作品自体がそういうつくりだから、ピアノのオケも鳴るべきところはジャンガジャンガしっかり鳴ってはいるのだが、まだ抑制がきいているというのかなあ。
コンチェルトでいえば第2楽章、ラプソディでいえばおなじみ第18変奏だとか、先述したリリカルで美しい旋律、言い換えればラフマニノフのロマンティシズムに重点が置かれた演奏になっていると思う。
一つには、ティボーデのピアノの音色もあるんだろうけれど。
アシュケナージのほうも勝手知ったる作品だけに(同じDECCAレーベルにソリストとして2回、ラフマニノフのコンチェルト全集を録音している)、過不足のない音楽づくりを行っているのではないか。
何しろ、クリーヴランド管弦楽団が巧い。
これ見よがしの派手さには欠けるものの、部屋で何度も繰り返して聴くという意味では最適の一枚だと思う。
アルティス・カルテットが演奏したベートーヴェンの弦楽4重奏曲
☆ベートーヴェン:弦楽4重奏曲第1番&第15番
アルティス・カルテット
(1991年11月/デジタル・セッション録音)
<SONY>SK48058
ウィーンの弦楽4重奏団・アルティス・カルテットが、ベートーヴェンの初期と後期の弦楽4重奏曲を1曲ずつ演奏したアルバム。
アルティス・カルテットといえば、リゲティなどいわゆる現代音楽にも優れた録音を残してきたが、このベートーヴェンでも、彼らのアンサンブルの凝集力というか、まとまりのよさ、音楽の勘所のとらえ方のよさが充分に発揮されている。
ただし、シャープでソリッドなハーゲン・カルテットや、ピリオド・スタイルを援用してスピーディーでクリアなアルテミス・カルテットよりも、よりオーソドックスというか、ウェットさ、リリカルさ、歌唱性を感じるのがアルティス・カルテットの特性魅力とも言えるだろう。
すでに20年以上も前の録音なので、「今現在の」と言い切ってしまうのにはどうしても躊躇するが、古めかし過ぎず新し過ぎもしない、よい意味での中庸な演奏を求めるむきには安心してお薦めできる一枚である。
録音も悪くない。
アルティス・カルテット
(1991年11月/デジタル・セッション録音)
<SONY>SK48058
ウィーンの弦楽4重奏団・アルティス・カルテットが、ベートーヴェンの初期と後期の弦楽4重奏曲を1曲ずつ演奏したアルバム。
アルティス・カルテットといえば、リゲティなどいわゆる現代音楽にも優れた録音を残してきたが、このベートーヴェンでも、彼らのアンサンブルの凝集力というか、まとまりのよさ、音楽の勘所のとらえ方のよさが充分に発揮されている。
ただし、シャープでソリッドなハーゲン・カルテットや、ピリオド・スタイルを援用してスピーディーでクリアなアルテミス・カルテットよりも、よりオーソドックスというか、ウェットさ、リリカルさ、歌唱性を感じるのがアルティス・カルテットの特性魅力とも言えるだろう。
すでに20年以上も前の録音なので、「今現在の」と言い切ってしまうのにはどうしても躊躇するが、古めかし過ぎず新し過ぎもしない、よい意味での中庸な演奏を求めるむきには安心してお薦めできる一枚である。
録音も悪くない。
オールトが弾いたヨハン・クリスティアン・バッハの6つのソナタ集作品番号17
☆ヨハン・クリスティアン・バッハ:6つのソナタ作品番号17
フォルテピアノ独奏:バート・ファン・オールト
(2013年6月、9月/デジタル・セッション録音)
<BRILLIANT>94661
6つのソナタ作品番号5に続いて、オランダのフォルテピアノ奏者オールトが録音したヨハン・クリスティアン・バッハの作品集である。
作品番号5から約10年後の1777年に刊行されたソナタ集だけれど、より古典派の規矩に従うというか、筆遣いの洗練度合いが高まった明晰で快活な音楽に仕上がっている。
オールトも、そうした作品の要所急所をきっちりと押さえて、実に聴き心地がよく劇性にも富んだ演奏を繰り広げている。
ピリオド音楽好きや、古典派の陽性な音楽好きな方には大いにお薦めしたい一枚だ。
そうそう、これまでにハイドンやモーツァルト、フィールドの夜想曲(ショパンの夜想曲の先達)などをリリースしているオールトには、ぜひともベートーヴェンやシューベルトの作品を録音してもらいたい。
よろしくお願いします!
フォルテピアノ独奏:バート・ファン・オールト
(2013年6月、9月/デジタル・セッション録音)
<BRILLIANT>94661
6つのソナタ作品番号5に続いて、オランダのフォルテピアノ奏者オールトが録音したヨハン・クリスティアン・バッハの作品集である。
作品番号5から約10年後の1777年に刊行されたソナタ集だけれど、より古典派の規矩に従うというか、筆遣いの洗練度合いが高まった明晰で快活な音楽に仕上がっている。
オールトも、そうした作品の要所急所をきっちりと押さえて、実に聴き心地がよく劇性にも富んだ演奏を繰り広げている。
ピリオド音楽好きや、古典派の陽性な音楽好きな方には大いにお薦めしたい一枚だ。
そうそう、これまでにハイドンやモーツァルト、フィールドの夜想曲(ショパンの夜想曲の先達)などをリリースしているオールトには、ぜひともベートーヴェンやシューベルトの作品を録音してもらいたい。
よろしくお願いします!
2014年05月01日
ミロシュが弾いたアランフェスの協奏曲
☆ロドリーゴ:アランフェスの協奏曲&ある貴紳のための幻想曲他
独奏:ミロシュ・カラダグリッチ(ギター)
伴奏:ヤニク・ネゼ=セガン指揮ロンドン・フィル
(2013年9月/デジタル・セッション録音)
<ドイツ・グラモフォン/マーキュリー・クラシックス>481 0652
モンテネグロ出身の新鋭ミロシュ・カラダグリッチが、ギタリストにとっては避けては通れないロドリーゴのアランフェスの協奏曲と、同じくロドリーゴのギターと管弦楽のための佳品、ある貴紳のための幻想曲を弾いたアルバムだけれど、これはCDのカバー(表側)とバックインレイ(裏側)の写真が全てを物語っているのではないか。
ハリウッド・スターを彷彿とさせるイケメンのミロシュ・カラダグリッチが、ギターを構えてななめを向いているカバー。
そして、アランフェスよりもひときわ大きいMILOS(Sの上には∨みたいな記号)の文字。
(まあ、指揮者のスタニスワフ・スクロヴァチェフスキだって、ミスターSの略称で呼ばれているしね。ちなみに、モンテネグロがらみで記すと、かつてのユーゴスラヴィアの王家はカラジョルジェヴィチ家だ。あいた、舌噛んじゃった)
で、裏はといえば、ギターを背中に抱えたミロシュが、スペインの荒野(だろう)の中、一人ギターを抱いた渡り鳥状態でたたずむ遠景だもんね。
つまるところ、今風にパッケージされたかっこいい演奏であり、録音ってことですよ。
ミロシュのテクニックは、アランフェスとある貴紳のための幻想曲との間に挟まれた、3つの独奏曲、ファリャの『ドビュッシーの墓碑銘のための賛歌』と『三角帽子』の粉屋の踊り、ロドリーゴの『祈りと踊り』も含めて万全そのものだし、これまた新鋭ネゼ=セガンが指揮したロンドン・フィルも、そんなミロシュにぴったりの洗練された切れのよい伴奏を行っている。
やたらと分離のよい録音(オケ付きのほうは、ロンドンのアビーロード・スタジオでの録音)もあって、なんだかポップスやら映画音楽寄りの感じもしないではないが、CDは音の缶詰、まさしく録音芸術と考えれば、文句もあるまい。
それこそスペインの大地の土の臭いのするような演奏をお求めの向きや、イケメンなんて糞喰らえ、俺はチャールズ・ブロンソンみたいな「ぶちゃむくれ」(byみうらじゅん)の御面相のギタリストの演奏じゃないと聴きたかねえやという向き以外、すっきりすかっとしたアランフェスの演奏録音を愉しみたいという方には大いにお薦めしたい一枚である。
独奏:ミロシュ・カラダグリッチ(ギター)
伴奏:ヤニク・ネゼ=セガン指揮ロンドン・フィル
(2013年9月/デジタル・セッション録音)
<ドイツ・グラモフォン/マーキュリー・クラシックス>481 0652
モンテネグロ出身の新鋭ミロシュ・カラダグリッチが、ギタリストにとっては避けては通れないロドリーゴのアランフェスの協奏曲と、同じくロドリーゴのギターと管弦楽のための佳品、ある貴紳のための幻想曲を弾いたアルバムだけれど、これはCDのカバー(表側)とバックインレイ(裏側)の写真が全てを物語っているのではないか。
ハリウッド・スターを彷彿とさせるイケメンのミロシュ・カラダグリッチが、ギターを構えてななめを向いているカバー。
そして、アランフェスよりもひときわ大きいMILOS(Sの上には∨みたいな記号)の文字。
(まあ、指揮者のスタニスワフ・スクロヴァチェフスキだって、ミスターSの略称で呼ばれているしね。ちなみに、モンテネグロがらみで記すと、かつてのユーゴスラヴィアの王家はカラジョルジェヴィチ家だ。あいた、舌噛んじゃった)
で、裏はといえば、ギターを背中に抱えたミロシュが、スペインの荒野(だろう)の中、一人ギターを抱いた渡り鳥状態でたたずむ遠景だもんね。
つまるところ、今風にパッケージされたかっこいい演奏であり、録音ってことですよ。
ミロシュのテクニックは、アランフェスとある貴紳のための幻想曲との間に挟まれた、3つの独奏曲、ファリャの『ドビュッシーの墓碑銘のための賛歌』と『三角帽子』の粉屋の踊り、ロドリーゴの『祈りと踊り』も含めて万全そのものだし、これまた新鋭ネゼ=セガンが指揮したロンドン・フィルも、そんなミロシュにぴったりの洗練された切れのよい伴奏を行っている。
やたらと分離のよい録音(オケ付きのほうは、ロンドンのアビーロード・スタジオでの録音)もあって、なんだかポップスやら映画音楽寄りの感じもしないではないが、CDは音の缶詰、まさしく録音芸術と考えれば、文句もあるまい。
それこそスペインの大地の土の臭いのするような演奏をお求めの向きや、イケメンなんて糞喰らえ、俺はチャールズ・ブロンソンみたいな「ぶちゃむくれ」(byみうらじゅん)の御面相のギタリストの演奏じゃないと聴きたかねえやという向き以外、すっきりすかっとしたアランフェスの演奏録音を愉しみたいという方には大いにお薦めしたい一枚である。
2014年04月27日
グールドが弾いたベートーヴェンのピアノ・ソナタ第5番〜第7番
☆ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第5番〜第7番
ピアノ独奏:グレン・グールド
(1964年/アナログ・セッション録音)
<SONY/BMG>8697147952
グールドが、ベートーヴェンの作品番号10のピアノ・ソナタ3曲(第5番、第6番、第7番)を収めたアルバムだ。
モーツァルト同様、ここでもグールドの「我が道をゆく」スタイルは徹底されているが、モーツァルトよりもベートーヴェンに親近感を抱いているためか、作品の結構(旨味)を結構意識した演奏に仕上がっているように思う。
(三幅対というか、3つのソナタを一つながりの作品としてとらえているかのようにも感じられる)
もちろん、ベートーヴェンの音楽の持つ劇性、活き活きとした感じが一層強調されていることは、言うまでもない。
実に躍動感に富んだ録音である。
ベートーヴェンの初期のソナタを愉しく聴きたいという方には、強くお薦めしたい一枚だ。
(なお、オリジナルのマスターテープによるものだろう、若干ノイズが多いので、演奏そのものよりも音質が気になるという向きはご注意のほど)
ピアノ独奏:グレン・グールド
(1964年/アナログ・セッション録音)
<SONY/BMG>8697147952
グールドが、ベートーヴェンの作品番号10のピアノ・ソナタ3曲(第5番、第6番、第7番)を収めたアルバムだ。
モーツァルト同様、ここでもグールドの「我が道をゆく」スタイルは徹底されているが、モーツァルトよりもベートーヴェンに親近感を抱いているためか、作品の結構(旨味)を結構意識した演奏に仕上がっているように思う。
(三幅対というか、3つのソナタを一つながりの作品としてとらえているかのようにも感じられる)
もちろん、ベートーヴェンの音楽の持つ劇性、活き活きとした感じが一層強調されていることは、言うまでもない。
実に躍動感に富んだ録音である。
ベートーヴェンの初期のソナタを愉しく聴きたいという方には、強くお薦めしたい一枚だ。
(なお、オリジナルのマスターテープによるものだろう、若干ノイズが多いので、演奏そのものよりも音質が気になるという向きはご注意のほど)
グールドが弾いたモーツァルトのピアノ・ソナタ第8番他
☆モーツァルト:ピアノ・ソナタ第8番、第10番、第12番、第13番
ピアノ独奏:グレン・グールド
(1965年〜1970年/アナログ・セッション録音)
<SONY/BMG>8697148162
グレン・グールドが弾いたモーツァルトのピアノ・ソナタについては、すでに有名なトルコ行進曲つきのソナタ(第11番)が入ったアルバムについて先日ある程度記しておいたので、ここでは繰り返さない。
モーツァルトにとって数少ない短調のソナタのうち、まだ若い頃に作曲されたイ短調のソナタ(第8番)の、特に第1楽章をグールドがどう演奏するかを確かめたくてこのCDを買ったのだが、いやあやっぱりすごかった。
繰り返しもなしにあっけなく終わってしまう第1楽章など、これがグールドでなかったら、いやグールドであったとしても、「おふざけなさんな!」とお腹立ちになる向きもあるかもしれないが、僕はその乾いて、それでいながら、やたけたでなんでもかでも掻き毟ったり、物をぶつけまくったりしたくなるような感情のどうしようもなさがよく表われたこのグールドの演奏が好きだ。
他に収録された3つのソナタも同様に、毒にも薬にもの薬にはならなくて、毒そのものの演奏なんだけど、こういった音楽の毒と真正面から向き合うことも自分には必要なんじゃないかなと改めて思った。
それにしても、継ぎ接ぎだらけ(ソナタ1曲でも、レコーディングが長期に亘って行われている)にもかかわらず、「生」な感じに圧倒されるのも、グールドの録音の不思議さだ。
ところで、毒とは無縁、よい意味での教科書的なモーツァルトの演奏としては、ブルガリア出身のスヴェトラ・プロティッチ(同志社女子大学で教えていたことがあり、関西フィルの定期で、ベートーヴェンのピアノ協奏曲第3番の実演に接したこともある)が弾いたピアノ作品集<KING>KICC3527を挙げておきたい。
1991年の没後200年のモーツァルト・イヤーがらみでリリースされたアルバムが、1000円盤で再発されたものである。
こういった演奏があるからこそ、毒はより引き立つのだし、逆に毒があるからこそ基本、ベーシックとなるものの意味もはっきりするのではないか。
ピアノ独奏:グレン・グールド
(1965年〜1970年/アナログ・セッション録音)
<SONY/BMG>8697148162
グレン・グールドが弾いたモーツァルトのピアノ・ソナタについては、すでに有名なトルコ行進曲つきのソナタ(第11番)が入ったアルバムについて先日ある程度記しておいたので、ここでは繰り返さない。
モーツァルトにとって数少ない短調のソナタのうち、まだ若い頃に作曲されたイ短調のソナタ(第8番)の、特に第1楽章をグールドがどう演奏するかを確かめたくてこのCDを買ったのだが、いやあやっぱりすごかった。
繰り返しもなしにあっけなく終わってしまう第1楽章など、これがグールドでなかったら、いやグールドであったとしても、「おふざけなさんな!」とお腹立ちになる向きもあるかもしれないが、僕はその乾いて、それでいながら、やたけたでなんでもかでも掻き毟ったり、物をぶつけまくったりしたくなるような感情のどうしようもなさがよく表われたこのグールドの演奏が好きだ。
他に収録された3つのソナタも同様に、毒にも薬にもの薬にはならなくて、毒そのものの演奏なんだけど、こういった音楽の毒と真正面から向き合うことも自分には必要なんじゃないかなと改めて思った。
それにしても、継ぎ接ぎだらけ(ソナタ1曲でも、レコーディングが長期に亘って行われている)にもかかわらず、「生」な感じに圧倒されるのも、グールドの録音の不思議さだ。
ところで、毒とは無縁、よい意味での教科書的なモーツァルトの演奏としては、ブルガリア出身のスヴェトラ・プロティッチ(同志社女子大学で教えていたことがあり、関西フィルの定期で、ベートーヴェンのピアノ協奏曲第3番の実演に接したこともある)が弾いたピアノ作品集<KING>KICC3527を挙げておきたい。
1991年の没後200年のモーツァルト・イヤーがらみでリリースされたアルバムが、1000円盤で再発されたものである。
こういった演奏があるからこそ、毒はより引き立つのだし、逆に毒があるからこそ基本、ベーシックとなるものの意味もはっきりするのではないか。
2014年04月17日
マナコルダが指揮したシューベルトの交響曲第3番&未完成
☆シューベルト:交響曲第3番&第7番「未完成」
指揮:アントネッロ・マナコルダ
管弦楽:カンマーアカデミー・ポツダム
(2011年4月、6月/デジタル・セッション録音)
<SONY/BMG>88691960642
イタリア・トリノ出身の指揮者アントネッロ・マナコルダとドイツ・ベルリン近郊のポツダムを本拠地とする室内オーケストラ、カンマーアカデミー・ポツダムが進めているシューベルトの交響曲全集のうち、2012年にリリースされた第一段、第3番と第7番「未完成」が収録されたアルバムを聴いたが、これは思わぬ掘り出し物だった。
マーラー・チェンバーオーケストラで長年コンサートマスターを務めた経験も手伝ってか、マナコルダは若いアンサンブルとともに、いわゆるピリオド・スタイルを援用した(ホルン、トランペット、ティンパニはピリオド楽器を使用)、清新な響きの音楽を生み出している。
第3番では、ロッシーニの喜歌劇を想起させるかのような明快で躍動感にあふれた両端楽章(音楽の流れを重視したのか、第1楽章では序奏部の繰り返しを行っていない)と第3楽章が聴きものだが、第2楽章の緩やかな部分での表情の変化もまた魅力的である。
一方、「未完成」交響曲では、従来のオーソドックスな演奏と比較すれば速めのテンポはとられつつも、作品の持つシリアスな要素、内面のひだのようなものが強く意識された演奏となっており、シューベルトの一連の歌曲にもつながる寂寥感を覚える。
カンマーアカデミー・ポツダムは、ソロ・アンサンブルともに優れた出来で、マナコルダの意図によく沿った演奏を行っているのではないか。
収録時間は46分程度と比較的短いが、内容の密度の濃さを考えれば全く不満はない。
録音もクリアであり、今現在のベーシックなシューベルト演奏に親しみたいという方には大いにお薦めしたい一枚だ。
指揮:アントネッロ・マナコルダ
管弦楽:カンマーアカデミー・ポツダム
(2011年4月、6月/デジタル・セッション録音)
<SONY/BMG>88691960642
イタリア・トリノ出身の指揮者アントネッロ・マナコルダとドイツ・ベルリン近郊のポツダムを本拠地とする室内オーケストラ、カンマーアカデミー・ポツダムが進めているシューベルトの交響曲全集のうち、2012年にリリースされた第一段、第3番と第7番「未完成」が収録されたアルバムを聴いたが、これは思わぬ掘り出し物だった。
マーラー・チェンバーオーケストラで長年コンサートマスターを務めた経験も手伝ってか、マナコルダは若いアンサンブルとともに、いわゆるピリオド・スタイルを援用した(ホルン、トランペット、ティンパニはピリオド楽器を使用)、清新な響きの音楽を生み出している。
第3番では、ロッシーニの喜歌劇を想起させるかのような明快で躍動感にあふれた両端楽章(音楽の流れを重視したのか、第1楽章では序奏部の繰り返しを行っていない)と第3楽章が聴きものだが、第2楽章の緩やかな部分での表情の変化もまた魅力的である。
一方、「未完成」交響曲では、従来のオーソドックスな演奏と比較すれば速めのテンポはとられつつも、作品の持つシリアスな要素、内面のひだのようなものが強く意識された演奏となっており、シューベルトの一連の歌曲にもつながる寂寥感を覚える。
カンマーアカデミー・ポツダムは、ソロ・アンサンブルともに優れた出来で、マナコルダの意図によく沿った演奏を行っているのではないか。
収録時間は46分程度と比較的短いが、内容の密度の濃さを考えれば全く不満はない。
録音もクリアであり、今現在のベーシックなシューベルト演奏に親しみたいという方には大いにお薦めしたい一枚だ。
ゼフィロが演奏したモーツァルトのオーボエ協奏曲&ファゴット協奏曲他
☆モーツァルト:オーボエ協奏曲、ファゴット協奏曲他
指揮:アルフレード・ベルナルディーニ
独奏:アルフレード・ベルナルディーニ(オーボエ)
独奏:アルベルト・グラッツィ(ファゴット)
独奏:マッシモ・スパダーノ、マウロ・ロペス(ヴァイオリン)
管弦楽:ゼフィロ・オーケストラ
(2006年12月/デジタル・セッション録音)
<ドイツ・ハルモニアムンディ>88697924082
ピリオド楽器の管楽アンサンブルというと、ソニー・クラシカルのVIVARTEシリーズに数々の録音を残したモッツァフィアートをすぐに思い起こすが、あちらがインティメートで親和力に富んだアンサンブルを売りにしていたとすれば、こちらゼフィロは活発でエンターテインメント性に富んだアンサンブルを売りにしているのではないか。
(実際、ゼフィロは来日コンサートでも演奏中にいろいろ仕掛けてきたらしい。あいにく接することはできなかったが)
弦楽器奏者を加え、設立者のアルフレード・ベルナルディーニとアルベルト・グラッツィがソロを務めた、このモーツァルトの協奏曲集でも、そうしたゼフィロの特性はよく発揮されていると思う。
まずベルナルディーニの吹き振りによるオーボエ協奏曲では、ピリオド楽器のオーボエの素朴な音色が魅力的だ。
そして、伴奏の管楽器陣が随所で威勢のよさを示しているのも面白い。
一方、ファゴット協奏曲では、グラッツィの軽快明敏なソロが冴える。
優れた喜劇役者の独り語りを聴いているかのような愉しさだ。
そして、第2楽章でのおかかなしさ。
そうそう、最後に収められた2つのヴァイオリンのためのコンチェルトーネも忘れちゃいけない。
(てか、この曲が一番の聴きものかも)
スパダーノ、ロペスのヴァイオリンのほか、ベルナルディーニのオーボエもソロ的に加わって、伴奏のアンサンブルともども、流れがよくって活きがよい音楽を生み出している。
モーツァルトの陽性な作品の魅力が存分に詰め込まれたアルバムで、モーツァルト好き、管楽器好き、ピリオド楽器好きにはなべてお薦めしたい。
指揮:アルフレード・ベルナルディーニ
独奏:アルフレード・ベルナルディーニ(オーボエ)
独奏:アルベルト・グラッツィ(ファゴット)
独奏:マッシモ・スパダーノ、マウロ・ロペス(ヴァイオリン)
管弦楽:ゼフィロ・オーケストラ
(2006年12月/デジタル・セッション録音)
<ドイツ・ハルモニアムンディ>88697924082
ピリオド楽器の管楽アンサンブルというと、ソニー・クラシカルのVIVARTEシリーズに数々の録音を残したモッツァフィアートをすぐに思い起こすが、あちらがインティメートで親和力に富んだアンサンブルを売りにしていたとすれば、こちらゼフィロは活発でエンターテインメント性に富んだアンサンブルを売りにしているのではないか。
(実際、ゼフィロは来日コンサートでも演奏中にいろいろ仕掛けてきたらしい。あいにく接することはできなかったが)
弦楽器奏者を加え、設立者のアルフレード・ベルナルディーニとアルベルト・グラッツィがソロを務めた、このモーツァルトの協奏曲集でも、そうしたゼフィロの特性はよく発揮されていると思う。
まずベルナルディーニの吹き振りによるオーボエ協奏曲では、ピリオド楽器のオーボエの素朴な音色が魅力的だ。
そして、伴奏の管楽器陣が随所で威勢のよさを示しているのも面白い。
一方、ファゴット協奏曲では、グラッツィの軽快明敏なソロが冴える。
優れた喜劇役者の独り語りを聴いているかのような愉しさだ。
そして、第2楽章でのおかかなしさ。
そうそう、最後に収められた2つのヴァイオリンのためのコンチェルトーネも忘れちゃいけない。
(てか、この曲が一番の聴きものかも)
スパダーノ、ロペスのヴァイオリンのほか、ベルナルディーニのオーボエもソロ的に加わって、伴奏のアンサンブルともども、流れがよくって活きがよい音楽を生み出している。
モーツァルトの陽性な作品の魅力が存分に詰め込まれたアルバムで、モーツァルト好き、管楽器好き、ピリオド楽器好きにはなべてお薦めしたい。
2014年04月10日
ウェラー・カルテットが演奏した『モーツァルトのカルテット・パーティ』
☆モーツァルトのカルテット・パーティ
演奏:ウェラー・カルテット
(1967年3月、4月/アナログ・セッション録音)
<タワーレコード/DECCA>PROC-1401
ドイツの名指揮者ハンス・シュミット=イッセルシュテットの子息で、レコード・プロデューサーのエリック・スミスは、中でもモーツァルト作品に優れた企画を遺したが、この『モーツァルトのカルテット・パーティ』もスミスがDECCAレーベル在籍中に完成させた一連の企画のうちの一枚である。
モーツァルトの友人でアイルランド出身のテノール歌手、マイケル・ケリーの回想録中にある、ハイドン(第1ヴァイオリン)、ディッタースドルフ(第2ヴァイオリン)、モーツァルト(ヴィオラ)、ヴァンハル(チェロ)ら作曲家が弦楽4重奏を演奏したカルテット・パーティ(イギリスの作曲家、スティーヴン・ストーラスが1784年に開催)を再現したもので、モーツァルトの第3番ト長調、ハイドンの第3番ニ長調、ディッタースドルフの第5番変ホ長調、ヴァンハルのヘ長調が収録されている。
で、これがモーツァルトやハイドンの後期の作品となるとまた感想も大きく変わってくるのだろうけれど、いずれも古典派の様式に忠実なインティメートな雰囲気に満ちあふれた耳なじみのよい音楽に仕上がっており、甲乙がなかなかつけ難い。
艶やかな音色を誇るウェラー・カルテットも、音楽の緩急要所急所をよく心得た演奏で、そうした作品の持つ特性魅力を巧く表わしている。
マスタリング(ハイビット・ハイサンプリング)の成果もあってか音質も優れており、古典派の弦楽4重奏曲をオーソドックスな演奏で愉しみたいという方には安心してお薦めできるアルバムだ。
そうそう、このアルバムが嬉しいのは、カップリングもそうだけど、ブックレットにLPのオリジナルジャケットと同じデザイン(レーベルマークも含めて)がきちんと使用されていること。
オリジナルを歌いながら、オリジナルのジャケットデザインが斜めを向いて倒れたり、端のほうでちっちゃくなって縮こまっていたりするエセ・オリジナルCDをまま見かけるが、ああいうものは本当に見苦しい。
そもそもそういった部分にもこだわる人間だからこそCDを購入するわけで(そうじゃなきゃ、ネットでダウンロードすればすむ話だもん)、LPオリジナルには何も足さない、LPオリジナルからは何も引かないの基本姿勢で、レーベル側(企画者)にはのぞんで欲しい。
演奏:ウェラー・カルテット
(1967年3月、4月/アナログ・セッション録音)
<タワーレコード/DECCA>PROC-1401
ドイツの名指揮者ハンス・シュミット=イッセルシュテットの子息で、レコード・プロデューサーのエリック・スミスは、中でもモーツァルト作品に優れた企画を遺したが、この『モーツァルトのカルテット・パーティ』もスミスがDECCAレーベル在籍中に完成させた一連の企画のうちの一枚である。
モーツァルトの友人でアイルランド出身のテノール歌手、マイケル・ケリーの回想録中にある、ハイドン(第1ヴァイオリン)、ディッタースドルフ(第2ヴァイオリン)、モーツァルト(ヴィオラ)、ヴァンハル(チェロ)ら作曲家が弦楽4重奏を演奏したカルテット・パーティ(イギリスの作曲家、スティーヴン・ストーラスが1784年に開催)を再現したもので、モーツァルトの第3番ト長調、ハイドンの第3番ニ長調、ディッタースドルフの第5番変ホ長調、ヴァンハルのヘ長調が収録されている。
で、これがモーツァルトやハイドンの後期の作品となるとまた感想も大きく変わってくるのだろうけれど、いずれも古典派の様式に忠実なインティメートな雰囲気に満ちあふれた耳なじみのよい音楽に仕上がっており、甲乙がなかなかつけ難い。
艶やかな音色を誇るウェラー・カルテットも、音楽の緩急要所急所をよく心得た演奏で、そうした作品の持つ特性魅力を巧く表わしている。
マスタリング(ハイビット・ハイサンプリング)の成果もあってか音質も優れており、古典派の弦楽4重奏曲をオーソドックスな演奏で愉しみたいという方には安心してお薦めできるアルバムだ。
そうそう、このアルバムが嬉しいのは、カップリングもそうだけど、ブックレットにLPのオリジナルジャケットと同じデザイン(レーベルマークも含めて)がきちんと使用されていること。
オリジナルを歌いながら、オリジナルのジャケットデザインが斜めを向いて倒れたり、端のほうでちっちゃくなって縮こまっていたりするエセ・オリジナルCDをまま見かけるが、ああいうものは本当に見苦しい。
そもそもそういった部分にもこだわる人間だからこそCDを購入するわけで(そうじゃなきゃ、ネットでダウンロードすればすむ話だもん)、LPオリジナルには何も足さない、LPオリジナルからは何も引かないの基本姿勢で、レーベル側(企画者)にはのぞんで欲しい。
グレン・グールドが弾いたモーツァルト
☆モーツァルト:ピアノ・ソナタ第11番、第16番、第15番他
演奏:グレン・グールド(ピアノ)
(1965年〜1972年/アナログ・セッション録音)
<SONY/BMG>8697148242
昔の人は言いました いやよいやよもすきのうち。
とは、畠山みどりのヒットナンバー『恋は神代の昔から』(星野哲郎作詞、市川昭介作曲)の一節で、今のご時世、セクハラすけべい親父でさえ口にしづらいフレーズではあるが、グレン・グールドが弾いたモーツァルトのピアノ・ソナタ集を耳にしていると、ついそんな言葉を口にしてみたくなる。
と、言うのも、このグールド、なんとモーツァルトが好きではない、嫌いだと公言していたからである。
(許光俊『世界最高のピアニスト』<光文社新書>の「第11章 グレン・グールド」等)
で、確かにそんな自らの好悪の感情もあらわに、このアルバム(ちなみにLP初出時と同じカップリングで、ブックレットのデザインもLPのオリジナルジャケットによる)でもグールドはやりたい放題をやっている。
未聴の方もおられるだろうから、あんまりネタは割りたくないが、例えば有名なトルコ行進曲(第11番の第3楽章)なぞ、そのあまりのテンポの遅さ、ぎくしゃくとした感じにげげっと驚くことは間違いなしだ。
(一音一音、音の動きつながりがよくかわるので、僕は思わず斎藤晴彦が歌っていた『トルコ後進国』の歌詞を口ずさんでしまったほどである)
一方、ソナチネでおなじみ第16番(旧第15番)など、速さも速し。
省略もあったりして、あっという間に曲が終わってしまう。
ただ、そうしたあれやこれやから、これまで見落とされがちだった別の側面が巧みに描き出されていることも事実で、幻想曲ニ短調K.397の展開の独特さと美しさ、ソナタ第15番(旧第18番)におけるバッハからの影響等々は、グールドの楽曲解釈だからこそ鮮明に表わされているものだとも思う。
モーツァルトが好きな方にもそうでない方にも、一聴をお薦めしたい一枚。
ところで、グールドはイギリスのポップシンガー、ペトゥラ・クラークの歌(『恋のダウンタウン』他)の分析を通してアイデンティティ論を展開したことがあるそうだが*、冒頭の『恋は神代の昔から』をもしグールドが聴いていたら、モーツァルトの歌劇『ドン・ジョヴァンニ』や大好きな夏目漱石(特に『草枕』がそうだったそう)を絡めつつ、一種独特な恋愛論を展開したかもしれない。
(んなこたないか…)
*宮澤淳一「グレン・グールドとその周辺」より(『クラシック輸入盤パーフェクト・ガイド』<音楽之友社>所収)
演奏:グレン・グールド(ピアノ)
(1965年〜1972年/アナログ・セッション録音)
<SONY/BMG>8697148242
昔の人は言いました いやよいやよもすきのうち。
とは、畠山みどりのヒットナンバー『恋は神代の昔から』(星野哲郎作詞、市川昭介作曲)の一節で、今のご時世、セクハラすけべい親父でさえ口にしづらいフレーズではあるが、グレン・グールドが弾いたモーツァルトのピアノ・ソナタ集を耳にしていると、ついそんな言葉を口にしてみたくなる。
と、言うのも、このグールド、なんとモーツァルトが好きではない、嫌いだと公言していたからである。
(許光俊『世界最高のピアニスト』<光文社新書>の「第11章 グレン・グールド」等)
で、確かにそんな自らの好悪の感情もあらわに、このアルバム(ちなみにLP初出時と同じカップリングで、ブックレットのデザインもLPのオリジナルジャケットによる)でもグールドはやりたい放題をやっている。
未聴の方もおられるだろうから、あんまりネタは割りたくないが、例えば有名なトルコ行進曲(第11番の第3楽章)なぞ、そのあまりのテンポの遅さ、ぎくしゃくとした感じにげげっと驚くことは間違いなしだ。
(一音一音、音の動きつながりがよくかわるので、僕は思わず斎藤晴彦が歌っていた『トルコ後進国』の歌詞を口ずさんでしまったほどである)
一方、ソナチネでおなじみ第16番(旧第15番)など、速さも速し。
省略もあったりして、あっという間に曲が終わってしまう。
ただ、そうしたあれやこれやから、これまで見落とされがちだった別の側面が巧みに描き出されていることも事実で、幻想曲ニ短調K.397の展開の独特さと美しさ、ソナタ第15番(旧第18番)におけるバッハからの影響等々は、グールドの楽曲解釈だからこそ鮮明に表わされているものだとも思う。
モーツァルトが好きな方にもそうでない方にも、一聴をお薦めしたい一枚。
ところで、グールドはイギリスのポップシンガー、ペトゥラ・クラークの歌(『恋のダウンタウン』他)の分析を通してアイデンティティ論を展開したことがあるそうだが*、冒頭の『恋は神代の昔から』をもしグールドが聴いていたら、モーツァルトの歌劇『ドン・ジョヴァンニ』や大好きな夏目漱石(特に『草枕』がそうだったそう)を絡めつつ、一種独特な恋愛論を展開したかもしれない。
(んなこたないか…)
*宮澤淳一「グレン・グールドとその周辺」より(『クラシック輸入盤パーフェクト・ガイド』<音楽之友社>所収)
2014年03月26日
トン・コープマンのバッハの管弦楽組曲全曲
☆ヨハン・セバスティアン・バッハ:管弦楽組曲全曲
指揮、チェンバロ:トン・コープマン
管弦楽:アムステルダム・バロック・オーケストラ
(1997年1月、4月/デジタル・セッション録音)
<ERATO>0630-17868-2
軽さも軽し躁々し。
G線上のアリアへの編曲で有名なアリア(エア)が含まれた第3番や、フルート独奏が活躍する第2番など、ヨハン・セバスティアン・バッハの代表的なオーケストラ作品である管弦楽組曲全曲(第3番、第1番、第2番、第4番の順で収録)を、トン・コープマン指揮アムステルダム・バロック・オーケストラが演奏したアルバムについて一言で表わすとしたらそのようになるだろうか。
かつてのカール・リヒターのような重厚な演奏に比べれば、少々上滑りして聴こえなくもないだろうが、ピリオド楽器の細やかな音色にコープマンの軽快な音楽づくりが加わって、実に聴きなじみのよい活き活きとした演奏に仕上がっていることもまた事実だ。
少なくとも、作品本来の舞曲性が巧くとらまえられた演奏であることは、まず間違いあるまい。
弦楽管楽ともに達者だし、第2番でのヴィリベルト・ハーツェルツェトのフラウト・トラヴェルソのソロも見事というほかない。
録音もクリアでコープマンらの演奏によくあっている。
僕は輸入盤の中古を431円で入手したが、国内盤の新品も1000円でリリース中だ。
バッハって、なあんか重苦しいやと敬遠しているむきには、特にお薦めしたい一枚である。
指揮、チェンバロ:トン・コープマン
管弦楽:アムステルダム・バロック・オーケストラ
(1997年1月、4月/デジタル・セッション録音)
<ERATO>0630-17868-2
軽さも軽し躁々し。
G線上のアリアへの編曲で有名なアリア(エア)が含まれた第3番や、フルート独奏が活躍する第2番など、ヨハン・セバスティアン・バッハの代表的なオーケストラ作品である管弦楽組曲全曲(第3番、第1番、第2番、第4番の順で収録)を、トン・コープマン指揮アムステルダム・バロック・オーケストラが演奏したアルバムについて一言で表わすとしたらそのようになるだろうか。
かつてのカール・リヒターのような重厚な演奏に比べれば、少々上滑りして聴こえなくもないだろうが、ピリオド楽器の細やかな音色にコープマンの軽快な音楽づくりが加わって、実に聴きなじみのよい活き活きとした演奏に仕上がっていることもまた事実だ。
少なくとも、作品本来の舞曲性が巧くとらまえられた演奏であることは、まず間違いあるまい。
弦楽管楽ともに達者だし、第2番でのヴィリベルト・ハーツェルツェトのフラウト・トラヴェルソのソロも見事というほかない。
録音もクリアでコープマンらの演奏によくあっている。
僕は輸入盤の中古を431円で入手したが、国内盤の新品も1000円でリリース中だ。
バッハって、なあんか重苦しいやと敬遠しているむきには、特にお薦めしたい一枚である。
2014年03月24日
ライトナーとバイエルン放送交響楽団のモーツァルト
☆モーツァルト:交響曲第36番「リンツ」&第31番「パリ」他
指揮:フェルディナント・ライトナー
管弦楽:バイエルン放送交響楽団
(1959年4月/アナログ・セッション録音)
<タワーレコーズ/ドイツ・グラモフォン>PROC-1244
ベルリン・フィルの終身指揮者に選ばれたヘルベルト・フォン・カラヤンと契約を結んだことが大きな契機となって、それまでヨーロッパのローカル・レーベル的な存在であったドイツ・グラモフォンは、一躍世界的なメジャー・レーベルへと変化した。
だがその陰で、徐々に録音の表舞台から姿を消して行った一群の指揮者がいた。
後年NHK交響楽団への客演で我が国でもなじみ深い指揮者となったフェルディナント・ライトナーも、その一人である。
ベルリン・フィルを振ってヴィルヘルム・ケンプを伴奏したベートーヴェンのピアノ協奏曲全集(ケンプにとっては再録音)や、同じくベルリン・フィルとのプフィッツナーの管弦楽曲集など、これぞドイツの職人技とでもいうべき手堅い音楽づくりで敗戦直後のドイツ・グラモフォンの屋台骨を支えたライトナーだったが、かえってその彼の美質が、国際化を進めるドイツ・グラモフォンにとってはあまり魅力とならなかったのかもしれない。
(それでも、1969年には、バイエルン放送交響楽団らとブゾーニの歌劇『ファウスト博士』を録音したりもしているが)
タワーレコードのヴィンテージコレクションでCD化がなったバイエルン放送交響楽団とのモーツァルトの交響曲集(第36番「リンツ」と第31番「パリ」のほか、バレエ音楽『レ・プティ・リアン』の序曲が収められている)は、ライトナーという指揮者の特性がよく表われた一枚だ。
いわゆるピリオド・スタイルとは無縁だけれど、足取りの重いべたつく行き方とも一線を画しており、モーツァルトの長調の作品の持つ陽性や劇性、音楽の要所急所が巧く押さえられた耳なじみのよい演奏に仕上がっている。
バイエルン放送交響楽団もソロ、アンサンブルともに優れた出来であり、マスタリングの成果だろう、55年前の録音にもかかわらず、音質の難を予想以上に感じない。
収録された3つの曲をよくご存じの方にこそお薦めしたい一枚である。
そうそう、ライトナーといえば、1988年の12月16日に京都会館第1ホールで、NHK交響楽団との第38回NTTコンサートを聴いたことがあった。
徳永二男のソロによるヴァイオリン協奏曲と交響曲第1番というオール・ブラームス・プログラムで、それこそライトナーの職人技に接することができると期待していたのだが、京都会館第1ホールの劣悪な音響より前に、ちょうど同じ日にBUCK-TICKか何かのライヴが第2ホールで開催されていて、彼らのどんやんどわどわという重低音が耳障り以外の何物でもなく(バンドの音楽自体が耳障りってことじゃないので、悪しからず。クラシック音楽を聴きに来たのにこれはないわ、ということ)、ちっとも音楽を愉しむことができなかった。
今もって無念を感じる出来事である。
指揮:フェルディナント・ライトナー
管弦楽:バイエルン放送交響楽団
(1959年4月/アナログ・セッション録音)
<タワーレコーズ/ドイツ・グラモフォン>PROC-1244
ベルリン・フィルの終身指揮者に選ばれたヘルベルト・フォン・カラヤンと契約を結んだことが大きな契機となって、それまでヨーロッパのローカル・レーベル的な存在であったドイツ・グラモフォンは、一躍世界的なメジャー・レーベルへと変化した。
だがその陰で、徐々に録音の表舞台から姿を消して行った一群の指揮者がいた。
後年NHK交響楽団への客演で我が国でもなじみ深い指揮者となったフェルディナント・ライトナーも、その一人である。
ベルリン・フィルを振ってヴィルヘルム・ケンプを伴奏したベートーヴェンのピアノ協奏曲全集(ケンプにとっては再録音)や、同じくベルリン・フィルとのプフィッツナーの管弦楽曲集など、これぞドイツの職人技とでもいうべき手堅い音楽づくりで敗戦直後のドイツ・グラモフォンの屋台骨を支えたライトナーだったが、かえってその彼の美質が、国際化を進めるドイツ・グラモフォンにとってはあまり魅力とならなかったのかもしれない。
(それでも、1969年には、バイエルン放送交響楽団らとブゾーニの歌劇『ファウスト博士』を録音したりもしているが)
タワーレコードのヴィンテージコレクションでCD化がなったバイエルン放送交響楽団とのモーツァルトの交響曲集(第36番「リンツ」と第31番「パリ」のほか、バレエ音楽『レ・プティ・リアン』の序曲が収められている)は、ライトナーという指揮者の特性がよく表われた一枚だ。
いわゆるピリオド・スタイルとは無縁だけれど、足取りの重いべたつく行き方とも一線を画しており、モーツァルトの長調の作品の持つ陽性や劇性、音楽の要所急所が巧く押さえられた耳なじみのよい演奏に仕上がっている。
バイエルン放送交響楽団もソロ、アンサンブルともに優れた出来であり、マスタリングの成果だろう、55年前の録音にもかかわらず、音質の難を予想以上に感じない。
収録された3つの曲をよくご存じの方にこそお薦めしたい一枚である。
そうそう、ライトナーといえば、1988年の12月16日に京都会館第1ホールで、NHK交響楽団との第38回NTTコンサートを聴いたことがあった。
徳永二男のソロによるヴァイオリン協奏曲と交響曲第1番というオール・ブラームス・プログラムで、それこそライトナーの職人技に接することができると期待していたのだが、京都会館第1ホールの劣悪な音響より前に、ちょうど同じ日にBUCK-TICKか何かのライヴが第2ホールで開催されていて、彼らのどんやんどわどわという重低音が耳障り以外の何物でもなく(バンドの音楽自体が耳障りってことじゃないので、悪しからず。クラシック音楽を聴きに来たのにこれはないわ、ということ)、ちっとも音楽を愉しむことができなかった。
今もって無念を感じる出来事である。
2014年02月25日
フォルテピアノによるヨハン・クリスティアン・バッハの6つのソナタ作品番号5
☆ヨハン・クリスティアン・バッハ:6つのソナタ作品番号5
独奏:バート・ファン・オールト(フォルテピアノ)
(2013年2月、6月/デジタル・セッション録音)
<BRILLIANT>94634
いわゆる大バッハ、ヨハン・セバスティアン・バッハの11男にあたるヨハン・クリスティアン・バッハは、バロックから古典派への橋渡し役の一人として、また幼い日のモーツァルトに少なからぬ影響を与えた人物として知られるが、鍵盤楽器のために作曲した6つのソナタ作品番号5(変ロ長調、ニ長調、ト長調、変ホ長調、ホ長調、ハ短調)も、そうした彼の性質がよく表われた作品となっている。
まず第1番の第3楽章を聴けば、その飛び跳ねるような快活な音楽には、どうしてもモーツァルトを思い出さざるをえないだろう…。
なあんて、小難しいことはいいか。
ロマン派以降の深淵を穿って穿って穿ち過ぎて、という激しい感情表現とは無縁だけれど、明快な音楽の中にほんの僅かな翳りがあることも事実だし、第6番(唯一の短調)の第2楽章など、ヨハン・セバスティアンの色濃い影響がうかがえて実に興味深い。
オールトは、作品の構造をうまくとらえつつ劇性に富んだ演奏を繰り広げていて、全く過不足ない。
ヨハン・クリスティアン・バッハの音楽なんて聴いたことない、という方にも大いにお薦めしたい一枚だ。
なお、オールトが弾いたヨハン・クリスティアン・バッハの6つのソナタ作品番号17が、まもなく同じレーベルからリリースされる。
こちらも、非常に愉しみである。
独奏:バート・ファン・オールト(フォルテピアノ)
(2013年2月、6月/デジタル・セッション録音)
<BRILLIANT>94634
いわゆる大バッハ、ヨハン・セバスティアン・バッハの11男にあたるヨハン・クリスティアン・バッハは、バロックから古典派への橋渡し役の一人として、また幼い日のモーツァルトに少なからぬ影響を与えた人物として知られるが、鍵盤楽器のために作曲した6つのソナタ作品番号5(変ロ長調、ニ長調、ト長調、変ホ長調、ホ長調、ハ短調)も、そうした彼の性質がよく表われた作品となっている。
まず第1番の第3楽章を聴けば、その飛び跳ねるような快活な音楽には、どうしてもモーツァルトを思い出さざるをえないだろう…。
なあんて、小難しいことはいいか。
ロマン派以降の深淵を穿って穿って穿ち過ぎて、という激しい感情表現とは無縁だけれど、明快な音楽の中にほんの僅かな翳りがあることも事実だし、第6番(唯一の短調)の第2楽章など、ヨハン・セバスティアンの色濃い影響がうかがえて実に興味深い。
オールトは、作品の構造をうまくとらえつつ劇性に富んだ演奏を繰り広げていて、全く過不足ない。
ヨハン・クリスティアン・バッハの音楽なんて聴いたことない、という方にも大いにお薦めしたい一枚だ。
なお、オールトが弾いたヨハン・クリスティアン・バッハの6つのソナタ作品番号17が、まもなく同じレーベルからリリースされる。
こちらも、非常に愉しみである。
2014年01月31日
アバドとベルリン・フィルのブラームスのセレナード第1番
☆ブラームス:セレナード第1番
指揮:クラウディオ・アバド
管弦楽:ベルリン・フィル
(1981年5月/デジタル・セッション録音)
<ドイツ・グラモフォン>410 654-2
先日亡くなったクラウディオ・アバドが指揮したブラームスのセレナード第1番といえば、自らが創立したマーラー・チェンバーオーケストラとのライヴ録音が強く印象に残る。
ブラームスが若書きした、勇壮で明快、しかしときにメランコリックな音楽を活き活きと再現して、とても聴き心地がよかった。
で、今回とり上げるのは、同じアバドの指揮でも、1981年に録音されたベルリン・フィルとの一回目の録音である。
カラヤン治世下のベルリン・フィルということもあってか、非常に安定感の強いアンサンブルで、マーラー・チェンバーオーケストラを性能のよいサイクリング用自転車と評するならば、こちらは明らかに高級乗用車、それも大型の、と評したくなる。
デジタル初期のドイツ・グラモフォンレーベルの録音に顕著なじがじがもわっとした音質も加わって、どうしても重たさを感じないわけにはいかないが、作品の要所急所をしっかり押さえた演奏に仕上がっていることも事実だろう。
アバドの音楽解釈の変遷と継続を知る上でも貴重な録音であることは確かだ。
なお、アバドは同じくベルリン・フィルと1967年に第2番を録音しているが、結局再録音は果たさなかった。
交響曲ともども、上述したマーラー・チェンバーオーケストラ、もしくはモーツァルト管弦楽団、ルツェルン祝祭管弦楽団などとぜひ再録音して欲しかったと思う。
指揮:クラウディオ・アバド
管弦楽:ベルリン・フィル
(1981年5月/デジタル・セッション録音)
<ドイツ・グラモフォン>410 654-2
先日亡くなったクラウディオ・アバドが指揮したブラームスのセレナード第1番といえば、自らが創立したマーラー・チェンバーオーケストラとのライヴ録音が強く印象に残る。
ブラームスが若書きした、勇壮で明快、しかしときにメランコリックな音楽を活き活きと再現して、とても聴き心地がよかった。
で、今回とり上げるのは、同じアバドの指揮でも、1981年に録音されたベルリン・フィルとの一回目の録音である。
カラヤン治世下のベルリン・フィルということもあってか、非常に安定感の強いアンサンブルで、マーラー・チェンバーオーケストラを性能のよいサイクリング用自転車と評するならば、こちらは明らかに高級乗用車、それも大型の、と評したくなる。
デジタル初期のドイツ・グラモフォンレーベルの録音に顕著なじがじがもわっとした音質も加わって、どうしても重たさを感じないわけにはいかないが、作品の要所急所をしっかり押さえた演奏に仕上がっていることも事実だろう。
アバドの音楽解釈の変遷と継続を知る上でも貴重な録音であることは確かだ。
なお、アバドは同じくベルリン・フィルと1967年に第2番を録音しているが、結局再録音は果たさなかった。
交響曲ともども、上述したマーラー・チェンバーオーケストラ、もしくはモーツァルト管弦楽団、ルツェルン祝祭管弦楽団などとぜひ再録音して欲しかったと思う。
2014年01月24日
ショルティが指揮したハイドンのびっくり交響曲と軍隊交響曲
☆ハイドン:交響曲第94番「驚愕」&第100番「軍隊」
指揮:ゲオルク・ショルティ
管弦楽:ロンドン・フィル
(1983年11月、12月/デジタル・セッション録音)
<DECCA>411 897-2
ゲオルク・ショルティがロンドン・フィルと遺したハイドンのザロモン・セット(ハイドンがロンドンの音楽興行師ザロモンのために作曲した12曲の交響曲)のうち、驚愕のニックネームで知られる第94番と軍隊のニックネームで知られる第100番の2曲を収めたCDを聴く。
って、驚愕と軍隊といえば、昨年末にシュテファン・ザンデルリンクとロイヤル・フィルのCDを購入したばっかりだけど、あなたクリアでスマートスポーティなハイドンなら、こなたクリアでパワフルスポーティなハイドンとでも評することができるだろう。
音楽の処理、例えばフレーズの終わりで弦が「うういん」とうなるような感じ等、若干古さを覚えないわけではないのだが、がたいのいい男が小刻みなドリブルでこまめにシュートを重ねているかのような、大柄でありながら見通しのよい演奏は嫌いじゃない。
特に、シンフォニックなハイドンをお求めの方にはお薦めしたい一枚だ。
そうそう、たぶんザロモン(ロンドン)・セットということに加え、音楽の軽重の判断もあって、同じショルティの手兵のうちロンドン・フィルが起用されたのだろうけど、今となっては、シカゴ交響楽団とのばりばりぐいぐいのハイドンを聴いてみたかった気もしないではない。
指揮:ゲオルク・ショルティ
管弦楽:ロンドン・フィル
(1983年11月、12月/デジタル・セッション録音)
<DECCA>411 897-2
ゲオルク・ショルティがロンドン・フィルと遺したハイドンのザロモン・セット(ハイドンがロンドンの音楽興行師ザロモンのために作曲した12曲の交響曲)のうち、驚愕のニックネームで知られる第94番と軍隊のニックネームで知られる第100番の2曲を収めたCDを聴く。
って、驚愕と軍隊といえば、昨年末にシュテファン・ザンデルリンクとロイヤル・フィルのCDを購入したばっかりだけど、あなたクリアでスマートスポーティなハイドンなら、こなたクリアでパワフルスポーティなハイドンとでも評することができるだろう。
音楽の処理、例えばフレーズの終わりで弦が「うういん」とうなるような感じ等、若干古さを覚えないわけではないのだが、がたいのいい男が小刻みなドリブルでこまめにシュートを重ねているかのような、大柄でありながら見通しのよい演奏は嫌いじゃない。
特に、シンフォニックなハイドンをお求めの方にはお薦めしたい一枚だ。
そうそう、たぶんザロモン(ロンドン)・セットということに加え、音楽の軽重の判断もあって、同じショルティの手兵のうちロンドン・フィルが起用されたのだろうけど、今となっては、シカゴ交響楽団とのばりばりぐいぐいのハイドンを聴いてみたかった気もしないではない。
2014年01月15日
アレクセイ・リュビモフがフォルテピアノで弾いたモーツァルト
☆モーツァルト:ピアノ・ソナタ第4番〜第6番他
独奏:アレクセイ・リュビモフ(フォルテピアノ)
(1990年1月/デジタル・セッション録音)
<ERATO>2292-45618-2
ロシア(旧ソ連)出身のピアノ奏者アレクセイ・リュビモフがフォルテピアノを駆使して録音したモーツァルトのピアノ・ソナタ全集のうち、第4番変ホ長調KV282(189g)、第5番ト長調KV283(189h)、第6番ニ長調KV284(205b)の、デルニッツ男爵の依頼によって作曲されたいわゆる「デルニッツ・ソナタ」中の3曲と、アレグロKV400(372a)のつごう4曲を収めた第2集を聴いた。
10代後半に書かれた長調のソナタということで、陽性かつ軽快な音楽となっているのだが、リュビモフの手にかかると、単に底なしの明るさではなく、そうした明るさの中からちょっとした表情の変化、ちょっとした翳り、ちょっとした含みのようなものがじんわりと浮き出してくる。
特に第6番の長い終楽章、主題と変奏は、リュビモフの真骨頂というか、彼の音楽のとらまえ方さばき方の巧さがよく表われていて強く印象に残った。
また、展開部にゾフィーとコンスタンツェ(モーツァルトの夫人コンスタンツェとその妹ゾフィーのことだろう)という言葉が書き込まれているアレグロの感情の迸りも面白い。
フォルテピアノ(クロード・ケルコムによるヨハン・アンドレアス・シュタインのレプリカ)の細やかな音色ともども、音楽の愉しみに満ちた一枚だ。
独奏:アレクセイ・リュビモフ(フォルテピアノ)
(1990年1月/デジタル・セッション録音)
<ERATO>2292-45618-2
ロシア(旧ソ連)出身のピアノ奏者アレクセイ・リュビモフがフォルテピアノを駆使して録音したモーツァルトのピアノ・ソナタ全集のうち、第4番変ホ長調KV282(189g)、第5番ト長調KV283(189h)、第6番ニ長調KV284(205b)の、デルニッツ男爵の依頼によって作曲されたいわゆる「デルニッツ・ソナタ」中の3曲と、アレグロKV400(372a)のつごう4曲を収めた第2集を聴いた。
10代後半に書かれた長調のソナタということで、陽性かつ軽快な音楽となっているのだが、リュビモフの手にかかると、単に底なしの明るさではなく、そうした明るさの中からちょっとした表情の変化、ちょっとした翳り、ちょっとした含みのようなものがじんわりと浮き出してくる。
特に第6番の長い終楽章、主題と変奏は、リュビモフの真骨頂というか、彼の音楽のとらまえ方さばき方の巧さがよく表われていて強く印象に残った。
また、展開部にゾフィーとコンスタンツェ(モーツァルトの夫人コンスタンツェとその妹ゾフィーのことだろう)という言葉が書き込まれているアレグロの感情の迸りも面白い。
フォルテピアノ(クロード・ケルコムによるヨハン・アンドレアス・シュタインのレプリカ)の細やかな音色ともども、音楽の愉しみに満ちた一枚だ。
グレン・グールドが弾いたリヒャルト・シュトラウス
☆リヒャルト・シュトラウス:ピアノ・ソナタ&ピアノのための5つの小品
独奏:グレン・グールド(ピアノ)
(1982年7月、9月&1979年4月、8月/デジタル・セッション録音)
<SONY/BMG>8697148562
リヒャルト・シュトラウスが10代後半に作曲したピアノ・ソナタロ短調作品番号5とピアノのための5つの小品作品番号3をグレン・グールドが弾いた珍しいアルバムである。
そして、ピアノ・ソナタは、グールドの人生最後の録音でもある。
後年金の匙でも銀の匙でも作曲し分けてみせると豪語したほどの完成度は当然ないものの、ベートーヴェンの運命交響曲を想起させるような連打で始まるピアノ・ソナタの第1楽章を皮切りに、いずれも若き日のリヒャルト・シュトラウスの強い創作意欲が十二分に発揮された作品となっている。
グールドは、そうした作品の勘所をよくつかまえるとともに、作品の持つロマンティシズムや歌唱性を巧みに描き出すことで、とても聴き応えのあるアルバムを造り出した。
グールド好きはもちろんのこと、そうでないクラシック音楽好きにも充分お薦めできる一枚である。
独奏:グレン・グールド(ピアノ)
(1982年7月、9月&1979年4月、8月/デジタル・セッション録音)
<SONY/BMG>8697148562
リヒャルト・シュトラウスが10代後半に作曲したピアノ・ソナタロ短調作品番号5とピアノのための5つの小品作品番号3をグレン・グールドが弾いた珍しいアルバムである。
そして、ピアノ・ソナタは、グールドの人生最後の録音でもある。
後年金の匙でも銀の匙でも作曲し分けてみせると豪語したほどの完成度は当然ないものの、ベートーヴェンの運命交響曲を想起させるような連打で始まるピアノ・ソナタの第1楽章を皮切りに、いずれも若き日のリヒャルト・シュトラウスの強い創作意欲が十二分に発揮された作品となっている。
グールドは、そうした作品の勘所をよくつかまえるとともに、作品の持つロマンティシズムや歌唱性を巧みに描き出すことで、とても聴き応えのあるアルバムを造り出した。
グールド好きはもちろんのこと、そうでないクラシック音楽好きにも充分お薦めできる一枚である。
ゴルトベルク変奏曲 グレン・グールドの再録音
☆ヨハン・セバスティアン・バッハ:ゴルトベルク変奏曲
独奏:グレン・グールド(ピアノ)
(1981年4月、5月/デジタル・セッション録音)
<SONY/BMG>8697148532
1955年6月の鮮烈なモノラル録音でデビューしたグレン・グールドが、最晩年(と、言っても50歳前だが)になってデジタル再録音したヨハン・セバスティアン・バッハのゴルトベルク変奏曲を聴く。
一気呵成とでも評すべきデビュー盤のテンポ設定とは対照的に、グールドはゆっくりと踏みしめ噛みしめるように冒頭のアリアを奏でる。
それから、ときに激しく強弱のコントラストをつけつつ、ときに歌うように、バッハが仕掛けた要所急所をさらにデフォルメさせたりするりとかわしたりしながら、グールドは演奏を構成していく。
そして、最後の最後に、再びゆっくりとしたアリアが訪れる。
ああ、音楽を聴いた。
という単純な感想が全てだ。
何度聴いても聴き飽きない演奏録音で、音楽好きの方にはなべてお薦めしたい一枚である。
独奏:グレン・グールド(ピアノ)
(1981年4月、5月/デジタル・セッション録音)
<SONY/BMG>8697148532
1955年6月の鮮烈なモノラル録音でデビューしたグレン・グールドが、最晩年(と、言っても50歳前だが)になってデジタル再録音したヨハン・セバスティアン・バッハのゴルトベルク変奏曲を聴く。
一気呵成とでも評すべきデビュー盤のテンポ設定とは対照的に、グールドはゆっくりと踏みしめ噛みしめるように冒頭のアリアを奏でる。
それから、ときに激しく強弱のコントラストをつけつつ、ときに歌うように、バッハが仕掛けた要所急所をさらにデフォルメさせたりするりとかわしたりしながら、グールドは演奏を構成していく。
そして、最後の最後に、再びゆっくりとしたアリアが訪れる。
ああ、音楽を聴いた。
という単純な感想が全てだ。
何度聴いても聴き飽きない演奏録音で、音楽好きの方にはなべてお薦めしたい一枚である。
2013年12月30日
ザ・ラストナイト・オブ・ザ・プロムス・コレクション
☆ザ・ラストナイト・オブ・ザ・プロムス・コレクション
指揮:バリー・ワーズワース
独唱:デッラ・ジョーンズ(メゾ・ソプラノ)
合唱:ロイヤル・コラール・ソサエティ
管弦楽:BBCコンサート管弦楽団
(1996年1月/デジタル・セッション録音)
<PHILIPS>454 172-2
ロンドン音楽界の夏の夜の風物詩といえば、どでかいロイヤル・アルバート・ホールで連日開催されるプロムス(BBCプロムス)ということになるが、中でももっとも有名な最終夜(ラストナイト・オブ・ザ・プロムス)をスタジオ録音で再現したのが、このCD。
エルガーの行進曲『威風堂々』第4番に始まって、ウォルトンの戴冠行進曲『王冠』、エルガーのエニグマ変奏曲から美しい第9変奏「ニムロッド」、ホルストの『我が祖国よ、私は誓う』(惑星の木星の有名な旋律に愛国的な歌詞をのせたもの。平原綾香のJupiterの元ネタっぽく聴こえて仕方ない)、ヴォーン=ウィリアムズのグリーンスリーヴズの主題による幻想曲、エルガーの『朝の歌』、エリック・コーツの『ロンドン』から第3曲(行進曲)、ヘンデルの戴冠式アンセムから合唱曲、クラークのトランペット・ヴォランタリー、かつてのプロムスを代表する指揮者ヘンリー・ウッドが作曲した『イギリスの海の歌による幻想曲』(『埴生の宿』や、ヘンデルの『見よ、勇者は帰る』の旋律がまんま登場する)、アーンの『ルール・ブリタニア』、エルガーの『威風堂々』第1番の合唱付き、パリーの『ジェルサレム』、そしてイギリス国歌『ゴッド・セイヴ・ザ・クイーン』でしめるという、まさしくプロムスのラストナイトの雰囲気が存分に味わえること間違いなしの一枚だ。
正直、レナード・スラットキンならずとも、その愛国心の称揚には辟易しなくもないのだが、ばらばらなものを一つに繋ぎとめるためにはそんな仕掛けも必要だろうということは想像に難くないし、それより何より、音楽そのものが陽性勇壮で聴きやすい。
(ふと、『軍艦行進曲』や『愛国行進曲』といった作品が居並んで、『君が代』でしめるという日本版プロムスのラストナイトを想像してしまった。このご時世、全くありえない話でないのが…)
ワーズワースとBBCコンサート管はツボをよく押さえた演奏で、過不足がない。
イギリス音楽好き、のみならず、理性の働く愛国心をお持ちの方々には、安心してお薦めしたい。
指揮:バリー・ワーズワース
独唱:デッラ・ジョーンズ(メゾ・ソプラノ)
合唱:ロイヤル・コラール・ソサエティ
管弦楽:BBCコンサート管弦楽団
(1996年1月/デジタル・セッション録音)
<PHILIPS>454 172-2
ロンドン音楽界の夏の夜の風物詩といえば、どでかいロイヤル・アルバート・ホールで連日開催されるプロムス(BBCプロムス)ということになるが、中でももっとも有名な最終夜(ラストナイト・オブ・ザ・プロムス)をスタジオ録音で再現したのが、このCD。
エルガーの行進曲『威風堂々』第4番に始まって、ウォルトンの戴冠行進曲『王冠』、エルガーのエニグマ変奏曲から美しい第9変奏「ニムロッド」、ホルストの『我が祖国よ、私は誓う』(惑星の木星の有名な旋律に愛国的な歌詞をのせたもの。平原綾香のJupiterの元ネタっぽく聴こえて仕方ない)、ヴォーン=ウィリアムズのグリーンスリーヴズの主題による幻想曲、エルガーの『朝の歌』、エリック・コーツの『ロンドン』から第3曲(行進曲)、ヘンデルの戴冠式アンセムから合唱曲、クラークのトランペット・ヴォランタリー、かつてのプロムスを代表する指揮者ヘンリー・ウッドが作曲した『イギリスの海の歌による幻想曲』(『埴生の宿』や、ヘンデルの『見よ、勇者は帰る』の旋律がまんま登場する)、アーンの『ルール・ブリタニア』、エルガーの『威風堂々』第1番の合唱付き、パリーの『ジェルサレム』、そしてイギリス国歌『ゴッド・セイヴ・ザ・クイーン』でしめるという、まさしくプロムスのラストナイトの雰囲気が存分に味わえること間違いなしの一枚だ。
正直、レナード・スラットキンならずとも、その愛国心の称揚には辟易しなくもないのだが、ばらばらなものを一つに繋ぎとめるためにはそんな仕掛けも必要だろうということは想像に難くないし、それより何より、音楽そのものが陽性勇壮で聴きやすい。
(ふと、『軍艦行進曲』や『愛国行進曲』といった作品が居並んで、『君が代』でしめるという日本版プロムスのラストナイトを想像してしまった。このご時世、全くありえない話でないのが…)
ワーズワースとBBCコンサート管はツボをよく押さえた演奏で、過不足がない。
イギリス音楽好き、のみならず、理性の働く愛国心をお持ちの方々には、安心してお薦めしたい。
すっぴんの美しさ ガーディナーが指揮したビゼーの『アルルの女』と交響曲
☆ビゼー:交響曲&劇音楽『アルルの女』抜粋
指揮:ジョン・エリオット・ガーディナー
管弦楽:リヨン歌劇場管弦楽団
(1986年11月/デジタル・セッション録音)
ビゼーの『アルルの女』といえば、作曲者自身とギローが編曲した組曲版が有名だが、このCDでは、その原曲にあたる劇音楽の中から、第1番前奏曲、第7番パストラーレ、第12番メロドラマ、第14番マエストーソ、第16番メヌエット、第22番メロドラマ、第16番bカリヨン、第17番メロドラマ、第23番メロドラマ、第19番ファランドールの10曲を抜粋し順番を入れ換えて録音している。
組曲版のシンフォニックな構えと異なり、もともと小編成を想定して作曲された音楽だけに、ある種の素っ気なさを感じないこともないが、すっぴんの美しさというか、ビゼーの作曲の巧さや旋律の美しさが、より引き立っているように感じられることも事実だ。
それには、カリヨンのシンプルな美、ファランドールの小気味よさなど、ガーディナーによるピリオド・スタイルを援用した音楽づくりも忘れてはなるまいが。
交響曲も軽快かつ清々しい演奏で、とても聴き心地がよい。
中古CDを500円で手に入れたのだけれど、これまた掘り出し物。
『アルルの女』の組曲に慣れ切った人にこそ聴いて欲しい一枚である。
指揮:ジョン・エリオット・ガーディナー
管弦楽:リヨン歌劇場管弦楽団
(1986年11月/デジタル・セッション録音)
ビゼーの『アルルの女』といえば、作曲者自身とギローが編曲した組曲版が有名だが、このCDでは、その原曲にあたる劇音楽の中から、第1番前奏曲、第7番パストラーレ、第12番メロドラマ、第14番マエストーソ、第16番メヌエット、第22番メロドラマ、第16番bカリヨン、第17番メロドラマ、第23番メロドラマ、第19番ファランドールの10曲を抜粋し順番を入れ換えて録音している。
組曲版のシンフォニックな構えと異なり、もともと小編成を想定して作曲された音楽だけに、ある種の素っ気なさを感じないこともないが、すっぴんの美しさというか、ビゼーの作曲の巧さや旋律の美しさが、より引き立っているように感じられることも事実だ。
それには、カリヨンのシンプルな美、ファランドールの小気味よさなど、ガーディナーによるピリオド・スタイルを援用した音楽づくりも忘れてはなるまいが。
交響曲も軽快かつ清々しい演奏で、とても聴き心地がよい。
中古CDを500円で手に入れたのだけれど、これまた掘り出し物。
『アルルの女』の組曲に慣れ切った人にこそ聴いて欲しい一枚である。
シュテファン・ザンデルリンクの若々しいハイドン
☆ハイドン:交響曲第100番「軍隊」&第94番「驚愕」他
指揮:シュテファン・ザンデルリンク
管弦楽:ロイヤル・フィル
(1994年6月/デジタル・セッション録音)
モダン楽器オーケストラの機能を存分に活かした若々しいハイドン。
一言で評するならば、そういうことになるだろうか。
ちょうど手元になかったハイドンの大有名交響曲、軍隊シンフォニーとびっくりシンフォニーの中古CDが250円で出ていたので思わず買ってしまったのだけれど、これは思わぬ掘り出し物だった。
いわゆるピリオド・スタイルとは一線を画すものの、シュテファン・ザンデルリンク(ちなみに、クルト・ザンデルリンクの子息)のきびきびとして流れがよく、しかも鳴らすべきところはしっかり鳴らす音楽づくりが功を奏して、実に爽快な演奏に仕上がっている。
ロイヤルも安定した出来で、ニックネームの由来となっている二つの交響曲の第2楽章や、カップリングの『ラ・フェデルタ・プレミアタ(報われた誠意)』序曲での管楽器群の陽気な強奏など、まさしく面目躍如だと思う。
録音も演奏によくあってクリアだし、ピリオド・スタイルはちょっと、でも古いタイプの演奏ももういいや、というむきには特にお薦めしたい一枚だ。
指揮:シュテファン・ザンデルリンク
管弦楽:ロイヤル・フィル
(1994年6月/デジタル・セッション録音)
モダン楽器オーケストラの機能を存分に活かした若々しいハイドン。
一言で評するならば、そういうことになるだろうか。
ちょうど手元になかったハイドンの大有名交響曲、軍隊シンフォニーとびっくりシンフォニーの中古CDが250円で出ていたので思わず買ってしまったのだけれど、これは思わぬ掘り出し物だった。
いわゆるピリオド・スタイルとは一線を画すものの、シュテファン・ザンデルリンク(ちなみに、クルト・ザンデルリンクの子息)のきびきびとして流れがよく、しかも鳴らすべきところはしっかり鳴らす音楽づくりが功を奏して、実に爽快な演奏に仕上がっている。
ロイヤルも安定した出来で、ニックネームの由来となっている二つの交響曲の第2楽章や、カップリングの『ラ・フェデルタ・プレミアタ(報われた誠意)』序曲での管楽器群の陽気な強奏など、まさしく面目躍如だと思う。
録音も演奏によくあってクリアだし、ピリオド・スタイルはちょっと、でも古いタイプの演奏ももういいや、というむきには特にお薦めしたい一枚だ。