2012年10月09日

カラヤンが指揮したブラームスの交響曲第2番とハイドンの主題による変奏曲

☆ブラームス:交響曲第2番&ハイドンの主題による変奏曲

 指揮:ヘルベルト・フォン・カラヤン
管弦楽:ベルリン・フィル
(交響曲=1986年6月、変奏曲=1983年2月/デジタル・セッション録音)
<ドイツ・グラモフォン>423 142-2


 昔ほどではないけれど、それでもヘルベルト・フォン・カラヤンといえば、今でも20世紀を代表する指揮者、音楽家の一人として多くの方々に知られているのではないだろうか。
 で、前回とり上げたレオポルド・ストコフスキーと同じくカラヤンもまた、と言うよりも、ストコフスキー以上にレコード録音(テクノロジー)と密接に結びついた人物で、コンパクトディスクの開発に、彼が大きく寄与したことは有名である。
 ただ、ストコフスキーが最晩年にいたるまで進取の気質というか、演奏そのものにおいても若々しさと瑞々しさを失わなかったのに対して、カラヤンの場合は年齢を重ねるごとに、よくも悪くも「保守化」していったように、僕には思われてならない。

 ちょうどストコフスキーのBOXセットに収められていたブラームスの交響曲第2番を聴き比べてみれば、そのことがよくわかる。
 確かに、アンサンブルとしての練れ具合ではベルリン・フィルのほうが何日もの長があって、全体的にとても安定した出来となっている。
 ただ、カラヤンの演奏には、老舗の新劇の劇団が老巧の演出家の下でルーティンな演技を繰り広げているといった趣もないではない。
 テキストの解釈として全く間違ってはいないし、まとまりもいいんだけれど、予定調和的ではっとする瞬間が少ないというか。
 もちろん、旋律の磨かれようは抜群だから、音楽に安定した美を求める方には、厭味ではなく大いにお薦めしたい。
 ハイドンの主題による変奏曲も、至極穏当な演奏だ。
posted by figarok492na at 19:30| Comment(0) | TrackBack(0) | CDレビュー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

レオポルド・ストコフスキー ザ・コロムビア・ステレオ・レコーディングス

☆レオポルド・ストコフスキー ザ・コロムビア・ステレオ・レコーディングス

<SONY/BMG>88691971152(10枚組BOXセット)



 レオポルド・ストコフスキーという名前を耳にして、すぐに思い出すことといえば、いったいなんだろう。
 ディズニー映画『ファンタジア』との関係や『オーケストラの少女』への出演といった、メディアにおける派手な露出もあるだろうし、楽器配置をはじめとした20世紀のオーケストラ演奏に対する大きな影響もあるだろう。
 それに、ヨハン・セバスティアン・バッハのオーケストレーションはまだしも、ある種ゲテ物的ですらある、編曲やカットを含むくせの強い演奏も忘れるわけにはいかないし(と、言うより、「とんでも指揮者」というイメージがストコフスキーにはどうしても付きまとっているのでは)、最晩年CBS(コロムビア)レーベルと結んだ100歳までの録音契約が端的に象徴するようなレコード・録音(テクノロジー)との深い関係もやっぱりそうだ。
 そして、そうして思い浮かべたあれこれを総合していくと、ストコフスキーが20世紀を代表する指揮者であり音楽家であったことが、しっかりと見えてくる。

 そんなストコフスキーが、CBS(コロムビア)[現SONY/BMG]レーベルに遺した全てのステレオ録音(先述した最晩年の録音も、当然の如く収められている)、CD10枚分をBOXセットにした、その名も「レオポルド・ストコフスキー ザ・コロムビア・ステレオ・レコーディングス」が先頃発売されたのだけれど、いやあ、これは想像していた以上に聴き応えがあったなあ。
 で、本来ならば一枚ごとに詳しくレビューをアップするべきなのかもしれないが、BOXセットを通して聴くことの意味合いも考えて、あえてどどんとまとめて記しておくことにした。


1:ファリャ:バレエ音楽『恋は魔術師』&ワーグナー:楽劇『トリスタンとイゾルデ』の愛の音楽(ストコフスキー編曲)
 管弦楽:フィラデルフィア管弦楽団
 メゾ・ソプラノ独唱:シャーリー・ヴァ―レット(ファリャ)
(1960年2月録音)

 かつてシェフを務めたフィラデルフィア管弦楽団を振って、ストコフスキーが久方ぶりに録音した一枚。
 オーケストラの鳴り方に古めかしさを感じなくもないのだが、ツボをよく押さえた演奏と編曲(ワーグナー)で、実にわくわくする。
 ヴァ―レットの地声を活かしたような歌唱も、なまなましくて悪くない。
 デジタルリマスタリングの力もあってだろうが、音質のよさにも驚いた。


2:ヨハン・セバスティアン・バッハ:ブランデンブルク協奏曲第5番&コラール前奏曲(ストコフスキー編曲)
 管弦楽:フィラデルフィア管弦楽団
 ヴァイオリン独奏:アンシェル・ブルシロウ(協奏曲)
 フルート独奏:ウィリアム・キンケイド(同)
 チェンバロ独奏:フェルナンド・ヴァレンティ(同)
(1960年2月録音)

 有名なブランデンブルク協奏曲第5番に、コラール前奏曲『イエスよ、私は主の名を呼ぶ』、『来れ異教徒の救い主よ』、『我ら唯一の神を信じる』の編曲物3曲を加えた録音で、ピリオド・スタイルとは真反対のオールド・スタイルな解釈。
 ただし、音楽を慈しむかのような演奏には、好感を抱く。
 一つには教会のオルガン奏者ということも大きいか、コラール前奏曲の編曲にも、ストコフスキーのバッハの音楽に対する真摯さを感じた。


3:ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第5番「皇帝」
 ピアノ独奏:グレン・グールド
 管弦楽:アメリカ交響楽団
(1966年3月録音)

 グレン・グールドはストコフスキーの熱烈なファンだったというが、そうしたグールドの想いにストコフスキーもよく応じているのではないか。
 ストコフスキーが創設したアメリカ交響楽団の技術的な弱さは指摘せざるをえないものの、グールドに歩調を合わせて、作品の持つ多面的な性格を細かく再現すべく健闘していると思う。


4:アイヴズ:交響曲第4番&ロバート・ブラウニング序曲、合唱曲
 管弦楽:アメリカ交響楽団
 合唱:グレッグ・スミス・シンガーズ、イサカ大学合唱団
(交響曲=1965年4月、序曲=1966年12月、合唱曲=1967年10月録音)

 ストコフスキーの現代音楽の紹介者としての側面を象徴した一枚。
 ストコフスキー自身が初演した交響曲は、精度の高さでは、その後録音された小澤征爾&ボストン交響楽団、マイケル・ティルソン・トーマス&シカゴ交響楽団、クリストフ・フォン・ドホナーニ&クリ―ヴランド管弦楽団に軍配を挙げざるをえないが、コラージュをはじめとした作品の持つとっちらかった印象、雰囲気を再現するという意味では、まだまだこの録音も負けていない。
 ボーナストラックとして収められた序曲、合唱曲『民衆』、『ゼイ・アー・ゼア!』、『選挙』、『リンカーン』、特にアイヴズの政治的な意識も垣間見える合唱曲のなんとも言えないグロテスクさも、聴きものだ。


5:ビゼー:『カルメン』&『アルルの女』組曲
 管弦楽:ナショナル・フィル
(1976年8月録音)

 ここからは腕っこきのプレーヤーを集めた録音専用のイギリスのオーケストラ、ナショナル・フィルを指揮した最晩年の録音が続く。
(惜しむらくは、4ステレオの録音のためちょっとばかりもわもわとした感じがして、ストコフスキーのシャープな解釈とすれが生じている)
 メリハリのよく聴いたドラマティックな演奏で、全篇聴き飽きない。
 中でも、『アルルの女』のファランドールといった激しい音楽でのクライマックスの築き方が巧い。


6:ストコフスキー 彼のオーケストラのための偉大な編曲集
 管弦楽:ナショナル・フィル
(1976年7月録音)

 ストコフスキーは大曲ばかりでなく、いわゆるアンコールピースの演奏編曲にも長けたが、これはそうしたストコフスキーの十八番と呼ぶべき小品を集めた録音だ。
 もちろん大向こう受けを狙った部分もなくはないのだけれど、全曲聴き終えて、一篇のドラマに接したかのような余韻が残ったことが、僕には印象深い。


7:シベリウス:交響曲第1番&交響詩『トゥオネラの白鳥』
 管弦楽:ナショナル・フィル
(1976年11月録音)

 交響曲の第3楽章での荒ぶる表現に、トゥオネラの白鳥での静謐で神秘的な表現。
 押すべきところはきっちりと押して、引くべきところはきっちりと引く。
 緩急自在、強弱自在な演奏である。
 それにしても、90歳を超えてのこの若々しい表現には驚くほかない。


8:チャイコフスキー:バレエ音楽『オーロラ姫の婚礼』
 管弦楽:ナショナル・フィル
(1976年5月録音)

 チャイコフスキーのバレエ音楽『眠りの森の美女』の第3幕、オーロラ姫の結婚式を中心にディアギレフが編曲した作品で、怒り憤りというとちょっと変かもしれないけれど、激しい感情の動きがぐいぐいと伝わってくる演奏になっている。
 シャルル・デュトワ&モントリオール交響楽団の滑らかな演奏と対照的だ。


9:メンデルスゾーン:交響曲第4番「イタリア」&ビゼー:交響曲
 管弦楽:ナショナル・フィル
(1977年6月録音)

 ストコフスキーにとって最後の録音となった一枚。
 けれど、これまたその若々しく瑞々しい表現、音楽の流れのよさに驚き、感嘆する。
 なお、ビゼーの交響曲の終楽章はワンテイク(一発録り)だったとか。


10:ブラームス:交響曲第2番&悲劇的序曲
 管弦楽:ナショナル・フィル
(1977年4月録音)

 このBOXセットの中で、僕がもっとも気に入った一枚がこれだ。
 もともと交響曲第2番が大好きだということも大きいのだが、ストコフスキーの自然で流れのよい解釈、表現は聴いていて全く無理を感じないのである。
 加えて、真っ向勝負とでも言いたくなるような悲劇的序曲の精悍な演奏も見事の一語に尽きる。


 と、これだけ盛りだくさんな内容で、HMVのネットショップなら2290円(別に手数料等が必要)というのだから、どうにも申し訳なくなってくる。
(アイヴズを除くとLP初出時のカップリングがとられているため、中には40分弱の収録時間のものもあるが、一枚一枚をじっくり愉しむという意味では、かえってそのくらいが聴きやすいようにも思う。それに、LPのオリジナル・デザインを利用した紙ジャケットという体裁が嬉しいし)

 ストコフスキー のという音楽家、指揮者の果たした役割を改めて考える上で「マスト」な、ばかりではなく、一つ一つの作品を愉しむ上でも大いにお薦めしたいBOXセットだ。
 クラシック音楽好きは、ぜひともご一聴いただければと思う。
posted by figarok492na at 14:18| Comment(0) | TrackBack(0) | CDレビュー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年09月28日

フランチェスコ・ザッパの6つの交響曲集

☆フランチェスコ・ザッパ:6つの交響曲集

 指揮:ヴァンニ・モレット
管弦楽:アタランタ・フーギエンス
(2008年5月/デジタル・セッション録音)
<DHM ドイツ・ハルモニアムンディ>88697901562


 ザッパといえば、なんと言ってもフランク・ザッパだが、ザッパはザッパでもここでとり上げるのは、18世紀後半に活躍したイタリアの作曲家フランチェスコ・ザッパの6つの交響曲のCD。

 で、このフランチェスコ・ザッパ、実はフランク・ザッパがたまたまその存在を見つけ出した人物で、1984年にはその名もずばり『フランチェスコ・ザッパ』というタイトルのアルバムまでリリースされている。
(フランチェスコの室内楽を電子楽器で演奏したものだそうだが、残念ながら未聴)

 ブックレットその他を紐解くと、フランチェスコという人はどうやら1763年〜1788年頃、ミラノをはじめイタリアを中心にヨーロッパで活動したチェロ奏者兼作曲家らしく、若干の作品が遺されているようだ。
(ここら辺、それこそ大ザッパな説明で失礼)

 そんなフランチェスコの6つの交響曲をまとめて再現して聴かせたのが、ヴァンニ・モレットとイタリアのピリオド楽器アンサンブル、アタランタ・フーギエンス。
(ちなみに、モレットは電子音楽の作曲家でジャズ・ベース奏者としても活動しているというから、フランク・ザッパの影響を想像することも容易だ)

 古典派時代にミラノで活躍した作曲家の交響曲=シンフォニアを継続的に録音している彼彼女らにとって、今回のアルバムがちょうど5枚目のリリースにあたるのだけれど、いやあ、これはとっても聴き心地がいいな。
 変ホ長調、ト長調、変ロ長調、ハ長調、ニ長調、変ホ長調、と、いずれも長調の作品が並んでいるのだが、アタランタ・フーギエンスの快活で歯切れのよい軽やかな演奏が、作品の持ついきいきとした感じをよく表わしていて、実に愉しい。
 加えて、緩やかな第2楽章での叙情性や歌唱性も魅力的だ。
 また、ニ長調の第2楽章(トラック14)でのチェロ独奏など、フランチェスコ・ザッパのプレーヤーとしての活動を考える上でも非常に興味深い。
(なお、このアルバムでは、第1ヴァイオリン・3、第2ヴァイオリン・3、ヴィオラ・1、チェロ・2、コントラバス・1、オーボエ、ホルン、フルート・各2、チェンバロ・1という編成がとられている)

 フランク・ザッパ云々はひとまず置くとして、古典派が好き、明るくてのりのよい音楽が好きという方には、大いにお薦めしたい一枚である。


 *追記
 変ロ長調、ニ長調の2曲には、サイモン・マーフィー指揮ニュー・オランダ・アカデミーの録音<ペンタトン・レーベル>もあるが、ちょっと重たい感じのする演奏で、モレット&アタランタ・フーギエンスの演奏のほうが僕の好みには合っている。
posted by figarok492na at 16:01| Comment(0) | TrackBack(0) | CDレビュー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年07月31日

シューベルトの交響曲第5番&演奏会用序曲集

☆シューベルト:交響曲第5番&演奏会用序曲集

 指揮:ミヒ・ガイック
管弦楽:オルフェオ・バロック・オーケストラ
(2011年7、8月/デジタル・セッション録音)
<SONY/DHM>88697911382


 CPOレーベルやドイッチェ・ハルモニアムンディ(DHM)などで精力的にCD録音を続けている、オーストリアのピリオド楽器オーケストラ、オルフェオ・バロック・オーケストラが、彼彼女らにとって初の初期ロマン派録音となるシューベルトの交響曲第5番と演奏会用序曲を収めたアルバムをリリースした。

 すでにジョス・ファン・インマゼール&アニマ・エテルナ(2回)、ロイ・グッドマン&ザ・ハノーヴァー・バンド、ロジャー・ノリントン&ロンドン・クラシカル・プレイヤーズ、フランス・ブリュッヘン&18世紀オーケストラと、ピリオド楽器オーケストラによる録音も少なくない交響曲第5番のほうは、よい意味でここ30年ほどのピリオドスタイルの「まとめ」というか、穏やかな雰囲気の中にときとして激しい風が吹くといった作品の性格をよくとらえた安定した演奏になっていると思う。
 若干ピッチ云々以上に重心が低い感じがしないでもないが、作品を愉しむという意味ではそれほど気にはならないだろう。

 ただ、やはりこのCDで重要となるのは、ピリオド楽器オーケストラによる初録音となる変ロ長調D.470、ニ長調D.556、ホ短調D.648の3曲をはじめとした5曲の演奏会用序曲ではないか。
 ハイドンら古典派の影響が色濃い、交響曲と同じ調性を持つD.470から、当時大流行となったロッシーニのスタイルを巧く取り込んでみせた二つのイタリア風序曲(加えて、ニ長調D.590は、『魔法の竪琴』=『ロザムンデ』序曲の雛形ともなっている)と、シューベルトの創作活動の変遷変化や音楽的な個性(歌謡性)と同時代性が如実に示されていて、非常に興味深い。
 オルフェオ・バロック・オーケストラは、とびきり達者とまでは言えまいが、メリハリのきいた清新な演奏で、作品の持ついきいきとした感じを巧く再現しているように思った。
 シューベルトや初期ロマン派好きの方にはお薦めしたい一枚だ。

 ところで、交響曲と序曲集というカップリングで思い出したが、グッドマンがザ・ハノーヴァー・バンドを指揮したケルビーニの交響曲と序曲集は、いつになったらリリースされるのだろう。
 ザ・ハノーヴァー・バンドのサイトによると、RCAレーベルに録音したことは確からしいのだけれど、ずっとペンディング状態になっているのである。
 せっかくならば、このシューベルトのアルバムと対にして聴いてみたいところなのだが。
posted by figarok492na at 16:12| Comment(0) | TrackBack(0) | CDレビュー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年07月30日

デヴィッド・ジンマンが指揮したシューベルトの交響曲第3番&第4番「悲劇的」

☆シューベルト:交響曲第3番&第4番「悲劇的」

 指揮:デヴィッド・ジンマン
管弦楽:チューリヒ・トーンハレ管弦楽団
(2011年2月/デジタル・セッション録音)


 今からもう20年近くも前になるか。
 シンガポールからフランクフルトに向かう飛行機の機内で、サービスのクラシック音楽の放送に耳を傾けていると、突然激しい感情表現の演奏にぶつかった。
 作品が、「悲劇的」というニックネームを持ったシューベルトの交響曲第4番であることはすぐにわかったし、ピリオド楽器が使用されていることも続けてわかった。
 それにしても、この荒々しい音の響きと狂おしいばかりの焦燥感はなんなんだろう。
 そんな風に心を強く動かされながら交響曲第4番を聴き終えたとき、この録音がロジャー・ノリントン指揮ロンドン・クラシカル・プレイヤーズによって演奏されたものであることをナレーターが告げた。
 なるほど、ノリントンだったのか。
 それからしばらくして、今度はケルンのフィルハーモニーで、ノリントンとヨーロッパ室内管弦楽団が演奏した同じ作品に接することができたのだが、生である分、さらに若き日のシューベルトの感情がほとばしり出てくるというか、「悲劇的」という名前に相応しいエネルギッシュで、なおかつクリティカルな演奏だったように記憶している。

 デヴィッド・ジンマンが手兵チューリヒ・トーンハレ管弦楽団を指揮して進めているシューベルトの交響曲全集の第三段、交響曲第3番&第4番「悲劇的」の第4番を聴きながら、ふとノリントンが指揮した同じ作品のことを思い出した。
 今回のアルバムも、第7番「未完成」や第1番&第2番(最晩年の吉田秀和が、『名曲のたのしみ』の試聴室でこの演奏をとり上げていたっけ)と同様、いわゆるピリオド奏法を援用したスピーディーでスマート、細部までクリアな目配りのよく届いた演奏で、全篇心地よく聴き通すことができる。
 CDでこの二つの交響曲に親しむという意味では、大いにお薦めしたい一枚だ。

 ただ一方で、第3番にせよ「悲劇的」にせよ、何か枠の中で巧くまとまってしまったような感じがしないでもない。
 古典的な造形と言われればそれまでだし、実際そうした楽曲解釈の立場に立てば、非常に優れた演奏なのではあるのだけれど。
 例えば、第4番の両端楽章など、聴く側の肺腑を抉るような痛み、鋭さ、激しさに若干欠けるような気がしてならないのである。
 一つには、いっとう最初にリリースされた未完成交響曲で、ジンマン&チューリヒ・トーンハレ管弦楽団が内面の嵐を描いたような激しい表現を行っていたことも大きいのかもしれないな。

 そういえば、ノリントンがシュトゥットガルト放送交響楽団を指揮した「悲劇的」と交響曲第5番のアルバムが先頃リリースされたんだった。
 聴いてみたいような、聴いてみたくないような…。
posted by figarok492na at 16:39| Comment(0) | TrackBack(0) | CDレビュー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年07月07日

ガッティ&フランス国立管弦楽団のドビュッシー

☆ドビュッシー:管弦楽曲集

 指揮:ダニエレ・ガッティ
管弦楽:フランス国立管弦楽団
<SONY/BMG>88697974002


 許光俊が『最高に贅沢なクラシック』<講談社現代新書>で説く「贅沢」にはほど遠いものの、20代半ばより少し前、1993年の秋口から翌年の晩冬に至る約半年間のケルン・ヨーロッパ滞在は、今さらながら僕にとって「最高に贅沢なクラシック」体験だったとつくづく思う。

 例えば、1993年11月5日から7日と、レナード・スラトキン指揮セントルイス交響楽団、ガリ・ベルティーニ指揮ケルンWDR交響楽団、アルミン・ジョルダン指揮スイス・ロマンド管弦楽団のコンサートをケルン・フィルハーモニーで三夜立て続けに聴いたことなど、一つ一つのコンサートの出来はひとまず置くとしても、やはり自分にとってとても贅沢な記憶である。

 機能性は優れているものの、ベートーヴェンのピアノ協奏曲第4番(ルドルフ・ブッフビンダーの独奏)にしろ、ストラヴィンスキーの『春の祭典』にしろCD録音以上に陰影の乏しさが気になって、ルロイ・アンダーソンのアンコールだけがやけにしっくりときたセントルイス響のコンサートについてはいずれ記すこともあるかもしれないから詳述しないが、残るWDR響とスイス・ロマンド管の二つは、今もって忘れられない印象に強く残るコンサートとなっている。

 一つには、当時の首席指揮者ハンス・フォンクとどちらかといえば緩い演奏を繰り返していたWDR響が、前任のシェフ・ベルティーニの下、非常に統制のとれた音楽を造り出していたことに感心したこともあれば、スイス・ロマンド管はスイス・ロマンド管で、前半のプログラム、バルトークのピアノ協奏曲第3番でのマルタ・アルゲリッチの胸のすくような「共演」に感激したことも大きかったのだけれど。
(マルタ・アルゲリッチは我がままだからなあ、なんて言葉を自称音楽通に吹聴されたこともなくはなかったが、この夜の愉しそうにオーケストラと「共演」している彼女の姿、さらには休憩後客席で愉しそうにオーケストラを聴いている彼女の姿を観れば、そんな言葉がどうにも怪しく思えてしまったものだ。少なくとも、我がままは我がままでも、あの晩の彼女は、『上からマルタ』ならぬ『上からマリコ』的な我がままだったんじゃないだろうか、きっと)

 加えて、これは偶然なのかどうなのか、いずれのオーケストラも、ドビュッシーの交響詩『海』とラヴェルの『ラ・ヴァルス』をプログラムに組み込んでいたのだけれど、指揮者の解釈ばかりか、オーケストラの持つ音色の違いをまざまざと知らされる想いがして、あれには本当にびっくりした。
 そういえば、あなたWDR響の細かいところまで明快に見通せるようなクリアな演奏に、こなたスイス・ロマンド管のほわんほわんほわんほわんと音がまるっこく包み込むように響く演奏と、同じ作品(ちなみにほぼ同じ座席)でも、こうも違って聴こえるのかと驚いていると、たまたま隣に座っていたフランス人が演奏終了後に、「フランスのオーケストラ以上にフランスっぽいね」と口にしてにやりとしたんだったっけ。
(WDR響の場合、ドビュッシーとラヴェルは前半のプログラムで、メインはチャイコフスキーの交響曲第5番。『海』は、カプリッチョ・レーベルからCDがリリースされていた)

 ダニエレ・ガッティがフランス国立管弦楽団を指揮したドビュッシーの管弦楽曲集(『海』、牧神の午後への前奏曲、管弦楽のための『映像』のカップリング)を聴きながら、ついついそんなことを思い出してしまった。
 「フランスのオーケストラ以上にフランスっぽいね」とは、あまりに感覚的で、ある種の偏見が入り混じったと言葉と思えなくもないとはいえ、このCDのドビュッシーを聴くに、確かにそういう風に彼が口にしてみたくなった気持ちも想像できなくはない。
 録音のかげんもあってだろうが、ガッティとフランス国立管弦楽団が造り出すドビュッシーは、細部までよく目配りが届いている上に、オペラでならしたガッティらしく歌謡性や劇場感覚にあふれているというか、音楽の肝をよく押さえた非常にメリハリのきいた音楽に仕上がっている。
 と、言っても、ベルティーニのように、がっちりきっちりと固めきってしまうのではなく、多少粗さは残っても、音楽の自然な流れ、演奏者の感興というものをより活かしているようにも感じられる。
 そうした意味もあって、『海』の終曲や、『映像』など、音のダイナミズムや劇性に富んだ作品が中でも優れた演奏になっているように思った。
 いずれにしても、単なる雰囲気としてではなく、一個の音楽作品、オーケストラ作品としてドビュッシーの作品を愉しみたい方には、大いにお薦めしたい一枚だ。

 そうそう、ベルティーニ&WDR響、ジョルダン&スイス・ロマンド管の驚きよ再びとばかり、ガッティのCDのあとに、セルジュ・チェリビダッケがシュトゥットガルト放送交響楽団とミュンヘン・フィルを指揮した二種類の『海』の録音<前者ドイツ・グラモフォン/後者EMI>を続けて聴いてみたのだが、これは失敗だった。
 なぜなら、演奏の違い、解釈の違いは頭でよく理解できるものの、あの身に沁みるような感覚感慨は、全く得られなかったからである。
 まあ、生とCD(音の缶詰)、当たり前っちゃ当たり前のことではあろうが。

 それにしても、20代半ば前に、連日連夜、それも生活の一部としてコンサートやオペラに足しげく通ったあの半年間は、僕にとって本当に贅沢な体験経験であり、記憶であるのだが、ことクラシック音楽を生で聴くという意味では、僕の人生のピークだったことも明らかな事実だろう。
 それは、とても贅沢で幸福なことではあったけれど、逆にとてつもなく不幸なことであったのかもしれないと、今の僕は思わないでもない。
posted by figarok492na at 17:10| Comment(0) | TrackBack(0) | CDレビュー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年06月17日

ウィーン弦楽6重奏団が演奏したドヴォルザークの室内楽曲

☆ドヴォルザーク:弦楽6重奏曲&弦楽5重奏曲第3番

 ウィーン弦楽6重奏団
(1991年4月/デジタル・セッション録音)
<EMI>CDC7 54543 2


 ボヘミアの郷愁。
 なんて言葉を口にすると、あまりにべた過ぎて、陳腐だなあと思ってしまうけど、ドヴォルザークの作品、特に室内楽のゆったりとした楽章、だけじゃなくて第1楽章ののびやかで快活な音の流れを耳にしていると、ついついそんな言葉を口にしてしまいたくなる。
 一方で、ブラームス譲りというか、がっちりきっちりした音楽の造りもそこにはわるわけだし、さらにはクルト・シュナイダーの爆発者よろしく、突然の血沸き肉躍る、ならぬ血沸き頭沸く感情の爆発もドヴォルザークの音楽には含まれている。
 だから、一つ間違うと、分裂気質丸出しのいっちゃった演奏にだってなりかねないのだけれど、ボヘミアの郷愁をひとまず脇に置いたウィーン弦楽6重奏団は、よく練れたアンサンブルを活かして、速いテンポでスマートにクリアにそこら辺りをクリアしていく。
 例えば大好きな6重奏曲の第1楽章など、スメタナ・カルテット他による演奏と比べれば若干塩辛いというか、情より理という感じもしなくはないが、ドヴォルザークの作曲家としての普遍的(と、言っても、それは中欧を中心としたヨーロッパ内におけると限定すべきかもしれない)な力量を識るという意味では、充分納得のいく一枚である。
(こうした演奏には、ニコラウス・アーノンクールとの活動やモザイク・カルテットで知られるヴァイオリンのエーリヒ・ヘーバルトの存在も大きいのではないか)
 中でも、室内楽好きの方にはお薦めしたい。
posted by figarok492na at 16:36| Comment(0) | TrackBack(0) | CDレビュー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年05月21日

クリスチャン・フェラスが弾いたヴァイオリン小品集

☆愛の喜び/珠玉のヴァイオリン小品集

 ヴァイオリン:クリスチャン・フェラス
 ピアノ:ジャン=クロード・アンブロシーニ
(1968年12月/アナログ・ステレオ、セッション録音)


 よくよく考えてみたら、我が家(この場合は生家、実家)は、レコード類が少ない家だった。
 一応ステレオ・セットはあったものの、目ぼしいレコードといえば、ニニー・ロッソのアルバム(父の好み)と10枚一セットの唱歌集(これは母の好み)があったきりで、あとは何かの記念でもらったおくんちの実況レコードに、僕の情操教育を目論んだらしいこれまた10枚一セットのクラシック名曲集ぐらいではなかったか。
(クラシックを本格的に聴き始めた頃は馬鹿にしきったこの名曲集だが、渡邉暁雄やヤマカズ山田一雄、はては奥田道昭が旧日本フィルを指揮するというラインナップは、今となってはとても貴重なものだ)

 と、言っても、両親が音楽嫌いかというとそうではなく、母はいわゆるママさんコーラスにも所属して家でもあれこれ歌っていたし、父は父でアルコールなんぞ入ると歌謡曲をなかなかの美声で口ずさんでいた。
 それじゃあどうしてレコードがなかったかと考えると、一つには、父が運輸省の航海訓練所に勤めていて、一年の大半は日本丸や海王丸といった練習船の航海で家を留守にしていたからかもしれない。

 そんな風だから、ヘルベルト・フォン・カラヤンが旧フィルハーモニア管弦楽団を指揮したベートーヴェンの交響曲第5番&第6番(EMIの擬似ステレオ盤)と、クリスチャン・フェラスが弾いたヴァイオリン集の2枚のLPは、我が家のレコード棚の中では結構異色の存在であった。
 そういえば、あれは僕が小学校低学年の頃、引っ越しをしてステレオ・セットを導入した際、浜町(長崎の繁華街。今ではすっかりさびれてしまった)の楽器店兼レコード店に、この2枚のLPを両親と買いに出かけた記憶がかすかに残っている。
 残念ながら、何ゆえこの組み合わせだったのかは今となっては判然としないのだけれど、もしかしたら、クラシック音楽の中でももっともポピュラーな「運命」とヴァイオリンの美しい音色を聴くことのできるレコードを、という感じでお店の人に尋ねて薦められたのが、この2枚だったのではないか。
 まあ、理由はどうあれ、NHKで放映された『音楽の広場』やベートーヴェンの第九のライヴ録画でクラシック音楽に目醒めた僕が、いっとう最初に慣れ親しんだレコードがこの2枚であることだけは間違いない。
 今度、ドイツ・グラモフォンのザ・ベスト1200という廉価盤シリーズで再発されたクリスチャン・フェラスのヴァイオリン小品集を、基本的に国内盤は敬遠している僕が思わず購入してしまったのも、そうしたあれこれを思い出して、どうにも懐かしかったからである。

 で、愛の喜び、愛の悲しみ、ベートーヴェンの主題によるロンディーノ、ウィーン奇想曲というクライスラーのおなじみの小品と、シューマンのトロイメライ、シューベルトのアヴェ・マリア、ディニクのホラ・スタッカート、ドヴォルザークのユモレスク、マスネのタイスの瞑想曲、サン=サーンスの白鳥という粒ぞろいの選曲に、フェラスの弾く艶やかで澄んだヴァイオリンの美しい音色があいまって、何度聴いても聴き飽きない、非常に聴き心地のよいアルバムに仕上がっていると改めて感心した。
 それと、過ぎ去った時間への想いを誘うというか、ノスタルジーがこのアルバムの大きなテーマになっているだろうことも、やはり指摘しておきたい。
 1960年代末の録音だが、演奏を愉しむという意味では全く問題のない音質だし、1200円という手ごろな値段ということもあって、音楽好きには大いにお薦めしたい一枚だ。

 そうそう、ただ一点大きな不満があるとすれば、ブックレットのデザイン。
 せっかくオリジナル(国内LP)と同じ写真を使っているというのに、枠を囲って、中央下にThe Best 1200なんて無粋なロゴを入れている。
 輸入盤と違って、国内盤には帯が付いているんだから、ロゴなんてそっちですませておけばいいじゃないか。
 なんとも面白くない話だ。
posted by figarok492na at 16:32| Comment(0) | TrackBack(0) | CDレビュー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年05月12日

ブレンデルが弾いたベートーヴェンの初期ピアノ・ソナタ集

☆ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第1番〜第3番

 ピアノ独奏:アルフレッド・ブレンデル
(1994年2月/デジタル・セッション録音)
<PHILIPS>442 124-2


 一言で表わすならば、手堅い演奏ということになるか。
 ベートーヴェンにとって初期のピアノ・ソナタ、作品番号2の3曲を収めた一枚だが、アルフレッド・ブレンデルは細部まで丁寧に考え抜いた演奏で、各々のソナタの特性をきっちりと表現している。
 例えば、大好きな第1番の第1楽章に感じるじりじりとした焦燥感など激しい心の動きや、逆に一音一音磨き切った音色の美しさには欠けるものの、作品の全体像を識るという意味ではまずもって問題のない演奏ではないか。
 この三つのピアノ・ソナタになじみのない方に、特にお薦めしたい。
posted by figarok492na at 15:15| Comment(0) | TrackBack(0) | CDレビュー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年03月31日

デヴィッド・ジンマン指揮によるシューベルトの交響曲第1番&第2番

☆シューベルト:交響曲第1番&第2番

 指揮:デヴィッド・ジンマン
管弦楽:チューリヒ・トーンハレ管弦楽団
(2011年2月/デジタル・セッション録音)


 デヴィッド・ジンマンが手兵チューリヒ・トーンハレ管弦楽団と進めているシューベルトの交響曲全集の第二段として、初期の二つの交響曲、第1番と第2番の2曲が新たにリリースされたが、いやあこのCD、想像していた以上に聴き応えがあったなあ。
 もともとシューベルトの交響曲のうちでも、この第1番と第2番の2曲はそれほど好みじゃなくて、第1番の第4楽章なんて、昔のTBSのホームドラマの「奥様、お日柄よろしくて」といったのりの軽いメロディがどうにも苦手だったんだけど、ジンマン&チューリヒ・トーンハレ管にかかればなんのなんの。
 メリハリをしっかりつけて、きびきび快活に演奏してくれるんだから、全く無問題(モーマンタイ)。
 いわゆるピリオド奏法を援用したスピーディーでスマートな演奏だが、いずれの交響曲とも第2楽章では、シューベルトらしい旋律の美しさや歌唱性、叙情性がべたつかない形で適確に再現されている。
 録音には、いくぶんがじがじじがじがした感じがないでもないけれど、音楽に親しむという意味では、それほど気にならない。
 音楽を聴く愉しみに満ちあふれた一枚で、シューベルトの交響曲第1番と第2番にあんまりなじみのない方にも大いにお薦めしたい。
 そして、残りの交響曲のリリースが本当に待ち遠しい。
posted by figarok492na at 14:24| Comment(0) | TrackBack(0) | CDレビュー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年03月28日

ラルキブデッリのブラームス

☆ブラームス:弦楽6重奏曲第1番&第2番

 ラルキブデッリ
(1995年6月/デジタル・セッション録音)
<SONY>SK 68252


 15年以上も前に国内盤を手に入れて、事あるごとに聴き返してきたCDだから、今さらレビューをアップするのもなんだかなあという気持ちなのだけれど、今年に入って輸入盤を購入したことも事実なわけで、一応文章を記しておくことにする。
 ピリオド楽器による演奏ゆえ、音の厚みに不足するとか、どこか刺々しい感じがするというむきもあるかもしれないが、個人的にはピリオド楽器だからこその音の見通しのよさ、清潔感あふれる音色がとても好きだ。
 特に、第1番の第1楽章のじめじめとしない清々しいノスタルジーや、同じく第1番の第2楽章(ルイ・マル監督の『恋人たち』で効果的に使用されている)の劇性に富んで透徹した叙情性には強く心魅かれる。
 失った時間を噛み締めたくなるような一枚で、大いにお薦めしたい。
posted by figarok492na at 15:00| Comment(0) | TrackBack(0) | CDレビュー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年03月26日

バルビローリとベルリン・フィルのマーラーの交響曲第9番

☆マーラー:交響曲第9番

 指揮:ジョン・バルビローリ
管弦楽:ベルリン・フィル
(1964年1月/アナログ・ステレオ・セッション録音)
<EMI>6 78292 2


 先週、京都文化博物館のフィルムシアターで、黒澤明の『酔いどれ天使』、『野良犬』、『生きる』を三日続けて観たんだけれど、いやあ凄いっていうかなんていうか、ああだこうだと語りたいことがいっぱいあり過ぎて、結局映画記録をアップするのをやめてしまった。
 自分一人でしんねりむっつりPCの前に向かうよりも、人とああだこうだとおしゃべりしているほうが面白いんだもの、そりゃ仕方ない。

 で、ジョン・バルビローリがベルリン・フィルを指揮して録音したマーラーの交響曲第9番のCDも、黒澤作品同様、同好の仲間とああだこうだとおしゃべりしているほうが愉しい一枚ということになるのではないか。
 だいたい、前年のコンサートの出来があまりに素晴らしく、ベルリン・フィルのメンバーが録音を希望したってエピソードからして、話の種になりそうだもの。
 録音のかげんもあってか(とはいえ、リマスターのおかげで言うほど音質自体気になるわけではないが)、細部の粗さが気になる箇所があったり、より肌理が細やかな演奏や斜に構えた演奏を好むむきもあるだろうなとは思ったりもするのだけれど、作品の叙情性や諧謔性、劇性をストレートに表現した実にわかりやすく伝わりやすい演奏であることも事実だろう。
 ベルリン・フィルの面々もバルビローリの解釈によく応えているのではないか。
 非常に聴き応えのある演奏だ。
 それにしても、輸入廉価盤ゆえ、この演奏が1000円以下で手に入るというのは、本当に申し訳ないかぎりである。
posted by figarok492na at 16:09| Comment(0) | TrackBack(0) | CDレビュー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年03月07日

デュトワ&モントリオール交響楽団のメンデルスゾーン

☆メンデルスゾーン:劇音楽『夏の夜の夢』ハイライト他

 指揮:シャルル・デュトワ
管弦楽:モントリオール交響楽団
(1986年5月/デジタル・セッション録音)
<DECCA>417 541-2


 もぎぎ、の愛称で知られるNHK交響楽団の首席オーボエ奏者茂木大輔の著書『はみだしオケマン挑戦記』<中公文庫>の中に、「今回のデュトワはしごく、怖い」という一文が収められている。
 デッカ・レーベルによる、ウィーンでのプロコフィエフの交響曲第6番の録音に向けて、1997年のヨーロッパ・ツアー中、NHK交響楽団をしごきにしごくシャルル・デュトワの姿が活写されているのだが、そのデュトワがかつての手兵モントリオール交響楽団といれたメンデルスゾーンの『夏の夜の夢』ハイライト他のCDを聴きながら、ふとその茂木さんの文章のことを思い出した。

 僕自身にとっては十数年ぶりの再購入となる、シャルル・デュトワ指揮モントリオール交響楽団が演奏したメンデルスゾーンの作品集は、まさしくデュトワとモントリオール響の美質特性をよく伝える一枚ではないか。
 序曲、スケルツォ、間奏曲、夜想曲、結婚行進曲と、いわゆる一番美味しいところだけを集めた『夏の夜の夢』は、個々の音楽の魅力が適確に捉えられていて実に愉しいし、カップリングの『フィンガルの洞窟』、『美しいメルジーネの物語』、『ルイ・ブラス』の三曲の序曲も、音楽の持つ劇性がよく再現されていると思う。
 また、モントリオール交響楽団も、ソロという点でもアンサンブルという点でも均整がとれていて、粗雑さを全く感じさせない。
 と、言っても、茂木さんの一文に触れることがなければ、デュトワの猛烈なしごきなど思い起こすこともない、スマートでスピーディーで活き活きとした演奏でもあるのだけれど。

 デッカ・レーベルの初期のデジタル録音は、今となってはちょっとじがっとした感じをさせないでもないが、それでも音楽を愉しむという意味ではそれほど気にはならないだろう。
 『夏の夜の夢』に加えて、三つの序曲の、モダン楽器のオーケストラによるオーソドックスな演奏として、安心してお薦めできるCDだ。
posted by figarok492na at 17:16| Comment(0) | TrackBack(0) | CDレビュー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年03月01日

アナトール・ウゴルスキが弾いたピアノ小品集「ショートストーリーズ」

☆ショートストーリーズ(ピアノ小品集)

 独奏:アナトール・ウゴルスキ(ピアノ)
(1994年11月/デジタル・セッション録音)
<ドイツ・グラモフォン>447 105-2


 旧ソ連出身のピアニスト、アナトール・ウゴルスキの実演に接したのは、かれこれ20年近くも前になるか。
 半年間のケルン滞在中、地元WDR交響楽団の定期演奏会でブラームスのピアノ協奏曲第1番のソロを弾いたのだが(ちなみに、指揮は先年亡くなったルドルフ・バルシャイ)、その透明感を持った音色と巧みな語り口には強く心魅かれたものだ。
 加えて、アンコールのドメニコ・スカルラッティのソナタも素晴らしかった。
 グールド流の鍵盤に身体を近づけるようなスタイルだったか、はっきりと思い出せないのがもどかしいのだけれど、一風変わった姿勢から紡ぎ出される音楽の表情の豊かで美しいこと。
 ああ、もっと彼の演奏を聴いていたいと心底思わざるをえなかった。

 そんなウゴルスキの一連の録音の中で、彼の魅力特性を過不足なく知ることができるのが、今回とり上げる「ショートストーリーズ」と題されたピアノ小品集である。
(と、こう書くと、なんでそんなことを言えるんだと訝るむきもあるかもしれないが、実は前回とり上げたブラームスのピアノ協奏曲第2番同様このCDもまた、以前国内盤を所有して長い間愛聴していたのだった)

 モーツァルトのジーグと『フィガロの結婚』第3幕の婚礼の場での舞踏曲を結び合わせたブゾーニのジーグ、ボレロと変奏曲を皮切りに、リストの愛の夢第3番、ドビュッシーの月の光、シューマンのトロイメライ、ショパンの幻想即興曲といった有名曲や、スクリャービン、ラフマニノフといった自家薬籠中の小品が、「ショートストーリーズ」(掌篇小説集)というタイトルに相応しい、旋律の美しさや音楽の劇性等々の作品の肝を適確にとらえた細やかで詩情豊かな演奏で再現されていく。
 中でも、人生の深淵が陽性な音楽の隙間からのぞき見えるウェーバーの舞踏への勧誘が強く印象に残る。
 また、メンデルスゾーンのカプリッチョやウェーバーの常動曲と、速いパッセージを聴かせ場とする作品も収められているのだけれど、ここでもテクニカルな側面より、音楽の表情をいかに素早く変化させるかという表現的な部分に演奏の主眼が置かれているように、僕には感じられた。

 いずれにしても、音楽の持つ様々な表情を味わうことのできる一枚ではないか。
 人生は一回きりということを日々噛み締めている人に強くお薦めしたい。
posted by figarok492na at 22:18| Comment(0) | TrackBack(0) | CDレビュー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

久しぶりに聴いたブレンデルとアバド&ベルリン・フィルのブラームスのピアノ協奏曲第2番

☆ブラームス:ピアノ協奏曲第2番

 独奏:アルフレッド・ブレンデル(ピアノ)
 指揮:クラウディオ・アバド
管弦楽:ベルリン・フィル
(1991年9月/デジタル・セッション録音)


 実をいえばこのCD、同じ演奏者の第1番とともに今から15年ほど前に購入して、しばらくの間愛聴していたものだ。
 ただ、CDのコレクションを初出時の輸入盤(フルプライス盤)に絞り始めたことに加え、ちょうど同じ時期に京都市交響楽団の定期演奏会でこの曲をいっしょに聴いた、その頃親しくしていた女性との仲がもわもわもやもやとなってしまったこともあって、えいままよと手放してしまったのである。
 で、それからずっとこのCD、ばかりかブラームスのピアノ協奏曲第2番のCD自体、買いそびれていたのだけれど、一つには、ぐいぐい鋭く刺すような第1番の激しく強い曲調と対照的な、第2番の緩やかで穏やかな曲調にそれほど魅力を感じていなかったからかもしれない。
 今回久しぶりにブレンデルとアバド&ベルリン・フィルが演奏したこの曲を聴いて思ったのは、まずもってその緩やかで穏やかな曲調が非常にしっくりくるということだった。
 そして、ゆっくりたっぷり音を紡いでいきながら、それでいて、じっくり耳を傾ければ作曲者の様々な心の動きが透けて聴こえてくるような作品の結構が、とても興味深い。
 一方、ブレンデルとアバド&ベルリン・フィルは、非常に安定した演奏を行っていると思う。
 当然、枠をはみ出さない安定ぶりに不満を覚えるむきもあるだろうが、CDとして繰り返し聴くという意味では、やはりその安定した演奏は充分高い評価に値するのではないか。
 第1楽章のホルンや第3楽章のチェロ独奏(ゲオルク・ファウスト)など、ベルリン・フィルもすこぶる達者だし。
 ブラームスのピアノ協奏曲第2番のベーシックなコレクションとして安心してお薦めできる一枚だ。
posted by figarok492na at 16:22| Comment(0) | TrackBack(0) | CDレビュー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年02月13日

ペーテル・ヤブロンスキーが弾いたショパンのワルツ集

☆ショパン:ワルツ集(19曲)&ポロネーズ第6番「英雄」

 ピアノ:ペーテル・ヤブロンスキー
(1995年4月/デジタル・セッション録音)
<DECCA>448 645-2


 そんなに嫌いってわけでもないのに、気がつけば手元にショパンのCDがない。
 あるのは、ネルソン・フレイレが弾いた練習曲集(別れの曲とか革命が入ってるほう)&ピアノ・ソナタ第2番「葬送行進曲」<DECCA>きりで、ピアノ協奏曲もない、ピアノ・ソナタ第3番もない、スケルツォもない、バラード、マズルカ、ワルツもない、と吉幾三じゃないけれど、こんなCDラックいやだの状態がずっと続いていた。
 一つには、高校時代に愛聴していたサンソン・フランソワの名曲集のLP<東芝EMI>がずっと頭にこびりついていて、どうしても他のピアニストの演奏になじめなかったことも大きいのかもしれないが。
(ところで、フランソワやグレン・グールドでそのピアノ曲に初めて触れるってことは、志ん生でその噺に初めて触れるってことにつながりやしませんかね?)

 で、これではならじ、だって、ワルツ第1番「華麗なる大円舞曲」はあまたあるピアノ曲の中でも大好きな一曲だからと、ブックオフで中古CDが500円で出ているのをよいことに、スウェーデン出身の若手(と、言っても録音当時)ピアニスト、ペーテル・ヤブロンスキーが弾いたワルツ集(全19曲)&ポロネーズ第6番「英雄」を購入することにした。
 って、実はこのCD、ずいぶん前に国内盤をある人からもらったことがあるのだが、きちんと聴く間もあらばこそ、別のある人に譲ってしまったのだ。
(まあ、その事情に関してはあえてここでは省略)
 だから、ほぼ初めての気持ちで聴いてみたのだけれど、大好きな華麗なる大円舞曲など、フランソワのくだけた感じと対照的な、率直、ソリッド、ストレート、スマートな演奏で、正直ちょっと素っ気ないのではと思ってしまったものの、この調子ですとんすとんと曲が進んでいくこともあり、耳もたれせずに最後の英雄ポロネーズまで聴き終えることができたことも確かである。
 時折、あたりがきついなと思わなくもないが、清々しさと若々しさに満ち満ちた演奏であることに間違いはないだろう。

 演奏にぴったりなクリアな録音ともども、へっ、ショパンなんて甘っちょろい音楽がなんだい、なんて思っている方にこそお薦めしたい一枚だ。

 なお、国内盤にはボーナス・トラックとして夜想曲第20番も収められている。
posted by figarok492na at 14:39| Comment(0) | TrackBack(0) | CDレビュー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年02月10日

シュポアの序曲集

☆シュポア:序曲集(8曲)

 指揮:クリスティアン・フレーリヒ
管弦楽:ベルリン放送交響楽団
(1991年1月/デジタル・セッション録音)
<CPO>999 093-2


 先日別宮貞雄が亡くなった際、しばらしくして思い出したのが、彼が音楽をつけた本多猪四郎監督の『マタンゴ』であり、その『マタンゴ』で重要な役回りを果たしていた久保明のことだった。
 久保さん、どうしているのかなあ、弟の山内賢(僕らの世代には、日活の諸作品より『あばれはっちゃく』の担任の先生と言ったほうが通りがよいのでは)は亡くなってしまったけど。
 そう思って、ネットで調べたところ、僅かではあるが最近も出演作があるようだし、どうやら日本俳優協会の理事として俳優の地位向上に努めてもいたらしい。
(その点で、同じ東宝出身の小泉博のことを想起する)
 ただ、一時は東宝の青春スターとして将来を嘱望され、黒澤明の『蜘蛛巣城』や『椿三十郎』にも出演していた久保さんが、その後徐々に活躍の場を狭めていったことも事実で、繊細でどこか翳りのある久保さんよりも、加山雄三のような線が太くて大柄で、陽性に見える人間のほうがスターの地位を占めるのだなあと改めて感じたりもした。

 前々回CDレビューで取り上げたフェスカよりも5年前の1784年に生まれ、33年のちの1859年に亡くなったシュポアの序曲集(『マクベス』、『試練』、『アルルーナ、醜い女王』、『ファウスト』、『イェソンダ』、『山の精霊』、『ピエトロ・フォン・アバーノ』、『錬金術師』の8曲)を聴くと、どうしてもそんな久保明のことが思い起こされる。
 古典派の全盛期から初期ロマン派を経、ロマン派盛期の入口頃まで生きたシュポアの作品は、音楽の構成という意味でも、劇場感覚という意味でも全く聴き応えのないものではない。
 メロディラインだってそれなりに美しいし、曲調の激しい展開(一例を挙げると、『錬金術師』)だってよくツボが押さえられている。
 2曲目の『試練』がモーツァルトの『ドン・ジョヴァンニ』の、3曲目の『アルルーナ』が同じくモーツァルトの『魔法の笛』の、それぞれの序曲にどことなく似ているのはまあご愛嬌だろう。
 いや味ではなく、モーツァルトとシュポアのこれらの序曲をコンサートのプログラムに並べてみても面白いと思う。
 ただ、例えば近い時期に作曲されたメンデルスゾーンの『夏の夜の夢』の音楽などと比べると、どうしても物足りなさが残ってしまうことも否めない。
 言い換えれば、何かが足りていなかったり、何かが余計であったりという感じというか。
 で、結局そういった印象を与えてしまうことこそが、メンデルスゾーンとシュポアの音楽の受け入れられ方の違いにつながっているように、僕には思われてならないのだ。
 とはいえ、上述した如く、シュポアの序曲そのものの出来が悪いということではない。
 特に、ドイツの初期ロマン派作品が好きな方には安心してお薦めすることができる。
 クリスティアン・フレーリヒが指揮したベルリン放送交響楽団も手堅い演奏で、作品を愉しむという意味では、まず問題がない。

 それにしても、衝撃のラストともども『マタンゴ』の久保さんは忘れられないなあ。
 少なくとも、加山雄三にあの役柄は似合わないだろう。
posted by figarok492na at 17:03| Comment(0) | TrackBack(0) | CDレビュー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年02月03日

ブラームスのセレナード第1番&第2番

☆ブラームス:セレナード第1番&第2番

 指揮:アンドレアス・シュペリング
管弦楽:カペラ・アウグスティナ
(2005年9月/デジタル・セッション録音)
<CPO>777 300-2


 先日亡くなった玉木宏樹が、以前ツイッターでブラームスのオーケストレーションの拙さについてツイートしていたことがあった。
 さすがはオーケストレーションの妙手玉木さん(厭味じゃないよ)と感じつつ、あばたもえくぼじゃないけれど、玉木さんが指摘するような拙い部分も含めてブラームスの管弦楽作品が好きなんだよなあと改めて思ったりもした。
 そう、どこかごつごつぎくしゃくしておさまりの悪さを感じる構成だって、欲求不満突然爆発のきらいなきにしもあらずのはっちゃけはきはきステレオ全開ファインオーケー的な部分だって、しっとりしとしととウェットでリリカルな旋律同様、聴けば聴くほど魅力的に思われてならないのである。

 で、そんなブラームスの管弦楽作品のプロトタイプと言ってもよい、セレナード第1番ニ長調作品番号11と第2番イ長調作品番号16(ちなみに、この曲ではヴァイオリンが使われていない)を、アンドレアス・シュペリング指揮カペラ・アウグスティナの演奏で聴いたんだけど、上述したようなブラームスの長所と短所がよく表われていて個人的にはとても面白い一枚だった。
 大好きな第1番の第楽章は、若干もたつき気味でそれほどわくわくしなかったものの、ゆったりとした楽章ではピリオド楽器の素朴で淡々とした音色もあって、作品の持つインティメートな雰囲気や旋律の美しさが巧く表現されていたような気がする。
 その分、音質的なくぐもった感じや音楽的な野暮ったい感じが垣間見える(聴こえる)のは否定できないが、第2番の終楽章の軽やかな愉悦感など聴きどころも少なくないのではないか。
 ブラームスの二つのセレナードのファーストチョイスというよりも、二枚目、もしくは三枚目あたりにお薦めしたいCDだ。

 ところで、玉木さんだったら、このCDをどう評価しただろうな。
 ぜひともその感想を聴いてみたかったのだが。
posted by figarok492na at 16:07| Comment(0) | TrackBack(0) | CDレビュー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年02月01日

フェスカの交響曲第1番他

☆フェスカ:交響曲第1番他

 指揮:フランク・ベールマン
管弦楽:ハノーヴァーNDRフィル
(2002年2月、3月/デジタル・セッション録音)
<CPO>999 889-2


 昔、『知ってるつもり』というテレビ番組があったが、名前だけは知っているものの、改めて考えてみると、はていったいどんな人だっけと悩んでしまうことがままある。
 さしずめ、CPOレーベルを中心に、近年その作品のCD録音が少しずつ増えているフリードリヒ・エルンスト・フェスカという作曲家など、その最たるものだろう。
 HMVのサイトなどで、交響曲や室内楽曲の新譜がリリースされたことを目にしているから、フェスカの名前はずいぶん前から知っていて、ああフェスカね、などと「知ってるつもり」でいたのだけれど、実際どんな音楽の書き手なのかと問われたら、これが全く答えようがない。
 新年のJEUGIA三条本店の輸入盤半額のセールのワゴンで、今回取り上げる1枚を見つけて購入し、ようやくフェスカという人物が1789年(フランス大革命の年だ)に生まれ、ドイツ諸邦でヴァイオリニストとしても活躍し、1826年に30台の若さで亡くなったドイツの作曲家ということを知った。

 ほぼ、ベートーヴェンやウェーバー、シューベルトと同時代の作曲家ということで、その音楽も古典派から初期ロマン派のとば口に足を踏み入れかけた、といった内容となっている。
 まず、1810年から11年頃に作曲されたと考えられ、12年に初演された交響曲第1番変ホ長調作品番号6は、古典派の様式に則った四楽章形式の交響曲。
 ブックレットの解説にも記してあるが、第1楽章には同じ調性であるモーツァルトの交響曲第39番第1楽章とそっくりなテーマが登場する。
 加えて、これまた同じ調性のハイドンの交響曲第91番の第1楽章も想起させるなど、どこかで耳にしたことがあるような既視感、ならぬ既聴感は否めないが、構成的な破綻もなく、躍動感も兼ね備えていて、聴き心地のよい交響曲に仕上がっているとは思う。
 続く、作品番号41のニ長調、作品番号43のハ長調の二つの序曲も、明朗で快活な音楽で、それこそコンサートの開幕の序曲としてプログラミングされても全くおかしくないのではないか。
 後者の序曲では、ベートーヴェンの交響曲第5番とつながるようなダダダダンという音型が何度も登場するのが面白い。
 1822年に作曲された歌劇『オマールとイリア』の序曲は、冒頭のものものしい曲調がオリエンタル調であるとともに、まさしく初期ロマン派的で、もしもフェスカが長生きしていれば、いったいどのような作風に変化しただろうかと大いに興味が湧く。
 途中、モーツァルトの歌劇『ドン・ジョヴァンニ』の「地獄落ち」を思わせる旋律も表われるが、華々しく堂々たる終曲で、これまた非常に聴きやすい音楽だ。

 フランク・ベールマン指揮ハノーヴァーNDRフィルは、音楽を知るという意味でも、音楽を愉しむという意味でもあまり不満を感じさせない。
 少し粗さを覚えないでもないが、ソロ、アンサンブル、ともに満足のいく演奏である。

 「知ってるつもり」の人はもちろん、フェスカを知らない人にもお薦めしたい。
posted by figarok492na at 15:59| Comment(0) | TrackBack(0) | CDレビュー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年12月25日

ムーティ指揮ウィーン・フィルが演奏したシューベルトの交響曲第3番&第5番

☆シューベルト:交響曲第3番&第5番

 リカルド・ムーティ指揮ウィーン・フィル
(1988年/デジタル・セッション録音)

<EMI>CDC7 49850 2


 実演で接したことがないこともあってか、リカルド・ムーティという指揮者に対して、正直あまり思い入れがない。
 録音で聴くかぎり、細かいところまでいろいろ考えていそうで、それが今ひとつ効果を発揮していないというか、全体として同じ調子に聴こえるような感じがするし、逆に曲目によっては力任せとまではいかないものの、エネルギッシュでパワフルな雰囲気ばかりが目につき耳につくという結果に終わってしまっている場合すらある。
 それじゃあ、なんでそんな指揮者のCDを買うんだよと聴かれたら、大好きなシューベルトの交響曲第3番&第5番が500円(ブックオフ・中古)で出ていたからだと答えるばかりだ。

 で、それほど期待せずに聴き始めたCDだったんだけれど、これは予想に反して当たりの一枚だった。
 確かに、ムーティのそれいけずーんずーん的な前進志向はいつもの通りなのだが、それが第3番の陽性な音楽にはぴったりと合っていて、実に心地よいのだ。
(一つには、第3番がイタリア的な曲調を持っていることも大きいのかもしれない)
 一方、モーツァルトの交響曲第40番を下敷きとした思しき第5番のほうは、あとちょっと細やかさが欲しいなと感じはつつも、それが大きな不満につながるということはなかった。
 加えて、シューベルトの音楽の持つ歌謡性もけっこう巧くとらえられているのではないか。
 さらに、個々の奏者、そしてアンサンブルともにウィーン・フィルの音色が美しい。

 この二つの交響曲を一度も聴いたことがないという人にも安心してお薦めできるCDだ。
posted by figarok492na at 14:39| Comment(0) | TrackBack(0) | CDレビュー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年12月24日

ケルビーニの弦楽4重奏曲第3番&第4番

☆ケルビーニ:弦楽4重奏曲第3番&第4番

 ハウスムジーク
(1998年7月/デジタル・セッション録音)


 アンソニー・アーブラスターの『ビバ リベルタ!』<法政大学出版局>を読んでいると、フランス革命やベートーヴェンの『フィデリオ』との関係から、ケルビーニの『二日間』といった脱出劇(オペラ)について詳しく触れられていて、なるほどと思った。
 ドイツ・オーストリア圏の、それも特定の作曲家ばかりが尊重されてきた日本ではなおのこと、イタリア生まれでフランスで活躍した(それもオペラで有名な)ケルビーニの作品に接する機会は未だに多くないが、それこそあのベートーヴェンがケルビーニの音楽を高く評価していたということは、やはり留意しておく必要があるのではないか。

 で、そんなケルビーニが遺した弦楽4重奏曲6曲のうち、第3番と第4番の2曲が収められたCDを聴いてみた。
 82年という当時としては非常に長い人生のうち、その後半生にケルビーニは弦楽4重奏曲を作曲したというが、第3番、第4番ともに、確かに長年の作曲経験が活かされた、よく練れて、しかも肩肘張らない余裕のある作風だと思う。
 加えて、音楽のドラマティックな表情やアリアのような歌謡的な旋律(一例を挙げれば第4番の終楽章など)からは、ケルビーニの劇場感覚の豊かさを思い知らされる。

 ヴァイオリンのモニカ・ハジェット、パヴロ・ベズノシウク、ヴィオラのロジャー・チェイス、チェロのリチャード・レスターと、イギリスの腕扱きピリオド楽器奏者が寄り集まったハウスムジークは、録音場所のデッドな音響もあって若干塩辛い音質が気になるものの、基本的にはバランスがよくとれて、なおかつ劇性にも富んだアンサンブルを披歴していると思う。
 看板にとらわれず、なんでも聴いてみたい、と思う音楽好きにはなべてお薦めしたい一枚だ。
posted by figarok492na at 14:16| Comment(0) | TrackBack(0) | CDレビュー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年12月21日

ベートーヴェン&シューマンのピアノ4重奏曲

☆ベートーヴェン&シューマン:ピアノ4重奏曲

 エマニュエル・アックス(ピアノ)
 アイザック・スターン(ヴァイオリン)
 ハイメ・ラレード(ヴィオラ)
 ヨーヨー・マ(チェロ)
(1992年3月/デジタル・セッション録音)

<SONY>SK53339


 実演録音問わず、室内楽を愉しむにはいくつかの選択肢がある。
 例えば、かつての百万ドル・トリオのようなその名も轟く名人上手が寄り集まってここぞとばかりに挑む真剣勝負を選ぶ手もある一方、フォーレ・カルテットのような常設団体のじっくりしっかりと練れたアンサンブルの妙味を選ぶ手だってあるわけだ。
 ただし、各々一長一短あって、前者はときに我が我がの力任せな演奏に終わる危険性がなきにしもあらずだし、後者はちんまりちょこちょこと小さくまとまってしまうおそれもなくはない。

 で、今回取り上げるCDは、ちょうどその真ん中ぐらいに位置する演奏ということになるのではないだろうか。
 ヴァイオリンのスターンやチェロのマと、確かに名だたる名手であるけれど、実演録音と何度も演奏を重ねているだけに、アンサンブルとしてのまとまりも思っていた以上に悪くない。
 カップリングの二曲のうち、まず挙げるべきは躍動感にあふれたシューマンで、非常にエネルギッシュな演奏ともなっているが、清潔感に満ちた初期のベートーヴェンのインティメートな雰囲気にも僕は強く心魅かれた。
 録音もクリアで、室内楽好きには安心してお薦めできる一枚だ。
posted by figarok492na at 14:54| Comment(0) | TrackBack(0) | CDレビュー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年12月20日

コープマンが弾いたバッハのフランス組曲集

☆ヨハン・セバスティアン・バッハ:フランス組曲集

 独奏:トン・コープマン(チェンバロ)
(1994年4月/デジタル・セッション録音)

<ERATO>4509-94805-2


 以前どこかで記したことがあるけれど、どうにもヨハン・セバスティアン・バッハの音楽が苦手である。
(これが、息子のヨハン・クリスティアンの作品なら大好きというのだから、なんとものりが軽いやね)
 と、言って、何がなんでもバッハは聴かぬ槍でもてっぽでも持って来い、などと喰わず嫌いならぬ聴かず嫌いを決め込むほどには頑固じゃない。
 それで、チェンバロのトン・コープマンが弾いたバッハのフランス組曲集の中古CDがブックオフで500円で出ていたので、迷わず購入した。

 で、僅か1枚の中に全6組曲を押し込んだというだけである程度予想はついていたことだが、このCD、僕にはしっくりくるな。
 あっけらかん、と表現すれば言い過ぎかもしれないけれど、長調のみか短調の曲すら、軽い調子ですっきりすらんすらんと流れていく。
 正直、バッハとまじめに向き合いたい人たちには、あまりお薦めできないかもしれないが、個人的には何度聴いても耳にもたれないコープマンの演奏が気に入った。
 バッハを気軽に愉しみたい、それもピアノ演奏はやだ、という方には大いに推薦したい一枚だ。
posted by figarok492na at 22:03| Comment(0) | TrackBack(0) | CDレビュー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年11月25日

ジンマン&チューリヒ・トーンハレ管弦楽団による未完成交響曲他

☆シューベルト:交響曲第7(8)番「未完成」他

 指揮:デヴィッド・ジンマン
 独奏:アンドレアス・ヤンケ
管弦楽:チューリヒ・トーンハレ管弦楽団
(録音:2011年5月、9月/デジタル、セッション)

<RCA>88697953352


 わが恋の成らざるが如く、この曲もまた未完成なり。
 というウィリー・フォルスト監督の『未完成交響楽』の記憶が尾を引いて、などと言えば大げさに過ぎるかもしれないが、つい30年ほど前までは、この国でのシューベルトの未完成交響曲の人気は非常に高かった。
 中でも、ベートーヴェンの運命交響曲とのカップリングなど、LPレコードの定番の一つとなっていたほどだ。
 僕自身、高校生活三年間のうちに、カール・シューリヒト指揮ウィーン・フィル、アンドレ・クリュイタンス指揮ベルリン・フィル、マルコム・サージェント指揮ロイヤル・フィル、ヨーゼフ・クリップス指揮ウィーン音楽祭管弦楽団、ペーター・シュヴァルツ指揮東京フィルと、5種類の未完成交響曲のレコードを手に入れて、とっかえひっかえ愛聴していたんだっけ。

 それがCD化が進み、いつの間にか第8番から第7番へと番号が呼び改められる中で、未完成交響曲の人気はずいぶん陰りを見せるようになった。
 いや、今だってコンサートではよく演奏されているし、CD録音だってコンスタントに続いている、
 しかしながら、第1番から第6番の交響曲がLP時代に比べて相当身近な存在に変わった分、シューベルトの交響曲は何がなくとも未完成交響曲という状況ではなくなってきたこともまた大きな事実だろう。

 そんな中、もともと第1番と第2番のカップリングとアナウンスされていた、デヴィッド・ジンマン指揮チューリヒ・トーンハレ管弦楽団によるシューベルトの交響曲全集のリリース第一段が未完成交響曲他に変更されたと知ったとき、僕はちょっとだけ驚いた。
 そうか、売れ筋を考えるならば、未だに未完成交響曲を優先させるのだなあと。


 まあ、それはそれとして、ジンマン&チューリヒ・トーンハレ管弦楽団が演奏した交響曲第7(8)番「未完成」は、確かに彼彼女らのシューベルトの交響曲全集の劈頭を飾るに相応しい充実した内容となっているように、僕には感じられた。
 ジンマンらしくピリオド・スタイルを援用した速いテンポのきびきびした造形は予想通りだったし、第2楽章での管楽器のソロなど、これまたジンマンらしい音楽的な仕掛けにも不足していない。
 ただし、そうした点はそうした点として愉しみつつも、僕はシューベルトの内面の嵐が張り裂け出たような激しく、厳しい(録音の加減もあってか、ときに塩辛くも聴こえる)表現により心を魅かれた。
 特に、第1楽章のこれでもかと叩きつけるような強音の連続が強く印象に残った。

 一方、カップリングの独奏ヴァイオリンと管楽器のためのロンド、ポロネーズ、コンツェルトシュトゥックは、アンドレアス・ヤンケの清潔感があって伸びやかなソロもあって、交響曲との間によいコントラストを生んでいるように思う。


 いずれにしても、ジンマン&チューリヒ・トーンハレ管弦楽団によるシューベルトの交響曲全集の完成が待ち遠しい。
posted by figarok492na at 16:44| Comment(0) | TrackBack(0) | CDレビュー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年11月14日

ヌリア・リアルが歌うテレマンのオペラ・アリア集

☆テレマン:オペラ・アリア集

 独唱:ヌリア・リアル(ソプラノ)
 独奏:ユリア・シュレーダー(ヴァイオリン)
管弦楽:バーゼル室内管弦楽団

 録音:2010年10月、デジタル/セッション
(ただし、トラック14、15のみ2011年1月ライヴ録音)
<ドイツ・ハルモニアムンディ>88697922562


 あれは高校に入ってすぐの頃のことだから、もう25年以上も前のことになるか。
 FMから流れてくる、ニコラウス・アーノンクール指揮コンツェントゥス・ムジクス・ウィーンが演奏したモーツァルトのレクイエムを聴いて、僕はなんとも言えない不可思議な感情にとらわれた。
 なんじゃこの針金を擦り合せたみたいな弦楽器の音は、それに管楽器だって鼻の詰まったような粗汚い音だし。
 そう、いわゆるピリオド楽器による演奏を初めて耳にして、僕はアーノンクールの解釈云々かんぬんよりも前に、モダン楽器とのあまりの音色の違いに度肝を抜かれてしまったのだ。

 で、それからだいぶん時が経ち、慣れとはおそろしいもの(?)で、今ではピリオド楽器による演奏もピリオド・スタイルによる演奏も当たり前、バロック期はもとより、古典派、初期ロマン派ですらピリオド・スタイルじゃないとしっくりこないなあ、といった感覚の持ち主になってしまった。

 そんな人間からすれば、今回取り上げるソプラノのヌリア・リアルがヴァイオリンのユリア・シュレーダー率いるバーゼル室内管弦楽団(ピリオド、モダン、両刀使いのオーケストラだが、このアルバムではピリオド楽器を使用)の伴奏で歌ったテレマンのオペラ・アリア集は、それこそ好みのど真ん中、どストライクということになるのではないか。
 と、言うと、残念ながらこれが、そういうわけにもいかない。
 いや、CDの出来自体は、大いに推薦するに値する。
 しばしば職人芸と呼ばれるテレマンの音楽だが、このアルバムで選ばれた作品も、そうした彼の腕達者ぶりが充分に示されたものばかりだ。
 同時代のバッハの厳粛さやヘンデルの華美華麗さには及ばないものの、その分聴き手の心をくすぐる快活さ、聴き心地のよさに満ちている。
 そうしたテレマンの音楽を、透明感があって清潔感あふれたリアルと、歯切れがよくてしっかりとまとまったバーゼル室内管弦楽のアンサンブルが丁寧に再現していく。
(そうそう、楷書の技とでも呼ぶべきシュレーダー独奏によるヴァイオリン協奏曲2曲もこのCDの聴きものの一つだろう)
 まさしく、今現在のピリオド楽器による演奏、ピリオド・スタイルによる演奏の成果と評するに足る一枚と言えるのではないか。

 ただね、哀しいかな僕の声のストライクゾーンは異様なほどに狭いのである。
 そう、リアルの声や歌い口のちょっとした癖が、どうしても気にかかってしまうのだ。
 もうこれは、自分の頑なさを恨むしかあるまい。
 いやはや、なんともはや。
posted by figarok492na at 14:44| Comment(0) | TrackBack(0) | CDレビュー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年10月30日

プティボンのメランコリア

 ☆『メランコリア』

  独唱:パトリシア・プティボン
  伴奏:ジョセプ・ポンス指揮スペイン国立管弦楽団

<ドイツ・グラモフォン>477 9447


 大好きだったJUDY AND MARYの『クラシック』を聴いてため息を一つ。
 ああ、JAMにとっての旬は、やっぱりOver Drive、ドキドキ、そばかす(含むステレオ全開)、クラシック、くじら12号の頃だったんだよなあと改めて思う。
 そう、当たり前っちゃ当たり前なんだけど、食べ物に旬がある如く、ジャンルを問わず芸術芸能芸事の世界にも旬があるのだ。

 で、それじゃあ、パトリシア・プティボンの声の旬はいつだったんだろうと、彼女の新譜、『メランコリア』を聴きながら今度は考える。
 何をおっしゃるうさぎさん、プティボンの旬は今じゃん、今中じゃん、あんたバカ?
 と、呼ぶ声が聴こえてくるのもよくわかるし、芸の一語でいえばプティボンの旬はまだまだ今、それはこの『メランコリア』を聴けばよくわかる。
 でもね、声の一語にかぎっていうとどうだろう。
 これは彼女の大阪でのリサイタルを聴いたときにも感じたことだけど、プティボンの声の旬は、ウィリアム・クリスティとの一連のCD、フランスのバロック期のアリア集、そして『フレンチ・タッチ』を録音した頃にあったんじゃないかと僕は思う。
 そして、プティボン本人もそのことをわかっているから、フランス・バロック期のアリア集でドラマティックな自分の歌の特質を試し出しし、あの『フレンチ・タッチ』のはっちゃけ具合全開に到った、言い換えれば、声そのものから歌での演技を一層磨くことにシフトするに到ったのではないか。
(その意味で、欧米の一流の音楽家たちがそうであるように、プティボンには相当優秀なブレーンがついているような気がする。むろん、彼女自身賢しい人だろうとも想像がつくが)

 と、こう書くと、全てが計算づく、そんなのおもろないやん、と呼ぶ声も聴こえてきそうだが、計算がきちんとあった上で、なおかつその枠をはみ出すものがあるから愉しいわけで、『メランコリア』のトラック3。モンセルバーチェの『カンテ・ネグロ(黒人の歌)』やトラック6、ヒメネスの『タランチュラは悪い虫だ』など、プティボンの首が飛んでも歌って愉しませてみせるわの精神がよく表われている。
 特に後者の「アイ!」の地声は、全盛時の篠原ともえを思い出すほど。
 これだけでもプティボン・ファンにはたまらないはずである。

 いずれにしても、『メランコリア』(表題作につながるバクリの歌曲集『メロディアス・ドゥ・ラ・メランコリア』はプティボンのために書かれている)は、詠嘆調の歌、官能的な歌、悲歌哀歌、おもろい歌を取り揃えてイメージとしてのスペインの光と影(なぜならヴィラ=ロボスのアリアやアフロ・ブラジルの民謡も含まれているので)を醸し出すとともに、プティボンの魅力持ち味が十二分に活かされた見事なアルバムだと思う。
 ジョセプ・ポンス指揮スペイン国立管弦楽団の伴奏も堂に入っていて、歌好き音楽好きには大いにお薦めしたい一枚だ。

 それにしても、JAMのファンとなるきっかけがYUKIのオールナイトニッポンで、あの番組では彼女のお茶目さと強さ、弱さ、心の動きがよく出ていてはまってしまったが、パトリシア・プティボンなどラジオ・パーソナリティーにぴったりなんじゃないか。
 ただし、彼女の場合だと、中島みゆきのオールナイトニッポンのようになってしまう気もしないではないが。
(と、言うのは冗談。それはそれとして、プティボンのインタビューなどにも一度目を通していただければ幸いである)
posted by figarok492na at 14:21| Comment(0) | TrackBack(0) | CDレビュー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年10月14日

アバド&シカゴ響のチャイコフスキーの交響曲第1番他

☆チャイコフスキー:交響曲第1番「冬の日の幻想」、『くるみ割り人形』組曲

  指揮:クラウディオ・アバド
 管弦楽:シカゴ交響楽団

  録音:1991年3月(デジタル/セッション)

<SONY>SK48056


 チャイコフスキーの交響曲といえば、どうしても第4番、第5番、第6番「悲愴」という三つの作品を挙げざるをえまい。
 美しい旋律に劇的効果、管弦楽技法の妙と、いずれをとっても「名曲」と呼ばれるに相応しい充実した内容となっている。
 そうした後期の三つの交響曲に比べると若干分が悪いとはいえ、第1番から第3番(他にマンフレッド交響曲もあるが)の初期の三つの交響曲もなかなかどうして、捨て難い魅力が潜んでいるのではないか。
 特に、チャイコフスキーにとっては初めての交響曲となる第1番「冬の日の幻想」は、ロシア民謡を想起させる伸びやかなメロディや、ときに前のめり感はあるものの、若書きだからこその清々しい突進力にあふれている。
 当然肌理の粗さや密度の薄さを感じる部分もないではないが、個人的にはかえってそれが、左右両隣が空いた映画館で映画を観ているようなリラックスした気分につながっていて嬉しい。
 アバドとシカゴ交響楽団にはところどころ粗さや、逆に喰い足りなさを覚えたりもするのだけれど、作品の全体像を識るという意味では適切な演奏を行っていると思う。

 小気味よくってチャーミングな小序曲に始まって、華麗な花のワルツでフィナーレを迎える『くるみ割り人形』組曲は、チャイコフスキーという作曲家の魅力特性が十二分に発揮された作品。
 隅から隅まで目配りの届いた、さらなる名演を期待したくもあるが、CDで繰り返し聴くということを考えれば基本的にお薦めできる演奏だろう。
posted by figarok492na at 15:14| Comment(0) | TrackBack(0) | CDレビュー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年09月28日

ヘンゲルブロックのメンデルスゾーン&シューマン

☆メンデルスゾーン:交響曲第1番&シューマン:交響曲第4番他

 トーマス・ヘンゲルブロック指揮NDR交響楽団
<SONY>88697940022


 手兵のピリオド楽器アンサンブル、バルタザール・ノイマン・アンサンブルに留まらず、ドイッチェ・カンマー・フィル等モダン楽器オーケストラとも積極的に活動を進めてきたトーマス・ヘンゲルブロックが、(ハンブルク)NDR交響楽団の新しいシェフに選ばれた。
 メンデルスゾーンの交響曲第1番とシューマンの交響曲第4番(初稿)を並べたこのアルバムは、そうしたヘンゲルブロックとNDR響の今がストレートに表現された一枚といえる。

 すでにドイッチェ・カンマー・フィルとのシューベルトの交響曲第1番&ヴォジーシェクの交響曲<ドイツ・ハルモニアムンディ>でも示されていたように、いわゆるピリオド奏法を援用するばかりか、金管楽器など一部の楽器にはピリオド楽器を用いており、まずもってNDR響の変容ぶりに感心する。
(特に、シューマンの交響曲の第3楽章の入りのファンファーレが印象的だ)

 個人的には、冒頭から狂おしいばかりの焦燥感にあふれたメンデルスゾーンの交響曲に心魅かれた。
 と、言うより、この曲がこんなに面白く、こんなに聴きどころの豊富な作品だったのかと正直びっくりしたほどである。
 先述したようなぐいぐい激しく迫ってくるような部分には心掴まれるし、逆に、第2楽章や第4楽章の終結直前のゆっくりとした部分の抒情性、旋律の美しさも実に魅力的だ。
 そして、機械仕掛けの神があたふたと落下してくるようなラスト!
 また、同じメンデルスゾーンの弦楽8重奏曲のスケルツォ(管弦楽版)では、『夏の夜の夢』にも通じるこの作曲家ならではの飛び跳ねるような音楽の愉しさがよく表わされている。

 なお、HMV等のCD紹介ではセッション録音となっているが、曲が終わったあとに拍手とブラボーが収録されていることからもわかるように、少なくともシューマンの交響曲はライヴ録音のようだ。

 いずれにしても、ヘンゲルブロックとNDR響の今後に大いに注目し、大いに期待したい。
 メンデルスゾーンの交響曲全集の録音なんて無理かなあ。
posted by figarok492na at 13:03| Comment(0) | TrackBack(0) | CDレビュー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年05月18日

リープライヒのロッシーニの序曲集

☆ロッシーニ:序曲集

 指揮:アレクサンダー・リープライヒ
管弦楽:ミュンヘン室内管弦楽団
 録音:2010年6、7月(デジタル/セッション)
<SONY/BMG>88697771412


 日本のオーケストラともたびたび共演を果たしている、ドイツの若手指揮者アレクサンダー・リープライヒによるロッシーニの序曲集。
 いわゆるピリオド奏法を援用した演奏だが、モダン楽器のオーケストラということもあって、ピリオド楽器特有のざらついた音色とは異なり、肌理の細かい滑らかな響きとなっている。
 劇場感覚には若干不足するような気もしないではないけれど、非常にテンポ感のよいスタイリッシュな音楽造形で、繰り返し聴いてもくどさを感じない。
 ソロ、アンサンブルの両面で、ミュンヘン室内管弦楽団は本来の実力を発揮しているのではないか。
 少なくとも、リープライヒの音楽づくりとオーケストラの若々しさが、よく合っているように、個人的には思われた。
 収録曲は、『絹のきざはし』、『ブルスキーノ氏』、『幸運な錯覚』、『アルジェのイタリア女』、『イタリアのトルコ人』、『マティルデ・ディ・シャブラン』、『セビリャの理髪師』、『ウィリアム・テル』の8曲。
 大好きな『どろぼうかささぎ』や『ラ・チェネレントラ(シンデレラ)』の序曲が含まれていないのは残念だが、あまりとり上げられる機会のない作品が選ばれているのでそこは我慢しよう。
 コアなオペラ好きの方よりも、ロッシーニの音楽を「器楽的」に愉しみたい方にお薦めの一枚ではなかろうか。
posted by figarok492na at 17:45| Comment(0) | TrackBack(0) | CDレビュー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ケント・ナガノ指揮モントリオール交響楽団のベートーベンの交響曲第3番「英雄」他

☆ベートーヴェン:交響曲第3番「英雄」他

 指揮:ケント・ナガノ
管弦楽:モントリオール交響楽団
<SONY/BMG>88697857372


 あまたあふれんばかりのラーメン屋が並ぶ激戦区。
 さて、いったいあなたはそのうちのどの店を選ぶのか。
 名店ガイドでもおなじみのあの老舗か。
 それとも、麗々しい看板を掲げたこの新入りか…。

 うぬぬ、ラーメン屋とクラシック音楽のCD、それも偉大なる楽聖ベートーヴェンの交響曲のCDを比べるなどとは不敬不遜の極み、てめえは人間じゃねえやたたっ斬ってやらあ、などと目は血走り口走る原理主義的クラシック音楽愛好家の方がいらしたら本当に申し訳ないが、ケント・ナガノ指揮モントリオール交響楽団が演奏したバレエ音楽『プロメテウスの創造物』ハイライト&交響曲第3番「英雄」のCDのブックレットの表紙に掲げられた「GODS, HEROS, AND MEN(神々、英雄たち、そして人間)」というタイトルを目にしていると、どうしてもそんなことを思い起こしてしまうのだ。
 つまり、前回の『エグモント』全曲(ただし、『ザ・ジェネラル』というタイトルで物語が現代に置き換えられている)&交響曲第5番同様、あまたあふれんばかりのベートーヴェンの交響曲録音の中で、できるだけ多くのファンの耳目を集めんための営業努力の必死さというかなんというか。

 いや、「神々、英雄たち、そして人間」というテーマで、『プロメテウスの創造物』と交響曲第3番「英雄」を並べたこと自体に無理はない。
 それに、『プロメテウスの創造物』のフィナーレ(トラック5)の旋律は、まんま交響曲第3番の終楽章(トラック9)に転用されているから、音楽としての関係性も悪くない。
 ただ、ケント・ナガノとモントリオール交響楽団の演奏を聴くかぎり、ちょっとその看板は大仰すぎるんじゃないのかな、と思ってしまうことも事実なのである。

 と、言っても、個人的にはこのCDの演奏が好みに合っていないというわけではない。
 いわゆるピリオド奏法を意識した早めのテンポをとりながらも、打楽器などに過度なアクセントをつけることなく、バランスよくスリムに、しかもシンフォニックな性質もしっかりと活かしつつ音楽を造り上げるケント・ナガノの手腕には感心するし、モントリオール交響楽団もそうした指揮者の意図によく沿った演奏を行っていると思う。
 だから、繰り返し聴くというCD本来の目的から考えれば、悪くない仕上がりのアルバムだと言えるんじゃないだろうか。

 まあ、要は、そういう演奏であり録音だからこそ、あんまり神々やら英雄やら(そこには、人間宣言した現人神を加えてもいいかもしれない)についてイメージできないということで、それこそ指揮者が神であり英雄だったころの演奏を好む方たちには受け入れられないんじゃないかと思ったりするのだ。

 なお、このアルバムはエンハンスドCDとなっていて、そちらに、上述した「神々、英雄たち、そして人間」に関する朗読つきの演奏が収められている。
 ご興味ご関心がおありのむきは、ぜひご一聴のほど。
(ケント・ナガノとモントリオール交響楽団の一連の録音が、カナダ本国ではAnalektaレーベルからリリースされており、このアルバム朗読部分こみの2枚組として発売されているようである)
posted by figarok492na at 14:42| Comment(0) | TrackBack(0) | CDレビュー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年04月29日

ヨーク・ボーウェンの交響曲第1番&第2番

 ☆ボーウェン:交響曲第1番、第2番

  指揮:アンドリュー・デイヴィス
 管弦楽:BBCフィル
  録音:2010年10月(デジタル/セッション)
<CHANDOS>CHAN10670


 人に慣れ親しまれた役回りを受け継ぐということほど難しいものはない。
 これはあくまでも個人的な感じ方だと断った上でのことではあるけれど、例えば雨森雅司の声に慣れた耳からすると富田耕生のバカボンのパパはあまりにももっさく聴こえて仕方がないし、その後船越英二、高島忠夫、名古屋章(スペシャルでは神山繁、伊東四朗)とベテランどころにバトンタッチされた『暴れん坊将軍』の爺も、有島一郎演じる初代加納五郎左衛門の飄々とした中に時折かつての軽演劇時代のやってるやってる感をにじませた演技を知る者からすれば、なんともしっくりこない。
(付け加えると、『暴れん坊将軍』はシーズンを重ねるごとにレギュラー陣のキャスティングの劣化が激しくなり、どんどんアンサンブルとしての面白みに欠けていったような気が僕にはする)
 その点、イギリスのCHANDOSが、自国の作曲家のオーケストラ作品を任せるメインの指揮者に、ブライデン・トムソンやリチャード・ヒコックス(本当はヴァーノン・ハンドリーも挙げたいところだが、彼の場合、他のレーベルでの活躍もあったりしてCHANDOS印と言う感じがあまりしない)の後継者として、すでにTELDECでブリティッシュ・ライン・シリーズを成功させたアンドリュー・デイヴィスを起用したことは、パワフルで明快明晰、それでいて繊細さにも不足しないといった音楽性の継続という意味でも、非常に適切な選択だったのではないだろうか。
(ただし、TELDECの際のBBC交響楽団に対して、こちらCHANDOSでは、同じBBCでもマンチェスターに本拠を置くBBCフィルとアンドリュー・デイヴィスはコンビを組んでいるが)

 そのアンドリュー・デイヴィスとBBCフィルの演奏によるヨーク・ボーウェン(1884年〜1961年)の交響曲第1番、第2番がリリースされたので、早速聴いてみることにした。
 なお、生前の高い評価が嘘のように一時期忘却の彼方に置かれていたボーウェンだけれど、ダットンで室内楽作品がまとめて録音されたり、hyperionからピアノ・ソナタ集がリリースされるなど、近年復活の兆しを見せていて、今回の交響曲の録音は、さらにそのはずみとなるかもしれない。

 で、世界初録音という1902年に作曲された交響曲第1番ト長調作品番号4は、3楽章構成。
 冒頭の軽く飛び跳ねるような感じからして、パリーやスタンフォードに始まるイギリスの交響曲らしい作風だなあと思っていたら、あれあれ30秒から1分を過ぎるあたりになると、なんだかチャイコフスキーの『くるみ割り人形』の小序曲っぽい曲調になっているじゃないか…。
(加えて、第3楽章=トラック3の2分55秒あたりは同じくチャイコフスキーの交響曲…)
 まあ、確かに他者の影響を言い出せばほかにもいろいろと言えてきりがないのだけれど、基本的には軽快でスタイリッシュでよくまとまった、耳なじみのよい交響曲に仕上がっていると思う。
 アンドリュー・デイヴィスもそうした作品の性質をスマートに描き込んでいて、全く嫌味がない。

 一方、第1番の7年後に作曲された第2番ホ短調作品番号31(こちらは4楽章形式)は、「イギリスのラフマニノフ」という日本語カバーの惹句そのもののような冒頭のファンファーレにおおっと思うが、そのまま情念音塊一直線と突っ切らないところが、ボーウェンという人の弱さでもあり魅力でもあるのかもしれない。
 エルガーを想起させる部分もあれば、同時代の別の作曲家の作風を想起させる部分もあるが、第1番に比してオーケストラの鳴らせ方が一層こなれている点も当然指摘しておかなければなるまい。
 アンドリュー・デイヴィスとBBCフィルも、力感あふれた演奏でそうしたボーウェンの変化をよくとらえているように感じた。

 BBCフィルの録音にはいつも感じる、レンジの狭さというか音のせせこましさ、何かすっきりしない音のもどかしさは正直好みではないが、イギリス音楽愛好家や後期ロマン派好きにはご一聴をお薦めしたい一枚だ。
posted by figarok492na at 16:16| Comment(2) | TrackBack(0) | CDレビュー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年04月22日

夕べの調べ(リスト:ピアノ作品集)

 ☆夕べの調べ(リスト:ピアノ作品集)

  独奏:ネルソン・フレイレ
  録音:2011年1月(デジタル/セッション)
 <DECCA>478 2728


 聴き始めればそれなりにきちんと聴くのだけれど、自分から好んで聴こうとは思わない作曲家がいる。
 パガニーニやラフマニノフ、そして今年生誕200年を迎えたリストなど、その最たるものだろう。
 こうやって名前を挙げてみればはっきりするが、華麗なる技巧を散りばめたいわゆるヴィルトゥオーゾ・タイプの作品がどうにも僕の好みには合わないらしいのだ。
 だから、パガニーニにしてもラフマニノフにしてもリストにしても、積極的にCDを買ってはこなかった。
 例えば、パガニーニのCDは今一枚も手元にないし、ラフマニノフとてもらい物の交響曲全集があるだけ。
 そしてリストもまた同様で、ゾルタン・コチシュが独奏を務めたピアノ協奏曲集を譲って以来、一枚たりとて自分のCD棚に加えたことがなかった。

 そんな人間が、リストのピアノ作品集のCDを購入にしてみようと思ったきっかけは、ひとえにネルソン・フレイレが自分自身の愛着の深い作品を選りに選って録音するという解説文に心魅かれたからである。
 と、言うのも、僕は何年か前にたまたまフレイレが弾くショパンの練習曲集とピアノ・ソナタ第2番他<DECCA>を購入して、その誠実で丁寧な演奏に感心したことがあったからだ。

 実際、森のささやき、巡礼の年第2年『イタリア』から「ペトラルカのソネット第104番」、忘れられたワルツ第1番、ハンガリー狂詩曲第8番、バラード第2番、巡礼の年第1年『スイス』から「ワレンシュタットの湖畔で」、ハンガリー狂詩曲第3番、6つのコンソレーション、超絶技巧練習曲集から「夕べの調べ」、と並べられたプログラミングを目にするだけで、このアルバムが単なるこれ見よがしの技巧のひけらかしではないことがわかるのではないか。
 もちろん、二つのハンガリー狂詩曲や、アルバムのタイトルとなっている「夕べの調べ」など、フレイレのテクニックのあり様もしっかりと示されてはいるのだけれど、個人的にはやはり、比較的淡々としていて、しかしリストの音楽の持つ抒情性やインティメートな感覚をしっかりととらえた彼の音楽の歌わせ方にまずもって魅了された。
 中でも、6つのコンソレーションの優美で繊細な感情表現が強く印象に残った。

 いずれにしても、リスト=けばけばしい音楽、と誤解している方々にこそお薦めしたい一枚である。

 そういえば、CD初期(と、言うよりLP末期)に今は亡きホルヘ・ボレットが、リスト編曲によるシューベルトの歌曲集を録音していたが、できることならフレイレにも同じようなアルバムをつくってもらいたい。
 シューベルトとフレイレの音楽性はとても相性がよいように思うのだが。
posted by figarok492na at 15:42| Comment(0) | TrackBack(0) | CDレビュー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年04月18日

アンドレア・マルコンのモーツァルトの序曲集

☆モーツァルト:序曲集

 指揮:アンドレア・マルコン
管弦楽:ラ・チェトラ
 録音:2010年10月(デジタル/セッション)
<DG>477 9445


 アンドレア・マルコンといえば、手兵ヴェニス・バロック・オーケストラとの様々なアルバムで知られるバロック音楽のスペシャリストだが、その彼がモーツァルトの序曲集を録音したというので迷わず購入した。
 ただし、今回の録音は、スイス・バーゼルに本拠を置くピリオド楽器アンサンブル、ラ・チェトラを指揮したもので、このマルコン&ラ・チェトラが伴奏を務めたドイツのソプラノ歌手モイカ・エルトマンのモーストリー・モーツァルトというタイトルのアリア集(モーツァルトやサリエリ、パイジェッロ、ヨハン・クリスティアン・バッハやホルツバウアーらの)がちょうど同じタイミングで発売されている。

 イタリア出身のバロック系の指揮者によるモーツァルトの序曲集では、リナルド・アレッサンドリーニ指揮ノルウェー国立歌劇場管弦楽団のCD<Naïve>をすぐに思い出すのだけれど、あちらが『皇帝ティトゥスの慈悲』や『フィガロの結婚』の行進曲を埋め込むなどカップリングに工夫をこらしていたのに対し、こちらマルコン盤のほうは、『アポロとヒュアキントス』、『バスティアンとバスティエンヌ』、『偽ののろま娘』、『ポントの王ミトリダーテ』、『救われたベトゥーリア』、『アルバのアスカニオ』、『ルーチョ・シッラ』、『羊飼いの王様』、『クレタの王イドメネオ』、『後宮からの逃走』、『劇場支配人』、『フィガロの結婚』、『ドン・ジョヴァンニ』、『コジ・ファン・トゥッテ』、『魔法の笛』、『皇帝ティトゥスの慈悲』と、ほぼ作曲順(ケッヘル番号順)に序曲を並べた非常にオーソドックスなプログラミングで、例えばハッセやホルツバウアー、ヨハン・クリスティアン・バッハといった同時代の作曲家たちの影響を受けながら、いかにしてモーツァルトが劇場感覚を磨きオリジナリティを確立していったかが理解できるような仕掛けとなっている。
(『偽の女庭師』と『レ・プティ・リアン』の二つの序曲が抜けているのは本当に残念ではあるが、その代わり、『救われたベトゥーリア』や『羊飼いの王様』のような比較的珍しい序曲を聴くことができるのでよしとしたい)

 また、金管楽器やティンパニを強調したり、速いテンポで激しい感情表現を繰り広げるなど、マルコンはバロック奏法を援用した楽曲解釈を行っており、モーツァルトの序曲の持つ劇(激)性や快活さをよく示していると思う。
 個人的には、悲劇性と喜劇性が混交した『ドン・ジョヴァンニ』の序曲の目まぐるしい動きが、中でもマルコンの性質に合っているような気がして、それこそエイトマンをキャスティングした全曲盤を録音してはどうかとすら感じた。

 録音は、若干すっきりしない感じがしないでもないが、作品と演奏を愉しむという意味では、まず問題はないだろう。

 適うことならば、マルコン&ラ・チェトラのペアによるハイドンやヨハン・クリスティアン・バッハの序曲集の録音も願いたいところだ。
posted by figarok492na at 13:20| Comment(0) | TrackBack(0) | CDレビュー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年05月08日

セミ物神崇拝主義者の告白  もしくは、僕が手に入れたいCD

 物に執着し始めると際限がないとわかっているので、基本的に○○マニアだの○○コレクターだのにはならないよう常日頃から注意を払っているのだけれど(だって、財布の中身には際限があるじゃないか)、ときに物神崇拝主義者の血が騒ぎ出すことがある。
 特に、昨日みたく前々から気になっていたCDを中古で安く手に入れたあとなどでは。
 で、金に糸目をつけず、ではない、つけながら、欲しい欲しい、手に入れたいと思っているクラシック音楽のCDについて記しておきたい。
(なお、いずれも輸入盤、それもヨーロッパでリリースされた初出盤に限る。そういうところが、ちょっとコレクター的であるような…)

 まずは、バーバラ・ボニーが独唱陣に加わった、クルト・マズア指揮ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団他の演奏によるメンデルスゾーンの交響曲第2番<TELDEC>。
 ボニーのベスト・アルバムでこの曲の一部を聴いてからというもの、マズア髭むくじゃら親父や他の歌手はどうでもいいけど(いや、よくないか)、なんとか手に入れたいなと思っている一枚。
 実は、六角通にあるポコ・ア・ポコで1200円で出ているのを見つけ、ちょうど手持ちがなくて、翌日行ってみたらもう売れてしまっていたという経験があり、未だに悔しい想いをしている。

 同じ、ボニーのベスト・アルバムがきっかけとなって欲しくなったCDが、ニコラウス・アーノンクール指揮コンツェントゥス・ムジクス・ウィーン他によるモーツァルトの孤児院ミサ&エクスルターテ・イウビラーテ<同>。
 ボニーのエクスルターテ・イウビラーテといえば、トレヴァー・ピノック指揮イングリッシュ・コンサートの伴奏によるARCHIV盤もあるけど、劇場感覚に満ちたアーノンクールとコンツェントゥス・ムジクス・ウィーンの演奏もあって、このTELDEC盤を僕はとる。
 アメリカ盤なら今も現役らしいが、上述した如く、僕が欲しいのはヨーロッパ(ドイツ)製の、それも初出盤だ。

 声のCDが続くが、今は亡きルチア・ポップが歌った二枚のリヒャルト・シュトラウスのアルバムはこの10年近く、中古CDショップを探しまわって見つけられないでいるもの。
(そうそう、僕はネットショップではCDを買わないことにしているのだ。いろいろ思うところがあって)
 クラウス・テンシュテット指揮ロンドン・フィルの伴奏で4つの最後の歌を録音したEMI盤(交響詩『死と変容』がカップリングされている)と、ホルスト・シュタイン指揮バンベルク交響楽団の伴奏で『ばらの騎士』、『アラベラ』、『カプリッチョ』のハイライトを録音したEURODISC盤がそれで、結局実演に接することができなかったルチア・ポップのリヒャルト・シュトラウスをせめてCDでよいから聴いておきたいと願い続けているのだけれど。
 残念ながらそうは問屋が卸さない。

 まあ、こうやって欲しい欲しい、手に入れたいと思っているうちが、本当は一番愉しいのかも。
 なあんて書いてるようじゃ、本物の物神崇拝主義者にはなれませんな、全く。
posted by figarok492na at 16:11| Comment(0) | TrackBack(0) | CDレビュー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年07月02日

アレッサンドリーニ指揮のモーツァルトの序曲集

 ☆モーツァルト:序曲集

  リナルド・アレッサンドリーニ指揮ノルウェー国立歌劇場管弦楽団
  2008年5月、ノルウェー国立歌劇場(オスロ)/デジタル録音

  <naïve>op30479


 鮨屋やおでん屋は、玉子でその味のよしあしがわかるというが。
 さしずめ、オーケストラの演奏のよしあしは、モーツァルトの序曲でわかるんじゃないかと、僕は思う。
 なんてことを書くと、またまた好き勝手なことを言っちゃって、「執筆業ですか。大丈夫ですか?」などといらぬ気遣いをさせそうだけど。
 でも、モーツァルトの序曲の演奏を聴けば、その指揮者なりオーケストラなりの劇場感覚のあるなしや、音楽の本質のつかみ方の巧さ手際のよさ、弦楽器管楽器さらには打楽器のソロイスティックな魅力(もっと意地悪を言えば、演奏者たちの手の抜きかげん)がばっちりわかってしまうことも事実で。
 あながち的外れなことを言っているつもりはない。

 で、その伝でいけば、リナルド・アレッサンドリーニ指揮ノルウェー国立歌劇場管弦楽団によるモーツァルトの序曲集は、それこそアレッサンドリーニという指揮者やノルウェーのオペラのオーケストラの魅力や実力を十二分に示したアルバムになっていると評することができるのではないか。
 『皇帝ティトゥスの慈悲』、『フィガロの結婚』、『魔法の笛』、『後宮からの逃走』、『劇場支配人』、『クレタの王イドメネオ』、『ポントの王ミトリダーテ』、『ドン・ジョヴァンニ』、『レ・プティ・リアン』、『バスティアンとバスティエンヌ』、『コジ・ファン・トゥッテ』という選曲自体はそれほど珍しいものではないとはいえ、各々の音楽の性質をよく踏まえた構成がとられていると思うし、『ティトゥス』や『フィガロ』、『魔法の笛』などの行進曲が収められている点が実に興味深い。
(アルバムの選曲や作品の解釈については、ブックレット中のアレッサンドリーニへのインタビューが詳しい。ここでは、ニコラウス・アーノンクールの影響などにも言及されているが、「簡にして要を得た」という言葉がぴったりのインタビュー記事になっている)

 演奏は、ヴィヴァルディをはじめとしたバロック音楽を得意としてきたアレッサンドリーニだけに、打楽器の強調や弦楽器の独特なアクセントの付け方など、強弱のはっきりとした音楽づくりで、モーツァルトの序曲の持つ劇的な性格が明確に表されていると思う。
 個人的には、本来「ささいなもの、つまらないもの」という意味のあるバレエ音楽『レ・プティ・リアン』序曲(トラック16)がやけに威勢よく鳴らされていたことと、ベートーヴェンの交響曲第3番『英雄』第1楽章の第1主題に旋律がそっくりな『バスティアンとバスティエンヌ』序曲(トラック17)が、いつも以上に「それらしく」聴こえたことが面白くて仕方なかった。
 また、ノルウェー国立歌劇場管弦楽団も、いわゆるピリオド奏法の援用に対して全く無理を感じさせない表現で、これまでのアレッサンドリーニとの共同作業が充実したものであったことを推測させるに充分な演奏内容だった。

 歌劇場での録音ということもあってか、若干セッコな(乾いた)感じがしないでもないけれど、音質自体はクリアで聴きやすいものだから、作品と演奏を愉しむという意味では基本的に問題はないだろう。
 特に、ピリオド奏法によるモーツァルト演奏に親しんだ人には大いにお薦めしたい一枚だ。

 それにしても、このCDを聴くと、またぞろ彼と我との違いを痛感してしまうなあ。
 どうしても。
posted by figarok492na at 15:26| Comment(0) | TrackBack(0) | CDレビュー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年05月31日

気軽に聴けるモーツァルト

☆モーツァルト:交響曲第12番〜第14番他

 ハンス・グラーフ指揮ザルツブルク・モーツァルテウム管弦楽団
 1989年&90年、デジタル録音
 <CAPRICCIO>10 329


 ライヴじゃなくて、CDという音の缶詰だからこそしっくりくるという演奏がある。
 はじめて耳にしたときは、ううんと首を傾げ、ありゃりゃこれ外れかな、とがっくりきたりもするのだが、何度か繰り返して聴いているうちに、おやおやけっこういけるんじゃないのと耳になじんでくるようなCDの場合が、特にそうだ。
 いろいろ事情があって今は手元にない、ナクソス・レーベルから出ている、ミヒャエル・ハラスがハンガリーのアンサンブルを指揮したシューベルトの交響曲などそのわかりやすい例だけれど、今回取り上げる、ハンス・グラーフとザルツブルクのオーケストラが演奏したモーツァルトの交響曲集も、そんな一枚に加えることができると思う。

 このCD、確か、1991年のモーツァルト没後200年にあてこんで比較的短いスパンで録音された全集中の一枚ということもあって、演奏そのものは、正直すこぶる見事、というようなものではない。
 よくいえば流麗だけど、ハンス・グラーフ(アーノンクールの代役としてウィーン国立歌劇場の『魔法の笛』来日公演を指揮したり、ウィーン・フィルの定期に登場したり、NHK交響楽団の定期公演も振ったりしたことのあるこの指揮者は、今どうしているんだろう? デンマークのオーケストラのシェフをやってるように記憶しているが、これは間違いかもしれない)の解釈は、いわゆるオーソドックスな、「シンフォニックに流しておきました」の典型だし、ザルツブルク・モーツァルテウム管弦楽団も、例えば、アイヴァー・ボルトンとの最近の録音ほどには目が詰まっていない。
 でも、これが聴けばきくほど、耳になじんでくるのだからあら不思議!
 まあ、これには、モーツァルトのこの頃の音楽が、彼らしいきらめきはありつつも、まだまだ円熟の閾には達していずに、同時代のヨハン・クリスティアン・バッハの交響曲なんかと比べると、やたらと饒舌に聴こえるのと関係しているのではないだろうか。
 実際、ヤープ・テル・リンデンがピリオド楽器のオーケストラ、モーツァルト・アカデミー・アムステルダムを指揮した同じ曲の演奏を聴くと、作品の持つ仕掛けははっきりわかるんだけど、その分、煩わしさも強く感じてしまったりするもの。
 つまり、「無欲」の勝利ってわけだね。
(誰だ、たなぼた式だなんて言ってる輩は!)

 いずれにしても、個人創作誌『赤い猫』第2号の発行作業でわじゃこじゃわじゃこじゃしていた人間には、非常にありがたかった一枚。
 真のモーツァルティアンじゃなくて、音楽を気軽に愉しみたいという人たちには大推薦だ。


 なお、カップリングの交響曲第48番は歌劇『アルバのアスカニオ』序曲、交響曲第51番は歌劇『にせの女庭師』序曲によるものである。
posted by figarok492na at 14:08| Comment(0) | TrackBack(0) | CDレビュー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年04月20日

最高級の音の缶詰 イーヴォ・ポゴレリチのドメニコ・スカルラッティのソナタ集

 ☆ドメニコ・スカルラッティ:ソナタ集(15曲)

  イーヴォ・ポゴレリチ(ピアノ)
  1991年、デジタル録音
  <DG>435 855-2


 前回のCDレビューで記した如く、畢竟CDは音楽の缶詰。

で、あることに間違いはないのだけれど、同じ缶詰でも、演奏される音楽の種類によってはそれとのつき具合、なじみ具合も変わってくるわけで。
 例えば、同じクラシック音楽のくくりの中でも、演奏者しめて何人おんねんと突っ込みを入れたくなるようなマーラーの一千人の交響曲と、クラヴィコードの独奏によるバッハの器楽曲では、当然缶詰度合い、もとい自然不自然の度合いというものは大きく違ってくる。
 一つには、音楽を聴くスペースと音量の関係もあって、確かに当方のようなワンルーム暮らしの人間には、四管編成のオーケストラの録音をフルヴォリュームで聴くことなどどだい無理な話だ。
(「いいじゃん、聴きなよ!」、と呼ぶ声あり。ばあか、近所迷惑だしょうが!)
 加えて、管弦楽曲や合唱曲だと演奏者は多勢、こちらは一人と、多勢に無勢、ちょっとばかりしらけた気分にもなるが、相手が少人数の演奏ならばこちらも気がねなく音楽が愉しめるし、まして相手が一人なら、彼彼女の奏でる音楽に一対一で向き合える…。
 って、まあ、これはそれこそ気分の問題なんだけど。

 イーヴォ・ポゴレリチの弾いたドメニコ・スカルラッティのソナタ集は、まさしく一人スピーカと向かい合う人間にとっては、最高級の音の缶詰ということになる。
 イーヴォ・ポゴレリチといえば、例のショパン・コンクールでの騒動に始まり、最近の仏門にでも帰依したのかと思わされるような風貌にいたるまで、どこかミステリアスで尋常ならざるピアニストで、実際一筋縄ではいかない音楽の造り手であることも確かなのだが、一方で、彼の演奏には、楽曲の把握、テンポ感、音色等々、聴く人をひき込むに十二分な魅力に満ちあふれていることも、また否定できない事実なのである。
 このドメニコ・スカルラッティのソナタ集も、そうしたポゴレリチの魅力、個性がいかんなく発揮された一枚となっている。
 表面的にはしごく平明で、ひとつ間違うと無味乾燥にも陥りかねないドメニコ・スカルラッティのソナタだが、ポゴレリチは個々の作品が本来持っている音楽的な仕掛けや美しさを鮮やかに描き分けているのではないか。
(個人的には、一番最後に収められたカークパトリック番号380のソナタが、とても好きだ)
 何度聴いても聴き飽きない、そして聴けばきくほど発見のある一枚。
 大いにお薦めしたい。

 それにしても、タワーレコードのセールで購入したから、このCDがたったの1290円。
 いくら生とはいえ、あの×××やこの×××××が●●●●円。
 無理して不味いものを「外食」なんかするよりも、家でとびきり美味しい缶詰ですましておこうかという気になっても、やっぱり不思議じゃないよね…。
posted by figarok492na at 14:25| Comment(0) | TrackBack(0) | CDレビュー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年04月19日

畢竟、CDは音の缶詰でしかない バーンスタインのブラームス

 ☆ブラームス:交響曲第2番、大学祝典序曲

  レナード・バーンスタイン指揮ウィーン・フィル
  1982年、デジタル・ライヴ録音
  <DG>410 082-2


 ヘルベルト・フォン・カラヤン、レナード・バーンスタイン、カルロス・クライバー、カルロ・マリア・ジュリーニ、ラファエル・クーベリック。
 いずれも、僕が実演に接したことのない、そして、もしかしたら実演に接することができたかもしれない、今は亡き世界のトップクラスの指揮者たちだ。
 中でも、レナード・バーンスタインの場合は、その最後の来日となった1990年7月のロンドン交響楽団大阪公演(フェスティバルホール)のチケットはきちんと手に入れていて、あとは彼の登場を待つばかりだったのだけれど、残念ながら体調不良でキャンセルとなり、結局バーンスタインの生の演奏に触れる機会は永遠に失われてしまった。
(なお、その際の代わりの指揮者は、当時ロンドン響のシェフだったマイケル・ティルソン・トーマスだったが、確か東京公演のほうでは一部の曲を別の指揮者=大植英次?が指揮することになって、ちょっとした騒ぎになったんじゃなかったか)
 レナード・バーンスタイン指揮ウィーン・フィルの演奏したブラームスの交響曲第2番のライヴ録音を聴きながら思ったことは、まずそのことであり、音楽はやっぱり生じゃないとなあ、ということだった。

 もちろん、今回取り上げるCDに収められた、レナード・バースタインとウィーン・フィルによるブラームスの交響曲第2番もまた、作品に対するバーンスタインの心の動き、感興が忠実に表された、実に「動的」でかつ「抒情的」な、聴き応えのある演奏に仕上がっていると思う。
(ここで注意しなければならないのは、バーンスタインがしっかりとした楽曲解釈の上でこうした演奏を行っていることで、あえてエネルギッシュという言葉を使わなかったのも、それが単純に「それいけどんどん」的なものと受け取られるのが嫌だったからだ)
 また、カップリングの大学祝典序曲も、作品の持つ高揚感がはっきりと示されていて、非常に愉しい。
 加えて、ウィーン・フィルの音色の美しさを存分に味わうことができるということも、このCDの大きな魅力の一つだろう。
 ただ、だからこそ、そしてこの演奏が録音されたムジークフェラインザールの実際の響きの美しさを知っているからこそ、バーンスタインとウィーン・フィルのブラームスの交響曲第2番と大学祝典序曲を生で聴くことができていたら、とどうにももどかしい気持ちにもなるのである。

 畢竟、CDは音の缶詰でしかない。
 缶詰には缶詰なりの美味しさ、使い勝手のよさがあって、僕はたぶんこれからずっと音の缶詰に親しみ続けるだろうけれど。
 でも、やはり音楽は生があってのものだということを思い知らされるのだ、こういう充実した内容のCDを聴けば聴くほど。
posted by figarok492na at 14:57| Comment(0) | TrackBack(0) | CDレビュー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年04月18日

ギュンター・ヴァントのブラームス

 ☆ブラームス:交響曲第2番

  ギュンター・ヴァント指揮ハンブルク北ドイツ放送交響楽団
  1983年、デジタル録音
  <EMI/DHM>CDC7 47871 2


 今から15年以上昔、ちょうどヨーロッパに向かう半年ほど前、その頃はまだ出来たてだった名古屋の愛知県芸術劇場のコンサートホールで、ロリン・マゼール指揮バイエルン放送交響楽団の来日公演を聴く機会があった。
 プログラムは、ブラームスの交響曲第1番と第2番の2曲だったが、前者のいわゆるオーソドックスな音楽づくりに対して、後者の音楽の進行のギクシャクとした部分をやけに強調したそれこそマゼールらしいやり口が、とても印象に残った。
 むろん、とても印象に残っているからといって、何もそれに同調しているわけではない。
 それどころか、いくらブラームスの音楽にそうしたギクシャクとした性質がひそんでいるからといって、無理からそれを目立たせる必要もあるまいに、といつもながらのマゼールの露悪趣味に内心うんざりしたほどだった。
 ただ、ヨーロッパのケルンという街で生活し、それこそ「ヨーロッパ的」な演奏に日々触れる中で、大いに賛同はしないけれど、何ゆえマゼールがああした確信犯的な楽曲解釈に走りたがるのかという理由の一端を感じ取れたような気がしたことも事実である。
 そして、マゼールという一人の音楽家の、若き日のアン・ファン・テリブルな行き方と、現在の偽悪家的なやり口とが一つの線でつながっていることにも疑いようはないと確信するにいたった。

 今回取り上げる、ギュンター・ヴァントが手兵ハンブルク北ドイツ放送交響楽団を指揮して録音したブラームスの交響曲第2番は、そうしたマゼールの演奏の対極に位置するものと評することができる。
(本当は、コインの裏と表と評したい気持ちもあるのだけれど、ここではそこまで断定できない)
 確かに、作品の構造、構成、性質に対する把握の細かさ、その徹底ぶりは共通するものがないとは言えないが、マゼールがデフォルメにデフォルメを重ねていく、言い換えると、作品の持つ齟齬を強調するのに反し、ヴァントのほうは、作品の持つバランス、均整の美しさに大きく重心を置いている。
 だから、演奏の本質からすれば全く適当でない「自然な」という言葉を当てはめたくもなるのである。
(「自然な」という言葉が、どうして適当でないかはあえて記さない。それと、こうした言葉を使いたくなるのは、ハンブルク北ドイツ放送交響楽団が、同じドイツのオーケストラでも、ベルリン・フィルやバイエルン放送交響楽団などと比べて、よりくすんだ音色を有しているからかもしれない)
 いずれにしても、全体を一つの音のドラマとしてしっかりと造り上げたという意味でも、細部の美しさ、魅力を丁寧に描き分けたという意味でも、実によく出来た、そして聴き応えのある演奏だと僕は思う*注。
 指揮者とオーケストラのつき具合、音楽の完成度という面では、後年のRCAレーベルへのライヴ録音に譲るものの、ギュンター・ヴァントという音楽家の本質を識るという点でも、大いにお薦めしたい一枚だ。
 多少の不満は残るが、音楽そのものを愉しむという意味では、録音もまず問題はあるまい。

 余談だけれど、冒頭のバイエルン放送交響楽団のコンサートでは、指定席のチケットを持っているにもかかわらず、
「バイエルンきょうそうほうそう楽団のお客様、バイエルンきょうそうほうそう楽団のお客様」
と、わけわからんちんな言葉を絶叫する係りの青年の言うがままに4列に並ばされて、粛々とホールへ入場させられるはめになった。
 「You Know? You Know?(前回のCDレビューをご参照のほど)」と「バイエルンきょうそうほうそう楽団」とのあまりの違い!
(と、言って、僕は名古屋での出来事を全否定するつもりはない。けれど、「彼」と「我」とは大きく違う土壌にあること、そしてその中で「我」われは「彼」らのものに接している、という認識はやはり必要なのではないかと、僕は強く思うのだ)


 *注
 本当は、ヴォルフガング・サヴァリッシュ指揮ロンドン・フィルの演奏したブラームスの交響曲第2番(<EMI>CDC7 54059 2)と比較して少し詳しく記しておこうかと思ったのだが、サヴァリッシュのほうを耳にしてやめておくことにした。
 だって、一方を誉めるために他方を貶めるなんて、やっぱり芸がないもの。
posted by figarok492na at 15:23| Comment(0) | TrackBack(0) | CDレビュー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年04月17日

もしもテンシュテットが振れてたなら

 ☆ブラームス:交響曲第4番、悲劇的序曲

  ヴォルフガング・サヴァリッシュ指揮ロンドン・フィル
  1989年、1990年、デジタル録音

  <EMI>CDC7 54060 2


 今からちょうど15年前のこと、ケルン滞在中の僕は、イギリスまで数日間足を伸ばしたことがあった。
 当時ウォーリック大学に留学していた院生仲間の大塚陽子さん(現立命館大学政策科学部准教授)を訪ねることがその大きな目的だったのだけれど、他に、コヴェントガーデン・ロイヤル・オペラのマスネの『シェルバン』公演初日と、ロンドン・フィルの定期演奏会を僕はスケジュールに組み込んでもいた。
 と、言っても、今ほどネットでささっとチケット予約ができる時代ではなかったから、いずれも当日券目当ての行き当たりばったりの計画だったが、二つの公演とも難なくチケットを手に入れることができた。
 なぜなら、ロイヤル・オペラのほうはひとまず置くとして、ロンドン・フィルのほうは、予定されていたクラウス・テンシュテットが体調不良でキャンセルし、指揮者がロジャー・ノリントンに変更されていたからで、当日のチケットを下さいとロイヤル・フェスティヴァル・ホールの窓口に行ったとき、係りのおじさんから「You know? You Know?」と、そのことを何度も念押しされたほどだった。
 僕自身は、あくまでもノリントン聴きたさの選択だったが(前年の秋、ケルンで聴いたヨーロッパ室内管弦楽団とのコンサートの印象が非常に鮮烈だったので)、ロンドンにおけるテンシュテットの絶大な人気に、こちらがどう見ても「東洋人」であるということも加味して考えれば、おじさんの反応もむべなるかなで、そのときも、そらそう念押ししたなるやろな、と内心大いに納得したものである。

 で、ヴォルフガング・サヴァリッシュがロンドン・フィルを指揮したブラームスの交響曲第4番を聴きながら、ふとそんなことを思い出したのにはわけがあって、実は、ノリントンが指揮したコンサートのメインのプログラムもブラームスの交響曲第4番だったのだ。
 むろん、サヴァリッシュとノリントンの演奏には4年間の開きがあるし、だいいち、二人の音楽の造り方、楽曲の解釈には、それこそ天と地ほどの開きがある。
 ただ、それでも両者がはっきりと頭の中でつながったのは、単にオーケストラが同じロンドン・フィルだからということだけではなく、サヴァリッシュもまたテンシュテットの代役だったのではなかろうかと推測することができたからだ*注。

 演奏自体は、よくも悪くもサヴァリッシュという指揮者の持つイメージにぴったりと添った内容になっていると思う。
 作品の骨格はきちんと押さえられているし、歌うべきところもそれなり歌われているし、第1楽章や第4楽章の終わりの部分をはじめ、ドラマティックな表現にだって不足していない。
(それは、サヴァリッシュの「劇場感覚」の表れだとも言える)
 加えて、ロンドン・フィルも機能性に優れたアンサンブルを披歴している。
 レビューを書くまでに、10回以上このCDに接したが、聴けば聴くほど演奏のプラスの面が見えて(聴こえて)くる録音だと言い切ることができる。

 だが、何かが足りない、ような気もするのだ。
 ううん、なんと言ったらよいのか。
 行き方でいうと、たぶんギュンター・ヴァントに近いものがあるのだろうが、彼ほど徹底しきれていないというか。
 かと言って、テンシュテットのようなパトスは当然感じられない。
 いいところまでいってるんだけれど、そこから先がというもどかしさが残るのである、この演奏には。
 一つには、EMIの、それもアビーロード・スタジオでの録音ということに起因する音質の悪さ(それが言い過ぎなら、音質のデッドさ)が大きく影響していると言えないこともないが。

 個人的には、カップリングの悲劇的序曲のほうが、サヴァリッシュの劇場感覚が冒頭よりたっぷりと発揮されていて、聴き応えがあるように思われる。

 いずれにしても、本物の初心者、つまり初めてこの曲を聴くという人よりも、日本のプロのオーケストラによるこの曲の生の演奏(それも指揮者は、秋山和慶とか小泉和裕、円光寺雅彦、梅田俊明、小田野宏之、大友直人、十束尚宏、外山雄三といった人たち)に何度か触れたことのある人たちにお薦めしたい一枚だ。


 *注
 『レコード芸術』1998年3月号の、浅里公三によるクラウス・テンシュテットの追悼記事中に、
>(テンシュテットが)もし病魔に侵されなかったら、ベートーヴェン、シューマン、ブラームスなどの交響曲全集も完成できたろう<
という言葉がある。
 やはり、サヴァリッシュによるロンドン・フィルとのブラームスの交響曲全集は、テンシュテットの代役だったようだ。
posted by figarok492na at 15:18| Comment(0) | TrackBack(0) | CDレビュー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年03月27日

リヒャルト・シュトラウスづくし もしくは、インテルメッツォ

 レビューをアップした、アンドレ・プレヴィン指揮ウィーン・フィルの演奏によるツァラトゥストラはかく語りき&死と変容に始まって、デヴィッド・ジンマン指揮チューリヒ・トーンハレ管弦楽団の演奏によるツァラトゥストラ、ドン・ファン、ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら、ジェフリー・テイト指揮イギリス室内管弦楽団の演奏による『町人貴族』組曲&メタモルフォーゼン、アンドレ・プレヴィン指揮ウィーン・フィルとウィーン・フィル団員の演奏によるオーボエ協奏曲、ホルン協奏曲第1番、第2番、クラリネットとファゴットのための二重小協奏曲、そして今聴き始めたハインツ・ホリガー指揮ヨーロッパ室内管弦楽団管楽ソロイスツの演奏による管楽合奏のためのセレナードと、昨日から今日にかけてリヒャルト・シュトラウスの作品をずっと聴き続けている。
 まさしくリヒャルト・シュトラウスづくしといったところだが、正直、クラシック音楽を聴き始めたころは、彼の作品はなんとなく苦手だった。
 と、言うのも、なあんかオーケストラをばりばり鳴らして大仰というか、確かにオーケストレーションの凄さはわかるんだけど、それがどうしたと尋ねたくなるような感じで。
 だから、LP時代はリヒャルト・シュトラウスのレコードは一切買うことはせず、てか、CD時代になっても、ほとんどと言っていいほど彼の作品の録音には手を出すことはしなかった。
 そういえば、ウィレム・メンゲルベルクとアムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団の演奏したブラームスの交響曲第4番にドン・ファンがカップリングされてたくらいじゃないかな。
 よりにもよって、メンゲルベルクとは!

 そんなアンチ、とまではいかないけれど、非リヒャルト・シュトラウス陣営に所属していた人間が、いやいやリヒャルト・シュトラウス馬鹿にはできんぞ素晴らしいぞ、と心を入れ換える契機となったのは、大学院に入ってしばらくしてから何気なく購入した、カール・ベーム指揮バイエルン放送交響楽団他の演奏による、リヒャルト・シュトラウスの最後の舞台作品『カプリッチョ』を聴いたことで、いやあ、これには参りましたね。
 だって、こんな巧みに巧まれた音楽をものするんだもの、一流どころか超一流の作曲家と慕って間違いない、リヒャルト・シュトラウスは。

 で、それからというもの、それまで苦手にしていた英雄の生涯やツァラトゥストラはかく語りきなんかも迷わず聴くようになったわけだけれど。
 まあそれには、ヘルベルト・フォン・カラヤンとベルリン・フィル流とは異なる、すっきり見通しのよいリヒャルト・シュトラウスの演奏が、1990年代以降の潮流となってきたことも大きいんじゃないのかなと思ったりなんかしたりして。
 いずれにしても、今では立派なリヒャルト・シュトラウシアンの一人となった中瀬宏之です。

 ちなみに、上述したディスクのほかに、ルチア・ポップが歌った歌曲集、ヴォルフガング・サヴァリッシュ指揮バイエルン放送交響楽団他の演奏による『インテルメッツォ』、ベルナルト・ハイティンク指揮バイエルン放送交響楽団他の演奏による『ダフネ』などが、僕のリヒャルト・シュトラウス愛聴盤。
 残念なのは、ルチア・ポップが『ばらの騎士』と『アラベラ』のセッション録音の全曲盤を遺さなかったこと。
 これは、惜しみてなお余りあり!
(ポップが歌ったバイエルン州立歌劇場の『アラベラ』の来日公演をNHKが録画していて、実際放映もされたはずだけど、あれは発売されないのかな?)
posted by figarok492na at 15:00| Comment(0) | TrackBack(0) | CDレビュー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年03月26日

アンドレ・プレヴィンのN響首席客演指揮者就任を祝しつつ

 ☆リヒャルト・シュトラウス:交響詩『ツァラトゥストラはかく語りき』、『死と変容』

  アンドレ・プレヴィン指揮ウィーン・フィル
  1987年、デジタル録音
  <TELARC>CD-80167


 かつてコント55号で売れっ子時代の萩本欽一が小林信彦から実験映画の企画を持ちかけられて、
「本当にやりたいことは、一度、人気が落ちないとできませんね」
と、語ったことがあるという。
 小林さんの労作『テレビの黄金時代』<文春文庫>の第十三章「萩本欽一の輝ける日々」に記された一挿話だが、そういえば、僕にも似たような経験があった。
 もう15年近く前になるだろうか、名前を出せばあああの人ね、と多くの人が首肯するだろう人気作家の一人と一度だけお会いする機会があった際に、徹夜明けの仮眠後で少しくたびれた様子の氏が、
「書きたいと思うことを書くには、あまり売れ過ぎないこと」
という趣旨の言葉をぽつりと漏らしたのだった。
 まあ、ここで気をつけておかなければならないのは、一度人気が落ちるにせよ、あまり売れ過ぎないにせよ、そこそこには認められていなければならない、言い換えれば、歯牙にもかけられないどん底状態にあっては元の黙阿弥、それはそれでやりたいこともやれない苦境に追い込まれるだろうということだけれど。
 で、なぜこんなことを思い起こしたり考えたりしたかというと、アンドレ・プレヴィンがウィーン・フィルを指揮したリヒャルト・シュトラウスの交響詩『ツァラトゥストラはかく語りき』と『死と変容』を聴いているうちに、今度彼がNHK交響楽団の首席客演指揮者に就任するということを思い出したからである。
 すでにプレヴィンとN響には15年以上の関係があるわけだから、フランス・ブリュッヘンと新日本フィルの組み合わせほどには、この期に及んで感はないものの、それでもやっぱり「おそかりし由良之助」ならぬ「おそかりしプレヴィンよ」という感情、感慨を抱かざるを得なかった。

 さて、そんなアンドレ・プレヴィンにとって、彼がウィーン・フィルと組んでテラーク・レーベルに録音した一連のリヒャルト・シュトラウス作品は、プレヴィンという指揮者のピークを代表する仕事の一つと数え上げることができるのではないか。
 特に、今回取り上げるツァラトゥストラはかく語りきと死と変容が収められた一枚は、歌うべきところをよく歌わせたプレヴィンのツボを押さえた音楽づくりと、ウィーン・フィル及び録音会場であるムジークフェラインの音色の豊かさを活かした優れた録音技術とがあいまって、実に聴き心地のよい仕上がりとなっている。
(ただし、音楽のつかみ方という意味では、デヴィッド・ジンマン指揮チューリヒ・トーンハレ管弦楽団によるシャープでクリアな演奏のほうが、より作曲家自身のそれに近いような気もするが)
 ところどころ、映画音楽っぽいというか、ちょっと詰めが甘いかなと感じてしまう部分もなくはないが、「リヒャルト・シュトラウスなんだから、ただ鳴ってりゃいいじゃん! ズビン・メータ最高!!」なんてことを口にしない人たちには、安心してお薦めできるCDだと思う。

 ところで、『ぶらあぼ』4月号の小耳大耳などによると、アンドレ・プレヴィンは今後N響と自作自演を含む意欲的なプログラムを予定しているそうだ。
 それこそ、本当にやりたいことができるようになったということかな、アンドレ・プレヴィンも。
 いずれにしても、アンドレ・プレヴィンにとってNHK交響楽団との共同作業が、彼の指揮活動の集大成となることを強く期待してやまない。
(「なんで、そうなるのっ!」、と呼ぶ声あり)
posted by figarok492na at 12:55| Comment(0) | TrackBack(0) | CDレビュー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年03月25日

ピリスのシューベルト

 ☆シューベルト:ピアノ・ソナタ第21番、即興曲Op90−3、4

  マリア・ジョアン・ピリス(ピアノ)
  1985年、デジタル録音
  <ERATO>ECD88181


 皮か餡子か。
 形式か中身か。
 文芸音楽演劇その他諸々諸事万端、あらゆる表現行為というものを考える際に、しばしば問われるのが、表現者が上記のいずれに重きをなすかということである。
 なあんて、それらしい言葉で始めてみたが、これ以上続けると、朝日新聞の斎藤美奈子の文芸時評の受け売りっぽくなりそうだからやめておく。
 まあ、どっちも大事、要はバランスじゃん、というのが個人的な考えなんだけれど、言うは易く行うは難し、二兎を追って一兎も得ずの喩え通り、欲張り過ぎると、あっちもだめならこっちもだめという悲惨な結果に陥らないともかぎらない。
 というか、真っ当な表現者ならば、そこら辺、事の軽重はありつつも、自分なりにきちんと折り合いをつけているような気がするのだが。

 今回取り上げる、マリア・ジョアン・ピリスの弾いたシューベルトは、明らかに内実重視の演奏ということができるのではないか。
 もちろん、だからと言って、作品の構成に対する意識が欠如しているだとか、ましてや技術的に大きく難があると言いたい訳ではない。
 ただ、彼女の演奏を聴いていると、そうした皮の部分、外側の部分よりも、シューベルトの作品と対峙して自らの心がどう動いたのかを表現すること、自らの内面を表すことのほうに、よりピリスの関心があるように僕には感じられるのだ。
 その分、ソナタのほうでは、表現にぶれが聴き受けられるような箇所があることも事実で、僕自身は、ピリスの意識とシューベルトの音楽がぴたりと添ったり逆に離れたりする様を面白いと思ったりもしたが、堅固なシューベルトを求めるむきにはあまりしっくりとこない演奏かもしれないなと思ったりもする。
 その点、余白に収められた、二つの即興曲のほうが、よりピリスの特性、本質と合っているのではないだろうか。

 それでも、自己の深淵と向き合うということをどこか自家薬籠中のものとしてしまった感すらある最近のピリスにはない清鮮さを噛み締めることができるという意味も含めて、僕はこのCDを繰り返し聴き続けると思う。
 特に、夜更けにゆっくり聴きたい一枚だ。
posted by figarok492na at 15:05| Comment(0) | TrackBack(0) | CDレビュー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年03月22日

フォークフォークフォーク

 ☆MINO meets フォーク&ニューミュージック

  加羽沢美濃(ピアノ)
  <DENON>COCO-80811


 学生時代、学部の後輩といっしょにフォーク・グループを組んでいたことがある。
 と、言っても、ゆずだとかなんだとか、ストリートミュージシャンののりはしりを期待されるとちと困る。
 トリオ・ザ・ポンチョス・ブラザースというグループ名からも明らかなように、フォークはフォークでも、元来のフォークミュージック(民俗音楽・民衆音楽)、とまではいかないが、そこから派生して60年代を席巻した、いわゆる社会的な意識の強いフォークソングを歌うことを目的として結成されたグループで、実際、レパートリーもウィ・シャル・オーバー・カムだとかダウン・バイ・ザ・リバーサイド、風に吹かれてだとか戦争の親玉、受験生ブルースだとか自衛隊に入ろうといった、今から20年近く前のこととしても、いささか時代遅れの感は否めないものだった。
 まあ、それでも、なんとか集会だのなんとかチャリティーの集いだのに呼ばれたりして、あちらの「いか焼けたよー!」の屋台のおばちゃんの声や、こちらの「お兄ちゃんがたたいたー!」の子供の声にもまれつつ、なんやかんやと歌っていたことは、今さらながら懐かしく思い出される。

 で、今回取り上げる加羽沢美濃のピアノ・ピュア・シリーズ中の一枚、「MINO meets フォーク&ニューミュージック」は、そんなトリオ・ザ・ポンチョス・ブラザースの歌ったフォークソングとは対照的な、それこそ流行歌・ヒットナンバーと呼ぶに相応しい有名曲の数々を加羽沢さんがピアノソロにアレンジしたものである。
 基本的には、耳なじみのよさが身上、聴き流しにもってこいのCDで、くだくだくどくどといちゃもんをつける必要はないんじゃないのかな、というのが僕の正直な感想だけど、曲の性格に合わせた加羽沢さんのアレンジの妙については一言付け加えておくべきかとも思った。
(個人的には、小坂明子の『あなた』や、杏里が歌った『オリビアを聴きながら』が気に入った。逆に『時代』は、中島みゆきというより薬師丸ひろ子的な雰囲気が濃厚だ)

 そういえば、左翼の闘士としても知られた作曲家ポール・ジェフスキは、かつてダウン・バイ・ザ・リバーサイドをピアノ・ソロ用にアレンジしたが(マルク・アンドレ・アムランが弾いたハイペリオン盤を所有)、加羽沢さんにも受験生ブルースや自衛隊に入ろうを…。
 いや、彼女にそれを期待するのはあまりにも酷というものだ。
 つまるところ、よくも悪くも、そういうことなのである。

 えっ、何を言っているかわからないって?
 友よ、答えは風に舞っている。
 風に吹かれて舞っている。
posted by figarok492na at 12:48| Comment(0) | TrackBack(0) | CDレビュー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年03月07日

我を忘れた二人の男 リヒャルト・シュトラウスのドン・ファンとドン・キホーテ

 ☆リヒャルト・シュトラウス:ドン・ファン、ドン・キホーテ

  フランツ・バルトロメイ(チェロ)
  ハインリヒ・コル(ヴィオラ)
  ライナー・キュッヒル(ヴァイオリン)
  アンドレ・プレヴィン指揮
  1990年、デジタル録音
  <TELARC>CD-80262


 我を忘れる。
 と、いう言葉がある。
 俺のものは俺のもの、他人のものも俺のもの、俺は俺様俺流イエイ、俺俺オーレオーレ俺イエイ! と、いつもかつも自分は自分、俺は俺と唯我独尊我が道を行く自同律の権化のような人間は、まさしく不快の極みで、落語の粗忽長屋のサゲよろしく、「死んでる俺は俺だけど、抱いてる俺は誰だろう」とたまにはあんたも自分自身を疑ってみなさいよと教え諭してみたくもなるけれど、それはそれ。
 過ぎたるは及ばざるが如しの喩え通り、我を忘れることも度を過ぎると、これまたたいへん難儀なことになってしまう。
 忘れた我を求めて、赤の他人に頼る、金に頼る、マリファナアヘンに頼る、はては神様や宇宙人、マルクス=レーニン主義に頼る。
 もしくは我を忘れて、自分が自分でないもののように思い込む。
 それでも、ラミパスラミパスルルルルルー、と鏡の前で呪文を唱えているうちはまだ可愛げもあるが、原始女は太陽だった私は卑弥呼よおほほほほ、だとか、我は征夷大将軍足利銀行なんめり、だとか、イエスウイキャンアイアムオボモ、だとか、あっそう朕はたらふく喰ってるぞ…。
 やめておこう、我を忘れていた。
 いずれにしても、我を忘れると自分ばかりか他人にも迷惑な話だ。

 で、今回取り上げるCDは、我を忘れた二人の男に関する物語。
 かたや我を忘れて女性遍歴を繰り返し、結果自滅してしまうドン・ファンと、こなた我を忘れて自分を偉大な騎士だと思い込み、騎行ならぬ奇行、ばかばっかを繰り返すドン・キホーテの、いずれも面白うてやがてかなしきなんとやら。
 じゃない、リヒャルト・シュトラウスのドン・キホーテは少々勝手が違って、原作と同じく銀月の騎士が登場し、主人公が治ってしまうところがみそなんだけど、ここらあたりは山田由美子の『第三帝国のR・シュトラウス』<世界思想社>に詳しく記されているので、ぜひご一読のほどを。
(ちなみに、この著書は、これまでナチスの御用楽者とばかり思い込まれてきたリヒャルト・シュトラウスの抵抗者としての側面に強い光を当てていて、とても興味深い。リヒャルト・シュトラウスの愛好家を自認するならば、必読なんめり!)

 さてと、演奏演奏。
 ドン・ファンのほうは、ソフトでメロウなタッチの演奏で、いくぶんしまりのなさも感じない訳ではないが、その分ウィーン・フィルの音色の魅力やアンサンブルのあり様(よう)がよく伝わってくる仕上がりになっているとも思う。
 てか、ミア・ファローやアンネ・ゾフィー・ムターといった女性たちを奪ってきた、というより、多分に彼女たちに圧されてきたとおぼしきアンドレ・プレヴィンという一人の人間の私小説的な演奏であり、そこがなんとも「おかかなしい」by色川武大。
(できれば、あのウッディ・アレンにもこの曲の指揮をしてもらいたいものだと思ったりなんかしちゃったりして)
 一方、ドン・キホーテは、あざとさの感じられないナチュラルなタッチの演奏。
 カラヤン流儀のこれでもかこれでもかという音楽づくりに慣れたむきには少々物足りなく感じられるかもしれないが、先述した『第三帝国のR・シュトラウス』でも指摘されている第二変奏の「羊の鳴き声」をはじめとした意地悪な仕掛けをふんだんに盛り込んだ作曲そのものに比して、さっぱりすっきり即物即物的な棒振りをよしとしたリヒャルト・シュトラウスなら、「これでいいんじゃないか」、と太鼓判ではなくとも、認印ぐらいは押すような気が、僕にはする。
 それに、ここでもまたウィーン・フィルのアンサンブルは光っているし。
(そういえば、ドン・キホーテのソロはウィーン・フィルのメンバーが務めているんだった)
 いずれにしても、ドン・ファンとドン・キホーテという二つの作品をCDで繰り返して聴くという意味ではまずもって問題のない演奏で、フルプライスでも大いにお薦めしたい一枚だ。
 テラーク・レーベルだけあって、音質もおつりが出るほどクリアなものだしね。

 ところで、僕はドン・キホーテの終曲あたりを聴きながら、ふと最近の仲代達矢のことを思い出した。
 黒澤明の一連の名作を持ち出さずとも、仲代さんが日本を代表する屈指の名優であることは今さら口にすることでもあるまい。
 あの迫真の演技、鬼気迫る表情。
 でも、僕はこの人が舞台ではなく、映画やテレビドラマで見せる大柄で大仰で、心がこもり過ぎた演技に、始終息苦しさを感じてきたことも残念ながら事実なのだ。
 加えて、仲代さんにそっくりな雰囲気、というより、そっくりな眼(まなこ)の持ち主がやたらと寄り集まった無名塾の同質性、没我性に対しても、なんとも言えない息苦しさを感じてきた。
 ところが、最近NHKがらみで素の(素に近い)仲代さんの風貌容姿を観、言葉を聴く機会が増えて、ちょっとずつその印象が変わってきたのである。
 単にまじめな俺まじめな俺まじめな俺だけではなく、ちょっと以上に滑稽な俺、が滲み出ているような。
 何か心のおもしがとれてきたような。
 むろん、そこは仲代達矢のことだから、死ぬまで役者の旗自体を降ろすことはないだろうけれど、よい意味で老いを加えた仲代さんの硬軟バランスとれた演技を、僕らはこれから観ることができるのではないか。
 実に愉しみだ。

 そうそう、役者って、我であるべき部分とそうでない部分とのバランスが…。
 って、これはいったいなんの話だ。
 しまった、ドン・ファンとドン・キホーテのCDレビューだったんだ。
 ついうっかりして、またも我を忘れていた!
posted by figarok492na at 14:28| Comment(0) | TrackBack(0) | CDレビュー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年03月06日

ただより嬉しいものはない!(ヴェーグのモーツァルト2)

 ☆モーツァルト:ディヴェルティメント第15番、第7番

  シャーンドル・ヴェーグ指揮CAMS
  1988年、デジタル録音
  <CAPRICCIO>10 271


 ただより高いものはない。
 と、言うけれど、経済状況厳しい折、やっぱりただより嬉しいものはない!
 例えば、ドラッグストアでもってけドロボー、じゃないもってってお客さん的に置かれている試供品の栄養ドリンク、ちっちゃなねり歯磨きエトセトラエトセトラ。
 例えば、書店のレジ下に山積みされている出版社発行の小雑誌や、ぴあステーションのカウンター脇に山積みにされている『ぶらあぼ』。
 そして、京都は寺町通にある中古CDショップ、Avisで、傷が入っているからエラーが出るかもしれないので「0円」のシールが貼ってあるクラシック音楽の中古のCD。

 で、Avisではこれまでも、カラヤン&ベルリン・フィルの演奏したリヒャルト・シュトラウスのツァラトゥストラはかく語りきとドン・ファン、シャーンドル・ヴェーグ&カメラータ・アカデミカ・デス・モーツァルテウムス・ザルツブルク(以下、CAMSと略)の演奏したモーツァルトのカッサシオン第1番と第2番をありがたくちょうだいしてきたけれど、今回取り上げるCDはその第三弾で、前回と同じくシャーンドル・ヴェーグの指揮した一連のモーツァルト・シリーズのこちらは第5集、ディヴェルティメント第15番と第7番が収められた一枚である。
(ちなみに、これまでの2枚同様、今回のCDにエラーは起こらず全く無問題=モーマンタイ。ありがとうございます!)

 すでにシャーンドル・ヴェーグ&CAMSに関しては、以前のCDレビューである程度詳しく触れているので、ここでは省略。
 前回のCDではアンサンブルの粗さを云々かんぬんしたが、弦楽器とホルンを中心にした編成の作品ということもあってか、今回はその点でそれほど不満を感じることはなかった。
 いわゆるオーソドックスな解釈のモーツァルトで、特に第15番のアダージョなどではロマンティックで濃密な雰囲気がたっぷりとかもし出されている。
 ただし、重ったるくてべとべとの演奏かというとそうではなくて、硬からず柔らかからずの、バランスが巧くとれた演奏になっていると思う。
 また、音楽的に均質というか、音楽的なまとまりのよくとれたアンサンブルそのものの魅力をたっぷりと愉しむことのできる演奏に仕上がっているとも思う。
 ピリオド・スタイルのモーツァルト演奏でないと物足りないという方以外には、安心してお薦めできる一枚だ。
 聴いていて、全く疲れないモーツァルトですよ。

 それにしても、やっぱりただより嬉しいものはない!
posted by figarok492na at 21:48| Comment(0) | TrackBack(0) | CDレビュー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年02月28日

ボニーが歌ったオペレッタ・アルバム

 ☆オペレッタ・アルバム

  バーバラ・ボニー(ソプラノ)
  ロナルド・シュナイダー(ピアノ)
  2002年、デジタル録音
  <DECCA>473 473-2


 あとから来たのに追い越され、泣くのがいやならさあ歩け。
 という、高度経済成長期根性丸出しの言葉は、おなじみ『水戸黄門』の主題歌「ああ人生に涙あり」の一節だ。
 と、言って、なにも藍川由美が歌った木下忠司作品集のレビューをここで始めようというわけじゃない。
 これはいわゆる話のマクラのマクラ、序の口序の入りである。
 で、この一節をよくよく考えてみれば、追われる側もそうだけど、あとから歩いている側も先行く者を追い越そうと必死ということで、これまた相当大変ということになる。

 そういえば、大塚愛がデビューしたときは、なんだこのaikoのばったもんはと鼻白み、aikoが異性との恋や愛を歌いながら同性に目を向けているのに比べて、大塚愛(を売ろうとする側)が同性に目を向けたふりをしながらちらちらと異性に視線をやっているように見えて仕方のない大人の男のやり口をやっていることにうんざりしたものだけれど、その後彼女がなんとか自分の位置を保とうと歌番組であくせくばたつく姿を観るに及んで、ああ、この子も頑張っているんだなあと後行者の苦しみを覚えるようになった。
(意識無意識は別にして、人としての計算がよく働いているのは、明らかにaikoのほうだろう、たぶん、きっと)

 その点、先行者と後行者の関係は厳然とあったとしても、また詰める革袋は似通ったものだったとしても、本来の個性の違いが明瞭でありさえすれば、逃げ切るだの、追い越すだのとはなから争う必要はない。
 ルチア・ポップとバーバラ・ボニーとの関係は、そのよい見本ではないか。
 確かに、透明感のある声質の持ったソプラノ歌手という意味で、両者は共通していて、実際今回取り上げるオペレッタ・アルバムをはじめ、ボニー(を売ろうとする側)がルチア・ポップを意識したとおぼしきCDを少なからず録音していることは事実である。
 けれど、かなたルチア・ポップは磨かれてなめされたような声が特徴だし、こなたバーバラ・ボニーはどちらかといえばナチュラルで柔らかな歌い口が魅力の歌手であって、どちらが上でどちらが下だなどと取り立てて軍配を挙げる必要もないだろう。
 それこそ、なすにまかせよ、ではなく好みにまかせよだ。

 さて、このバーバラ・ボニーのオペレッタ・アルバムだけど。
 正直言って、21世紀に入ってからのボニーの声の衰えは残念ながらいかんともし難い。
 むろん、凡百の歌い手たちに比較すれば、まだまだ澄んで伸びる歌声を披歴しているのだが、いかんせん若い頃の彼女の歌声を承知している分(僕は、CDばかりでなく、ジョン・エリオット・ガーディナーとハンブルク北ドイツ放送交響楽団のマーラーの交響曲第4番で、生の彼女の歌声に接しているのだ)、高音部その他、一層辛く感じられてしまうのである。
 それでも、『メリー・ウィドウ』のヴィリアの歌(トラック14)や、リート調の同じくレハールの「野ばら」(トラック15)、ツェラーの「桜の花の咲いた頃」(トラック6)などでは、彼女の声や歌唱の魅力を存分に味わえるし、おなじみアンネン・ポルカの旋律にのせたヨハン・シュトラウスの「ほろ酔い気分」(トラック8)では、とうのたち具合の面白さを愉しむことができるので、購入してよかったとは思っているが。
 それでも、このアルバムが少なくとも3、4年は早く録音されていればという想いはどうしても消えない。

 それにしても。
 歩き続けようが、立ち止まろうが、生ある者は必ず老い、そして死んでいくのだ。
 ピアノ伴奏によるこのアルバムを聴いていると、一見華美で賑やかに見えるオペレッタの世界の裏には、そうした人生への哀感や諦念が詰まっているような気がして、僕には仕方がない。
posted by figarok492na at 14:55| Comment(0) | TrackBack(0) | CDレビュー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

アルテミス・カルテットのドヴォルザークとヤナーチェク

 ☆ドヴォルザーク&ヤナーチェク:弦楽4重奏曲集

  アルテミス・カルテット
  2003、04年、デジタル録音
  <VIRGIN>0946 353399 2 5


 ADOMIRATION(称賛)とは、他人が自分に似ていることを馬鹿ていねいに評価すること、とは、町田康の『夫婦茶碗』の解説で筒井康隆が記した言葉、ではなく、引用したビアスの『悪魔の辞典』中の一項目だが、アルテミス・カルテットの演奏したドヴォルザークの弦楽4重奏曲第13番を聴きながら、僕はふとそのことを思い出した。
 もちろん、他人が自分に似ているからといって、誰もが相手を称賛するわけではない。
 あまりに似すぎていて近親憎悪が発生、というケースはざらにあるし、場合によっては、彼と我との類似をたびたび指摘されても、「そんなバナナ」などと本気で応える無意識過剰の人間だって中にはいないともかぎらない。
 結局、似たものそっくりさんを称賛できるというのは、相手に対する尊敬の念か優越感のどちらか、もしくはその両方が、意識無意識に称賛する側の人間に存在するのではないか。
 果たして、ブラームスがドヴォルザークを高く評価した大きな理由というのは、そのうちのいずれに当てはまるのだろう。
 もしかしたらブラームスは、ドヴォルザークの似ている部分ばかりではなく、似て非なるところにも充分目をやっていたのかもしれないが。
 けれど、このアルテミス・カルテットの演奏を聴けば、やっぱりドヴォルザークってブラームスの影響が大きいんだなとは思ってしまう。
 ただし、だからと言って、僕はドヴォルザークの弦楽4重奏曲第13番がブラームスの亜流、エピゴーネンなどと評するつもりは毛頭ない。
 それどころか、有名な第12番「アメリカ」に比してポピュラリティには欠けるものの、この作品にも、いわゆるボヘミアの郷愁を想起させる美しくてノスタルジーに富んだメロディや、ドヴォルザークの粘っこくてどろどろとした性質気質がそこここにうかがえる。
 それに、先行者であるアルバン・ベルク・カルテットの技と覇気、ハーゲン・カルテットの技と鬼気に対して、技と熱気のアルテミス・カルテットだけに、それこそ切れば血が噴き出るような演奏に仕上がっているとも思う。
 だが、それでもなお、作品の構成や骨格の確かさがはっきりと示されていることに間違いはなく、僕はそこに先述したようなブラームスとの関係性を強く感じてしまうのだ。
(もう一ついえば、内面の粘っこいものやどろどろとしたものもまた、実はブラームスと相通じ合うものではないかと僕は思ったりもするが)
 一方、ヤナーチェクの弦楽4重奏曲第2番「ないしょの手紙」は、老いた作曲家のどうにもならない感情が音楽としてしたためられた作品だが、アルテミス・カルテットはそうした作品の持つ情熱や若さを力一杯表現しきっている。
 ドヴォルザーク同様、これまた民族性や民俗性を求めるむきには喰い足りなさや味気なさが残るかもしれないが、個人的には音楽の普遍的な本質をとらえた充分十二分に納得のいく演奏だと思う。
 いずれにしても、弦楽4重奏曲好き、室内楽好きには大いに推薦したい。

 って、僕とアルテミス・カルテットの造り出した音楽って、どこか似ているんだろうか?
posted by figarok492na at 12:36| Comment(0) | TrackBack(0) | CDレビュー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年02月27日

実に音楽的なベルリオーズの序曲集

 ☆ベルリオーズ:序曲集

  コリン・デイヴィス指揮ザクセン・シュターツカペレ・ドレスデン
  1997年、デジタル録音
  <RCA>09026-68790-2


 ドイツ文学者で、音楽評論家としても知られる岩下眞好の熱烈な賞賛と熱心な支持にもかかわらず、この国におけるコリン・デイヴィスという指揮者の評価は、今一つ高まらない。
 もちろん、クラシック音楽好き、特にオーケストラ音楽好きの人間ならば、ベルリオーズやシベリウスのスペシャリストとしてのコリン・デイヴィスの名前は一応記憶にあるはずで、最近のリストラ策でメジャー・レーベルからの新譜リリースはぱったり絶えてしまったけれど、現在でもロンドン交響楽団やザクセン・シュターツカペレ・ドレスデンとのライヴ録音は定期的に発売されている。
 それでも、あれやこれやの巨匠連と肩を並べるにいたっていないのは、もしかしたら、まさしくジェントルオメという言葉がぴったりと合うそのイギリス紳士的な風貌が災いしているのではないかとついつい思ってしまいたくなる。
 僕自身は、バイエルン放送交響楽団と録音したベートーヴェンの交響曲第9番だけはしっくりとこなかったものの、大阪のザ・シンフォニーホールとケルンのフィルハーモニーで聴いたザクセン・シュターツカペレ・ドレスデンとのコンサートや、ウィーン国立歌劇場で観聴きしたモーツァルトの『クレタの王イドメネオ』という、都合三度の実演全てにおいて、「よい音楽に接することができた」と大いに満足することができた。
 中でも、ブラームスの交響曲を中心とした二回のコンサートは、軽重のバランスのよくとれたザクセン・シュターツカペレ・ドレスデンの魅力も加味されて、よい意味で安定感抜群の内容だったし、ワーグナーばりのジークフリート・イェルザレムの気張ったタイトルロールには辟易したとはいえ、『イドメネオ』も、コリン・デイヴィスの劇場感覚と音楽把握の確かさが存分に示された公演だったように覚えている。

 今回取り上げるベルリオーズの序曲集も、先述したようなコリン・デイヴィスとザクセン・シュターツカペレ・ドレスデンとののコンビネーションのよさが十二分に発揮された録音となっているのではないだろうか。
 このCDには、有名なローマの謝肉祭とちょっと有名な海賊のほか、宗教裁判官、ウェーヴァリー、リア王、『ベアトリスとベネディクト』、『ベンヴェヌート・チェッリーニ』の計8曲の序曲が収められているが、音楽そのものはどれをとっても同工異曲、というか、ベルリオーズの音楽に対する根源的発想のヴァリエーションで、よくも悪くも極端には変わり映えがするものではない。
 ただ、そうした作品全てに通底するベルリオーズの個性や劇性を適切に押さえつつも、コリン・デイヴィスは個々の作品の性質の違いや、一個の作品内の表情の変化を巧みに描き分けていると評することができる。
 また、例えばピリオド・スタイルの雄、ロジャー・ノリントンとその手兵ロンドン・クラシカル・プレイヤーズの演奏した宗教裁判官の録音を聴けば、ピリオド楽器のすっきりとした響きの中からベルリオーズの持つ毒っ気のようなものが滲み出てくるように感じられるのに比して、コリン・デイヴィスのアルバムでは、ベルリオーズのクラシック性(古典派的、と記すよりも、あえてこういう言葉を使ってみたくなる)がよりはっきりと表れているように思える。
 そして、そこに、音色という意味でも、アンサンブルという意味でも非常に「音楽的」なザクセン・シュターツカペレ・ドレスデンの存在が大きく貢献していることは、改めて言うまでもあるまい。
 ベルリオーズの序曲を繰り返して愉しみたいという方には、フルプライスでも安心してお薦めできる一枚である。

 そうそう、このCDの最大のネックは、RCAレーベルのつくり物めいてざらついた録音だと、僕は考える。
 個人的には、聴いているうちにだいぶん慣れてきたけれど、それでも、ぺらくてざらくて薄い音だなという印象はどうしても払拭しきれていない。
 ライナーやミュンシュの古いステレオ録音から、マイケル・ティルソン・トーマスの新しい録音にいたるまで、概してRCAレーベルの音質には親しみが持てないでいるが、せっかくソニー・クラシカルといっしょになったのだから、そろそろ悪しき伝統から脱却してはもらえないものか。
posted by figarok492na at 21:05| Comment(0) | TrackBack(0) | CDレビュー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年02月21日

ピリオド・スタイルのムローヴァ

 ☆モーツァルト:ヴァイオリン協奏曲第3番、第4番、第1番

  ヴィクトリア・ムローヴァ(ヴァイオリン、指揮)
  エイジ・オブ・エンライトゥンメント管弦楽団
  2001年、デジタル録音
  <PHILIPS>470 292-2


 マルコン&ヴェニス・バロック・オーケストラやアントニーニ&イル・ジャルディーノ・アルモニコとの競演など一路ピリオド路線をひた走る最近のヴィクトリア・ムローヴァだが、今回取り上げるモーツァルトのヴァイオリン協奏曲集は、そうしたムローヴァのピリオド路線のはしりとなった一枚と言えるだろう。
 いわゆるオーソドックスな楽曲解釈に添った部分がない訳ではないし、時折モーツァルトの音楽の持つ「いびつ」さが聴き受けられる部分がない訳でもないが、基本的には線が鋭くて流れのよいムローヴァのソロと、エイジ・オブ・エンライトゥンメント管弦楽団の達者な伴奏とで、耳馴染みのよい演奏になっていると思う。
 僕自身は、ジュージヤ三条本店のセールで、税込999円で入手することができたが、ピリオド楽器やピリオド・スタイルの演奏に違和感を持たれない方には、フルプライス2000円程度でもお薦めできる一枚だ。
posted by figarok492na at 14:17| Comment(0) | TrackBack(0) | CDレビュー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする