2024年01月26日

今日聴いた音楽から@(2024/1/26)

 1982年にポーランドで生まれたクシシュトフ・ウルバンスキは、現在若手中堅の指揮者の中で注目株の一人だ。
 東京交響楽団の首席客演指揮者を務めたことで、日本のクラシック音楽愛好家にもよく知られるようになった。
 そのウルバンスキが、首席客演指揮者時代にNDRエルプ・フィルとライヴ録音したストラヴィンスキーのバレエ音楽『春の祭典』<α>を聴いた。
 実にバレエ的な演奏だと思う瞬間が多々あった。
 いや、バレエ音楽なのだからバレエ的もないものだけれど、目の前でダンサーたちが踊っている姿が浮かんでくるような場面が何度もあったのだ。
 全体的に重さを感じることもなくはなかったが、第1部終盤の追い込みではぐっとテンポを速めていたし、逆に第2部の終わりではあえてゆっくりとしたテンポをとることでこの作品の持つ暴力性をあぶり出してもいた。
 NDRエルプ・フィルも精度の高い演奏でウルバンスキの音楽づくりにこたえていた。
 演奏会場のハンブルク・エルプ・フィルハーモニーの音響特性も加わってか、若干音はもやもやとした感じになる。
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2024年01月25日

今日聴いた音楽から(2024/1/25)

 クラリネット、ヴィオラ、ピアノによる3重奏団、フィロン・トリオが演奏したブルッフの8つの小品<ANALEKTA>を聴いた。
 クラリネット、ヴィオラにピアノとは渋さも渋しといった組み合わせだが、低音域中音域高音域を満遍なく使って渋さ一辺倒ではない。
 1838年に生まれて1920年に亡くなったブルッフは、メンデルスゾーンやシューマン、ブラームスといったドイツ・ロマン派盛期の流れを汲む反時代的な作品を書き続けた人物で、1910年に作曲されたにも関わらず、この8つの小品も調性のはっきりした耳なじみのよい音楽となっている。
 ノスタルジックであったり、諧謔的であったり、悲哀にとらわれていたり、軽快だったりとバラエティにも富んでおり、全篇聴き飽きることはなかった。
 カナダ、イギリス、ドイツ出身者が集まったフィロン・トリオは、個々の技量もよく、アンサンブルとしてのまとまりも実によい。
 作品演奏ともども充実した内容だ。
 ただ、1枚のCDにこれ1曲で33分程度というのはどうだろう?
 サブスク(amazon music unlimited)ゆえ、僕自身はそういった不満は感じはしないものの。
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2024年01月24日

今日聴いた音楽からB(2024/1/24)

 ルチアーノ・タランティーノが弾いたピアッティの無伴奏チェロのための12の奇想曲を<BRILLIANT>聴いた。
 ピアッティは1822年に生まれ1901年に亡くなったイタリアのチェロ奏者。
 パガニーニの24の奇想曲はもちろんのこと、テレマンの無伴奏フルートのための12の幻想曲、そしてヨハン・セバスティアン・バッハの無伴奏チェロ組曲を意識したと思しき構成の作品だ。
 同時に2つの音が鳴る重音奏法など、様々な、かつ高度な技巧が試された小品集で、言葉自体はわかりやすいのだが、急に脱線脱臼したりしてとらえどころのない、同時代のイタリアというより南欧の作家が書いた短い散文を読んでいるような不思議な気持ちになる。
 タランティーノのサイトなどの写真を見る限りエンドピンのついたチェロを手にしているが、もしかしたら弦はガット弦を使用しているかもしれない。
 上述した重音奏法もあって、けっこう塩辛い音がする。
 なんとなく玄妙な雰囲気のする音楽だ。
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今日聴いた音楽からA(2024/1/24)

 マイケル・アレクサンダー・ウィレンス率いるピリオド楽器オーケストラ、ケルン・アカデミーが演奏したモーツァルトの序曲集<BIS>を聴いた。
 収録されているのは、『救われたベトゥーリア』、『イドメネオ』、『フィガロの結婚』、『後宮からの逃走』、『コジ・ファン・トゥッテ』、『劇場支配人』、『ポントの王ミトリダーテ』、『偽の女庭師』、『ドン・ジョヴァンニ』、『ルチオ・シッラ』、『皇帝ティートの慈悲』、『魔笛』の12の序曲。
 1993年の晩夏から1994年の初春まで滞在したケルンは古楽器、ピリオド楽器演奏のメッカの一つだったが、ケルン・アカデミーの結成は1996年なため、あいにく実演には接しそびれたままだ。
 個々の技量も確かだしアンサンブルもよくまとまっている一方、ウィレンスとケルン・アカデミーは予想通り歯切れがよくてスピーディー、加えて荒々しい音も辞さないパワフルな演奏で、先日聴いたブルーノ・ワルターとコロンビア交響楽団の演奏が実に穏やかで古風に思えてきた。
 実演録音問わず、このコンビのオペラ演奏を聴いていないからその劇場感覚について判断するのはひとまず控えるものの、それこそ「革命劇」のはじまりに相応しい『フィガロの結婚』序曲はじめ、そのままオペラが始まらないのがどうにも残念なわくわくとする音楽を聴かせてくれる。
 ちなみにこの場合の劇場感覚とは、オペラ演奏の多寡に基づき、オペラのだれ場見(聴か)せ場を見極めて音楽の持つドラマ性を的確に再現することと、上演当日のオーケストラ、舞台上、客席にいたる劇場の状態にあわせて臨機応変に対応すること、そういった劇と劇場全体に通じた能力と考えてもらえればよい。
 演奏そのものではなくアルバムのコンセプトに若干疑問や不満があるとすれば、ある程度は予想はつくものの曲の順番についてあまり明確でないこと。
 収録時間はまだ十分に残っているにも関わらず、『アポロンとヒュアキントス』、『バスティアンとバスティエンヌ』、『偽ののろま娘』、『アルバのアスカニオ』、『羊飼いの王様』、バレエ音楽『レ・プティ・リアン』の序曲が除外されていること。
 それから、『偽の女庭師』序曲が最初の軽快な部分に戻らず中間部で終わってしまっていることだろうか。
 繰り返しになるが、演奏そのものは十分十二分に愉しめる。
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今日聴いた音楽から@(2024/1/24)

 グイド・カンテッリは1920年生まれのイタリアの指揮者。
 第二次世界大戦に敗戦後、同じイタリア出身の巨匠アルトゥーロ・トスカニーニに見出され、彼の若き後継者と目されていたが、1956年に惜しくも飛行機事故で命を奪われた。
 今回聴いたフィルハーモニア管弦楽団とのシューベルトの交響曲第7番「未完成」<WARENER>は、1955年のステレオ録音だから、カンテッリにとっては最晩年の録音にあたる。
 上述したように、トスカニーニの流れを汲む指揮者だけに、速いテンポで勢いよく前進していくものと思っていたが、予想は大きく外れた。
 どちらかといえば、トスカニーニよりも昨夜聴いたフルトヴェングラーのほうに解釈の近さを感じるほどだ。
 ただし、フルトヴェングラーが深淵と諦念の深淵とより向き合っているとすれば、カンテッリの場合は諦念のほうに一層傾いているが。
 そして、シューベルトの音楽の持つ歌謡性を的確にとらえて、旋律をよく歌わせる。
 もちろん、過剰な感情移入は避けつつ。
 そのような音楽づくりゆえ、第2楽章がことのほか美しい。
 管楽器の受け渡しのあと、急に強い音になる箇所でもカンテッリの演奏は耳を鋭く刺さない。
 これは第1楽章にも共通していることだが、人を傷つけたくないし傷つきたくないといった宥めるような演奏で、まるで宗教曲のようだとまで思った。
 もしカンテッリが早世しなかったなら、彼はどのような演奏を行っていただろう。
 どうしてもそのことを考えてしまう。
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2024年01月23日

今日聴いた音楽から(2024/1/23)

 クラシック音楽を聴き始めた1980年代半ばはまだ、教養主義の残滓というのかクラシック音楽の有名どころはある程度押さえておくのが常識といった感じが残っていた。
 百科事典と同じように、クラシックのLPやCDの名曲全集を買い揃える家庭もそこそこあったのではないか。
 シューベルトの交響曲第8番「未完成」、いわゆる未完成交響曲など、名曲中の名曲の一つとして、当然そうした全集に含まれていた。
 で、そうした常識がもろくも崩れ去った今、しかも番号まで第7番と呼ばれるようになった未完成交響曲の音楽的位置というものは、大きく変わってしまった。
 少なくとも、かってほどに崇め奉られる存在ではあるまい。
 それでも、シューベルトの晩年の作品に共通する深淵と諦念とどう向き合うかは、未だに未完成交響曲を演奏する際には避けては通れない課題であることも確かだろう。
 最近では、速いテンポで音楽を進めつつそうした深淵や諦念と果敢に切り結んだアントネッロ・マナコルダ指揮カンマーアカデミー・ポツダムの録音<SONY>が強く印象に残っている。
 深淵と諦念とどう向き合うか、ということでどうしても忘れてはならないのが、ヴィルヘルム・フルトヴェングラーだろう。
 彼は、この未完成交響曲を特別な曲と感じ、演奏する際も極度に興奮緊張していたと伝えられている。
 そのフルトヴェングラーがウィーン・フィルを指揮した未完成交響曲を聴いた<WARNER>。
 ただし、1950年にウィーンでセッション録音された有名なものではなく、同じ年の10月1日に行われたコペンハーゲンでのコンサートをデンマーク国営放送がライヴ録音したものである。
 正直、最新のリマスタリングが行われているにせよ、音質はよくない。
 加えて、演奏自体も最善のものとは言えない。
 ただ、フルトヴェングラーのこの曲との向き合い方や、そうして生まれた音楽の凄さ、激しさ、美しさの一端を知ることはできた
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2024年01月22日

今日聴いた音楽から(2024/1/22)

 モーツァルトの交響曲第36番「リンツ」を大好きになったきっかけは、カルロス・クライバーがウィーン・フィルを指揮したコンサートの録画を観聴きしたことだった。
 クライバーの指揮姿の美しさはひとまず置くとして、緩急自在というのか、押すべきところは押し、退くべきところは退きつつ、長調の中に潜む翳りをあぶり出すその手腕の見事に感嘆したし、ウィーン・フィルの柔らかな音色がそれにまたぴったりとあっていた。
 それから、この曲を好んで聴くようになった。
 もちろん、クライバーとは異なるタイプの演奏も積極的に聴いた。
 今夜聴いたオットー・クレンペラー指揮フィルハーモニア管弦楽団<WARNER>は、まさしくクライバーとは対極にあるような演奏である。
 クレンペラーといえば、晩年になればなるほどテンポが遅くなっていったことで知られているけれど、1956年の録音ということもあって、序奏こそ重々しいし全体的に低弦は強調されてはいるものの、主部からあとは実に速い。
 緩徐楽章も含めてなべて速いテンポ設定だ。
 と、言って、いわゆるピリオド奏法のように細かい部分を丹念に掘り下げるものではなくて、ぶっちゃけちょっと素っ気ないほど。
 ただ、ところどころ凄みというか鋭い一閃というか、はっとさせられるような箇所がある。
 全部聴き終えると、またはじめから聴きたくなる。
 そんな演奏だった。
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2024年01月21日

今日聴いた音楽からA(2024/1/21)

 フランス系カナダ人のギタリスト、パスカル・ヴァロワが録音した『ウィーン1840〜ロマンティックなウィーンの音楽』<ANALEKTA>を聴く。
 ヴァロワは古楽器のレプリカ、いわゆるピリオド楽器によって演奏を行っているギタリストだが、このアルバムでも1830年製の楽器のレプリカが用いられている。
 収録曲は、エミリア・ジュリアーニ=グリエルの6つの前奏曲Op.46-1と3、ヨハン・カスパール・メルツの吟遊詩人の調べ、メルツ編曲によるシューベルトの『白鳥の歌』からセレナーデ、ジュリオ・レゴンディの夜想曲「夢想」、メルツのハンガリー幻想曲第1番。
 いずれも弾き手の技巧を閲するような仕掛けの施された作品だけれど、それより何よりアルバムのタイトル通り、甘やかで夢見るようで、切ない、まさしくロマンティックな旋律が魅力的だ。
 中には、あまりの旋律の美しさのせいで、若干それに淫するというのか、とりとめのなさを感じる曲もないではないが。
 ヴァロワの当時の演奏方法を意識したであろう節回し、歌い回しも強く印象に残った。
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今日聴いた音楽から@(2024/1/21)

 1枚1000円はよいとして、演奏しているのがあんまり知らない東欧のオーケストラや演奏家じゃ、安かろう悪かろうじゃないの。
 と、思わせておいて、聴いてみたならおや、なかなかの演奏じゃないか。
 といった商売のやり方も昔の話。
 レパートリーの豊富さはそのままに、デビュー間もない新進気鋭の若手から進境著しい中堅層、さらにはレナード・スラットキンといったベテランとバラエティ豊かな演奏家を起用して今やナクソス・レーベルはマイナー中のメジャー、というより、メジャーやマイナーの壁も相当とっぱらってしまった。
 それに、HMVのオンライン・ショップを調べてみたら、セールでなければ会員でも1枚1600円、会員以外は2200円と値段の面でも全くお安くなくなった。

 で、そんなナクソス・レーベルが最近プッシュしている指揮者の一人が、フランス出身のジャン=リュック・タンゴーだ。
 1969年生まれだからこちらと同い年、マニュエル・ロザンタールのアシスタントなどを経てオペラ中心に活躍していた人だけれど、ナクソス・レーベルはフランス(系)の作曲家の管弦楽曲を彼に任せることにしたらしい。
 そのタンゴーがベルリン放送を指揮したフランクとショーソンの交響曲を聴いたが、これはすこぶる聴き応えのあるアルバムだった。
 当然、近年の演奏の潮流そのままに速いテンポをとるものと決めてかかったら大間違い。
 フランクは全篇、ゆっくりとしたテンポで細部を丁寧に表現していく。
 ただし、音色を濁らせず見通しが良いため、全く重たくならない。
 第1楽章もそうだし、第2楽章など、管楽器の主旋律の後ろで弦楽器が「蠢いている」のが手に取るようにわかる。
 終楽章など、昭和のヤマカズ山田一雄が京都市交響楽団を相手に呻き声を上げながら狂喜乱舞する姿が今も忘れられないのだけれど、ここでもタンゴーは焦らない。
 結果、フランクの音楽の持つ官能性(法悦性とはあえて書かない)が見事に浮き彫りになっていた。
 一方、同じく3楽章の構成等々、師匠フランクの影響を色濃く受けたショーソンの交響曲も、冒頭ゆっくりしたテンポで始まる。
 が、主部に変わったとたんの音色の変化にはっとする。
 フランクの音楽がどこか閉じられた感じがするとすれば、ショーソンの音楽には開かれた感じがするのだ。
 第2楽章は、ヴァイオリンと管弦楽のための詩曲、ヴァイオリン・ピアノと弦楽4重奏のためのコンセールと共通する艶やかさ、その美しさに心魅かれる。
 そして、終楽章ではひときわワーグナーからの影響が明確になる。
 ベルリン放送交響楽団もそうしたタンゴーの音楽づくりによく応えて、アンサンブル・ソロの両面で精度の高い演奏を行っていた。
 もし不満があるとすれば、ナクソス全般にいえることだが、録音の音質が少々浅いというか薄いというか、物足りなさを感じることか。
 クリアであることには違いないのだけれど。
 とはいえ、これは大いにお薦めしたいアルバムだ。
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2024年01月20日

今日聴いた音楽からA(2024/1/20)

 指揮者としての活動を始めたころ、ロンドンのオーケストラと共演する機会が多かったし、コロンビア(現ソニー)レーベルの意向もあってだろう、ダニエル・バレンボイムはロンドン・フィルやイギリス室内管弦楽団とともにエルガーの管弦楽曲を網羅的に録音している。
 ただ、20世紀を迎えてシュターツカペレ・ベルリンと集中的に再録音を行ったことを考えれば、指揮者としてのバレンボイムにとって、やはりエルガーは重要な作曲家であったともいえる。
 そしてそれには、チェロ協奏曲を大切なレパートリーにしていたかつてのパートナー、ジャクリーヌ・デュ・プレとの繋がりもあるかもしれない。
 ちなみに、バレンボイムはフィラデルフィア管弦楽団を指揮してデュ・プレとエルガーのチェロ協奏曲のライヴ録音を行っている。
 そうしたバレンボイムのエルガー録音のうち、ロンドン・フィルとの威風堂々全曲、宮廷仮面劇『インドの王冠』抜粋、帝国行進曲を聴いた。
 有名な第1番からアルバムは始まるが、いやあ、速い。
 先日聴いたバーンスタインのウェーバーの舞踏への勧誘も速かったが、こちらはしょっぱなから速い。
 行進曲もへったくれもない飛ばしようだ。
 ただし、中間部での有名な旋律はゆっくりめで演奏する。
 その分、一層この旋律の美しさは際立つが、しかしやっぱり速過ぎだなあ。
 で、この速さは続く第2番から第5番でもそう。
 第4番と第5番で中間部をゆっくりと演奏するのも一緒だが。
 なんだか一枚のLPに諸々押し込むために巻いているんじゃと思えるほど。
 でも、そうは言いつつもこの第1番は繰り返し聴いてみたくもなる。
 それにしても、このテンポで乱れないロンドン・フィルはやっぱり達者なオケだと感心した。
 『インドの王冠』でも緩急のコントラストははっきりとしているが、こちらは威風堂々のようなある種脈絡のなさとは違い、音のドラマにそった速さであり遅さ。
 ときにあらわれるインドっぽさが、なんだかオリエンタリズム全開で今となってはどうにも気恥ずかしい。
 まあ、ジョージ5世とメアリー王妃のインド皇帝と皇后戴冠を祝するという意図そのものが今となってはなんとも受け入れにくいものでもあるのだけれど。
 というか、そもそもエルガー自身が帝国主義期のイギリスを象徴するような作曲家なのだ。
 『オリエンタリズム』の著者で今は亡きエドワード・サイードと深い親交のあったバレンボイムはそこらあたりをどう考えているのか。
 イスラエルでワーグナー演奏を積極的に行ったバレンボイムだけに、非常に興味がある。
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今日聴いた音楽から@(2024/1/20)

 1723年にドイツのケーテンで生まれた作曲家カール・フリードリヒ・アーベルは、のちにイギリスに渡ってヨハン・クリスティアン・バッハとともにバッハ=アーベル・コンサートを主催し、幼い頃のモーツァルトにも影響を与えた。
 そのアーベルにとって後期の作品にあたる交響曲を集めたアルバム<ACCENT>を聴く。
 演奏はマルティン・ヨップが指揮するピリオド楽器オーケストラ、マイン・バロックオーケストラ。
 収録されているのは、いずれも3楽章形式、ハ長調、変ロ長調、ニ長調、変ホ長調、ニ長調の5曲で3曲目のニ長調のみ協奏交響曲で、全て世界初録音になるそうだ。
 古典派の規矩に則りつつ、一曲ごとの仕掛けも施されており、明快かつ軽やかな音楽に仕上がっている。
 どちらかというと管楽器は補助にまわることが多く、弦楽器主体となるのには、アーベルが弦楽器のバリトンの開発者であることや、ヴィオラ・ダ・ガンバの名手として知られたこととも関係しているかもしれない。
 もっとも印象に残ったのは、5曲目のニ長調。
 モーツァルトを思い起こさせる旋律が魅力的だし、第2楽章ではフルート(フラウト・トラヴェルソ)も聴かせ場がある。
 同じニ長調の協奏交響曲は、ヴァイオリンとオーボエ、チェロのソロの掛け合いが愉しい。
 若干チェロの独奏にたどたどしく聴こえる箇所があるのは、作曲当時の楽器を再現したピリオド楽器だとエンドピンがないので、両足に挟んで演奏しなければならないためだろう。
 楽器の掛け合いでいえば、変ロ長調の第2楽章のオーボエとホルンのそれもチャーミングだ。
 ヨップ指揮のマイン・バロックオーケストラは精度の高い演奏で、アーベルの音楽を的確に再現していた。
 それにしても、こうやって古典派の作曲家の作品を聴くと、ハイドンやモーツァルトと彼らを分けるのは何かということについて考えざるをえない。
 もちろんハイドンやモーツァルトの後期の交響曲となれば、楽曲の洗練度や構成力(4楽章形式への移行)、旋律の魅力といった点でやはりその差は歴然としている。
 だが、初期から中期の作品に比べればそれほど遜色があるものではないと強く思う。
 そういえば、少し前までアーベルの交響曲集作品7の6曲目はモーツァルトの交響曲第3番と誤って認識されていたのだった。
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2024年01月19日

今日聴いた音楽からA(2024/1/19)

 クラシック音楽を熱心に聴き始めた1980年代半ば以降、そのクラシック音楽界ではそれまで当たり前とされてきたことへの根本的な見直し、洗い直しが進められた。
 その代表例が作曲家がその作品を作曲した時代の演奏様式を検証再現するピリオド奏法だろう。
 それは、18世紀におけるヨーロッパ全体の音楽的規範を知らせるとともに、個々の作曲家や作品、演奏の地域的な特色を再発見するものでもあった。
 そしてその流れはさらに19世紀から20世紀前半へと進んでいった。
 そうした中で、ウインナ・ワルツならばウィーン・フィル、スメタナやドヴォルザークならチェコ・フィルといったこれまでの常識とはかけ離れた名演名録音も誕生してきた。
 むろん、その一方で演奏者自身の演奏に対するプライドも含めて、上述したような常識、作曲家と演奏家の結びつきが根強く支持されていることも否定しがたい事実だ。
 特にイタリアのオペラ、中でもその代表格のヴェルディならば、イタリア最高のオペラ劇場と目されるミラノ・スカラ座でなければという考えは未だに揺らいでいない。
 ミラノ・スカラ座のオーケストラと合唱団がヴェルディのオペラの合唱曲集<DECCA>を聴きながら、そのようなことを少しだけ考えた。
 指揮は、現在の音楽監督リッカルド・シャイー。
 彼の70歳とデッカ・レーベルへの専属契約45年を契約したアルバムだ。
 カルロ・マリア・ジュリーニ、クラウディオ・アバド、ジュゼッペ・シノーポリが亡くなった今、シャイーはリッカルド・ムーティに次ぐイタリアを代表する指揮者だが、ムーティが到達した演奏(昨年末に聴いたマスカーニの歌劇『カヴァレリア・ルスティカーナ』のライヴ録音は、ギリシャ悲劇のようなスケールの大きさと美しさに心底驚愕し感動した)に比較すると、まだ人間らしいというか生々しいというか、若き日のよく言えば熱血的な、悪く言えば直情的な演奏の片鱗をうかがわせるものがある。
 ただし、シャイーのとる速めのテンポや楽曲の解釈が彼の性質に由来するだけではなく、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団との録音に端的に示されているようなピリオド奏法からの影響によるものであろうこともやはり指摘しておかねばなるまい。
 それにしても、ミラノ・スカラ座の合唱団の層は厚い。
 ヴェルディのドラマティックな歌をよく再現していると感心した。
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今日聴いた音楽から@(2024/1/19)

 ウィーン8重奏団のDECCAレーベルへの録音がリマスタリングの上でまとめて発売されるのにあわせ、amazon music unlimitedでも配信されるようになった。
 そのうち、モーツァルトのピアノと管楽器のための5重奏曲とピアノ・クラリネット・ヴィオラのための3重奏曲「ケーゲルシュタット・トリオ」がカップリングされたアルバムを聴いてみた。
 ウィーン8重奏団は、ウィーン・フィルのコンサート・マスターであるヴィリーとクラリネット奏者のアルフレートのボスコフスキー兄弟によって結成されたアンサンブルで、その多くはウィーン・フィルのメンバーによる。
 いわゆるピリオド・スタイルの歯切れがよくて丁々発止の演奏も愉しいが、今日のようにようやく青空が見えて穏やかな感じのする日は、古風で上品な音色とインティメートさにあふれたウィーン8重奏団員の演奏が実にぴったりで、まさしくほっこりとする。
 1956年の録音ゆえ音質の古さは否めないが、リマスタリングの効果でだいぶん聴きやすくなっているとも思う。
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2024年01月18日

今日聴いた音楽から(2024/1/18)

 ジョージ・セルがクリーヴランド管弦楽団に室内楽的なアンサンブルを求めたということは、先日のリヒャルト・シュトラウスの交響詩『ドン・キホーテ』を聴いたときに書いたことだけれど、今日また彼らが演奏したハイドンの交響曲第93番と第94番「驚愕」<SONY>に接して改めてそのことを思い出した。
 例えば、第94番の第2楽章、おなじみ「びっくり」が終わってしばらくしてからの穏やかな部分での楽器の重なり合いだとか、一糸乱れず軽快に音楽を閉じる両曲の終楽章だとか、それこそ室内楽的な、インティメートで精度の高い演奏をセルとクリーヴランド管弦楽団は聴かせてくれる。
 ただ、ドン・キホーテの自在さに比べると、ハイドンではそれがよく言えば折り目の正しい楷書の芸、悪くいえば生真面目に過ぎて遊びが少ないということに繋がっているようにも感じた。
 そうそう、遊びというか仕掛けでいうと、第94番の第2楽章よりも第93番の第2楽章での一撃に僕は驚かされた。
 謹厳実直で知られる教授が、表情一つ変えず突然突拍子もない冗談を口にしたような、そんな驚きである。
 ちいかわのうさぎなら、すぐに「ハァ?」と口にするだろう、きっと、必ず。
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2024年01月17日

今日聴いた音楽からA(2024/1/17)

 マタイにヨハネの両受難曲にミサ曲ロ短調、トッカータとフーガニ短調(偽作の疑いもあるんだけど)に小フーガト短調、それから無伴奏ヴァイオリン・パルティータ第2番のシャコンヌの印象があまりにも強くって、ついついヨハン・セバスティアン・バッハはしんねりむっつりした音楽ばかり書いているものと思いがちだが、もちろんそんなことはない。
 ブランデンブルク協奏曲もあれば管弦楽組曲もあるし、無伴奏ヴァイオリン・パルティータ第3番もある、ほかにもいっぱいある。
 バロック・ヴァイオリンの寺神戸亮とチェンバロのファビオ・ボニッツォーニが演奏したバッハのヴァイオリン・ソナタの第1集<Challenge Classics>を聴きながら、短調もいいけど(第1番ロ短調)、やっぱり長調(第2番イ長調と第3番ホ長調)もいいなと改めて思う。
 中でも第2番の第2楽章や第3番の終楽章の跳ねるような明るい音楽は、実に耳になじむ。
 もはやピリオド楽器奏者としてはベテランの域に入った寺神戸亮は、艶やかで伸びやかだがどこか塩辛い感じのする音色の持ち主。
 たぶんに、それは師匠のシギスヴァルト・クイケン譲りのものでもあるだろう。
 悲劇的に短調を強調せず、躁的に長調を強調せず、良い意味で実直、誠実な演奏で、音楽のつくりや流れを的確に示す。
 ボニッツォーニとのコンビネーションもよく、聴いていて自然に耳に入ってくるアルバムだった。
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今日聴いた音楽から@(2024/1/17)

 かつては女性に不向きな職業の一つと呼ばれていた指揮者だが、社会の変化の中で女性の指揮者の数は増え、ようやく世界各地のオーケストラの重要なポストを占めるようにもなってきた。
 昨シーズンからは、沖澤のどかが京都市交響楽団の常任指揮者にも就任している。
 2019年からオランダ放送フィルの首席指揮者となったアメリカ出身のカリーナ・カネラキスも、そうした活躍著しい指揮者の一人だ。
 そのカネラキスがオランダ放送フィルを指揮したバルトークのアルバム<Pentatone>を聴いた。
 2022年7月、オーケストラの本拠地であるヒルフェルスムの放送音楽センターでのライヴ録音とクレジットされている。
 カネラキスとオランダ放送フィルのライヴ演奏は、YouTubeのオランダの公共放送協会の公式アカウントから度々アップされていて、エネルギッシュな指揮ぶりと均整のとれた演奏を確認することができるが、このアルバムでもそうした基本の部分では大きな違いがない。
 メインとなる管弦楽のための協奏曲でも、カップリングの4つの管弦楽曲でも、強弱緩急をよくコントロールした見通しのよい音楽に仕上がっている。
 ただ、例えば管弦楽のための協奏曲の第3楽章「悲歌」が端的に象徴しているように、素っ気ないというわけでは全然ないが、音が軽いというか、踏み込みの浅さを感じたことも事実だ。
 一つには、録音の問題もあるような気はするが。
 できれば、他のレパートリーの、他のレーベルでのセッション録音を聴いてみたい。

 このアルバムのことはひとまず置くとして、いずれ近いうちにベルリン・フィルをはじめとした世界のトップオケで女性の指揮者が音楽監督や首席指揮者、常任指揮者の座に就くことはまず間違いないだろう。
 そしてそれは、音楽界における「ルッキズム」の問題を改めて考える契機になるかもしれない。
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2024年01月16日

今日聴いた音楽から(2024/1/16)

 アイネ・クライネ・ナハトムジークの愛称で知られるセレナード第13番やオペラの序曲など、ブルーノ・ワルターがコロンビア交響楽団を指揮して録音したモーツァルト・アルバム<SONY>を聴いた。
 現在の古典派演奏の主流である、いわゆるピリオド・スタイルに比べれば確かにゆっくりとしたテンポだし、旋律を歌わせることに長けていることも事実だが、ウェットで過度に情感を込めたそれこそ情緒綿々とした演奏とは一線を画すことは言うまでもない。
 例えば、セレナード第13番の第1楽章が快活に演奏されることは十分予想ができることだけれど、抒情性に富んだ第2楽章においてもワルターは節度を持って音楽を進めていく。
 とともに、大きな構えというか外に開かれたというのか、線が明快でシンフォニック、なおかつメリハリが効いて冗長に陥らない演奏にもなっている。
 それと、弦楽器だけの編成であることによって、吉田秀和が『世界の指揮者』<ちくま文庫>で指摘しているようなワルター特有の低弦の強調が一層わかりやすくもあった。
 ただ、こうしたことは今回初めて気づいたのではなく、改めて思い出したと記すほうが正しい。
 と、言うのは、クラシック音楽を聴き始めたころ、初めて買ったCDのうちの一枚が、ワルターとコロンビア交響楽団によるモーツァルトの交響曲第40番と第41番「ジュピター」で、今のように具体的な言葉で表せなかったとしても、日々熱心に聴き返す中で漠然と感じていたことではあるからだ。
 ワルターが演奏するモーツァルトの明快さは、続く『劇場支配人』、『コジ・ファン・トゥッテ』、『フィガロの結婚』、『魔笛』の各序曲でさらによく示される。
 加えて、ワルターの劇場感覚が発揮されていることも指摘しておきたい。
 最後は、フリーメーソンのための葬送音楽。
 押しつけがましくない厳粛さがモーツァルトの音楽によくあっていた。
 ワルターのために編成された録音用のオーケストラ、コロンビア交響楽団には粗さや弱さを感じる面もなくはないが、ワルターの意図をよく汲む努力を行っている。
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2024年01月15日

今日聴いた音楽から(2024/1/15)

 独奏チェロをドン・キホーテに、ヴィオラをサンチョ・パンサに配し、リヒャルト・シュトラウスはおなじみセルバンテスの『ドン・キホーテ』を大管弦楽のための交響的絵巻に仕立て直した。
 そこには、この作曲家らしい皮肉やあてこすりが仕掛けられているが、それより何よりオーケストラを聴く妙味に満ち溢れている。
 かつて親交のあったセルにとって、リヒャルト・シュトラウスはまさしく十八番と呼ぶに相応しい作曲家の一人だ。
 この『ドン・キホーテ』でも、セルは抜群のオーケストラ・コントロールで精度の高い音楽を聴かせる。
 セルは室内楽的なアンサンブルをオーケストラに求めたというけれど、まさしくクリーヴランド管弦楽団は室内楽的なまとまりのよさを見せて過不足がない。
 先日聴いたロッシーニの序曲集の少々粗さの残る演奏が嘘のようだ。
 1960年というからもう60年以上前の録音になるというのに、全く古さを感じさせない。
 また、ピエール・フルニエの気品があって出しゃばらないチェロ独奏も素晴らしい。
(ちなみに、ヴィオラ独奏はエイブラハム・スカーニック。クリーヴランド管弦楽団の首席奏者だ)
 聴き応え十分なアルバムである。
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2024年01月14日

今日聴いた音楽からA(2024/1/14)

 惜しまれつつも一昨年に亡くなったピアニスト、ラルス・フォークトが最後に遺した録音のうちの一つ、モーツァルトのピアノ協奏曲第9番「ジュナミ(ジュノーム)」と第24番<ONDINE>を聴いた。
 オーケストラはフォークトが音楽監督をつとめていたパリ室内管弦楽団で、指揮と独奏を兼ねている。
 できることなら、なるべくフォークトの早世を考えることなく音楽を聴くべきだろうなと思う反面、闘病生活の中で自らの死と向き合っていたということを知っているだけに、やはりどうしてもそのことについて考えざるをえない。
 考えざるをえないし、実際、そうした中で録音されたからこその稀有な美しさをためた録音になっているとも感じる。
 第9番はモーツァルトにとって初期の作品。
 いわゆるロココ風の優美な軽やかさが特徴で、ここでもはじめはそうした風で演奏が始まる。
 だが、短調に転じると様子が大きく変わる。
 もともとフォークトというピアニストは陽か陰かでいえば明らかに陰の人だったのだけれど、この演奏では一層翳りが色濃く表れる。
 カデンツァも実に切ない。
 続く第2楽章は、宗教曲のように厳粛に進む。
 ホルンの強奏がまるでレクイエムのトロンバのように聴こえるほどだ。
 終楽章は再び軽快に始まるが、途中フォークトは急に立ち止まる。
 今この時間が過ぎ去ってしまうのを惜しむかのような躊躇いに、ぐっと心をつかまれた。
 第24番は短調の曲だが、第1楽章では逆に長調に転じた際の冬の日の陽射しのような明るさが印象的だ。
 自作のカデンツァも強く印象に残る。
 第2楽章の冒頭の旋律は、モーツァルトが作曲した中でも屈指の純真さとけなげなさ、優しさを持った旋律だけれど、フォークトはそうした性格を誇張しない。
 けれど一音一音丹念に弾いていく。
 中でも何か希望が見えたかのように軽快に結ぶ楽章の終わりが忘れ難い。
 迎えた終楽章。
 激しく感情は変化するが、ここでも長調に転じた際の明るさがたまらなく切ない。
 そして、何かを決断するように音楽は終わる。
 パリ室内管弦楽団も、ソロ・アンサンブル両面でそうしたフォークトの音楽によくそっていた。

 このアルバムを聴いて、フォークトの実演に接することができなかったことを改めて強く悔やむ。
 彼の早世をどうにも残念に思う。
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今日聴いた音楽から@(2024/1/14)

 グレン・グールドが弾いたベートーヴェンの7つのバガテル作品33と6つにバガテル作品126<SONY>を聴いた。
 ベートーヴェンにとってバガテル集はそれこそ些細なものだろうけれど、そうした小品だからこそなおのこと、対位法の強調に極端なテンポ設定といったモノマニアックなまでの楽曲解釈や、即興性、抒情性の追求などグールドの特性が明らかに示されているように感じる。
 その呻き声ともども、グールドの「意識」が全篇にわたって表れていた。
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2024年01月13日

今日聴いた音楽からA(2024/1/13)

 クラシック音楽を聴き始めた1980年代半ば、実演録音両面で活動中のピアニストのうち最も高いクラスにいる人といえば、マルタ・アルゲリッチ、マウリツィオ・ポリーニ、アルフレッド・ブレンデル、そしてウラディーミル・アシュケナージということになったのではないか。
 もう少し前ならそこにダニエル・バレンボイムを加えてもよかったかもしれないが、あいにくその頃にはすでにパリ管弦楽団の音楽監督に就任するなど指揮者としてのイメージが強くなっていた。
 そんなバレンボイムの後を追ったわけでもないだろうが、アシュケナージもそれからしばらくすると指揮者のほうにより大きく活動の軸を置くようになる。
 バレンボイム同様、アシュケナージもピアノを弾き続けてはいたけれど。

 今回聴いたラヴェルのピアノ作品集<DECCA>は1982年から83年にかけてだから、当然アシュケナージが指揮者としてよりもピアニストとして認知されていた時期の録音だ。
 アシュケナージの実演に接したのは一度きりで、その際強く印象に残ったのは高度なテクニックよりも最強音になっても濁らない音色の美しさだった。
 デジタル録音初期ということで、すでにセピア色地味た音質にはなっているものの、このラヴェルでもそうした片鱗は十分に窺える。
 中でも、夜のガスパールのスカルボはその好例だろう。
 ただ、意よりも先に手がくるというのか、テクニックのためのテクニックに演奏がなっているような気もしないではない。
 亡き王女のためのパヴァーヌは抒情性に富んでいるが、線が明確というか思っていた以上に芯がしっかりしている。
 最後の高雅にして感傷的なワルツは、技量的な部分とリリカルな部分のバランスが巧くとれているが、ワルツのリズムが少しぎくしゃくとして聴こえることも否めない。
 より読み込みの鋭い演奏が増えていることもあり、今となってはどうしても若干物足りなさを感じてしまった。

 今これを書きながら、参考もかねてクリーヴランド管弦楽団を指揮した高雅にして感傷的なワルツとラ・ヴァルスを聴いているけれど、ウラディーミル・アシュケナージが指揮よりもピアノを優先していたらどうなっていただろう。
 もしかしたら、アシュケナージ自身、自らの限界を十分に認識した上での方向転換だったのかもしれないとはいえ。
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今日聴いた音楽から@(2024/1/13)

 昨夜、いい『ラ・ボエーム』を聴いたので何かプッチーニが聴きたいなと思って、すぐに先ごろリリースされたばかりのアルバム<BR>を思い出した。
 シチリア人を父に持ち、エクアドル人を母に持つアメリカのテノール歌手チャールズ・カストロノヴォとイヴァン・レプシッチ指揮ミュンヘン放送管弦楽団が演奏したプッチーニの歌曲集と管弦楽曲集がそれだ。
 声質の好みのストライクゾーンが極端に狭い人間ゆえ、正直カストロノヴォの硬いというか、渋いというか、古風(プッチーニを模したらしいジャケット写真が非常に様になっている)というか、バリトンに近い重い声質自体はあまり好みではない。
 どちらかといえば味で勝負の人だなと思って聴き進めているうちに、その歌いぶりの見事さにどんどん惹き込まれてしまった。
 録音からも声量の豊かさは想像でき、オペラで本領を発揮する人だと思い至った。
 で、こうやって歌曲を続けて聴くと、プッチーニの音楽の持つ特徴も改めてよくわかってくる。
 あまり単純化するものでもないが、プッチーニのつくる音楽は一連の有名なオペラ・アリアに象徴される抒情性に富んで甘やかな旋律、『トスカ』のテ・デウムのような荘重荘厳で劇的な旋律、そして『ラ・ボエーム』第2幕に代表される軍楽的な勇壮で陽キャな旋律に特徴づけられるのではないか。
 このアルバムでは、そうしたプッチーニらしさを形作る3つの要素を持った歌曲がうまい具合にプログラミングされていてバラエティに富んでいた。
 中でも、トラック15の「ローマへの讃歌」などまさしく陽キャで軍楽調の代表で、のちにムッソリーニ政権時代、ファシスト党の党歌に選ばれてしまったのも無理はない。
(あと、トラック11の「魂の歌」は、『ジャンニ・スキッキ』のリヌッチョのアリアに音のつくりが似ている)
 ちなみに、伴奏のオーケストレーションはドイツのヨハネス・クサヴァー・シャハトナーである。

 プッチーニの音楽の特徴は、カップリングの管弦楽曲、交響的前奏曲、交響的奇想曲(途中、『ラ・ボエーム』の冒頭がまんま出てくるし、ラストは第1幕最後のロドルフォとミミのやり取りを想起させる)、菊の花(ドリューによる弦楽合奏用の編曲)でも当然示されているが、それとともにワーグナーの強い影響を改めて感じもした。
 歌曲でカストロノヴォを巧く支えていたレプシッチとミュンヘン放送管弦楽団は、ここでも劇的で充実した音楽を聴かせてくれる。

 それにしても、こうしたアルバムに巡り合ったとき、どうしてもサブスク(amazon music unlimited)の有難みを感じざるをえない。
 CDならば、たぶんこのアルバムは素通りしていただろうから。
 ただし、音楽家への経済的支援という意味ではCDを購入するほうが断然いいわけで、その点非常に複雑な心境だ。
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2024年01月12日

今日聴いた音楽から(2024/1/12)

 今年2024年はブルックナーの生誕200年目の記念すべき年。
 そのアニバーサリーイヤー中に彼の交響曲全11曲の全ての稿を録音しようという、CAPRICCIOによる絶後ではないかもしれないが空前の企画のうち、先ごろリリースされたばかりの交響曲第1番(第1稿/レーダー版)を聴いた。
 演奏は、マルクス・ポシュナー指揮リンツ・ブルックナー管弦楽団。
 ブルックナーにとって第1番は、第00番と呼ばれることもある習作のヘ短調といわゆる第0番の間に作曲された交響曲で、初稿として扱われるリンツ稿と改訂の加わったウィーン稿が知られるが、今回録音されたのは、リンツ稿にも含まれる改訂作業の要素を極力除去しようと試みられたトーマス・レーダーによる校訂版。
 と、ここまで書いてもうややこしい…。
 が、聴いてみると、これは実に面白い!
 ワーグナーや初期ロマン派からの影響はもちろん色濃いし、オーケストレーションの未熟さもあってやたらとぎくしゃくしたり、唐突に聴こえたりする部分も多々ある。
 ところが、そうした均整のとれなさがかえって非常に斬新な音楽に聴こえてもくるのだ。
 ポシュナーの見通しがよくて前へ前へ進む音楽づくりがまたそれによく合っている。
 第1楽章終盤の追い込みや、第3楽章の強弱緩急の大胆なコントラスト。
 一方で、第2楽章の瑞々しい抒情性も捨て難い。
 リンツ・ブルックナー管弦楽団もそうしたポシュナーの音楽づくりによく応えていた。
 ブルックナーイヤーだからこそのアルバムで、これは聴いておいてよかった。
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2024年01月11日

今日聴いた音楽から(2024/1/11)

 ハンス・ヴェルナー・ヘンツェといえば、第二次世界大戦後のドイツを代表する作曲家の一人で、左翼思想を色濃く打ち出した作品で知られている。
 今回聴いた『リインヴェンションズ(再創造)』というアルバム<BRILLIANT>は、そんなヘンツェがタイトル通り過去の作曲家たちの作品を新たに仕立て直した作品を集めたもの。
 ヴィターリのシャコンヌによる『イル・ヴィタリーノ・ラドッピアート』、ハープやギターが活躍する(ヘンツェはギター用の作品を数多く残している)モーツァルトの教会ソナタによる『3つのモーツァルトのオルガン・ソナタ』、弦楽4重奏と管弦楽のためのカール・フィリップ・エマヌエル・バッハの鍵盤楽器のための幻想曲による『イ・センティメンティ・ディ・カール・フィリップ・エマヌエル・バッハ』の3曲で、いずれもヘンツェの「ちょっかい」の出し方が面白くはある。
 旋律が歪に変容脱線する様であるとか、変わった楽器編成による音色のおかしさとか。
 ただ、シェーンベルクによるブラームスのピアノ4重奏曲第1番のオーケストレーションにまで遡らずとも、同時代のイタリアの作曲家ルチアーノ・ベリオの同種の作業、シューベルトに基づくレンダリングだとかボッケリーニの「マドリッドの夜の帰営ラッパ」の4つのオリジナル・ヴァージョンのオーケストレーションに比べて、再創造の部分よりもまずヴィターリであるとかモーツァルトであるとかカール・フィリップ・エマヌエル・バッハであるとかの旋律、音楽のほうにより耳がいってしまったことも事実である。
 聴いてよかったか悪かったかと問われれば、よかったと答えるけれど。
 マルコ・アンジウス指揮パドヴァ・ヴェネト管弦楽団の演奏は充実しているし、録音も非常にクリアだ。
 こういったアルバムをバジェット・プライス・レーベルのBRILLIANTが積極的に行っていることも高く評価したい。
 いや、今や円安でたいしてバジェットでもなくなったが。
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2024年01月10日

今日聴いた音楽から(2024/1/10)

 よくよく考えてみたら、アメリカの作曲家が作曲したオーケストラ曲のCDをほとんど持っていない。
 大好きなバーンスタインの『キャンディード』序曲があるくらいではないか。
 それだって、名曲集の中の1曲でしかないのだが。
 グローフェが作曲した『グランド・キャニオン』なんてLPCDを持っていないだけではなくてFMで何度か聴いた程度、まともに聴くようになったのはamazon music unlimitedを使うようになってからではないか。
 ユージン・オーマンディ指揮フィラデルフィア管弦楽団の演奏で、その『グランド・キャニオン』<SONY>を聴く。
 『グランド・キャニオン』は、その名の通りグランド・キャニオンの情景を模した「日の出」、「赤い砂漠」、「山道を行く」、「日没」、「豪雨」の5曲からなる組曲。
 グランド・キャニオンを間近に見たことがないだけに、果たしてその描写力はどこまでのものか断言はできないが、カッポカッポカッポカッポとロバを模した音型がユーモラスな「山道を行く」をはじめ、管弦楽を駆使した「らしさ」の表現はなかなかのものだと思う。
 それをまた腕っこき揃いのフィラデルフィア管弦楽団の面々が、見事に実際の音にしていて実に愉しい。
 ただ、オーマンディという音楽家、人間の特性には静謐でシリアスな趣のある「赤い砂漠」がもっとも合っているような気がしないでもないが。
 先日聴いたヘンデルよりも2年ほど前の1957年の録音だが、リマスタリングが施されているのか音のクリアさでは断然こちらがよい。
 そうそう、音の面ではモノラルということで分が悪いが、「豪雨」の豪快さではアルトゥーロ・トスカニーニとNBC交響楽団の演奏も忘れ難い。
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2024年01月09日

今日聴いた音楽から(2024/1/9)

 今は亡き増村保造監督の作品に『巨人と玩具』がある。
 開高健の原作では、キャラメル会社間の宣伝戦に巻き込まれた青年は自らが置かれた状況に惑い、なるべく事態から距離をとろうとまでする、実に「文学」的な人物だ。
 ところが映画の青年ときたらとたんに「劇」的人物に様変わり、宣伝戦にも積極的に飛び込み、ヒロインを巡る駆け引きに疲弊もするが、それでも…、といった具合。
 後年、あの『スチュワーデス物語』という邪劇中の邪劇も手掛ける人だけに、その感情表現たるやすさまじい。
 そして、川口浩演じる主人公の青年をはじめ、野添ひとみ、高松英郎、山茶花究といった演者陣がまた台詞を早口で捲し立てる。
 速射砲のようなというありがちな表現を使いたくなるくらい。
 で、レナード・バーンスタイン指揮ニューヨーク・フィルが演奏したベルリオーズ編曲によるウェーバーの舞踏への勧誘<SONY>を聴いていてすぐに思い出したのはこの『巨人と玩具』のことだ。
 冒頭、チェロがゆっくりと導入部を奏でる。
 ところが一転、舞曲が始まると速い速い速い速いとばすとばすとばすとばす。
 超特急か何かかと言いたくなるような無茶苦茶な速さだ。
 これじゃあ、勧誘されても踊れないじゃん!
 けれど、この目まぐるしいほどの舞曲が人生そのものの比喩だったらどうか?
 陽キャを気取る陰キャのバーンスタインなら、どうであってもおかしくない。
 いずれにしても、あまりのあまりさに唖然とした。
 ほかに、『魔弾の射手』、『オイリアンテ』、『オベロン』という同じウェーバーが作曲したオペラの有名な序曲もカップリングされていて、例えば『オイリアンテ』の中間部の穏やかな部分には心魅かれたのだが、何しろ舞踏への勧誘のインパクトが強過ぎる。
 好き嫌いは別にして、ぜひ一度聴いてみていただきたい。
 そういえば、後年ドイツ・グラモフォン・レーベルにマーラーやベートーヴェンといったレパートリーの数々を再録音したバーンスタインだが、ウェーバーの作品は1曲も再録音していない。
 できることなら、ウィーン・フィルとの舞踏への勧誘が聴いてみたかった。
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2024年01月08日

今日聴いた音楽からA(2024/1/8)

 イーヴォ・ポゴレリチが弾いたモーツァルトのアルバム<DG>を聴いたあとでは、ノリントンとチューリッヒ室内管弦楽団が演奏がどうにも淡泊というか、淡薄なものに聴こえて仕方ない。
 もちろん、ポゴレリチの演奏が重たくてずしんと圧迫してくるようなものでないことは言うまでもないだろう。
 1曲目、ゆっくりと、そして翳りを持って弾き始められた幻想曲ニ短調K.397が長調に変化する部分にまず心を掴まれた。
 続く、ピアノ・ソナタ第5番は基本的に快活に流れていくが、ここぞというところで躊躇うかのように音楽が遅くなる。
 それが非常に効果的だ。
 最後のトルコ行進曲でおなじみピアノ・ソナタ第11番では、第1楽章の変奏曲が圧巻だ。
 一つ一つの変奏ごとに音楽の表情がころころと変わっていく。
 それも無理なく。
 とても密度が濃い。
 逆に、終楽章のトルコ行進曲はある意味ノーマルに聴こえる演奏。
 速いテンポで音楽は進んでいく。
 ただし、トルコ行進曲を意識した部分では、そのリズムが強調される。
 そして、全曲が終わり、すべてが過ぎ去ってしまったものさみしい気持ちが残る。
 実に美しい演奏だった。
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今日聴いた音楽から@(2024/1/8)

 今年3月でちょうど90歳を迎えるロジャー・ノリントンは、2021年に引退するまで、いわゆるピリオド楽器やピリオド・スタイルを用いた演奏の牽引者であり続けた。
 彼の業績の一つは、ロンドン・クラシカル・プレイヤーズを率いてピリオド楽器による初期ロマン派、さらにはワーグナー、ブラームス、ブルックナーといった後期ロマン派の演奏に先鞭をつけたことだろう。
 今となっては全く特別なことでもないけれど、ノリントンが後期ロマン派を取り上げだした1990年代初頭、特に日本ではまだキワモノ扱いだったように思う。
 ちょうどそんな時期、30年前のヨーロッパ滞在中にノリントンが指揮する2度のコンサートに接することができたのは非常によい経験であり体験だ。
 とにかくスピーディーで歯切れがよくて。
 ヨーロッパ室内管弦楽団とのケルンでのコンサートのときなど、あまりに速過ぎて素っ気ないと思ったのか、モーツァルトのフリーメイソンのための葬送音楽をもう一度演奏したほどだ。
 ただし、ノリントンの場合は、ニコラウス・アーノンクールやフランス・ブリュッヘンのようなプロテスト的な過剰さは感じない。
 一方で、同じイギリス出身のクリストファー・ホグウッドやトレヴァー・ピノック、ジョン・エリオット・ガーディナーらのオーソドックスな行き方とも違う。
 あえて言うなら、「蝶のように舞い、蜂のように刺す」とでもなるか、軽やかでなおかつ刺激的といった趣の音楽づくりだった。
 ノリントンで印象深いのは、早々にロンドン・クラシカル・プレイヤーズを手放し(同じピリオド楽器オーケストラのエイジ・オブ・エンライトゥンメント管弦楽団に吸収される形になった)、モダン楽器のオーケストラに活動の軸足を移したことだ。
 今回聴いたモーツァルトのセレナード第5番とディヴェルティメント第10番<SONY>を演奏しているチューリッヒ室内管弦楽団は、ノリントンの指揮活動の中ではもっとも後期に属するパートナーである。
 一連の録音を残したシュトゥットガルト放送交響楽団に比べると、やはり機能性には不足しており、演奏者数の多い少ないではなく、音の細さを感じもする。
 それでも、速いテンポで軽やか、ここぞというところでの音の強弱の変化は変わらない。
 加えて曲のつくりもあって、緩徐楽章での室内楽的なインティメートさが記憶に残った。
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2024年01月07日

今日聴いた音楽からA(2024年1月7日)

 強靭であるとともに抒情的。
 ホロヴィッツやギレリス、アシュケナージと名前を上げていけば、それぞれの強い個性もあってなかなか一括りにすることはできないが、それでも彼らロシア、旧ソ連出身のピアニストには上述したような共通性があるようにも思う。
 1972年にレニングラードで生まれたアルカディ・ヴォロドスもまた、そういった点でロシアのピアニストの系譜に連なる一人だろう。
 まさしくヴィルトゥオーゾと呼ぶに相応しい高度なテクニックの持ち主である一方、リリカルな感覚にも全く欠けていない。
 付け加えるならば、ヴォロドスの場合は、そうしたリリカルさがウェットさ、19世紀的な過度な感情表現に偏らず、よりスタイリッシュさとモダンさを兼ね備えているように感じる。
 ヴォロドスが弾いたモンポウのピアノ作品集<SONY>にも、そうした彼の特性がよく発揮されていた。
 モンポウといえば、ショパンやドビュッシー、サティといった人たちの影響が色濃くあって、どちらかといえばそのような部分を強く意識した演奏が行われていた。
 しかし、ヴォロドスで聴くと、モンポウが19世紀よりも20世紀を長く生きた作曲家であることが改めて思い知らされる。
 例えば、モンポウにとって後期の作品にあたる「ひそやかな対話」の切り詰められた音楽には、それこそ今日聴いたヴェ―ベルンの音楽すら思い起こしたし、ヴォロドスの演奏にはそれを意識させるような強さがあった。
 だからこそ、これまでのモンポウに音楽に対する、弱さでも軽さでも柔らかさでもない、あえて言うなら淡さ、野田秀樹的な言葉遊びになるが、淡いであり間(あわい)であるような感じはなかったが。
 正気なところをいえば、ヴォロドスの演奏を手放しで讃美することもできないし、逆に頭ごなしに否定することもできない、魅かれる部分は多々あるが、強く心を動かされるまでには至らない、まさしく淡いであり間であるような感情を抱いている。
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今日聴いた音楽から@(2024年1月7日)

 スイス出身のオーボエ奏者ハインツ・ホリガーは、現在指揮者として精力的に活躍している。
 あいにくオーボエのほうでは実演に接したことはないが、指揮者としてのホリガーなら今から30年前のドイツ滞在中にケルンのフィルハーモニーでドイツ・カンマーフィルとのコンサート(1993年10月14日)を耳にした。
 シューマンの序曲『ヘルマンとドロテア』とヴァイオリン協奏曲、バルトークのディヴェルティメント、ヴェレシュの作品が並ぶ、非常にヨーロッパ的な、なおかつホリガーならではのプログラムで、コンチェルトのソロのトーマス・ツェートマイヤーともども切れ味の鋭い演奏を愉しむことができた。
 ちなみに、なぜホリガーならではと付け加えたかというと、彼にとってヴェレシュは作曲の師匠であるからだ。
 そう、ホリガーは作曲家としても知られているのである。
 ヴェレシュのほかに、ホリガーが学んだ作曲家にはピエール・ブーレーズがいるが、今回聴いたシェーンベルクとウェーベルンの作品を録音したアルバムも、そうしたブーレーズとの繋がりを感じさせる。
 なぜならブーレーズは、新ウィーン楽派、中でもウェーベルンに強い影響を受けていたからだ。
 このアルバムでは、シェーンベルクの室内交響曲第1番、ウェーベルンの交響曲(と言っても、10分に満たない作品。ただし、その中にウェーベルンの音楽性が凝縮されていて密度はとても濃い)、ホリガー自身の編曲によるシェーンベルクの6つの小品、ウェーベルンの弦楽合奏のための5つの楽章と、シェーンベルクとウェーベルンが交互に演奏されている。
 その作風からいえば、ウェーベルンや自らが編曲した6つの小品のような点描的な音楽によりシンパシーを感じるのかもしれないけれど、後期ロマン派の残り香が未だ色濃い室内交響曲第1番でも、ホリガーはよく引き締まって間然としない音楽を聴かせる。
 ローザンヌ室内管弦楽団も精度の高いアンサンブルで、全く危うさがない。
 加えて録音が実にクリアだ。
 不協和音、無調の音楽に拒否反応のない方にはぜひご一聴いただきたい。
 昨夜聴いた3つのシンフォニエッタとは、とても対照的な音楽である。
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2024年01月06日

今日聴いた音楽からA(2024年1月6日)

 ディマ・スロボデニュークは1975年にモスクワに生まれたが、現在は17歳で移り住んだフィンランドを拠点にしている指揮者だ。
 スペインのガリシア交響楽団やフィンランドのラハティ交響楽団のシェフをつとめる傍らヨーロッパ各地に客演し、2019年にはNHK交響楽団も指揮、あいにく新型コロナのせいで2021年の来日はとりやめになったものの、今年11月には再び来日し今度はN響の定期公演を指揮する予定である。
 CDのリリースも少しずつ増えたり、ベルリン・フィルにも登場したりと少しずつこの国でも認知度が高まっているのではないか。
 僕がスロボデニュークの存在を知ったのは、YouTubeのガリシア交響楽団の公式アカウントがアップしたライヴ映像によってだ。
 ちょうどガリシア交響楽団が動画配信に積極的になりだした頃の常任指揮者がスロボデニュークで、古典派からロマン派、現代音楽まで幅広い音楽を聴くことができた。
 ライヴゆえの傷はあるし、ガリシア交響楽団のアンサンブルも超一流とは言えないが、独特のノリがあって聴いていて実に愉しい。
 スロボデニュークもそうしたオーケストラの特性を活かしつつ、よくコントロールのきいた音楽をつくり出していた。
 今回聴いたのは、スロボデニュークがラハティ交響楽団を指揮してプーランク、プロコフィエフ、ブリテンのシンフォニエッタを録音したアルバム<BIS>だ。
 シンフォニエッタとは、簡単に言えば小ぶりな交響曲とでもなるか。
 規模だけではなく、音楽面でも交響曲ほどには厳格でなく、もっと肩肘張らない内容になっている。
 プーランクは道化師の仮面の隙間からシリアスな表情が見え隠れするような、躍動感があって軽妙洒脱な音楽の中にちょっとずつ真面目な地の部分が聴こえてくる。
 プロコフィエフはロシア革命以前、18歳のときの若書きで、実に軽快で明快な音楽。
 同じくブリテンも18歳のときに作曲した作品番号1の作品。
 だから、後年皇紀2600年にシンフォニア・ダ・レクイエムをぶつけてくるような尖った感じはまだなくて、全体的にロマン派の残滓を色濃く感じる音楽となっているが、それでも「僕は仮面は着けません、道化師になる気もありません、無理しておかしなことも言いません」といった風はある。
 スロボデニュークは各々の作品の特徴を的確に描き分けるとともに、線がはっきりして均整のとれた音楽づくりを行っている。
 ラハティ交響楽団は、ソロでもアンサンブルでも過不足ない演奏だ。
 20世紀の音楽はどうにもとっつきにくいと思っている人にこそ大いにお薦めしたいアルバムである。
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今日聴いた音楽から@(2024年1月6日)

 京都の小劇場にベトナムからの笑い声という劇団があった。
 今はGO AND MO’Sで活躍中の黒川猛さんをはじめ、笑いに貪欲な人たちが集まってあるはキレッキレのあるは脱力全開の笑劇ならぬ衝撃を与え続けていた。
 そのベトナムからの笑い声の後期、Aさんという女性の俳優さんが加わった。
 Aさんのことは前から知っていたが、正直どうしてベトナムなんだろうという疑問を持たざるをえなかった。
 彼女のこれまでの演劇経験を考えれば、ちょっとベトナムとは色合いが異なるような気がしたからだ。
 そんなAさんのベトナムでの舞台は、それまでの衝撃とは別種の衝撃を僕に与えた。
 上述した如く、ベトナムの面々は笑いに貪欲だ。
 だが、貪欲であっても躊躇がないのとは違う。
 とことん笑いを追求しながらも、こんなことをやっていいのか、いいのか、いいのか、いややったるといった躊躇いがそこにはある。
 もう一人の女性の俳優Yさんはもちろんのこと、黒川さん自身がそうだ。
 ところが、Aさんときたら、まるでそんな躊躇いがないように平然とあれやこれやをこなしていく。
 今なら、すぐさまサイコパスとでも呟いてしまいそうなほど。
 この人には何か闇はないのか? 深淵はないのか?
 なければないで恐怖だし、あるのにそれを全く見せないとしたらそれはそれで恐怖だし。
 たぶん後者だろうと感じてはいたが。
 ベトナムからの笑い声が解散してだいぶんして、ご家族一緒に歩くAさんを見かけた。
 Aさんはとてもシリアスな表情でご家族と何かを話していた。
 やっぱり彼女だって悩むよ、そりゃ。
 逆に、僕は彼女の姿に長年の胸のつかえが下りたようで、ほっとした。

 今日、2010年に結成されたドイツの弦楽4重奏団、ゴルトムント・カルテットが演奏したシューベルトの弦楽4重奏曲第14番「死と乙女」を聴きながら、ふとそのことを思い出した。
 ゴルトムント・カルテットは、もはや初期ロマン派でも当為となったピリオド・スタイルを用いて、クリアでシャープ、歯切れがよくてスピーディーな音楽を聴かせる。
 だが、例えばアントネッロ・マナコルダとカンマーアカデミー・ポツダムが録音した交響曲全集やアルカント・カルテット他が演奏した弦楽5重奏曲で聴かせた深淵を追求することはしない。
 歌曲『死と乙女』の旋律を引用した第2楽章ですらタナトスに傾斜することなく、それどころかエロス(生)の横溢すら感じなくもない。
 第4楽章など、もはや速さのために速いテンポをとっているのではないかとすら思えてきた。
 それは天然自然流、天真爛漫さの表れか? それともあえて深淵を覗かぬことに徹しているのか?
 いずれにしても、非常に興味深く、ある意味怖さを覚えた。

 弦楽4重奏曲の前後には歌曲の編曲がカップリングされていたが、こちらも軽やかな演奏で、少々イージーリスニングぽさすら感じた。
 耳なじみのよい編曲ではあったが。
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2024年01月05日

今日聴いた音楽から(2024年1月5日)

 ユージン・オーマンディ指揮フィラデルフィア管弦楽団が演奏したヘンデルの王宮の花火の音楽と水上の音楽他<SONY>を聴いた。
 実は、このアルバムは国内初出盤のLPが手元にある。
 京都市役所横にホットラインという中古レコード店があって、その入口辺りに、ご自由にお持ちくださいという貼り紙付きで傷が入ったりジャケットがボロボロになって売り物にならないLPやEPが段ボール箱の中に無造作に置かれてあるのだが、そこから見つけて持ち帰ったものだ。
 誰かレコードを聴く装置を持った人に聴かせてもらおうと思ったまま10年近く経ってしまい、結局amazon music unlimitedで先に聴くことになってしまった。
 今やバロック音楽や古典派の音楽は、その作品が作曲された当時の楽器や音楽奏法を再現して演奏する、いわゆるピリオド・スタイルが主流となっているけれど、ここでオーマンディが使用しているのは、イギリスの作曲家で指揮者だったハミルトン・ハーティが大編成のオーケストラのために編曲した組曲版(厳密にいうと、水上の音楽のほうはオーマンディがさらに手を加えているらしい)。
 よく言えば、堂々とした構えでパワフルさも兼ね備えた演奏。
 が、悪く言うと、ちょっとごり押し気味というか、力任せで荒っぽく聴こえる演奏だ。
 一つには、よもや板おこし(マスターテープではなく、レコードの音を利用してデジタル化すること)ではあるまいが、しゃりしゃりとした感じがあまりにも強い音質の古さもあると思う。
 ただ、同じく音質は古く弦楽器も分厚く聴こえるものの、ヘンデルの2つの曲に挟まれたコレㇽリの弦楽のための組曲はバーバーの弦楽のためのアダージョを思い出させる厳粛なサラバンド、優美なジガ、軽快なバディネリと強引さがなく、愉しんで聴くことができた。
 それにしても、もし初めにLPで聴いたらこういった感想になったのだろうか。
 そうはならなかったような気がして仕方ない。
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2024年01月04日

今日聴いた音楽から(2024年1月4日)

 つくりがつくりだけに、ボレロまでくるといわゆる爆演、力任せのそれいけどんどん的な演奏もありっちゃありだが、基本的にラヴェルの作品、ことに管弦楽曲の場合、旋律と楽器の重なり合いなど精緻に組み立てられた美的均整が肝心要なわけで、どうしても精度の高い演奏を求めたくなる。
 その点、1970年代のピエール・ブーレーズこそ、そんなラヴェルにまさしく打ってつけの指揮者だった。
 完璧とまでいってよいほどの徹底した楽譜の解釈と、それを実際の音として再現してみせるオーケストラ・コントロール。
 ニューヨーク・フィルを指揮して録音した海原の小舟、高雅にして感傷的なワルツ、組曲『クープランの墓』<SONY>もまた、そうしたブーレーズとラヴェルの付きのよさを示す最高の実例の一つだろう。
 きらきらと輝く海原の小舟、タイトル通り高雅にして感傷的で、最強音でも濁らない高雅にして感傷的なワルツ、そして個々の楽器としても、アンサンブルとしても精妙で、緩急自在なクープランの墓。
 音楽ってこんなに美しいのか、美しく演奏できるのかと感嘆するほかなかった。
 LP1枚分で40分ほどの収録時間だが、全く惜しくない。
 サブスクだからでなくて、もしこれがLPだろうとCDだろうときっとそう感じるはずだ。
 だいたい、1時間だろうが2時間だろうが、つまらないものを聴かされるならそれは苦痛以外の何物でもない。
 そしてそれは、音楽ばかりでなく、演劇や映画、文章にも通じることだと僕は思う。
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2024年01月03日

今日聴いた音楽からA(2024年1月3日)

 ヴァイオリン4、ヴィオラ2、チェロ2という編成もあって、弦楽8重奏曲は二つの弦楽4重奏団によって演奏されることが多い。
 今夜は、クリーヴランド・カルテットがホストとなるメンデルスゾーンの弦楽8重奏曲を聴いた。
 後年、TELRACレーベルにメリオラ・カルテットとも録音しているが、今夜聴いたのはRCAレーベルに残したもの。
 1977年の録音で、共演は同じ1969年に結成された東京クヮルテット。
 とにかく威勢がよい。
 ぐんぐんぐんぐん前に進む。
 まさしく若いからこそできる演奏だ。
 ただ、技量は高いものの、少々前のめりというか、力が入り過ぎて少々音がしょっぱいというかぎすぎすして聴こえないでもない。
 そもそもメンデルスゾーン16歳のときの作品であるから、若さが前に出過ぎるるのも仕方なかろうし、録音がやけにデッドなことも大きいとは思う。
 それに、良くも悪くも同世代の弦楽4重奏団が共演することの相乗効果とも考えられなくはない。
 カップリングは、弦楽4重奏のみによる変奏曲とスケルツォ。
 ここでは、通常運転というか、インティメートでまとまりのよいいつものクリーヴランド・カルテットの演奏を聴くことができる。
 それにしても、この若かった2つの弦楽4重奏団がやがてベテランの域に達し、ともにすでに解散してしまっているのだから、複雑な気分になる。
 もうあと数年したら録音から50年経つのだから、それも当然といえば当然なのだけれど。
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今日聴いた音楽から@(2024年1月3日)

 すでにhr(フランクフルト放送)交響楽団と全集を録音しているパーヴォ・ヤルヴィが、チューリッヒ・トーンハレ管弦楽団とブルックナーの交響曲の録音を開始した。
 第7番に続く、リリース第2段、第8番<α>を聴いたが、これは充実した演奏となっていた。
 あいにくhr交響楽団との音源は聴いていないが、hrの公式アカウントがアップしているYouTubeのライヴ録画には接したことがある。
 ヤルヴィらしい、スピーディーでクリアな演奏だった。
 ところが、今回のチューリッヒ・トーンハレ管弦楽団との演奏では印象が大きく変わる。
 あちらのライヴ録音に対し、セッション録音ということもあるのかもしれない、表現の密度が非常に濃いものになっているように感じた。
 今回の録音はhrとの録音に比べ、約5分ほど演奏時間が長くなっていものの、音楽自体が弛緩したといった印象は全くない。
 肌理が細やかというのか、細部まで丹念に考え尽くされている一方で、木を見て森を見ずの状態にも陥らない。
 全体が一つの音楽として統一されているのだ。
 第1楽章終盤や第4楽章の厳粛な表情や、第2楽章中間部や第3楽章の抒情性、いずれも強く心を魅かれた。
 チューリッヒ・トーンハレ管弦楽団もよくコントロールされており、精度の高いアンサンブルを聴かせている。
 なお、いつもと同じ音量だと若干音がごちゃついた感じがしたため、幾分ボリュームを上げたところ、十分鮮明に聴こえた。
 もし全集につながるのであれば、非常に愉しみである。
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2024年01月02日

今日聴いた音楽からA(2024年1月2日)

 もともとソプラノ歌手だったアンナ・マグダレーナ・ヴィルケは、ヨハン・セバスティアン・バッハの後妻となり、のちには視力障害となった彼の作曲を援けもした。
 そのアンナ・マグダレーナのためにバッハが与えたのが、いわゆるアンナ・マグダレーナ・バッハの音楽帳だが、現在ではそこに収められた少なからぬ作品がバッハ以外の作曲家によって為されたものだと判明している。
 ラヴァーズ・コンチェルトの原曲でも有名なメヌエットト長調も、実はクリスティアン・ペッツォールトの作品である。
 そのアンナ・マグダレーナ・バッハの音楽帳のセレクション<hyperion>を、イラン系アメリカ人のチェンバロ奏者マハン・エスファハニとソプラノ歌手のキャロリン・サンプソンが録音した。
 エスファハニといえば、ドイツ・グラモフォンに録音したバッハのゴルトベルク変奏曲のCDが手元にあって、チェンバロという楽器の効果と限界を知り尽くした表現に魅了されたが、ここでは曲によってチェンバロとクラヴィコードを弾き分けている。
 小品集ということで、一聴すると取り立てて大きな仕掛けが施されているわけではない。
 だが、集中して耳を傾けると、装飾そのほか、細やかな配慮がなされていることがよくわかる。
 特に、音量の小さなクラヴィコード(小型の楽器でチェンバロと比較すると構造もシンプル)でのニュアンスの豊さには惹き込まれた。
(CD販売サイトの新譜紹介でも、音量についてエラーではない旨の記載がある。余談だけれど、30年近く前、JEUGIA四条店のクラシック担当のアルバイトをしている頃、クリストファー・ホグウッドとクリストフ・ルセがクラヴィコードで演奏したバッハの2重奏曲のCDに関して、故障品ではないのかとクレームが何件かきたことがあった)
 このアルバムのもう一つの魅力は、やはりサンプソンの澄んで伸びのある歌声だ。
 エスファハニ同様、繊細な歌唱で実にインティメートな雰囲気を生み出している。
 非常に充実したアルバムだった。
 かつて気球に乗った山本直純が大きいことはいいことだと煽りたてるCMがあったけれど、ただただ大きいことばかりがいいとは限らないとつくづく思う。
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今日聴いた音楽から@(2024年1月2日)

 昨日、石川県沖で発生した大きな地震の影響で、例年同時中継されているウィーン・フィルのニューイヤーコンサートのNHKでの放送は中止された。
 状況を考えればそれも当然だろう。
 しばらくニュースを聴いていたが、どうにもたまらなくなりORF(オーストリア放送協会)のストリーミング配信でニューイヤーコンサートを聴くことにした。
 当然、被災地のことが気になる。
 それとともに、ガザ地区やウクライナなどのことも考える。
 そして、コンサートが終わりそのままORFを聴いていたら、日本の地震のことが一番に報じられていた。

 地震関連の情報を確かめたあと、午前中、過去のニューイヤーコンサートのライヴ録音から何曲かずつ拾い聴きをした。
 その中でもっとも印象に残ったのは、リッカルド・ムーティが指揮した2021年の演奏で、おなじみ美しく青きドナウやラデツキー行進曲もよかったが、それよりスッペの喜歌劇『詩人と農夫』の序曲が素晴らしかった。
 「線路は続くよどこまでも」にそっくりな旋律が出てくることでも知られる序曲だが、ムーティがこの曲を指揮すると、まるでロッシーニやヴェルディの序曲、それもシリアスなドラマの序曲に聴こえてくるから不思議だ。
 ここぞというところでの盛り上げ方、追い込み方、逆に抒情的な部分での優美さ。
 それにウィーン・フィルがよく応えていて、弦の柔らかい音色には心底聴き惚れた。

 夕方、スラヴの家系に生まれウィーンで音楽を学んだジョージ・セル指揮クリーヴランド管弦楽団が演奏したロッシーニの序曲集<SONY>を聴く。
 セルといえば、アメリカの一地方オーケストラだったクリーヴランド管弦楽団を相手に、インターナショナルというより、第二次世界大戦によって去らざるをえなくなったヨーロッパに向けて高精度の室内楽的なアンサンブルによる音楽づくりを目指した指揮者だけれど、1967年に録音されたこの序曲集では、もちろんよくコントロールされてはいるものの最上級のアンサンブルとまでは聴こえない。
 その理由の一つとして、例えば、『ランスへの旅』や『絹のはしご』、『イタリアのトルコ人』のような緩やかな部分から急速な部分へ移る序曲の場合、出だしのほうがどうしても重たく聴こえてしまうことが挙げられるのではないか。
 しかも、一転、速い部分になるとこれでもかというくらい切れ味鋭く(ドンシャリ気味に)一気呵成に音楽は走る。
 結果、音楽はぎくしゃくとしたものになる。
 これが、『アルジェのイタリア女』や『どろぼうかささぎ』のように、同じ作曲家の歌曲『踊り』みたく全身これ躁状態の曲となると、齟齬を感じる暇もなくあれよあれよという間に音楽が終わってしまう。
 それを、セルのスラヴ系の血によるものだと断じるのは、早計にすぎるかもしれない。
 何しろ、セルはオペラ指揮者としても鳴らした人だ、こうした激情の発露は劇場感覚の発揮でもあるだろうから。
 ただ、まるでドヴォルザークのスラヴ舞曲のように血沸き肉躍る感じのするロッシーニではあった。
 他の一連の録音のようにオーケストラがもっとぎゅっとまとまっていれば、そうしたセルの解釈をより愉しめたのではないか。
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2024年01月01日

今日聴いた音楽から(2024年1月1日)

 今年初めてながらでなくamazon music unlimitedで聴く音楽を何にしようか迷ったが、CDで最初に聴いたのが山田一雄と新日本フィルのモーツァルトだったこともあり、同じ日本の指揮者つながりから沖澤のどかのデビュー・アルバム<DENON>を聴くことにした。
 曲はシベリウスの交響曲第2番、オーケストラは読売日本交響楽団で、2021年10月の東京芸術劇場におけるコンサートのライヴ録音だ。
 沖澤さんといえば、ブザンソン国際指揮者コンクールで優勝後、国内外で活躍中の若手指揮者。
 昨シーズンからは京都市交響楽団の第14代常任指揮者にも就任している。
 このデビューアルバムでも、彼女の指揮者としての力量は遺憾なく発揮されていた。
 ライヴ特有の細かい傷はないではないものの(補正はされているようだが)、全体的によくコントロールされてシャープでクリアな上に、ここぞというところでの鳴りのよさなど音楽の持つドラマを的確に表現していて全く間然とすることがない。
 とともに、透徹した抒情性にも欠けておらず、この曲がいわゆるロマン派(後期)に掉さした音楽であることもよくわかる。
 シベリウス自身はイタリア滞在中にこの交響曲を作曲したというが、ドヴォルザークの新世界よりのように彼の北欧的な素地がよく出ている曲だ。
 青森出身の沖澤さんにはそうした北国特有の言葉だけでは表しえない感情、感覚に共感できているのではないか?
 中でも第2楽章にそのことを強く感じた。


 今年、amazon music unlimitedで聴く2つめのアルバムは、プラハ出身の指揮者ペトル・ポペルカがノルウェー放送管弦楽団を指揮したモーツァルトの交響曲第39番と第40番<LAWO>。
 昨夜聴いた山田一雄のモーツァルトとは全く対照的で、いわゆるピリオド・スタイルを用いた速いテンポの演奏だ。
 ただし、年末にながら聴きしたニコラウス・アーノンクール指揮アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団による一連のモーツァルトの交響曲とも大きくスタイルが違う。
 アーノンクールは、それこそ山田一雄、というかカール・ベームに象徴されるようなゆったりとしたテンポでたっぷりと歌うそのころオーソドックスだったモーツァルト演奏に対する剥き出しの敵意、それが言い過ぎなら対抗意識が明瞭に表れていた。
 近づけば噛みつかれるような、緩急強弱の激しいコントラストやここぞというところでの仕掛け等々。
 だが、そのような時代はとうに過ぎ去って、すでにピリオド・スタイルが当為のものとなったからこそ、そうした極端な表現はポペルカの場合、ない。
 あったとしても、アーノンクールほどに攻撃的な印象は受けない。
 僕には第40番の終楽章、主旋律と低音部との掛け合いが実に面白かった。
 ノルウェー放送管弦楽団も、ポペルカの意図によくそって精度の高いアンサンブルを聴かせている。
 モダン楽器による今現在の古典派演奏を象徴するような録音だ。
posted by figarok492na at 23:51| Comment(0) | TrackBack(0) | CDレビュー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2023年09月17日

アナトール・ウゴルスキの死を知り、ディーナ・ウゴルスカヤの最後の録音を聴く

 昨夜、アナトール・ウゴルスキが弾いたシューマンのダヴィッド同盟舞曲集とシューベルトのさすらい人幻想曲<DG>を聴きながら、もしかしたらウゴルスキは亡くなってしまった、もしくは亡くなるのではないかという想念に急に囚われた。
 少し前にアガ・ミコライというソプラノ歌手が歌ったオペラ・アリアのアルバムを耳にしたときも同じような感覚に襲われ、実際聴き終えたあと調べてみると彼女は亡くなっていた。
 全曲聴き終え、嫌な予感を抱きながら検索して呆然とする。
 ウゴルスキは、今月の5日に亡くなっていた。
 すでにTwitter(X)でもウゴルスキに関する文章は記されていたが、あいにくそれを目にする機会はなかった。

 ウゴルスキの実演に接したことが一度だけある。
 1993年10月8日というからまもなくちょうど30年になる。
 ケルン・フィルハーモニーで開催されたWDR交響楽団の定期演奏会で、彼が弾くブラームスのピアノ協奏曲第1番を聴いた。
 指揮は同じ旧ソ連出身のルドルフ・バルシャイ。
 形は違えど、社会主義体制の抑圧から逃れた者どうしの共演だった。
 ウゴルスキは、腕をぴんと伸ばして指先を鍵盤にぺたりとつけるような独特のスタイル。
 まるで蛸の吸盤が岩か何かに吸い付いているようだなとそのとき思った。
 そして、バルシャイの音楽性もあってか基本的にゆっくりとしたテンポで音楽は進んでいくのだが、ウゴルスキの奏でる弱音の細やかな美しさに僕は強く心魅かれた。
 もちろん、それだけではなく少し間の詰まったような音の流れや、明瞭な強弱のコントラストも強く印象に残ったが。
 いずれにしても、強靭さと繊細さを兼ね備えた高い精度の持ち主であることがわかった。
 その後、ぜひまたウゴルスキの生の音楽に触れたいとも思っていたのだけれど、結局その願いはかなうことがなかった。

 もう一つ偶然が重なった。
 今日、9月17日は、ウゴルスキの娘で同じくピアニストだったディーナ・ウゴルスカヤが2019年に癌で亡くなった日だ。
 彼女の死は当然わかっているが、亡くなった日にちのことは忘れてしまっていた。
 ウゴルスキとの繋がりで調べてみて、改めて呆然となる。
 そのウゴルスカヤにとって最後の録音となるシューベルト・アルバム<CAvi Music>の中からピアノ・ソナタ第21番を聴く。
 正確にいえば、ソナタとカップリングの楽興の時は亡くなる前年2018年8月の録音で、3つのピアノ曲が亡くなった年の1月の録音である。
 すでにこのソナタが録音されたとき、ウゴルスカヤは闘病中だったのか。
 そうしたエピソードと演奏を結んで考えることはできるだけ避けたいが、シューベルトにとっても最後のピアノ・ソナタということもあって、どうしても彼女の死について考えざるをえない。
 一つ一つの音を慈しむかのような、非常に遅めのテンポで音楽は奏でられていて、すぐにヴィルヘルム・ケンプによる録音を思い出した。
 想いは様々にある、あるのだが、いや、あるからこそ言い淀んでしまうような、そんなゆっくりとして静謐な演奏である。
 長調から短調へ、短調から長調へ。
 明と暗、陰と陽の交差がなんとも切ない。
 例えば第2楽章、一瞬陽が射して音楽が前に進む、けれどまた翳りが訪れる。
 ただし、ウゴルスカヤは激しく強音を強調してシューベルトの深淵を明示するようなこともしない。
 すでにそうした必要はないかのような、諦念すら感じてしまう。
 いや、それはやはりウゴルスカヤの死を意識し過ぎているのかもしれないが。
 いずれにしても、忘れ難い演奏であり録音だ。

 最後に、アナトール・ウゴルスキとディーナ・ウゴルスカヤに、深く、深く、深く、深く黙禱を捧げる。
posted by figarok492na at 17:05| Comment(0) | TrackBack(0) | CDレビュー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年06月29日

マナコルダが指揮したメンデルスゾーンの「スコットランド」と「宗教改革」

☆メンデルスゾーン:交響曲第3番「スコットランド」&第5番「宗教改革」

 指揮:アントネッロ・マナコルダ
管弦楽:カンマーアカデミー・ポツダム
 録音:2016年11月(デジタル/セッション)
<SONY/BMG>88985433222


 シューベルトに続いて、アントネッロ・マナコルダと手兵カンマーアカデミー・ポツダムが進めているメンデルスゾーンの交響曲全集第二段である。
 今回は第3番の「スコットランド」と第5番「宗教改革」が収録されている。
 一連の録音と同様、基本はモダン楽器ながら、一部をピリオド楽器に変えるなど、いわゆるピリオド・スタイルが援用された演奏で、マナコルダの楽曲解釈にカンマーアカデミー・ポツダムのソロ・アンサンブル両面での精度の高さも加わって、間然とするところのない音楽を愉しむことができる。
 「スコットランド」のほうは、ときとして序曲『フィンガルの洞窟』のような情景描写的な音楽として捉えられることもないではないが、例えば第1楽章や第3楽章の細やかな表現からもわかるように、マナコルダはメンデルスゾーン自身の心象風景、内面の動き(と言うより、メンデルスゾーンの音楽から受けた自らの内面の動き)に重点を置いた音楽づくりを行っているかのように感じられる。
 それとともに、音そのものの持つドラマ、劇性が的確に表現されていることもやはり忘れてはなるまい。
 第2楽章や第4楽章の飛び跳ねるかのような軽やかな音の動きは、まさしくメンデルスゾーンの面目躍如である。
(であるからなおのこと、第4楽章のコーダは野暮たく聴こえてしまう)
 一方、「宗教改革」は、音楽の持つ祝祭性に充分配慮がなされた演奏だ。
 むろん、第2楽章のように、ここでもメンデルスゾーンの音楽の持つ軽快さは十全に発揮されているが。
 そして、この交響曲、ばかりではなく、このアルバム全体の肝は、第3楽章から第4楽章に移る場面でのフルートのソロといっても過言ではあるまい。
 清澄で静謐なこのフルートのソロには、本当にはっとさせられた。

 初期ロマン派の音楽を清新な演奏で耳にしたいという方には多いにお薦めしたい一枚だ。
 ああ、面白かった!!
posted by figarok492na at 19:19| Comment(0) | TrackBack(0) | CDレビュー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年02月28日

オットー・クレンペラーが指揮したベートーヴェンの交響曲全集

☆ベートーヴェン:交響曲全集他

 指揮:オットー・クレンペラー
 管弦楽:フィルハーモニア管弦楽団、ニュー・フィルハーモニア管弦楽団

<Warner>50999 4 04275 2(10CD)


 1950年代の全集をはじめ、オットー・クレンペラーが手兵フィルハーモニア管弦楽団、ニュー・フィルハーモニア管弦楽団とともにEMIレーベルに録音したベートーヴェンの交響曲、並びに序曲等管弦楽曲をまとめた10枚組のCDボックスである。

 まずメインとなる全集、第1番第1楽章の悠然とした歩みに始まり、英雄という名に相応しい第3番、力感にあふれた第5番、ゆったりとして美しい第6番を経て、深々としたハンス・ホッターの独唱も印象的な第9番の第4楽章に到る9曲の交響曲の演奏は、ベートーヴェンという作曲家の特性魅力を十全に示した充実した内容となっている。
 ただ、この全集は、「スタンダード」ではなく「スペシャル」な演奏であることもまた事実だろう。
 なぜなら、遅めのテンポでじっくり歌わせ、鳴らすべきところを鳴らした、単に劇性に富んで鳴りのいい演奏ではないからだ。
 クレンペラーの全集の特徴は、遅めのテンポ設定であるにもかかわらず、というか遅めのテンポ設定だからこそか、細部にまでよく目配りの届いた演奏に仕上がっているのである。
 本来ならばより緩やかに演奏されるはずの第3楽章よりも第2楽章のほうに演奏時間がかかっている点などその好例だろう。
 また、第4番第3楽章の弦の軽い動きをはじめ、これまで聴き落とされがちだった主旋律を支える部分の細かい仕掛けを強調している点も忘れてはなるまい。
 いずれにしても、聴けば聴くほどベートーヴェンの交響曲の持つ多様な側面を再認識することのできる録音であることに間違いはない。

 加えて、この10枚組のセットには、1955年に録音されたモノラル録音の第3番と第5番、同じく1955年にモノとステレオ別個に録音された二つの録音のうちステレオのほうの第7番、さらには1968年にニュー・フィルハーモニア管弦楽団と録音された第7番も収められていて、クレンペラーの演奏の変容と連続性を確認することが可能である。
 ニュー・フィルハーモニア管弦楽団との第7番など、それ一曲だけ聴けばその遅さばかりが印象に残りかねないが、他の2種類と比べることで、生理的なものも含めたクレンペラーの変化と音楽的な意図を想像することができた。

 同一曲の複数回録音といえば、『レオノーレ』序曲といった序曲集もそう。
 交響曲同様、遅めのテンポであることに違いはないが、こちらのほうでは、かつてベルリン・クロール・オペラでならしたクレンペラーだけに、劇場感覚に満ちた勘所をよく押さえた演奏ともなっている。
 『エグモント』の音楽の抜粋など、ビルギッテ・ニルソンの堂々としたソプラノ独唱とともに実に聴き応えがある。

 そして、強く印象に残ったのが大フーガの弦楽合奏版。
 大きな編成でたっぷり分厚く響かせられながらも、音楽の動きは細かく再現されていて、ロマン派のさきがけどころか、もっと先の音楽の変化を預言させるかのようなこの曲の持つ異様さがよく表現されている。
 ついつい何度も繰り返して聴いてしまった。

 フィルハーモニア管弦楽団(ニュー・フィルハーモニア管弦楽団)は、クレンペラーの解釈によく沿ってソロという意味でもアンサンブルという意味でも精度の高い演奏を披歴しているのではないか。
 すでに録音から50年以上経っているが、モノラル録音も含めてまず音質に不満はない。

 このような密度の濃い10枚組のセットが、いくらセールとはいえ税込み1400円弱だったというのには申し訳なさすら感じる。
 ピリオド・スタイルに慣れ親しんだ方々にも大いにお薦めしたい、音楽を聴く愉しみに満ち満ちたCDである。
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ヘンゲルブロックとNDRエルプフィルによるブラームスの交響曲第4番&第3番

☆ブラームス:交響曲第4番&第3番

 指揮:トーマス・ヘンゲルブロック
 管弦楽:NDRエルプフィルハーモニー管弦楽団

 録音:2016年11月、エルプ・フィルハーモニー・ハンブルク
    デジタル・セッション
<SONY/BMG>88985405082


 新しいコンサートホール、エルプフィルハーモニーの開設とハンブルクとは縁の深いブラームスの没後120年を記念して、本拠地移転を機にその名もNDRエルプフィル―ハーモニー管弦楽団と改めたハンブルクのNDRのオーケストラ(旧北ドイツ放送交響楽団)が、シェフのトーマス・ヘンゲルブロックの指揮でブラームスの交響曲第4番と第3番の2曲を録音した。
(なお、水上に建てられた超モダンな雰囲気のエルプフィル―ハーモニーに関しては、先日朝日新聞でも特集が組まれていたほどだ)

 トーマス・ヘンゲルブロックといえば古楽畑の出身、当然のことながらいわゆるピリオド・スタイルを援用した演奏。
 と考える向きも少なくないだろう。
 実際、テンポ設定やフレーズの処理の仕方等々、ピリオド・スタイルの特徴を指摘することは全く難しいことではない。
 それに、マーラーの交響曲第1番を録音するにあたってあえてハンブルク稿を取り上げたヘンゲルブロックらしく、様々な仕掛けや工夫も聴き受けられる。
 例えば(以下ネタばれご容赦のほど)、CDをかけてすぐ、第4番の第1楽章冒頭には驚かれる方も少なくないだろう。
 と、言うのも、いつものようにすうっとばかりあのおなじみの旋律が始まるのではなく、バーンバーといった感じの耳新しい音楽から始まるからである。
 実はこれ、のちに削除された部分で、リカルド・シャイーとライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の全集ではここだけを切り取っておまけ的に収録されていた。
 すでにシャイーの全集に接していたから、当方など、ああ、やったなと思ってしまったのだけれど、それで座りが妙に悪いかというとそういうことはない。
 と、言うのもヘンゲルブロックが奇を衒って細部ばかりにこだわるのではなく、作品の構造と音楽の全体的な流れを巧くとらえているからである。
 そう、ヘンゲルブロックの音楽を聴く際に感じることの一つは、全体的な流れのよさ見通しのよさだ。
 NDRのオーケストラと録音した一気呵成に進むメンデルスゾーンの交響曲第1番でもそうであったし、歌唱性と大らかさに富んだシューベルトの交響曲第8番「ザ・グレート」でもそうであったように、このブラームスでも終曲へ向かう音の流れが重視されている。
 重視されているからこそ、ブラームスの音楽の持つ特質、ぎくしゃくぎくしゃくとした音の動き、まどろこしいほどの感情的逡巡も浮き彫りになってくる。
 映画音楽で有名になった第3番第3楽章、トラック7の5分過ぎ、クラリネットがほんの僅かに明るさを見せるがすぐに翳りに戻るあたりなど、その好例の一つに挙げたい。
 それと、忘れてはならないのが、NDRエルプフィルの機能性の高さだ。
 NDRのオーケストラによるブラームスといえば、ギュンター・ヴァントとの二度の全集が忘れ難いが、あそこではまだ古色蒼然といった音のくすみが感じられたのに対し、ここではより洗練されて、それこそエルプ・フィルの建物にもぴったりの均整のとれたアンサンブルに変化している。
 中でも、弦楽器の流れのよさが強く印象に残った。
 そうした明晰な楽曲把握と演奏に比して、録音会場のエルプ・フィルの音質はどうかというと、こうやってCDで聴く場合には残響があり過ぎるというか、若干もわっとした感じが強いように思える。
 これが実際のコンサートとなれば、また受ける印象の大きく異なってくるはずだが。

 いずれにしても、ヘンゲルブロックとNDRエルプフィルの共同作業の成果を知ることの出来る一枚だ。
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2017年01月27日

モーツァルトのディヴェルティメント第17番&第10番

☆モーツァルト:ディヴェルティメント第17番&第10番

 演奏:ラルキブデッリ他

 録音:1990年/デジタル・セッション
<SONY>SK46494


 モーツァルトが作曲した、ホルン2本と弦楽4重奏のためのディヴェルティメントを集めた一枚。
 中では、第17番の第3楽章のメヌエットがずば抜けて有名だけれど、その他の楽章も長調作品らしい快活さの中にモーツァルトらしい翳りのようなものが垣間見える(聴こえる)など、いずれも魅力的だ。
 ヴァイオリンのヴェラ・ベスとルーシー・ファン・ダール、ヴィオラのユルゲン・クスマウル、チェロのアンナー・ビルスマによるピリオド楽器アンサンブル、ラルキブデッリは過度に傾かない均整のとれた演奏で、作品の持つ特性を巧みに再現している。
 録音の加減もあってだろうが、艶やかな音色もモーツァルトの音楽によく合っているのではないか。
 また、ナチュラル・ホルンのアブ・コスターとクヌート・ハッセルマンも精度の高い演奏を披歴している。
 モーツァルトの室内楽作品をピリオド楽器で愉しみたいという方にはまずもってお薦めしたいアルバムである。
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2016年09月26日

マナコルダとカンマーアカデミー・ポツダムによるメンデルスゾーンの交響曲第4番「イタリア」&第1番

☆メンデルスゾーン:交響曲第4番「イタリア」&第1番

 指揮:アントネッロ・マナコルダ
管弦楽:カンマーアカデミー・ポツダム
<SONY/BMG>88985338792


 シューベルトの交響曲全集を録音し終えたアントネッロ・マナコルダと手兵カンマーアカデミー・ポツダムが新たに挑むのは、メンデルスゾーンの交響曲。
 その第一弾として、第4番「イタリア」と第1番の2曲がリリースされた。

 金管楽器とティンパニにオリジナル楽器を使用しているという点はシューベルトと同じで、速めのテンポ設定や強弱の強調など、いわゆるピリオド・スタイルによる演奏だ。
 ただ、マナコルダとカンマーアカデミー・ポツダムの魅力はそれだけに留まるものではない。
 未完成交響曲での鋭く透徹した展開や第8番「ザ・グレート」の第2楽章での空白とでも呼ぶべき休止が象徴する、シューベルトの深淵を浮き彫りにするかのような表現、言い換えれば音楽の持つ内面的な雰囲気(「精神性」と記してしまうと、よりもやもやとしたような感情が巧く言い表せない気がするので)の表出もまた、彼彼女らの演奏の大きな魅力である。
 もちろん、そうした魅力は今回のメンデルスゾーンの交響曲でも十分十二分に発揮されている。
 深淵がシューベルトの特性であるとすれば、メンデルスゾーンの場合は、抒情的な憂鬱さとどこか焦燥感を伴った躍動性ということになるか。
 前者の代表的な例としては、当然二つの交響曲の緩徐楽章を挙げるべきだろうが、有名なイタリア交響曲の第1楽章、あの晴々しくて陽性な音楽に垣間見える翳りのようなものがとても印象的で美しい。
 そして、後者でいえば両曲の終楽章。
 例えば、第1番の一気呵成さ、特にラストのまるで機械仕掛けの神が慌てて飛び降りてくるようなじたばた感では同じピリオド・スタイルによる演奏でも、トーマス・ヘンゲルブロック指揮ハンブルクNDR交響楽団の録音に何歩か譲るものの、構えの大きさ、劇的な表現ではマナコルダたちも負けてはいない。
 特に、細やかな音楽の表情の変化が素晴らしく、改めてメンデルスゾーンの早熟ぶりを知らされた。

 カンマーアカデミー・ポツダムの面々も、マナコルダの意図に沿って優れたアンサンブルを披歴している。
 上述した第1番終楽章の弦楽器の目まぐるしい進行には、今年のラ・フォル・ジュルネびわ湖で目の当たりにした笠井友紀率いる彼女彼らの姿をすぐさま思い起こしたほどだ。

 シューベルトに比べてちょっとだけ音質にじがじがした感じがあるが、音楽を愉しむ分にはほとんど気にならない。
 メンデルスゾーンの交響曲を清新な演奏で愉しみたいという方に強くお薦めできる一枚だ。
 そして、残りの第2番「讃歌」、第3番「スコットランド」、第5番「宗教改革」のリリースが本当に待ち遠しい。
(できれば、序曲も数曲録音してくれないかなあ。まあ、第2番1曲と第3番&第5番のカップリングになりそうな気はするけど)


 あと、カンマーアカデミー・ポツダムには、ぜひとも次回はマナコルダと共に来日して、シューベルトやメンデルスゾーンの交響曲を聴かせてもらいたい。
 日本人ピアニストとの抱き合わせでマナコルダは抜き、というのだけは勘弁して欲しい。
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マハン・エスファハニが弾いたゴルトベルク変奏曲

☆ヨハン・セバスティアン・バッハ:ゴルトベルク変奏曲

 独奏:マハン・エスファハニ(チェンバロ)
<DG>479 5929


 あいにく関西は素通りされてしまったものの、今月来日して各地でリサイタルを開催したマハン・エスファハニは、1984年生まれのイラン系アメリカ人。
 現在はイギリスに拠点を移して世界的な演奏活動を行う、若手チェンバリストの大注目株である。
 すでにhyperionレーベルからカール・フィリップ・エマヌエル・バッハのヴュルテンベルク・ソナタ集とラモーのクラヴサン作品集、さらにARCHIVレーベルからバッハよりグレツキ、スティーヴ・ライヒに到る幅広い作品を収めた『現在と過去』をリリースしてきたエスファハニだけれど、今回彼が満を持して本家ドイツ・グラモフォンに録音したのがこのアルバム、バッハのゴルトベルク変奏曲だ。

 ゴルトベルク変奏曲といえば、グレン・グールドの再発見以来、鍵盤楽器奏者にとって避けては通れぬ作品の一つだが、エスファハニの演奏を一言で表わすならば、「今現在の彼にとってそうあるべきものをそうあるべきように表現した」ということになるのではないか。
 それではわかりにくいというのであれば、同じく漠然とはしていても、「今現在の彼の特性魅力が十全に発揮された演奏」と平板な言葉に言い換えてもよい。
 もちろん、鬼面人を嚇す類いのひけらかしまずありきの演奏とは無縁であることは言うまでもない。
 その意味で、グールド以上のスピーディーでエッジの効いた展開を期待するむきには若干物足りなさを感じさせる演奏かもしれない。
 また逆に、エスファハニの自らの感興に正直な姿勢は、古いドイツ流儀の堅固で統一された音楽世界をよしとするむきには敬遠されるべきものかもしれない。
 エスファハニの演奏は、全体を緊密な世界として構築するというよりも、個々の変奏の持つ特徴を細かく捉えながら、それでいて一つの流れを指し示すことにより重きが置かれている。
 一つの流れという点でいえば、冒頭のアリア(トラック1)から第1変奏(トラック2)への移行。
 激しいテンポの変化によって一挙に場面を切り替えるような演奏とは異なり、エスファハニの場合はアリアの余韻を残したままで変奏を始める。
 また、第15変奏(トラック16。たどたどしさすら感じるようなカノンの歩み)から第16変奏(トラック17)冒頭の強打を経ての第17変奏(トラック18)への移行にも、エスファハニの演奏の特徴はよく表されている。
 ただ、そうしたエスファハニの演奏を単にモノマニアックでマニエリスティックな解釈であると判断することも間違いであろう。
 第19変奏(トラック20)のピッチカートを思わせる奏法や、第26変奏(トラック27)から第29変奏(トラック30)での速いテンポの経過に如実に示されているように、エスファハニの演奏解釈は、チェンバロという楽器の特性性質をしっかりと手の内に収めることによって生み出されたものなのである。

 いずれにしても、80分弱の長丁場だが全篇聴き飽きることない、それどころか繰り返して聴けば聴くほど面白さを感じるCDだ。
 明度の高い録音も、エスファハニの明晰な演奏によく沿っている。
 大いにお薦めしたい。
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2016年02月25日

クラウス・テンシュテットが指揮したワーグナーの序曲・前奏曲集

☆ワーグナー:序曲・前奏曲集

 指揮:クラウス・テンシュテット
管弦楽:ベルリン・フィル
 録音:1982年12月、1983年4月、ベルリン・フィルハーモニー
    デジタル/セッション
<EMI>CDC7 470302


 存命ならば、今年でちょうど90歳を迎えるクラウス・テンシュテットは、とうとう実演に接する機会のなかった指揮者であり、音楽家である。
 そういえば、25年以上前のヨーロッパ滞在時、イギリスを訪れた折、ロンドン・フィルのコンサートの当日券を買い求めようとして、窓口の男性に何度も「You know?」、「You know?」(この場合は、「あんた、わかってる?」というニュアンス)と連発されたが、それはテンシュテットが病気でキャンセルして、ロジャー・ノリントンが代役に立つことをわかっているのかという念押しだった。
 ケルンでのヨーロッパ室内管弦楽団とのコンサートでノリントンに魅せられたこちらは、そのノリントンこそが目当てだったため、すかさず「I know」と重々しく返答したのだけれど、窓口の男性はそれはそれで怪訝そうな表情を浮かべていたっけ。

 このCDは、テンシュテットが次代を担う指揮者として、ポスト・カラヤンの下馬評にも上がっていた頃にベルリン・フィルと録音した2枚のワーグナー・アルバムのうち、序曲・前奏曲を収めたほうだ。
 歌劇『タンホイザー』序曲、歌劇『リエンツィ』序曲、歌劇『ローエングリン』第1幕と第3幕への前奏曲、楽劇『ニュルンベルクのマイスタージンガー』第1幕への前奏曲と、おなじみの作品ばかりが集められているが、テンシュテットは細部を細かく整えることよりも、音楽の内実をしっかりと掴んで直截に再現してみせることに重点を置いている。
 概して、ゆったりとしたテンポをとりつつ、鳴らすべきところは十分に鳴らし、抑えるべきところはきっちりと抑え、音楽の劇性を巧みに表していく。
 『タンホイザー』では官能性、『ローエングリン』の第1幕への前奏曲では静謐さと神秘性、『マイスタージンガー』では祝祭性と、曲の持つイメージもよくとらえられており、中でも『リエンツィ』序曲の強奏部分(打楽器!)が示す野蛮さ、暴力性は強く印象に残る。
 2016年現在はもとより、このアルバムがリリースされた1984年においても、ドイツの巨匠風というか、時代を感じさせる解釈であるだろうことも含めて、テンシュテットという不世出の音楽家の本質を識ることのできる一枚だろう。
 なお、このCDは初出時のイギリス・プレスの輸入盤で、じがつきもやつきの多いEMIレーベルの録音ということにデジタル初期ということもあってか、音に相当古さを感じさせる。
 こちらは初出時の輸入盤コレクターなのであえて購入したが(中古で500円だったし)、一般的には、現在廉価で再リリースされているCDをお選びいただいたほうが無難かもしれない。
(ただし、比較的大きめの音量で聴くと、弦、管、打と各楽器の分離の良い録音であることもわかる。大音量で鳴らすときこそ真価を発揮するという、LP時代の流れがこの頃まではまだ続いていたのだろう)

 余談だが、テンシュテットは手兵ロンドン・フィルとともに、1984年4月と1988年10月に来日していて、後者のワーグナー・プログラムの東京公演(1988年10月18日、サントリーホール大ホール)をNHKが録画したものはDVD化もされていた。
 そして、10月25日には、大阪のザ・シンフォニーホールで同じプログラムのコンサートが開催されていたのだけれど、すでに京都に住んでいたにも関わらず、僕はそれをパスしてしまった。
 今思えば、本当に残念なことだ。
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2016年02月16日

ビルソンとガーディナーらが演奏したモーツァルトのピアノ協奏曲第20番&第21番

☆モーツァルト:ピアノ協奏曲第20番&第21番

 独奏:マルコム・ビルソン(フォルテピアノ)
 指揮:ジョン・エリオット・ガーディナー
管弦楽:イングリッシュ・バロック・ソロイスツ
 録音:1986年4月、ロンドン・セント・ジョンズ・スミス・スクエア
    デジタル/セッション
<ARCHIV>419 609-2


 フランス・ブリュッヘンとクリストファー・ホグウッドの死に、ニコラウス・アーノンクールの引退で、1980年代以降、デジタル録音の開始と基を一にするピリオド・スタイル流行の端緒を担った指揮者たちも、残るはトン・コープマン、シギスヴァルト・クイケン、トレヴァー・ピノック、ロジャー・ノリントン、そしてジョン・エリオット・ガーディナーということになってしまった。
 このアルバムは、そのガーディナー&イングリッシュ・バロック・ソロイスツとフォルテピアノのマルコム・ビルソンが完成させたモーツァルトのピアノ協奏曲全集中の一枚で、彼らの特性をよく伝える内容となっている。
 ピアノ協奏曲第20番といえば、モーツァルトの音楽の持つデモーニッシュさが強調されがちだけれど、ビルソンとガーディナーはそうしたロマン派的な解釈に傾くことなく、折り目正しい楷書体の演奏を繰り広げている。
 その分、深淵を見つめるかのような心の動きを呼び起こされることはないが、フォルテピアノの簡潔で質朴な音色には魅了されるし、管弦楽伴奏のシンフォニックな構造もよくわかる。
 その意味で、長調の第21番のほうがより演奏者の柄に合っているかもしれない。
 独奏、オーケストラともにバランスがとれて安定した出来であり、二つの協奏曲のピリオド楽器によるオーソドックスな解釈としてお薦めできる一枚だ。
 デジタル初期の録音もクリアで、演奏を愉しむという意味では問題ない。
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ヨエル・レヴィが指揮したブラームスのセレナード第1番&ハイドンの主題による変奏曲

☆ブラームス:セレナード第1番&ハイドンの主題による変奏曲

 指揮:ヨエル・レヴィ
管弦楽:アトランタ交響楽団
 録音:1993年1月16日、17日
    アトランタ ウッドラフ・パフォーミング・アーツ・センター
    デジタル/セッション
<TELARC>CD-80349


 アメリカ大統領選の候補者選びが進んでいるが、あの民主共和両党の党員集会のあり様に、どうしても本多勝一らの「アメリカ合州国」という言葉を思い出さざるをえない今日この頃だ。
 で、国家国民自体が千差万別であれば、そのオーケストラの持つ雰囲気も千差万別ということになる。
 さしずめ、ルーマニア生まれのイスラエル人ヨエル・レヴィと、アメリカ南部のアトランタ交響楽団が録音したこのブラームスのアルバムなど、その好例ではないか。
 セレナード第1番とハイドンの主題による変奏曲といえば、ブラームスの管弦楽曲の中では喜びと幸福感をためた作品で僕は大好きなのだけれど(ヴァーノン・ハンドリーとアルスター管弦楽団が同じカップリングのアルバムを、CHANDOSレーベルからリリースしている)、レヴィとアトランタ交響楽団ははしゃぎ過ぎず引っ込み過ぎず、のっそり過ぎずせかせか過ぎず、落ち着きのある「中欧的」な演奏を繰り広げている。
 例えば、レナード・スラットキンとセントルイス交響楽団にも同種の録音があるが(RCAレーベル。カップリングは異なるものの、セレナード第1番と第2番、ハイドンの主題による変奏曲、大学祝典序曲を録音)、あちらのエネルギッシュでパワフル、ぐいぐい攻めるアメリカナイズされた演奏とは好対照の内容だ。
 録音による切り貼りはあるとしても、アトランタ交響楽団はソロ、アンサンブルともにまとまりが良くて、高い水準を保っている。
 管楽器のくすんだ響きは、ブラームスにはぴったりである。
 ハイドンの主題による変奏曲の最終変奏の終盤、若干盛り上がりにかける感じもしないではないが、その抑制具合もヨーロッパ的と言えなくはない。
 TELARCレーベルらしく、鳴りと分離のよい音質で、こちらも無問題。
 何度繰り返し聴いても聴き飽きない一枚で、ブラームスをのんびりじっくりと愉しみたい方にお薦めしたい。

 そうそう、レヴィのブラームスには、現在シェフを務める韓国のKBS交響楽団との交響曲第2番のライヴ映像がyoutubeに投稿されている。
 楽曲の解釈という意味ではオーソドックスな内容で、ながら聴きにはぴったりだ。
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2016年01月31日

シューベルトのマイアホーファーの詩による歌曲集

☆シューベルト:マイアホーファーの詩による歌曲集

 テノール:クリストフ・プレガルディエン
 フォルテピアノ:アンドレアス・シュタイアー
 録音:2001年1月、ケルン・ドイッチュラントラジオ・スタジオ
    デジタル・セッション
<TELDEC>8573-85556-2


 1月末日、さらには彼自身の219回目の誕生日ということもあって、これまで投稿しそびれていた、シューベルトのマイアホーファーの詩による歌曲集に関する感想を記しておきたい。

 このアルバムには、シューベルトと直接親交のあったヨハン・バプティスト・マイアホーファーの詩による歌曲が23曲収められている。
 おなじみの作品に比べると、一聴、すぐさま口ずさめそうな歌曲ばかりとはいかないが、それでもシューベルトの音楽の持つ旋律の美しさ、抒情性、劇性、形而上的思考等々は、十全に示されているとも思う。
 プレガルディエンとシュタイアーはそうした歌曲の数々を、彼らが重ねてきた共同作業の頂点とでも評したくなるような高い表現力で再現し切っていて、何度聴き返しても全く聴き飽きない。
 その意味でも、
>しかし私の身体の隅々からは
 魂のこころよい力が涌き出でて、
 私をとりかこみ
 天上の歌を歌うのだ。
 滅び去れ、世界よ、そして二度と
 この世のものならぬ甘美な合唱を妨げるな。

 滅び去れ、世界よ、滅び去れ<
と詩人自身の歌詞によって、訣別が歌われた『解脱』が最後に置かれていることは、非常に興味深い。
 近年では、声の衰えを感じざるをえないプレガルディエンだが、ここでは透明感、清潔感があって伸びのある声質は保たれているし、一つ一つの作品への読み込みの深さは言うまでもない。
 また、シュタイアーも時に押し時に引く見事な掛け合いでプレガルディエンの歌唱をサポートする。
 今日たまさか、NHK・FMの『きらクラ!』のリスナーさんからのお便りに、シューベルトの歌曲のピアノは単なる伴奏ではなく、共に歌を歌っているように、二重唱のように聴こえるという趣旨の言葉があったのだけれど、プレガルディエンとシュタイアーはまさしくそうした関係を築き上げていたのではないか。

 シューベルトの好きな方、特に彼の歌曲が好きな方には大いにお薦めしたい一枚だ。
posted by figarok492na at 22:05| Comment(0) | TrackBack(0) | CDレビュー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする