それまでちっともぴんとこなかったくせに、40代の終わりごろになって、ワーグナーの楽劇『トリスタンとイゾルデ』の第1幕への前奏曲と愛の死を聴く機会が急に増えた。
といって、突然愛だのなんだのの世界に目醒めたということではない。
人生の先、人生という砂時計の砂がどんどん流れ落ちていく感覚と、この音楽の持ついわく言い難い「たまらなさ」が重なり合うように思えてきたからだ。
今夜は、ヴィルヘルム・フルトヴェングラーがベルリン・フィルを指揮した1938年2月の録音<WARENER>を聴いた。
リマスタリングが施されているとはいえ、SP録音ゆえの音質の古さは否めないし、セッション録音のために音楽との間に距離があるというか、ライヴ録音のような没入感には若干不足する。
それでも、特に愛の死のエロスとタナトスがないまでになってうねり上がっていくような音楽の様はよくわかる。
ベルリン・フィルも分厚い響きを聴かせている。
ところで、当時のドイツは、ご存じのとおりナチス・ヒトラーの政権下にあった。
この録音の翌月、ドイツはオーストリアを併合し、10月にはミュンヘン会談でチェコスロヴァキアからズデーテン地方を割譲された。
そして翌年には第二次世界大戦が始まる。
愛と官能の世界に耽溺する音楽であり演奏であったとしても、いやそうだからこそなおのこと僕はそのことについて考えざるをえない。
とともに、そうした演奏を今の日本で、今の世界の中で聴くことについても考えざるをえない。
そうした意味でもアクチュアリティを持った演奏であり録音である。
2024年02月27日
2024年02月26日
今日聴いた音楽から(2024/2/26)
アルトゥール・ロジンスキーがニューヨーク・フィルを指揮した録音の中から、エネスコのルーマニア狂詩曲第1番(1946年2月録音)、リストのメフィスト・ワルツ第1番(1945年2月)、ヴォルフ=フェラーリの歌劇『スザンナの秘密』序曲(同)<SONY>を聴く。
いずれもSP原盤で、オリジナルのLPはエネスコとリストの2曲のみ、そこに同時期の録音のヴォルフ=フェラーリを加えて配信されているものだ。
ロジンスキーといえばオーケストラビルダー(オーケストラを鍛える名人)として著名である一方、血の気の多いエネルギッシュな音楽づくりでも知られた指揮者だ。
激しく怒っているが冷静さを失わない、もしくは徹底したコントロールの上に情熱を放射しているといったロジンスキーの特性が、このエネスコ、リスト、ヴォルフ=フェラーリの3曲ではことによく表れている。
伸びやかなメロディーで始まり徐々に加速し熱狂的に終わるエネスコ、激しい動きと良い意味での怪しさを兼ね備えたリスト、そして超快速のヴォルフ=フェラーリ。
いずれもよくコントロールされて乱れず、それでいてこれぞ熱も失わない。
実に聴き応え十分だ。
ニューヨーク・フィルも達者というほかないし、リマスタリングの成果もあって音質も非常にクリアである。
これが太平洋戦争中に録音されていたんだから、そりゃ日本が勝てるわけはない。
いずれもSP原盤で、オリジナルのLPはエネスコとリストの2曲のみ、そこに同時期の録音のヴォルフ=フェラーリを加えて配信されているものだ。
ロジンスキーといえばオーケストラビルダー(オーケストラを鍛える名人)として著名である一方、血の気の多いエネルギッシュな音楽づくりでも知られた指揮者だ。
激しく怒っているが冷静さを失わない、もしくは徹底したコントロールの上に情熱を放射しているといったロジンスキーの特性が、このエネスコ、リスト、ヴォルフ=フェラーリの3曲ではことによく表れている。
伸びやかなメロディーで始まり徐々に加速し熱狂的に終わるエネスコ、激しい動きと良い意味での怪しさを兼ね備えたリスト、そして超快速のヴォルフ=フェラーリ。
いずれもよくコントロールされて乱れず、それでいてこれぞ熱も失わない。
実に聴き応え十分だ。
ニューヨーク・フィルも達者というほかないし、リマスタリングの成果もあって音質も非常にクリアである。
これが太平洋戦争中に録音されていたんだから、そりゃ日本が勝てるわけはない。
2024年02月25日
今日聴いた音楽から(2024/2/25)
グイド・カンテッリ指揮フィルハーモニア管弦楽団が演奏したシューマンの交響曲第4番<WARENER>を聴く。
カンテッリの録音は断続的に聴いているが、このシューマンでも前進力漲る演奏になっている。
前へ前へと進む音楽が爽快だ。
「生き生きと(Lebhaft)」の言葉のある第3楽章から第4楽章など、カンテッリの本領が十分に発揮されており、わくわくする。
もちろん、それでいて細部を疎かにすることなく、楽章ごとの音楽の変化にも的確に対応していることは言うまでもない。
第2楽章の優美さもまたカンテッリならではだ。
リマスタリングのおかげでだいぶんクリアな音質になっているが、やはりこの演奏もできることならばステレオ録音で聴きたかった。
カンテッリの録音は断続的に聴いているが、このシューマンでも前進力漲る演奏になっている。
前へ前へと進む音楽が爽快だ。
「生き生きと(Lebhaft)」の言葉のある第3楽章から第4楽章など、カンテッリの本領が十分に発揮されており、わくわくする。
もちろん、それでいて細部を疎かにすることなく、楽章ごとの音楽の変化にも的確に対応していることは言うまでもない。
第2楽章の優美さもまたカンテッリならではだ。
リマスタリングのおかげでだいぶんクリアな音質になっているが、やはりこの演奏もできることならばステレオ録音で聴きたかった。
2024年02月24日
今日聴いた音楽からA(2024/2/24)
まだ日曜のお昼にNHK・FMで『きらクラ!』を放送していたころだ。
たまたま途中からラジオをつけると、耳なじみの良すぎる合唱曲がかかっている。
なんだ、この偽善臭ふんぷんとする音楽はと顔をしかめていたら曲が終わって、ジョン・ラターが作曲した宗教曲ということがわかった。
ラター自身、慢性疲労症候群に罹患しているとあとで知ったので、彼にとってはこうした曲調の作品は書かざるをえないものとして書いたのかもと思い直しはしたものの、どうにもむず痒さを感じてしまうことも事実だ。
一つには、ふかわりょうか遠藤真理かリスナーかの絶賛の言葉に鼻白んだことも大きいのだけれど。
そのジョン・ラターがマンチェスター・カメラータを指揮したオーケストラ小品集『クラシカル・トランクウィリティ』<Collegium>が昨年リリースされたので、あえて聴いてみた。
アイルランド民謡のシー・ムーヴド・スルー・ザ・フェア、サティのデイドリーム(ジムノペディ第1番から)、ディーリアスの春初めてのカッコウの声を聴いて、ラヴェルの亡き王女のためのパヴァーヌ、自作の「主よ、わたしをあなたの平和の道具としてください」、グリーグの鉄道の子供たち、ヨハン・セバスティアン・バッハのあなたが傍にいて下さるなら、ラヴェルのメヌエット(ソナチネから)、ドビュッシーの月の光、ヘンデルの「そなたの赴くところ」(オラトリオ『セメレ』から)、ヨハン・セバスティアン・バッハの「羊は安らかに草を食み」というカップリングで、ディーリアスと亡き王女のためのパヴァーヌ以外はラター自身の作編曲によるものである。
そもそもラター好みの作品を揃えているからそうなるのだろうけれど、全篇癒しに満ち満ちた音楽であり演奏となっている。
正直、ジムノペディでも月の光でも、それどころか編曲はしていないディーリアスでも、角が丸められてすべすべとした感じ、本来あるはずの翳りに無理から陽の光をあてたかのようなラターの音楽のつくりにはどうしても違和感が残る。
嫌味ではなく、どうにも毎日が辛くて世の中のあれこれにも目を閉ざしていなければ苦しくて生きていけない人、音楽に慰めをこそ求める人には大いにお薦めしたい。
たまたま途中からラジオをつけると、耳なじみの良すぎる合唱曲がかかっている。
なんだ、この偽善臭ふんぷんとする音楽はと顔をしかめていたら曲が終わって、ジョン・ラターが作曲した宗教曲ということがわかった。
ラター自身、慢性疲労症候群に罹患しているとあとで知ったので、彼にとってはこうした曲調の作品は書かざるをえないものとして書いたのかもと思い直しはしたものの、どうにもむず痒さを感じてしまうことも事実だ。
一つには、ふかわりょうか遠藤真理かリスナーかの絶賛の言葉に鼻白んだことも大きいのだけれど。
そのジョン・ラターがマンチェスター・カメラータを指揮したオーケストラ小品集『クラシカル・トランクウィリティ』<Collegium>が昨年リリースされたので、あえて聴いてみた。
アイルランド民謡のシー・ムーヴド・スルー・ザ・フェア、サティのデイドリーム(ジムノペディ第1番から)、ディーリアスの春初めてのカッコウの声を聴いて、ラヴェルの亡き王女のためのパヴァーヌ、自作の「主よ、わたしをあなたの平和の道具としてください」、グリーグの鉄道の子供たち、ヨハン・セバスティアン・バッハのあなたが傍にいて下さるなら、ラヴェルのメヌエット(ソナチネから)、ドビュッシーの月の光、ヘンデルの「そなたの赴くところ」(オラトリオ『セメレ』から)、ヨハン・セバスティアン・バッハの「羊は安らかに草を食み」というカップリングで、ディーリアスと亡き王女のためのパヴァーヌ以外はラター自身の作編曲によるものである。
そもそもラター好みの作品を揃えているからそうなるのだろうけれど、全篇癒しに満ち満ちた音楽であり演奏となっている。
正直、ジムノペディでも月の光でも、それどころか編曲はしていないディーリアスでも、角が丸められてすべすべとした感じ、本来あるはずの翳りに無理から陽の光をあてたかのようなラターの音楽のつくりにはどうしても違和感が残る。
嫌味ではなく、どうにも毎日が辛くて世の中のあれこれにも目を閉ざしていなければ苦しくて生きていけない人、音楽に慰めをこそ求める人には大いにお薦めしたい。
今日聴いた音楽から@(2024/2/24)
ルドルフ・ゼルキンという音楽家にとって、ベートーヴェンはその中心となるレパートリーだった。
そのルドルフ・ゼルキンが最晩年に録音したピアノ・ソナタ第21番「ワルトシュタイン」と第23番「熱情」<DG>を聴いた。
前者は1986年、後者は1989年というからルドルフ・ゼルキンにとって最晩年の録音である。
実は、この二つの録音は諸般の事情でお蔵入りになっていたもので、昨年になってようやくリリースされた。
販売を許可した娘のジュディス・ゼルキンが断りを入れているように、最終段階まで編集された「完璧」なアルバムではない。
録音時期に曲調もあってワルトシュタインはまだしも、熱情のほうは、正直聴いていて辛い部分もある。
例えば、解釈もあるのだろうが、終楽章の遅さはどうしてももたつき気味に聴こえてしまう。
だが、それでもそれこそ熱情の迸りを強く感じもする。
特に終楽章のコーダ。
一気にテンポが速まる、全力全身で音楽を鳴り響かせる。
また、ワルトシュタインでは硬質で透明な強音や過度に陥らない抒情性がよく発揮されてもいた。
ルドルフ・ゼルキンが人生をかけて何と向き合ってきたがわかる貴重なドキュメントだ。
そのルドルフ・ゼルキンが最晩年に録音したピアノ・ソナタ第21番「ワルトシュタイン」と第23番「熱情」<DG>を聴いた。
前者は1986年、後者は1989年というからルドルフ・ゼルキンにとって最晩年の録音である。
実は、この二つの録音は諸般の事情でお蔵入りになっていたもので、昨年になってようやくリリースされた。
販売を許可した娘のジュディス・ゼルキンが断りを入れているように、最終段階まで編集された「完璧」なアルバムではない。
録音時期に曲調もあってワルトシュタインはまだしも、熱情のほうは、正直聴いていて辛い部分もある。
例えば、解釈もあるのだろうが、終楽章の遅さはどうしてももたつき気味に聴こえてしまう。
だが、それでもそれこそ熱情の迸りを強く感じもする。
特に終楽章のコーダ。
一気にテンポが速まる、全力全身で音楽を鳴り響かせる。
また、ワルトシュタインでは硬質で透明な強音や過度に陥らない抒情性がよく発揮されてもいた。
ルドルフ・ゼルキンが人生をかけて何と向き合ってきたがわかる貴重なドキュメントだ。
2024年02月23日
今日聴いた音楽からA(2024/2/23)
マレク・ヤノフスキとドレスデン・フィルが演奏したシューベルトの交響曲第7番「未完成」と第8番「ザ・グレート」<PENTATONE>を聴いた。
ヤノフスキは1939年にポーランドのワルシャワで生まれたが、幼少期からドイツで学んだこともあり、現在ではドイツの指揮者と見なされている。
事実、そのレパートリーの核も古典派からロマン派を経て、現代音楽に至るドイツの作曲家だ。
ヤノフスキの指揮の特徴はオーケストラをバランスよくコントロールし、均整のとれた音楽をつくるところにあるのではないか。
このシューベルトでも、そうした彼の特徴がよく表れている。
速いテンポで粘ることなく、かつ歌唱性にも富んだ見通しのよい音楽だ。
そうした音楽づくりは僕自身の好みにもぴったりあっている。
ただ、そうした音楽づくりだからこそ、物足りなさを感じた点もあった。
それは、ティンパニの音がやけに遠くに聴こえたことである。
もちろん、何がなんでものべつまくなしティンタンティンタンティンパニが響いていればよいというものでもないが、しかし、この録音では他の楽器の分離の良さに比べて、防音マットでも被せているんじゃないかというのは言い過ぎにしてもティンパニの音が目立たない。
ヤノフスキの音楽の好みもあるのだろうが、未完成にしてもザ・グレートにしてもここぞというところでのティンパニの一閃は大きな意味を持っている。
それが今一つしっかり聴こえてこないというのは、もどかしい。
そこがクリアであれば、より魅力的なアルバムになっただろうに。
もしかして自分の耳のせいではと、試しにヤン・ヴィレム・デ・フリーントが京都市交響楽団とハーグ・レジデンティ管弦楽団を指揮したザ・グレートの一部をながら聴きしたが、ピリオド・スタイルということもあってかティンパニがよく鳴っていた。
ううん。
ヤノフスキは1939年にポーランドのワルシャワで生まれたが、幼少期からドイツで学んだこともあり、現在ではドイツの指揮者と見なされている。
事実、そのレパートリーの核も古典派からロマン派を経て、現代音楽に至るドイツの作曲家だ。
ヤノフスキの指揮の特徴はオーケストラをバランスよくコントロールし、均整のとれた音楽をつくるところにあるのではないか。
このシューベルトでも、そうした彼の特徴がよく表れている。
速いテンポで粘ることなく、かつ歌唱性にも富んだ見通しのよい音楽だ。
そうした音楽づくりは僕自身の好みにもぴったりあっている。
ただ、そうした音楽づくりだからこそ、物足りなさを感じた点もあった。
それは、ティンパニの音がやけに遠くに聴こえたことである。
もちろん、何がなんでものべつまくなしティンタンティンタンティンパニが響いていればよいというものでもないが、しかし、この録音では他の楽器の分離の良さに比べて、防音マットでも被せているんじゃないかというのは言い過ぎにしてもティンパニの音が目立たない。
ヤノフスキの音楽の好みもあるのだろうが、未完成にしてもザ・グレートにしてもここぞというところでのティンパニの一閃は大きな意味を持っている。
それが今一つしっかり聴こえてこないというのは、もどかしい。
そこがクリアであれば、より魅力的なアルバムになっただろうに。
もしかして自分の耳のせいではと、試しにヤン・ヴィレム・デ・フリーントが京都市交響楽団とハーグ・レジデンティ管弦楽団を指揮したザ・グレートの一部をながら聴きしたが、ピリオド・スタイルということもあってかティンパニがよく鳴っていた。
ううん。
今日聴いた音楽から@(2024/2/23)
ストラヴィンスキーが遺した数多い作品の中で何が一番好きかと問われたら、迷うことなくバレエ音楽『プルチネッラ』を挙げる。
ペルゴレージ、と思いきや実は無名のドメニコ・ガッロやらヴァッセナール伯やらの音楽を下敷きにしてストラヴィンスキーが仕立て直した茶番劇。
できれば三人の独唱者も加わった全曲版がいいが、美味しい部分を選り抜いた管弦楽だけの組曲版でも文句ない。
なんならヴァイオリンやチェロのために編曲されたイタリア組曲でもいい。
いずれにしても、『プルチネッラ』の音楽を聴いたら嬉しくなってくる。
今日は、オットー・クレンペラー指揮フィルハーモニア管弦楽団が演奏した組曲<WARENER>を聴いた。
クレンペラーといえばドイツ・ロマン派の巨匠といった扱いがされがちだが、もとはといえば新即物主義的な楽曲解釈の持ち主で、第1次世界大戦後ベルリンのクロール・オペラを舞台に斬新な出し物を取り上げて大いに脚光を浴びた指揮者でもあった。
まあ、それから幾星霜、1964年に録音されたこの録音では縦の線がきっちり揃わなかったり、リズムが緩くなったりと寄る年波による変化は如実にあらわれてしまっているのだけれど。
かつて鳴らした人物の昔話を聴くような味わいがある。
かえってわかりにくい譬えになるかもしれないが、若き日は新国劇の大看板として鋭い殺陣を見せていた辰巳柳太郎が、晩年あえて耄碌爺を演じきっていたというか。
ただ、そうしたぴっちり全体をまとめ上げる演奏ではないからこそ、ストラヴィンスキーが手を加えた部分の個性、おなじみ三大バレエに通じロシア的な響きなどがよくわかるように感じたことも事実だ。
例えば、エサ・ペッカ・サロネン指揮ロンドン・シンフォニエッタ他によるスタイリッシュでシャープな演奏に慣れ親しんでいる人にこそお薦めしたい録音である。
ペルゴレージ、と思いきや実は無名のドメニコ・ガッロやらヴァッセナール伯やらの音楽を下敷きにしてストラヴィンスキーが仕立て直した茶番劇。
できれば三人の独唱者も加わった全曲版がいいが、美味しい部分を選り抜いた管弦楽だけの組曲版でも文句ない。
なんならヴァイオリンやチェロのために編曲されたイタリア組曲でもいい。
いずれにしても、『プルチネッラ』の音楽を聴いたら嬉しくなってくる。
今日は、オットー・クレンペラー指揮フィルハーモニア管弦楽団が演奏した組曲<WARENER>を聴いた。
クレンペラーといえばドイツ・ロマン派の巨匠といった扱いがされがちだが、もとはといえば新即物主義的な楽曲解釈の持ち主で、第1次世界大戦後ベルリンのクロール・オペラを舞台に斬新な出し物を取り上げて大いに脚光を浴びた指揮者でもあった。
まあ、それから幾星霜、1964年に録音されたこの録音では縦の線がきっちり揃わなかったり、リズムが緩くなったりと寄る年波による変化は如実にあらわれてしまっているのだけれど。
かつて鳴らした人物の昔話を聴くような味わいがある。
かえってわかりにくい譬えになるかもしれないが、若き日は新国劇の大看板として鋭い殺陣を見せていた辰巳柳太郎が、晩年あえて耄碌爺を演じきっていたというか。
ただ、そうしたぴっちり全体をまとめ上げる演奏ではないからこそ、ストラヴィンスキーが手を加えた部分の個性、おなじみ三大バレエに通じロシア的な響きなどがよくわかるように感じたことも事実だ。
例えば、エサ・ペッカ・サロネン指揮ロンドン・シンフォニエッタ他によるスタイリッシュでシャープな演奏に慣れ親しんでいる人にこそお薦めしたい録音である。
2024年02月22日
今日聴いた音楽から(2024/2/22)
クラシック音楽のレコードを買い始めて、今年でちょうど40年になる。
少ない小遣いの中でできるだけたくさんのレコードを聴こうと廉価盤のそれも中古のLPばかり買っていたので、否も応もなくマニアックな演奏家の録音ばかり聴くことになった。
だから、いわゆる巨匠の名録音はたいして持っていなかった。
ヴィルヘルム・フルトヴェングラーのLP、もモノラル録音を電気的に加工した疑似ステレオを2枚持っていただけ。
1枚は有名なバイロイト音楽祭のベートーヴェンの第九で、もう1枚はウィーン・フィルと録音したベートーヴェンの交響曲第3番「英雄」とリストの交響詩『前奏曲』がカップリングされたものだった。
その前奏曲を、今日30年ぶりぐらいに聴いた。
ただし、今回聴いたのはリマスタリングはされているが、モノラル録音である。
前奏曲は、「人生は死への前奏曲」というラマルティーヌの詩に基づいた、リストの遺した交響詩の中ではもっとも有名な作品。
死との葛藤を経て華々しい凱歌で終わる、至極明快な音楽だ。
なおかつ穏やかで美しい旋律にも不足していない。
フルトヴェングラーは強弱緩急のはっきりした音楽づくりで、作品の持つ劇性を巧く表現していた。
これでもっと録音がよければと思わずにはいられない。
少ない小遣いの中でできるだけたくさんのレコードを聴こうと廉価盤のそれも中古のLPばかり買っていたので、否も応もなくマニアックな演奏家の録音ばかり聴くことになった。
だから、いわゆる巨匠の名録音はたいして持っていなかった。
ヴィルヘルム・フルトヴェングラーのLP、もモノラル録音を電気的に加工した疑似ステレオを2枚持っていただけ。
1枚は有名なバイロイト音楽祭のベートーヴェンの第九で、もう1枚はウィーン・フィルと録音したベートーヴェンの交響曲第3番「英雄」とリストの交響詩『前奏曲』がカップリングされたものだった。
その前奏曲を、今日30年ぶりぐらいに聴いた。
ただし、今回聴いたのはリマスタリングはされているが、モノラル録音である。
前奏曲は、「人生は死への前奏曲」というラマルティーヌの詩に基づいた、リストの遺した交響詩の中ではもっとも有名な作品。
死との葛藤を経て華々しい凱歌で終わる、至極明快な音楽だ。
なおかつ穏やかで美しい旋律にも不足していない。
フルトヴェングラーは強弱緩急のはっきりした音楽づくりで、作品の持つ劇性を巧く表現していた。
これでもっと録音がよければと思わずにはいられない。
2024年02月21日
今日聴いた音楽からA(2024/2/21)
グイド・カンテッリ指揮フィルハーモニア管弦楽団が演奏したメンデルスゾーンの交響曲第4番「イタリア」(1955年録音)<WARENER>を聴いた。
メンデルスゾーンといえば、未だに音の風景画家といった捉え方がされていて、事実そうした側面が皆無ではないのだけれど、やはりこの交響曲を聴いてもそれだけにとどまる作曲家ではないと改めて思う。
少なくとも、メンデルスゾーンも他のロマン派の作曲家同様、振幅の激しい感情表現を行っていた。
例えば、それこそイタリアの陽光を感じさせるような第1楽章にも、明らかに感情の翳りを聴くことができるし、サルタレッロ舞曲の執拗な反復が続く終楽章などはことにそうだ。
飛び跳ねるようなリズムの中に、焦燥感が潜んでいる。
カンテッリはそうしたメンデルスゾーンの音楽の持つ感情の動きを的確に再現しているのではないか。
フィルハーモニア管弦楽団も安定したアンサンブルを聴かせる。
以前聴いたシューベルトの未完成交響よくでもそう思ったが、カンテッリの一層の表現の深化を聴くことができなかったことは本当に残念でならない。
メンデルスゾーンといえば、未だに音の風景画家といった捉え方がされていて、事実そうした側面が皆無ではないのだけれど、やはりこの交響曲を聴いてもそれだけにとどまる作曲家ではないと改めて思う。
少なくとも、メンデルスゾーンも他のロマン派の作曲家同様、振幅の激しい感情表現を行っていた。
例えば、それこそイタリアの陽光を感じさせるような第1楽章にも、明らかに感情の翳りを聴くことができるし、サルタレッロ舞曲の執拗な反復が続く終楽章などはことにそうだ。
飛び跳ねるようなリズムの中に、焦燥感が潜んでいる。
カンテッリはそうしたメンデルスゾーンの音楽の持つ感情の動きを的確に再現しているのではないか。
フィルハーモニア管弦楽団も安定したアンサンブルを聴かせる。
以前聴いたシューベルトの未完成交響よくでもそう思ったが、カンテッリの一層の表現の深化を聴くことができなかったことは本当に残念でならない。
今日聴いた音楽から@(2024/2/21)
ドイツ放送フィルが進めているドヴォルザークの交響曲全集から、今年リリースされたばかりの第7番と第8番<SRW>を聴く。
もともとはカレル・マーク・チチョンの指揮で始められた録音だが、日本フィルの首席指揮者としても有名だったピエタリ・インキネンが今は引き継いでいる。
第7番と第8番も、そのインキネンの指揮。
インキネンはオーケストラのコントロールに秀でた指揮者だが、このアルバムでもそうした彼の特性がよく発揮されていた。
まず第7番は、この曲の構成的な堅固さを真正面からとらえた演奏で、全篇間然としない。
第3楽章のリズムもキレがよい。
一方、第8番は強弱緩急のメリハリが一層効いている。
第3楽章の牧歌的美しさも巧く表現されているし、この交響曲のぎくしゃくとして突拍子のない感じも巧く出ていた。
ザールブリュッケンとカイザースラウテルンの放送オケが合併してできたドイツ放送フィルは、ソロとしてもアンサンブルとしても精度が高い。
派手さはないが、手堅く充実したアルバムである。
もともとはカレル・マーク・チチョンの指揮で始められた録音だが、日本フィルの首席指揮者としても有名だったピエタリ・インキネンが今は引き継いでいる。
第7番と第8番も、そのインキネンの指揮。
インキネンはオーケストラのコントロールに秀でた指揮者だが、このアルバムでもそうした彼の特性がよく発揮されていた。
まず第7番は、この曲の構成的な堅固さを真正面からとらえた演奏で、全篇間然としない。
第3楽章のリズムもキレがよい。
一方、第8番は強弱緩急のメリハリが一層効いている。
第3楽章の牧歌的美しさも巧く表現されているし、この交響曲のぎくしゃくとして突拍子のない感じも巧く出ていた。
ザールブリュッケンとカイザースラウテルンの放送オケが合併してできたドイツ放送フィルは、ソロとしてもアンサンブルとしても精度が高い。
派手さはないが、手堅く充実したアルバムである。
2024年02月20日
今日聴いた音楽から(2024/2/20)
昨夜に続いて、グイド・カンテッリ指揮フィルハーモニア管弦楽団が演奏したモーツァルトを聴く。
今日は、交響曲第29番<WARENER>。
交響曲第29番といえば、第25番と並んでモーツァルトの初期の交響曲の中では有名な作品だが、カンテッリとフィルハーモニア管弦楽団は実に瑞々しい音楽を聴かせてくれる。
テンポは速めだが、ただただ速く演奏するための速さに終わるのではなく、長調の中の翳りといった音楽の陰影も丹念に描き込んでいく。
また、終楽章では交響的拡がりを感じることもできた。
今日は、交響曲第29番<WARENER>。
交響曲第29番といえば、第25番と並んでモーツァルトの初期の交響曲の中では有名な作品だが、カンテッリとフィルハーモニア管弦楽団は実に瑞々しい音楽を聴かせてくれる。
テンポは速めだが、ただただ速く演奏するための速さに終わるのではなく、長調の中の翳りといった音楽の陰影も丹念に描き込んでいく。
また、終楽章では交響的拡がりを感じることもできた。
2024年02月19日
今日聴いた音楽から(2024/2/19)
村の楽士たちのへっぽこ演奏を茶化しに茶化したのが、モーツァルトの音楽の冗談。
なんだけど、グイド・カンテッリとフィルハーモニア管弦楽団の演奏<WARENER>で聴くと、なんだか立派な音楽に聴こえてしまうのがおかしい。
速いテンポで流麗、音色も実に上品だ。
下手さの巧さ、って変な言葉だけど、へっぽこ楽士ぶりを発揮しているのは、ホルン。
何しろ、あの名手デニス・ブレインらがソロなんだから舌を巻く下手さの巧さだ。
何度も聴き返すのにふさわしい演奏だと思う。
なんだけど、グイド・カンテッリとフィルハーモニア管弦楽団の演奏<WARENER>で聴くと、なんだか立派な音楽に聴こえてしまうのがおかしい。
速いテンポで流麗、音色も実に上品だ。
下手さの巧さ、って変な言葉だけど、へっぽこ楽士ぶりを発揮しているのは、ホルン。
何しろ、あの名手デニス・ブレインらがソロなんだから舌を巻く下手さの巧さだ。
何度も聴き返すのにふさわしい演奏だと思う。
2024年02月18日
今日聴いた音楽からA(2024/2/18)
オットー・クレンペラー指揮ニュー・フィルハーモニア管弦楽団が演奏したシューマンの交響曲第1番「春」<WARENER>を聴く。
ゆっくりとしたテンポだが、過度な重さや鈍さは感じない。
まさしく当為のものとして春の訪れを感じるような、堂々とした演奏だ。
とともに、この曲の持つ旋律の美しさや歌唱性も強く感じる。
スタイルは大きく異なるとはいえ、フィリップ・ヘレヴェッヘとアントワープ交響楽団による演奏にも通じる感想を持った。
ほかに、劇音楽『マンフレッド』序曲も聴く。
こちらも遅めのテンポ。
それでも悲劇的な切迫感がある。
ゆっくりとしたテンポだが、過度な重さや鈍さは感じない。
まさしく当為のものとして春の訪れを感じるような、堂々とした演奏だ。
とともに、この曲の持つ旋律の美しさや歌唱性も強く感じる。
スタイルは大きく異なるとはいえ、フィリップ・ヘレヴェッヘとアントワープ交響楽団による演奏にも通じる感想を持った。
ほかに、劇音楽『マンフレッド』序曲も聴く。
こちらも遅めのテンポ。
それでも悲劇的な切迫感がある。
今日聴いた音楽から@(2024/2/18)
ヨハネス・クルンプとエッセン・フォルクヴァンク室内管弦楽団によるモーツァルト・シリーズから、交響曲第1番、第28番、第41番「ジュピター」を集めたアルバム<GENUIN>を聴いた。
スピーディーで快活、まさしくピリオド・スタイルのモーツァルトなんだけど…。
実は、この組み合わせが演奏したディヴェルティメントK.136、K.137、K.138を聴いたときと同じく、はじめは爽快に思えた速いテンポがどんどん無機的に感じられてしまい、正直これって速さのための速さじゃないのかとどんどんつまらなくなってしまうのである。
両端楽章の追いかけっこ競争のような表現の単調さも大きな原因になっているのだろうが。
クルンプいえば、不慮の事故のために再起不能となったトーマス・ファイに代わってハイデルベルク交響楽団とのハイドンの交響曲全集を進めているが、今年に入って一気に4枚分のアルバムがリリースされたんだった。
同じピリオド・スタイルとはいえ、師匠ニコラウス・アーノンクール譲り、あちらをこう立たせてこちらはこう退いてといった綿密極まる音楽づくりを重ねていたファイと異なり、クルンプならば、あ〜らよ出前一丁ならぬあ〜らよハイドン一丁、あ〜らよモーツァルト一丁とばかりさくさくスピーディーに録音を進めていけるだろう。
その手際の良さはそれこそ古典派作品、古典派作曲家のあり様にも通じるものだ。
ただ、そうした手際の良さへのアンチテーゼとしてピリオド・スタイルは台頭してきたのではなかったのか?
スピーディーで快活、まさしくピリオド・スタイルのモーツァルトなんだけど…。
実は、この組み合わせが演奏したディヴェルティメントK.136、K.137、K.138を聴いたときと同じく、はじめは爽快に思えた速いテンポがどんどん無機的に感じられてしまい、正直これって速さのための速さじゃないのかとどんどんつまらなくなってしまうのである。
両端楽章の追いかけっこ競争のような表現の単調さも大きな原因になっているのだろうが。
クルンプいえば、不慮の事故のために再起不能となったトーマス・ファイに代わってハイデルベルク交響楽団とのハイドンの交響曲全集を進めているが、今年に入って一気に4枚分のアルバムがリリースされたんだった。
同じピリオド・スタイルとはいえ、師匠ニコラウス・アーノンクール譲り、あちらをこう立たせてこちらはこう退いてといった綿密極まる音楽づくりを重ねていたファイと異なり、クルンプならば、あ〜らよ出前一丁ならぬあ〜らよハイドン一丁、あ〜らよモーツァルト一丁とばかりさくさくスピーディーに録音を進めていけるだろう。
その手際の良さはそれこそ古典派作品、古典派作曲家のあり様にも通じるものだ。
ただ、そうした手際の良さへのアンチテーゼとしてピリオド・スタイルは台頭してきたのではなかったのか?
2024年02月17日
今日聴いた音楽から(2024/2/17)
日曜日からずっと体調不良である。
ながら聴きならまだしも、じっと音楽に集中しているのがつらかった。
なので、しばらく音楽の感想をアップすることもしなかった。
今夜、リハビリを兼ねてクラウディオ・アラウが弾いたチャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番<WARENER>を聴いた。
アルチェオ・ガリエラ指揮フィルハーモニア管弦楽団との共演で、1960年のステレオ録音。
前に聴いたウェーバーのコンツェルトシュテュックと同時に録音されたものだ。
横綱相撲とでも評したくなるような、堂々とした演奏である。
テクニック的に全く無理がなく、なおかつ抒情性にも不足していない。
ドラマティックな部分では当然熱の入った演奏になるが、安っぽくなることはない。
ガリエラ指揮フィルハーモニア管弦楽団もソロに伍して立派な演奏を聴かせている。
聴き応え十分だった。
ながら聴きならまだしも、じっと音楽に集中しているのがつらかった。
なので、しばらく音楽の感想をアップすることもしなかった。
今夜、リハビリを兼ねてクラウディオ・アラウが弾いたチャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番<WARENER>を聴いた。
アルチェオ・ガリエラ指揮フィルハーモニア管弦楽団との共演で、1960年のステレオ録音。
前に聴いたウェーバーのコンツェルトシュテュックと同時に録音されたものだ。
横綱相撲とでも評したくなるような、堂々とした演奏である。
テクニック的に全く無理がなく、なおかつ抒情性にも不足していない。
ドラマティックな部分では当然熱の入った演奏になるが、安っぽくなることはない。
ガリエラ指揮フィルハーモニア管弦楽団もソロに伍して立派な演奏を聴かせている。
聴き応え十分だった。
2024年02月10日
今日聴いた音楽からA(2024/2/10)
小澤征爾が指揮した演奏を続けて聴く。
今回は水戸室内管弦楽団とのベートーヴェンの交響曲第1番とピアノ協奏曲第1番<DECCA>。
交響曲は2017年1月の、マルタ・アルゲリッチをソロに迎えたピアノ協奏曲は同じ年の5月の、ともに水戸芸術館コンサートホールATMにおける定期演奏会でのライヴ録音だ。
まず交響曲第1番は、昨夜聴いた運命の延長線上にあることがよくわかる演奏。
何しろ80代に入ってからの指揮だもの、昔ほどには力いっぱいというわけにはいかないけれど、若干ピリオド奏法への目配りもあるのか、比較的速めのテンポで弦楽器も小刻みに動く。
ただ、そうした音楽づくりである分、かえってオーケストラの編成の少なさやコントロールの衰えが聴こえたりもした。
一方、ピアノ協奏曲第1番はさらにピリオド奏法への目配りが効いて、冒頭から力強くスピーディー。
もちろん、それにはアルゲリッチとの共演ということが大きく作用しているのだろうが。
といっても、単なるテンポどうこうの問題ではなく、そうした速めのテンポをやすやすと弾き切る技量を維持したアルゲリッチの持つエネルギーやパワーからの影響ということだ。
事実、アルゲリッチのソロには感心感嘆した。
両端楽章、特に終楽章の一気呵成な演奏には、同じくアルゲリッチの十八番であるショスタコーヴィチのピアノ協奏曲第1番を思い出したほどだ。
しかも、テクニカルな衰えを感じさせることなく一気呵成であるにもかかわらず。目まぐるしい表現の変化にも不足していない。
そうした変化の豊かさという意味でも、第2楽章が強く印象に残った。
これは、ぜひ実演に接しておきたかったと強く思う。
なお、アルゲリッチと小澤征爾のこの曲は、1983年のバイエルン放送交響楽団のコンサートのライヴ録画も残っている。
できれば一度触れておきたい。
今回は水戸室内管弦楽団とのベートーヴェンの交響曲第1番とピアノ協奏曲第1番<DECCA>。
交響曲は2017年1月の、マルタ・アルゲリッチをソロに迎えたピアノ協奏曲は同じ年の5月の、ともに水戸芸術館コンサートホールATMにおける定期演奏会でのライヴ録音だ。
まず交響曲第1番は、昨夜聴いた運命の延長線上にあることがよくわかる演奏。
何しろ80代に入ってからの指揮だもの、昔ほどには力いっぱいというわけにはいかないけれど、若干ピリオド奏法への目配りもあるのか、比較的速めのテンポで弦楽器も小刻みに動く。
ただ、そうした音楽づくりである分、かえってオーケストラの編成の少なさやコントロールの衰えが聴こえたりもした。
一方、ピアノ協奏曲第1番はさらにピリオド奏法への目配りが効いて、冒頭から力強くスピーディー。
もちろん、それにはアルゲリッチとの共演ということが大きく作用しているのだろうが。
といっても、単なるテンポどうこうの問題ではなく、そうした速めのテンポをやすやすと弾き切る技量を維持したアルゲリッチの持つエネルギーやパワーからの影響ということだ。
事実、アルゲリッチのソロには感心感嘆した。
両端楽章、特に終楽章の一気呵成な演奏には、同じくアルゲリッチの十八番であるショスタコーヴィチのピアノ協奏曲第1番を思い出したほどだ。
しかも、テクニカルな衰えを感じさせることなく一気呵成であるにもかかわらず。目まぐるしい表現の変化にも不足していない。
そうした変化の豊かさという意味でも、第2楽章が強く印象に残った。
これは、ぜひ実演に接しておきたかったと強く思う。
なお、アルゲリッチと小澤征爾のこの曲は、1983年のバイエルン放送交響楽団のコンサートのライヴ録画も残っている。
できれば一度触れておきたい。
今日聴いた音楽から@(2024/2/10)
昨夜に続いて、小澤征爾がシカゴ交響楽団を指揮したアルバムを聴く。
チャイコフスキーの交響曲第5番とムソルグスキーの交響詩『はげ山の一夜』のカップリング<RCA>で、運命と未完成と同時期に録音されている。
昨夜の運命について記したような、前進性と的確なコントロールが兼ね備わった、実に若々しく、実に輝かしい演奏だ。
作曲者の内面の含みや屈折はほとんどうかがえないが、圧倒的で華やかな終楽章のコーダを聴けば、やはり胸は空く。
とともに、チャイコフスキーの持つ抒情性よく歌い込まれていて、それもこの演奏の魅力になっている。
第2楽章のホルンをはじめ、管楽器のソロが巧みだし、終楽章では金管群が底力を聴かせる。
ほんの少しほころびがないわけではないが、シカゴ交響楽団の高水準なアンサンブルもあり、全く古さを感じさせない。
『はげ山の一夜』は、良い意味でお化け屋敷の舞台裏を見せられたような感じ。
リズムをどのようにとったり、楽器をどのように鳴らしたりすれば、おどろおどろしさが醸し出されるか?
そういった音楽のつくりを教えてくれるクリアでシャープな演奏だった。
チャイコフスキーの交響曲第5番とムソルグスキーの交響詩『はげ山の一夜』のカップリング<RCA>で、運命と未完成と同時期に録音されている。
昨夜の運命について記したような、前進性と的確なコントロールが兼ね備わった、実に若々しく、実に輝かしい演奏だ。
作曲者の内面の含みや屈折はほとんどうかがえないが、圧倒的で華やかな終楽章のコーダを聴けば、やはり胸は空く。
とともに、チャイコフスキーの持つ抒情性よく歌い込まれていて、それもこの演奏の魅力になっている。
第2楽章のホルンをはじめ、管楽器のソロが巧みだし、終楽章では金管群が底力を聴かせる。
ほんの少しほころびがないわけではないが、シカゴ交響楽団の高水準なアンサンブルもあり、全く古さを感じさせない。
『はげ山の一夜』は、良い意味でお化け屋敷の舞台裏を見せられたような感じ。
リズムをどのようにとったり、楽器をどのように鳴らしたりすれば、おどろおどろしさが醸し出されるか?
そういった音楽のつくりを教えてくれるクリアでシャープな演奏だった。
2024年02月09日
今日聴いた音楽からA(2024/2/9)
小澤征爾が亡くなった。
彼を悼んで、シカゴ交響楽団と録音したベートーヴェンの交響曲第5番とシューベルトの第7番「未完成」<RCA>を聴く。
1968年というから小澤征爾がまだ30代に入ってすぐ、国際的な地歩をしっかり築き始めたころの録音だ。
小澤征爾は、斎藤秀雄や1960年代までのヘルベルト・フォン・カラヤンといった新即物主義の流れを汲む歯切れがよくて見通しのよい的確なオーケストラ・コントロールを第一とする指揮者に学ぶ一方で、レナード・バーンスタインやシャルル・ミュンシュのような熱量の高い激しい感情表現の持ち主にも強い影響を受けた。
ベートーヴェンの交響曲第5番は、まさしくそうした小澤征爾の音楽的な遍歴が如実に示されている。
おなじみ冒頭の動機から勢いがよく、前へ前へと進んで行く。
すこぶる爽快だ。
しかし、勢い任せでは終わらない。
相手がシカゴ交響楽団という世界でも屈指の技量を誇るオーケストラということも手伝って、均整のとれたまとまりのよい演奏にもなっている。
例えば、第3楽章の後半など、冒頭の動機がどう変容しているか、今どの楽器からどの楽器へ冒頭の動機が受け渡されたかといった、音楽のつくりがよくわかる。
ラスト、ちょっと音が軽くなるきらいがないではないが、実に聴き応えのある演奏だった。
続く未完成交響曲も、若々しくて清新だが、この曲の持つ「特異性」や抒情性、歌唱性を意識した分、小澤征爾自身のそれとの齟齬が垣間見えてしまっていることも否めない。
結果、はまっている部分とそうでない部分との差が大きく聴こえてしまった。
そしてそれは、若いときばかりでなく後年のサイトウ・キネン・オーケストラとの同じシューベルトやブラームスの交響曲演奏にも繋がっている問題だと思う。
それにしても、若かった小澤征爾がその後クラシック音楽界のトップの一角を占めるも、晩年は闘病生活に苦しみ、遂には88歳で亡くなってしまう。
時の流れはあまりにも残酷だ。
彼を悼んで、シカゴ交響楽団と録音したベートーヴェンの交響曲第5番とシューベルトの第7番「未完成」<RCA>を聴く。
1968年というから小澤征爾がまだ30代に入ってすぐ、国際的な地歩をしっかり築き始めたころの録音だ。
小澤征爾は、斎藤秀雄や1960年代までのヘルベルト・フォン・カラヤンといった新即物主義の流れを汲む歯切れがよくて見通しのよい的確なオーケストラ・コントロールを第一とする指揮者に学ぶ一方で、レナード・バーンスタインやシャルル・ミュンシュのような熱量の高い激しい感情表現の持ち主にも強い影響を受けた。
ベートーヴェンの交響曲第5番は、まさしくそうした小澤征爾の音楽的な遍歴が如実に示されている。
おなじみ冒頭の動機から勢いがよく、前へ前へと進んで行く。
すこぶる爽快だ。
しかし、勢い任せでは終わらない。
相手がシカゴ交響楽団という世界でも屈指の技量を誇るオーケストラということも手伝って、均整のとれたまとまりのよい演奏にもなっている。
例えば、第3楽章の後半など、冒頭の動機がどう変容しているか、今どの楽器からどの楽器へ冒頭の動機が受け渡されたかといった、音楽のつくりがよくわかる。
ラスト、ちょっと音が軽くなるきらいがないではないが、実に聴き応えのある演奏だった。
続く未完成交響曲も、若々しくて清新だが、この曲の持つ「特異性」や抒情性、歌唱性を意識した分、小澤征爾自身のそれとの齟齬が垣間見えてしまっていることも否めない。
結果、はまっている部分とそうでない部分との差が大きく聴こえてしまった。
そしてそれは、若いときばかりでなく後年のサイトウ・キネン・オーケストラとの同じシューベルトやブラームスの交響曲演奏にも繋がっている問題だと思う。
それにしても、若かった小澤征爾がその後クラシック音楽界のトップの一角を占めるも、晩年は闘病生活に苦しみ、遂には88歳で亡くなってしまう。
時の流れはあまりにも残酷だ。
今日聴いた音楽から@(2024/2/9)
チリ出身のピアニスト、クラウディオ・アラウとアルチェオ・ガリエラ指揮フィルハーモニア管弦楽団が演奏したウェーバーのピアノと管弦楽のためのコンツェルトシュテュック(小協奏曲)<WARENER>を聴いた。
1960年のステレオ録音。
ウェーバーというと、歌劇『魔弾の射手』をはじめ、耳なじみがよい旋律の快活で鳴りの良い音楽の書き手だが、それが時に行きすぎて、例えば2つの交響曲だとかクラリネット協奏曲をはじめとした協奏曲となるとやけに騒々しいというか、演奏次第では極端にいえばジンタ調の安っぽい音楽になってしまう危険が伴っている。
コンツェルトシュテュックでも、テンポ・ディ・マルチャの部分など特にそう。
まさしく軍楽隊の行進曲風で、やり様によっては聴いちゃいられない。
まあ、ウェーバー自身、十字軍がどうのこうのというこの曲にまつわる物語を語ってみせたらしいから、軍楽隊の行進曲風で間違いはないんだけどね。
オーケストラ中心のパートだけれど、この録音ではアラウに感化されたかガリエラとフィルハーモニア管弦楽団の面々も勇壮堂々として、なおかつ抑制の効いた演奏を行っている。
もちろん、アラウのソロは見事というほかない。
華麗なテクニックの持ち主ではあるが、そこに情感と気品が兼ね備わっていて、全篇弛緩するところがない。
抒情性の表現も十分で、大いに満足がいった。
そして、その抒情的な部分はメンデルスゾーンやシューマン、ブラームスに繋がり、勇壮堂々とした部分はリストやワーグナーに繋がったのだということを改めて感じた。
リマスタリングの効果で、非常にクリアな音質。
もしかしたら、指揮者とフィルハーモニア管弦楽団のほうはその分下駄を履いているかもしれない。
1960年のステレオ録音。
ウェーバーというと、歌劇『魔弾の射手』をはじめ、耳なじみがよい旋律の快活で鳴りの良い音楽の書き手だが、それが時に行きすぎて、例えば2つの交響曲だとかクラリネット協奏曲をはじめとした協奏曲となるとやけに騒々しいというか、演奏次第では極端にいえばジンタ調の安っぽい音楽になってしまう危険が伴っている。
コンツェルトシュテュックでも、テンポ・ディ・マルチャの部分など特にそう。
まさしく軍楽隊の行進曲風で、やり様によっては聴いちゃいられない。
まあ、ウェーバー自身、十字軍がどうのこうのというこの曲にまつわる物語を語ってみせたらしいから、軍楽隊の行進曲風で間違いはないんだけどね。
オーケストラ中心のパートだけれど、この録音ではアラウに感化されたかガリエラとフィルハーモニア管弦楽団の面々も勇壮堂々として、なおかつ抑制の効いた演奏を行っている。
もちろん、アラウのソロは見事というほかない。
華麗なテクニックの持ち主ではあるが、そこに情感と気品が兼ね備わっていて、全篇弛緩するところがない。
抒情性の表現も十分で、大いに満足がいった。
そして、その抒情的な部分はメンデルスゾーンやシューマン、ブラームスに繋がり、勇壮堂々とした部分はリストやワーグナーに繋がったのだということを改めて感じた。
リマスタリングの効果で、非常にクリアな音質。
もしかしたら、指揮者とフィルハーモニア管弦楽団のほうはその分下駄を履いているかもしれない。
2024年02月08日
今日聴いた音楽から(2024/2/8)
昨年、ながらでなくamazon music unlimitedで聴いたアルバムの中に、ドイツ出身のテノール歌手ヨナス・カウフマンが歌ったプッチーニのオペラ・アリア集<SONY>があった。
暗い情熱とでも呼びたくなるような翳りがあって深みのある重心の低い歌声と役柄にあわせて的確に歌い分ける細やかな歌唱があいまって、非常に充実したアルバムだった。
ただ残念だったのは、珍しいオペラのアリアが多く集められているのに対し、プッチーニならまずはこれ! というおなじみのアリアがほとんど録音されていなかったことだ。
今回聴いた、リチャード・タッカーのアリア集<SONY>ではそんな出し惜しみは一切ない。
『ジャンニ・スキッキ』や『西部の女』からのアリアも含まれているとはいえ、メインはやはり『トスカ』や『トゥーランドット』、『ラ・ボエーム』のおなじみアリアであって、その点非常に満足がいく。
タッカーは1940年代から60年代にかけて一世を風靡したアメリカ出身のテノール歌手。
ちょっと鼻にかかって伸びと張りのある美声の持ち主である。
ただ、問題なのはどの曲も感情過多というのか、歌いぶりが一辺倒なこと。
そして、そのことと深く関係しているが、歌のそこここに自己の歌唱へのナルシズムが漂っていること。
少し前までだったら、思わず「臭い」と断じてしまいそうだけど。
最近、amazon music unlimitedで昔の歌い手の歌を結構聴く機会ができて、これも一つの歴史的証言、過去の大スターの藝のあり様を愉しめるようになってきた。
なので目くじらを立てる気にはならない。
伴奏はファウスト・クレーヴァ指揮コロンビア交響楽団で、1960年の録音だ。
暗い情熱とでも呼びたくなるような翳りがあって深みのある重心の低い歌声と役柄にあわせて的確に歌い分ける細やかな歌唱があいまって、非常に充実したアルバムだった。
ただ残念だったのは、珍しいオペラのアリアが多く集められているのに対し、プッチーニならまずはこれ! というおなじみのアリアがほとんど録音されていなかったことだ。
今回聴いた、リチャード・タッカーのアリア集<SONY>ではそんな出し惜しみは一切ない。
『ジャンニ・スキッキ』や『西部の女』からのアリアも含まれているとはいえ、メインはやはり『トスカ』や『トゥーランドット』、『ラ・ボエーム』のおなじみアリアであって、その点非常に満足がいく。
タッカーは1940年代から60年代にかけて一世を風靡したアメリカ出身のテノール歌手。
ちょっと鼻にかかって伸びと張りのある美声の持ち主である。
ただ、問題なのはどの曲も感情過多というのか、歌いぶりが一辺倒なこと。
そして、そのことと深く関係しているが、歌のそこここに自己の歌唱へのナルシズムが漂っていること。
少し前までだったら、思わず「臭い」と断じてしまいそうだけど。
最近、amazon music unlimitedで昔の歌い手の歌を結構聴く機会ができて、これも一つの歴史的証言、過去の大スターの藝のあり様を愉しめるようになってきた。
なので目くじらを立てる気にはならない。
伴奏はファウスト・クレーヴァ指揮コロンビア交響楽団で、1960年の録音だ。
2024年02月07日
今日聴いた音楽からA(2024/2/7)
1960年代、積極的にマーラーの交響曲を取り上げた数少ない指揮者の一人が、イギリス出身のジョン・バルビローリだった。
手元に名盤の誉れが高いベルリン・フィルとの交響曲第9番のCD<EMI>があるけれど、コンサートでの成功に感動したオーケストラが急遽セッション録音を決めたというだけあって、作品の核となるものと指揮者の音楽性が一体化した熱量の高い演奏となっている。
そのバルビローリがロンドン交響楽団と録音したリヒャルト・シュトラウスの交響詩『英雄の生涯』<WARENER>を聴いた。
1969年というから翌年亡くなったバルビローリにとっては、最晩年の録音になる。
遅い。
通常45分程度のものが、50分もかかる。
一つには健康状態があまりよくなかったのもあるのだろう、これがセルジュ・チェリビダッケのように遅さが細部まで丹念に再現し尽くすための遅さならまだしも、冒頭部分からしてどうも締まらない感じがする。
そもそもリヒャルト・シュトラウスは、職人肌というのか自らのオーケストレーションに対して強い自信と自負を持った作曲家だ。
おまけに、韜晦と皮肉をたっぷりとためたユーモア感覚の持ち主でもあった。
己の世界に没入して、世界に向けて感情を晒しまくるようなマーラーを冷ややかな視線で見つめていた風でもある。
それこそ、ジョージ・セルやヘルベルト・フォン・カラヤンのようなオーケストラのコントロールを第一義とするような指揮者にこそぴったりの音楽なのだ。
だから、バルビローリだとどうしても緩さが気になって仕方がない。
ドイツの名門楽団のような重々しさはないけれど、ロンドン交響楽団は技量の高いオーケストラで、ここでも達者なソロが聴ける。
聴けるのに、それがはまるべきところにすとんとはまらないもどかしさをそこここで感じてしまった。
ところが曲が進んでいく中で、緩やかな部分、陰影が増す部分ではバルビローリの音楽性が本来の作品以上の効果を見せる、聴かせる。
それこそまるで、マーラーのアダージョやアダージェットのように。
そして迎える「英雄の引退と完成」の穏やかで優しい諦念には、はっと驚かされた。
この交響詩を作曲したとき、リヒャルト・シュトラウスがまだ三十代半ばだったということなどどこかへ吹き飛んでしまう。
自らを「英雄」だなどと勘違いはせぬだろうバルビローリという一人の音楽家の生涯だけがそこには映し出されている。
不思議な感慨にとらわれる演奏であり録音だ。
手元に名盤の誉れが高いベルリン・フィルとの交響曲第9番のCD<EMI>があるけれど、コンサートでの成功に感動したオーケストラが急遽セッション録音を決めたというだけあって、作品の核となるものと指揮者の音楽性が一体化した熱量の高い演奏となっている。
そのバルビローリがロンドン交響楽団と録音したリヒャルト・シュトラウスの交響詩『英雄の生涯』<WARENER>を聴いた。
1969年というから翌年亡くなったバルビローリにとっては、最晩年の録音になる。
遅い。
通常45分程度のものが、50分もかかる。
一つには健康状態があまりよくなかったのもあるのだろう、これがセルジュ・チェリビダッケのように遅さが細部まで丹念に再現し尽くすための遅さならまだしも、冒頭部分からしてどうも締まらない感じがする。
そもそもリヒャルト・シュトラウスは、職人肌というのか自らのオーケストレーションに対して強い自信と自負を持った作曲家だ。
おまけに、韜晦と皮肉をたっぷりとためたユーモア感覚の持ち主でもあった。
己の世界に没入して、世界に向けて感情を晒しまくるようなマーラーを冷ややかな視線で見つめていた風でもある。
それこそ、ジョージ・セルやヘルベルト・フォン・カラヤンのようなオーケストラのコントロールを第一義とするような指揮者にこそぴったりの音楽なのだ。
だから、バルビローリだとどうしても緩さが気になって仕方がない。
ドイツの名門楽団のような重々しさはないけれど、ロンドン交響楽団は技量の高いオーケストラで、ここでも達者なソロが聴ける。
聴けるのに、それがはまるべきところにすとんとはまらないもどかしさをそこここで感じてしまった。
ところが曲が進んでいく中で、緩やかな部分、陰影が増す部分ではバルビローリの音楽性が本来の作品以上の効果を見せる、聴かせる。
それこそまるで、マーラーのアダージョやアダージェットのように。
そして迎える「英雄の引退と完成」の穏やかで優しい諦念には、はっと驚かされた。
この交響詩を作曲したとき、リヒャルト・シュトラウスがまだ三十代半ばだったということなどどこかへ吹き飛んでしまう。
自らを「英雄」だなどと勘違いはせぬだろうバルビローリという一人の音楽家の生涯だけがそこには映し出されている。
不思議な感慨にとらわれる演奏であり録音だ。
今日聴いた音楽から@(2024/2/7)
ノルウェー出身のチェロ奏者で指揮者マルティン・ヴァルベルグ率いる古楽器オーケストラ、オルケルテル・ノルドが演奏したアルバム『1773』<Aparte>を聴いた。
『1773』は、そのタイトルにもある1773年に作曲されたモーツァルトの交響曲第25番に劇音楽『エジプト王タモス』とグレトリーの組曲『セファールとプロクリス』という興味深いカップリングだ。
1曲目のモーツァルトの交響曲第25番は、攻めまくりの演奏。
映画『アマデウス』の冒頭部分で印象的に使われたこともあって、モーツァルトの初期の交響曲では第29番と並んで有名な作品だが、その『アマデウス』のネヴィル・マリナー指揮アカデミー・オブ・セント・マーティン・イン・ザ・フィールズの演奏が生ぬるく感じられるほどの荒々しい速さで音楽は始まる。
歯切れがよくてスピーディー、ばかりでなく仕掛けも十分。
オーボエのソロが装飾を加えたり、オーボエの後ろで通奏低音のフォルテピアノが装飾を加えたり。
実をいえば、古典派の管弦楽曲にチェンバロやフォルテピアノの通奏低音が入るのはあまり好みではないのだけれど、第3楽章をフォルテピアノの独奏でしめたのには感心した。
続いては、グレトリーの組曲。
当時モーツァルトが17歳ならば、グレトリーは31歳。
大人(たいじん)とまでは言えないかもしれないが、おとなの音楽であることには間違いない。
激しい刺激はないものの、華々しかったり穏やかだったり軽快だったり、聴きどころに満ちたウェルメイドな音楽になっている。
とともに、フルート(トラヴェルソ)のどこか朴訥で美しいソロに、思わず「北欧」を感じてしまったりもした。
最後は、再びモーツァルトで『エジプト王タモス』からの組曲。
栴檀は双葉より芳し、やっぱりモーツァルトは天才…。
ちょっと待て、モーツァルトのほうはやけにメリハリが効いているし、グレトリーではなかったフォルテピアノの通奏低音がまたもチャラチャラやってるではないか、これは意図的な印象操作では…。
というのは、いじわるな見方聴き方かな。
双方の音楽の違いから導かれた、演奏スタイルの違いなのだろうし。
いずれにしても、刺激的なアルバムだった。
『1773』は、そのタイトルにもある1773年に作曲されたモーツァルトの交響曲第25番に劇音楽『エジプト王タモス』とグレトリーの組曲『セファールとプロクリス』という興味深いカップリングだ。
1曲目のモーツァルトの交響曲第25番は、攻めまくりの演奏。
映画『アマデウス』の冒頭部分で印象的に使われたこともあって、モーツァルトの初期の交響曲では第29番と並んで有名な作品だが、その『アマデウス』のネヴィル・マリナー指揮アカデミー・オブ・セント・マーティン・イン・ザ・フィールズの演奏が生ぬるく感じられるほどの荒々しい速さで音楽は始まる。
歯切れがよくてスピーディー、ばかりでなく仕掛けも十分。
オーボエのソロが装飾を加えたり、オーボエの後ろで通奏低音のフォルテピアノが装飾を加えたり。
実をいえば、古典派の管弦楽曲にチェンバロやフォルテピアノの通奏低音が入るのはあまり好みではないのだけれど、第3楽章をフォルテピアノの独奏でしめたのには感心した。
続いては、グレトリーの組曲。
当時モーツァルトが17歳ならば、グレトリーは31歳。
大人(たいじん)とまでは言えないかもしれないが、おとなの音楽であることには間違いない。
激しい刺激はないものの、華々しかったり穏やかだったり軽快だったり、聴きどころに満ちたウェルメイドな音楽になっている。
とともに、フルート(トラヴェルソ)のどこか朴訥で美しいソロに、思わず「北欧」を感じてしまったりもした。
最後は、再びモーツァルトで『エジプト王タモス』からの組曲。
栴檀は双葉より芳し、やっぱりモーツァルトは天才…。
ちょっと待て、モーツァルトのほうはやけにメリハリが効いているし、グレトリーではなかったフォルテピアノの通奏低音がまたもチャラチャラやってるではないか、これは意図的な印象操作では…。
というのは、いじわるな見方聴き方かな。
双方の音楽の違いから導かれた、演奏スタイルの違いなのだろうし。
いずれにしても、刺激的なアルバムだった。
2024年02月06日
今日聴いた音楽から(2024/2/6)
スメタナの連作交響詩『我が祖国』の中で第2曲「モルダウ(ヴルタヴァ)」は、もっとも有名な作品だ。
我が祖国の中でどころか、スメタナの作品の中で、どころかチェコの作曲家が作曲した作品の中でドヴォルザークの交響曲第9番「新世界より」と並んで有名な管弦楽曲の作品だろう。
いや、知名度でいえば、全ての作曲家が作曲した管弦楽曲の中で少なくともベスト30にはノミネートされる作品ではないか。
そのモルダウをヴィルヘルム・フルトヴェングラーとウィーン・フィルが録音している。
単純な自然描写にとどまらず、チェコ(ボヘミア)の愛国心を鼓舞する音楽であるモルダウだが、一方でハプスブルク帝国の文化圏の中で生まれた音楽でもあり、独墺を代表する指揮者とオーケストラが録音してもちっとも不思議ではない。
余談だがフルトヴェングラーとベルリン・フィルが演奏したドヴォルザークの新世界よりの第二次世界大戦中のライヴ録音<PHILIPS>なるものをCD初期に買って聴いたことがあるが、のちにオスヴァルド・カバスタ指揮ミュンヘン・フィルが本当の演奏者であることを知った。
このスメタナのほうは、正規のセッション録音である。
ゆっくりと流れだし、ここぞというところでスピードを上げる。
緩急強弱のはっきりとした、まさしくドラマティックな演奏だが、農夫たちの結婚式の終わりの低弦の深い響きが印象的だったり、それに続く月の光の下の水の妖精たちの踊りにワーグナーの歌劇『ローエングリン』の第1幕への前奏曲を思い出したりするのは、やはりフルトヴェングラーの演奏だからだろう。
そうそう、最後の喜びの表現には、ベートーヴェンの第九を思い出しもしたんだった。
ただ、聖ヤンの急流の荒々しさ、激しさは、もっと音質が良ければと残念でならない。
リマスタリングを加えてもなお、ノイズが多すぎる。
我が祖国の中でどころか、スメタナの作品の中で、どころかチェコの作曲家が作曲した作品の中でドヴォルザークの交響曲第9番「新世界より」と並んで有名な管弦楽曲の作品だろう。
いや、知名度でいえば、全ての作曲家が作曲した管弦楽曲の中で少なくともベスト30にはノミネートされる作品ではないか。
そのモルダウをヴィルヘルム・フルトヴェングラーとウィーン・フィルが録音している。
単純な自然描写にとどまらず、チェコ(ボヘミア)の愛国心を鼓舞する音楽であるモルダウだが、一方でハプスブルク帝国の文化圏の中で生まれた音楽でもあり、独墺を代表する指揮者とオーケストラが録音してもちっとも不思議ではない。
余談だがフルトヴェングラーとベルリン・フィルが演奏したドヴォルザークの新世界よりの第二次世界大戦中のライヴ録音<PHILIPS>なるものをCD初期に買って聴いたことがあるが、のちにオスヴァルド・カバスタ指揮ミュンヘン・フィルが本当の演奏者であることを知った。
このスメタナのほうは、正規のセッション録音である。
ゆっくりと流れだし、ここぞというところでスピードを上げる。
緩急強弱のはっきりとした、まさしくドラマティックな演奏だが、農夫たちの結婚式の終わりの低弦の深い響きが印象的だったり、それに続く月の光の下の水の妖精たちの踊りにワーグナーの歌劇『ローエングリン』の第1幕への前奏曲を思い出したりするのは、やはりフルトヴェングラーの演奏だからだろう。
そうそう、最後の喜びの表現には、ベートーヴェンの第九を思い出しもしたんだった。
ただ、聖ヤンの急流の荒々しさ、激しさは、もっと音質が良ければと残念でならない。
リマスタリングを加えてもなお、ノイズが多すぎる。
2024年02月05日
今日聴いた音楽から(2024/2/5)
グイド・カンテッリ指揮フィルハーモニア管弦楽団が演奏したチャイコフスキーの幻想序曲『ロメオとジュリエット』とワーグナーのジークフリート牧歌<WARENER>を聴く。
ともに1951年10月のモノラル・セッション録音。
カンテッリはアルトゥーロ・トスカニーニに見出され一躍脚光を浴びた指揮者だが、『ロメオとジュリエット』ではそうした関係性、トスカニーニからの強い影響がうかがえる。
特に、強奏部分での間を詰めて一気呵成に音楽を走らせるところや、そのあとあまりテンポを緩めることなく抒情的な旋律を歌わせるところなど、まさしくトスカニーニそっくりだ。
一方、ジークフリート牧歌では、穏やかな部分とドラマティックな部分でのコントラストが印象に残る。
音楽が徐々に速まり、力を増し、頂点を迎えるあたりは、それこそ『トリスタンとイゾルデ』や『タンホイザー』その他、ワーグナーの楽劇歌劇を思い起こした。
ホルンのデニス・ブレインをはじめ、フィルハーモニア管弦楽団は管楽器弦楽器ともに腕扱きが集まっている。
残念なのは、リマスタリングの効果はあるものの、やはり音質が古いこと。
もっとクリアな音で聴きたかった。
ともに1951年10月のモノラル・セッション録音。
カンテッリはアルトゥーロ・トスカニーニに見出され一躍脚光を浴びた指揮者だが、『ロメオとジュリエット』ではそうした関係性、トスカニーニからの強い影響がうかがえる。
特に、強奏部分での間を詰めて一気呵成に音楽を走らせるところや、そのあとあまりテンポを緩めることなく抒情的な旋律を歌わせるところなど、まさしくトスカニーニそっくりだ。
一方、ジークフリート牧歌では、穏やかな部分とドラマティックな部分でのコントラストが印象に残る。
音楽が徐々に速まり、力を増し、頂点を迎えるあたりは、それこそ『トリスタンとイゾルデ』や『タンホイザー』その他、ワーグナーの楽劇歌劇を思い起こした。
ホルンのデニス・ブレインをはじめ、フィルハーモニア管弦楽団は管楽器弦楽器ともに腕扱きが集まっている。
残念なのは、リマスタリングの効果はあるものの、やはり音質が古いこと。
もっとクリアな音で聴きたかった。
2024年02月04日
今日聴いた音楽からA(2024/2/4)
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮ウィーン・フィルが演奏したベートーヴェンの交響曲第5番<WARENER>を聴く。
フルトヴェングラーが指揮したベートーヴェンの交響曲第5番の中ではもっとも有名な、1954年のセッション録音である。
ベートーヴェンの交響曲第5番を運命と呼ぶ習慣があるのは、日本だけらしいが、このフルトヴェングラーの演奏を聴くと、まさしく運命という感じがして仕方ない。
苦悩から勝利へ、という図式的な解釈はもはや時代遅れだし、フルトヴェングラーにとって最晩年にあたる録音だから全盛時のライヴ録音に比べると若干エネルギーに不足する部分もなくはないものの、やはり音楽の劇性をしっかりととらまえていることは確かだ。
中でも、第3楽章の後半が繰り返されたあとの再現部の圧倒的なスケールはフルトヴェングラーならではのものだろう。
たまにはこういった演奏、こういった音楽が聴きたくなる。
特に、今夜はそうだ。
フルトヴェングラーが指揮したベートーヴェンの交響曲第5番の中ではもっとも有名な、1954年のセッション録音である。
ベートーヴェンの交響曲第5番を運命と呼ぶ習慣があるのは、日本だけらしいが、このフルトヴェングラーの演奏を聴くと、まさしく運命という感じがして仕方ない。
苦悩から勝利へ、という図式的な解釈はもはや時代遅れだし、フルトヴェングラーにとって最晩年にあたる録音だから全盛時のライヴ録音に比べると若干エネルギーに不足する部分もなくはないものの、やはり音楽の劇性をしっかりととらまえていることは確かだ。
中でも、第3楽章の後半が繰り返されたあとの再現部の圧倒的なスケールはフルトヴェングラーならではのものだろう。
たまにはこういった演奏、こういった音楽が聴きたくなる。
特に、今夜はそうだ。
今日聴いた音楽から@(2024/2/4)
ながらで聴き始めて、これはじっくりと聴きたいなと思ったアルバム、ハンス・ペーター・オクセンホファー指揮フィルハーモニック・アンサンブル・ウィーン“モーツァルティステン”が演奏したハイドンの交響曲第101番「時計」、モーツァルトの弦楽のためのアダージョとフーガ、シューベルトの交響曲第5番<カメラータ・トウキョウ>だが、やはりそうして大正解だった。
1948年にオーストリアのグラーツで生まれたオクセンホファーは、長年ウィーン交響楽団やウィーン国立歌劇場管弦楽団、ウィーン・フィルでヴィオラ奏者として活躍したのち、室内オーケストラ、フィルハーモニック・アンサンブル・ウィーン“モーツァルティステン”
を結成した。
フィルハーモニック・アンサンブル・ウィーン“モーツァルティステン”は、オクセンホファー同様、ウィーン・フィルのメンバーを中心にしたアンサンブルだ。
録音を聴くかぎり、相当奏者を絞っているようで、強奏などときに線の細さが気になる箇所もなくはなかったが、逆に室内楽的な精度の高さとインティメートな雰囲気は大きな魅力だと感じた。
昨夜聴いたラルテ・デル・モンドのようなピリオド・スタイルとは全く異なり、どちらかといえばゆっくりめのテンポをとっているものの、それでも過度に遅くなるようなこともない。
良い意味で、まさしく中庸である。
と言って、音楽の要所急所は心得て強弱緩急のメリハリはきっちりと付ける。
例えば、ハイドンの第2楽章の時計のリズムが一段落着いたあと徐々に音楽が強くなっていくあたりだとかシューベルトの第3楽章の冒頭部分では鋭い音を聴かせて、その後の穏やかな部分とのコントラストを見事に生み出している。
モーツァルトのアダージョとフーガは鳴りの良い演奏だが、音楽のつくりもよくわかる。
特にフーガは、なるほどこの曲はこういう風につくられているんだと感心する。
そのフーガのあとに、シューベルトの第5番が始まると、ぱっと陽の光が見えてきたような明るさに包まれる。
もちろん、第1楽章の途中や終楽章など、この曲の持つ心のうちの嵐も巧く再現されていたが。
それにしても、この曲の第2楽章はなんて美しいんだろう。
ハイドンの第3楽章の中間部のフルートとファゴットの掛け合いなど、個々の奏者の技量の確かさは言うまでもない。
響きの良さと見通しの良さを兼ね備えた録音が演奏の魅力を引き出していることも書き添えておきたい。
そうそう、ハイドンを聴きながらどこかでこういった演奏を聴いたことがあると思い、これを書きながらピエール・モントゥー指揮ウィーン・フィルが演奏した同じ曲の古い録音を聴いたらやっぱりそうだった。
僕はこの録音のLPを買って何度も聴いていたのだ。
当然、時代にあわせて変化しているところもあるけれど。
それとともに、モントゥーとウィーン・フィルの演奏が古臭さをあまり感じさせなかったことにも少し驚いた。
1948年にオーストリアのグラーツで生まれたオクセンホファーは、長年ウィーン交響楽団やウィーン国立歌劇場管弦楽団、ウィーン・フィルでヴィオラ奏者として活躍したのち、室内オーケストラ、フィルハーモニック・アンサンブル・ウィーン“モーツァルティステン”
を結成した。
フィルハーモニック・アンサンブル・ウィーン“モーツァルティステン”は、オクセンホファー同様、ウィーン・フィルのメンバーを中心にしたアンサンブルだ。
録音を聴くかぎり、相当奏者を絞っているようで、強奏などときに線の細さが気になる箇所もなくはなかったが、逆に室内楽的な精度の高さとインティメートな雰囲気は大きな魅力だと感じた。
昨夜聴いたラルテ・デル・モンドのようなピリオド・スタイルとは全く異なり、どちらかといえばゆっくりめのテンポをとっているものの、それでも過度に遅くなるようなこともない。
良い意味で、まさしく中庸である。
と言って、音楽の要所急所は心得て強弱緩急のメリハリはきっちりと付ける。
例えば、ハイドンの第2楽章の時計のリズムが一段落着いたあと徐々に音楽が強くなっていくあたりだとかシューベルトの第3楽章の冒頭部分では鋭い音を聴かせて、その後の穏やかな部分とのコントラストを見事に生み出している。
モーツァルトのアダージョとフーガは鳴りの良い演奏だが、音楽のつくりもよくわかる。
特にフーガは、なるほどこの曲はこういう風につくられているんだと感心する。
そのフーガのあとに、シューベルトの第5番が始まると、ぱっと陽の光が見えてきたような明るさに包まれる。
もちろん、第1楽章の途中や終楽章など、この曲の持つ心のうちの嵐も巧く再現されていたが。
それにしても、この曲の第2楽章はなんて美しいんだろう。
ハイドンの第3楽章の中間部のフルートとファゴットの掛け合いなど、個々の奏者の技量の確かさは言うまでもない。
響きの良さと見通しの良さを兼ね備えた録音が演奏の魅力を引き出していることも書き添えておきたい。
そうそう、ハイドンを聴きながらどこかでこういった演奏を聴いたことがあると思い、これを書きながらピエール・モントゥー指揮ウィーン・フィルが演奏した同じ曲の古い録音を聴いたらやっぱりそうだった。
僕はこの録音のLPを買って何度も聴いていたのだ。
当然、時代にあわせて変化しているところもあるけれど。
それとともに、モントゥーとウィーン・フィルの演奏が古臭さをあまり感じさせなかったことにも少し驚いた。
2024年02月03日
今日聴いた音楽からA(2024/2/3)
ヴェルナー・エールハルト率いるピリオド楽器オーケストラ、ラルテ・デル・モンドが演奏したヨハネス・マティアス・シュペルガーの交響曲第26番ハ短調、第21番ト短調、第34番ニ長調<DHM>を聴いた。
1750年にモラヴィアで生まれたシュペルガーはウィーンで音楽を学び、コントラバス奏者として活躍し、メクレンベルクのシュヴェリーンで亡くなった。
18曲のコントラバス協奏曲をはじめ作品は多数で、交響曲も44曲以上作曲している。
そのシュペルガーの交響曲といえば、ペーテル・ザジチェク指揮ムジカ・エテルナ(テオドール・クルレンツィスが率いるオーケストラは別の団体)が演奏した弦楽のための交響曲がNAXOSレーベルからずいぶん前にリリースされていたほかは、CPOレーベルのコントラバス協奏曲集の余白に第30番が入っている程度ではないか。
ともに聴いたことがない。
というか、シュペルガーの作品を聴くのもこれが初めてだと思う。
3曲いずれも4楽章形式で、古典派の作曲の規矩に則った交響曲だが、短調の曲では若干バロック後期というか、カール・フィリップ・エマヌエル・バッハらのシュトルム・ウント・ドランク時代の残滓を感じないでもない。
それと、ハイドンやモーツァルトの音楽に比べると、どうしても手が多いというか、何か余分な感じのする音があるというのか、鈴木ヒロミツの歌じゃないが「でも、何かが違う」と口にしたくなるようなすとんと聴いていられない気持ちが残る。
そうした気持ちはやはりありつつも、最後のニ長調の第34番は景気がよくて、終楽章などモーツァルトの『後宮からの逃走』だの『フィガロの結婚』だのを思い起こすような愉快な音楽になっていた。
知られざる古典派音楽の再発見を看板に掲げるエールハルトとラルテ・デル・モンドは十全な演奏。
アンサンブルとしての精度とピリオド楽器らしいざらっとした粗めの音色のバランスもいい。
1750年にモラヴィアで生まれたシュペルガーはウィーンで音楽を学び、コントラバス奏者として活躍し、メクレンベルクのシュヴェリーンで亡くなった。
18曲のコントラバス協奏曲をはじめ作品は多数で、交響曲も44曲以上作曲している。
そのシュペルガーの交響曲といえば、ペーテル・ザジチェク指揮ムジカ・エテルナ(テオドール・クルレンツィスが率いるオーケストラは別の団体)が演奏した弦楽のための交響曲がNAXOSレーベルからずいぶん前にリリースされていたほかは、CPOレーベルのコントラバス協奏曲集の余白に第30番が入っている程度ではないか。
ともに聴いたことがない。
というか、シュペルガーの作品を聴くのもこれが初めてだと思う。
3曲いずれも4楽章形式で、古典派の作曲の規矩に則った交響曲だが、短調の曲では若干バロック後期というか、カール・フィリップ・エマヌエル・バッハらのシュトルム・ウント・ドランク時代の残滓を感じないでもない。
それと、ハイドンやモーツァルトの音楽に比べると、どうしても手が多いというか、何か余分な感じのする音があるというのか、鈴木ヒロミツの歌じゃないが「でも、何かが違う」と口にしたくなるようなすとんと聴いていられない気持ちが残る。
そうした気持ちはやはりありつつも、最後のニ長調の第34番は景気がよくて、終楽章などモーツァルトの『後宮からの逃走』だの『フィガロの結婚』だのを思い起こすような愉快な音楽になっていた。
知られざる古典派音楽の再発見を看板に掲げるエールハルトとラルテ・デル・モンドは十全な演奏。
アンサンブルとしての精度とピリオド楽器らしいざらっとした粗めの音色のバランスもいい。
今日聴いた音楽から@(2024/2/3)
今年初めにリリースされた、エリザベート・レオンスカヤとミヒャエル・ザンデルリンク指揮ルツェルン交響楽団が演奏したシューマンとグリーグのピアノ協奏曲<WARENER>を聴いた。
レオンスカヤは、1945年に旧ソ連のチフリス(現ジョージアのトビリシ)に生まれた今や大ベテランのピアニスト。
高度なテクニックに支えられた研ぎ澄まされた音楽造形と、抑制の効いた抒情性の持ち主だ。
今回聴いたアルバムは、昨年録音されたもの。
両曲とも、ゆっくりとしたテンポがとられている。
それはレオンスカヤの解釈の表れでもあるだろうが、やはり加齢による技術面でのレオンスカヤの変化とも関係があるはずで、もともと技と情のバランス感覚が秀でていた人だけに、どうしてもそういった点が必要以上に気になってしまった。
いや、70代後半でこれだけ弾き切っていることには大いに感嘆し、脱帽するのだけれど。
それに、緩やかな部分での旋律の歌いぶり、一音一音の丹念な磨き込みはレオンスカヤならではだと思った。
ミヒャエル・ザンデルリンクとルツェルン交響楽団もよくレオンスカヤを支えていたが、これまで聴いてきた彼のライヴ動画や録音から判断するに、両曲ともより速いテンポで演奏したいのではないかと感じたことも事実だ。
レオンスカヤは、1945年に旧ソ連のチフリス(現ジョージアのトビリシ)に生まれた今や大ベテランのピアニスト。
高度なテクニックに支えられた研ぎ澄まされた音楽造形と、抑制の効いた抒情性の持ち主だ。
今回聴いたアルバムは、昨年録音されたもの。
両曲とも、ゆっくりとしたテンポがとられている。
それはレオンスカヤの解釈の表れでもあるだろうが、やはり加齢による技術面でのレオンスカヤの変化とも関係があるはずで、もともと技と情のバランス感覚が秀でていた人だけに、どうしてもそういった点が必要以上に気になってしまった。
いや、70代後半でこれだけ弾き切っていることには大いに感嘆し、脱帽するのだけれど。
それに、緩やかな部分での旋律の歌いぶり、一音一音の丹念な磨き込みはレオンスカヤならではだと思った。
ミヒャエル・ザンデルリンクとルツェルン交響楽団もよくレオンスカヤを支えていたが、これまで聴いてきた彼のライヴ動画や録音から判断するに、両曲ともより速いテンポで演奏したいのではないかと感じたことも事実だ。
2024年02月02日
今日聴いた音楽からA(2024/2/2)
マウロ・ペーターがヘルムート・ドイチュのピアノ伴奏で歌ったシューマンの歌曲集<SONY>を聴いた。
実は、昨夜イザベル・ファウストたちが演奏した同じシューマンのピアノ4重奏曲とピアノ5重奏曲を聴いたあと、このアルバムをながらで聴き始めたのだが、これはじっくり向き合いたいと感じ、3曲目あたりで聴くのをやめた。
で、今夜聴いてみたら、やはりそうして大正解だった。
マウロ・ペーターは1987年にルツェルンで生まれたスイスのテノール歌手。
リートとオペラの両面で活躍中で、ファースト・アルバムのシューベルトのゲーテ歌曲集<同>は1年前にながらで聴いている。
そのときも美しい歌声の持ち主だと感心したが、今度ながらでなく聴いて、ますますこの歌手が好きになった。
メインは、おなじみ『詩人の恋』。
ペーターは柔らかでリリカルな歌声と的確な表現力で、詩人の恋の喜びと悲しみ、再生を巧みに歌い分ける。
この人の本領は、第1曲の「美しい五月には」のようなしっとりとした曲や第11曲の「若者が娘を恋し」のような軽快な曲にあるようにも思うが、失恋の痛みを歌う第7曲の「恨みはしない」でも不安定になることのない激唱を聴かせている。
詩人の恋ばかりでなく、カップリングのその他の歌曲でもペーターの表現は実に豊かだ。
シューマンの場合、わずか数分の曲の中で目まぐるしく感情が変化を見せるのだけれど、ペーターはそうしたギアのチェンジが全く不自然でない。
だから、素直にその音楽の変化を受け止めることができるのだ。
もちろん、それにはドイチュの万全な伴奏も忘れてはなるまい。
詩人の恋の終曲「古い忌わしい歌」の宥めるような長い後奏を含め、ペーターの歌唱を全篇支え切っていた。
なお、最後の悲劇Op.64-3の3曲目「彼女の墓の上に」では、ソプラノのニコラ・ヒルデブラントが助演している。
実は、昨夜イザベル・ファウストたちが演奏した同じシューマンのピアノ4重奏曲とピアノ5重奏曲を聴いたあと、このアルバムをながらで聴き始めたのだが、これはじっくり向き合いたいと感じ、3曲目あたりで聴くのをやめた。
で、今夜聴いてみたら、やはりそうして大正解だった。
マウロ・ペーターは1987年にルツェルンで生まれたスイスのテノール歌手。
リートとオペラの両面で活躍中で、ファースト・アルバムのシューベルトのゲーテ歌曲集<同>は1年前にながらで聴いている。
そのときも美しい歌声の持ち主だと感心したが、今度ながらでなく聴いて、ますますこの歌手が好きになった。
メインは、おなじみ『詩人の恋』。
ペーターは柔らかでリリカルな歌声と的確な表現力で、詩人の恋の喜びと悲しみ、再生を巧みに歌い分ける。
この人の本領は、第1曲の「美しい五月には」のようなしっとりとした曲や第11曲の「若者が娘を恋し」のような軽快な曲にあるようにも思うが、失恋の痛みを歌う第7曲の「恨みはしない」でも不安定になることのない激唱を聴かせている。
詩人の恋ばかりでなく、カップリングのその他の歌曲でもペーターの表現は実に豊かだ。
シューマンの場合、わずか数分の曲の中で目まぐるしく感情が変化を見せるのだけれど、ペーターはそうしたギアのチェンジが全く不自然でない。
だから、素直にその音楽の変化を受け止めることができるのだ。
もちろん、それにはドイチュの万全な伴奏も忘れてはなるまい。
詩人の恋の終曲「古い忌わしい歌」の宥めるような長い後奏を含め、ペーターの歌唱を全篇支え切っていた。
なお、最後の悲劇Op.64-3の3曲目「彼女の墓の上に」では、ソプラノのニコラ・ヒルデブラントが助演している。
今日聴いた音楽から@(2024/2/2)
ベートーヴェンの交響曲第1番は、まもなく19世紀が始まろうとするころに作曲された。
ジョヴァンニ・アントニーニとバーゼル室内管弦楽団<SONY>やパーヴォ・ヤルヴィとドイツ・カンマー・フィル<RCA>のCDが手元にあるが、いずれもピリオド・スタイルの歯切れのよい演奏で、まるで今目の前に作品が生まれたような若々しさが魅力的だ。
ところが、ヴィルヘルム・フルトヴェングラーとウィーン・フィルの1952年のセッション録音<WARENER>では大きく印象が変わる。
極端に遅いテンポではないのだけれど、端正なうえに音楽の構えが非常に大きく感じられるのだ。
例えば、第2楽章の堂々とした歩みを聴いていると、この第1番もまた偉大な金字塔であるベートーヴェンの9つの交響曲のうちの1曲であることを思い知らされるような感じがする。
そして、そうした音楽の構えやつくりが大いに説得力を持っているのである。
もちろん、同じフルトヴェングラーでもライヴ録音では違った印象になるのかもしれないが。
今回聴いたのは2021年にリマスタリングされた配信限定の音源だが、モノラル録音にも関わらずクリアな音質となっていた。
ジョヴァンニ・アントニーニとバーゼル室内管弦楽団<SONY>やパーヴォ・ヤルヴィとドイツ・カンマー・フィル<RCA>のCDが手元にあるが、いずれもピリオド・スタイルの歯切れのよい演奏で、まるで今目の前に作品が生まれたような若々しさが魅力的だ。
ところが、ヴィルヘルム・フルトヴェングラーとウィーン・フィルの1952年のセッション録音<WARENER>では大きく印象が変わる。
極端に遅いテンポではないのだけれど、端正なうえに音楽の構えが非常に大きく感じられるのだ。
例えば、第2楽章の堂々とした歩みを聴いていると、この第1番もまた偉大な金字塔であるベートーヴェンの9つの交響曲のうちの1曲であることを思い知らされるような感じがする。
そして、そうした音楽の構えやつくりが大いに説得力を持っているのである。
もちろん、同じフルトヴェングラーでもライヴ録音では違った印象になるのかもしれないが。
今回聴いたのは2021年にリマスタリングされた配信限定の音源だが、モノラル録音にも関わらずクリアな音質となっていた。
2024年02月01日
今日聴いた音楽から(2024/2/1)
思い込みは禁物だけど、聴く前から当たりとわかるアルバムがある。
なんて物言いは前もしたことがあったっけ。
思い込みが強い分ハードルも高くなって、確かに当たりっちゃ当たりなんだけどね…といった感想になってしまうこともないわけじゃないが。
ヴァイオリンのイザベル・ファウストを中心にしたアンサンブルがピリオド楽器を用いて演奏したシューマンのピアノ4重奏曲とピアノ5重奏曲<HMF>は、それこそ当たって当然のアルバムだ。
それぞれの楽器の協奏曲とのカップリングですでにシューマンのピアノ3重奏曲全曲を録音しているファウスト、フォルテピアノのアレクサンドル・メルニコフ、チェロのジャン=ギアン・ケラスという気心の知れた三人に、ヴィオラのアントワン・タメスティ、さらに5重奏曲ではヴァイオリンのアンネ・カタリーナ・シュライバーが加わっているが、いずれも技量は優れているし、シャープさと抒情性を見事に兼ね備えてもいる。
結果、歯切れと流れと見通しがよくて、なおかつ歌唱性にも富んだ演奏が生み出されていた。
中でも、ピッツィカートが効果的に使用される4重奏曲の第2楽章と軽快で流麗な第4楽章、技巧=機智と感情がせめぎ合っているような5重奏曲の第2楽章が強く印象に残る。
そして、全曲通して感じたのは、外に向けて自らを打ち開くエネルギーの放射、喜びと痛み、美しさだった。
室内楽の醍醐味をたっぷりと教えてくれるアルバムだ。
なんて物言いは前もしたことがあったっけ。
思い込みが強い分ハードルも高くなって、確かに当たりっちゃ当たりなんだけどね…といった感想になってしまうこともないわけじゃないが。
ヴァイオリンのイザベル・ファウストを中心にしたアンサンブルがピリオド楽器を用いて演奏したシューマンのピアノ4重奏曲とピアノ5重奏曲<HMF>は、それこそ当たって当然のアルバムだ。
それぞれの楽器の協奏曲とのカップリングですでにシューマンのピアノ3重奏曲全曲を録音しているファウスト、フォルテピアノのアレクサンドル・メルニコフ、チェロのジャン=ギアン・ケラスという気心の知れた三人に、ヴィオラのアントワン・タメスティ、さらに5重奏曲ではヴァイオリンのアンネ・カタリーナ・シュライバーが加わっているが、いずれも技量は優れているし、シャープさと抒情性を見事に兼ね備えてもいる。
結果、歯切れと流れと見通しがよくて、なおかつ歌唱性にも富んだ演奏が生み出されていた。
中でも、ピッツィカートが効果的に使用される4重奏曲の第2楽章と軽快で流麗な第4楽章、技巧=機智と感情がせめぎ合っているような5重奏曲の第2楽章が強く印象に残る。
そして、全曲通して感じたのは、外に向けて自らを打ち開くエネルギーの放射、喜びと痛み、美しさだった。
室内楽の醍醐味をたっぷりと教えてくれるアルバムだ。
2024年01月31日
今日聴いた音楽からA(2024/1/31)
アンタル・ドラティがミネアポリス交響楽団を指揮してマーキュリー・レーベルに遺したステレオ・アルバムの中から、1957年に録音されたベートーヴェンの交響曲第3番「英雄」を聴いてみる。
ドラティ&ミネアポリス交響楽団のマーキュリーへの一連の録音は、概して速いテンポの素っ気ない演奏が多いのだけれど、案の定、このベートーヴェンもそう。
新即物主義といえば新即物主義なんだろうが、正直ただただ前へ前へ進んで行くだけで面白みが少ない。
ベートーヴェンの数ある交響曲のうち、仕掛けの多さでは指折りの英雄だから、全く物足りなかった。
全ての声部が鮮明にわかるのはよいとして、録音の残響が少ないのも一層平板な印象を与える原因となっている。
古典派なら少しは趣が違うかと思って聴いたが、これは非常に残念。
なお、ドラティは1970年代の半ばにロイヤル・フィルとベートーヴェンの交響曲全集を録音していて、試しに第3番の第1楽章の出だしを1分半ほどと終楽章の出だしを少しだけ聴いてみた。
確かに、基本的な音楽との向き合い方は同じなものの、切れ味が鋭い上により抑揚があってこちらのほうがずっと愉しめそうだった。
ドラティ&ミネアポリス交響楽団のマーキュリーへの一連の録音は、概して速いテンポの素っ気ない演奏が多いのだけれど、案の定、このベートーヴェンもそう。
新即物主義といえば新即物主義なんだろうが、正直ただただ前へ前へ進んで行くだけで面白みが少ない。
ベートーヴェンの数ある交響曲のうち、仕掛けの多さでは指折りの英雄だから、全く物足りなかった。
全ての声部が鮮明にわかるのはよいとして、録音の残響が少ないのも一層平板な印象を与える原因となっている。
古典派なら少しは趣が違うかと思って聴いたが、これは非常に残念。
なお、ドラティは1970年代の半ばにロイヤル・フィルとベートーヴェンの交響曲全集を録音していて、試しに第3番の第1楽章の出だしを1分半ほどと終楽章の出だしを少しだけ聴いてみた。
確かに、基本的な音楽との向き合い方は同じなものの、切れ味が鋭い上により抑揚があってこちらのほうがずっと愉しめそうだった。
今日聴いた音楽から@(2024/1/31)
ニコラウス・アーノンクールがコンツェントゥス・ムジクス・ウィーンと録音したモーツァルトのセレナード第9番「ポストホルン」と交響曲第35番「ハフナー」他<SONY>を聴いた。
いずれも、アーノンクールにとっては再録音。
セレナード第9番はその詳細な経緯ははっきりとしないものの、なんらかの祝典・行事を見込んで作曲された編成、時間ともに大規模な作品である。
で、ここではそうしたセレナードを演奏する際、入場時に楽士たちが奏でたと思しき行進曲ニ長調K.335-1が演奏されているのだが、まずもってその行進曲からして威勢がいい。
晩年に至ってなお激しい音楽づくりに驚く。
ただ、アーノンクールはあえて角を矯めない鋭角な音楽を生み出すが、それは決して粗雑なものではない。
全篇、アーノンクールの音楽像、演奏美学に則って徹頭徹尾統べられた首尾一貫した演奏なのだ。
中でも強く印象に残ったのは、第4楽章のロンド。
フルートとオーボエのかけ合いが美しい、それこそロココ調の音楽として通常は軽やかに演奏される。
しかし、アーノンクールはそんな予定調和を選ばない。
なにしろ、冒頭などフルートとオーボエよりもそれを支える弦楽器の動きがやけに強く聴こえてくるのだから。
でも、そうやって聴き進めていくうちに、まるでこの楽章が『フィガロの結婚』か何かの二重唱のように聴こえてくる。
そういえば、アーノンクールが京都賞を受賞したときの公開トークと京都フィルハーモニー室内合奏団を相手にした公開リハーサルの席で、自らの劇場感覚についてしきりと語っていたっけ。
続く第5楽章のアンダンティーノも宗教曲のような悲嘆としてではなく、オペラのアリアのような悲哀のように感じられた。
もしかしたら、アーノンクールはこの曲をシンフォニックな楽曲としてばかりでなく、様々な仕掛けの施された一種のシアターピースとして捉えているのではないか。
いずれにしても、充実した演奏であった。
続く、ハフナー交響曲もいわゆる「機会音楽」的な要素の強い作品だが、当然の如く、強弱緩急のはっきりした祝祭的気分の横溢した演奏に仕上がっている。
第1楽章や終楽章など、まさしく攻めの姿勢の音楽だ。
だからこそ、第3楽章のメヌエットのトリオや、それより何より第2楽章の憂愁さ翳りが浮き彫りにされてもいた。
コンツェントゥス・ムジクス・ウィーンはアーノンクールに応えて万全のアンサンブル。
セレナード第9番のニックネームのもととなった第6楽章のポストホルン(郵便馬車のホルン)も朗々としたソロだった。
それにしても、改めてアーノンクールは凄い音楽家だったなあと驚嘆する。
いずれも、アーノンクールにとっては再録音。
セレナード第9番はその詳細な経緯ははっきりとしないものの、なんらかの祝典・行事を見込んで作曲された編成、時間ともに大規模な作品である。
で、ここではそうしたセレナードを演奏する際、入場時に楽士たちが奏でたと思しき行進曲ニ長調K.335-1が演奏されているのだが、まずもってその行進曲からして威勢がいい。
晩年に至ってなお激しい音楽づくりに驚く。
ただ、アーノンクールはあえて角を矯めない鋭角な音楽を生み出すが、それは決して粗雑なものではない。
全篇、アーノンクールの音楽像、演奏美学に則って徹頭徹尾統べられた首尾一貫した演奏なのだ。
中でも強く印象に残ったのは、第4楽章のロンド。
フルートとオーボエのかけ合いが美しい、それこそロココ調の音楽として通常は軽やかに演奏される。
しかし、アーノンクールはそんな予定調和を選ばない。
なにしろ、冒頭などフルートとオーボエよりもそれを支える弦楽器の動きがやけに強く聴こえてくるのだから。
でも、そうやって聴き進めていくうちに、まるでこの楽章が『フィガロの結婚』か何かの二重唱のように聴こえてくる。
そういえば、アーノンクールが京都賞を受賞したときの公開トークと京都フィルハーモニー室内合奏団を相手にした公開リハーサルの席で、自らの劇場感覚についてしきりと語っていたっけ。
続く第5楽章のアンダンティーノも宗教曲のような悲嘆としてではなく、オペラのアリアのような悲哀のように感じられた。
もしかしたら、アーノンクールはこの曲をシンフォニックな楽曲としてばかりでなく、様々な仕掛けの施された一種のシアターピースとして捉えているのではないか。
いずれにしても、充実した演奏であった。
続く、ハフナー交響曲もいわゆる「機会音楽」的な要素の強い作品だが、当然の如く、強弱緩急のはっきりした祝祭的気分の横溢した演奏に仕上がっている。
第1楽章や終楽章など、まさしく攻めの姿勢の音楽だ。
だからこそ、第3楽章のメヌエットのトリオや、それより何より第2楽章の憂愁さ翳りが浮き彫りにされてもいた。
コンツェントゥス・ムジクス・ウィーンはアーノンクールに応えて万全のアンサンブル。
セレナード第9番のニックネームのもととなった第6楽章のポストホルン(郵便馬車のホルン)も朗々としたソロだった。
それにしても、改めてアーノンクールは凄い音楽家だったなあと驚嘆する。
2024年01月30日
今日聴いた音楽から(2024/1/30)
ヴァイオリンのジュリアーノ・カルミニョーラ、チェロのソル・ガベッタ、ピアノ(フォルテピアノ)のデヤン・ラツィックとジョヴァンニ・アントニーニ指揮バーゼル室内管弦楽団が演奏したベートーヴェンの3重協奏曲<SONY>を聴いた。
アントニーニとバーゼル室内管弦楽団にとっては、OEHMSレーベルからリリースした交響曲第1番と第2番に始まり、その後はSONYレーベルへと移って完成させたベートーヴェンの交響曲全集を補完するアルバムでもある。
かつてはベートーヴェンにとってウェリントンの勝利と並ぶ愚作失敗作とも評された3重協奏曲だが、それって結局ベートーヴェンの音楽にまずもって精神性を求める芸術的権威主義の裏返しなのではないかと僕などは思う。
祝祭性に満ちた陽性、非常に耳なじみのよい音楽であることは確かだけれど、同時代の協奏交響曲と比較すれば古典派の規矩を打ち破ってロマン派の幕開けを感じさせる作品に仕上がっていることも否定できまい。
それに、ちょっと耳をすませばピアノ3重奏曲第7番「大公」やヴァイオリン協奏曲、チェロ・ソナタ第3番などのエコーを聴くこともできる。
ソリストばかりでなく、バーゼル室内管弦楽団もたぶん大半の楽器をピリオド楽器に持ち替えているはずだが、いずれも腕扱き揃いでスリリング、スピーディー、かつインティメートな音楽を生み出していて、爽快だ。
3重協奏曲の前後には、バレエ音楽『プロメテウスの創造物』序曲、劇音楽『エグモント』序曲、序曲『コリオラン』も収録されている。
もちろん、こちらもピリオド・スタイルの演奏。
ちょっと腰が軽い感じもするが、中でもコリオランの悲劇が息せき切って追いかけてくるような感じが印象に残った。
アントニーニとバーゼル室内管弦楽団にとっては、OEHMSレーベルからリリースした交響曲第1番と第2番に始まり、その後はSONYレーベルへと移って完成させたベートーヴェンの交響曲全集を補完するアルバムでもある。
かつてはベートーヴェンにとってウェリントンの勝利と並ぶ愚作失敗作とも評された3重協奏曲だが、それって結局ベートーヴェンの音楽にまずもって精神性を求める芸術的権威主義の裏返しなのではないかと僕などは思う。
祝祭性に満ちた陽性、非常に耳なじみのよい音楽であることは確かだけれど、同時代の協奏交響曲と比較すれば古典派の規矩を打ち破ってロマン派の幕開けを感じさせる作品に仕上がっていることも否定できまい。
それに、ちょっと耳をすませばピアノ3重奏曲第7番「大公」やヴァイオリン協奏曲、チェロ・ソナタ第3番などのエコーを聴くこともできる。
ソリストばかりでなく、バーゼル室内管弦楽団もたぶん大半の楽器をピリオド楽器に持ち替えているはずだが、いずれも腕扱き揃いでスリリング、スピーディー、かつインティメートな音楽を生み出していて、爽快だ。
3重協奏曲の前後には、バレエ音楽『プロメテウスの創造物』序曲、劇音楽『エグモント』序曲、序曲『コリオラン』も収録されている。
もちろん、こちらもピリオド・スタイルの演奏。
ちょっと腰が軽い感じもするが、中でもコリオランの悲劇が息せき切って追いかけてくるような感じが印象に残った。
2024年01月29日
今日聴いた音楽から(2024/1/29)
CDを聴いていたころは、主にデジタル録音のそれも新しいアルバムばかり買っていたのが、現金なものでサブスク(amazon music unlimited)を利用し始めたとたん、過去の巨匠の演奏もよく聴くようになった。
昨夜に続いて、ヴィルヘルム・フルトヴェングラーがウィーン・フィルを指揮した録音を聴く。
今夜は、ハイドンの交響曲第94番「驚愕」<WARENER>、びっくりシンフォニーだ。
モーツァルトの交響曲第40番がロマンティックな表情の濃い演奏だとすれば、ハイドンのほうは古典的均整を尊重した音楽になっている。
おなじみ第2楽章の仕掛けも、至極真っ当というかわざとらしいことはしない。
ただ、それでもその仕掛けのあとに弦がゆっくりと力強く進行する部分だとか、第3楽章のメヌエットの拍の刻みの強さだとか、フルトヴェングラーの強弱緩急のはっきりした独特な音楽づくりの片鱗がうかがえる。
枠組みと細部のせめぎ合いとまでいえば言い過ぎかもしれないが、そうした二つの要素がまざり合っているいる様を興味深く聴いた。
昨夜に続いて、ヴィルヘルム・フルトヴェングラーがウィーン・フィルを指揮した録音を聴く。
今夜は、ハイドンの交響曲第94番「驚愕」<WARENER>、びっくりシンフォニーだ。
モーツァルトの交響曲第40番がロマンティックな表情の濃い演奏だとすれば、ハイドンのほうは古典的均整を尊重した音楽になっている。
おなじみ第2楽章の仕掛けも、至極真っ当というかわざとらしいことはしない。
ただ、それでもその仕掛けのあとに弦がゆっくりと力強く進行する部分だとか、第3楽章のメヌエットの拍の刻みの強さだとか、フルトヴェングラーの強弱緩急のはっきりした独特な音楽づくりの片鱗がうかがえる。
枠組みと細部のせめぎ合いとまでいえば言い過ぎかもしれないが、そうした二つの要素がまざり合っているいる様を興味深く聴いた。
2024年01月28日
今日聴いた音楽からA(2024/1/28)
1940年代の終わりにヴィルヘルム・フルトヴェングラーがウィーン・フィルとセッション録音したモーツァルトの交響曲第40番<WARENER>を久しぶりに聴いた。
速いテンポの演奏だが、いわゆるピリオド奏法のように身軽さ歯切れのよさよりも、もっと切迫感にあふれている。
そして、その速いテンポと切迫感は、絶望や宿命、悲嘆に惑溺するのではなく、それを振り払うためのもののようにも感じられた。
音質はよいとは言えないものの、リマスタリングの効果でだいぶん聴きやすくなった。
交響曲第40番の前に、ソプラノのウィルマ・リップを伴奏した同じモーツァルトの歌劇『魔笛』から夜の女王のアリアも聴いた。
速いテンポの演奏だが、いわゆるピリオド奏法のように身軽さ歯切れのよさよりも、もっと切迫感にあふれている。
そして、その速いテンポと切迫感は、絶望や宿命、悲嘆に惑溺するのではなく、それを振り払うためのもののようにも感じられた。
音質はよいとは言えないものの、リマスタリングの効果でだいぶん聴きやすくなった。
交響曲第40番の前に、ソプラノのウィルマ・リップを伴奏した同じモーツァルトの歌劇『魔笛』から夜の女王のアリアも聴いた。
今日聴いた音楽から@(2024/1/28)
フィリップ・ヘレヴェッヘにとって二度目となるシューマンの交響曲全集<Phi>から、完結篇にあたる第1番「春」と第3番「ライン」を聴いた。
前回はピリオド楽器のシャンゼリゼ管弦楽団との録音だったが、今回はモダン楽器オーケストラのアントワープ交響楽団が相手をつとめる。
ただし、金管楽器など一部ピリオド楽器が使われているようにも思う。
シャンゼリゼ管弦楽団との全集は線がはっきりした演奏だったように記憶しているけれど、楽器の違いに加え録音の加減もあってか、より響きが豊かに感じる。
演奏自体も、スピーディーで歯切れがよくて前のめりな行き方や楽曲と適度な距離を保ったうえで徹底的に腑分けしてみせる行き方は異なり、ヴィヴラートを抑制しつつ旋律を清澄に流れよく歌うといった趣が強かった。
特に、第1番第4楽章の中間でホルンが『美しく青きドナウ』に似た音型を吹き、フルートが小鳥のようにさえずる部分だとか、第3番第1楽章の憂愁を含んだ雰囲気などは、そうしたヘレヴェッヘの志向や嗜好がよく表れていた。
若干弱さはあるものの、アントワープ交響楽団もヘレヴェッヘの解釈によく応えているのではないか。
中でもホルンの朗々とした音色は魅力的だった。
前回はピリオド楽器のシャンゼリゼ管弦楽団との録音だったが、今回はモダン楽器オーケストラのアントワープ交響楽団が相手をつとめる。
ただし、金管楽器など一部ピリオド楽器が使われているようにも思う。
シャンゼリゼ管弦楽団との全集は線がはっきりした演奏だったように記憶しているけれど、楽器の違いに加え録音の加減もあってか、より響きが豊かに感じる。
演奏自体も、スピーディーで歯切れがよくて前のめりな行き方や楽曲と適度な距離を保ったうえで徹底的に腑分けしてみせる行き方は異なり、ヴィヴラートを抑制しつつ旋律を清澄に流れよく歌うといった趣が強かった。
特に、第1番第4楽章の中間でホルンが『美しく青きドナウ』に似た音型を吹き、フルートが小鳥のようにさえずる部分だとか、第3番第1楽章の憂愁を含んだ雰囲気などは、そうしたヘレヴェッヘの志向や嗜好がよく表れていた。
若干弱さはあるものの、アントワープ交響楽団もヘレヴェッヘの解釈によく応えているのではないか。
中でもホルンの朗々とした音色は魅力的だった。
2024年01月27日
今日聴いた音楽からA(2024/1/27)
同じく指揮者の兄アダムと共にハンガリーの若手注目株だったイヴァン・フィッシャーの飛躍の大きなきっかけとなったのは、やはり自らブダペスト・フェスティヴァル管弦楽団を設立したことだろう。
オランダのPHILIPSレーベルと契約して以降は、一層知名度を上げた。
ただ、ツィンバロンが加わったブラームスのハンガリー舞曲やリストのハンガリー狂詩曲がヒットしたこともあってか、イヴァン・フィッシャーというとどこか曲者というのか、エネルギッシュでパワフルな音楽の創り手といったイメージがなくもない。
だが、イヴァン・フィッシャーとブダペスト・フェスティヴァル管弦楽団が演奏したマーラーの大地の歌<CHANNEL>を聴けば、そうした偏見はすぐに払拭されるはずだ。
例えば、第4楽章「美について」では同じマーラーの交響曲第9番第3楽章に通じる乱痴気騒ぎが仕掛けられているが、イヴァン・フィッシャーは鳴らすべきところはしっかり鳴らしながらも、全く粗暴にならない。
というか、全篇に抑制が効いて、実に心地よく美しい音楽となっているのである。
独唱陣、リート歌手としても活躍中のアルトのゲルヒルト・ロンベルガー、ワーグナー歌手として知られるテノールのロバート・ディーン・スミスの二人の歌声がまずそうだし、ブダペスト・フェスティヴァル管弦楽団がまた優れた演奏を聴かせる。
大地の歌は管楽器のソロが魅力の一つだけれど、オーボエやクラリネット、ホルン、いずれも精度が高い上に音色が澄んでいる。
弦楽器も艶やかで、なおかつシャープだ。
だからこそ、第6楽章「告別」の18分から20分あたりの激しい暗雲に慄然とする。
そして、そのあと訪れる、命あるものは全て消え去るということの甘受に強く心打たれる。
付け加えるならば、このアルバムは録音がことのほかよい。
クリアでありながら、適切な残響もあってとても耳に心地よかった。
こういう演奏、こういう録音に接すると、音楽は本当に素晴らしいと心から思える。
オランダのPHILIPSレーベルと契約して以降は、一層知名度を上げた。
ただ、ツィンバロンが加わったブラームスのハンガリー舞曲やリストのハンガリー狂詩曲がヒットしたこともあってか、イヴァン・フィッシャーというとどこか曲者というのか、エネルギッシュでパワフルな音楽の創り手といったイメージがなくもない。
だが、イヴァン・フィッシャーとブダペスト・フェスティヴァル管弦楽団が演奏したマーラーの大地の歌<CHANNEL>を聴けば、そうした偏見はすぐに払拭されるはずだ。
例えば、第4楽章「美について」では同じマーラーの交響曲第9番第3楽章に通じる乱痴気騒ぎが仕掛けられているが、イヴァン・フィッシャーは鳴らすべきところはしっかり鳴らしながらも、全く粗暴にならない。
というか、全篇に抑制が効いて、実に心地よく美しい音楽となっているのである。
独唱陣、リート歌手としても活躍中のアルトのゲルヒルト・ロンベルガー、ワーグナー歌手として知られるテノールのロバート・ディーン・スミスの二人の歌声がまずそうだし、ブダペスト・フェスティヴァル管弦楽団がまた優れた演奏を聴かせる。
大地の歌は管楽器のソロが魅力の一つだけれど、オーボエやクラリネット、ホルン、いずれも精度が高い上に音色が澄んでいる。
弦楽器も艶やかで、なおかつシャープだ。
だからこそ、第6楽章「告別」の18分から20分あたりの激しい暗雲に慄然とする。
そして、そのあと訪れる、命あるものは全て消え去るということの甘受に強く心打たれる。
付け加えるならば、このアルバムは録音がことのほかよい。
クリアでありながら、適切な残響もあってとても耳に心地よかった。
こういう演奏、こういう録音に接すると、音楽は本当に素晴らしいと心から思える。
今日聴いた音楽から@(2024/1/27)
先日、ロンドン・フィルとの威勢のいいエルガーを聴いたばかりのダニエル・バレンボイムだけれど、今日はイギリス室内管弦楽団を指揮した小品集<SONY>を聴く。
夜の歌、朝の歌、弦楽のためのエレジー、弦楽のためのセレナード、愛の挨拶、ファゴットと管弦楽のためのロマンス(マーティン・ガットの独奏)、ローズマリー、カリッシマ、ソスピーリというラインナップから一目瞭然、いずれもエルガーのメロディーメーカーぶりを証明する作品だ。
先日の威風堂々ほどではないにせよ、バレンボイムは速めのテンポで音楽を進めていく。
ただし、旋律の美しさを意識した表情付けも忘れずにだが。
中では、弦楽セレナードに魅かれた。
速めのテンポをとることで、かえってこの曲の持つ泣きそうな顔で笑っているような優しさ、清新さが際立っているように感じられたからだ。
逆に、続けて演奏される有名な愛のあいさつは、今一つ。
歌い回し、節回しがちょっとわざとらしく、シルクハットに燕尾服のキザでナルな男がターゲットの女性の周りを薔薇の花一輪手にしてぐるぐる回っているようなくどさ、残念さを覚えた。
それでも、好みに合った弦楽セレナードを聴けたので、十分満足がいった。
夜の歌、朝の歌、弦楽のためのエレジー、弦楽のためのセレナード、愛の挨拶、ファゴットと管弦楽のためのロマンス(マーティン・ガットの独奏)、ローズマリー、カリッシマ、ソスピーリというラインナップから一目瞭然、いずれもエルガーのメロディーメーカーぶりを証明する作品だ。
先日の威風堂々ほどではないにせよ、バレンボイムは速めのテンポで音楽を進めていく。
ただし、旋律の美しさを意識した表情付けも忘れずにだが。
中では、弦楽セレナードに魅かれた。
速めのテンポをとることで、かえってこの曲の持つ泣きそうな顔で笑っているような優しさ、清新さが際立っているように感じられたからだ。
逆に、続けて演奏される有名な愛のあいさつは、今一つ。
歌い回し、節回しがちょっとわざとらしく、シルクハットに燕尾服のキザでナルな男がターゲットの女性の周りを薔薇の花一輪手にしてぐるぐる回っているようなくどさ、残念さを覚えた。
それでも、好みに合った弦楽セレナードを聴けたので、十分満足がいった。
2024年01月26日
今日聴いた音楽からA(2024/1/26)
ブラームスの室内楽が好きだ。
中でも、弦楽5重奏曲第1番の第1楽章は一二を争うほどに好きだ。
院生時代、友人が貸してくれたCDの中にベルリン・フィル8重奏団員が演奏したこの曲があって、一聴、冒頭の伸びやかで優しいメロディに心をつかまれた。
そのブラームスの弦楽5重奏曲第1番と第2番を、タカーチ・カルテットにヴィオラのローレンス・パワーが加わった演奏で聴いた。
Hyperionレーベルによる録音。
タカーチ・カルテットはハンガリーで結成された弦楽4重奏団で、現在はアメリカを拠点にしている。
ちなみにその名前は、設立メンバーのガボール・タカーチ=ナジによるもの。
タカーチ=ナジは、現在指揮者として活躍している。
タカーチ・カルテットの演奏には一度だけ実演に接したことがあるが、攻めの姿勢とインティメートな感覚を兼ね備えた高度なアンサンブルだと感嘆した。
このアルバムでも、実に濃密な演奏を披歴している。
いわゆるピリオド奏法の影響も感じられる比較的速いテンポだが、細部への目配りも十分。
目からうろこが落ちるというか、そうか、ブラームスはここでこういう風な書き方をしているのかといったことがよくわかる。
それこそ、今までもやのかかった画質で観ていた古い映画を4Kだの8Kだので観るような驚きである。
正直、ベルリン・フィル8重奏団のおっとりした演奏をちょっと懐かしく思ったりもしたが。
そうそう、タカーチとはハンガリーでポピュラーな名前のようで、以前大阪の地下鉄に落書きしたとかでタカチ・ビクターという人物が逮捕されたことがあったが、タカチ=タカーチのことだろう。
で、ハンガリーの場合、日本や朝鮮、中国のように姓名は姓を先に名乗る。
彼もそう名乗ったか、ニュースでビクター容疑者、ビクター容疑者と連呼しているのに、いやいや違うだろうと突っ込んだものだ。
音楽とは一切関係ないことを書いてしまった。
中でも、弦楽5重奏曲第1番の第1楽章は一二を争うほどに好きだ。
院生時代、友人が貸してくれたCDの中にベルリン・フィル8重奏団員が演奏したこの曲があって、一聴、冒頭の伸びやかで優しいメロディに心をつかまれた。
そのブラームスの弦楽5重奏曲第1番と第2番を、タカーチ・カルテットにヴィオラのローレンス・パワーが加わった演奏で聴いた。
Hyperionレーベルによる録音。
タカーチ・カルテットはハンガリーで結成された弦楽4重奏団で、現在はアメリカを拠点にしている。
ちなみにその名前は、設立メンバーのガボール・タカーチ=ナジによるもの。
タカーチ=ナジは、現在指揮者として活躍している。
タカーチ・カルテットの演奏には一度だけ実演に接したことがあるが、攻めの姿勢とインティメートな感覚を兼ね備えた高度なアンサンブルだと感嘆した。
このアルバムでも、実に濃密な演奏を披歴している。
いわゆるピリオド奏法の影響も感じられる比較的速いテンポだが、細部への目配りも十分。
目からうろこが落ちるというか、そうか、ブラームスはここでこういう風な書き方をしているのかといったことがよくわかる。
それこそ、今までもやのかかった画質で観ていた古い映画を4Kだの8Kだので観るような驚きである。
正直、ベルリン・フィル8重奏団のおっとりした演奏をちょっと懐かしく思ったりもしたが。
そうそう、タカーチとはハンガリーでポピュラーな名前のようで、以前大阪の地下鉄に落書きしたとかでタカチ・ビクターという人物が逮捕されたことがあったが、タカチ=タカーチのことだろう。
で、ハンガリーの場合、日本や朝鮮、中国のように姓名は姓を先に名乗る。
彼もそう名乗ったか、ニュースでビクター容疑者、ビクター容疑者と連呼しているのに、いやいや違うだろうと突っ込んだものだ。
音楽とは一切関係ないことを書いてしまった。
今日聴いた音楽から@(2024/1/26)
1982年にポーランドで生まれたクシシュトフ・ウルバンスキは、現在若手中堅の指揮者の中で注目株の一人だ。
東京交響楽団の首席客演指揮者を務めたことで、日本のクラシック音楽愛好家にもよく知られるようになった。
そのウルバンスキが、首席客演指揮者時代にNDRエルプ・フィルとライヴ録音したストラヴィンスキーのバレエ音楽『春の祭典』<α>を聴いた。
実にバレエ的な演奏だと思う瞬間が多々あった。
いや、バレエ音楽なのだからバレエ的もないものだけれど、目の前でダンサーたちが踊っている姿が浮かんでくるような場面が何度もあったのだ。
全体的に重さを感じることもなくはなかったが、第1部終盤の追い込みではぐっとテンポを速めていたし、逆に第2部の終わりではあえてゆっくりとしたテンポをとることでこの作品の持つ暴力性をあぶり出してもいた。
NDRエルプ・フィルも精度の高い演奏でウルバンスキの音楽づくりにこたえていた。
演奏会場のハンブルク・エルプ・フィルハーモニーの音響特性も加わってか、若干音はもやもやとした感じになる。
東京交響楽団の首席客演指揮者を務めたことで、日本のクラシック音楽愛好家にもよく知られるようになった。
そのウルバンスキが、首席客演指揮者時代にNDRエルプ・フィルとライヴ録音したストラヴィンスキーのバレエ音楽『春の祭典』<α>を聴いた。
実にバレエ的な演奏だと思う瞬間が多々あった。
いや、バレエ音楽なのだからバレエ的もないものだけれど、目の前でダンサーたちが踊っている姿が浮かんでくるような場面が何度もあったのだ。
全体的に重さを感じることもなくはなかったが、第1部終盤の追い込みではぐっとテンポを速めていたし、逆に第2部の終わりではあえてゆっくりとしたテンポをとることでこの作品の持つ暴力性をあぶり出してもいた。
NDRエルプ・フィルも精度の高い演奏でウルバンスキの音楽づくりにこたえていた。
演奏会場のハンブルク・エルプ・フィルハーモニーの音響特性も加わってか、若干音はもやもやとした感じになる。
2024年01月25日
今日聴いた音楽から(2024/1/25)
クラリネット、ヴィオラ、ピアノによる3重奏団、フィロン・トリオが演奏したブルッフの8つの小品<ANALEKTA>を聴いた。
クラリネット、ヴィオラにピアノとは渋さも渋しといった組み合わせだが、低音域中音域高音域を満遍なく使って渋さ一辺倒ではない。
1838年に生まれて1920年に亡くなったブルッフは、メンデルスゾーンやシューマン、ブラームスといったドイツ・ロマン派盛期の流れを汲む反時代的な作品を書き続けた人物で、1910年に作曲されたにも関わらず、この8つの小品も調性のはっきりした耳なじみのよい音楽となっている。
ノスタルジックであったり、諧謔的であったり、悲哀にとらわれていたり、軽快だったりとバラエティにも富んでおり、全篇聴き飽きることはなかった。
カナダ、イギリス、ドイツ出身者が集まったフィロン・トリオは、個々の技量もよく、アンサンブルとしてのまとまりも実によい。
作品演奏ともども充実した内容だ。
ただ、1枚のCDにこれ1曲で33分程度というのはどうだろう?
サブスク(amazon music unlimited)ゆえ、僕自身はそういった不満は感じはしないものの。
クラリネット、ヴィオラにピアノとは渋さも渋しといった組み合わせだが、低音域中音域高音域を満遍なく使って渋さ一辺倒ではない。
1838年に生まれて1920年に亡くなったブルッフは、メンデルスゾーンやシューマン、ブラームスといったドイツ・ロマン派盛期の流れを汲む反時代的な作品を書き続けた人物で、1910年に作曲されたにも関わらず、この8つの小品も調性のはっきりした耳なじみのよい音楽となっている。
ノスタルジックであったり、諧謔的であったり、悲哀にとらわれていたり、軽快だったりとバラエティにも富んでおり、全篇聴き飽きることはなかった。
カナダ、イギリス、ドイツ出身者が集まったフィロン・トリオは、個々の技量もよく、アンサンブルとしてのまとまりも実によい。
作品演奏ともども充実した内容だ。
ただ、1枚のCDにこれ1曲で33分程度というのはどうだろう?
サブスク(amazon music unlimited)ゆえ、僕自身はそういった不満は感じはしないものの。
2024年01月24日
今日聴いた音楽からB(2024/1/24)
ルチアーノ・タランティーノが弾いたピアッティの無伴奏チェロのための12の奇想曲を<BRILLIANT>聴いた。
ピアッティは1822年に生まれ1901年に亡くなったイタリアのチェロ奏者。
パガニーニの24の奇想曲はもちろんのこと、テレマンの無伴奏フルートのための12の幻想曲、そしてヨハン・セバスティアン・バッハの無伴奏チェロ組曲を意識したと思しき構成の作品だ。
同時に2つの音が鳴る重音奏法など、様々な、かつ高度な技巧が試された小品集で、言葉自体はわかりやすいのだが、急に脱線脱臼したりしてとらえどころのない、同時代のイタリアというより南欧の作家が書いた短い散文を読んでいるような不思議な気持ちになる。
タランティーノのサイトなどの写真を見る限りエンドピンのついたチェロを手にしているが、もしかしたら弦はガット弦を使用しているかもしれない。
上述した重音奏法もあって、けっこう塩辛い音がする。
なんとなく玄妙な雰囲気のする音楽だ。
ピアッティは1822年に生まれ1901年に亡くなったイタリアのチェロ奏者。
パガニーニの24の奇想曲はもちろんのこと、テレマンの無伴奏フルートのための12の幻想曲、そしてヨハン・セバスティアン・バッハの無伴奏チェロ組曲を意識したと思しき構成の作品だ。
同時に2つの音が鳴る重音奏法など、様々な、かつ高度な技巧が試された小品集で、言葉自体はわかりやすいのだが、急に脱線脱臼したりしてとらえどころのない、同時代のイタリアというより南欧の作家が書いた短い散文を読んでいるような不思議な気持ちになる。
タランティーノのサイトなどの写真を見る限りエンドピンのついたチェロを手にしているが、もしかしたら弦はガット弦を使用しているかもしれない。
上述した重音奏法もあって、けっこう塩辛い音がする。
なんとなく玄妙な雰囲気のする音楽だ。
今日聴いた音楽からA(2024/1/24)
マイケル・アレクサンダー・ウィレンス率いるピリオド楽器オーケストラ、ケルン・アカデミーが演奏したモーツァルトの序曲集<BIS>を聴いた。
収録されているのは、『救われたベトゥーリア』、『イドメネオ』、『フィガロの結婚』、『後宮からの逃走』、『コジ・ファン・トゥッテ』、『劇場支配人』、『ポントの王ミトリダーテ』、『偽の女庭師』、『ドン・ジョヴァンニ』、『ルチオ・シッラ』、『皇帝ティートの慈悲』、『魔笛』の12の序曲。
1993年の晩夏から1994年の初春まで滞在したケルンは古楽器、ピリオド楽器演奏のメッカの一つだったが、ケルン・アカデミーの結成は1996年なため、あいにく実演には接しそびれたままだ。
個々の技量も確かだしアンサンブルもよくまとまっている一方、ウィレンスとケルン・アカデミーは予想通り歯切れがよくてスピーディー、加えて荒々しい音も辞さないパワフルな演奏で、先日聴いたブルーノ・ワルターとコロンビア交響楽団の演奏が実に穏やかで古風に思えてきた。
実演録音問わず、このコンビのオペラ演奏を聴いていないからその劇場感覚について判断するのはひとまず控えるものの、それこそ「革命劇」のはじまりに相応しい『フィガロの結婚』序曲はじめ、そのままオペラが始まらないのがどうにも残念なわくわくとする音楽を聴かせてくれる。
ちなみにこの場合の劇場感覚とは、オペラ演奏の多寡に基づき、オペラのだれ場見(聴か)せ場を見極めて音楽の持つドラマ性を的確に再現することと、上演当日のオーケストラ、舞台上、客席にいたる劇場の状態にあわせて臨機応変に対応すること、そういった劇と劇場全体に通じた能力と考えてもらえればよい。
演奏そのものではなくアルバムのコンセプトに若干疑問や不満があるとすれば、ある程度は予想はつくものの曲の順番についてあまり明確でないこと。
収録時間はまだ十分に残っているにも関わらず、『アポロンとヒュアキントス』、『バスティアンとバスティエンヌ』、『偽ののろま娘』、『アルバのアスカニオ』、『羊飼いの王様』、バレエ音楽『レ・プティ・リアン』の序曲が除外されていること。
それから、『偽の女庭師』序曲が最初の軽快な部分に戻らず中間部で終わってしまっていることだろうか。
繰り返しになるが、演奏そのものは十分十二分に愉しめる。
収録されているのは、『救われたベトゥーリア』、『イドメネオ』、『フィガロの結婚』、『後宮からの逃走』、『コジ・ファン・トゥッテ』、『劇場支配人』、『ポントの王ミトリダーテ』、『偽の女庭師』、『ドン・ジョヴァンニ』、『ルチオ・シッラ』、『皇帝ティートの慈悲』、『魔笛』の12の序曲。
1993年の晩夏から1994年の初春まで滞在したケルンは古楽器、ピリオド楽器演奏のメッカの一つだったが、ケルン・アカデミーの結成は1996年なため、あいにく実演には接しそびれたままだ。
個々の技量も確かだしアンサンブルもよくまとまっている一方、ウィレンスとケルン・アカデミーは予想通り歯切れがよくてスピーディー、加えて荒々しい音も辞さないパワフルな演奏で、先日聴いたブルーノ・ワルターとコロンビア交響楽団の演奏が実に穏やかで古風に思えてきた。
実演録音問わず、このコンビのオペラ演奏を聴いていないからその劇場感覚について判断するのはひとまず控えるものの、それこそ「革命劇」のはじまりに相応しい『フィガロの結婚』序曲はじめ、そのままオペラが始まらないのがどうにも残念なわくわくとする音楽を聴かせてくれる。
ちなみにこの場合の劇場感覚とは、オペラ演奏の多寡に基づき、オペラのだれ場見(聴か)せ場を見極めて音楽の持つドラマ性を的確に再現することと、上演当日のオーケストラ、舞台上、客席にいたる劇場の状態にあわせて臨機応変に対応すること、そういった劇と劇場全体に通じた能力と考えてもらえればよい。
演奏そのものではなくアルバムのコンセプトに若干疑問や不満があるとすれば、ある程度は予想はつくものの曲の順番についてあまり明確でないこと。
収録時間はまだ十分に残っているにも関わらず、『アポロンとヒュアキントス』、『バスティアンとバスティエンヌ』、『偽ののろま娘』、『アルバのアスカニオ』、『羊飼いの王様』、バレエ音楽『レ・プティ・リアン』の序曲が除外されていること。
それから、『偽の女庭師』序曲が最初の軽快な部分に戻らず中間部で終わってしまっていることだろうか。
繰り返しになるが、演奏そのものは十分十二分に愉しめる。
今日聴いた音楽から@(2024/1/24)
グイド・カンテッリは1920年生まれのイタリアの指揮者。
第二次世界大戦に敗戦後、同じイタリア出身の巨匠アルトゥーロ・トスカニーニに見出され、彼の若き後継者と目されていたが、1956年に惜しくも飛行機事故で命を奪われた。
今回聴いたフィルハーモニア管弦楽団とのシューベルトの交響曲第7番「未完成」<WARENER>は、1955年のステレオ録音だから、カンテッリにとっては最晩年の録音にあたる。
上述したように、トスカニーニの流れを汲む指揮者だけに、速いテンポで勢いよく前進していくものと思っていたが、予想は大きく外れた。
どちらかといえば、トスカニーニよりも昨夜聴いたフルトヴェングラーのほうに解釈の近さを感じるほどだ。
ただし、フルトヴェングラーが深淵と諦念の深淵とより向き合っているとすれば、カンテッリの場合は諦念のほうに一層傾いているが。
そして、シューベルトの音楽の持つ歌謡性を的確にとらえて、旋律をよく歌わせる。
もちろん、過剰な感情移入は避けつつ。
そのような音楽づくりゆえ、第2楽章がことのほか美しい。
管楽器の受け渡しのあと、急に強い音になる箇所でもカンテッリの演奏は耳を鋭く刺さない。
これは第1楽章にも共通していることだが、人を傷つけたくないし傷つきたくないといった宥めるような演奏で、まるで宗教曲のようだとまで思った。
もしカンテッリが早世しなかったなら、彼はどのような演奏を行っていただろう。
どうしてもそのことを考えてしまう。
第二次世界大戦に敗戦後、同じイタリア出身の巨匠アルトゥーロ・トスカニーニに見出され、彼の若き後継者と目されていたが、1956年に惜しくも飛行機事故で命を奪われた。
今回聴いたフィルハーモニア管弦楽団とのシューベルトの交響曲第7番「未完成」<WARENER>は、1955年のステレオ録音だから、カンテッリにとっては最晩年の録音にあたる。
上述したように、トスカニーニの流れを汲む指揮者だけに、速いテンポで勢いよく前進していくものと思っていたが、予想は大きく外れた。
どちらかといえば、トスカニーニよりも昨夜聴いたフルトヴェングラーのほうに解釈の近さを感じるほどだ。
ただし、フルトヴェングラーが深淵と諦念の深淵とより向き合っているとすれば、カンテッリの場合は諦念のほうに一層傾いているが。
そして、シューベルトの音楽の持つ歌謡性を的確にとらえて、旋律をよく歌わせる。
もちろん、過剰な感情移入は避けつつ。
そのような音楽づくりゆえ、第2楽章がことのほか美しい。
管楽器の受け渡しのあと、急に強い音になる箇所でもカンテッリの演奏は耳を鋭く刺さない。
これは第1楽章にも共通していることだが、人を傷つけたくないし傷つきたくないといった宥めるような演奏で、まるで宗教曲のようだとまで思った。
もしカンテッリが早世しなかったなら、彼はどのような演奏を行っていただろう。
どうしてもそのことを考えてしまう。
2024年01月23日
今日聴いた音楽から(2024/1/23)
クラシック音楽を聴き始めた1980年代半ばはまだ、教養主義の残滓というのかクラシック音楽の有名どころはある程度押さえておくのが常識といった感じが残っていた。
百科事典と同じように、クラシックのLPやCDの名曲全集を買い揃える家庭もそこそこあったのではないか。
シューベルトの交響曲第8番「未完成」、いわゆる未完成交響曲など、名曲中の名曲の一つとして、当然そうした全集に含まれていた。
で、そうした常識がもろくも崩れ去った今、しかも番号まで第7番と呼ばれるようになった未完成交響曲の音楽的位置というものは、大きく変わってしまった。
少なくとも、かってほどに崇め奉られる存在ではあるまい。
それでも、シューベルトの晩年の作品に共通する深淵と諦念とどう向き合うかは、未だに未完成交響曲を演奏する際には避けては通れない課題であることも確かだろう。
最近では、速いテンポで音楽を進めつつそうした深淵や諦念と果敢に切り結んだアントネッロ・マナコルダ指揮カンマーアカデミー・ポツダムの録音<SONY>が強く印象に残っている。
深淵と諦念とどう向き合うか、ということでどうしても忘れてはならないのが、ヴィルヘルム・フルトヴェングラーだろう。
彼は、この未完成交響曲を特別な曲と感じ、演奏する際も極度に興奮緊張していたと伝えられている。
そのフルトヴェングラーがウィーン・フィルを指揮した未完成交響曲を聴いた<WARNER>。
ただし、1950年にウィーンでセッション録音された有名なものではなく、同じ年の10月1日に行われたコペンハーゲンでのコンサートをデンマーク国営放送がライヴ録音したものである。
正直、最新のリマスタリングが行われているにせよ、音質はよくない。
加えて、演奏自体も最善のものとは言えない。
ただ、フルトヴェングラーのこの曲との向き合い方や、そうして生まれた音楽の凄さ、激しさ、美しさの一端を知ることはできた
百科事典と同じように、クラシックのLPやCDの名曲全集を買い揃える家庭もそこそこあったのではないか。
シューベルトの交響曲第8番「未完成」、いわゆる未完成交響曲など、名曲中の名曲の一つとして、当然そうした全集に含まれていた。
で、そうした常識がもろくも崩れ去った今、しかも番号まで第7番と呼ばれるようになった未完成交響曲の音楽的位置というものは、大きく変わってしまった。
少なくとも、かってほどに崇め奉られる存在ではあるまい。
それでも、シューベルトの晩年の作品に共通する深淵と諦念とどう向き合うかは、未だに未完成交響曲を演奏する際には避けては通れない課題であることも確かだろう。
最近では、速いテンポで音楽を進めつつそうした深淵や諦念と果敢に切り結んだアントネッロ・マナコルダ指揮カンマーアカデミー・ポツダムの録音<SONY>が強く印象に残っている。
深淵と諦念とどう向き合うか、ということでどうしても忘れてはならないのが、ヴィルヘルム・フルトヴェングラーだろう。
彼は、この未完成交響曲を特別な曲と感じ、演奏する際も極度に興奮緊張していたと伝えられている。
そのフルトヴェングラーがウィーン・フィルを指揮した未完成交響曲を聴いた<WARNER>。
ただし、1950年にウィーンでセッション録音された有名なものではなく、同じ年の10月1日に行われたコペンハーゲンでのコンサートをデンマーク国営放送がライヴ録音したものである。
正直、最新のリマスタリングが行われているにせよ、音質はよくない。
加えて、演奏自体も最善のものとは言えない。
ただ、フルトヴェングラーのこの曲との向き合い方や、そうして生まれた音楽の凄さ、激しさ、美しさの一端を知ることはできた
2024年01月22日
今日聴いた音楽から(2024/1/22)
モーツァルトの交響曲第36番「リンツ」を大好きになったきっかけは、カルロス・クライバーがウィーン・フィルを指揮したコンサートの録画を観聴きしたことだった。
クライバーの指揮姿の美しさはひとまず置くとして、緩急自在というのか、押すべきところは押し、退くべきところは退きつつ、長調の中に潜む翳りをあぶり出すその手腕の見事に感嘆したし、ウィーン・フィルの柔らかな音色がそれにまたぴったりとあっていた。
それから、この曲を好んで聴くようになった。
もちろん、クライバーとは異なるタイプの演奏も積極的に聴いた。
今夜聴いたオットー・クレンペラー指揮フィルハーモニア管弦楽団<WARNER>は、まさしくクライバーとは対極にあるような演奏である。
クレンペラーといえば、晩年になればなるほどテンポが遅くなっていったことで知られているけれど、1956年の録音ということもあって、序奏こそ重々しいし全体的に低弦は強調されてはいるものの、主部からあとは実に速い。
緩徐楽章も含めてなべて速いテンポ設定だ。
と、言って、いわゆるピリオド奏法のように細かい部分を丹念に掘り下げるものではなくて、ぶっちゃけちょっと素っ気ないほど。
ただ、ところどころ凄みというか鋭い一閃というか、はっとさせられるような箇所がある。
全部聴き終えると、またはじめから聴きたくなる。
そんな演奏だった。
クライバーの指揮姿の美しさはひとまず置くとして、緩急自在というのか、押すべきところは押し、退くべきところは退きつつ、長調の中に潜む翳りをあぶり出すその手腕の見事に感嘆したし、ウィーン・フィルの柔らかな音色がそれにまたぴったりとあっていた。
それから、この曲を好んで聴くようになった。
もちろん、クライバーとは異なるタイプの演奏も積極的に聴いた。
今夜聴いたオットー・クレンペラー指揮フィルハーモニア管弦楽団<WARNER>は、まさしくクライバーとは対極にあるような演奏である。
クレンペラーといえば、晩年になればなるほどテンポが遅くなっていったことで知られているけれど、1956年の録音ということもあって、序奏こそ重々しいし全体的に低弦は強調されてはいるものの、主部からあとは実に速い。
緩徐楽章も含めてなべて速いテンポ設定だ。
と、言って、いわゆるピリオド奏法のように細かい部分を丹念に掘り下げるものではなくて、ぶっちゃけちょっと素っ気ないほど。
ただ、ところどころ凄みというか鋭い一閃というか、はっとさせられるような箇所がある。
全部聴き終えると、またはじめから聴きたくなる。
そんな演奏だった。
2024年01月21日
今日聴いた音楽からA(2024/1/21)
フランス系カナダ人のギタリスト、パスカル・ヴァロワが録音した『ウィーン1840〜ロマンティックなウィーンの音楽』<ANALEKTA>を聴く。
ヴァロワは古楽器のレプリカ、いわゆるピリオド楽器によって演奏を行っているギタリストだが、このアルバムでも1830年製の楽器のレプリカが用いられている。
収録曲は、エミリア・ジュリアーニ=グリエルの6つの前奏曲Op.46-1と3、ヨハン・カスパール・メルツの吟遊詩人の調べ、メルツ編曲によるシューベルトの『白鳥の歌』からセレナーデ、ジュリオ・レゴンディの夜想曲「夢想」、メルツのハンガリー幻想曲第1番。
いずれも弾き手の技巧を閲するような仕掛けの施された作品だけれど、それより何よりアルバムのタイトル通り、甘やかで夢見るようで、切ない、まさしくロマンティックな旋律が魅力的だ。
中には、あまりの旋律の美しさのせいで、若干それに淫するというのか、とりとめのなさを感じる曲もないではないが。
ヴァロワの当時の演奏方法を意識したであろう節回し、歌い回しも強く印象に残った。
ヴァロワは古楽器のレプリカ、いわゆるピリオド楽器によって演奏を行っているギタリストだが、このアルバムでも1830年製の楽器のレプリカが用いられている。
収録曲は、エミリア・ジュリアーニ=グリエルの6つの前奏曲Op.46-1と3、ヨハン・カスパール・メルツの吟遊詩人の調べ、メルツ編曲によるシューベルトの『白鳥の歌』からセレナーデ、ジュリオ・レゴンディの夜想曲「夢想」、メルツのハンガリー幻想曲第1番。
いずれも弾き手の技巧を閲するような仕掛けの施された作品だけれど、それより何よりアルバムのタイトル通り、甘やかで夢見るようで、切ない、まさしくロマンティックな旋律が魅力的だ。
中には、あまりの旋律の美しさのせいで、若干それに淫するというのか、とりとめのなさを感じる曲もないではないが。
ヴァロワの当時の演奏方法を意識したであろう節回し、歌い回しも強く印象に残った。
今日聴いた音楽から@(2024/1/21)
1枚1000円はよいとして、演奏しているのがあんまり知らない東欧のオーケストラや演奏家じゃ、安かろう悪かろうじゃないの。
と、思わせておいて、聴いてみたならおや、なかなかの演奏じゃないか。
といった商売のやり方も昔の話。
レパートリーの豊富さはそのままに、デビュー間もない新進気鋭の若手から進境著しい中堅層、さらにはレナード・スラットキンといったベテランとバラエティ豊かな演奏家を起用して今やナクソス・レーベルはマイナー中のメジャー、というより、メジャーやマイナーの壁も相当とっぱらってしまった。
それに、HMVのオンライン・ショップを調べてみたら、セールでなければ会員でも1枚1600円、会員以外は2200円と値段の面でも全くお安くなくなった。
で、そんなナクソス・レーベルが最近プッシュしている指揮者の一人が、フランス出身のジャン=リュック・タンゴーだ。
1969年生まれだからこちらと同い年、マニュエル・ロザンタールのアシスタントなどを経てオペラ中心に活躍していた人だけれど、ナクソス・レーベルはフランス(系)の作曲家の管弦楽曲を彼に任せることにしたらしい。
そのタンゴーがベルリン放送を指揮したフランクとショーソンの交響曲を聴いたが、これはすこぶる聴き応えのあるアルバムだった。
当然、近年の演奏の潮流そのままに速いテンポをとるものと決めてかかったら大間違い。
フランクは全篇、ゆっくりとしたテンポで細部を丁寧に表現していく。
ただし、音色を濁らせず見通しが良いため、全く重たくならない。
第1楽章もそうだし、第2楽章など、管楽器の主旋律の後ろで弦楽器が「蠢いている」のが手に取るようにわかる。
終楽章など、昭和のヤマカズ山田一雄が京都市交響楽団を相手に呻き声を上げながら狂喜乱舞する姿が今も忘れられないのだけれど、ここでもタンゴーは焦らない。
結果、フランクの音楽の持つ官能性(法悦性とはあえて書かない)が見事に浮き彫りになっていた。
一方、同じく3楽章の構成等々、師匠フランクの影響を色濃く受けたショーソンの交響曲も、冒頭ゆっくりしたテンポで始まる。
が、主部に変わったとたんの音色の変化にはっとする。
フランクの音楽がどこか閉じられた感じがするとすれば、ショーソンの音楽には開かれた感じがするのだ。
第2楽章は、ヴァイオリンと管弦楽のための詩曲、ヴァイオリン・ピアノと弦楽4重奏のためのコンセールと共通する艶やかさ、その美しさに心魅かれる。
そして、終楽章ではひときわワーグナーからの影響が明確になる。
ベルリン放送交響楽団もそうしたタンゴーの音楽づくりによく応えて、アンサンブル・ソロの両面で精度の高い演奏を行っていた。
もし不満があるとすれば、ナクソス全般にいえることだが、録音の音質が少々浅いというか薄いというか、物足りなさを感じることか。
クリアであることには違いないのだけれど。
とはいえ、これは大いにお薦めしたいアルバムだ。
と、思わせておいて、聴いてみたならおや、なかなかの演奏じゃないか。
といった商売のやり方も昔の話。
レパートリーの豊富さはそのままに、デビュー間もない新進気鋭の若手から進境著しい中堅層、さらにはレナード・スラットキンといったベテランとバラエティ豊かな演奏家を起用して今やナクソス・レーベルはマイナー中のメジャー、というより、メジャーやマイナーの壁も相当とっぱらってしまった。
それに、HMVのオンライン・ショップを調べてみたら、セールでなければ会員でも1枚1600円、会員以外は2200円と値段の面でも全くお安くなくなった。
で、そんなナクソス・レーベルが最近プッシュしている指揮者の一人が、フランス出身のジャン=リュック・タンゴーだ。
1969年生まれだからこちらと同い年、マニュエル・ロザンタールのアシスタントなどを経てオペラ中心に活躍していた人だけれど、ナクソス・レーベルはフランス(系)の作曲家の管弦楽曲を彼に任せることにしたらしい。
そのタンゴーがベルリン放送を指揮したフランクとショーソンの交響曲を聴いたが、これはすこぶる聴き応えのあるアルバムだった。
当然、近年の演奏の潮流そのままに速いテンポをとるものと決めてかかったら大間違い。
フランクは全篇、ゆっくりとしたテンポで細部を丁寧に表現していく。
ただし、音色を濁らせず見通しが良いため、全く重たくならない。
第1楽章もそうだし、第2楽章など、管楽器の主旋律の後ろで弦楽器が「蠢いている」のが手に取るようにわかる。
終楽章など、昭和のヤマカズ山田一雄が京都市交響楽団を相手に呻き声を上げながら狂喜乱舞する姿が今も忘れられないのだけれど、ここでもタンゴーは焦らない。
結果、フランクの音楽の持つ官能性(法悦性とはあえて書かない)が見事に浮き彫りになっていた。
一方、同じく3楽章の構成等々、師匠フランクの影響を色濃く受けたショーソンの交響曲も、冒頭ゆっくりしたテンポで始まる。
が、主部に変わったとたんの音色の変化にはっとする。
フランクの音楽がどこか閉じられた感じがするとすれば、ショーソンの音楽には開かれた感じがするのだ。
第2楽章は、ヴァイオリンと管弦楽のための詩曲、ヴァイオリン・ピアノと弦楽4重奏のためのコンセールと共通する艶やかさ、その美しさに心魅かれる。
そして、終楽章ではひときわワーグナーからの影響が明確になる。
ベルリン放送交響楽団もそうしたタンゴーの音楽づくりによく応えて、アンサンブル・ソロの両面で精度の高い演奏を行っていた。
もし不満があるとすれば、ナクソス全般にいえることだが、録音の音質が少々浅いというか薄いというか、物足りなさを感じることか。
クリアであることには違いないのだけれど。
とはいえ、これは大いにお薦めしたいアルバムだ。
2024年01月20日
今日聴いた音楽からA(2024/1/20)
指揮者としての活動を始めたころ、ロンドンのオーケストラと共演する機会が多かったし、コロンビア(現ソニー)レーベルの意向もあってだろう、ダニエル・バレンボイムはロンドン・フィルやイギリス室内管弦楽団とともにエルガーの管弦楽曲を網羅的に録音している。
ただ、20世紀を迎えてシュターツカペレ・ベルリンと集中的に再録音を行ったことを考えれば、指揮者としてのバレンボイムにとって、やはりエルガーは重要な作曲家であったともいえる。
そしてそれには、チェロ協奏曲を大切なレパートリーにしていたかつてのパートナー、ジャクリーヌ・デュ・プレとの繋がりもあるかもしれない。
ちなみに、バレンボイムはフィラデルフィア管弦楽団を指揮してデュ・プレとエルガーのチェロ協奏曲のライヴ録音を行っている。
そうしたバレンボイムのエルガー録音のうち、ロンドン・フィルとの威風堂々全曲、宮廷仮面劇『インドの王冠』抜粋、帝国行進曲を聴いた。
有名な第1番からアルバムは始まるが、いやあ、速い。
先日聴いたバーンスタインのウェーバーの舞踏への勧誘も速かったが、こちらはしょっぱなから速い。
行進曲もへったくれもない飛ばしようだ。
ただし、中間部での有名な旋律はゆっくりめで演奏する。
その分、一層この旋律の美しさは際立つが、しかしやっぱり速過ぎだなあ。
で、この速さは続く第2番から第5番でもそう。
第4番と第5番で中間部をゆっくりと演奏するのも一緒だが。
なんだか一枚のLPに諸々押し込むために巻いているんじゃと思えるほど。
でも、そうは言いつつもこの第1番は繰り返し聴いてみたくもなる。
それにしても、このテンポで乱れないロンドン・フィルはやっぱり達者なオケだと感心した。
『インドの王冠』でも緩急のコントラストははっきりとしているが、こちらは威風堂々のようなある種脈絡のなさとは違い、音のドラマにそった速さであり遅さ。
ときにあらわれるインドっぽさが、なんだかオリエンタリズム全開で今となってはどうにも気恥ずかしい。
まあ、ジョージ5世とメアリー王妃のインド皇帝と皇后戴冠を祝するという意図そのものが今となってはなんとも受け入れにくいものでもあるのだけれど。
というか、そもそもエルガー自身が帝国主義期のイギリスを象徴するような作曲家なのだ。
『オリエンタリズム』の著者で今は亡きエドワード・サイードと深い親交のあったバレンボイムはそこらあたりをどう考えているのか。
イスラエルでワーグナー演奏を積極的に行ったバレンボイムだけに、非常に興味がある。
ただ、20世紀を迎えてシュターツカペレ・ベルリンと集中的に再録音を行ったことを考えれば、指揮者としてのバレンボイムにとって、やはりエルガーは重要な作曲家であったともいえる。
そしてそれには、チェロ協奏曲を大切なレパートリーにしていたかつてのパートナー、ジャクリーヌ・デュ・プレとの繋がりもあるかもしれない。
ちなみに、バレンボイムはフィラデルフィア管弦楽団を指揮してデュ・プレとエルガーのチェロ協奏曲のライヴ録音を行っている。
そうしたバレンボイムのエルガー録音のうち、ロンドン・フィルとの威風堂々全曲、宮廷仮面劇『インドの王冠』抜粋、帝国行進曲を聴いた。
有名な第1番からアルバムは始まるが、いやあ、速い。
先日聴いたバーンスタインのウェーバーの舞踏への勧誘も速かったが、こちらはしょっぱなから速い。
行進曲もへったくれもない飛ばしようだ。
ただし、中間部での有名な旋律はゆっくりめで演奏する。
その分、一層この旋律の美しさは際立つが、しかしやっぱり速過ぎだなあ。
で、この速さは続く第2番から第5番でもそう。
第4番と第5番で中間部をゆっくりと演奏するのも一緒だが。
なんだか一枚のLPに諸々押し込むために巻いているんじゃと思えるほど。
でも、そうは言いつつもこの第1番は繰り返し聴いてみたくもなる。
それにしても、このテンポで乱れないロンドン・フィルはやっぱり達者なオケだと感心した。
『インドの王冠』でも緩急のコントラストははっきりとしているが、こちらは威風堂々のようなある種脈絡のなさとは違い、音のドラマにそった速さであり遅さ。
ときにあらわれるインドっぽさが、なんだかオリエンタリズム全開で今となってはどうにも気恥ずかしい。
まあ、ジョージ5世とメアリー王妃のインド皇帝と皇后戴冠を祝するという意図そのものが今となってはなんとも受け入れにくいものでもあるのだけれど。
というか、そもそもエルガー自身が帝国主義期のイギリスを象徴するような作曲家なのだ。
『オリエンタリズム』の著者で今は亡きエドワード・サイードと深い親交のあったバレンボイムはそこらあたりをどう考えているのか。
イスラエルでワーグナー演奏を積極的に行ったバレンボイムだけに、非常に興味がある。