2024年03月31日

今日聴いた音楽からA(2024/3/31)

 ウィリアム・スタインバーグ指揮ピッツバーグ交響楽団によるアメリカのコマンド・クラシックスへの録音が最近まとめてリリースされたが、そのワーグナー集から歌劇『さまよえるオランダ人』序曲、歌劇『ローエングリン』第3幕への前奏曲、楽劇『ニュルンベルクのマイスタージンガー』第1幕への前奏曲<DG>を聴く。
 ちなみに、残りの『ニーベルングの指環』抜粋と歌劇『リエンツィ』序曲は先にながらで聴いた。

 ウィリアム・スタインバーグは、1899年ケルンに生まれたユダヤ系ドイツ人指揮者。
 ヘルマン・アーベントロートに学んだのち、オットー・クレンペラーのアシスタントとして研鑽を積み、実演録音両面で活動し始めたが、ナチスの政権樹立によって祖国を追われ、パレスチナ交響楽団の設立に関係。
 そこでアルトゥーロ・トスカニーニに見出され、アメリカに活動の舞台を移す。
 音楽監督としてピッツバーグ交響楽団とは長年良好な関係にあったほか、小澤征爾の前任者としてボストン交響楽団の音楽監督もつとめていた。
 ウィリアム・スタインバーグですぐに思い出すのは、高校生の修学旅行のとき京都の中古レコード店で買ったエヴェレスト・レーベルのブラームスの交響曲全集だった。
 ハインリヒ・ホルライザーが第1番、エードリアン・ボールトが第2番、レオポルド・ストコフスキーが第3番、そしてこのウィリアム・スタインバーグが第4番という構成で、その第4番の速いこと速いこと。
 あまりの速さに呆気にとられたものだ。
 今回まとめてリリースされた中にもブラームスの交響曲全集があるが、この第4番はどうも別録音らしい。
 まあこのことに加え、彼自身の経歴もあって、いわゆる即物主義を地で行くような音楽の作り手であると長年思い込んでいたけれど、最近ボストン交響楽団の硬質で立派なホルストの惑星を聴き、ちょっとイメージが変わってきていた。

 今日聴いたワーグナーでまずもって感じたのは、オーケストラのくすんだ音色だ。
 アメリカのオーケストラというと、良くも悪くもばりばりと明るく鳴るものという思い込みがあるのだが、ウィリアム・スタインバーグが指揮するピッツバーグ交響楽団は、いぶし銀というのか、抑制が効いてまるでドイツのオーケストラのような感じがする。
 演奏そのものも、どこか古風というか、SP時代のドイツのオーケストラの流儀に近い印象を受ける。
 ことに、『マイスタージンガー』の足を引きずって歩いているような音の流れとか、『ローエングリン』の冒頭の華々しい部分が終わって音が鎮まるところでのしみじみとした感じなどがそうである。
 聴いて胸が高揚するワーグナーではないが、これはこれで立派だし、面白い演奏だ。
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今日聴いた音楽から@(2024/3/31)

 グイド・カンテッリ指揮フィルハーモニア管弦楽団が演奏したドビュッシーの交響的断章『聖セバスティアンの殉教』、夜想曲から雲と祭り<WARNER>を聴く。
 前者は1954年6月の、後者は1955年8月の、それぞれモノラル録音である。
 いずれの曲もリリカルさとノーブルさに欠けていない。
 『聖セバスティアンの殉教』終盤での清澄さの中に潜んだ官能性や、雲の後半の艶やかさは特に印象深い。
 とともに、カンテッリはドビュッシーの音楽の持つリズミカルな動き、躍動性も的確に捉えている。
 祭りなどその最たるものだろう。
 フィルハーモニア管弦楽団の機能性も十分に発揮されていた。
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2024年03月30日

今日聴いた音楽からA(2024/3/30)

 グイド・カンテッリが指揮したフランクの交響曲<WARNER>を聴く。
 ただし、オーケストラはフィルハーモニア管弦楽団ではなくて、NBC交響楽団。
 NBC交響楽団といえば、アルトゥーロ・トスカニーニのために設立されたオーケストラとして知られるが(実際のところは、そう断言できるものではないらしい)、トスカニーニに目をかけられたカンテッリはしばしばこのオーケストラに客演している。
 1954年4月6日のステレオ録音。
 トスカニーニが引退発表を決断し、このオーケストラが消滅していくきっかけとなったコンサートの翌々日のことだ。
 フランクの交響曲では、今年リリースされたタンゴーとベルリン放送交響楽団による端正で丹念な演奏に感嘆感動したばかりだが、カンテッリのほうはメリハリのハリが強く効いた演奏。
 第2楽章など、メリのほうの表現も一応出てはいるのだが、概してぐいぐいと力が前に出る感じがする。
 一つには、トスカニーニとの関係やオーケストラの性質も大きく作用しているのだろうが。
 鮮明なステレオ録音だけれど、その分、オーケストラの粗さも感じてしまう。
 できれば、この音質でフィルハーモニア管弦楽団との録音を聴いてみたかった。
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今日聴いた音楽から@(2024/3/30)

 昨夜に続いて、オットー・クレンペラー指揮フィルハーモニア管弦楽団が演奏したシューベルトの交響曲を聴く。
 第8番の「ザ・グレート」<WARNER>だ。
 この曲といえば、その異名の通り偉大で巨大な交響曲として扱われてきたが、昨今のピリオド流儀の超快速演奏が全盛となってからは、そうしたイメージがだいぶん変わってきた。
 もちろん、クレンペラーの演奏はかつてのスタイルに基づくゆったりとしたテンポの演奏。
 例えば第1楽章、ピリオド・スタイルでなくとも冒頭の部分が終わると一転加速する解釈が一般的だけれど、クレンペラーの場合はテンポの変化は感じられず、悠揚とした歩みが続く。
 ただし、例えばセルジュ・チェリビダッケや晩年のカルロ・マリア・ジュリーニのようなここでもかというほどの遅さではない。
 あくまでも前へ進もうという意思が明確に示されているからだ。
 テンポの遅さより強く感じるのは、音楽の構えの大きさだろうか。
 音の巨大な塊が目の前を過ぎ去っていくような。
 そうそう、聴いていてふと今は亡きジャイアント馬場のことを思い出したりもしたんだ。
 あまり細部をいじろうとしない分、時々シューベルトの音楽の持つスタイリッシュでない部分が強く感じられるのも、なんだかジャイアント馬場のおとぼけぶりっぽい。
 そういえば、クレンペラーも2メートル近くの長身だったという。
 名は体を表すではなく、体は藝を表すということか。
 リマスタリングの成果もあって、音質にも不満はない。
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2024年03月29日

今日聴いた音楽から(2024/3/29)

 昨夜、ノートパソコンが壊れてしまい音楽もへったくれもない状態だった。
 で、今日朝一で新しいパソコンを買って半日かけてなんとか使えるまでにした。
 音楽もようやく聴けるようになる。
 ながらでなくまず聴いたのは、オットー・クレンペラー指揮フィルハーモニア管弦楽団が演奏したシューベルトの交響曲第7番「未完成」<WARNER>。
 ゆっくりとしたテンポの演奏だが、後年のクレンペラーのような遅さを感じることはない。
 媚びない、甘さを抑えた音楽で、寂寞とした感情を起こさせる。
 それでいて、歌唱性に不足はない。
 夕暮れに一人佇んでいるような音楽だ。
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2024年03月27日

今日聴いた音楽からA(2024/3/27)

 ピーター・ゼルキンが1965年3月に録音したヨハン・セバスティアン・バッハのゴルトベルク変奏曲<RCA>を聴いた。
 彼にとって、本格的なソロ・デビュー盤にあたるようにCDの紹介では書かれている。
 ピーター・ゼルキンは生涯音楽と向かい合った人であることは言うまでもないが、それとともに偉大な父ルドルフ・ゼルキンとも向き合わざるをえなかった人だろう。
 反抗する若き日のピーターに対して、ルドルフは小澤征爾にその後見人的な役割を頼んだというエピソードもよく知られている。
 そして、このゴルトベルク変奏曲ではもう一人向き合わなければならない存在がいた。
 同じくこのゴルトベルク変奏曲で鮮烈な印象を与えた、というよりゴルトベルク変奏曲の演奏に大きな楔を打ち込んだグレン・グールドだ。
 ピーターの演奏を聴いていると、そのことがよくわかる。
 第14変奏の速いテンポ設定など、明らかにグレン・グールドの影響を感じる部分もあれば、あえて違う歌を歌おうという意志もそこここに聴き受けられる。
 繊細さと、強い表現欲求とを感じる演奏だ。
 それから約30年後の1994年の6月に再びピーター・ゼルキンはゴルトベルク変奏曲を同じRCAレーベルに録音している。
 いずれ必ず耳にしたい。
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今日聴いた音楽から@(2024/3/27)

 ガリー・ベルティーニ指揮シュトゥットガルト放送交響楽団が演奏したブラームスの交響曲第1番<WARENER>を聴く。
 1996年11月8日、カールスルーエ州立劇場でのライヴ録音とクレジットされている。
 このところずっと聴いてきたベルティーニとシュトゥットガルト放送交響楽団の録音もこれで最後だ。
 ここでも、ベルティーニはしまりのよい音楽を聴かせる。
 速いテンポで重さを感じさせないブラームス。
 第2楽章では過度にならない抒情性が美しい。
 そして、終楽章のコーダでは大いに盛り上げる。
 ベルティーニという指揮者の音楽づくりの巧さが感じられた。
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2024年03月26日

今日聴いた音楽から(2024/3/26)

 ガリー・ベルティーニ指揮シュトゥットガルト放送交響楽団が演奏したベルリオーズの幻想交響曲<SWR>を聴く。
 1978年4月14日、シュトゥットガルトのリーダーハレでのライヴ録音とクレジットされている。
 一連の録音の中ではもっとも古いものの一つだが、オーケストラをよくコントロールして音楽のつくりを明確に示すという点ではその他の演奏と共通している。
 幻想交響曲が当時としては画期的な内容であるとともに、ベートーヴェンから多大な影響を受けていたことを改めて感じる演奏である。
 それに加えて、ベルティーニが音のドラマづくりの名手であることもよくわかる。
 第1楽章の募った感情が爆発する様や第2楽章の華々しさと悲劇の予感、第4楽章以降の圧倒的な迫力。
 ただ、中でも印象に残ったのは、第3楽章の寂寞感であり第4楽章の予告ともなるティンパニの一閃だった。
 会場の音響特性に経年劣化もあってか、音がもやつくのが少々残念。
 できれば、よりクリアな音質で聴きたい。
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2024年03月25日

今日聴いた音楽から(2024/3/25)

 オットー・クレンペラー指揮フィルハーモニア管弦楽団が演奏したウェーバーの歌劇『魔弾の射手』序曲と歌劇『オベロン』序曲<WARENER>を聴く。
 いずれも1960年の録音。
 『魔弾の射手』はドイツ民話を、『オベロン』はヴィーラントの詩にシェイクスピアの『夏の夜の夢』と『テンペスト』を織り込んだものを題材にしたオペラで、ロマンティックでメルヘンティックな音楽を多分に含んでいる。
 そして、その旋律を巧みに繋ぎ合わせて人気が高いのが、この二つの序曲だ。
 ただし、一つ間違うと軽々しく安い音楽に聴こえてしまう危険性を秘めていることも残念ながら事実である。
 しかし、クレンペラーであればそのような心配は無用だった。
 しかも、1960年のクレンペラーはまだまだ若い。
 例えば、『オベロン』はその物語からもメンデルスゾーンの『夏の夜の夢』に与えた影響が色濃くうかがえるが、重心は腰から下にあるごとくしっかりとして構えも大きいものながら、弦楽器の歯切れのよさに比較的速いテンポのクレンペラーの音楽づくりだと、ウェーバーの二つの序曲がまるでワーグナーの初期の作品かのように立派に聴こえてくる。
 事実、ワーグナーの一家はウェーバーと親交があり、ワーグナー自身、ウェーバーから多大な影響を受けていた。
 フィルハーモニア管弦楽団もクレンペラーによくそって間然としない音楽を生み出している。
 聴き応え十分だ。
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2024年03月24日

今日聴いた音楽から(2024/3/24)

 ガリー・ベルティーニ指揮シュトゥットガルト放送交響楽団が演奏したブラームスの交響曲第3番<SWR>を聴く。
 シュトゥットガルト・リーダーハレでの1985年1月25日のライヴ録音。
 この曲は少し前にグイド・カンテッリ指揮フィルハーモニア管弦楽団の演奏を聴いたばかりだが、あちらが言いたいことがあり過ぎて、どうしても口ごもってしまう、といった風な演奏だとすれば、こちらは言いたいことは言うべきときに言うといった感じ。
 ここでもベルティーニはシャープな音楽づくり。
 音の歯切れがよくて、テンポも速めで、全く粘った感じがしない。
 カンテッリでも記したこの曲の音楽のつくりがよくわかることがもちろんだが、それに加えて、そうした音楽のつくりが結果としてどのような音のドラマを生み出すかもはっきりと聴かせてくれる。
 第1楽章の後半、感情が爆発する部分での迫力や、終楽章での運命そっくりのテーマが鳴り響いたあとの追い込みなどベルティーニの劇場感覚がよく発揮されている。
 一方で、第2楽章や有名な第3楽章では決然として前進するといった意志がうかがえ、終楽章の終結部でも明るいというか、希望の見える終わり方をしていた。
 実演を聴けば感嘆しただろうし、こうした録音媒体であれば繰り返し触れたくなるような演奏である。
 録音も見通しがよい。
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マウリツィオ・ポリーニを偲んで

 昨日、マウリツィオ・ポリーニが亡くなった。82歳。
 1942年にイタリアのミラノで生まれ、ヴェルディ音楽院で音楽を学び、僅か18歳のときにショパン国際ピアノ・コンクールで優勝して一大センセーションを巻き起こしたが、その後しばらくは世界的な音楽活動を自粛し、1968年になってようやく復帰。
 その後は、コンサート・レコーディングの双方で大活躍し、昨年10月末まで演奏を続けていた。
 そうそう、ポリーニといえば盟友クラウディオ・アバド同様、かつてイタリア共産党員であったという情報も伝わっていて、だからばりばりの活動家であるノーノの作品を積極的に取り上げるのかと腑に落ちたものだ。
 僕がクラシック音楽を聴き始めた1980年代半ばは、ホロヴィッツやリヒテルがまだ存命だったとはいえ、勢いという意味ではポリーニとマルタ・アルゲリッチがピアニストの頂点に立っていた。
 実際、ドイツ・グラモフォン・レーベルのピアニストの二大看板もこの二人だった。
 先日亡くなった同年生まれの寺田農や山本陽子と同じく、自分自身がちょうど芸術芸能に慣れ親しみ始めた頃に輝かしい存在であった人だけに、ポリーニの死は本当に残念でならない。

 などと書きながら、実は僕は彼のあまり良い聴き手ではなかった。
 そうする機会が皆無でなかったにもかかわらず、結局ポリーニの実演に接したことはなかったし、今手元に一枚も彼のCDを持っていない。
 ずいぶん昔、名盤として有名なショパンの練習曲集を買いはしたが、LP時代にサンソン・フランソワの歌い崩したショパンにどっぷりつかった人間には、ポリーニのショパンは辛口硬派に過ぎた。
 しかも、そもそもオーケストラ音楽が好きだった上に、JEUGIA四条店のクラシック音楽担当になって他のジャンルに手を伸ばしだしたときも、フォルテピアノにはまってモダン楽器のピアノを聴く機会はそれほど増えなかった。
 加えて、ちょうど30年前のケルン滞在中、同地に暮らすピアニストとギタリストの日本人夫妻と会食した際、「録音はもちろんのこと、来日公演でもポリーニはミスしないように気をつかっている。こっちで実演を聴いておいたほうがいい」という言葉をいただいたのも大きかった。
 それで、ポリーニを積極的に聴く機会はこれまでほとんどなかったと言っていい。
 返す返すも実演に接することができなかったことを悔やむ。

 けれど、今となってはポリーニを偲ぶには録音に触れるしかない。
 協奏曲をひとまず置くと、ポリーニの録音上のレパートリーはバッハ、ベートーヴェン、ショパン、ドビュッシー、リスト、シューベルト、シューマン、それからシェーンベルクやベルク、ウェーベルンらを含む20世紀に作曲された作品あたりに限られるのではないか。
 一つには、上述したアルゲリッチとの兼ね合いもあったかもしれないが、やはりポリーニ自身の好み、強い意志の反映であることも確かだろう。
 レーベルでは、初期のEMI以外では、正規のリリースはほとんどドイツ・グラモフォン。
 ただ、ペーザロのロッシーニ音楽祭でロッシーニの歌劇『湖上の美人』という超マイナーなオペラを指揮したことがあって、そのライヴ録音*がCBS(現SONY)からリリースされたことがあった。
 今、それをながら聴きしている。

 午前中、シェーンベルクのピアノ曲作品33のaとb、ウェーベルンのピアノのための変奏曲を聴き、今さっきシューベルトのアレグレット、シューマンのアラベスク、そしてドビュッシーの前奏曲集第2巻と『白と黒で』<いずれもDG>を聴いた。
 ドビュッシーの前奏曲集第2巻は、2016年の録音。
 第1巻他が録音されたのは1998年なので、約20年後の録音ということになる。
 74歳だからポリーニにとっては晩年の演奏だが、若い頃に比べれば当然技術的な面で多少の変化は否めないものの、それでも高いテクニックを維持している。
 ドビュッシーというと、印象派云々という言葉が付き物だけれど、ポリーニの演奏だと、単なる気分頼みではなく、音の組み合わせによる音色の変化であるとか、リズム進行であるとか、そうした印象を与えるプロセスが的確に把握され、結果明快に示されている。
 それとともに、この前奏曲集第2巻では、第5曲の「ヒース」のように耳なじみのよい音楽はありつつも、ポリーニが得意とした同時代、「現代音楽」の先駆者としてドビュッシーが位置づけられるべきであることも改めて教えられる。
 それでいて、これはアラベスクにも通じるが、音楽の持つ情感、美しさが退けられるわけではない。
 非常に聴きがいのある演奏だ。
 なお、ピアノ2重奏のための『白と黒で』は、子息のダニエレ・ポリーニとの共演。
 第一次世界大戦中に作曲されたこの作品の時局性について、前奏曲集第2巻でのイギリス国歌やラ・マルセイエーズの引用とも絡めて、NHK・FMの『クラシックの迷宮』で片山杜秀が語っていたはずである。
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2024年03月23日

今日聴いた音楽からA(2024/3/23)

 ヘルシンキ・フィルと昨シーズンで首席指揮者を退任したスザンナ・マルッキが録音した、シベリウスの管弦楽曲集<BIS>を聴いたが、これは掛け値なしに素晴らしかった。
 収録されているのは、カレリア組曲、組曲『恋人』、レンミンカイネン組曲の3曲。
 マルッキは、アンサンブル・アンテルコンタンポランの音楽監督をつとめていたことからでもわかるように、現代音楽「も」得意とする楽曲把握とアンサンブルのコントロールに秀でた指揮者で、このアルバムではそうした彼女の特性がよく示されている。
 とともに、長年シベリウスと向き合い続けてきた自信や自負も含むヘルシンキ・フィルの蓄積も十分に発揮されていた。
 お国物であるとか伝統であるといった言葉を軽々に使うのには躊躇するし、同じフィンランド人といえど、シベリウスの生きた時代と現代とでは様々な点で大きく異なっている。
 それどころか、今時、ヘルシンキ・フィルだろうがどこだろうが、世界のメジャー・オーケストラの大半は多様な国籍の人々によって構成されている。
 けれど、個々のオーケストラが積み上げてきた経験をもとにした解釈や演奏方法の蓄積は、たとえ世代が変わろうと一朝一夕に失われるものでもあるまい。
 このアルバムでは、はまるべきものがしっかりはまったというか、マルッキとヘルシンキ・フィルの擦り合わせがとてもバランスよく成立している。
 強弱の均整のとれたカレリア組曲や弦楽器による抒情性に満ちた恋人を聴いた段階ですでに理解していたことだが、メインのレミンカイネン組曲を聴いてそれは大きな感嘆に変わった。
 第1曲「レンミンカイネンと島の乙女たち」での管楽器の掛け合いとわくわくするような感じ、有名な第2曲「トゥオネラの白鳥」の静謐な美しさ、第3曲「トゥオネラのレンミンカイネン」での強弱の振幅の大きさとみゅわみゅわとする弦楽器の切迫感、終曲「レンミンカイネンの帰郷」の前へ前へとのめっても崩れることのないアンサンブル。
 民族叙事詩『カレワラ』をもとにしたこの曲の持つ物語性と劇性が的確に捉えられるばかりでなく、シベリウスが国民楽派、ロマン主義の枠に留まらない音楽の書き手であることも明示されている。
 知情意揃った演奏で、多くの方に大いにお薦めしたい。
 録音も非常にクリアだ。

 それにしても、マルッキは僕と同じ1969年の生まれ。
 今月13日が誕生日なのですでに55歳、日本でいうと学年が一つ上になるが。
 彼女と我のあまりの違いに愕然となる。
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今日聴いた音楽から@(2024/3/23)

 ガリー・ベルティーニ指揮シュトゥットガルト放送交響楽団が演奏したベートーヴェンの交響曲第7番とシューベルトの交響曲第7番「未完成」<SWR>を聴いた。
 ベートーヴェンは1995年4月13日、オーケストラの本拠地シュトゥットガルトのリーダーハレでの、シューベルトは1996年11月8日、カールスルーエ州立劇場での、それぞれライヴ録音だ。
 ここでもベルティーニはフォルムがはっきりして流れのよい音楽を生み出している。
 ベートーヴェンの第7番といえば、ワーグナーの「舞踏の聖化」という言葉もあるようにリズムが肝の作品だが、当然ベルティーニも躍動性があって前に進む感じを明確に表す。
 『のだめカンタービレ』でおなじみになった第1楽章は、音楽が進むうちにどんどん熱量も高まっていく。
 終楽章も同様。
 それでいて、音楽は崩れない。
 第2楽章は第3番「英雄」の同じ楽章と同様、ゆっくりとした歩みで暗鬱とした表情を醸し出す指揮者も少なくないが、ベルティーニは速めのテンポを保つ。
 それによって、ベートーヴェンという作曲家がすでにロマン派へと足を踏み入れていたこと、ベートーヴェンのロマン派的感情が伝わってきた。
 第3楽章では、トリオの部分の雲がもこもこと拡がっていくような感じが印象深い。

 未完成交響曲も粘ることなく、速いテンポで音楽が進む。
 表現は甘くないが、といって冷血でも冷淡でもない。
 シューベルトの音楽の持つ歌謡性や感傷性が裂け出てきて、強く魅了された。
 ベートーヴェンでは若干もやついていたが、こちらはクリアな音質で、ベルティーニの解釈によくあっている。
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2024年03月22日

今日聴いた音楽から@(2024/3/22)

 グイド・カンテッリ指揮フィルハーモニア管弦楽団が演奏したドビュッシーの交響詩『海』<WARENER>を聴いた。
 1954年9月のモノラル録音。
 あまりにも陳腐な言葉だが、それこそ波が押し寄せたり引いたりするようなこの作品の持つ躍動性、リズムとともに、そのリズムと強弱の変化が分かち難いものであることも的確に捉えられた演奏だ。
 フィルハーモニア管弦楽団の機能性の高さは改めて言うまでもないだろう。
 良質のステレオ録音だったらと思わずにはいられない。
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2024年03月21日

今日聴いた音楽から(2024/3/21)

 ガリー・ベルティーニとシュトゥットガルト放送交響楽団のアルバム<SWR>から、ハイドンの交響曲第53番「帝国」と第95番、ワーグナーの楽劇『トリスタンとイゾルデ』第1幕への前奏曲と愛の死を聴いた。
 ハイドンの第53番は1985年1月25日、第95番は1983年2月3日のそれぞれシュトゥットガルト・リーダーハレでのライヴ録音、ワーグナーのほうは1996年11月28日の東京芸術劇場でのライヴ録音と表記されている。

 昨夜聴いたモーツァルト同様、ハイドンはインテンポを保ってきっちりと角を押さえたような演奏。
 最近のピリオド奏法に慣れた耳からすると若干物足りなさも感じないではないが、作品の構造をよく見据えた的確な解釈ではある。
 特に、ロンドンの多数の公衆のために書かれた第95番には、聴き手を飽きさせないための手数の多さや音楽的な構えの大きさがよくわかった。

 一方、『トリスタンとイゾルデ』の前奏曲と愛の死は、冒頭から濃密な音楽。
 もちろん見通しのよさは失わないが、ハイドンに比して流れが柔軟で、音楽が進むにつれて感情のうねりが増していく。
 そして、終結部の静謐な美しさが強く印象に残る。
 今から30年近く前、東京でこんなコンサートが行われていたとは。
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2024年03月20日

今日聴いた音楽からA(2024/3/20)

 度々来日して東京都交響楽団やNHK交響楽団とよく共演していたガリー・ベルティーニだが、僕は彼の実演には二度しか接したことがない。
 いずれもケルンの放送交響楽団を指揮したコンサートで、一度目は1990年11月28日のフェスティバルホールでのマーラーの交響曲第5番。
 ただこのときは、ホールの上のほうに座ってオーケストラを眺めている情景は記憶しているものの、音楽についてほぼ覚えていない。
 しかし、二度目の1993年11月6日のケルン・フィルハーモニーでのコンサートのことは未だに忘れられない。
 前半がドビュッシーやラヴェル、後半のメインがチャイコフスキーの交響曲第5番というプログラムで、よくコントロールされて無駄な部分のない、それでいて音楽の頂点がはっきりとわかるドラマティックな内容だった。
 当時ケルン放送交響楽団のシェフだったハンス・フォンクがどこか緩い音楽づくりに終始していた上に、ベルティーニのコンサートの翌日、アルミン・ジョルダンとスイス・ロマンド管弦楽団とやって来て、前半と後半の違いはあれど、同じドビュッシーの海とラヴェルのラ・ヴァルスをほわんほわんした響きで聴かせたものだから、ますますベルティーニの指揮の締まり具合が強く印象に残ったのだ。
 そのベルティーニがシュトゥットガルトの放送交響楽団と遺したライヴを中心とする録音が、今年になってまとまってリリースされた。
 ここのところ、それをちょこちょこ聴いていたが。中ではワーグナーの歌劇『さまよえるオランダ人』序曲の丹念で濃密な音楽に感心した。
 今夜は、その組み合わせでモーツァルトの交響曲第40番を聴いた。
 1996年12月1日の東京芸術劇場でのライヴ録音である。
 非常に速いテンポ、そしてよく引き締まったベルティーニらしい演奏だ。
 細部までよく考え抜かれているから、淡々と進んでも素っ気なさまでは感じない。
 実にクリアな音楽で、聴きやすい。
 この曲につきまとうロマンティックな感傷、というかデモーニッシュさは一切感じず、古典派の短調の交響曲のよくできた演奏を聴けたといった感想になるが。
 それはそれで悪くない。
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今日聴いた音楽から@(2024/3/20)

 春分の日だからというわけではないが、シューマンの交響曲第1番「春」と第2番<Challenge Classics>を聴いた。
 演奏は、4月から京都市交響楽団の首席客演指揮者となるオランダ出身のヤン・ヴィレム・デ・フリーント(フリエンド)の指揮するノルウェーのオーケストラ、スタヴァンゲル交響楽団。
 北欧音楽好きはひとまず置くとして、ある程度のオーケストラ好きでないとスタヴァンゲル交響楽団のことを知らないのではないか?
 僕がこのオーケストラの存在を知ったのは、ちょうど30年ほど前のヨーロッパ滞在中に、同じ院の研究科だった大塚陽子さん(現立命館大学政策科学部教授)を訪ねてイギリスのウォーリック大学に遊びに行ったときだ。
 大学のアーツセンターのオーケストラコンサートの年間プログラムの中に、Stavanger Symphony Orchestraも名前を連ねていた。
 確か指揮は当時の首席指揮者のアレクサンドル・ドミトリエフで、お得意のチャイコフスキーかショスタコーヴィチがメインだったような記憶がある。
 ただ、そのときはStavangerを日本語でどう読んで、どう表記するのがよいのかわからなかった。
 スタヴァンゲル交響楽団は1990年からフランス・ブリュッヘンを古楽の音楽監督に迎え、その後も同じポストにフィリップ・ヘレヴェッヘやファビオ・ビオンディを招くなど、比較的早いうちからモダン楽器の演奏にいわゆるピリオド・スタイルを取り入れてきたオーケストラでもある。
 同じくピリオド畑出身のフリーントとのこのアルバムでも、そうしたこれまでの蓄積が大きく生きているように感じた。
 例えば、シカゴ交響楽団のような圧倒的な音の力はないけれど、その分、隅々まで丹念に音楽を磨き込んでいく細やかさではスタヴァンゲル交響楽団に軍配を上げたくなる。
 まず、第1番の「春」から。
 流れのよさ、歯切れのよさはもちろんだが、弦楽器ではあえて角を立てることなく穏やかな響きを生み出す。
 結果、狂瀾よりも春の穏やかさを存分に感じて、愉悦感というのか、最後までリラックスして音楽を聴くことができた。
 続く第2番は一転、この曲の持つ前へ前へ進もうとする前のめり感にわくわくする。
 こちらには「春」というニックネームはないけれど、強い風が吹き荒れている今日の京の春のような趣。
 強弱緩急のメリハリもきいているが、音がいぎたなくならないのは、フリーントの音楽性とともに人柄のあらわれのように思わずにはいられない。
 第1、第2、終楽章と運動性、躍動性が前に出る分、第3楽章の抒情性、夢見るような情感がひときわ印象に残った。
 スタヴァンゲル交響楽団もフリーントの解釈によく応えて、充実したアンサンブルを創り上げていた。

 ちなみに、2025年の1月28日に開催予定の京都市交響楽団第696回定期演奏会では、フリーントがシューマンの交響曲第2番を指揮する予定だ。
 来年のことを言えば鬼が笑うというが、なんとか聴きたいものだなあ!
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2024年03月19日

今日聴いた音楽から(2024/3/19)

 ジャン・マルティノン指揮シカゴ交響楽団が演奏したニールセンの序曲『ヘリオス』と交響曲第4番<RCA>を聴いた。
 LPのオリジナルのカップリングもこの2曲である。
 北欧の交響曲の創り手といえば、何はなくともフィンランドのシベリウスということになるだろうが、デンマークのニールセンも忘れてはなるまい。
 ただ、シベリウスよりも少し晦渋というのか、「現代音楽」に寄った構造と響きが一層はっきりしているので、いくぶん人気の面では落ちる。
 序曲『ヘリオス』は、エーゲ海の日の出をモチーフにした作品とされるが、イタリア滞在中に作曲が開始されたシベリウスの交響曲第2番同様、北欧らしさ(北欧の民謡などと同じ旋律のパターンであるとか)が色濃く表れている。
 一方、交響曲第4番「不滅」は1914年から1916年にかけて作曲された4つのパートを持つ単一楽章の交響曲。
 第一次世界大戦という直面する未曽有の破滅的危機に対峙した作品でもある。
 この曲は、もう40年近く前にヘルベルト・ブロムシュテット指揮サンフランシスコ交響楽団のCDを愛聴していたのだけれど、人に譲って輸入盤の中古を改めて買おうと思ったきりそうできず、今に至るまで手元にCDがない。
 この間、FM放送だとかネットラジオで耳にしたことはあるが、ながらでなくしっかりと聴いたのは本当に久しぶりになる。
 で、先に晦渋などと書いたが、改めて聴いてみてどこが晦渋なものかとすぐに思ってしまう。
 ぐいぐいと進む第1パート、管楽器のソロとピッツィカートの掛け合いが耳になじむ第2パート、真摯で終盤の弦楽器の追い込みが強く印象に残る第3パート、そして無法松もびっくりの2群のティンパニの乱れ打ちが凄まじい最終パート。
 聴きどころ満載である。
 マルティノンは線のはっきりした明快な解釈で、この交響曲の要所急所をしっかりと表現していく。
 そして、ことさら北欧らしさを強調していないにもかかわらず、それが作品のあちらから浮き出されてくる。
 シカゴ交響楽団はここでも高い技量を聴かせてくれる。
 特にティンパニの迫力!
 それにしても、クラウディア・キャシディという評論家は一体何を聴いていたのだろうか?
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2024年03月18日

今日聴いた音楽から(2024/3/18)

 ジャン・マルティノン指揮シカゴ交響楽団が演奏したメンデルスゾーンの『夏の夜の夢』の音楽のハイライト<RCA>を聴く。
 ここでは、個別に作曲された序曲と劇音楽の中からスケルツォ、夜想曲、結婚行進曲の4曲が演奏されている。
 序曲は冒頭からとばすとばす。
 最初の和音の美しさなどなんのその、ロマンティックな雰囲気など知ったこっちゃない、それこそロバの頭を被せられるニック・ボトムら職工たちのどたばたじたばたあちゃらか劇のような速いテンポで音楽は進む。
 マルティノン、シェイクスピアに興味がないのかね…。
 ところが、冒頭の部分が再びあらわれる直前、テンポがぐっと遅くなり、まるで葬送の音楽のように暗然とする。
 そこにはっと驚いた。
 本当に驚いた。
 スケルツォは、標準体重よりずっと重たい体格の人が細やかにステップを刻んでいるというのか、重心が低いにも関わらず小回りのきく演奏。
 夜想曲は、名手テイル・クレヴェンジャーだろうか(1966年の入団でこれは1967年の録音)、ホルンのソロをはじめとした管楽器と弦楽器が美しい掛け合いを聴かせる。
 そして、おなじみ結婚行進曲ではトランペットら金管群や打楽器群が大活躍し、壮麗華美にしめる。
 当時のRCAの録音傾向もあって音がドンシャリ気味なのは仕方あるまい。
 しかし、この演奏でやはり一番忘れ難いのは、序曲のあの奈落の底を目にするような、『マクベス』の「人生は歩き回る影法師、哀れな役者だ」という言葉を音楽にしたかのようなあの部分だ。
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2024年03月17日

今日聴いた音楽からA(2024/3/17)

 ジャン・マルティノン指揮シカゴ交響楽団が演奏したビゼーの『アルルの女』組曲第1番と第2番、交響曲ハ長調<RCA>を聴いた。
 ここでも、マルティノンは緩急強弱のコントラストを強調した、線のはっきりした音楽づくりを行っている。
 例えば、組曲第2番の1曲目パストラルでは穏やかな管楽器の掛け合いと強奏と、また3曲目のメヌエットでは美しいフルートのソロと強奏との対比が非常にはっきりとしている。
 そして終曲、おなじみのファランドール。
 第1番の前奏曲冒頭の「三人の王様が」という旋律が再び登場したあと、太鼓にあわせて音楽がリズミカルになる部分、はじめはちょっと遅めだなと思っていたら、最後になって煽る煽る!
 これがライヴだったら大興奮間違いなしだろう。
 交響曲でも、マルティノンの音楽の進め方は基本的に同じだ。
 第1楽章は概して軽快だけれど、中間部、オーボエのソロのあたりではいくぶんテンポをおとし、僅かな気分の変化を明示する。
 もちろん、終楽章はノリがいい。
 まるで澄んだ青空を見ているかのような、明るい音楽だ。
 音色という点で粗さを感じる部分はあるものの、シカゴ交響楽団はやはり充実していた。
 管楽器は言わずもがな、交響曲の第2楽章ではアンサンブルとしての弦楽器の力量の高さがよくわかる。
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今日聴いた音楽から@(2024/3/17)

 CDで山田一雄指揮大阪センチュリー交響楽団が演奏したとても密度の濃いベートーヴェンのエロイカ交響曲のライヴ録音を聴いたので(ちなみに、この日のコンサートに僕も足を運んでいた。ここまで凄い演奏とはあのときは思ってもいなかった。そして、ヤマカズさんの実演にもっと接することができると思っていた)、息抜きが欲しい。
 ということで、フィラデルフィア木管5重奏団が演奏した『パストラーレ』というアルバム<SONY>を聴く。
 収録曲は、グレインジャーのウォーキング・チューン、ポール・デ・ウェイリーのオーバード、パーシケッティのパストラル、シューベルトの『ロザムンデ』から、ストラヴィンスキーのパストラーレ(1923年版と1933年版)、ピエルネのパストラーレ、ジョリヴェのクリスマスのパストラル、ミヨーの2つのスケッチ。
 録音当時の「現代音楽」が大半を占めているが、いずれも耳なじみは悪くない。
 フィラデルフィア木管5重奏団は、フィラデルフィア管弦楽団のメンバーによる腕扱き集団だけど、1950年代末から60年代初頭にかけての録音ということで、リマスタリングを経てもなお若干音の古さが気になるか。
 音がへなっとしたというか、ちょっとへっぽこな感じになってしまうのだ。
 ストラヴィンスキーの23年版にソプラノのジュディス・ブレゲンが加わっているほか、同じ曲の33年版には弦楽器、別の曲ではハープも加わっているが、こちらは記載がなかった。
 十分な息抜きにはなった。

 それにしても、桂枝雀師匠じゃないが、緊張と緩和は大事だなあ。
 メリハリはきちんとつけていかないと。
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2024年03月16日

今日聴いた音楽からA(2024/3/16)

 ジャン・マルティノンがシカゴ交響楽団を指揮した一連の録音の中から、ラヴェルのラ・ヴァルスとボレロ<RCA>を聴く。
 悪名高い音楽評論家クラウディア・キャシディによるネガティヴ・キャンペーンや、楽団とのトラブルもあって任期途中に音楽監督を退任せざるを得なかったシカゴ交響楽団時代は、マルティノンにとって最低最悪だったと言われている。
 前任者である偉大なフリッツ・ライナーとの比較もあったのだろうが、残された録音を聴くかぎり、実際の演奏の面ではマルティノンとシカゴ交響楽団のコンビネーションは最低でも最悪でもなかったように感じられる。
 マルティノンは幅広いレパートリーの持ち主であり、シカゴ交響楽団との録音でもその一端をうかがうことができる。
 できるけれど、今日聴いたのは得意中の得意と呼ぶべきラヴェルの、それも両看板とでも呼ぶべきラ・ヴァルスとボレロである。
 相手がシカゴ交響楽団に限らず、マルティノンは線のはっきりとした音楽を創り出す。
 ラ・ヴァルスとボレロでもそれは変わらない。
 ラ・ヴァルスは、ウインナ・ワルツへのオマージュであり、パロディであり、挽歌でもあるのだが、ぐいぐいとテンポを上げていく終盤の追い込みがやはり忘れ難い。
 一方、ボレロは一貫して速いテンポ。
 しかしながら、素っ気なさとは無縁で、おなじみの旋律が何度も繰り返されて楽器が増えていき、遂にクライマックスを迎えるあたりには興奮した。
 ソロ、アンサンブルの両面でシカゴ交響楽団も実に達者である。
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今日聴いた音楽から@(2024/3/16)

 リヒャルト・シュトラウスが最晩年に作曲した4つの最後の歌を、ソプラノのアスミク・グリゴリアンがオーケストラ伴奏とピアノ伴奏で2回歌ったアルバム<α>を聴いた。
 オーケストラはミッコ・フランク指揮フランス放送フィルで、ピアノはマルクス・ヒンターホイザー。
 アスミク・グリゴリアンはアルメニア系のリトアニア人。
 オペラでの活躍が知られている。
 前々から書き続けているけど、声の好みのストライクゾーンが極端に狭い人間なので、案の定というか、彼女の声質自体はちっとも好みじゃない。
 もやもわとして重たく感じてしまうのだ。
 ただし、中音域の響きの豊かさや表現力の高さは十分にわかる。
 このアルバムでは、そうした彼女の特質がよく発揮されていた。
 第1曲の「春」では、無理に声を振り絞るものだから、そのあと音が下がる際にほんの少し不安定に聴こえるなど、どうしても高音域に急所があるように感じたことも事実で、初めのうちはあれあれと思いながら聴いていたが、後半の2曲、ことに終曲の「夕映えの中で」の詩にあわせての表現の細やかな変化には大いに感嘆した。
 管弦楽、ピアノ、ともにグリゴリアンをよく支えていたが、強く印象に残ったのは「夕映えの中で」の消え入るようなヒンターホイザーのピアノだ。
 明度の高いミッコ・フランクとフランス放送フィルととても対照的だった。
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2024年03月15日

今日聴いた音楽からA(2024/3/15)

 密度の濃いブラームスを聴いたので、ちょっと気楽に聴ける音楽をということで、フランス出身のピアニスト、ジャン=イヴ・ティボーデとアメリカのミュージシャン、マイケル・ファインスタインによるアルバム『ガーシュウィン ラプソディ』<DECCA>を選ぶ。
 先月リリースされたばかり。
 トラック1〜11は、ティボーデとファインスタインが2台のピアノで弾くガーシュウィンのラプソディ・イン・ブルーの冒頭部分で始まり、途中ファインスタインの弾き語りをまじえつつラプソディ・イン・ブルーのラストで〆るというノンストップ風。
 以後も、ガーシュウィン・スタイルにアレンジされたユーマンスの『二人でお茶を』やおなじみのナンバーのアレンジなど、耳なじみのよい音楽が続く。
 これまでにもビル・エヴァンスやデューク・エリントンのアルバムをつくっているティボーデだけに、いわゆるクラシック的なノリの重さはない。
 ただ、パリのアメリカ人ならぬニューヨークのフランス人的な上品さというのか、雰囲気の違いをちょっと感じないでもなかった。
 もちろん、それで醒めてしまうようなこともなかったが。
 ファインスタインは少ししゃがれた感じの声質で、なんとも艶っぽいボーカル。
 気分転換にぴったりだ。
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今日聴いた音楽から@(2024/3/15)

 「悲しくて、とてもやりきれない」
 と歌う歌が昔あった。
 グイド・カンテッリ指揮フィルハーモニア管弦楽団が演奏したブラームスの交響曲第3番<WARENER>を聴きながら、この歌のことを思い出した。
 1955年8月のステレオ録音。
 心のうちには熱い想いが湧き起こっているのに、それを思い切り外に向かってぶちまけることができない。
 悲しくて、とてもやりきれないそんなあり様がひしひしと伝わってくる作品だ。
 逡巡しつつ、ときに後戻りしながら前へ進んで行く第1楽章、晴れたと思ったらすぐに曇り出し、また晴れ間が見えてくるような第2楽章、映画『さよならをもう一度』で効果的に使われた熱い想いが切々と募る第3楽章、遂に想いの一端が表れ出るものの、どうしてもぐっと呑み込んでしまうような第4楽章。
 以前聴いたシューベルトの未完成交響曲と同様、カンテッリは過度に角を立てることなく宥めるように音楽を進めていく。
 とともに、冒頭の主題が形を変えて交響曲全体を支配していること、この交響曲の音楽的構造を明確に示してもくれる。
 もちろん、そうした構造は心のうちの感情表現と不可分なものであることは言うまでもない。
 冒頭の主題が展開していくといえば、ベートーヴェンの交響曲第5番「運命」が有名だけれど、あの曲が世界に向けて雄弁に語り続けているものだとすれば、こちらは自らの内側への問いかけ、自らの感情の折り合いをどうつけていくかということに主眼が置かれているように聴こえる。
 全楽章、静かに終わっていくのもこの交響曲の特徴だが、カンテッリはそこで一層音楽を宥める。
 とてもやりきれないが、けれど絶望することはない、そんな感情を抱く素晴らしい演奏だ。

 第3楽章だけもう一度聴いた。
 名手デニス・ブレインのホルンのソロも含めて、本当に美しい。
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2024年03月14日

今日聴いた音楽から(2024/3/14)

 ヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮ウィーン・フィルが演奏したリヒャルト・シュトラウスの交響詩『ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら』<WARENER>を聴いた。
 ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずらは、ドイツ史上屈指の反逆精神の持ち主、ティル・オイレンシュピーゲルの伝説を交響詩化したものだ。
 交響詩『英雄の生涯』の感想をアップした際、ちらと記したかと思うが、リヒャルト・シュトラウスという人自身、相当な諧謔精神の持ち主で、この交響詩でもティル・オイレンシュピーゲルに自らのそうしたメンタリティを仮託しているように感じられてならない。
 一方、フルトヴェングラーは、ユーモア精神がなかったとはいえないが、その音楽を聴く限り、どちらかといえば、悲劇のほうによりシンパシーを感じる人物のように思える。
 このティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずらでも、もちろん軽やかなティルのいたずらぶりを巧く表現してはいるが、それと対立するかのような重くて執拗な低音がやはり強く印象に残る。
 そして、裁判での金管楽器の強奏よりも、僕はそのあとに続く静かで圧倒的な低弦の響きにぞくぞくとした。
 クラリネットの節回しをはじめ、ウィーン・フィルの魅力も十分に発揮されている。
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2024年03月13日

今日聴いた音楽からA(2024/3/13)

 グイド・カンテッリが亡くなった1956年の5月にフィルハーモニア管弦楽団と録音した、ベートーヴェンの交響曲第7番<WARENER>を聴く。
 超快速のテンポではないけれど、非常に流れのよい演奏で、全く鈍さと遅さを感じない。
 また、作品の持つ劇性には忠実ながら、確固としたフォルムを保ってもいて、見通しが実によい。
 『のだめカンタービレ』で有名になった第1楽章の盛り上がる部分や、終楽章のコーダの追い込みも印象に残るが、カンテッリの美質をことに象徴しているのが第2楽章だろう。
 過度な感傷に浸ることなく、クリアでスタイリッシュに音楽を進めていく。
 それでいて素っ気なさとは無縁だ。
 おまけに、ステレオ録音ということで音の拡がりも十分にある。
 非常に聴き心地のよい演奏。
 かなうなら、カンテッリが指揮したベートーヴェンの交響曲全曲を聴いてみたかった。
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今日聴いた音楽から@(2024/3/13)

 ここのところ、歴史的な録音ばかりながらでなく聴いていたので、昨年リリースされたマキシム・エメリャニチェフ指揮スコットランド室内管弦楽団が演奏したメンデルスゾーンの交響曲第3番「スコットランド」と第5番「宗教改革」<LINN>を聴くことにする。
 マキシム・エメリャニチェフはもともとチェンバロやフォルテピアノといったピリオド楽器の鍵盤楽器奏者として活動していたが、ピリオド楽器アンサンブルの指揮でも知られるようになり、現在ではモダン楽器のオーケストラの指揮者としても活躍中である。
 東京交響楽団や新日本フィルへの客演もあり、今年の9月には新型コロナのせいで流れた読売日本交響楽団との共演も予定されているはずだ。
 当然、メンデルスゾーンでもピリオド・スタイルがとられているのだけれど、エメリャニチェフの場合は強弱緩急のコントラストを極端に強調することなく、まとまりがよくて流れのよい音楽を創り出す。
 結果、メンデルスゾーンの音楽の持つ感傷性や抒情性、躍動感が巧く再現されていた。
 ただ、もしかしたらガット弦を使用しているのか、LINNのクリアな録音の音質もあって、少し弦楽器が塩辛く聴こえる箇所もなくはなかった。
 いつもより少しヴォリュームを上げると、幾分気にならなくなったが。
 エメリャニチェフの特性とメンデルスゾーンの特性がもっともよく合ったように聴こえたのは、スコットランドの第3楽章だ。
 歌曲『歌の翼に』に通じる、淡い希望を伴った甘美さが、的確にコントロールされた、なおかつ素朴で澄んだ音色にも不足しない管楽器と弦楽器のやり取りの中からよく表れていた。
posted by figarok492na at 16:06| Comment(0) | TrackBack(0) | CDレビュー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年03月12日

今日聴いた音楽から(2024/3/12)

 今年亡くなった小澤征爾が、2年ほど前にサイトウ・キネン・オーケストラを指揮してベートーヴェンの劇音楽『エグモント』序曲を指揮したことがあった。
 宇宙の若田光一に音楽を届けるという企画だったが、いずれにしても小澤さんはなんとしてでも指揮をしたかったのだろう。
 何度キャンセルを重ねても現役であり続けようとした小澤さんの強い意志は十分に理解できたが、正直その感想はつらいの一語に尽きる。
 短調から長調へ、暗から明へという意思のはっきりした音楽こそこうした企画に相応しいということでの選曲だったのだろうが、テンポの速さとよくコントロールされた総奏が求められる曲だけに、必要以上に小澤さんの老いが目立った。
 これが、恩師の斎藤秀雄が亡くなる直前に演奏し、小澤さんも好んで取り上げていたモーツァルトのディヴェルティメントK.136の第2楽章なら、テンポが遅かろうと粗はそれほど目立たないだろうし、何よりもっと気兼ねなく感動に浸れたのにとすら思った。
 たぶん小澤さんはなお現役であり続けたかったのだろう。

 人間は老いる。
 もちろん、老い方はそれぞれで大村崑ちゃんや草笛光子のように90を過ぎても元気ハツラツな人もいる。
 音楽の世界でも、映画音楽の巨匠ジョン・ウィリアムズは矍鑠として未だ指揮台に立っているし、レオポルド・ストコフスキーが最晩年に録音したブラームスの交響曲第2番やメンデルスゾーンの交響曲第4番、ビゼーの交響曲を耳にしたときはそのあまりの若々しさにびっくりした。
 でも、なかなかそうはいかない。
 老いとともに体力も、精神力も衰えていく。

 今夜オットー・クレンペラー指揮ニュー・フィルハーモニア管弦楽団が演奏したシューマンの交響曲第2番<WARENER>を聴いた。
 1968年だから、クレンペラーが亡くなる5年前、80を越えた最晩年の録音だ。
 非常にゆっくりとしたテンポの大きな構えの音楽である。
 であるけど、これをクレンペラーの至芸、巨匠の楽曲把握と単純に評価してよいのかといえば、僕は否と答える。
 ライヴ録音ではなくスタジオで行ったセッション録音、しかもきちんと編集が行われた上でリリースされているにもかかわらず、音楽の進み具合はよたよたとしているし、オーケストラにも粗が多い。
 それがかえって、シューマンのこの交響曲の持つ奇妙な部分、特異な部分を強調することにもなっているが、それは結果としてそうなったということであって、手放しでは誉め難い。
 ただ、それでも、第2楽章の中間部など時折美しさにはっとなることもあったし、もつれつつもなお歩き続けるのをやめず、遂にゴールに到着したような終楽章には感動もした。
 それは、やはりこの演奏に、何度も悲惨な出来事にあいながら、それでもなお生き続けたクレンペラーの長い人生が反映しているからだろう。

 そうそう、この演奏を聴きながら久しぶりに旧EMIの音の悪さを思い出したんだった。
 ちなみに、<WARENER>と毎回記しているが、WARENERレーベルが配信しているクラシック音楽の音源の大半、例えばここでよく取り上げているグイド・カンテッリだとか昨夜聴いたヴァルター・ギーゼキングなど、その多くがEMIを吸収して手に入れたものである。
 で、はじめステレオ録音に消極的だったこともあるのか、旧EMIレーベル、ことに1960年代後半から1970年代のオーケストラ絡みの録音の中に、やけに音質の悪いものがあるのだ。
 もともとじがじがしているところに、割れるというのか、極端に音が粗くなっている。
 JEUGIA四条店でクラシック音楽担当のアルバイトをしていたとき、グランドマスターという日本のEMIがリマスタリングして再発したCDのシリーズを買ったお客さんから、あまりの音の悪さに苦情があったことを思い出した。
 リマスタリングでだいぶん改善されているとはいえ、やっぱり音がよくない。
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2024年03月11日

今日聴いた音楽から(2024/3/11)

 ヴァルター・ギーゼキングが弾いたドビュッシーのベルガマスク組曲<WARENER>を聴く。
 ギーゼキングはドイツ人の両親の子としてフランスのリヨンで生まれ、その後、ドイツで育ち、音楽も学んでいる。
 ベルガマスク組曲を聴いてまず思ったのは、ギーゼキングの根底に当時の潮流である新即物主義があるということだ。
 第1曲の前奏曲の終盤もそうだし、第2曲のリズミカルなメヌエットなど特にそう。
 対象との距離を的確に保ち、過度の感情吐露を避け、速いテンポで音楽を進めて行く。
 テクニックの面でも精度の高さが求められる。
 ただ、それだけでは、それこそ機械的で冷淡な演奏に終わってしまうところだが、ギーゼキングの場合はそれに加えて、軽妙な指づかいによる節回しと澄んで美しい弱音という武器がある。
 終曲のメヌエットの軽い味わいは、ギーゼキングならではのものだろう。
 そして、このベルガマスク組曲でもっとも有名な、というより、ドビュッシーの作品の中でも一二を争うほどにもっとも有名な月の光のなんと美しいこと。
 非常にクリアだけれど、ほんのりとした暖かみもある。
 特に、最後の弱音の美しさには、はあっとため息が出た。
 とても素晴らしい演奏だ。
posted by figarok492na at 21:39| Comment(0) | TrackBack(0) | CDレビュー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年03月10日

今日聴いた音楽からA(2024/3/10)

 ベートーヴェンの交響曲第5番、運命交響曲を聴く。
 演奏はレナード・バーンスタインが指揮したニューヨーク・フィル<SONY>で、1961年の録音。
 ときたら、もちろん冒頭から一気呵成、飛ばしに飛ばして大興奮。
 だって、あの超特急、ウェーバーの舞踏への勧誘を演奏したコンビだもの。
 だが、予想は裏切られる。
 冒頭の運命の動機以降、遅くはないものの、ゆったりとしたテンポ。
 大きな構え、なおかつ細部まで目配りの届いた演奏で、ジャジャジャジャーンの動機が音楽を支配して、遂には華々しい終幕を迎えるというこの作品の構造を見事に明示する。
 もちろん、知情意を兼ね備えたバーンスタインだけに、ここぞというところではしっかり熱が入る。
 入るが、崩れることはない。
 ニューヨーク・フィルもそうしたバーンスタインの意図によくそって、シンフォニックな拡がりとまとまりのよいアンサンブルを聴かせてくれる。
 中でも、第2楽章のファゴットのソロが印象に残った。
 ところで、バーンスタインがどうしてこのような演奏を行ったのか?
 推測するに、自身とニューヨーク・フィルの組み合わせということも含めて、ベートーヴェンの交響曲第5番をよく知る人よりも初めて聴く人のほうがこのアルバムを購入することをバーンスタインは意識したのではなかろうか。
 啓蒙の人、バーンスタインならばそれも当然のように思われる。

 なおこのアルバムには、バーンスタインによるこの曲の第1楽章の解説が含まれている。
 ベートーヴェンがどのように今ある形にこの曲を完成させていったのか、その一端がよくわかる解説だ。
 バーンスタインの語りも明晰である。

 そして、ウィーン・フィルとの再録音の第1楽章<DG>を途中までながら聴きした。
 解釈自体は共通しているけれど、録音のせいもあるのか、なんだか良くも悪くも老成してしまったような感じだな。
 なんだかなあという気持ちで、バイエルン放送交響楽団とのライヴ録音<DG>も同じようにながら聴きしたら、おお、こっちは活き活きとしていて聴き応えがあるぞ!
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今日聴いた音楽から@(2024/3/10)

 ヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮ウィーン・フィルが演奏したメンデルスゾーンの序曲『フィンガルの洞窟』とシューマンの劇音楽『マンフレッド』序曲<WARENER>を聴く。
 フィンガルの洞窟は、音の風景画家といったメンデルスゾーンのイメージを象徴する作品だが、フルトヴェングラーが指揮すると風景そのものというよりも、風景を見ている人間の中に残った風景であるとか、風景に対する感情の変化とかを耳にし、目にしているように思えてくる。
 長調に転じた感情の放射や、中間部での哀切さをおびた優美さ、終盤のぐんぐんと音を前に進める追い込みが強く印象に残った。
 音質は今一つ。

 一方、シューマンでは、作品の持つ悲劇性もあって、鬱々と沈潜する感情がより色濃く表現される。
 とともに、フルトヴェングラーはこの『マンフレッド』序曲の中に、ベートーヴェンの序曲『コリオラン』や劇音楽『エグモント』序曲を見ているのではないか。
 ベートーヴェンの一連の短調の作品の如く、何か曰く言い難いものが、運命として迫ってくるかのように音楽が響く。
 だからこそ、一瞬の抒情的な旋律がひときわ甘美に聴こえもする。
 そして、徐々に音楽が消えていくラストが忘れ難い。
 こちらもモノラル録音だが、フィンガルの洞窟よりはクリアに音が聴こえた。
posted by figarok492na at 15:20| Comment(0) | TrackBack(0) | CDレビュー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年03月09日

今日聴いた音楽からA(2024/3/9)

 ヘンリク・シェリングとアンタル・ドラティ指揮ロンドン交響楽団が演奏したブラームスのヴァイオリン協奏曲<Mercury>を聴く。
 シェリングは硬めで澄んだ音色の持ち主。
 技量の高さをひけらかすようなことはせず、折り目正しく一音一音を丹念に演奏していく楷書の藝だが、リリカルさを失うこともない。
 特に、オーボエをはじめとした管楽器のソロと絡み合う第2楽章の美しさが印象に残った。
 粗さは若干残るものの、ドラティ指揮のロンドン交響楽団も大柄な演奏でシェリングを支えている。
 ミネアポリス交響楽団とのせかせかした演奏が嘘のような堂々とした音楽づくりだ。
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今日聴いた音楽から@(2024/3/9)

 イギリスの室内アンサンブル、ナッシュ・アンサンブルが演奏したチャイコフスキーの弦楽6重奏曲「フィレンツェの想い出」とコルンゴルトの弦楽6重奏曲<hyperion>を聴く。
 今年リリースされたばかりのアルバムである。
 まずは、チャイコフスキー。
 実にかっこいい演奏だ。
 歯切れがよくて、それでいて歌うべきところは流れるように歌う。
 しかも、民俗音楽的な装飾風の処理も加味されている。
 いわゆるピリオド奏法の影響もあるかもしれないが、そのスタイリッシュで洗練されたスタイルには、ネマニャ・ラドゥロヴィッチらが積極的にやっている「クロスオーバー」な音楽をすぐに思い起こした。
 このフィレンツェの想い出は、リズムとテンポの組み合わせを間違えると、ただただ泥臭くいなたい音楽になってしまうのだが、ナッシュ・アンサンブルの演奏ならば無問題。
 第3楽章の急所などもやすやすと越えているし、終楽章の追い込みもよくコントロールされている上にエネルギッシュに決める。
 だが、こちらの心は動かない。
 ついつい、そんなにかっこつけんでもと口にしたくなるのだ。
 この前、グールドが弾いたバッハのフランス組曲について書いたとき、音楽への反応が生み出した感興といった言葉を記したと思う。
 もちろん、ナッシュ・アンサンブルの演奏にそれがないとは言わない。
 けれど、この演奏からはそれが二義的以下のものに感じられてしまうのも事実である。
 本来の表現欲求とは異なる、後付けによる演奏スタイルというか、あまりにも完璧にスタイルが決まり過ぎているというか。
 これが実演ならば、ノリのよい演奏にきっと興奮するだろうに。
 それこそPCやスマホで動画の炎を目にしているような感じなのだ。
 確かに、その炎は赤々と燃えている。
 この動画を映している人間は、その熱を間近で直接受けていることも想像に難くない。
 しかし、炎の熱を液晶画面を通している自分は全く実感できない。
 ただただ燃えているなあという認識が生まれるだけだ。
 そんなもどかしさに囚われて、最後まで違和感を覚えたままだった。

 コルンゴルトも基本のスタイルは同じだが、上述した装飾風の処理がないことや、作品の音楽性の違いもあって、こちらはチャイコフスキーほどの違和感を持つことはなかった。
 コルンゴルトの旋律美には、ちょっと塩辛い音色だなと思う反面、彼がシェーンベルクら新ウィーン楽派の人々と同じ時代を生き、同じ空気を吸ったことをうかがうことができた。
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2024年03月08日

今日聴いた音楽からA(2024/3/8)

 ヴィルヘルム・フルトヴェングラーがウィーン・フィルを指揮したワーグナー編曲によるグルックの歌劇『アウリスのイフィゲニア』序曲<WARENER>を聴く。
 ギリシャ悲劇によるグルックのフランス語のオペラをワーグナーがドイツ語に訳して編曲した上に、さらに演奏会用にコーダを施したもの。
 冒頭から重々しい足取りで、まさしく荘厳な古典劇が始まる予感がする。
 そして、そのまま重たい足取りのまま音楽は続く。
 時折、まるで宿命天命を表すかのようなファンファーレが何度か繰り返される。
 フルトヴェングラーの持つ音楽的劇性が全開となった演奏だ。
 しかし、この曲で最も強く印象に残ったのは、徐々に静謐さに向かうコーダだ。
 特に、消え入るような最後にはぞくぞくとした。
 濃密な10分間だ。

 念のため、原曲であるグルックの『オーリードのイフィジェニー』の序曲を聴いてみる。
 ジョン・エリオット・ガーディナーがピリオド楽器のオーケストラ、イングリッシュ・バロック・ソロイスツと録音した全曲盤から。
 テンポは速めだが、冒頭部分は荘厳さを感じないでもない。
 ところが、しばらくすると音楽は一転、フルトヴェングラーではそのまま歩む速度は変わらないのに、こちらガーディナーのほうは突然駆け出す。
 悲劇もへったくれもない走りっぷりは、軽やかで楽し気ですらある。
 まあ、もとはといえば、グルックの音楽自体、本当はそういった性格のものであって、フルトヴェングラーとウィーン・フィルの演奏はあくまでもワーグナーという19世紀最大のロマンティストのフィルターを通したものであるということだ。
 ちなみに、こちらのほうは6分ちょっと。
 そら速いわな。
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今日聴いた音楽から@(2024/3/8)

 亡くなった1956年の5月にグイド・カンテッリがフィルハーモニア管弦楽団を指揮して録音したラヴェルのバレエ音楽『ダフニスとクロエ』組曲第2番<WARENER>を聴く。
 ここでもカンテッリはよくオーケストラをコントロールして、華々しさと拡がり、静謐さを兼ね備えた音楽を生み出している。
 フィルハーモニア管弦楽団も、アンサンブル・ソロ両面で優れた音楽を聴かせる。
 もしこれが良質のステレオ録音だったら、そして実演だったらと思わずにはいられない。
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2024年03月07日

今日聴いた音楽から(2024/3/7)

 グレン・グールドが弾いたヨハン・セバスティアン・バッハのフランス組曲全曲(6曲)とフランス風序曲<SONY>を聴いた。
 ちなみに、オリジナルは第1番から第4番までと、第5番、第6番、フランス風序曲の2枚のLPレコードでリリースされている。
 一昨年の12月にamazon music unlimitedに加入して以来、グレン・グールドの録音をよく聴くようになったが、正直、作品によってはグールドのスタイルと音楽との齟齬を感じることも少なくなかった。
 ところが、水を得た魚ではないけれど、バッハとグールドの相性は抜群。
 全曲、1時間20分があっという間に過ぎてしまった。
 よく考え抜かれ、ついでによく編集し尽くされた演奏であるにもかかわらず、自由さと即興性を失わない。
 グールド以上に表面的な技術的精度の高さを誇る演奏は少なくないだろう。
 けれど、対位法をはじめバッハの音楽の構造を丹念に解き明かしながら、なおかつグールドほどにリズミカルでノリと流れのよい音楽を生み出し得ている演奏はそうそうない。
 また、グールドは演奏に没入するが、それでいて作品との適度な距離を保っている。
 例えば、第4番の終盤、エールからジーグにかけて音楽は高揚する。
 しかし、その高揚はドラマティックな感情吐露とは異なり、音楽そのものに反応した感興によるものである。
 そして、軽やかで柔軟でありながら、確固とした音楽的核、芯を持ち続ける。
 本来ならば両立し難い要素をバランスよく兼ね備える、それこそグールドが愛し強調した対位法のような演奏だ。
 それにしても、グールドの弾くバッハには時間を忘れてしまう。
 しかも、もう一度初めから聴き直したくなる。
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2024年03月06日

今日聴いた音楽からA(2024/3/6)

 ディミトリ・ミトロプーロスがニューヨーク・フィルを指揮したチャイコフスキーの交響曲第6番「悲愴」<SONY>を聴いた。
 1957年11月のステレオ録音。
 実は、この録音は国内盤の廉価盤LPを持つには持っているのだが、大学生の頃に帰省した際中古屋で見つけて買いはしたものの、当時モノラルのポータブルプレーヤーしか実家にはレコードを聴くシステムがなく、第3楽章だけ拾い聴きしてあとは聴かないままだった。
 だから、きちんと聴くのは今回が初めてである。
 一言でいえば、突き抜けたドライさとなるか。
 素っ気ないとか、感情がないというわけではない。
 じっくり耳を傾ければ、細やかな感情の変化が窺える。
 けれど、旋律を歌わせてなんかいられるものか、なんとしてでも前に進まねばならぬといった風で、音楽の進め方が徹底してドライなのだ。
 第1楽章などあまりのせかせかした始まりに、マスターテープの回転数が間違っているのではないかと思ったぐらい。
 そのおかげで、かえって第2主題の甘やかさを強く感じたほどである。
 以降も、前へ前へのテンポは続く。
 結果、40分ほどで全曲が終わった。
 これでオーケストラが精緻にコントロールされていれば、それこそ肝胆寒からしめる低音冷淡の極致のような音楽が生み出されたのだろうが、良くも悪くも雑然とした感じで人間らしさを覚える。
 時折、聴き直したくなるような気がしないでもない。
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今日聴いた音楽から@(2024/3/6)

 ドビュッシーの作品の中で一番好きなのは、小組曲の第1曲「小舟にて」だ。
 それも原曲のピアノ連弾によるものではなくて、ドビュッシーの友人アンリ・ビュッセルが編曲した小管弦楽版のほう。
 かそけきハープに乗って奏でられるフルートのたゆたうようなソロが、なんとも美しい。
 初めて聴いたのは、今からもう40年近くも前になる1987年9月の長崎交響楽団の定期演奏会で、指揮者はフォルカー・レニッケ。
 演奏自体は正直当時のアマチュア・オーケストラの水準通りで厳しいものだったが、それより何より音楽の美しさに魅了された。
 それ以来、いろいろとCDを聴いているが、この一枚さえあればという録音には巡り合っていない。
 強いてあげるなら、ジャン・マルティノンとフランス国立放送管弦楽団ということになるが、明晰な音楽のつくりには魅かれるものの、録音の音質その他、何がなんでもとまでは言い切れない。
 自分にとってベストの小組曲を見つけたいという思惑で、フランスの指揮者、パスカル・ロフェが国立ロワール管弦楽団と録音したアルバム<BIS>を聴いてみた。
 よくコントロールされたオーケストラで、リズミカルな演奏。
 悪い演奏ではない。
 でも、残念ながらやっぱりしっくりこない。
 一つには、明瞭だけれど奥で狭くなるような録音の音質もあるのかもしれないが、全体的に音が低めでくすんだ感じがする。
 あくまでも自分の好みをいえば、この曲には夕方前の陽の光がきらきらと水面に映えているような明るさが欲しい。
 小組曲では、それこそリズミカルな終曲「バレエ」がロフェの柄に合っているように感じた。
 というか、ロフェはリリカルでナイーブな表現よりも躍動感があるものや、細部への徹底した腑分けのほうに一層特性を発揮する指揮者ではないだろうか。
 このアルバムでは、アンドレ・カプレが編曲したバレエ音楽『おもちゃ箱』と子供の領分がカップリングされているが、ビュッセルの素直な編曲に比較して、より捻りが効いており、ドビュッシーの音楽の持つ「新しさ」も巧く強調されている。
 そして、ロフェはそうした部分、良い意味でのぎくしゃくとした感じや音の組み合わせを的確に再現している。
 国立ロワール管弦楽団も、ロフェの解釈にそって洗練されたまとまりのよいアンサンブルを聴かせていた。
 自分にとってのベストの小組曲探しはまだまだ続くが、これはこれで聴き応えのあるアルバムである。

 ところで、1872年生まれのビュッセルが亡くなったのは1973年。
 自分が生まれ頃には、彼はまだ存命だったのだ!
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2024年03月05日

今日聴いた音楽から(2024/3/5)

 オランダ出身の指揮者、ベルナルト・ハイティンクの実演には一度だけ接したことがある。
 今からちょうど30年前のヨーロッパ滞在中、1994年1月16日の本拠地ムジークフェライン大ホールでのウィーン・フィル定期演奏会だ。
 プログラムはハイドンの交響曲第86番、ベルクの管弦楽のための3つの小品、シューベルトの交響曲第8番「ザ・グレート」の3曲で、まさしくウィーン・フィルらしい組み合わせだった。
 ハイドンは編成を絞らないオーソドックスな演奏で、ベルクはロマン派の残滓を色濃く感じる若干古めかしくすらあるスタイル…。
 それより何より、ムジークフェライン大ホールのほわふわとした残響の豊かさに圧倒されたというのが正直な感想である。
 その点、ゆったりとしたテンポで進むシューベルトはまさしくホールの音質との相性がどんぴしゃだったので、それこそシューマンによる「天国的な長さ」というこの曲への言葉に大いに納得がいったものだ。
 実際、ハイティンクも、そうしたホールの響きとウィーン・フィルの特性を活かした音楽づくりを行っていた。
 そういえば、ハイティンクの評価が徐々に変化し始めたのもこの頃のことではなかったか。
 30代前半でアムステルダムのコンセルトヘボウ管弦楽団の首席指揮者に抜擢されたことで、世界的な知名度を得ることはできたものの、かえってそれが仇ともなり、ハイティンクの音楽的評価が高まることはなかった。
 それがコンセルトヘボウ管弦楽団を退任し、ベルリン・フィルとマーラーの交響曲の、ウィーン・フィルとブルックナーの交響曲の録音を進めた1990年代半ばあたりから、彼の大柄で小細工を弄さない音楽性の真価が発揮されるようになってきたのである。
 と言っても、そのマーラーの交響曲やボストン交響楽団とのブラームスの交響曲には、PHILIPSレーベルの若干もやつく音質もあって、重たさを感じたことも事実だが。
 今夜聴いた、バイエルン放送交響楽団とのライヴ録音(ただし、拍手など会場のノイズは聴き取れない)<BR>は、1981年11月のものだから、それより15年近く前のことになる。
 上述したようなハイティンクの音楽性は、例えば第1楽章のコーダ―や第2楽章のクライマックス、そして全曲のラストによく表されているように感じた。
 あえてはからず、頂点に向かって音楽を歩ませて行くといった。
 ただ、その分、オーケストラの細部が詰まりきっていない感じは否めなかったし、第2楽章の前半であるとか、第3楽章などにはことにさくさくと進み過ぎている感じもしないではなかった。
 一つには、あまりクリアとはいえない音質も影響しているようにも思う。
 いずれにしても、最晩年の円熟に向かう過程の一つのドキュメントといえるだろう。
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2024年03月04日

今日聴いた音楽から(2024/3/4)

 フランス出身のヴァイオリニスト、ジノ・フランチェスカッティとユージン・オーマンディ指揮フィラデルフィア管弦楽団が演奏したパガニーニのヴァイオリン協奏曲第1番<SONY>を聴いた。
 パガニーニといえば19世紀を代表するヴィルトゥオーゾ中のヴィルトゥオーゾであり、鬼才中の鬼才として知られる。
 そのパガニーニが自身の高度なテクニックを披歴せんがために作曲したのが、このヴァイオリン協奏曲第1番だ。
 フランチェスカッティは生前パガニーニのオーソリティーと評されていたそうで、実際この録音でもそうした彼の高度な技量を聴くことができる。
 ただ、イメージ的にパガニーニが身体をくねらせながら変幻自在にヴァイオリンを操っているイメージとすれば、フランチェスカッティのほうは背筋をぴんと伸ばして格調高くヴァイオリンと向き合っている感じがする。
 正直、終楽章の超高音あたりでは、現在の耳からするとちょっと厳しさを感じないでもないが、その豊かなヴァイオリンの音色と丹念な演奏はやはり魅力的だとも思う。
 オーマンディとフィラデルフィア管弦楽団はなんとも威勢がよい。
 粗雑な感じはしないものの。
 1950年のモノラル録音だが、フランチェスカッティの美音を愉しむという意味では問題ない。
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2024年03月03日

今日聴いた音楽からA(2024/3/3)

 グレン・グールドが弾くワーグナーのピアノ・トランスクリプション集<SONY>を聴いた。
 収録曲は、楽劇『ニュルンベルクのマイスタージンガー』第1幕への前奏曲、楽劇『神々の黄昏』から夜明けとジークフリートのラインへの旅、ジークフリート牧歌の3曲で、いずれもグールド自身の編曲による。
 音楽的効果を考えて、マイスタージンガーのラストでは二重録音が用いられているというが、と言って、自らの高い技量、ヴィルトゥオーゾぶりを発揮するためのアルバムでないことは言うまでもない。
 そして、音色そのものでは当然大管弦楽の持つ華々しさにかなわないことは、グールドも十分承知していただろう。
 ここでもグールドは、メロディーやリズムといった音楽的構成、音楽的構造を明瞭に腑分けする。
 マイスタージンガーの中間部や、ラインへの旅あたりの音の細かい動き、対位法の強調はグールドの本領発揮といってもよい。
 ただ、23分をかけてゆっくりと演奏されたジークフリート牧歌では、グールドのロマンティシズム、リリカルさが全面に押し出される。
 後半の高揚する部分も抑制が効いて、うるささを感じない。
 特に、繰り返しあらわれる冒頭の主題の愛しむような表現が忘れ難い。

 今、晩年のグールドがトロント交響楽団の団員を指揮して録音した初演時の編成によるジークフリート牧歌を聴いているが、ピアノ独奏版の録音がこの演奏のための予行演習のように思えてならない。
 実に美しい演奏だ。
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今日聴いた音楽から@(2024/3/3)

 ベネズエラ出身の指揮者、グスターボ・ドゥダメルがウィーン・フィルを指揮して録音したムソルグスキーの組曲『展覧会の絵』(ラヴェル編曲)と交響詩『はげ山の一夜』(リムスキー=コルサコフ編曲)<DG>を聴く。
 ドゥダメルといえば、シモン・ボリバル・ユース・オーケストラとのリズミカルでエネルギッシュな演奏をどうしても思い起こすが、それとともにオーケストラをスタイリッシュにコントロールしようとする指揮者であることも忘れてはなるまい。
 『展覧会の絵』ではそうしたドゥダメルの二つの側面がよく表れている。
 加えてここでは、表面的なざらつき、粗さを残すことで、通常のラヴェル編曲版を用いながらも耳慣れない音の響きを感じさせるなど、独特な音色を生み出してもいる。
 ただそれには、キエフの大門のラストなど、一部の楽器をクローズアップする録音の影響も考えておいたほうがよいかもしれないが。
 セッション録音が行われた本拠地、ウィーン・ムジークフェラインザールよりももう少し残響の少ない、ドライで分離のよいホールでの実演ならば、ドゥダメルの意図が一層伝わるような気がする。
 『はげ山の一夜』は、強弱緩急をしっかりつけてぐいぐい音楽を進めていくノリのよい演奏。
 一方、アンコールピース的にカップリングされたチャイコフスキーのバレエ音楽『白鳥の湖』のワルツは、ドゥダメルのそのような解釈と音楽の本質との齟齬が目立っていたように感じる。
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2024年03月02日

今日聴いた音楽からA(2024/3/2)

 ウクライナ出身のピアニスト、アンナ・フェドロヴァが弾いたショパン・アルバム『Shaping Chopin シェイピング・ショパン』<CHANNEL>を聴いた。
 日本語に訳すと、造形されたショパン、形成されたショパンということになるだろうか。
 ワルツ第1番「華麗なる大円舞曲」にはじまり、夜想曲第7番と第8番、3つのワルツOp.34(ワルツ第2番〜第4番)、ワルツ第5番、3つのマズルカOp.50、3つのワルツOp.64(ワルツ第6番〜第8番)ときて、幻想即興曲でしめるプログラムだが、フェドロヴァは民俗舞曲的なリズムを強く意識した演奏を行っている。
 いや、もしかしたら意識的意図的ではなく、ウクライナに生まれたフェドロヴァ生来の感覚からくるものかもしれないが、いずれにしても彼女の演奏からはショパンの音楽の本質の中心に舞曲のリズムがあることがよくわかる。
 それは、舞曲の名前がつけられたワルツやマズルカにとどまらず、夜想曲や即興曲においてもそうである。
 もちろん、リズムの強調だけでは、音楽が骨ばったものになりかねない。
 フェドロヴァの演奏のもう一つの魅力は、過度にならないウェットさと抒情性だろう。
 夜想曲第8番やワルツ第7番、幻想即興曲といった曲調そのものが憂いを持ったものばかりでなく、華麗なる大円舞曲や第6番の小犬のワルツの軽快な作品にも翳りや憂いがそっと忍び込む。
 そのふとした変化にはっとした。
 ほどよい残響のある録音も、フェドロヴァの音楽性にぴったりだった。
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今日聴いた音楽から@(2024/3/2)

 吹奏楽、いわゆるブラバンとなると積極的に聴こうとはしないのに、木管5重奏をはじめとした木管アンサンブルは大好きでよく聴いている。
 今回は、ウィーン管楽ゾリステンが演奏したシェーンベルクの木管5重奏曲<DG>を聴いた。
 シェーンベルクが十二音技法を駆使した作品だけに、旋律そのものとしてはとらえどころがない。
 ただ、ソナタ形式という古典的な構成を持っていることもあって音楽のつくり自体に関しては、そうわかりにくいものでもないと思う。
 また、フルート、オーボエ、クラリネット、ファゴット、ホルンという個々の楽器の音色がよく活かされている点も興味深かった。
 フルートのヴォルフガング・シュルツやクラリネットのペーター・シュミードルら、ウィーンの腕扱きたちによる演奏も抜群の出来だ。
 1976年の録音だが、音質の古さは一切ない。
 非常にクリアである。
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2024年03月01日

今日聴いた音楽からA(2024/3/1)

 2021年にリリースされたルノー・カピュソンによるヴァイオリン小品集『パリのヴァイオリン』<ERATO>を聴いた。
 収録されているのは、ヘンデルのヴァイオリン・ソナタニ長調HWV.371から第3楽章、ヨハン・セバスティアン・バッハの管弦楽組曲第3番からアリア(カピュソン&ベロン編)、クライスラーのプニャーニの様式による前奏曲とアレグロ、シューマンの3つのロマンスから第2曲「Einfach, innig」、シューベルトのセレナードD.957-4、ショパンの夜想曲 第20番(ミルシテイン編)、ワーグナーのアルバムの綴り(ヴィルヘルミ編)、コルンゴルトのマリエッタの唄(歌劇『死の都』から)、プッチーニの私のお父さん(歌劇『ジャンニ・スキッキ』から)、ラフマニノフのここはすばらしい場所、チャイコフスキーの悲しい涙など知らずに過ごした日々(歌劇『イオランタ』から)、ラフマニノフのヴォカリーズ(プレス編)、ドヴォルザークの我が母の教え給いし歌(パウエル編)、マスネのタイスの瞑想曲(M-P.マルシック編)、ドビュッシーの亜麻色の髪の乙女(A.ハルトマン編)と月の光(A.レーレン編)、イザイの子供の夢、ブラームスのハンガリー舞曲第5番(ヨアヒム編)、エルガーの朝の歌、チャップリンのスマイル(P.クイント編)、モリコーネのチャイルドフッド・アンド・マンフッド(G.ベロン編)、グラッペリのロール(映画『バルスーズ』から)の22曲。
 あと2年ほどで50を迎えるルノー・カピュソンは、今や中堅からベテランの域に入りつつあるフランス出身のヴァイオリニスト。
 流麗なテクニックと清潔感のあるリリシズムの持ち主だが、ここでは作品・編曲にあわせて演奏スタイルや音色を巧みに変化させている。
 例えば、自らとピアノ伴奏のギヨーム・ベロンが編曲したバッハのアリアでは昨今のバロック演奏の流儀が意識されているし、プッチーニの私のお父さんではオペラティックな歌いぶり、ハンガリー舞曲では民俗音楽的な節回しが実に見事だ。
 また、亜麻色の髪の乙女では中国風な響きが聴こえてくるし、シューベルトのセレナードでは濃密な夜の雰囲気がエルガーの朝の歌では陽光輝く朝の雰囲気がそれぞれ醸し出されている。
 そうした中で、もっとも印象に残ったのは、タイスの瞑想曲。
 気品があって、静謐で実に美しい。
 ベロンも演奏スタイルや音色の変化にあわせてカピュソンをよく支えていた。
 続けて全曲を聴いてもいいし、好きな曲だけ繰り返して聴いてもいい。
 今現在に相応しいヴァイオリン小品集である。
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今日聴いた音楽から@(2024/3/1)

 ロシア出身のピアニスト、アンナ・ヴィニツカヤによるショスタコーヴィチの2つのピアノ協奏曲を中心としたアルバム<α>を聴く。
 協奏曲は第1番第2番ともにクレメラータ・バルティカの伴奏。
 ただし、第1番ではトランペットのトビアス・ヴィルナーが加わり、第2番ではシュターツカペレ・ドレスデンの管楽器メンバーと指揮者のオメール・メイア・ウェルバーが加わる。
 ヴィニツカヤはお行儀よく演奏をまとめようとはしない。
 前のめりになることも厭わず音楽を前に進める。
 第1番では終楽章の速射砲のような打鍵が強く印象に残る。
 対するクレメラータ・バルティカも、同じ楽章では一糸乱れぬアンサンブルでヴィニツカヤに伍する。
 ただし、そこはギドン・クレーメルに薫陶を受けた面々だけに技量の精度が高い上に、表現意欲も非常に豊かである。
 第2楽章はもちろんのこと、第1楽章や第3楽章でも妖気というのか、音楽の密度の濃さをひしひしと感じた。
 そうしたヴィニツカヤとクレメラータ・バルティカの間で、ヴィルナーはいくぶん地味な感じもしないではないが、終楽章をはじめ過不足のないソロを披歴していた。
 続く第2番では、おもちゃ箱をひっくり返したような両端楽章よりも、第2楽章の静謐さにより魅かれた。
 カップリングは、イヴァン・ルーディンと弾いた2台のピアノのためのコンチェルティーノとタランテッラ。
 コンチェルティーノは、協奏曲の世界を2台のピアノに移し替えたような作品。
 一方、タランテッラは2分足らずの小品で、快活だ。
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2024年02月29日

今日聴いた音楽から(2024/2/29)

 グイド・カンテッリがフィルハーモニア管弦楽団と遺した録音の中から、ファリャのバレエ音楽『三角帽子』組曲第2番<WARENER>を聴く。
 ここでもカンテッリはオーケストラをよくコントロールして、ドラマティックな音楽を生み出している。
 ラストに向けてテンポが速まり熱量も高まっていくが、我を忘れることなく均整を見失わない終幕の踊りなど、特にカンテッリの面目躍如である。
 とともに、粉屋の踊りなど、この作品の持つ翳り、アイロニーといったものも的確に表現されていることも忘れてはなるまい。
 返す返すも彼の早世が残念でならない。
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2024年02月28日

今日聴いた音楽からA(2024/2/28)

 トリスタンとイゾルデづいてきたわけじゃないけど、ヴァイオリンとヴィオラとチェロが各2人でコントラバスが1人の弦楽7重奏用に編曲されたワーグナーの楽劇『トリスタンとイゾルデ』抜粋<Coviello>を聴いた。
 演奏は、若手弦楽器奏者による室内アンサンブル、ゾリステンアンサンブル・ダコール。
 57分程度の収録時間だが、これでも全曲の3分の1から4分の1にしかならない。
 それだけでも、『トリスタンとイゾルデ』がどれだけの大曲かがわかる。
 そして、わかるといえば、あえて弦楽7重奏に絞ることによって、かえって『トリスタンとイゾルデ』の音楽の構造がよくわかる。
 一つには、フルトヴェングラーとベルリン・フィルの没入的な演奏と異なり、音楽と演奏者との間に的確で適度な距離感があるからでもあるだろう。
 弦楽器の音色自体もべったりべとべとと粘ったものではなく、清澄さやときに歯切れのよさを感じさせるものにもなっている。
 CDの新譜紹介に「まるで(シェーンベルク)の浄夜」という言葉があったが、まさしくこの『トリスタンとイゾルデ』の和音構造や音楽の流れがのちの後期ロマン派、さらには新ウィーン楽派に与えた影響を色濃く演奏にもなっていた。
 もちろん、愛の死では、それこそロマン派音楽の頂点であることも強く感じたが。
 録音も非常にクリアだった。
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今日聴いた音楽から@(2024/2/28)

 グイド・カンテッリがフィルハーモニア管弦楽団を指揮して遺した録音の中から、1954年6月に録音されたドビュッシーの牧神の午後への前奏曲とデュカスの交響詩『魔法使いの弟子』<WARENER>を聴く。
 牧神の午後への前奏曲は、冒頭のフルートの独奏から穏やかな美しさだ。
 官能性にも不足しないが、昨夜聴いたフルトヴェングラーの『トリスタンとイゾルデ』とは違って、もっと清澄で抑制されている。
 一転、魔法使いの弟子は、冒頭からきびきびとした音楽でぐっと惹きつけられる。
 魔法使いの弟子が箒に命じて水汲みをさせるも、それをとめる呪文がわからず水はどんどん溢れかえる、それではと箒をばらばらにすると今度はばらばらになった破片が箒になってますます水汲みをし始める…。
 そうした筋書きのよくわかる、要所急所を巧みに抑えたドラマティックな音楽づくりに感心した。
 先日聴いたロジンスキーのから10年足らずの間に録音されたものだが、よくコントロールされたオーケストラという点では共通しているものの、カンテッリのほうはよりスタイリッシュでモダン、現代的な音色というのか、細部まで音がよく馴らされている。
 機能性や均整と躍動性劇性をよく兼ね備えた演奏と言い換えてもよい。
 二つの曲とも大いに愉しめた。
posted by figarok492na at 16:38| Comment(0) | TrackBack(0) | CDレビュー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする