2023年09月17日

アナトール・ウゴルスキの死を知り、ディーナ・ウゴルスカヤの最後の録音を聴く

 昨夜、アナトール・ウゴルスキが弾いたシューマンのダヴィッド同盟舞曲集とシューベルトのさすらい人幻想曲<DG>を聴きながら、もしかしたらウゴルスキは亡くなってしまった、もしくは亡くなるのではないかという想念に急に囚われた。
 少し前にアガ・ミコライというソプラノ歌手が歌ったオペラ・アリアのアルバムを耳にしたときも同じような感覚に襲われ、実際聴き終えたあと調べてみると彼女は亡くなっていた。
 全曲聴き終え、嫌な予感を抱きながら検索して呆然とする。
 ウゴルスキは、今月の5日に亡くなっていた。
 すでにTwitter(X)でもウゴルスキに関する文章は記されていたが、あいにくそれを目にする機会はなかった。

 ウゴルスキの実演に接したことが一度だけある。
 1993年10月8日というからまもなくちょうど30年になる。
 ケルン・フィルハーモニーで開催されたWDR交響楽団の定期演奏会で、彼が弾くブラームスのピアノ協奏曲第1番を聴いた。
 指揮は同じ旧ソ連出身のルドルフ・バルシャイ。
 形は違えど、社会主義体制の抑圧から逃れた者どうしの共演だった。
 ウゴルスキは、腕をぴんと伸ばして指先を鍵盤にぺたりとつけるような独特のスタイル。
 まるで蛸の吸盤が岩か何かに吸い付いているようだなとそのとき思った。
 そして、バルシャイの音楽性もあってか基本的にゆっくりとしたテンポで音楽は進んでいくのだが、ウゴルスキの奏でる弱音の細やかな美しさに僕は強く心魅かれた。
 もちろん、それだけではなく少し間の詰まったような音の流れや、明瞭な強弱のコントラストも強く印象に残ったが。
 いずれにしても、強靭さと繊細さを兼ね備えた高い精度の持ち主であることがわかった。
 その後、ぜひまたウゴルスキの生の音楽に触れたいとも思っていたのだけれど、結局その願いはかなうことがなかった。

 もう一つ偶然が重なった。
 今日、9月17日は、ウゴルスキの娘で同じくピアニストだったディーナ・ウゴルスカヤが2019年に癌で亡くなった日だ。
 彼女の死は当然わかっているが、亡くなった日にちのことは忘れてしまっていた。
 ウゴルスキとの繋がりで調べてみて、改めて呆然となる。
 そのウゴルスカヤにとって最後の録音となるシューベルト・アルバム<CAvi Music>の中からピアノ・ソナタ第21番を聴く。
 正確にいえば、ソナタとカップリングの楽興の時は亡くなる前年2018年8月の録音で、3つのピアノ曲が亡くなった年の1月の録音である。
 すでにこのソナタが録音されたとき、ウゴルスカヤは闘病中だったのか。
 そうしたエピソードと演奏を結んで考えることはできるだけ避けたいが、シューベルトにとっても最後のピアノ・ソナタということもあって、どうしても彼女の死について考えざるをえない。
 一つ一つの音を慈しむかのような、非常に遅めのテンポで音楽は奏でられていて、すぐにヴィルヘルム・ケンプによる録音を思い出した。
 想いは様々にある、あるのだが、いや、あるからこそ言い淀んでしまうような、そんなゆっくりとして静謐な演奏である。
 長調から短調へ、短調から長調へ。
 明と暗、陰と陽の交差がなんとも切ない。
 例えば第2楽章、一瞬陽が射して音楽が前に進む、けれどまた翳りが訪れる。
 ただし、ウゴルスカヤは激しく強音を強調してシューベルトの深淵を明示するようなこともしない。
 すでにそうした必要はないかのような、諦念すら感じてしまう。
 いや、それはやはりウゴルスカヤの死を意識し過ぎているのかもしれないが。
 いずれにしても、忘れ難い演奏であり録音だ。

 最後に、アナトール・ウゴルスキとディーナ・ウゴルスカヤに、深く、深く、深く、深く黙禱を捧げる。
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2017年06月29日

マナコルダが指揮したメンデルスゾーンの「スコットランド」と「宗教改革」

☆メンデルスゾーン:交響曲第3番「スコットランド」&第5番「宗教改革」

 指揮:アントネッロ・マナコルダ
管弦楽:カンマーアカデミー・ポツダム
 録音:2016年11月(デジタル/セッション)
<SONY/BMG>88985433222


 シューベルトに続いて、アントネッロ・マナコルダと手兵カンマーアカデミー・ポツダムが進めているメンデルスゾーンの交響曲全集第二段である。
 今回は第3番の「スコットランド」と第5番「宗教改革」が収録されている。
 一連の録音と同様、基本はモダン楽器ながら、一部をピリオド楽器に変えるなど、いわゆるピリオド・スタイルが援用された演奏で、マナコルダの楽曲解釈にカンマーアカデミー・ポツダムのソロ・アンサンブル両面での精度の高さも加わって、間然とするところのない音楽を愉しむことができる。
 「スコットランド」のほうは、ときとして序曲『フィンガルの洞窟』のような情景描写的な音楽として捉えられることもないではないが、例えば第1楽章や第3楽章の細やかな表現からもわかるように、マナコルダはメンデルスゾーン自身の心象風景、内面の動き(と言うより、メンデルスゾーンの音楽から受けた自らの内面の動き)に重点を置いた音楽づくりを行っているかのように感じられる。
 それとともに、音そのものの持つドラマ、劇性が的確に表現されていることもやはり忘れてはなるまい。
 第2楽章や第4楽章の飛び跳ねるかのような軽やかな音の動きは、まさしくメンデルスゾーンの面目躍如である。
(であるからなおのこと、第4楽章のコーダは野暮たく聴こえてしまう)
 一方、「宗教改革」は、音楽の持つ祝祭性に充分配慮がなされた演奏だ。
 むろん、第2楽章のように、ここでもメンデルスゾーンの音楽の持つ軽快さは十全に発揮されているが。
 そして、この交響曲、ばかりではなく、このアルバム全体の肝は、第3楽章から第4楽章に移る場面でのフルートのソロといっても過言ではあるまい。
 清澄で静謐なこのフルートのソロには、本当にはっとさせられた。

 初期ロマン派の音楽を清新な演奏で耳にしたいという方には多いにお薦めしたい一枚だ。
 ああ、面白かった!!
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2017年02月28日

オットー・クレンペラーが指揮したベートーヴェンの交響曲全集

☆ベートーヴェン:交響曲全集他

 指揮:オットー・クレンペラー
 管弦楽:フィルハーモニア管弦楽団、ニュー・フィルハーモニア管弦楽団

<Warner>50999 4 04275 2(10CD)


 1950年代の全集をはじめ、オットー・クレンペラーが手兵フィルハーモニア管弦楽団、ニュー・フィルハーモニア管弦楽団とともにEMIレーベルに録音したベートーヴェンの交響曲、並びに序曲等管弦楽曲をまとめた10枚組のCDボックスである。

 まずメインとなる全集、第1番第1楽章の悠然とした歩みに始まり、英雄という名に相応しい第3番、力感にあふれた第5番、ゆったりとして美しい第6番を経て、深々としたハンス・ホッターの独唱も印象的な第9番の第4楽章に到る9曲の交響曲の演奏は、ベートーヴェンという作曲家の特性魅力を十全に示した充実した内容となっている。
 ただ、この全集は、「スタンダード」ではなく「スペシャル」な演奏であることもまた事実だろう。
 なぜなら、遅めのテンポでじっくり歌わせ、鳴らすべきところを鳴らした、単に劇性に富んで鳴りのいい演奏ではないからだ。
 クレンペラーの全集の特徴は、遅めのテンポ設定であるにもかかわらず、というか遅めのテンポ設定だからこそか、細部にまでよく目配りの届いた演奏に仕上がっているのである。
 本来ならばより緩やかに演奏されるはずの第3楽章よりも第2楽章のほうに演奏時間がかかっている点などその好例だろう。
 また、第4番第3楽章の弦の軽い動きをはじめ、これまで聴き落とされがちだった主旋律を支える部分の細かい仕掛けを強調している点も忘れてはなるまい。
 いずれにしても、聴けば聴くほどベートーヴェンの交響曲の持つ多様な側面を再認識することのできる録音であることに間違いはない。

 加えて、この10枚組のセットには、1955年に録音されたモノラル録音の第3番と第5番、同じく1955年にモノとステレオ別個に録音された二つの録音のうちステレオのほうの第7番、さらには1968年にニュー・フィルハーモニア管弦楽団と録音された第7番も収められていて、クレンペラーの演奏の変容と連続性を確認することが可能である。
 ニュー・フィルハーモニア管弦楽団との第7番など、それ一曲だけ聴けばその遅さばかりが印象に残りかねないが、他の2種類と比べることで、生理的なものも含めたクレンペラーの変化と音楽的な意図を想像することができた。

 同一曲の複数回録音といえば、『レオノーレ』序曲といった序曲集もそう。
 交響曲同様、遅めのテンポであることに違いはないが、こちらのほうでは、かつてベルリン・クロール・オペラでならしたクレンペラーだけに、劇場感覚に満ちた勘所をよく押さえた演奏ともなっている。
 『エグモント』の音楽の抜粋など、ビルギッテ・ニルソンの堂々としたソプラノ独唱とともに実に聴き応えがある。

 そして、強く印象に残ったのが大フーガの弦楽合奏版。
 大きな編成でたっぷり分厚く響かせられながらも、音楽の動きは細かく再現されていて、ロマン派のさきがけどころか、もっと先の音楽の変化を預言させるかのようなこの曲の持つ異様さがよく表現されている。
 ついつい何度も繰り返して聴いてしまった。

 フィルハーモニア管弦楽団(ニュー・フィルハーモニア管弦楽団)は、クレンペラーの解釈によく沿ってソロという意味でもアンサンブルという意味でも精度の高い演奏を披歴しているのではないか。
 すでに録音から50年以上経っているが、モノラル録音も含めてまず音質に不満はない。

 このような密度の濃い10枚組のセットが、いくらセールとはいえ税込み1400円弱だったというのには申し訳なさすら感じる。
 ピリオド・スタイルに慣れ親しんだ方々にも大いにお薦めしたい、音楽を聴く愉しみに満ち満ちたCDである。
posted by figarok492na at 17:48| Comment(0) | TrackBack(0) | CDレビュー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ヘンゲルブロックとNDRエルプフィルによるブラームスの交響曲第4番&第3番

☆ブラームス:交響曲第4番&第3番

 指揮:トーマス・ヘンゲルブロック
 管弦楽:NDRエルプフィルハーモニー管弦楽団

 録音:2016年11月、エルプ・フィルハーモニー・ハンブルク
    デジタル・セッション
<SONY/BMG>88985405082


 新しいコンサートホール、エルプフィルハーモニーの開設とハンブルクとは縁の深いブラームスの没後120年を記念して、本拠地移転を機にその名もNDRエルプフィル―ハーモニー管弦楽団と改めたハンブルクのNDRのオーケストラ(旧北ドイツ放送交響楽団)が、シェフのトーマス・ヘンゲルブロックの指揮でブラームスの交響曲第4番と第3番の2曲を録音した。
(なお、水上に建てられた超モダンな雰囲気のエルプフィル―ハーモニーに関しては、先日朝日新聞でも特集が組まれていたほどだ)

 トーマス・ヘンゲルブロックといえば古楽畑の出身、当然のことながらいわゆるピリオド・スタイルを援用した演奏。
 と考える向きも少なくないだろう。
 実際、テンポ設定やフレーズの処理の仕方等々、ピリオド・スタイルの特徴を指摘することは全く難しいことではない。
 それに、マーラーの交響曲第1番を録音するにあたってあえてハンブルク稿を取り上げたヘンゲルブロックらしく、様々な仕掛けや工夫も聴き受けられる。
 例えば(以下ネタばれご容赦のほど)、CDをかけてすぐ、第4番の第1楽章冒頭には驚かれる方も少なくないだろう。
 と、言うのも、いつものようにすうっとばかりあのおなじみの旋律が始まるのではなく、バーンバーといった感じの耳新しい音楽から始まるからである。
 実はこれ、のちに削除された部分で、リカルド・シャイーとライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の全集ではここだけを切り取っておまけ的に収録されていた。
 すでにシャイーの全集に接していたから、当方など、ああ、やったなと思ってしまったのだけれど、それで座りが妙に悪いかというとそういうことはない。
 と、言うのもヘンゲルブロックが奇を衒って細部ばかりにこだわるのではなく、作品の構造と音楽の全体的な流れを巧くとらえているからである。
 そう、ヘンゲルブロックの音楽を聴く際に感じることの一つは、全体的な流れのよさ見通しのよさだ。
 NDRのオーケストラと録音した一気呵成に進むメンデルスゾーンの交響曲第1番でもそうであったし、歌唱性と大らかさに富んだシューベルトの交響曲第8番「ザ・グレート」でもそうであったように、このブラームスでも終曲へ向かう音の流れが重視されている。
 重視されているからこそ、ブラームスの音楽の持つ特質、ぎくしゃくぎくしゃくとした音の動き、まどろこしいほどの感情的逡巡も浮き彫りになってくる。
 映画音楽で有名になった第3番第3楽章、トラック7の5分過ぎ、クラリネットがほんの僅かに明るさを見せるがすぐに翳りに戻るあたりなど、その好例の一つに挙げたい。
 それと、忘れてはならないのが、NDRエルプフィルの機能性の高さだ。
 NDRのオーケストラによるブラームスといえば、ギュンター・ヴァントとの二度の全集が忘れ難いが、あそこではまだ古色蒼然といった音のくすみが感じられたのに対し、ここではより洗練されて、それこそエルプ・フィルの建物にもぴったりの均整のとれたアンサンブルに変化している。
 中でも、弦楽器の流れのよさが強く印象に残った。
 そうした明晰な楽曲把握と演奏に比して、録音会場のエルプ・フィルの音質はどうかというと、こうやってCDで聴く場合には残響があり過ぎるというか、若干もわっとした感じが強いように思える。
 これが実際のコンサートとなれば、また受ける印象の大きく異なってくるはずだが。

 いずれにしても、ヘンゲルブロックとNDRエルプフィルの共同作業の成果を知ることの出来る一枚だ。
posted by figarok492na at 13:46| Comment(0) | TrackBack(0) | CDレビュー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年01月27日

モーツァルトのディヴェルティメント第17番&第10番

☆モーツァルト:ディヴェルティメント第17番&第10番

 演奏:ラルキブデッリ他

 録音:1990年/デジタル・セッション
<SONY>SK46494


 モーツァルトが作曲した、ホルン2本と弦楽4重奏のためのディヴェルティメントを集めた一枚。
 中では、第17番の第3楽章のメヌエットがずば抜けて有名だけれど、その他の楽章も長調作品らしい快活さの中にモーツァルトらしい翳りのようなものが垣間見える(聴こえる)など、いずれも魅力的だ。
 ヴァイオリンのヴェラ・ベスとルーシー・ファン・ダール、ヴィオラのユルゲン・クスマウル、チェロのアンナー・ビルスマによるピリオド楽器アンサンブル、ラルキブデッリは過度に傾かない均整のとれた演奏で、作品の持つ特性を巧みに再現している。
 録音の加減もあってだろうが、艶やかな音色もモーツァルトの音楽によく合っているのではないか。
 また、ナチュラル・ホルンのアブ・コスターとクヌート・ハッセルマンも精度の高い演奏を披歴している。
 モーツァルトの室内楽作品をピリオド楽器で愉しみたいという方にはまずもってお薦めしたいアルバムである。
posted by figarok492na at 11:52| Comment(0) | TrackBack(0) | CDレビュー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年09月26日

マナコルダとカンマーアカデミー・ポツダムによるメンデルスゾーンの交響曲第4番「イタリア」&第1番

☆メンデルスゾーン:交響曲第4番「イタリア」&第1番

 指揮:アントネッロ・マナコルダ
管弦楽:カンマーアカデミー・ポツダム
<SONY/BMG>88985338792


 シューベルトの交響曲全集を録音し終えたアントネッロ・マナコルダと手兵カンマーアカデミー・ポツダムが新たに挑むのは、メンデルスゾーンの交響曲。
 その第一弾として、第4番「イタリア」と第1番の2曲がリリースされた。

 金管楽器とティンパニにオリジナル楽器を使用しているという点はシューベルトと同じで、速めのテンポ設定や強弱の強調など、いわゆるピリオド・スタイルによる演奏だ。
 ただ、マナコルダとカンマーアカデミー・ポツダムの魅力はそれだけに留まるものではない。
 未完成交響曲での鋭く透徹した展開や第8番「ザ・グレート」の第2楽章での空白とでも呼ぶべき休止が象徴する、シューベルトの深淵を浮き彫りにするかのような表現、言い換えれば音楽の持つ内面的な雰囲気(「精神性」と記してしまうと、よりもやもやとしたような感情が巧く言い表せない気がするので)の表出もまた、彼彼女らの演奏の大きな魅力である。
 もちろん、そうした魅力は今回のメンデルスゾーンの交響曲でも十分十二分に発揮されている。
 深淵がシューベルトの特性であるとすれば、メンデルスゾーンの場合は、抒情的な憂鬱さとどこか焦燥感を伴った躍動性ということになるか。
 前者の代表的な例としては、当然二つの交響曲の緩徐楽章を挙げるべきだろうが、有名なイタリア交響曲の第1楽章、あの晴々しくて陽性な音楽に垣間見える翳りのようなものがとても印象的で美しい。
 そして、後者でいえば両曲の終楽章。
 例えば、第1番の一気呵成さ、特にラストのまるで機械仕掛けの神が慌てて飛び降りてくるようなじたばた感では同じピリオド・スタイルによる演奏でも、トーマス・ヘンゲルブロック指揮ハンブルクNDR交響楽団の録音に何歩か譲るものの、構えの大きさ、劇的な表現ではマナコルダたちも負けてはいない。
 特に、細やかな音楽の表情の変化が素晴らしく、改めてメンデルスゾーンの早熟ぶりを知らされた。

 カンマーアカデミー・ポツダムの面々も、マナコルダの意図に沿って優れたアンサンブルを披歴している。
 上述した第1番終楽章の弦楽器の目まぐるしい進行には、今年のラ・フォル・ジュルネびわ湖で目の当たりにした笠井友紀率いる彼女彼らの姿をすぐさま思い起こしたほどだ。

 シューベルトに比べてちょっとだけ音質にじがじがした感じがあるが、音楽を愉しむ分にはほとんど気にならない。
 メンデルスゾーンの交響曲を清新な演奏で愉しみたいという方に強くお薦めできる一枚だ。
 そして、残りの第2番「讃歌」、第3番「スコットランド」、第5番「宗教改革」のリリースが本当に待ち遠しい。
(できれば、序曲も数曲録音してくれないかなあ。まあ、第2番1曲と第3番&第5番のカップリングになりそうな気はするけど)


 あと、カンマーアカデミー・ポツダムには、ぜひとも次回はマナコルダと共に来日して、シューベルトやメンデルスゾーンの交響曲を聴かせてもらいたい。
 日本人ピアニストとの抱き合わせでマナコルダは抜き、というのだけは勘弁して欲しい。
posted by figarok492na at 12:08| Comment(0) | TrackBack(0) | CDレビュー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

マハン・エスファハニが弾いたゴルトベルク変奏曲

☆ヨハン・セバスティアン・バッハ:ゴルトベルク変奏曲

 独奏:マハン・エスファハニ(チェンバロ)
<DG>479 5929


 あいにく関西は素通りされてしまったものの、今月来日して各地でリサイタルを開催したマハン・エスファハニは、1984年生まれのイラン系アメリカ人。
 現在はイギリスに拠点を移して世界的な演奏活動を行う、若手チェンバリストの大注目株である。
 すでにhyperionレーベルからカール・フィリップ・エマヌエル・バッハのヴュルテンベルク・ソナタ集とラモーのクラヴサン作品集、さらにARCHIVレーベルからバッハよりグレツキ、スティーヴ・ライヒに到る幅広い作品を収めた『現在と過去』をリリースしてきたエスファハニだけれど、今回彼が満を持して本家ドイツ・グラモフォンに録音したのがこのアルバム、バッハのゴルトベルク変奏曲だ。

 ゴルトベルク変奏曲といえば、グレン・グールドの再発見以来、鍵盤楽器奏者にとって避けては通れぬ作品の一つだが、エスファハニの演奏を一言で表わすならば、「今現在の彼にとってそうあるべきものをそうあるべきように表現した」ということになるのではないか。
 それではわかりにくいというのであれば、同じく漠然とはしていても、「今現在の彼の特性魅力が十全に発揮された演奏」と平板な言葉に言い換えてもよい。
 もちろん、鬼面人を嚇す類いのひけらかしまずありきの演奏とは無縁であることは言うまでもない。
 その意味で、グールド以上のスピーディーでエッジの効いた展開を期待するむきには若干物足りなさを感じさせる演奏かもしれない。
 また逆に、エスファハニの自らの感興に正直な姿勢は、古いドイツ流儀の堅固で統一された音楽世界をよしとするむきには敬遠されるべきものかもしれない。
 エスファハニの演奏は、全体を緊密な世界として構築するというよりも、個々の変奏の持つ特徴を細かく捉えながら、それでいて一つの流れを指し示すことにより重きが置かれている。
 一つの流れという点でいえば、冒頭のアリア(トラック1)から第1変奏(トラック2)への移行。
 激しいテンポの変化によって一挙に場面を切り替えるような演奏とは異なり、エスファハニの場合はアリアの余韻を残したままで変奏を始める。
 また、第15変奏(トラック16。たどたどしさすら感じるようなカノンの歩み)から第16変奏(トラック17)冒頭の強打を経ての第17変奏(トラック18)への移行にも、エスファハニの演奏の特徴はよく表されている。
 ただ、そうしたエスファハニの演奏を単にモノマニアックでマニエリスティックな解釈であると判断することも間違いであろう。
 第19変奏(トラック20)のピッチカートを思わせる奏法や、第26変奏(トラック27)から第29変奏(トラック30)での速いテンポの経過に如実に示されているように、エスファハニの演奏解釈は、チェンバロという楽器の特性性質をしっかりと手の内に収めることによって生み出されたものなのである。

 いずれにしても、80分弱の長丁場だが全篇聴き飽きることない、それどころか繰り返して聴けば聴くほど面白さを感じるCDだ。
 明度の高い録音も、エスファハニの明晰な演奏によく沿っている。
 大いにお薦めしたい。
posted by figarok492na at 10:12| Comment(0) | TrackBack(0) | CDレビュー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年02月25日

クラウス・テンシュテットが指揮したワーグナーの序曲・前奏曲集

☆ワーグナー:序曲・前奏曲集

 指揮:クラウス・テンシュテット
管弦楽:ベルリン・フィル
 録音:1982年12月、1983年4月、ベルリン・フィルハーモニー
    デジタル/セッション
<EMI>CDC7 470302


 存命ならば、今年でちょうど90歳を迎えるクラウス・テンシュテットは、とうとう実演に接する機会のなかった指揮者であり、音楽家である。
 そういえば、25年以上前のヨーロッパ滞在時、イギリスを訪れた折、ロンドン・フィルのコンサートの当日券を買い求めようとして、窓口の男性に何度も「You know?」、「You know?」(この場合は、「あんた、わかってる?」というニュアンス)と連発されたが、それはテンシュテットが病気でキャンセルして、ロジャー・ノリントンが代役に立つことをわかっているのかという念押しだった。
 ケルンでのヨーロッパ室内管弦楽団とのコンサートでノリントンに魅せられたこちらは、そのノリントンこそが目当てだったため、すかさず「I know」と重々しく返答したのだけれど、窓口の男性はそれはそれで怪訝そうな表情を浮かべていたっけ。

 このCDは、テンシュテットが次代を担う指揮者として、ポスト・カラヤンの下馬評にも上がっていた頃にベルリン・フィルと録音した2枚のワーグナー・アルバムのうち、序曲・前奏曲を収めたほうだ。
 歌劇『タンホイザー』序曲、歌劇『リエンツィ』序曲、歌劇『ローエングリン』第1幕と第3幕への前奏曲、楽劇『ニュルンベルクのマイスタージンガー』第1幕への前奏曲と、おなじみの作品ばかりが集められているが、テンシュテットは細部を細かく整えることよりも、音楽の内実をしっかりと掴んで直截に再現してみせることに重点を置いている。
 概して、ゆったりとしたテンポをとりつつ、鳴らすべきところは十分に鳴らし、抑えるべきところはきっちりと抑え、音楽の劇性を巧みに表していく。
 『タンホイザー』では官能性、『ローエングリン』の第1幕への前奏曲では静謐さと神秘性、『マイスタージンガー』では祝祭性と、曲の持つイメージもよくとらえられており、中でも『リエンツィ』序曲の強奏部分(打楽器!)が示す野蛮さ、暴力性は強く印象に残る。
 2016年現在はもとより、このアルバムがリリースされた1984年においても、ドイツの巨匠風というか、時代を感じさせる解釈であるだろうことも含めて、テンシュテットという不世出の音楽家の本質を識ることのできる一枚だろう。
 なお、このCDは初出時のイギリス・プレスの輸入盤で、じがつきもやつきの多いEMIレーベルの録音ということにデジタル初期ということもあってか、音に相当古さを感じさせる。
 こちらは初出時の輸入盤コレクターなのであえて購入したが(中古で500円だったし)、一般的には、現在廉価で再リリースされているCDをお選びいただいたほうが無難かもしれない。
(ただし、比較的大きめの音量で聴くと、弦、管、打と各楽器の分離の良い録音であることもわかる。大音量で鳴らすときこそ真価を発揮するという、LP時代の流れがこの頃まではまだ続いていたのだろう)

 余談だが、テンシュテットは手兵ロンドン・フィルとともに、1984年4月と1988年10月に来日していて、後者のワーグナー・プログラムの東京公演(1988年10月18日、サントリーホール大ホール)をNHKが録画したものはDVD化もされていた。
 そして、10月25日には、大阪のザ・シンフォニーホールで同じプログラムのコンサートが開催されていたのだけれど、すでに京都に住んでいたにも関わらず、僕はそれをパスしてしまった。
 今思えば、本当に残念なことだ。
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2016年02月16日

ビルソンとガーディナーらが演奏したモーツァルトのピアノ協奏曲第20番&第21番

☆モーツァルト:ピアノ協奏曲第20番&第21番

 独奏:マルコム・ビルソン(フォルテピアノ)
 指揮:ジョン・エリオット・ガーディナー
管弦楽:イングリッシュ・バロック・ソロイスツ
 録音:1986年4月、ロンドン・セント・ジョンズ・スミス・スクエア
    デジタル/セッション
<ARCHIV>419 609-2


 フランス・ブリュッヘンとクリストファー・ホグウッドの死に、ニコラウス・アーノンクールの引退で、1980年代以降、デジタル録音の開始と基を一にするピリオド・スタイル流行の端緒を担った指揮者たちも、残るはトン・コープマン、シギスヴァルト・クイケン、トレヴァー・ピノック、ロジャー・ノリントン、そしてジョン・エリオット・ガーディナーということになってしまった。
 このアルバムは、そのガーディナー&イングリッシュ・バロック・ソロイスツとフォルテピアノのマルコム・ビルソンが完成させたモーツァルトのピアノ協奏曲全集中の一枚で、彼らの特性をよく伝える内容となっている。
 ピアノ協奏曲第20番といえば、モーツァルトの音楽の持つデモーニッシュさが強調されがちだけれど、ビルソンとガーディナーはそうしたロマン派的な解釈に傾くことなく、折り目正しい楷書体の演奏を繰り広げている。
 その分、深淵を見つめるかのような心の動きを呼び起こされることはないが、フォルテピアノの簡潔で質朴な音色には魅了されるし、管弦楽伴奏のシンフォニックな構造もよくわかる。
 その意味で、長調の第21番のほうがより演奏者の柄に合っているかもしれない。
 独奏、オーケストラともにバランスがとれて安定した出来であり、二つの協奏曲のピリオド楽器によるオーソドックスな解釈としてお薦めできる一枚だ。
 デジタル初期の録音もクリアで、演奏を愉しむという意味では問題ない。
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ヨエル・レヴィが指揮したブラームスのセレナード第1番&ハイドンの主題による変奏曲

☆ブラームス:セレナード第1番&ハイドンの主題による変奏曲

 指揮:ヨエル・レヴィ
管弦楽:アトランタ交響楽団
 録音:1993年1月16日、17日
    アトランタ ウッドラフ・パフォーミング・アーツ・センター
    デジタル/セッション
<TELARC>CD-80349


 アメリカ大統領選の候補者選びが進んでいるが、あの民主共和両党の党員集会のあり様に、どうしても本多勝一らの「アメリカ合州国」という言葉を思い出さざるをえない今日この頃だ。
 で、国家国民自体が千差万別であれば、そのオーケストラの持つ雰囲気も千差万別ということになる。
 さしずめ、ルーマニア生まれのイスラエル人ヨエル・レヴィと、アメリカ南部のアトランタ交響楽団が録音したこのブラームスのアルバムなど、その好例ではないか。
 セレナード第1番とハイドンの主題による変奏曲といえば、ブラームスの管弦楽曲の中では喜びと幸福感をためた作品で僕は大好きなのだけれど(ヴァーノン・ハンドリーとアルスター管弦楽団が同じカップリングのアルバムを、CHANDOSレーベルからリリースしている)、レヴィとアトランタ交響楽団ははしゃぎ過ぎず引っ込み過ぎず、のっそり過ぎずせかせか過ぎず、落ち着きのある「中欧的」な演奏を繰り広げている。
 例えば、レナード・スラットキンとセントルイス交響楽団にも同種の録音があるが(RCAレーベル。カップリングは異なるものの、セレナード第1番と第2番、ハイドンの主題による変奏曲、大学祝典序曲を録音)、あちらのエネルギッシュでパワフル、ぐいぐい攻めるアメリカナイズされた演奏とは好対照の内容だ。
 録音による切り貼りはあるとしても、アトランタ交響楽団はソロ、アンサンブルともにまとまりが良くて、高い水準を保っている。
 管楽器のくすんだ響きは、ブラームスにはぴったりである。
 ハイドンの主題による変奏曲の最終変奏の終盤、若干盛り上がりにかける感じもしないではないが、その抑制具合もヨーロッパ的と言えなくはない。
 TELARCレーベルらしく、鳴りと分離のよい音質で、こちらも無問題。
 何度繰り返し聴いても聴き飽きない一枚で、ブラームスをのんびりじっくりと愉しみたい方にお薦めしたい。

 そうそう、レヴィのブラームスには、現在シェフを務める韓国のKBS交響楽団との交響曲第2番のライヴ映像がyoutubeに投稿されている。
 楽曲の解釈という意味ではオーソドックスな内容で、ながら聴きにはぴったりだ。
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2016年01月31日

シューベルトのマイアホーファーの詩による歌曲集

☆シューベルト:マイアホーファーの詩による歌曲集

 テノール:クリストフ・プレガルディエン
 フォルテピアノ:アンドレアス・シュタイアー
 録音:2001年1月、ケルン・ドイッチュラントラジオ・スタジオ
    デジタル・セッション
<TELDEC>8573-85556-2


 1月末日、さらには彼自身の219回目の誕生日ということもあって、これまで投稿しそびれていた、シューベルトのマイアホーファーの詩による歌曲集に関する感想を記しておきたい。

 このアルバムには、シューベルトと直接親交のあったヨハン・バプティスト・マイアホーファーの詩による歌曲が23曲収められている。
 おなじみの作品に比べると、一聴、すぐさま口ずさめそうな歌曲ばかりとはいかないが、それでもシューベルトの音楽の持つ旋律の美しさ、抒情性、劇性、形而上的思考等々は、十全に示されているとも思う。
 プレガルディエンとシュタイアーはそうした歌曲の数々を、彼らが重ねてきた共同作業の頂点とでも評したくなるような高い表現力で再現し切っていて、何度聴き返しても全く聴き飽きない。
 その意味でも、
>しかし私の身体の隅々からは
 魂のこころよい力が涌き出でて、
 私をとりかこみ
 天上の歌を歌うのだ。
 滅び去れ、世界よ、そして二度と
 この世のものならぬ甘美な合唱を妨げるな。

 滅び去れ、世界よ、滅び去れ<
と詩人自身の歌詞によって、訣別が歌われた『解脱』が最後に置かれていることは、非常に興味深い。
 近年では、声の衰えを感じざるをえないプレガルディエンだが、ここでは透明感、清潔感があって伸びのある声質は保たれているし、一つ一つの作品への読み込みの深さは言うまでもない。
 また、シュタイアーも時に押し時に引く見事な掛け合いでプレガルディエンの歌唱をサポートする。
 今日たまさか、NHK・FMの『きらクラ!』のリスナーさんからのお便りに、シューベルトの歌曲のピアノは単なる伴奏ではなく、共に歌を歌っているように、二重唱のように聴こえるという趣旨の言葉があったのだけれど、プレガルディエンとシュタイアーはまさしくそうした関係を築き上げていたのではないか。

 シューベルトの好きな方、特に彼の歌曲が好きな方には大いにお薦めしたい一枚だ。
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2015年11月20日

シギスヴァルト・クイケンが指揮したハイドンの交響曲第103番&第104番

☆ハイドン:交響曲第103番「太鼓連打」&第104番「ロンドン」

 指揮:シギスヴァルト・クイケン
管弦楽:ラ・プティット・バンド
 録音:1995年1月16〜20日、ドープスヘジンデ教会、オランダ
    デジタル・セッション
<DHM>05472-77362-2


 シギスヴァルト・クイケンが手兵のピリオド楽器オーケストラ、ラ・プティット・バンドと進めてきた、ハイドンのロンドン(ザロモン)・セットの掉尾を飾る一枚。
 ロンドン・セット(第93番〜第104番)といえば、ハイドンの交響曲の集大成と呼ぶべき作品だけれど、細部までみっちりじっくり詰め切った同じカップリングのニコラウス・アーノンクール指揮アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団のCD<TELDEC>と比較して、クイケンとラ・プティット・バンドのほうは、よりアンサンブルの自主性を尊重した演奏と評することができるのではないか。
 で、ソノリティの高い演奏者たちが生み出すインティメートな雰囲気に満ちたアンサンブルによって、実に快活で歯切れと見通しの良い音楽が再現されており、何度聴いても全く聴き飽きない。
 録音も非常にクリアで、そうした演奏にとてもぴったりだと思う。
 ハイドンの交響曲を心底愉しみたいという方には大いにお薦めの一枚だ。
 中古とはいえ、これが税込み324円というのは本当に申し訳ないくらい。
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2015年10月21日

グレン・グールドが弾いたバッハのイタリア協奏曲とパルティータ第1番、第2番

☆ヨハン・セバスティアン・バッハ:イタリア協奏曲他

 独奏:グレン・グールド
 録音:1959年、アナログ・ステレオ/セッション
<SONY/BMG>88697147592


 量より質というけれど、なんでもかんでも容量いっぱいに詰め込めばいいってもんじゃない。
 グレン・グールドにとって初期の録音となる、バッハのイタリア協奏曲とパルティータ第1番、第2番を収めたこのアルバムなど、その最たるものではないか。
 と、言うのも、僅か40分とちょっとの収録時間にも関わらず、70分、80分と詰め込んだ他のアルバムにひけをとらない密度の濃さなのだから。
 ときに流麗に、ときにじっくりと弾き分けながら、グールドは楽曲の構造性格を明確に描き表していく。
 それでいて、というか、そうであるからこそ、グールドという音楽家の個性魅力が全篇横溢していることも言うまでもない。
 何度聴いても聴き飽きない、音楽を聴く愉しみに満ちた一枚だ。
 音質もクリアである。
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2015年09月28日

クリストフ・フォン・ドホナーニが指揮したブルックナーの交響曲第5番

☆ブルックナー:交響曲第5番

 指揮:クリストフ・フォン・ドホナーニ
管弦楽:クリーヴランド管弦楽団
 録音:1991年1月20日&21日、クリーヴランド・セヴェランス・ホール
    デジタル・セッション
<DECCA>433 318-2


 振り返ってみれば、1980年代末から90年代半ばにかけては、CD録音の爛熟期だった。
 そうした中で、今でもファーストチョイスに推薦するに足る数々のCDが残された反面、何ゆえこういった企画にOKが出されたのかと理解に苦しむCDも少なくはない。
 クリストフ・フォン・ドホナーニとクリーヴランド管弦楽団、ゲオルク・ショルティとシカゴ交響楽団、さらにはリカルド・シャイーとベルリン放送交響楽団&ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団によって同時並行的に進められた、DECCAレーベルによるブルックナーの交響曲録音など、どちらかといえば後者に傾くのではないか。
(DECCAレーベルでのブルックナーの交響曲録音にはほかに、ヘルベルト・ブロムシュテットとサンフランシスコ交響楽団による第4番「ロマンティック」、第6番、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団による第9番もあった。上述した一連の録音の中では、ブロムシュテットこそもっともスタンダードな解釈による演奏となったはずで、このシリーズが頓挫してしまったことは少し残念だ)

 で、今回取り上げるブルックナーの交響曲第5番といえば構成の堅固さで知られていて、当然の如くドホナーニもそうした作品の特性に充分配慮を行っている。
 ただ、例えばギュンター・ヴァントとベルリン・フィルの演奏のような細部の細部に至るまで徹底して分析された目の詰まった感じに欠けることは、残念ながら事実だ。
 また、第1楽章をはじめ、ところどころ前のめり気味になる箇所はありつつも、激しくいききることはなく、適度に抑制が利いてしまう。
 喩えていうなら、本来100点を連発することのできる人間が手抜きをしたのでもなく、逆にいつも赤点ばかりの人間が刻苦勉励奮闘努力をしたのでもなく、常日頃コンスタントに82点をキープし続けている人間が今回もまた安定の82点をとったという具合になるだろうか。
 と、いって、それじゃあ聴いて損をする演奏かというと、実はそんなこともなくて、早いテンポでささっと音楽が進められていく分、重さだるさを感じることはないし、それより何よりクリーヴランド管弦楽団が達者だ。
 おまけに録音もクリアで、CDとして聴く分にはもってこいの演奏である。
 中でも、ブルックナーの交響曲というものに思い入れやこだわりのない方には、大いにお薦めしたい一枚。

 そうそう、このCDを聴いていて思い出した。
 ドホナーニとクリーヴランド管弦楽団の実演(1990年5月24日、ザ・シンフォニーホール)に、僕は接したことがあったのだ。
 当時同じ組み合わせの録音を愛聴していたドヴォルザークの交響曲第8番のほか、リヒャルト・シュトラウスの交響詩『ドン・ファン』とスティーヴ・ライヒのオーケストラのための3つの楽章がプログラミングされていたが、クリーヴランド管弦楽団の達者巧さは実感したものの、演奏そのものに面白さを感じることは正直できなかった。
 あれはまさしく、録音と実演の違いを思い知らされたコンサートだった。
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2015年09月19日

クリスティアン・ゲルハーヘルが歌ったモーツァルトのオペラ・アリア集

☆モーツァルト:オペラ・アリア集&交響曲第36番「リンツ」

 独唱:クリスティアン・ゲルハーヘル(バリトン)
管弦楽:フライブルク・バロック・オーケストラ
 録音:2015年1月16日〜19日、フライブルク・コンツェルトハウス
    デジタル・セッション
<SONY/BMG>88875087162


 現在のドイツを代表するバリトン歌手、クリスティアン・ゲルハーヘルが歌ったモーツァルトのオペラ・アリア集だが、選曲歌唱ともに、王道中の王道とでも呼ぶべき充実した内容となっている。
 まずは歌われているのが、いわゆるダ・ポンテ三部作の『フィガロの結婚』、『ドン・ジョヴァンニ』、『コジ・ファン・トゥッテ』、そして『魔笛』というモーツァルトを代表するオペラの中から、おなじみのアリアばかり。
 加えて、シューベルトやシューマンのリートで聴かせてきたように、ゲルハーヘルの歌いぶりも一切くせ球なし。
 深みがあって張りと伸びのある声質と、口跡が良くて緻密に計算された歌唱でもって全曲をバランスよく歌い切る。
 『フィガロ』の「もう飛ぶまいぞ、この蝶々」や伯爵のアリア等、ピリオド・スタイルの演奏にありがちな大きな装飾も、見事に避けられている。
 しかも、このアルバムが今年1月のコンサートのライヴ録音というのだから、その精度の高さには驚く。
 むろん純然たる一発録りとは違って様々な加工はあるだろうし、ゲルハーヘルの畳みかけや伴奏の楽器のほんの僅かな音のずれにライヴ録音を感じたりもするのだけれど。
 機械的に拍手がカットされている分、若干物足りなさを覚えたりもした。
(例えば、『魔笛』の「パパゲーナ!パパゲーナ!パパゲーナ!」が、パパゲーノが打ちひしがれて首をくくろうとするところで終わっているのなんて、やっぱりさびしいものだ。一応、「リンツ」の第3楽章で気分は変わるものの。そういえば、ヘルマン・プライのアルバム<DENON>が同じ形で全曲を閉めていて、レコード芸術か何かで、それはあんまりだろうと評されていたのではなかったか。逆に、オラフ・ベーアのアルバム<EMI>では、しっかり三人の童子とパパゲーナが登場し、パパパの二重唱で愉快に終わっている)

 昨年の来日コンサート(2014年2月14日、京都コンサートホール大ホール)で巧みにコントロールされつつインティメートな暖かみに満ちたバッハのブランデンブルク協奏曲全曲を披歴した、ヴァイオリンのゴットフリート・フォン・デア・ゴルツ率いるフライブルク・バロック・オーケストラも、そうしたゲルハーヘルにぴったりのクリアで歯切れのよい伴奏を行っている。
 モーツァルト時代のコンサートを模してか、アリアの間にばらばらに挟まれた「リンツ」シンフォニーだって、それだけ取り出して聴いても十分十二分に愉しめる優れた演奏だ。
 また、『フィガロ』の「もし殿さまが踊りをなさるなら」のレチタティーヴォでのフォルテピアノや、『魔笛』の「恋人か女房が」でのグロッケンシュピール(でいいのかな?)がとても機智に富んで魅力的だと思っていたら、なんとこれ、クリスティアン・ベザイデンホウトが弾いていた。
 『ドン・ジョヴァンニ』のセレナードのマンドリンも、名手アヴィ・アヴィタルだし、贅沢極まる布陣である。

 モーツァルトそのものというより、ゲルハーヘルの歌を聴いたという印象の強さは否めないけれど、76分一切だれない、何度聴いても聴き飽きない、よく出来たアルバムであることもまた事実であり、モーツァルトのオペラに聴きなじんだ方にも、そうでない方にも広くお薦めしたい一枚だ。
 録音も非常にクリア。

 そうそう、ゲルハーヘルが歌う『フィガロ』のアリアを聴いていて、僕はふと今は亡き立川清澄のことを思い出した。
 ゲルハーヘルの歌唱をもっと古めかしくして、声量をおとし、声質を浅くしたら立川さんみたいになるのではないか。


*曲目
『ドン・ジョヴァンニ』〜カタログの歌
『ドン・ジョヴァンニ』〜窓辺においで(セレナード)
『ドン・ジョヴァンニ』〜シャンパンの歌
交響曲第36番『リンツ』〜第4楽章
『フィガロの結婚』〜もし殿さまが踊りをなさるなら
『ドン・ジョヴァンニ』〜半分はこっちへ、あと半分はあっちへ
『コジ・ファン・トゥッテ』〜そんなに取りすまさないで
『ドン・ジョヴァンニ』〜ああ、お情けを、おふたり様
交響曲第36番『リンツ』〜第2楽章
『魔笛』〜私は鳥刺し
『魔笛』〜恋人か女房が
『魔笛』〜パパゲーナ!パパゲーナ!パパゲーナ!
交響曲第36番『リンツ』〜第3楽章
『フィガロの結婚』〜すべて準備はととのったぞ
『フィガロの結婚』〜もう飛ぶまいぞ、この蝶々
『フィガロの結婚』〜訴訟に勝っただと?
『コジ・ファン・トゥッテ』〜多くのご婦人方、あなた方は
交響曲第36番『リンツ』〜第1楽章
『コジ・ファン・トゥッテ』〜彼に目を向けて下さい
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2015年08月04日

私の好きなレスピーギ 組曲『鳥』他

☆レスピーギ:組曲『鳥』他

 指揮:ヒュー・ウルフ
管弦楽:セント・ポール室内管弦楽団
 録音:1993年2月、9月、1994年2月
    セント・ポール オードウェイ音楽劇場
    デジタル・セッション
<TELDEC>4509-91729-2


 ハリウッドがまだ力を誇っていた頃に製作された、古代ローマを舞台にした歴史劇が苦手だ。
 エリザベス・テーラーあたりが派手派手しい衣裳で身を包み濃い目の化粧をして大仰な芝居をしれっとやっている、あの嘘臭さがどうにも苦手だ。
 これが同じ派手派手しい衣裳を身に包んだ大仰な芝居でも、東映歴史劇、ならぬ東映時代劇なら無問題、大いに愉しめてしまうのは不思議だけれども。
 同様に、古代ローマを舞台にしたレスピーギの交響詩『ローマの祭』も本当に苦手だ。
 冒頭の下卑たファンファーレからして、ファシスト大進軍てな感じすら覚えて聴くのが辛くなる。
 だから、財布紛失による中瀬財政破綻を受けた中古CD売却の際、参考までに買っておいたダニエレ・ガッティ指揮のローマ三部作のCDは迷わず売ってしまった。
 ただし、レスピーギでも、ロッシーニの音楽を仕立て直したバレエ音楽『風変わりな店』とラモーらのクラヴサン曲を仕立て直した組曲『鳥』だけは、話が別。
 ストラヴィンスキーのバレエ音楽『プルチネッラ』をはじめ、新古典派期に流行した過去の音楽の仕立て直し、造り直しが、僕はどうにも大好きなのである。
 そういや、これって、当方の文章のあり様にもうかがえることじゃございませんか?
 で、『風変わりな店』は、シャルル・デュトワとモントリオール交響楽団のCDがずいぶん前から手元にあったんだけど、『鳥』のほうは今まであいにくこれはというCDを見つけることができないでいた。
 それが、先日ワルティ・クラシカルの閉店セールでこのアルバムを見つけることができた。
 あな嬉し。
(って、正確にいえば、このCDの存在自体は前々から承知していたが)

 セント・ポール室内管弦楽団はとびきり精度の高いオーケストラとまではいえないものの、個々のソロもなかなか達者だし、アンサンブルだってインティメートな具合にまとまっている。
 それに、ヒュー・ウルフも音楽の勘所をよく押さえたシャープな音楽づくりを心掛けていて、こちらも問題ない。
 カップリングは、春、東方博士の来訪、ヴィーナスの誕生の三枚の絵をイメージしたボッティチェッリの3枚の絵に、リュートのための古風な舞曲とアリアの第1&第3組曲。
 ところどころ、ちょい悪親父ならぬ、ちょい鳴る音楽というか、古代ローマ風の音型やら若干派手目なオーケストレーションの芽みたいなものがうかがえるのだけれど、嫌になるほど気にはならず。
 有名な第3組曲のシチリアーナなど、やっぱり親しみやすく美しいなあと思った次第。

 大げさなレスピーギは苦手という人にこそお薦めしたい、悪目立ちしない一枚だ。
posted by figarok492na at 22:35| Comment(0) | TrackBack(0) | CDレビュー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

メルヴィン・タンが弾いたシューベルトの即興曲集

☆シューベルト:4つの即興曲D.899&D.935

 独奏:メルヴィン・タン(フォルテピアノ)
 録音:1987年 モールティングス・スネイプ
    デジタル・セッション
<EMI>CDC7 49102 2


 今やモダン・ピアノに戻ってしまったメルヴィン・タンの、フォルテピアノの気鋭として活躍していた頃を代表するアルバムである。
 1814年製のナンネッテ・シュトライヒャーのコピー楽器を使用して、シューベルトの二つの4つの即興曲集(計8曲)を録音したものだが、作品の持つ叙情性や歌唱性がフォルテピアノの繊細な響きでもってよく再現されている。
 技術的に見れば(聴けば)、若干気にかかる部分もなくはないのだけれど、訥弁の雄弁、訥弁の能弁というか、めくるめくテクニックのひけらかしではないからこそ、シューベルトが刻みつけた様々な心の動き、音の逡巡に気づかされたりもする。
 馴らされ矯めされたシューベルトに倦み疲れた方々にお薦めしたい一枚だ。

 できれば、タンにはハンガリーのメロディーなど、もっとシューベルトの小品をフォルテピアノで録音しておいて欲しかった。
 そのほうが、より彼の身の丈にもあっていたはずで、とても残念でならない。
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マナコルダが指揮したシューベルトの交響曲第5番&第6番

☆シューベルト:交響曲第5番&第6番

 指揮:アントネッロ・マナコルダ
管弦楽:カンマー・アカデミーポツダム
 録音:2012年8月 ベルリン・テルデックス・スタジオ
    デジタル・セッション
<SONY/BMG>88765426962


 イタリア出身でマーラー・チェンバーオーケストラのコンサートマスターだったアントネッロ・マナコルダと、若き手兵カンマー・アカデミーポツダムが進めているシューベルトの交響曲全集から、第5番と第6番を収めたCDを聴く。
 緩急強弱のメリハリがよく効いた音楽づくりに、金管楽器やティンパニはピリオド楽器を使用するという、まさしくピリオド・スタイルを貫いた演奏だが、表面的なスタイルをなぞっていることにこのCDの魅力があると考えれば、それは大きな間違いだろう。
 このCDに限らず、マナコルダとカンマー・アカデミーポツダムが演奏したシューベルトの交響曲の魅力は、粗さざらつきを感じるその音色を含めて、そうしたピリオド・スタイルがシューベルトの音楽の持つ感情の激しい動きと切実さ、虚無感を痛いほどに明示しているところにある。
 一般的には穏美な作品と目されがちな第5番のシンフォニーだけれど、マナコルダとカンマー・アカデミーポツダムはシューベルトが下敷きにしたモーツァルトの交響曲第40番を想起させるかの如く、エモーショナルに再現する。
 例えば、第3楽章での金管の微かな鋭い響きなど、それこそピリオド楽器を使用しているからこそ生み出されたはっとする瞬間だ。
 一方、同じ調性の「ザ・グレート」に比して、小さなハ長調と呼ばれることのある第6番では、この作品が内胞する劇的な拡がり、音としての鮮烈なドラマが余すところなく表現されている。
 両端楽章の疾走感と、ときに訪れる逡巡、第2楽章の叙情性と歌唱性、第3楽章のコントラストの妙と、全篇全く聴き飽きることがない。
 シューベルトの交響曲第5番と第6番で「ふるえる」想いがしたいという方に、大いにお薦めしたい一枚だ。

 なお、hr(旧フランクフルト放送)交響楽団の楽団アカウントが、youtubeにマナコルダ指揮のシューベルトの交響曲第6番をアップしている
 オーケストラの違い、ライヴとセッション録音の違い、音質の違いはありつつも、マナコルダの解釈自体はCDと共通していると思う。
 ご参考までにぜひ。
posted by figarok492na at 15:15| Comment(0) | TrackBack(0) | CDレビュー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年08月03日

アレクセイ・リュビモフが弾いたベートーヴェン もしくは加藤武のこと

☆ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第8番、第14番、第21番

 独奏:アレクセイ・リュビモフ(フォルテピアノ)
 録音:1992年12月7日〜12日 パリ・サル・アディヤール
    デジタル・セッション
<ERATO>4509-94356-2

 俳優で文学座代表の加藤武が亡くなった。
 加藤さんは東京の築地で生まれ、麻布中学・高校、早稲田大学で学んだのち、一時教職を経て文学座研究所に入り、以後演劇、映画、テレビの世界で活躍した。
 幼い日から芸能芸事に親しみ、中学高校大学(なにせ中学時代の同級生は小沢昭一、仲谷昇、フランキー堺、大学時代の友人は北村和夫に今村昌平だもの)、さらには作家・演芸評論家の正岡容門下として切磋琢磨した加藤さんには、いわゆる新劇で純粋培養された人間では持ちえない幅の広さと味わいの深さがあった。
 また、そうした加藤さんだからこそ、あの久保田万太郎を創立者の一人とする文学座が水に合っていたようにも思う。
 一本気でからっと乾いた正義感と、そのコインの裏表にある浅薄さ、粗忽さが醸し出す滑稽さを江戸っ子気質の一つと定義するならば、加藤さんはまさしく江戸っ子らしい特性を備えた役者だった。
 むろん、それは単純に無意識なまま垂れ流されるものではなく、落語、寄席、芸人の世界に通じることで獲得された客観性によって洗練され、自覚化されたものだったろうけれど。
 そして、洗練され自覚化されてなお垣間見える加藤さんのフラ、素のおかしみが彼の演技に柔らかさを加えていた。
 巷間伝わる悪友小沢昭一や北村和夫らとのエピソード、加藤さん本人が綴った文章からもそれは充分にうかがえる。
 そうした加藤さんの当たり役の一つが、市川崑監督による横溝正史=金田一耕助シリーズにおける橘署長であり、等々力警部だ。
 警察という権力の側にあって、なおかつ強固な正義感の持ち主ながら、どうにもおっちょこちょいでにくめない。
 市川崑監督の人物造形も当然そこにあるとはいえ、加藤武という役者人間の存在なくば、とうてい成立しえなかったキャラクターである。
 そのような加藤さん演じる橘署長なり、等々力警部なりが、アレクセイ・リュビモフがフォルテピアノを弾いて録音したベートーヴェンのピアノ・ソナタ集のCDがあると耳にしたならば、一体如何なる反応を示すだろうか。
 きっと彼ならば、そう耳にしたとたん、中身も聴かずにこう判断するだろう。
 なに、リュビモフのベートーヴェン、そいつの写真はあるのか、うんこれか、なんだこの禿げ頭に分厚い眼鏡は、おまけに髭まで生やしているじゃないか。
 そういや、ソ連にはアファなんとかエフという名前の変なピアニストがいたな。
 あっ、この前ウゴルスキとかいう男のベートーヴェンを聴いたが、あれもおかしかったぞ。
 よし、わかった!
 このCDはいかがわしい!
 さすが橘署長なり、等々力警部なり。
 人を見かけで判断して大失敗の好例、ならぬ悪例である。
(そうそう、ずいぶん前にみのもんたがそれで大きな失敗をやらかした。あれは本当にひどかった)

 リュビモフの容貌は独特だけど、アファナシエフほどには狂気は宿っていないだろう。
 このCDに聴くリュビモフのベートーヴェンは至極真っ当である。
 上述したアファナシエフやウゴルスキはもちろんのこと、先日レビューをアップしたオリ・ムストネンの演奏に比べても、リュビモフの弾くベートーヴェンは、一般的にイメージされるベートーヴェンのピアノ・ソナタの演奏に非常に近い。
 確かに、1806年製のブロードウッドのフォルテピアノを使用してはいるが、いやブロードウッドの硬質な音色も加わってなおのことその感は強くなる。
 同じ旧ソ連でいえば、エミール・ギレリスの強固な演奏を思い出すほどだ。
 そんなリュビモフの演奏だから、哀切感あふれる第8番「悲愴」の第2楽章や不穏さと狂気を秘めたような第14番「月光」の第1楽章よりも、第8番の両端楽章や第14番の終楽章の芯が強くて激しい響きの中にふと垣間見えるロマン主義の萌芽、仄かな叙情性に魅力を感じる。
(加藤さんの演技でいうならば、黒澤明監督の『悪い奴ほどよく眠る』のラスト間際、加藤さん演じる板倉=西の慟哭「これでいいのか、これでいいのか!」にもしかしたら繋がる表現であり、感情かもしれない。余談だけど、東京大空襲に見舞われ祖母を看取った加藤さんは、この板倉=西を演じる時、そのことをどこかで意識していたのではないか)
 また、第21番「ワルトシュタイン」では、一皮むけたというか、ベートーヴェンの表現の変化がよくとらえられている。

 じっくりベートーヴェンを聴きたい人、見た目でだまされたくない人、加藤武が大好きな人に強くお薦めしたい一枚だ。
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2015年08月02日

ラルキブデッリが演奏したモーツァルトのディヴェルティメントK.563

☆モーツァルト:ディヴェルティメントK.563他

 演奏:ラルキブデッリ
 録音:1990年5月30日〜6月2日、オランダ・ハールレム・ルター派教会
    デジタル・セッション
<SONY>SK46497


 潤(戸坂潤)でーす!
 清(三木清)でーす!
 宮本顕治でございます
 と、潤と清に左右の頬をぎゅっと押された顕治、すかさず
 顔がブルドックみたいになっちゃった
 以上、レツ獄三匹

 というのは、学生時代にこっぴどく叱られた「前衛」的な余興のネタの一つ。
 そういえば、じゅんでーす! 長作でーす! 三波春夫でございますの本家レツゴー三匹のほうは、巷間仲の悪さを噂されていて、確かに三人の舞台を見ていると曰く言い難い緊張感を覚えたものだった。
 三人寄れば文殊の知恵、毛利元就の三本の矢とはいうものの、三人集まれば派閥ができるともいう。
 なかなかこの世は生きにくく生き難い。
 ことは音楽でもそう。
 三重奏や三重唱。
 もちろん作品によりけりだけど、俺が我がの手前勝手の自己顕治、じゃない自己顕示合戦を始めれば、それこそ目も当てられない。
 逆に、三者の駆け引きが巧く決まればおもろおかしいスリリングさを味わえるし、さらに三者の調和がぴたりととれれば、そはまさに天にも昇る心持ち!

 そんな三重奏や三重唱の魅力を生み出し尽くしたのが、誰あろうヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトだった。
 そして、ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロの弦楽三重奏のために作曲されたディヴェルティメントK.563など、まさしくモーツァルトが作曲したトリオ芸の極みの一つとでも呼ぶことができるのではないか。
 ヴァイオリンヴェラ・ベス、ヴィオラのユルゲン・クスマウル、チェロのアネル・ビルスマの三人は、ピリオド楽器の清新で繊細な音色を活かしつつ、個々の絶妙な押し引き加減とインティメートでバランスのよいアンサンブルでもって、この作品の魅力を余すところなく再現している。
 粘らずべとつかないテンポ設定も僕の好みにぴったりだ。
 カップリングは、ヨハン・セバスティアン・バッハやヴォルフガング・フリーデマン・バッハの鍵盤楽器のための作品を編曲した6つの三声のフーガK.404aから6番、1番、2番、3番の4曲。
 常日頃不世出の天才ぶりばかり語られがちなモーツァルトが温故知新、並々ならぬ研鑚を重ねていたことの証明ともなる作品である。
 ディヴェルティメント同様、音楽の駆け引きや調和を愉しむことができた。

 いずれにしても、室内楽好き、古典派好き、人間関係の無駄な争いに倦み疲れた方に大いにお薦めしたい一枚だ。
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サリエリ:『まずは音楽、お次に言葉』&モーツァルト:『劇場支配人』

☆サリエリ:『まずは音楽、お次は言葉』&モーツァルト:『劇場支配人』

 指揮:ニコラウス・アーノンクール
管弦楽:アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団
 録音:1986年5月、アムステルダム
    デジタル・セッション
<TELDEC>8.43336(製品は旧西ドイツ製、ただしCD自体は日本プレス)

 オーストリア皇帝ヨーゼフU世の依頼によって作曲され、1786年2月7日のオランダ総督夫妻のための祝宴(シェーンブルン宮殿)で初演された、サリエリのオペラ・ブッファ『まずは音楽、お次は言葉』とモーツァルトの音楽付き劇『劇場支配人』の音楽部分を取り出して録音した一枚だ。
 全体像まではわからないものの、二つの作品の音楽的特徴、魅力を伝えるには充分な好企画である。

 で、モーツァルトとサリエリといえば、どうしても『アマデウス』の影響もあってか、天才モーツァルトと凡才サリエリという構図でとらえられがちだけど、こうやって両者の音楽を続けて聴けば、そうした見方が19世紀のロマン主義的な解釈を大いに引き摺った一面的なものであることがわかる。
 少なくとも、近年録音されたチェチーリア・バルトリやディアナ・ダムラウが歌ったアリアや、トーマス・ファイが指揮した序曲・バレエ音楽なども併せて聴くならば、サリエリが、18世紀後半のイタリア・オペラの手法語法を手のうちにおさめ尽くした作曲家と考えてまず異論はあるまい。
 一種の音楽対決という趣もあってだろう、この『まずは音楽、お次は言葉』でも、アリアに重唱と、イタリア・オペラの手練手管を駆使してサリエリは非常に華々しくて、滑稽で、耳馴染みのよい音楽を造り上げている。
 精度の高い歌い手たちの歌唱とアーノンクールの勘所をしっかりと押さえた演奏の力も加わって、実に愉しい。
 ちなみに、楽長と詩人、歌手の組み合わせで音楽と言葉の関係を描いた展開、というか『まずは音楽、お次は言葉 Prima la Musica, Poi le Parole』というタイトル自体が、のちのリヒャルト・シュトラウスの『カプリッチョ』の下敷きとなっている。

 一方、モーツァルトの『劇場支配人』のほうは、今では堂々として劇的な序曲ばかりが有名で、事実初演時も音楽付きのお芝居という形式もあってか少々分が悪かったようだが、それでもマダム・ヘルツが歌うアリエッタにしても、マドモアゼル・ジルバークラングが歌うロンドにしても、ソプラノの声質の違いを巧みに活かして美しい音楽に仕上がっているし、女性歌手二人にムッシュ・フォーゲルザングの声が見事に絡み合う三重唱には後年のオペラ・ブッファをすぐに想起する。
 そして極めつけは、終曲のヴォードヴィル。
(っても、東京ヴォードヴィルショーのヴォードヴィルじゃなくて、ここでのヴォードヴィルは、歌手たちがソロを歌ったのち全員で唱和するという音楽的な形式のこと。『後宮からの逃走』のラストにも似たようなヴォードヴィルがあった、てか、あのヴォードヴィルを音楽的にも精神的にも意識したものではないか。音型もちょっとトルコ風だし)
 ここではなんとアーノンクール自身が、ブッフのソロ部分を歌っている。
 専門の歌手に比べたら、若干癖が気になったりもするのだけれど、それがこの作品の世界にはぴったりのような気もする。
 若き日のトーマス・ハンプソンをはじめ、他の歌手陣も魅力的だ。

 両作品とも「舞台裏」を描いたいわゆるバックステージもので、子供の頃から人形劇に親しむなど劇場感覚に秀でたアーノンクールならではのアルバムだと思う。
 音楽もお芝居も大好きだという方には、大いにお薦めしたい一枚。
(『劇場支配人』は、同じモーツァルトの劇音楽『エジプト王ターモス』とのカップリングで再発されたが、サリエリのほうは海外盤国内盤ともに初出時のこのアルバムしかリリースされていないのではないか。オリジナルの組み合わせでの再発を期待したい)
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2015年07月31日

オリ・ムストネンが弾いたベートーヴェンのピアノのための変奏曲・舞曲集

☆ベートーヴェン:ピアノのための変奏曲・舞曲集

 独奏:オリ・ムストネン(ピアノ)
 録音:1995年10月16日、17日 ロンドン・ヘンリー・ウッド・ホール
    デジタル・セッション
<DECCA>452 206-2


 フィンランド出身のピアニスト、オリ・ムストネンの実演にも接したことがある。
 2001年11月16日の大阪音楽大学ザ・カレッジ・オペラハウスでの来日リサイタルがそうで、ベートーヴェンのピアノ・ソナタ第15番「田園」、11のバガテル、ロンド・ア・カプリッチョ、幻想曲とブラームスのヘンデルの主題による変奏曲とフーガが並んでいたが、いずれも清新な演奏だった。

 今回は、そのムストネンが弾いたベートーヴェンのピアノのための変奏曲・舞曲集を聴く。
 なお、このCDは、同じDECCAレーベルとの変奏曲集に続く2枚目のベートーヴェンで、その後RCAレーベルにディアベッリの主題による33の変奏曲他とピアノ・ソナタ第30番他の2枚のアルバムを残している。
 おなじみ『庭の千草』(の原曲)などを盛り込んだ6つの民謡主題と変奏曲、7つのレントラー、創作主題による6つのやさしい変奏曲、ロンドハ長調、ハイベルのバレエ『邪魔された結婚』の「ヴィガーノ風メヌエット」の主題による12の変奏曲、メヌエット変ホ長調、6つのエコセーズ、6つのバガテル、ピアノ小品ロ短調と、ロンドと6つのバガテルを除くとあまり有名ではない作品が収められているが、ムストネンのピアノ演奏だと、そのいずれもが個性あふれて魅力的な音楽に聴こえてくる。
 ムストネンのベートーヴェン演奏の特徴を挙げるとすれば、フォルテピアノの影響もあるだろうが、一つ一つの音を細かく跳ねるように響かせつつも、それをぶつ切りにすることなく、大きな音の流れとしてつなげていく。
 また、強弱の変化にも非常に敏感だが、それでいて音の透明感は全く失われない。
 さらに、楽曲ごとの丁寧な腑分け、把握が行われていて、音楽の見通しがよい、ということになるだろうか。
 快活で軽やかな6つのバガテルなど、ウゴルスキの演奏ととても対照的だ。

 ベートーヴェンのくどさ、しつこさにはうんざり、という方にこそお薦めしたい一枚。
 暑い時期には、なおのことぴったり!
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アナトール・ウゴルスキが弾いたベートーヴェンのピアノ作品集

☆ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第32番他

 独奏:アナトール・ウゴルスキ(ピアノ)
 録音:1992年1月、1991年7月
    ハンブルク・フリードリヒ・エーベルトハレ
    デジタル・セッション
<ドイツ・グラモフォン>435 881-2


 アナトール・ウゴルスキの実演には、かつて一度だけ接したことがある。
 1993年10月8日、ケルン・フィルハーモニーでのルドルフ・バルシャイ指揮ケルンWDR交響楽団の定期公演でブラームスのピアノ協奏曲第1番を弾いたときだ。
 まるで蛸が吸盤で岩盤にへばりつくような、身を屈めて手だけ伸ばすウゴルスキの姿勢にありゃと思っていたら、オーケストラの堂々とした伴奏がひとしきり終わってピアノのソロが始まったとたん、僕は彼の世界に惹き込まれた。
 一音一音が十分十二分に意味を持つというか。
 ブラームスのリリシズムやロマンティシズムがウゴルスキというフィルターを通して、繊細丹念に再現されていくのだ。
 呆然というほかない、演奏が終わったときの不思議な感覚を今も覚えている。
 加えて、アンコールのスカルラッティのソナタも素晴らしかった。
 遅いテンポで細やかに語られる音楽の美しさ。
 同じ契約先のドイツ・グラモフォンからイーヴォ・ポゴレリチのソナタ集がリリースされていたこともあってか、ウゴルスキのスカルラッティが録音されなかったのは、返す返す残念だ。

 で、今回取り上げるのは、そのウゴルスキがピアノ・ソナタ第32番などベートーヴェンのピアノ作品を演奏したアルバムである。
 ウゴルスキのベートーヴェンといえば、作家のディーチェが自分の新作の付録として録音を要求し、そのあまりの出来栄えのよさに正式にリリースされることとなったデビュー盤のディアベッリの主題による33の変奏曲が有名だが、こちらのアルバムも、ウゴルスキというピアニスト、音楽家の特性がよく表われた内容となっている。
 それを一言で言い表すならば、作品を通しての自問自答ということになるかもしれない。
 そしてそれは、華美なテクニックのひけらかしではなく、自分自身の納得のいく音楽、演奏の追求と言い換えることもできるかもしれない。
 例えば、ベートーヴェンにとって最後のピアノ・ソナタとなる第32番のソナタ。
 第1楽章のドラマティックな部分も悪くはないが、ウゴルスキの演奏の肝は一見(聴)淡々と、しかしながらあくまでも真摯に歩んでいく第2楽章の弱音の部分にあると思う。
(だから、第2楽章のちょっとジャジーな音型のあたりははじけない。というか、慎み深く鳴らされる)
 その意味でさらにウゴルスキの特性が示されているのは、作品番号126の6つのバガテルだ。
 ここでは確信を持って非常に遅めのテンポが保たれている。
 4曲目のプレストでも、表層的な激しさよりも感情の変化が尊ばれる。
 そうすることによって、作品の構造そのものもそうだけれど、音楽自体を支えている土台に対してウゴルスキがどう向き合ったかがよく聴こえてくる。
 さらに、そのゆっくりとしたテンポは、おなじみエリーゼのためにでも持続される。
 その静謐さには、哀しみすら感じるほどだ。
 最後は、「小銭を失くした怒り」の愛称で知られるロンド・ア・カプリッチョ。
 この曲は、全てが解き放たれるように、とても速いスピードで弾かれる。
 けれど、もちろんそれは「俺はこんなに速く弾くことができるんだぜ」といった自己顕示の反映などではない。
 作品が求めるものと自分自身が求めるものとが重なり合った結果が、この演奏なのだ。

 正直、ファーストチョイスとしてお薦めはしない。
 だからこそ、強く印象に残る魅力的なアルバムでもある。
posted by figarok492na at 13:04| Comment(0) | TrackBack(0) | CDレビュー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年07月30日

アンドレアス・シュタイアーが弾いたハイドンのクラヴィーア・ソナタ集VOL.2&VOL.3

☆ハイドン:クラヴィーア・ソナタ集VOL.2&VOL.3

 独奏:アンドレアス・シュタイアー(フォルテピアノ)
 録音:VOL.2 1991年9月9日〜12日
    VOL.3 1992年6月8日〜11日
    リントラー・クルトゥールゼントルム
<DHM>05472 77186 2(VOL.2) 05472 77285 2(VOL.3)


 アンドレアス・シュタイアーがドイツ・ハルモニアムンディ・レーベルに録音した3枚のハイドンのクラヴィーア・ソナタ集のうち、第35番〜第39番と第20番の第2集、アリエッタと12の変奏曲第1番、第34番、アンダンテと変奏曲、第33番、皇帝讃歌『神よ、皇帝を護り給え』による変奏曲の第3集を聴く。
 ハイドンのソナタといえば、ソナチネ・アルバム=初心者のための教材というイメージがどうにも付きまとうが、このシュタイアーのフォルテピアノ演奏で聴くと、そんな思い込みも一発で吹き飛んでしまう。
 例えば、第2集の冒頭に収められた第35番の第1楽章を聴いて欲しい。
 それこそソナチネ・アルバムでおなじみの作品だけれど、飛び跳ねるような音楽のなんと美しく軽やかなこと!
 聴いていて、本当にうきうきしてくる。
 同じ第2集の第38番の第1楽章もそう。
 作品の持つ明るさ、愉しさ、活き活きとした感じが存分に再現されている。
 と言って、シュタイアーは浮かれ調子の馬鹿っ調子で好き勝手手前勝手に弾き倒しているわけではない。
 テンポ設定や強弱の変化等々、作品の構造の把握の的確さに秀でている点は、やはり高く評価せねばならないだろう。
 また、ソナタの緩徐楽章や第3集の変奏曲などにおける叙情性、歌唱性への充分な配慮も忘れてはなるまい。
 弦楽4重奏曲第77番「皇帝」の第2楽章ともつながる皇帝讃歌による変奏曲の静謐さ、真摯さも強く印象に残った。
 ソナチネ・アルバムにうっとうしい想いをさせられた方にこそ強くお薦めしたい、とびきりのアルバムである。
posted by figarok492na at 22:50| Comment(0) | TrackBack(0) | CDレビュー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ブルーノ・ヴァイルが指揮したハイドンの交響曲第82番〜第84番

☆ハイドン:交響曲第82番「熊」〜第84番

 指揮:ブルーノ・ヴァイル
管弦楽:ターフェルムジーク
 録音:1994年2月15日〜19日、トロント・グレン・グールド・スタジオ
    デジタル・セッション
<SONY>SK66295


 今日ほど、真の中庸の道を歩むことのむずかしく、それにもかかわらずまたそれの必要なときもないことがわかる。
 中庸の道とはもちろん現状維持のことではなく、革命にさえそれはあるのだ。
 それは折衷でも妥協でもなく、いちばん思慮と勇気の要る道なのだ。

 とは、今は亡き林達夫の言葉だが、カナダのピリオド楽器オーケストラ、ターフェルムジークをブルーノ・ヴァイルが指揮して録音したハイドンの交響曲ほど、この言葉にぴったりの演奏もないと思う。

 このアルバムには、パリのアマチュア・オーケストラ、コンセール・ド・ラ・ロージュ・オランピックの委嘱で作曲された、いわゆる「パリ・セット」のうち、前半の3曲が収められているが、ヴァイルとターフェルムジークは、祝祭的な第82番、劇性に富んだ第83番、優美な第84番といった各々の作品の性格はもちろんのこと、大編成の管弦楽のために大いに腕をふるったハイドンの音楽的な仕掛けを的確に再現している。
 例えばそれは、「熊」というニックネームのもととなったとされる第82番終楽章のドゥイーンドゥイーンという音型や、「めんどり」というニックネームのもととなったとされる第83番第1楽章の第2主題、第84番終楽章の急緩強弱の変化など、挙げ始めるときりがない。
 そして忘れてならないのは、こうした諸々が、実にさりげなく、一つの作品、一つの音楽の流れを壊すことなく表現されていることだ。
 ニコラウス・アーノンクールや、彼の薫陶を受けたトマス・ファイが指揮したハイドンの交響曲には、そのアクロバティックなまでのめまぐるしい表情の変化を愉しむ反面、ときとしてわずらわしさを感じることがある。
 その点、ヴァイルの快活なテンポを保った楽曲解釈は、何度聴いても聴き飽きることがない。
 ターフェルムジークの明晰でまとまりのよいアンサンブルも、そうしたヴァイルの音楽づくりによく合っていると思う。
 録音も実にクリアで、聴き心地がよい。
 古典派好きには大いにお薦めしたい一枚だ。

 返す返す残念なのは、ヴァイルとターフェルムジークによるハイドンの交響曲の録音が、中途で頓挫してしまったことである。
 30番台〜第92番まで(つまるところ、ザロモン・セット以前)の交響曲、それが贅沢なら、少なくとも70番台、80番台と第91番、第92番「オックスフォード」はなんとか録音しておいて欲しかった。
(なお、ヴァイルは、ライヴ録音によるカペラ・コロニエンスシスとのザロモン・セットをリリースしているが、オーケストラの特性もあってか、ターフェルムジークとの録音ほどには魅力を感じない)
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2015年07月29日

ヴィルムスの交響曲第6番&第7番

☆ヴィルムス:交響曲第6番&第7番

 管弦楽:コンチェルト・ケルン
(2003年2月14日〜17日/デジタル・セッション録音)
<ARCHIV>474 508-2


 オランダの作曲家、ヨハン・ヴィルヘルム・ヴィルムスは、1772年に生まれ1847年に亡くなっているから、ちょうどベートーヴェンと同時期に活躍したということになる。
 実際、このアルバムに収められたいずれも短調の第6番ニ短調と第7番ハ短調の二つの交響曲を聴けば、古典派から初期ロマン派の端境というか、ヴィルムスが置かれた音楽史的な位置がよくわかるのではないか。
 ともに4楽章で、劇性と緊張感に富んだ第1楽章、メロディカルで叙情的な緩徐楽章、といった作品の構成もすぐにベートーヴェンを想起させる。
 管楽器のソロなど作曲的工夫が随所に聴き受けられる上に、表面的には粗い感触ながらも、その実技術的には的確で精度の高いアンサンブルを造り上げているヴェルナー・エールハルト率いるコンチェルト・ケルンの演奏も加わって、なかなかの聴きものになっている。
 ただ、ところどころもって回った感じというのか、ベートーヴェンのようにある種の破綻や逸脱も含めて全てがきっちり決まりきらないもどかしさ、もっささを覚えたことも事実だ。
 そのもどかしさ、もっささをどうとらえるかで、若干好みがわかれてくると思う。
 ケルンのドイツ放送ゼンデザールでの録音は、非常にクリア。
 コンチェルト・ケルンの演奏のスタイルにもよく沿っている。
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2015年06月18日

ワルター・ウェラーの死を悼む

☆ワルター・ウェラーの死を悼む


 ここのところ朝日新聞夕刊の「人生の贈りもの わたしの半生」で、まもなくウィーン・フィルのコンサートマスターを退くライナー・キュッヒルが興味深いエピソードを語っているが、そのウィーン・フィルのコンサートマスターから指揮者に転じた、ワルター・ウェラーが亡くなった。76歳。
 1939年にウィーンに生まれ、キュッヒルの師匠でもあるフランツ・サモヒルにヴァイオリンを学び、カール・ベームやホルスト・シュタインに指揮を学んだ。
 幼少の頃から優れたヴァイオリニストとして注目され、10代後半でウィーン・フィルに入団し、ウィーン・フィルのメンバーとともにウェラー弦楽4重奏団を結成した。
 その後、ウィーン・フィルの第1コンサートマスターに就任し、室内楽演奏ともどもさらなる活躍を嘱望されたが、1960年代末に指揮活動を開始する。
 以降、ウィーン国立歌劇場やウィーン・フォルクスオーパーの指揮台に立ったほか、デュイスブルク市、ウィーン・トーンキュンストラー管弦楽団、ロイヤル・リヴァプール・フィル、ロイヤル・フィル、ロイヤル・スコティッシュ・ナショナル管弦楽団、バーゼル市歌劇場とバーゼル交響楽団、ベルギー国立管弦楽団の音楽監督や首席指揮者を歴任した。
 また、1970年代に、ロヴロ・フォン・マタチッチの代理としてNHK交響楽団の定期公演に登場するなど、何度か来日している。
 ウィーン・フィルやウェラー弦楽4重奏団時代からなじみの深いDECCAレーベルに、ロンドン交響楽団とロンドン・フィルを振り分けたプロコフィエフの交響曲全集、スイス・ロマンド管弦楽団とロンドン・フィルを振り分けたラフマニノフの交響曲全集、CHANDOSレーベルに、バーミンガム・シティ交響楽団とのベートーヴェンの交響曲全集(バリー・クーパー補作による第10番第1楽章も含む)、フィルハーモニア管弦楽団とのメンデルスゾーンの交響曲全集等、数々の録音を遺しており、単純な手堅さ丁寧さに留まらない、例えばプロコフィエフの第2番のようなシャープでクリアな演奏も少なくないのだけれど、それでもなお、正直彼の本領はウェラー弦楽4重奏団においてこそ十二分に発揮されていたような気がしてならない。

 ウェラーを悼んで、ウェラー弦楽4重奏団が演奏した『モーツァルトのカルテット・パーティ』<DECCA/タワーレコード>を聴く。
 ハイドンが第1ヴァイオリン、ディッタースドルフが第2ヴァイオリン、モーツァルトがヴィオラ、ヴァンハルがチェロを務めた弦楽4重奏のコンサートを再現したアルバムで、モーツァルトの第3番、ハイドンの第3番、ディッタースドルフの第5番、ヴァンハルのヘ長調の4曲が収められている。
 ウィーン風の艶やかな音色を保ちつつも、粘らない流麗で快活な音楽運びと、均整のよくとれた演奏だ。
 作品のつくりもあって、ウェラーの第1ヴァイオリンも魅力的である。

 深く、深く、深く、深く黙祷。
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2015年06月10日

パーヴォ・ヤルヴィのベートーヴェン(交響曲第5番&第1番)

☆ベートーヴェン:交響曲第5番&第1番

 指揮:パーヴォ・ヤルヴィ
管弦楽:ドイツ・カンマーフィル
 録音:2006年8月27〜29日(第5番)、8月31日、9月1日(第1番)
    ベルリン・フンクハウス
    デジタル/セッション
<RCA>88875087872


 SACDとして発売され、すでに世評の高いパーヴォ・ヤルヴィと手兵ドイツ・カンマーフィルによるベートーヴェンの交響曲全集のうち、第5番と第1番をCDとして再リリースしたものだ。
 いわゆるピリオド奏法を援用しつつ、モダン楽器の機能性の高さ、アンサンブルの均整さも活かした、スピーディーで歯切れのよい明晰な演奏で、とても聴き心地がよい。
 このCDでは、有名な第5番と第1番の2曲がカップリングされているが、標題性や精神性の強調よりも作品の構造を綿密に腑分けして再現することに重点を置くパーヴォ・ヤルヴィの解釈によって、前者が後者と地続きの交響曲であることを改めて実感することができた。
 暑苦しくて重ったるいベートーヴェンは苦手、という方にこそ大いにお薦めしたい一枚である。
 録音も、非常にクリア。
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山田一雄と大阪センチュリー交響楽団が演奏したベートーヴェンの交響曲第3番

☆ベートーヴェン:交響曲第3番「英雄」他

 指揮:山田一雄
管弦楽:大阪センチュリー交響楽団
 録音:1991年3月15日、ザ・シンフォニーホール
    デジタル/ライヴ録音
<ライヴノーツ>WWCC-7782


 以前記したことだが、僕は朝比奈隆の演奏に5回しか接することがなかったことを全く残念には思っていない。
 ブルックナーの交響曲第4番「ロマンティック」、第5番、第8番、ブラームスの交響曲第4番、リヒャルト・シュトラウスのアルプス交響曲(いずれも大阪フィルの定期演奏会)と、朝比奈さんが指揮するドイツ音楽は悠然確固としたもので、確かに立派だなあとは思いつつも、正直強く心を揺り動かされることはなかった。
 僕がどうにも残念でならないのは、ヤマカズさんこと山田一雄の実演に僅か4回しか接することができなかったことだ。
 笛吹くから踊ってくれよ、とばかり激しく動き狂うあの指揮姿を僕は未だに忘れられない。

 今年3月にライヴノーツ・レーベルからリリースされたこのアルバムは、亡くなる5ヶ月ほど前(8月13日に逝去)に山田一雄が指揮した大阪センチュリー交響楽団の第4回定期演奏会のライヴ録音をCD化したものである。
 ライヴということで、細かい傷はありつつも、大ベテランのヤマカズさんの指揮の下、センチュリー響の面々が真摯で密度の濃い演奏を繰り広げている。
 と、こう記すと、エネルギー全開の大熱演大爆演を期待する向きもあるかもしれないが、あいにくこのCDの魅力はそれではない。
 以前取り上げた、日本フィルとの同じ曲<タワーレコード>とも通じるが、例えば第2楽章の葬送行進曲など要所急所も含め、まとまりのあるアンサンブルによって見通しがよく均整のとれた音楽を生み出そうとしている点が、このCDの魅力であると思う。
 それには、室内オーケストラ=小編成という大阪センチュリー交響楽団の特性も大きく関係しているだろう。

 などと、それらしいことを記しているが、実はこの演奏を僕は生で聴いている。
 ならば、前々回のセルジュ・チェリビダッケ指揮ミュンヘン・フィルのCDレビューで記したように、いやそれ以上に、こうやってCDで繰り返して聴くことに違和感を覚える…。
 かといえば、それがそうではない。
 こうやってCDで繰り返して聴くことによって、あのときふんわりぼんやりとしか受け止めきれていなかったものが、とても鮮明に「見える」ような気がして、僕には仕方がないのである。

 そうそう、このCDにはアンコールのモーツァルトの歌劇『クレタの王イドメネオ』のバレエ音楽からガヴォット(ヤマカズさんがアンコールとして好んで取り上げていた)も収録されているのだけれど、僕はこの曲が演奏されたことをずっと忘れてしまっていた。
 芯がしっかりと通って粘らない演奏で、耳なじみがよい。

 それにしても、山田一雄には少なくともあと数年長生きしてもらいたかった。
 だいたい、このコンサートでのヤマカズさんの姿を目にして、まだまだ大丈夫だなと思い、同じ月の京都市交響楽団の定期(29日、京都会館。第332回。オール・モーツァルト・プログラム。遭難死したウィーン・フィルのコンマス、ゲルハルト・ヘッツェルが登場)をパスしたのだし、9月の京都市交響楽団の定期(20日、京都会館。第337回)ではベートーヴェンの運命が聴けるものだと信じ切っていたのだ。
 悔やんでも悔やみきれない。
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クナッパーツブッシュとウィーン・フィルのブラームス

☆ブラームス:管弦楽曲集

 指揮:ハンス・クナッパーツブッシュ
 独唱:ルクレティア・ウェスト(アルト)
 合唱:ウィーン・アカデミー男声合唱団
管弦楽:ウィーン・フィル
 録音:1957年6月10日〜15日、ウィーン・ソフィエンザール
    アナログ・ステレオ/セッション
<タワーレコード/DECCA>PROC-1667


 ユニバーサルの協力でタワーレコードが進めている独自企画、ヴィンテージ・コレクション・プラスのうち、ハンス・クナッパーツブッシュの没後50年を記念した特別シリーズ中の一枚。
 国内外問わずこれまでばらばらにリリースされてきた、大学祝典序曲、ハイドンの主題による変奏曲、アルト・ラプソディ、悲劇的序曲をLPそのままのカップリング、さらにはLPそのままのジャケット・デザインで、ブラームスの管弦楽曲集として発売した点がまずもって貴重だろう。
 それだけでも、ありがたい。

 で、演奏のほうはというと、LPのA面にあたる大学祝典序曲とハイドンの主題による変奏曲では、良い意味でのオールドファッショというか、クナッパーツブッシュとウィーン・フィルらしい大づかみで大どかな演奏が繰り広げられている。
 当然粗さやブラームス特有のぎくしゃくした感じを強く感じたりもするが、弦楽器の艶やかさや管楽器のひなびた音色、それより何より呵々大笑とした雰囲気はやはり捨て難い。
(なお、大学祝典序曲の5分13秒あたりからのホルンの強奏、その後の5分20秒あたたりのピチカートによるおなじみのメロディの強調は、クナッパーツブッシュの解釈に加えて、DECCAレーベル特有の録音の効果もあるのではないか?)
 一方、B面にあたるアルト・ラプソディと悲劇的序曲では、ブラームスのシリアスな側面が、ゆったりとしたテンポの重心の低い演奏によってよくとらえられている。
 アメリカ出身のウェストは、折り目正しい歌唱だ。

 60年近く前の録音ということで、どうしても音の古さを感じてしまうものの、クナッパーツブッシュとウィーン・フィルの美質を識るという意味では問題あるまい。
 オーケストラ音楽好きには大いにお薦めしたい。

 それにしても、どうしてジョージ・セルのシリーズではクナッパーツブッシュのシリーズと同じことができなかったのだろうか。
 何も足さない何もひかない。
 タワーレコードの企画担当者には、もっともっと「オリジナル」にこだわってもらいたい。
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2015年06月06日

セルジュ・チェリビダッケが指揮したブルックナーの交響曲第7番

☆セルジュ・チェリビダッケが指揮したブルックナーの交響曲第7番

 指揮:セルジュ・チェリビダッケ
管弦楽:ミュンヘン・フィル
(1990年10月18日、サントリーホール大ホール/デジタル・ライヴ録音)
<SONY国内盤>SICC1844


 1990年といえば、ちょうど25年前。
 大学に入って3年目となることの年は、よくオーケストラのコンサートに足を運んだ。
 久しぶりに古いノートを取り出して確認したら、1月の関西フィルの定期にはじまって12月末の京都市交響楽団の第九定期に到るまで、しめて31回にものぼる。
 まあ、いわゆるコンサート・ゴア(キチ)の方に比べたら物の数にも入らないだろうけれど、ほかになんやかんやと趣味嗜好の多い人間にしてみれば、月に2回強は、やはりけっこうな回数ということになる。
 中でも強く記憶に残っているのは、ただし、音そのものではなくてムードであり、アトモスフェアに過ぎないのでがあるが、ゲオルク・ショルティ指揮シカゴ交響楽団(4月18日、ザ・シンフォニーホール)とセルジュ・チェリビダッケ指揮ミュンヘン・フィル(10月4日、フェスティバルホール)が演奏した、ブルックナーの交響曲第8番である。
 と、言って、両者が自分にとってとびきり感動的な心を強く動かす演奏だったというわけではない。
 前者はザ・シンフォニーホールという残響の高さが売り物のホールであるにもかかわらず、本拠地のデッドなホール対応の身も世も裂けよとばかりのブラス爆奏の鳴らせたい放題な音楽的マチズモにうんざりしたし、後者は後者で、その歩みの遅さには、何かとんでもないものを聴かされているという不思議な感情を抱かされた。
(第2楽章なんて、周囲は気持ちよく寝入っていたっけ…)

 今回取り上げるCDは、その1990年の来日時にチェリビダッケとミュンヘン・フィルが演奏したブルックナーのCD。
 ただし、こちらは第8番ではなく第7番のほう。
 これまで映像として販売されていたし、海外ではCD化もされていたが、国内でのCDリリースはこれが初めてになる。
 全曲75分以上、非常にゆったりとしたテンポの演奏だが、第1、第2楽章など旋律美が身上の作品ということもあって、心理的な遅さを感じることはあまりない。
 第3楽章に、ちょっとおやとなったぐらいか。
 それには、第1楽章のラストや第2楽章等々、音楽としての頂点がしっかりと設けられていることも大きいだろう。
(チェリビダッケのティーッという雄叫びが何度も聴こえる)
 録音も鮮明で、ブルックナーの音楽にじっくりと浸りたい方々には大いにお薦めしたい一枚だ。

 と、いうのは公式見解で、このライヴ録音を何度も何度も繰り返して耳にすることに、実は曰く言い難い割り切れなさを感じてもいる。
 本来自分にとって不可思議で不可解なものであるかもしれないものを、こうやって再生して何度も聴くことで単純な言葉に落とし込んでしまういかがわしさというか。
 しかも1枚が僅か1000円。
 その点でもいろいろと想うことがある。

 なお、同じ廉価シリーズで10月20日に収録された交響曲第8番も発売されているが、こちらはあえて耳にすることはないと思う。
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2015年05月04日

チャールズ・マッケラスが指揮した未完成交響曲の完成版

☆マッケラスが指揮した未完成交響曲の完成版

 指揮:チャールズ・マッケラス
管弦楽:エイジ・オブ・エンライトゥンメント管弦楽団
(1990年11月、ロンドン・アビーロードスタジオ1/デジタル・セッション録音)


 亡くなってからほどなくして刊行された井上ひさしの一連の未完成作品を読んで、どうしてもそこから先が読みたいと思った方も少なくないのではないか。
 そして、そうした想いが高じて、そこから先を書き繋ぎ、なんとか完成した作品に仕立て上げようと挑んでみる人間が出てきても、全く不思議ではない。
 水村美苗の『続明暗』など、そうした挑戦の成果の最たるものの一つだし、それより何より、シューベルトの未完の作品を再構築してみせたルチアーノ・ベリオの『レンダリング』がある。
 ただ、これらは各々の原作を十分十二分に読み込みつつも、結局自分は漱石でもなければシューベルトでもない、水村美苗でありルチアーノ・ベリオであるという断念と自覚自負によって為された創作であることも忘れてはなるまい。
 だから、学術的意匠を纏って為された同様の作業には、その作業への真摯さは疑わないものの、謙虚な姿勢とコインの裏表にあるだろうある種の傲慢さ、臆面のなさを感じないでもない。
 いや、それが言い過ぎとしても、机上の作業というか、原作者はもちろん、上記の水村美苗やルチアーノ・ベリオの作業から感じ取れる表現意欲や生々しさには乏しい。
 てか、ぶっちゃけ面白くないのだ。
 例えば、CDで聴いたホルストの組曲『惑星』の「天王星」だっけ、あれもたいがいだったし、フィリップ・ヘレヴェッヘ指揮ロイヤル・フランダース・フィルの来日コンサートにおけるブルックナーの交響曲第9番の完成版も、なんでこんな初期の序曲かなんかみたいな音楽聴かされなあかんねんと呆れる代物だった。

 で、このCDに収められたブライアン・ニューボールトによるシューベルトの未完成交響曲の完成版はどうかというと、シューベルトが遺した冒頭部分を駆使した第3楽章にせよ、『キプロスの女王ロザムンデ』の間奏曲第1番を転用した第4楽章にせよ、その努力は充分に認めて、箸にも棒にもかからないとまでは言わないのだけれど、やっぱり無理して完成させる必要はないやんか、というのが正直な感想だ。
 ロマンティシズムの噴出とでも呼びたくなるような第2楽章までの透徹した作品世界が、一挙に地上に引きずり降ろされたというか。
 マッケラスとエイジ・オブ・エンライトゥンメント管弦楽団が丁寧な演奏を心掛ければ心掛けるほど、第4楽章など前半の2楽章を受けるにはあまりにも「シアトリカル」に過ぎる等、その落差を感じずにはいられなかった。

 カップリングの交響曲第5番や『ロザムンデ』のバレエ音楽第2番(オーケストラのアンコール・ピースとして有名)は、遅すぎず速すぎずのテンポに勘所をよく掴んだマッケラスの音楽づくりの手堅さと、オーケストラの安定した精度が相まって、なかなかの聴きものである。
 マッケラスとエイジ・オブ・エンライトゥンメント管弦楽団には、『ロザムンデ』の全曲、もしくは抜粋版を録音しておいて欲しかった。
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クナッパーツブッシュの『ポピュラー・コンサート』

☆クナッパーツブッシュの『ポピュラー・コンサート』

 指揮:ハンス・クナッパーツブッシュ
管弦楽:ウィーン・フィル
(1960年2月、ウィーン/アナログ・ステレオ・セッション録音)
<タワーレコード/DECCA>PROC-1668

 【収録曲】チャイコフスキー:バレエ音楽『くるみ割り人形』組曲/シューベルト(ヴェニンガー編曲):軍隊行進曲第1番/ウェーバー(ベルリオーズ編曲):舞踏への勧誘/ニコライ:歌劇『ウィンザーの陽気な女房たち』序曲


 ハンス・クナッパーツブッシュがウィーン・フィルを指揮した『ポピュラー・コンサート』といえば、音楽評論家の宇野功芳による熱心な支持もあって、LP時代から親しまれ続けてきたアルバムだ。
 その『ポピュラー・コンサート』が、タワーレコードの独自企画からオリジナルの形(カップリングに加えて、ブックレットのデザインも)で再発されるというので、迷わず購入した。
 と、こう記すと、大のクナ党のように勘違いする向きもあるかもしれないが、実はクナッパーツブッシュのCDを買うのは、なんとこれが初めてである。
 まあ、LP時代には、ウィーン・フィルとのブルックナーの交響曲第7番やミュンヘン・フィルとのベートーヴェンのエロイカ・シンフォニーなど、そこそこマニアックな音源を愛聴してはいたのだけれど。
 音楽、読書、演劇、映画、落語等々、狭きところより出でて広きを愉しむのが、僕の性分なのだ。

 で、これまでにもあれこれと語られてきたアルバムだけに、もはや何を今さらの感もあるのだが、一言で評するならば回顧の念に満ちた演奏、ということになるか。
 むろんそこはクナッパーツブッシュの性質もあって、べったりべとべととウェットに粘りつくことはない。
 ただ、全体を通して、物質的にも精神的にも、今そこにあるものではなく、かつてそこにあったものを描きとった演奏であるように強く感じられることも事実だ。
 いずれにしても、遅めのテンポの音楽づくりに、独特の節回しというか、間の取り方も加わって、曰く言い難い、おかかなしい情感が生み出されている。
 中でも、軍隊行進曲の中間部(2分18秒頃〜)の歌いぶりや、舞踏への勧誘の冒頭部分の静謐さには、ぐっと惹き込まれる。
 また、ゆったりと進む『くるみ割り人形』の葦笛の踊りや花のワルツ、靄が徐々に晴れていくかのような『ウィンザーの陽気な女房たち』序曲の出だしも強く印象に残る。
 加えて、弦楽器管楽器はもちろんのこと、『くるみ割り人形』の打楽器にいたるまで、ウィーン・フィルの美質がよく発揮されていることも忘れてはなるまい。
 ハイビット・ハイサンプリングの効果だろう、音質もだいぶんクリアになっている。

 何度聴いても聴き飽きない、クラシック音楽好きには大いにお薦めしたい一枚である。
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2015年04月16日

ノーベル賞授賞式典の音楽

☆ノーベル賞授賞式典の音楽

 指揮:アンドルー・デイヴィス
管弦楽:ロイヤル・ストックホルム・フィル
(1996年6月/デジタル・セッション録音)
<FINLANDIA>0630-14913-2


 題して、「ノーベル賞授賞式典の音楽」。
 スウェーデンのストックホルムで開催されるノーベル賞の授賞式典で演奏されてきた音楽を、式典のホストオーケストラであるロイヤル・ストックホルム・フィルが当時のシェフ、アンドルー・デイヴィスの指揮で録音した興味深いアルバムだ。

 アルヴェーンの祝典音楽にベルワルドの『ソリアのエストレッラ』序曲、ルーマンのドロットニングホルム宮廷のための音楽第1番、ローセンベリの『町のオルフェウス』からタンゴとフィナーレというお国ものをはじめ、ドヴォルザークのスラヴ舞曲第9番、グリンカの『ルスランとリュドミラ』序曲、シベリウスのカレリア組曲から行進曲風に、ニールセンの『アラディン』からオリエンタル・マーチといった栄えある式典に相応しい勇壮で劇的な作品とともに、バーバーの弦楽のためのアダージョやグリーグの『ペール・ギュント』第1組曲から朝も収められていて、なかなかバランスのよい構成である。
 時にオーケストラ(弦楽器)の音色の細さや、セッションの加減もあってか粗さを感じる部分もなくはなかったが(特にブラームスの大学祝典序曲。明らかに音が外れている箇所がある)、基本的には機能性に優れた演奏で、アンドルー・デイヴィスも作品の肝、勘所をよく心得た音楽づくりを行っている。
 中でもバーンスタインの『キャンディード』序曲は、この作品の持つうきうきとした雰囲気が巧みに表されている上にブラスの鳴りもよく、予想外の好演に感心した。
(アンドルー・デイヴィス指揮の『キャンディード』序曲といえば、「EMI100周年グラインドボーン・ガラ・コンサート」<EMI>にロンドン・フィルとのライヴ録音が収録されているが、あいにく未聴)

 クリアな録音も含めて、実に聴き心地のよい一枚。
 なお、国内では「これがノーベル賞のオーケストラだ!!」のタイトルで、1996年11月にリリースされていた。
 ニュアンスは異なるものの、これまたアルバムの内容をよく示したタイトルだ。
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2015年04月10日

タワーレコードのVINTAGE COLLECTION +plus特別編〜ジョージ・セルDecca、Philips録音集を厳しく批判する

 昨夜、ジョージ・セル(ハンガリー出身で、ヨーロッパからアメリカに活動の場を移した今は亡き指揮者。特に、アメリカの地方都市オーケストラであったクリーヴランド管弦楽団を世界一流のオーケストラに鍛え上げたことで有名)がDECCAやPHILIPSに遺した録音を、タワーレコードがオリジナル企画としてリリースすることを知り、おおやった! と一瞬大喜びしたのもつかの間、それがすぐに糠喜びとわかり、一転強い失望と激しい怒りに変わった。

 と、言うのも、セルにとって隠れた名盤とでも呼ぶべきロンドン交響楽団とのヘンデルの管弦楽曲集が、王宮の花火の音楽は同じくロンドン交響楽団とのチャイコフスキーの交響曲第4番に、水上の音楽など残りはウィーン・フィルとのベートーヴェンの劇音楽『エグモント』にと、結果ぶつ切りにされてカップリングされることが判明したからである。

 もちろん、これが元よりこだわりのない、ただただ長時間曲を詰め込みましたという寄せ集めの継ぎ接ぎ廉価アルバムであるならば文句はない。
 そんないかもの、はなから目も向けぬだけだ。

 だが、今回のリリースが厄介なのは、ブックレット写真はLPのオリジナルのものを使用する等、中途半端にこだわったものだからである。
 ならば、何ゆえLPオリジナルのカップリングにまでこだわらないのか。
 そもそも、ただ単にその録音音源を耳にしたいというのであれば、今時CDなど買わない。
 ネット配信なりyoutubeなりで事足りる。
 もしくは、ひとまとめになった輸入盤の廉価ボックスセットを買う。
 あえて一枚物のこうしたアルバムを買おうとする人間は、LPのコレクターにまではならないものの、「全体の構成に腐心しながら」「宝石をつらねてひとつの首飾りをつくるよう」な先達たちの様々な配慮が行き届いたオリジナルのカップリングに敬意を抱きはする、マニア的な性質を持った人間であろう。
 だから、一枚のアルバムの収録時間が40分だって45分だって、買うものは買う。
 そうした人間が、何を好き好んでオリジナルLPの「バラバラ殺人」(以上、「」内は、俵孝太郎の『新・気軽にCDを楽しもう』<コスモの本>より引用。そういえば、俵さんはタワーレコードと関わりが深いんだった)に加担せねばならぬのか。

 だいたい、セルとロンドン交響楽団によるあの王宮の花火の音楽をチャイコフスキーの交響曲第4番の前後に置くという今回の企画者の意図や神経がよくわからない。
 いや、これが今回のセルのシリーズに限らず、どの企画においても、オリジナルのカップリングなんて知ったことか、俺様は全能者、あれを足してあれを引く、カップリングは俺様の想いのまま、と傍若無人なカップリングに終始するのであれば、残念だけど「機智害じゃから仕方ない」と諦めもつく。
 ところが、同じタワーレコードのオリジナル企画でも、ハンス・クナッパーツブッシュとウィーン・フィルが遺した『ウィーンの休日』、『ポピュラー・コンサート』、ブラームスの管弦楽曲集は、なんとLPのオリジナルのカップリングのままで発売されている。
 この統一性のなさはいったいなんなのだろう。
 クナッパーツブッシュは売れるが、セルではあまり売れまいと考えたのか。
 それとも、企画の予算が少なかったのか。
 それでは、どうして今回チャイコフスキーのリリースは次の機会に延期し、かつて国内で1000円盤としても発売されたヘンデルをリリースするという発想に至らなかったのか。
 いずれにしても、演奏や録音そのものに対する愛着や執着、細やかさ、徹底的なこだわりの欠落を僕は強く感じてしまった。

 むろん、嫌なら買うな、お買い上げになるお客さんは山といる、という売り手の発想も正論である。
 こちらだって、そんな中途半端なCDは買えないし、買いたくはない。

 ただ、海外(輸入版)のDECCAレーベルが、「オリジナル」と称してカップリングがLPオリジナル通りではないばかりか、LPのオリジナルのジャケット写真を斜めにして使用するような無茶苦茶な状況の中、今回このような中途半端な形でのリリースが為されることで、セルの遺した音源のLP同様のカップリングとジャケット写真を使用したまさしく「オリジナル」な形でのCDリリースが今後しばらく望めなくなったことは、やはり指摘しておかなければなるまい。
 全くもって、中途半端な愛着や執着、こだわりほど有難迷惑で罪深いこともあるまい。
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2015年02月09日

フィルハーモニック・アンサンブル・ウィーン

☆フィルハーモニック・アンサンブル・ウィーン

 演奏:フィルハーモニック・アンサンブル・ウィーン

 録音:2013年12月16日&17日(デジタル)
 会場:ライディング フランツ・リスト・センター(セッション)
<ドイツ・グラモフォン>481 14726


 また出たと坊主びっくり貂の皮
 とは、剛腕寺社奉行脇坂安薫の再登板に驚愕する生臭坊主たちの姿を揶揄した江戸時代の狂歌だが、新春の日本洋楽界に跳梁跋扈する風潮については、
 また来たと客もびっくりウィーンかな
とでも、ついつい読み変えたくなる。
 ウィーンなんたろオーケストラ、うんたろアンサンブル・ウィーン…。
 はて、ウィーンにそんな常設の団体ってあったかしら、と首を傾げたくなる管弦楽団、室内アンサンブルの類いが来るわ来るわ。
 おなじみワルツやオペレッタを流す鳴らす。

 そうした中、フィルハーモニック・アンサンブル・ウィーンなんて名前を目にすれば、いやはやまたかと眉に唾をつけたくなるのだけれど、こちらはウィーン・フィルの弦楽器奏者3人とウィーンを中心に活躍するピアニスト、ゴットリーブ・ヴァリッシュ(僅か6歳でウィーン国立音大に入学したとか。Linnレーベルからハイドンとモーツァルトのソナタ、NAXOSレーベルからシューベルトのソナタがリリースされている)によるれっきとしたピアノ4重奏団のようで、現に今年のニューイヤーコンサートの休憩時間にその演奏が放映されたらしい。

 で、彼らのデビュー盤となるその名も『フィルハーモニック・アンサンブル・ウィーン』を聴いてみたが、これは想像以上に聴き応えのあるアルバムとなっていた。
 まず、モーツァルトのピアノ4重奏曲第1番ト短調とフックスのピアノ4重奏曲第2番ロ短調作品番号75では、バランスがとれてインティメートな感覚にあふれる、このアンサンブルの基礎的な力がよく示されている。
 特に、目ならぬ耳新しさは感じられないものの、翳りと憂いをおびて美しい旋律に満ちたフックスの音楽は実に魅力的だ。
 また、おなじみヨハンは避けて、リヒャルトの『ばらの騎士』のワルツ(ミヒャエル・ロートの編曲によるワルツ・パラフレーズ)でワルツの歌いぶりの巧さを披歴するあたりもしゃれている。
 同じリヒャルト・シュトラウスの単一緩徐楽章のピアノ4重奏曲「恋の歌」(これもワルツ)や、ブラームスのピアノ4重奏曲第1番第4楽章の哀切さ漂うメロディにそれこそ「首の差で」ちょと違うガルデルの『ポル・ウナ・カベーサ(首の差で)』、ドビュッシーの『美しき夕暮れ』というアンコールも嬉しい。
 よく歌いよく鳴らしつつも過度にべたつくことのない弦楽器に伍して、ヴァリッシュも退き過ぎず出しゃばり過ぎないピアノで応えていた。
 モーツァルトの第3楽章(トラック3)の1分22秒あたりで有名なロンドニ長調風の音型が出てくるところなど、なかなか面白い。

 上質なサロン音楽とでも呼ぶべき一枚で、ウィーンの看板に辟易している方々にもぜひお薦めしたい。
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2015年01月14日

ネーメ・ヤルヴィが指揮したウェーバーとヒンデミット

☆ウェーバー:序曲集&ヒンデミット:ウェーバーの主題による交響的変容

 指揮:ネーメ・ヤルヴィ
管弦楽:フィルハーモニア管弦楽団
(1989年4月28日〜30日、ロンドン・聖ジュード教会/デジタル・セッション録音)
<CHANDOS>CHAN8766


 知名度のアップという派生的効果も含めて、CDという媒体を巧みに利用した指揮者は誰かと問われれば、僕は躊躇なくネーメ・ヤルヴィの名を挙げる。
 もちろん、ネーメ・ヤルヴィの実演達者ぶりなら、今から20年前のヨーロッパ滞在中にケルンWDR交響楽団との定期公演(1994年2月25日、ケルン・フィルハーモニー)で直接触れているので、彼が単なる内弁慶、ならぬスタジオ弁慶でないことは充分承知している。
 けれど、当時の手兵エーテボリ交響楽団やスコティッシュ・ナショナル管弦楽団を指揮して、CHANDOS・BISの両レーベルに録音した数々のCDが彼のキャリアを強固なものへと導いたこと、そして功なり名を遂げた今もコンスタントにCDをリリースし続けていることも、また確かな事実だろう。
 ヒンデミットの『ウェーバーの主題による交響的変容』と、その第2楽章「トゥーランドット・スケルツォ」の元ネタであるウェーバーの劇音楽『トゥーランドット』から序曲と行進曲、さらには『オイリアンテ』、『魔弾の射手』、『オベロン』、『幽界の支配者』の序曲4曲を加えた一粒で何度も美味しいこのアルバムは、そうしたネーメ・ヤルヴィの幅広い録音活動を象徴した一枚だ。

 おどろおどろと物々しく始まって、特撮映画や大河ドラマ『炎立つ』のテーマ音楽のような安っぽい勝利に到るかのような『ウェーバーの主題による交響的変容』(1943年)は、ヒンデミットという作曲家の底意地の悪さとともに、ヨーロッパを跳梁跋扈していたナチス・ドイツに対するからかいと抵抗を示す作品だけれど、ネーメ・ヤルヴィはそうした含意に拘泥することなく、ストレートでエネルギッシュな演奏を生み出している。
 だからこそ、かえって、第1楽章や終楽章のグロテスクさ空虚さが際立って聴こえてきたりもするし、中国だけではなく、日本のなんとか節も彷彿とさせるような『トゥーランドット』の行進曲のいっちゃった感もよく表われているのではないか。
 序曲のほうも、裏表のない明瞭で快活な音楽づくりで聴きなじみがよい。
 フィルハーモニア管弦楽団は、ソロ・アンサンブル、なべて万全の仕上がりで、ネーメ・ヤルヴィの解釈によく応えている。

 ヒンデミットの『ウェーバーの主題による交響的変容』と、ウェーバーの有名な序曲を手軽に愉しみたいという方にはお薦めしたい。
 なお、ヒンデミットを省いて、『ペーター・シュモル』、『シルヴァーナ』、『アブ・ハッサン』、『歓呼』、『プレチオーサ』の序曲を加えたアルバムが別途リリース(CHAN9066。廃盤)されている。
 ご興味ご関心がおありの方は、こちらもぜひ。
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2014年12月22日

ラルキブデッリが演奏したシューベルトの弦楽4重奏曲&3重奏曲集

☆シューベルト:弦楽4重奏曲第10番、弦楽3重奏曲第1番&第2番

 演奏:ラルキブデッリ
(1993年6月/デジタル・セッション録音)
<SONY>SK53982


 チェロのアンナー・ビルスマを中心としたピリオド楽器のアンサンブル、ラルキブデッリが演奏したシューベルトの室内楽作品集。

 インティメートな雰囲気に満ちた細やかな演奏で、作品の歌唱性や抒情性がよく再現されているとともに、その隙間からシューベルトの音楽の持つ深淵というのか、孤独さ、痛切さがこぼれ出てもいる。
 すでに20年以上前の録音だが、音質的に全く問題はない。

 シューベルトの音楽を愛する人に大いにお薦めしたい一枚だ。
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ホグウッドとAAMが演奏したテレマンの2重、3重協奏曲集

☆テレマン:2重、3重協奏曲集

 指揮:クリストファー・ホグウッド
管弦楽:アカデミー・オブ・エンシェント・ミュージック
(1981年7月/デジタル・セッション録音)
<オワゾリール>411 949-2


 先ごろ亡くなったクリストファー・ホグウッドが、手兵アカデミー・オブ・エンシェント・ミュージック(AAM)と録音した、テレマンの作品集だ。

 昨今のメリハリがよく効いて強弱のふり幅が激しい、バロックアクロバティックな演奏と比べると、いくぶんおとなしめというか、穏やかな感じがしないでもないけれど、テレマンという作曲家の音楽づくりの巧さ、職人性がよく再現されていることも確かだろう。
 ソリストたちも、音楽を愉しむという意味でまず問題はない。
 今から35年近く前のデジタル初期の録音だが、音質の古さをあまり感じない。

 オーソドックスなバロック音楽の演奏になじんだ方に、ピリオド楽器演奏の入門篇としてお薦めしたい一枚である。
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ミハイル・プレトニョフが指揮したロシア序曲集

☆ロシア序曲集

 指揮:ミハイル・プレトニョフ
管弦楽:ロシア・ナショナル管弦楽団
(1993年11月/デジタル・セッション録音)
<ドイツ・グラモフォン>439 892-2


 ピアニストから指揮者へと活動の幅を広げたミハイル・プレトニョフが、新たに創設したロシア・ナショナル管弦楽団とともに録音した、ロシア(旧ソ連)の序曲集である。

 指揮を始めて間もない頃のプレトニョフのバトン・テクニックや、まだ出来立ての頃のオーケストラということもあってか、ソロの技量に比して全体的に前のめりがちな、とっちらかった感じは否めないものの、とても有名なグリンカの『ルスランとリュドミラ』序曲や、そこそこ有名なボロディンの『イーゴリ公』序曲、ショスタコーヴィチの祝典序曲、カバレフスキーの『コラ・ブルニョン』序曲、ムソルグスキーの『ホヴァンシチーナ』前奏曲に加え、プロコフィエフの『セミョーン・コトコ』序曲、リムスキー=コルサコフの『皇帝の花嫁』序曲、チャイコフスキーの序曲ヘ長調、グラズノフの祝典序曲という非常にマニアックな作品が収められているのは、やはりこのアルバムの大きな魅力だと思う。

 ロシア物・旧ソ連物がお好きな方には、ぜひともご一聴をお薦めしたい。
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2014年12月19日

クルレンツィスの『コジ・ファン・トゥッテ』

☆モーツァルト:歌劇『コジ・ファン・トゥッテ』

 指揮:テオドール・クルレンツィス
管弦楽:ムジカ・エテルナ
(2013年1月/デジタル・セッション録音)
<SONY/BMG>88765466162 3枚組


 ばたばたしていて感想を記すのが相当遅くなってしまったけれど、テオドール・クルレンツィスと手兵ムジカ・エテルナが進めている、モーツァルトのダ・ポンテ三部作録音の第二弾となる『コジ・ファン・トゥッテ』は、クルレンツィスの楽曲解釈とそれによく応えた管弦楽・合唱、そして粒揃いの歌い手による、まさしく三位一体と呼びたくなるような充実した内容となっていた。
 前作『フィガロの結婚』でも示されていたように、クルレンツィスはメリハリの効いた音楽づくりで活き活きとして停滞しない演奏を生み出している。
 もちろん、「恋」「愛」を通じた人の心のうつろいと激しい感情の動きが肝な『コジ』だけに、単なる鋭角的な処理が行われるのではなく、描かれる場面、対象に合わせた細やかな変化が施されていることも確かだ。
 加えて、クルレンツィスが杓子定規にいわゆるピリオド奏法を援用しているわけではないことも、やはり忘れてはなるまい。
 例えば、第2幕のデスピーナのアリアでの休止の取り方など、のちのベルカント・オペラやヴェルディのオペラやヨハン・シュトラウスのオペレッタへの影響、ばかりでなく、逆にそれらの作品の反映のようにも感じられた。
 声質の好みという点では正直全てがストライクゾーンではないし、テイクの選択に関しても気になる点がないではないものの、ジモーネ・ケルメスのフィオルデリージ以下、歌手陣も、クルレンツィスによく沿った歌唱とアンサンブルを披歴している。
 中でも、デスピーナを歌ったアンナ・カシヤンの芝居達者ぶりが強く印象に残った。
 何度聴いても聴き飽きない、快活で耳なじみのよい演奏・録音な上に、2000円前後でこれが手に入るというのだから、掛け値なしにお薦めだ。
 そして、ギリシャ出身でありながら、どこかドストエフスキー的な雰囲気を醸し出しているクルレンツィスが、『ドン・ジョヴァンニ』で如何なるデモーニッシュな世界を再現してくれるか、とても愉しみである。
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2014年09月14日

アルフレッド・ブレンデルが弾いたシューベルトのピアノ・ソナタ第20番他

☆シューベルト:ピアノ・ソナタ第20番&ハンガリー風のメロディ他

 ピアノ独奏:アルフレッド・ブレンデル
(1987年12月、オーベルプファルツ・ノイマルクト/デジタル・セッション録音)
<PHILIPS>422 229-2


 7年ぶりになるか、先日、昔親しくしていた女友達と会った。
 4歳になるお嬢ちゃんもいっしょで、1時間ほどだが、お互いの近況についてあれこれ話をすることができた。
 時は止まらない、だから君は美しい。
 という言葉を、ふと思いついた。

 帰りがけ、このCDを手に入れた。
 1987年12月の録音だが、それから1年近くが経った1988年10月11日(まだ昭和だ!)、大阪のザ・シンフォニーホールでピアノ・ソナタ第20番をメインにしたブレンデルのピアノ・リサイタルを聴いた。
 たぶんこのCDのリリースと絡ませたプログラミングだったのだろう。
 アンコールは、確かハンガリー風のメロディではなかったか。
 大学に入り立ての僕は、同じ専攻の女性を誘ってこのリサイタルを聴きに行った。
 恋心までは到ってないものの、当然シンパシーを抱いていたはずで、第20番の終楽章のはにかみながら希望を語っているような旋律の心地よさが今も忘れられない。
 結局、彼女とはそこそこの距離感のままに終わってしまったのだけれど、だからこそほどよい記憶が残っているのかもしれない。

 こうやって改めてCDで聴いてみると、ブレンデルの演奏に不満を述べることは容易だ。
 丹念なアナリーゼに裏打ちされた深い読み込みの演奏であることに間違いはないが、それがかえって音楽の激しい心の動きに結び付かないもどかしさを与えていることも否定できまい。
 それに、細部のたどたどしさ。
 訥弁には訥弁のよさがあるとはいえ、シューベルトの音楽の持つ歌唱性の魅力を若干そいでしまっていることも事実だ。
 それでも、同じ旋律を引用したハンガリー風のディヴェルティメントの第3楽章を意識しているのだろうか、早めのテンポをとったハンガリー風のメロディの過度に陥らない叙情性には、強く心を魅かれるが。
 ほかに、16のドイツ舞曲とアレグレットが収められている。

 いずれにしても、やはり時は止まらないからこそ美しいのだと思う。
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2014年08月24日

サイモン・ラトルとバーミンガム・シティ交響楽団のブルックナーの交響曲第7番

☆ブルックナー:交響曲第7番

 指揮:サイモン・ラトル
管弦楽:バーミンガム・シティ交響楽団
(1996年9月/デジタル・セッション録音)
<EMI>CDC5 56425 2


 サイモン・ラトルも、来年1月の誕生日で満60歳か。
 いや、アバドもマゼールも、ブリュッヘンも亡くなったんだから、ラトルが60歳になるのも無理はないことだけど。
 ちょうどクラシック音楽を聴き始めた頃とラトルの初来日が重なって、FMで聴いたその颯爽として若々しい演奏が未だに鮮明に記憶に残っているせいか、時の流れの速さにはやはり唖然としてしまう。

 ラトルの実演に接したのは、まだ2回しかない。
 そのうち、1991年2月12日にザ・シンフォニー・ホールで聴いたバーミンガム・シティ交響楽団の来日公演のほうは、マーラーの交響曲第9番という大曲をまだ巧く掴みきれていなかったこともあって、音の波に流されているうちに演奏が終わり、ああ左利きのヴィオラ奏者がいたなとか、終演後の拍手が早過ぎたんじゃないかとか、些末なことばかりを思い出す。
 1993年9月8日、ケルンのフィルハーモニーで聴いた、これまたバーミンガム・シティ交響楽団とのコンサートのほうは、はっきりと音楽のことも覚えている。
 シャープでクリア、切れ味抜群のバルトークの管弦楽のための協奏曲に始まり、バーミンガム・コンテンポラリー・グループだったかな、小編成のアンサンブルによる精度の高い、シェーンベルクの室内交響曲。
 休憩後のお国物、エルガーのエニグマ変奏曲も、歌わせるべきところはたっぷり歌わせ締めるべきところはきっちり締めるドラマティックでシンフォニックな演奏で、おまけにアンコールのドビュッシーの牧神の午後への前奏曲の清澄な響きと、オーケストラ音楽の愉しさを満喫することができた。
 終演後、感極まった実業家然とした恰幅のよい見知らぬ壮年の男性から、「よかったねえ!」とドイツ語で声をかけられ、「はい!」と応えたほどだった。

 ラトルとバーミンガム・シティ交響楽団にとって後期の共同作業となる、このブルックナーの交響曲第7番は、彼彼女らの特性がよく表われたCDとなっている。
 先達たちの演奏と同様、叙情性に富んだ部分は伸びやかに歌わせつつ、音色自体は透明感にあふれていて、重たるくべたべたと粘りついたりはしない。
 また、第2楽章・トラック2の19分19秒から50秒あたりを作品の頂点に置きながらも、後半の第3、第4楽章でもしっかりメリハリをつけて飽きさせない音楽づくりなど、ラトルの本領がよく発揮されているのではないか。
 バーミンガム・シティ交響楽団も、そうしたラトルの解釈によく沿って、過不足のない演奏を繰り広げている。
 個々の奏者の技量云々より何より、アンサンブルとしてのまとまりのよさ、インティメートな雰囲気が魅力的だ。

 ただ、だからこそ、いつもの如きEMIレーベルのくぐもってじがじがとした感じの鈍くて美しくない音質がどうにも残念だ。
 実演に接したからこそなおのこと、クリアで見通しのよい録音がラトルとバーミンガム・シティ交響楽団の演奏には相応しいように感じられるのに。
 正直、ベルリン・フィルのシェフに就任してなお、EMIレーベルと契約を続けたことは、ラトルにとってあまり芳しいことではなかったように思う。

 いずれにしても、すっきりとして美しいブルックナーの交響曲第7番の演奏をお求めの方には、お薦めしたい一枚である。

 それにしても、ベルリン・フィルを去ったあとのラトルは、一体どのような音楽を聴かせてくれるのだろうか。
 非常に興味深く、愉しみだ。
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ナタリー・デセイが歌ったモーツァルトのオペラ・アリア集「モーツァルト−ヒロインズ」

☆モーツァルト:オペラ・アリア集「モーツァルト−ヒロインズ」

 独唱:ナタリー・デセイ(ソプラノ)
 指揮:ルイ・ラングレー
管弦楽:エイジ・オブ・エンライトゥンメント管弦楽団
(2000年8月、9月/デジタル・セッション録音)
<Virgin>VC5 45447 2


 流れる時間は均一でも、年齢を重ねるごとにその感覚は大きく変わっていくのではないか。
 ナタリー・デセイが歌うモーツァルトのオペラ・アリア集「モーツァルト−ヒロインズ」を耳にしながら、へえ、このCDって14年も前に録音リリースされたものなのか、14年なんてほんとあっという間だなあ、という具合に。
 ただ、感覚はそうであったとしても、やはり時間はしっかり経過しているのであって、実際、このアルバムできれいな高音を聴かせているデセイも、14年のうちに声がどんどん重たくなってオペラで歌う役柄を大きく変えていき、ついには昨年秋オペラからの引退を発表するに到ってしまった。
 まあ、それはそれ。

 有名な『魔笛』の「復習の心は地獄のように」で、コロラトゥーラの技巧をばりばりと披歴して、つかみはOK。
 さらに9曲、いくぶん鼻にかかって気品があり、伸びがあってよく澄んだデセイの美しい歌声が続くのだから、これはもうこたえられない。

 で、フランス出身のコロラトゥーラ・ソプラノといえば、どうしてもパトリシア・プティボンのことを思い起こすのだけれど、あちらが歌劇の「劇」にも大きく踏み込んだ行き方をするのに対し、こちらデセイは歌を中心にした、言い換えれば歌そのもので劇空間を造り込む行き方に徹しているように思う。
 わかりやすい例を挙げれば、プティボンはダニエル・ハーディング指揮コンチェルト・ケルンの伴奏で歌っている<ドイツ・グラモフォン>、『ツァイーデ』の「けだもの!爪をひたすら磨ぎ澄まして」の、最後の「ティーゲル!」という一節。
 プティボンが彼女の魅力でもある地声っぽい声で台詞風に言い放つのに比して、デセイはあくまでも歌として締める。
 両者の違いがよく表われた部分なので、ご興味おありの方は、ぜひとも聴き比べていただきたい。

 それと、デセイの柔軟性に富んだ歌唱を識るという意味では、『後宮からの逃走』の「なんという変化が…深い悲しみに」と「ありとあらゆる苦しみが待ち受けていても」の2つのアリアを忘れてはならないだろう。
 前者での細やかな心の動き悲痛な表情、一転後者での激しさ力強さ。
 デセイという歌い手の表現力の幅の広さが端的に示されている。

 ルイ・ラングレーの指揮は、歌の要所急所をよく押さえているのではないか。
 上述ハーディングのような鋭敏さには欠けるが、デセイの歌にはラングレーの抑制のきいた音楽づくりがぴったりだとも思う。
 エイジ・オブ・エンライトゥンメント管弦楽団も達者だ。

 モーツァルト好き、オペラ好きには大いにお薦めしたい一枚。
 デセイのファンはもちろんのこと。
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2014年08月21日

オビエド・フィルが演奏したサン・サーンスのアルバム

☆サン・サーンス:ヴァイオリン協奏曲第3番&交響曲第3番「オルガン付き」他

 独奏:アレクサンドレ・ダ・コスタ(ヴァイオリン)
 指揮:マルツィオ・コンツィ
管弦楽:オビエド・フィラルモニア
<WARNER>2564628144


 スペインのオーケストラが充実している。
 経済的状況の悪化で知られるスペインだが、スペイン国立管弦楽団やRTVE(スペイン放送)交響楽団、マドリード交響楽団といった首都マドリードのオーケストラばかりでなく、定期演奏会の回数や指揮者の顔触れを見る限り、地方のオーケストラの活動も非常に活発である。

 一例を挙げればガリシア交響楽団。
 CDだと、村治佳織がソロを務めたロドリーゴのアランフェスの協奏曲の伴奏程度しか思い浮かばないが、楽団が公式にアップしているyoutubeの動画を観聴きすれば、その充実ぶりがわかると思う。
 先頃亡くなったロリン・マゼールとのマーラーの交響曲第1番「巨人」やスタニスラフ・スクロヴァチェフスキとのブルックナーの交響曲第4番「ロマンティック」もそうだし、トン・コープマンやリチャード・エガーとのピリオド・スタイル全開の演奏もそうだけど、アンサンブルとしてのまとまりのよさ、インティメートな雰囲気が実に魅力的なのである。
 技術的な高さ、ではなく音楽性の高さを持ったオーケストラだと評したい。

 オビエド市交響楽団を母体に、1999年に新たに設立されたオビエド・フィラルモニアにとってメジャーレーベル・デビューとなる、このサン・サーンスの作品集も、そうしたスペインの地方オーケストラの現状を象徴する一枚になっているのではないか。
 なお、CDの売れ行きを考慮してか、今回のアルバムは、ワーナー・レーベル売り出し中の若手ヴァイオリニスト、アレクサンドレ・ダ・コスタ独奏のヴァイオリン協奏曲第3番と交響曲第3番「オルガン付き」をカップリングの両端に置くという、「両A面」体制がとられている。

 で、まずはヴァイオリン協奏曲だが、モントリオール出身のダ・コスタは、別のアルバムのブックレット写真から受けるイメージとは異なり、流麗で細やかな美音が持ち味のように感じられる。
 パッションに任せてエネルギッシュにぐいぐいと音楽を動かす行き方に比べれば、線の細さは否めないが、その分サン・サーンスの音楽の持つ古典的な明晰さと旋律の美しさにはぴったりだ。
 その意味でも、有名な序奏とロンド・カプリチオーソのほうが、よりダ・コスタの特質に合っていると思う。
 コンツィ指揮のオーケストラは、若干粗さはありつつも、丁寧な伴奏を心がけている。

 一方、オーケストラがメインとなる交響曲第3番では、第1楽章後半がとても印象に残る。
 同じ楽章の前半部分や、第2楽章前半の早いパッセージ、そして後半の高揚する部分では、オーケストラの硬さ、表面的なならされなめされていなさが、どうしても気になるのだが、第1楽章後半部分の静謐で官能的な美しさには、やはり強く心魅かれる。
 この部分を聴くためだけでも、といえば大げさになるけれど、このアルバムの聴きどころの一つであることは疑いようがない。
 そして、管弦楽のための「ホタ・アラゴネーサ」。
 僅か5分にも満たない小品だが、スペイン趣味にあふれた陽気で軽快なのりで、オーケストラの本領が発揮されている。

 メインの作品のファーストチョイスとしてはお薦めしにくいものの、スペインのオーケストラの今を識るという意味では、外せないアルバムだろう。
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2014年07月14日

ロリン・マゼールの死を悼む

☆ロリン・マゼールの死を悼む


>(前略)私がまず感ぜずにいられなかったことは、(中略)彼は(略)、まるで世慣れない、人見知りをする、一介の白面の青年にすぎないようなところのある点である。
(中略)
 それから、<実人生>を前にした時の、彼の困惑。
 そういうものも、私はよく彼の目の中にみた。
 もちろん、彼の目が、いつも、そういう色で染まっているというのではない。
 ことに彼の顔全体の中で、官能的なものといえば、ただ一つ比較的厚い唇なのだが、その唇も肉感的なものを感じさすのはむしろ開かれている時で、上下の唇が結ばれていると、そこには、もう、何か「素朴なまま」ではありえないような、ある表情が浮かんでくる<

 上記の人物評を目にして、果たしてどれだけの方が、指揮者ロリン・マゼールを想像することができるだろうか。
 「比較的厚い唇」、というあたりがヒントになるのかもしれないけれど、後年の「やってるやってる」感あふれるマゼール像しか知らない人たちには、この吉田秀和の一文(『世界の指揮者』<ちくま文庫>所収、マゼールの章より)は、相当驚きをもって受け止められることと思う。
 例えば、ちょうど手元にある、マゼールがウィーン・フィルを指揮したラヴェルの管弦楽曲集<RCA、1996年6月録音>一つとってみても、彼のあざとさわざとらしさは明白だ。
 作品の持つドラマティックな性格をよく表現した『ダフニスとクロエ』組曲にスペイン狂詩曲はまだしも、おなじみラ・ヴァルスとボレロのあくの強さ。
 中でもボレロなど、それこそ『柳生一族の陰謀』のラストでの萬屋錦之助の演技を観聴きしているかのような大芝居ぶりである。
 しかも、あなた萬屋の場合は、計算の上ではなから大仰な演技を重ねているのに対し、こなたマゼールは、しれっとした顔でずっとタクトを振りながら、終盤に到ってここぞとばかりに大見得を切る。
 一聴、ああこの人はまた、と妙に感心してしまったほどだ。
 ただ、そうした晩年のマゼールを知っているからこそ、1960年代の彼を活写した吉田秀和の文章が、かえって強く心にも残るのである。
 そして、>私は、何も、彼の人相見をしているわけではない<と断っているが、吉田秀和の人間観察の鋭さには舌を巻かざるをえない。

 1930年3月6日の生まれだから、84歳ということになるか。
 先頃HMVのインターネットサイトの許光俊のコラムで、マゼールの音楽が変わってきていること、ここ数ヶ月のスケジュールがキャンセルされていることを知り、もしかしたらとうすうす感じてはいたものの、まさかこうも早く彼が亡くなるとは思ってもみなかった。
 90過ぎまで生きて、それこそ最晩年のストコフスキーのような音楽を聴かせることになるだろうと思っていたからだ。
 そのロリン・マゼールが亡くなってしまった。

 幼い頃からヴァイオリンとピアノを学び、なんと8歳でアイダホ州立大学のオーケストラを指揮する。
 9歳のときには、ニューヨークの世界博覧会の特別編成のオーケストラを指揮。
 さらに、NBC交響楽団やニューヨーク・フィルの指揮台に立ったのは僅か11歳というのだから、まさしく神童と呼ぶほかない。
 それでも、ピッツバーグ大学で哲学と語学を学ぶ傍ら、順調に音楽の研鑚を続け、ピッツバーグ交響楽団のヴァイオリン奏者や副指揮者を務める。
 そして、1950年代にはヨーロッパに渡り、ベルリン・フィルとのレコーディングを皮切りに、ウィーン・フィル等一流のオーケストラとの録音を開始する一方で、1960年代半ばには、ベルリン放送交響楽団(現ベルリン・ドイツ交響楽団)やベルリン・ドイツ・オペラの音楽監督に就任するなど、コンサート・オペラ両面での活動を本格化させた。
 吉田秀和がマゼールと出会い、彼の人物や音楽について記したのもこの頃のことだ。
(同じ時期に録音した、ベルリン放送交響楽団とのモーツァルトの交響曲第25番&第29番の中古LP<コンサート・ホール>を高校時代よく聴いていたが、出来の良し悪しはひとまず置くとして、当時のマゼールの鋭角な表現、若々しい音楽づくりがよく表われていた)

 その後、1972年にジョージ・セルの後任としてクリ―ヴランド管弦楽団の音楽監督に就任したあたりから、マゼールの楽曲解釈がバランス感覚を重視した安定志向へと変わったと評されているが、この点に関しては、同時代的に彼の演奏録音に触れることができていないため、あえてどうこう述べることはしない。
 僕がクラシック音楽を積極的に聴き始めた1984年は、ちょうどマゼールがウィーン国立歌劇場の総監督を辞任した年にあたるのだけれど、その前後のウィーン・フィルとのニューイヤー・コンサートにしても、同じウィーン・フィルとのマーラーの交響曲全集<CBS>(加えてフィルハーモニア管弦楽団とのワーグナーの序曲前奏曲集<同>)にしても、オーケストラを巧くコントロールした、均整のよくとれた演奏だという印象が残っている程度だ。
(マゼールは、渡辺和彦との対談で繰り返しマーラーの人と音楽の「健康」性について指摘している。『クラシック辛口ノート』<洋泉社>所収、「不健全」なマーラー像を超えて −マゼールは語る、をご参照のほど)

 そうしたマゼールの音楽がさらなる変化を遂げたのは、1990年代に入ってからではなかったか。
 『金色夜叉』の間貫一ではないけれど、ベルリン・フィルのポスト・カラヤンを巡る争いでクラウディオ・アバドに破れた腹いせなんて見方もなくはないが、マゼールは商業主義云々といったわかりやすい言葉だけではくくれない、一癖も二癖もある、一筋縄ではいかない演奏を披歴するようになった。
 ウィーン・フィルとの峻烈な演奏<DECCA>と比較して、あまりにもグラマラスで、ためやデフォルメの多いピッツバーグ交響楽団とのシベリウスの交響曲<SONY>。
 これまたウィーン・フィルとの録音<同>は、アンタル・ドラティの如き職人芸の域に留まっていたのが、小沢昭一に大泉滉、三谷昇もかくやと思わせる大騒ぎの怪演に転じたバイエルン放送交響楽団とのチャイコフスキーの1812年やベートーヴェンのウェリントンの勝利<RCA>。
 おまけに指揮するだけでは飽き足らず、ヴァイオリンのソロのアルバム<同>はリリースするわ、リヒャルト・シュトラウスの『ツァラトゥストラはかく語りき』&『ドン・ファン』他のCD<同>では、演奏自体はそこまでぶっとんでいないのに、魔術師か手かざし療法士かというまがまがしいジャケット写真を使用するわ。
 バイエルン放送交響楽団との来日公演(1993年3月25日、愛知県芸術劇場コンサートホール)での実に堂に入ったブラームスの交響曲第1番も、休憩前の同じブラームスの交響曲第2番が作品の持つぎくしゃくした感じをあまりにも強調した演奏だっただけに、どうにも嘘臭さを感じてしまったものだ。

 そういえば、このコンサートのしばらくのちにヨーロッパを訪れて、たまさかドイツとウィーンで音楽関係者の方とお話をする機会を得た際、このマゼールのコンサートについて触れたところ、お二方がお二方とも、「マゼールはねえ…(苦笑)」という反応を返して、少し驚いたりもしたんだった。
 お二方とも生粋のヨーロッパ人だったが、フランスで生まれつつもすぐにアメリカに渡ったマゼールに対して、詳しくは触れないながらも、なんらかのふくみのある言葉であったことは確かだ。
(それも流暢な日本語で。それを、アジアの人間である自分が聴いている…)
 そして、冒頭の吉田秀和の言葉や、その裏返しであろう自己顕示欲、権力欲、過剰なまでの解釈、演技といったマゼールのあり様の一端に、そうしたある種の齟齬が潜んでいるのでないかと、僕は感じたりもした。

 いずれにしても、最晩年のマゼールの演奏に接することができなかったのは、返す返すも残念でならない。

 なお、吉田秀和は先程の文章をこう続けている。
>マゼールの<音楽>も、もちろん、これからだっていろいろ変わることもあるだろう。
 しかし、あすこには<一人の人間>がいるのである。
 あすこには、何かをどこかからとってきて、つけたしたり、削ったりすれば、よくなったり悪くなったりするといった、そういう意味での<技術としての音楽>は、もう十歳かそこらで卒業してしまった、卒業しないではいられなかった一人の人間の<音楽>があるのである。
 それが好きか嫌いか。
 それはまた別の話だ<

 深く、深く、深く、深く黙祷。
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2014年06月18日

ドロテー・ミールズが歌ったハイドンの歌曲集『アン・ハンターのサロン』

☆ハイドン:スコットランド民謡集&英語によるカンツォネッタ集

 独唱:ドロテー・ミールズ(ソプラノ)
 伴奏:レザミ・ド・フィリップ
(2013年2月/デジタル・セッション録音)
<CPO>777 824-2


 ロンドン滞在中のハイドンが作曲した英語によるカンツォネッタと、別途編曲したスコットランド民謡の一部を、ドロテー・ミールズが歌ったアルバム『アン・ハンターのサロン』だ。
 ちなみに、カンツォネッタの作詞者であるアン・ハンターは当時未亡人の詩人で、ハイドンと親密な関係にあったとも伝えられている。
 ハイドンとアン・ハンターとの信頼関係も表われているのかどうか、カンツォネッタにせよスコットランド民謡にせよ、明晰で質朴、それでいて細やかな感情表現とリリカルさ、音楽的仕掛けに満ちた作品である。
 そうした音楽の特性魅力と、ミールズのよく澄んで伸びのあるウェットな声質がまた非常によく合っていて、何度聴いても全く聴き飽きない。
 特に、豊かで抒情的な感興をためた『誠実 Fidelity』(トラック12)と、軽快愉快な『ジェニーの半ペニー Jenny’s Bawbee』(トラック17)は、ミールズの歌唱の幅の広さを識るという意味でも聴き逃がせまい。
 ルドガー・レミー(フォルテピアノ)、エヴァ・サロネン(ヴァイオリン)、グレゴール・アンソニー(チェロ)によるピリオド楽器の伴奏も、出しゃばり過ぎず退き過ぎず、過不足のない伴奏で、このアルバムの愉しみを増している。
 ハイドンなんてつまんない、と思い込んでいる方にこそお薦めしたい一枚だ。
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ゲオルゲ・ペトルーとアルモニア・アテネアによるベートーヴェンの『プロメテウスの創造物』全曲

☆ベートーヴェン:バレエ音楽『プロメテウスの創造物』全曲

 指揮:ゲオルゲ・ペトルー
管弦楽:アルモニア・アテネア
(2013年9月/デジタル・セッション録音)
<DECCA>478 6755


 序曲と、交響曲第3番「英雄」の第4楽章に転用された終曲のみが有名なバレエ音楽『プロメテウスの創造物』(序曲・序奏と16曲。1800〜01年)だが、ベートーヴェンという作曲家の特性本質を知ろうとするのであれば、ぜひとも全曲に耳を通していただきたい。

 『プロメテウス』という題材自体もそうだけれど、交響曲第2番(1801〜02年)、ピアノ協奏曲第3番(1800年)、ヴァイオリン・ソナタ第5番「春」(1800〜01年)、ピアノ・ソナタ第14番「月光」(1801年)等々、ベートーヴェンの初期から中期への変容変化を彩る名曲佳品とほぼ同じ時期に作曲されただけあって、交響曲のスケルツォを彷彿とさせる諧謔精神に満ちたナンバーや、ハープを効果的に使用した優美で軽妙なナンバー(トラック7。まるで、ベルリオーズが編曲したウェーバーの『舞踏への勧誘』や、チャイコフスキーの『くるみ割り人形』の「花のワルツ」の先駆けみたい)と、一曲一曲が創意と工夫、音楽的魅力にあふれている。

 ギリシャの若手指揮者ゲオルゲ・ペトルーと手兵のピリオド楽器オーケストラ、アルモニア・アテネア(彼らが起用されたのは、題材が題材だけにか)も、スピーディーでメリハリの利いた演奏で、一気呵成、劇性に富んだ音楽を生み出していく。
(オルフェウス室内管弦楽団が演奏した同じ曲のCD<ドイツ・グラモフォン/1986年3月録音>が手元にあって、念のため、昨日の夜聴いてみたのだけれど、インティメートで丁寧な演奏に好感は抱きつつも、ペトルーとアルモニア・アテネアの演奏のあとでは、正直もっささというか、じれったさを感じてしまったことも事実だ)

 音の重たさに淫しないベートーヴェンをお求めの方々には、大いにお薦めしたい一枚である。

 そして、ペトルーとアルモニア・アテネアには、ベートーヴェンつながりの『エグモント』の音楽や、ご当地つながりのシューベルトの『キプロスの女王ロザムンデ』の音楽も録音してもらえたらと強く思う。
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2014年06月15日

ルドルフ・ケンペとシュターツカペレ・ドレスデンによるリヒャルト・シュトラウスの管弦楽曲・協奏曲集

☆リヒャルト・シュトラウス:管弦楽・協奏曲集(9CD BOXセット)

 指揮:ルドルフ・ケンペ
管弦楽:シュターツカペレ・ドレスデン

 1枚目:交響詩『ツァラトゥストラはかく語りき』、同『死と変容』、『ばらの騎士』組曲、『カプリッチョ』から月の光の音楽

 2枚目:交響詩『ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら』、同『ドン・ファン』、同『英雄の生涯』

 3枚目:メタモルフォーゼン、アルプス交響曲

 4枚目:交響詩『ドン・キホーテ』、クープランのクラヴサン曲による舞踏組曲

 5枚目:交響的幻想曲『イタリアから』、交響詩『マクベス』

 6枚目:『サロメ』から7つのヴェールの踊り、『町人貴族』組曲、『泡立ちクリーム』からワルツ、『ヨーゼフ伝説』の交響的断章

 7枚目:ヴァイオリン協奏曲(ウルフ・ヘルシャー独奏)、家庭交響曲

 8枚目:ホルン協奏曲第1番&第2番(ペーター・ダム独奏)、オーボエ協奏曲(マンフレッド・クレメント独奏)、クラリネットとファゴットのための二重小協奏曲

 9枚目:ブルレスケ、家庭交響曲余禄、交響的練習曲『パンアテネの行列』(以上、ペーター・レーゼルのピアノ独奏)

<WARNER>999 4317802


 先日生誕150年を迎えたリヒャルト・シュトラウスの管弦楽作品を語る際、どうしても忘れてはならないのが、1970年から76年にかけてドレスデンのルカ教会で継続的にセッション録音されたルドルフ・ケンペとシュターツカペレ・ドレスデンによるこの管弦楽曲・協奏曲集だろう。
 収録作品の多さでは、先頃亡くなったカール・アントン・リッケンバッハーとバンベルク交響楽団等が進めたKOCHレーベルのシリーズに譲るものの、演奏の質の高さでは、やはりケンペとシュターツカペレ・ドレスデンのほうに軍配を挙げざるをえまい。
 オーケストレーションの巧さ、鳴りや響きの良さ(例えば、『ティル』の死刑執行前の高ぶりや、『イタリアから』の「フニクリ・フニクラ」の熱さなど、ぞくぞくする)はもちろんだけれど、リヒャルト・シュトラウスの音楽の持つ別の一面、抒情性や寂寞感(『ドン・ファン』やメタモルフォーゼン等々)に対する感度の的確さも一連の録音の大きな魅力である。
 シュターツカペレ・ドレスデンも、そうしたケンペによく応えて、インティメートな雰囲気に満ちたまとまりとバランスのよいアンサンブルを造り上げている。
 また、『ばらの騎士』組曲など、劇場作品からの管弦楽曲では、指揮者オーケストラの劇場経験の豊かさがよく発揮されて、音楽の勘所の押さえ具合に全くくるいがない。
 『ドン・キホーテ』のポール・トルトゥリエ(チェロ。渋い)とマックス・ロスタル(ヴィオラ)、二重小協奏曲のマンフレッド・ヴァイセ(クラリネット)とヴォルフガング・リープシャー(ファゴット)も含めて、独奏陣もあざとさのない演奏を繰り広げており、ケンペとシュターツカペレ・ドレスデンの音楽性によく重なっていると思う。

 そして、このBOXの目玉と言ってもよいのが、『カプリッチョ』の月の光の音楽だ。
 EMIレーベルの計画に入っていなかったため、旧東ドイツのエテルナ・レーベルからLPとしてリリースされて以降、長らく日の目を見てこなかった録音だけれど、ホルン協奏曲でも優れたソロを聴かせるペーター・ダムが美しい旋律を朗々と吹き切って心をぐっとつかまれる。
 3分と少しのこの一曲のためだけに、9枚組のセットを購入しても惜しくないと思えるほどである。
(一応、1枚目と同じカップリングの廉価CDが今年になってリリースされたが)

 そうそう、このBOXでは、国内のEMIレーベルのSACD用にリマスタリングされた音源が使われているが、あまりの分離の良さに、これってちょっとやり過ぎなんじゃないの、とすら言いたくなるほどのクリアな音質となっている。
 EMI特有のじがじがした感じは否めないが、音楽を愉しむという意味では全く問題あるまい。

 しかも、タワーレコードやHMVのネットショップでは、この9枚組のBOXセットが税込み3000円を切るというのだから驚く。
 というか、なんとも申し訳ないかぎりだ。

 リヒャルト・シュトラウスの生誕150年に相応しいCDで、クラシック音楽好きにはなべてお薦めしたい。
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2014年05月30日

ブニアティシヴィリが弾いたピアノ小品集「マザーランド」

☆ピアノ小品集「マザーランド」

 ピアノ独奏:カティア・ブニアティシヴィリ
(2013年4月/デジタル・セッション録音)
<SONY/BMG>88883734622


 グルジア出身の若手ピアニスト、カティア・ブニアティシヴィリが「マザーランド(故国)」のタイトルで録音したピアノ小品集だ。

 ヨハン・セバスティアン・バッハ(ペトリ編曲)の「羊は憩いて草を食み」で始め、チャイコフスキーの四季から「10月」、メンデルスゾーンの無言歌「失われた幻影」、ドビュッシーの「月の光」、カンチェリの「アーモンドが生るとき」、リゲティのムジカ・リチェルカータ第7番、ブラームスの間奏曲作品番号117から第2番、リストの「子守歌」、ドヴォルザークのスラヴ舞曲作品番号72から第2番、ラヴェルの「亡き王女のためのパヴァーヌ」、ショパンの練習曲嬰ハ短調作品番号25−7、スクリャービンの練習曲嬰ハ短調作品番号2−1、ドメニコ・スカルラッティのソナタ変ホ長調K.380、グリーグの抒情小曲集から「郷愁」、トラディショナルの「私を愛してる?」、ヘンデル(ケンプ編曲)のメヌエット、そしてペルトの「アリーナのために」で閉めるという、とても凝った選曲で、精神的な故郷とでもいおうか、清謐なノスタルジーを喚起させられる。
 ブニアティシヴィリも、そうした選曲に相応しいリリシズムをたたえた、柔らかく丁寧な演奏を繰り広げていて、実に聴き心地がいい。
 響きのよいベルリンのイエス・キリスト教会での録音ということもあってか、いくぶん音がこもった感じもしないではないが、アルバムの趣旨や作品、ブニアティシヴィリの演奏によく合っているとも思う。

 夜遅く、カモミールティーでも飲みながらゆっくりと耳を傾けたい一枚だ。
posted by figarok492na at 12:23| Comment(0) | TrackBack(0) | CDレビュー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする