2006年11月02日

偽れる盛装

 京都文化博物館まで、吉村公三郎監督の『偽れる盛装』(1951年、大映京都)を観に行って来た。

 新藤兼人脚本による『偽れる盛装』は、もともと『肉体の盛装』のタイトルで松竹が撮影を計画していたのだが、経済的な事情により製作が中止され、吉村・新藤コンビは松竹を離れ近代映画協会を設立、さらには東宝、東横(東映の前身)での企画もぽしゃってしまい、ようやく『偽れる盛装』の名で撮影が実現したといういわく因縁つきの作品である。
(加えて、もともと主人公役には山田五十鈴が予定されていたのだが、途中で降板し、本来妹役だった京マチ子がピンチヒッターとして主人公を演じることになったというエピソードまである。この間の事情については、出演者の一人でもあり、吉村・新藤両人の盟友でもある殿山泰司の『三文役者あなあきい伝 part2』<ちくま文庫>の「愛妻物語」の章が詳しい)

 自らの置かれた境遇から、男性との関係を金銭で勘定せざるをえなくなった祇園・宮川町の芸妓君蝶を中心に、彼女を取り巻く家族(昔気質の母親と、結婚に関して悩む妹)や男たちとのエピソードが、ウェットな感覚を保ちつつ、比較的テンポよく描かれていて、見飽きることがない。
(特に、ラスト近くのスリリングな展開など)

 祇園という狭い世界に生きる女性を軸にすえたという点では、溝口健二の一連の作品と「通底」するものがあり、主人公が現状に倦み疲れ、嫌悪感さえも感じているという点では、成瀬巳喜男の『稲妻』と「通底」するものもあるように感じられた。
 そして、男たちのだらしなさ、弱さと、それに対峙する女性という構図は、明らかに新藤兼人作品に「通底」するものであるだろう。
(また、福弥という芸妓が肺病で亡くなるというエピソードには、同じ年に製作された新藤兼人監督による『愛妻物語』を思い出さざるをえなかった)

 役者陣では、何と言っても京マチ子の主人公ぶりが強く印象に残るが、母親役の滝花久子や「敵」役の村田知英子、菅井一郎、進藤英太郎、小林桂樹らも柄に合った演技を行っているのではないか。
(妹役の藤田泰子に関しては、あえて語るまい)

 いくぶん、京都に対する「オリエンタリズム」が評価を高めているような気がしないでもないが、一見の価値は充分にある作品だと、僕は思う。
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2006年10月29日

破戒

 予定通り、京都文化博物館まで市川崑監督の『破戒』(1962年、大映京都)を観に行って来た。

 『破戒』は、島崎藤村原作の同名の小説を映画化した作品である。
(本当は、「おなじみ」と島崎藤村の前に付けようかと思ったのだけれど、今ではそんなに「おなじみ」とは言えないかもしれないのでやめておくことにした)
 被差別部落出身である小学校の教員瀬川丑松が、様々な経験を重ねることで、生涯隠し通せと言われた自らの出自について告白するにいたるというストーリー展開だが、島崎藤村の原作に関しては、現在では様々な角度から批判が為されている。
 映画化にあたっては、部落解放運動の闘士松本治一郎が監修として加わっていることもあってか、よく言えば「前途への希望」がはっきりと描かれている分、高校時代に何度か見せられた「人権啓発」映画の持つ甘さを感じないでもなかった。
(芥川也寸志の音楽も、時としてやけに甘ったるい)
 ただ、和田夏十の原作のエピソードを巧みに取り入れた流れのよい脚本や、市川崑のテンポのよい演出とスタイリッシュな映像(いつもの如く)もあって、約2時間を飽きることなく観終えることができたことも事実ではあるが。

 役者陣では、直面する「現実」に揺れ動く主人公の弱さやもろさをしっかりと演じてみせた市川雷蔵の他、藤村志保(島崎「当村」のお「志保」の役だから、藤村志保という芸名になったという)、長門裕之、杉村春子、中村雁治郎、岸田今日子、宮口精二、船越英二、潮万太郎、浦辺粂子、伊達三郎らが出演しているが、個人的には、浜村純と加藤嘉の二人が強く印象に残った。
 また、三國連太郎も、「やってるやってる」的なものより、心の底にある何かが感じられて好感が持てた。

 なお、『破戒』は他に、久坂栄二郎脚本、木下恵介監督によって映画化されている(1948年、松竹京都作品)。
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2006年10月26日

雁の寺

 予定通り、京都文化博物館まで川島雄三監督の『雁の寺』(1962年、大映京都)を観に行って来た。

 『雁の寺』は、水上勉原作の同名の小説を映画化したもので、京都のとある禅寺で繰り広げられる陰鬱な「愛」「欲」の世界を、川島監督らしく、時にとぼけて乾いたユーモアをまぶしながら、ねっとり重たく描き上げた作品である。
 当然、水上勉自身の体験が色濃く反映した内容である訳だが、例えば殿山泰司の『三文役者あなあきい伝』等で監督の「出自」や「人生」を知っている分、どうして川島雄三という人間がこの作品をとり上げたかについても、強く考えざるをえなかった。
(幼年時代の主人公=少年僧が、若狭の「乞食谷」を離れるシーンでは特に)
 母性愛、禅僧の腐敗、さらには差別の問題と、語りたい部分は多々あるのだが、ここでそれについてくどくどくどくどと書き連ねるのも無粋なだけなので、まずは作品のほうをぜひぜひご覧いただきたい、と言う他ない。
 シリアスな場面に限らず、後半の葬儀から出棺あたりのユーモアとスリルの「掛け合い」も、なかなかの観物なはずだから。

 役者陣では、少年僧を演じた高見国一と、ファンムファタル的存在感を見せつけた若尾文子を一番に挙げるべきだろうが、他にも、生臭坊主ぶりを見事に演じた三島雅夫、主人公を心にかけながら結局彼を救うことのできない木村功、ハイカラ坊主ぶりが笑いを誘う山茶花究、中村雁治郎、西村晃、伊達三郎、といった達者な顔触れが揃っている。
(あと、小沢昭一はどこに出てくるのだろうと待っていたら、最後にきちんと「やって」いた)
 また、村井博による撮影、西岡善信による美術も流石だった。

 一見、どころか再見の価値ある作品だと、僕は思う。

 ところで、これは余談だが、いたるところ「引用」だらけで知られる伊丹十三の『お葬式』の中で、もっとも印象に残るあるシーンは、この『雁の寺』に影響を受けたものではないだろうか?
 そう言えば、菅井きんは『雁の寺』にも出演していたのだし。
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2006年10月20日

ぼんち

 二日続けて、京都文化博物館まで映画を観に行って来た。
 今日観たのは、市川崑監督の『ぼんち』(1960年、大映京都)である。

 『ぼんち』は、山崎豊子の同名の小説を映画化した作品で、市川雷蔵演じる船場の若旦那と彼をとりまく女たちの姿が、時にグロテスクなほどでさえあるユーモアを交えながら、活写されている。
 船場の伝統的な因習など、一つ間違うとただただ重たくて辛いだけの話になりかねないが、それをするりと巧みにかわすあたり、さすがは市川崑であり、和田夏十(脚本)であると思う。
(もちろん、原作の「キモ」の部分 − それを女の強さや男の弱さという言葉に換言すると陳腐でしかない − が充分汲み取られていることも確かなことだけれど)

 役者陣では、まずもって市川雷蔵の飄々とした演技が強く印象に残るが(村松友視ならずとも、「巧い」と感嘆せざるをえまい)、毛利菊枝、山田五十鈴、中村玉緒、若尾文子、草笛光子、越路吹雪、京マチ子、倉田マユミ、北林谷栄ら女優たちの「層の厚さ」も見事と言う他ない。

 残念ながら、大阪の空襲のシーンには「限界」を感じてしまったものの、映像的にも見どころがいっぱいで、個人的にはとても愉しむことができた。
 日曜日にも上映が予定されているので、興味がお有りの方には、ぜひともご覧いただきたい。
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2006年10月19日

弁天小僧

 予定通り、京都文化博物館まで、伊藤大輔監督の『弁天小僧』(1958年、大映京都)を観に行って来た。

 『弁天小僧』は、歌舞伎の『白浪五人男』(『青砥稿花紅彩画』)を下敷きにした作品だが、あちらが悪党五人組の活躍と挫折を描いたピカレスク物だとすれば、こちらは弁天小僧菊之助が幼い頃に生き別れになった父と妹を陰ながら救うという、人情譚に置き換えられている。
(だから、おなじみ稲瀬川での勢ぞろいもない)
 もちろん、伊藤大輔の演出らしく、菊之助と敵方との激しく凄絶な殺陣があったり、劇中劇として浜松屋の段が組み込まれたり(よい意味で、あざとく、わざとらしい)、さらには勝新太郎演じる遠山の金さんも登場したりして、単純なお涙頂戴のストーリー展開になってはいないのだけれど。

 で、この10月の京都文化博物館映像ホールのプログラムテーマは『大映京都作品を彩った女優たち』となっているものの、役者陣では、何と言っても弁天小僧菊之助の市川雷蔵を挙げざるをえまい。
 物語の始まりのほう、娘(青山京子)を手ごめにしようとする際のニヒリスティックでサディスティックな表情や、勝新太郎との掛け合いにおける軽み、劇中劇での「女形」と、役者市川雷蔵の魅力をたっぷりと堪能することができる。
 他に、同じ伊藤監督の『下郎の首』で主人公を演じていた田崎潤が南郷力丸に扮していた他、阿井美千子、黒川弥太郎(日本左衛門)、河津清三郎、中村雁治郎、小堀明男、伊沢一郎、近藤美恵子、香川良介、清水元らが出演していた。

 一時間半弱の中にいろいろと詰まっていて、なかなか愉しい一本だった。
 時代劇好きの方には、特にお薦めしたい。
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2006年10月13日

女狐風呂

 二日続けて、京都文化博物館まで映画を観に行ってきた。
 本日観たのは、安田公義監督の『女狐風呂』(1958年、大映京都)である。

 『女狐風呂』は、ダシール・ハメット原作、W・S・ヴァン・ダイク監督の『影なき男』を巧みに翻案した、マキノ正博監督、小国英雄脚本による『待って居た男』(1942年、東宝)をさらにリメイクした作品だ。
 江戸の目明かし文吉(市川雷蔵)と、その妻お光(瑳峨三智子)が旅先の湯治場で奇妙な事件に巻き込まれるという、「探偵物」の定石に添った設定で、あっと驚く真犯人の存在など、なかなかよくできた展開になっている。
 ただ、残念ながら『待って居た男』を観ていないので断言はできないものの、マキノ演出に比べてこちらのリメイク版は、若干テンポがスローモーのような気がしないでもない。
(テンポ、という点で言えば、同じ年に製作された増村保造監督の『巨人と玩具』が、いかにスピーディーに過ぎるかということもわかる)

 役者陣では、何と言っても市川雷蔵と瑳峨三智子だろう。
 『待って居た男』の長谷川一夫と山田五十鈴(瑳峨三智子の母親)のコンビに対して、こちらの二人は、よい意味でスリム、よい意味でモダンな演技を行っているように、僕には思われた。
 雷蔵のかっこよさは言うまでもないが、瑳峨三智子の愛らしい感じも、やはりこの作品の観物だろう。
 他に、若き日の中村玉緒や、益田キートン(喜頓)と山茶花究という「あきれたぼういず」出身の二人、楠トシエ(自慢の喉を披露している)らが印象に残る。
(目明かし役の堺駿二らは、それなりに頑張っているのだが、『待って居た男』のエノケンほどのインパクトはなさそうだ)

 で、『女狐風呂』は『女狐風呂』で充分愉しむことができたのだけれど、リメイク元の『待って居た男』を観てみたいというのも、僕の偽らざる感想である。


 なお、『影なき男』と『待って居た男』の関係については、小林信彦の『一少年の<聖戦>』<ちくま文庫>から、「<米英的>なるものを求めて」、もしくは、同じく小林信彦の『コラムの逆襲』<新潮社>から、39:「影なき男」シリーズの影響をご参照のほど。
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2006年10月12日

夜の河

 予定通り、京都文化博物館まで吉村公三郎監督の『夜の河』(1956年、大映京都/リンク先では大映東京となっているが、大映京都製作が正しい)を観に行ってきた。

 『夜の河』は、山本富士子演じる京都堀川の染屋の女職人の妻子ある男性(上原謙)との許されざる恋を描いたメロドラマ、と言うよりも、そうした趣向を借りながら、一人の女性の心理的な変化と決断を丹念に追った「女性」ドラマだと評することができるだろう。
 その点で、平凡な結婚生活を選んだ妹(小野道子。『巨人と玩具』とは180度異なる役柄)との対比や、独身の主人公に色目をつかう男性(小澤栄太郎)とのやりとりなど、当然原作のエピソードを活かしたものではあろうが、田中澄江の脚本がまずよくできている。
 また、初期のカラー作品ということもあって、現在の視点から観ると「おいおいおいおい」と口にしたくなる場面(「虹」の登場とか)はありつつも、吉村公三郎の演出や宮川一夫の撮影、岡本健一の照明は、様々な工夫を重ねていると思う。
(レストランで、テーブルに置かれた2種類の花だけが交互に映されるシーンは、技巧派吉村監督らしいし、主人公と男性が初めて結ばれる宿屋での「色彩」は強く印象に残る)
 加えて、古き良き時代の名残りを留める京都の街並も、この作品の見どころの一つになっているのではないだろうか。

 出演者では、当然美しさここに極まれりの山本富士子を一番に挙げるべきだろう。
 実を言えば、僕は山本富士子という女優さんがあまり好みではないのだが、後半髪を洗う場面での彼女の艶かしさには、やはり「うわあ、きれいやなあ」と感嘆せざるをえなかった。
(演技自体も見事だったし)
 他に、またぞろ「こんな男」(ずるくて弱い)を見事に演じている上原謙や、若き日の川崎敬三、東野英治郎、小澤栄太郎、山茶花究、そして先述の小野道子をはじめとした女優陣と、ツボを押さえた配役で、基本的に不満はない。
(そうそう、個人的には、大好きな伊達三郎の出演がとても嬉しかった。ここでの彼は、何となく有田哲平に雰囲気が似ている)

 ただ、ラストだけはどうなんだろうなあ。
 時代背景や、吉村監督の「思想」を考えればわからなくはないんだけど(それに、沢野久雄の原作自体がそうなっているのかもしれないし)、どうしてこういう終わり方になるのか、僕には今一つ納得がいかない。
 いや、確かに「伏線」は張ってあるし、「色づかい」という意味でも、なるほどそういうつながりなんやね、と言えなくもないのだが。
 しかし、あまりにもとってつけた感が強すぎるのだ。
 少なくとも、僕は鼻白んでしまった。
(例えば、山本薩夫の『浮草日記』は、ある意味似たような終わり方をしているのだけれど、こちらはドラマとしての必然性があって、しっかり納得がいく)

 それでも、一見の価値は充分あることも確かだろうが。

 追記:京都の女性の「性格」が巧み(?)に描かれている点を書き忘れちゃいけなかったんだ。
 土曜日も上映があるので、興味がお有りの方はぜひともご観賞のほどを!
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2006年10月07日

愛妻物語

 予定通り、京都文化博物館まで新藤兼人監督の『愛妻物語』(1951年、大映京都)を観に行ってきた。

 『愛妻物語』は、そのタイトル通り、新藤監督の若き日を支え、困窮の中で亡くなった彼の妻への鎮魂歌である。
 成功に向かって努力する夫をけなげに支える妻、という図式そのものには、現代の女性ならずとも、若干以上の疑問を抱かざるをえないが、その後の諸作品も併せて考えれば、新藤監督がそうした図式を肯定しているというのではなく、あくまでも妻(女性)への感謝の念の表れととらえたほうが事実に則しているのではないかと思う。
 また、溝口健二(劇中では坂口監督)との関係が重要なエピソードとして描かれている点は、後年の『ある映画監督の生涯』を想起させるし、近所の青年の出征と戦死が描かれている点からは、何とか作品の「客観性」を保たせていこうという新藤監督の意識をうかがうこともできた。
(それでも、相当気恥ずかしい場面はあるのだけれど)

 役者陣では、百万ドルのえくぼも愛らしい妻役の乙羽信子と、希望や失意、屈折などを巧みに演じ分けた夫役の宇野重吉をまず挙げるべきだろうが(特に、血を吐いた乙羽信子が洗面器を持つ宇野重吉の手に自らの手を重ね合わせるシーンは強く印象に残る)、坂口監督役の滝沢修や清水将夫ら民芸勢が達者な演技を行っている他、盟友殿山泰司が彼ならではのシーンを見せてくれる。
(あと、大河内伝次郎が賛助出演している)

 個人的には「辛い」部分もいろいろとあったのだが、いずれにしても、この『愛妻物語』が新藤監督のその後の作品の「ひな形」であることは確かなことだろう。
(なお、『愛妻物語』に関しては、『乙羽信子どろんこ半生記』<朝日文庫>の中の「百万ドルの……」、「愛妻物語」に詳しく記されている)

 余談だが、新藤監督が乙羽信子が亡くなった後も生き続けてこられたのは、この若き日の妻を亡くした経験があるからだとも、僕は考えている。
(それは、先に死んだ人たちの分も生き続けなければという強い想いが、新藤監督のしたたかさ、しぶとさに繋がっている、と言い換えることができるかもしれない)
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2006年09月21日

下郎の首

 予定通り、京都文化博物館まで、伊藤大輔監督の『下郎の首』(1955年、新東宝)を観に行ってきた。
 なお、『下郎の首』は、同じ伊藤監督による『下郎』(1927年、日活大将軍)のリメイクにあたる。

 父親の仇を追って苦難の旅を続けてきた主従のうち、ひょんなことから「下郎」のほうが仇を殺してしまい、ついには主人に裏切られるといった、タイトルからしておおよそ察しのつく、はっきり言って、観た後一気に落ち込んでしまうような重い内容の作品だった。
 そして、その重さは、単に封建制度下の主従関係の残酷さが描かれていることに起因するだけではなく、「下郎」が偽いざりの片目を潰し、偽いざりが復讐として「下郎」と(実は仇の)妾の関係を密告するといった、弱い者がより弱い者をしいたげたり、弱い者が強い者におもねるという、身分制度そのものの持つ陰湿さや非情さ、救い難さが描かれていることにも起因しているはずだ。
(そうした題材や、ストーリー展開、ユーモア感覚、さらにはカット割り等から、「古さ」、「時代とのズレ」を感じてしまったことも事実である)
 ただ、妾の家における、「下郎」と仇のやり合いや、後半、「下郎」が主人に裏切られ追い込まれるあたりからの迫真性、迫力は、やはりさすがだと思う。

 役者陣では、「下郎」を演じた田崎潤(時折見せる軽さは、軽演劇時代に培ったものだろう)とファムファタル的な存在でもある瑳峨三智子 (若き日の山田五十鈴=母親そっくり)をまず挙げるべきだろうが、主人役の片山明彦の情けなさと、偽いざりの三井弘次の存在感も指摘しておきたい。
(他に、毎度の悪党ぶりを発揮する小澤栄太郎、これまた毎度のおばあさんぶりを発揮する浦辺粂子、コメディリリーフ的な高堂國典、仇と間違われる男として丹波哲郎、岡譲司、横山運平らも出演している)

 少なくとも、観て損はない作品だった。
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2006年09月03日

丹下左膳余話 百万両の壷

 京都文化博物館の映像ホールまで、山中貞雄監督の『丹下左膳余話 百万両の壷』(1935年、日活太秦)を観に行ってきた。
 今月の京都文化博物館の映像ホールでは、山中貞雄の特集が組まれていて、この『丹下左膳余話 百万両の壷』の他、『河内山宗春』と『人情紙風船』が上映される予定になっている。
(他に、山中貞雄が脚色に加わった、滝沢英輔監督の『戦国群盗伝』や、山中貞雄原案による、萩原遼監督の『その前夜』も上映される予定である。山中は、1938年に戦病死した戦前の日本を代表する映画監督の一人だが、先述した3本の作品以外は、フィルムが残存していない)

 『丹下左膳余話 百万両の壷』は、林不忘原作のおなじみ丹下左膳を主人公とした作品だが、原作が、百万両のありかを記した「こけ猿の壷」を巡って、左膳、柳生、うんたらかんたらと入り乱れて大騒ぎになるのに対し、こちらは、いたって「平和」なストーリー展開で、かたや丹下左膳と櫛巻お藤(新橋喜代三)がちょび安相手に「子育てごっこ」に熱を上げれば、かたや柳生源三郎は奥方(花井蘭子)に頭の上がらぬだめ亭主ぶりと、まさしく喜劇に徹したつくりになっている。

 すだれ雨だれの画面に加え、ぶつぶつぶつぶつとカットがあったり、音質が悪かったり(もちろん、大河内伝次郎の「例の」エロキューションのせいだけではない)で、はっきり言って、見やすい状態では毛頭なかったが、非常によくできた内容だけあって、全く飽きることなく、最後まで愉しむことが当方にはできた。
(この作品が、アメリカ映画の『歓呼の涯』を下敷きにしていることは、映画通の間では有名な話だけれど、他にも、スラプスティックコメディーやスクリューボールコメディーなどがしっかり「咀嚼」されていることが、観ていてよくわかった。特に、省略を利用した「笑い」は見事という他ないし、ちょび安へ父親の死を伝えるあたりの見せ方も素晴らしい)

 役者陣では、何と言ってもセルフパロディをやり切った丹下左膳の大河内伝次郎だが、柳生源三郎を演じた沢村国太郎の演技も実に面白かった。
(血は争えないというが、奥方相手に「臭い芝居」をやってみせるところなど、息子の長門裕之や津川雅彦そっくりだ)
 他に、後年「あのね、おっさん…」で一世を風靡する高勢実乗なども印象に残った。

 これは、観て損のない、ではなく、邦画ファンなら必見の一作だ。

 なお、『丹下左膳余話 百万両の壷』に関しては、筒井康隆の『不良少年の映画史(全)』<文春文庫>にも詳しい記述が為されているので、興味がおありの方はご一読のほどを。
 また、熱狂的な映画ファンの筒井さんは、フィルムが現存しない山中貞雄監督の『街の入墨者』(1935年、日活太秦)を扱った、『CINEMAレベル9』という作品もものしている。
(『夜のコント・冬のコント』<新潮文庫>所収)
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2006年08月21日

妄想映画館 大根の味

『大根の味』(2006年 松竹=「大根の味」製作委員会)

 監督:中瀬八郎
 脚本:ゼームス無鬼
 音楽:林光

 出演
  平山 周平:遺影           (笠   智衆)
  平山 路子:周平の娘         (岩下  志麻)
  平山 秋子:路子の義姉        (岡田 茉莉子)
  平山 貴一:秋子の息子        (中井  貴一)
  平山 礼子:貴一の妻         (寺島 しのぶ)
  平山茉莉香:貴一と礼子の娘      (福田 麻由子)
  平山 和夫:路子の弟         (三上 真一郎)
  平山 恵子:和夫の妻         (加賀 まりこ)
  平山 有子:和夫と恵子の娘      (占部  房子)
  平山 竜太:和夫と恵子の息子     (山内  圭哉)
  斎藤 達雄              (杉浦  直樹)
  斎藤 アヤ:達雄の姉         (淡島  千景)
  間宮  登:貴一の上司        (柄本   明)
  間宮亜由美:登の娘          (井上  真央)
  殿岡 明子              (有馬  稲子)
  殿岡 泰司              (谷    啓)
  三輪 妙子:路子の友人        (吉田 日出子)
  「かおる」のマダム          (岸田 今日子)
     西脇:間宮の同僚        (笹野  高史)
     岡田:間宮の同僚        (綾田  俊樹)
     菅井:図書館の司書       (もたいまさこ)
    小野寺:介護センター所長     (志賀 廣太郎)
  和尚                 (植木   等)
  酔客A                (志村  けん)
  酔客B                (ベン  ガル)

 *解説とあらすじ
 小津安二郎の『秋刀魚の味』のオマージュとして製作された作品。
 監督は、『剣法の極意』や『日本の日蝕』の中瀬八郎。
 脚本も、ゼームス無鬼の名で監督が執筆し、『秋刀魚の味』の岩下志麻、岡田茉莉子、三上真一郎、岸田今日子をはじめ、淡島千景や有馬稲子など、小津作品ゆかりの俳優陣を集めた。

 亡き父周平の十三回忌に、平山家の人びとが揃った。
 周平の思い出話に花が咲いた後、秋子が切り出したのは、路子のこれからのことだった。
 早くに夫を亡くし、周平亡き後は一人暮しを続けてきた路子も、そろそろ再婚を考えるべきなのではないかと秋子は言うのである。
 突然の話に路子はとまどうが、和夫や恵子の強い後押しもあって、路子は貴一の上司にあたる間宮との見合いをせざるをえなくなってしまう。
 だが、路子には斎藤という心憎からぬ友人がいて、斎藤も路子に好意を抱いているのだが、斎藤は姉のアヤと二人で暮していて…。
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2006年07月22日

張込み

 『神々の乱心』創作中に亡くなった松本清張は、ご存知の如く、非常に息の長い小説家だったが、彼がもっとも充実した執筆活動を行っていたのは、日本が本格的な戦後復興を成し遂げ始めた昭和20年代の後半から、高度経済成長のひずみが表れ始めた昭和40年代の前半にかけてだったように、僕は思う。
(そしてその時期は、日本の一般大衆にとって「貧しさ」が、我が事から他人事へと変わる過渡期にあたると言い換えることも可能なはずだ)

 1955年(昭和30年)に発表された『張込み』は、そうした松本清張の充実期を代表する作品の一つで、距離感を保ちつつ、登場人物の姿を乾いた筆致で鋭く描き込む彼の特性が、よく発揮されているのではないだろうか。

 今回、京都文化博物館の映像ホールで上映された、野村芳太郎監督の『張込み』は、その松本清張の小説を映画化した作品である。

 警視庁捜査一課の二人の刑事(宮口精二と大木実)が、逃走中の強盗殺人犯(田村高廣)を追って、犯人のかつての恋人で、今は別の男性の妻となっている女性(高峰秀子)を張込むために、佐賀を訪れる。
 女性は、吝嗇家の夫や義理の子供との生活にけなげに耐えて、判で押したような毎日を送っており、刑事たちは半ば犯人が表れることを諦めてしまうのだけれど…。

 といった非常にシンプルなストーリーだが、僅か30枚程度の原作をそのまま映像化しても、ということで、脚本の橋本忍が新たに様々なエピソードを付け加えている。
 例えば、若い刑事の女性と犯人に対する「シンパシー」をより解りやすくするためもあって、彼と高千穂ひづる扮する恋人との関係(彼女は「貧しい」家庭の娘であり、お互い、どうしても結婚に踏み切れないでいる)を描いている点は、その際たるもので、他にも宮口精二の家族のエピソードや、張込み先の旅館における息抜き的エピソード、さらには当時の佐賀の風俗までが盛り込まれていて、原作を知っている分、巧くドラマにしているなと思ってしまう。
(刑事二人の関係や、若い刑事と犯人の関係が、あの『野良犬』を思わせるのは、橋本忍の計算のうちだろうか?)

 ただ、大木実のモノローグの多用など、ところどころ古さというか、冗長さを感じたことも事実であり、そこが、この作品を超一流の傑作ではなく、名作や佳作のラインに留めている原因にもなっているように思われた。

 役者陣では、まずは何と言っても高峰秀子を挙げるべきだろう。
 かつての恋人との再会によって解き放たれる前と後との感情の変化の表現が、非常に素晴らしい。
(『浮草』と『乱れる』との間に、この『張込み』が撮影された訳だが、彼女の演技を通して、映画の「重層性」を再確認するこさえできた)
 また、宮口精二も実に達者で巧い。
 他に、旅館の女主人の浦辺粂子が「堂に入った」演技を行っていて、強く印象に残った。
(藤原釜足、菅井きん、さらには『生きる』の小田切みきまで出演しているのは、ご愛嬌だろう。あと、個人的には、近衛敏明の姿を観ることができて嬉しかった)

 いずれにしても、野村芳太郎監督による松本清張物の中では、時代との合い方といい物語の造りといい、ベストの一作ではないだろうか。
(『砂の器』は感動大作だが、原作とは似ても似つかぬお涙頂戴物だし、井手雅人脚本の『鬼畜』は、「邪劇」としては最高だが、あまりにも時代とずれ過ぎている)
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2006年07月19日

日本沈没

 TOHOシネマズ二条まで、『日本沈没』(樋口真嗣監督、2006年/「日本沈没」制作委員会作品)を観に行って来た。

 正直言って、友だちから誘われなければ、九分九厘観に行くことはなかっただろうと思う。
 と、言うのも、まずもって「何で今さら『日本沈没』をリメイクすんねん」という感じが非常に強かったし、そもそも、大好きな中村伸郎が出演している以外は、1973年の作品にもたいして思い入れがなかったからだ。
(さらに付け加えれば、筒井康隆ほどには、小松左京という作家に対しての思い入れがある訳ではない)
 それに、主役級の顔触れにも、それほど期待が持てるとは思えないことも大きかった。

 たぶん、そうしたマイナス・イメージが強かったこともあってだろうが、観ての感想は、制作陣役者陣とも健闘していて、それなりに観どころのある作品に仕上がっているのでは、というものだった。

 もちろん、突っ込みどころは満載である。
 公開中なので、詳細については触れないが、2時間15分(どう見積もっても、2時間半は必要な作品だろう)という尺に合わせるために、本来ならば、しっかり描き込まれるべき場面がすっぽり抜けていたり、逆に、冗長だと思われるシーンが何ケ所も見受けられた。
 主人公二人のエピソードはご都合主義の際たるものだし、ハリウッド映画の「あの」作品や、草ナギ君だからと言う訳ではないが、韓国映画との安直な「関係」を指摘することもできるだろうと思った。
(それと、僕が若干気になったのは、作品のトーンの一部が、どこか「戦時中」の邦画作品の雰囲気と重なり合ったところだ。もちろん、「戦時中」と言っても、戦意高揚のそれではなく、詠嘆悲嘆調のそれなのだけれど)

 だが、一方で、様々な制約(それは、防衛庁−自衛隊から協力を得るということも含めて)の中で、登場人物の言動から、どうしてこの期に及んで『日本沈没』なのか、という「ポーズ」ではないメッセージが伝わってきたことも事実である。
 少なくとも、CGの威力を見せつけることがまずあっての作品ではないということは、僕にはよく理解ができた。

 役者陣では、まず大地真央の凛々しさが強く印象に残る。
 総理大臣役の石坂浩二も、いつもの如く達者だ。
(小泉風のメイクが気になっていたが、その意味は充分にわかった。このメイクは「必然」だったのである)
 そして、吉田日出子、六平直政、大倉孝二ら「下町グループ」をはじめ、長山藍子や和久井映見、柄本明、國村隼、遠藤憲一、山田辰夫といった脇を固める人たちの演技が素晴らしい。
(個人的には、加藤武と北村和夫の登場がとても嬉しい。僅かな出番ではあるけれど、この二人の演技は絶対に観逃さないで欲しい)
 あと、相当「甘い」が、草ナギ剛と柴咲コウもよく頑張っていたと思う。

 「えっ、こんな作品くずやんか!」と立腹する映画ファンの方が多数いることも見越した上で、多くの方にお薦めしたい作品だ。
 少なくとも、この『日本沈没』は映画館で白黒をつけてもらいたい。

 ☆追記
 前作へのオマージュとして、ある俳優がちらと出演しているのだが、これにはあえて触れない。
 観てのお楽しみである。
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2006年07月10日

『乱れる』と『浮雲』

 予定通り、みなみ会館まで成瀬巳喜男監督の『乱れる』(1964年、東宝作品)と『浮雲』(1955年、東宝作品)を観に行って来た。

 『乱れる』、『浮雲』とも、まさしく「大人」のための作品だと思う。
 そして、両作品とも、ぐいぐいぐいぐいと力技で観る者をねじ伏せるような展開ではないのに、観終わった後で、ただただ「圧倒された」という言葉が口を突いて出てしまう。
 例えば、『乱れる』における高峰秀子扮する主人公の心が揺れ惑う姿や、『浮雲』における高峰秀子と森雅之の曰く言い難い関係の描き込み方など、成瀬巳喜男の創り上げる世界の、やるせなさ切なさ情けなさ哀しさたまらなさには、「ああ、もう」と嘆息せざるをえない。
(高峰秀子という演技者の魅力を識るという意味でも、『乱れる』と『浮雲』の併映は「ベスト」だと思う)

 また、成瀬作品が巧みに時代(単に風俗ばかりでなく)を活写しているという点についても、再確認することができた。
(『乱れる』など、現在の「あれこれ」を予言しているかのようですらある)

 いずれにしても、この二作品について、あまりくどくどくどくどとは語りたくない。
(本当は、語りたいことは山ほどあるのだけれど、口にするのは野暮なので)
 明日までみなみ会館で上映中だし、DVDも発売されている。
 多くの方々に、『乱れる』と『浮雲』をご覧いただきたい。
 特に、京都の小劇場関係者には必見だ。
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2006年06月26日

めし

 予定通り、九条大宮のみなみ会館まで、成瀬巳喜男監督の『めし』(1951年・東宝作品)を観に行って来た。

 じわじわじわじわぐいぐいぐいぐいひき込まれる、そんな作品だと思う。

 かつて親の反対を押し切って結婚し、今は大阪で「豊かではない」生活を送っている夫妻(原節子と上原謙)のもとに、夫の姪(島崎雪子)が家出をしてやって来る。
 姪は夫に恋心に似た感情を抱いているようで、夫のほうもまんざらではない様子である。
 そんな夫と姪のあれこれに、たまりにたまった妻の感情が噴き出して…。
 といった物語の展開だが、まずもって妻を演じる原節子が素晴らしい。
 やけにバタ臭くって、肉感的に過ぎる感じがしないでもないが、日々の生活による疲弊や夫と姪、さらには自分の従兄弟(二本柳寛)=人間関係のシンメトリー!、に対する複雑な感情に揺れ動く妻の姿を、原節子は見事に演じ切っていると思う。
 特に、『めし』というタイトルにも重なる、米をとぐシーンが、僕には強く印象に残った。
(くどくどと説明はしないが、この作品では、他にもめし=米に関する印象的な場面がいくつかある)
 もちろん、原節子をこういう風に演出してみせた、成瀬巳喜男の映画監督としての手腕も忘れてはなるまい。
 流石は成瀬巳喜男、と舌を巻くばかりだ。

 また、この『めし』が、戦争の影と戦後の復興、不況、そして当時の大阪の賑わい(観光バスや高級キャバレーのショーを描写したシーンまである)などを巧みに活写した作品であることも指摘しておかなければならないだろう。

 役者陣では他に、ぱっとしないし、原節子ならずとも時にいーっとなってしまうが、どこかにくめない夫の上原謙、原節子の母親をきっちり演じている杉村春子、名おばちゃんおばあちゃん役者の浦辺粂子、コメディリリーフを割り当てられた「いかれポンチ」大泉滉、進藤英太郎、小林桂樹、中北千枝子、花井蘭子、杉葉子、長岡輝子、若き日の風見章子、田中春男、山村聡と、おなじみの顔触れが揃っていて、とても嬉しい。

 ところで、この作品は原節子が元の鞘におさまる形でラストを迎えるのだが、果たして林芙美子の原作(遺作で未完)はどうなっているのだろう。
 あの『放浪記』の作者が、そんなシンプルな「まとめ方」をしているのだろうか。
 一度、確かめてみたいものだ。
(付け加えておくが、映画は、大阪へ帰る車中の原節子と上原謙のシーンでは終わらない。再び夫妻が暮すことになる、大阪の「市井」のシーンで終わるのだ。僕にはその一コマが、「重く」感じられて仕方がなかった)

 いずれにしても、傑作。
 これは、観よ!
posted by figarok492na at 20:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画記録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年06月11日

『羅生門』の追記

 と言って、わざわざアップするほどのことでもないのかもしれないけれど、昨日アップした「断片」の中にねじ込むとおさまりがあまりよくないし、それに記事自体も長くなってしまうと思って割愛したことを、別に記しておきたい。

 検非違使の裁きの場、三船敏郎扮する多襄丸が第一のエピソードを語る場面には、多襄丸を捕縛した人間として加東大介も登場している。
(多襄丸を発見する回想シーンでの、加東大介の細かいしぐさがいい)
 そして、この二人の後方にちょこんと座っているのが志村喬と千秋実という訳で、実は後年の『七人の侍』のうち、実に四人が顔を揃えているということが、僕には何とも面白かった。
(そう言えば、馬から落馬した三船敏郎には、同じく馬から落馬する『七人の侍』のあるシーンを思い出してしまった)

 あと、表面的には一切関係ないものの、北村薫の『六の宮の姫君』<創元推理文庫>(両者の作品を付き合わせながら、芥川龍之介と菊池寛の葛藤を読み解く、北村さんらしい作品)の執筆に、黒澤明の『羅生門』も、何らかの影響を与えているのではないかと思ったりもした。

 と、まあ何とも他愛ない事どもだけれど。
posted by figarok492na at 15:05| Comment(2) | TrackBack(0) | 映画記録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年06月10日

『羅生門』に関する断片

 予定通り、京都文化博物館まで黒澤明監督の『羅生門』(1950年・大映京都作品)を観に行ってきた。

 強い雨が降り続く京の都。
 荒れに荒れた羅生門で悄然としている志村喬と千秋実のもとに、上田吉二郎扮する下人がやって来る。
 黒澤明の『羅生門』は、そんな、まさしく「黒澤明らしい」情景から物語が始まる。

 で、『羅生門』がヴェネツィア映画祭グランプリ(金獅子賞)を受賞したことや、それによって黒澤明が「復活」したこと、大映の誇る名キャメラマン宮川一夫による斬新で鮮烈な映像について、さらには芥川龍之介の原作『薮の中』と脚本の違いに関して、くどくどと語る必要はあるまい。

 今回久しぶりに『羅生門』を観直して印象に残ったのは、橋本忍が、後年いわゆる「邪劇」(『八つ墓村』や『幻の湖』など)の書き手となることの片鱗が、すでにこの『羅生門』の中にも明確に表れていること。
 そうした点さえも巧みに汲み取りながら、黒澤明が実験的な作品として『羅生門』を完成させたこと。
 しかしながら、それでもなお黒澤明の黒澤明たるゆえんであるヒューマニズム(そこには、当然ユーモアも含まれる)がしっかりと刻印されていること、などである。

 橋本忍云々については置くとしても、検非違使の裁きの場における、志村喬や千秋実の存在(「証人」であるから、その場にいること自体は何もおかしくないのだが、後ろのほうでちょこんと座っている二人の姿は、どこか「おかしい」*)、狙いに狙った早坂文雄流のボレロと京マチ子の演技のシンクロ、そして本間文子演じる巫女の狂気等々、確信犯か否かは別にして、明らかに「滑稽さ」につながる雰囲気を生み出していることは、僕には否定できない。
(確信犯的な滑稽さを言うのであれば、まずは黒澤明が付け加えたという、志村喬の語る第4のエピソードを挙げなければなるまい。あのエピソードこそ、人間の弱さと、そこから滲み出てくる滑稽さがストレートに表現されているのだから。それにしても、森雅之は巧い)

 あと、この作品が、明らかに太平洋戦争(戦中戦後のあれこれ)の影響を受けたものであることは言うまでもないだろう。

 それと、人によっては「とってつけた」と感じるかも知れないラストのエピソードと映像は、普遍的なヒューマニズムへの讃歌、芥川龍之介への「反論」**であるとともに、黒澤明の実兄の自殺ともどこかで関連しているのかもしれないと思った。

 いずれにしても、個人的には、いろいろと感じ考えさせられる作品だった。

 *ただし、本間文子が暴れ回るシーンにおいて、志村喬と千秋実の姿も俯瞰で撮影されており、彼ら二人がどう裁きの場に座っていたかがきちんとわかるようになっている。

 **黒澤明は、宮本顕治の『「敗北」の文学』を読んでいたのだろうか?
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2006年05月21日

男はつらいよ

 京都文化博物館で、山田洋次監督の『男はつらいよ』(1969年・松竹大船作品)を観る。

 渥美清扮する、寅さんこと車寅次郎を主人公とするおなじみのシリーズの第一作で、今さらとやかくあら筋を述べる必要もあるまい。
 また、見巧者の評としては、小林信彦の『おかしな男 渥美清』<新潮文庫>中の20『「男はつらいよ」第一作』があって、それを読んでいただければ、この作品の魅力を充分に納得することができると思う。
 小林さんがすでに記しているように、渥美清の声の良さ、口跡の良さ、切れの良さには惚れ惚れとするし(仁義を切るシーンや「啖呵売」は、やはり観物聴き物だ)、森川信の演技の良さも印象的だ。
 そして、さくらと博の披露宴における志村喬(博の父親)のスピーチのシーンには、べただとわかっているのに、涙が流れてきた。
(今年は『七人の侍』も観ているが、やっぱり志村喬の演技には圧倒される。こういう人の演技を、こうやって観ることのできる幸せを噛み締める)
 他に、笠智衆のとぼけた演技を含めて、いわゆる松竹大船調の枠の中にあるものとはいえ、ツボを押さえた笑いや、シンプルでスピーディーな物語の展開には、感嘆せざるをえなかった。

 で、ここからは、個人的なことを少し。
 画面というか画像が、明らかにプログラム・ピクチュアーっぽかったこと、倍賞千恵子が愛らしかったこと、前田吟の演技がやけに「新劇」っぽかったこと、佐藤蛾次郎や津坂匡章(現秋野太作)があまりにも若々しかったこと、渥美清の付き人だった石井愃一が出演していたこと、広川太一郎がさくらのお見合いの相手を演じていたこと(しかも台詞がない! あの広川太一郎なのに)などが、当方には面白くて仕方がなかった。

 いずれにしても、観に行って本当によかった。
 これこそ「喜劇」だと痛感する。


 ところで、車寅次郎の車は、たぶん江戸時代の非人頭(支配)車善七によるものだろうが、寅次郎のほうは、喜劇映画の監督斎藤寅次郎によるものではないかと勝手に考えたりしている。


 追記:笠智衆と光本幸子が奈良を旅するシーンは、もしかしたら小津安二郎を意識しているのかもしれない。
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2006年03月01日

ホテル・ルワンダ

 京都みなみ会館で、『ホテル・ルワンダ』(2004年:南アフリカ、イギリス、イタリア作品。監督:テリー・ジョージ)を観た。
 
 『ホテル・ルワンダ』は、アフリカのルワンダで1994年に起こった、フツ族によるツチ族の大虐殺を、1200人余の命を救った一人のホテル支配人のエピソードを通じて描いた、骨太で重くて真摯な作品である。
 本来ならば、作品の詳細を説明し、ドラマとしてどうこうと語るべきはずなのだが(『ホテル・ルワンダ』は、実際にあった出来事をもとにして創られた「ドラマ」なのだから)、しかし、そうすることが「恥ずかしく」感じられて、僕には仕方がない。
(なぜなら、僕もまた見て見ぬふりをした一人なのだから)
 もちろん、どのような感想を持つかは人それぞれだけれど、少なくとも、機会があればぜひともこの作品を観て欲しいと思う。
 まずは、それからだと思う。

 ルワンダであれ、ソマリアであれ、アフガニスタンであれ、イラクであれ、現状を黙認することは、「手を貸す」ことなのだ。
 今自分自身が「手を貸して」いることを認めることから始めなければ。
posted by figarok492na at 23:53| Comment(0) | TrackBack(1) | 映画記録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年02月25日

にっぽん泥棒物語

 京都文化博物館で、山本薩夫監督の『にっぽん泥棒物語』を観て来た。

 『にっぽん泥棒物語』は、潮健児の映画人生を描いた唐沢俊一編著の『星を喰った男』<ハヤカワ文庫>で一文が割かれていたこともあって、前々から気になっていた作品である。
(独立プロではなく、東映東京作品のため、若き日の千葉真一や室田日出男の他、先述の潮健児、吉田義夫、山本麟一、杉狂児・義一父子、今井健二らが出演している)

 三國連太郎演じる破蔵師=土蔵破りの林田義助が、偶然杉山事件(松川事件*)の「真相」を知り、葛藤の末、法廷で真実を語るという、基本的には「政治性」の強い作品であるが、そこここに仕掛けられた「ユーモア」や「ギャグ」、そして、役者陣のこってりたっぷりとした演技もあって、「笑い」という点でも楽しめる作品になっているのではないか。
 特に、そもそも泥棒だった義助が地方の名士となって一席ぶつところや、最後の法廷での皮肉たっぷりな一幕など、なかなかの見物だと思う。
(もちろん、この作品が人の心の変化を描いた「ドラマ」となっていることは、言うまでもあるまい)
 ところどころ、ここは削ってもいいと感じたり、これは古すぎると感じた場面もなくはなかったが、山本薩夫の「伝えたい」意欲と「楽しませる」術が巧く合致していることは明らかだろう。

 役者陣では、何と言っても三國連太郎だが、「敵」の警部補を演じた伊藤雄之助(インパクトあるわあ!!)や、義助の母親を演じた北林谷栄、今井正の秘蔵っ子江原真二郎、若き日の佐久間良子、市原悦子、緑魔子、鈴木瑞穂、加藤武と名人上手が揃っていて、大いに満足ができた。
(個人的には、加藤嘉、永井智雄の演技を観ることができて嬉しかった)

 観に行って、得るところは大だった。


 *松川事件=1949年8月、福島県金谷川〜松川間で国鉄の旅客列車が何者かによって脱線顛覆させられた事件で、戦後占領期を代表する「冤罪・陰謀事件」の一つである。
 東芝松川労組の幹部(多くは共産党員)が実行犯として逮捕され、第1審、第2審では死刑を含む有罪判決を受けたものの、ようやく最高裁で無罪が確定した。
 労組や共産党以外に、文化人や知識人によっても「救援活動」が活発に行なわれ、山本薩夫も『松川事件』を撮影した。
(『にっぽん泥棒物語』は、『松川事件』撮影中に山本薩夫が聞き知ったエピソードを元にした作品である)
posted by figarok492na at 22:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画記録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年02月05日

浮草日記

 予定通り、京都文化博物館の映像ホールで山本薩夫監督の『市川馬五郎一座顛末記 浮草日記』(1955年、山本プロ=俳優座作品。以下、浮草日記と略)を観てきた。
(今月、京都文化博物館の映像ホールでは、山本薩夫の特集が組まれている)

 『浮草日記』は、真山美保(青果の娘)の戯曲『市川馬五郎顛末記』を映画化したもので、どさまわりの市川馬五郎一座がひょんなことから炭鉱町で組合のストライキと遭遇し、反発と相互理解の末、彼彼女ら労働者とともに芝居を上演することによって、階級的立場に目覚めていくという、いかにもな内容の作品である。
 ただ、いかにもな内容ではある(し、ご都合主義的な展開でもある)けれど、未だに物事の本質をついている作品だとも思う。
(なぜなら、表層は大きく変化したとはいえ、根本的なあれやこれやは、この作品が創られてから50年経っても全然変わってはいないからだ)
 また、東野英治郎演じる市川馬五郎が、大勢の労働者から歓声を受けて、こんなにお客さんとの間を身近に感じた芝居は今までやったことはなかった、と心の底から口にする場面などには、「わかってはいても」、胸にぐっとくるものがあった。
(もちろん、ここで描かれていること全てが、即現在の「闘争」に通用するものではないことも、忘れてはなるまいが)

 市川馬五郎一座を苦しめる悪徳興行主の小澤栄太郎(当時は栄。ほんま、にくたらしいやっちゃ!)や、情けない座員の江幡高志をはじめ、松本克平さん、津島恵子、菅原謙二、花澤徳衛、高橋昌也(色悪)、東山千栄子の他、浜田寅彦、中谷一郎、仲代達矢、岩崎加音子ら俳優座の面々が出演していて嬉しい。
(若き日の小沢昭一や井上昭文の出演も嬉しい)

 『七人の侍』のような大傑作とは言えまいが、当時のどさまわりの一座の雰囲気を識る意味も含めて、今も一見の価値のある作品だと僕は思った。

 なお、『市川馬五郎顛末記』と真山美保、彼女の劇団新制作座などについては、先日読了した矢野誠一の『酒場の藝人』中の、「『市川馬五郎顛末記』の頃」が詳しい。
 興味がおありの方は、ご一読のほどを。
posted by figarok492na at 23:42| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画記録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする