2007年10月26日

千羽鶴

 京都文化博物館まで、増村保造監督の『千羽鶴』(1969年、大映東京)を観に行って来た。

 川端康成の小説『千羽鶴』は、すでに1953年に吉村公三郎監督によって映画化されているが、その際の脚本もこの増村版と同じく新藤兼人が担当している。
(そのこともあってか、初期の頃の土曜ワイド劇場を思い出したりもした。新藤さんは、しばしば土曜ワイド劇場の脚本だの原案だのをやっていたのだ)

 予想通り「邪劇」と呼びたくなるような内容で、特に、亡くなった愛人(船越英二)の面影をその息子(平幹二朗)に重ねて彼を追い求める若尾文子の身悶えぶり狂乱ぶり(「ああ…私は…もお…」といった台詞づかいも凄い)には、さすが増村・若尾コンビだけはあると感嘆したほどだ。
(もちろん、そうした「過剰さ」には、増村監督の一連の作品同様、それなりの理由があることは、若尾文子演じる太田夫人が亡くなった後の展開からもわからなくはないのだけれど)

 役者陣では、当然若尾文子を挙げるべきだろうが、彼女と「対峙」する京マチ子の「芯の通った」演技も強く印象に残った。
 また、病の市川雷蔵に代わった平幹二朗も、確かに巧い演技を披露していたが、雷蔵と比べて柄も顔も大きいために、なんだかかっこいいトミーズの雅が無理をしてニヒルな二枚目(てか、雷蔵)ぶっているという窮屈さを感じないでもなかった。
(これが市川雷蔵だったらなあ。作品全体の印象も大きく変わっただろうに)
 他に、梓英子(彼女はけっこう目立つ役だった)、北林谷栄、南美川洋子、目黒幸子らが出演していた。


 余談だけれど、昨日、この『千羽鶴』の平幹二朗と若尾文子のスチール写真を見て、「これ雷蔵はん?」と係の人に尋ねているおっさんがいたが、どこをどう見たって雷蔵なもんか。
 平幹は平幹だ!
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2007年10月25日

東京物語

 京都文化博物館まで、小津安二郎監督の『東京物語』(1953年、松竹大船)を観に行って来た。
 『東京物語』を観るのは、ほぼ5年ぶりだ。

 って、今さら何を語れっていうんだろう、『東京物語』について。
 小津安二郎の代表作であるこの作品に関しては、すでにあらゆる側面から語られてきた。
 作品そのものの精緻な分析に始まり、笠智衆、東山千栄子、原節子、杉村春子らの見事な演技、ハリウッド映画(レオ・マッケリーの『明日は来らず』)の影響、太平洋戦争の影、はては大坂志郎が巧く関西弁を使えず、小津監督から厳しくだめを出されたこと等々等々。
 正直言って、邦画、てか映画好きを自称するなら観てて当然の作品な訳で、言い換えれば、観てなきゃお話にならないと思う。

 ただ、こうやって観返してみても(みると)、この『東京物語』が表面的に淡々とはしていても、だらだらと冗長な作品ではないことがよくわかる。
 特に、ストーリー展開の「はしょり具合」の妙については忘れてはならない点だと感じた。

 観てない人はとっとと観なさい!
 それ以外の言葉はない。
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2007年10月18日

細雪

 京都文化博物館まで、ジャッキー阿部こと阿部豊監督の『細雪』(1950年、新東宝)を観に行って来た。

 『細雪』は、言わずと知れた谷崎潤一郎の小説を八住利雄が脚色、阿部豊が映画化した作品で、今年に入って原作を読んだばかりだったため、どこがどう抜かれどこがどう映画的に処理されているかがよくわかった。
 まあ、全篇2時間20分程度なので、長さを感じなかったと言えば嘘になるが、基本的には原作の持つエッセンスを活かしたストーリー展開になっていたように思う。
 ただ、ほとんどがセット撮影(しかも、実にチープ)という点には、なんだか1980年代初頭までのお昼のソープオペラを思い出してしまったし、無声時代のアメリカ映画的なカット割りやあまりにも距離の近すぎる登場人物には、どうにも窮屈さを否めなかった。
(アメリカ的云々は、阿部監督が彼の地で修業したことからくる偏見かもしれないけれど、高峰秀子演じる四女妙子など、まさしくハリウッドのスクリューボールコメディ然とした演技づけがされていた。ヘアスタイルも、明らかにあちゃら風だったし)

 うまい下手は置くとして、先述した高峰秀子(今さらながら、この人はきれいだし巧い。特にラスト近くは彼女の真骨頂だった)をはじめ、花井蘭子(長女鶴子)、轟夕起子(次女幸子。『江戸の悪太郎』の面影が時折顔をのぞかせて、嬉しい)、山根寿子(三女雪子)の「アンサンブル」は、雰囲気的にもなかなか決まっていたのではないか。
 他に、河津清三郎(幸子の夫貞之助)、伊志井寛(鶴子の夫辰雄。石井ふく子の親父さん。この頃はまだ「やってる感」が強くて、『ありがとう』で見せた飄々とした味わいには欠ける)、田中春男、田崎潤*、香川京子、鳥羽陽之助、小林十九二、横山運平、浦辺粂子、藤田進、堀雄二らが出演していた。

 はじめ観た時は、あんまりぴんとこなかった市川崑監督の『細雪』を久しぶりに観たくなってしまった、というのが、僕の正直な感想である。
(あと、轟夕起子が鶴子にまわり、京マチ子や山本富士子が出演した、島耕二監督の大映版『細雪』も観てみたい)


 *病室で苦しむシーンで、「痛い、痛い、痛い」と後年の『連想ゲーム』を彷佛とさせるような大声をがなり上げ、はてはベッドから大げさに転げ落ちたものだから、とてもシリアスな場面にもかかわらず、お客さんが笑い声を上げていた。
 さすがは、軽演劇出身の人だけあると、妙に感心してしまった。
(書き割りみたいなセットが、まさしくコントチックだったこともあってのことだろうけど)
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2007年10月12日

女人哀愁

 京都文化博物館まで、入江たか子主演、成瀬巳喜男監督の『女人哀愁』(1937年、PCL・入江プロ)を観に行って来た。

 『女人哀愁』は、入江たか子のプロダクションとPCL・東宝の提携一本目の作品であり、後年『マリアの首』等の戯曲で知られる田中千禾夫と成瀬監督自身が脚本を書いている。
(台詞の中に、「人形」という言葉が巧く使われていることからもわかるように、イプセンの『人形の家』が下敷きとなっていると思しい)

 おおざっぱに言って、お昼のソープオペラの源流と評することができるのだろうが、家庭の「道具」としてしか扱われない若い嫁=主人公(入江たか子)がある「事件」をきっかけに「目覚める」というストーリー展開は、当時としてはやはり斬新だったろうと思うし、それより何より、「やるせなきお」のままで終わらない精神的なカタルシスがあって、とてもすかっとする。
(表面的な展開やメッセージとともに、それが「象徴」しているもの=隷属から覚醒、解放という流れは、いささか教条的であるとはいえ)

 また、主人公の横顔に「籠の鳥」が重なるカットはわかりやすいメタファーだけれど、その少し前に主人公の弟を鳥籠にぶつからせて「籠の鳥」の存在を気づかせるなど、よい意味で教科書的な構成・造形にも好感が持てるし、主人公の実家の描き方も成瀬監督ならではと感心した*。

 若き日の入江たか子(大林宣彦作品でおなじみ、娘の入江若葉を思い出す)は、映画スター然とした、と言うよりそのおっとりとした人柄からくる演技が少し気にならなくもないが、彼女を意識した設定・台詞がぴたりとはまっていて、特に後半が強く印象に残る。
 加えて、後年の上原謙の役どころの「ひな形」=主人公の夫を演じた北沢彪の軽薄さと傲慢さ、弱さの表現がいい。
 他に、いつもの如き軟弱な色男を演じた大川平八郎(成瀬作品では、『浮雲』でのお医者さんの別れの時の表情が忘れられない)、佐伯秀男、御橋公、堤真佐子、沢蘭子(近衛秀麿の愛人! 入江たか子とは逆に、人柄がにじみ出た嫌な演技をやっている。って偏見か?)らが出演していた。
(あと、佐伯秀男の同僚役で、ちらと松本克平さんが出演していたような気がするが、これは未確認だ)

 これは観て損のない作品。
 古い邦画好きにはぜひともお薦めしたい。


 *御橋公ののど仏を突然アップにするなど、はっとするようなカットもいくつかあったが。
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2007年10月11日

朧夜の女

 京都文化博物館まで、五所平之助監督の『朧夜の女』(1936年、松竹大船)を観に行って来た。

 一言で言えば、「妊娠小説」(斎藤美奈子:『妊娠小説』<ちくま文庫>参照)ならぬ、「妊娠映画」だろうか。

 法学部の学生(徳大寺伸)がひょんなことから水商売の女(飯塚敏子)とわりない仲になり、女は子供を身ごもってしまう。
 で、学生の母(飯田蝶子)の心情を慮った伯父(坂本武)が子供の父親は自分であると、自分の妻(吉川満子)にさえ嘘をつく。
 しかし、女は…。

 という風な、まさしく松竹大船調の人情話で、全巻110分のうち、長さを感じた部分が全くなかったと言えば嘘になるけれど、各々の登場人物の人物造形が丁寧であることや(例えば、坂本武演じる伯父のお人好しぶり、飯田蝶子演じる母親のわが子かわいさぶり等々)、淡々としていながら冗長とは言えないストーリー展開(女が自分の部屋に学生を誘うところなど、とても印象的だ)、さらには上記の役者陣のアンサンブルのよさが合わさって、一見の価値ある作品に仕上がっているのではないか。

 また、「下町の雰囲気」の表現にはだいぶんデフォルメがありそうなものの、当時の風俗を識るという意味でも恰好な一本だとも思う。

 役者では、河村黎吉や佐分利信、岡村文子、谷麗光、若き日の笠智衆(一瞬アップになる)が出演している他、冒頭に一竜斎貞丈も顔を出している。


 余談だけれど、五所さんでは、できれば戦後に新東宝がらみで撮影した一連の作品も観てみたいな。
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2007年09月30日

斬る

 京都文化博物館まで、市川雷蔵主演、三隅研次監督の『斬る』(1962年、大映京都)を観に行って来た。

 『斬る』は、柴田錬三郎の小説による新藤兼人の脚本を三隅研次が作品化したもので、市川雷蔵とシバレンさんの作品世界が巧みに絡み合い、さらに三隅監督ならではの映像美が光った一本。
 と言うのは、あくまでも建前的公式見解で、ううん、どうなんだろうな、これは。
 確かに、市川雷蔵はいつもの如く魅力的なんだけど、僅か71分のプログラムピクチュアにしては、無駄に映像技巧がひけらかされているような気がして、僕には「映画丸ごと」いう意味ではあんまりしっくりくる作品ではなかった。
(邪劇的要素も多分にあるものの、残念ながら眠狂四郎のような突き抜け方をしていないのが、どうにももどかしい)

 役者陣では他に、藤村志保、天知茂(老いて出家した彼の表情が、なんだかうさん臭い)、万里昌代(新東宝的な扱い)、柳永二郎、細川俊夫、稲葉義男(ただの悪役)、渚まゆみ(70年代、80年代のアイドルの先駆けとなるような演技。中山エミリにそっくり。ちなみに、この人はハマクラさんのお嫁さんだった)、丹羽又三郎、伊達三郎らが出演していた。


 余談だけど、今回の上映で、映画を専門に勉強してそうな若い人を何人か見かけたが、ゆめゆめこの作品の技巧的な部分にばかり注目しないで欲しいと思う。
 もちろん、学校の課題や映研の作品として真似する分には全然かまわないけど。
 これを真似してお金をとろうと思っちゃ、やっぱりまずいんじゃないかな。
 あくまでもこれは、衰退期に入っていたとはいえ、今だ数多くのプログラムピクチュアが量産されていた頃の一本なのだし、それより何より、市川雷蔵という大スターの存在があってこその企画なのだから。
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2007年09月29日

雨月物語

 京都文化博物館まで、溝口健二監督の『雨月物語』を観に行って来た。

 『雨月物語』は、上田秋成の原作を川口松太郎が書き改め、依田義賢が脚本化したものを溝口健二が撮影した作品である。

 ヴェネツィア映画祭で銀獅子賞を獲得した作品でもあり、確かに戦乱戦国の世(たぶん、この設定には、太平洋戦争が大きく影響しているのだろう)、陶工と農夫の兄弟(森雅之と小澤栄太郎)が欲に目がくらんで、その家族(田中絹代と水戸光子ら)も巻き添えをくってしまう、といった展開は、脚本映像ともども、すとんすとんと治まっているなあと感心する。
 中でも、兄弟とその妻二人らが琵琶湖を舟で渡ろうとするシーンは強く印象に残った。

 が、京マチ子と毛利菊枝の主従が登場したあたりから、何やら邪劇臭が漂いはじめ、せっかくの田中絹代のしっとりとした演技も、とってつけたようなラスト(そりゃ「意味」はわかるけどね)のせいで、何かいまいちしっくりこない感じで終わってしまった。
(「邪劇」という意味では、京マチ子の妖艶さは驚嘆に値するし、毛利菊枝の演技も見事という他ないが)

 てか、ラッパ永田雅一のせいもあってだろうが、なあんか「『羅生門』の夢よ再び!」、逆に溝口健二からしてみれば、「『羅生門』などに負けてたまるか!」って意志が露骨に表れているような気がしてならなかったのだ。
 森雅之、京マチ子という組み合わせもそうだし、早坂文雄の音楽だって…。
 考え過ぎかいな?

 もちろん、観て損のない作品だとは思う。
 要は、「好み」の違いということだろう。

 役者陣では他に、青山杉作、香川良介、上田吉二郎、羅門光三郎、伊達三郎らが出演していた。
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2007年09月28日

無法松の一生

 京都文化博物館まで、阪東妻三郎主演、稲垣浩監督の『無法松の一生』(1943年、大映京都)を観に行って来た。

 『無法松の一生』は、岩下俊作の『富島松五郎伝』をもとに伊丹万作が脚本化し、さらにそれを稲垣浩が映画化した作品である。
(解説によると、伊丹万作は『いい奴』という題名で脚本を執筆したそうだが、語感から言っても、『無法松の一生』というタイトルのほうがしっくりとくる)

 戦中戦後の検閲*1によって相当カットがあるためもあってか、物語的にどうしても「あれあれあれ」と感じてしまう部分もないとは言えないのだけれど、バンツマ演じる松五郎が山車の上で太鼓を打ち鳴らすシーンには、やはり心を動かされたし、戦意高揚とは無縁の作品世界には、どうして戦時中にこの『無法松の一生』が人気を集めたのかもわかったような気がした。
 また、宮川一夫の撮影技巧の高さも特筆に値すると思う。

 役者陣では、当然松五郎その人としか思えない阪東妻三郎を挙げるべきだろう。
 流石はバンツマと唸る他ない。
(その表情から、時折、田村高広ばかりか、田村正和や田村亮のことまで思い起こしてしまった。そして、どうして田村正和が自分の「フォルム」にあんなにこだわるのかも理解ができた)

 一方、松五郎の思慕の対象である未亡人役の園井恵子の清楚な美しさも強く印象に残る。
 惜しくも、彼女は広島への原爆投下によって命を奪われてしまった*2。

 他に、沢村アキオ名で長門裕之が出演している他、月形龍之助、永田靖、杉狂児、山口勇(後述、小林信彦の親類)、香川良介、戸上城太郎、荒木忍、宗春太郎らが出演している。

 邦画好きなら一度は観ておくべき作品だろう。


 *1 戦時中の検閲に関しては、小林信彦の『一少年の観た<聖戦>』<ちくま文庫>中の、『「無法松の一生」の皮肉な運命』が詳しい。
 戦時中のこの作品のカットが、単純に「検閲によるもの」と断言できない事情が記されている。

 *2 園井恵子の被爆死に関しては、新藤兼人監督の『さくら隊散る』が詳しい。
 この作品で、未来貴子が園井恵子を演じているが、確かに雰囲気的にぴったりのキャスティングだと思う。
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2007年09月27日

浪華悲歌

 京都文化博物館まで、溝口健二監督の『浪華悲歌』(1936年、第一映画)を観に行って来た。

 『浪華悲歌』は、ほぼ同じスタッフ及びキャストによる『祇園の姉妹』と対になる一本で(こちらのほうが先に撮影された)、貧しさとしがらみの中で、だからこそしたたかに強く生きていかなければならない女性の姿を、時にユーモラスな場面を交えながら描いた作品である。
 フィルムの状態が悪いため、正直台詞がほとんど聴きとれない部分もあったりはしたが、巧みなストーリー展開や主人公を演じる山田五十鈴の優れた演技もあって、個人的には観て損のない作品だと思う。
(当時の大阪のモダンな「風俗」を識ることができる点も、この『浪華悲歌』の観どころの一つかもしれない。それと、人形浄瑠璃が「効果的」に利用されている場面は、溝口健二の「好み」というか「くせ」がよく表れているのではないか? どこか谷崎っぽいなと思ったけれど)

 役者陣では、何と言っても山田五十鈴を挙げるべきだろう。
 『祇園の姉妹』ともども、ベルさんの演技は本当に巧い。
 他に、梅村蓉子、志我廼家弁慶、進藤英太郎、大倉千代子、原健策、田村邦男、そして志村喬(若い!)と充実した演技者が揃っていた。
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2007年09月21日

キューポラのある街

 京都文化博物館まで、浦山桐郎監督の『キューポラのある街』(1962年、日活)を観に行って来た。

 『キューポラのある街』は、数年前に亡くなった早船ちよの同名の原作による、浦山監督自身とその師でもある今村昌平の共同脚本を映画化した作品である。
 時に子供たちが口にする言葉が「先鋭的」に聞こえる場面があったり、物語のところどころに「歴史的限界」を感じたり、さらには在日朝鮮人の「帰還」には複雑な心境になったりもしたが、一方で、貧困の中でもめげずに生きていこうとする主人公たちの姿など、浦山監督の心情がストレートに表現されていて、個人的には強く心を動かされた。
 また、「食卓」のシーンを俯瞰で映すなど、『にあんちゃん』との共通点を識ることができたのも、実に興味深かった。

 役者陣では、まずもって吉永小百合を挙げるべきだろう。
 彼女には申し訳ないけれど、やっぱりこの作品こそが、彼女のベストではないだろうか?
 そして、彼女の弟役を演じた市川好郎(惜しくも早世してしまった)、その友人役の森坂秀樹の自然で嫌みのない演技も好感が持てる。
 他に、役柄によくあった東野英治郎(「だぼはぜの子はだぼはぜだあ!」)、浜田光夫(この頃の彼は本当にいいな。今だって悪くないけど)、加藤武、北林谷栄、杉山とく子、菅井きん、浜村純、殿山泰司、小沢昭一、吉行和子、下元勉らが脇を固めている。

 『にあんちゃん』と同じく、今だからこそ観て欲しい一本。
 大推薦だ。
posted by figarok492na at 18:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画記録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年09月20日

にあんちゃん

 京都文化博物館まで、今村昌平監督の『にあんちゃん』(1959年、日活)を観に行って来た。

 『にあんちゃん』は、在日朝鮮人の少女安本末子の日記を下敷きとして、今村監督と池田一朗(隆慶一郎)の脚本によって映画化された作品で、父を亡くした四人の兄弟姉妹の置かれた状況を通して、当時の炭鉱地帯の厳しい現実(貧困)、さらには在日朝鮮人の問題などが巧みに描かれている。
 今村昌平らしいドライなタッチの語り口と、にあんちゃん(二番目の兄)役の沖村武、末子役の前田暁子(ともに子役)の屈託のない演技もあって、個人的には非常に好感の持てる作品だった。
(加えて、黛敏郎のちょっとウェットで、優しさに満ちた音楽もいい)

 役者陣は、兄妹役の長門裕之、松尾嘉代(これがデビューみたい)の他、北林谷栄、吉行和子、殿山泰司、今平さん好みの小沢昭一と西村晃、芦田伸介、穂積隆信(いい先生なんだけど、どこかうさん臭い)、二谷英明(ちょい役)、浜村純、山岡久乃、大森義夫、山内明、高木均、辻伊万里、賀原夏子、松本染升、垂水悟郎、高原駿雄、大滝秀治、榎木兵衛といった、一癖二癖どころか三癖も四癖もありそうな人たちが勢ぞろいしている。

 いずれにしても、今だからこそ観る価値のある作品ではないだろうか。

 *追記
 冒頭のナレーションは、たぶん今村作品とは切っても切れない北村和夫が務めていると思う。
posted by figarok492na at 19:04| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画記録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年09月17日

ここに泉あり

 昨日、京都文化博物館で、今井正監督の『ここに泉あり』(1955年、中央映画)を観た。

 『ここに泉あり』は、群馬フィルハーモニー・オーケストラ(現在の群馬交響楽団)という実在するオーケストラの日々直面する困難な状況と、それでも演奏活動を続けていこうとする真摯な姿が、様々なエピソードを積み重ねながら描かれた作品である。
 時に、「うわっちゃあ」と気恥ずかしくなってしまうシーンや「それは物事を単純化しすぎやろう」と突っ込みたくなる展開もあるのだけれど、ハンセン病患者の「隔離施設」での演奏会や利根の山奥の小学校での移動音楽教室のシーンなど、「誰のために表現するのか?」という問いかけへの明確な答えが示されていて、強く心を動かされずにはいられない。
 また、岸恵子と岡田英次の「(よい意味で)所帯じみた」場面は、脚本の水木洋子の独壇場だと思ったし、乾いたユーモアをはじめとする明るい雰囲気も魅力的だ。
 全編2時間半*1、「生理的な欲求」以外の苦痛はほとんど感じずにすんだ。
(ディアナ・タービン主演、レオポルド・ストコフスキー共演の『オーケストラの少女』との関連性を感じたこと、フジテレビのドラマ『それが答えだ!』は、この『ここに泉あり』に大きく影響されているのではないかと感じたことを付け加えておきたい)

 役者陣では、岸恵子、岡田英次のカップルと、オーケストラのキーパーソンであるマネージャーを演じた小林桂樹をまずは挙げるべきだろうが、個人的には加東大介と三井弘次という黒澤作品でおなじみの二人が強く印象に残った。
 特に、酔った加東大介が「きれる」シーンは圧巻だ。
 他に、中村是好(表情が味わい深い)、東野英治郎、十朱久雄、近衛敏明、増田順二、清村耕次、原保美、千石規子、沢村貞子、原ひさ子、伊沢一郎、多々良純、田中栄三(映画監督の)、織田政雄、若き日の大滝秀治、庄司永建、奈良岡朋子ら民藝、俳優座、前進座等の面々が出演している。
(加えて、山田耕筰とピアニストの室井摩耶子が特別出演していることも興味深い。室井のチャイコフスキーは予想していた以上に聴きものだったし、山田耕筰の演技もなかなかのものだった)

 ところで、現実の群馬交響楽団は、その後も苦難の道を歩み続ける。
 『ここに泉あり』の裏話も含めて、そのあたりの事情については、日本音楽家ユニオン・オーケストラ協議会の機関誌、季刊『オーケストラ』に長期連載された群馬交響楽団のヴィオラ奏者関口利雄さん*2(映画では、ヴィオラ奏者の青山が彼にあたるのでは?)の文章が詳しい。
 映画ではいささか「軽薄」にさえ見えるマネージャー・井田亀夫のモデル、丸山勝広の「実際の人となり」をよく伝えている点でも貴重だろう。


 *1 実は、現存するフィルムには「カット」があって、草笛光子の出演するシーンなども抜けている。

 *2 NHKの『プロジェクトX』にも出演していた関口さんは、惜しくも昨年亡くなられた。
 僕は、10年ほど前、藤田翼也という指揮者(群馬交響楽団の定期演奏会を数回指揮している)の消息を知りたくて、一度電話でお話をうかがったことがある。
 深く、深く、深く、深く黙祷。
posted by figarok492na at 12:30| Comment(2) | TrackBack(0) | 映画記録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年09月07日

綴方教室

 京都文化博物館まで、高峰秀子主演、山本嘉次郎監督の『綴方教室』(1938年、東宝)を観に行って来た。

 『綴方教室』は、豊田正子という少女の同名の綴り方(生活作文とでも言うべきか)集をヤマカジさんこと山本嘉次郎監督が映画化した作品で、黒澤明も製作主任(助監督)としてスタッフに名を連ねている。

 作品の根本にあるものは、まさしく貧乏、貧困、貧しさと、そうした中での生活の厳しさ以外の何ものでもないが、それがじめじめうじうじと救いなく描かれるのではなく、時にユーモアも交えながら、暖かい視線でもって綴られているため、基本的には好感の持てる作品に仕上がっていると思う。
(正面きっての「抗議」がない点に、左翼弾圧後の「時代的制約」を感じはしたが)

 また、学級で席を立つ時、一人の少女の椅子が後ろに倒れるなど、山本監督らしい細部にまで目配せのきいた演出も印象に残った。
(そうした「細かさ」は、明らかに黒澤明に受け継がれている。そして、この『綴方教室』から、後年の『どですかでん』を思い起こしたりもした)

 役者陣では、主人公の少女を演じた高峰秀子をまずもって挙げるべきだろう。
 その圧倒的な存在感には、舌を巻く他ない。
 し、単にかわいいというより、きれいだ。
(貧乏生活を嫌がる姿が、成瀬巳喜男監督の『稲妻』の彼女とオーバーラップしたりもした)

 他に、徳川夢声、清川虹子、滝沢修、赤木蘭子、三島雅夫(「たんばさん」ならぬ丹野さん*)、本間教子(後の文子。『羅生門』を彷佛とさせる「エキセントリック」な演技を披露している)も出演していた。

 いずれにしても、観て損のない一本だった。


 *「たんばさん」が、山本周五郎の原作『季節のない街』にもある名前ということは、重々承知しておりますです。
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2007年08月24日

一心太助 天下の一大事

 京都文化博物館まで、中村(萬屋)錦之助主演、沢島忠監督の『一心太助 天下の一大事』(1958年、東映京都)を観に行って来た。

 おなじみ一心太助と天下の御意見番大久保彦左衛門による勧善懲悪劇で、時折上っ滑りな感じがしないでもないのだけれど、その分非常にテンポのよい、なおかつウェットとドライのバランスのよくとれた、観応え充分の愉しい作品に仕上がっていたと思う。
 特にラスト間近、太助ら魚河岸の連中と木場の連中の祭り神輿がぶつかり合う場面など、とてもわくわくさせられた。

 役者陣では、何と言っても硬軟メリハリのよく効いた錦ちゃんの瑞々しい演技(将軍家光との二役もいい)を挙げるべきだろうが、大久保彦左衛門を演じる月形龍之助の渋み重みも見事という他ない。
 他に、進藤英太郎、山形勲、中原ひとみ、丘さとみ、桜町弘子、田中春男、堺駿二、原健策、清川荘司、加賀邦男、沢村宗之助、杉狂児らが出演していて、東映時代劇好きには嬉しいかぎり。

 いやあ、面白かった!


 ところで、ここからはいつもの「ラッパ」だけれど、こうした東映の勧善懲悪時代劇の「エッセンス」というか、「ベース」になるものは、けっこうフジテレビの月9以外のドラマ(特に戸田山雅司脚本あたりの)に受け継がれているんじゃないかと思ったりした。
 もちろん、戸田山さんは東映時代劇に影響を受けている、なんてことを言いたい訳ではないので、その点は悪しからず。
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2007年08月23日

暴れん坊街道

 京都文化博物館まで、内田吐夢監督の『暴れん坊街道』(1957年、東映京都)を観に行って来た。

 『暴れん坊街道』は、近松門左衛門の原作(「重の井子別れ)を依田義賢が脚本化した作品で、パンフレットによると、それまで散逸していたネガフィルムを、内田吐夢の生誕100年にあわせて東京国際映画祭が作成し、上映可能となったものだという。

 正直言って、1957年当時においてもテンポの「ずれ」は否めなかっただろうが、封建制度の桎梏という枠組がしっかりと描かれた、なおかつ「泣きどころ」のはっきりとわかる展開となっており、個人的には、予想していた以上に面白かった。
(後半の悲劇との対比という意味でも、時折挿入されるほのぼのとした「笑い」がいい)

 役者陣では、なんと言っても、ゆえあって実の我が子を手放さざるをえなかった母親(重野=重の井)を演じる山田五十鈴の存在が大きいが、一方で、父親役の佐野周二の飄々とした自然体の演技にも捨て難い魅力がある。
(『江戸を斬る』などで、息子の関口宏も飄々然とした演技を心がけていたけれど、彼にはどうしても「やってる」感がつきまとっていたような気がする。ただ、佐野周二のふと見せる表情などから、彼の従軍経験を思い出してしまったことも事実だ)

 また、子役の植木基晴(片岡千恵蔵の実子)は、どうしても子役特有の「背伸び」した雰囲気が気になってしまったが、「切れる」場面での迫力には感心させられた。
 他に、薄田研二、進藤英太郎、千原しのぶ、毛利菊枝、吉田義夫らが出演していた。
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2007年08月17日

薄桜記

 京都文化博物館まで、市川雷蔵主演、森一生監督の『薄桜記』を観に行って来た。

 『薄桜記』は、大のオーディオ・マニアとしても知られた五味康祐の原作を、あの伊藤大輔が脚本化し、森一生が監督した、忠臣蔵外伝とでも呼ぶべき作品である。
 伊藤大輔の脚本ということで、お察しの方もあるやに存ずるが、案の定、封建制度が生み出す残酷極まりない、しかしながら「しっかりと貫かれる」悲恋の物語で、そこに森監督らしい凝った映像と、市川雷蔵の凄絶かつ艶やかな演技も加わり、実に「美しい」一本に仕上がっていると思う。
 少なくとも、ラストの市川雷蔵の悲壮な姿は、雷蔵ファンならずとも、必見のシーンなのではなかろうか。

 役者では他に、勝新太郎、真城千都世(残念ながら、僕の好みにはあらず)、香川良介、荒木忍、伊沢一郎、北原義郎、清水元、伊達三郎らが出演していた。
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2007年08月16日

炎上

 京都文化博物館まで、市川雷蔵主演、市川崑監督の『炎上』(1958年、大映京都)を観に行って来た。

 『炎上』は、三島由紀夫の『金閣寺』を映画化した作品だが、金閣寺から許可協力が得られなかったため、映画内では別の名前が使われている。
 で、原作の持つ内面描写や心理描写を愛する三島ファンからすれば、まさしく「邪劇」もよいところだろうし、確かに市川崑らしく、「フォルム」「技」が目につき鼻につく部分もなくはない。
 また、戸苅を演じる仲代達矢に象徴されているように、登場人物一人一人が、「過剰」「過激」に描かれていることも否めない。
 ただ、すとんすとんと進んでいくテンポのよい展開もあって、個人的には観て損のない一本になっているとも思う。
 そして、小林信彦が『ぼくが選んだ洋画・邦画ベスト200』<文春文庫>で指摘している通り、市川雷蔵の演技と「炎上シーン」は強く印象に残るものであった。

 役者では、他に中村鴈治郎、北林谷栄、信欣三、新珠三千代、中村玉緒、香川良介、浜村純、浦路洋子、伊達三郎らが出演していた。

 余談だけど、音楽の黛敏郎は、後年歌劇『金閣寺』を作曲しているんだった。
 あいにく未聴だけど。
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2007年08月10日

大阪物語

 京都文化博物館まで、吉村公三郎監督の『大阪物語』(1957年、大映京都)を観に行って来た。

 『大阪物語』は、井原西鶴のいくつかの作品から溝口健二と依田義賢が脚本化をはかっていたもので、溝口監督の急逝により、吉村公三郎が代わって撮影した作品である。
 近江の貧しい百姓から大阪の商人となった一人の男の金に対する妄執が引き起こす悲劇が、時にルーティンな笑いを交えつつ、「面白おかしく」描かれていて、個人的には、観て損のない一本に仕上がっていると思った。
(何ゆえ男が「拝金主義者」たらざるをえなくなったか、を明示した冒頭部分の存在も忘れてはなるまい。これがあるからこそ、男の家族−妻、息子、娘の「心の動き」もすとんと落ちるのだ)

 役者陣も豪華で、その意味でも非常に愉しい。
 まずは、度を超したしぶちんケチ「キチ」親父を見事に演じた中村雁治郎を挙げるべきだろうが、他にも、市川雷蔵、浪花千栄子、香川京子、勝新太郎(自慢の「藝」をひとくさり披露していた)、三益愛子、林成年、小野道子、中村玉緒、山茶花究、東野英治郎、十朱久雄、瀧花久子、荒木忍、伊達三郎らが出演している。
(そうそう、先代の林家染丸が医者役で出演していたのも嬉しい。それと、どうやらあの清水紘治が丁稚役で出演しているみたいなんだけれど、あいにくこれは気づかなかった)

 溝口フリークには「物足りなさ」が残るかもしれないが、僕は充分満足できました。
 いやあ、面白かったなあ。
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2007年08月09日

近松物語

 京都文化博物館まで、溝口健二監督の『近松物語』(1954年、大映京都)を観に行って来た。

 『近松物語』は、近松門左衛門の『大経師昔暦』を川口松太郎が劇化した『おさん茂兵衛』を、さらに依田義賢が書き改めた脚本をもとに映画化された作品で、おさん茂兵衛の悲恋の「道筋」を通しながら、溝口健二の語らんとするところ、一連の作品に通底する想いが巧みに描かれていると思う。
 個人的な好みは置くとして、茂兵衛を演じる長谷川一夫をはじめとした役者陣の充実や、宮川一夫(撮影)、岡本健一(照明)、水谷浩−内藤昭(美術)、そして早坂文雄(音楽)らの技術の高さも含めて、優れた一本ではなかろうか。
(正直言って、「様式美=フォルム」で押し殺したはずの内面のドロドロとしたものが透けて見える分、あんまり溝口作品は好きじゃないんだけどね。でも、それはそれだ)

 上述の長谷川一夫の他、香川京子(おさん)、進藤英太郎、小澤栄太郎、南田洋子、菅井一郎、浪花千栄子、田中春男、十朱久雄、石黒達也、荒木忍、伊達三郎らが出演していた。
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2007年08月06日

『魔法の笛』でしょう、やっぱり

 アドルノのひそみに倣えば、ヒロシマ・ナガサキの後に「詩」を書くことは野蛮だし、「小説」や「戯曲」を書くことも、「オペラ」や「交響曲」や「ラブソング」を作曲することも、「映画」や「テレビドラマ」を撮影することも野蛮だろう。
 もちろん、それが全てではないけれど、「現実」というものに真正面から真摯にぶつかろうとする表現者には、どうしても避けることのできない「テーゼ」の一つであるとも、僕は思ってしまう。


 さて、と。
 以下、結構長くなりますよ。

 京都シネマまで、ケネス・ブラナー監督の『魔笛』(2006年、イギリス作品)を観に行って来た。

 現在公開中なので詳しい内容に関してはあえて触れないが、おおまかに言って、ケネス・ブラナーらしい「明度の高い」、そしてどこかスター・ウォーズ的で、モンテパイソン的でもある作品に仕上がっていたのではないだろうか。
 加えるなら、オリジナルのモーツァルトの歌芝居が持つ、ごった煮「邪劇」的要素も充分汲み取られていたと思う。
(夜の女王のアリアや、パパゲーノがらみの歌の場面を観よ!)
 また、オリジナルから「戦争」の影を嗅ぎとったブラナーの解釈もあながち的外れではないだろう。
 特に、冒頭の序曲の部分は強く印象に残る。

 ただねえ、個人的には、「どうにも微妙だなあ」という言葉が正直な感想なのだ。

 夜の女王が「等身大」で描かれている点にははっとしたし、「邪劇」的な部分も嫌いじゃないんだけれど。
 アウシュヴィッツやヒロシマ・ナガサキの後に、この解釈は、あまりにも脳天気番長すぎやしないかと、僕には感じられてしまうのである。
 少なくとも、あのペーター・コンヴィチュニーの「苦い」演出の存在を知っている身には、ここで描かれている「暗から明への勝利=平和の到来」という「考え方」自体がうさん臭くきな臭く思えてしまうのだ。
(いやいや、そういう反応はちゃちゃんと織り込みずみでんがなまんがな、だからこそ「メルヘンタッチ」、なおかつ「モンテパイソン」的にしたんやおまへんか、と切り返されりゃ、はははそうやったんやあ、と答えるしかないとはいえ)

 あと、オリジナルを知らない人(当然、そういうお客さんもいらっしゃると思う)、特に映画好きには、物語の「展開」があまりにも突っ込みどころ満載に思えてならないんじゃないかな。
 まっ、もとの台本がもとの台本だから、ここはご勘弁していただくということで…。
(僕らが考えている以上に、欧米では『魔笛』という作品は「ポピュラー」なのだ。例えば、日本における『忠臣蔵』みたいに。だから、「根本的」な筋の陳腐さ、整合性のなさを気にする必要はそれほどなかったのだろう。それ自体、なあんか傲慢?)

 もう一つ。
 歌が英語という点で、「原語至上主義」の人たちはおかんむりかもしれないけれど、これは一応「インターナショナル」配給の映画なので、仕方ないんじゃないだろうか。
(そういえば、日本向けの「仕掛け」があるのだが、あれは「あざとく」とられかねないな)
 アングロ・サクソン的な発想という気もするけど、ベルイマンだってスウェーデンの言葉を使ってたはずだし。
 それに、イギリスやアメリカでは『魔笛』を英語上演しているカンパニーも少なくない訳だから。
(ちなみに、アウフヴィーダーゼーエンはアウフヴィーダーゼーエンとドイツ語で歌わせている)

 音楽の演奏は、ジェイムズ・コンロンの指揮するヨーロッパ室内管弦楽団。
 アーノンクールやアバドに比べると数段落ちてしまうが、映画の世界にはよく添った、きびきびとして劇場感覚に不足しない音楽づくりをコンロンは行っていたのではないか。
 ヨーロッパ室内管弦楽団も達者な演奏で、まずもって不満はない。
(コンロンは映画の中にも出ていた)

 ルネ・パーペをはじめとする演者陣も、「歌芝居」という意味では大健闘と言えるだろう。
 タミーノ、パミーナの二人をはじめ、わりかしルックスもいいしね。


 で、最後に。
 この作品の原題は英語の『マジック・フルート』なんだから、ここは『魔法の笛』でしょう、やっぱり。
 そっちのほうが、よっぽど映画の雰囲気にあってるはずだもん。
 だいいちああた、『魔笛』はないでしょ『魔笛』は。


 *追記
 『魔笛』を観て二日が経ったが、なんとも言えない後味の悪さが未だに残っている。
 これで監督がテリー・ギリアムだったら、その後味の悪さも含めて、「確信犯やで確信犯」とまくしたてるんだけどなあ。
 ケネス・ブラナー、「100パーセント」意図してやってくれているのかなあ。
 もしもそうじゃなかったら、ちょっとねえ…。
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2007年08月03日

暗殺

 京都文化博物館まで、篠田正浩監督の『暗殺』(1964年、松竹京都)を観に行って来た。

 『暗殺』は、司馬遼太郎の『奇妙なり八郎』を映画化した作品で、幕末に活躍(暗躍?)した清河八郎の「複雑」な人間性を、様々なエピソードを織り交ぜながら描き上げている…。

 ううん、なあんかね。
 これは篠田監督の他の作品にも感じることなんだけど、何かが足りないんだよなあ。
 清河八郎の丹波哲郎をはじめ、暗殺者佐々木唯三郎の木村功(後半の「狂気」は観もの)、坂本竜馬の佐田啓二、岩下志麻(美しい、やっぱり)、岡田英次、小沢栄太郎ら柄に合った役者が揃っているし、言いたいこともそれなりに伝わってくる。
 でも、何かが足りないんだよなあ。
 もちろん、ラストのあっけなさ(まるで、ゴダールのようなカメラワークと「展開」の)だけを言いたい訳じゃなくってね。
 なんなんだろうなあ、いったい。

 上述に加え、須賀不二男、穂積隆信、早川保、竹脇無我、清水元、山路義人、織本順吉、日下武史、水島弘、高津住男、そして蜷川幸雄(!)と武智鉄二(!)らが出演していた。


 ところで、僕の中瀬八郎という「観劇ネーム」は清河八郎からきたものではないことを最後に付け加えておきたい。
 勘違いする人がいないともかぎらないので。
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2007年08月02日

治郎吉格子

 京都文化博物館まで、長谷川一夫主演、伊藤大輔監督の『治郎吉格子』(1952年、松竹京都)を観に行って来た。

 『治郎吉格子』は、伊藤監督自身の『御誂治郎吉格子』のリメイクにあたり、おなじみ鼠小僧治郎吉の情愛譚を、時に激しい殺陣や、時にルーティンな笑い(よい意味での)を絡めつつ「ウェット」に描いた作品で、なかなか面白い一本だった。

 役者陣では、まずは稀代の大映画スター長谷川一夫の色男ぶりを挙げるべきだろうが、高峰三枝子の艶っぽさ(大学生役にどれだけ無理があるかがよくわかる)、岸恵子の初々しい美しさも強く印象に残る。
 他に、いつもの如きこっけいな悪役ぶりが見事な進藤英太郎、コメディリリーフもまたいい河野秋武、生瀬勝久みたくなった小林重四郎、山路義人(なお、小林、山路の二人は、大曽根辰夫監督によるリメイク版に出演している)、谷晃、ミス・ワカサらが出演していた。

 手堅い娯楽時代劇としてお薦めしたい。


 ただし、観てもいないで「勘」だけで語るのはなんなんだけれど、たぶん作品の凄み、深みは『御誂治郎吉格子』には適わないんじゃないかな。
 そんな気がして仕方がない。
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2007年07月29日

あゝ青春

 京都文化博物館まで、佐分利信監督の『あゝ青春』(1951年、松竹京都)を観に行って来た。

 で、この作品はどう表現すればいいんだろうなあ。
 当時の大学生が抱える様々な問題が、登場人物間の「葛藤」を通して丁寧に、かつ根本の部分では暖かい視線で描かれているし、ラブロマンスやミステリー的な要素もそれなりに盛り込まれているんだけど。
 なあんか、しっくりこないのだ。
 佐分利信の演技そのものというか、真摯で朴訥で…。

 役者陣では、高峰三枝子の大学生が辛かった。
 クラブでの「艶っぽさ」には目を見張ったとはいえ。
 他に、佐分利信と三宅邦子(夫婦役!)、若原雅夫、東山千栄子、河津清三郎、三橋達也、水原真知子、櫻むつ子、山路義人らが出演していた。
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2007年07月28日

江戸の悪太郎

 若き日の轟夕起子の姿が観たくって、京都文化博物館までマキノ正博監督の『江戸の悪太郎』(1939年、日活太秦)を観に行って来た。

 比佐芳武原作・脚本による『江戸の悪太郎』は、ハリウッド映画の影響がまず間違いない、轟夕起子の「雪中の脱走」という物語の皮切りから、マキノ正博の演出が冴えている。
 もちろん、「時代の違い」その他からくる突っ込みどころは多々あるものの、基本的には伏線の張り具合、ストーリーの重なり具合もよく、笑わせどころ、泣かせどころ、怒らせどころ、はらはらさせどころ、すかっとさせどころのしっかり盛り込まれた面白い作品に仕上がっていると思う。

 で、(スクリーンの中では)いつもの如く謹厳実直な嵐寛寿郎が主役といえば主役なのだが、個人的には、誰が何と言おうと轟夕起子を挙げたいなあ。
 まずもって「美しく」って「きれい」だし、男の子姿も妙にはまっているもの。
 かてて加えて、宝塚でならした歌声が聴けたのも嬉しい。
(音質がひどいので、相当聴きとり辛いとはいえ)
 他に、星玲子(ぞくっとするいろっぽさの持ち主)、志村喬、原健作、香川良介、瀬川路三郎、市川小文治、宗春太郎が出演していた。

 フィルムの状態が悪いため難は多々あるが、時代劇好き以外の方にもひろくお薦めしたい一作。


 *追記
 終盤、嵐寛を救うために長屋の連中が悪い侍たちと渡り合うなど、「傾向主義」の残り香が結構したことを付け加えておきたい。
 まあ、上記の「民衆のパワー」の表現が、主義主張や理屈から来たものでないからこそ、愉しいんだろうけど。
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2007年07月22日

鞍馬天狗 龍攘虎搏の巻

 京都文化博物館まで、嵐寛寿郎主演、松田定次監督の『鞍馬天狗 龍攘虎搏の巻』(1938年、日活太秦)を観に行って来た。

 おなじみアラカンこと嵐寛寿郎の鞍馬天狗で、木久蔵師匠じゃないけれど、突っ込みどころ満載(例えば、往来をあんな頭巾姿で歩けば、えらく目立つだろうに!)だが、こういう作品はそれを言っちゃあおしまいなんじゃないかな。
 それに、ルネ・クレールの『自由を我等に』のラストを巧みに応用したと思しき、数多くのお札が地へと舞ってくる冒頭部分の薄気味悪さや、ええじゃないかええじゃないかとお札踊りに狂じる民衆の描き方など、結構あっと驚かされた。
(後半は、ウェットな展開になってしまうが、まあこれは仕方あるまい)

 役者では、何と言っても、アラカンの馬鹿がつく程丁寧な鞍馬天狗=倉田典膳が観物だが、敵方の首領を演じる月形龍之介の「凄み」も強く印象に残る。
 他に、沢村国太郎、大倉千代子、団徳麿、河辺五郎、宗春太郎、香住佐代子、原駒子、瀬川路三郎らも出演している。
(ようやと、戦前の映画俳優たちの顔と名前が一致するようになってきた。が、まだまだ修業が足りません…)

 それにしても、敵方の名前が「山嶽党」とは、さすが大佛次郎だと、ちょとおかしかった。
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2007年07月19日

赤垣源蔵

 京都文化博物館まで、阪妻こと阪東妻三郎主演、池田富保監督の『赤垣源蔵』(1938年、日活太秦)を観に行って来た。

 これは、観に行って大正解の一本だった。

 忠臣蔵中おなじみの「徳利の別れ」を映画化した作品だが、何と言っても阪妻がいい。
 前半のどうにも憎めないだめさ加減も見事だし、兄の羽織に別れを告げる有名な場面での情感たっぷりな演技にも魅せられる。
 流石は不世出の大スターだと感嘆するばかりだ。

 たぶん相当「切られて」いることもあるのだろう、ストーリー的には「足りない」部分(例えば、源蔵がどのようにして赤穂浪士一党に加わったのかとか)も散見されるが、おおもとの物語自体よくできているし、ほのぼのとした「笑い」も悪くない。
 そして、余韻の残るラストも非常に印象的だと思う。

 また、弟思う兄の姿をしっかりと演じた香川良介をはじめ、花柳小菊、磯川勝彦、大倉千代子、志村喬、原健作、中野かほるといった脇役陣にも不満はない。

 フィルムの悪さはいたし方ないが、機会がおありの方はぜひぜひご覧いただきたい。


 ところで、神崎与五郎らが吉良方の密偵に追われるシーンは、先日宮本顕治が亡くなったことや、阪東妻三郎が「心情左翼」だったことを知っているだけに、何か「意味ありげ」に思えて仕方がなかった。
 これって考え過ぎだろうか?
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2007年07月12日

宝の山に入る退屈男

 京都文化博物館まで、西原孝監督の、と言うよりも、市川右太衛門御大の『宝の山に入る退屈男』(1938年、新興キネマ)を観に行って来た。

 おなじみ旗本退屈男といえば、どうしても「東映時代劇!」と答えてしまいたくなるが、こちらは戦前、それも1938年(昭和13年)に撮影された作品だから、右太衛門御大、実に若い。
 まあ、典型的なチャンバラ映画、しかも突っ込みどころいっぱい、というスタイルは後年の東映におけるシリーズと変わらないが、わかってやっていない(言葉を変えれば、「様式化」されていない)分、良い意味で素朴に感じられたことも事実である。
(ただし、西川のりおが真似してみせた、退屈男十八番のフレーズがないのは、やっぱりさみしいな)

 フィルム、音色の状態が悪いこともあり、チャンバラ映画・時代劇好きの方にのみお薦めしておこう。


 余談を一つ。
 わかって悪いことをやる奴も迷惑だけど、自分は善意のつもりでかえって物事を悪化させる人間ほど、度し難いものもない。
 善意の空回りには気をつけておかないと。
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2007年07月06日

花火の街

 京都文化博物館まで、石田民三監督の『花火の街』(1937年、J.O.スタジオ)を観に行って来た。

 大仏次郎原作の『花火の街』は、簡単にまとめると、明治初期の横浜を舞台にした、艶話人情譚といったところだが、1時間20分弱の作品にもかかわらず、どう短く見積もっても、その1・5倍には感じられてしまうような、正直しんどい作品だった。
(後半、物語が少し「動く」あたりで、ようやくほっとしたものの、基本的には冗長さが否めない。テンポの問題とともに、物語の造り、例えば「ユーモア」の欠落がその大きな要因だと思う)

 なお、山口浩章(吉右衛門)さんがだぶって仕方ない小林重四郎、アナクロニスティックなエロキューションの竹久千恵子、若き日の原健策(松原千明のお父さん。僕の親類の家の近くに住んでいた)らが出演している。

 まあ、無理をしてまでご覧になるほどの作品ではないのでは。
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2007年07月05日

祇園の姉妹

 京都文化博物館まで、溝口健二監督の『祇園の姉妹』(1936年、第一映画)を観に行って来た。

 『祇園の姉妹』は、祇園に暮らす二人の姉妹の「生き方」を通して、溝口監督の語ろう伝えようとすることがしっかりと示されており、なおかつ、テンポのよさやモダンな雰囲気、さらにはよい意味での滑稽さも加わって、非常に面白い、観応えのある作品に仕上がっている。
(個人的には、後年の「何か」に凝り固まった一連の作品よりも、この『祇園の姉妹』のほうがよっぽどしっくりくる)

 役者陣では、何と言っても山田五十鈴で、その瑞々しさと巧さには舌を巻く他ないが、姉役の梅村蓉子の抑えた演技も印象に残る。
 また、進藤英太郎をはじめとした男たちの「情けなさ」も作品の世界観によく添っているのではないか。

 いずれにしても、邦画好きなら必見の一作。


 なお、吉村公三郎監督の『偽れる盛装』は、この『祇園の姉妹』のヴァリエーションと考えて、まず間違いはないだろう。
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2007年07月04日

狂った一頁

 6月30日、京都文化博物館まで、衣笠貞之助監督の『狂った一頁』(1926年、新感覚派映画連盟)を観に行って来た。

 『狂った一頁』は、ずいぶん前に教育テレビか何かで一部に接したことがあって、「なんじゃこの前衛的な作品は!」と驚嘆した記憶が残っていたのだけれど、今回全編を観てみて、その印象の大半は確かに当を得たものであったように思った。

 と、言うのも、同時代のドイツ表現主義などを想起させるような、当時としては斬新な映画的技法・手法がこれでもかこれでもかと盛り込まれた、やりたいほうだいの作品に仕上げられているからである。
(タイトル通り、狂った、言い換えれば、沙汰の限りを尽くした映像と展開には、少し気分が悪くなったほどだ。例えば、増村保造監督の『巨人と玩具』における「狂的」な部分が、如何にソフィスティケートされたものかがわかる)

 ただ一方で、その物語は、癲狂院(精神病院)を舞台にしたというところに「新しさ」を感じるものの(「狂気」の人間を物語に取り込むこと自体は古典的なやり口とはいえ)、新派臭の強いわかりやすいものではなかったろうか。
 その意味で、井上正夫の演技は見事に決まっていた。

 あと、後年「あのねのオッサン」として一世を風靡する高勢実乗が高勢実名で出演していて、基本的にはまじめな役柄であるにもかかわらず、どう考えても「やってる」ようにしか見えなかったのが、個人的には面白かった。

 なお、今回の上映は、衣笠監督自身の監修による「サウンド版」によるものだったのだけれど、ううん、これはどうなんだろう。
 「箱根の山は天下の険」と、キチガイじみた軍楽調の『箱根八里』が繰り鳴らされる「福引き進軍」「福引き妄想」あたりは大いに愉しかったとはいえ、あとは少々うっとうしいだけだったような…。
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2007年05月24日

三婆

 京都文化博物館まで、中村登監督の『三婆』(1974年、東京映画=東宝)を観に行って来た。

 『三婆』は、有吉佐和子の原作(を舞台化)したものをもとにして、井手俊郎が脚本化した作品で、一つ屋根の下に生活することになった三人の老女のやりとり、かけひきを、時にグロテスクでオーバーなまでの笑いを加えつつ、巧みに描いた重喜劇だ。
 もちろん、有吉佐和子らしい重いメッセージがこめられていることは、最後まで観れば、わかりすぎるほどわかるだろう。
(テレビ・ドラマっぽい画像自体はあくまでも東京映画らしいのだが、中村登の監督ということや、山本直純の音楽ということもあって、どこか松竹大船調、てか山田洋次風なウェットな雰囲気が漂っている)

 役者陣では、何と言っても「三婆」の、三益愛子、田中絹代、木暮実千代の競演と、有島一郎の飄々としながらきちんと「やっている」演技が強く印象に残る。
 また、吉田日出子(若い!)や名古屋章も彼女彼「らしい」演技を披露しているし、テレビっぽくはあるが、長沢純や小鹿ミキ(!)の出演も個人的には嬉しかった。

 好みはわかれるかもしれないが、田中絹代が自分の若き日の写真を見つめながら往時を振り返るシーンだけでも一見の価値はあるだろう。
 できれば、舞台のほうも観てみたい。

 *追記
 昨日(5月29日)の晩、寝床の中で、山本直純作曲のこの『三婆』のテーマ音楽ってどっかで聴いたようなことがあるんだよなあ、どっから「持って」きたのかなあ、と考えていて、ようやく思いついた。
 ハイドンの交響曲第45番「告別」の第1楽章を遅めにして少しいじくったら、この『三婆』のテーマ音楽に行きつくんじゃないのか!
 まあ、いつもの「ラッパ」だけれど。
(もちろん、山本直純が「告別」シンフォニーを知らないはずがない、はずだ)
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2007年05月18日

恋文

 京都文化博物館まで、田中絹代監督の『恋文』(1953年、新東宝)を観に行って来た。

 『恋文』は、田中絹代による第一回監督作品で、丹羽文雄の原作を木下恵介が脚本化したものである。
 戦後、渋谷に実在した、米兵相手の女たちのための手紙の代筆屋を舞台に、ある男女の悲恋が「社会的」なメッセージ(簡単に言うと、「戦争責任」の問題)を絡めながらウェットに描かれていて、なるほど木下恵介らしい本だなとまずは思う。
 で、田中絹代の演出も、さすがはそれなりにこなれたものだと感心したが、全体的に観て、「悪くはないけど、名作佳作とも言えないな」というのが、当方の正直な感想だ。
(どうしても、「不必要」な無駄が多いのだ)

 役者陣では、田中絹代自身の出演はひとまず置くとして、主人公を演じた森雅之やその友人役の宇野重吉の演技、ヒロインの久我美子や特別出演の香川京子のキュートさが強く印象に残った他、笠智衆をはじめ、田中絹代と因縁浅からぬ人々が「何らか」の形で姿を見せている。
 あと、個人的には、出雲八重子が何度も何度も登場していることと、中北千枝子や小倉繁が結構目立っていること、大好きな関千恵子が出ていたことが嬉しかった。

 必見とまでは言えないが、時間がおありの方は、ご覧になられては。


 なお、渋谷の「恋文横丁」に関しては、最近文庫化された小林信彦の『花と爆弾』<文春文庫>の「渋谷は<映画の街>だった」の中に少し記述があるので、興味をもたれた方はご参照いただきたい。
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2007年05月17日

西鶴一代女

 京都文化博物館まで、溝口健二監督の『西鶴一代女』(1952年、新東宝・児井プロ作品)を観に行って来た。

 『西鶴一代女』は、井原西鶴の『好色一代女』をもとに依田義賢が脚本化、溝口監督自身が構成した作品である。
 邦画好きならよくご存じの言わずと知れた「名作」なので、その内容についてくどくどと語ることはしない。
 確かに、田中絹代演じるお春という一人の女の「変遷」を通じて、溝口監督の語りたいこと伝えたいことが滲み出ている作品と言えるだろう。
 ただ、個人的には、時折「様式」というか「形(フォルム)」のようなものが目について、勝手な物言いになるけれど、「(溝口さんって)損な性分やなあ」と思ってしまったことも事実だ。
(もちろん、そうした「様式」や「形」が過剰さ過激さを抑制していることもまた事実ではないか? 例えば、抑制なき増村保造監督の一連の作品が「邪劇」に化してしまったことと比べればよい)

 役者陣では、当然田中絹代を真っ先に挙げざるをえない。
 その「美しさ」は、凄絶の一語である。
 また、彼女をとりまく男性として、三船敏郎、菅井一郎、進藤英太郎、柳永二郎、宇野重吉、大泉滉(ここでもイカレポンチ風)らが出演している他、沢村貞子や毛利菊枝も印象に残る。

 邦画を語ろうとする人には、避けては通れぬ一作。
 好悪の判断は、それからだと思う。
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2007年05月13日

愛染かつら(総集篇)

 京都文化博物館まで、野村浩将監督の『愛染かつら』を観に行って来た。
(本来は前篇・後篇と分けて公開されたが、現在は「総集篇」という形でしかフィルムが残っていない)

 『愛染かつら』は、霧島昇の声も懐かし「花も嵐も踏み越えて」の『旅の夜風』で有名なメロドラマ中のメロドラマで、まさしく昼の連ドラの原型と言っても過言ではない「べたな」展開となっている。
 田中絹代扮する主人公の看護婦高石かつ枝が、恋を誓いあった上原謙と無事会うことができるか、という新橋駅のシーンが特に知られているが、個人的には、物語の飛躍の激しい後半部分のほうが印象に残った。
(桑野通子がここでもモダアンな姿を披露していて、とても嬉しい)

 先述の如く、田中絹代と上原謙の恋のなりゆき、すれ違いに「はらはら」すべき作品だが、他に、佐分利信、出雲八重子、岡村文子、吉川満子、斎藤達雄、坂本武、河村犂吉らが脇を固めている。
 フィルムの痛みも激しいが、邦画好きなら、一応押さえておくべき作品だと思う。
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2007年05月10日

花籠の歌

 京都文化博物館まで、五所平之助監督の『花籠の歌』(1937年、松竹大船)を観に行って来た。

 『花籠の歌』は、銀座のとんかつ屋を舞台に、その看板娘の恋の顛末が簡潔かつ丁寧に描かれた作品である。
(ただし、五所監督らしくリリカルでウェットな雰囲気に満ちていることも忘れてはなるまい)
 今から70年も前に撮影された作品だけに、当然「時代」を感じざるをえないのだが、後半、斎藤達雄の演じる刑事が表れるあたりには、よい意味でのアクチュアリティを感じたりもした。
 そして、ラストの河村犂吉扮する親父が口にする「4年経ったら…」という言葉には、たまらない気持ちになった。

 役者陣では、まずもって看板娘を演じる田中絹代を挙げざるをえまい。
 その「ちゃきちゃき」看板娘ぶりは、やっぱり魅力にあふれているもの。
 他に、若き日の笠智衆が笠智衆ぶりを十二分に発揮しているのをはじめ(学生にして僧侶!)、佐野周二、河村犂吉、徳大寺伸、出雲八重子、高峰秀子(かわいい!)、岡村文子、谷麓光、近衛敏明といった面々が柄に合った演技を行っていて、とても嬉しい。
 大名作とは言えないかもしれないが、一見の価値は充分にある作品だと思う。

 ところで、川島雄三監督の『とんかつ大将』は、この『花籠の歌』を意識して作った作品なのではないか?
 佐野周二が「とんかつ大将」だし、徳大寺伸も出演しているし。
 それに、川島監督の師匠にあたる渋谷実監督が、『花籠の歌』の編集を行っているし。
 さて、本当のところはどうなんだろう。
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2007年04月21日

眠狂四郎 殺法帖

 昨日、京都文化博物館まで田中徳三監督の、と言うより、市川雷蔵の『眠狂四郎 殺法帖』(1963年、大映京都作品)を観に行って来た。

 眠狂四郎の妖艶さや作品の完成度について、その後の一連の作品に比べて云々かんぬんと口にすることはできるだろうし、『忍びの者』に比べて社会性が云々かんぬんと口にすることもできるだろう。
 が、そんなことどうでもいいくらいに面白い。
(実際、後者なんてどうでもいいことだろうし)
 てか、市川雷蔵の眠狂四郎に接することができるだけで、嬉しくて嬉しくてたまらない。
 少なくとも、こういう具合に一本の映画に心ときめかすことのできる「単純」な自分を幸いだと思う。

 役者陣では、何はなくとも、雷蔵雷蔵雷蔵で、彼の早世が惜しまれてならないのだけれど、他に城健三朗時代の若山富三郎、中村玉緒、小林勝彦、沢村宗之助、高見国一、木村玄時代の木村元、荒木忍らが出演している。
 そして、個人的に嬉しいのは、大好きな伊達三郎の「活躍」だ。
 特に、ラスト間際の演技は必見である。
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2007年04月20日

忍びの者

 京都文化博物館まで、山本薩夫監督の『忍びの者』(1962年、大映京都作品)を観に行って来た。

 『忍びの者』というタイトルを聴いて、「忍者物」を想像したあなたは大正解。
 ただし、村山知義原作、山本薩夫監督という顔触れからもわかるように、胸のすかっとするような忍者活劇を期待すると痛いめにあう。
 何せ二人は左翼中の左翼、物語は苦くて厳しいのだ。
 おまけに、山本薩夫のエンタテインメント物にありがちな「邪劇」臭もふんぷんとする。
 また、説明不足を感じる場面もなくはない。
 それでも、その後に続く一連のシリーズの本来の「姿」を識るという意味でも、一見の価値はあるのではないかと僕は思う。

 役者陣では、当然、主人公の石川五右衛門を演じた市川雷蔵を挙げなければなるまいが、邪劇臭のおおもとたる伊藤雄之助(ラストまで、彼の演技は必見!)、同じくやってるやってる西村晃、城健三朗時代の若山富三郎、岸田今日子、真摯な加藤嘉、個人的に大好きな伊達三郎、沢村宗之助、小林勝彦、そしてかわいらしい藤村志保も強く印象に残る。

 ところで、木下藤吉郎役の役者が、「たんばながひでや筒井順慶が云々」という台詞を口にしていたのだけれど、どう考えてもそれは丹羽(にわ)長秀のことじゃないのか?
 しかも、何とこの役者の名前は丹羽又三郎!
 これっていったい…。
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2007年04月13日

悪名

 京都文化博物館まで、田中徳三監督の『悪名』(1961年、大映京都作品)を観に行ってきた。

 『悪名』は、言わずと知れた、勝新・田宮二郎の名コンビによるシリーズの第1作だが、豪快な「乱闘」シーンはほとんどなく、勝新演じる朝吉と田宮二郎演じるモートルの貞の出会いと友情や、朝吉と女たちの恋愛人情譚が、ダイジェスト的に描かれた作品である。
(できれば、同じ年に公開された『続悪名』も上映してもらいたかった。そうでないと、どうにも話が尻切れとんぼなので)
 まずは、若き日の勝新と田宮二郎を観るべき映画だが、他に、これまた若き日の中村玉緒と水谷良重(現八重子)、肉感的な中田康子、達者な山茶花究に須賀不二男、少々力みの見える浪花千栄子らが出演している。

 なお、音楽はあの伊福部昭が担当している。
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2007年03月29日

にっぽんのお婆ぁちゃん

 京都文化博物館まで、今井正監督の『にっぽんのお婆ぁちゃん』(1962年、松竹=MIIプロ)を観に行ってきた。

 タイトルからして、なんとまあ大仰なと目を剥くむきもあるかもしれないが、まあこれは原作・脚本の水木洋子、並びに監督の今井正らしい「勝負」のありようだと僕は感じた。
 当然、今井正らしく、人が老いるということや死ぬということ、さらにはこの国の社会的な状況や福祉行政に対する「真摯」な訴えもそこここに仕掛けられているのだが、喜劇と銘打たれただけあって、物語は乾いたユーモア感覚に裏打ちされた内容で、北林谷栄とミヤコ蝶々のがっぷりよつに組んだ競演もあって、こ難しい思いはあまりせずにすむ。
 そして、最後に残るのは、生きている限り、自分自身も老い死んでいくのだ、という感慨だ。
(ただ、物語上必要だということは重々承知しつつも、木村功演じるサラリーマンの「突然」の死には後味の悪さを感じた)

 役者陣では、もちろん先述した主人公の北林谷栄とミヤコ蝶々を挙げるべきで、特に、二人がお互いの真実の姿を吐露し、どうやって自殺しようかと考えるあたりの掛け合い漫才のような台詞のやりとりは、見事の一語に尽きる。
(よくよく考えればこの二人、当時はまだ「本当」のお婆ぁちゃんじゃなかったのだ!)
 他に、ばあさん連は、飯田蝶子、東山千栄子、浦辺粂子、原泉、岸輝子、村瀬幸子、じいさん連は、斎藤達雄、渡辺篤、中村是好、左卜全、伴淳三郎、上田吉二郎、殿山泰司、菅井一郎、山本礼三郎、小笠原章二郎、という嬉しい顔のオンパレード。
 よくぞ集めたり、である。
 加えて、田村高廣、沢村貞子、織田政雄、市原悦子、十朱幸代、柳谷寛、渡辺文雄、関千恵子、おまけに小沢昭一、渥美清、三木のり平まで出演している。

 作品自体には、完全に乗り切れていない部分はありつつも、上記の人々の演技を観るだけでも得るところは大きいと思う。
 一見の価値は十二分にあり。
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2007年03月23日

黒い十人の女

 予定通り、京都文化博物館まで市川崑監督の『黒い十人の女』を観に行く。

 『黒い十人の女』は、ちょっと前に、ピチカート何とかの小西何とかという人が高く評価して評判になった作品(おまけにリメイクまでされた)だけに、その内容についてここでとやかく語ることはしない。
 確かにスタイリッシュでスノビッシュな雰囲気を持った作品で、テレビドラマ的なスタイルでテレビ界を皮肉ったり、単に当時の「現代社会批判」に留まらず、フェミニズムやジェンダー論を先取りするような「ひっかかり」さえ有している点には、一見の価値はあると思う。
 ただ、これが市川崑や和田夏十のベストかと問われると、いやそりゃ違うだろうと口にしたくなるのも、残念ながら事実だ。
 少なくとも、『プーサン』や『ぼんち』、『破戒』、『日本橋』、『犬神家の一族』、『細雪』、といった一連の市川崑の作品と「通底」するものを認めることなしに、ただただこの『黒い十人の女』ばかりをありがたがることは、僕にはできない。

 役者陣では、山本富士子、岸恵子、宮城まり子、岸田今日子、中村玉緒ら十人の女たちとともに、先頃亡くなった船越英二も強く印象に残る。
(この人の持つ「軽さ」は、やはり魅力だ)
 他に、巧いという他ない永井智雄(「巧すぎる」とさえ思うほど)、後年自殺した二代目大辻伺郎、浜村純、森山加代子、早川雄三、三角八郎らが出演している。

 で、ここからは余談だけど、若き日の伊丹一三(後の十三)が松田優作に雰囲気がそっくりだったのにびっくりした。
 『家族ゲーム』は、そういう部分も意識したキャスティング? とさえ思ったほどだ。
(『あげまん』のある「行為」が、この映画のあるシーンにヒントを得たとまで考えるのは、考え過ぎだろうな)

 それと、ハナ肇とクレージーキャッツも出演しているが、これはいわゆる「にぎやかし」である。
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2007年03月01日

おかあさん

 京都文化博物館まで、成瀬巳喜男監督の『おかあさん』(1952年、新東宝)を観に行って来た。

 『おかあさん』は、3月の女性シナリオ作家特集の一環として選ばれた一本だが、確かに水木洋子の脚本は素晴らしい。
 森永何たろが集めた「全国児童綴方集」をもとにして、ある家族の日常が田中絹代演じる母親を中心に、香川京子演じる娘の視点で描かれているのだけれど、エピソードの積み重ね方の細やかさは抜群だし、一方で、伝えようとすることの芯の強さ確かさも明らかだ。
 もちろん、成瀬巳喜男の演出の見事さも忘れてはならないだろう。
 さり気ない物語の進め方はいつものことながら、そこにべとつかないユーモアや、映画ならではの遊びも加わって、全篇飽きることがない。
(友だちが、『魂萌え!』のことを成瀬作品につながるものがある、と評していたが、この『おかあさん』を観て、さらに納得がいった)

 役者陣は先述の田中絹代を皮切りに、香川京子、三島雅夫、加東大介、岡田英次、中北千枝子、沢村貞子、三好栄子、本間文子、一の宮あつ子、鳥羽陽之助、片山明彦、そして中村是好(!)と嬉しい顔触れが揃っている。

 必見の一作。
 これは観るべし!
(それにしても、あの石井輝男がこの作品の助監督だったとは)
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2007年02月22日

この首一万石

 京都文化博物館まで、伊藤大輔監督の『この首一万石』(1963年、東映京都)を観に行って来た。

 はっきり言って、救いがなく後味の悪い作品だ。
 それは、以前ここで紹介した、同じ伊藤大輔監督の『下郎の首』と同様、監督自身が意図してそうしたものであると充分承知しつつも、どうしてもそう書きたくなってしまう。
(精神面での救いのなさ、後味の悪さに比べれば、ラストの殺陣における残酷な描写など、ものの数でもないだろう)
 むろん、伊藤監督の首尾一貫ぶりに感嘆したことも、また事実なのだけれど。

 それと、そうした点はそうした点として、役者陣の動きやセットの雰囲気、フィルムの色合い等々から、「ああ、これってやっぱり東映の時代劇やなあ」と強く感じたことを付け加えておきたい。

 役者陣では、何と言っても主人公を演じた大川橋蔵で、前半の滑稽さや色男ぶりが、後半の「悲劇」を見事に引き立たせていると思う。
 他に、江利チエミ、水原弘、堺駿二、大坂志郎、佐々木孝丸、藤原釜足、香川良介、河野秋武、東野英治郎、原健策、吉田義夫、平幹二朗、赤木春恵、北村英三、汐路章(!)らが出演していて、個人的にはとても嬉しかった。

 一見の価値はあるが、いろいろと引き受ける覚悟の必要とされる一本ではなかろうか。
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2007年02月11日

いとはん物語

 京都文化博物館まで、伊藤大輔監督の『いとはん物語』(1957年、大映東京)を観に行って来た。

 『いとはん物語』は、北条秀司の舞踊舞台劇『いとはん』を映画化した作品で(脚色は、成澤昌茂)、プログラムの解説によると、伊藤監督自身が原作の舞台に接して「即座に映画化を決めた」ということらしい。
(人の「真心」に焦点をあてた物語の展開は、確かに伊藤監督の好みにぴったり添っているように思う)

 大阪船場の老舗を舞台に、京マチ子演じる「醜女」のいとはんを中心とした登場人物間の葛藤が、一時間半弱の中でシンプルにまとめられていて、個人的には好感の持てる作品だった。
 また、映画ならではの趣向も盛り込まれていて、なおかつそれが物語的に必然性のあるものであり、そうした点でも充分納得がいった。

 役者陣では、当然京マチ子の演技の幅の広さを挙げるべきで、彼女の日本映画界において果たした役割を再確認することができた。
 他に、後年の仁侠映画を予感させる鶴田浩二、『巨人と玩具』とは正反対の役柄を演じた小野道子、東山千栄子、浦辺粂子、加東大介、矢島ひろ子、市川和子、丸山修らも印象に残る。

 「傑作」とは呼べないかもしれないけれど、「佳品」という言葉で評したくなるような作品。
 機会があれば一見をお薦めしたい。
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2007年02月08日

地獄花

 京都文化博物館まで、伊藤大輔監督の『地獄花』(1957年、大映京都)を観に行って来た。

 いつもの如く、くどくどくだくだと粗筋を語ることはしないが、一言で言って、狙いのはっきりした作品だと思う。
 それは、まずもって室生犀星の原作を監督自らが脚色(し、円地文子が潤色)した台本−物語のわかりやすさという意味でそうだし、さらには永田雅一ラッパがどこを向いて商売をしているかという意味でもそうだ。
 で、時に、後者のほうが露骨に表れていて、これって『羅生門』の二番煎じもいいとこじゃないか、と思ってしまう部分さえたびたびあったのだけれど(例えば、あっと驚くラストなど)、一方で、伊藤監督らしい激しい殺陣が挿入されていたりもする。
 時代物がお好きで時間がおありの方は、一度ご覧になられては。

 ところで、あの宮崎駿監督は、若き日にこの作品に接したことがあるんじゃないだろうか。
 って、まさかもののけ姫のモデルが、京マチ子だと言いたい訳じゃないんだけれど…。
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2007年01月31日

魂萌え!

 友だちの強い勧めもあって、京都シネマまで阪本順治監督の『魂萌え!』を観に行って来た。
(14時45分の回を観たが、主人公の風吹ジュンと同世代とおぼしき女性を中心に、ほぼ満席の盛況だった)

 公開中ということもあって、くだくだと内容の説明を行うことはしないが、一言で言えば、「大人による、大人のための映画」だと思う。
 少なくとも、僕はこの作品が伝えようとするあれこれに共感したし、観て清々しい気分になれた作品だった。

 まずもって、阪本監督による脚本と演出が丹念かつ巧みであり、桐野夏生の原作(未読)の面白さやメッセージまでがしっかりと伝わってくる。
 加えて、映画に対する熱烈なオマージュともなっている。

 役者陣では、何と言っても主人公を演じた風吹ジュンが魅力的で、かつての彼女を思い起こし重ね合わせながら、本当にいい役者になったなあと感嘆したが、その他の面々も、役柄によく合ってほぼ納得のいく人選ではなかったろうか。
(寺尾聡、加藤治子、と言い出したらきりがない)

 世の中甘くはないけれど、それでも捨てたもんじゃない。
 と、元気になれる一本。
 特に、「大人」の人たちにお薦めしたい。
posted by figarok492na at 21:28| Comment(3) | TrackBack(0) | 映画記録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年01月28日

マリー・アントワネット

 昨晩、友だちに誘われてTOHOシネマズ二条まで、ソフィア・コッポラ監督の『マリー・アントワネット』を観に行ったんだけど…。
 ううん、なんて言ったらいいのかなあ。
 公開中なので詳しい内容については触れないが、残念ながら、僕にはどうにも物足りない一本だった。

 はっきり言って、ソフィア・コッポラの狙いは、わかり過ぎるほどによくわかる。
 たとえ、フランス宮廷内のあれこれをはじめとした歴史考証という、アメリカ人のヨーロッパに対する「オリエンタリズム」的なコーティングがなされていたとしても、ここで描かれている事どもは、現代のアメリカ社会の一端そのものだし、「等身大」のマリー・アントワネットだって、現代アメリカ女性の一典型そのものだ。
(マリー・アントワネットを演じる、キルスティン・ダンストを観るだけで、そのことは明らかだろう)

 だが、そうしたことを頭で充分わかっいても、それがそのまま心を動かされることには全くつながってくれない。
 マリー・アントワネットに仮託して、現代に生きる女性の内面・苦悩を描き込むという意味では、まだまだ掘り下げに不足しているし、逆に、現代のアメリカを批判するという意味では、あまりにも表現が曖昧に過ぎる。
 結局、何もかもが中途半端なのである。
(マリー・アントワネットと、この国のある「高貴」な女性がだぶって見える箇所があったりもするのだけれど)

 もちろん、ソフィア・コッポラの才気を感じた部分がないでもない。
 例えば、アメリカン・ニューシネマや、ライト・ラブコメディその他、過去の作品の取込み方など、実に堂に入ったものだ。
 けれど、そうした才気が作品全体の完成度に結実することなく、無駄に浪費されていると思えてならなかったことも、また事実なのである。

 駄作中の駄作とまで斬って捨てることはできないものの、申し訳ないけれど、多くの人に喜んでお薦めできる作品ではない。


 余談だけれど、歴史上の人物を「革命的」に描き上げた作品としてなら『アマデウス』を推したいし、アンシャン・レジームの腐敗をエレガンスに、かつ痛烈に描き上げた作品としてなら『リディキュール』を推したい。
 また、一人の女性の内面を丹念に描き込んだ作品としてなら『ダロウェイ夫人』を推したいし、現代アメリカのあれこれを面白おかしく切り取った作品としてなら、それこそ『アリー・マイ・ラブ』や『セックス&ザ・シティ』を推したい。

 追記=それにしても、ラストのフランス民衆の「チープ」さは、なんなんだろうなあ。
 ソフィア・コッポラの主眼がそこにないことは、わかりつつも、わややと思ってしまった。
(そうそう、忘れちゃいけない。この国には、『ベルバラ』があったんだ!!)
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2007年01月26日

春琴物語

 予定通り、京都文化博物館まで、伊藤大輔監督の『春琴物語』(1954年、大映東京)を観に行ってきた。

 『春琴物語』は、言わずと知れた谷崎潤一郎の『春琴抄』を映画化した作品であるが、伊藤監督は、原作の持つ耽美的な傾向や、人間の情念、感情の激しさを、「過剰さ」に頼ることなく丁寧に描いていたのではないだろうか。
 特に、佐助が眼を潰すにいたるまでのスリリングですらある物語の運び方は、伊藤監督らしいと思った。
(八尋不二の脚本も、まとまりがよいものだ)

 役者陣では、当然京マチ子の「春琴ぶり」も印象深いが、佐助を演じた花柳喜章の「色気」も、やはり忘れられない。
 他に、杉村春子が達者な「悪役」ぶりを発揮し、船越英二がコメディリリーフ的な役柄を演じていた。

 一見の価値はある作品だ。
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2006年12月31日

犬神家の一族

 昨日、新京極シネラリーベのレイトショーで、市川崑監督の2006年版『犬神家の一族』を観る。

 1976年版の作品を偏愛しているからこそ、昔と比べちゃいかんいかんと自らを戒めながら観始めたのだけれど、タイトルの部分で、石坂金田一の映像が何個か挟まれたところで、こりゃあ辛いなあと思ってしまった。

 もちろん、「批評家」を気取るなら、あれこれと好意的な評価をできないこともない。
 例えば、作品としてのテンポ感の変化は否めないとしても、市川崑が一連の作品で追求してきたことどもは、単に表層的、じゃない映像的、ばかりでなく、物語の展開や構成からも明瞭に伝わるし、増村保造監督らに強く影響を与えた「過剰さ」やユーモア感覚は、今回の『犬神家の一族』においても、それなりに発揮されていた。
 加えて、石坂浩二の演技の巧さは抜群のもので、年相応の名探偵像を造り上げていたと思う。
 また、加藤武や大滝秀治、三條美紀、草笛光子らの演技にも観るべきものがあったのではないだろうか?
(「老いたなあ」という感慨はこみで)

 ただ、ぶっちゃけて言えば、76年版を「なぞっている」感がどうにも強く、さらには演技陣の演技の過剰さが嘘臭く感じられて*、なんとも心が動かされなかったことも事実である。
 *特に、富司純子、中村敦夫、仲代達矢、松坂慶子、萬田久子らに、それを感じた。
 少なくとも、前作の高峰三枝子(それほど巧いとは思えなかったのに)、小澤栄太郎、三國連太郎、三條美紀、草笛光子らとの「差」は明らかだろう。
 そして、その「差」は、映画の黄金時代に間に合ったか、その後の「アンチテーゼ」の時代を生きなければならなかったかの「差」だと僕は考える。
(松坂慶子は、かつての一連の作品を彷佛とさせる演技を見せていたシーンが一箇所だけあったが)

 駄作愚作とも言わないが、成功作とは、僕には断じることができない。
 セルフパロディになりきれなかったセルフパロディもどき、と評すれば酷に過ぎるだろうか?
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2006年12月01日

兄とその妹

 京都文化博物館で、島津保次郎監督の『兄とその妹』(1939年、松竹大船)を観る。

 後半、佐分利信演じる主人公に「災難」(男の嫉妬による)が降りかかってくるとはいえ、基本的には大きな事件が起こる訳ではなく、主人公とその妻(三宅邦子)、妹(桑野通子。そのファッションの先鋭的なこと! それもこの作品の観どころである)の親密な生活が、時に主人公や妹の職場などをからめながら淡々と描かれた作品なのだけれど、これが実に面白い。
 登場人物間の微妙な関係の在り方がしっかりととらえられていることがまず魅力的だし、それがこれ見よがしでないのもなおよい。
 また、戦前の都市における生活=モダニズムを識ることができる点も、非常に興味深い。
 加えて、上記の三人の他に、河村黎吉、笠智衆、上原謙、坂本武、菅井一郎、水島亮太郎、奈良真養、小林十九二らが物語に彩りを加えている。
 ラストで、主人公たちが飛行機に乗って満州に旅立つシーンや、結婚こそ女性の云々かんぬんという台詞には時代を感じずにはいられないが、いわゆる「松竹大船調」の最も優れた典型の一つと評することができるのではないかとも、僕は思う。
 多くの方々にお薦めしたい一本だ。

 なお、この作品に関しては、小林信彦の『噂の映画「兄とその妹」』(『コラムは誘う』<新潮文庫>所収)が詳しい。

 それと、『兄とその妹』は、1956年に東宝がリメイクしている。
 松林宗恵監督、池部良(主人公)、原節子(妻)、司葉子(妹)他の出演によるもので、こちらもできることなら観てみたい。
posted by figarok492na at 22:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画記録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年11月04日

日本橋

 予定通り、京都文化博物館まで市川崑監督の『日本橋』(1956年、大映東京)を観に行って来た。

 『日本橋』は、泉鏡花の同名の小説を映画化したもので、鏡花らしい義理人情がもつれあいからみあうストーリー展開に、怪奇趣味やグロテスクさが加わって独特の作品世界が創り上げられている。
 正直言って、はじめのうちは後から入ってきたお客さんが気になったこともあって、市川崑の映像ばかりに目が行き、「こりゃあ絢爛たる退屈さに終わってしまうんとちゃうか」と心配していたが、そこは鏡花と市川崑(さらには和田夏十)、物語が回転し始めてからは、面白い面白い、ぐいぐいぐいぐいと引き込まれてしまった。
(これって、新派のお芝居の作り方まんまじゃん、と途中で気づく。書き割り風のセット一つとってみてもそれがわかる*)
 *ただし、この『日本橋』を単純にアナクロニスティックな作品だと判断すると、それは大きな誤りであろう。
 『ぼんち』や『犬神家の一族』がそうであるように、『日本橋』もまた、市川崑のモダアンな感覚に貫かれているのである。

 役者陣では、淡島千景と山本富士子の二人の芸者の「美しさ」の違いが強く印象に残るが(個人的には、『リボンの騎士』のモデルになったという若き日の淡島千景のことが大好きなのだけれど、山本富士子もやっぱり悪くない)、他に、二人の間で、と言うより義理や人情、己の心情に悩み苦しむ品川隆二(若いなあ、若い)、情けなさと無気味さが見事な柳永二郎(特に、「火事」の後の変わりっぷり!)、若尾文子、船越英二、浦辺粂子、岸輝子、沢村貞子らも出演している。

 これまた一見の価値ある作品だと思う。

 ちなみに、助監督はあの増村保造。
 『巨人と玩具』は、こうした経験もあって生まれたのか。
(そう言えば、腕白大将の役で、川口浩も出演していた)
posted by figarok492na at 03:02| Comment(2) | TrackBack(0) | 映画記録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする