2012年05月04日

本日休診

☆本日休診<1952年、松竹大船>

 監督:渋谷実
 原作:井伏鱒二
 脚色:斎藤良輔
(2012年5月4日、京都文化博物館フィルムシアター)


 渋谷実は、喜劇の造り手として知られるが、彼の遺した喜劇の中でも『本日休診』は屈指の一本と呼ぶことができるのではないか。
 同名作品や『遙拝隊長』といった井伏鱒二の小説を下敷きに、小さな医院の老先生と「本日休診」にもかかわらず次から次へとやって来る患者たちとのエピソードを通して、苦しみや辛さを抱えつつもなんとか生きて行こうとする人々のあり様や未だ癒えない戦争の深い傷などがしっかりと浮き彫りにされていく。
 と、言っても、そこはあくまでも喜劇、乾いた笑いの仕掛けもふんだんに盛り込まれているが(望月優子の診察のくだりとか)、それでもラストの情景にはぐっと心を掴まれた。

 役者陣では、まずもって扇の要の役回りを演じた柳永二郎が見事。
 ときに激しい憤りをあらわにするも、善人好人物の老医師を達者に演じている。
 落ち着いた感じのナレーションも素晴らしく、永井荷風らの作品の朗読は残っていないものか。
 また、佐野眞一のインタビュー『怪優伝』<講談社>でも触れられているように、この『本日休診』を自らの生涯の十本のうちの一本に選んでいる三國連太郎も、戦争で気の狂った青年の役をナイーヴに演じ切っていて、強く印象に残る。
 中でも、ラストの表情!
 ほかに、淡島千景(淡島さん、好きだなあ)、田村秋子(杉村春子が彼女の影響を強く受けていることがよくわかる)、鶴田浩二(本当は気の狂った青年役のはずがそれを三國連太郎に奪われる形となり、そのこともあって終生三國さんを敵視したことが『怪優伝』で語られている)、角梨枝子、佐田啓二、岸恵子、中村伸郎、長岡輝子、十朱久雄、多々良純、増田順二、山路義人らが出演している。

 おかかなしさ(by色川武大)に彩られた作品。
 ああ、面白かった!
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2012年05月02日

麦秋

☆麦秋<1951年、松竹大船>

 監督・脚本:小津安二郎
 脚本:野田高梧
(2012年5月2日、京都文化博物館フィルムシアター)


 今さら小津安二郎の『麦秋』についてつらつら書き連ねるのもどうかと思うけど。
 『麦秋』、やっぱり観てよかったなあ。

 婚期の遅れた娘(28歳で婚期はどうこうって…)の結婚を大きな軸に、鎌倉の中流家庭の日常生活を通して、過ぎ去って行くものやこと(そこには戦争の深い傷も含まれている)への痛切な想いを描き出した一本。
 と、まとめるとあまりにも単純に過ぎるかな。
 二時間を超える作品だが、かつて喜劇でならしたことを想起させるくすぐりや仕掛けがそこここに散りばめられていること(子供の使い方も巧いや)や、ゆっくりとしたテンポでありながらも停滞することのない筋運びもあって、全く観飽きることがなかった。
 そして、行間を読むというか、あえて多くを語らない抑制された映像と映像、台詞と台詞、演技と演技の間にあるものの豊かさに改めて感心した。
(女性どうしの親しい感情が巧みに表現されている点も、非常に興味深い)

 原節子をはじめ、笠智衆、三宅邦子、菅井一郎、東山千栄子、杉村春子、二本柳寛、高堂國典、佐野周二(様々な意味で興味深い人物像)、宮口精二、高橋豊子、井川邦子といった役者陣も作品の世界観によく沿った演技を披歴していて嬉しかった。

 なお、今月の京都文化博物館のフィルムシアターは、今年2月に亡くなった淡島千景を追悼するプログラミングとなっているが、この『麦秋』では、原節子演じる主人公の親友役を陽性軽快に演じていて、強く印象に残る。
 それにしても、若き日の淡島さん、キュートだ。

 ああ、面白かった!
 できれば、『晩春』も観たいなあ。
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2012年04月27日

大満足の『悪名市場』

☆悪名市場<1963年、大映京都>

 監督:森一生
 原作:今東光
 脚本:依田義賢
(2012年4月27日、京都文化博物館フィルムシアター)


 タイトルからもおわかりの如く、勝新こと勝新太郎演じる八尾の朝吉と、田宮二郎演じる清次(亡くなったモートルの貞の弟という設定。もしかしたら、『男たちの挽歌』は、この「トリック」をいただいたのではないか?)のコンビが大活躍する『悪名』シリーズ中の一本である。

 で、今回は、芦屋雁之助小雁兄弟演じる贋の朝吉清次が絡んで話が進んでいくのだけれど、登場人物出演者の見せ場をきっちり設けつつ、巧みにドラマを造り出した依田義賢(溝口作品でおなじみ)の脚本に、森一生の手堅い作劇もあって、あっという間に一時間半が過ぎてしまった。
 当然、勝新田宮の軽妙さを兼ね備えたかっこよい演技が見物であることは言うまでもないが、一方の偽物二人喜劇人ぶり、ばかりか、ここぞというところで見せるシリアスな演技も印象に残る。
(特に、悪党にはめられて嬲り者にされたあとの雁之助の表情!)
 ほかに、ほわんほわんくにゃりくにゃりとした雰囲気の瑳峨美智子をはじめ、田中春男、松居茂美(あまり映画には出演していないが、存在感がある)、藤原礼子、茶川一郎、曾我廼家五郎八、西岡慶子(後述、小雁さんも話されていたが、五郎八の娘)、白木みのる、花沢徳衛、永田靖、横山アウトらが、各々の柄に合った演技を披歴していた。
(加えて、ラストの藤田まことの出演もオチがきいていていい)

 しかも、上映終了後には小雁さんのトークまであって大満足というほかない。
 ああ、面白かった!


 なお、この『悪名市場』に関しては、小林信彦も芦屋雁之助を追悼する一文「雁之助さんのような生き方」(『本音を申せば』<文春文庫>所収)で、好きな作品として触れている。
 『悪名市場』を未見でない方は、よろしければご参照のほど。
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2012年04月25日

赤い天使

☆赤い天使<1966年、大映東京>

 監督:増村保造
 原作:有馬頼義
 脚本:笠原良三
(2012年4月25日、京都文化博物館フィルムシアター)


 AKB48の『上からマリコ』じゃないけれど、当人はいたって真面目も真面目、大真面目なのに、「君は本気なのか? JOKEなのか?」と激しく問い質してみたくなるような行動をとる人間がいる。
 さしずめ、『赤い…』シリーズや『スチュワーデス物語』、『少女に何が起こったか』等、いわゆる一連の大映ドラマなど、そうした本人は本気、傍から見たら狂気といった人物のオンパレードで、子供心に、何ゆえこの人たちはこうも力んで台詞を口にしているのだろうと不思議に思ったものである。

 で、こうした大映ドラマのフォーマットを造り上げた人物こそ、増村保造なのだが、彼の『赤い天使』もまた、当然の如く大映ドラマを彷彿とさせる展開内容となっていた。
 だいいち、タイトルからして『赤い…』だし、強い愛情で結ばれる上官の軍医(芦田伸介が役柄にとてもよく合っている)と従軍看護婦(若尾文子。後述)の関係には、『スチュワーデス物語』のあの二人をどうしても思い出してしまう。
 ただ、後年のドラマがあまりに行き過ぎて過剰過度過激過敏の邪劇に陥ってしまったのに対し、『赤い天使』のほうは、確かにふんぷんと邪劇臭を漂わせながらも(例えば、終盤、周囲を敵の中国軍に囲まれてからの二人のやり取りの中には、意図はわからないでもないが、やっぱりそれはないやろと突っ込みたくなるシーンがある)、極限状態のもとで、それでも、いやだからこそか、自己の感情を抑制することなくストレートに噴出させるという強い自我のあり様や、エロス(性=生)への欲求を克明に描き出すことで、人間のドラマとしてしっかりと踏み止まっているように、僕には思われた。
 一つには、主人公のあどけなさや可憐さと、情念の激しさを演じ分ける若尾文子という演技者の存在も大きかったのだろうが。
 いずれにしても、増村保造という表現者がどうして生き急がざるをえなかったかすらが感じられるような一本だった。
(どの監督でもそうだけれど、こと増村監督に関しては、単に表面的な作風を真似してみても全く意味がないと改めて思った。そんなことをしてみたところで、中身のない上っ面だけのすかすかなものにしかならないだろうから)

 それにしてもメルヘンである市川崑監督の『ビルマの竪琴』を間に挟んで、亀井文夫監督の『支那事変後方記録 上海』(残念ながら未見)と『戦ふ兵隊』、そしてこの『赤い天使』を同じ月に並べてみせた京都文化博物館フィルムシアターのプログラミングは、本当に見事だと思う。
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2012年04月24日

関の弥太っぺ

☆関の弥太っぺ<1963年、東映京都>

 監督:山下耕作
 原作:長谷川伸
 脚本:成沢昌茂
 音楽:木下忠司
(2012年4月24日、京都文化博物館フィルムシアター)


 血を分けた親兄弟との別離と思慕の念。
 例えば、大村彦次郎の『時代小説盛衰史』<筑摩書房>を紐解いてもらえればわかることだが、長谷川伸の一連の作品は、自らの幼時の体験、深い心の傷が強く投影されたものとなっている。

 そして、そうした長谷川作品のエッセンスを巧みに汲み取り、新たに仕立て直したのが、山下耕作監督による『関の弥太っぺ』だ。
 生き別れた妹への想い、そしてひょんなことから命を助け、実の親類のもとへと送り届けることになった娘への想い。
 そんな主人公の関の弥太郎の強い想いを、錦ちゃんこと中村錦之助(のちの萬屋錦之助)は、たぶん彼の地である人柄のよさからくる優しく柔らかい表情や哀しみの表情、逆にしっかり造り込んだ厳しく険しい表情を見事に使い分けながら、しっかり演じ切っている。
 中でも、妹がすでに亡くなっていたと知ったときの弥太郎の慟哭には、ぐっと心を動かされた。
 加えて、この山下監督版では、弥太郎と対照的な箱田の森介(木村功が好演。そして、同時期に撮影された内田吐夢監督の『宮本武蔵』の本位田又八をどうしても思い起こす。事実、山下監督は『宮本武蔵』の助監督を務めていた)が人間の弱さ、狡さを体現することで、物語に奥行きを生み出してもいた。
 また、月形龍之介や夏川静江、安部徹、鳳八千代、岩崎加音子、坂本武、十朱幸代(個人的には、小さい頃を演じていた上木三津子のほうが達者に観えた)、沢村宗之助、砂塚秀夫といった共演陣も柄に合った演技を行っていたのではないか。
 一人、彼を狙う飯岡勢へと向かって歩いて行くラストの弥太郎の姿も強く印象に残る。

 そうそう、東映京都の作品ということのほか、木下忠司の音楽や大坂志郎(達者、と言うより達者過ぎる演技を披歴)、俳優座の武内亨の出演もあったりして、どうしても後年のナショナル時代劇を思い出してしまったことを付け加えておきたい。
 いや、まあ、東映京都の時代劇映画のフォーマットが、ナショナル時代劇に受け継がれているということなんだけど、実際のところは。

 いずれにしても、時代劇好きの人間には大いに満足のいった一本だった。
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2012年04月21日

たそがれ酒場

☆たそがれ酒場<1955年、新東宝>

 監督:内田吐夢
 脚本:灘千造
 音楽:芥川也寸志
(2012年4月21日、京都文化博物館フィルムシアター)


 色川武大の『寄席放浪記』<河出文庫>に収められた、色川さんと鈴木桂介、淀橋太郎による鼎談「キラ星のごとく輝いていた浅草」は、浅草の今は亡き喜劇人たちを活写して余すところがないが、その中で、窮乏生活にあった有馬是馬が息子の茂を子役として使ってくれと内田吐夢に売り込みに行ったところ、内田監督から「子供はいいから、あんた出ろよ」と言われたというエピソードを鈴木桂介が語っている。
 それを、「『たそがれ酒場』だ。酒場のマネージャー約で、あれはなかなかのものでしたよ」と、色川さんが受けているのだけれど、その『たそがれ酒場』、有馬是馬のマネージャーばかりでなく、全篇、なかなかのもの、どころかなかなか以上のものだった。

 都会のある大衆酒場の開店間際から閉店直後に到る数時間を、いわゆるグランド・ホテル形式で描き出した群像劇だが、まずもって登場人物の出し入れ、エピソードの積み重ねがぴしっと決まっていて、まるで優れた舞台作品を観ているようだ。
 そして、個々のエピソードから、敗戦から10年経っても未だ癒えぬ戦争の傷や、混沌とする社会状況、さらには老いていくこと、次代へと何かを繋げていくこと、といった内田吐夢自身の様々な想いがしっかりと浮かび上がって来て、強く心を動かされる。
 また、『限りなき前進』など戦前の内田作品で知られた小杉勇が扇の要の役回りを演じて見事(『闘牛士の唄』での滑稽な動きや、ラストの真情あふれる言葉等、とても印象深い)なほか、先述した有馬是馬、高田稔や江川宇礼雄、津島恵子(美しい)、野添ひとみ(かわいい)、加東大介、東野英治郎、多々良純、丹波哲郎、宇津井健、天知茂(ワンシーンのみでわかりにくいか)といった新旧の顔触れが、自らの柄に合った演技を披歴しているし、丁寧に造り込まれた酒場の様子や老音楽家(小野比呂志)に寄り添うわんこも観ていて愉しい。

 加えて、実際に声楽家である宮原卓也(美声。トラジまで歌っている)や野添ひとみらが歌うクラシックの歌曲、オペラのアリア、歌謡曲、民謡、さらにはレコードの軍歌、うたごえ喫茶の歌(『若者よ』)といった音楽が、この『たそがれ酒場』で大きな役割を果たしていることも忘れてはならないだろう。
 しかも、一例を挙げれば冒頭で宮原卓也演じる青年の歌うシューベルトの『冬の旅』の「菩提樹」のように、単に音楽が風俗の表現だけではなく、全体の物語、作品の世界観と密接に結びついていることが嬉しい。

 いずれにしても、一時間半という上映時間の中で、語るべきことがきっちりと語られた一本で、観に行って本当によかったと思う。
 ああ、面白かった!
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2012年04月04日

戦ふ兵隊

☆戦ふ兵隊<1939年、東宝作品>

 監督・編集:亀井文夫
(2012年4月4日、京都文化博物館フィルムシアター)


 大きい力、大きな声が世を席巻する中で、それって違うんじゃないの? という意志を持ち続けることは非常に難しい。
 だからこそ、そうした状況と如何に向き合うかということは、表現者にとっても忘れてはならない大切な課題の一つだろう。

 本来戦意高揚の目的で製作されながら、結果日中戦争の悲惨さを色濃く描き出してしまった亀井文夫監督の『戦ふ兵隊』は、様々な意味で「如何に向き合うか」を考える際の重要な教材となるのではないか。
 確かに、日本軍による武漢作戦を讃えるかのような映像や文面も一応挿入されているのだが、観終えてより強く感じるのは戦地で闘う兵士たちの辛さであり、中国の人々の強かさであった。
(細かい例を挙げれば、軍楽隊が演奏するスッペの『軽騎兵』序曲のうち、中間部の葬送行進曲的な音楽のみが使用されているあたりも、亀井文夫の確固とした意志の表われのように感じられる)
 亀井監督自身の思惑は別として、厭戦的な内容との判断から公開禁止になったということも理解ができないことではない。
 いずれにしても、いろいろと考えさせられた作品である。

 なお、この『戦ふ兵隊』をはじめ、亀井文夫に関しては、彼自らが著した『たたかう映画』<岩波新書>が詳しい。
 ご興味ご関心がおありの方は、ぜひご一読のほどを。
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2012年03月16日

赤西蠣太

☆赤西蠣太<1936年、千恵蔵映画・日活>

 監督:伊丹万作
 脚色:伊丹万作
 原作:志賀直哉
(2012年3月16日、京都文化博物館フィルムシアター)


 東映時代劇の二大御大といえば、市川右太衛門御大と片岡千恵蔵御大ということになるが、生涯時代劇スターの看板を掲げ続けた右太衛門御大はひとまず置くとして、千恵蔵御大のほうは、どこかすっとぼけたような三の線のイメージが強い。
 特に、『大岡越前』シリーズの大岡忠高(忠相=越前の父親)は、頑固一徹な中に愛嬌というか、フラがあって、その個性的なエロキューション(木久扇師匠の十八番の一つ)ともども未だに忘れられない。
 そして、そんな後年の千恵蔵御大を彷彿とさせるのが、伊丹万作監督による『赤西蠣太』の赤西蠣太役である。

 いわゆる伊達騒動を主題とした『赤西蠣太』は、志賀直哉の小説を原作に、伊丹万作自身が巧妙に再構成し直した作品だが、片岡千恵蔵は朴訥として人柄のよい奥手なタイトルロールを力まず飄々と演じ切っている。
 また、今では伊丹十三の父親としてのほうが通りのよい伊丹万作の作劇も、笑いのツボをよく押さえて軽快、全くべたつかない。
(片岡千恵蔵は原田甲斐を一人二役でこなしており、こちらのほうで二枚目二の線の見せ場が用意してある)

 ほかに、原健作、瀬川路三郎、上山草人、杉山昌三九らが出演。

 なお、今月の京都文化博物館フィルムシアターの特集は「没後30年 俳優志村喬の世界」ということで、赤西蠣太の同僚役を志村喬が演じているが、滑稽さとまじめさを兼ね備えた彼らしい役回りだった。

 そうそう、志村喬といえば、『大岡越前』で小石川療養所の海野呑舟先生を演じていたんだっけ。
 現場で千恵蔵御大と志村喬が昔話をする機会はあったんだろうか。
 ちょっと気になるな。
 殿山泰司によると、志村喬は相当無口だったらしいが。
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2012年02月29日

『爛れる』の撮影が無事終了した

 昨日、13時台に阪急桂駅で監督の末長敬司、出演のながたみなみさん(大阪芸大)、監督補・撮影補の二宮健君(同)、録音・整音の平川鼓湖君(京都造形芸大)、制作応援の浜口真由美さんの、『爛れる』撮影第一陣が集合し、撮影場所である洛西ニュータウンの末長敬司宅へ移動する。

 まず、ながたさん、代役の浜口さん、中瀬で、読み合わせ、立ちのリハーサルなどを重ねる。

 そして、17時台に、月世界旅行社の片岡大樹君(京都造形芸大)の案内で、林海象監督の『弥勒』の撮影終了後の大西礼芳さん(同)が合流し、再び読み合わせを行い、休憩ののち、テスト&本番撮影となる。
 で、今日の8時頃にほぼ全ての撮影を終了する。

 自分自身の演技に関しては、正直満足のいくものとは到底言えないが、ながたさん、大西さんという本当に素晴らしい役者さんと共演できたことは、言葉に表わし難い喜びだった。
(完成の暁には、ぜひともながたさん、大西さんのアップの表情を確認してもらいたい)
 加えて、二宮君、平川君(音楽の三上友樹君)という優れたスタッフとともに仕事ができたことや、月世界旅行社の片岡君、浜口さん、高橋志保さんや橋岡七海さんら多くの方々の力強く暖かいサポートにも心より感謝をしたい。
 また、第一作目ということで、末長監督もいろいろと苦労はあったと思うが、この『爛れる』が彼にとって大きな一歩となることを強く祈るばかりだ。

 単に自作(シナリオ)だからということではなく、参加して本当によかったと思える作品だった。
posted by figarok492na at 15:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画記録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年02月15日

裸足のピクニック

☆裸足のピクニック<1993年、ぴあ・ポニーキャニオン>

 監督:矢口史靖
 脚本:鈴木卓爾
(2012年2月14日、京都文化博物館フィルムシアター)


 ラジオの人気深夜番組『伊集院光の深夜の馬鹿力』に、ピタゴラスイッチならぬ「イタゴラスイッチ」なるコーナーがある。
 ほんの些細なボタンのかけ違いがもとで、泣くにも泣けぬ痛悲しい事態が発生する様を淡々とした語り口で読み上げていくものだが、矢口史靖監督にとって劇場映画第一作となる『裸足のピクニック』など、イタゴラスイッチもイタゴラスイッチ、とんでもないイタゴラスイッチが入ったブラックコメディと評することができるのではないか。
 定期の不正使用が災いし、あわれ主人公の女子校生純子は流浪流転の身となるばかりか、友人たちはヤンキーに転落し、家庭は崩壊、はては商店街も壊滅と、イタゴラスイッチが続くわ続くわ。
 内心そんなんあるかいと突っ込みを入れながら、矢口監督と鈴木卓爾らが生み出した毒の多い世界を愉しむことができた。
 作品の作りにキャスティング(Mr.オクレや梶三和子、泉谷しげる、あがた森魚、映画監督の緒方明も出演はしているが、主人公の純子を演じた芹沢砂織やメフィストフェレス的な祥子を演じた娘太郎については寡聞にしてその後の活動を知らないし、ほかもあまり有名でない人々が出演している。そうそう、ヤンキーになる純子の友人役を鈴木砂羽がやっていた!)ともども、よい意味でも素人臭さを感じたことも事実だが、大好きな西田尚美や加藤貴子が出演している『ひみつの花園』はまだしも、『ウォーターボーイズ』や『スウィングガールズ』、そして『ハッピーフライト』と、精度が上がった分、希釈化されたきらいもなくはない矢口監督の核になるような部分が明示されている点も、個人的には面白かった。

 それにしても、広岡由里子をかわいくしたような芹沢砂織に、高泉淳子とYOUを足して二で割ったような娘太郎、そして自転車に乗ったおかっぱの女の子、この『裸足のピクニック』のあと、どうしているのかなあ。
 ちょっと気になるなあ。
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2012年02月10日

シコふんじゃった。

☆シコふんじゃった。

 監督:周防正行
 脚本:周防正行
(2012年2月9日、京都文化博物館フィルムシアター)


 もともとそんなに好みじゃないものを、日本相撲協会の理事長に北の湖が再任されたり、外部協会理事に海老ジョンイル海老沢勝治が就任したりで、正直大相撲なんてどうにでもなりやがれの心境の今日この頃だが、今夜久しぶりに『シコふんじゃった。』を観直してみて、いやいやまだまだ相撲も捨てたもんじゃないや、なんて思ってしまうのだから、我ながらあまりにも調子が良すぎる。
 まあ、それだけ『シコふんじゃった。』が面白かったってことで。
(ただし、単純に相撲愛が語られた映画でないことは言うまでもあるまい。そもそもこの作品、『がんばれ!ベアーズ』が下敷きの一つになっていて、その種明かし代わりというか、あいさつ代わりというか、ビゼーの『カルメン』のメロディが引用されている)

 モックン本木雅弘演じる大学生が、卒業のための単位欲しさに廃部寸前の相撲部に加わって、これまたひょんなことから集まったにわか部員たちと時間をともにするうちに、いつしか相撲の魅力にとらえられ、一人の人間としても成長していく…。
 という、らしいっちゃらしい展開なんだけど、竹中直人の怪(快)演技をはじめ、笑いのツボを押さえたくすぐりに笑っているうちに、どんどんこちらも彼らの勝負ぶりに惹きつけられていく。
 最終盤のモックンの土俵姿など本当に感動的で、結末を知っているにもかかわらず、ついつい息を飲み込んでしまったほどだ。
 そしてそれが、じとじととウェットにではなく、乾いたタッチで描かれているのも僕の好みに合っている。

 また、周防監督の丁寧な造形にも好感を覚えるし、上述した本木雅弘や竹中直人をはじめ、柄本明(抑制された演技。だからこそ、この人の怪しさ、狂気が垣間見える)、田口浩正ら役柄によく合ったキャスティングもいい。
 個人的には、強面の審判役片岡五郎が好きだし、大好きな村上冬樹が出演しているのも嬉しい。
 ほかに、清水美砂(実は、僕はあまりこの人のことを買っていない)、六平直政、桜むつ子、周防作品ではおなじみの宝井誠明や宮坂ひろし、水島かおり、手塚とおる(ちょっとした役)らも出演。

 いずれにしても、観直して清々しい気持ちになれる作品で、再見しておいて本当によかった。
 ああ、面白かった!

 ところで、『シコふんじゃった。』の公開(と、いうことは、大学院の入学)からもう20年が経ってしまったのか。
 時の流れはあまりにも速すぎる…。
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2012年02月09日

東京上空いらっしゃいませ

☆東京上空いらっしゃいませ
<1990年、ディレクターズカンパニー・松竹第一興業・バンダイ他>

 監督:相米慎二
 脚本:榎祐平
(2012年2月8日、京都文化博物館フィルムシアター)


 長崎にいた頃からそのきらいはあったものの、大学に入って京都で一人暮らしを始めて決定的となったのが、宵っ張りの夜型生活だ。
 で、CD、ラジオを聴きながら細々と作業を進める癖がつき、結局現在のぶらりひょうたん的な人生へと到っているのだが、まさか学生時代には自分がこんな生き方をするようになるとはついぞ思ってもみなかった。
 まあ、それはそれ。
 今では完全にテレビとおさらばしてしまったけれど、学生の時分など喜んで深夜番組を観たものである。
 市川雷蔵の眠狂四郎にはまったのも、確か読売テレビの深夜枠の映画放映がきっかけではなかったか。
 あと、同じ読売テレビでは、生瀬勝久や古田新太、升毅、牧野エミ、羽野晶紀、立原啓裕、山西惇らが出演した『ムイミダス』など一連の番組や、上岡龍太郎と笑福亭鶴瓶の『鶴瓶上岡パペポTV』は、ほぼ毎週欠かさず愉しんでいた。
 そういえば、笑福亭鶴瓶が結果として主人公を死に追いやる悪い奴と死神の二役を演じた相米慎二監督の『東京上空いらっしゃいませ』について鶴瓶自身がおなじみのおもろおかしい口調で話すのに対し、上岡さんが鋭い突っ込みを入れていたことがあったような…。
 などと思いながら、今夜京都文化博物館のフィルムシアターでその『東京上空いらっしゃいませ』を観ていたら、なんのことはない、作品の中で上岡さんと鶴瓶のおしゃべりが音声だけだけどしっかり聞こえてきた。

 と、こう書けばわかるように、『東京上空いらっしゃいませ』をきちんと観るのは、今夜が初めてである。
 いや、同じ相米慎二監督の『台風クラブ』にあてられて、この作品に出演されていた伊達三郎さんのお宅の電話番号にお電話をかけ、「そんなけったいな人おりません」という女性の冷ややかな声に肝を潰した経験もあるくらいの人間だもの、この『東京上空いらっしゃいませ』も一度レンタルビデオで観ようとしたことはあった。
 ところがどっこい、このビデオがとんだ喰わせもので、観始めたとたんグルギャルグルギャルと汚い画像になってあじゃぱー、別の貸しビデオ屋を探してもこれまたなし、もうええわ観んでええ、と断念して以来、ずっと観そびれたままだった。

 そんな『東京上空いらっしゃいませ』だが、いろいろ気になる部分や突っ込みどころ(一つには、バブル時代の作品ということもある。基本的にバブル肯定の作品ではないとはいえ)はなくもないのだけれど、個人的には観ておいてよかったというのが正直な感想だ。
 相米監督というと、どうしても長回しということになって、この作品でもやってるやってると改めて感心し、ハンバーガーショップでバイトを始めたヒロインの牧瀬里穂が何人もの注文を一人でこなそうとしておたおた無茶働きをするシーンでは、これってセルフパロディかいとすら思えて、ついつい笑ってしまったほどである。
 ただ、僕が観ておいてよかったなあと思ったのは、一度死んでしまったヒロインが生き返ることで、生きるということや自分自身について考えるという展開と、牧瀬里穂(どことなく多部未華子に似ている)の初々しい姿が巧く重なり合っていたように感じられたからだ。
 相米監督の演出もあってだが、特に後半の彼女の表情は本当に魅力的だった。

 そうした牧瀬里穂演じるヒロインを支える、と言うより彼女によって目醒めさせられるのが中井貴一(父親の佐田啓二を思い出させる場面が何度かあって、はっとする)。
 二枚目半という役回りは、もしかしたら、アメリカのスクリューボールコメディーを意識してのものかもしれない。
 また、上述した笑福亭鶴瓶は悪役敵役での演技は「おいおい」という出来だが、関西弁丸出しの死神(コオロギ)役は実に柄に合っている。
 山田洋次が気に入ったのも無理はない。
 ほかに、毬谷知子、三浦友和、藤村俊二(まだ枯れていない)、竹田高利、出門英、谷啓、河内桃子らも出演。

 それにしても、『東京上空いらっしゃいませ』が公開されてからの約22年という時の流れをどうしても考えてしまう。
 ディレクターズカンパニーは崩壊し、相米監督をはじめ、出門英(公開直後に死亡)、河内桃子、谷啓が亡くなった。
 そして、『パペポTV』も終わり、上岡龍太郎も引退した。
 そんな中、中井貴一が予想していたほどに変わってはいないように思えるのは、彼が今も若いというより、この頃すでに老成していたからではないか。
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2012年02月07日

恋する女たち

☆恋する女たち<1986年、東宝作品>

 監督:大森一樹
 脚本:大森一樹
 原作:氷室冴子
(2012年2月7日、京都文化博物館フィルムシアター)


 高校生の頃、斉藤由貴が大好きだった。
 と、言っても現実で好きになる女の子はなべて斉藤由貴とは似ていなかったから、もしかしたら彼女の容貌容姿ではなく、文学好きやらモルモン教徒やらという「その他」の部分に気を魅かれてしまったのかもしれない。
 あっそうそう、彼女の歌声もけっこう好きで、FMやAMから流れてくる彼女の歌をエアチェックして、何度も繰り返し愉しんだものだ。
(レコードやCDを買わなかったのは、クラシック音楽のそれを買うので小遣いが足りなかったからである)

 『恋する女たち』はそんな斉藤由貴が大好きだった頃とどんぴしゃの1986年に製作されたものなんだけど、実はこの作品に接したのは、その後しばらくして、大学に入ってからのことだった。
 残念ながらその頃には斉藤由貴熱も冷めていて(高校生から『卒業』したからでも、ましてや「支配からの卒業」などという邪念妄念に惑わされたからでもない。ただただ時の流れの為せる仕業だろう)、結局「金沢の風景が活かされた青春映画の佳品」といった感想に留まったのだけれど、それから20年以上経って再見すると、やっぱりこの頃の斉藤由貴はよかったなあと改めて感心した。
 いや、彼女の天然自然が高じてぼじゃぼじゃぼじょぼじょといった呟きになる台詞づかいは個性的な反面、いつもの如く拙さを感じさせるものだが(緒形拳が亡くなったとき、そうした斉藤由貴の天然自然ぶりを鍛え上げた自然さで受けた『とっておきの青春』での緒形さんの演技をすぐに思い出したものだ)、スクリーンに映し出される彼女のアップの表情、涙、笑顔がなんともいいのである。
 加えて、彼女演じる吉岡多佳子とその友人たちが繰り広げる恋に恋する季節ならではの物語にも、様々な記憶を呼び起された。
(そこには、今は懐かし氷室冴子のティーンズノベルのことやらケン・ラッセルの同名作品のことから始まって、気になっていた子とたまたまバスに乗り合わせてどきどきしたことやら、友人の誤解で痛い目にあったことなどまで含まれる)

 演技の巧拙はひとまず置いて、斉藤由貴と相楽晴子、高井麻巳子(おニャン子クラブのメンバーで、現秋元康夫人)という友人の組み合わせもよい。
 また、多佳子(斉藤由貴)にとって重要な役回りを小林聡美が務めているが、達者というか、もろ「小林聡美」が完成していて少し驚く。
 ほかに、柳葉敏郎(途中『タッチ』が絡んでくるのは同時上映の関係からだろう)、菅原加織(文太の息子で、当時薫。早世してしまった)、原田貴和子、蟹江敬三、星由里子(東宝ゆえか)、川津祐介、中村育二(当たり前だが、若い!)、上田耕一、室井滋、渡辺祐子、泉本教子らが出演している。

 約100分、懐かしい時間を過ごすことができた。

 それにしても、大森一樹監督って、この頃が彼のピークだったんではないのかなあ。
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2012年01月24日

サラの鍵

☆サラの鍵<2010年・フランス>

 監督:ジル・パケ=ブランネール
 原作:タチアナ・ド・ロネ
(2012年1月24日、京都シネマ・2)


 概して、人は弱い。
 だから、自分や自分の身近な人間の犯した過ちをなかなか認めようとはしない。
 もしくは、過ちなどなかったかのようなふりをする。
 はては、ふりが高じて本当になかったものと信じ込んでしまう。
 個人でもそうなのだから、そんな個人が寄り集まった集団、組織、社会、国家だとて、いや個人の顔が見えにくくなるからこそなおのこと、過ちはなかったことにされやすいだろうと予想できるし、現になかったことにされやすい。
 過ちに目を塞ぐということは、過ちの原因にも目を塞ぐことにつながるだろうから、結局似たような過ちが繰り返される…。
 などと、ジル・パケ=ブランネール監督の『サラの鍵』を観ながらついつい思ってしまった。

 1942年7月、ナチ占領下のパリでフランスの警察が行ったユダヤ人の一斉検挙=ヴェルディヴ事件について取材を進めるジュリア(アメリカ出身)は、自分の夫の家族が所有するアパートの一室にかつてユダヤ人の家族が居住していたことを知り、未だ生死不明の姉(サラ)と弟二人の消息を調べ始めるが…。
 といった具合に、『サラの鍵』は展開していくのだが、冒頭、上述したフランスの警察による暴力的な検挙のあり様が丁寧にかつテンポよく描かれるとともに、タイトルとも重なる一つのエピソードが提示される。
 そして、それがジュリアの今と結び付いていくのだけれど、過去と今との交差のさせ方がまずもって巧い。
 シリアスな内容だけに、笑いの要素、くすぐりのようなものは一切ないにも関わらず、サラと弟がどうなってしまうのか、またジュリアの夫の家族とサラたちとはどう関係していたのかという興味や想いで、物語に惹きつけられてしまった。
 またその後も、一つの謎の答えが見つかったのちに新たな謎が生まれ、今を生きる人たちにしっかりつながっていくという流れとなっており、約二時間、観飽きることがない。
 自分や自分の家族、自分の所属する集団、組織、社会、国家の過去と向き合うことは、それらの今と向き合うこと。
 と、まとめてしまうと単純に過ぎるかもしれないが、そうしたことの大切さを改めて感じさせられる一本だった。

 ジュリアを演じるクリスティン・スコット・トーマスをはじめ、役者陣もなべて好演である。
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2012年01月14日

裸の大将

☆裸の大将<1958年、東宝>

 監督:堀川弘通
 脚本:水木洋子
 音楽:黛敏郎
 製作:藤本真澄
(2012年1月14日、京都文化博物館フィルムシアター)


 裸の大将山下清というと、若い人ならすぐにドランクドラゴンの塚地武雅の顔を思い出すだろうが、僕ら40前後の世代だと、なんと言っても花王名人劇場の芦屋雁之助ということになる。
 太平シローに負けじと、「ぼ、ぼ、ぼくは」と雁之助さん演じる山下清の真似を吃音症になりそうな勢いで繰り返したものだけれど、少し前にKBS京都で再訪された『裸の大将放浪記』の映像を観る機会があって、透けた黒いシャツを着た小坂一也やピンクのネグリジェを着た大泉滉、眉毛をやけに強調したケーシー高峰と共に監獄に入れられた雁之助山下清には、こんなシュールな作品と子供の頃に接していたのかと、ちょっとびっくりしてしまった。
 で、そんなことをさらに年配の人と話していたところ、その人の口から、「雁ちゃんの山下清はちょっと悪達者やなあ」という言葉がもれた。

 今日、堀川弘通監督(本来は成瀬巳喜男が撮影するはずだった)、水木洋子脚本による『裸の大将』の、小林桂樹演じる山下清に触れてみて、その人の言わんとすることがよくわかるような気がした。
 同じ山下清を演じるにしても、笑いで鍛えた人であるだけに、芦屋雁之助が口調ばかりか表情、身体の動きにも様々なデフォルメを加えているのに対し、小林さんのほうは、リアリスティックというか、実直に細かく山下清の特徴を掴み取ることで淡々とユーモラスな雰囲気を醸し出しているといった感じがしたからである。
 個人的には、軽演劇調の雁之助さんの山下清も捨て難いが、小林桂樹のそこはかとない味わいの山下清に強く心を魅かれたことも事実だ。

 加えて、のちのテレビドラマでの、蒸気機関車、巡査との追いかけっこ、食堂などでの住み込み働き、逃走と放浪といったフォーマットが、すでにこの『裸の大将』の段階で確立されていた点も興味深かった。
(いずれの作品も、山下清が綴り、式場隆三郎がまとめた『放浪日記』を下敷きにしたものなのだから、エピソード的に重なり合うものがあるのは当然だけれど、やはりフォーマットに関しては水木洋子の脚本を踏襲したと考えて間違いはあるまい)

 また、冒頭で記したシュールな設定を想起させるような精神病院の場面(千葉信男、藤木悠、千石規子、賀原夏子らが登場)や「夢」の場面が挿入されているが、そうした部分も含めて、この『裸の大将』では、嫌戦的(反戦的と言うよりも)な姿勢、庶民の狡さや戦後の変わり身の早さへの批判的な視点が示されている点も忘れてはならないだろう。
(山下清が徴兵忌避のために放浪を続けるという設定や、終盤自衛隊の行進に対して山下清が素朴な疑問を投げかけるところなど、その最たるものではないか)

 そういえば、芝居達者な面々やひと癖もふた癖もある面子をキャストにそろえるという点でも、この『裸の大将』と雁之助さんのドラマは共通していて、始まってすぐの巡査役のブーちゃん市村俊幸を皮切りに、母親役の三益愛子(大映の母物とは異なり、山下清に対してなんともつっけんどんな態度をとっている。と、言って優しさがないわけでもないが)、式場隆三郎らしき学園の先生役の加藤和夫、本間文子、高堂國典、若き日の毒蝮三太夫(石井伊吉)、沢村貞子、団令子(好きなんだよね、僕はこの人のことが)、中村是好、有島一郎、一の宮あつ子、三好栄子、堺左千夫、佐田豊、谷晃、青山京子、横山道代、中田康子、柳谷寛、加東大介、田武謙三、左卜全、荒木道子、沢村いき雄、東野英治郎(陸軍の軍人で、荒木貞夫みたい)、南道郎、上田吉二郎、三木のり平、並木一路と内海突破(戦後すぐの人気コンビ)、コロンビア・トップライト、ハナ肇とクレージーキャッツという東宝らしい布陣に加え、飯田蝶子と坂本武まで出演して非常に嬉しいかぎりだった。

 あと、のどかな感じに満ちていて、なおかつリリカルで諧謔的でもある音楽は、あの黛敏郎。
 ラスト近くの追っかけのシーンで、芥川也寸志の交響曲第1番の終楽章を茶化したような曲調になるのが、僕にはおかしくて仕方がなかった。

 様々な点から愉しむことのできた一本だ。
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2012年01月11日

狂った果実

☆狂った果実<1956年、日活>

 監督:中平康
 原作:石原慎太郎
 脚色:石原慎太郎
 音楽:佐藤勝、武満徹
(2012年1月11日、京都文化博物館フィルムシアター)


 あれは高校何年生のときだったか。
 たまたま両親が留守をした土曜日の深夜、中平康の遺作(映画としては)『変奏曲』がテレビで放映されるということを知った僕は、すけべ心を胸に喜び勇んでチャンネルを回したのだが。
 いやはやなんともはや、どよんどよんとした気分に陥って、女性の裸やセックスの場面を観さえすれば興奮するなんてもんじゃないや、と自分の迂闊さを悔いたものだ。
 そして、中島敦の『山月記』ではないけれど、過ぎたるは及ばざるが如し、才智に長け過ぎるのも考えものと、高校生心に痛感したものである。

 まあ、それはそれ。
 中平康にとって出世作、というか彼の映画人生のうちもっとも有名な一本となる『狂った果実』を久しぶりに観てきたのだが、この作品、記憶していた以上に面白かった。
 石原裕次郎の若々しさ(その美声ぶりも愉しめる)、北原三枝の美しさ(ただし、この人は本当はもっと中性的な役柄のほうが合っているのではないか)、衝撃的なラストは記憶のままだったのだけれど、そこに到る道筋というのが、後年のコメディーを彷彿とさせるような細かいくすぐり(例えば、石原慎太郎と長門裕之がお互い「長門」と「石原」と名前を取り替えてのカメオ出演や、裕次郎津川雅彦兄弟のボートの名前が「SUN SEASON=太陽の季節」であるとか、近藤宏の使い方とか)も含めて、よく出来ている。
 また、津川雅彦がこの頃から鬱屈した役回りを演じていたことや、岡田真澄がけっこう重要な存在を占めていたことにも気づかされた。

 一方で、石原慎太郎らしい傲慢さ、青臭さ、マチズモ、反米的な思考も散りばめられていて、ああ三つ子の魂百までだなあ、とまたぞろ思ってしまったことも付け加えておきたい。
(憎まれっ子世にはばかる。ある種の鈍さ、傲慢さは長生きの秘訣かもしれないな、と思ったりもする。中平康と比較しても)

 そうそう、京都文化博物館フィルムシアターのプログラムでは、兄弟の父親役が芦田伸介となっているが、実際は深見泰三が演じている。
 たぶん当初発表されていたキャストから変更になったものだろう。


 *追記
 本当は、「カインとアベル」の話を皮切りに、慎太郎裕次郎兄弟(慎太郎の『弟』も含める)のことや、長門津川兄弟のことについて詳しく書いてみようかとも考えたのだが、きちんと文章をまとめる自信がなかったので、ここでは断念することにした。
 機会があれば、いずれまた。
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2012年01月06日

太陽とバラ

☆太陽とバラ<1956年、松竹大船>

 監督:木下恵介
 脚本:木下恵介
(2012年1月6日、京都文化博物館フィルムシアター)


 三つ子の魂百まで、と言うけれど、表っ側は変わっても、なかなか地のほうまでは変わらないもの。
 『太陽の季節』など一連の作品からこの方、嵐を呼ぶ都知事石原慎太郎の人格ってものはよくも悪くも(悪くも悪くも?)ちっとも変わっていないなあ、などと、木下恵介監督の『太陽とバラ』を観ながら、ついつい思ってしまった。

 と、言ってもこの映画、「太陽」って言葉が題名に冠されているからといって、太陽族礼賛、石原慎太郎礼賛の作品だなんて思っちゃ大間違い。
 太陽族は太陽族でも、『太陽とバラ』はアンチ太陽族そのものの作品なのだ。

 で、85分程度の上映時間のうち、後半70分近くまで、正直僕は観ていて辛かった。
 一つには、木下恵介の描く不良像というのがステロタイプ的というか、どこか戦前調だし(そういや、戦前の与太公磯野秋雄が、吉川満子や小林十九二らとともにちょい役で顔を出していたっけ)、それより何より、いくら真っ当正論とはいえ、沢村貞子の言動から何から、どうにもウェットで辛気臭い。
 加えて、不良息子役の中村賀津雄(現嘉葎雄)も、演技はいいんだけど、なんともうじっとしていて辛気臭い。

 が、そうした辛気臭い積み重ねが、終盤俄然活きて来る。
 少なくとも、そう感じさせるような作品の造りになっている。
 そして、迎えるラストについては、同じ木下恵介の『日本の悲劇』を想起した、とだけ記しておこう。

 役者陣では、上述した中村賀津雄と鼻持ちならない真の太陽族ブルジョア息子を演じた石濱朗もいいし、彼の姉役久我美子の美しさもいつもながらだが、個人的にはどうしても沢村貞子を挙げざるをえまい。
 まさしく迫真の演技だと思う。

 ほかに、三宅邦子、有田紀子(同じ木下監督の『野菊の如き君なりき』の)、北竜二、龍岡晋、桜むつ子、須賀不二夫、奈良真養らも出演。

 それにしても、憎まれっ子世に憚るとはよく言ったもんだと改めて痛感した次第。
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2012年01月05日

自由学校(大映版)

☆自由学校<1951年、大映東京>

 監督:吉村公三郎
 脚本:新藤兼人
 原作:獅子文六(岩田豊雄)
(2012年1月5日、京都文化博物館フィルムシアター)


 『三文役者あなあきい伝』<筑摩文庫>は、自称三文役者殿山泰司の自叙伝であるとともに、盟友たる新藤兼人や吉村公三郎との近代映画協会の苦難苦闘の歴史を綴った一冊でもあるが、その「ノン・タイトル」という章で、吉村公三郎監督が撮影し、自らも出演した『自由学校』について詳しく触れられている。
 曰く、『自由学校』は大映と松竹で競作となり、「一応は千葉信男や小堀明男が候補に上がっていたのであるが、映画の前宣伝をもかねての一般からの募集というチマチマしたことをやることになり、どこでどうなったのか」、文藝春秋新社の小野詮造が主人公五百助役に選ばれ、「小野文春という芸名で」出演することになったとのこと<文末注>。
 さらに殿山泰司は、(五百助という主人公役は)「小野さんの風ボウと人柄にどんぴしゃりで、ヌーボー的な性格のその役にぴったりの好演であった。小野さんに対して、失礼な言葉かもしれないが、シロウトでもこれだけでけるのだ。そこに映画の秘密がある」と続け、冗談をまぶしながらも、「映画俳優とは何だ?」という大きく難しい問題を提起している。

 確かに、この大映=吉村監督版での小野文春は、正直達者ではないものの、五百助という大柄で物事にあまり動じない人物像にはぴったりと合っている。
 ただ、殿山さんが「映画の秘密がある」と付言している通り、松竹=渋谷実監督版と比較すると、五百助の役回りは相当小さなものに変わっているような気がする。
 それは言い過ぎだとしても、小野文春という素人俳優の技量技術にあわせて、原作が大幅にいじられてしまったことは、まず間違いないことだろう。
 一例を挙げれば、殿山さん自身が演じる元海軍軍人(同じ新藤兼人のシナリオということで、ふと『しとやかな獣』の伊藤雄之助を思い出す)を、松竹=渋谷監督版では殿山さんの兄貴分にあたる小沢栄(太郎)がやっていて、同じ戯画化でも、どこかに原作者岩田豊雄(獅子文六)の『海軍』を想起させる哀しさがあったが、こちらの『自由学校』では、物語中の一挿話、賑やかし程度の意味合いしか持っていない。
 こうした変更には、やはり小野文春の力量(佐分利信のような「やり取り」ができない)が大きく影響を与えているのではないだろうか。
 そうしたこともあり、総じて松竹=渋谷監督版に比べて、中身が薄いというか、すかすかとした印象と物足りなさを僕は抱かざるをえなかった。
(一つには、実質的に松竹を追い出された形となった吉村・新藤コンビが、松竹=渋谷監督に対抗して変化球を投げたということもあるだろうけど。あの『愛染かつら』でおなじみ『旅の夜風』=「花も嵐も踏み越えて」のメロディの引用や、斎藤達雄、岡村文子らのキャスティングなど、そのよい見本だ)

 その分、小野文春を支える共演陣の芸達者腕達者ぶりは冴えていて、木暮実千代の賢しい美しさ、京マチ子の躍動感、山村聰の気障たらしさ、この作品がもとで身を持ち崩した感すらある(?)大泉滉のイカレポンチを存分に愉しめはしたが。
 そうそう、藤田進のパロディカルな起用も傑作だが(観てのお楽しみ)、『青い山脈』(木暮実千代がこの『自由学校』とは全く反対の役柄を演じていた)への言及や、その他の細かい台詞を考えれば、単に映画的なお遊びというだけではなく、1951年当時の「逆コース」的風潮を揶揄したものではないかと、僕は思った。
 ほかに、徳川夢声(文学座=獅子文六つながりか)、藤原釜足、加東大介、英百合子、山口勇(余談だが、小林信彦の親類にあたる)、織賀邦江らも出演。

 あっ、あと一つ。
 吉村公三郎らしく、時折技というか、わざとというか、あんたまたやってはるなあ、と思わせる箇所がいくつかあったことを付け加えておきたい。

 そういえば、『三文役者あなあきい伝』では、滝田ゆうの漫画賞受賞式で、今や重役となった二十何年ぶりの小野詮造から「トノさん、あんたはちっともかわらんねェ」と言われてしまったというエピソードを殿山泰司は記している。
 まあ、それはそれとして、三日やったらやめられないはずの役者(それも、これまた三日やったらやめられないはずの浮浪者を演じた)の道など見向きもせず、その後重役にまで上り詰めた小野詮造という人は、五百助なんかと違って、見かけによらず結構したたかな人物だったのかもしれない。



*注
 菊池寛と大映のつながりを考えれば、小野詮造の起用は「出来レース」だったのではないか。
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2012年01月04日

自由学校(松竹版)

☆自由学校<1951年、松竹大船>

 監督:渋谷実
 原作:獅子文六
 脚色:斎藤良輔
(2012年1月4日、京都文化博物館フィルムシアター)


 「ぼくは名作だけは作らない」という言葉*1を口にした渋谷実は、苦くて重たい喜劇の作り手として知られたが、獅子文六(岩田豊雄)の朝日新聞連載小説を映画化した『自由学校』も、そんな渋谷監督らしい一本となっている。
 敗戦後の大きな混乱と変化の中で、「自由」とはなんぞやと迷い悩んだ末会社を辞めた五百助(佐分利信)は、妻駒子(高峰三枝子)から家を追い出され、ひょんなことから浮浪者生活を始める。
 一方、駒子は駒子で様々な男たちから言いよられ…。
 という大きな展開の途中途中に、獅子文六らしいスラプスティクでシュールなくすぐりが盛り込まれつつも、観終わって感じたのは、ああ世の中ままならないもの、とかくこの世は生きにくい、さりとて死ぬにも死にきれぬ、ならば明日も生きていこうか、ということだった。
 そして、「戦後派にはなれず、かといって昔の女でもいられない」といった趣旨の駒子の台詞(それをさらっと言わせているとろも渋谷監督らしい)こそ、そうした作品の世界観、さらには戦前の松竹大船調のスタイルと戦後の新しい潮流が混交してちょっとぎくしゃくとした感じのする渋谷実の造形を端的に表わしているのではないかとも思った。

 役者陣では、まずもって佐分利信か。
 五百助という人物のもっちゃもっちゃとしていて、それでいてなんともやるせない心情がよく表現されていて、実にしっくりくる。
 あの色川武大も記しているが*2、佐分利信のあの顔、あの表情には本当に心魅かれるなあ。
 一方、この『自由学校』の高峰三枝子には、初めて美しさというか、女性としての魅力を感じた。
 無理から気丈な女性を演じているような気がしないでもなかったものの。
 ほかに、手塚治虫が『リボンの騎士』のモデルにしたというエピソードを彷彿とさせる淡島千景のアプレっぷりや佐田啓二らしからぬイカレポンチっぷりも印象に残ったし、三津田健、杉村春子、東野英治郎、小沢栄(太郎)、清水将夫、望月美恵子、中村伸郎、龍岡晋、高橋豊子、笠智衆、十朱久雄、高屋朗(彼についても、色川武大は一文ものしている)といった脇を固める人々の出演も愉しい。
 特に、獅子文六(岩田豊雄)らが、もともと彼女とその夫友田恭助のために文学座を設立した田村秋子の演技(杉村春子への影響も垣間見える)に接することができて、僕はとても嬉しかった。
(あと、歌右衛門丈の『京鹿子娘道成寺』が挿入されていることや、東京のカオスな状況を描くシーンで伊福部昭の音楽が急にSF調のアレグロ・バルバロ風に変化したことも、個人的には嬉しかったなあ)


*1 小林信彦『人生は五十一から』<文春文庫>、「ある<戯作者>の死」より。なお、ここでは渋谷実の弟子である前田陽一の死について語られている。

*2 色川武大『なつかしい芸人たち』<新潮文庫>、「いい顔、佐分利信」
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2012年01月02日

ペーパーバード 幸せは翼にのって

☆ペーパーバード 幸せは翼にのって<2010年・スペイン>

 監督:エミリオ・アラゴン
(2012年1月2日、京都シネマ・1)


 いやあ、新年早々、いい映画を観たなあ。
 本当はいいなんて言葉、軽々に使いたくないんだけれど、そう思ってしまったんだから仕方がない。
 約2時間の上映時間があっと言う間、と、言うより、まだもっと観ていたいと感じているうちに終わってしまった。

 京都シネマでは上映が始まったばかりということもあって、詳しい内容についてはあえて触れないが、スペイン内戦後のフランコ独裁政権下、戦争の深い傷を心に抱いた芸人たちのあれやこれやが、喜怒愛楽交えながら非常に丁寧に描き込まれていて、強く心を動かされた。
 主人公のホルヘ(イマノル・アリアス)やエンリコ(ルイス・オマール)、孤児のミゲル(ロジェール・プリンセプ)といった登場人物の細やかな心の動きや、まるで歌を歌っているかのような言葉のやり取りにまずもって心魅かれるし、細かいエピソードの積み重ね方や伏線の張り具合も見事というほかない。
 また、スペインを代表するサーカス芸人一家に生まれ、自らも舞台で活躍したという監督自身の経験からくる、芸人たちや舞台、劇場への深い愛情には心打たれるし、表現者が自国の歴史や社会そのものに向き合うことの大切さもストレートに示されていて大いに納得がいく。
 それに、役者陣のなんと素晴らしいことか。
 上述した三人はもちろんのこと、いわゆる端役と呼ばれるほんの僅かな出演時間しかない人たちの存在感にも、僕は圧倒された。
 加えて、風景の描写や時代考証における細やかな作業にもほれぼれするほかなかった。

 この作品を観た人とゆっくりたっぷりおしゃべりがしたくなるような、本当の映画好きにお薦めしたい一本だ。
 ああ、面白かった!
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2011年07月23日

月世界旅行社『マチヤ映画夜行 其の一 オールナイトシネマ』に刺激を受けた!

 昨日は、この間様々な形でお世話になっている堀川中立売の京都リサーチパーク町家スタジオへ足を運び、月世界旅行社主催による『マチヤ映画夜行 其の一 オールナイトシネマ』に参加した。

 以前打ち合わせに参加した際に記したことがあるが、月世界旅行社は京都造形芸術大学芸術学部映画学科の有志によって立ち上げられたインディーズ・メジャーレーベルだが、今回の企画は彼彼女ら京都造形芸大のほか、関西一円の映画関係の学校や映画製作団体、上映団体を網羅したものとなっている。
 で、第一回目の昨夜は、月世界旅行社のメンバーやそれ以外の京都造形芸大生、立命館大学studio PANDA、近畿大学、京都精華大学、ビジュアルアーツ専門学校の面々の作品が上映されていたが、フィクションからドキュメンタリー、PVと幅広いジャンルで、しかも予想していた以上のクオリティの作品が並べられており、実に観応えがあった。
 また、上映会の質疑応答やフリータイムでの意見交換、相互交流も活発に行われていて、結局朝方6時過ぎまで刺激を受け続けた。
(22時過ぎには、キノ・フォーラムkyoの共同代表末長敬司も到着し、具体的かつ的確な質問を重ねたり、上映作品の監督の皆さんなどと熱心に話をしていた)

 なお、このマチヤ映画夜行は、来年3月まで毎月一回京都リサーチパーク町家スタジオで開催される予定で、8月は『其の二 京の七夕上映会』と題して12日(金)夕から13日(土)朝までの開催が決定している。
 学生の皆さんからは、撮影の際に俳優の調達に苦労している(特に30代、40代)との声も耳にしたが、小劇場の演者さんの中で、映画出演にご興味ご関心がおありの方は、ふるってご参加いただければと思う。
 まずは、中瀬までご一報のほど。
(大根へたっぴいのくせして、相手方のOKさえ出れば、自分が出演させてもらったろかいと狙っている、我があさましさ…)

 いずれにしても盛況盛興の上映会だったと思う。
 これからがさらに愉しみだ。
posted by figarok492na at 14:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画記録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年05月17日

『人の善意を骨の髄まで吸い尽くす女』、『善人』

 知ってる人はより面白く、知らない人も面白く。

 旧知のよこえとも子(彼女の場合、親しみこめて敬称を略したい)から連絡があったこともあって、昨晩シネ・リーブル梅田まで加藤行宏監督の『人の善意を骨の髄まで吸い尽くす女』と『善人』(よこえ出演)を観に行ったのだけれど、二つの作品の感想を簡潔にまとめると、昔のテレビCMの惹句を少しずらしたようなそんな言葉になるだろうか。

 まずもって両作品のタイトル(題字)からして、何事かが始まりそうな「やってる」感が醸し出されていて、わくわくする。
 で、詳しい内容についてはぜひ作品を観て確かめて欲しいからあえて触れないが、実際、『人の善意を骨の髄まで吸い尽くす女』にしても、『善人』にしても、よい意味での邪劇臭が濃厚というか、グロテスクな笑いの要素がたっぷりと詰まっていて、個人的には嬉しい。
 加えて、人の度し難さや、鬱屈した悪意の表現も、強く印象に残った。
 また、加藤監督の咀嚼力や映画的背景が、存分に示されていた点も付記しておくべきだろう。
 演者陣も、監督の意図に沿いつつ、その個性や魅力を充分に発揮していたのではないか。
(そうそう、『善人』には、あの「たま」の石川浩司が出演しているのだ!)

 なお、昨夜は、加藤監督と土田英生さんのアフタートークも企画されていて、こちらのほうでも、僕は大いに笑った。

 21時10分上映開始で、22時34分頃上映終了(アフタートークを加えると、23時近くに終了)と、少し遅めの時間帯にはなるが、大阪の方はもちろん、京都の方でも阪急の最終には充分間に合う。
 入場料は1300円。
 20日までの上映なので、新しい才能を応援するという意味でも、ぜひシネ・リーブル梅田に足を運んで欲しい。


 *追記
 上映が5月27日(金曜)まで延長となりました。
 なお、21日(土曜)からは上映開始が21時5分となりますので、お間違えないように!
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2011年01月14日

『玄牝』

 京都シネマまで、河瀬直美監督の新作『玄牝(げんぴん)』を観に行って来た。
 ちょうど京都シネマの会員の更新時期で、はじめはケン・ローチ監督の『エリックを探して』を観るつもりだったのだが、予告でそれほどしっくりこなかったことに加え、上映時間が2時間近くあることもあって(体調的・生理的な問題)、『玄牝』を選んだ。

 『玄牝』は、愛知県で自然分娩にたずさわる吉村医院の吉村正院長と、そこに集う人々を描いたドキュメンタリー作品である。
 当然のことながら、出産がこの作品の中心に置かれているのだけれど、それがまた、そのまま、生きるということや死ぬということへの真摯な問いかけともなっていて、子供を出産する女性たちの姿やそれを見守る家族たち、そして吉村さんや助産婦の方たちの姿に強く心を動かされるとともに、自分自身の生や死についても深く考えさせられた。
 ただ、この『玄牝』をもって「女性にとって、やっぱり出産こそが一番で重要なものだ!」と強圧的に論じることは問題外として、単純に吉村さんたちの姿勢を賛美することに終わっては何かが違うとも思った。
(河瀬さん自身も、助産婦の方たちの言葉や吉村さんの娘さんの言葉を織り込むなど、そうした観点を忘れてはいないが)

 いずれにしても、今現在妊娠出産と直接関係するか否かは別にして、この作品を観た人たちの様々な意見を耳にしたいし、そのことについていろいろと語り合いたいと思う。
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2011年01月06日

ウディ・アレンの『人生万歳!』

 村上春樹は村上春樹だし、ショスタコーヴィチはショスタコーヴィチ。
 そして、ウディ・アレンはウディ・アレン。

 今日、京都シネマでウディ・アレンの最新作『人生万歳!』(記念すべき40本目の作品だそうだ)を観ていると、ふとそんな言葉が頭をよぎった。
 いや、もちろん自同律が不快の対象であることぐらい、僕だって知らないわけじゃないけれど。
 でも、劈頭、ウディ・アレンの分身としか思えないラリー・デヴィッド演じる主人公(雰囲気がウディ・アレンそっくり。話し方も)のおしゃべりを耳にしただけで、おおまた始まったと思ってしまったほどだ。

 で、京都シネマの映画案内にある「ありえないピュアな恋愛物語」のままで終わってしまえば、それこそ老人親父に都合の良すぎる妄想恋愛譚も、そこはウディ・アレン、一ひねり、どころか二ひねりで、自負と自虐、楽観と悲観が見事に入り混じった一筋縄ではいかない物語に仕立て上げている。
 セックスへの執着に、昔なつかしヒット・ナンバーやクラシック音楽(第九に運命!)の引用と、これまたウディ・アレンお得意の趣向。
 ウディ・アレン自身の老いも加わってだろう、タナトスへの傾斜や厭世感の表出も色濃いが、だからと言ってただただ悲嘆にくればかりいないあたりが、また「らしい」。
(個人的には、ウディ・アレンらしいバーバル・ギャグを愉しんだ)

 映画のほうも、戦いすんで日が暮れて、じゃない目まぐるしい一年が暮れて、新しい年を迎えたところで幕を閉じるが、まさしく脳天気に一年を始めたくない人にはぴったりの、機智と機転に富んだ一作ではないだろうか。

 門松は冥土の旅の一里塚めでたくもありめでたくもなし。
 とは、ちょと違うかな。
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2010年09月22日

『ミックマック』

 ジャン・ピエール・ジュネといえば、まずは『アメリ』ということになるのだろうけれど、個人的にはどうしても『デリカテッセン』を挙げたくなる。
 と、言うのも、核戦争後、人間が人間を食べるという、それだけ聴けばおぞましさ全開の世界を舞台にしながらも、機智と希望を武器に「人生それでも捨てたものではないさ」と小気味よく、ただしところどころグロテスクでシュールな映像も交えながら全篇描き切ったジュネの手腕に、僕は強く心を奪われたからだ。
(当然、共同監督のマルク・キャロの存在も忘れてはならないだろうが)

 で、そんなジャン・ピエール・ジュネの新作『ミックマック MICMACS A TIRE-LARIGOT』が公開されたので、迷わず京都シネマまで観に行って来た。
(そうそう、『デリカテッセン』で主人公を張ったドミニク・ピノンが、ここでも魅力あふれる役柄を演じている)

 現在公開中ということもあって、いつもの如く詳しい内容については触れないが、全てはタイトルのミックマック(いたずら)に尽きるのではないか。

 父を地雷で奪われ、自らも頭の中に流れ弾が残ったままの主人公バジルが、父を殺し、自分自身を傷つけた二つの兵器製造企業(軍需産業)に復讐を挑むというストーリー展開で、一つ間違うと、黒澤明の『悪い奴ほどよく眠る』のような重たくて救いのない内容になってしまうのだけれど、そこはジャン・ピエール・ジュネ。
 お得意のファンタジー・タッチを駆使しつつ、徹頭徹尾笑いを忘れず、バジルと仲間たちの戦いを軽やかに描いていく。
(黒澤明でいえば、企業の対立の構図などからもう一つ有名な作品を思い出すのだが、あちらがあくまでも個人の力を信じているのだとすれば、こちらは集団の力、その友情と愛情を信じているのだと評することができるのではないか。ただし、ジュネは、黒澤明の作品ではなく、フランコ・レオーネの作品のほうに影響を受けているようだが)

 表現のテンポのよさはもちろんのこと、痛烈な諷刺と細かい仕掛けやくすぐり(例えば、サルコジ大統領の写真!)、映画ならではの「遊び」(例えば、タイトルやテーマ音楽!)も豊かだし、音楽の使い方も非常に効果的だ。

 また、主人公を演じるダニー・ブーンをはじめ、役者陣も実に達者で個性に富んでおり、観ていて本当に嬉しくなってくる。

 難しいことを柔らかく、かつ面白く暖かく描こうという創り手の姿勢(それは、『デリカテッセン』とも共通している)も含めて、大いに満足のいった作品。
 映画好きにはぜひともお薦めしたい。
 ああ、面白かった!
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2010年09月19日

小林桂樹を悼んで

 俳優の小林桂樹が亡くなった。
 86歳だからやはり長命だったというべきだろうが、最近まで現役で活動を続けていたことに加え、彼の上司役を長らく務めた森繁久彌翁のことも思い出されて、ついまだ早いのではと思ってしまったことも事実だ。

 今さらくどくどと語る必要もないだろうけれど、小林さんといえば、まずは東宝への移籍後のいわゆるサラリーマン物(上述した「社長シリーズ」も含む)で一世を風靡したほか、成瀬巳喜男監督の一連の作品や黒澤明監督の『椿三十郎』でも、その個性をよく発揮した。
(余談だが、小林さんが山下清を演じた堀川弘通監督の『裸の大将』は、もともと成瀬巳喜男が監督する予定だった)

 また、年齢を重ねるごとに、強情さと頑なさ、優しさとおかしさを兼ね備えた人柄は厚みを増し、映画やテレビドラマなどで活躍した。
 中でも、牟田刑事官シリーズ(津島恵子とのコンビネーションが嬉しい)、弁護士・朝日岳之助シリーズなどは有名だが、個人的には下山定則国鉄総裁を演じた、NHKの『空白の900分』が忘れ難い。

 なお、小林さんの聞き書きである『役者六十年』<中日新聞社>は、彼の人となりをよく伝えていて、彼を識るためには必読の一冊だろう。
 あと、斎藤忠夫の『東宝行進曲』<平凡社>では、自らの弟の友人である小林さんの、東宝移籍にまつわるエピソードが詳しく記されている。

 深く、深く、深く、深く、深く黙祷。
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2010年09月06日

山本薩夫生誕100年記念 妄想映画館『日本の日蝕』

☆『日本の日蝕』(日本の日蝕をつくる会)



 榊原康隆総理大臣(滝沢修)が内閣改造を断行したその夜、毎朝日報社会部記者粕谷肇(山本圭)は、何者かによって男(辻萬長)がひき逃げされるのを目撃する。
 男が粕谷に遺した言葉は、「太陽が、太陽が消える」というものだった。

 一方、粕谷の妹で帝都大学理学部助手の麻子(香野百合子)は、フィアンセで植物学の研究者春日部真介(中野誠也)が九州の孤島弥ノ島で謎の失踪を遂げたことを知る。
 その少し前、麻子には「ここは何かがおかしい」と記された真介からの葉書が届いていた。

 そして、二つの事件を追う粕谷と麻子にも、大きな魔の手が迫っていく…。


 現代日本の山本薩夫と呼ばれる、映画界の鬼才中瀬八郎が1970年代半ばに撮影した社会派大作が、今ニュープリントで蘇える!



 ・その他の主な出演者

 粕谷太郎(松本克平)、粕谷篤子(村瀬幸子)、春日部八重子(北林谷栄)、謎の女(太地喜和子)、下八川詠祐副総理大臣(小澤栄太郎)、小倉常敏外務大臣(根上淳)、松方義道大蔵大臣(芦田伸介)、本郷忠親法務大臣(嵯峨善兵)、飯田喜八郎通産大臣(北村和夫)、日高宗俊内閣官房長官(神山繁)、舟越傑防衛庁長官(大滝秀治)、野田純之助科学技術庁長官(加藤和夫)、宇田徹防衛庁次官(原田清人)、榊原多津子総理大臣夫人(月丘夢路)、桜庭悠一郎総理大臣秘書官(武内亨)、三島省吾憲民党幹事長(稲葉義男)、根津豊臣日同物産会頭(佐々木孝丸)、工藤仙吉日同物産常務(渥美國泰)、原秀春原子力開発公団総裁(永井智雄)、伍島誠民大日本国策研究会会長(内田朝雄)、湯浅昇帝都大学理工学部助教授(江原真二郎)、里見忍帝都大学理工学部教授(下元勉)、多田正兼毎朝日報社会部部長(鈴木瑞穂)、椎名次男毎朝日報政治部記者(梅野泰靖)、田崎耕一警視庁捜査一課課長(草薙幸二郎)、鈴木五郎警視庁捜査一課刑事(福田豊土)、御子柴謙蔵弥ノ島村村長(信欣三)、河合尚人医師(内藤武敏)、弥ノ島村村民(陶隆、片桐夕子、岸輝子)
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2010年06月17日

『丹下左膳餘話 百萬兩の壺』

 京都シネマで開催中の『山中貞雄監督映画祭』。
 今日は、『丹下左膳餘話 百萬兩の壺』(1935年、日活京都/ニュープリント)を観る。

 で、この作品に関しては、以前京都文化博物館の映像ホールで観た際の感想をアップしたこともあるので、詳しくは繰り返さない。
 アメリカ映画『歓呼の涯』を巧みに仕立て直した、時代劇の形を借りた「ホームコメディ」で、省略を効果的に利用した笑いの仕掛けも見事の一語に尽きる。
 また、セルフパロディに徹した大河内傳次郎をはじめ、役者陣も実に柄が合っていて、愉しく面白い。
(沢村国太郎の演技は息子の長門裕之や津川雅彦の演技と本当にそっくりだなあ、と今回も痛感した)
 まさしく、快作傑作の一本。

 そうそう、ニュープリントということで、京都文化博物館所蔵の劣悪な状態のフィルムとは大違いの観やすさだったことも嬉しいかぎりだった。
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2010年06月16日

『人情紙風船』

 京都シネマで開催中の『山中貞雄監督映画祭』。
 今日は、山中貞雄の遺作となった『人情紙風船』(1937年、P.C.L./ニュープリント)を観た。

 で、この『人情紙風船』に関しても、今さらくどくどくだくだと繰り返すこともあるまい。
 三村伸太郎のもともとの脚本は、それまでの山中貞雄らしい明朗快活調、「明日への新しい希望をもつ」ものだったはずが、実際に完成した作品は、当時の世相を如実に反映したとも考えられる、どうにも救いようのない結末を迎えることとなる。
(山中貞雄自身、「人情紙風船が俺の最後の作品では浮かばれない」と周囲にもらし、「「人情紙風船」が山中貞雄の遺作ではチトサビシイ。負け惜しみに非ず」と書き遺したこともよく知られている)
 ただ、事そこにいたるまでの展開は、見事というほかはない。
 また、中村翫右衛門、河原崎長十郎をはじめとした前進座の面々のアンサンブルも、実に優れている。
 やはり、何度観直しても、観飽きない作品の一つだ。

 それにしても、『人情紙風船』を観るといつも、三村伸太郎や山中貞雄は、岸田國士の『紙風船』(実演は無理としても、戯曲)に触れたことがあるのではないかとついつい思ってしまう。
 ラストの紙風船を目にするたびに、特に。
(まあ、タイトルだって『紙風船』と『人情紙風船』だものね)
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2010年06月15日

『河内山宗俊』

 先週土曜日から、京都シネマで『山中貞雄監督映画祭』が始まった。
 旧い邦画好きの京都シネマ会員、ましてや『山中貞雄餘話』なる作品をものした人間だもの、そりゃ当然観に行かなくてはなるまいて。

 と、言うことで、今日は14時45分から上映の『河内山宗俊』(1936年、日活京都=太秦発声/ニュープリント)を観ることにした。
 で、もはやこの作品についてくだくだくどくどと語る必要もあるまいが、はじめのほうで少しテンポ感の遅さが気になった以外は、山中貞雄の筋運びの巧さにぐいぐい惹きつけられた。
 特に、様々な人々の思惑、想いが絡み合って一気に悲愴感あふれる結末へと向かうあたり(チャイコフスキーの『ロメオとジュリエット』が鳴り響く!)の展開は、それこそ手をぎゅっと握り締めてしまうほどのスリリングさだった。
 役者陣も、河原崎長十郎や中村翫右衛門をはじめとした前進座の面々(その中には、若き日の加東大介もいる)が上手達者だし、清川荘司、コメディーリリーフの高勢実乗、鳥羽陽之助らも柄に合った演技を行っている。
 そして、演技の質は置くとして、当時まだ16歳だったという原節子の初々しさ、美しさ!

 いやあ、何度観ても面白いな、『河内山宗俊』は。
 観に行って、本当によかった!
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2010年02月10日

スティング

 ☆スティング The Sting


 早起きは三文の得、って言葉があるけれど、TOHOシネマズがこの2月から始めた「午前十時の映画祭」なんて、洋画の名作傑作人気作をじっくり愉しむことができるんだから、映画好きにとってはそれこそ三文どころか、何千両何万両もの得。
 何があっても早起きしなくちゃいけないだろう。
 で、有言実行、僕も近くのTOHOシネマズ二条まで「午前十時の映画祭」の一本目、ジョージ・ロイ・ヒル監督の『スティング The Sting』(1973年、アメリカ)を観に行って来た。
(予想通り、団塊の世代の方々や学生さんなどを中心にほぼ満席状態)

 いやあ、面白かった!
 実はこの作品、僕は何度か観たことがあるんだけど、大きなスクリーンで観ると、やっぱり面白さが何倍も増しますな。
 仲間を殺された若者が、詐欺師の先輩とがっちり手を組んでにっくき悪党相手に勝負を挑んでいくが…。
 おっと、ここから先は言えない言えない。
 あとは、映画を観てのお愉しみだ。
(だって、一度観てから二度目三度目を愉しむのと、他人様から大事な部分をばらされて初めて観るのとでは、全く意味が違うでしょう。まあ、これはどんな作品でもおんなじことだけどね。あっ、そういや中村賢司さんのブログに『ゴールデンスランバー』の記事があったけど、中村さん、ああたネタばらししちゃだめですぜ。同じ創作者表現者仲間なんだから。少なくとも、僕ならネタをばらさず伝えたいことを伝えるように努力するんだけどなあ)
 それこそ幾重にも張られた伏線や一筋縄ではいかない仕掛けの数々に、細かいくすぐりや細かいこだわりと、まさしくエンターテインメントの王道を行く見事な出来栄えだ。
 加えて、ポール・ニューマンやロバート・レッドフォードを皮切りに、集めも集めたり、脇役端役にいたるまで芝居達者個性派がそろっている。
(あの人この人、見落とさないで下さいね)
 また、テーマ曲のスコット・ジョプリンの『ジ・エンタティナー』をはじめ、ラグタイムの効果的な利用も嬉しいかぎり。
 本物の映画好きには「マスト」の一本。
 てか、本物の映画好きなら、いの一番に観てるっけ。
 これは失礼しました!

 なお、『スティング』に関しては、小林信彦に『明日に向かって賭ける「スティング」の世界』(『ぼくが選んだ洋画・邦画ベスト200』<文春文庫>所収)と『ジョージ・ロイ・ヒルの不思議な世界』(『映画を夢みて』<ちくま文庫>所収)があるので、ご興味ご関心がおありの方はぜひご一読のほど。


 *追記
 そうそう、三谷幸喜の『ザ・マジックアワー』が、この作品への熱烈なオマージュであることを再確認することができた。
 まあ、トリュフォーの『アメリカの夜』だとか、映画全体への熱烈なオマージュであるんだけどね、『ザ・マジックアワー』は。
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2010年01月27日

誰がため

 時代も違えば状況も違う、出てくる人間もてんでばらばら。
 そんな全く脈絡のない作品に続けて触れるのも映画の愉しみ方ではあるが、逆に、同時代似たような状況を描いた作品に続けて触れるのもまた、映画の愉しみ方の一つなのではないか。
 京都シネマでオーレ・クリスチャン・マセン監督の『誰がため』(FLAMMEN & CITRONEN)を観ながら、ふとそんなことを思った。

 と、言うのも、この『誰がため』の内容が、先日同じ京都シネマで観た『カティンの森』と大きく重なり合うものだったからである。
 そう、『誰がため』も『カティンの森』同様、第二次世界大戦中、他国(ナチス・ドイツ)に自国(デンマーク)を占領された中で起こった実際の出来事をテーマとした作品なのだ。
(だから、そうそう簡単に愉しんでばかりもいられないのだけれど)

 で、『誰がため』は、ナチス・ドイツ占領下、抵抗運動に加わり、戦後祖国から英雄として讃えられもしたフラマンとシトロンという二人の人物の、これまで語られてこなかった本当の姿を描いた作品となっている。
 作品の根幹にもかかわってくることもあり、ここではあえて詳しく述べないけれど、厳しい歴史的状況とナチス・ドイツへのレジスタンスという大義に動かされた彼らが、様々な裏切りによって傷つき、破滅に向かって進んでいく姿がストレートに表わされた展開となっていて、生理的な意味合いを除けば、2時間を超える上映時間もそれほど長く感じることはなかった。
 また、この作品の大義と暴力との関係への問いが、現在を生きる我々にとって全く他人事ではない問題であるということも充分に納得がいった。

 ただ、二人の主人公をドラマティックに描き上げるという視点に、どこかアメリカのニューシネマ的な雰囲気を感じたことも事実で(予告編で感じたほどハリウッド調ではなかったものの)、個人的には、歴史的な事実を克明に丹念に刻み込もうという強い意志をより感じる『カティンの森』のほうに一層シンパシーを覚えたことは明記しておきたい。
 それと、これは史実に基づいた作品だから仕方ないこととはいえ、主人公らレジスタンスの側の人々がデンマークとスウェーデンの間を行き来したりするなど、切迫感や緊張感に若干水を差される想いがしたことも付け加えておきたい。
(自由に行き来できるのにも関わらず、彼らがデンマーク国内に残ったことの重みは充分に承知しつつも)

 俳優陣では、主人公のトゥーレ・リンハートとマッツ・ミケルセンの熱演を当然挙げるべきだろうが、いわゆるファムファタル的な存在であるケティーを演じたスティーネ・スティーンゲーゼ、ゲシュタポの高官を演じたクリスチャン・ベルケルも強く印象に残った。
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2010年01月14日

『カティンの森』

 アンジェイ・ワイダ監督の最新作『カティンの森』(2007年、ポーランド)を観た。

 『カティンの森』は、そのタイトルからも明らかなように、第二次世界大戦中の1940年、捕虜となったポーランド人将校1万数千人がソ連によって虐殺されたカティンの森事件をモティーフとした作品である。
 当然、この事件で、自らも父を殺害されたアンジェイ・ワイダは、ソ連が犯した罪を厳しく告発する。
 そして、父を待ち続けた母や妻たちの深い哀しみや強い憤りを描く。
(アンジェイ・ワイダは、この『カティンの森』を彼の両親に捧げているのだ)

 それとともに、この作品は、共産主義ソ連やナチス・ドイツに蹂躙されたポーランドの姿と、そうした状況の中で翻弄され続ける人々の姿を克明に映し出す。

 加えて、この作品は、人間が犯す暴力や罪、さらには人間存在そのものへの問いかけ(そこにはもちろん宗教や神の問題も含まれているだろう)ともなっているように、僕には思われる。
(その意味で、成功作か否か置くとして、僕は同じアンジェイ・ワイダの『悪霊』を思い出す)

 全編、ユーモアなどとは全く無縁の、まさしく救いのない展開が続いていくのだが、一つ一つのエピソードの選択の的確さと表現の距離感の適切さ、作品の世界観によく沿った役者陣の優れた演技によって、2時間を超える上映時間を僕は長く感じることはなかった。

 クシシトフ・ペンデレツキの作曲による音楽(交響曲第4番やポーランド・レクイエムの引用)も効果的だったのだけれど、ラストの音のないローリングタイトルに、僕は一層アンジェイ・ワイダの強い意志を感じた。

 いずれにしても、本当に観てよかったと思える作品だった。
 多くの方に、ぜひともお薦めしたい。


 *追記
 僕は、この『カティンの森』を観ながら、ふと新藤兼人のことを思い出した。
 アンジェイ・ワイダと新藤兼人の大きな違いは充分承知しつつも、老いてなお自らが伝えようとすることを執拗に作品にし続けるという点で、二人の監督の姿が僕にはどうしても重なり合ってしまったのだ。
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2009年12月12日

ある官僚の死

 京都シネマで、今日からキューバ映画祭2009が始まるということで、いろいろ思案した末、結局当初のチョイス通り、キューバを代表する映画監督、トーマス・グティエレス・アレアの1966年の作品、『ある官僚の死』(La Muerte de Un Brocrata)を観に行くことにした。

 『ある官僚の死』が、ついつい叔父の亡骸とともに棺の中に入れてしまった故人の労働証を、甥が年金取得のために取り戻そうとするが、墓地に戻れば剣もほろろの対応で、役所に行ったらたらい回し、と疲弊に疲弊を重ねるばかり、思い余ってついには…、という展開で、官僚主義の弊害をときにスラプスティックな笑いを交えつつ痛烈に批判した作品である。
 冒頭、ルイス・ブニュエルやイングマール・ベルイマン、黒澤明やオーソン・ウェルズ、ローレル&ハーディ、バスター・キートンらに敬意が表されているように、過去の先達たちの成果が巧みに取り込まれていて、映像的な実験という意味でも、また細部へのこだわりという意味でも非常に面白かったが、いくぶんテンポ感が緩いというか、あともうちょっとだけテンポよく運んでもらえれば、一層すとんすとんと腑に落ちるような気がしないでもなかった。
(例えば、多分にこの作品に影響を与えただろう、黒澤明の『生きる』の、特に前半部分のテンポのよさとどうしても比較してしまう)
 とはいえ、アレアの強い想いと意匠とがうまく結びついた作品であることも事実で、やはり映画好きなら観て損はないと思う。

 なお、上映終了後、今回のキューバ映画祭2009のプログラムディレクター、比嘉世津子さんのトークがあったが、その情熱的な話っぷりも含めて、なかなかの聴き(観)ものだった。
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2009年11月30日

『うまや火事』(妄想映画館)

『うまや火事』

 1956年・東宝、千葉泰樹監督


 『うまや火事』は、その名の通り、落語の『厩火事』を下敷きに、前年の『夫婦善哉』で絶賛を博した森繁久彌淡島千景コンビを再起用して撮影された作品である。

 *あらすじ
 髪結いのおさき(淡島千景)は、亭主の伊三郎(森繁久彌)と喧嘩の毎日。
 およね(沢村貞子)の代わりに伊勢屋の娘(中北千枝子)の髪を結いに行ったところが、帰りが遅いと怒鳴られ、今日も今日とて大喧嘩。
 腹が立つやら悔しいやら、思い余って仲人の源兵衛(小堀誠)を訪ねるが、源兵衛が伊三郎の悪口を言うと、おさきは大いに怒り出す。
 なんのことはない、おさきは伊三郎のことを好きで好きでたまらないのだ。
 そんなおさきの想いを察した源兵衛は、孔子と麹町の旗本松平玄蕃の二つの逸話をおさきにし、伊三郎の気持ちを試してみるのが一番だとおさきをそそのかす…。

 *みどころ
 なんと言っても、森繁久彌と淡島千景の丁々発止のやりとりが作品のきもだが、二つの劇中劇で、森繁久彌が孔子と松平玄蕃の二人を演じ分けるあたりもみどころだ。
(孔子の厩火事の場面では、山茶花究や田中春男、三木のり平、沢村いき雄、谷晃といった連中がここぞとばかり悪乗りをやっている)
 また、満洲訪問時に森繁久彌を高く評価した古今亭志ん生が前口上を務めているのも貴重だろう。


 ☆3・5
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2009年05月23日

痺れる舌 もしくは、丸山薫の不愉快な悪戯(妄想映画館)

☆痺れる舌、もしくは丸山薫の不愉快な悪戯
 2009年、痺れる舌制作委員会

 監督:中瀬八郎
 脚本:中瀬八郎


 京都ふぐ毒殺人事件・林葉ますみ被告(渡辺えり)、及び謙蔵被告(温水洋一)の裁判員に選ばれた、人材派遣会社パワフルキャリアの人事調査部員丸山薫(占部房子)は、ふとしたことからこの殺人事件に、パワフルキャリアと取引のある日本お魚能力検定協会が密接に関係していることを知る。
 さらに薫は、日本お魚能力検定協会の理事長中窪登(石田太郎)と宏(井田國彦)父子が、日本お魚能力検定を利用して莫大な利益を得るとともに、その資金をアジア第三国の独裁者金中日(中村梅之助)や隣国の元大統領金万宝(小沢昭一)らに提供していたことも知る。
 一方、内閣情報局総裁・川勝健次郎(志賀廣太郎)や同副総裁兼行政警察長官・纐纈肇(小日向文世)の命で日本お魚能力検定協会に社員として潜入していた行政警察のスパイ嶋村弥六郎(木下ほうか)が何者かに殺害される。
 実行犯として疑われる、登の異母弟忍(鶴田忍)、哲(渡辺哲)、弥六郎の同僚藤坂冴子(麻生裕未)。
そして、司法のメスは日本お魚能力検定協会に入れられる。
だがそれは、日本の政財界の魑魅魍魎たち、内閣総理大臣・榊原貴信(津嘉山正種)、日本憲民党副総裁・穴吹隆和(江原真二郎)、同幹事長・木俣啓輔(横光克彦)、日本経済交流協議会代表幹事・石橋仙一(中野誠也)、大和水産会長・大和大作(井川比呂志)らによる黒い陰謀の序章に過ぎなかった。
 大日本国策研究会会員山藤元也(鳥肌実)による中窪登の刺殺、林葉ますみ事件の重要証言者(江藤漢斎)の自殺、薫の上司で不倫関係の相手佐々木義夫(光石研)とその妻敦子(片桐はいり)の謎の自動車事故死が続く中、薫は全ての真相を解明すべく大学時代の後輩で京都民衆新報記者の畑田優三(本根作寿英)に協力を依頼しようとするが、それは薫の同僚蜂田直美(安部聡子)の裏切りによって阻まれる。
 薫の父丸山政男(品川徹)母好江(根岸季枝)、妹晶(平岩紙)らにも迫る魔の手。
 果たして、薫は生き残ることができるのか?
 それとも?

 日本映画界を代表する異才で、21世紀の山本薩夫と評される中瀬八郎の最新作は、世情を賑わす数々の事件をモチーフに、中瀬監督自らが書き下ろしたシナリオによるメタ・クリミナルロマンの大作である。

<その他の主な配役>
冨樫知男/薫の同僚(桜金造)、正木厚/京都ふぐ毒殺人事件の主任弁護士(山本圭)、秋川留子/京都ふぐ毒殺人事件裁判員(菅井きん)、藤谷和人/同(宇梶剛士)、下八川平祐/農漁業食糧大臣(山本亘)、堺宗満/農漁業食糧次官(森下哲夫)、堀米康之/パワフルキャリア社長(大杉漣)、熊本誠道/潮水寺管長(大滝秀治)、鳩原宮雅仁/皇族(島田雅彦)、万秀達/茶道表万家宗主(筒井康隆)、万聡子/秀達の妹(柳美里)、若松大衆/大日本国策研究会首領(キタモトマサヤ)、里見究一郎/洛北医大名誉教授(山本學)、早川実行/京都民衆新報社主(鈴木瑞穂)、北川ほのか/同記者(宮部純子)、最後に全てを覆す至高の存在(三谷昇)


 この文章は、実在の人物団体組織とは一切関係がありません!
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2009年04月29日

中丸忠雄が亡くなった

 俳優の中丸忠雄が亡くなった。76歳。
 東宝ニューフェイス出身で、映画やテレビドラマなどで活躍した。
 今のドラマ好きには、中丸といえば中丸新将ということになるのだろうが、一世代前、70年代、80年代のドラマに親しんだ人間からすると、やっぱり中丸といえば、この中丸忠雄ということになる。
 個人的には、『独立愚連隊』をはじめとする岡本喜八監督の一連の作品や、Gメン75、そして大岡越前第四部の車屋が特に記憶に残る。
 正直、男臭い、というかその濃いい雰囲気はあまり好みじゃなかったけれど、その分インパクトの強い役者さんだったとも思う。
 深く、深く黙祷。
(そういえば、明治天皇の孫を自称する中丸薫はこの人の夫人だったのだ)
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2009年01月15日

永遠のこどもたち

 昔話から始めよう。
 今から15年以上も前、僕は半年ほどドイツのケルンに住んでいた。
 ライン河畔に位置するこのケルンという街の名前を耳にして、あの巨大な聖堂を思い出す人も少なくないのではないか。
 僕自身、ケルンの駅に降り立って、あの大聖堂を初めて目にしたときは、その威容さに驚嘆し息を飲んだものだった。
 ただ、物事というものは外から眺めるのと内に入って実感するのとでは全く別であって、この大聖堂の堂内の静謐で厳粛な雰囲気は、たとえそれが素朴な信仰心からばかりでなく、巧みにたくまれた明確な意図のもとに生み出されたものと承知しつつも、人の心を動かす強い力が存在すると思った。
 特に、クリスマスの夕刻にふと入った際の、ひっそりとした堂内の空気感には、本来無神論者で死後の世界など一切信じていない僕にすら、神の恩寵や奇跡というものを感じさせるものであった。
 そして、それは、日本で日々生活してきた僕に、歴史的、精神的、文化的、社会的な彼と我との大きな違いを痛感させるものでもあった。

 J・A・バヨナ監督の『永遠のこどもたち』(2007年、スペイン=メキシコ)を観終わって、僕はふとそんなことを思い出した。
 と、言っても、この『永遠のこどもたち』はスペインを舞台にした作品であり、ケルンとはいささかの関係もない。
 ただ、そのあまりにも宗教的でカソリック的な作品の世界観や物語の展開に、僕はあの時のことを思い起こしてしまったのだ。
 そう、この『永遠のこどもたち』は、「それ」が主題なのであり作品の肝なのである。
 つまり、ヒッチコック調のハラア趣向や『エクソシスト』等々のオカルト作品の巧みな咀嚼も、若干のスプラッター的な描写も、結局は「それ」を強調し、明示するためのスパイスであり、エッセンスでしかない。
 だからこそ、スペインの歴史や風土、言い換えれば、彼と我との違いをきちんと踏まえた上で「それ」を信じる人ばかりでなく、そんな違いなどわからなくたって「それらしいもの」に親近感を抱く人にも、すうっと心に浸みる作品に仕上がっているのではないか。
 逆に、「それらしいもの」はもちろんのこと、「それ」すら信じることのできない僕などには、残念ながら今ひとつ腑に落ちない作品だった。
 たとえ、伏線の張り方やシークエンスのつくり方、さらには映像そのものの美しさといった、映画の出来のよさ、また、主人公ラウラを演じたベレン・ルエダや、特別出演格のジェラルディン・チャップリンをはじめとした役者陣の演技の素晴らしさ、きめの細かさ、キャスティングの妙(個人的には、ベニグナという老女を演じた女優が印象に残る)は充分評価しつつもである。

 つまるところ、信じる者は救われる、ではない、信じて疑わない者のみに薦められる映画だと、僕は思った。
(と、ここまでは彼と我との違いを強めに記してみたんだけど、このバヨナって若い監督、なかなか映画に通じてるみたいだから、もしかしたら、日本のホラーやオカルト映画に学んだ部分もけっこうあったりしてね。なんて、思ったりもして)
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2008年10月22日

わが教え子、ヒトラー

 京都シネマまで、『わが教え子、ヒトラー』<2007年、ドイツ作品/ダニー・レヴィ監督・脚本>を観に行って来た。
(原題は、Mein Fuhrerだから、『わが闘争』ならぬ『わが総統』という語呂合わせもできないことはないが、それはまあいい。それと、この邦題は三島由紀夫の戯曲から来ているのかもしれない)
 『わが教え子、ヒトラー』は、あのヒトラーに演説指導を行う特別の教師がいたという実話を下敷きとした自らの脚本をダニー・レヴィが映画化した作品で、第二次世界大戦も末期となった1944年末から1945年1月1日までの5日間に舞台を限定したこと、そして何より、演説指導の教師を本来のドイツ人から、強制収容所に収容されていたユダヤ人俳優へと移した点がまずもって光る。
 で、ヒトラーとユダヤ人教師(彼はプロフェッサー=教授とも呼ばれるほどの名優である)との「人間的」な交流や、教師の心の葛藤、家族への愛情、独裁者の孤独、ユダヤ人である監督によってこの作品が造られたこと等々、語りたいことはいろいろとあるのだが、そういうことは映画を観てもらいさえすればすぐにわかることだろうから、ここではあえて詳しく触れないことにする。
 ただ、この物語 − そこには当然、連合軍の爆撃によってほとんど廃虚と化したベルリン市街(セットやCGが巧く利用されている)を隠蔽しようとするゲッペルスたちのあさましい姿も含まれる − が、ナチス・ドイツのいんちきいかさままやかしぶりやヒトラーの虚像を鋭く指摘した作品であることは、やはり記しておきたい。
 また、チャップリンの『独裁者』からの影響が濃厚にうかがえる作品だけあって、本来シリアスな内容であり展開でありながら、ふんだんに笑いの種(それも相当きつめの)が仕掛けられており、なおかつそれが作品の本質ときっちり重なり合っていた点も強く印象に残った。
(てか、この作品ののりは、マルクス兄弟のほうにより近いものがあるのではないか。片手を吊ったヒムラーなどそのよい例だ)
 演技陣では、残念ながらこの作品が遺作となってしまったユダヤ人教師役のウルリッヒ・ミューエをまずもって挙げるべきだろう。
 「迫真の演技」という言葉だけでは全てを伝えることができないような、一見淡々としていながら、その実語るべきことを語り尽くした見事な演技だった。
 一方、ヘルゲ・シュナイダー(今は亡きレオナルド熊をいかつくしたような感じ)も、ヒトラーという独裁者の多様な側面をよく表していたのではないか。
 大粒の涙を求める人には、あまりにも乾いたタッチに過ぎるかもしれないし、最後の最後の趣向は僕自身の好みにはそれほど合わないが、全篇観飽きることのない優れた作品だとも僕は思う。
 経済的な事情もあってどうしようか迷ったが、やっぱり観ておいてよかった一本だ。
 なお、ニキ・ライザーの音楽(ケルンWDR交響楽団による演奏)が「よくできて」いたことを最後に付け加えておく。

 それにしても、日本はどうなんだ! とどうしても考えてしまうのだ、この作品を観ても。


 *一部、書き換えを行いました。
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2008年07月23日

眠狂四郎 女地獄

 京都みなみ会館まで、市川雷蔵主演、田中徳三監督の『眠狂四郎 女地獄』(1968年、大映京都)を観に行って来た。
 なお、『眠狂四郎 女地獄』は、毎年恒例の市川雷蔵映画祭の一環として上映されたもので、今年は、先頃亡くなった田中徳三監督(市川雷蔵とは気心の知れた仲)の作品を中心としたプログラムとなっている。

 で、『眠狂四郎 女地獄』なんだけど、あれこれ言い始めたら、本当にきりがない。
 いくらきちんと伏線が張ってあるとはいえ、非常にご都合主義的で、「そんなん眠狂四郎のせいやないか」と突っ込みたくなるようなストーリー展開はプログラム・ピクチュアの常だから仕方ないとしても、画面のそこここに表れる大映映画、ひいては邦画の斜陽衰退は、やはり隠しようがない。
 この作品の公開から約一年半後には亡くなってしまう市川雷蔵の疲弊がまずもってそうだし、草薙幸二郎や小瀬格、しめぎしがこといった人々の出演が時代の明らかな「変化」を感じさせる。
 さらには、渡辺岳夫のウェットで若干チープですらある音楽が、それに輪をかける…。

 が、しかし、僕はこの『眠狂四郎 女地獄』が好きなんだよね。
 ルーティンっちゃルーティンかもしれないが、シリーズ10作目ともなると、市川雷蔵の眠狂四郎の決まり具合、はまり具合は伊達じゃない。
 少なくとも、「俺に近づく女は、一人残らず不幸になる」なんて台詞、雷蔵じゃなきゃ、我慢がならないはずだもの。
 それに、伊藤雄之助と田村高廣(時折、父親の阪妻が重なって見えたりする)という二人の助演者の存在も大きい*。
 特に、雪のラストシーンにおける二人の演技は、強く印象に残る。
(てか、ラストシーンでの雷蔵、伊藤雄之助、田村高廣という三人の役者の姿こそが、この映画の一番の観物ではないか。他にも、いいシーンはあるけど)
 また、田中徳三監督による、基本的にはオーソドックスだけれど、ところどころに映画的な仕掛けをほどこした作劇も、手堅く安心して観ていられる。

 客観的に観て、これがシリーズのベストかと問われれば、残念ながら「否」と答えざるをえないけれど、僕にとっては絶対に外せない作品。
 個人的には、映画館の大きなスクリーンでこの作品を観ることができて、本当によかったと思う。
 ああ、面白かった!


 *他に小澤栄太郎、水谷良重、高田美和、安部徹、近藤宏、藤山浩二、五味龍太郎、渚まゆみらが出演している。
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2008年03月20日

『ぜんぶ、フィデルのせい』

 昨日3月19日、京都シネマまで、ジュリー・ガヴラス監督の『ぜんぶ、フィデルのせい』(2006年、フランス)を観に行って来た。

 「だぼはぜの子はだぼはぜだあ」とは、吉永小百合のベストワン『キューポラのある街』の中で、東野英治郎演じる主人公の父親が言い放った言葉だけれど、あのコスタ=ガヴラスの子、ジュリー・ガヴラスについては…。

 『<子供>の誕生』は、フランスの中世社会史家フィリップ・アリエスの名著だが…。

 学生時代、トリオ・ザ・ポンチョス・ブラザーズというフォークグループを組んでいた時、チリの革命歌…。

 ああ、嘘臭い嘘臭い。
 そういう批評家ぶった文章だって、書けと言われりゃ書くけれど、ここは自分のブログ。
 書きたくないもんは書きたくない!

 確かに、この『ぜんぶ、フィデルのせい』について語り始めたらきりがない。
 まず、予告篇を観て「これは大当たりだ」と確信したこと、単に作品だけではなく、実人生におけるコスタ=ガヴラスのジュリー・ガヴラスへの影響、<子供>の描き方の巧みさ、映像的技巧と伝えたいこととの見事な一致、脚本の素晴らしさ、押し付けられたものを鵜呑みにするのではなく、考えること学ぶことの大切さに力点が置かれていること、優れたユーモア感覚、主人公を演じたニナ・ケルヴェルや弟役のバンジャマン・フイエの魅力、個人的な体験や経験から心を強く動かされたいくつものシーン(特に、図書館のシーン)、作品で描かれた時代と現代との共通性、ジェンダーの問題、「もう一つ」の9・11…。

 でも、それより何より思ったことは、多くの方にお薦めしたい一本だということ。
 上述のどれか一つにでも「ひっかかる」何かがあったなら、ぜひともこの『ぜんぶ、フィデルのせい』をご覧いただければ。

 それにしても、『ぜんぶ、フィデルのせい』というタイトルは、作品の全て、本質をぴたりと言い当てたタイトルなんじゃないかと僕は強く思う。
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2008年02月27日

『レディ・チャタレー』

 京都シネマまで、パスカル・フェラン監督の『レディ・チャタレー』(2006年、フランス)を観に行って来た。
 予告篇で、これは観ておこうと思った作品だが、あいにく一日10時過ぎからの一回こっきりの上映のため、ずっと観ることができずにいた。

 で、今さら原作『チャタレー夫人の恋人』の展開についてくどくどと記す必要もあるまい。
 D・H・ロレンスが遺した最後の小説で、その性的な表現からイギリスはもちろんのこと、この日本でも裁判沙汰になったことで知られており、これまで数回映画化されてもいる。
 ただ、そうした騒ぎ、並びに映画化作品がどうにもセックスの部分こだわった、もっとありていに言えば、「ポルノ」的な興味関心に著しく傾斜しがちであったのに対し、今回のフェラン監督の『レディ・チャタレー』は、より作品の本質に迫った作品に仕上がっているのではないかと、僕は思った。
(なお、チラシによると、フェラン監督は『チャタレー夫人の恋人』を映画化するにあたって、一般に広く知られた第3稿ではなく、チャタレー夫人コンスタンスと森番のパーキンの二人の関係が強く描かれた第2稿をもとにしたという)
 特に、ことさら美化されない、言い換えれば、男性的な「ドラマ化」がされていない、マリナ・ハンズ演じるコンスタンスと、ジャン=ルイ・クロック演じるパーキンの描かれ方(それは、二人のセックスを含めてだけれど)には、好感が持てた、
 また、自然描写の豊かさも印象に残り、性=生=自然、といったとらえ方には、今村昌平監督の『楢山節考』を思い出したほどである。

 一方で、生理的な意味合いからも、2時間15分は長過ぎた。
 少なくとも、ラストの「会話」がこの作品の肝の一つなのであるとするなら、なおのこと、終盤の「映画的趣向」などもっとカットしてもよかったのではないだろうか。
 自然描写が豊富でありながら、映画の造りが「自然」でないことは、前半部分からわかっていたことだけれど。
(そこがまた、イマヘイさん的でもある)

 役者陣では、「等身大」の恋人同士を演じた先述の二人の他、壮年の頃の仲谷昇みたいなチャタレー卿のイポリット・ジラルド(てか、仲谷昇があまりにもバタ臭かったのだ!)も印象に残るが、実に「フランス」的な布陣であり、「イギリス」的な雰囲気にこだわる人には不満が残るかも。
(って、しゃあないやね、そこのところは。だって、フランスの映画なんだもん)

 それにしても、『チャタレー夫人の恋人』は、「当たり前」のことが「当たり前」に表現されている小説なのだ。
 できれば、映画の原作となった第2稿を新しい翻訳で読んでみたい。
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2008年02月11日

迷子の警察音楽隊

 京都シネマまで、イスラエルのエラン・コリリン監督の『迷子の警察音楽隊』(2007年、イスラエル=フランス)を観に行って来た。

 現在公開中ということもあって、詳しい展開についてくだくだくどくどと記しはしないが、イスラエル(ユダヤの民)とアラブ諸国(アラブの民)の関係を識っている人間にとっては、本当に「よくできた」作品と感じられるような内容になっている。
 しかも、ことさらハートウォーミング調でウェットに歌い上げるのではなく、いわゆるオフビートでドライなタッチで全篇描き切っている点にも好感が持てる。
(まずもって、キャスティングが巧い。観た目からして「おかしな」人たちが集められているのだ。もちろん、ただただおかしいのではなく、「おかしかなしい」雰囲気を持っている人たちだということも指摘しておかなければならないだろうけど)
 また、音楽の利用も、実に効果的だ。

 ただ、先述したイスラエル云々かんぬんという部分にぴんとこない人にとっては、少々「退屈」に思われるかもしれないとも思った。
 まあ、ぴんとこないこと自体に、なんだかなあ、と思わないでもないが…。
(ドラマという意味では、けっこう仕掛けがあるのだけれど、表現が乾いている分、とっつきにくく感じられるかもしれない。上記の点はひとまず置いておいたとしても)

 いずれにしても、個人的には観ておいてよかったと感じられる作品だった。
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2008年02月01日

やっぱり、山田洋次は山田洋次である

 映画の日で一本1000円ということもあって、MOVIX京都まで、山田洋次監督、吉永小百合主演の『母べえ』(2007年、松竹)を観に行って来た。

 おおまかに言えば、黒澤明作品のスクリプターとして知られた野上照代の同名の著書を原作に、ある一つの家族とそれをとりまく人々の出来事を通して描かれた山田洋次流の「クロニクル」、と評することができるだろう。

 予想していた通り、吉永小百合はいつもの如く吉永小百合だし(途中、いい感じで進んでるなあと思っていると、突然力みに力んだ感情表現となってしまうとか)*1、歴史のつかみ取り方が「図式的」というか「公式主義的」というか、山田洋次という人の、心より先にどうしても頭が働いてしまう性質がしっかり出ていたし、そうした諸々が混ぜこぜになって、なんともぎくしゃくとした印象を受けてしまったことも事実だ。
 正直言って突っ込みどころは満載である。

 ただ、だからと言って、観なければよかったかというと、実はそうではなくて、観終わって心動かされている自分がいたことも確かなことなのである。
 少なくとも、僕はこの作品を観ておいて本当によかったと思った。

 それと、『母べえ』が「吉永小百合の作品」である一方で、明らかに「山田洋次の作品」となっていたことも指摘しておかなければなるまい。
 そして、それは単に、浅野忠信がかつての寅さんを彷佛とさせるような「やってるやってる」感丸出しの演技を行っていたことや、細かく観ていけば、ずいしょに様々な笑いの仕掛けがほどこされていたということだけを指しているのではない。
 また、『男はつらいよ』シリーズのある作品と同様に、作中で、シューベルトの『冬の旅』の中の「菩提樹」が歌われていたことだけを指しているのでもない。
 この『母べえ』が、吉永小百合・坂東三津五郎夫妻とその子供たちの家族の「耐える」物語であるとともに、浅野忠信が自らの恋を「耐える」物語でもあるという二重構造になっているところに、僕は山田洋次らしさを強く感じるのである。
(それは、ハナ肇主演の『馬鹿まるだし』同様、あの『無法松の一生』の「構図」を受け継いだものであり、なおかつ恋に「耐える」という意味で、一連の『男はつらいよ』シリーズにつながる)

 いずれにしても、「斜め読み」派にはあまりお薦めできない、と言うことは…。
 まあ、皆まで口にする必要もないか。

 そうそう、役者陣についてはあえて詳しく触れないことにしておく。
 吉永小百合はひとまず置くとして、自分の「好み」にあう人あわない人がいたということだけは記しておくが。


 *1 なお、こうした点に関しては、関川夏央の『昭和が明るかった頃』<文春文庫>が詳しい。

 *2(追記)
 この『母べえ』が、いわゆる松竹大船調の雰囲気を受け継いだ作品であることは、言うまでもないことだろう。
 あと、作中のいくつかのエピソードから、僕は木下恵介監督の反戦家庭劇『大曽根家の朝』を想起したりもした。
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2008年01月30日

『ヒトラーの贋札』

 京都シネマまで、ステファン・ルツォヴィッキー監督の『ヒトラーの贋札』(2006年、ドイツ=オーストリア)を観に行って来た。

 これは、本当に観に行ってよかったと思える一本だ。

 現在公開中だから、というだけではなく、こういう密度の濃い作品の大まかな筋だけをだらだらと書き流し、最後に「感動した」とか「打ちのめされた」と感想を置いてレビューのいっちょあがりというのも、本当に馬鹿らしいと思うから、ここでは詳しい内容についてはあえて触れないでおく。

 『ヒトラーの贋札』は、登場人物の一人でもあるアドルフ・ブルガーがものした著書を下敷きに、ナチス・ドイツが強制収容所内で推し進めた紙幣贋造作戦を描いた作品で、ナチス・ドイツによるユダヤ人迫害がその大きな主題ではあるのだけれど、ただそれだけに留まらない、普遍的な意味合いを持った群像劇、サスペンス劇、さらには宗教劇となっており、僕はとてもひき込まれた。
 監督のルツォヴィッキー自身による脚本も非常に巧みで、僅か一時間半の間に、語るべきことが語り切られ、描くべきことが描き切られているのではないか。
 主人公の世界的な贋造犯サリーをはじめ、登場人物の造形の丁寧さも強く印象に残る。
 また、クラシックなど音楽の引用も実に効果的で、作品の世界観によく添っていると思った。

 一筋縄ではいかない主人公を演じたカール・マルコヴィクスなど、魅力的で達者な役者が揃っており、その点もこの作品の観どころの一つとなっている。

 心身両面に対する暴力的な描写が多々あるため、どうしてもそういうものは受け付けられないという方もいるかもしれないが、映画好きにはぜひともご覧いただきたい一本である。
 大いにお薦めしたい。


 *追記

 ある人から、「『ヒトラーの贋札』って、過去を反省するという意味合いで造られた映画なんですか?」と尋ねられた。
 そうした意味合いも当然あるだろうけれど、やっぱりアクチュアリティの問題、鋭い現状認識があるのだと僕は思う、この『ヒトラーの贋札』が造られた背景には。
(この映画を観ながら、現在世界的に活躍するドイツ出身のある指揮者の顔を僕は思い出してしまった)

 それと、ナチス・ドイツによるユダヤ人虐殺に憤ることと、イスラエル政府の姿勢を肯定することとは全く意味が違う。
 なんでもかでも混ぜこぜにして考えていいというものじゃない。
 言わずもがな書かずもがなのことと承知の上で、あえて付記しておく。
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2008年01月21日

意地悪なメタ・ロマンス? もしくは、天使のような悪魔のような…

 京都シネマまで、フランソワ・オゾン監督の新作『エンジェル』(2007年、ベルギー=イギリス=フランス)を観に行って来た。

 三つ子の魂百まで、じゃないが、かつて高校時代に白居易白楽天の『長恨歌』を政治批判の物語と論じて(少なからぬ女性陣に白眼視されて)以来、時として物語の裏を読もう裏を読もうとしてきた人間にとっては、この『エンジェル』は、まさしくタイトル通り、意地の悪いメタ・ロマンスということになる。

 現在公開中ということもあって、くどくどくだくだ作品の概要に触れることはしないけれど、作品の基本は「ラブロマンス」調(てか、ハーレークイン調)。
 ロモーラ・ガライ演じるヒロインの波乱に富んだ生涯が、華麗な衣裳や甘やかでロマンチックな音楽とともに、エレガンスに劇的に描かれていて、全篇観飽きることがない。

 でもね、ここまでべただと「ムッシュ・オゾン、あなたはほんとに本気なの?」と疑ってかかりたくもなる。
 そう、観ようによってはこの作品、どこまでもどこまでも裏読み深読みできる造りにもなっているのだ。
 ほら、あのシーンのあの演技、ほらこのシーンのこの映像…。
 まあ、こんな物言いをしてみたくなるのは、打算的で、本当の恋を知らない者だからこそなんだろうね。
(と、ここはあえて高校時代の一文風にしめてみる)

 物語にどっぷりつかって観るならば、サブタイトルの「天使のような悪魔のような…」が僕の率直な印象。
 何せ、主人公の名前はエンジェル・デヴェレルなんだもの!

 役者陣では、当然ロモーラ・ガライを挙げるべきだろうし、実際、単純に「美しい」だけではかたづかない熱の入った演技っぷりには脱帽物なのだが、それでも僕はシャーロット・ランプリングに軍配をあげたくなる。
 彼女の自然なたたずまいは、やっぱり凄いや。

 その他、ヒロインの恋人役から脇にいたるまで、十分十二分に目配りの届いたキャスティングだと思った。

 一人の女性の人生を描き切った作品という意味でも、言い換えれば、どっぷりつかりたいという方には大推薦の一本。
 ただし、「なみ」の裏読み派にはどうかなあ。
 もしかしたら、肩透かしを喰らうかも。
 ん、それってやっぱり意地悪じゃん!!


 *追記
 簡単に言うと、表面的ストーリー展開的には、伏線の張り方から役者陣の演技等々、本当によく出来たCX(トーカイテレビ制作)のお昼のドラマ、もしくは韓流ドラマ風。
 でも、本当にそれだけなのかどうなのかは観てのお愉しみ。
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2008年01月18日

川島雄三二本立て・2『グラマ島の誘惑』

 川島雄三豪華二本立て。
 お次は、『グラマ島の誘惑』(1959年、東京映画)である。

 『グラマ島の誘惑』は、飯沢匡さんの『ヤシと女』を川島監督自身が脚本化して出来た作品で、非常にメッセージ性の強いスラプスティックな諷刺劇に仕上がっている。

 みなみ会館のチラシには、「皇族批判」とあるけれど、ノンノン、この作品のまずもっての主題は、天皇制批判、それも昭和天皇の戦争責任の追及なのである。
(森繁久彌演じる香椎宮の「あっ、そう」という言葉づかいを聴くだけで、そのことはすぐにわかるだろう)
 そして、グラマ島という南洋の孤島で繰り広げられたドタバタ悲喜劇を通じて、旧日本軍と従軍慰安婦の問題や沖縄の問題、さらには水爆実験=核兵器の問題がてんこもりに盛り込まれている。
 川島監督(や飯沢さん)の伝えようとすることは、あまりにも明確だろう。
 ただ、そうした主題の明確さに比較して、ストーリー展開や作品の構成といった、川島雄三の演出には、なんとも言えないもどかしさを感じることも事実だ。
 たぶん、原作と脚本の関係(違い)もあるだろうし、役者陣のスケジュールもあってのことだろうが、時にぎくしゃくとしたり時に冗長だったりと、どうにも無理があるように、僕には感じられたのである。
 観て損をしたとは全く想わないけれど、残念ながら成功作とも言い難い。

 役者陣は、先述の森繁の他、フランキー堺、三橋達也、八千草薫、浪花千栄子、轟夕起子、宮城まり子、淡路恵子、岸田今日子、春川ますみ、桂小金治、加藤武、左卜全と、芸達者個性あふれる面々が揃っている。

 ところで、チャイコフスキーの交響曲第6番「悲愴」の終楽章とショパンのピアノ・ソナタ第2番の葬送行進曲を混ぜこぜにしたような皮肉たっぷりのテーマ音楽の書き手は、あの黛敏郎だ。
 超タカ派として知られた黛さん、思想と仕事は別物だったのだろうか?


 *追記
 宮城マリ子や岸田今日子の出演、淡路恵子扮する香坂よし子の人物造形(メガネをかけてオールドミス風)、どうしようもない男と大勢の女という構図から、市川崑監督の『黒い十人の女』を僕は思い出した。
 市川崑、というか和田夏十は、この『グラマ島の誘惑』からも、何らかのヒントを得たのではないのか…。
 というのは、いつものラッパだけどね。
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川島雄三二本立て・1『喜劇 とんかつ一代』


 京都みなみ会館の川島雄三レトロスペクティヴ、今日はプログラムの面白さもあって、豪華二本立てで愉しんだ。

 で、一本目は『喜劇 とんかつ一代』(1963年、東京映画)。

 『喜劇 とんかつ一代』は、柳沢類寿のオリジナル脚本を川島雄三が映画化した作品で、基本的には、戦前の『花籠の歌』や川島監督自身の『とんかつ大将』にも通じる、とんかつ屋を舞台にした人情喜劇。

 と、言いたいところだし、実際、その基本線はけっこう守られているとも思うのだけれど、そこは「あの男を川島雄三監督と組ませるな」と、プロデューサーに言わしめた(小林信彦『テレビの黄金時代』<文春文庫>「第七章 東京オリンピックとダニー・ケイ」から)柳沢・川島コンビだけあって、どうにもこうにも一筋縄ではおさまらない。
 特に、三木のり平の「クロレラ研究者」(妻の池内淳子にクロレラ製の食べ物ばかりを食べさせる)という設定がキテレツだし、その三木のり平が旧知の芸者(水谷良重=現八重子)の頼みでにせ按摩に扮しウソ発見機をあやつるくだりなど、怪しさ満開である。

 また、森繁久彌、フランキー堺、山茶花究(豚の屠殺名人、という役まわりには、いろいろ想うところもあるが)、益田喜頓といった名喜劇役者たちが、お前がやるなら俺もやるいう風に(それでいてきちんと自分の役割を踏まえた上で)、芸を競っている点も、見逃せない。

 一方で、加東大介や淡島千景、木暮実千代らベテラン勢が人情劇に相応しいしっかりとした演技を行っていることも忘れてはなるまい。
(淡島千景と森繁のやり取りには、ついつい『夫婦善哉』を思い出してしまった)

 他に、団令子、岡田真澄、都家かつ江、村田正雄、立原博、横山道代(この頃の彼女らしくアーパーな役)、守田比呂也、さらには当時の上野動物園園長林寿郎が出演していた。
(林氏の出演は、上野動物園でロケをしたためか)

 まあ、『幕末太陽伝』、『洲崎パラダイス 赤信号』や『しとやかな獣』といった傑作佳品とは異なって、どちらかといえば、笑い好き、それもマニアックな笑い好きの人にお薦めしたい一本だ。

 ただ、いわゆる大衆料理=とんかつにあくまでもこだわる森繁久彌の台詞に、川島雄三や柳沢類寿の気概がこめられているような気がしたのだが、これは僕の思い込みが激し過ぎるのだろうか?
(そう考えると、映画の初めと終わりに歌われるあの歌が、大いなる「讃歌」にさえ聴こえてくるのだ)


 余談だけど、45年も前に撮影されたこの作品の中で、「ストーカー」という言葉がすでに使われていたのは、ちょっとした驚きだった。
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2008年01月17日

一筋縄ではいかないピカレスク『しとやかな獣』

 京都みなみ会館まで、川島雄三レトロスペクティヴ中の一本『しとやかな獣』(1962年、大映東京)を観に行って来た。

 『しとやかな獣』は、新藤兼人の原作・脚本を川島雄三が映画化した作品だが、これが滅法面白い。
 とある団地の一室、元海軍軍人の父(伊藤雄之助)と母(山岡久乃)、娘(浜田ゆう子。土曜ワイド劇場的なセミヌード入浴シーンがある)、息子(川畑愛光。力み過ぎ)の四人の家族を中心に、彼彼女らと関わる個性全開の人々の欲の皮のつっぱらかっただまし合い、虚々実々の駆け引きが、速いテンポでこれでもかこれでもかという具合に描かれていて、全編、全く飽きることがないのだ。
 いんちきいつわり嘘ペテン。
 まさにこの日本という国の戦後の有り様(そして、それは、「今現在」の日本の姿でもある)が克明に、適確に浮き彫りにされているが、一方で、登場人物をただただ「狡い」「醜い」と一刀両断に切り捨てている訳ではないことは、新藤兼人の脚本や川島監督の作劇をみれば明らかなことで、そここそが、この『しとやかな獣』を、単純なピカレスクや諷刺喜劇に終わらせない要因になっていると思う。
(川島雄三が『幕末太陽伝』を撮っていることもあってか、作品の構造が、落語の『掛取(万歳)』っぽく感じられたことを付記しておきたい)

 役者陣では、おかしさとかなしさを体現した伊藤雄之助と山岡久乃の夫婦も見事だが、若尾文子の「変身ぶり」も魅力的だ。
 また、高松英郎と船越英二(船越さん、いいなあ)が柄に合った演技を行っている他、いい意味で抑制がきいた山茶花究、コメディリリーフ(てか、息抜き)的なミヤコ蝶々、そして「やってるやってる」小沢昭一も出演していて、誠に嬉しいかぎり。

 フィルムの悪さはいかんともし難いが、団地の部屋を外側から「牢獄」のように映すといった映像的な実験作品として観るもよし、アメリカに従属しつつ高度経済成長を推し進める日本の現状を批判した社会派作品として観るもよし(明らかに、船越英二と伊藤雄之助の有り様は「対比」されているはずだ)、ただただ笑える喜劇として観るもよし。
 邦画好きなら、絶対におとせない一本。
 必見だ!


 それにしても、市川崑や増村保造の作品にもそう感じるが、大映東京の作品の先駆性(並びに邪劇性)って、やっぱり凄いや!!
posted by figarok492na at 21:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画記録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年01月14日

本当に掘り出し物  川島雄三の『洲崎パラダイス 赤信号』


 京都みなみ会館まで、川島雄三レトロスペクティヴ中の一本、『洲崎パラダイス 赤信号』(1956年 日活)を観に行って来た。

 『洲崎パラダイス 赤信号』は、芝木好子の『洲崎パラダイス』を川島監督が映画化した作品で、僅か1時間20分ほどの尺の間に、思うにまかせない男と女の仲や、女の悲哀、男の弱さ、情けなさ、庶民の貧しさなどが巧みに描き込まれていて、まさしく佳作佳品と呼ぶに相応しい一本に仕上がっている。
 深川、洲崎あたりの切り取り方も見事と呼ぶ他ない。

 役者陣では、切るに切れないくされ縁の女と男を演じた新珠三千代と三橋達也の他、飲み屋のおばさんの轟夕起子(『江戸の悪太郎』の彼女がこんな風になるなんて…。ああ)、洒脱極まりない河津清三郎、清純可憐な芦川いづみ、植村謙二郎、そして「やってるやってる」小沢昭一が印象に残る。

 いずれにしても、邦画好きにはぜひともお薦めしたい作品だ。


 なお、この作品に関しては、小林信彦の『コラムの冒険』<新潮文庫>の『51 掘り出し物 − 川島雄三の「洲崎パラダイス・赤信号」 −』が詳しい。
(冒頭のシーンですぐに感じた、イタリア映画との関連性についても、小林さんはきちんと触れている)
posted by figarok492na at 22:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画記録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする