2009年09月14日

1994年3月2日(欧州音楽日記24・最終回)

 ☆ヴェルディ:歌劇『リゴレット』公演

  指揮:ミケランジェロ・ヴェルトリ
  会場:ケルン市立歌劇場


 楽しみにしていたケルン市立歌劇場の『リゴレット』の公演を観に行ったが、うーん。
 一言で言うならば、「期待外れ」。
 多くを望み過ぎたのか?

 指揮は、『トスカ』で聴いたミケランジェロ・ヴェルトリ*1。
 今日のオーケストラはそれほど締まって聴こえなかった。
 ただし、大きなミス自体はなかったよう。
 演出は、アウグスト・エヴァーディング。
 ドイツでは有名な演出家の一人。
 トラディショナルではないが、奇をてらったものでもない。
 天井に向かって大きな鏡が斜めに据えられているので、舞台の人々の姿が反射して映し出されるという形になっているのが興味深いが、すでにハンブルクの『ラ・トラヴィアータ』も同様の趣向ではなかったかしら*2。

 ヴェルディの音楽自体は素晴らしい。
 第1幕のモンテローネの「呪い」、第2幕のジルダのアリア、男性陣の合唱、第3幕第1場のリゴレットのアリア、そして、女心の歌、四重唱、嵐の場面。
 ユゴーの作品が「政治的」な色彩の濃いものとすれば、ヴェルディは、それとともに人間の「運命」劇としての側面も強調したものと言えるだろう*3。

 で、このヴェルディ中期の傑作を演ずる歌い手や如何?
 残念ながら、どうも感心しなかった。
 まず、タイトルロールのバリー・アンダースン。声が重いのは悪くないとして、ところどころ枯れたりするのは?
 歌い方はがさつに歌っているわけではないのだが、何か深みが足りないと思った。
 身体にハンデキャップを持ちつつ、他者を笑わせなければならないリゴレット自身の人生と、ジルダという最愛の娘をけがされた父親の怒りを表わすには、もっと役柄への理解が必要なのではないだろうか?*4
 ジルダのヴァドヴァ。コロラトゥーラの技巧はクリアしていたし、第2幕のアリアなど大変だろうが、出だしが不安定なのが少し気になった。それと、声質自体、まだ厚みがないというか、音量の幅が狭い感じで好きになれない*5。
 マントヴァ公は、Namiro(もしくは、Ramiro)*6。小林一男を思い出した。高いところを出すのが大変で、ドミンゴやパヴァロッティの声を期待するのが間違いなんだろうけれど。
 スパラフチレのカンは、リゴレットが重いせいもあってか少し軽め。
 他も、あまりよい出来とは言えず。
 まあ、仕方ない*7。



*1:1993年11月14日のケルン市立歌劇場における公演。

*2:明らかに、吉田秀和の影響。

*3:ヴェルディの「政治性」、さらには『リゴレット』上演にまつわるエピソードを承知した上で、僕はやはりこう思う。

*4:偉そうな物言いだ。この頃からこういう感じ方考え方書き方をしていたのか…。

*5:本当に声の好みのストライクゾーンが狭いな、僕は。

*6:公演プログラムと、歌劇場に張り出されるキャスト表とで記載が異なっていたのだ。プログラムとキャスト表とを見比べていたおばさんと笑いながら話をした記憶がある。もしかしたら、ナクソスのオペラ録音に参加しているヨルディ・ラミーロだったかもしれない。

*7:結局これがヨーロッパ滞在時最後のオペラ(コンサート)となった。まあ、仕方ない。
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2009年09月13日

1994年2月25日(欧州音楽日記23)

 ☆ケルンWDR交響楽団定期演奏会

  指揮:ネーメ・ヤルヴィ
  会場:ケルン・フィルハーモニー


 ケルンWDR交響楽団の定期演奏会をシュテー(立ち見)で購入し、いつもの如く前方の席に移動して聴く。
 ヤマハの寺田さんとお会いし、いろいろとうかがう。

 さて、コンサートのほう。
 指揮は、エストニア出身でエーテボリ交響楽団やロイヤル・スコティシュ・ナショナル管弦楽団とのCD録音で一躍有名になったネーメ・ヤルヴィ。
 出て来たときには、「ジリノフスキーの登場か?」*1と思った。
 と、これは冗談。

 プログラムは、前半がリヒャルト・シュトラウスで、後半がベートーヴェンの7番のシンフォニー。
 第一曲目は、祝典前奏曲。
 オルガン独奏に加え、客席側後方にトランペット群を置いた壮麗華美な作品。
 リヒャルト・シュトラウスのオーケストレーションの巧みさを示す一曲だし、WDRのオケもよく鳴っていたが、なんだか早書きというか、手際のよさが目立つというか。
 加山雄三ショー、のような大げさななんとかショーのテーマ曲みたいで…。
 次は、ウーラントの詩による、独唱と合唱と管弦楽のための吟唱歌人タイユフェop.52。
 合唱の力強さがひと際目立つ作品。
 独唱は、テノールのスヴェンセンとバリトンのヘルマンはワーグナー風。
 ソプラノのバンゼは、あまり好感の持てない声*2。
 ただ、このホールの前のほうは、歌い手の声がうまく響かない(というか、地の声で聴こえる)ことも大きいのかもしれないが。

 後半のベートーヴェンは、ファースト・ヴァイオリン12…コントラバス8という大きい編成。
 演奏のほうは、アーノンクールやノリントンのような「過激」な解釈ではなかったが、古臭いという感じがするものでもない。
 テンポは速めで、第1楽章の再現部や、曲の終わりなど、聴いていて興奮する部分もあった。
 ただ一方で、ベートーヴェンの作品(それだけでなく古典派の作品)の演奏は難しいということを再認識したことも事実である。



*1:ジリノフスキーは、ロシアの自由民主党党首を務める極右政治家。いくら冗談とはいえ、これはネーメ・ヤルヴィに失礼だった。ヤルヴィはジリノフスキーとちっとも似ていないし…。

*2:ユリアーネ・バンゼか? 確かに、彼女の声質はあまり好みではないので。
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2009年09月12日

1994年2月22日(欧州音楽日記22)

 ☆ロッシーニ:歌劇『ラ・チェネレントラ』公演

  指揮:アダム・フィッシャー
  会場:バイエルン州立歌劇場(ミュンヘン)


 なんとかバイエルン州立歌劇場のチケットを手に入れて*1、ロッシーニの『ラ・チェネレントラ』を観ることができた。

 バイエルン州立歌劇場は、なかなか大きい。
 それだけに立ち見席を4階などにするとは「田舎者」のやることだ!
 と、憤慨するが、音は悪くない。
 ただオーケストラが響き過ぎて、時として歌声が埋もれてしまうときもあった。
 まあ、チケットが手に入っただけよかっただろう。
 もしチケットが手に入らなかったら…*2。

 演出は、今は亡きジャン・ピエール・ポネルのもの。
 一番上の、それも右端で立ち見なので、完全に舞台が見えないのが残念だが、演出はトラディショナル、そして音楽を活かしつつ巧みに笑わせる。
 やはり、モーツァルトやロッシーニといったブッファを得意とした人だったんだなあと実感する。
(彼の演出した、『フィガロの結婚』に接することができなかったのは残念)

 指揮は最初のクレジットとは違って、アダム・フィッシャー。
 イタリア流のロッシーニがどのようなものかいまひとつわからない私には、「やあ、ロッシーニ・クレシェンドがよく表わされていた」などとは恐ろしくて言えないが、オーケストラはよくまとまっていたと思う。
 オーケストラピットにヴァイオリン(ファースト)が10人入っているのには驚いた。
 最近はロッシーニを演奏する際のオケのメンバーも減っているはずだから。
 その分、力強い響きが出ていた。

 歌手陣は、素晴らしい出来。
 第1幕のはじめのうちは、ちょっとオケと合わない部分もあったが、後半はばっちり盛り上がり、第2幕は一気に聴かせた。
 アリドーロのカール・ヘルムは、謹厳な哲学者ぶりを発揮。少し速い歌詞は難しかったようだが。
 チェネレントラの姉妹役、ペトリ、ユングヴィルトは、ソロで活躍する部分はないもののの、アンサンブルに、そしてコミカルな演技に活躍。
 ダンディーニのアルベルト・リナルディは、美声。
 王子ラミーロ役は、ロベルト・ガンビル。ケルンの『アルジェのイタリア女』でも聴いた人*3。会場からブーが出ていたが、確かに彼のファルセットにはちょっと無理があるかも…。ただ、この役を最後まで声を落とすことなく歌えたことは評価しなければなるまい。
 そしてドン・マニフィコ役のエンツォ・ダーラ。最初はなんだ普通のバスじゃないかと思っていたが、アンサンブルやソロでの彼の見事さときたら。早口、裏声、ほとんど完璧だし、芝居も達者。ロッシーニのブッファだけで活躍しているといえば語弊があるかもしれないけれど、もしそうだとしても、これだけの逸材、拍手拍手。

 チェネレントラ(シンデレラ)=アンジェリーナのチェチーリア・バルトリ。
 顔だけ見ていてか細い声でも出すのだろうと思ったら、これは大間違い。
 れっきとしたメッツォの声。
 オペきちは、出だしの音がまだ完全でないなどと重箱の隅をつつくのかもしれないが、そういう点には疎い私は、素直にブラボー。
(手放しでブラボーを叫んだのは、これが初めて)
 まず声が美しい。高いところから低いところまで、ほぼ無理なく出ている。
 また、技術的にも、コロラトゥーラや早口など、技巧たっぷりのロッシーニの音楽を難なくこなしていたと思う。
 それと、ガレリアの遠目からでも映えるその容姿。写真では少々クセのある顔立ちだが、舞台では実に映える。
 これはレコードだけ聴いていても、ビデオで近くから映しているのを観ただけでもわからない実感。

 なんやかやイライラしていたが*4、この公演を観ることができて本当によかった。
 愉しい作品、愉しい公演。
 拍手が10分以上続いたということを付記しておく。
 ブラボーブラボーブラボー。



*1:別の公演の宣伝活動に来ていた、ミュンヘンの音楽大生の女性の強い助けがあって立ち見席を手に入れることができた。

*2:この公演を観るためだけに、ケルンからミュンヘンまで行ったので。ユーレールユースパスを持っていたので、交通費自体はかからないとはいえ。

*3:1993年11月18日のケルンでの公演。アルベルト・ゼッダの指揮、フルッチョ・フルラネットらの出演、ミヒャエル・ハンペの演出によるこの『アルジェのイタリア女』は音楽的にも高い水準にあり、お芝居としても抱腹絶倒の出来だった。

*4:ミュンヘン到着後、現地の国粋主義者とちょっとしたいざこざがあった。破れ傘刀舟の真似もあり相手を粉砕したが、自己嫌悪をはじめ嫌な気持ちが残っていた。
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2009年09月11日

1994年2月21日(欧州音楽日記21)

 ☆ケルン・ギュルツェニヒ管弦楽団定期演奏会

  指揮:ペーター・シュナイダー
  会場:ケルン・フィルハーモニー


 ケルン・ギュルツェニヒ管弦楽団の定期演奏会を聴く。
 今日も瀬尾さんは降り番。

 指揮者にバイエルン州立歌劇場の首席指揮者、ペーター・シュナイダーを迎え、ヴァイオリン独奏には、コンサート・マスターのトリスタン・ヤニッケが立った。
 曲目は、リヒャルト・シュトラウスのヴァイオリン協奏曲と、スークのアウラエル交響曲。
 非常に興味深いが、それと同じくらいにポピュラーではないプログラム。
 そのこともあってか、会場の入りはいつもと比べてやや少なめだった。

 リヒャルト・シュトラウスのヴァイオリン協奏曲は、独奏の技術もそれなりに必要なことと、初期の作品とはいえ管楽器等オーケストレーションが巧みなこと、さらには美しいメロディーがあることから、もっと演奏されてもよいのでは、と思った。
 第3楽章などは、ちょっとブラームスのパロディっぽく、厚みのあるヴァイオリンの音は聴けなかったが、技術的には無難にこなしていた。
 オーケストラのほうは、ホルンをはじめ管楽器がもさもさして気になったのと、弦がしばしばがたがたするので(音は美しいのだが)、この曲を完全に愉しむというまでにはいかなかった気がする。
 ベルリン・フィルで聴くと…、言うまい。

 休憩のあとは、スークのアスラエル・シンフォニー。
 これも初めて聴く曲。
 名前から予想されるのは、民族趣味彷彿としたおどろおどろしい曲調だが、これは大外れ。
 確かに第1部・第3楽章、第2部・第5楽章(フィナーレ)などでは、ドヴォルザークにもつながるスラヴ・ボヘミア民謡風舞曲調の音楽も登場したが、シュナイダーの解釈もあってか、洗練されて聴こえた。
 音楽的には、スメタナや先述したドヴォルザークだけではなく、ブルックナー、マーラー、シベリウス、ニールセンの雰囲気も備えている。
 ヴァイオリン・ソロの部分をはじめ、美しいメロディー、力強い音楽を多く持っていて悪い曲ではないと思う。
 ただ、今日の演奏は…。
 音がずれたり、管楽器の強奏が汚かったり…。
 この曲を取り上げたことには感謝するのだが。
 やはりベルリン・フィル、少なくともチェコ・フィル…、言うまい。
 言うまい。
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2009年09月10日

1994年2月18日(欧州音楽日記20)

 ☆エイジ・オブ・エンライトゥンメント管弦楽団ケルン公演

  指揮:サイモン・ラトル
  会場:ケルン・フィルハーモニー


 イギリスでは聴くことのできなかった、サイモン・ラトルとエイジ・オブ・エンライトゥンメント管弦楽団の演奏をケルンで聴いた。
 きちんとしたかたちのコンサートで、こうしたオーセンティックな楽器(古楽器)のオーケストラを聴くのは今回がはじめて。
 曲目は、モーツァルトの40番のシンフォニーとシューベルトの「ザ・グレイト」というシンプルなもの。
 しかし、有名な曲だからこそ、逆にこうしたオーセンティックな楽器で演奏するということは重要かつ困難なものとも思う。

 まず、モーツァルトの40番。
 出だしからしてしなやか。音量は小さめで、強音の部分でも現代のオーケストラのそれに比べるとあまり力強くは感じないが、肌理の細かさ、コントラバスの一音一音でさえも聴きとれるという点では、やはりこちらが上。
 また、速いパッセージの弦の鮮やかさは、モダン楽器では早々表現できないものだろう。
 逆に、管楽器は演奏するのが大変そうだったけれど。
 ラトルの解釈は、速いテンポ。それと、間のとり方、副声部の鳴らし方などが特徴的。
 特に、第2楽章がこれほど美しい音楽だと感じたのは、はじめてだ。
 第3楽章のメヌエットも、メヌエットという舞踊音楽を意識した演奏。
 フィナーレもスピード感あふれるものだった。
(ミスは観ない、聴かない、言わない!)*1

 休憩後は、「ザ・グレイト」。
 楽器配置等の関係もあってだろうが、これまで気にとめることのなかった管楽器や、ヴィオラ、コントラバスの*2奏が印象的だ。
 第1楽章は、これまでの重量感あふれる後期ロマン派的な演奏からはほど遠い軽やかなもの。
 ラトルは伝統的な解釈を活かしつつ、強弱などに個性をもたしていたよう。
 ミスもいくつかあったが、ウィーン・フィルの古式ゆかしい演奏とは、また異なる「ザ・グレイト」を愉しむことができた。

 会場の大拍手に応え、アンコールは『フィガロの結婚』序曲。
 弦のあの速い動きがよく再現されていて、愉しかった。
 ああ、このあと、フィガロとスザンナの二重唱がそのまま始まってくれればと、思ったが、オペラ全曲となると管楽器が大変だろうな。
 それでも、演奏しているようだけど*3。



*1:終楽章のリピートで、第1ヴァイオリンの3プルトめぐらいの女性が明らかにわかるミスをしたのである。終演後、彼女は相当落ち込んでいた。この彼女と対照的なのが、2001年6月17日の東京都交響楽団京都公演(ジャン・フルネ指揮)の一曲目、ベートーヴェンの『エグモント』序曲のコーダで大ポカをやったトランペット奏者。終演後、隣の奏者と「やっちまった」的に笑い合っていた。ミスは仕方ないし、笑い合うことだってかまわない。ただ、同じことを君は、天皇皇后両陛下や嵐を呼ぶ都知事臨席のコンサートでもできるのか?

*2:崩し字のため、なんと書いてあるのか判読できず。

*3:ラトルとエイジ・オブ・エンライトゥンメント管弦楽団の演奏したモーツァルトのオペラでは、『コジ・ファン・トゥッテ』のライヴ録音<EMI>を以前愛聴していた。ただし、今は諸般の事情で手元にはない。
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2009年09月09日

1994年2月15日(欧州音楽日記19)

 ☆ロンドン・フィル定期演奏会

  指揮:ロジャー・ノリントン
  会場:ロイヤル・フェスティヴァル・ホール


 身体の不調を感じつつも、ロイヤル・フェスティヴァル・ホールへ。
 ロンドン市街とは対岸にあるサウスバンク、その芸術センターの目玉の一つが、このホール。
 今日聴いたロンドン・フィルをロンドンの5つのオーケストラからレジデント(座付き)オケに選択した。

 で、今日のコンサートはもともとドイツ出身の巨匠クラウス・テンシュテットが指揮する予定だったが、キャンセルとなった*1。
 癌の状態が相当悪いのではないだろうか?*2
 代役は、ロジャー・ノリントン。ヨーロッパ室内管弦楽団のブラームス他を聴いていたので、ベートーヴェンとブラームスというプログラムが実に愉しみだった*3。

 ロイヤル・フェスティヴァル・ホールのホール自体はあまり飾りっけがない。
 ただし、レストラン*4、バー、書店、レコードショップが揃っていて、ゆとりを感じさせる。
 ホールの残響はそれほど長くないが、楽器の音がクリアに聴こえるので、「悪い」とは思わない。
 ロンドンの五大オーケストラの演奏との関係が感じられるのと*5、イギリス人の音楽に対する嗜好がはかられて面白い。
(バーミンガムの新しいシンフォニーホールは、残響度の高いホールで、「高い評価」を受けているらしい。一度行ってみたいのだが…)

 さて、演奏のほう。
 ほぼ思っていたとおり。ただ当然のことながら、ケルンに比べお客さんの数が多い。
 ベートーヴェンの『コリオラン』、交響曲第8番、ブラームスの交響曲第4番という典型的なドイツ・プログラムなのだが、ノリントンが振ると斬新な音楽が奏でられる。

 『コリオラン』では、力強さが印象的。
 そして、ベートーヴェンの第8番。もちろんヴィヴラートは極力行われていないし、テンポのとり方も速い。そしてティンパニの強打。これまでの一般的な演奏だと「小さくてユーモラスな交響曲」としか感じられないものが、ノリントンの解釈で聴くと、第7番と対になる「舞踏の交響曲」なのだと思い知らされる*6。

 休憩中、舞台にいたチェロの奏者と話して、ブラームスの解釈について尋ねてみたが、あまり共感していないよう。普通なら、それほど練習しなくてもよいだろうから。
 「京都は素晴らしい」と、しきりに誉めていた。

 後半のブラームス。
 第1楽章は、ヴィヴラートをたっぷりかけて思い入れのこもったゆったりとしたいテンポの演奏が行われるが、ノリントンの場合は例の如くだから素っ気ないくらい。
 ただし、コーダの部分の盛り上がりは、尋常ではなかった。
 そして、フィナーレまでこの調子が続く。
 いずれにしても、ロマンティシズムのほこりをはらった、ベートーヴェンとブラームスの音楽のつくりの違いがはっきりと理解できる興味深い演奏だった。
(この曲になると、オケも大変か、ずれやミスもいくつかあったが。とはいえ、こうした演奏を適切にこなすことのできるロンドン・フィルは、やはり技術的に高いオーケストラであると言える)



*1:当日券を購入する際、係の男性が何度も「You know?」と繰り返した。後述の如く、僕はノリントンの演奏に期待していたので「I know」と鷹揚に返事をした。

*2:その後、テンシュテットは1998年1月に亡くなってしまう。

*3:1993年9月19日、ケルン・フィルハーモニーでのコンサート。このときは、ブラームスの交響曲第3番やシューベルトの交響曲第4番「悲劇的」などが演奏されていた。ノリントンはシューベルトの交響曲第4番をロンドン・クラシカル・プレイヤーズ<EMI>と録音しているが、ヨーロッパへ行きがけのシンガポール航空の飛行機の中でたまたまこの録音を何度か聴いていたこともあり、非常に印象深いコンサートとなった。

*4:開演前にここで夕食をとった。満席だったこともあり、初老の夫妻に誘われ相席をさせてもらったが、夫のほうはロンドン大学の数学の教授、妻のほうも研究者といういわゆるインテリの夫妻で、日本の政権交代などについて身振り手振りを交えて話をした(英会話が得意ではないので)。夫は自由民主党、妻は労働党左派の支持者だったのだけれど、小選挙区制度に関してはともに「反対」。日本が小選挙区制度に変わることにも懸念を示していた。

*5:五大オーケストラの一つ、ロンドン交響楽団はバービカン・センターに本拠を移していたし、確かロイヤル・フィルやBBC交響楽団もバービカン・センターでの定期演奏会を開催していたが。

*6:ちょうど同じ列、近くの席に日本の女子大生二人が座っていたのだが、演奏が始まったとたん、「なに、これ」といった驚嘆の声を漏らしていた。
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2009年09月08日

1994年2月14日(欧州音楽日記18)

 ☆マスネ:歌劇『シェリュバン』公演(プレミア)

   指揮:マリオ・ベルナルディ
  管弦楽:コヴェントガーデン・ロイヤル・オペラ管弦楽団
   会場:コヴェントガーデン・ロイヤル・オペラ


 ロンドンに来て、風邪気味になるわ、いろいろと嫌な思いはするわ*1で、心の中も今日の天候と同じような半日だったが、コヴェントガーデン・ロイヤル・オペラのチケットは、すぐに手に入った。

 演目は、マスネの歌劇『シェリュバン』(そのプレミア)。
 最近、フレデリカ・フォン・シュターデをタイトルロールにしたコンパクト・ディスクも発売されているので*2、それも関係しているのかもしれない。
 『フィガロの結婚』の後日譚といったところだが、ボーマルシェの続篇とは異なり、ケルビーノが伯爵夫人と不倫関係となって罪ある(罪なき)子供が生れてくるようなことはない。
 物語は、17歳の誕生日を迎えたシェリュバン(ケルビーノ)が、ダンサーのアンソレイヤードをはじめとした「女性」に愛し恋し、絶望もする中で、最後にニーナという「愛すべき」人を見つけるというもの。
 公爵が「ドン・ジュアンの誕生」だと言い、哲学者が「それでは、ニーナはエルヴィラだ」という幕切れは、モーツァルトにあやかったという意味でも、シェリュバン(ケルビーノ)という存在、ひいては男性心理・女性心理、人の心理を端的に示しているという意味でも、しゃれている。
 第1幕は、はっきり言って「なんじゃ、こりゃ」。
 まるで、宝塚か何かの出来の悪い音楽芝居を見せられているようで「?」だった。
 しかし、第2幕以降、マスネ特有の叙情的な音楽が中心を占める部分になると、がぜん面白さが増した。
 アンソレイヤードの独唱と、シェリュバンとの二重唱、第3幕のシェリュバンの独唱、哲学者との掛け合いなどは、なかなか聴き応えがあった。
 聴いた感想は、歌手が揃えば、愉しめる作品。
 日本では、宝塚の面々にシェリュバンとダンサーをやってもらえれば面白いかも?
 無理かなあ…。

 指揮は、ゲンナディ・ロジェストヴェンスキーがいつの間にか降りて、カナダの指揮者ベルナルディに変わっていた。オケは時折ずれていた部分もあった。
 歌手は、一番に推すのが、アンソレイヤードのマリア・バーヨ。歌い方に少しクセがあるが、美声。スペイン風のフランス語の歌を見事に歌い上げていて感心した。
 タイトルロールのスーザン・グラハム(グレアム)も美声。芝居も達者だった。
 ニーナのアンジェラ・ゲオルギューは、喉を震わすような歌い方に私は拒否反応*3。
 哲学者のロバート・ロイドは、最初何を歌っているかよくわからなかったが、後半は声も通っていた。
 脇役陣、特にコミカルな役柄を引き受けた男性陣に拍手。役者が揃っていた。

 演出・美術は、斬新なもの。
 と、言っても音楽を台無しにするものではなかった。
 本来はト書きにないはずのフィガロとスザンナ(ジョン・ラムとジェーン・ガーネット。良かった)の登場も目障りでなく、レチタティーヴォを英語で語ったりした点(あくまでも音楽の邪魔をしない形で)もよいアイデアだと思った。

 ロイヤル・オペラの響きは、PAを使っているのかもしれないが、平土間で聴くとオケなどが天井や横のほうから鳴っているような気がしたし、また響き自体、ウィーンと比べるとそれほどよくないように思う。
 それとお客さん。明らかにアッパークラス、そしてミドルクラス中心。背広を着て行っても、なんだか、彼彼女らの雰囲気に圧倒されてしまった。
 イギリスには、やはり未だ「クラス」が残っているという実感。



*1:英語を話せて当然、という傲然としたロンドンっ子たちの態度に辟易したほか、諸所で厄介な出来事に巻き込まれたため。今では、いい経験が出来たと思っているが。

*2:ピンカス・スタインバーグ指揮ミュンヘン放送管弦楽団他<RCA>。

*3:アンジェラ・ゲオルギューという歌い手の声が、僕はずっと好みでないのだけれど、なんとこのときからそうだったんだ。
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2009年09月07日

1994年2月12日(欧州音楽日記17)

 ☆フィルハーモニア管弦楽団ウォーリック大学公演

  指揮:ジェイムズ・レヴァイン
  独奏:マレイ・ペライア(ピアノ)
  会場:ウォーリック大学アーツセンター


 イギリスのウォーリック大学を訪問。
 フィルハーモニア管弦楽団のコンサートを同大学のアーツセンターで聴く。
 もちろん、大塚さんも同行*1。
 ただし、このコンサートのあと、学生のカーニバルのパーティーに参加して、女装はするわ、踊りまくるわで、明け方4時まで騒いでいたので、少々音楽については薄れ気味だけど…*2。

 プログラムは、ベートーヴェンの四番のピアノ・コンチェルトと、エロイカ・シンフォニー。
 指揮はジェイムズ・レヴァイン、ピアノ独奏はマレイ・ペライアという、「お前、ただの大学だろう!?」と言いたくなるような豪華な組み合わせ。
 当日、ほとんどソールド・アウトの盛況ぶりだった。
 アーツセンターは、映画館なども附随し、専用のレストラン(なかなかしゃれている)まであるということで、どこぞの大学に爪の垢でも飲ませてやりたいくらいだ*3。

 ホール自体は吹き抜けで簡素なつくり*4。
 後ろのほうの席で聴いたが、ホールがそれほど大きくないので気にならない。
 ホールの響きは、残響が少ないよう。
それと、金管楽器が少しくぐもって聴こえる。弦は、悪くない。
 全体的に、最高の音響とは言えないだろうが、一般的な日本の市民会館等多目的ホールの音と比べて遜色ないと思う。

 さて演奏のほう。
 ペライアの四番はつい先日もギュルツェニヒ管の定期で聴いたばかりだが*5、オーケストラの技術が上なので、安心して聴いていられた。
 ペライアは、ピアノの音が少しペラペラに聴こえたが、素晴らしい出来。
 やはり、第1楽章のカデンツァがよい。
 フィナーレはオケの音が強く、ピアノの音が消され気味だったが。
 レヴァインの解釈は、レナード・スラットキン&セントルイス交響楽団に近く、第2、第3楽章とも力強い。
 ただ、印象としてはセントルイスに比べ抑制がきいている。

 後半の「エロイカ」*6。
 ヨーロッパ滞在中、この曲を聴くのは四回目。
 第1楽章は、これまで聴いた中で、一番感心した。
 自分がこういうテンポで聴きたいと思っていた速めの演奏だったからだろう。
 第2楽章は、少々ずれが目立った。
 第3楽章は、ホルンが上出来だったが、ホールの音響のせいかそれほど美しい響きには聴こえず。
 第4楽章は、大塚さんとも話したが、ダレてずれ気味だった。

 とは言いつつも、大学でこんなコンサートを聴くことができるなんて!
 どういうこっちゃ!
 と、叫びたくなるわい。



*1:現在立命館大学政策科学部准教授の大塚陽子さん。当時、ウォーリック大学に留学中だった。1993年9月26日のケルンでの『コジ・ファン・トゥッテ』公演で遭遇したのち、しばしば手紙のやり取りをしていて(あのころは、メールなんて便利なものはまだなかった)、このイギリス訪問につながった。

*2:このときのおぞましい写真が手元にある。まあ、それはそれとして、酔っているときには、英会話がスムーズにできるということに驚いた一夜でもあった。

*3:このシーズン、ウォーリック大学のアーツセンターは、サンクト・ペテルブルク・フィルのコンサートをはじめ、非常に充実した内容だった。なお、「どこぞの大学」とは、もちろん立命館大学のこと。川本八郎君に巨額の退職金を与える前に、こうしたアーツセンター設立に資金を投入してもいいのではないのか? 映画関係の学部もできたんだしさあ。

*4:余談だが、バーミンガムにシンフォニーホールができるまで、バーミンガム・シティ交響楽団のCD録音は、このウォーリック大学のアーツセンターのホールで行われていた。

*5:欧州音楽日記15をご参照のほど。

*6:ジェイムズ・レヴァインはメトロポリタン歌劇場のオーケストラと、この曲をドイツ・グラモフォン・レーベルに録音している。
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2009年09月06日

1994年2月9日(欧州音楽日記16)

 ☆ショスタコーヴィチ:歌劇『鼻』公演

  指揮:デヴィッド・レヴィ
 管弦楽:ケルン・ギュルツェニヒ管弦楽団
  会場:ケルン市立歌劇場


 オペラとは、恋心を抱いた男と女が、その悲劇的な展開においおいと声を張り上げる大げさな芝居だと思い込んでいる人間には、今日ケルン市立歌劇場で上演されたショスタコーヴィチの『鼻』は、驚きの対象でしかないだろう。
 ゴーゴリの原作による『鼻』*は1、一言で言えば、喜劇である。
 それも滑稽な。
 ある朝、男の鼻がとれ、いつの間にかその鼻が人格を持ち、鼻の本来の持ち主よりも尊拝されるようになる。
 その展開はあまりにあまりで、それこそ「荒唐無稽」と呼ぶほかない。
 が、しかし、この作品は単なる笑劇だろうか?
 当然、違う。
 個人の意志や才能、そして人格が無視され抑圧される、家柄や地位によって多くが左右される、帝政ロシアへのゴーゴリの痛烈な批判がそこにこめられていることを忘れるわけにはいかない。
 そして、ショスタコーヴィチが、このゴーゴリの作品をオペラ化したことにも注目せざるをえない。

 演出のハリー・クプファーは、その評判にたがわず、『鼻』という作品を明確な政治劇として描いた。
 それも、社会主義・ソビエト(ロシア社会)への諷刺としてだけでなく、私たち現在(ドイツ社会の現状を中心に)に対する強い批判として描き上げた。
 回転舞台の上で転げ回り、叫び、祈る人々は、ときにネオナチであり、失業者であり、「市民」であった。
 「個」が「個」として認められない社会へのアンチテーゼとしてこの『鼻』は取り上げられたのである。
(と、言っても、彼の演出を、諸手を挙げて賛美はし難いが)
 指揮は、いつの間にかデヴィッド・レヴィという人物に。
 アメリカ生まれだから、「コンロン系統」の人物か?
 威勢のよい指揮をしていた。
 オーケストラのほうは、時折ショスタコーヴィチの音楽についていけていないのでは? とも感じたが、全体的には悪くはない。
 音楽としては、交響曲との関連の深そうなマーチの弦の扱い方、それと合唱の部分に特に感心する。
 歌手は、主役という概念から言うと、鼻のとれた人物を演じたガードナーだろうが、警視総監役のモーグニー(本当に声を出すのが大変そう)をはじめ、ケルンのオペラの専属歌手総出演の感。これだけ歌い手がいるということに感じ入るし、また合唱の層も厚い。
 物語としては人間の「個」の疎外が扱われているが、音楽作品としては歌手陣からコーラス、オーケストラの一人一人にいたるまで、「個」の力量、そしてその「個」の集まりである全体の力量が問われる力作と言える。
 本当にご苦労様。
 なお、ドイツ語訳による上演だったが、違和感は持たず。


 昨晩テレビで、ウェールズ・ナショナル・オペラの『ペレアスとメリザンド』を観た。
 音質が悪いので、演奏を云々することはほとんどできないが、歌手陣の声質の良さと見栄えの良さ、演出の斬新さに感心した。
 ブーレーズの指揮によるオーケストラの演奏がよく聴こえず、非常に残念*2。




*1:この『鼻』をはじめ、『外套』や『狂人日記』、戯曲『検察官』といったゴーゴリの作品を、僕は高校時代に岩波文庫で読んでいた。

*2:今回の日記の余白に書かれている文章。この演奏はDVDが発売されている。
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2009年09月05日

1994年2月7日(欧州音楽日記15)

 ☆ケルン・ギュルツェニヒ管弦楽団定期演奏会

  指揮:ギルバート・ヴァルガ
  独奏:マレイ・ペライア(ピアノ)
  会場:ケルン・フィルハーモニー


 残された時間は少ないのだが、あまり興味をそそられるコンサートやオペラはなし。
 明後日は、バイエルン・シュターツオーパーの『仮面舞踏会』を観るためにミュンヘンまで行ってみようと思っているが、チケットがあるかどうか?
 なんとかなるだろう*1。

 で、4日ぶりに音楽会。
 ケルン・ギュルツェニヒ管弦楽団の定期演奏会を聴きに、フィルハーモニーまで。
 今月、瀬尾さんは演奏会のため帰国中。
 さて、公演プログラムを目にしてびっくり。
 ピアノはペライア*2のままだったが、指揮者が…。
 ジェイムズ・コンロン自体、そんなに気に入っているわけではないが、しかし。
 ギルバート・ヴァルガ。確か、フィルハーモニア・フンガリカの指揮者を務めていた人物だが、あんまりぱっとしない人ではないかしらん。
 公演プログラムには、バーミンガムやロッテルダムのオーケストラの指揮もしているとあったが。あと、隣に座った本来シュテー(立ち見)同志の女性によると、デトモルトのオケや室内オーケストラをよく振っているらしい。それと、ホーフのオケ(矢崎彦太郎の振っている)も。

 一曲目は、マレイ・ペライアの独奏で、ベートーヴェンの四番目のコンチェルト。
 前回、セントルイス響とブッフビンダーで聴いたとき*3は、何か超人スーパーマンがベートーヴェンを演奏しているみたいだったが、今日は人間の演奏。
 オケはところどころミスがあったが、第3楽章など、力いっぱい音を鳴らしていた。
 ただし、ピアノをリードするという形にはなっていなかったけれど。
 ペライアは、第1楽章では時折音を外したりしていたが、音楽の強弱の付け方は実にエレガンス。特にカデンツァが良かった。

 休憩中にぐいっとケルシュ*4をひっかけて、ブラームスの第2番のシンフォニーを聴く。
 マゼールとバイエルン放送交響楽団で聴いたとき*5には、第1楽章やフィナーレの弦の進行がとてもギクシャク(下手という意味ではない)して気になったが、今日はほとんど気にならない。
 特に大好きな第1楽章を聴いていて、例えば低弦(チェロ)が主題を奏で、ヴァイオリンがそれに応じるところや、再現部など、「ブラームスはこんなに美しい音楽をよくぞ造り上げた」と感心した。
 と、言っても、演奏にはミスもたくさんあり、第3、第4楽章などずれまくっていたが。
 それと、指揮者の解釈は中庸?
 第3楽章は速めのテンポだったけれど。
 それでも、大きな拍手とブラボー。
 ドイツの皆さんは、やはり「ブラームスはお好き?」*6。



*1:結局、このときはミュンヘンに行かなかった。その代わり、2月22日にロッシーニの『ラ・チェネレントラ』を観に行った。

*2:この公演期間中(ケルン・ギュルツェニヒ管弦楽団の定期演奏会は三日間ある)のある日、ケルンの大聖堂近くのCDショップで、ペライアと遭遇した。物静かな感じの人だった。

*3:1993年11月5日の、セントルイス交響楽団のケルン公演。指揮は、レナード・スラットキン。

*4:ケルンの地ビール。すっきりさっぱりとした味わいで、それほどビール党でない僕も大いに気に入ったのだが、帰国後は一度も飲んだことがない。どうやら、専門店では飲めるみたいだけれど。

*5:ヨーロッパに向かう前の、1993年3月25日、名古屋の愛知県芸術劇場コンサートホールでの来日公演。会場直前に係(バイト)の若い男が「バイエルンきょうそうほうそう楽団のお客様、バイエルンきょうそうほうそう楽団のお客様」と呼びかけていたのが未だに記憶に残る。

*6:この文章の終わり方は、なんとも嘘臭く、不愉快。今、こんな文章を他人が書いているのを読んだら、「いやかましいやい、この野郎!」と、破れ傘刀舟化するだろうと思う。
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2009年09月03日

1994年2月3日(欧州音楽日記14)

 ☆モーツァルト:歌劇『コジ・ファン・トゥッテ』公演

  指揮:ハンス・ワラット
 管弦楽:デュッセルドルフ交響楽団
  会場:デュッセルドルフ・オペラハウス(ライン・ドイツ・オペラ)


 『コジ・ファン・トゥッテ』が上演されるというので、昨日に引き続きデュッセルドルフまで出かける。
 我ながら、よくここまで出かけると思うが、それでも遠出はほとんどしていない。
 ミュンヘン、ベルリン、パリ、チューリヒ。一度は足を運んでおかなければ…*1。

 さて、『コジ・ファン・トゥッテ』。
 ドイツに来てから、すでにケルンで非常にトラディショナルな上演を(それも大塚女史と一緒に)観たわけだが*2。
 デュッセルドルフは、これが超モダンな演出。
 ドン・アルフォンゾはホテルの支配人、デスピーナはメイド、そして4人の恋人たちはそのお客さんといったところ*3。
 ホテルで繰り広げられる「恋のあや」だが、私はそれほど違和感を持たなかった。
 イタリア語には疎くとも話の内容を知っているので、様々な細工には笑ってしまったほど。
 それに、ラスト。当然、ハッピーエンドとはならない。
 面白うて、やがて悲しき、恋愛の結末だ(確かに、元のさやに戻そうなんてねえ…)。
 ただ、イタリア語をはっきりと理解できれば、こうした演出への違和感は増すのではないかとも思う。
 古い日本語訳の公演でもまた然り。
 イタリアに超モダンな演出がそれほど出現しないというのも、この言葉の問題に突き当たるのでは?

 歌手陣。
 フィオルディリージのコク…*4。伯爵夫人でも観聴きした。この人は、何か顎に引っかかるような声で気になる。それと、低音が不安定。
 ドラベッラのラインホルツは、ケルビーノ、それから『ホフマン物語』のニクラウスで聴いたはず。美しい声だが、なんだか力強過ぎて、ズボン役のような歌い方になっている。それと、言葉をはっきりさせず歌い流してしまうのが一つの欠点。
 フェランドのマクリーンは、声の伸びが足りないし、第1幕のアリアなどでは、弱音で息切れに聴こえてしまった。
 グリエルモのブッシュは、美声。アリアもまあまあ。
 ドン・アルフォンゾのルンゲ。彼は、この演出にぴったり。声は良いとは言えないし、音も若干不安定だが、芝居としては最適。小林桂樹を柔軟にしたよう。
 デスピーナは、Marquez。「はすっぱでおきゃん」といったイメージを覆すデスピーナ。ポッペアなどを歌っているだけに、ちょっと威厳があり過ぎるところはご愛敬。芝居も達者で、メイド役、医者役、公証人役とも笑わせてもらった。そして最後も印象的。
 二重唱、六重唱などは、モーツァルトの音楽の素晴らしさに感じ入った。
 それと、フェランドの第2幕のカヴァティーナがカットされなかった点も可(ケルンではカット)。

 いろいろ文句は言えるし、これがモーツァルトの歌劇の最良の姿とは言えまいが、原語でまあこれだけの上演。
 日本ではいつになったら、イタリア語のダ・ポンテ三部作の上演が当たり前のことになるのか?
 もちろん、ドイツも田舎ではまだドイツ語での上演だけど。
 しかし、日本はあの東京でさえ…。
 二期会、藤原歌劇団、なんとかしてくれ。



*1:結局、ミュンヘン以外は行くことができなかった。

*2:1993年9月26日のケルン市立歌劇場における公演。指揮は、ジェイムズ・コンロンで、演出はAidan Langと公演プログラムにはあったが、もしかしたらジャン・ピエール・ポネルの演出を流用したものだったかもしれない。なお、大塚女史とは、現在立命館大学政策科学部准教授の大塚陽子さんのこと。大塚さんは同じ立命館大学大学院国際関係研究科に属していて、当時はイギリスのウォーリック大学に留学中。たまたまこの公演を観に来て、僕と遭遇したのである。

*3:ちょうど謝肉祭の時期ということで、カーナバル(カーニバル)の衣装を身に着けた群衆も登場していた。

*4:省略した形で名前を記していて、実際の名前は不詳。公演プログラムを見つければ判明するのだが…。
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2009年09月02日

1994年2月2日(欧州音楽日記13)

 ☆リヒャルト・シュトラウス:歌劇『アラベラ』公演

  指揮:ヴァルター・E・グガバウアー
 管弦楽:デュッセルドルフ交響楽団
  会場:デュッセルドルフ・オペラハウス(ライン・ドイツ・オペラ)


 去年のプレミアとその後の公演を観逃していたので、デュッセルドルフのライン・ドイツ・オペラまで『アラベラ』を観に出かけた。
 プレミアを振ったグガバウアーがこの2月もずっと指揮するとシュピールプランに載っていたので、まず第一日目と思って行ったのだが…。
 オペラハウスに着きチケットを買って、自分の席に座り込んだところで、今月の予定を確かめてみると…。
 今日以外の指揮がいつの間にかハンス・ドレヴァンツに変更されていた。
 ドレヴァンツがそれほど大物でないということはわかっているが、しかし。
 2月5日にすりゃよかったかなあと後悔する。
 もしかしたら、また行くかも*1。

 出だしからして、少々バランスが悪かったので、「あぁーあ」と思う。
 オーケストラのほうは、弦など時折美しい音を奏でているのだが。
 第3幕のはじまりなど、だいぶんずれていた様子。
 管楽器はミスも多く、大変だったよう。
 リヒャルト・シュトラウスが難しいのがわかる。
 本多さん*2からもうかがったが、日本の団体がリヒャルト・シュトラウスの舞台作品を恒常的に上演するのには、まだまだ時間がかかりそう。
 これは、オーケストラだけでなく、歌手にも言えることではないか。

 歌手陣。
 アラベラのユーホフ。テレビで以前ちらりと観たポップ*3ほど美声でもないし、終盤息切れもあったが、第2幕のマンドリーカとの二重唱は良かった。
 マンドリーカのベルガーは美声。マンドリーカとしての風貌も備えている。直情的過ぎる感じもしないではないが、田舎者としてはそれも適切か。ただ音が外れたり、息が続かないところが何箇所かあった。
 グリフィスのズデンカが良かった。一番か二番の出来。この前の『フィガロ』*4のスザンナよりも今日のほうがいい。声は美しいし、ズデンカの役にあった容姿をしている。ホフマンスタールの原作の小説では、もともと彼女のほうが主人公であったことも思い出した*5。
 マッテオのエーベルツ。この前の『ホフマン』*6のときのほうが良かった。少々力み過ぎで、品がない(品がないほうが良いのか?)。
 フィアカミリの番場ちひろ。これは良かった。コロラトゥーラの技巧が冴えていたし、声も良い。
 あと、カール・リッダーブッシュの伯爵。往年の声はすでにないのだろうが、存在感は抜群。芝居も達者。こうした脇役がいてこそ、なんとか舞台が成り立つ。
 他の脇も悪くなかった。

 美術は、古臭くない、美しい舞台を造り上げていた。
 ただし、もともとのウィーンの雰囲気には欠けていて、デュッセルドルフの『アラベラ』という芝居になっていた。
 そして、このことは、はじめのほうに書いた日本でリヒャルト・シュトラウスの作品、特にこの『アラベラ』や『インテルメッツォ』、『カプリッチョ』といった作品が上演されにくい原因の一つともつながっていると思う。
 『アラベラ』の話の素地たる生活があった(ある)ヨーロッパと日本の違い、というか*7。



*1:結局、行かなかった。

*2:指揮者の本多優之さん。

*3:NHKが録画放映していた、バイエルン州立歌劇場の来日公演におけるルチア・ポップのアラベラのこと。ポップの『アラベラ』全曲の正規録音はないはずで、この録画のDVD化が待たれるところだ。

*4:1993年10月24日の公演。指揮は、児玉宏。

*5:「まだ書かれていない喜劇の人物たち」という副題のある『ルツィドール』がそれ。ホフマンスタールの短篇集『チャンドス卿の手紙 他十篇』<岩波文庫>に収められている。

*6:1994年1月2日のオッフェンバックの『ホフマン物語』。指揮は、グガバウアー。
なお、これは原語のフランス語ではなく、ドイツ語での上演だった。

*7:中途半端な形で文章が終わっているが、ここでは原文のままアップすることにした。
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2009年08月31日

1994年1月29日(欧州音楽日記12)

 ☆ケルンWDR交響楽団定期演奏会

  指揮:ハンス・フォンク
 管弦楽:ケルンWDR交響楽団
  会場:ケルン・フィルハーモニー


 昨日の定期(アボネメントA)はウィーン行きのため聴き逃したが、今日、アボネメントB、ケルンWDR交響楽団Extra4というコンサート*1で、ケルンWDR交響楽団を聴いた。
 プログラムは、昨晩と同じで、前半がストラヴィンスキーの管楽器のためのシンフォニーとバレエ音楽『ミューズの神を率いるアポロ』、後半がハイドンの第91番のシンフォニーという興味深いもの。
 管楽器だけの曲、弦楽器だけの曲、そして弦楽器と管楽器の調和が必要とされるハイドンのシンフォニーという、オケの力が試されるプログラムといえるのではないだろうか?
 指揮は、常任のハンス・フォンク。

 まず、管楽器のためのシンフォニー。
 『春の祭典』を思い出させるようなメロディーも含まれている。各々の管楽器の組み合わされた響きを楽しむ曲だと思う(楽しめるかどうかは?だが)。
 WDRの各奏者は、技術的に優れているようだが、音のまとまりとしては、少しだけ気になる(音が重ならなかったり)。
 これは、作品のせいだけではないと思う。

 二曲目は、弦楽器だけの『ミューズの神を率いるアポロ』。
 新古典的様式などという教科書的な説明は抜きにして曲の印象を言うと、聴きやすい音楽。メロディーもロシア民謡のフレーズやチャイコフスキーとの関係がうかがえ、当時のヨーロッパのポップス、アメリカのジャズなどの影響も表われていて、それだけに一つ間違うと俗っぽくなってしまうかもしれない。
 今日のWDRの演奏は、なかなか良かった。弦の音がきれいだ。この曲には合っているかもしれない。
 それと、コンサートミストレスの四方女史*2のソロは聴き応えがあった。完璧とはいかないだろうけれど、厚みのある美しい音を奏でていた。

 休憩後は、ハイドンのシンフォニー。
 ヴァイオリン8以下略で、それほど大きな編成ではないのだが、管楽器の数が少ないのと打楽器がないせいで、どうしても弦が多勢に見える。
 座ったところもそういう場所だったかもしれないし、弦が頑張っていたせいかもしれないけれど、第1楽章や第3楽章では、威勢の良さが耳についた。
 第2楽章、アンダンテのファゴットのソロは名演。小粋だった。
 第3楽章、ホルンのソロは、少々無粋。
 フィナーレの軽快さは買うが、弦の鳴り方は、あまりにも機能的過ぎなかっただろうか?
 聴くほうの勝手我儘かもしれないけれど、ハイドンの交響曲というのは難しい。
 ウィーン・フィルなら「ああ、なるほど」と納得してしまうのかもしれないけどね。



1:本来はもっと丁寧な訳し方をするべきなのだろうが、アボネメントという言葉もついているので、タイトルでは定期演奏会と訳した。

2:四方恭子。当時は女史と記したが、今は敬称略にするか、敬称として氏をつけるだろう。
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2009年08月30日

1994年1月27日(欧州音楽日記11)

 ☆モーツァルト:歌劇『クレタの王イドメネオ』公演

  指揮:コリン・デイヴィス
 管弦楽:ウィーン国立歌劇場管弦楽団
  会場:ウィーン国立歌劇場


 久しぶり、と言っても一週間とちょっと。
 再びウィーン巡察を決行した。
 今回は、ウィーン・シュターツ・オーパーの『クレタの王イドメネオ』が目的。
 寝台車を購入したもののほとんど睡眠がとれず、ウィーンについてホテル(ペンション)を予約。着いて、ありゃりゃと思ったが、中に入ってみるとなかなか良いペンションだった。
 ただ、ここの体重計で体重を計って60キロぐらいしかなかったのはショックだった*1。いくらなんでも痩せ過ぎ。ただのストレス…、とかとは思えない。たぶん、何か悪い病気では?*2
 まずは栄養不足とむちゃのし過ぎだろうということ。
 「体重を増やすように」と意気込むとますます悪くなるだろうから…。
 ただ、胃腸が気になる…*3。

 さて、『クレタの王イドメネオ』。
 早めに行ってみたものの、もう行列が出来ていた。
 ただ、思っていたより簡単にシュテー(立ち見)が手に入った。
 1階(PARKETTE)のシュテーで、前の人物がうろちょろするのが困るくらいで、音も良く聴こえるし、舞台も良く見える。

 指揮は、コリン・デイヴィス。
 「中庸」の人というイメージがあって、その音楽は大人しいものと思っていたが、フォルテシモなど強烈だった。
 時折、ウィーン国立歌劇場管弦楽団(ウィーン・フィルの母体)はちょっとしたミスもしたが、弦・管の音ともさすがに素晴らしく、このオケの質の高さを確認した。
 序曲が始まったとたん、他のオペラとは違う雰囲気が漂う(と、自分で思っているだけ?)。
 ただ、アーノンクールの指揮で聴ければ、もっとよかっただろうに、というのは贅沢か?*4

 演出は、ヨハネス・シャーフ。
 コヴェント・ガーデン・ロイヤル・オペラが来日した際、ダ・ポンテ三部作でその鬼才ぶりを発揮した人物。今回も、舞台美術等は、非常に斬新なものだったが、それほど奇をてらったものではなかったと思う*5。
 エレットラのアリアのとき、ペンキでハートを描くのだけは「?」だが、例えば終幕など、イドメネオという人物の内面のエゴイズムと子供への情愛の葛藤が感じ取れた。
 アルバーチェは自殺したが、エレットラがすんでのところで死ななかったのもよい。彼女は死ぬ必要はない(と思う)。

 音楽としては、セリアという様式が難しいのか、途中で帰る人も結構いたが、私は、本当に愉しめた(もちろん、肉体的には疲れたけど)。
 セリアの手法をとっているが、その音楽は、すでにのちのダ・ポンテ三部作に通じるものがある。
 イドメネオの苦悩を表わすアリアや、イリアとイドメネオの二重唱、合唱、イダマンテとイリアの二重唱、イドメネオ、イダマンテ、イリア、エレットラの四重唱、など表面的な音楽というより、登場人物各々の感情、性格がよく浮き彫りにされているのではないだろうか。
 ヴァレスコの台本は、モーツァルトから古臭いと言われたものだが、「人間にとっての愛」というモティーフは、後期の作品につながる重要なテーマだろう*6。
 それと、第一幕で、合唱が「リベルタ(自由)」と歌っている部分がある。
 『ドン・ジョヴァンニ』にもあるが、当時としては、どれほどの意味があったのか興味深い*7。

 さて歌手陣。
 イドメネオは、ジークフリート・イェルサレム。
 ワーグナー歌手として活躍している(いた?)テナー。イドメネオという役には少々くせが強いかも。気品のほうも今一つか?
 情感をこめた歌いぶりだが、拍手は今一つしない。
 と言っても、見事に歌い切ってはいたが。
 イダマンテは、アンネ・ゾフィー・フォン・オッター。
 彼女は良かった。
 最初、大きな声の出し過ぎではと思っていたが、幕を重ねるごとに歌が締まってきたよう。声も美しいし、シュターデが年をとったあとは彼女がズボン役の女王(変な言葉)となるのではなかろうか。
 気品もあった。
 イリアのノルベルク=シュルツは、伸びのある声、そしてまた、美しい声をしている。
 少し背が低いのが難だが、今後活躍するのでは?
 エレットラのコエルホ。あまり好きな声質とは言えないが、コロラトゥーラの難技を一応ものにしていた。最後のアリアは、力で押し切ったと言えなくもないけれど…。
 でも、貴重な歌手だろうとも思う。
 アルバーチェのブルンナーはまあまあ。
 大祭司だけは、なんだかなあ。少々興ざめ。喉に詰まったような声の出し方。しかも、声の出にちょっとしたずれがあった。

 オケが少しミスをしたなどと記したが、これだけの演奏、上演をほぼ年中観聴きできるのだから、ウィーンを羨ましく思う反面、これでよいのだろうかという思いもわずかに。
 それにしても、『クレタの王イドメネオ』は、これだけの面々がそろえば、飽きることなく愉しめる作品なんですねえ!



1:身長が179センチとちょっとだから、これは痩せ過ぎだ。高校時代の80キロオーバーは肥え過ぎかもしれないが…。

2:癌をはじめ、重篤の病のこと。僕は、大学2回生の頃から「自分は癌なのではないか?」と周囲によく口にしていた。それから20年近く経って、僕は痛風を患っている…。

3:以上の部分は本当はカットしたいが、あえてアップすることにした。みったなくてしゃあないけれど、これはこれで記録だしね。

4:このプロダクション(演出等の一セット)のプレミエ時の指揮は、ニコラウス・アーノンクールだった。しばらくして、今回のコリン・デイヴィス指揮の公演の批評を目にしたが、あまり芳しいものではなかった。

5:上述した批評によると、再演に際し、シャーフの演出に大幅な変更(カット?)が加えられたようだ。

6:文章・言葉として不本意だが、そのままにしておく。

7:こうした点に関しては、アンソニー・アーブラスターの『ビバリベルタ! オペラの中の政治学』<法政大学出版局>が詳しいはずだが、5670円というけっこうな値段がすることもあって、未だ読めないでいる。また、『ドン・ジョヴァンニ』中の「リベルタ」といえば、どうしても佐藤亜紀の『1809年 ナポレオン暗殺』<文春文庫>を思い出すが、以前別の形で記したことがあるので、ここでは省略する。
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2009年08月29日

1994年1月14日(欧州音楽日記5)アップ忘れ

 ☆ケルンWDR交響楽団定期演奏会

  指揮:マレク・ヤノフスキ
 管弦楽:ケルンWDR交響楽団
  会場:ケルン・フィルハーモニー


 山本さん中島さん*1との話もあったので、ケルンWDR交響楽団の定期に出かける。
 岸さん*2や、ヤマハの寺田さん*3ともあいさつ。みなさんお元気そう。

 指揮は、マレク・ヤノフスキ。ケルンではギュルツェニヒ管弦楽団の指揮者としてすでにおなじみだし、日本でもN響への客演で知られている。
 曲目は、ワーグナー。ベルク、ヴェーベルン、ドビュッシーというなかなか興味深いもの。
 まずは、ワーグナーのジークフリート牧歌。
 縦の線をきっちり揃えるよりも歌うことを重視するタイプ、とは瀬尾さん*4の言だが。
 管にミスなどあったが、それほど悪くない。ただ、こんな演奏を朝から枕もとでやられたら、心和むより驚きおののいてしまうだろうけれど*5。
 クラリネットの動きなど、さすがワーグナーだけあって楽劇を思い出した。

 2曲目は、ベルクの管弦楽のための3つの小品。
 ジークフリート牧歌の終わったあとにヤノフスキとコンマスの間でちょっとしたやり取りがあって(演奏前から気になったんだけれど…)、コンマスの態度に少し不満を覚えた。勘違いならよいのだけれど。
 で、そのことが気になったが、演奏はなかなかの出来だった。
 3曲目の行進曲の最後でなんだか揃っていないというか、詰めの甘さを感じたくらい。
 こっちに来て新しい作品を聴く機会が多かったせいか、ベルクぐらいでは全然気にならなくなってしまった。
 彼の作品が、マーラーやリヒャルト・シュトラウス、そしてシェーンベルクの影響下ぶあることがよくわかる部分がいくつかあった。
 例えば、行進曲のフォルテシモ。

 休憩後は、ヴェーベルンの6つの小品。
 これぞ本当に小品の集まりといった作品だが、一曲一曲が工夫にあふれている。
 コンマスだけでなく、ヴィオラやコントラバスのソロ、ハープの刻むリズム。
 これもベルクと同じで、なかなか面白い作品である。
 あと少しリズムの刻み方とか管のソロの部分とか弦の合奏とか、精妙さが加わればと思わずにはいられない。

 最後は、ドビュッシーの『海』。
 前回のベルティーニの演奏*6が、よく言えば簡潔にしまって合奏力に優れた(悪く言えば、ぎしぎしで息つく暇のない)ものだったとすれば、今回は、メロディーをたっぷりと鳴らした歌心のある(悪く言えば、少し締まりに欠ける)演奏。
 それでも、2曲目のテンポが速くなるところなんかドキドキしたし、最後の部分など力のこもった演奏だった。

 山本さんたちの肩を持つわけではないが、ヤノフスキという指揮者はそれなりの力を持った(たぶん職人的な)指揮者だろう。
 これから年齢を重ねていってどんな演奏を行うのか?
 ただ、それに対してWDRのオケは、今一、二歩遅れをとっていたのでは。
 上手いオケなんだけれど…。



*1:ケルン滞在中、本多優之さんの紹介で知り合った音楽家夫妻。一度、二人の部屋に遊びに行き、ワインの飲み過ぎで相当酔った記憶がある。

*2:岸浩さん。長く『音楽の友』誌のドイツの音楽時評を担当していた。また、ドイツを訪れた日本の音楽関係者のコーディネーターやアドヴァイザー的存在としてもよく知られている。ケルン・フィルハーモニーにたびたび出没する僕の存在が気になったのだろう、岸さんのほうから声をかけていただいた。

*3:寺田憲重さん。のちに京都コンサートホールのパイプオルガンの設計にも携わった。当時ケルン滞在中で、これまた寺田さんのほうから声をかけていただいた(まだ面識を得る前のことだが、スイス・ロマンド管弦楽団のケルン公演に登場したマルタ・アルゲリッチの演奏に大いに満足している寺田さんの嬉しそうな表情が未だに記憶に残っている)。

*4:瀬尾麗さん。欧州音楽日記3の注釈をご参照のほど。

*5:ジークフリート牧歌初演時の故事を踏まえた言葉。

*6:1993年11月6日のケルンWDR交響楽団の特別演奏会。確か、このときのライヴ録音がCDになっているのではないか。
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1994年1月21日(欧州音楽日記10)

 ☆ハンブルク北ドイツ放送交響楽団定期演奏会

  指揮:ジョン・エリオット・ガーディナー
 管弦楽:ハンブルク北ドイツ放送交響楽団*1
  独唱:バーバラ・ボニー
  会場:ハンブルク・ムジークハレ*2


 木棚先生*3にも同行していただいて、ハンブルク北ドイツ放送交響楽団の定期をムジークハレに聴きに行く。
 買ったチケットがどえらいところで、全く指揮者が見えないという恐るべき場所。
 私は、ケルンで鍛えたやり方で1階席に陣取ったが、木棚先生には悪いことをした*4。

 指揮は、たぶん首席か常任指揮者にあたるジョン・エリオット・ガーディナー。
 曲目は、ストラヴィンスキーの『火の鳥』組曲にマーラーの交響曲第4番。
 『火の鳥』は、最初管楽器が音を外したりして「おやおや」と思ったが、フィナーレの弦が一斉に鳴るところなど聴いていて「うん、いい演奏だな」と感心した。
 バレエ音楽という感じもなければ、「ロシア的」な雰囲気(何をもって「ロシア的」というのか?)も感じない演奏だったが。
 それと、シューボックス型のこのホールは、管が時折くぐもって聴こえるよう。
 音自体はそれほど悪くないようだが、ただ見えない場所があるというのはねえ(そりゃケルンにもあるけど…)。
 ケルンにはない歴史の重みを感じる古いホールなのだが。

 木棚先生と少し話をしたりして、休憩が終わる。

 マーラーの交響曲第4番。
 ガーディナーがマーラー!? と思わずにはいられないが、聴いてみて、この4番にかぎり、それは杞憂。
 非常に素晴らしい演奏だった。
 第1楽章、鈴の音が終わって弦が鳴るところから、すーっと演奏に入り込むことができた。擬古典的な弦、木管を中心とした部分と、フォルテシモの部分(特に、第5番の冒頭のファンファーレを予感させるところなど)の色分けがしっかりされていたのではないかと思う。それと、最後ぐらいのホルンのソロが印象的。
 第2楽章では、コンサートマスターのソロ。
 第3、第4楽章は、そのまま続けて演奏される。
 バーバラ・ボニーのソプラノ独唱はこの曲にぴったり(歌詞の内容と添うかどうかはひとまず置くとして)。「天上の声」と言えば言い過ぎだろうけれど、美しく透明感のある声だった*5。
 フィルハーモニアのマーラー*6には「?」だったが、今日は手放しで拍手。
 オケも弦・管ともに素晴らしかった。
 ただ、ガーディナーがマーラーの他の作品を指揮してこれほど楽しめるかどうかはまだ疑問が残るけれど。
 とにかく、このマーラーの4番はよかった。



1:ハンブルク北ドイツ放送交響楽団は、1993年10月20日にケルンで、ギュンター・ヴァントの指揮したブルックナーの交響曲第8番を聴いていた。演奏そのものもそうだけれど、演奏が終わって一瞬の静寂ののち、ほとんどのお客さんがスタンディング・オヴェーション状態になったことと、僕に隣の席を譲ってくれたシャーロット・ランプリングみたいな感じの妙齢の女性が僕に微笑して拍手もしないでホールを出ていったことがとても印象に残っている。なお、ケルン・ギュルツェニヒ管弦楽団やケルン放送交響楽団との長年の活動でもわかるように、ギュンター・ヴァントという指揮者は、戦後のケルンのクラシック音楽にとって最大の功労者だったこと(にもかかわらず、その後はケルンのオーケストラと断絶状態にあったこと)がお客さんの激しい反応の大きな要因だと思う。

2:現在は、ライスハレと呼ばれている。

3:木棚照一先生。現早稲田大学教授。当時は立命館大学法学部教授だったが、マックス・プランク外国私法・国際私法研究所客員研究員として、ハンブルクに滞在していた。先生が大学院の国際関係研究科で講義を持っていたこと、さらには木棚先生と関係の深かった友人のKさんの紹介もあって、今回アップするコンサートを聴きがてら、先生を訪問させていただくことにしたのだ。お昼に美味しい魚料理をごちそうになったほか、コンサート終演後、先生の部屋で先生手作りのおにぎりを肴にしばらくお話をうかがうことができたこともよい思い出である。余談だが、党派的にいえば同じ立命館大学の法学部ならO(大…)教授あたりと親しくすべきだったのだろうが、学校運営にまつわる夜郎自大的なあり様が大嫌いで、僕は木棚先生の穏健でジェントルな思考に好感を抱いていた。

*4:先生が席を移動しなかったのは、法を守る守らないの話というよりも、木棚先生の人柄によるものだと思う。

*5:僕がバーバラ・ボニーの熱烈なファンになったのは、このコンサート以降のことである。

*6:欧州音楽日記7をご参照のほど。
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2009年08月28日

1994年1月20日(欧州音楽日記9)

 ☆プッチーニ:歌劇『トゥーランドット』

  指揮:ファビオ・ルイジ
 管弦楽:デュッセルドルフ交響楽団
  会場:デュッセルドルフ・オペラハウス(ライン・ドイツ・オペラ)


 デュッセルドルフのライン・ドイツ・オペラにファビオ・ルイジが来て『トゥーランドット』を指揮するというので、観に行って来た。

 演出は「なんだかなあ」という代物。
 現実と虚構の世界が悪い意味で混じり合っている。
 冒頭、老プッチーニが突然ティムールに早変わりし、物語が始まる。
 また第3幕では、現実にプッチーニが亡くなって筆の途絶えたところでティムール(プッチーニ)も亡くなり、一瞬間が空いて、楽譜が届けられ、カラフとトゥーランドットが二重唱を歌い出す。
 フィナーレのコーラスも楽譜を見ながら歌うというもので、意図はわからないでもないが…。
 大きなマスクの張りぼてが出たり、人民服の合唱、能面をつけた役人たちと、なんだかいびつな「中国趣味」で興を殺がれた。
 現代の中国の体制、もしくは文化大革命といったものをカリカチュアライズするのであれば、もっと徹底してやればいいわけであって、どうにも中途半端である。

 演奏自体は、ファビオ・ルイジの指揮ということで、多少先入観もあるかもしれないが、今までの2回*1と比較して、オーケストラが断然よかった。
 弦がしなやかに聴こえたし、力強さも充分。音楽として、しっかりまとまっていた。
 まずは、オーケストラということ。
(オペラでオケがよかった! というのもねえ…)
 歌手の中では、文句なしにリューのマッカーシー。美しい声をしているし、歌い方も受けを狙って声を張り上げるのではなく、丁寧に情感を込めて歌っていたように思う。
 あと、ピン、パン、ポンの三人組(ルンゲ、パンプフ、ミュラー)。
 ただのコミカルな役回りではなく嫌な部分も引き受けていたが、シルクハットに丸縁メガネ、鼻の下のひげにステッキと、往年の日本のコメディアンを観るかのようでおかしかった*2。
 声のほうも、よく出てるとは言えないが、その分よく動き回っていた。
 ご苦労様。
 主役の二人は…。
 カラフのシュミットは、最後まで大きな声を出していたが…。あまり好きな声ではない。声に柔らかみがない。
 トゥーランドットのハスも喉に詰めたような歌い方で、気になった。
 それに見栄えも…。嫌な女にはぴったりだが。
 でも、最後の二重唱などは、それらしい雰囲気になってきた。

 プッチーニの音楽が、単に「中国風」を狙ったものではなく、ワーグナーの影響等の受けた新しいオーケストレーションを行ったものだということを実感できた公演だったが、やはり演出・美術のグロテスクさには最後まで「?」マーク。



*1:児玉宏指揮の『フィガロの結婚』(1993年10月24日)と、ウォルター・E.グーガバウアー指揮の『ホフマン物語』(1994年1月2日。ちなみに、これはドイツ語による上演)の2回。

*2:って、今にして思えば、これはグルーチョ・マルクスじゃないのか?
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2009年08月27日

1994年1月19日(欧州音楽日記8)

 ☆グヮルネリ・カルテット ケルン公演

  会場:ケルン・フィルハーモニー


 弦楽4重奏でもたまには聴いてみようかとフィルハーモニーへ。
 グヮルネリ・カルテットは、以前何かで名前を聴いたことがある程度*1。
 オケ、オペラ、指揮者以外のクラシック音楽に関する知識とコンサート経験の少なさに少々情けなくなる(弦楽4重奏を聴くのは、二度目!)。

 曲目は、アリアーガの第1番、ベートーヴェンの第11番「セリオーソ」、ラヴェルの三曲。
 お客さんは、オケのときに比べ実に少ない入りだが、その分音楽好きや、自分で演奏する熱心な学生が集まっていたよう。

 アリアーガの第1番*2は、端整な作品。
 音楽としてのしっかりとしたスタイルを備えているし、メロディーも美しい。
 「スペインのモーツァルト」と呼ばれる彼の作品は、日本でももっと演奏されて良いかもしれない。

 次は、ベートーヴェンの第11番「セリオーソ」。
 非常に激しい曲調で第1楽章が始まった。
 この激しさは、そのままフィナーレまで続いた。
 アリアーガの曲が古典的な調和に近い作風とすれば、ベートーヴェンはそこから一歩足を進めようとする作品。
 和音の使い方等、ときとして「不安定さ」を感じる音楽だったが、演奏は病的不安定にはならなかった。

 やっぱり来て良かったと思いつつ、休憩は終わり。
 後半のラヴェル。
 実は、オケの曲はまだよいとして、ラヴェルやドビュッシーをはじめとするフランスの室内楽作品は…*3。
 という先入観を持っていたが、この作品・演奏を聴いてそれがただの偏見だということを思い知らされた。
 第1楽章は、暖かみのあるメロディーが魅力的。ファースト・ヴァイオリンの音の細さがほんの少しだけ気になるが、この団体の弦をたっぷりと鳴らす演奏スタイルには合っている。
 第2楽章は、ピッツィカート技法が印象的。ピッツィカートの個々の部分でテンポなどに奏者の違いはあったが、合奏力はなかなかのもの。
 第3楽章の物憂げな雰囲気、フィナーレも各々充分に愉しめた。

 会場の熱心な拍手に応え、アンコールは2曲。
 誰かの作品のアダージョとハイドンのフィナーレ。
 アダージョでは、各々の楽器の旋律が柔らかく重なることに心地よい想いをし、ハイドンのフィナーレはコンサートの最後を飾るに相応しい軽快な作品だった。

 技術的には、年齢のこともあって最高度、完璧というわけにはいかないだろうが、長年積み重ねてきた経験から生み出される合奏力、テンポのとり方、音の鳴らし方にこの団体の年輪の深さが感じられ好感が持てた。
 また、音楽というものが、単に上手に鳴らされれば良いのではなく、まとまりと重なり合うことが大切だということを実感できた。
 「行って良かった」
 それが、最大の感想だ。



*1:グヮルネリ・カルテットがアメリカを代表する弦楽4重奏団であることをしっかり認識できたのは、JUGIA四条店でクラシック担当のアルバイトをしてからのことである。

*2:残念ながら今は手元にないが、グヮルネリ・カルテットの演奏したアリアーガの弦楽4重奏曲第1番〜第3番のCD<PHILIPS>を、僕は一時期愛聴していた。なお、そのCDは、このコンサートから約1年のちの1995年2月に録音されている。

*3:上述、JEUGIA四条店での経験によって、一転、フランスの室内楽作品に全く抵抗がなくなった。特に、フォーレやドビュッシー、ラヴェルはもちろんのこと、プーランクやミヨーの室内楽作品も大好きである。
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2009年08月26日

1994年1月18日(欧州音楽日記7)

 ☆フィルハーモニア管弦楽団デュッセルドルフ公演

  指揮:ジュゼッペ・シノーポリ
 管弦楽:フィルハーモニア管弦楽団
  会場:デュッセルドルフ・トーンハレ


 フィルハーモニア管弦楽団がシノーポリの指揮で、シェーンベルクとマーラーを演奏するというので、デュッセルドルフまで行って来た。
 フィルハーモニア管(それからシノーポリ)の評判がこちらではそう高くないことも知っていたし*1、山本さんたち*2の話も聞いてはいたが、日本で聴くより安いのだからと足を運んだ。
 が、出かける前にシャワーのことでイライラしていたこともあってか(いつもの汚い使い方をする大馬鹿男!)*3、結局最後まで興に乗れずじまいだった。

 座ったところが平土間の真ん中あたりだったせいか、音が裸のままで聴こえるといった感じ。
 マーラーのときには、金管や打楽器の音が頭の上を通り抜けていくようでさえ…。

 まず、シェーンベルクの浄められた夜。
 去年のマリナー&シュトゥットガルト放送交響楽団の演奏*4が、初々しさにあふれたものであるかのように聴こえたのに対し、今日の演奏は、もっと情念的。
 その言葉が抽象的に過ぎるとすれば、例えば強奏の部分で音をたっぷりと鳴らし、テンポを遅めにとったりするなど。
 ただ一つ間違うと粗雑で猥雑にもなりかねない。
 フィルハーモニア管の弦は、個々の奏者はそれなりの技術を持っているのだろうが、ピッツィカートをはじめ少しだけずれる部分が何箇所かあって気になった。
 一つは(ムジークフェラインと違って)ここトーンハレが、良く響きはすれけれども、重なり合うというより、個々の楽器自体が各々響いてしまう、聴こえてしまうというホールだからかもしれない。

 後半は、マーラーの交響曲第5番。
 トーンハレには少々大きな編成の曲。
 さて、シノーポリのマーラーといえば、日本では評価が高いが…。
 最初のトランペットのファンファーレからして、何かもたついて聴こえた(ホールのせいもあってだろうけれど)。
 ただ第1楽章は、以前聴いた演奏(実演やレコード)の記憶と比較したりしながらあれこれ考えているうちに終わってしまった。
 第2楽章は、荒々しい。また弦のテンポのとり方鳴らし方が印象に残る。
 第3楽章は、ピッツィカートなどで少しずれが気になった。総体的に技術を持ったオケが、少しずつ少しずつ微妙にずれてしまうときほど聴きづらいこともない。
 第4楽章は有名なアダージェット。テンポもそれほど遅くなく、悪しき意味での「ロマンティック」に陥らなかったので、これはまあ良かった。
 そのまま終楽章に突入(実は、今回は、第1、第2楽章=第1部、第3楽章=第2部、第4、第5楽章=第3部という結構で演奏されていた)。
 「光が見えてくる」といった感のあるフィナーレで、ここではオケの粗さもそれほど気にならなかったが、最後まで興に乗ることはできなかった。

 と、言うことで、拍手もせずに席を立った。
 でも、嫌な思いをさせたくてやったわけではないのです。早く帰りたかったし。列車の都合で。ケルンまでの列車が、夜は少ない!
 ただ一言。シノーポリは、精神医学をやっていて演奏も分析的どうのこうのと言われていたが(今も?)、果たしてどうなのか?
 人を酔わせるには自分から、ということかもしれないが、「笛吹けど踊らず」という言葉もある。
 座った場所も私のむしのいどころも悪かったのかもしれないけれど、もう少しオケをまとめてみては? と思わずにはいられなかった。
 それなりの技術を持ったオーケストラのはずだから。



*1:日本では、あの浅田彰らが熱心にシノーポリを熱心に支持していたが。

*2:欧州音楽日記5をご参照のほど。

*3:シャワー室(浴室)は共用のアパートだったのだけれど、浴室中水浸しにする馬鹿な住人(若い男)がいて、何度か後始末をさせられていたのだ。

*4:12月4日、ケルン・フィルハーモニーでのコンサート。このときは、演奏前に若い男性の俳優がデーメルの詩(浄められた夜の作曲の動機となった)を朗読した。また、エマニュエル・アックス独奏のリヒャルト・シュトラウスのブルレスケ演奏中(直前か直後)に中年の女性が意識を失ったが、彼女は亡くなってはいないと思う。
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2009年08月25日

1994年1月16日(欧州音楽日記6)

 ☆ウィーン・フィル定期演奏会

  指揮:ベルナルト・ハイティンク
 管弦楽:ウィーン・フィル
  会場:ウィーン・ムジークフェライン大ホール


 いやはや疲れてぼーっとした頭で書くというのは実に難行苦行である。
 特に音楽会の感想などというのは、どこをどう感じ取ったかに加え、そのまわりに何があったか、エピソードもちょいちょいメモすべきなのだが…。
 10時間列車の中で揺られているというのは、実に辛いものがある*1。

 さて、ウィーンの巡察。
 夜行列車は、思ったとおり睡眠時間がほとんどとれず(それでも寝台車にしておいてよかった)、あっと言う間にウィーン西駅に到着。迷うことなく(奇蹟的!)*2、地下鉄を乗り継いで目指すムジークフェラインへ。
 ウィーンの街並み、その風格と大きさに驚きつつも、朝の凍てつくような寒さにもっと驚いた(実は、当たり前のことだが)。
 何人かの日本の方々もうろちょろしていたが、はてチケットはあるのかと思って係のおじさんに尋ねてみたら、なんと「シュテー(立ち見)もない、売り切れ」とのこと。
 おいおい、どうするんだよ!?
 と、思って周りの看板を見たら、同じ時刻(午前11時)にコンツェルトハウスで、ウィーン・シンフォニカー*3のコンサートがある。
 まだ9時30分くらいなので、一度そっちのほうの様子も見ておくことにする。
 スケート場の隣にコンツェルトハウスはあった。
 どうやら当日券もありそうらしい。よし、それでは、10時30分くらいまでムジークフェラインの前でねばって、それでだめならシンフォニカーを聴こう(すぐ近くだから、歩いて間に合う)という腹積もりでムジークフェラインに戻る。
 日本人女性二人組へまずシンフォニカーを紹介する。
 日本人の客も多くなんだかいやになるが、係の人や周りの人に今一度確認して「売り切れですよ」と伝える*4。
(そういうお前も日本の人! ただ、三人組の通ぶったやつ、音楽を習っているのだろう男は、残響がどうのとか「テアトロ・デル・オペラはだめだよ」などという偉そうな言葉が鼻についた)
 加えて、韓国から訪れていた若者の集団にも、ウィーン・シンフォニカーを紹介する。
(あの人数では無理!)*5
 私は、人の世話をしていたのがよかったのか、品の良さそうなおばさんからシュテーを譲ってもらう*6。
 ドイツ語(下手!なのに)で話をしていたのが、功を奏したのだろう。
 ただ「ない、ない」という割には、待っていた日本人がちゃんと中に入っていた。
 女性二人組には悪いことをしたが、座ってシンフォニカーを聴けたとすれば、良しとして欲しい。

 さて、シュテー。これは本当に疲れた。
 ケルンと違って本当のシュテー*7。ザール*8の一番後ろに立つところがある。
 知り合いになった日本の女性(19歳。英語が達者。それに、偉そうなことを言わないのが良い)とアメリカ・コロラド出身のおあにいちゃんの傍に立って、なんとか舞台も観られる。
 ザールの装飾は以前ニューイヤーコンサートの衛星中継(NHK)で何度か目にしたことはあるが、実際観てみると、このザールの年輪のようなものを感じる。
 ケルンのフィルハーモニーや日本のザ・シンフォニーホールにはない落ち着きが感じられた。

 さてプログラムは、ハイドン、ベルク、シューベルトという、ウィーン・フィルらしいオーソドックスな組み合わせ。
 指揮は、オランダ生まれの巨匠(!?)ベルナルト・ハイティンク。
 まず、ハイドンの交響曲第86番。
 序奏の音が出たとたん、なんとまろやかな柔らかい響きのするホールだろうと思った。
 音が個々各々明確に聴こえるというより、様々な楽器の音色が良い意味で重なり合う(とけ合う。と言っても、一つ一つの楽器の音が消されるわけではない)。
 演奏のほうは、最近の古楽器演奏などと比べると、いくぶんオールドファッショなものといえる。例えば、昔聴いたモントゥー&ウィーン・フィルのハイドンや、シューリヒト&ウィーン・フィルのモーツァルトがそうであるように。
 弦はたっぷりとヴィヴラートをかけ、テンポは速めでもなくまた遅くもなくという演奏だった。
 他のオケ、ホールでは絶対に「?」となるだろうが、さすがにウィーン・フィルとこのホールの響に気を取られ、それほど気にならなかった*9。
(なお、この曲を聴くのは、高校時代、古レコード屋で買ったワルター指揮ロンドン交響楽団のSPレコードを手回しで何回か鳴らして以来*10)

 2曲目は、ベルクの管弦楽のための3つの小品。
 先日、ヤノフスキ&ケルンWDR交響楽団で聴いたばかり。
 ホールの音色の違いもあるだろうが、演奏自体は別として、WDRのほうが洗練されて聴こえた。
 ここではウィーン・フィルも音が合わなかったり、ミスもちょっとあったよう。
 第3曲のマーチは、WDRのときはショスタコーヴィチとの親近性を感じたのに対し、今日の演奏は、マーラーとの関連を感じさせた。
 さすが保守的と言われるウィーン・フィルの聴衆だけあって、定期会員の中には途中で抜ける人もいたし、ほとんどの人が拍手もそこそこにパウゼへ。

 パウゼのあとは、シューベルトのシンフォニー「ザ・グレート」。
 これもアバド等の原典譜(?)による演奏がすでに行われているわけだが、ハイティンクとウィーン・フィルの演奏は、これまでの伝統的な解釈に沿ったものだったろう。
 第1楽章などは、ハイティンクだからもっとのたのたするだろうと思っていたら、予想に反してそれほど遅くない演奏(ハイティンクよりオケの意図?)。
 また第2楽章のオーボエ等による民謡風のメロディーが一段落して弦が優しいメロディーを奏でるところ、第3楽章スケルツォのトリオの部分などは聴いていてほれぼれするものだった。
 例えば、ノリントン等のシューベルトを聴いた耳からすれば、考えるべき部分も多いのだろうが、あの響きと一体となった弦の艶やかな音や管の甘い音(独特の楽器)を聴いていると、「ウィーン・フィルならばねえ…」とついつい思ってしまう。
 ただ、この曲では金管のミスがわかった(そりゃ、ミスがないなんて演奏がありますか?)。
 そこらあたりが、「人間らしいオーケストラ」と呼ばれるゆえんかも。
 それと、疲れもあってか、少々(悪い意味での)「天国的長さ」*11を感じた。

 ウィーン・フィルを聴いて(私が運良くムジークフェラインでの演奏を聴けたから言えるのかもしれないが)、このオケはこの響きの中でこそその本領を発揮するだろうということを痛感する。
 逆に言えば、ウィーン・フィルの伝統的(?)な演奏は、このホールを意図して行われているものだから、他の新しいホールで、それだけ本来の魅力を実感できるかは疑問である。
 ただ、こうしたウィーンという都市の一握りの会員(実は観光客?)−それは、未だに保守性を残す−を根本に見据えて、それに見合う演奏を行っているオーケストラが、どの時期まで残るのか。
注目するとともに、不思議でさえある。

 ウィーンの古くからの聴衆は、現在のウィーン・フィルを「大きく変わった」と言うのだろうが、確実に根深く残っているものはあるだろう(音色やテンポ感)。
 それはウィーンという都市の、両次大戦で変わったと言われながら残存している「アトモスフェア」とも共通しているかもしれない。
 当然のことながら、良い意味でも、悪い意味でも新しい時代の波は、訪れていると思うのだが。
 しかし、演奏は別にしても、この音は良かった。
 これは、どこも真似できない音だ。



*1:これから記す、日曜昼のウィーン・フィルの定期を聴き終えてすぐに、僕は電車でケルンまで戻ったのだ。その行程約10時間。

*2:僕は極度の方向音痴なのだ。

*3:ウィーン交響楽団のこと。

*4:ウィーン・フィルを聴きにはきたものの、ドイツ語を知らない日本人がけっこういたのだ。こちらとて、片言しかしゃべれはしないけれど、あれこれ騒いでいるので、状況を説明したのである。

*5:たしか、20人近くいた。

*6:ただでチケットをくれた。

*7:ケルンはシュテー(立ち見)のチケットで入場しても、空席がある場合は係の人が率先してそこに座るように促していた。

*8:ホールのドイツ語。

*9:ここでは記していないが、ハイドンの演奏中、後部座席に座った高齢の女性が意識を失っていた。隣の男性の激しく動揺した様子から、たぶん女性は亡くなっていたのだと思う。ただ、女性は静かにホールの外に運び出され、コンサートは何事もなかったかのように進んだ。

*10:蓄音器ではなく、ポータブルプレイヤーを利用。78回転の設定がないので、手で回すしかなかったのだ。

*11:この曲を評するに際してシューマンが使ったおなじみの言葉。
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2009年08月23日

1994年1月12日(欧州音楽日記4)

 ☆ASMFケルン公演

  指揮:ネヴィル・マリナー
 管弦楽:ASMF
  会場:ケルン・フィルハーモニー


 身体の調子が良くないとは知りつつ、アカデミー・オブ・セント・マーティン・イン・ザ・フィールズ(ASMF)*1を聴きにケルン・フィルハーモニーまで出かけた。
 結果は、なかなかのブリティッシュ・ベートーヴェンを楽しむことができた*2。
 指揮は当然、Sirネヴィル・マリナー。
 曲目は、オール・ベートーヴェン。
 まず、『プロメテウスの創造物』序曲。
 マリナーのテンポのとり方、指揮ぶりは少々せわしなさを感じさせるが、オケは乱れない。弦はよく揃っているし、管楽器も悪くない。
 オケの良さは、次のピアノ協奏曲第5番「皇帝」でも発揮された。
 この前のギュルツェニヒのときは*3、それこそただせわしないだけだったが、今回はオケがきちんと揃っているので、速さを感じさせない。
 フォルテシモで弦が揃うところなど、聴いていて「ホッ」とする。
 ソロは、ゲルハルト・オピッツ。ところどころ気になるところもあったが、力強い演奏だった。
 上手さ(技術的な)で言えば、先日のエマニュエル・アックスのほうが上のような気もするが、様式感から言えばオピッツのほうか?
 休憩後は、「エロイカ」シンフォニー。ドイツに来てこれで三回目*4。
 レコード等の記憶もあるので、ついつい比較してしまう。
 第1楽章、アーノンクールやブリュッヘンの録音、それからフォンクやシフを聴いた耳には、少々「遅め」の感がする。
 「あともう半テンポ速ければいいのに」という思いが無きにしも非ず。
 第2楽章は、フォルテシモが印象的。弦が少しだけざらついて聴こえるが、全ての楽器が荒々しくない。ティンパニなど、一番のフォルテシモのときでも抑制がきいていてノーブル。
 第3楽章は、ホルンが大変だが、最初ちょっと音を外したくらいで、あとはほぼ完璧な出来。オーボエやフルート等、管のアンサンブルも悪くない。
 第4楽章は速いテンポだったが、最後まできちんとまとまっていた。各変奏、特に弦が活躍する部分は、室内楽的な緻密さが要求されるだろうが、技術的にはクリアしていたよう。ホルンがシンフォニックに鳴らされ過ぎたのが、少し気になった程度。
 それほど(ほとんど)くずれない「エロイカ」を楽しんだ。
 流石、イギリス・ブリティッシュのオケだけあって、弦も管も上手い人ぞろい*5。
 私はこのような演奏も嫌いではない。
 ただ、こうしたベートーヴェンの演奏は、いずれ「変化」を余儀なくされるのではないだろうか、とも思った。
(古楽器演奏の影響は、モダン楽器のオケでも今や避けられないだろう)
 このオーケストラでは、イギリスの作品、ブリテンのシンプル・シンフォニーやフランク・ブリッジの主題による変奏曲、ディーリアス*6などをぜひ聴いてみたい。
 たぶんもっともっと楽しめるだろうから。
 ベートーヴェンなら偶数番号のシンフォニーか?



*1:日本では、アカデミー室内管弦楽団の名で親しまれているオーケストラ。もともとは室内管弦楽編成で、指揮者のネヴィル・マリナーによって結成された団体だが、その後、フル編成での活動を行うようにもなった。ASMFはその略称。

*2:お前は、志鳥栄八郎か!

*3:1993年12月20日のケルン・ギュルツェニヒ管弦楽団の定期演奏会で僕は、エマニュエル・アックス独奏、ジェイムズ・コンロン指揮による「皇帝」の演奏を聴いていた。

*4:1993年10月15日のケルンWDR交響楽団の定期(ハンス・フォンク指揮)と、1994年1月1日のドイツ・カンマー・フィルのニューイヤーコンサート(ハインリヒ・シフ指揮)で、僕はベートーヴェンの交響曲第3番「英雄」を聴いていた。

*5:やっぱりお前は、志鳥栄八郎か!

*6:LP時代、僕はマリナー&ASMFの録音したディーリアスのアルバム<London>を愛聴していた。
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2009年08月21日

1994年1月11日(欧州音楽日記3)

 ☆ケルン・ギュルツェニヒ管弦楽団定期演奏会

  指揮:カール・ハインツ・シュトックハウゼン
 管弦楽:ケルン・ギュルツェニヒ管弦楽団
  会場:ケルン・フィルハーモニー


 最近、風邪気味(風邪そのもの)のため*1、音楽会は遠慮していたが、シュトックハウゼンという日本ではそう簡単に聴けない作曲家であることと、瀬尾さん*2がチケットを用意してくれたということもあって、ケルン・ギュルツェニヒ管弦楽団の定期に出かけた。
 と、言っても、オーケストラの出番は第2部のみ。両端の第1部と第3部は、シュトックハウゼンの子供を中心としたアンサンブルによる演奏。
(会場に行くまで、そして第1部の舞台を観るまで知らなかったことだが)

 曲は、過去の作品で1990年に手直しされた「Hymnen」。
 曲の引用度から言えば、当然「国歌」とすべきなのだろうが、裏返しの「讃歌」という意味もあるのではなかろうか?
 翻訳するのは難しい言葉、少なくとも題名である*3。

 第1部はシュトックハウゼン兄弟とあと二人を加えたアンサンブルによる演奏。
 トランペット等々*4、ピアノのほかは、エレクトリック−シンセサイザー、そしてあり合わせの打楽器?
 コンクレートミュージック、そしてエレクトリックミュージックの可能性を追求する試みなのだろうか。
 それだけでなく、メッセージ性も当然持った曲だろう。
(その内容について良く理解できたわけではないが…)
 私は裏返しの「讃歌」と書いたが、なぜそう思うかといえば、例えば、フランス国歌をはじめとした引用される国歌の旋律のグロテスクさ、そしてシンセサイザーの言葉の唸り、一種儀式的な行為(最後に火が消えるのを、奏者が会場に腰を下ろし見守るというのは、あまりにも思わせぶりな態度だが)。
 引用される国歌とその背後にある国家は、なんら誇らしげなものではないようだ。

 それは、第2部のオーケストラとシンセサイザー(エレクトリック・システム)の演奏においても変わらない。
 ここでは、アメリカ国歌をはじめ、あの「君が代」さえ引用されているが、美しいものとは言えない。
 ただし、ここでは相手がオーケストラということもあってか、第1部のような「音の実験」(木の枝や水を使うという)の要素は薄められていたようである。
 その分、シュトックハウゼンがきちんとした音楽を学んでいた(整然としたオーケストレーション)ということも実感できた。
(「君が代」には、まいった!)
 それと、瀬尾さん、立ってのソロ、ご苦労さま。

 身体が本調子でないことと、オケは、これでおしまいということもあって帰宅する*5。
 ただ、つまらなかったわけではない。
 シュトックハウゼンが行った「音の実験」は、今では珍しくないのかもしれない。
 ただ、彼が今どう考えているかわからないし、もしかすると彼が思っている以上に、この曲は、今だって(今だから?)重くのしかかってくる。
 日本で聴くのではなく、このヨーロッパで聴いているからかもしれないだろうし、私という人間がこういうことに人よりも(どの人? 会場でも「あくび」している人もいれば、ブーイングも出ていたし)少しは敏感*6(考え過ぎ)なのかもしれないだろうが。
 この曲の音楽以外=「国歌」→「国家」、民族問題、排外主義等々=のところに頭が行ってしまった。



*1:ヨーロッパの乾いた風土もあってか、僕はしばしば風邪気味になっていた。

*2:瀬尾麗さんのこと。ケルン市立歌劇場のオーケストラ=ケルン・ギュルツェニヒ管弦楽団のヴィオラ奏者で、ダルムシュタット・アンサンブルの一員。ケルンで部屋を貸してもらっていた指揮者の本多優之さんの関係で知り合いとなり、オペラやコンサートのチケットを準備してもらったり、ゲネプロを見せてもらったほか、一度手作りの食事をごちそうになったこともあった。

*3:この作品が、シュトックハウゼンの電子音楽の大作「賛歌」の改作であることを知るのは、それからだいぶん経ってからのことである。なお、Hymnenというタイトルに賛歌と国歌の二重の意味合いがあることは言うまでもない。

*4:不明。もしかしたら、トランペット以外の楽器を吹いていたのかもしれない。

*5:今では、第3部も聴いておけばよかったと思っている。

*6:臆面がない…。それと、ここら辺は吉田秀和の影響が表われているような気がする。
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2009年08月20日

1994年1月7日(欧州音楽日記2)

 ☆デュッセルドルフ交響楽団定期演奏会

  指揮:ハンス・ツェンダー
 管弦楽:デュッセルドルフ交響楽団
  会場:デュッセルドルフ・トーンハレ


 今日はデュッセルドルフへ。
 ライン河沿いのUバーン*1、トーンハレ駅を降りるとすぐ目の前にトーンハレはあった。
 デュッセルドルフのシステムはコンサートも同じようで、学生証を見せると、全てのチケットが半額になるというもの*2。
 最初は様子見で、一番良いランクの席を購入。
 もともとプラネタリウムだったということもあって、それほど華やかさはない。なんだかこじんまりとしている。
 ホールの中も同様。客席数もそれほど多くないようだ。
 座ったのは、本当の平土間ではなく、少し斜め後ろのほう。

 今晩はデュッセルドルフ交響楽団の定期で、指揮はハンス・ツェンダー*3。
 作曲家でもあるツェンダーだけあって、プログラムはメシアンの『ほほ笑み』、自作の『jours de silence』*4、そしてベートーヴェンの第2番のシンフォニーというもの*5。

 響きは悪くなかった。大森さん*6から聞いていたように「良く響く」。
 ただし、その分粗も目立つのでは…。

 メシアン。
 モーツァルトへのオマージュという副題のつくこの曲だが、モーツァルトの引用などはあまりうかがえなかった。
 弦が中心となる部分と、管・打が中心となって強奏されるとが、ほぼ交互に現れる。
 どうも、「ずれているのでは」と感じられる部分があって、正直いってメシアンの繊細さは感じ取れなかった。

 つぎは、ツェンダーの自作。
 昨晩のツェムリンスキー*7と同じで、バリトンソロの曲。
 昨晩以上の作品(聴いていてあまり面白くない)。これは、もはや「美しく」歌うことが目的なのではなく、言葉と音をどう響かせるか? という現代的な実験に違いない*8。
 ソロのLe Roux*9は、急の代役。声が割れたり等々、大変だったろう。
 オケはそろっていなかった。
 この曲に対して後ろや、隣席のでかいおばはん(失礼)がブーを叫んだが、私*10にはそうする気はなし。
 もしオケの出来の悪さにブーイングならわかるのだが、そうではなかろう。

 休憩後は、ベートーベンの2番。
 ヴァイオリンは8、コントラバスは3など、昨今の流行を意識した編成。
 テンポのほうも全楽章を通して速いものだった。
 ただ、これは、「古楽器」の影響と言えるかどうか?
 ツェンダーの音楽性ではとも思う。
 オケの力量のせいか、何やらせわしなささえ。
 オケは、なんだかやぼったい。管も、そして弦もそろわない(楽器間、そして個々の奏者の鳴らせ方も)。
 ベートーヴェンは確かに「難しいんですねえ」。
 第4楽章−フィナーレがオペラの序曲のように聴こえたのは、オペラ・オケに対する偏見だろうか?

 ブーおばはんは、ベートーヴェンでは、首を動かして上機嫌。拍手も…。やはり、ただのコンサヴァティヴなだけ。
 不快なので、オケには悪いがさっさと席を立った*11。



*1:市街を走る電車のこと。Uバーンは本来地下鉄の意味。

*2:今回アップするコンサートの前に、何度かデュッセルドルフのライン・ドイツ・オペラを観に行っていたので、これはそのことを記している。僕は国際学生証を提示してこのシステムの恩恵に預かったのだが、オペラハウスの中で係りの男性に呼び止められ、再度学生証を見せるはめになった。当時の僕は、相当老けていたのだ。学生証を観たときの、係りの男性の唖然とした顔!

*3:ドイツ出身の指揮者。作曲家としても知られ、かつてNHK交響楽団や東京都交響楽団の定期演奏会を指揮した際も、自作『無字の経』を取り上げている。なお、ザールブリュッケン放送交響楽団を指揮した一連の録音がCPOからリリースされるなど、ツェンダーのちょっとしたブームが起こるのは、このコンサートから数年のちのことである。

*4:アンリ・ミショーの詩による。

*5:このコンサートから約1年のちの、1995年2月24日の京都市交響楽団第371回定期演奏会で、井上道義が『ほほ笑み』とベートーヴェンの交響曲第2番を取り上げているが、これは偶然か?
(余談だが、このときはシチェドリンの曲もやっていて、例の如く井上ミッチーの馬鹿踊り全開だった=褒め言葉ですよ!)

*6:ケルン日本文化会館で事務仕事をやっていた女性。本人が忙しいこともあり、会館の職員の人たちの依頼で、彼女の引っ越し時の電話線の開線工事に立ち会ったことがあった。また、引っ越しのパーティーに少しだけ顔を出した記憶もある。

*7:欧州音楽日記1をご参照のほど。

*8:この点に関しては、今は違う感想を持つような気がする。

*9:未確認だが、フランソワ・ル・ルーか?

*10:当時は、自分自身の一人称を「私」と記していた。

*11:京都小劇場界では、それこそ「保守派」と目されているらしい中瀬宏之だが、もともとはこういう嗜好・志向・思考の持ち主なのである。
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2009年08月19日

1994年1月6日(欧州音楽日記1)

 ☆ボン・ベートーヴェンハレ管弦楽団定期演奏会

  指揮:デニス・ラッセル・デイヴィス
 管弦楽:ボン・ベートーヴェンハレ管弦楽団
  会場:ボン・ベートヴェンハレ


 部屋の片付けをしていて、15年前のヨーロッパ滞在中*1にコンサートの感想を綴ったトラベルダイアリーを見つけた。
 正直、文章の拙さ、臆面のなさには目を覆いたくなるが、読みやすいよう改行したり、句読点を補ったり、誤字を訂正したりするほかはあえて原文のまま、備忘録の意味合いもあってここに少しずつアップしていこうと思う。
 なお、文末にいくつかの注釈をつけることにした。



 君島さん*2、スルタンさん*3に会って話をした後は、ボン・ベートーヴェンハレ管の定期をベートーヴェンハレで。
 8マルク*4でチケットは手に入ったが、なんと一番後ろの席。
 しかもケルンのフィルハーモニーと違って、ホールの中は質素そのもの。
 イスなんか、長崎の実家の食卓付きのイスか共研*5の大机用のイスをつなぎあわせただけで、これにはびっくりしてしまった。
 それもイスとイスとの間に段差がない。
 まさに「平土間」である。
 席はケルン流儀で空いている前の席に前進*6。

 指揮は、デニス・ラッセル・デイヴィスで、『エグモント』序曲、ツェムリンスキーの交響的歌曲、ショスタコーヴィチの6番のシンフォニーという、それほどポピュラーではない組み合わせ*7。

 『エグモント』序曲は、弦、管ともまとまっていて、なんだか日本のオーケストラを聴いているような気がした。
 ホールの響は、日本のザ・シンフォニーホールのような「残響…秒」というわけにはいかないが、座ったところが悪くなかったのか、全ての楽器がきれいにまとまって聴けたのでは*8。

 次のツェムリンスキーは、スティーヴン・キンブローのバリトン・ソロで。
 こうした曲を歌うのは(マーラーからもう一歩進んだような)非常に骨が折れるだろうなあ、というのが実感。
 悪い声ではないし、音もきちんととれているのだろうけれど、後半、歌詞が聴きとりにくくなった。
 オケは雄弁。
 ただし、「良かった」とか「良くわかった」とは一概に言えず。

 パウゼ*9のあとは、ショスタコーヴィチ。
 「頭のない交響曲」(プログラム・パンフレット)とは言い得て妙。
 突然、ラルゴから始まる。
 ゆったりとしたこの楽章は、「静かさ」というより「陰鬱さ」を感じさせる。
 時折フルートのソロが、ブルックナーのよう。
 第2楽章は、アレグロ。
 ショスタコーヴィチの「2楽章らしい、2楽章」といえば抽象的に過ぎるか?
 弦の合奏力はそう低くないようだが、管はあまり。
 フルート、ホルン、他金管。
 それと、ホールのせいもあるのか、フルートなど音が硬く聴こえる。
 第3楽章は、ハリウッド映画音楽のパロディのごときプレスト。
 華々しくフィナーレを飾ったが、第1楽章のラルゴを聴いたあとでは、手放しで喜べない。
 ヴォルコフの「証言」*10の記憶が頭にあるからだろうか?

 さて、このオケ、思ったほど悪くない。
 当然のことながら(『オテロ』の時にも書いたが*11)指揮者の効果だろう。
 ツェムリンスキー、ショスタコーヴィチという難しいプログラムを間のびせず聴かせたという点では評価はできる。
 ただ、『エグモント』序曲は、何か物足りなかった。



*1:1993年8月末〜1994年3月初頭まで、僕は国際交流基金ケルン日本文化会館で事業実習を行っていたが、このダイアリーは1994年1月6日以降のものしか記されていない。

*2:君島みずほさん。立命館大学国際関係学部の後輩。当時、ボン大学に留学していて、彼女とは、ボンやケルンで何度か会った。

*3:君島さんのボン大学での友人。

*4:当時のレートで、500円〜700円ぐらいか?

*5:立命館大学大学院国際関係研究科共同研究室の略。

*6:日本語としておかしい。

*7:それほど、ではなく、相当ポピュラーではないと、今にして思う。

*8:もっとドライ、というかひどい音響だったように記憶していたが…。

*9:休憩のこと。

*10:ソロモン・ヴォルコフ編『ショスタコーヴィチの証言』<中公文庫>のこと。この証言に関しては、現在ほぼ信憑性が疑われているようだ。

*11:1993年10月10日、同じ指揮者、同じオーケストラで、僕はボン市立歌劇場のヴェルディの『オテロ』公演を観ている。
posted by figarok492na at 16:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 欧州音楽日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする