2008年09月04日

京都市交響楽団第516回定期演奏会

 ☆京都市交響楽団第516回定期演奏会

  指揮:井上 道義

  座席:2階  P1列8番(休憩前)
     3階 LB1列6番(休憩後)



 京都市北山の京都コンサートホールまで、京都市交響楽団の第516回定期演奏会を聴きに行って来た。
 かつて音楽監督兼常任指揮者をつとめた井上道義の指揮で、モーツァルトのアダージョとロンド、クセナキスのノモス・ガンマ、ホルストの組曲『惑星』の3曲が演奏されたが、実は今から18年前の1990年7月27日、指揮者・プログラムともそのまま同じという演奏会が第326回定期演奏会(井上道義の就任披露演奏会でもあった)として開催されている。
(僕も、その18年前のコンサートを聴いているのだが、当時の演奏会場の京都会館の音響の劣悪さと、『惑星』の終曲で女声コーラスが2階の後方に立って「ああああ、ああああ」やっていた程度の記憶しか残っていない)

 一曲目のモーツァルトは、もともとグラスハーモニカのために作曲された作品だが、前回と同じく井上道義がチェレスタを弾き、清水信貴(フルート)、高山郁子(オーボエ)、柳生厚彦(ヴィオラ)、中西雅音(チェロ)という京響メンバーがアンサンブルを組んでいた。
 お客さんのくしゃみや咳が少々気になったが、モーツァルトの音楽の持つ哀しさと愛らしさ、優しさがよく表れた作品であり、演奏だったと思う。

 続く、クセナキスのノモス・ガンマは一転していわゆる現代音楽作品。
 舞台後方に張り巡らされた打楽器陣による「連射」や、通常とは異なる場所にばらばらに(本当はそうじゃないけど)配置された各楽器の断末魔の如き「悲鳴」「叫び声」、そして音響的爆発といった内容のすさまじい音楽で、一見(聴)殴り書き風な音楽づくりを行い、パフォーマンスが大好きな井上道義という指揮者にとっては恰好の作品だったのではないか。
(一方で、モーツァルトの音楽と通底する「何か」を感じ取ったことも事実だけれど)
 今日この曲を聴いていて、徐々に18年前の演奏を思い出していったのだけれど、単に技術的にどうこうというだけでなく、あの時に比べて今回は、より積極性の感じられる演奏に仕上がっていたのではないだろうか。

 休憩後のホルストの『惑星』も、最近の京都市交響楽団の充実具合が十二分に発揮された演奏となっていた。
 コンサートプログラムにおける中原昭哉の楽曲解説の素っ気なさにはどうにも悲しくなってしまったが、ホルストの『惑星』は、明らかに第一次世界大戦の予兆・危機意識の産物であり、クセナキスのノモス・ガンマ同様、「同時代性」が全面に押し出された作品である。
 ただ、井上道義はことさら作品の持つそうした「社会性」、もしくは「神秘性」のみに拘泥するのではなく、よい意味で音楽的というか、『惑星』という作品の持つ音楽的魅力、音楽のツボを押さえた音楽づくりを行っていたように、僕は感じた。
 そのため、「火星」ではあまりにもかっこよく鳴りすぎて『スター・ウォーズ』の音楽をついつい思い起こさせてしまったり、『惑星』が同時代の自国や他国の作曲家の作品の強い影響のもとに作曲された作品であることを明らかにしてしまっていたりもしたのだけれど。
(『惑星』が、第一次世界大戦の予兆・危機意識の産物であり、「同時代性」を全面に押し出した作品であるのであれば、意識して無意識でかはひとまず置くとして、結果的に同時代の作曲家の作品と密接な関係を持つことは必然であるのかもしれない)
 京響は、管楽器をはじめとした個々のソロも見事だったし、アンサンブルとしてもパワフルでドラマティック、なおかつ機能性に富んだ演奏を行っていた。
(18年前と同じく、女声コーラスには、ちょっとぴんとこないものもあったが、これはまあ仕方あるまい)

 それにしても、18年という歳月の長さを今日は痛感した。
 そして、いろいろと問題はありつつも、京都に住むクラシック音楽愛好家にとって、京都市交響楽団と京都コンサートホールが存在することの重みもまた今日は痛感した。
 いずれにしても、本当に足を運んでよかったと思えるコンサートだった。
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2008年07月10日

京都市交響楽団第514回定期演奏会

  ☆京都市交響楽団第514回定期演奏会

   指揮:大友 直人
   独奏:フセイン・セルメット(ピアノ)

   座席:2階 P5列31番


 7月8日夕、北山の京都コンサートホールまで、京都市交響楽団の第514回定期演奏会を聴きに行って来た。
 指揮は、京響の前常任指揮者兼アーティスティック・アドヴァイザーで、現桂冠指揮者の大友直人、ピアノ独奏は以前京響定期でラヴェルのコンチェルトを弾いたフセイン・セルメットだった。

 一曲目は、ブラームスの大学祝典序曲。
 ブラームスの管弦楽曲の中では、セレナード第1番と同じく、賑やかしく喜ばしい気分に満ちあふれた作品で、僕自身好んで耳にする音楽の一つである。
 大友直人は、スタイリッシュでスポーティー、加えて鳴りのよい音楽づくりを行っていたが、オーケストラにどこか雑然とした感じが残っていたし、それより何より、内面からわき起こる力のようなものが不足していて、思ったほど心は動かされなかった。

 続いては、モーツァルトのピアノ協奏曲第21番。
 もともと同じモーツァルトの25番のコンチェルトが演奏される予定で、僕は本当はそちらのほうを愉しみにしていたのだけれど、大友さんのプレトーク曰く「(セルメットが)勘違いで、同じハ長調の第21番を練習してきた」云々かんぬん…。
 おっさん、何してこましとんねん!
 と、突っ込みの一つも入れたいところだが、いや、勘違いしてきただけはある。
 前回聴いたラヴェルから一転、よい意味で角のとれた、一音一音を慈しむかのように丁寧に演奏するセルメットのソロはとても聴き心地がよく、まるで上質の軟水を飲んでいるようなしっくりとした感じがした。
 一方、京響のほうは、ちょっとはずまない演奏だったような気がする。
 おっさん、やってられまっかい、という気分が指揮者やオケの面々にあったとまでは思いたくないが。

 アンコールのブラームスのインテルメッツォも、セルメットの美質がよく示された演奏で、これまたしっくりとくる。
 ただ、途中携帯の音が鳴ったのは残念だったけどね。
 そういや、前回のアンコールの時は、迷惑じいさんが邪魔をしたんだったっけ…。

 休憩を挟んで、メインはブラームスの交響曲第4番。
 速めのテンポをとった、エネルギッシュでドラマティックな仕上がり。
 というのは公式見解で、確かに、この作品の持つ一面を表してはいるのかもしれないが、なんとも一本調子に過ぎて面白くない。
 たぶんオケの機能ががっちりしっかりばりばりとしていたもう少し印象は変わったのかもしれないけれど、その意味でも今回の京響は今一つで、少なくとも、個人的にはしっくりとこない演奏だった。

 ところで、最近の大友さんって、雰囲気がやけに小澤征爾っぽくなってきたような気がするが、これって僕の気のせいだろうか?
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2008年04月19日

京都市交響楽団第511回定期演奏会

 ☆京都市交響楽団第511回定期演奏会

  指揮:広上 淳一

  座席:2階 L−2列6番


 京都コンサートホールまで、京都市交響楽団の第511回定期演奏会を聴きに行って来た。
 指揮は、この4月から京響の第12代常任指揮者となった広上淳一で、今回の定期演奏会もその「就任披露」と銘打たれていた。

 今シーズンの京都市交響楽団定期の指揮者陣の説明と、吉田新事務長、新井新音楽主幹の紹介が行われた広上さんのプレトークののち、まずは金管楽器と打楽器によるコープランドの『市民のためのファンファーレ』が景気づけとして演奏される。

 続く2曲目は、ハイドンの交響曲第104番「ロンドン」。
 先日の大阪フィルとの交響曲第60番「うすのろ」と同様、いわゆるピリオド奏法も援用されていたが、一方で、古典派を超えて初期ロマン派をも想起させるような作品の先駆性を意識したシンフォニックな音楽づくり(例えば、ホルンの鳴らし方とか)にもなっていたと思う。
 また、ハイドンらしい「仕掛け」「ユーモア」にもきちんと目配りがされていたし、音楽の躍動感も充分に表現されていたのではないか。
 京響もまとまりのよいアンサンブルで、非常に好感が持てた。

 休憩を挟んで3曲目(メイン)は、リムスキー=コルサコフの交響組曲『シェエラザード』。
 よくよく考えてみたら、なんと実演に接するのは20年ぶり2回目ということになるが(ちなみにその時のオーケストラも京都市交響楽団で、指揮は金洪才だった)、いやあ、今回の『シェエラザード』は本当によかったなあ。
 だって、この作品の持つ「物語性」をよい意味で再認識することができたし、リムスキー=コルサコフのオーケストレーションの巧さ、音楽の出来のよさをたっぷりと味わうことができたもの。
 まずもって広上淳一のドラマづくりとオーケストラ・ドライブの見事さを讃えるべきだろうが、京響も広上さんの就任披露に相応しいきれがよくてエネルギッシュで、なおかつ叙情性にあふれて流麗な音楽を生み出しており、大好きな第3楽章はもちろん、全編もっとずっと聴いていたいと思わせられる演奏だった。
(グレブ・ニキティンや上村昇、そして管楽器陣、ハープのソロもなかなかの美しさだった)
 できれば、もうあとちょっと拍手を待って欲しかったけれど、それでも大満足。

 今後の広上淳一と京都市交響楽団のコンビネーションが大いに期待できるコンサートで、9月の京都の秋音楽祭開会記念コンサートが今から待遠しい。
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2008年04月15日

小川昂氏の死を悼む  『新編 日本の交響楽団』を中心に

 昨日、4月14日、NHK交響楽団の元事務長で、音楽資料研究家としても知られた小川昂氏が亡くなった。96歳だった。

 小川氏は県立長野図書館司書からNHK音楽資料課長となり、その後NHK交響楽団の常務理事・事務長、さらに民主音楽協会音楽資料館顧問などを務め、1973年にサントリー音楽賞、1997年には新日鉄音楽賞特別賞を受賞している。

 各紙の訃報では、今は亡き中村洪介氏との共編著『日本のオーケストラ 1983〜1985』<音楽之友社>や『オーケストラ作品演奏時間表』<大空社>がその主な業績としてとり上げられているが、小川氏の真価が発揮されたものとしては、やはり、民音音楽資料館刊行の『洋楽索引』、『洋楽の本』、そして、日本の職業オーケストラの定期演奏会(公演日時と公演会場、指揮者名、独奏独唱者名、その他共演団体名、並びに演奏曲目)を克明に記録した、本編、追補、追補2とつごう三刊にわたる、『新編日本の交響楽団 1927〜2000』をこそ挙げなければなるまい。
(特に、その本編『1927〜1981』は、大学合格の記念として購入してもらったこともあって、ぼくにとっては忘れられない一冊となっている)

 もちろん、この『新編日本の交響楽団』に、いくつかの瑕疵や問題点があることを指摘しておかなければならないことも確かである。
 トリビアリズムを承知で記すならば、ここには、戦前戦中と活動していた松竹交響楽団(戦時下、大東亜交響楽団と改名)や宝塚交響楽協会の定期演奏会の記録が収められていないし、『新編日本の交響楽団』はあくまでもデータの集積であって、例えば、1964年の東京交響楽団の解散や1972年の旧日本フィルハーモニー交響楽団の分裂といった日本のオーケストラ史上の重大な事件が個別具体的に叙述されている訳ではない。
 また、根本的根源的な問題ではあるが、各種音盤や音源と異なり、実際の音として日本のプロオーケストラの数々の成果に接することはできない。

 だが、そうした瑕疵や問題点を一応考慮に入れた上でも、『新編日本の交響楽団』と小川氏の果たした役割にははかり知れぬもがあるのではないか。
 少なくとも、この日本においてどのように西洋クラシック音楽が需要され、プロフェッショナルなオーケストラが発展していったかを歴史的社会的に検証する際の重要な資料として、『新編日本の交響楽団』は大きな位置を占め続けるものと、僕は考える。

 如何なる形となるかはひとまず置くとして、その研究及び資料収集作業が今後も長く受け継がれることを強く願いつつ、小川昂氏の死を心から悼みたい。
posted by figarok492na at 12:14| Comment(0) | TrackBack(0) | コンサート記録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年04月07日

ボンボン プティボン プティボンボン

 ☆パトリシア・プティボン ソプラノ・リサイタル
  
  出演:パトリシア・プティボン(ソプラノ)
     マチェイ・ピクルスキ(ピアノ)

  会場:ザ・シンフォニーホール
  座席:1階 I列32番


 4月6日、大阪のザ・シンフォニーホールまで、フランス出身のソプラノ歌手、パトリシア・プティボンのリサイタルを聴きに行って来た。
 まだこれから名古屋、東京の公演が控えていることもあって、あえて詳細については触れないが、これは足を運んで大正解のリサイタル、てか、僕の実演経験の中でも、これから末長く忘れられないものの一つになるものだとすら思う。

 フレンチ・タッチや、その前のフランス・バロック期のアリア集である程度予想はついていたものの、まずはアーンの歌曲で、彼女の声量、感情表現の激しさに圧倒された。

 もちろん、プティボンの魅力はそれだけに留まらない。
 フランス歌曲におけるテキストの読み込みの鋭さやコロラトゥーラの高度な技巧、そして、透明感があってしっとりとした美しい声質を軸にして、「うつろ」な声や「低い」声、ポップ調の声、地声、台詞、と作品にあわせて見事に変化する声(歌い口)の素晴らしさ、さらには時に「やりすぎ(やらせすぎ)」とまで言いたくなるようなユーモア感覚にサービス精神。
 そういった歌い手、歌役者としての彼女の魅力が、出し惜しみされることなくアンコールにいたるまで十二分十三分に発揮されていたのではないか。

 そんなリサイタルのプログラムの中で、 どれか一つを挙げろと言われると本当に困ってしまうが、個人的な好みで、カントルーブなどから変更された『フィガロの結婚』の2つのアリアが強く印象に残ったとここでは記しておきたい。
(それとアンコールのあの曲。たぶんやってくれるんじゃないかと期待していたプティボンの十八番で、これはもうお愉しみだ)

 好漢マチェイ・ピクルスキも、プティボンとコンビネーションのよくとれた伴奏で、実に好感が持てた。
 彼の「エンタテイナー」ぶりも観物の一つだろう。

 小林信彦じゃないけれど、接する人を幸せにできるかどうかが舞台人の基準だとしたら、まさしくプティボンはとびきりの舞台人だと太鼓判を押すことができる。
 僕は、とてもいい時に、彼女の実演に接することができたんじゃないだろうか。
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2008年03月28日

ゆかいなコンサート(大阪フィル・いずみホール特別演奏会‖)

 ☆大阪フィル いずみホール特別演奏会‖ 〜古典から近代への旅〜
  指揮:広上 淳一

  座席:2階 LB列7番


 大阪のいずみホールまで、大阪フィルのいずみホール特別演奏会‖ 〜古典から近代への旅〜 を聴きに行って来た。
 指揮は広上淳一、プログラムはハイドンの交響曲第60番「うすのろ」、ショスタコーヴィチのバレエ組曲抜粋、ストラヴィンスキーのバレエ音楽『プルチネッラ』組曲という、まさに玄人好みのするコンサートで、開演前からわくわくわくわくしてしまった。

 で、一曲目のハイドンからしてやられた。
 この第60番「うすのろ」は、劇音楽を転用した6楽章の交響曲で、ハイドンらしい仕掛けに満ちた作品になっているが、広上淳一はそうした仕掛けの一つ一つを巧みに掘り起こしつつ、クリアでテンポ感のよい、劇場感覚にあふれた音楽づくりを行っていた。
 中でも、強弱のメリハリがきっちりついた第2楽章が個人的には印象に残る。
 そして、「観物」は終楽章。
 ここには、途中で奏者(コンサートマスターら)がチューニングを行うという「遊び」があるのだけれど、広上さんは指揮を空振りしたり、焦ったそぶりをしながら頭をタオルで何度もこすったりと役者ぶりを大いに発揮していた。
 今日のコンサートはNHK・FMが録音していたが、せっかくなんだから録画もしておけばよかったのにと思ったほどだ。

 続く、ショスタコーヴィチのバレエ音楽の抜粋は、時折金管楽器の不安定さが気になったものの(でも、これだけ吹かなきゃならない作品だもん、仕方ないさ)、耳なじみのよい音楽の裏にある「意地の悪さ」に「皮肉」、交響曲をはじめとした一連の作品との共通性なども感じられて、とても聴き応えがあった。

 休憩を挟んだ、『プルチネッラ』組曲は、全曲版でなじんでいるだけに、独唱陣がいないなどちょっぴりさみしさも感じたが、声楽の部分がどのように他の楽器に移されたかや、作品の持つ室内楽的趣向といったストラヴィンスキーの作曲技巧の妙を「目にする」ことができて、実に愉しかった。
 てか、『プルチネッラ』を生で聴くことができるだけで、本当に嬉しい。

 全体的に見て(聴いて)、大阪フィルはどうしても機能性が豊かとは言い切れない部分もあるのだけれど、フルートやオーボエのソロには充分魅了されたし、弦を中心に音色も美しかった。
 これはもちろん、広上淳一の指揮ということも大きかったとは言えるが。

 いずれにしても、聴きに行って大正解のコンサート、ゆかいなゆかいなコンサートだった。
 できれば、もっともっとお客さんがきていたらなあと、それだけが非常に残念でならない。


 そうそう、これって神沼遼太郎も『クラシックアホラシー』<幻冬舎ルネッサンス>で書いてたけど、階上席の最前列の手すり(安全バー)って本当に目障りだなあ。
 邪魔で邪魔でしゃあないやん。
posted by figarok492na at 00:10| Comment(0) | TrackBack(0) | コンサート記録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年03月06日

COTO-PRESENT壱(コトプレゼント1)を聴く

 京都芸術センター講堂まで、作曲家の山根明季子さんを中心とした京都市立芸大出身の音楽家たちによるアンサンブル、COTOの演奏会、COTO-PRESENT壱「CONSTRUCTION」を聴きに行って来た。
 前々から気になっていたコンサートだが、今日の夕方偶然京都芸術センターに足を運んだ時に、たまたま作曲家の川島素晴さんと話しをすることになり、「これはどうやら当たりだな」と勘が働いたので聴いてみることにしたのである。

 残念ながら、チラシに載っていたクセナキスの『ディクタス』は演奏されなかったものの、ライヒ、ホリガー、川島さん、近藤譲、夏田昌和、ドナトーニというプログラミングがまずもって嬉しい。
 少なくとも、こういった作品に実演で接する機会は京都ではそうそうない訳で、それだけでも食指が動く。
 で、まるで芝居の「キ」のように始まるライヒの『木片の音楽』からしてわくわくするし、作曲家自身の音楽的源泉の在り処が如実に示されたホリガーの作品も興味深い。
 そして、シアターピースそのもの、実演でなくっちゃその面白味愉しみがちっともわからない川島さんの『ポリプロソポス|』は、奏者陣の「熱演」もあって、脳心ともに満足がいった。
 ただ一方で、特に休憩を挟んだ後半の3曲には、さらにアンサンブルの精度が高まればと感じたことも事実で、個々の奏者はそれなりの力の持ち主であることも確かな訳だから、そうした点が次回のコンサートでクリアになればと強く思う。

 とはいえ、足を運んで正解のコンサートだった。
 次回が待ち遠しい。


 余談だけれど、精度の高さを求めるという意味合いでは、演奏そのものよりも、制作=表方の「しろうと」っぽさのほうがよっぽど気になった。
 たぶん市立芸大の学生さんたちだろうと思うので、あんまりくだくだくどくど言うのも申し訳ないのだが、せっかくこれだけ「こった」コンサートをやっている訳だから、もうちょっとぴしっとやったほうがいいんじゃないだろうか。
 学校関係者をはじめとした身内のお客さんが多いことは想像がつくとはいえ、一応一般にも公開されているコンサートなので。
(僕自身、今夜のまったりとした雰囲気が嫌いな訳じゃない。でも、自分が表方をやったことがある分気になるんだよね、どうしても…)
posted by figarok492na at 23:00| Comment(0) | TrackBack(0) | コンサート記録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年03月04日

THE STRINGS第3回定期公演の当日座席指定システムを厳しく批判する

 今日、所用があって中京青少年活動センターに寄った時、室内合奏団「THE STRINGS」という団体の第3回定期公演(3月22日、京都コンサートホール小ホール)のチラシがちらと目に入った。
 チラシによると、この「THE STRINGS」は大阪音楽大学生とフリーランスの演奏家によって結成されたアンサンブルとのことで、バロックから古典派の作品に関しては、ピリオド奏法を援用した演奏を行う旨も記してある。
 指揮者の小田野宏之には、「あれ、小田野さんってピリオド・アプローチの人だったっけ」と思いつつも、交響曲第41番「ジュピター」をメインとしたオール・モーツァルト・プログラムが興味深く、そのままチラシを手にして帰宅した。

 が、である。
 帰宅後、チラシの入場料のあたりをじっくりと見て、「ああ、これはあかんな」とがっくりきた。
 と、言うのも、入場料2000円(この金額自体に不満はない)の下に「13:00より座席指定券引換え」とあったからだ。
(しかも、同時に手に入れたもちょっと小さめのチラシにはこのことは一切書かれていないのだ)
 これって、芦屋交響楽団や京都大学音楽部交響楽団のような、「俺らって、よそとは違ってうまいから」という意識があるんじゃないかと勘ぐってしまうような、ちょいうまアマオケ学生オケがやることであって、まともなプロフェッショナルな団体がやることではない。
 たぶん、大阪音楽大学の定期演奏会でも同様のやり方をしているから(そのせいで、西本智実が指揮をしたコンサートで、お客さんに迷惑をかけた!)、そのまま「無批判」にそれを踏襲したんだろうけれど。
 2000円というチケット料金をお客さんからいただくのであれば、少なくとも関係者のみのコンサートでないのであれば、まずはお客さんの都合勝手を考えるべきではないのだろうか?
 そうした点がクリアにならないかぎり、この団体は「中途半端」なままだろうし、所属する専攻生たちもプロ意識を身につけることはできないだろうと、僕は強く思う。

 定期公演もまだなので、本当に申し訳ないと考えつつ、音楽そのものに対しては志しを高く持った団体だろうと信じるから、あえていやごとを書くことにした。
 ぜひ、次回公演の際は、こんなしろうとじみたシステムは改めてもらいたいと願うとともに、今回の公演の成功を心から祈りたい。
posted by figarok492na at 18:19| Comment(0) | TrackBack(0) | コンサート記録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年02月03日

喜多宏丞のこれからが愉しみだ

 ☆第16回ABCフレッシュコンサート

   指揮:飯森 範親
  管弦楽:大阪フィルハーモニー交響楽団
   独唱:森川  泉(ソプラノ)
   独奏:喜多 宏丞(ピアノ)

   座席:2階 GG列45番(休憩前)
         RD列 1番(休憩後)


 大阪のザ・シンフォニーホールまで、第16回ABCフレッシュコンサートを聴きに行って来た。
 去年はパスしたので、このABCフレッシュコンサートに足を運ぶのは、2年ぶりということになる。

 で、けっこう早めに行ったのに、あんまりいい席をあてがわれなかったので「ありゃりゃ」と思っていたら、隣にマツモトチヅオと安田大サーカスのクロちゃんを混ぜこぜにして頭をちょんまげっぽく結んだむさい男がやって来て、傲慢無礼な態度をとる。
 またぞろ機智害を呼んでしまった訳で、仕方がないので席を変えてもらったのだが、これが2階正面の奥のほうでますます「ありゃりゃ」という気分になってしまう。
 まあ、休憩後、勝手に別の場所に移って事なきをえたとはいえ、どうしてこうなるのかね全く。
(移った場所では、演奏中のおしゃべりにちょっと参った)

 さて、と。
 僕がもっとも愉しんだのは、喜多宏丞の独奏によるフランクの交響的変奏曲。
 父っちゃん坊や的な風貌(若い頃の小林信彦風。京都小劇場界の人にわかるように言えば、田辺剛さんを少し大きめにしたといったところか)と地味めの作品ということもあって、実はそれほど期待していなかったのだれど、いやあ、偏見はあきませんね。
 まずもってフランクの音楽の持つ耽美的な性質を丁寧に表現していたし、テクニックという点でも基本線は十二分に押さえている。
 そして、その過剰なほどの身ぶり手ぶり!
 一つ間違うと悪趣味に思われかねないパフォーマンスなんだけど、たぶんこれは喜多君にとってどうしても必要なものなんだろうということが想像できて、僕には好感が持てた。
(ブレンデルや内田光子、ファジル・サイの影響があるのかなと思っていたら、なんと彼、趣味のマジックを取り入れたコンサートを企画したりもしているそうで、なるほどなあと思う)
 いずれにしても、これからが愉しみなピアニストだ。
 大好きだというハイドンをはじめ、古典派の作品も聴いてみたい。

 一方、チャイコフスキーの『エフゲニ・オネーギン』の手紙の場と、グノーの『ファウスト』の宝石の歌を歌った森川泉も、全体的に硬さはあるものの、伸びがあって透明感のある声質は魅力的で、磨けば磨くほどいい歌い手になるのではと感じた。

 東野圭吾の颯爽とした弟といった感じの飯森範親は、『エフゲニ・オネーギン』のポロネーズ、リムスキー=コルサコフのスペイン奇想曲、ラヴェルのボレロをシンフォニックにドラマティックに描き上げていた。
 ただ、音楽に良い意味での隙間や膨らみがないというか、もちょっとエロス・タナトス、音楽の持つ「狂」的なものを聴きたいと思ったことも事実だ。
 その分、スペイン奇想曲、ボレロとも、ラストの部分の盛り上げ具合煽り具合は見事だなとも思ったが。

 大阪フィルは、チャイコフスキーの伴奏など、弦楽器の美しさに比して、管楽陣の弱さを強く感じたけれど、ボレロは大禍なく演奏し終えたのではないか。
(全体的に、いくぶん機能性に欠けるきらいがあることは否めないと思う)

 アンコールは、ビゼーの『アルルの女』第2組曲からファランドール。
 チェコ・フィル室内管弦楽団とのアルバムでもとり上げるなど飯森さんお得意の一曲で、先述した不満はここでも感じたものの、熱の入った音楽に仕上がっていた。
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2008年01月25日

ミッチーのハイドンを聴く

 ☆京都市交響楽団第508回定期演奏会

  指揮:井上 道義

  座席:2階 P−5列10番


 京都コンサートホールまで、京都市交響楽団の定期演奏会を聴きに行って来た。

 指揮は、かつて京都市交響楽団の音楽監督を務めていたこともある井上道義さんで、プログラムは、ハイドンの交響曲第6番、第7番、第8番(いわゆる、朝・昼・晩)の3曲。

 で、この3曲の詳細については交響曲の解説本やCDのブックレットの解説をご参照いただくとして、ハイドンが手前の楽団のために書いた、いわゆるあて書きの作品で(例えば、コンサートマスターやチェロ奏者、コントラバス奏者のソロ、デュエットなどが目立つ目立つ。当然、コンチェルト・グロッソがどうしたこうしたという物言いだけではおさまらない)、「なんと通向きなプログラム」というのが、まずもっての僕の感想だ。

 井上さんは、この3つの交響曲を、ピリオド奏法を援用しつつ(単に楽器の鳴らし方だけでなく、デュナミークのつけ方でも)*、京都市交響楽団の奏者の音色の美しさを活かしたインティメートな雰囲気の強い音楽に仕上げていたと思う。

 ただ一方で、そうした音楽づくりにオーケストラがついていけていない部分がところどころあったことも事実で、道義の道半ば、といった感じがしないでもなかった。

 とはいえ、アンコールに交響曲第45番「告別」の終楽章をもってくるなど(そういえばこの曲は、京響が京都会館に「告別」する際のコンサートでも演奏されていたはずだ)、井上ミッチーならではの「やってるやってる」感満載のコンサートでもあり、ならば、こちらは「やられた」と応じる他あるまい。

 そうそう、反響板代わりもあってだろうが、小編成のオーケストラを前の部分に集めて、舞台半分ぐらいから後ろは舞台の台をせり上げて壁のようにするという、珍しいセッティングを行っていた。
 と、思っていたが、よくよく考えたら、確かケルンのフィルハーモニーで、ピリオド系のオーケストラのコンサートの時に同じようなことをやっていたような気がする。
 しかとは覚えていないが。


 *2005年秋に開かれた、京都賞受賞がらみのニコラウス・アーノンクールのワークショップの最前列に井上道義さんが座っていたことを僕は知っているので、今回の井上さんの「変容」には、全く驚くことはなかった。
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2008年01月11日

新日フィルを聴く

 ☆新日本フィルハーモニー交響楽団 TOUR2008

  指揮:クリスティアン・アルミンク
  独奏:豊嶋 泰嗣(ヴァイオリン)

  座席:1階 E列6番


 大阪のザ・シンフォニーホールまで、新日本フィルの大阪公演を聴きに行って来た。
 朝日新聞の夕刊で見つけた、招待チケットをゲットしたためで、ちょうど梅田に出かける予定だった古いアルバイト仲間も同行することになる。

 で、招待状とチケットを交換するため、開場の45分前ぐらいから窓口のところに並んでいたのだが、マネージメント側のしきりがどうにも悪く(だいぶん経ってから窓口前の列の並び方を変更させたものの、それが実は間違っていたとか)、いくら招待状をもらった側とはいえ、こりゃひどいなと思う。
 ただ、くどくどくどくど文句を言っていたおじさんに、表方の豆タンクのような男性が「(列に)並んでおけばいいんです、並んでおけば」といった調子で感情をあらわにしていたのは、嫌味じゃなくて、愉快だったけれど。
(終演後、それとなく確認したらこの男性、なんと、このコンサートのマネージメント会社、コジマ・コンサートマネージメントの代表、コジマ氏その人だった。ははは、だから「キレる」ことができたんだ*)
 それにしても、中瀬行くところ、こういうことがよくあるな。

 さてと、コンサートコンサート。

 1曲目は、ワーグナーの歌劇『さまよえるオランダ人』序曲。
 冒頭、管楽器の音に「ありゃりゃ」と感じたが、中盤あたりから、新日本フィルの音楽監督でもある、指揮者アルミンクの劇場感覚が巧く効いてきて、結果、ドラマティックな演奏に仕上がっていたと思う。

 続いては、新日フィルのゲスト・ソロ・コンサートマスターであり、室内楽活動にも活発な豊嶋泰嗣が独奏をつとめた、ブルッフのヴァイオリン協奏曲第1番。
 第2楽章と第3楽章で、はっきりとわかる「事故」は発生したけれど、基本的に豊嶋さんは丁寧で美しい音楽を奏でていた。
 アルミンクと新日フィルも、ソロによく添った伴奏だった。
(終演後、豊嶋さんがコンマスに「しまった!」というような顔をしていたもんなあ…)

 休憩を挟んで、メインはブラームスの交響曲第1番。
 速いテンポの、エネルギッシュでスポーティーなブラームスで、作品の持つ劇的な性格がよくとらえられていたのではないか。
 ここでも、管楽器陣には弱さを感じる一方、第4楽章のおなじみの旋律をはじめ、弦楽器陣の鳴りとまとまりのよさも強く印象に残った。

 そして、アンコールはヴォルフガング・リームの『憧れのワルツ』。
 これは、実にセンスのよいチョイスではないか?
 ウインナ・ワルツを皮肉りつつ、そのウインナ・ワルツの持っている死の気配すら感じさせる音楽で、個人的には大いに満足できた。

 正直、アルミンク(かっこいい指揮者。見ばのよさではぴかいちだろう)の音楽づくりが若干一本調子気味だったこともあり、心が揺さぶられるということはなかったけれど、聴いて不愉快なコンサートでなかったことも確かだ。
 また、アンコールの選曲も含めて、東京のプロ・オーケストラの水準を再認識できたことも収穫だった。


 *規模が違うとはいえ、何度も表方をつとめたことのある人間だけに、しきりの悪さももちろん含めて、プロとしてあかんやろと思ったけどね。
 いくら、相手がただの客だとしても。
(二人のやりとりを見ていた他のお客さんが、「あの人、新日フィルの人?」と不満の声をあげていたように、オーケストラにとっても、ひいてはこのコンサートをバックアップしているオリックスにとっても、マイナスイメージがつくはずだから、マネージメントを司る会社としてはだめだめだ)
 でも、個人的には、愉快だったんだなあ。
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2008年01月05日

広上淳一と京響のニューイヤーコンサートを聴く

 ☆京都市交響楽団ニューイヤーコンサート

  指揮:広上  淳一
  独奏:高山  郁子(オーボエ)
     小谷口 直子(クラリネット)
     中野 陽一朗(ファゴット)
     垣本  昌芳(ホルン)

  座席:2階 P−2列9番


 北山の京都コンサートホールまで、京都市交響楽団のニューイヤーコンサートを聴きに行って来た。

 指揮は、この4月から京響の第12代常任指揮者に就任する広上淳一で、前半では、モーツァルトの作品が2曲演奏された。

 まずは、未完の歌芝居『ツァイーデ』の序曲として利用される機会も多い交響曲第32番。
 ティンパニの鋭く硬い打ち鳴らしなど、ピリオド奏法を意識した音楽づくりを広上さんは行っていたが、個人的には柔らかで歌心にあふれた第2楽章(というか中間部)が印象に残った。

 続く、京響のトップ奏者をソロに配した管楽器のための協奏交響曲は、現在では「偽作」もしくは「疑作」と考えられている作品で、交響曲第32番ともども、広上淳一らしい一筋縄でいかないプログラムだと思う。
 まあ、偽作だろうがなんだろうが、音楽自体が美しくって聴き応えがあれば充分な訳で、実際、上記のソロの面々はもちろんのこと、オーケストラも含めて、美しく聴き応えのある音楽を生み出していたのではないか。
 ただ、ネヴィル・マリナー盤、マルティン・ハーゼルベック盤と、ロバート・レヴィンが補筆改訂したバージョン(こちらは、クラリネットがフルートに置き換えられている)の録音に慣れ親しんできたせいもあってか、若干座りが悪く聴こえたことも事実だけれど。

 休憩を挟んだ後半は、おなじみヨハン・シュトラウスの作品が並べられていた。

 その一曲目、喜歌劇『こうもり』序曲には、ウィーンはウィーンでも、例えば後のマーラーだのなんだのといった後期ロマン派との「共通性」すら感じてしまう。
 特に、パウゼが効果的。

 と、ここで、広上淳一のスピーチが挟まり、おまけに退場中のヴィオラ奏者が戻ってもいないのに、広上さんがやおら指揮棒を振り下ろすという「ハプニング」が勃発。
 まさしく、ライヴな出来事だと強く思う。
(広上さん、次の次の『ウィーンの森の物語』で自ら電子ピアノ=ツィターの代わりを弾かなければならないことで、頭がいっぱいだったのだろう)

 アンネン・ポルカ、『ウィーンの森の物語』、新ピチカート・ポルカ、『美しく青きドナウ』、アンコールの『雷鳴と電光』、そして広上淳一のグーサインがお客さんにまで飛び出したラデツキー行進曲と、些細な傷はあったものの、すべて鳴りに鳴った、なおかつ細部まで目配りの届いた演奏で、とても愉しく嬉しく面白い一時を過ごすことができた。
 大満足。

 それにしても、一見金子信雄、中村梅雀、細川高国(この人は役者にあらず、歴史上の人物なり)風の広上淳一は、やっぱり「役者」だな。
 今年の京響登場はあと2回だけだけど、必ず聴くようにしておかなくっちゃ。
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2007年08月08日

広上淳一と京都市交響楽団に圧倒された

 北山の京都コンサートホールまで、京都市交響楽団の第503回定期演奏会を聴きに行って来た。
 指揮は、来年4月から京響の第12代常任指揮者に就任することが決まった広上淳一で、ラヴェルのツィガーヌ、アメリカの作曲家ジョナサン・レジュノフのヴァイオリン協奏曲(日本初演)、ワーグナーのジークフリート牧歌、リヒャルト・シュトラウスの交響詩『死と変容』という、まさしく広上淳一の「顔見世興行」に相応しいプログラムが組まれていた。

 1曲目のラヴェルから、広上パワーが炸裂する。
 冒頭のヴァイオリン・ソロだけの部分から、表情豊かに呼吸を合わせ、思わず声まで出してしまったほど。
 で、艶やかな音色と洗練されたテンションの高さが印象的なチャールズ・ウェザビーのヴァイオリンとの掛け合いも見事で、とても愉しい、「演劇的」ですらある演奏に仕上がっていた。

 続く、レジュノフのヴァイオリン協奏曲は、コルンゴルトやバーバー、さらにはバーンスタイン、プロコフィエフ、ショスタコーヴィチらの同種の作品のパッチワーク的な雰囲気がなくはないものの、ヴァイオリンやオーケストラの機能を効果的に活かした、なおかつ繊細で真摯なメロディも含んだ、なかなか聴き応えのある作品だった。
 ウェザビーのソロは作品の性格によく添っていたし、広上と京響も全く危なげのない適確な伴奏を行っていたのではないだろうか。

 このラヴェルとレジュノフだけで、いつもの京響との音の違い(当然、よい意味で)に感嘆していたのだけれど、休憩後のジークフリート牧歌には、もうぐぐっと心を掴まれてしまったと恥ずかしげもなく記す他ない。
 一つ間違うと、エセクナッパーツブッシュ風ののっぺりだらのぺした演奏になりかねないこの曲を、広上淳一は比較的速めのテンポをとりながら、作品の持つ美しさ、優しさをしっかり表し切っていた。
(もちろん、作品の細部、『ジークフリートの動機』などに充分な配慮がなされていたことは言うまでもあるまい)
 お客さんの拍手のおざなり具合に、腹が立ったほどである。
 あんた、これほどのジークフリート牧歌、めったに聴けまへんで!

 そして、ラストの『死と変容』。
 リヒャルト・シュトラウスの一連の交響詩の中では、どちらかといえば「地味目」な作品…、という思い込みを大きく打ち壊す素晴らしい演奏だった。
 クリアでありながら心胆寒からしめる最強音、一方で、『ばらの騎士』のラストを思い起こさせるような終結部の美しさ、柔らかさ。
 まさしく、音の「ドラマ」に圧倒された。

 こったプログラミングともども、大満足のコンサート。
 これでP席ならば、たったの1500円しかかからない。
 広上さんの鼻息、うなり声は年々「拡大」の一途をたどっているが、なあにそんなことこの際構うもんか。
 みんな、広上淳一と京都市交響楽団のコンサートを聴きに行こう!
 いや、聴け!!
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2006年12月10日

京都市立芸術大学音楽学部第124回定期演奏会

 予定通り、京都コンサートホールまで京都市立芸術大学音楽学部(管弦楽団)の第124回定期演奏会を聴きに行ってきた。
 指揮は尾高忠明で、モーツァルトの交響曲第35番「ハフナー」、ミサ・ブレヴィス「雀のミサ」、ショスタコーヴィチの交響曲第5番の3曲が演奏された。
(尾高さんの実演に接したのは、何と16年ぶりであった)

 まず、モーツァルトのハフナー交響曲は、昨今流行のピリオド奏法とは無縁のオーソドックスな解釈の演奏だったが、オーケストラがよく整っていたこともあって(管楽器のソロもなかなかに達者)、聴きやすく明晰な音楽に仕上がっていた。
 また、雀のミサは、アーノンクールの『メサイア』の実演を体験してしまった今となっては、どうにも物足りない感じがしてしまったのだけれど(比べること自体酷とはいえ)、若々しい合唱とアンサンブルの清潔感あふれる響きには、好感が持てた。
 一方、休憩を挟んだメインのショスタコーヴィチは、力演熱演と評することができるのではないか。
 ここでは、ライヴ特有のほころびがところどころ聴かれたものの(特に管楽器に)、骨太でストレートな解釈で押し切った演奏そのものには、予想していた以上に聴き応えがあった。

 ぴかいちとまでは言えないが、聴きに行ってよかったなあ、と思えるコンサートだったとは思う。
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2006年11月18日

アーノンクールの『メサイア』

 ☆ヘンデル:オラトリオ『メサイア』
  ユリア・クライヤー(ソプラノ)
  ベルナルダ・フィンク(アルト)
  ヴェルナー・ギューラ(テノール)
  ルーベン・ドローレ(バス・バリトン)
  アルノルト・シェーンベルク合唱団
  ニコラウス・アーノンクール指揮コンツェントゥス・ムジクス・ウィーン
 (3階 LB−1列4番)


 予定通り、京都コンサートホールで、ニコラウス・アーノンクール指揮コンツェントゥス・ムジクス・ウィーン他による、ヘンデルのオラトリオ『メサイア』のコンサートを聴いて来た。

 聴きに行ってよかった! の一言。
 休憩を入れて約3時間が、あっと言う間に終わってしまった。
 第3部も順調に進み、最後の合唱が始まった時など、ああもっともっと聴いていたいと思ったほどだ。

 まずは、『メサイア』という作品そのものの魅力が一番なのだけれど、その魅力を十二分に引き出したアーノンクールの音楽づくりも、やはり素晴らしい。
 宗教的で人間讃歌とも言えるテキストの読み込みが深くて鋭く激しいし、ヘンデルの音楽の持つ「劇場感覚」もしっかり押さえられている。
(特に、有名なハレルヤ・コーラスをはじめとした合唱曲のテンポ設定の「刺激的」なこと!)

 で、しなやかで強靱なコンツェントゥス・ムジクス・ウィーン(トランペットのソロも巧みだった)、清澄でシャープなアルノルト・シェーンベルク合唱団、様式を踏まえつつドラマティックな歌唱の独唱陣が、そうしたアーノンクールの解釈に添った見事な演奏を繰り広げていたと思う。

 ライヴならではの傷(観客の側のそれも含む)もなくはなかったが、そんなことなど全く気にならないほどの充実したコンサートだった。
 大満足。
(チケット代が高いということもあるのかもしれないが、案外空席が残っていたのは残念至極である)
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2006年09月13日

京都市交響楽団第492回定期演奏会

 予定通り、京都コンサートホールまで京都市交響楽団の第492回定期演奏会を聴きに行ってきた。
 指揮は、広上淳一で、プログラムは、ウォルトンの戴冠式行進曲『宝珠と王の杖』、リヒャルト・シュトラウスのオーボエ協奏曲、エルガーの創作主題による変奏曲『謎(エニグマ)』の3曲だった。

 ウォルトンの『宝珠と王の杖』は、エリザベス2世の戴冠式のために作曲された、いわゆる賑やかしの音楽だが、広上さんと京響はライヴにつきものの傷はありつつも、まとまりのよいパワフルな演奏を行っていたと思う。

 続く、リヒャルト・シュトラウスのオーボエ協奏曲は、来年3月末での引退を表明している宮本文昭をソロに迎えた、言わば「宮本文昭引退興行」。
 若干不安定さは見せたものの、宮本さんはソフトで甘やかなソロを聴かせてくれたのではないか。
 少なくとも、「予想」を裏切らないソロだったと評することはできるだろう。
 一方、広上淳一はここでも手を抜かず、京響をしっかりコントロールして、同じ作曲家の舞台作品を彷佛とさせるような、「見事」な音楽を生み出していた。
(てか、そのアクションも含めて、星を喰った男ならぬ、『星を喰った指揮者』になっていたほどだ)

 そして、メインのエニグマ変奏曲は、一言で言って、「確信犯的」な演奏だった。
 と、言うのも、本来一まとまりの音楽として通して演奏されるべきところを、変奏と変奏の間にパウゼ(休み)を置きながら、一つ一つの変奏を個別のピースとしてじっくり描き込んでいくという解釈を広上さんがとっていたからだ。
 実際、そうした解釈によって、各変奏がどのような創りになっいるか、さらには何に影響されたかということが、非常にクリアに表現されているように感じられた。
 また、ニムロッドや***、フィナーレをはじめ、音楽の持つドラマ性も巧みにとらえられており、聴き応え充分な演奏だったといえる。
(ただ、広上淳一の「やりたいこと」は重々承知しつつも、パウゼなしで全曲聴きたかったというのが、僕の正直な感想だ)

 京都市交響楽団の演奏水準も高く、好き嫌いは別として、聴いて損のないコンサートではあった。

 適うことなら、来年1月の定期も広上さんに指揮してもらいたいんだけどなあ…。
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2006年07月07日

大阪フィルハーモニー交響楽団第400回定期演奏会

 予定通り、ザ・シンフォニーホールまで、大阪フィルハーモニー交響楽団の第400回定期演奏会を聴きに行ってきた。
 指揮は、現在の日本を代表する国際的指揮者大野和士で、プログラムは、モーツァルトの交響曲第33番、細川俊夫さん*の打楽器協奏曲「旅人」、ショスタコーヴィチの交響曲第15番という、一見して「初心者向きではない」と判断できるコンサートだった。

 まず、モーツァルトの交響曲第33番は、ピリオド奏法の影響を感じさせるテンポの速い演奏だったが、アクセントの付け方などに「過剰さ」はなく、非常に丁寧かつ流麗な音楽が生み出されていたと思う。
(特に、第2楽章の表情の変化が印象に残った)

 続く細川俊夫さんの打楽器協奏曲「旅人」は、いわゆる、どがどがしょわあんにゅわあんがんがん、といった「現代音楽」らしい作品だったが、独奏を務めた中村功の超絶的でエネルギッシュな名演名技もあって、個人的には非常に刺激的で愉しく面白い内容だった。
 また、「旅人」というタイトルとも重なるラストのパフォーマンスなど、シアターピース的な趣向もこらされていたのではないだろうか。
(例えば、古い大映などの「怪談」映画に親しんでいる人には、かえって違和感がない音楽のような気もしたりした)

 そして、メインのショスタコーヴィチの交響曲第15番は、「圧倒的」と呼ぶ他ない演奏になっていた。
 精度という点で、大阪フィルに求めたい部分はいろいろとあったのだけれど、演奏の密度の濃さ、集中力の高さはやはり尋常のものではなかったし、超快速のテンポで押し切った第1楽章に始まり、深い余韻に包まれる終楽章に到るまでの、大野和士のテキストの読み込みの鋭さは、驚嘆に値するものだった。

 非常に満足のいったコンサートで、本当に足を運んでよかったと思う。
(なお、席は全曲とも2階X列の10番だった)

 *細川俊夫さんとは、ケルン滞在時に一度だけあいさつをしたことがある。
 細川さんのほうは、とっくの昔に忘れてしまっているだろうが。
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2006年06月16日

大阪フィルハーモニー交響楽団第399回定期演奏会

 ザ・シンフォニーホールまで、大阪フィルの第399回定期演奏会を聴きに行ってきた。
 大阪フィルの定期に足を運ぶのは、何と15年ぶりになる。
 もちろん、ザ・シンフォニーホールでの大阪フィルの定期を聴くのは、今回が初めてだ。

 で、まずはオルガンの真下、指揮者を正面にのぞむ位置にある、2階X列11番の席に座る。

 劈頭、指揮の広上淳一のスピーチがあり、偶然プログラムの第一曲に置かれていた武満徹の『弦楽のためのレクイエム』が、岩城宏之と佐藤功太郎の二人に捧げられることになる。
(佐藤さんも亡くなったのだ。非常に驚いた)

 その弦楽のためのレクイエムは、シェーンベルクの『浄められた夜』を想起させるような、どこかねっとりとしたロマンティックな演奏で、激しい広上淳一の指揮姿とともに、ある種のショックを受ける。
(スピーチの前はまだ仕方ないとして、広上さんのスピーチの後にも、演奏の後にも、小さからぬ拍手が起こった。弔意を表しているのだから、こういう場合は普通拍手をしないものだろうに。それと、演奏中、ちょうどパウゼの時に、ピピピピピピピピと電子音が鳴ってしまった。これはもう論外!)

 続いて、シャロン・ベザリーを独奏に迎えて、グバイドゥリーナのフルート協奏曲「希望と絶望の偽りの顔」が演奏された。
(家に帰ってプログラムを開いて、こんなタイトルが付いていたことを知る)
 グバイドゥリーナはタタールスタン出身の作曲家だが、冒頭のどんどんどんどんどんどんどんどんという太鼓の轟きやフルート独奏の加減もあって、まるで日本の古典芸能やら、先日観た『羅生門』のような「時代物」の映画をイメージさせるような作品になっていて、個人的にはとても愉しめた。
(ただ、どがしゃかにゅわあん、といった「現代音楽」であることも事実で、いわゆる「普通」のクラシック音楽好きの人には辛い内容だったかもしれない)
 通常のフルートの他、アルトにバスの、あわせて3本のフルートを駆使して、アクロバティックな楽句を吹き切ったベザリーの妙技に感心するとともに、広上淳一の顔技体技全開の指揮にも感心する。

 アンコールとして、ベザリーのソロで、バッハのサラバンドが演奏された。

 休憩後、同じ2階のRE8番の席に移動する。
 プログラムのメインは、シューマンの交響曲第3番「ライン」だったが、これはもう広上淳一のワンマンショーと呼ぶべき演奏になっていた。
 オーケストラをしっかりとドライブして、広上さんはエネルギッシュに全曲を響き飛ばした。
 例えば、中間の3楽章では、もっとゆったりとして欲しいと感じる部分もなくはなかったが、広上淳一の指示でオーケストラの流れがすっと変化する点や、フィナーレの快活さ爽快さには、熱い拍手を送らざるをえまい。

 それにしても、広上淳一のパフォーマーぶりときたら。
 脱帽脱帽。
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2006年06月08日

大阪センチュリー交響楽団第112回定期演奏会

 予定通り、大阪のザ・シンフォニーホールまで、大阪センチュリー交響楽団の第112回定期演奏会を聴きに行ってきた。
 指揮は、ベテランの秋山和慶で、プログラムは、シューマンの『マンフレッド』序曲とピアノ協奏曲、シベリウスの交響曲第7番の3曲だった。

 前半は、3階のRRF5番の席で聴く。
 『マンフレッド』序曲は、骨太でまとまりのよい演奏。
 木管のソロもなかなか美しかった。

 続く、ピアノ協奏曲は、オーストリア出身のコルネリア・ヘルマンが独奏を務めた。
 よく言えば、適確丁寧なピアノ・ソロと呼ぶことができるが、予想に反して硬質で、抒情性には薄い演奏だったようにも感じる。
(その点、アンコールとして演奏された、同じシューマンのアラベスクのほうが、情感に富んでいたかもしれない。途中、あれあれと思った部分はあるにしても)
 秋山和慶と大阪センチュリー交響楽団は、ここでも骨太で力強い演奏を行っていて、ヘルマンをよく支えていたのではないだろうか。

 休憩後、2階のRD8番の席に移動する。
 大阪センチュリー交響楽団の演奏したシベリウスの交響曲第7番は、10年前に山下一史の指揮で聴いたことがあるのだが、残念ながら、細部は忘れてしまった。
 今回、秋山和慶は、音楽の起伏をしっかりつけたドラマ性の強い解釈を行っていたように思う。
 また、木管楽器のソロを中心に、作品の持つ北欧的な雰囲気もそれなりに表現されていたとも感じた。
 ただ、明らかに重心の低い演奏であったことも事実で、個人的には、もっと透明感のある演奏が好みであることも付け加えておきたい。

 最後に、アンコールとして、同じシベリウスの悲しいワルツが演奏された。
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2006年05月26日

大阪センチュリー交響楽団第111回定期演奏会

 大阪のザ・シンフォニーホールまで、大阪センチュリー交響楽団の第111回定期演奏会を聴きに行ってきた。
 リヒャルト・シュトラウスの『町人貴族』組曲とベートーヴェンの交響曲第3番「英雄」というプログラムは面白いものの、指揮が小泉和裕だったのであまり期待していなかったのだが、これが予想に反して、とても聴き応えのある演奏を行っていた。
(顔は音楽を表すじゃないけど、小泉さんには、そのかくかくっとした顔そのままの、かくかくしかじかぎくしゃくとした音楽を何度も聴かされてきたので)

 まず、3階RRF2番の席で、前半のプログラム、リヒャルト・シュトラウスの『町人貴族』組曲を聴く。
 『町人貴族』組曲は、もともとモリエールの同名の喜劇のために作曲された音楽(その後半部分が、今の『ナクソス島のアリアドネ』の「オペラ」の部分にあたる)から9曲を取り出して、組曲に編み直した作品である。
 小編成のオーケストラにピアノ独奏(達者だと思って後で確かめたら、迫昭嘉だった)という変則的なアンサンブルによって演奏されるが、下敷きとなったリュリの作品を彷佛とさせる擬バロック調の造りの音楽の他に、一連の交響詩を連想させるようなシンフォニックな部分や、『ばらの騎士』を想起させるリリカルでコミカルな部分があちこちに仕掛けられており、まさしくリヒャルト・シュトラウスのエッセンスがたっぷりと詰まった構成になっている。
 小泉和裕と大阪センチュリー交響楽団は、強奏部分では少しとっちらかった感じを与えないでもなかったが、全体的には、音楽の持つ多様な性格を丁寧に描き分けていたように思う。

 で、休憩後、2階RD9番の席に移り、メインのエロイカ・シンフォニーを聴く。
 第1楽章の提示部の繰り返しが省略されたり、第2楽章の葬送行進曲が今どき珍しくじっくり「英雄的」に表現されたり、ブライトコップ版の楽譜が使用される(楽員の方のブログによる)など、ピリオド奏法とは無縁の、オーソドックスで巨匠風な音楽づくり(と、言っても、フルトヴェングラーやベームではなく、カラヤンやバーンスタインに近いやり方)が行われていたが、全体を濃密で劇的なドラマとしてとらえ、要所要所のメリハリをしっかりとつけた統一感のある解釈で、充分に納得のいく演奏だった。
(小泉和裕のかくかくしかじかぶりは、第4楽章の変奏の一部でほんの少しだけ気になった程度である)
 大阪センチュリー交響楽団も、木管楽器を中心に、優れたソロとまとまりのよいアンサンブルを聴かせてくれた。

 僅か1000円でこれだけ愉しめれば、言うことはない。
 思い込みは禁物と反省した次第。


 それにしても、こんないいオーケストラを潰してしまってはもったいない。
 大阪府には、大阪センチュリー交響楽団をどうにかする前に、もっとやるべきことがあるはずだと強く思う。
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2006年05月12日

京都市交響楽団第488回定期演奏会

 京都コンサートホールまで足を運び、京都市交響楽団の第488回定期演奏会を聴いてきた。
 指揮は、ロシア出身のドミトリー・キタエンコで、プログラムは、モーツァルトの交響曲第36番「リンツ」とショスタコーヴィチの交響曲第7番「レニングラード」の2曲。

 予想に反し、モーツァルトは小ぶりな演奏で、第1ヴァイオリンと第2ヴァイオリンが対面に向かい合う古典的な配置が行われたり、ところどころピリオド奏法の影響さえ感じさせるテンポのとり方やフレーズの処理もされていた。
(これは、キタエンコが長くヨーロッパ=ドイツなどで活躍していることとも関係があるのかもしれない)
 ただし、演奏そのものに加えホールの音響の関係もあってか、そうした工夫が十全に発揮されたとは言い難いことも事実である。
 個人的には、第1楽章の序奏に、『ドン・ジョヴァンニ』の先駆けのようなものを感じることができた点が面白かった。

 休憩を挟んで演奏された、メインのショスタコーヴィチは、まずもって実演に接することができたというだけで嬉しい。
 特に、第1楽章のいわゆる「ちちんぷいぷい」の強奏や、第4楽章のコーダなど、生でなければ絶対に味わえない時間を過ごすことができた。
 また、全曲を通して聴くことで、この作品の持つ特異さやグロテスクさを再認識することができたとも思う。
 一方で、京都市交響楽団の精度が一層高ければと感じた箇所が少なからずあったことも指摘しておかなければなるまい。
 音楽の統一感を維持するという意味でも、さらなる改善が必要だと僕は考える。
(もちろん、これは、自分の住む街にプロのオーケストラがあって、定期的にコンサートを楽しめるというありがたさを実感した上でのことだ)
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2006年03月10日

京都市交響楽団第486回定期演奏会

 どうしようか迷ったが、結局京都市交響楽団の第486回定期演奏会を聴きに行ってきた。

 前々回1月の定期は、P席(1500円)のチケットが手に入らず、「入場」を断念せざるをえなくなったこともあり、今回は当日券発売開始の45分前に京都コンサートホールに到着する。
 が、エルガーの序曲『コケイン』、ラヴェルのピアノ協奏曲、ヴォーン・ウィリアムズの交響曲第6番という、「超渋め」のプログラムだったこともあり、P席をはじめ、チケットには相当の余裕があって、まさに「羹に懲りて膾を吹く」状態になってしまった。
(開演後も、空席が目立った。やっぱりこのプログラムでは…)

 まず、ロビー・コンサートで、ヨハン・クリスチャン・バッハのオーボエ4重奏曲を聴く。
 まあ、ピリオド奏法とは無縁だったが、耳心地がよい音楽を愉しむことはできた。

 で、今回の指揮者は、常任指揮者兼アーティスティック・アドヴァイザーの大友直人さん。
 エルガーの序曲『コケイン』は、予想通り、エネルギッシュでシンフォニックな音楽づくりを行なっていた。
 ただ、強奏の部分では、少々騒々しく聴こえなくもなかったが。
(あと、この曲にはオルガンが加わるんだった。P席はパイプオルガンの下なので、結構うるさかった…)

 ラヴェルのピアノ協奏曲は、トルコのフセイン・セルメットが独奏を務めた。
 セルメットは、すでに大友直人とのCD録音(バルトークのピアノ協奏曲第3番)もあるぐらいだから、相当ツーカーの仲なのだろうが、京響との相性は、完全にしっくりいっていたとは、僕には言い切れない。
 と、言うのも、セルメットはどうやら「速弾き」が得意な、テクニシャン系のピアニストのようだったのだけれど、両端楽章でオーケストラ(特に、管楽器のソロ)の側がついていけていないような感じがしたからだ。
 ラヴェルという作曲家の「意地悪さ」を痛感してしまう。

 で、セルメットの魅力は、アンコールで弾かれた、同じラヴェルの「悲しみの鳥たち」(『鏡』の中の)で発揮された。
 はずなのだけれど、アンコールの途中で、一つ後ろの席に、酒臭い息を吐きながら丸こいじいさんがやって来て、ちょうど山場のところで大きな咳をし、さらに演奏終了直前にがたごたと立ち上がって、終演後の「静寂」が続く中で、もう一度がぼごぼと大きな咳をしたため、丸つぶれになってしまった。
 このじいさんの気持ちも全くわからない訳ではないが、正直に言えば、×ね!、×んでしまえ!、と内心叫んでしまったことも事実である。

 休憩後、P席から3階の左側奥の席に移動する。
(がらがらだったからだが、ここにも、変なおっさんが2階の席から移動して来た。『母・肝っ玉』の時もそうだったが、僕は、●●とか▲▲▲とか××××を引き寄せる、負のパワーでもあるのだろうか?)

 メインのヴォーン・ウィリアムズの交響曲第6番は、切れ目なく全曲が演奏されていた。
 いくぶん雑然とした箇所もなくはなかったが、基本的にはバランスのとれた演奏になっていたのではないだろうか。
 ただ、作品そのものの内包する問題かもしれないが、何だか映画音楽的というか、(弱音のみで演奏される第4楽章を含めて)表層的な部分が優先されているような気がしないでもなかった。
 それでも、終演後、一瞬の「静寂」を味わうことができたことには、ほっとしたが。

 珍しい作品を聴くことができたので、行かなけりゃよかったとは全く思わないものの、心の底から満足のいくコンサートとはならなかった。
 残念だ。
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2006年02月12日

第14回ABCフレッシュ・コンサート(コンサート記録)

 招待券が当たったので、大阪のザ・シンフォニーホールまで、第14回ABCフレッシュ・コンサートを聴きに行ってきた。
 ABCフレッシュ・コンサートは、1995年の第4回を皮切りに、第8回、第9回、第11回、第12回と聴いてきたが、これまでは全て外山雄三の指揮で、指揮者が現田茂夫に代わってからは、今回が初めてである。
(オーケストラは、大阪フィルハーモニー交響楽団)

 まず、現田茂夫のバランス感覚と劇場感覚が発揮されたモーツァルトの歌劇『ドン・ジョヴァンニ』序曲が演奏され、次に、井前典子を独奏に迎えた、同じくモーツァルトのピアノ協奏曲第20番が演奏された。
 井前典子は、ところどころほころびはありつつも、テクニック的には基本的に問題のない、丁寧なピアノ・ソロを聴かせていたと思う。
 ただ、正直に言って、井前さんの演奏が、僕にとっては心の踊るようなものではなかったことも事実である。
 もちろん、「モーツァルトと心の対話」的な演奏や「一鍵入魂」的な演奏ばかりを、僕は望んでいる訳ではない。
 冷徹なアナリーゼによる精緻な演奏も好きだし、短調の作品であろうが何であろうが、音楽を愉悦のものとしてかろがろと弾き流すタイプの演奏も嫌いじゃない。
 テクニックはいまいちだけど、ほっこりほこほこするような演奏だって、「あり」だと思う。
 が、残念ながら、今日の井前さんの演奏は、そのどれにもあたらなかった。
 技術はしっかりしてるけれど、そこから先の何かが聴こえなかったのだ。
(例えば、第2楽章が、冒頭と中間部とでばらばらに聴こえてしまったのは、彼女の表現が、結局は表層的なところで留まっていたからではないか?)
 もちろん、井前さんはまだまだ若い。
 どのようなスタイルを自らが選びとるのかは別にして、僕の心を踊らせるような、そんな魅力的なピアニストになってもらいたい。
 現田茂夫指揮の大阪フィルは、オペラとの関連性を濃厚に感じさせるような伴奏だったが、一方で、ところどころピリオド奏法の影響もうかがわせるようなテンポのとり方や楽器の鳴らし方も行なうなど、予想をこえて面白かった。

 休憩を挟んで、今度はバリトンの藤山仁志が登場し、ジョルダーノの歌劇『アンドレア・シェニエ』から「国を裏切る者」と、ヴェルディの歌劇『ドン・カルロ』から「終りの日は来た」の2曲を歌ったが、ハイ・バリトンという声質にあった選曲もあって、今後を期待させる歌唱だったと思う。
 できれば、今度はオペラの公演で藤山さんの歌技に接してみたい。

 続く、リャードフの『バーバ・ヤガー』は、バーバ・ヤガーという魔法使い(?)のばあさんを描いた短かめのオーケストラ曲だが、現田茂夫は大阪フィルを力強く鳴らしつつも、過剰な表現に陥ることのない、スマートな音楽を創り出していたのではないだろうか。
(この曲は、ドミトリー・キタエンコとケルン・ギュルツェニヒ管弦楽団の定期演奏会で聴いたことがあるが、より「張り扇的」で、ユーモラスな表現を行なっていたように記憶している)

 最後のバレエ音楽『火の鳥』組曲(1919年版)は、「カスチェイ王の凶悪な踊り」や終曲の強奏部分などでは、大阪フィルらしく「とっちらかったり」もしていたが、起承転結のはっきりした、ドラマティックな音楽を聴くことができた。

 概して、現田茂夫が、ただの「髪結いの亭主」ではないということを再確認できたコンサートだったように、僕には強く感じられた。
(現田茂夫と神奈川フィルは、どのような成果を上げているのだろうか。そのことがとても気になった)
posted by figarok492na at 22:13| Comment(4) | TrackBack(0) | コンサート記録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする