2016年07月31日

京都市交響楽団第603回定期演奏会(後半のみ)

☆京都市交響楽団第603回定期演奏会(後半のみ)

 指揮:ユージン・ツィガーン
管弦楽:京都市交響楽団

 座席:3階 LB2列4番
(2016年7月31日/京都コンサートホール大ホール)


 京都コンサートホールまで足を運んだついでに、と言ってはなんだけれど、休憩以後の後半部分を格安(B席なら3500円が1000円に)で聴けるという「後半券」を利用して、京都市交響楽団第603回定期演奏会のメインとなるマーラーの交響曲第5番を聴いた。
 後半券の発売は、前半の一曲目が演奏され始めた時点ということで、定時より5分ほどおした14時36分頃に無事チケットを手に入れる。
 で、後半券待ちのときに前に並んでいた男性と、前半のシューベルトの交響曲第7番「未完成」が終わるまでホールの入口のところで、例えば男性は朝日新聞の夕刊で後半券のことをお知りになったとか、あれこれおしゃべりをして愉しく待ち時間を過ごした。
 男性はこちらより少し先輩になるか。
 福田康夫元首相をもっと柔らかく優しくしたような雰囲気のノーブルで知的な物腰語り口のお方で、クラシック音楽をはじめ、様々な文化芸術に親しまれているようだった。

 さて、今回指揮台に上がったのは、アメリカ出身のユージン・ツィガーン(父親がアメリカ人で、母親が日本人)。
 東京都交響楽団や読売日本交響楽団(そういえば、客演コンサートマスターは読響の小森谷巧だった)のほか、京都市交響楽団にもすでに2013年6月の第569回定期演奏会で客演している。
 1981年の12月生まれだから現在34歳、ありきたりな言葉だけれど、ここぞというところで両手を高々と突き上げるなど、実に若々しい指揮ぶりだ。
 そんな指揮から生み出された音楽も、実に若々しくドラマティックでパワフルなものとなっていた。
 と、こう記すと、力任せのヤンキードゥードゥルドゥーを想像される向きもあるかもしれないが、それは大間違い。
 ツィガーンは細部をきっちりと把握して、よくコントロールの効いた音楽づくりを目指していたように感じられた。
 ただ、ときとして作品やオーケストラが御し切れていないというか、指揮をし過ぎるというか、音楽の流れに若干たどたどしさ、かくかくしかじかしかつめらしさを覚えた部分があったことも事実だ。
 とはいえ、作品の妙味、面白さを存分に味わうことのできた演奏であったことも確かで、特に第4楽章のアダージェットで弦楽器が歌い切ったあと、すかさず第5楽章のホルンのソロが始まった一瞬の雰囲気の変化は、本当に聴くことができてよかった。
 トランペットのハラルド・ナエスとホルンの垣本昌芳はじめ、管楽器弦楽器打楽器と、ソロ、アンサンブルともに京都市交響楽団も高水準な演奏を行っていた。

 コンサートはできるだけ全部を聴いておきたいという人間だけれど、たまには「後半券」を利用するのもありかなと思った次第。
 ああ、面白かった!
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2016年07月24日

ロームミュージックファンデーション音楽セミナーコンサート2016

☆ロームミュージックファンデーション音楽セミナーコンサート2016年

(2016年7月24日14時開演/ロームシアター京都サウスホール)


 ロームミュージックファンデーション音楽セミナーコンサート2016を聴きに、ロームシアター京都サウスホールまで行って来た。
 実は、ロームシアター京都に足を運ぶのは、今日が初めて。
 旧第一ホールでは数年前に夏川りみのリサイタルを聴いているが、旧第二ホールのほうは、日本共産党がらみの今は亡き河島英五のライヴに接して以来だから、25年以上ぶりということになる。
 もちろん、改装によってホールは全く新しくなっているのだけれど、ドリンクコーナーに備え付けられた給水器の生ぬるい水を含め、いなたいというか野暮たいというか、良くも悪くも京都会館の雰囲気が濃厚に残っていた。
 で、はじめは2階一列目に陣取っていたが、バルコニー(舞台から見て横向きの席)を見つけてそちらに移る。
 ここは、2階から直接行くことはできなくて、いったん1階席のほうまで降りなければならないので、要注意だ。
 無粋な手すり等、視覚的に難はあるものの、予想外にクリアな音が届いていて、音楽を愉しむ分に問題はなかった。

 さて、1992年以来、プロの音楽家の育成を目的に継続されてきたロームミュージックファンデーション音楽セミナーだが、最終日には、一週間のセミナーの成果発表として例年コンサートが行われることになっている。
 25回目となる今年は、去年に続いて管楽器(フルート、オーボエ、クラリネット、ホルン、ファゴット)のセミナーが開催され、25人の受講生が参加していた。
(ちなみに、2名以外は全て女性)

 まず第1部では、各楽器から一人が選抜されてソロの演奏を披露した。
 演奏者と曲目は以下の通りだ。
 フルートの瀧本実里(東京音楽大学)とピアノの大堀晴津子による、タファネルの『魔弾の射手』の主題による変奏曲。
 オーボエの高橋早紀(東京音楽大学大学院)の独奏による、テレマンの無伴奏オーボエのための12の幻想曲より第6番とハインツ・ホリガーの無伴奏オーボエ・ソナタより第1楽章。
 クラリネットの本田有里恵(東京芸術大学大学院卒業)とピアノの小澤佳永による、フランセのクラリネット協奏曲より第3、第4楽章。
 ホルンの藤井春香(東京音楽大学卒業)とピアノの浅川真己子による、リヒャルト・シュトラウスのホルン協奏曲第1番より第1、第3楽章。
 ファゴットの柿沼麻美(東京芸術大学大学院卒業)とピアノの三輪郁による、ブルドーのプルミエ・ソロ。

 続く第2部では、受講生が5つの木管5重奏にわかれて、タファネルの木管5重奏曲より第1、第2楽章、ヒンデミットの小室内楽曲より第1、第2、第4楽章、ダンツィの木管5重奏曲作品番号56−1より第1、第2、第4楽章、クルークハートの木管5重奏曲より第1、第2楽章、ラヴェルの『クープランの墓』よりプレリュード、メヌエット、リゴードンが演奏された。

 ソロ、アンサンブルともに、まだ磨き切れていない原石といった粗さを感じる部分はあったが、一人一人が真摯に演奏、作品、音楽そのものに向き合っていることがよくわかる内容となっていて、今後の活躍が本当に愉しみである。

 最後は、セミナーの講師陣であるフルート・ピッコロの工藤重典、オーボエの古部賢一、クラリネットの山本正治、ホルンの猶井正幸、ファゴットの吉田将が木管5重奏用に編曲されたヴェルディの歌劇『ナブッコ』序曲を演奏して華やかに〆た。

 表現することに対する刺激を受けたコンサートで、聴きに行って正解だった。
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2016年07月09日

同志社女子大学学芸学部音楽学科オーケストラコンサート(2016)

☆同志社女子大学学芸学部音楽学科オーケストラコンサート(2016)

 独唱:鄭美來(ソプラノ)、藤居知佳子(アルト)
 独奏:森田侑里奈(フルート)、花田佳奈(ピアノ)
 指揮:関谷弘志
吹奏楽:同志社女子大学音楽学科ウインドオーケストラ
管弦楽:同志社女子大学音楽学科管弦楽団
 解説:椎名亮輔
(2016年7月9日14時開演/同志社女子大学京田辺キャンパス・新島記念講堂)


 夕暮れ社 弱男ユニットの公演で出会った藤居知佳子が今年も出演するというので、昨年に続いて同志社女子大学学芸学部音楽学科のオーケストラコンサートに足を運んだ。
 会場は、京田辺キャンパスの新島記念講堂。
 クラシック音楽専用のコンサートホールとまではいかないが、思った以上に響く会場である。
 昨年はウインドオーケストラを関谷弘志、オーケストラを山下一史と、二人の指揮者が振り分けたが、今年はいずれも関谷さんが指揮台に立った。

 で、第1部はウインドオーケストラから。
 マクベスの『マスク』、コープランドの『アパラチアの春』(コンサートバンド用の抜粋)、ジェイガーの『シンフォニア・ノビリッシマ』、ヤン・ヴァン・デル・ローストの『カンタベリーコラール』、ショスタコーヴィチの祝典序曲(吹奏楽用編曲)の5曲が演奏されていた。
 速めのよく鳴る曲−静かで穏やかな感じの曲…が交互に置かれるなど、よく考えられたプログラムだ。
 関谷さんは要所急所を押さえた音楽づくりで、ウインドオーケストラの面々もそれによく応えていた。
 ライヴ特有の傷に加え、静かな曲のほうでは若干粗さも目立ったが、ここぞというところでの鳴りっぷりはやはり爽快だった。
(そうそう、ジェイガーの曲はなんだか映画かドラマか、いずれにしても安っぽいエンタメ風の曲調で、ちょっとしっくりこない)

 第2部では、まさしく劇的なヴェルディの歌劇『ナブッコ』序曲ののち、選抜された学生たちによるオペラ・アリアや協奏曲の一部が披露された。
 まず、ソプラノの鄭美來とアルトの藤居知佳子によるオペラ・アリアが2曲。
 ちなみに、鄭さんと藤居さんといえば、今年(昨年度)のオペラクラスの『フィガロの結婚』で村娘を歌い合った二人である。
 鄭さんが歌ったのは、トマの歌劇『ミニョン』からフィリーヌのアリア『私はティターニア』。
 コロラトゥーラの技巧が肝のポロネーズ風のアリアだが、まずもって鄭さんの透明感があって伸びのある声がいい。
 すでに何度も繰り返しているように、僕は声の好みのストライクゾーンが極端に狭い人間なのだけれど、鄭さんの軽みのある声質は非常にしっくりくる。
 終盤の難所も強く印象に残った。
 続いて、藤居さんがドニゼッティの歌劇『ラ・ファヴォリータ』からレオノーラ(タイトルロール)のアリア「私のフェルナンド」を歌った。
 メゾソプラノ、アルト、中でも「ベルカント」歌いにとっては十八番とでも呼ぶべきアリアだが、藤居さんは深みのある低音部から澄んだ高音部という広い音域の声質と豊かな声量を駆使して密度の濃い歌唱を生み出していた。
 声のコントロールという面でも、この間の研鑚がよく示されており、その点でも非常に感心した。
 9月22日のマーラーの交響曲第2番「復活」のソロ(秋山和慶指揮/京都コンサートホール大ホール)など、今後の活躍が本当に愉しみである。
 第2部の三人目は、フルートの森田侑里奈。
 昨年のコンサートで、モーツァルトのフルートとハープの協奏曲のフルートを吹いた長谷川夕真が、笛ありき笛愉しというか、フルートを吹いているのが愉しくて愉しくて仕方ないという感じのする演奏であったとすれば、こなた森田さんは他者にどう聴かれているか(ばかりか、人にどう見られているか)をしっかり心得た吹き手という感じがした。
 その意味でも、楽器の聴かせどころが巧く設けられたライネッケにとって晩年の作品、フルート協奏曲(の第1楽章)は森田さんにぴったりだったのではないか。
 最後は、花田佳奈の独奏で、ベートーヴェンのピアノ協奏曲第4番から第1楽章。
 オーケストラが比較的速めのテンポでザッハリヒに進行していくのに対し、花田さんは一音一音を力まず丁寧に、粘らないけれどもリリカルに演奏していた。
 揉みおこしのないマッサージ、とでも喩えたらちょっと変かな。
 曲によっては、また雰囲気も変わってくるのだろうけれど、こちらも力むことなく聴き終えることができた。
(そんな演奏だったからこそ、かえって花田さんはパンツスタイル、上は燕尾服でもいいし、タートルネックのシャツでもいい、あっ、色は黒を基調、でもいいんじゃないかと思ったりもした)

 第3部はオーケストラのメインディッシュ、チャイコフスキーの交響曲第4番。
 昨年の感想にも書いたっけ。
 関谷さんはアマチュア・オーケストラとも活発に関わっており、関西の指揮者陣ではオーケストラ・ビルダーの一人と目されている。
 事実、今日のコンサートでも縦の線の揃え方や、楽器のバランス等で、彼の特質がよく表われていた。
 ただ、ショスタコーヴィチの祝典序曲でもちらと感じたことだけれど、このチャイコフスキーのシンフォニーでは関谷さんの表現意欲が強く出ていたのではないか。
 比較的ゆったりとしたテンポで進んだ第1楽章に、まずそのことを感じた。
 当然、オーケストラの技量についても考えた上での判断でもあったのだろうが、終楽章コーダでの一気呵成の追い込みを聴くと、やはりこの作品の持つ劇性を強調した解釈だったのだと思う。
 アンコールは、同じくチャイコフスキーのバレエ音楽『白鳥の湖』第3幕から「チャルダーシュ」。
 曲調が途中で変化して、ラストで華々しく盛り上がるこの「チャルダーシュ」に、僕は交響曲の解釈の答え合わせを聴くような気がした。

 14時に始まって、17時20分頃終了というから、約3時間半。
 解説の椎名さん、そしてスタッフさんを含め、皆さん長丁場本当にお疲れ様でした。
 たっぷり愉しむことができました。
 ああ、面白かった!
(アンケートにもちょっと記したのだが、3時間半はちょっと長いかなあ。ウインドオーケストラを別にすると、またいろいろ大変だろうし。何かよい解決法はないだろうか)
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2016年05月01日

ラ・フォル・ジュルネびわ湖2016 01-L-3 カンマーアカデミー・ポツダム

☆ラ・フォル・ジュルネびわ湖2016 01-L-3 カンマーアカデミー・ポツダム

  独奏:ユキ・カサイ(ヴァイオリン)
 管弦楽:カンマーアカデミー・ポツダム

 会場:滋賀県立芸術劇場びわ湖ホール大ホール
 座席:2階2RA列9番
(2016年5月1日16時開演)


 ラ・フォル・ジュルネびわ湖2016。
 カンマーアカデミー・ポツダムの二日目は、今年のテーマ「ナチュール(自然)」に沿ったバロック音楽中心のプログラムとなっていたが、昨夜に増して彼女彼らの妙味を愉しむことができた。

 まずは、有名曲中の有名曲、モーツァルトのセレナード第13番「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」から。
 で、第1楽章冒頭がチャンチャチャンチャチャチャチャチャチャン、と快活に始まったところで僕はもう嬉しくなった。
 いわゆるピリオド・スタイルを援用した、というだけではなく、その団体名通り室内楽的な、細部まで目配りの届いた実にまとまりのよいカンマーアカデミー・ポツダムのアンサンブルで聴いていると、この曲の旋律の美しさばかりでなく、作品全体の構造がはっきりとわかってくる。
 『後宮からの逃走』を聴いたヨーゼフU世の「音符が多すぎる」という感想に対する、「不必要な音符は一つもありません」というモーツァルトの返答を思い出したほど。
 例えば、第2楽章のはじまりの部分。
 チェロやコントラバスの低声部の動きの上で、ヴァイオリンが主旋律を奏でるところには、ふと『後宮からの逃走』のベルモンテのアリアを思い起こしたりまでした。
 まあ、これはこちらの思い込みとしても、目を洗われる、ならぬ耳を洗われるが如き清新で、なおかつ愉しい演奏だった。

 続いては、チェンバロが加わったヴィヴァルディのヴァイオリン協奏曲ト短調RV.439「夜」。
 公演案内のチラシには、「夜のヴェネツィアを疾走する幽霊と、それに慄く心が描かれるユニークな作品」とあるが、バロックアクロバティックとでも呼びたくなるような細かく激しい音楽の動きが肝の作品である。
 実は、僕は昔、ヴィヴァルディの音楽がとても苦手だった。
 と、言うのも、1980年代初頭までのイ・ムジチ流の緩やかなスタイル(良く言えば春風駘蕩、悪く言えばどこかの街の文化芸術状況みたいなぬるま湯的な)でヴィヴァルディのあの乱高下するようなうねうねとした旋律を演奏されると、なんとも居心地の悪いしっくりとこない感じにとらわれてしまったからだ。
 ところが、メリハリがよく効いて劇性に富んだピリオド・スタイルならば無問題。
 ヴェネツィアの幽霊だろうがなんだろうが、ユキ・カサイの独奏とカンマーアカデミー・ポツダムの一糸乱れようとしないアンサンブルにはうきうきわくわくさせられた。

 プログラム三番目は、オーボエ2とファゴット1が加わったテレマンの組曲「水の音楽 ハンブルクの潮の干満」から序曲、メヌエット「吹きすさぶ風」、ジグ「潮の干満」、カナリー「愉快な舟人たち」の4曲。
 水にまつわる情景が巧みに描写された愉悦感にあふれた音楽で、テレマンの高度な職人技が十分十二分に発揮されている。
 カンマーアカデミー・ポツダムは、要所急所をしっかり押さえつつ伸びやかな演奏を繰り広げていていとおかし。

 最後は、再び弦楽器とチェンバロのみでヴィヴァルディのヴァイオリン協奏曲変ホ長調RV.253「海の嵐」。
 演奏の面白さはもちろんのこと、夜同様、ユキ・カサイの独奏者としての力量とともにアンサンブルのリーダーとしての力量も聴き取れた(観てとれた)のも大収穫だった。

 密度が濃いのに軽快で、大満足。
 ああ、素晴らしかった!!

 カンマーアカデミー・ポツダムには、ぜひ近いうちにまた来日してもらいたい。
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2016年04月30日

ラ・フォル・ジュルネびわ湖2016 カンマーアカデミー・ポツダム

☆ラ・フォル・ジュルネびわ湖2016 30-L-4 カンマーアカデミー・ポツダム

 管弦楽:カンマーアカデミー・ポツダム

 会場:滋賀県立芸術劇場びわ湖ホール大ホール
 座席:2階2RA列9番
(2016年4月30日18時45分開演)


 明解なテーマの下、名曲を中心としたプログラムの1時間弱のコンサートを同時多発的に開催し、低価格で提供する。
 そんなラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポンは、もはやゴールデンウィークの風物詩の一つといってよいばかりでなく、金沢や新潟と東京以外の都市でも慣れ親しまれるようになった。
 びわ湖ホールを中心とするラ・フォル・ジュルネびわ湖も今年でもう7回になるというが、7回目にしてようやっと僕も足を運ぶことにした。
 と、言うのもドイツはポツダム(ポツダム会議で有名なベルリン近郊の都市)を本拠とする室内オーケストラ、カンマーアカデミー・ポツダムが登場すると知ったからだ。
 カンマーアカデミー・ポツダムといえば、イタリア出身の指揮者アントネッロ・マナコルダとのシューベルトの交響曲全集の鮮烈清新な演奏が印象深く、すでに何度かCDレビューも投稿してきたが、ラ・フォル・ジュルネびわ湖では、ヴァイオリンのユキ・カサイをリーダーとした小編成のアンサンブルで、バロック音楽中心のプログラムを演奏する。

 カンマーアカデミー・ポツダムにとって一日目となる今日は、ヘンデルの水上の音楽から第1組曲と第2組曲が取り上げられていた。
 おなじみ第2組曲のア・ラ・ホーンパイプをはじめ、有名な水上の音楽の中でも特に耳なじみのよいナンバーが並んだ、まさしくいいとこどりのプログラムである。
 第1ヴァイオリン5、第2ヴァイオリン5、ヴィオラ3、チェロ2、コントラバス1、オーボエ2、ファゴット1、ホルン2、第2組曲からトランペット2、チェンバロ1の編成で、ホルンとトランペットはピリオド楽器(ナチュラルホルンとナチュラルトランペットと呼ぶ)、対向配置の上にチェロとチェンバロ以外は立っての演奏。
 ということで、それってピリオド・スタイル?
 と思った方は大正解だ。
 弦楽器のビブラートは抑制され、強弱の変化ははっきりとし、テンポは速い…。
 といったことをくどくどくだくだと記さなくってもいいか。
 モダン楽器のオーケストラであろうと、バロック期の音楽を演奏する際はピリオド奏法をとるのがもはや当たり前(欧米では?)ということがよくわかる。
 ホルンなど演奏の難しさを感じさせる部分もあったのだけれど、カンマーアカデミー・ポツダムはインティメートで伸びやかなアンサンブルでもって、ヘンデルの水上の音楽の持つ特性魅力(例えば、この曲のトリオ・ソナタやコンチェルト・グロッソ的要素であるとか)を巧みに表していた。
 中でも、弱音部分での表情の豊かさが強く印象に残った。
 そうそう、演奏者たちの愉しげな様子も嬉しかったんだった。

 びわ湖ホールの大ホールは大きなホールだが、クリアに響いて聴きやすかった。
 その分、若干空席が多かったのは残念でならないが。
 あとわかってはいるんだけれど、やっぱり1時間弱では食い足りなさが残ってしまう。
 次回は、ぜひマナコルダとともに来日して、シューベルトの交響曲など古典派や初期ロマン派の作品も聴かせて欲しい。

 ああ、愉しかった!!
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2016年04月16日

京都市交響楽団 第600回定期演奏会

☆京都市交響楽団 第600回定期演奏会

 指揮:広上淳一
管弦楽:京都市交響楽団

 会場:京都コンサートホール大ホール
 座席:3階LB1列5番
(2016年4月15日19時開演)


 創立60周年を迎える京都市交響楽団の新年度初の定期演奏会を聴いた。
 今回はちょうど600回と、これまた記念すべき定期演奏会だったが、30年近く京都市交響楽団を聴き続けてきて、いわゆるキリ番のコンサートに足を運ぶのはこれが初めてである。

 で、プレトークでは、当夜の指揮者で第12代常任指揮者兼ミュージック・アドヴァイザーの広上淳一が、チューバ奏者でベテランの武貞茂夫を交えながら、京都市交響楽団の昔話をひとしきり。
 広上さんは、京響初登場の際(特別演奏会/1990年10月22日、京都会館第1ホール/ハイドンの交響曲第100番「軍隊」とチャイコフスキーの交響曲第6番「悲愴」)の想い出、特に京都会館の音響の悪さに辟易した話を披歴していたのだけれど、実はこのコンサートを聴いて、京都市交響楽団の音が断然違うと感心し、広上淳一という指揮者をできるだけ追っていこうと思ったものだった。
(他に、関西二期会の『リゴレット』の公演で京都市交響楽団を指揮した大野和士にも同じことを感じた)

 一曲目は、コープランドの市民のためのファンファーレ。
 金管楽器とティンパニ・打楽器による荘厳なファンファーレで、広上さんは常任指揮者就任後初となる第511回定期演奏会(2008年4月18日、京都コンサートホール大ホール)でも同じ曲を取り上げている。
 始まってしばらくひやっとする場面が続くも、最後は華々しく〆た。

 続いては、広上さんの十八番でもあるモーツァルトの交響曲第41番「ジュピター」。
 大編成の弦楽器(チェロも8、コントラバスも8。一方、管楽器はフルート1、オーボエ2、ファゴット2、ホルン2、トランペット2)に、ゆっくりと急がないテンポ、と記すとオールドファッショな行き方を想像する向きもあるだろうが、弦の鳴らし方やティンパニの強めの打ち方、それより何より、目配りのよく届いた音楽づくりと、これはピリオド・スタイルの洗礼を明らかに受けた演奏だった。
 全体のまとまりとともに横の音楽の流れを重視しつつ、さらに細部の構成もしっかりと押さえる。
 中でも、第3楽章のメヌエットを遅めのテンポで運び、第4楽章のフーガで頂点を築くという音楽の劇的な構成には、とてもわくわくさせられた。

 休憩を挟んだ後半は、リヒャルト・シュトラウスの大作『ツァラトゥストラはかく語りき』。
 ニーチェの哲学を音楽化した交響詩…。
 と、言うよりも、スタンリー・キューブリック監督の『2001年宇宙の旅』で効果的に使われた冒頭部分が有名で、昨夜もゾワゾワと何かが蠢き出しそうな雰囲気が十分にとらえられており、まさしくつかみはばっちり。
 が、その後も難所急所の続く作品だけれど、広上さんの的確なコントロールの下、京都市交響楽団は力感があって、なおかつ肌理細やかな音楽を生み出していく。
 例えば、官能美というか、旋律の美しさ、濃厚さが前面に押し出されてリヒャルト・シュトラウスの劇場感覚を改めて思い知らされる「踊りの歌」や、厳粛なラスト等々、ただ単に大きく鳴らすのではなく、何を如何に演奏するかが大切な作品であるということを実感することができた。
 チェコ出身のオルガニスト、アレシュ・バールタ、コンサートマスターの渡邊穣、ヴィオラの小峰航一、チェロの上村昇らソロ、客演陣を含むアンサンブル、ともに大健闘だった。

 と、オーケストラを聴く喜びをたっぷりと味わうことができたコンサート。
 ああ、面白かった!

 そして、さらなる京都市交響楽団の充実とステップアップを心より愉しみにしたい。
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2016年04月11日

京都市交響楽団 スプリング・コンサート

☆京都市交響楽団 スプリング・コンサート

 指揮:高関健
 独奏:松田華音(ピアノ)
管弦楽:京都市交響楽団

 会場:京都コンサートホール大ホール
 座席:3階LB1列5番
(2016年4月10日14時開演)


 今年の京都市交響楽団のスプリング・コンサートは、常任首席客演指揮者の高関健が指揮台に立ち、グリンカ、チャイコフスキー、ラフマニノフ、ストラヴィンスキーと、ロシアの作曲家の作品によるプログラムを指揮した。

 まずは、グリンカの歌劇『ルスランとリュドミラ』序曲で、華々しくコンサートがスタートする…。
 てな書き方は、あまりにも陳腐というか、常套句の乱用に過ぎるな。
 えてしてスピード競争に陥りがちな曲だけれど、高関さんは楽器の受け渡しなど、音楽の構成がよくわかる演奏に仕上げていた。
 もちろん、終盤の盛り上げも充分だった。

 続くは、チャイコフスキーのバレエ音楽『くるみ割り人形』組曲。
 クリスマスを舞台としたバレエだけに、ちょちょっと季節にずれを感じなくもないが、そこは大好きな作品ゆえに全く無問題。
 ソロ・アンサンブルとチャイコフスキーの作曲の妙味が十全に発揮されており、高関さんと京都市交響楽団の面々もそうした作品の特性をよく再現していた。

 休憩を挟んで、後半は松田華音を独奏に迎えたラフマニノフのパガニーニの狂詩曲から。
 パガニーニの24の奇想曲の終曲の主題による変奏形式の楽曲で、ピアノ・ソロは当然のこと、これまたオーケストラを聴く愉しさにも満ちた作品だ。
(てか、改めて言うまでもなく、今回のプログラム全部がそうした傾向の作品だったのだけれど)
 幼少期からロシアで学んだという松田華音は、まずもって的確適切、精度の高いテクニックが強く印象に残る。
 もちろん、有名な第18変奏などリリカルで旋律美にあふれた部分では、細やかな演奏を披歴していたが。

 プログラム最後の、ストラヴィンスキーのバレエ音楽『火の鳥』組曲(1919年版)も聴きどころに富んでいる。
 春の日中(ひなか)のコンサートということもあってか、若干緩さを感じないでもなかったが、歌うべきところは歌い鳴らすべきところは鳴らす、きっちり要所を押さえた演奏となっていて、特に終盤ひき込まれた。

 アンコールは、ドヴォルザークのスラヴ舞曲第2番。
 迫力満点、パワフルにコンサートを〆た。

 これだけ聴けて、B席1500円は本当に安い。
 ああ、愉しかった!
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2016年03月12日

京都市交響楽団 第599回定期演奏会

☆京都市交響楽団第599回定期演奏会

 指揮:高関健

 会場:京都コンサートホール大ホール
 座席:3階LB1列5番
(2016年3月12日14時半開演)


 京都市交響楽団の定期演奏会を聴くのは、2010年6月19日の第536回以来だから、約5年ぶりとなる。
 今回の定期では、奇しくもそのときと同じ高関健(常任首席客演指揮者)が、自らにとってライフワークの一つと呼ぶマーラーの交響曲第6番「悲劇的」を指揮したのだけれど、高関さんの成熟と京響の好調を感じさせる、非常に聴き応えのある演奏となっていた。

 高関さんの実演には、京都会館時代の京都市交響楽団の定期や、かつてシェフの座にあった大阪センチュリー交響楽団の定期で、度々接してきた。
 機智に富むプログラミングと、細部まで目配せの届いたオーケストラ・コントロールには、常々感心し、見通しのよい音楽を聴くことができたと大いに納得したものだ。
 ただ一方で、智に働けば−角は立たないものの、エモーションに不足するというのか、腹の底から揺り動かされるには、何かが僅かに欠けるもどかしさを感じていたことも事実である。
 例えば、先述した第536回定期で演奏された、同じマーラーの交響曲第7番「夜の歌」など、高い水準の演奏である反面、狂躁的には陥らない音楽づくりに、それが高関さんの美質と知りつつも、若干物足りなさを覚えたりもした。
 ところが、今回の「悲劇的」には、掛け値なしに圧倒された。
 と、言っても高関さんの音楽性が表面的に大きく変化したわけではない。
 それどころか、プレトークやレセプションでのトークで高関さんの言葉にもあったように、第2楽章にアンダンテ、第3楽章にスケルツォを置くなど最新の楽譜を使用し、マーラー協会とやり取りを重ねた上で、自分自身の書き込みも加える等、徹底した楽譜、ばかりか音楽の行間の読み込みは一層精緻さを増している。
 だからこそ、神は細部に宿る、ではないけれど、そうやって再現された音楽そのものが、作曲家の意図や作品の持つ正負のエネルギーを余すところなく顕現させるのである。
 マーラーが単に交響楽の優れた作曲家であるばかりではなく、秀でた劇場感覚の持ち主であることを証明する楽曲の構造構成はもちろんのこと、アンダンテ等での抒情性、旋律美、スケルツォ等での確信犯的な悪ふざけ、そしてそうした全曲を通底する劇性、悲劇性。
 マーラーの交響曲第6番「悲劇的」とはなるほどこういう音楽であったかと腑に落ちるとともに、その圧倒的な力に強く心を動かされた。

 当然、ソロ、アンサンブル両面で高関さんの意図によく沿った京都市交響楽団の充実した演奏を忘れてはなるまい。
 世評通り、京響は現在一つの音楽的なピークを迎えていると痛感した。
 それだけに、僕ら聴き手もまた、音楽の余韻をもっとたっぷり愉しめるようになって(それは、音が鳴り終わったとたん拍手をしてしまう、といった表層的なことだけではなく)、京都市交響楽団のさらなる進化を支えていければと思う。

 ああ、素晴らしかった!
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2016年02月27日

村上敏明リサイタル

☆村上敏明リサイタル

 独唱:村上敏明(テノール)
 伴奏:福田和子(ピアノ)

 会場:京都コンサートホール小ホール アンサンブルホールムラタ
 座席:1階 4列8番
(2016年2月26日18時半開演)


 京都芸術劇場春秋座等でいろいろとお世話になった橘市郎さんからお招きを受けて、橘さんが代表を務める一般社団法人 達人の館が主催する、テノール歌手村上敏明のリサイタルを聴いた。
 「魂を揺さぶる情熱の歌声!!」
 とは、公演チラシの惹句だが、それが全てを表していると言っても過言ではないだろう。
 歌声の喜び、歌声の愉しさに満ち満ちた、とても聴き応えのあるリサイタルだった。

 村上敏明は国立音楽大学声楽学科を卒業後、長くイタリアで研鑚を積んで帰国し、藤原歌劇団に所属して同団の公演に出演するほか、新国立劇場などオペラを中心に活躍している。
 2012年以降、NHKのニューイヤーオペラコンサートに連続して登場しているから、そちらでご存じの方も少なくないのではないか。
 村上さんの特性魅力は、なんと言っても強靭な声帯(しっかりとした首周り!)から生み出される声量があって、張りと伸びのある美しい歌声だろう。
 特にフォルテの高音部分では、魂とともにホール全体がびりびりと震えるかのような迫力である。
 今夜は、『帰れソレント』や『カタリ・カタリ』といったナポリ民謡に始まり、リストの難曲『ペトラルカの3つのソネット』に挑んだ一部と、日本歌曲とオペラ・アリアを並べた二部の、二部構成だったのだけれど、冒頭から喉全開という感じだったのに、歌を重ねるごとにさらにテンションが高まって、150パーセント、200パーセントのパワーとでも呼びたくなるような歌いっぷりになっていた。
 中でも、二部後半のヴェルディの歌劇『ルイザ・ミラー』から「穏やかな夜には」〜「私に祭壇と墓場が用意された」と歌劇『イル・トロヴァトーレ』から「ああ、愛しい人よ」〜「見よ、あの恐ろしい炎を」、プッチーニの歌劇『トゥーランドット』から「誰も寝てはならぬ」は、村上さんの十八番ということもあってか、手放しで興奮。
 そして、村上さんのショーマンシップが十二分に発揮された4曲のアンコール、河野進作詞、川口耕平作曲の『よかった』、プッチーニの歌劇『トスカ』から「星は光りぬ」、ヴェルディの歌劇『リゴレット』から「女心の唄」、『オー・ソレ・ミオ』(ラストの部分を最後にもう一度歌った!)には、脱帽するほかなかった。

 出会ってから15年ほど経つという関西のベテラン福田和子は、村上さんの歌唱によく沿ったピアノ伴奏を行っていた。
 ピアノ・ソロのマスカーニの歌劇『カヴァレリア・ルスティカーナ』の間奏曲(一部)、レスピーギの6つの小品から「間奏曲−セレナーデ」も、出しゃばり過ぎず退き過ぎず、滋味あふれた演奏だった。

 そうそう、ショーマンシップといえばマイクを手にしてのおしゃべりを忘れちゃいけない。
 ユーモアを交えながら、音楽の要所を簡潔に説明する村上さんのおしゃべりは、全く邪魔になっていなかった。
(福田さんもレスピーギのあとに話をされていて、予想外に軽い語り口にちょっと驚く)

 いずれにしても、足を運んで大正解のリサイタルでした。
 ああ、素晴らしかった!!
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2016年02月20日

第29回同志社女子大学学芸学部音楽学科オペラクラス モーツァルトの『フィガロの結婚』

☆第29回同志社女子大学学芸学部音楽学科オペラクラス
 モーツァルト:歌劇『フィガロの結婚』(全4幕)

 指揮:瀬山智博
 演出:井上敏典
管弦楽:同志社女子大学音楽学科管弦楽団
(2016年2月20日14開演/同志社女子大学新島記念講堂)


 夕暮れ社 弱男ユニットの藤居知佳子さんが花娘役で出演するということもあって、同志社女子大学の新島記念講堂までモーツァルトの歌劇『フィガロの結婚』の全幕公演を観聴きしに行って来た。
 あいにくの雨、それも本降りの悪天候の中、ほぼ満席の大盛況で本当に何より。
 湿度、気圧のWパンチは歌い手陣にも、オーケストラのメンバーにも辛いところだが、なべてそうしたハンディを感じさせない健闘ぶりに、まずは大きな拍手を贈りたい。

 同志社女子大学の『フィガロの結婚』といえば、学芸学部音楽学科のオペラクラスの卒業生(4年次生)をメインキャストに据えた2月、3月の恒例行事で、今年で29回目を迎える。
(なお、男性キャストは、教授講師の先生や関西二期会関西歌劇団所属のベテラン勢が演じる)
 一から自分たちで創り上げた上演、という手造り感に好感を抱いた。

 で、伯爵夫人、スザンナ、ケルビーノ、マルチェリーナの四役は声質に合わせて、幕ごと、もしくはシーンごとに4年次生が歌い分ける。
 誰がどの場面を歌うかによって、彼と我、ならぬ彼女と我の差があったように思われたし、これからオペラを生業としそうな人とそうならなさそうな人の違いも聴き受けられたが、舞台に立ってオペラを歌い演じることへの真摯さ初々しさを感じ取ることができた。
 中でも、第3幕で伯爵夫人を歌った浦山慶子(昨年7月のオーケストラ・コンサートでも接した)の声量と歌唱力が印象に残った。
 青木耕平(アルマヴィーヴァ伯爵)、井原秀人(フィガロ)、雁木悟(ドン・バルトロ)、谷浩一郎(ドン・バジリオ)、平松実留(ドン・クルツィオ)、佐藤彰宏(アントニオ。遠目だと、どじょう野田佳彦みたい)の男声陣も、そうした彼女たちをよく支えていた。

 チェンバロを兼ねた指揮の瀬山智博は、速めのテンポ設定。
 ただし、ほとんどが学部生で編成されたオーケストラのソロ、アンサンブル両面の限界を考えてか、いわゆるピリオド・スタイルを援用した強弱の変化の激しい音楽づくりは避けられていたし、男声陣も含め歌唱においても、装飾音等は加えられていなかった。
(バジリオのアリアの中で、ちょっとした「逸脱」はあったが。谷さんは爪痕を残すというか、トリッキーな役回りを美声を駆使して演じ切っていた)

 また、井上敏典の演出も、プレトークで触れられていたような社会性(革命)の芽のようなものを少しずつ仕掛けてはいたが、基本はオペラクラスの面々の歌い易さ、一定以上の水準で上演を成立させることに重きを置いたものだったと思う。
 その分、若干歌芝居としての面白さの不足、物足りなさを覚えたことも事実だが、公演の性格を考えれば充分理解はいく。
(そのことに関して、音楽大学の中で何がどこまで教えられるべきなのか? 逆に、音大生の側が学校以外の場所で何を学び取り、吸収しておくべきなのか? といったことをついつい考えてしまう。基礎の研鑚は当然学内にある。だがしかし…)
 と、記しつつ、終演後、キャストばかりかスタッフ(裏方)に先生方揃ってラストの部分を歌ったのには、じんときた。

 いずれにしても、今回の公演に参加した皆さん、特に卒業生の皆さんの今後のさらなるご研鑚、ご活躍を心より祈ります。


 そうそう、座った場所が悪くて、記録写真を撮影しているパシッパチッという音がしばらく気になって仕方なかった。
 演奏に集中しだすとそれほど気にならなくなったし、担当の人もずっとしんどそうだったので文句を言うつもりはないけれど、これは本来ゲネの際にすませておくべきことなのではないか。
 まさしく記録すべき内容だとも思うから、何がなんでもゲネですませとは言わないが。
 無料とはいえ、いや無料だからこそ留意すべきことだと僕は思う。
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2016年02月05日

神戸市室内合奏団独自の定期演奏会の回数がカウントされるようになった

 暦の上では、立春。
 ということでもないだろうが、関西のホールや劇場、楽団の2016年度の公演予定が次々と発表されている。
 ワーグナーの『ニーベルングの指環』四部作の上演など、中でも沼尻体制下のびわ湖ホールのプログラミングが非常に興味深いが、これまで日本のオーケストラの動向を付かず離れず見続け聴き続けてきた人間にとっては、神戸市室内合奏団が独自の定期演奏会(公演)の回数をカウントし始めるようになったことが非常に嬉しい。

 詳しくは、こちらの「神戸市室内合奏団定期演奏会 平成28年度シーズン・プログラム」をご覧いただきたい。

 あまりの嬉しさに、思わず主管の神戸市演奏協会にお電話をかけお話をうかがったところ、これまで合唱団の演奏会などとあわせた演奏回数しかカウント(記載)してこなかったが、2016年度のシーズン・プログラムを作成するに際して、長らく活動してきた神戸市室内合奏団の業績をさらに多くの方に知っていただくためにも独自の公演回数を記載してはということになったそうだ。
 奇しくも先日亡くなられた初代音楽監督の岩淵龍太郎さんやゲルハルト・ボッセさんとの演奏をはじめ、今年で設立35年目を迎える神戸市室内合奏団の活動を数字として表すという点で、今回の独自の演奏会回数の記載は、些細なようで実は大きな意味を持つものに違いない。

 2016年度は、現音楽監督の岡山潔さんの下、おなじみ石川星太郎さんやライナー・ホーネックさんが定期に登場する予定だ。
 神戸市室内合奏団は、1997年の野平一郎さんが指揮した定期以来接することができていなかったのだけれど、これを機に神戸まで足を伸ばしてみようかと思う。
 神戸以外にお住まいの皆さんも、よろしければぜひ。
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2015年12月31日

大阪フィルハーモニー交響楽団 第9シンフォニーの夕べ

☆大阪フィル 第9シンフォニーの夕べ

 指揮:井上道義さん
 独唱:小林沙羅(ソプラノ)、小川明子(アルト)、福井敬(テノール)、青山貴(バリトン)
管弦楽:大阪フィルハーモニー交響楽団
 合唱:大阪フィルハーモニー合唱団
(2015年12月30日19時開演/フェスティバルホール)


 ネオ落語関係の人と一緒に大阪はフェスティバルホールまで、井上道義さん指揮大阪フィルの第9シンフォニーの夕べを聴きに行ってきた。
 よくよく考えてみたら、年末にベートーヴェンの交響曲第9番「合唱付き」のコンサートを生で聴くのは6年ぶりになる。
 そして、改装されたフェスティバルホールに足を運ぶのは今回が初めて。
 いっとう安い3000円の席で、確かに演奏者陣の姿は小さく見えたが、響きは想像していた以上にクリアでシャープなもので、全く不満はなかった。
(一つ前に座った子供連れのおじさんが、やたら頭を動かしたため、せっかくの井上さんの姿がよく見えなかったのはちょと残念。そうそう、井上道義さんとフルネームに敬称を付けるのは、20年以上前に日本音楽家ユニオンのオーケストラ協議会のレセプションでご挨拶したことがあるためである。井上さんはお忘れだろうが)

 で、第1楽章から遅めのテンポ。
 最近流行りの快速スタイル(例えば、パーヴォ・ヤルヴィとNHK交響楽団のような)とは大きな違いを聴かせる。
 と、言ってもかつての巨匠風の大どかな雰囲気というのではなく、じっくりはっきり音楽の構造、音の鳴りを示すというような行き方だったと思う。
 第2楽章も同様。
 指揮の姿は情熱的だが、音楽そのものには踊り狂うような感じがない。
 旋律をたっぷりと歌わせた第3楽章から集中度が増し、福井敬をはじめとした独唱陣やよく訓練された合唱団の熱演も加わった第4楽章には大きく心を動かされた。
 いずれにしても、井上道義さんの第九との向き合い方、強い意志が表された演奏で、大阪フィルもそれによく応える努力を重ねていたのではないか。
 そして、大フィルの第9コンサートの恒例、合唱団による『蛍の光』には、感無量となった。

 やっぱり生の第九、生のオーケストラ、生の歌声、生のコンサートはいいや。
 ああ、素晴らしかった!
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2015年11月25日

来年度の京都市交響楽団の自主公演が発表された 京都国際舞台芸術祭のことも少し

☆来年度の京都市交響楽団の自主公演のコンサート情報が発表された


 来年2016年度の京都市交響楽団の自主公演のコンサート情報が発表された。
 詳しくは、楽団のホームページで確認していただければと思うが、近年の京響の好調ぶりを象徴した、均整のよくとれたラインナップではないだろうか。
(以下、会場が未記入なものは全て京都コンサートホール大ホールでのコンサート)

 まずは、シェフの広上淳一が指揮する4月の定期(15日。第600回。モーツァルトの交響曲第41番「ジュピター」、リヒャルト・シュトラウスの交響詩『ツァラトゥストラはかく語りき』他)と大阪特別公演(17日。ザ・シンフォニーホール。『ツァラトゥストラ』、サン・サーンスの交響曲第3番「オルガン付」)、9月のスーパーコンサート(11日。楽団60周年記念のツアーのしめくくりで、五嶋みどりのソロによるチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲、リムスキー=コルサコフの交響組曲『シェエラザード』他)、17年3月の定期(25、26日。第610回。マーラーの交響曲第8番「千人の交響曲」)。
 そして、今さら多くを語る必要もないチェコの遅咲きの巨匠ラドミル・エリシュカが振る10月の定期(7日。第606回。スメタナの「モルダウ」、ドヴォルザークの交響曲第9番「新世界から」他)。
 また、沼尻竜典が指揮する8月の定期(19日。第605回。三善晃のピアノ協奏曲、ショスタコーヴィチの交響曲第4番)、常任首席客演指揮者の高関健が指揮する11月の定期(26、27日。第607回。メシアンのトゥーランガリラ交響曲)、常任客演指揮者の下野竜也が指揮する17年1月の定期(21、22日。第608回。パスカル・ロジェのソロによるモーツァルトのピアノ協奏曲第25番、ブルックナーの交響曲第0番)も興味深いプログラムだし、ピリオド・スタイル万歳の人間には17年2月の鈴木秀美の定期初登場(17日。第609回。鈴木さんの弾き振りでカール・フィリップ・エマニュエル・バッハのチェロ協奏曲、ハイドンの交響曲第82番「熊」、ベートーヴェンの交響曲第5番)も嬉しい。
 定期の2回開催と1回開催の番組がちょっとだけ逆かな(4月の広上さんや、エリシュカは1回のみ)と感じたりもしないではないが、ニューイヤーコンサート(17年1月8日。角田鋼亮の指揮)やオーケストラ・ディスカバリー(川瀬賢太郎等)も含めて、聴きどころ満載だとも思う。
 ここ数年、京響のコンサートからは足が遠のいていたが、来年は京都コンサートホールに足を運ぶ機会が増えそうだ。

 そうそう、京都国際舞台芸術祭(KEX)2016SPRINGのプログラムの全容も発表されたんだった。
 こちらはいつもの如く刺激的な顔ぶれで、特にアート好きな方々には堪えられない内容だろう。
 ただ、せっかくロームシアター京都が開館になるのだから、オペラが組み込またらいいのにと思ったりもしなくはない。
 例えば、ドイツ・オーストリアやスペイン、フランスなどの歌劇場で評価され始めた若手の演出家とこれはという歌手だけを招聘して、あとは国内の音大・芸大からオーディションで選出されたメンバーなどと長期にわたって一つの公演を造り上げるとか。
 もっと手っとりばやい方法では、ロシアの地方都市ペルミで大活躍中のテオドール・クルレンツィスとムジカ・エテルナ、並びに少数の歌手を呼んで室内オペラを上演するとか。
 それにクルレンツィスとムジカ・エテルナならばバレエもいけるし。
(順当にいけば、演出は三浦基になるのかもしれない。ただ、杉原邦生のオペラ演出とか面白いんじゃないかな)
 まあ、ロームシアターでオペラとなると運営面での諸々、もっと率直にいうと小澤征爾たちとの絡みもあるだろうから、なかなか簡単に進みはしないのかもしれないが。
 でも、クルレンツィスとムジカ・エテルナならば、小澤さんと同じレコード会社(SONY)なので、まだ可能性が高いかも。

 いずれにしても、コンサート(オーケストラだけじゃなく)、オペラ、演劇、落語、映画等々、興味深いもの面白そうなもの、満遍なく通おうとするには、あまりにもお金と時間が足りない。
 来年は、ますます「厳撰」する一年になりそうだ。
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2015年07月12日

同志社女子大学学芸学部音楽学科オーケストラコンサート

☆同志社女子大学学芸学部音楽学科オーケストラコンサート

 吹奏楽指揮:関谷弘志
 吹奏楽:同志社女子大学音楽学科ウインドオーケストラ

 管弦楽指揮:山下一史
 管弦楽:同志社女子大学音楽学科管弦楽団
(2015年7月11日14時開演/同志社女子大学京田辺キャンパス・新島記念講堂)

 夕暮れ社 弱男ユニットでも活躍中の藤居知佳子さんが出演するということで、同志社女子大学の京田辺キャンパスまで同志社女子大学学芸学部音楽学科のオーケストラコンサートを聴きに行って来た。
 同志社女子大学といえば、もう15年以上も前になるか、野入志津子がゲスト出演したリュートアンサンブルのコンサートを聴いたことがあるが、あのときは小ぶりな頌啓館ホールが会場。
 新島記念講堂は千人規模の大ホールで、ほわんほわんとよく反響していた。

 で、第1部は、関谷弘志指揮による同志社女子大学音楽学科ウインドオーケストラの演奏。
 ネリベルのフェスティーヴォ、ホルストの吹奏楽のための組曲第2番、リードのアルメニアン・ダンス パートTと、ブラバン・ファンにはおなじみの作品が並ぶ。
(ちなみに、クラシック音楽のファンとブラバン・ファンには、純然たる境界があるように思う。コーラス・ファンとの間にあるような)
 オーケストラの指揮でも知られる関谷さんは、音楽の角をしっかり詰めるというか、まとまりのよいアンサンブルを築きつつ、鳴らすべきところを大いに鳴らして、半歩先に進んだようなネリベル、イギリスの伝統的な様式に則りながらソロの聴かせどころをきちんと設けたホルスト、エンタメ性に富んで愉しいリードという、各々の楽曲の特性魅力をよく表していた。
 ウインドオーケストラもそれによく応えて、響きのよい演奏を披露する。

 休憩を挟んで第2部は、山下一史指揮の管弦楽団とソリストたちの協演。
 まずは、フルートの長谷川夕真とハープの松井夕佳の独奏でモーツァルトのフルートとハープの協奏曲の第1楽章と第3楽章が演奏されたが、作品の持つインティメートな雰囲気がよく再現されていたと思う。
 特に、単に技術的に完璧に吹きこなすというのではなく、「笛を吹く」楽しさ心地よさをうかがうことのできた長谷川さんのフルートに好感を覚えた。

 続いては、ソプラノの浦山慶子が、ドニゼッティの歌劇『ドン・パスクヮーレ』からノリーナのアリア「騎士はあの眼差しを」を歌う。
 女性の恋心を歌った軽快でコケットリーなアリアで、平場というか語りが勝った箇所では少しだけたどたどしさを感じたものの、高音部分では浦山さんの澄んで伸びのある声質がいかんなく発揮されていた。

 メゾソプラノの藤居知佳子さんが歌ったのは、サン=サーンスの歌劇『サムソンとデリラ』からデリラのアリア「あなたの歌声にわが心は開く」。
 藤居さんの声量の豊かさは夕暮れ社の公演ですでに承知していたけれど、今回大ホールで耳にして、さらにそのことを痛感した。
 サムソンに愛を訴えながら、それが大きな策略となっているという一筋縄ではいかないアリアだが、藤居さんは幅が広くて深みのある声と真摯な感情表現で充分に納得のいく歌唱を繰り広げていた。
 強弱など、細部のコントロールが一層の緻密さを増せば、さらに活躍の場が増していくように思った。

 第2部最後は、林あゆみのピアノ独奏で、シューマンのピアノ協奏曲の第1楽章が演奏される。
 林さんの演奏スタイルもあって、作品の持つ歌唱性叙情性よりも、ヴィルトゥオージ性をより感じた。

 再び休憩を挟んだ第3部は、山下一史指揮の管弦楽団がシューマンの交響曲第1番「春」に挑んだ。
 外枠をしっかり固めるというか、弦管ともに厚みのある音色を築いた上でエネルギッシュにパワフルに鳴らす山下さんの音楽づくりは、相対するオーケストラが技術的に高い場合、作品によっては幾分表層的に聴こえるきらいがなくはなく、例えば京都市交響楽団第528回定期演奏会(2009年9月4日/京都コンサートホール大ホール)のシューマンの交響曲第2番など、強奏がよい意味での狂奏になりきらないもどかしさを感じたりもした。
 だが、今回の場合、アンサンブルを一から丁寧に造り上げていかなければならないという制約が、山下さんの特性をひときわプラスに働かせる結果となっていたのではないか。
 若干ごたついて聴こえる箇所もなくはなかったが、作品の構造や劇性はよくとらえられ、再現されていたと思う。
 ソロの部分を含めて、オーケストラも大健闘だった。
 第1楽章の繰り返しなどの省略も、コンサートの時間(3時間近く)を考えれば適切だろう。

 アンコールは、ブラームスのハンガリー舞曲第1番。
 上述した時間の関係上、相当まきの入った演奏だったが、土台がしっかりしている分、良い意味であおりがついてドラマティックな仕上がりとなっており、わくわくすることができた。

 と、予想していた以上に密度が濃くて、聴き応えのあるコンサートだった。
 ああ、面白かった!
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2014年08月14日

フランス・ブリュッヘンのこと

☆フランス・ブリュッヘンのこと


 昔、四条通から木屋町通を南側・五条京都駅方面に少し入ったところに、コンセール四条というクラシック音楽専門のレコード・ショップがあった。
 大学に入ってすぐのことだから、もう25年以上も前になるか、長崎にいた頃から『レコード芸術』の広告で見知っていたこの店に僕は足を運び、アルバイトを募集していませんかと突然口にした。
 お店のご主人は、「今、人が足りてるんですよ」と申し訳なさそうに応えたが、こちらがあまりに無念そうな表情をしているからだろう、「本来一人でやるものだから、アルバイト料は払えませんが、試しに物販の手伝いをしてみますか。まあ、手伝いといっても長椅子を並べたり片づけたりする程度だけど」と言葉を続けた。
 そうして手伝いに出かけたのが、完成したばかりの京都府長岡京記念文化会館で開催されたフランス・ブリュッヘン指揮18世紀コンサートの来日コンサート(1988年5月20日。このコンサートがこけら落としだったかもしれない)だった。
 物販の手伝いなのだから、当然音楽のほうは聴けないと思い込んでいたら、ご主人が1曲目のハイドンの交響曲第86番が終わったところで、「協奏曲だけど聴いてきたらいいよ」と言ってくれたのである。

 ブリュッヘンが亡くなったことを知ってすぐに思い出したのも、あのときのことだ。
 あのときは、コンラート・ヒュンテラーがソロを務めたモーツァルトのフルート協奏曲第1番を聴くことができたのだが、初めて生で接するオリジナル楽器の質朴な音色を愉しんだという記憶が残っている。
 その後だいぶん経ってから、ヒュンテラーとブリュッヘン&18世紀オーケストラはモーツァルトのフルート協奏曲集のCDをリリースしたのだけれど、あの時ほどの感慨を覚えることはなかった。
(その間、ヨーロッパ滞在中にオリジナル楽器による演奏や、ピリオド・スタイルによる演奏に慣れ親しんだということも大きいと思う)
 それにしても、ブリュッヘンの実演に接することができたのは、結局あの一曲限りになってしまった。

 1934年10月30日にアムステルダムで生まれたフランス・ブリュッヘンは、はじめリコーダー、フラウト・トラヴェルソ(フルートのオリジナル・スタイルで、まさしく木管)の名手として活躍した。
 その後、指揮者に転じ、1981年にはオリジナル楽器のオーケストラ、18世紀オーケストラを結成し、母国オランダのPHILIPSレーベルから数々のCDをリリースするなど、世界的に脚光を浴びた。
 また、モダン楽器のオーケストラの指揮にも進出し、最晩年には新日本フィルとも何度か共演を果たしていた。

 ブリュッヘンの音楽の特徴をどう評するべきか。
 ちょっと観念的な物言いになって嫌なのだが、それは、リコーダーにせよフラウト・トラヴェルソにせよ、指揮にせよ、彼自身が信じる音楽の真髄(神髄)を綿密真摯に再現するということに尽きるのではないか。
 例えば、同時期にオリジナル楽器の一方の雄として立ったニコラウス・アーノンクールのような、激しい強弱やアクセントの変化を多用してアクの強い音楽を確信犯的に再現する行き方とは、一見対極にあるように感じられるブリュッヘンだが、その実、自らの核となるものを遮二無二再現するという意味では、やはり相似たものを僕は感じずにはいられない。
 オリジナル楽器とモダン楽器の共演というコンセプト云々以前に、音楽の持つ尋常でなさとブリュッヘンの意志の強さとが絡み合ったベートーヴェンの交響曲第9番「合唱付き」、青空の中に薄墨色の雲が時折混じっていつまで経っても消えないようなシューベルトの交響曲第8番「ザ・グレート」、ハイドンの音楽の活き活きとした感じがよく表わされた交響曲第86番&第88番<いずれもPHILIPS>。
(表現のあり様の違い、オーケストラの向き合い方の違いもあって、ブリュッヘンはアーノンクールやロジャー・ノリントンらほどには、いわゆるメジャー・オーケストラとは共演していないのではないか。その分、オランダ放送室内フィルやノルウェーのスタヴァンゲル交響楽団といったオーケストラと興味深い演奏活動を繰り広げてもいたが)

 ただし、僕自身は、ブリュッヘンのあまりよい聴き手だったわけではない。
 と、いうのも一つには、ブリュッヘン指揮のCDのほぼ全てがライヴ録音によるものだったからだ。
 単に好みの問題ではあるのだけれど、初めの頃のような拍手つきの一発録り(たぶん)ならばまだしも、ライヴ録音を継ぎ接ぎするという行為になんとも曰く言い難い割り切れなさを感じる。
 おまけに、交響曲第29番&第33番<PHILIPS国内盤>での弦楽器のみゅわみゅわみゅわみゅわした音色がどうにも気持ち悪く、以来ブリュッヘンのCDは敬遠しがちだった。

 それならば実演で。
 と、いうことになりそうなのだが、上述したヨーロッパ滞在中(1993年9月〜1994年3月)にもブリュッヘンの生のコンサートに接する機会はなく、それ以降も結果としてブリュッヘンの実演を耳にする機会は逸してしまった。

 数年前、最初の新日本フィルへの客演が決まった頃から、音楽関係の何人かの方に「ブリュッヘンはもう危ない」といった趣旨の話を聞かされていた。
 昨年の来日が告別の挨拶代りのものであったということや、18世紀オーケストラの解散、それからyoutubeでアップされた彼の最近の姿を目にし、その音楽を耳にするに、彼の死は充分予想されたものだった。
 だから、先日のロリン・マゼールの死ほどに激しい驚きを与えられることはなかった。
 けれど、何か大きなものを失ってしまったという重さを強く感じたことも事実である。
 そしてそれは、彼の実演を避けて来た自分自身のとり返しのつかなさ、深い後悔とも大きくつながっている。

 昨夜、彼の死を知ってから、2013年7月14日にアムステルダム・コンセルトヘボウで行われたオランダ放送室内フィルの解散コンサートでの演奏をRadio4の音源とyoutubeにアップされた動画で繰り返し聴いた。
 マルティン・ルターによる讃美歌『神はわがやぐら』を引用したヨハン・セバスティアン・バッハのカンタータ第80番とメンデルスゾーンの交響曲第5番「宗教改革」には、音楽的な関連性云々ばかりでなく、オランダ放送室内フィル解散への「プロテスト」を感じる。
 そして、日本の最後の客演でも演奏されたアンコールのヨーゼフ・シュトラウスの『とんぼ』。
 幾重にも別れを告げているかのようで、なんとも美しく哀しい。

 深く、深く、深く、深く黙祷。
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2014年02月15日

フライブルク・バロック・オーケストラの来日コンサート(ブランデンブルク協奏曲全曲)

☆フライブルク・バロック・オーケストラ
 J.S.バッハ:「ブランデンブルク協奏曲」全曲

 演奏:フライブルク・バロック・オーケストラ
 音楽監督:ペトラ・ミューレヤンス、ゴットフリート・フォン・デア・ゴルツ
 会場:京都コンサートホール大ホール
 座席:3階 LB−1列9番
(2014年2月14日19時開演)


 雪は降ったし、寒さは厳しいし。
 どうしよっかなあ、正直バッハって言うほど好みじゃないし。
 と、一応当日券の有無は確認しておいたものの、迷いに迷ったコンサートだったが、先頃ハルモニアムンディ・フランス・レーベルからリリースされたフライブルク・バロック・オーケストラが演奏したブランデンブルク協奏曲のCD録音のさわりをネットで試聴して、初志貫徹、これは聴いておくべしと決断した。

 で、やっぱり足を運んで大正解。
 音楽の愉しみに満ちあふれた、とっても聴き応えのあるコンサートだった。

 今日は、ホルン2にオーボエ3、ファゴットと編成の大きな第1番に始まり、ヴァイオリン抜きでヴィオラ・ダ・ガンバが混じった極小編成の第6番、トランペット、オーボエ、リコーダー、ヴァイオリンがソロを務める第2番(ここで休憩)、弦楽器のみの第3番、チェンバロ、フラウト・トラヴェルソ、ヴァイオリンのソロによる有名な第5番、そしてリコーダー2本とヴァイオリンがソロの第4番という順番で全曲が演奏されたが、ソロとリーダーを分けあったヴァイオリンのミューレヤンスとフォン・デア・ゴルツのもと、ピリオド楽器の腕扱き奏者が集まったフライブルク・バロック・オーケストラは、スタイリッシュでスポーティー、なおかつインティメートな雰囲気も豊かなアンサンブルでもって、バラエティに富んだブランデンブルク協奏曲の要所急所、音楽のツボ(例えば、音楽の舞踊性であるとか)を巧みに押さえた優れた演奏を生み出していた。
 また、トランペットやトラヴェルソ、リコーダー、チェンバロといったソロの名技に加え、それを支える楽器との掛け合いも見事で、ああもっともっとこの音楽、この演奏を聴いていたいと思ってしまったほど。
 2時間があっという間に過ぎてしまった。

 しかも、これだけ愉しめたというのに、チケット料金はたったの3500円!
 一番高い席でも4500円。
 お客さんの入りがあまりよくなかったのが、本当に申し訳ないくらい。

 ああ、面白かった!
 ああ、愉しかった!
 ああ、素晴らしかった!

 そして、できれば今度はフライブルク・バロック・オーケストラが演奏する古典派や初期ロマン派の作品にも接してみたい。
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2013年12月07日

活き活きとしたモーツァルト 二重奏&ソロの光と影

☆モーツァルト 未来へ飛翔する精神
 3・二重奏&ソロの光と影

 フォルテピアノ:アンドレアス・シュタイアー
 ヴァイオリン:佐藤俊介
(2013年12月6日19時開演/いずみホール 2階RB列20番)

 *招待


 今年度、いずみホールが企画主催している「モーツァルト 未来へ飛翔する精神」シリーズのうち、その第3回目にあたる、二重奏&ソロの光と影を聴きに行って来た。
 実は、応募ハガキを送って招待券が当たったからなのだけれど、3年ぶりのコンサートに、まずは「生の音楽ってやっぱりいいな」というのが率直な感想。
 そして、これは掛け値なしに愉しく面白いコンサートだった。

 あいにくケルン滞在時には聴き逃したアンドレアス・シュタイアーといえば、1996年10月2日・京都コンサートホールでの、クリストフ・プレガルディエン(テノール)とのシューベルトの『冬の旅』をすぐに思い起こすが、あの時同様、ソロを支えつつ、自らも鋭い読み込みであるは雄弁に語りあるは柔らかに優しく歌いと、見事な演奏を繰り広げていた。
(まあ、この当時のヴァイオリン・ソナタといえば、鍵盤楽器のほうに力点が置かれていたりもするんだけど)
 一方、ヴァイオリンの佐藤俊介も、抑えるところはきちんと抑えつつ、主張するところはしっかり主張して、シュタイアーとインティメートな雰囲気に満ちていながら、よい意味での距離感も保ったデュオを生み出していた。
 前半のK.303とK.304のソナタでは、作品の持つ性質にあわせてクラシカルなアプローチを心がけ、後半の「ああ、私は恋人をなくした」の主題による6つの変奏曲(終盤の追い込み)、K.306のソナタ(軽快で陽性)では、モダン楽器での蓄積を活かしてロマンティックな表情づけも行うなど、その才気を充分に感じた。

 また、前半の2曲目に、シュタイアーのソロで、ピアノ・ソナタ第8番イ短調が演奏されたが、急緩急というテンポ設定を明確に意識した劇性に富んだ音楽となっていた。
 楽器の特性(限界)もあって、正直スリリングな箇所もあったのだけれど、だからこそ楽曲の構造、音楽の造りがよく見通せたことも事実であり、しかもそれが単なる学識の提示に終わらず、作品の持つ感情面での変化、及びシュタイアー自身の強い表現欲求、作品との向き合い方と密接につながっている点に深く感心し深く感嘆した。

 いずれにしても、長調と短調を組み合わせるなどモーツァルトの作曲内容の如実な変化にも配慮した意欲的なプログラムも素晴らしく、生命感にあふれて活き活きとした音楽を愉しむことができ、本当に満足がいった。
 ああ、面白かった!

 なお、アンコールはK.380のソナタの第2楽章。
 使用楽器は、フォルテピアノが2002年製作のアントン・ワルター・モデル(1800年頃、ウィーン)のレプリカ、ヴァイオリンが2009年パリ製作のバロック・ヴァイオリンである。
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2010年09月17日

大阪センチュリー交響楽団の日本センチュリー交響楽団への改名を知って

 さる9月12日、大阪センチュリー交響楽団のコントラバス奏者奥田一夫さんが亡くなられた。
 コンサートは別にして、僕自身、奥田さんと直接お目にかかる機会はほとんどなかったが、そのお人柄とオーケストラにかける熱意については、友人知己から幾度となく耳にしていた。
 まだ57歳での死。
 深く、深く、深く、深く、深く黙祷である。
(奥田さんがマウンテンバイクを運転中に事故で亡くなられたことを知ったとき、僕はすぐに、日本フィル事務局におられた中島賢一さんのことを思い出した。演奏者と事務方の違いはあったにせよ、お二人ともオーケストラをこよなく愛された方たちだったと思う)


 ところで、奥田さんが所属されていた大阪センチュリー交響楽団が来年4月から日本センチュリー交響楽団に名前を変えるということが、今朝の朝日新聞朝刊に報じられている。
 橋下大阪府知事の「改革」の名の下、大阪センチュリー交響楽団への補助金が打ち切られる中、なんとか楽団の生き残りをはかった結果が、今回のこの改名なのだろう。
 名称その他、様々に考えることはあるのだが、まずは大阪センチュリー交響楽団改め、日本センチュリー交響楽団の今後の活動を、一人のオーケストラファンとして応援していきたいと考える。


 ただ、「将来は76人編成への拡大を目指す」というオーケストラの目標に対しては、やはりどうしても疑問が残る。
 朝日新聞の記事にもあるように、センチュリー交響楽団の持ち味は、「55人編成と小規模だが、精密で透明度の高いアンサンブル」というところにあるのではないか。
 プログラムによって編成が拡大すること、エキストラを入れることは当然仕方ないとしても、何ゆえ常時76人の編成を目指さなければならないのだろう。
 もしそれが、前々からの発言の通り、現音楽監督小泉和裕さんの強い意志によるもので、彼がギャラの多くを返上し、この日本センチュリー交響楽団と心中する覚悟でそれを目指すというのであれば、僕はそれはそれで大いに納得するところであるが。
(オーケストラにかぎらず、自らが率先して何かを為そうとする場合は、その何かと心中するぐらいの覚悟、もしくは最後の最後になってちゃぶ台をひっくり返すぐらいの覚悟がなければ事は為せない、逆に言えば、ちょっとしたことで逃げを打つようでは事は為せない、と最近僕は強く思う。もちろん、これは僕自身の自省の言葉であるのだけれど)
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2010年06月20日

京都市交響楽団第536回定期演奏会

 ☆京都市交響楽団第536回定期演奏会

  指揮:高関健

  会場:京都コンサートホール大ホール
  座席:2階P5列23番(休憩前)、3階LB2列3番(休憩後)


 高関健という指揮者の名前を耳にしてまず思い出すことといえば、かつての大阪センチュリー交響楽団時代の知的で洗練されたプログラムと演奏の数々である。
 その高関健が、京都市交響楽団の定期演奏会でウェーベルンの管弦楽作品とマーラーの交響曲第7番「夜の歌」をとり上げるというので、迷わず聴きに行って来た。

 会場に足を踏み入れて、舞台上の楽器やら何やらの数の多さに圧倒される。
 いや、演奏される作品が作品だけに、頭ではある程度想像していたのだけれど。
 やはり、百聞(百想)は一見に如かず、か。

 一曲目は、ウェーベルンの管弦楽のための5つの小品。
 ただし、管弦楽とは称しつつも、これは非常に刈り込まれた小編成による作品。
 ウェーベルンらしい点描画的短詩的な音楽を、高関さんと京響のピックアップメンバーが巧みに再現していた。

 続く二曲目は、同じくウェーベルンの大管弦楽のための6つの小品。
 こちらはタイトルに偽りなし。
 まさしく大編成による作品で、先の5つの小品と同様のスタイルなのだけれど、「大管弦楽」を活かして音量、音響、音色の面で、様々な仕掛けが施されている。
 音楽とのつき具合慣れ具合というものは感じさせつつも、作品の構造や聴きどころをしっかり押さえた演奏になっていたのではないか。
 てか、ウェーベルンをこうして生で聴くことができるだけでも嬉しいかぎり。

 そして休憩後は、本日のメイン、マーラーの交響曲第7番「夜の歌」。
 「夜の歌」なんだから、夜に聴きたかった。
 なんて無茶なことは言わないことにする。
 なにしろ、ウェーベルンと同じく、この交響曲を生で聴くことができるだけでも嬉しいかぎりなのだから。

 そうそう、余談だけれど、細々と記し続けているオーケストラのコンサート記録のノートで確認したが、マーラーの交響曲第7番の実演に接するのは、1990年5月20日のギュンター・ヘルビッヒ指揮トロント交響楽団の大阪公演(どうにもバブルの臭いがする)以来だから、なんと20年ぶりということになる。
 それ以後も、CDでは何度も耳にした作品だが、これは生でないとちょっと白けてしまうというか。
 今では、大好きなブラームスの8つのピアノ小品作品番号76−2(カプリッチョ)にどことなく音型が似ていることもあって、第4楽章(二つ含まれた「夜の歌」のあとのほう)だけを聴くことが多くなった。

 で、マーラーの交響曲第7番に関して、ここで無い知恵を振り絞ってぐだぐだくどくどと書き記すことはしない。
 非常に大がかりで、非常に大げさ(フィナーレの狂躁ぶり!)、しかも過度にロマンティックで、先述した第4楽章のように親密な雰囲気を醸し出しつつ、一方で諧謔的な志向も事欠かない。
 まったくもって一筋縄ではいかない、実に厄介な交響曲だ。

 高関健と京都市交響楽団は、そうした作品の持つ魅力(それは音量的なものもあれば、旋律的なものでもあり、さらに構造的なものでもある)を丁寧に、なおかつ破綻なく表現しきっていたように僕は思う。
 作品が作品だけに、どうしてもとっちらかった印象を与えてしまう部分や、ライヴ特有の傷もなくはなかったが、終楽章の大騒ぎを聴きながら、「生きること、死ぬこと」についてあれこれ感じ考えていると、そんな細かいことどうでもよくなった。
 管楽器、弦楽器、打楽器(第4楽章のギターにマンドリンも含む。それと、ヴィオラのソロは菅沼準二さんだったのか。どうりで)、なべて大健闘。

 終演後の熱くて力強い拍手を耳にしながら、ああやっぱり生のコンサートはいいなと改めて痛感した次第。
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2010年05月22日

京都市交響楽団第535回定期演奏会

 ☆京都市交響楽団第535回定期演奏会

  指揮:広上 淳一
  独奏:ボリス・ベルキン(ヴァイオリン)

  会場:京都コンサートホール大ホール
  座席:2階P−4列32番(休憩前)、3階LB−2列4番(休憩後)


 私事で恐縮だが、ってここの文章そのものが私事だけれど、シューマンの交響曲第3番「ライン」を聴くと、どうしても15年以上前のケルン滞在中のことを思い出してしまう。
 と、言うのも、ケルンがライン河畔の大都市だから、ということももちろんあるが、それより何より、この曲の第5楽章のパパーパーパーパパーパーパーというファンファーレがケルンのフィルハーモニーの開演近くを知らせる音楽として使用されていたからだ。
 で、今日も「ライン」のその箇所を聴きながらケルンに住んでいた頃のことがいろいろと思い出されて、なんとも言えない気持ちになった。

 まあ、それはそれとして。

 今夜は、北山の京都コンサートホールまで、京都市交響楽団の第535回定期演奏会を聴きに行って来た。
 指揮は常任の広上淳一で、シューマンの交響曲第3番「ライン」にチャイコフスキーの幻想曲『フランチェスカ・ダ・リミニ』、ボリス・ベルキンをソロに迎えたブラームスのヴァイオリン協奏曲というプログラム。

 まずは、シューマンの交響曲第3番「ライン」だが、広上さんのプレトークによると、どうやら京都市交響楽団の自主演奏会では、今日が初めての演奏とのこと。
 それが原因ということもあるまいが、同じ広上さんの指揮で聴いた大阪フィルとの演奏(第399回定期演奏会。2006年6月15日)に比べると、あちらのそれいけどんどん調のパワフルなのりに対し、今日の京響はいくぶん重心が低く、細部まで丁寧に腑分けが行われた演奏という印象を持った。
(例えば、第1楽章では、のちのブラームスへの影響がよくわかったりした)
 ライヴ特有の傷もなくはなかったが、一気呵成のフィナーレなど、広上さんらしいドラマティックで爽快な音楽が生み出されていたとも思う。

 休憩を挟んで、二曲目はチャイコフスキーの幻想曲『フランチェスカ・ダ・リミニ』。
 ダンテの神曲中の愛憎もつれて嗚呼無情といったヨーロッパではおなじみのエピソードを音楽化した作品で、これはもうオーケストラの醍醐味を満喫することができた。
 CDなんかで聴くと、どうにもうるさくて心むなしうなることもときにあるのだが、そこは生。
 大団円のくどさもなんのその、オーケストラの全ての楽器が鳴りきる魅力は、やはり何物にも代え難いと痛感した次第。
 抒情的な部分での情感あふれるクラリネットをはじめとした管楽器のソロもなかなか見事で、硬軟・強弱両面で聴き応えのある演奏に仕上がっていた。

 そして、メインのブラームスのヴァイオリン協奏曲。
 ボリス・ベルキンといえば、今から20年以上も前に同じ京都市交響楽団の定期演奏会(第310回。1989年1月27日)でショスタコーヴィチのヴァイオリン協奏曲第1番を聴いたことがあるが、確かショスタコーヴィチのけっこう込み入った音楽を鬼気迫る勢いで演奏していたような記憶があるような、ないような。
(同じ日、ショスタコーヴィチの交響曲第15番の第1楽章で、指揮の井上ミッチーがいつもの如く踊り狂っていたことはより鮮明に覚えているのだが)
 今回のブラームスは、そのときに比べると、いくぶん落ち着いたというか、テクニックももちろんだが、それより音色と雰囲気で聴かせるという感じが強かったように思った。
 若干、音が細いように感じられもしたが、カデンツァなどの美しさはやはり印象に残る。
 広上さん指揮の京響は少し粗さを感じる部分がありはしたものの、ボリス・ベルキンのソロに伍して堂々たる演奏を行っていたのではないだろうか。

 いずれにしても、生でオーケストラを聴く愉しみを改めて強く感じたコンサートだった。
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2010年05月04日

読売日本交響楽団名曲シリーズ(大阪公演)

 ☆読売日本交響楽団名曲シリーズ(大阪公演)

  指揮:シルヴァン・カンブルラン

  会場:ザ・シンフォニーホール
  座席:2階 RC列4番


 他人には開場45分前にはどうのこうのと偉そうなことを言っておきながら、いざ蓋を開けると自分がちんたらちろりろと遅れてしまってはいけないと思い、開場30分前の16時半ごろにザ・シンフォニーホールに着いたのだが、いや皆さんよくわかってらっしゃる。
 招待状のチケット交換窓口の前に並ぶわ並ぶわ、すでに30人ほどの人が列をつくって並んでいた。
 一瞬その列の長さと当日券売切れの立て札になんともいえない気持ちになりつつも(結局それほど多くはなかったが、最後までいくつか空席が残っていた)、主催者側による並ぶ人たちへの冷たいお茶のサービスという心遣いや、チケット交換を15分繰り上げて16時45分に開始するという機転には大いに感心した。
(「やはり読売やなあ」という声が他のお客さんから漏れていた)

 で、先日来の当方の言動も含めて、担当の方に一言詫びておかなければと思い、主催者側の男性の方(事務局の人か?)に声をかけたが、どうにも忙しそうなので休憩時にでもまたと断り、その場をあとにする。


 さて、読売日本交響楽団の新しい常任指揮者シルヴァン・カンブルランのお披露目公演でもある本日のコンサートの一曲目は、バルトークの2つの映像。
 どちらかといえば、後期ロマン派、フランス印象派の影響が色濃い作品で、第1曲の「花ざかり」は、カンブルランは音楽のアトモスフェアとムードをよく掴んでいるように思ったが、オーケストラとのさぐり合い状態というか、特に管楽器など若干アンサンブルのまとまりに欠ける演奏となっていた。
 一方、第2曲の「村の踊り」では、強奏時のパワフルな表現や軽快な音の動きを愉しむことができた。

 続いては、モーツァルトの交響曲第41番「ジュピター」。
 いわゆるピリオド・スタイルの援用に、フレーズの処理やパウゼにおける仕掛けなど、読売日本交響楽団はカンブルランの意図を表面的には適切に汲んでいて、例えば第4楽章ではスポーティーでスピーディーな表現を行っていたと思うし、管楽器のソロなども含めて、時折音楽の美しさに惹き込まれそうになるときもあった。
 その反面、これは座った場所の関係もあるかもしれないが、弦楽器がやけにきつく聴こえてしまったことも事実だし、それより何より、カンブルランが本来イメージしているほどには音楽の愉悦感や活き活きとした感情をオーケストラの側が表現しきれていないもどかしさを感じてしまったことも事実だ。
 むろん、こうした点は、今後カンブルランとの共同作業を重ねていくことで、徐々にクリアされていくものと信じてもいるが。


 休憩中、開演前に声をかけた男性に再び声をかけると、読売新聞の企画事業部の担当の方はすでに帰ってしまったとのこと、さらにこちらに電話をくれた上司の方も誰かわからないとの返事がある。
 別の男性が口を挟んだときの仕草や表情や、こちらがその場を離れたあとに偶然、その男性が別の男性に耳打ちをしているのを観てしまったことから、いろいろと察することはあったが、もとはといえばこちらの言動にも問題があることゆえ、終演後、別の女性に「よろしくお伝え下さいますよう」と伝言するに留めた。
 連休明けにでも電話をし、さらに手紙を認めておこうとも思う。


 休憩後は、メインのストラヴィンスキーのバレエ音楽『春の祭典』。
 演奏開始とともに、おっさんとおぼしき人物の大きないびきの音が響いて、もしやこのおっさんは招待の客ではないだろうな、と少しいたたまれなくなったが…、これはまあ仕方ない。
(でも、テレビの放映時はどうするんだろう)
 その影響もあってか、はじめのほうでは若干アンサンブルが不安定だったが、徐々にエンジンがかかってきたようで重心の低い、力のこもった熱演を繰り広げていた。
 ただ、個人的には、ちょっと重たすぎるかなと感じた部分もあったりしたのだけど。
 重たさと言っても、ロシア的土俗的な重たさなんかではなく、もっと都会的な、言い換えれば、ヴァレーズの作品を思い出すようなとっちらかった重たさというか。
 いずれにしても、この曲の「現代性」と「難しさ」を再認識させられた。

 満場の拍手に応えて、アンコールは同じくストラヴィンスキーのサーカス・ポルカ。
 途中シューベルトの軍隊行進曲のいびつな引用も飛び出すユーモラスな小品で、肩の力が抜けた演奏ともども、よいアンコールのチョイスだったのではないか。


 なにはともあれ、カンブルランと読売日本交響楽団に一層密度が濃くて一層充実した関係が築かれることを心より祈りたい。
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2010年05月01日

招待するならゲネプロに?  もしくは、中瀬宏之の本音を申せば

 中学の3年生以来だから、ほぼ25年もの間コンサートに足を運び続けていると、だいたいコアなクラシック音楽ファン(コンサート・ゴア)と呼ばれる人種の心の動きは、手に取るようにわかるようになってくる。
(ちなみに、僕は自分自身のことをコンサート・ゴアだとは思っていない。もう一つ言えば、シアター・ゴアとも思っていない)

 例えば、招待客へのちょっとしたジェラシーだとか。
 いわゆる関係者に対してもそうだけど、新聞やらホームページやらのプレゼントコーナーで運よく招待券を手にした、あまりクラシック音楽に通じていなさそうなお客さんに対する、「なんであんたらここにおんの」と軽く突っ込みを入れたくなるような気持ちは、身銭を切ってコンサートに通い詰めている人ならば、一度は感じたことはないだろうか?
 それも、チケット料金がけっこう高くて、しかもファンなら絶対に聴き逃せないあの指揮者やあのソリストが登場するコンサートならば。
(ことこのことにかぎらず、生身の人間だもの、ジェラシーがあること自体、僕は仕方がないことだと思う。問題なのは、それを面と向かって陽性に毒づくこともできず、かといって、自分の気持ちを隠しおおせることもできず、結局正論を装ってねちねちねちねちと相手を攻撃することではないか。あと、一番怖いのが、自分にはジェラシーなんて一切ないと信じ込んでいる人間の無意識のジェラシー!)

 だから、今回の読売日本交響楽団の大阪公演の招待状で問題が起こったとき、読売日本交響楽団のチケットセンターや昨夜の読売新聞大阪本社の企画事業部の方との電話で強調したのは、いったん招待客のための席は設けられないと決まったのであれば、無理に割り込んでまで自分の席を確保したいわけではないということだった。
(いやごとめかしてここには書いたが、そこらあたりに関しての自分の判断は、一応記しておいたつもりだ)

 ただ、一方で、シルヴァン・カンブルランの読売日本交響楽団の常任指揮者就任のお披露目コンサートを聴けるという願ってもないチャンスをみすみす棒に振るのも悔しいかぎり。
 僕がどうにも残念に感じたことも、それこそコアなクラシック音楽ファン、特にオーケストラのファンの方なら、ある程度は理解してもらえるものとも思う。

 そこで、手ごねハンバーグじゃあるまいしごねごねごねて自分だけコンサートに潜り込むような卑劣漢となることなく、なおかつ当日券を手に入れたいと願う人たちの想いをできるだけ適える(なぜなら、招待客が減れば、その分当日券に回せるので)という方法はないかということで、一つ思いついたことがあった。
(というか、はじめに電話をもらった段階ですぐにひらめいたのだけれど、担当のYさんに説明してもたぶんわかってもらえなさそうだったので、改めて直接読売日本交響楽団のほうに電話をしたのである)

 で、このことは昨夜読売新聞の方にも話したことだし、もはや実現の可能性もなさそうなのでこの場で明かしてしまうと、それは、招待状や招待券を送った人たちにかぎってゲネプロを公開するということだ。
 むろん、ゲネプロだから、まるまるコンサートのままというわけにはいかないし、指揮のカンブルランや読売日本交響楽団のメンバー、さらには関係者一同の承認が必要なことは重々承知しているが、招待状や招待券を持った人を門前払いにしたり、逆に当日券が出なくなってしまうよりも、まだましなのではないかと僕は思ったのである。
(加えて、このコンサートではテレビ撮影も予定されているから、その「プロ―べ」に接する愉しみまであるわけだ)

 それと、ここでみそなのは、(こうやって中瀬宏之が提案者であるにもかかわらず)これを、招待状や招待券に関する一連の経緯を耳にしたシルヴァン・カンブルランが自分から「ゲネプロを公開したらどうか?」と提案したという体にするということだった。
 そうすれば、招待状・招待券に関する読売新聞側の不手際を謝罪しつつ、「カンブルランの決断」といった記事をホームページに掲載できるだろうから、「カンブルランってええ人やん」と新常任指揮者のイメージも上昇し、まさしく災い転じて福となすこともできる。
 もちろん、やらせっちゃやらせだけど、これぐらいなら「メディア戦略」の一端、許容範囲のうちなんじゃないかな。
(しかも、あくまでもこれって僕の妄想だしね。それに、カンブルランが「そんな嘘はつけない」といえばいったで、彼の人柄がわかるチャンスになるし)

 それにしても、昨夜読売新聞の方とも少し話しをしたが、チケットの売れ行きを読むというのは大切なことだ。

 単に読売新聞の購読者(あまりクラシック音楽を聴かない)に読売日本交響楽団というオーケストラの存在を知らしめるためだけなら、例えば外山雄三や手塚幸紀、円光寺雅彦や梅田俊明といった手堅い日本人指揮者を起用してもなんの問題もない。
 それこそ心おきなく招待状や招待券を送りまくればいい。
(あっ、これは読売新聞の方には話したことではないので)
 けれど、残念ながらここに挙げた指揮者の顔触れだと、クラシック音楽の熱心なファンが集まりにくいだろうから、今度は読売日本交響楽団のコンサートが事業として成り立たない。
 まあ、上記指揮者のコンサートであれば、一般学生問わず、開演10分前から全ての残席を1000円で売り出せばいいと、僕なんかは思ってしまうけど。
(それだったら、僕も並ぶし)
 でも、そうしたらそうしたで、前売り券を購入したお客さんがジェラシーを持つだろうからなあ。
 ほんと、物事は簡単ではない。

 いずれにしても、今回の読売日本交響楽団の大阪公演は別として、オーケストラのコンサートの招待状や招待券を出すならばゲネプロに、というアイデア、関係者の皆さんにご高察いただければ幸いである。


 *追記
 過去のあれこれを僕も全く知らないわけではないし、僕自身、実はあまりそういう「売り方」は好きじゃないんだけど、今読売日本交響楽団が指揮台に上げるべき日本人の指揮者は、もしかしたら山岡重信なのではないかとふと思う。
 ただし、万一実現しても、定期演奏会ではなく、東京芸術劇場でのコンサートや深夜の音楽会の公開録音ということにはなるだろうが。
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2010年04月30日

速報:読売日本交響楽団大阪公演の招待状は無効というわけではなかった!!

 今さっき、読売新聞大阪本社の企画事業部の方(昨夜のYさんの上司にあたる)から電話が入り、ホームページで当選した招待状は無効ではないということがわかった。

 詳しく述べると、今回の読売日本交響楽団の大阪公演に関して、当初読売新聞のほうから多数の招待状や招待券を送っていたが、終盤チケットが完売状態となり、できるだけ多くの方にコンサートを聴いていただきたいこともあり、招待状や招待券を得た人たちが5月3日当日、どれだけ来場するのか確認する意味合いが昨夜の電話は大きかったと、企画事業部の方から説明があった。
(その意味で、今回のコンサートのチケットの売れ行きに対する見込み違いがあったことは事実と謝れられてもいた)

 そして、昨夜の電話では「立ち見か入場できない場合もある」ので、別の展覧会の招待券を送るという代替案も提示をしたが、今回のコンサートを心から愉しみにしている人がいることも当然事業部のほうでも承知しており、読売日本交響楽団側の対応もあるかもしれないが、招待状や招待券を持って実際コンサートに来られた方の来場をお断りすることはできないという話もされていた。

 で、こちらは、こちら側の勘違いももちろんあるかもしれないが、昨夜のYさんの口調やニュアンスからはどうしてもそのように受け取ることができなかったことや、電話をかけ直したあとの説明もあまり丁寧でなかったことを指摘した上で、昨夜の電話の真意並びに招待状の取り扱いに関しては承知しましたと伝えておいた。

 いずれにしても、招待状の件がこういう形で明瞭になってまずはほっとした。
 そして、5月3日の読売日本交響楽団の大阪公演を心から愉しみたいと思う。


 *追記
 ただし、いくら招待状や招待券を持っていたとしても、開演直前にホールへ到着した場合は、立ち見や来場できないケースもありうると思う。
 遅くとも、開演45分前ごろには、ホールにお着きになられんことを。
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2010年04月29日

読売日本交響楽団大阪公演の招待状が無効になった!!

 4日、5日と演劇関係のイベントもあるものの、なんと言ってもこの連休中のエンタテインメントの目玉は、5月3日の読売日本交響楽団の大阪公演だ。
 バルトークの2つの映像にモーツァルトの交響曲第41番「ジュピター」、そしてストラヴィンスキーの『春の祭典』というクラシック音楽の熱心な聴き手にとってこたえられないプログラムが組まれた、新常任指揮者シルヴァン・カンブルランのお披露目公演ともなるこのコンサートのチケットを、僕は「YOL関西発」なる読売新聞系のサイトのプレゼント・コーナーに応募して見事招待状という形で手に入れたのである。
 ああ、なんと愉しみなことか!

 ところがである。
 今日の夕方、外出時、読売新聞の読売日本交響楽団担当のYさんから留守電のメッセージが入っていたので折り返し電話をかけたところ、これがあな度し難や、チケットが完売状態か何かで「来場いただいても座席がない」といった趣旨の言葉を宣うではないか。
 つきましては、ルノワール展となんたろかたろをどうのこうのとYさんは代替案を出してくれたものの、当方あくまでも読売日本交響楽団のこのコンサートのチケット欲しさにプレゼント・コーナーに応募したわけで、ルノワール展などいらぬお気遣いというほかない。
(だいいち、うじゃこじゃうじゃこじゃしたなかで絵画なんか観る気にはなれんもの)

 まあ、上述した如く、このコンサートがクラシック音楽ファンの耳目を集めるものであることは想像に難くないし、無い袖は振れぬ、無い席は座れぬと言われれば、もともとただでコンサートに招待してもらう身、萬屋錦ちゃん扮する破れ傘刀舟よろしく「てめえは人間じゃねえやたたっ斬ってやらあ!」と啖呵を切ることもできまいが。

 が、しかし、自分が主催(共催か)するコンサートのチケットの売れ行きを読むこともできず(「読み」「売り」の名前が泣きますぜ)、あたら招待状を配りまくった上でのこのていたらくは、やはり担当部署たる読売新聞大阪本社メディア戦略室・事業部、事業局・企画事業部の「戦略」ミス以外の何物でもないだろう。
(もう一ついえば、「チケット引き換え証」や「プレゼント当選のお知らせ」には、こういった事態が起こり得るということは一切記されていない)

 少なくとも、事の経緯は電話だけですませるのでなく、責任者の署名の入った書面かメールで送って欲しい(記録的な価値も高いので)、と再度電話をかけ直した。

 いずれにしても、残念無念の極みだ。
 坊主憎けりゃ袈裟まで憎い。
 ナベツネ、じゃない、企画事業部憎けりゃ読売新聞まで憎い。
 誰が読売新聞なんか購読するもんか!
(「もともと購読する気なんかなかったくせに」、と呼ぶ声あり。いや、それはわかりませんよ…)


 *追記
 当方と同様、読売日本交響楽団大阪公演の招待状が無効となった方のブログを拝読したが、やはり電話一本で事をすませようとする担当のYさんや責任者の対応は問題があるのではないか。
 上述した如く、カンブルランと読売日本交響楽団の「価値」をわかっていなかったということも含めて、非常に残念だ。

 *追記の追記
 読売新聞企画事業部から連絡がないこともあり、読売日本交響楽団のチケットセンター(東京)に電話をかけたところ、事務局の大阪公演の担当者の方に連絡をするとのことだった。
 公演前の忙しいときに、本当に申し訳ない。

 *追記の追記の追記
 万一チケットが残っていればとフォルテ音楽事務所に電話をかけたところ、すでにチケットは完売状態。
 「関係者」がどれだけ来場するかによって当日券が出るか出ないかとのことだ。
(フォルテ音楽事務所は、読売新聞企画事業部と読売日本交響楽団の指示でチケット管理を行っているだけだそう)
 いずれにしても、招待状なんか当たらなければ、チケットを買っておいたかもしれないのに!
 せこい手段を選んだ自分の責任も大きいとはいえ。
 悔しいかぎり。
 それにしても、「関係者」ってどんな「関係者」なんだろうね。
 クラシック音楽が大好きな人ならいいけど。
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2010年04月24日

京都フィルハーモニー室内合奏団第170回定期公演

☆京都フィルハーモニー室内合奏団第170回定期公演

 指揮:大山平一郎
 独唱:晴雅彦(バリトン)

 会場:京都コンサートホール小ホール(アンサンブルホールムラタ)
 座席:1階3列22番(休憩前)、2階L列15番(休憩後)


 今は昔、大きいことはいいことだ! と気球に乗って踊り叫んだ御仁がいたが、高度経済成長期ならばいざしらず、いつもかつも馬鹿の一つ覚えみたくなんの考えもなしに大きいことばかり追い求めていても仕方がない。
 まして、手元不如意の折など身の丈にあった生活を…。

 なあんてことは全く関係ない、わけじゃないけど、シェーンベルクが第一次大戦後すぐに開催した「私的演奏会」のために室内アンサンブル用に編曲されたマーラーの『さすらう若人の歌』とブルックナーの交響曲第7番を京都フィルハーモニー室内合奏団が演奏するというので、北山の京都コンサートホールまでその定期公演を聴きに行って来た。
(なお、出演を予定していた村上寿昭がアイスランドの火山噴火の影響で帰国できず、急遽大山平一郎に指揮者が変更となった)

 で、まずは、ヴァイオリン2にヴィオラ、チェロ、コントラバス、フルート、クラリネット、打楽器、ピアノ、ハルモニウム各1という編成の、シェーンベルク自身の編曲によるマーラーの『さすらう若人の歌』。
 実はこの編成による演奏は、クリスティアン・ゲルハーエルが歌ったCD<Arte Nova>を日ごろから愛聴していることもあって、ちっとも違和感を覚えない。
 フルオーケストラ版のような音色の厚みはないが、かえって音楽の持つ若々しさ、リリカルな性質が明確に示されているのではないかと思うほどだ。
 バリトン独唱の晴雅彦は、関西二期会を中心にオペラで活躍している人だけれど、ベストの状態ではなかったとはいえ、劇性に富んだ歌いぶりだったと思う。

 休憩後は、ハンス・アイスラー、エルヴィン・シュタイン、カール・ランクルの編曲によるブルックナーの交響曲第7番。
 こちらも、ヴァイオリン2をはじめ、ほぼ『さすらう若人の歌』と同様の編成(ただし、フルートと打楽器がホルン1に変わり、ピアノが2に増えている)で、「私的演奏会」自体が中断されたため実際に演奏されることはなかったとプログラムにはある。
 この室内アンサンブル版によるブルックナーの交響曲第7番も、確かリノス・アンサンブルが演奏したCD<CAPRICCIO>を以前一度だけ聴いたことがあるのだが、『さすらう若人の歌』のように聴き込んでいないこともあってだろう、正直、本来聴こえてくるべきものが聴こえてこないもどかしさ、なんともしっくりこない感じをそこここで覚えてしまった。
 もちろん、室内アンサンブルという編成だからこそ、ブルックナーの音楽進行の独特さや旋律(特に弦楽器の)の美しさ、抒情性を改めて認識することもできはしたのだけれど。
 大山平一郎と京都フィルハーモニー室内合奏団は、限られた時間で作品の持つ性格を的確に示すべく健闘していたが、ところどころアンサンブルとしてのまとまりに欠ける部分や個々の奏者に粗さを感じる部分があったことも残念ながら事実である。

 とはいえ、こうした珍しいプログラムでのコンサートを行った京都フィルハーモニー室内合奏団の積極的な姿勢に対しては、やはり高く評価すべきではないだろうか。
 今後も、室内オーケストラ、室内アンサンブルならではの面白いプログラミングを愉しみにしていきたい。

 つまるところ、大きいばかりが能じゃないってことなんじゃないのかな。
 いや、もちろん大きいものには大きいもののよさがあることは充分認めた上でのことだけどね。
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2010年04月11日

京都市交響楽団スプリング・コンサート

 ☆京都市交響楽団スプリング・コンサート

  指揮:広上 淳一
 管弦楽:京都市交響楽団

  会場:京都コンサートホール大ホール
  座席:3階LB1列6番


 休憩明け、ベートーヴェンの交響曲第6番「田園」の第1楽章が終わったときに会場からけっこう大きめな拍手が起こって、ああ今日は日ごろオーケストラのコンサートに接したことのないお客さんが相当来ているんだなと改めて思った。
 もちろん、なに拍手してんのかねありゃりゃ、などと舌打ちするわけがない。
 それどころか、こうして新しいお客さんがコンサートに足を運んでくれることで、京都市交響楽団というオーケストラの基盤が今まで以上にしっかりとしたものになっていくのだから、これまでのファンも大いに喜ぶべきことだと思ったほどだ。
(実際、今回のコンサートもチケットは完売。この調子でいけば、定期演奏会同一プログラム2回化も夢ではないかも)

 さて、昨年から始まった京都市交響楽団のスプリング・コンサート、二回目の今年は、「ヒーロー」というテーマのもと、第一部ではNHKの大河ドラマのテーマ曲が、後半第二部では上述した如くベートーヴェンの交響曲第6番「田園」がそれぞれ演奏されていた。

 まず、第一部は、現在放映中の『龍馬伝』のテーマ曲(佐藤直紀作曲)からスタートした。
 京都市立芸大の大学院生馬場菜穂子の独唱にはいささか硬さも感じられたが、広上淳一と京都市交響楽団の演奏は迫力満点で快調なすべり出し。
 加えて、広上さんの司会の豊田瑠依への突っ込みも快調なすべり出し。
 その後、『赤穂浪士』(芥川也寸志作曲)、『元禄太平記』(湯浅譲二作曲)、『花神』(林光さん作曲)、『翔ぶが如く』(一柳慧作曲)、『利家とまつ』(渡辺俊幸作曲)、『篤姫』(吉俣良作曲)、『天地人』(大島ミチル作曲)の各テーマ曲が途中おしゃべりを挟みながら演奏されたのだけれど、これは前衛音楽(の切れはし)からネオ・ロマンティシズムへの、言い換えれば、映画音楽よりの影響からポップス・歌謡曲、そしてゲーム音楽よりの影響への変化が示された、よく出来た選曲だったのではないだろうか。
(個人的には、『山河燃ゆ』と『武田信玄』のテーマ曲を聴きたかったんだけれど、これはまあ仕方ない)
 抒情味のかった『篤姫』よりも激性の強い『天地人』などのほうが一層広上さんの特性には合っているのではと思ったりもしたが、京都市交響楽団は生でしか味わえないフルオーケストラの魅力をたっぷりと発散していた。

 一方、田園シンフォニーは、基本的にオーソドックスなスタイルの演奏。
 第1楽章など、最近は非常にスピーディーなテンポの演奏が増えてきたが、今日の京響はたっぷりと旋律を歌い込んでいて、LP時代に聴きなじんだあの演奏やこの演奏を思い出してしまった。
 と、言っても、全篇こういった調子かというと、実はそうではなくて、第2楽章では早めのテンポがとられていたし、フレーズの処理など、細かい部分ではけっこう仕掛けが施されていたようにも感じはしたのだけれど。
 京都市交響楽団は、途中目立った傷もありはしたが、概ね広上さんの意図によく沿った演奏を行っていたと思う。

 アンコールは、ジョン・ウィリアムズの『スーパーマン』のテーマ曲。
 興奮のうちにコンサートを終えるという意味でも、大河ドラマのテーマ曲の源流をたどるという意味でも、これまたよく出来た選曲だったのではないだろうか。

 それにしても、スプリング・コンサートだけじゃなくって、サマー・コンサートもオータムン・コンサートも、ウィンター・コンサートもやってくれればいいのになあ!
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2010年03月30日

aimė室内管弦楽団第1回演奏会

 ☆aimė室内管弦楽団第1回演奏会

  指揮:川畑  隆
  独唱:大岡  紋(ソプラノ)
     加藤 裕子(メゾソプラノ)
     川崎慎一郎(テノール)
     高曲 伸和(バリトン)
     田主 容子(ソプラノ)
     中原 三幸(ソプラノ)


 指揮者の本多優之さんと練習を見学させてもらったaimė室内管弦楽団の第1回目のコンサートを、京都コンサートホールの小ホール(それにしても、ここのホールは本当に音響が悪い)で聴いて来た。
 aimė室内管弦楽団は、大阪音楽大学2年生の川畑隆君を中心に、関西各地の音大生や学生によって結成された、出来たてほやほやの室内管弦楽団で、オーケストラ初心者がその少なからぬ部分を占めている。

 で、練習を初めて聴いたときは、全く何もないところから「オーケストラをやりたい」という熱意によって生まれた団体だけに、ついつい本番までの道のりの厳しさを想像してしまったのだけれど、ワーグナーの楽劇『ニュルンベルクのマイスタジンガー』第1幕への前奏曲、ビゼーの歌劇『カルメン』ハイライト(組曲版ではなく、音大生のソロによる歌つき)、ブラームスの交響曲第1番という耳馴染みはよいが一癖二癖、どころか三癖四癖もある曲目を、なんとか最後まで演奏し切っていた。
(ブラームスの交響曲第1番の冒頭部分をやり直すというアクシデントもありはしたが)
 また、ワーグナー、ブラームスとも、最近の主流となりつつある楽曲の解釈を基調に早めのテンポが心掛けられ、交響曲の楽章の終結部の処理など、いろいろと仕掛けが試みられていたりもした。
 しかしながら、個々の奏者としてもアンサンブルとしても様々な問題(技術的等)が存在することから、そうした川畑君の意図が充分に効果を発揮していたとは、残念ながら言い切ることはできない。
 個々の奏者やアンサンブルの精度を上げるという意味からも、川畑君の指揮者としてのバランス感覚バランス感覚を鍛えるという意味からも、できることならば、古典派の作品を集中して取り上げる必要があるのではないかと、僕は思った。
 加えて、弦楽四重奏や木管五重奏など、オーケストラメンバーによる室内楽アンサンブルの活動が、もっと積極的に行われてもいいとも思う。

 一方、『カルメン』の独唱陣では、見栄えのよさという点では、エスカミーリョを歌った高曲伸和君をまずもって挙げるべきだろうが、個人的にはミカエラを歌った大岡紋さん、ドン・ホセを歌った川崎慎一郎君の歌唱に好感を覚えた。
(カルメンを歌った加藤裕子さんは、強く張るときの声の美しさが印象に残る)

 いずれにしても、プロ・アマ・学生問わず、オーケストラは練習とコンサート(本番)を重ねることでしか変化し成長していかない。
 今回のコンサートで得た、オーケストラで演奏することの愉しさや感激を胸に強く刻んだ上で、個々の奏者やオーケストラ全体の課題をしっかり確認しながら、二回目、そして三回目のコンサートにのぞんでいって欲しいと、心から願う。
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2010年03月27日

京都市交響楽団第533回定期演奏会

 ☆京都市交響楽団第533回定期演奏会

  指揮:広上 淳一
  独奏:ラデク・バボラク
     垣本 昌芳
     澤嶋 秀昌
     寺尾 敬子

  会場:京都コンサートホール大ホール
  座席:2階P1列8番(休憩前)、R3列16番(休憩後)


 北山の京都コンサートホールまで、常任指揮者広上淳一が指揮する京都市交響楽団の第533回定期演奏会を聴きに行って来たが、今回もチケット完売の盛況ぶりでまずは何より。
(ただし、残念なことに会場にはちらほら空席も。これがヨーロッパだったら立ち見席なんて都合勝手のよいシステムがあるんだけど、我が国には消防法なるやかましい法律があるもので…)

 で、一曲目はプッチーニの交響的奇想曲。
 公演プログラムには記されていないが、途中のちに『ラ・ボエーム』の序奏部分となる音楽がまんま登場してきたりするなど、実にオペラティックで劇場感覚に満ちあふれた作品。
 座った場所が金管群の斜め後ろということもあってか、少々騒々しさを感じないでもなかったが、コンサートの幕開けの賑やかしには相応しい音楽であったことも確かだろう。
 広上さんは、ツボをよく押さえた音楽づくりを行っていたと思う。

 続く二曲目はプログラムに変更があって、ラデク・バボラクのソロによるリヒャルト・シュトラウスのホルン協奏曲第1番。
 いやあ、これは本当に素晴らしかった。
 あまりにも陳腐なたとえで申し訳ないけれど、音が軽々と空の彼方まで駆け上って雲の間を伸びやかに吹き抜けていくとでも評したくなるような美しいホルンの音色と、バボラクの優れたテクニックに完全に魅了された。
 できれば、もっともっと音楽が続いていて欲しかったくらい。
 京響の伴奏はバボラクのソロに比べると、若干重たさを感じないでもなかったが、ホルンと木管のソロとの掛け合いなど、よく健闘していたのではないだろうか。

 休憩を挟んだ三曲目は、バボラクに京都市交響楽団のホルン・セクションのメンバーを加えたホルン四人の独奏によるシューマンの4本のホルンのためのコンツェルト・シュトゥック。
 バボラク効果もあってか、京響のホルン奏者陣も過不足ないソリストぶりを発揮、広上さん指揮のオーケストラも歯切れがよく明解な伴奏で、全篇愉しい演奏に仕上がっていた。

 と、ここまでで充分に音楽を堪能した感じだったのだけれど、まだまだあるぞよ四曲目は、ベートーヴェンの交響曲第4番。
 これがまた、昔北欧の巨人に挟まれた可憐な乙女とかなんとかまことしやかに語られていたなんてエピソードがちっともほんとにゃ思えないぐらいの迫力満点、パワフルな演奏でボリューム満載。
 ただし、ピリオド・スタイルも意識しつつ、作品の要所急所をしっかり締めていたあたりは、広上さんならではか。
 ライヴ特有の傷もなくはなかったが、京都市交響楽団も広上さんの指揮によく沿った演奏を行っていたように感じられた。

 このあと三月定期恒例の卒団セレモニーがあって、さらにアンコールにバルトークのルーマニア民俗舞曲の第4曲と第7曲が演奏されて、もうおなかいっぱい。
 本当にごちそうさまでした!

 それにしても、広上さんのうなりっぷり、ますます激しくなってはいませんか?
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2010年03月16日

京都フィルハーモニー室内合奏団第169回定期公演

 ☆京都フィルハーモニー室内合奏団第169回定期公演『エスプリ!』

  指揮:野平一郎
  独奏:野平一郎(ピアノ)

  会場:京都コンサートホール小ホール(アンサンブルホールムラタ)
  座席:1階10列25番


 もう20年近く前になるだろうか、まだ僕が立命館大学の院生だったころ、ひょんなことから同じ立命館大学の須田稔先生とそのゼミ生たちに同道して、当時まだアートスペース無門館だったアトリエ劇研(MONOが稽古をしていた)を皮切りに、民間主体で運営している芸術関係のスペースや団体を見学させてもらったことがあった。
 考えてみれば、今小暮宣雄さんらが活発にやっているようなことのはしりだと思うのだが、そうして見学されてもらった中に、京都フィルハーモニー室内合奏団の事務局も含まれていた。
 その際うかがったことの大半は、記憶の中から失われてしまったのだけれど、当時日本音楽家ユニオンのオーケストラ協議会とちょっとしたつながりのあった僕だからこそ、一層その運営の厳しさ難しさ、逆に様々な可能性の存在を強く感じたということは覚えている。
 ただ、その後、何度かコンサートに足を運んだことはあったものの、個人的な紆余曲折(お芝居にのめり込んだりとか)もあって、京フィルの生の演奏に触れたのは、それから10年以上も経ってから、ニコラウス・アーノンクールの京都賞受賞のワークショップまで待たなければならなかった。

 そして、ようやく今回、久しぶりに京フィルのコンサートを聴くことになったのだが、それにはやはり、シェーンベルク編曲のドビュッシーの牧神の午後への前奏曲、ヴァレーズのオクタンドル、プーランクのオーバード(野平一郎さんの弾き振り)、ミヨーの世界の創造、イベールのパリという、関西どころか、日本全体でもめったに聴くことのできないプログラムに強く心を惹かれたからである。
(かつて野平さんと共演の経験もある指揮者の本多優之さんをお誘いしたのだが、野平さんらしいよく考え抜かれたプログラムだと感嘆するとともに、それを実際に受け入れた楽団の姿勢も高く評価されていた)

 で、プーランクのオーバードなど、アンサンブルの側にもう少し洒脱さが加わればと感じたりもしたのだが、野平さんの簡にして要を得たトークも含め、作品を識るという意味では、充分納得のいくコンサートだった。
 特に、ラストのパリでの盛り上がりでは、かつて体験した京フィルのフレンドリーな雰囲気を思い出すこともできた。

 個人的に好みの作品が並んでいることもあったりして、可能なかぎり京フィルの定期公演には足を運んでいきたいと思う。
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2010年02月27日

クリスティアン・ベズイデンホウト フォルテピアノ・リサイタル

 ☆クリスティアン・ベズイデンホウト フォルテピアノ・リサイタル

  会場:兵庫県立芸術文化センター小ホール
  座席:1階 PB列12番


 吉川潮との対談で、春風亭小朝が落語の本来のキャパシティは多くて200席程度といった言葉を口にしていたと記憶しているが、その伝でいくならば、フォルテピアノの本来のキャパシティは多くて500席程度ということになるのではないか。
 むろん、1000席だろうが2000席だろうが3000席だろうが、リサイタルを開きたいというのであれば、どうぞご随意にと演奏家だの興行主だのにお任せするしか手はないけれど、大ホールでフォルテピアノを聴いてみたいとは正直僕には思えない。
 で、フォルテピアノ奏者のクリスティアン・ベズイデンホウトが兵庫県立芸術文化センターでリサイタルを開くという。
 このホールの座席数は417。
 もちろん、迷わず聴きに行って来た。

 今回は、オール・モーツァルト・プログラムということで、途中休憩を挟みつつ、ピアノ・ソナタ第18番、幻想曲ハ短調、ピアノ・ソナタ第16番、「我ら愚かな民の思うは」による変奏曲の計4曲が演奏されたが、これは期待どおり、いや期待以上のリサイタルだった。
 プログラムされた作品もあってか、強弱の変化を激しく強調するバロック的なスタイルではなく、ベズイデンホウトは旋律の持つ美しさや歌謡性を丹念に描き込み、歌い込んでいたように思う。
 中でも、ソナタの第2楽章や幻想曲(静と動の見事なコントラスト)に、ベズイデンホウトの特質がよく表われていたのではないか。
 一方、ソナタの両端楽章や変奏曲では、ベズイデンホウトの技量の高さや作品の構成の把握の確かさが示されていて、こちらも充分に納得がいった。
 なお、今回のリサイタルに使用された楽器は、アントン・ワルター製のレプリカと公演プログラムにはあったが、演奏曲目とベズイデンホウトによく合った明解でクリアな音色のように感じられた。
(もう一ついえば、今回のリサイタルでは、モーツァルトが楽器の特長特性をよくつかんだ上で作品を創り出していることが再確認できた)
 これで、演奏途中の不用意な咳やアラームがなければ、さらに言うことなしだったのにと、その点だけが少し残念である。

 アンコールは、同じくモーツァルトのピアノ・ソナタ第10番から第2楽章と第3楽章。
 こうなると、ベズイデンホウトの演奏したモーツァルトのピアノ・ソナタ全曲がぜひとも聴きたくなってくる。
 次回のリサイタルが本当に待ち遠しい。
posted by figarok492na at 18:49| Comment(0) | TrackBack(0) | コンサート記録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年02月08日

聖響×OEK ベートーヴェン・チクルス第5回

 ☆聖響×OEK ベートーヴェン・チクルス第5回

  指揮:金聖響
 管弦楽:オーケストラ・アンサンブル金沢

  会場:ザ・シンフォニーホール
  座席:2階LC−15(休憩前)、同LD−16(休憩後)


 金聖響といえば、テレビやCDでは度々目にし耳にしたことはあったが、実際の演奏となると、10年ほど前に、一度京都市交響楽団とのコンサート(定期演奏会などの自主公演ではなく、いわゆる依頼演奏会)を聴いたことがあるだけだ。
 確か日本人作曲家の新作とドヴォルザークの交響曲第9番「新世界より」という非常にシンプルなプログラムで、「新世界より」のシャープでスポーティな音楽づくりが今も記憶に残っている。
 で、そんな金聖響がオーケストラ・アンサンブル金沢と、大好きなベートーヴェンの『アテネの廃墟』序曲、交響曲第2番、交響曲第3番「英雄」を演奏する、『聖響×OEK ベートーヴェン・チクルス第5回』を聴きに、大阪のザ・シンフォニーホールまで行って来た。
(ホールに入ってまず感じたことは、空席の多さで、AB両席とも相当チケットが残っているようだった)

 全曲通しての感想は、金聖響という指揮者の賢さとテキストの読み込み具合がよくわかる演奏だったということだろうか。
 いわゆるピリオド・スタイルの援用やクライマックスの築き方など、金聖響の特質がよく示されていたと思う。
 ただ、第2番にせよ第3番にせよ、劇性や激情よりも、古典的な均整のほうに主眼が置かれているように僕には感じられたことも事実だ。
 また、オーケストラの機能性を活かすという意味で、両端楽章や第2楽章よりも、第3楽章のスケルツォ(第2番はメヌエットとなっているが、実質的にはスケルツォ)が個人的に面白く聴こえた。
(いつもの当てずっぽうになるけど、諸々を総合すると、表面的なスタイルは全く異なっているものの、金聖響のベートーヴェンは、アーノンクールやノリントンのそれよりも、実は朝比奈隆のそれにつながるもののほうが大きいんじゃないのかなあ。それと、金さんは様々な意味で安定しているんじゃないのかなあ)

 オーケストラ・アンサンブル金沢は、ところどころ肌理の粗さを感じる部分もなくはなかったが、基本的には、個々の奏者としてもアンサンブルとしても一定以上の水準を維持していたように思う。

 なお、アンコールは、同じくベートーヴェンの12のコントルダンスWoO14から第5曲。
 メインがエロイカ・シンフォニーということで、本来ならば、アンコールは終楽章の変奏曲の主題の原曲である同じコントルダンスの第7曲やバレエ音楽『プロメテウスの創造物』の終曲ということになるのだろうが、この第5曲もエロイカ・シンフォニーの変奏曲とのつながりがそれとなく感じ取れる音楽で、これは巧いチョイスではなかったろうか。
 演奏そのものも、実にチャーミングだった。
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2010年01月22日

京都市交響楽団第531回定期演奏会

 ☆京都市交響楽団第531回定期演奏会

  指揮:外山雄三
  独奏:ガブリエル・リプキン(チェロ)

  会場:京都コンサートホール大ホール
  座席:3階LE1列5番(休憩前)、同LB1列6番(休憩後)


 昨夜の大阪フィルのゲン直し、右膝の調子はいまひとつだったのだけれど、自分のセンサーがぴぴっと働いたこともあって、京都コンサートホールまで京都市交響楽団の定期演奏会を聴きに行って来た。

 指揮は、かつて京都市交響楽団の第4代常任指揮者を務めた外山雄三。
 岩城宏之、若杉弘と亡くなり、小澤征爾も食道癌のため療養中の今、一人気を吐くといっても過言でないのが、この外山雄三ではないか。

 で、一曲目は、フォーレの組曲『ペレアスとメリザンド』。
 どちらかといえば新古典派的なすっきりめの演奏を予想していたら、案に相違して厚い響きのする懐かしい感じの音楽づくりとなっていた。
 有名なシシリエンヌ(フルート・ソロの清水信貴が見事)をはじめ、旋律の美しさが強調されていたと思うが、少々昔の映画音楽のように聴こえたことも事実である。
(こういう季節だから仕方ないとはいえ、弱音のときの「ごほごほ」はなんとかならないものか…)

 続く、サン=サーンスのチェロ協奏曲第1番では、なんと言ってもガブリエル・リプキンのソロが光る。
 艶やかで流麗、なおかつドラマティックな演奏で、その容姿も含めて「エロス」(やらしい意味とちゃいまっせ)を強く感じた。
(そうしたリプキンの魅力は、アンコールの2曲、デュポーの練習曲第7番とバッハの無伴奏チェロ組曲第3番からブーレで、ひときわ表わされていたのではないか。ともに、ぞくっとする演奏だった)
 一方、外山雄三と京響は手堅い伴奏を行っていたと思う。

 休憩後のショスタコーヴィチの交響曲第10番は、外山雄三の十八番の一つ。
(公演プログラムによると、外山さんと京都市交響楽団によるこの曲は、1968年6月の第106回定期演奏会以来だから、なんと42年ぶりの演奏ということになる。また、1991年5月の第334回定期演奏会で井上道義の指揮で演奏されたこの曲を僕は聴いている)
 昨年7月の大野和士の指揮による交響曲第5番が抉り掘り下げる演奏だったとすれば、さしずめ今回のショスタコーヴィチは、ぎゅっと締めて強く固める演奏とでも評することができるのではないだろうか。
 一月のエンタメ情報でも記したように、若干「鋼鉄はいかに鍛えられたか」式の古めかしさが感じられないではなかったものの、その分、作品の持つ時代性や世界観がよく示されていたようにも思った。
 特に、フォルテッシモでの(よい意味での)教条主義的な音の炸裂ぶりや、弦楽器のぎりぎりきりきりする感じの迫真性は、外山さんならではのものだろう。
 ホルンをはじめ、管、打、弦なべて京響の面々も、外山雄三の解釈によく沿った演奏を行っていて、間然とするところがなかった。

 いずれにしても、ゲン直しにはぴったりのコンサートだった。
 重畳重畳。
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2010年01月21日

大阪フィル第434回定期(後半のみ)

 ☆大阪フィルハーモニー交響楽団第434回定期演奏会(後半のみ)

  指揮:尾高忠明

  会場:ザ・シンフォニーホール
  座席:2階LE列17番


 JR大阪駅付近の再開発なんてしょせん他人事、どんどん勝手にやってくれ!
 と、思っていたのが運のつき、そんな資本主義のスクラップアンドビルディングの魔の手に当方まんまとひっかかってしまった。
 いつもの如く、阪急を梅田で降りて、なんたろカメラの前を通ってザ・シンフォニーホールまで歩いて行こうとしたら、あれあれどうやら勝手が違う。
 で、こちらは行き止まり、あちらは反対側、とどんどん迷っているうちに、なんたること阪急の中津駅近辺まで出てしまい、近所の人に尋ねてみたものの、これがまた天下のザ・シンフォニーホールを知らぬというていたらく、結局阪急で梅田まで戻り、環状線で福島まで行って、ようやくザ・シンフォニーホールに着いた。
 最初梅田には18時14分に着いたのだが、ホールに入ったときはすでに19時5分。
 と、言うことで、一曲目のエルガーの『海の絵』はモニターで観聴きするはめにあいなりそうろう。
 まあ、メインのエルガー交響曲第2番が聴きたくて選んだコンサートだから、それが聴けただけでもよしとしなくちゃいけないんだけれど。
 でも、なんだかねえ。
 新年早々、げんが悪いや。
(あとで教えてもらったが、中津からザ・シンフォニーホールまでは歩いて行けるし、少しややこしくはあったが、梅田までも歩いて帰れた。ああ…)

 さて、エルガーの交響曲第2番は、今回指揮台に上がった尾高忠明にとって自家薬籠中の一曲。
 緩急のつけ具合、メリハリのきかせ具合、さらに旋律の歌わせ具合には、一日、どころか何日もの長があり、特に第2楽章の弦が歌う箇所や、終楽章のコーダの夕陽がゆっくりと沈んでいくような様など、流石と思わされた。
 ただ一方で、強奏の部分では、若干肌理の粗さを感じたし、全体的に一層精度が高ければと感じたことも事実だ。
 それには、ゆったりとした気分で音楽を愉しむことのできなかった自分自身の問題もあるのだけれど。

 いずれにしても、すこぶる残念なコンサートだった。
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2010年01月16日

コンチェルト・コペンハーゲンの来日公演に大満足

 ☆コンチェルト・コペンハーゲン(古楽の愉しみ)

  会場:兵庫県立芸術文化センター小ホール
  座席:1階PA列12番


 クラシック音楽を聴き始めたころのあたりが悪かったのか、正直言ってバッハという作曲家に対し若干苦手意識がある。
 バッハとヘンデル、どちらをとるかと問われれば、僕は断然ヘンデルをとるし、たとえロバの耳と後ろ指を指されようと、バッハはバッハでも息子のヨハン・クリスティアンの口当たり柔らかな音楽のほうがよっぽど好みに合っている。
 と、言っても、ヨハン・セバスティアン・バッハの音楽は一切受けつけない、誰が聴くかい接するかい、というようなアンチ・バッハの原理主義者ではないわけで、音楽の捧げものを聴いたらほほうっと感嘆するし、ゴルトベルク変奏曲を聴いたらあまりの愉しさに眠気もひょひょいとすっとんでしまうし、マタイとヨハネの両受難曲を聴いたら心がどどんと打ち震えてしまうこともまた事実。
 まあ、そこが相当、ではなく、若干苦手意識と記した理由でもあるのだけれど。

 で、デンマーク出身のチェンバリスト、ラース・ウルリク・モルテンセン率いるピリオド楽器アンサンブル、コンチェルト・コペンハーゲンが、コーヒー・カンタータと農民カンタータというバッハの二つの世俗カンタータをプログラムの中心に組んだコンサートを催すというので兵庫県立芸術センターまで足を運んだのも、そんな中瀬宏之の融通無碍さの表われ、じゃない常日頃のイメージとは異なる愉しいバッハが聴けそうだったから。
 ちなみに二つのカンタータ、コーヒー・カンタータ=カンタータ第211番『そっと黙って、おしゃべりしないで』のほうは、娘が当節流行りのコーヒーにのめりこんで親父怒るもどうにもならず(今風に言い換えれば、娘が携帯のメールに夢中で親父注意するもどうにもならず)といった内容で、農民カンタータ=カンタータ第212番『うちの新しい領主様』のほうは、新しい領主へのお祝いにこと寄せて農民生活のあれやこれやを歌い上げていくといった社会派喜劇タッチの内容。
 つまるところ、どちらも教会カンタータとは丸きり反対の、世俗も世俗、とびっきり俗っぽい内容だ。

 実際、これは足を運んで大正解のコンサートだった。
 まずは、youtubeで一応確認ずみだったソプラノ独唱のマリア・ケオハナが素晴らしかった。
 若き日のバーバラ・ボニーを彷彿とさせるような、清澄で伸びがあって、なおかつコケティッシュな声と歌いぶりで、一声目から魅了された。
 舞台後方の席だったので、しかとしっかり観ることはできなかったが、ちょっとしたしぐさや表情など、演技も実にチャーミング。
 また、バス・バリトン独唱のホーヴァード・ステンスヴォルドも、暖かみのある幅の広い声質と親父と農民を巧みに演じ分ける達者な歌唱を聴かせてくれた。
 一方、モルテンセン(雄弁で闊達なチェンバロ!)とコンチェルト・コペンハーゲンも粒が揃ってしなやかな演奏で、例えば農民カンタータではこの作品の持つ多様な側面(民謡、民俗音楽の引用だとか)を描き出すなど、大いに満足がいった。
 二つのカンタータに挟まれた、テレマンのフルートとヴァイオリンのための協奏曲(これまたコンチェルト・コペンハーゲンの演奏の流麗なこと)でも妙技を披露したフラウト・トラヴェルソのカティ・ビルヒャー、農民カンタータに登場しばっちり決めたナチュラルホルンのウルスラ・パルダン=モンベルグも、ともによい意味で過不足のない出来ではなかったか。
 なお、弦のピチカートにのってフラウト・トラヴェルソとヴァイオリンが歌う、上述テレマン作品のアダージョがアンコールだった。

 いずれにしても大当たりのコンサート。
 やっぱりバッハはいいなあ!
(「って、何が苦手意識があるだよ」、と呼ぶ声あり。だから、若干って書いたでしょ、若干って)


 ところで、コーヒー・カンタータで、テノール独唱のトマス・メディチがレチタティーヴォを普通の台詞として語っていたのは演出だろうか?
 それとも、声の調子が悪かったからか?
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2009年12月18日

京都ミューズ12月の音楽会  齊藤一郎指揮京都市交響楽団の「第九」

 ☆京都ミューズ12月の音楽会 「第九」コンサート

  指揮:齊藤一郎
 管弦楽:京都市交響楽団
  独唱:畑田弘美、福原寿美枝、竹田昌弘、三原剛
  合唱:京都「第九」をうたう会

  座席:1階16列6番


 応募していた招待券が送られてきたこともあり、北山の京都コンサートホールまで、京都ミューズ12月の音楽会、齊藤一郎指揮京都市交響楽団他の演奏による「第九」コンサートを聴きに行って来た。

 クラシック音楽にのめり込むきっかけが、中学校1年生の冬にNHKの教育テレビで観聴きしたベートーヴェンの交響曲第9番だったというのに、生で第九を聴くのは、1998年11月30日のフィリップ・ヘレヴェッヘ指揮シャンゼリゼ管弦楽団の来日公演(京都コンサートホール大ホール)以来だから11年ぶり、年末の「第九」にいたっては、1994年12月16日のトーマス・ザンデルリンク指揮大阪シンフォニカー交響楽団のコンサート(ザ・シンフォニー・ホール)以来だから、15年ぶりということになる。
(もちろん、CDやラジオ、テレビでは、何度も聴いてはきたけれど。何がどうしたか、生では10年以上も聴くことがなかったんだよなあ。年末にやられ過ぎててありがたみが薄れたからか? でも、ケルンで聴いたダニエル・バレンボイム指揮シュターツカペレ・ベルリン他による年末の「第九」も、なんだかフルトヴェングラーっぽさが僕には鼻に、じゃない耳について、あんまりしっくりこなかったんだよなあ…)

 で、演奏では、京都「第九」をうたう会による合唱に一番好感を抱くことができた。
 当然、プロの合唱団ではないから、細かく言い出せばきりがないし、指揮者の解釈もあってか、陰影に欠けるというか陽性一本槍的な歌唱ではあったのだけれど、やはり人が集まって歌うことの力、声の力を実感することができたし、「第九」と向き合う真摯さや喜びが全面に表われていたと思う。

 一方、齊藤一郎指揮の京都市交響楽団には、一曲目の『エグモント』序曲を聴いたところで、これはあかんな、それが言い過ぎなら、自分の好みには合わんな、とついつい思ってしまった。
 と、言うのも、一応表側はめらめらと炎が立っているように見えるものの、その実内側はちっとも燃えていないというか、表面的にはエネルギッシュでスタイリッシュな造りなのだけれど、心にぐんと迫ってくるものをほとんど感じることができなかったからである。
 一つには、1階平土間の席だったことや、右隣りの席にやたらとおかしなおっさん(途中、指揮の真似までしていたし)が座っていたことも災いしたのかもしれないが。
 メインの第九に及んでも、音楽がただただ通り過ぎていくというもどかしさを払拭することはできなかった。
(そのおかげで、ベートーヴェンの交響曲第9番がブルックナーの交響曲第9番に及ぼした影響を再確認することができたりはしたけど。例えば、第2楽章とか)
 あくまでも個人的な好みと断った上で、僕が齊藤さんの指揮するコンサートを率先して聴くことは、これからないと思う。

 また、独唱陣についても、僕にはそれほどしっくりこなかった。
 バリトンの三原さんが、立派な歌唱だったと思った程度か。

 いずれにしても、音楽と向き合うということの意味を大きく考えさせられるコンサートだったと思う。
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2009年12月04日

大当たりだったフォーレ4重奏団のティータイムコンサート

 ☆ザ・フェニックスホール ティータイムコンサート74

  演奏:フォーレ4重奏団
  座席:2階AA列12番


 ぶらりひょうたん的な生き方をしている人間には、ぶらりひょうたん的な生き方をしている人間なりの葛藤というものがあって、その最たるものが、年がら年中一日たりとて休むことなく何かを考え続けているということである。
 むろん、考え続けている何かが世のため人のため、どころか自分自身のためにも有意義なものであるかはいたって疑わしいし、ぶらりひょうたん的な生き方を自ら選んだのだもの、我が命尽きるそのときまで何かを考え続けていければ本望だとは思うけれど。
 それに、かっちり定時で仕事をしている方たちと比べてぶらりひょうたん的な生き方をしている人間は、表面的には時間の融通がたっぷりときく。
 特に、平日のお昼過ぎに、人生の春を謳歌する若者たち(これは思ったほどいなかった)や、人生の秋、ではない人生の新たな春を迎えた先達たちに交じって上質な音楽を愉しむことができるのは、ぶらりひょうたん的な生き方をしている人間なればこそだろう。

 で、ドイツ・グラモフォンへのCD録音でも評判の高い、ドイツ出身の若手ピアノ・カルテット、フォーレ4重奏団が、金曜14時開演のザ・フェニックスホールのティータイムコンサートに出演するというので迷わず聴きに行ってきたが、これは当たりも当たり大当たり、足を運んで大正解のコンサートだった。

 まず、ティータイムコンサートだからといって、よくありがちな細切れ名曲プログラムを組むのではなく、マーラーのピアノ4重奏曲断章イ短調、メンデルスゾーンのピアノ4重奏曲第2番ヘ短調、そしてブラームスのピアノ4重奏曲第1番ト短調という至極真っ当で聴き応え充分なプログラミングが嬉しい。

 一曲目のマーラーは、彼がウィーン音楽院在学中、16歳のときに作曲した作品だと公演パンフレットにはあるが、ロマン派の影響が濃厚な、それでいて音型などにのちのマーラーらしさを感じる音楽となっている。
 フォーレ4重奏団は表現のふり幅の大きい演奏で、作品の持つ劇的な性格を巧みに表していたのではないか。
 特に、ラスト近くのヴァイオリン・ソロのあたりには、強く惹きつけられた。

 続く、二曲目のメンデルスゾーンのピアノ4重奏曲第2番も、作曲者の10代半ばに作曲されたものだというが、擬古典的というか、古典派の作曲家たちの強い影響を感じる音楽である。
 この曲では、フォーレ4重奏団は、いわゆるピリオド奏法を意識したレガートやヴィヴラートを抑制したクリアで歯切れのよい演奏を行うとともに、音楽の遊び、というか、作品の持つディヴェルティメント的な性格をよく再現していたように感じた。
 また、ピアノのデュルク・モメルツをはじめとしたアンサンブルのインティメートな雰囲気にも好感が持てた。

 休憩を挟んだ三曲目、お目当てのブラームスのピアノ4重奏曲第1番であるが、これも非常に魅力にあふれた演奏。
 第一に、フォーレ4重奏団のテキストの読み込みの深さ、鋭さを挙げておかねばなるまい。
 例えば、第2楽章の中間部を軽い感じで流したり、逆に第3楽章の行進曲調の部分では、それを強調してみたり。
 そしてなんと言っても圧倒的だったのが、終楽章。
 ジプシー風ロンドという言葉を十二分に意識した激しさと歌いぶり、さらにはパトリス・ルコント監督の『仕立て屋の恋』で有名になった哀感たっぷりのメロディを登場するごとに歌い分けるなど、驚嘆させられた。
 と、言っても、フォーレ4重奏団が頭でっかちがちがちごちごちの団体などではないことは、言わずもがなのこと。
 劇的な部分は劇的に、優しく甘やかな部分は優しく甘やかに、結果、僕の心を躍らし僕の心を動かす演奏となっていた。
 大満足。

 満場の拍手に応えて、アンコールはシューマンとフーベルトの『フリー・タンゴ』の二曲。
 前者ではフォーレ4重奏団のアンサンブルの親密さが、後者ではのりのよさが発揮されていたと思う。

 いずれにしても、これにお菓子と飲み物がついて3500円(学生券なら1000円)とは安過ぎる。
 やっぱり、ぶらりひょうたん的な生き方も悪くない!
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2009年11月15日

京都市交響楽団モーツァルト・ツィクルスNr.21

 ☆京都市交響楽団モーツァルト・ツィクルスNr.21

  指揮:鈴木 雅明
  独唱:松井 亜希(ソプラノ)

  座席:1階 2列16番


 先日三遊亭圓楽師匠が亡くなったからではないけれど、日本のプロのオーケストラの定期演奏会やそれに準ずるコンサートに登場する指揮者の顔触れと、『笑点』の大喜利メンバーの顔触れにはなんだか共通するものがあるように思う。
 むろん、オーケストラのほうは、『笑点』の大喜利メンバーよろしく、何かがなければ不変不動ということはなくて、このオーケストラならこの人、あのオーケストラならあの人と、それ相応の違いというものはあるのだが。
 それでも、少なく見積もっても200人以上はいるはずの日本人の指揮者のうち、ほんの一握りの面々だけがプロのオーケストラの定期演奏会に登場できるという構図(闇カルテルでもあるんかいな?)は、やっぱり『笑点』の大喜利メンバーとつながる性質が潜んでいるんじゃなかろうか。
 と、言っても、『笑点』の大喜利メンバーに林家たい平や春風亭昇太が新たに加入したように、日本のプロのオーケストラと指揮者の関係にも時代の波はそれなりに押し寄せているわけで、今回のモーツァルト・ツィクルスNr.21(11月14日、京都コンサートホール小ホール・アンサンブルホールムラタ)で鈴木雅明が初めて(ようやく)京都市交響楽団を指揮したのも、さしずめそんな時代の変化の表われと呼んでも過言ではあるまい。
 なあんてことを、演奏を聴きながら考えたり考えなかったり。
(「君はね、言ってることがまどろっこしいんだよ、山田君全部座布団とっちゃいなさい」、とよぶ圓楽師匠の声あり)

 で、このコンサート、朝寝坊したこともあって(午前11時過ぎに起きてしまった…)、直前まで行こうか行くまいか悩んだが、気づいたときには部屋を飛び出し、地下鉄に乗って北山の京都コンサートホールへ向かっていた。
 まさしく心の声に従ったということだが、こういう声には従うにかぎるね。
 従って大正解、実に愉しい時間を過ごすことができた。

 第一にその大きな理由は、休憩あけ一曲目のモテット『エクスルターテ・イウビラーテ』でソプラノの松井亜希の歌声に接することができたこと。
 若き日のバーバラ・ボニーを彷彿とさせる、クリアで伸びがあってコケティッシュな声質が、ずばり僕の声の好みのストライクゾーンだったのだ。
 加えて、バロックや古典派の様式をしっかり踏まえた歌いぶりにも好感が持てる。
 第二部の聴かせどころで一瞬天にも昇る心地、になりかけてほんの僅かな声の変化に惜しいと思ったりするなど、細かいことを言い出せば言えないことはないが、全てのプログラムが終了し、アンコールで彼女が再登場したとき「待ってましたあ!」と声がかかったのもさもありなんの一語。
(なお、アンコールはドイツ語のコンサート・アリア「私の感謝をお受け下さい、慈悲の人よ」。輪をかけてコケティッシュ!)
 今後もぜひ、彼女の歌唱に親しく接していきたいと思う。

 一方、ピリオド楽器の演奏で著名な鈴木雅明の指揮だけに、今回の京都市交響楽団は両翼配置、レガートやヴィヴラートを抑制し、音楽の強弱のコントラストをはっきりつけるなど、いわゆるピリオド奏法を援用した演奏を行っていた。
 こちらも細かいことを言い出せば言えないことはないし、2列目なんて真ん前の席に座ったものだから直接音(特にファースト・ヴァイオリン)中心の少しきつめの音響で、二曲目の交響曲第20番の第1楽章など、躁病親爺大噴火的な騒々しさだったが(おまけに繰り返しをきっちりやっていた…)、ラストの交響曲第34番ともども、その第2楽章は、音楽における「対話」の重要さが的確に示された演奏に仕上がっていたように感じた。
 また、一曲目の歌劇『ドン・ジョヴァンニ』序曲では、コーダ近くの長めの休止にもはっとさせられた。
 京都市交響楽団も、限られた時間で指揮者の意図をくみ取る努力を充分に行っていたのではないか。
 中でも、フルートやオーボエといった木管楽器のソロが美しく、強く印象に残った。

 適うことなら、今度は鈴木さんと京都市交響楽団の組み合わせで、バッハやヘンデルを聴いてみたいものだ。
(あと、鈴木秀美と京都市交響楽団の組み合わせでハイドンを聴いてみたいなあ)

 いずれにしても、本当に愉しかった。
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2009年10月30日

結局聴きに行った、京都市交響楽団第529回定期演奏会

 ☆京都市交響楽団第529回定期演奏会

  指揮:井上 道義
  座席:3階 RA−1列4番(休憩前、勘違いで)、同5番(休憩後)


 P席を買いそびれ、好みの席もないということで、一度はパスすることに決めた京都市交響楽団第529回定期演奏会だったが、オーケストラ好きの血が騒ぎ、結局聴きに行って来た。
 ただし、いくつか用件を片づけているうちに外出が遅れ、北山の京都コンサートホールに着いたのは開演の3分ほど前。
 一瞬後半だけでもいいかと思ったが(そのほうが断然安いし)、ぎりぎりなんとか間に合いそうなので、コンサート全部聴くことにした。
(で、慌てて走ったおかげで、休憩途中までおなかが痛くて仕方がなかった。お出かけは計画的に…)

 前半は、モーツァルトの交響曲第36番「リンツ」。
 思い切り編成を刈り込んで両翼配置(第1ヴァイオリンと第2ヴァイオリンを左右対称に配置)、ヴィヴラートやレガートも控えめだしテンポもスピーディーと、予想通り最近の井上道義らしくピリオド奏法を援用した音楽づくりとなっていた。
 第1楽章など、ところどころ長調の中に潜む音の翳りがもっと出てくればなあと感じたこともなくはなかったが、すっきりとしてスポーティー、実に爽快で聴き心地のよい演奏だったと思う。

 一方、休憩を挟んだメインのブルックナーの交響曲第9番は、非常にゆっくりとしたテンポで第1楽章が始まったのだけど、ううん、これは個人的にはあまりしっくりとはこなかった。
 先日、クリストフ・エッシェンバッハ指揮パリ管弦楽団の演奏した同じ曲のライヴ録音をネットラジオで耳にして、「地に足はついてないけれど、天にも昇れない」と記したのだが、今回の井上道義と京響の演奏もそれとどこか似たような感じ。
 大づくりに過ぎるというか、ねばっこさがあり過ぎるというか、何かやってるやってる感がつきまとうというか。
 同じ第9番の交響曲でも、マーラーならばしっくりくるのだろうになあ、と思ってしまう。
 続く第2楽章は、期待していたほどのやたけた感はなかったものの、計算づくの民族大移動(なんじゃそりゃ?)といった具合で、この楽章の持つ新しさと旧さの両面が巧く表されていたように感じた。
 終楽章も、入魂の指揮ぶりとでも呼びたくなるような真摯な音楽づくりを井上道義は行っていて、弦や、木管のソロなどの美しさに惹き込まれる箇所がたびたびあった。
 また、これは全楽章に共通するが、全ての楽器が強奏する部分での迫力は、やはり生ならではのものという感も新たにした。
 ただ、時折ライブ特有の傷が観(聴き)受けられたことも事実で、特にホルンの不調が気になってしまったことは付記しておきたい。
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2009年10月19日

京都市交響楽団の事務局に電話をかけてみたが…

 昨日河原町通のライフカード京都店のぴあステーションで、京都市交響楽団の第529回定期演奏会(10月30日)のチケットを調べてみたのだが、あいにく希望の3階左側LBブロックのチケットは扱っていなかった。
 実は、以前ニコラウス・アーノンクール指揮コンツェントゥス・ムジクスの『メサイア』をここで聴いて以来、僕はこのLBブロックがとても気に入っているのである。
 と、言うことで、今日思い切って(これは大げさだけど)京都市交響楽団の事務局まで電話をかけてみた。
 で、結果は、LBブロックは定期会員のためにとってあるとのこと。
(ただし、来季からは変更するかもしれないのでこれからずっとということではないとの言葉もあったが)
 まあ、これは予想の通りで仕方ない。
 事務局の人は、丁寧にLCや反対側のRBなら手に入ると教えてくれたのだが、RBのほうは大野和士の回で金管群の強い響きにいくぶん辟易したし、LCのほうも3500円を出してまで聴きたいとは思えない。
 結局、これもP席を買いそびれた自分自身が悪いのだ。
 10月、並びに11月ともに京都市交響楽団の定期演奏会を聴きに行くのは諦めることにした。

 ちなみに、第529回定期演奏会の目玉、井上ミッチーの振るブルックナーの交響曲第9番では、暴力性全開になるだろう第2楽章がまずもって面白いんじゃないかな。
 あと、第3楽章はマーラーの第9番ばりの祈りの音楽になるような気がするなあ。
 いずれにしても、僕のように席にあまりこだわりがない人、そして財布の中身に余裕がある人は、ぜひとも京都市交響楽団の定期演奏会に足を運んで下さいませ!
posted by figarok492na at 15:54| Comment(0) | TrackBack(0) | コンサート記録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年10月09日

大阪センチュリー交響楽団の来季の定期演奏会のプログラムを知って

 来季(2010−11)の大阪センチュリー交響楽団の定期演奏会のラインナップが、楽団ホームページに発表された。
 先日来、民間への身売り説も取り沙汰されているだけに、その内容は非常に気になるところだが、小泉和裕主導の大曲路線に変化はなく、個人的にはがっくりきたというのが正直な感想である。

 と、言っても、小泉和裕が指揮する4回の定期演奏会を含め、個々のコンサートのプログラム自体に大きな不満があるわけではない。
 まずもって、レオシュ・スワロフスキーの指揮するマルティヌーの交響曲第3番(10年12月、第157回)は大きな目玉だろうし、アレクサンドル・ドミトリエフの登場、並びに王道チャイコフスキーの「悲愴」(10年9月、第154回)も、通には嬉しいコンサートになるだろう。
 また、アラン・ブリバエフによるフランス物(11年2月、第158回)も面白そうだし、沼尻竜典指揮のシューマンの交響曲第2番(10年11月、第156回)や、小泉さんの振るニールセンの「不滅」(10年4月、第150回)、ショスタコーヴィチの交響曲第5番(10年7月、第153回)、ルトスワフスキとバルトークの両オケコン(10年10月、第155回と11年3月、第159回)だって、たぶんそれなりの仕上がりになるはずだ。
 僕自身、物理的な事情が許すならば、上述した全てのコンサートに足を運べればと思っている。

 けれど、こういった大曲先行のプログラムを、どうして今の大阪センチュリー交響楽団が組まなければならないかという点に関しては、全くもって理解ができない。
 かつて小泉さんは大阪センチュリー交響楽団の三管編成化=拡大を口にしていたようだが、もともと大阪センチュリー交響楽団は大編成化を目的として創立されたオーケストラではないのだし(そもそも、本来の売りは、室内オケ編成で密度の濃いアンサンブルという部分にあったのではないか?)、いわゆる橋下路線を肯定するつもりは毛頭ないとはいえ、この期に及んで八八艦隊、じゃない三管編成もへったくれもないだろう。

 結局、何はなくとも(オケはなくなっても)、小泉さんの意向(と、言うよりも一部の音楽事務所の意向か? 定期演奏会10回のうち、小泉さん4回、沼尻さん2回、ドミトリエフさん1回と、同一事務所所属の指揮者が7回も登場している)が優先されるように見えるオーケストラ運営が継続されるかぎり、状況の変化は全く期待ができない。
 まあ、いずれ大阪センチュリー交響楽団の四管編成化に諸手を挙げて賛成してくれるような物わかりのよい民間大企業が現れないともかぎらないけれど。
 いずれにしても、なんだかなあ、である。
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2009年09月29日

エリーザ・カルテット京都公演

 ☆エリーザ・カルテット京都公演

  会場:京都コンサートホール小ホール(アンサンブルホールムラタ)
  座席:1階3列11番、4列11番(モーツァルト以降)


 ただより高いものはない!
 は、世の格言。
 ただより安いものはない!
 が、中瀬宏之の格言。
 と、言うわけではないけれど、京都イベントなびという文化芸術関係のサイトで招待券をゲットした、エリーザ・カルテットの京都公演を聴きに、京都コンサートホールまで行って来た。
(よくよく考えたら、小ホールのほうで音楽を聴くのは、約10年ぶりじゃないのかな?)

 エリーザ・カルテットは、イタリア出身の音楽家によって結成された弦楽4重奏団で、公演パンフレットによれば、第1ヴァイオリンのドゥッチョ・ベルッフィは現在ミラノ・スカラ座管弦楽団に所属しているという。

 一曲目、プッチーニの『菊の花』は、そうしたエリーザ・カルテットの名刺代わりというか、彼らの演奏の歌唱性やインティメートな雰囲気が巧く表われていたと思う。
(隣に座ったおばはんの革製のバッグがぎゅっぎゅぎゅっぎゅとわずらわしいので、この曲の演奏が終わったあと、一列後ろに移動する)

 続く、モーツァルトの弦楽4重奏曲第20番は、いわゆる「ハイドン・セット」と「プロシア王セット」に挟まれた作品で、出版社の名前から「ホフマイスター」と呼ばれることもある。
 知名度はそれほど高くないけれど、実にチャーミングな表情の音楽であり、特に第1楽章は何度繰り返し聴いても聴き飽きない。
 ところどころ、エリーザ・カルテットの個々の奏者の技術的な弱さを感じたりもしたが、第3楽章では、たっぷりと歌い込む彼らの特質がよく発揮されていたようにも感じた。

 休憩後のハイドンの弦楽4重奏曲第39番「鳥」(第1楽章に、鳥の囀りを思わせる旋律があるため)でも、モーツァルトと同様の印象を僕は受けた。
 技術的な面だけでいえば、当然不満も残るのだが、やはりその陽性で明るい歌い口と親密感に満ちたアンサンブルには好感を抱く。
 中でも、終楽章が聴いていて愉しかった。

 そして、アンコールは、ヴェルディの弦楽4重奏曲からアンダンティーノ、ボッケリーニの弦楽4重奏曲作品番号6−1からアレグロ、プッチーニの弦楽4重奏曲からスケルツォの3曲。
 まさしく美事(みごと)なドルチェだった。

 全体的にみて(聴いて)、心が激しく動かされることはなかったけれど、音楽を聴く心地よさを味わうことはできた。
 やっぱり、ただより安いものはない!
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2009年09月05日

京都市交響楽団第528回定期演奏会

 ☆京都市交響楽団第528回定期演奏会

  指揮:山下 一史
  独奏:田村  響(ピアノ)
  会場:京都コンサートホール大ホール
  座席:2階P4列18番(休憩前)
     2階R2列01番(休憩後)


 劇音楽『マンフレッド』序曲、ピアノ協奏曲、そして大好きな交響曲第2番というオール・シューマン・プログラムが興味深く、北山の京都コンサートホールまで、京都市交響楽団の第528回定期演奏会を聴きに行って来た。

 指揮は、現在仙台フィルハーモニー管弦楽団の正指揮者を務める山下一史。
 2001年7月の大阪音楽大学ザ・カレッジオペラハウスでのモーツァルトの歌劇『ドン・ジョヴァンニ』公演以来だから、山下一史の実演に接するのは約8年ぶりということになる。
 山下さんの指揮では他に、1988年9月の関西フィルハーモニー管弦楽団の第69回定期演奏会、1990年4月の京都市交響楽団第323回定期演奏会、1996年2月の大阪センチュリー交響楽団第33回定期演奏会も聴いているが、大まかに言って、師匠のカラヤン譲りでもあるだろう、整っていて分厚い響きのするシンフォニックな音楽の創り手であるとともに、活力に満ちてエネルギッシュで躍動感あふれた(ときに「それいけどんどん」的)演奏を生み出す指揮者というのが、僕の印象である。

 で、どこか中村勘三郎を思い出させる山下さんのプレトークのあとは、一曲目の『マンフレッド』序曲。
 先述した山下一史の性質のうち、「整っていて分厚い響き」云々が前面に出た演奏だったように思う。
 僕自身は、第1ヴァイオリンの繊細な響きが強く印象に残った。

 続いては、ロン・ティボー国際コンクールのピアノ部門で1位を受賞した田村響をソロに迎えた、ピアノ協奏曲。
 田村さんは、非常にしっとりとして柔らか、一音一音を丁寧に弾き込むピアニストのようで、特に第2楽章でその特性がよく発揮されていたのではないか。
 逆に、これは個人の好みの問題だけど、両端楽章ではもうあとほんのちょっとテンポを速めてもらえればなあと感じたことも事実である。
(テンポ感という意味では、田村さんと指揮者の山下さんの本来の好みの間にちょっと開きがあるように聴き受けられた。それと、強奏部分では、オーケストラに若干、リズム的な「もっささ」を感じてしまったことも付け加えておきたい。これは、曲そのものの問題かもしれないが)
 なお、アンコールのショパンの小犬のワルツでちょっとしたミスがあったのだけれど、それが人間的というか、個人的には好感を抱いた。

 休憩を挟んで、メインの交響曲第2番は、山下一史の熱血漢ぶりが全開となった演奏。
 第1楽章や第2楽章は、山下さんの「それいけどんどん」性が功を奏して、作品の前のめり感、わけわからんちん切迫感が巧く表われていたように思う。
 一方、第3楽章や第4楽章では、その明解で陽性な解釈のせいで、この交響曲が持つかげりや影のようなものが浮き出てこないもどかしさを覚えたりもした。
 いずれにしても、よい意味でも悪い意味でも「健康的」なシューマンの交響曲第2番だったと評することができるだろう。
(あと、ところどころでオーケストラに粗さを感じたりもした。それで全体の印象が変わってしまうようなことはなかったが)
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2009年07月31日

小澤征爾音楽塾コンサート

 ☆小澤征爾音楽塾コンサート 〜若き塾生たちの協演〜

  指揮:Huang Yi、齋藤友香理、三ツ橋敬子、Yu Lu
  独唱:藤谷佳奈枝、清水華澄、浅井美保
 管弦楽:小澤征爾音楽塾オーケストラ

  会場:京都コンサートホール大ホール
  座席:3階LC−2列2番


 恩師斎藤秀雄譲りのものだろうか、それとも生来のものだろうか、1994年に発行されたONTOMO MOOK『小澤征爾NOW』を捲っていてもそう思うが、小澤征爾という人は、後継者の育成に対して驚くほどの熱意を傾けている。
 母校桐朋学園の後輩たちへの積極的な指導もそうだし、若い音楽家たちにオペラの演奏を経験させようと2000年からスタートさせた「小澤征爾音楽塾オペラ・プロジェクト」などその最たる表われの一つだといえる。
 現在のヨーロッパにおける演奏解釈の潮流から考えれば、その選曲や演奏スタイルには若干の疑問を僕は感じないでもないのだけれど、小澤征爾の強い熱意そのもには疑うべき点はないとも感じている。

 で、今日は体調不良から海外でのコンサートをキャンセルしたと報じられた小澤征爾が、無理を押して肝入りを果たすという「小澤征爾音楽塾コンサート 〜若き塾生たちの協演〜」を、京都コンサートホールまで聴きに行って来た。
 個人的には、齋藤友香理と三ツ橋敬子(昨年、アントニオ・ペドロッティ国際指揮者コンクール優勝)という二人の新進気鋭の指揮者の指揮ぶりを目にし耳にしておきたいという心づもりもあってのことだったのだが、ホールに入ってぜいたくなつくりの公演プログラム(さすがはローム協賛!)を開いて驚いた。
 なんと、中国からやって来たHuang Yi(黄と、山へんに乞)、Yu Lu(兪と、さんずいへんに路)の二人が加わって、もともとの演奏曲目、フンパーディンクの歌劇『ヘンゼルとグレーテル』のハイライトと、ベートーヴェンの交響曲第5番を四人で振り分けるというのである。
 ありゃりゃりゃりゃ。
 こちらは齋藤さんの「ヘングレ」と三ツ橋さんの「運命」を愉しみにしてきたのに、なんだいこりゃ。
 いくら小澤征爾が満洲の地で生れ、父開作氏の志を受け継ぐ人物であることは承知していても、突然のこの変更(てか、割り込み)はあんまりじゃないか。
 と、言っても、何も僕は反中や嫌中を決め込みたいわけではない。
 せっかくのコンサートなんだから、一人一人、きちんと何か一曲ずつでも振らせりゃいいだろうに、と思ってしまったのである。
 例えば、フンパーディンクつながりでいえば、ワーグナーの序曲や前奏曲(10分〜15分の曲。ジークフリート牧歌もあるな)をそれぞれ振らせるなんて、小澤征爾音楽塾の趣旨にもけっこう適ってるんじゃないのかな。
 まあ、休憩明けの小澤さんのべしゃりの達者さに、「運命」の四人まわし、じゃない四人振り分けもそれほど気にならなくなったけどね。
(そういえば、コンサートの作法に慣れぬオケや指揮者の面々に出はけの合図を客席から送っていた小澤さんが面白かった。やっぱり小澤さんは面倒見がいいなあ)

 プログラムの前半は、『ヘンゼルとグレーテル』から序曲(Huang Yi)、第1幕のヘンゼルとグレーテルのかけあい並びに前奏曲(齋藤友香理)、魔女の登場と、ヘンゼルとグレーテルが魔女を退治するあたり(三ツ橋敬子)が演奏されたが、ここでは歌い手たちも加わった、齋藤さんと三ツ橋さんの分が実に愉しい聴きものになっていた。
 特に、齋藤さんや三ツ橋さんの細かい表情づけに加え、ヘンゼルの清水華澄とグレーテルの藤谷佳奈枝の澄んで伸びと張り(声量)のある美声もあって、『ヘンゼルとグレーテル』がワーグナーにどれほど影響を受けた作品であるかがよくわかったのは、大きな収穫であった。
 兄と妹の二重唱なんて、まさしく…。
 また、魔女の浅井美保もコメディエンヌぶりをいかんなく発揮していて愉快痛快。
(余談だけど、15年ほど前のケルン滞在中、このオペラをケルンの歌劇場で観たと、現地のある人=ユダヤ系にあらずに話したところ、「あんなけったくその悪い話…」としかめ面されたことがあったっけ。その気持ちもわからないではない)

 後半は上述のごとく、「運命」の四人まわし、じゃない四人振り分け。
 第1楽章は、Huang Yiと三ツ橋敬子の計2回。
 三ツ橋さんのシャープでぎゅっと引き締まった感じの演奏に対し、Huangさんは昔の巨匠風というか、少し粘った感じのする演奏。
 第2楽章は齋藤友香理の指揮で、音の輪郭を明確に表わす丹念な音楽づくりだったが、しめの部分がところどころ甘いような気もしないではなかった。
 第3、第4の両楽章を受け持った、バレーボールの選手のように長身のYu Luは「体は演奏を表わす」とでも言いたくなるような、大柄で力強い指揮ぶりで、その分肌理の粗さはありつつも、大男総身に知恵はまわりかね式のもっさい演奏にはなっていなかった。

 学生主体の小澤征爾音楽塾オーケストラは、プロのオーケストラのような機能性には欠けるものの、若い指揮者たちによく添った、真摯な演奏を行っていたと思う。
(指揮者が変わるたび、ファーストとセカンドのヴァイオリンをはじめ、パートごとに楽員が場所を交替していた点も、コンサートの趣旨を考えれば大いに納得がいった)

 それにしても、できることなら小澤さんの指揮で何か一曲聴きたかったなあ。
 無理を承知で言えば。
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2009年07月24日

京都市交響楽団第526回定期演奏会

 ☆京都市交響楽団第526回定期演奏会

  指揮:大野 和士
  座席:3階 RB−1列5番


 大野和士という指揮者の実演に接したのは、1990年11月の関西二期会の公演が初めてだった。
 出し物は、ヴェルディの初期の傑作『リゴレット』で、伴奏の京都市交響楽団の音の日頃の演奏との大きな違いによい意味で驚くとともに、大野さんのテキストの読み込みの深さと音楽的な集中力の高さから、なみなみならぬ才能を強く感じたことを未だに記憶している。
 それから約20年。
 その大野和士が初めて京都市交響楽団の定期演奏会の指揮台に立つということで、喜び勇んで京都コンサートホールまで足を運んだ。
(なお、この間、2006年7月の大阪フィルの第400回定期演奏会で大野さんの指揮に触れて大いに満足したことは、かつてこのブログにも記したところである)

 まず、開演20分前からのプレトークでは、先日亡くなった若杉弘の追悼のためにバッハの管弦楽組曲第3番からアリアが演奏されることが伝えられ、大野さんと若杉さんとのかつてのエピソードが語られたほか、今回演奏されるラヴェルやショスタコーヴィチの演奏のツボについて簡にして要を得た解説が行われていた。
 特に、ショスタコーヴィチの交響曲第5番がらみで、自身のミラノ・スカラ座デビューを飾った歌劇『ムツェンスク郡のマクベス夫人』や、第9番までの一連の交響曲との関係性を的確に説明していた点が、個人的に興味深かった。

 さて、追悼にも関わらず拍手の起こったバッハのアリアののちに、本来のプログラムの一曲目であるラヴェルの『ラ・ヴァルス』が演奏されたが、この『ラ・ヴァルス』から、僕は大野和士と京都市交響楽団の演奏に心をぐっとつかまれてしまった。
 と、言うのも、ウィンナ・ワルツのパロディであり、それへのオマージュであり、さらには時代の反映でもあるこの曲の性格を明確に描き上げるとともに、音量の適切さ、強弱のバランス感覚という意味でも、大野さんと京響は優れた演奏を行っていたからである。

 続く二曲目、同じラヴェルの組曲『マ・メール・ロワ』は、一転して小編成での演奏となったが、大野和士と京都市交響楽団は、端正でコントロールのとれた演奏を重ねながら、作品の持つ幻想的な性格や繊細で洗練された雰囲気を見事に表現し切っていたと思う。

 そして、メインのショスタコーヴィチの交響曲第5番は、これはもう、圧倒的な名演と評したくなるような素晴らしい演奏だった。
 ショスタコーヴィチのこの交響曲に関しては、これまで様々な解説や解釈が為されてきたが、大野さんはテキストを徹底的に読み込むことで、作品に潜む暴力性や諧謔性、恐怖の感情や痛切な感情、同時代性、「共通感覚」といった様々な性質を、過不足なく語り尽くしていたと言っても誤りではないだろう。
 また、ここで忘れてならないことは、そうした表現が分裂したものとして過剰に行われるのではなく、一つの線、一つの音のドラマとしてまとまりを持って行われていたということである。
 正直、音楽を聴いているだけで身体中が汗ばんでくるほどの求心力を持った演奏だった。
 中でも、第3楽章の真摯さと美しさには強く心を動かされた。
(この第3楽章のあとに来る第4楽章の、なんと嘘臭いこと! 大野和士はそのことをしっかりと演奏で示していた)

 今や世界的に活躍の場を拡げている大野さんのことゆえ、実は、京都市交響楽団の指揮台に立つのはこれが最後ではないのかとふと思ったりもするが、それはそれとして、本当に足を運んでよかったと記すことのできる素晴らしいコンサートだった。
 心から満足がいった。
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2009年06月27日

音楽的な、あまりに音楽的な  タカーチ・カルテット大阪公演

 ☆タカーチ・カルテット大阪公演

  会場:いずみホール
  座席:1階T列17番(招待)


 大阪のいずみホールまで、タカーチ(タカーチュ)・カルテットの来日公演を聴きに行って来た。
 だめもとで住友生命に送ったハガキが当たって招待券を手に入れることが出来たからだが、演奏のほうも、ハガキ同様当たりも当たり、大当たりだったと思う。

 プログラムは、ハイドンの弦楽4重奏曲第82番「雲がゆくまで待とう」、バルトークの弦楽4重奏曲第2番、モーツァルトの弦楽4重奏曲第21番「プロシア王第1番」の3曲。
 ハイドンは没後200年のメモリアル・イヤー、バルトークはお国もの(ただし、もともとブダペストのリスト音楽院出身者で結成されたタカーチ・カルテットも、今ではメンバーが入れ換わり、第1ヴァイオリンとヴィオラはイギリス人とアメリカ人が各々担当しているが)ということからの選曲だろうが、ハイドンやモーツァルトは、彼らが作曲した弦楽4重奏曲の中ではいわゆる超有名な作品ではないし、バルトークだって、それほど聴きやすい(弾きやすい)作品とはもちろん言えない。
 つまるところ、一筋縄ではいかないプログラミングであり、なおかつタカーチ・カルテットの自信のあらわれととらえてもまず間違いはないだろう。

 実際、タカーチ・カルテットは全ての作品において、彼彼女らの実力を十二分に発揮していたのではないか。
 これ見よがし、ならぬこれ聴きよがし的にばりばりばりばりと弾きこなすわけではないから、一聴したかぎりではわかりにくいかもしれないが、そのアンサンブルの密度の濃さ、きめの細かさはやはり並のものではあるまい。
 特に、バルトークの第2楽章における緊張感に満ちた音の重なり合いに、僕は強く惹きつけられた。
(これは全体にわたって言えることだけど、タカーチ・カルテットの演奏を聴いて、パウゼ=休止、休み、間もまた音楽なのだと改めて感じることができた。その意味で今晩のお客さんは少し…)
 また、ハイドンやモーツァルトでは、アンサンブルが紡ぎ出すインティメートな雰囲気に魅了された。
 加えて、旋律が過剰にはならぬほどに、しかししっかりと歌われることによって、その美しさが巧みに示されていたとも感じた。
 そして、忘れてはならないのがアンコールのベートーヴェンの弦楽4重奏曲第9番「ラズモフスキー第3番」の終楽章。
 うちらにゃベートーヴェンもありまっせ!
 とでも言いたいかのような熱のこもった演奏で、これには圧倒されてしまった。

 いずれにしても、非常に「音楽的」でとても愉しいコンサートだった。
 大満足!
 どころか、大々満足!!
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2009年03月31日

オーケストラの日、京フィル室内合奏団のリハーサルを聴く

 外出時、何気なく京都文化博物館に寄ったところ、別館ホールで何やら楽士たちがリハーサルをやっている。
 あっ、そうか。
 はたと思い出した。
 今日3月31日はオーケストラの日、ここ京都文化博物館の別館ホールでも、京都フィル室内合奏団のメンバーによるコンサートが開催されるんだった。
 舞台には、ヴァイオリン、コントラバス、ホルン、ファゴット、クラリネットの面々が並び、コントラバス奏者の男性が、ここはこうこうあそこはああああと、てきぱきだんどりをつけている。
 で、「死刑の…」というコントラバス氏の言葉でなんの曲だかぴんときた。
 リヒャルト・シュトラウスの交響詩『ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら』の室内合奏版『もう一人のティル・オイレンシュピーゲル』だ。
 細切れ、中断中断でもかまわないから音を鳴らしてくれないかなあと待っていると、案の定、あの「昔々…」という旋律が流れ出し、なんとそのまま通しでやってくれた!
 ブラボー!!
 まあ、元来の交響詩に比べて音が細いのは仕方のないこと。
 反面、リヒャルト・シュトラウスがメロディストとしても優れていたことが再確認できたのは、リヒャルト・シュトラウシアンとしては嬉しく愉しいことだった。
 演奏もヴァイオリンの女性をはじめ、なかなかのものではなかったか。
 きっと本番ではいい仕上がりを見せる(聴かせる)だろうと思う。
(ただ、個人的には「死刑執行」直前の、たあたあたあたあたあーたたの部分がちょっと甘く聴こえてしまったことは記しておきたい。これは「編成」の問題ではなく、「解釈」の問題だろうから)
 それと、とても腹立たしかったのは、演奏が終わる少し前、アジア系とおぼしきカップルを引き連れた観光コーディネーターかタクシーの運転手かのおっさんが、大きな声でがなり始めたこと。
 こういう人物には、当然のことながら「練習中につきお静かに」という注意書きも目に入らない。
 それで、相手の顔を見据えて「しっ」と音を立てたが、そんなことなどどこ吹く風。
 カップルのほうがすまなさそうな顔をする始末。
 縁なき衆生は度し難し。
 死して屍拾う者なし、じゃない、死もまた社会奉仕と痛感した次第。
 それにしても、やっぱり生の音楽っていいもんですねえ!
(「だったら、コンサートも聴けよ!」、と呼ぶ声あり。返す言葉もない…)
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2009年03月29日

踊る人・山田一雄

 熱狂的なファンの方には申し訳ないが、朝比奈隆という指揮者の造り出した音楽に対して、僕にはそれほど強い思い入れがない。
 京阪電車に乗り遅れて後半のアルプス交響曲しか聴くことのできなかった定期演奏会を加えると、都合5回(その中には、ブルックナーの交響曲第4番、第5番、第8番が含まれている)、僕は朝比奈隆の指揮した大阪フィルの実演に接したことがあるのだけれど、がっちりして硬質な音楽だなあとそれなりに感心したものの、だからと言ってもっとずっと生の彼の演奏を聴いておくべきだったという強い想いにとらわれることはない。
 ただ、まさしく「指揮者=立つ人」とでも評したくなるような、朝比奈さんのすっくと立った指揮姿の美しさを目にしておいてよかったなとは今でも思っているが。

 もっとずっと実演に接しておきたかったと、僕が心底思っている今は亡き日本の指揮者は、ヤマカズさんの愛称で知られた山田一雄である。
 京都会館の食堂で偶然かちあった(字義通り)演奏会前のヤマカズさんの小ささと、舞台に上がって踊りに踊り狂う大きな姿の対比。
 生み出されるドラマティックな音楽。
 京都市交響楽団の定期演奏会で聴いたフランクの交響曲のように、一度ツボにはまれば大熱演となるが、一歩間違うと、団員おちまくりの関西フィルのブラームスの交響曲第1番のような悲惨な結果となってしまうその落差の激しさ。
 朝比奈隆のどっしりとした感じとは全く対照的な、ちょこまかちょこまかと動きまくっているような躍動感。
(そこには、笛吹いて踊るから皆踊ってくれよという、どうにもたまらない気持ちがあったのかもしれないが)
 その一つ一つに、僕はぎゅっと心をつかまれてしまったのだった。

 と、ここで、確かに山田一雄は亡くなってしまったけれど、そうした彼の性質は、しっかり彼の弟子たる小林研一郎に受け継がれているではないか、と言葉をかけてくれるむきもあるかもしれない。
 だが、あいにく、ヤマカズさんとコバケンさんでは大きく何かが違っているのだ。
 極論を承知でいえば、それは久保田万太郎と井上ひさしの違いとでも言えるのではないか。
(忘れてならないのは、井上さんがその違いを十二分に認めた上で「歌いながらう(打・撃・討・射)つ人」であるとすれば、コバケンさんはその違いをあまり考えず「歌いながら泣く人」であるということだろう)

 ところで、僕はブラームスの大学祝典序曲を、山田一雄の指揮で聴いておきたかったと本当に思っている。
 入学式の景気づけや名曲コンサートの添え物として演奏されがちのこの曲が本来持っている、抒情的な美しさや魂の高揚、大いなる喜びを、ヤマカズさんならしっかり表してくれたような気がして、僕には仕方がないからだ。
(なお、昨年亡くなった小川昂の労作『日本の交響楽団』によると、山田一雄は1978年9月26日の神奈川フィルの第18回定期演奏会で大学祝典序曲を指揮している)
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2008年09月14日

京都市交響楽団 京都の秋音楽祭開会記念コンサート

 ☆京都の秋音楽祭開会記念コンサート

   指揮:広上 淳一
   独奏:木嶋 真優(ヴァイオリン)
  管弦楽:京都市交響楽団

   座席:2階 L−3列44番


 京都市北山の京都コンサートホールまで、京都市交響楽団の京都の秋音楽祭開会記念コンサートを聴きに行って来た。
 指揮は京都市交響楽団の現常任指揮者広上淳一、ヴァイオリン独奏は木嶋真優で、チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲、交響曲第5番、弦楽セレナードの第3楽章・エレジーの3曲が演奏された。
(なお、今回のコンサートは応募していた招待券が当たったので無料で聴くことが出来た。ラッキー!)

 一曲目のヴァイオリン協奏曲では、第1楽章終了後、会場から大きめな拍手が起こっていたが、残念ながら個人的にはそこまでするほどの演奏には思えなかった。
 現在ケルン音楽大学在学中という木嶋真優は、ウラディーミル・アシュケナージ指揮NHK交響楽団とラヴェルのツィガーヌを録音するなど、若き逸材として国内外で評価されているとのことで、実際僕も、2002年の第11回ABCフレッシュコンサートでその実演に触れて、彼女の清新な演奏には感嘆した覚えもあるのだが。
 いや、確かに木嶋さんの技術的な高度さを求める意志と音楽を歌おうとする意欲は感じ取れない訳ではない。
 中でも、第2楽章など、彼女の美質がよく表れていたとは思う。
 ただ、そうした意欲や意志が自らの内面の発露と言うよりも、誰かに与えられた歌を歌っているという風に感じられてしまったことも事実なのだ。
 たぶん、技術面での傷よりもそこのところのほうが僕には気になって仕方なかった。
(無理から喩えると、彼女と同じ年齢の頃の広末涼子の演技を観ている感じとでもなるか。違うかな?)
 それと、これは僕の受け取り方の問題かもしれないが、正直、木嶋さんのステージマナーには全く感心しない。
 カデンツァの始まりで首を捻ったことはひとまず置くにせよ、「三流」芸人のようにいつもかつもにやにやにたにたしろとまでは言わないが、彼女の周囲はその点についてしっかり注意すべきではないのか。
 僕がケルン滞在中に接した、トーマス・ツェートマイヤーやギル・シャハム、ワディム・レーピンといったひとかどのヴァイオリニストたちは、個性の違いは当然ありつつも、ステージマナーという一点ではなべて見事だったということを付記しておきたい。
 一方、広上淳一指揮の京都市交響楽団は、「鳴かぬなら俺たち鳴こうほととぎす」の勢いの伴奏で、特に終楽章、管楽器が民謡調の旋律を奏でるあたりから激しい幕切れまでの盛り上がりが強く印象に残った。

 休憩後の交響曲第5番は、広上淳一の指揮者としての能力が最大限に発揮された演奏で、この作品の持つ様々な魅力がエネルギッシュでドラマティックに、なおかつ適確なコントロールの下に描き尽くされていたのではないか。
 両端楽章はもちろんのこと、第2楽章や第3楽章のワルツにいたるまで、僕はたっぷりと愉しむことができた。
 最高のコンディションとは言えない中で、京響も広上さんの音楽づくりに十二分に応えていたと思う。
 大満足。

 アンコールも、できれば弦楽セレナード全曲を聴きたいと思えるほどの表現力豊かな演奏で、京都市交響楽団の弦楽器陣の魅力がよく伝わってきた。

 広上&京響コンビによるコンサートをもっともっと聴きたいものだ。
 その意味で、来シーズンのラインナップの発表がとても待遠しい。
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2008年09月04日

京都市交響楽団第516回定期演奏会

 ☆京都市交響楽団第516回定期演奏会

  指揮:井上 道義

  座席:2階  P1列8番(休憩前)
     3階 LB1列6番(休憩後)



 京都市北山の京都コンサートホールまで、京都市交響楽団の第516回定期演奏会を聴きに行って来た。
 かつて音楽監督兼常任指揮者をつとめた井上道義の指揮で、モーツァルトのアダージョとロンド、クセナキスのノモス・ガンマ、ホルストの組曲『惑星』の3曲が演奏されたが、実は今から18年前の1990年7月27日、指揮者・プログラムともそのまま同じという演奏会が第326回定期演奏会(井上道義の就任披露演奏会でもあった)として開催されている。
(僕も、その18年前のコンサートを聴いているのだが、当時の演奏会場の京都会館の音響の劣悪さと、『惑星』の終曲で女声コーラスが2階の後方に立って「ああああ、ああああ」やっていた程度の記憶しか残っていない)

 一曲目のモーツァルトは、もともとグラスハーモニカのために作曲された作品だが、前回と同じく井上道義がチェレスタを弾き、清水信貴(フルート)、高山郁子(オーボエ)、柳生厚彦(ヴィオラ)、中西雅音(チェロ)という京響メンバーがアンサンブルを組んでいた。
 お客さんのくしゃみや咳が少々気になったが、モーツァルトの音楽の持つ哀しさと愛らしさ、優しさがよく表れた作品であり、演奏だったと思う。

 続く、クセナキスのノモス・ガンマは一転していわゆる現代音楽作品。
 舞台後方に張り巡らされた打楽器陣による「連射」や、通常とは異なる場所にばらばらに(本当はそうじゃないけど)配置された各楽器の断末魔の如き「悲鳴」「叫び声」、そして音響的爆発といった内容のすさまじい音楽で、一見(聴)殴り書き風な音楽づくりを行い、パフォーマンスが大好きな井上道義という指揮者にとっては恰好の作品だったのではないか。
(一方で、モーツァルトの音楽と通底する「何か」を感じ取ったことも事実だけれど)
 今日この曲を聴いていて、徐々に18年前の演奏を思い出していったのだけれど、単に技術的にどうこうというだけでなく、あの時に比べて今回は、より積極性の感じられる演奏に仕上がっていたのではないだろうか。

 休憩後のホルストの『惑星』も、最近の京都市交響楽団の充実具合が十二分に発揮された演奏となっていた。
 コンサートプログラムにおける中原昭哉の楽曲解説の素っ気なさにはどうにも悲しくなってしまったが、ホルストの『惑星』は、明らかに第一次世界大戦の予兆・危機意識の産物であり、クセナキスのノモス・ガンマ同様、「同時代性」が全面に押し出された作品である。
 ただ、井上道義はことさら作品の持つそうした「社会性」、もしくは「神秘性」のみに拘泥するのではなく、よい意味で音楽的というか、『惑星』という作品の持つ音楽的魅力、音楽のツボを押さえた音楽づくりを行っていたように、僕は感じた。
 そのため、「火星」ではあまりにもかっこよく鳴りすぎて『スター・ウォーズ』の音楽をついつい思い起こさせてしまったり、『惑星』が同時代の自国や他国の作曲家の作品の強い影響のもとに作曲された作品であることを明らかにしてしまっていたりもしたのだけれど。
(『惑星』が、第一次世界大戦の予兆・危機意識の産物であり、「同時代性」を全面に押し出した作品であるのであれば、意識して無意識でかはひとまず置くとして、結果的に同時代の作曲家の作品と密接な関係を持つことは必然であるのかもしれない)
 京響は、管楽器をはじめとした個々のソロも見事だったし、アンサンブルとしてもパワフルでドラマティック、なおかつ機能性に富んだ演奏を行っていた。
(18年前と同じく、女声コーラスには、ちょっとぴんとこないものもあったが、これはまあ仕方あるまい)

 それにしても、18年という歳月の長さを今日は痛感した。
 そして、いろいろと問題はありつつも、京都に住むクラシック音楽愛好家にとって、京都市交響楽団と京都コンサートホールが存在することの重みもまた今日は痛感した。
 いずれにしても、本当に足を運んでよかったと思えるコンサートだった。
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2008年07月10日

京都市交響楽団第514回定期演奏会

  ☆京都市交響楽団第514回定期演奏会

   指揮:大友 直人
   独奏:フセイン・セルメット(ピアノ)

   座席:2階 P5列31番


 7月8日夕、北山の京都コンサートホールまで、京都市交響楽団の第514回定期演奏会を聴きに行って来た。
 指揮は、京響の前常任指揮者兼アーティスティック・アドヴァイザーで、現桂冠指揮者の大友直人、ピアノ独奏は以前京響定期でラヴェルのコンチェルトを弾いたフセイン・セルメットだった。

 一曲目は、ブラームスの大学祝典序曲。
 ブラームスの管弦楽曲の中では、セレナード第1番と同じく、賑やかしく喜ばしい気分に満ちあふれた作品で、僕自身好んで耳にする音楽の一つである。
 大友直人は、スタイリッシュでスポーティー、加えて鳴りのよい音楽づくりを行っていたが、オーケストラにどこか雑然とした感じが残っていたし、それより何より、内面からわき起こる力のようなものが不足していて、思ったほど心は動かされなかった。

 続いては、モーツァルトのピアノ協奏曲第21番。
 もともと同じモーツァルトの25番のコンチェルトが演奏される予定で、僕は本当はそちらのほうを愉しみにしていたのだけれど、大友さんのプレトーク曰く「(セルメットが)勘違いで、同じハ長調の第21番を練習してきた」云々かんぬん…。
 おっさん、何してこましとんねん!
 と、突っ込みの一つも入れたいところだが、いや、勘違いしてきただけはある。
 前回聴いたラヴェルから一転、よい意味で角のとれた、一音一音を慈しむかのように丁寧に演奏するセルメットのソロはとても聴き心地がよく、まるで上質の軟水を飲んでいるようなしっくりとした感じがした。
 一方、京響のほうは、ちょっとはずまない演奏だったような気がする。
 おっさん、やってられまっかい、という気分が指揮者やオケの面々にあったとまでは思いたくないが。

 アンコールのブラームスのインテルメッツォも、セルメットの美質がよく示された演奏で、これまたしっくりとくる。
 ただ、途中携帯の音が鳴ったのは残念だったけどね。
 そういや、前回のアンコールの時は、迷惑じいさんが邪魔をしたんだったっけ…。

 休憩を挟んで、メインはブラームスの交響曲第4番。
 速めのテンポをとった、エネルギッシュでドラマティックな仕上がり。
 というのは公式見解で、確かに、この作品の持つ一面を表してはいるのかもしれないが、なんとも一本調子に過ぎて面白くない。
 たぶんオケの機能ががっちりしっかりばりばりとしていたもう少し印象は変わったのかもしれないけれど、その意味でも今回の京響は今一つで、少なくとも、個人的にはしっくりとこない演奏だった。

 ところで、最近の大友さんって、雰囲気がやけに小澤征爾っぽくなってきたような気がするが、これって僕の気のせいだろうか?
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