2024年05月25日

京都市交響楽団第689回定期演奏会

☆京都市交響楽団第689回定期演奏会

 指揮:ヤン・ヴィレム・デ・フリーント
 独奏:デヤン・ラツィック(ピアノ)
管弦楽:京都市交響楽団

 座席:3階LB1列5番
(2024年5月25日14時半開演/京都コンサートホール大ホール)


 2020年の1月18日以来というから、約4年半ぶりに京都市交響楽団の定期演奏会をフルで聴いた。
 ヤン・ヴィレム・デ・フリーントにとって首席客演指揮者としては初の定期にあたるし、プログラムも魅力的、おまけに昨日だめ元で調べてみたらなんとこれまでの定席が残っていた。
 これは行かないわけにはいかない。
 で、足を運んで大正解。
 非常に充実した演奏を聴くことができた。

 まずは、ベートーヴェンのピアノ協奏曲第4番。
 ベートーヴェンのピアノ協奏曲の中では優美さやリリカルさが持ち味とされる曲で、例えば第1楽章の冒頭をはじめ、確かにそうした側面は今日の演奏でも的確に再現されていたが、ラツィックとフリーントのコンビだとそれだけに留まらない激しく情熱的な感情が噴き出してくる。
 特にぞくぞくとしたのは、第2楽章。
 少なくとも実演でここまで力強く重々しく圧迫するように弦楽器が鳴らされるのを聴いたのは初めてだ。
 それに向き合うラツィックの繊細でありながら硬質で強さをためたピアノがまた魅力的で、それこそ息を呑むほど集中して聴いた。
 そうした緊張から解放されるかのように始まる第3楽章だが、第1楽章同様、ここでもベートーヴェンの一連の作品と共通するドラマティックで振幅の大きな音楽を聴くことができた。
 今日の演奏で非常に印象に残るといえば、ラツィック自作の長いカデンツァだろう。
 第1楽章、第3楽章ともこの曲の旋律を巧みに引用しつつ、自らのヴィルトゥオージティを発揮させる一方、まるでこのピアノ協奏曲が今現在生まれたかのような狂おしいばかりの表現表出欲求が感じられるカデンツァだ。
 実は、昨日amazon music unlimitedで聴いてはいたのだけれど、やはり生で聴くと格別である。
 終演後、大きなブーイング(たぶん)を発する男性がいたが、もしかしたらこのカデンツァに対するものだったのか。
 もちろん僕はブラボーを捧げる側に与したい。
 京都市交響楽団も、フリーントの求めるピリオド奏法、強弱緩急の変化を自らのものにして、全く間然としない。
 ソロでラツィックと掛け合いをしたチェロの首席客演、櫃本瑠音や切れ味抜群のティンパニー・中山航介そのほか、変わらずいいオーケストラだと思う。
 なお、ラツィックのアンコールは、ショスタコーヴィチの3つの幻想的舞曲から第1曲「行進曲」。

 休憩を挟んだ後半は、シューベルトの交響曲第1番。
 16歳のシューベルトが作曲した若書きの作品で、いわゆるオーソドックスな演奏だと冗長に感じたり、第4楽章の冒頭なんて橋田壽賀子あたりのホームドラマのテーマ曲風で安っぽく聴こえたりして、昔は正直好んで聴く曲ではなかった。
 ところがピリオド奏法が主流となって、この曲の魅力が俄然クローズアップされるようになった。
 今日のフリーントの演奏などまさしくそう。
 第1楽章は序奏が終わったとたん、きびきびはきはきと音楽が始まりそこからは一気呵成。
 切れば血が出るような音楽で、聴いていて本当にわくわくしてくる。
 シューベルトらしい歌謡性が発揮された第2楽章、緩やかに管楽器が絡み合う第3楽章の中間部、いずれも美しい。
 そして、青春の感情の迸りそのものの終楽章、中でも音楽が軋み出すというのか終盤の転調にはぞくぞくとした。
 京都市交響楽団はここでも好調だった。

 アンコールは昨夜演奏されたモーツァルトのセレナード第13番「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」の第3楽章。

 と、大いに満足したコンサートだった。
 どうにも残念だったのは、けっこう空席が多かったこと。
 これだけの演奏、これだけの音楽、なかなか生では聴けないもの。
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2024年01月12日

京都市立芸術大学 指揮専攻 〜卒業試験〜

☆京都市立芸術大学 指揮専攻 〜卒業試験〜

 指揮:森脇涼/福澤佑樹
 管弦楽:京都市立芸術大学音楽学部・大学院管弦楽団
(2024年1月12日19時開演/京都市立芸術大学堀場信吉記念ホール)


 たまたま京都市立芸術大学のサイトのイベント欄をのぞくと、先日の藤居知佳子さんの声楽リサイタルで見事なピアノ伴奏をつとめていた森脇涼さんがプッチーニの『ラ・ボエーム』の一幕を振るというではないか。
 実は、昨年の12月に森脇さんがラッヘンマンなど現代音楽を指揮するのも知っていて当日まで行く気満々だったのに体調不良で断念せざるをえなかった。
 しかも、期間が延長されたおかげで予約は今日(1月10日夜)までOK!
 これは何かの巡り合わせ。
 と、マテリアリストらしからぬスピ的発想で早速予約をした。

 で、予定通り、京都市立芸術大学指揮専攻の卒業試験を聴いてきた。
 会場は京都駅近くに移転のなった京都市立芸術大学は堀場信吉記念ホール。
 大通りに面して至極わかりやすい場所にある。
 ホールは800人規模で、大きく鳴るホールだというのがまずもっての印象だ。
 今さっき調べてみたら、なるほどあの永田音響設計の手によるものだった。

 前半は、森脇涼さんが指揮したプッチーニの歌劇『ラ・ボエーム』の第1幕。
 ちなみに、『ラ・ボエーム』はプッチーニの中で一番CDを聴いているにもかかわらず、一度も実演に接したことがないオペラだ。
 さて、自作の管弦楽曲、交響的奇想曲から転用した旋律から始まる第1幕は、パリのボヘミアンたちの会話から家主との滑稽なやり取りを経てヒロインのミミと詩人ロドルフォの出会いに至るといった風に、登場人物の紹介とドラマの始まりが巧くまとめられていて、全く間然とするところがない。
 さらに、プッチーニのオーケストレーションがすこぶる冴えている。
 ワーグナーからの影響が色濃い金管の強奏や、逆に心の細やかな動きでの弦楽器の囁きと、劇の進行にあわせて音楽が滑らかに変わっていくのだが、コレペティトゥアや声楽器楽の伴奏に副指揮と、ドイツのカペルマイスター流儀の研鑽を積み重ねている森脇さんは、そうした変化を余すところなく的確に指示していく。
 だけではなく、ここぞというところでの音楽の歌わせ方を聴くに、藤居さんのピアノ伴奏でも感じていたことだが、この人は心底歌が、オペラが好きなんだなあと思う。
 中でも、コミカルな掛け合いが一段落ついたあと、ミミとロドルフォの邂逅するときの音の変わり具合にははっとさせられた。
 楽器のソロの入りや曲の終わりなどや、先述したホールの音響の特性もあってオケが大きくなるとどうしても歌を覆ってしまいそうになるなど要所急所もあったが、森脇さんはオケと歌手のバランスをとりながらなんとか乗り切っていたし、歌手陣もまた豊かな声量で自らの歌を響かせていた。
 そう、今回の演奏では歌手陣が予想していた以上に素晴らしかった。
 ミミ(高田瑞希)、ロドルフォ(有本康人)、マルチェッロ(西村明浩)、ショナール(浦方郷成)、コッリーネ(佐貫遥斗)、ベノア(森川知也)という配役で、お針子さんや無頼の芸術家にしては少々上品過ぎるかなと思いもしたが、森脇さんの音楽づくり同様均整のよくとれたアンサンブルと粒の揃った美声で、特に有本さんと高田さんのアリアにはぐっと聴き入った。
 できれば、このまま全曲聴きたかったほど。

 15分の休憩を挟んだ後半は、福澤佑樹さんが指揮するベートーヴェンの交響曲第7番。
 ベートーヴェンの7番といえば、つい先日『のだめカンタービレ』の再放送をやっていたが、などと考えていたが、帰宅してパンフレットに目を通すと、5歳の頃、『のだめカンタービレ』でこの曲と出会ったと福澤さん自身が書いていた。
 山椒は小粒でもぴりりと辛いというが、福澤さんの場合は、ぴりりどころか口の中が炎のように燃えかねない相当スパイシーで激しい音楽だ。
 と言っても、御大炎の指揮者のような歌うところはじっくり歌い込むのとは正反対。
 それこそ『のだめ』で一躍有名になった第1楽章の第1主題が盛り上がるところやら第3楽章はもちろんのこと、第2楽章も速いテンポで飛ばす。
 そして、終楽章は一気呵成。
 実に若々しい演奏だった。
 ただ、単に若々しいだけではなく、弦楽器の鳴らし方にはピリオド・スタイルの援用というか影響も感じた。
 もう10年以上前になるか、指揮者の本多優之さんを講師に招いた関西の音大生によるピリオド奏法に関するレクチャーの制作を手伝ったことがあるが、今夜のオケの面々の反応を見るに、ピリオド・スタイルに関する流れは大きく変わっているなあと思わずにはいられない。
 ほかにも、随所随所で工夫がうかがえる反面、リピートの入りなどたどたどしいというか雑然とするというか、若干コントロールの不足を感じる部分もなくはなかった。
 とともに、前にも書いたホールの特性もあって、全てを音量音力が圧倒するというのか、音楽が一本調子に聴こえるきらいもなくはなかった。
 部外者の余計な戯言だけれど、やるなら『のだめ』よろしくコントラバスをぐるぐる回すまでやるなど、徹底的に無茶をやり切ってもよかったのではないかとすら僕は思う。
 それで落第したところで、全く損はない。
 1年を棒に振ったのではなく、1年余分に棒を振ることに対して真剣に向き合う時間ができたと思えばいいのだから。
 それに、「あいつ『のだめ』の真似をして落第したんだって、馬鹿だなあ」という言葉は芸術家にとってはなんら恥ずべきことではないだろう。
 それどころかのちのち大きな勲章にもなりかねない。
 世情を賑わす諸々のハラスメントなどは絶対に度し難いが、こういう無茶ならいくらでも…。
 いや、好き勝手を言い過ぎた。

 いずれにしても、足を運んで本当によかった。
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2023年11月18日

藤居知佳子メゾソプラノリサイタル

☆藤居知佳子メゾソプラノリサイタル

 出演:藤居知佳子(メゾソプラノ)、森脇涼(ピアノ)
(2023年11月18日18時半開演/青山音楽記念館バロックザール)


 初めて藤居知佳子の歌声に接したのは2013年6月23日の夕暮れ社 弱男ユニット『夕暮れ社、海のリハーサル』だから、ちょうど10年前ということになる。
 で、声量があって美しい声質の持ち主が参加しているなと感心感嘆して、夕暮れ社の公演にとどまらず、藤居さんがオペラ・アリアを歌う同志社女子大学のオーケストラ・コンサートや同女名物の『フィガロの結婚』、関西の音楽大学オーケストラ・フェスティバルでのマーラーの復活のソロ、さらに彼女が京都市立芸術大学の院に進学しても、院生によるオペラ公演と、度々彼女の歌を聴いてきた。
 そういえば、錦湯での落語会・座錦湯に夕暮れ社が出演した際(藤居さんの歌うシューマンの女の愛と生涯がメインで、他の面々がその背景を演じてみせるスタイル)は、その橋渡しをやったりもしたっけ。
 ただ、2019年1月の修士演奏を最後に、新型コロナやこちらの健康状態の変化(服薬)もあって、びわ湖ホール声楽アンサンブルでの彼女の活躍に触れることができず非常に残念な思いをしていた。
 その彼女が、初めてのリサイタルを開催するという。
 藤居さん本人に演奏時間などを確認し、それなら大丈夫だと判断して足を運ぶことにした。

 藤居さんの歌唱の特性魅力をあげるとすれば、まずは豊かな声量と幅広い声域だろうが、そこに向日的な歌声、歌いぶりをどうしても加えたい。
 陽キャと呼ぶには、ちょっとおっとりした感じがするし、コミカルともやはり違う。
 その意地の悪さのなさには、向日的という言葉がぴったりだ。

 プログラム最初のシューベルトの3曲、『シルヴィアに』、『羊飼いの嘆きの歌』、『憩いなき愛』は、そんな彼女の名刺代わり。
 ああ、藤居さんの歌だなあとちょっとだけ懐かしく思った。
 しかし、バロックザールだと彼女の歌声はなおのことよく響くなあ。

 続いては、マーラーの若き日の歌から第1集の5曲。
 マーラーが青年時代に作曲した歌曲で、若々しくて屈折が少ないところは、藤居さん向きか。
 ここでは、彼女の高音も強く印象に残る。
 中では、マーラー自身が詞を書いた民謡調の『ハンスとグレーテ』が愉しい。
 そうそう、グレーテルが出てくるからもあってだけれど、藤居さんはフンパーディンクの『ヘンゼルとグレーテル』には出ていなかったっけ。

 前半最後は、ヴォルフの、ゲーテの『ヴィルヘルム・マイスターの修業時代』による4つの歌曲。
 一転、ここではシリアスな表現が必要とされる。
 最後の「あの国を知っていますか」には、ついつい絶唱という言葉を使いたくなるほど。
 森脇さんも藤居さんの歌に負けじと激しいピアノで応じていた。
 しかし、この感情の高まりを耳にすると、今度はどうしても彼女が歌うワーグナーを聴いてみたくなる。

 休憩を挟んだ後半は、深尾須磨子の詞による高田三郎の『パリ旅情』から。
 この曲では、もちろん日本語の歌曲をどう歌うかということが主眼となるが、それとともに、自分自身の歌唱を如何に意識してコントロールしていくかも試されていたように感じた。
 高田三郎の旋律の美しさ、ストレートさは藤居さんの柄と齟齬がないし、台詞風の箇所では彼女のびわ湖でのこの間の研鑽が窺えた。
(藤居さんが歌う高田三郎の歌曲を聴きながら、日本語の歌曲・ソングを作曲することや、歌うことについてかつて林光さんが話されていたことを思い出した。その意味でも、藤居さんが『森は生きている』にどう取り組んだかはとても興味深い)

 プログラム最後は、マスネの歌劇『ウェルテル』の手紙の歌。
 同じくびわ湖ホールでの研鑽がうかがえる熱唱であり劇唱だった。

 アンコールは、藤居さんが大好きな武満徹の『うたうだけ』。
 「むずかしいことばはいらないの、かなしいときにはうたうだけ」
 という谷川俊太郎の歌詞が、彼女の歌の全てを象徴しているようだ。

 森脇さんは現在京都市立芸術大学で指揮を学んでいるそうだが、細部に目配りの効いた伴奏で、藤居さんをよく支えていた。
 伴奏、コレペティトゥアと昔のドイツ流儀の研鑽を積んでいるようで、できれば実際のオペラ指揮も聴いてみたい。


 今回のリサイタルは、藤居さんの今が100パーセント示されるものになっていた。
 その分、いろいろと課題も明らかになっただろうが、そうした課題をクリアしながら藤居さんがどのような声楽家、音楽家、表現者となっていくか愉しみでならない。
 オペラもそうだけれど、今度はブラームスのアルト・ラプソディやエルガーの海の絵など、管弦楽との共演をキャパの広いホールで聴いてみたい。
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2020年02月15日

京都市交響楽団第642回定期演奏会(後半のみ)

☆京都市交響楽団第642回定期演奏会(後半のみ)

 指揮:リオ・クオクマン
管弦楽:京都市交響楽団

 座席:3階LB1列5番
(2020年2月14日/京都コンサートホール大ホール)


 仕事終わりに自転車を必死でこいで、京都市交響楽団第642回定期演奏会の後半、メインのプロコフィエフの交響曲第5番を聴いた。
 プロコフィエフの交響曲第5番を生で聴くのは、1991年7月2日の同じ京都市交響楽団の第336回定期演奏会(京都会館第1ホール)以来ということで、なんと約30年ぶりということになる。
 よくよく考えてみれば、崩壊間際とはいえ、あのときはまだソ連が存在していたのだということに思い当たる。
 指揮はセルジュ・ボド。
 当時の京都市交響楽団の水準や京都会館のデッドな音響、そしてボドの押しの強い音楽づくりもあって、猛進なれどとっちらかった印象も強い演奏だったような記憶が残っている。
 一方、今回の指揮はマカオ出身でアメリカでも学んだリオ・クオクマン。
 第1楽章の強音、第2楽章の駆け足、そして第4楽章でのせかされるような幕切れと、ごちゃごちゃとごちゃつくことのないオケの鳴らしっぷりをよく心得ていることはいうまでもない。
 が、それとともに、クオクマンはこの曲のもう一面である抒情性、ロマンティックな表情を重視することも忘れてはいない。
 中でも第3楽章、音を手繰り寄せるような指揮の下、弦楽器がたっぷりと歌う。
 まるで映画音楽かなにかのようなわかりやすい美しさだ。
 だけど、それ以上に強く印象に残ったのは後半、同じ弦がぞわぞわと這い上がるというか、近寄ってくるような部分だった。
 いずれにしても、この曲の持つ多様な側面を改めて考えることができて、実に愉しかった。
 クオクマンの指揮に応えて、京都市交響楽団も精度の高い演奏。
 これで、後半券1000円はほんとに安い。
 ああ、面白かった!!!

 それにしても、芥川也寸志ってプロコフィエフの交響曲第5番の影響を相当受けてるんだなあ。
 ふとそんなことも思ってしまった。
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2020年01月19日

京都市交響楽団第641回定期演奏会

☆京都市交響楽団第641回定期演奏会

 指揮:ジョン・アクセルロッド
 独奏:アンドレアス・ブラウ(フルート)
管弦楽:京都市交響楽団

 座席:3階LB1列5番
(2020年1月18日14時半開演/京都コンサートホール大ホール)


 2020年いっとう最初の京都市交響楽団の定期演奏会に足を運んだ。
 指揮はこれまで何度も客演しており、来シーズンからは首席客演指揮者への就任が決まっているジョン・アクセルロッド。

 それにしても、今回のプログラムはアクセルロッド側の希望か、それともアクセルロッドのレパートリーから京響側の担当者が選んだものか。
 19世紀初頭に長い眠りを醒ました女神アテーナ―が、オスマン帝国の支配によって廃墟となったアテネよりハンガリーのペストへと移動するという劇音楽『アテネの廃墟』の序曲。
 シナイ半島で戦車の中で死んだイスラエルのフルーティスト、ヤディンの追悼のために作曲されたバーンスタインの「ハリル」。
 第二次世界大戦中、ドイツ軍に攻囲されたレニングラードでその第3楽章までが書かれ、初演されるや否や連合国側で数多く演奏されることとなったショスタコーヴィチの交響曲第7番。
 昨今のきな臭い状況を考えれば実に意味深い、しかし逆にアクセルロッドがアメリカ出身ということもあって、より政治性の強さを批判される可能性もなくはない、いずれにしてもはっきりとした主題を持ったプログラミングだ。
(ちなみに、ショスタコーヴィチの交響曲第7番の作曲や初演の過程については、ひのまどかの労作『戦火のシンフォニー』<新潮社>をご参照のほど)
 だが、アクセルロッドは的確な楽曲把握やオーケストラとの固い信頼関係によって、そうした主題に寄りかかることなく、音楽の持つ力、作品の魅力をまずもって示してくれた。

 一曲目の『アテネの廃墟』序曲は、ピリオド・スタイルの影響もうかがわせるクリアで軽快な演奏。
 見事なソロを披露したオーボエやファゴット奏者とともにティンパニの中山航介に一人で立つようアクセルロッドが促したのも大いに頷ける。

 続く、独奏フルートと弦楽オーケストラ、打楽器のためのノクターン「ハリル」は、ヘブライ語でフルートの意味のあるハリルという名に恥じぬ、フルートの技巧が発揮されるように工夫された内容で、基本の旋律は耳馴染みがよい。
 独奏は、長くベルリン・フィルのソロ・フルート奏者をつとめたアンドレアス・ブラウ。
 抜群の妙演であることは言うまでもないのだけれど、そこはオーケストラで活躍してきたブラウだけあって、それが己の巧さをひけらかすためのものではないこともしっかりと伝わってくる。
 アルトフルートとピッコロ、打楽器群との絡みも素晴らしかった。
 アンコールは、ドビュッシーのシランクスで、こちらも惚れ惚れとする音色だ。
 加えて、長年の経験から培ったブラウの揺るぎのなさをひと際感じさせられた。

 そして、休憩を挟んだメインのショスタコーヴィチの交響曲第7番には強く心を動かされた。
 と、言っても、アクセルロッドがこれ見よがしの大爆演、身も世もあらぬ大芝居ではったりかましたわけではないことは、上述した通りだ。
 会場の盛大な拍手を受けて最後にスコアを手にした如く、アクセルロッドは作品をよく読みこんで全体の結構をよく捉え、鳴らすべきところは壮大に鳴らしつつ、抑えるべきところは精緻に抑えるなど、要所急所をよく押さえた音楽づくりに徹していた。
 例えば、かつてアーノルド・シュワルツェネッガーと宮沢りえが「ちちんぷいぷい」とCMで歌ったことのある第1楽章の戦争の主題の暴力性に圧倒されるのは、その前の平和の生活の主題のゆったりと美しい表現や、戦争の主題の開始のスネアドラムと弦のピチカートの弱音があってこそのものだと改めて思い知らされた。
 とともに、この部分がラヴェルのボレロに影響されたものであろうことも改めて思い起こされた。
 そう、今回の演奏では、この作品の持つ諧謔性や旋律の美しさもよく再現されていたのである。
 ソロ・アンサンブル両面で京都市交響楽団はアクセルロッドによく応えており、今後のさらなる共同作業が愉しみで仕方ない。
 いやあ、本当にいいものを聴いた。
 ああ、素晴らしかった!!!
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2019年11月16日

京都市交響楽団第640回定期演奏会(後半のみ)

☆京都市交響楽団第640回定期演奏会(後半のみ)

 指揮:シルヴァン・カンブルラン
管弦楽:京都市交響楽団

 座席:3階LB―2列1番
(2019年11月16日/京都コンサートホール大ホール)


 京都市交響楽団の第640回定期演奏会の後半のみ、メインのストラヴィンスキーのバレエ音楽『春の祭典』を聴いてきた。
 京都市交響楽団の定期演奏会でハルサイを聴くのは、小林研一郎が指揮した1988年6月25日の第305回定期演奏会以来だから、なんと30年以上ぶりということになる。
 今のようにゴッホの如く炎、炎と喧伝される前だったとはいえ、コバケンさんが師匠昭和のヤマカズ山田一雄譲りのやたけた上等、おまけに歌うところはむせび歌う式の音楽づくりな上に、当時の京響の精度の問題があり、さらには会場の旧京都会館第1ホールの劣悪な音響まで加わって、まさしく野蛮の極み、かつ土着性を強く感じる演奏だった、と記憶している。
 それでは、フランス出身のシルヴァン・カンブルランが指揮した今日のハルサイはどうだったか。
 実は、ともったいをつける必要はないだろうが、カンブルランが指揮したハルサイに僕は一度実演で接したことがある。
 2010年5月3日に大阪のザ・シンフォニーホールで開催された読売日本交響楽団の大阪公演がそれで、このコンサートに関しては読売新聞関係の招待チケットに絡んだややこしい出来事があったのだけれど、ここでは省略。
 重心が低いというか、テンポも含めて重さを覚えたことがいっとう最初に思い出すことだが、あとは2階左サイド、オーケストラの真横という席があてがわれたこともあり、大管弦楽の音響に圧倒されたというのが正直なところだ。
 で、京都市交響楽団に対しても、カンブルランは同様の解釈をとっていた。
 ただ、京都コンサートホールの音響の特性のおかげか、今回のほうがよりカンブルランの意図をくみ取ることができたようにも思う。
 ファゴット(首席奏者中野陽一朗)のソロからじわじわゆっくりと音楽を始めるあたり、そうそうあのときもこうだったと読響の演奏をすぐに思い起こす。
 一方で、カンブルランが音楽の構造をしっかりと腑分けし、要所急所を的確に押さえた、非常にクリアで明晰な、それでいて音楽の持つ暴力性の表現においても秀でた演奏に仕上げていたことも事実だ。
 ただし、その暴力性はバーバリズム(野蛮性)や土着性を前面に押し出した前近代的なそれとは大きく異なり、より純音楽的、もしくは音塊的とでも呼べようか。
 いや、今回の演奏でもバーバリズムや土着性が無視されていたわけではない。
 けれど、そのバーバリズムや土着性は、大いなるセンセーションを巻き起こすための意匠、といえば言い過ぎになるかもしれないが、やはり次のステップアップを果たすための試行であり志向の一端ように思われてならない。
 いずれにしても、この春の祭典という音楽の持つ前衛性、音楽史のエポックメーキングとしての意味と意義を再認識させられた。
 とともに、劇場感覚にも富んでいたことも事実で、ここぞというところでは大いにわくわくすることができた。
 もちろん、それはストラヴィンスキーの楽譜を丁寧に読み込んだ結果であり、カンブルランがあざとさと無縁であることは改めて言うまでもあるまいが。

 京都市交響楽団(コンサートマスターは客演の豊嶋泰嗣)はそうしたカンブルランによく応えて、ソロ・アンサンブル両面で精度の高い演奏を聴かせていた。
 大管弦楽の妙味ってこういうことなんだよなあ、と強く感じた次第。
 ああ、面白かった!!!
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2019年10月12日

京都市交響楽団第639回定期演奏会(後半のみ)

☆京都市交響楽団第639回定期演奏会(後半のみ)

 指揮:ラルフ・ワイケルト
管弦楽:京都市交響楽団

 座席:3階LB-2列2番
(2019年10月11日/京都コンサートホール大ホール)


 長生きも芸のうち。
 とは、先代の桂文楽に吉井勇が与えた和歌の冒頭の部分で、のちに吉井は元気で長生きもと言葉を付け加えた旨、矢野誠一の著書で目にした記憶があるのだが、いずれにしても、芸術芸能に関する至言ではなかろうか。
 そして、京都市交響楽団の第639回定期演奏会のメインプログラム、ブルックナーの交響曲第4番「ロマンティック」を指揮するラルフ・ワイケルトの姿を目にしたとたん、その至言のことがすぐに思い起こされた。

 ワイケルトは、ブルックナーと関係の深いオーストリアのザンクト・フローリアンの生まれ。
 はじめリンツ・ブルックナー音楽院で学び、ウィーン国立音楽大学ではハンス・スワロフスキーに薫陶を受けた。
 コンサート、オペラの両面で活躍し、かつてはNHK交響楽団、近年では新国立歌劇場や新日本フィルハーモニー交響楽団への客演と来日回数も少なくない。
 ただ、僕自身にとってワイケルトといえば、クラシック音楽を聴き始めた頃にNHKのFMで接したザルツブルク・モーツァルテウム管弦楽団との小ぶりなモーツァルトの印象が強く、当然実演に接するのも今夜の京都市交響楽団の定期演奏会が初めである。

 で、1940年の11月というからまもなく79歳になるワイケルトだけれど、まさしく長生きも芸のうち、元気で長生きも芸のうち、と口にしたくなるような指揮ぶりであり音楽づくりだった。
 と、言っても、セルジュ・チェリビダッケ流儀の非常にゆったりとしたテンポのブルックナーやロヴロ・フォン・マタチッチ流儀のグロテスクさも厭わぬ荒々しいブルックナーといった、これぞ老巨匠のブルックナー演奏とは、ワイケルトの行き方は違う。
 ワイケルトの演奏には、身近な場所にずっとブルックナーの音楽が存在していたことから生まれるぶれのなさ、けれんのなさ、ブルックナーはかくあるべきという自信と矜持をまずもって感じる。
 むろん、そこはスワロフスキー門下、テキストの細部まで精緻に目配りを行い、オーケストラの均整を巧みにとることによって、緩急強弱、さらには音色の硬軟の変化を的確に生み出していたことも忘れてはなるまいが。
 そして、例えば、金管楽器の強奏部分などでは単にオーケストラ・コンサートでの経験ばかりでなく、ワーグナーをはじめとしたオペラ指揮で培われてきた劇場感覚の片鱗もまた大きく窺われもした。
 いずれにしても、ワイケルトの指揮者としての長年の経験が結実した演奏であり、非常に聴き応えがあった。
 ホルンの垣本昌芳をはじめ、ソロ・アンサンブルともに京都市交響楽団の面々もワイケルトの解釈のよくそって全体的に精度の高い演奏を繰り広げていたのではないか。
 中でも、ティンパニの中山航介の第2楽章での連続音やここぞというところでの鋭い連打が忘れがたい。
 適うことならば、ワイケルトと京都市交響楽団の組み合わせでブルックナーのほかの交響曲、特に後期の第7番、第8番、第9番をぜひ聴いてみたい。
 ああ、面白かった!!!

 そうそう、ワイケルトの著書『指揮者の指名』が水曜社から刊行されて、ホールでも販売されていたのだった。
 果たしてどのような内容か。
 とても興味深い。
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2019年04月07日

京都市交響楽団スプリングコンサート

☆京都市交響楽団スプリングコンサート

 指揮:下野竜也
 独奏:豊嶋泰嗣(ヴァイオリン)
    上村昇(チェロ)
    上野真(ピアノ)
    ハラルド・ナエス、西馬健史(トランペット)

 座席:3階LB1列5番
(2019年4月7日14時半開演/京都コンサートホール大ホール)


 京都市交響楽団の新シーズンスタートとなるスプリングコンサートを聴きに、京都コンサートホールまで足を運んだ。

 まずは、京響トランペット奏者のハラルド・ナエス(首席)と西馬健史が独奏を務めたヴィヴァルディの2つのトランペットのための協奏曲ハ長調から。
 正直言って大有名曲の四季を含めて、クラシック音楽に親しみ始めた頃からヴィヴァルディという作曲家の作品があんまり好みではなかったのだけれど、どんな気の迷いかクリストファー・ホグウッドとアカデミー・オブ・エンシェント・ミュージックらが演奏したヴィヴァルディの協奏曲集のLPを買って聴いているうちに、この2つのトランペットのための協奏曲は好きになった。
 2本のトランペットの華々しい響きが印象的な作品で、二人の独唱者は朗々と美しく、かつ技巧的にも不足なく全曲を吹き切っていた。
 一方、最小限度に刈り込んだ弦楽器にチェンバロ(西脇小百合の客演)を加えたアンサンブルは、ピリオド・スタイルは意識しつつも、角の立たないインティメートな伴奏で二人を支えた。

 で、舞台転換の合間に下野さん、独奏者の二人によるマイクトークが行われたのちは、京都市立芸術大学と深い繋がりのある三人の独奏者を迎えた、ベートーヴェンのヴァイオリン、チェロ、ピアノのための三重協奏曲が演奏された。
 簡単にいえば、ピアノ3重奏を協奏曲に組み込んだ作品ということになるか。
 約30年前の朝比奈隆指揮の大阪フィルの定期の前半で聴きそびれて以来、生で聴くのは今回が初めてである。
 ベートーヴェンの作品の中ではあまり出来がよくないなどとかつては言われていた曲だけど、明るさと抒情性をためた旋律に満ちており、聴いていて実に愉しい。
 豊嶋泰嗣、上村昇、上野真の独奏は三者三様で、それぞれの来し方、年輪の重ね方がよく伝わってくる。
 テンポの緩急など、オーケストラはここでもインティメートな伴奏で独奏者をよく支えていた。

 休憩を挟んで、メインはドヴォルザークの交響曲第9番「新世界より」。
 ところどころライヴ特有の傷を感じたりもしたが、現在の京都市交響楽団の水準をよく知らせてくれる演奏でもあった。
 下野さんは、基本は速めのテンポで淀みなく、エネルギッシュに音楽をつくっていく。
 もちろん、だからといって繊細さに欠けているわけではなく、第2楽章の弦楽器のソロによる静かな部分など強く印象に残ったが。

 最後は、下野さんが京響史上最短のアンコールという、ベートーヴェンの歌劇『フィデリオ』の行進曲で〆た。

 生でオーケストラを聴くのはやっぱり愉しいや!
 ああ、面白かった!!
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2019年02月22日

同志社交響楽団 第8回海外公演出発演奏会

☆同志社交響楽団 第8回海外公演出発演奏会

 指揮:海老原光
(2019年2月22日18時開演/同志社大学寒梅館ハーディーホール)


 昭和の終わり頃まで長崎県内で過ごした人間にとって、團伊玖磨という作曲家は非常に身近な存在であったのではないか。
 おなじみ『ぞうさん』や『やぎさんゆうびん』といった有名な童謡はひとまず置くとして、長崎市内の県立高校(いわゆる長崎五校)の音楽会で歌った長崎県立北陽台高校の校歌を作曲したのが團伊玖磨だし、同じくその音楽会で歌った、というよりテレビ長崎(KTN)の夜の天気予報でさびの部分が連日放送されていた西海讃歌を作曲したのも團伊玖磨だったからだ。
 そういえば、あれは中学のH先生だったか、高校のA先生だったか、團さんの西海讃歌はヴェルディのオペラの…と言葉を濁して話していたことがあったっけ。
 西海讃歌の旋律は、ヴェルディの歌劇『ナブッコ』の合唱曲「行けわが想いよ黄金の翼に乗って」の旋律にどことなく(?)そっくりだったのである。
 まあ、それはそれとして、團伊玖磨は6曲の交響曲を作曲したこの国屈指のシンフォニストでもあった。
 その團伊玖磨のいっとう最初のイ調の交響曲を同志社交響楽団が演奏するというので、同志社大学寒梅館まで足を運んだ。
 以前山田一雄指揮ウィーン交響楽団の録音に接したことはあるものの、今では第1番と呼ばれる團伊玖磨のイ調の交響曲を生で聴くのは、今回が初めてである。
 日本風の旋律を、フランクやショーソン(彼の交響曲の終楽章に、『ぞうさん』そっくりなメロディが現れる)といったフランス近代楽派を中心とした西洋流のモダンな構成に織り込んだ意欲的な交響曲…。
 と、まとめてしまうと、ちょっと単純に過ぎるかな。
 團さんらしいホルンの効果的な使用など、鳴らすべきところはしっかり鳴らし、歌うところはたっぷり歌った、耳馴染みのよい音楽である。
 そうした交響曲イ調を、鹿児島出身で小林研一郎らに指揮を学んだ海老原光は、強弱緩急のはっきりした音楽づくりで再現していた。
 正直、團さんの音楽の基本の部分には、大陸的というか、もう少し良い意味での大まかさ、緩さがあるようにも思うのだが、今回の演奏が真摯で立派なものであったことは確かだ。

 師匠の炎の指揮者コバケンが良くも悪くも解放・開放の人だとしたら、終演後の奏者の立たせ方も含めて、海老原さんは全てを手の内でコントロールしたい、言い換えれば、統率のよくとれた音楽の作り手のように感じられる。
 そうした海老原さんの美質特質が十全に発揮されていたのが、メインのドヴォルザークの交響曲第9番「新世界より」ではないか。
 推進力前進力抜群、エネルギッシュでパワフル、さらには寒梅館ハーディーホールの音響もあってかもしれないが各楽器の動きがはっきりとわかる明晰さ(團伊玖磨の交響曲でもそうだったし、一曲目のブラームスの大学祝典序曲でもそうだったが)、それでいて第2楽章の弦楽器の首席奏者たちだけのアンサンブルのように表現の細やかさも失われない。
 大柄な手振りでありながら粗雑さとは無縁の指揮姿に相応しい、格好が良くて勢いのある演奏だった。
 技術的な限界は当然ありつつも、同志社交響楽団の面々も海老原さんの意図によく副う努力を重ねていた。

 そうそう、大学祝典序曲の前に、同志社カレッジソングが指揮者なしで演奏されたんだけど、あの曲を聴くと、どうしても『カサブランカ』のナチスの連中が歌っているシーンをどうして思い出してしまうなあ。
 ここらあたり、前学長で映画好きの村田晃嗣先生に詳しく訊いてみたくもある。

 ちなみに、今回のコンサートは3年ごとに開催されている海外公演(3月4日、プラハにて)を記念した第8回海外公演出発演奏会。
 開演前、会場のスメタナホールにトラブルが発生したため、別会場で公演を実施する旨、実行委員長の学生さんからアナウンスがあったが、まずは無事開催と成功盛況を祈るばかりである。
 そして、海老原さん流儀の團伊玖磨の交響曲や「新世界より」がプラハの人々からどう受け止められるのか実に興味深い。
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2019年02月18日

京都市立芸術大学第160回定期演奏会・大学院オペラ公演 モーツァルト:歌劇『ドン・ジョヴァンニ』

☆京都市立芸術大学第160回定期演奏会 大学院オペラ公演
 モーツァルト:歌劇『ドン・ジョヴァンニ』

 指揮:小ア雅弘
 演出:今井伸昭
管弦楽:京都市立芸術大学アカデミーオーケストラ
(2019年2月17日14時開演/京都市立芸術大学講堂)


 鬼才テオドール・クルレンツィスと手兵ムジカ・エテルナが遂に来日した。
 京都国際舞台芸術祭を名乗るのであれば、彼ら一党を呼んでモーツァルトのダ・ポンテ三部作の一挙上演に踏み切ったらいいではないか!
 と、常日頃から公言、及び広言していた人間だもの、そりゃフェスティバルホールでの公演には足を運んだ…かというとさに非ず。
 むろん、ロームシアター京都ではなくフェニーチェ堺が勧進元になったことに僻めを感じたってわけではなくて、まずは経済的な事情。
 加えて、音響はひとまず置くとして、フェスティバルホールなんて大きめのホールではちょっと聴きたくないなと思ったのがその主たる理由である。
 これが演奏会形式でもいい、モーツァルトのオペラ、中でも『ドン・ジョヴァンニ』あたりの上演だったら迷わず足を運んだことだろう。
 その怪僧ラスプーチン的な容貌風貌もあいまって(と、言っても彼はギリシャ出身だけれど)、クルレンツィスの強烈な個性と鋭い音楽解釈には『ドン・ジョヴァンニ』がよく似合う。
 実際、耳にしたCD録音のうち、やはり『ドン・ジョヴァンニ』が彼の柄にぴったりのように感じられた。
 デモーニッシュでサタニッシュな音楽世界、劇的世界。
 が、音楽家が誰しもクルレンツィスになれるわけではない。
 し、またクルレンツィス流儀のみが音楽家の生き方、在り方なわけでもない。
 そのよい例の一人が、昨日目にし耳にしたチェリストの遠藤真理ということになるのではないか。

 と、そんなことを、京都市立芸大講堂で開催された第160回定期演奏会/大学院オペラの『ドン・ジョヴァンニ』公演で、大学院修了生である高橋純(ドン・ジョヴァンニ/大柄な歌いぶり)、蔦谷明夫(ドン・オッターヴィオ/美声)、浦方郷成(マゼット)、畑奨(騎士長)と並んで真摯な歌唱を聴かせる原田菜奈(ドンナ・アンナ)、禅定由理(ドンナ・エルヴィラ)、藤居知佳子(ヅェルリーナ)、宮尾和真(レポレッロ)ら出演者たちに接しながら、考えずにはいられなかった。
(いや、彼女彼らの中にもクルレンツィスに通じる天才気質や音楽的デモーニッシュ、サタニッシュの萌芽を感じさせる人がいないわけではなかったが、たぶんそのことを本人は自覚していないはずなので、あえて名指しは避ける。避けるが、技術的な巧拙よりも前に、そうした自分自身の性質、本質と向き合うことが、実は技術的なステップアップにも結果的に繋がるのではないかと思わずにはいられない)
 それはそれとして、今後の課題は様々にあるだろうけれど、これぞヒロインといった原田さん、ラストで修道院に入ると口にするのがぴったりな清教徒的清楚さをためた禅定さん、コケティッシュでコメディエンヌぶりの藤居さん(声域的に難しい役どころだったろうが、よく乗り切っていた)、コメディリリーフ的な要素を巧く引き受けた宮尾君と、上述の面々ともども登場人物のキャラクターによく副った声質と雰囲気で、十分に愉しむことができた。

 もちろん、そこには今井伸昭の細かな演技指導を含む演出の存在も忘れてはなるまい。
 「教育」が公演の基礎にあることや出演者がオペラ経験の少ない院生中心であること、さらには予算的な限界もあって基本部分はオーソドックスな演出といえるだろうが、昨年の『コジ・ファン・トゥッテ』以上に目配せを感じる内容となっていたのではないだろうか。
 ドン・ジョヴァンニという小悪党の色事師が、好き勝手をやらかしているうちに、因果応報地獄に落ちる…。
 などとまとめてしまっては、それこそ身も蓋もない話になるけれど、19世紀以降、『ドン・ジョヴァンニ』の再評価のもととなったロマンティックでヒロイック、デモーニッシュでサタニッシュ一辺倒の解釈ではなく、もっと日々の生活と地続きの中で起こった物語というか。
 よりぶっちゃけていえば、シリアスな部分もあれば滑稽で馬鹿馬鹿しい部分もある、よくよく考えてみれば整合性は薄くて無理筋だけど、劇場感覚には満ち満ちた作品であることを音楽的、ばかりでなく視覚的にも再現していたように感じた。
 特に作品の持つ、と共に作品の背景にある様々な分裂が可視化された第1幕大詰め直前、舞曲が交差する場面が印象に残った。

 京都オペラ協会も含め、各地でオペラ公演の指揮を振っている小ア雅弘は、いわゆるピリオド・スタイルも意識しつつ、速めのテンポで流れのよい伴奏を行っていた。
 京都市立芸術大学アカデミーオーケストラ(大学院管弦楽団)も、そうした小アさんによく応えて大健闘。
 中でも、チェンバロとともに通奏低音を担ったチェロ奏者の男性(鷲見敏?)にひときわ拍手を送りたい。

 ああ、面白かった!!!

 そうそう、一つ気にかかったのは、休憩時間が延びた際に、はじめ全くアナウンスが行われなかったこと。
 公演が始まってすぐ、客席より観て左側の字幕が映らないという事態が発生しており、休憩中、演出の今井さんやスタッフさんがずっと調整を行っていたので、当然そのことだろうとは思ったのだけれど、休憩の20分がまず終わり、さらに10分が経過して舞台監督さんがマイクを手にするまで、うんともすんともない。
 時間が延びること自体は仕方ないし、結果字幕が映らないままということも仕方ない。
 今井さんや担当のスタッフさんが必死なのも重々わかっている。
 だからこそ、どうして事務方は先回りをして「ただいま字幕の復旧作業を行っております」と一言アナウンスすべきと考えなかったのか。
 しかも、開演前に終演時間を尋ねた際、「昨日トラブルがあって」云々というのだから、なおさらのことだ。
 舞台監督さんの機転のきいた言葉があったので救われたが、もしあと5分も遅れたら、「誰かきちんと説明すべきですよ」と大声を上げるところだった(怒鳴り声ではない。あくまでも大声)。
 昨年指摘したバスの乗り場等、細やかな対応がされていただけにとても残念でならない。
 今後、京都駅の南の崇仁地区に京都市立芸術大学が移転したならば、なおのこと上述したような心遣い、対応が必要になってくると考えるので、あえて記しておく。
posted by figarok492na at 02:07| Comment(0) | コンサート記録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年02月16日

小澤征爾音楽塾展コンサート〜塾生が奏でるそれぞれのカルメン〜(チェロ編)

☆小澤征爾音楽塾展コンサート〜塾生が奏でるそれぞれのカルメン〜(チェロ編)

 チェロ:遠藤真理
 ピアノ:三浦友理枝
(2019年2月16日15時開演/ロームシアター京都「ミュージックサロン」)


 この3月にメインホールで予定されるビゼーの歌劇『カルメン』の公演にあわせて、今、ロームシアター京都のミュージックサロンで小澤征爾音楽塾展と題した展示が開催されている。
 これまでの小澤征爾音楽塾の歩みが、公演の衣裳や写真、さらには小澤さんが書き込んだオペラのスコアなどを通して明らかになるという仕掛けだ。
 今日は、その小澤征爾音楽塾展の連動企画である「小澤征爾音楽塾展コンサート〜塾生が奏でるそれぞれのカルメン〜」のVol.1、チェロ編を聴いてきた。
 出演は、2001年と2002年の小澤征爾音楽塾の公演(モーツァルトの歌劇『コジ・ファン・トゥッテ』と『ドン・ジョヴァンニ』)に参加した経験のあるチェリストの遠藤真理と、ピアニストの三浦友理枝の二人。
 真理さんと友理枝さんといえば、これはもうNHK・FMの『きらクラ!』ということになるが、あえてここでは割愛する。
 司会の岩崎里衣とのトークを交えつつ、カサドの『親愛の言葉』、ラヴェル/バズレール編のハバネラ形式の小品、グラナドス/一柳信二編のスペイン舞曲集より第5番「アンダルーサ」、ファリャ/ピアティゴルスキー編のバレエ音楽『恋は魔術師』より「火祭りの踊り」、バルトークの狂詩曲第1番の前半5曲、休憩を挟んで、カステルヌォーヴォ=テデスコのフィガロ(ロッシーニの歌劇『セビリャの理髪師』より「私は町のなんでも屋」から)、フォーレ/藤沢俊樹編のシチリアーナ、オッフェンバック/トーマス=ミフネ編のジャクリーヌの涙、ドビュッシー/吉松隆編の『月の光』、ビゼーの歌劇『カルメン』組曲第2番より「闘牛士の歌」、マルティヌーのロッシーニの主題による変奏曲の後半6曲、そしてアンコールのサン・サーンスの動物の謝肉祭より「白鳥」、と総計13曲が演奏された。
 トークの中で真理さんもそれとなく触れていたが、もともとセッコな会場な上に、最前列のかぶりつき、真理さんとは1メートル半ほど、友理枝さんとでも3メートル弱ほどの至近距離に陣取ったこともあって、直接音も直接音、生な音が直撃して、非常に生々しかった。
 と、言っても、上述したプログラミングからも想像がつくように、真理さんは力任せとは全く無縁、エネルギッシュで躍動的でありつつも、精度が高く機知に富んで、しかも劇場感覚(お客さんの存在をよく心得ているという意味)も豊かな均整のとれた音楽を愉しむことができた。
 で、いつもの如き当てずっぽうで申し訳ないかぎりだけれど、真理さんってなんだか野上弥生子っぽいなと思ったりもする。
 頭でっかちにならない生活に根付いた賢しさというか、自分の中にしっかりとした核があるというか。
 そして、長く継続して表現活動、芸術活動を行うことの意味についても改めて考えさせられた。
 いずれにしても、接することができて本当によかった。
 ああ、面白かった!!!

 そうそう、応募抽選制の無料招待というコンサートなので、パンフレットは仕方ないとしても、もしかしたらチラシは終演後に配布してもいいんじゃないかと思ったりした。
 もしも関係者の方がご覧なら、ぜひともご一考いただければ。
posted by figarok492na at 20:11| Comment(0) | コンサート記録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年01月20日

大きいこともいいことだ! 後半券とはいいことだ! 京都市交響楽団第630回定期演奏会(後半のみ)

☆京都市交響楽団第630回定期演奏会(後半のみ)

 指揮:マルク・アンドレーエ
 管弦楽:京都市交響楽団

 座席:3階LB列5番
(2019年1月20日/京都コンサートホール大ホール)


 一言で言い表すならば、大きいこともいいことだ!
 となる。
 昨日聴いたアンサンブル・ディアーロギが小さいことのよさ、室内楽の魅力をたっぷり教えてくれたならば、今日の京響の演奏は大きいことのよさ、大管弦楽の魅力をたっぷり教えてくれた。

 諸事情があって、ゲルハルト・オピッツをソロに迎えたブラームスのピアノ協奏曲第1番は泣く泣く断念し、雨もやんだからと自転車をこいで京都コンサートホールに向かい、後半のムソルグスキーの組曲『展覧会の絵』を聴く。
 指揮は、スイス出身のマルク・アンドレーエ。
 1939年11月生まれだから、今年で80歳になるがなかなかそうは見えない頑健な風貌だ。
 指揮者、作曲家である祖父のフォルクマール・アンドレーエをはじめ、スイスを代表する音楽家一族の一人だが、終演後のサイン会用かマルクがボーンマス交響楽団を指揮したフォルクマールの管弦楽曲集<Guild>がCDコーナーに並んでいたのにはちょっと驚いた。
 LP時代から録音に積極的で、『展覧会の絵』もミュンヘン・フィルと共にBASFレーベルに録音していた。
 と、言っても、一般にはなじみの少ないトゥシマロフ版(リムスキー=コルサコフ版)を使ったもので、マルク・アンドレーエとトゥシマロフ版の『展覧会の絵』といえば、非公式な形ではあるけれどNHK交響楽団との1993年の実演の映像がYouTubeにアップされてもいる。
 ただし、今回京都市交響楽団と演奏したのは、よく知られているラヴェル版。
 泣く子と地頭、ではなく、一般的な客受けにはかなわぬという訳か。

 が、そこはマルク・アンドレーエ、ただでは転ばない、じゃない手を振らない。
(ちなみに、彼は指揮棒を使っていなかった)
 ハラルド・ナエスの朗々としたトランペット・ソロはまだしも、最初のプロムナードから何やら一癖も二癖もある音楽づくりなのだ。
 もちろんラヴェルのオーケストレーションにも十分配慮しつつも、そこに独自の色付けを重ねていく。
 それって、スペインの教会で素人のおばあさんが補修をしたようなもの?
 違う、断然違う!
 多分にそれは、ムソルグスキーの原曲の持つイメージ(といっても、表面的な「絵画性」ではなく、ヴィクトル・ハルトマンの絵画よりムソルグスキーが受けた精神的反応、テキストの持つ文脈と言ったほうがよいだろう)を管弦楽によって再現するというものではなかったろうか。
 当然、キエフの大門の圧倒的な音響には強く心を動かされたが、それは例えば同じ曲の弱音部分が象徴するような細かい積み重ねがあってのものでもあるだろう。

 上記ナエスをはじめ、京都市交響楽団もそうしたマルク・アンドレーエの解釈によく副ってソロ、アンサンブルいずれも精度の高い演奏を繰り広げていた。
(京響の『展覧会の絵』を聴くのは、ちょうど30年ぶりになるが、この間のこのオーケストラの大きな変化を改めて痛感した)

 いやあ、室内楽もいいけど、オーケストラもいいな。
 ああ、面白かった!!!

 それにしても、B席ならば後半券が1000円とは安過ぎる。
 後半券とはいいことだ!!!
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2019年01月19日

ピリオド楽器奏者たちの『シャボン玉ホリデー』 アンサンブル・ディアーロギ(兵庫県立芸術文化センター 古楽の愉しみ)

☆アンサンブル・ディアーロギ(兵庫県立芸術文化センター 古楽の愉しみ)

 出演:クリスティーナ・エスクラペス(フォルテピアノ)
    ジョセプ・ドメネク(オーボエ)
    ロレンツォ・コッポラ(クラリネット)
    ピエール=アントワーヌ・トレンブレイ(ホルン)
    ハビエル・ザフラ(バスーン)

 座席:1階RA列1番
(2019年1月19日14時開演/兵庫県立芸術文化センター小ホール)


 犬塚弘は健在とはいえ、ほかのメンバーが全て旅立ってしまったのであえてこう書く。
 昔ハナ肇とクレージーキャッツというジャズ・バンドがいた。
 ザ・ピーナッツという女性デュオもいた。
 そんな彼彼女らが縦横無尽に活躍したテレビの黄金時代を代表するバラエティ番組が『シャボン玉ホリデー』だ。
 残念ながらその全盛期には間に合わなかったが、残された数少ない録画に接しても、その笑いが計算され尽くしたものであり、(アフレコの録音録画であれ)彼彼女らの音楽性の高さ、のりのよさに裏打ちされたものであることがわかる。
 その後、テレビのバラエティ番組は社会的状況の変化にあわせ、プラス面ではアクシデント性とさらなる軽快さ、マイナス面では粗製乱造に流れていくのだけれど、それはまた別の話。
 今日、アンサンブル・ディアーロギのエンターテイメント性にも満ち満ちた演奏に触れて、僕はふと『シャボン玉ホリデー』のことを思い出した。
 と、言っても、あなたハナ肇とクレージーキャッツにザ・ピーナッツはジャズ畑の人たち、こなたアンサンブル・ディアーロギはクラシック畑、それもピリオド畑の人たちではあるが。
 それでも、道化師風の化粧を施した公演プログラムの表紙のアンサンブル・ディアーロギの面々の写真を目にするだけで、何かやってくれそうな気がするもの。

 まずは、お客さんに顔を向けた形で舞台中央に置かれたフォルテピアノを囲むように、お客さんから見て左側前にオーボエ、後ろにバスーン、右側前にクラリネット、後ろにホルンという陣構えで一曲目のモーツァルトのオーボエ、クラリネット、ホルン、バスーンとピアノのための5重奏曲変ホ長調K.452が演奏されたが、いやあこれはもう愉悦感に満ちあふれたというか、幕が開いてから閉まるまで、全篇巧みにたくまれたウェルメイドプレイをとびきりの役者たちで観ているかのような愉しさだった。

 続いては、エスクラペスのフォルテピアノ・ソロによる同じくモーツァルトのロンドヘ長調K.494。
 一音一音が丹念に演奏されつつも、澱むことはない。
 フォルテピアノという楽器の美質がよく表されていた。

 三曲目は、ホルンのトレンブレイ編曲による同じくモーツァルトのピアノ協奏曲第22番から第2楽章の5重奏版。
 ここでもアンサンブル・ディアーロギは精度の高いアンサンブルを聴かせていた。
 それとともに、モーツァルトの純器楽曲がオペラと密接な関係にあることも、実際の音という形でよく示されていたのではないか。

 休憩を挟んだ後半、アンサンブル・ディアーロギは、「音楽に内在するすべての情感を明らかにするためにメンバーは全員ピリオド楽器で演奏し、音楽言語の主要な手がかりを聴衆に披露する」という公演プログラムの説明通りの本領をさらに発揮する。

 後半1曲目のモーツァルトのクラリネットとピアノのためのソナタK.304/300C(原曲はヴァイオリンとピアノのためのソナタホ短調)は、コッポラの、それも日本語の前口上から。
 クラリネット・ダモーレの説明を兼ねて、同じくモーツァルトのクラリネット協奏曲のさわりの部分を、それも前へ後ろへ右へ左へと身体を動かしながら披露。
 間を置かず始まったソナタのほうはといえば、コッポラの腕っこきぶりに舌を巻く。
 エスクラペスのフォルテピアノもそれに伍して、全く間然としない。
 それにしても、コッポラの恋に焦がれるような切ない表情!
 そりゃ楽器自体、クラリネット・ダモーレだもんね。
(なお、エスクラペスの楽譜を捲っていたのは、バスーンのザハフ。佇まいがちょっとおかしい)

 トリは、モーツァルトと同じ編成で作曲された変ホ長調の5重奏曲作品番号16。
 と、その前にまたもコッポラの前口上。
 古典派音楽における表現の三つの形式をご高覧あれとばかり、音楽にあわせて演技までして見せる。
 その喜劇役者っぷり。
 植木等にも引けを取らない?
 もちろん、演奏のほうは上々吉。
 編成調性ともに同じということで、当然モーツァルトの作品が意識されていることは間違いないだろうけれど、そこはベートーヴェン。
 大人しく古典派の枠内にとどまっていられない衝動というか、シンフォニックで硬質な響きというか、彼の音楽の持つ特徴がそこここから聴き取れた。

 盛大な拍手に応えたアンコールはモーツァルトの5重奏曲の第3楽章。
 ただし、「オペラの好きな私たちは、一人の魅力的な女性とそんな彼女=エスクラペスに恋した男四人という設定で演奏します」という趣旨のコッポラの宣言したように、木管楽器の四人は身体や表情を豊かに動かしながらアンコールを吹き切った。
 言うまでもないことだけど、だからと言って演奏の質が落ちることなんて全くない。
 というか、はじめの演奏のときのドメネクとコッポラの強めの掛け合いを観れば、このアンコールははなからあった裏設定の「解説」篇であり、アンサンブル・ディアーロギというアンサンブルの志向嗜好思考の演奏演技によるマニフェストとしか僕には思えなかった。

 エスクラベスやコッポラ、ドメネクに加え、低音部を支えるザハフ、そしてナチュラル・ホルンのトレンブレイ!
 知と理と情と技に裏打ちされているからこその、彼女彼らの表現を存分に愉しませてもらった。
 ああ、面白かった!!!

 ちなみに、ディアーロギ(DIALOGHI)はダイアローグ/対話、問答、台詞…。
 そうそう、公演プログラムに「アンサンブル・ディアーロギの皆さんにクエスチョン!」というコーナーがあるんだけど、そのQ7の「自分を動物にたとえると?」に対し、ザフラはオオカミ、ドメネクはライオン答えているが、エスクラペスはネコ、コッポラとトレンブレイはたぶんネコ、との回答。
 なあんだ、やっぱり!!
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2019年01月16日

京都市立芸術大学大学院音楽研究科 修士演奏T 藤居知佳子(メゾソプラノ)

☆平成30年度 京都市立芸術大学大学院音楽研究科 修士課程
 修士演奏T

 独唱:藤居知佳子(メゾソプラノ)
 伴奏:出口青空(ピアノ)
(2019年1月16日20時から/京都市立芸術大学講堂)


 2013年6月23日の元・立誠小学校講堂での夕暮れ社 弱男ユニットの『夕暮れ、海のリハーサル』で「出会って」以来、この5年近く、夕暮れ社の公演はもちろんのこと、同志社女子大学でのオーケストラ・コンサートや『フィガロの結婚』に、関西の音大生を集めたオーケストラ公演でのマーラーの交響曲第2番「復活」、京都市立芸大の『コジ・ファン・トゥッテ』等々、藤居知佳子の歌唱には度々接してきたし、錦湯さんでのシューマンの女の愛と生涯(夕暮れ社の面々の解説演技付き)の件ではちょっとしたお手伝いをさせてもらったこともある。
 その藤居さんが京都市立芸大を修了するというのだから、感慨もひとしおだ。
 と、こう記すと、なあんだ身びいきの身内びいきかと勘違いする向きもあるかもしれないけれど、さに非ず。
 もし藤居さんの歌声に、歌唱に魅かれなかったら、僕はここまで彼女が出演するコンサートや公演には足を向けなかっただろう。
(すでに何度も記している通り、僕の声質の好みのストライクゾーンは非常に狭い。正直、メゾソプラノで好んで聴くのは、マグダレーナ・コジェナーとマリアンヌ・クラバッサ程度だ)

 歌に生き、恋に生き、ならぬ、歌に生き、歌に生き。
 モーツァルトのハ短調ミサより「我らの主をほめ」、デュルフレのレクイエムより「ピエ・イエス」シューマンのメアリー・スチュアート女王の詩、ブラームスのアルト・ラプソディ、ヴェルディの歌劇『運命の力』より「この占い師のところへおいでよ」、ドニゼッティの『ラ・ファヴォリータ』より「ああ、私のフェルナンド」という今夜のプログラムを目にし、彼女の歌唱を耳にしたら、ついそういう風に評してみたくなる。
 自分が今歌いたい歌、歌うべき歌を並べた分、背伸びも当然あったろうが、声量の豊かさと声域の広さといった藤居さんの特性魅力がよく示されていて嬉しかった。
 『ラ・ファヴォリータ』などドラマティックな表現の「あい」具合は、これまでのコンサートや公演ですでに承知していたことだけれど、今夜は中でもシューマン、ついでブラームスにこの間の研鑽と変化を大きく感じた。
 いずれにしても、オペラはひとまず置いて、藤居さんのこの間の総決算とでもいえる修士演奏を耳にできて本当によかった。

 そして、4月からは藤居さんの新天地での活動が始まる。
 ますますの研鑽と活躍を心より祈りたい。

 伴奏は錦湯さんにも出演した出口青空。
 よいコンビネーションを発揮していた。
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京都市立芸術大学大学院音楽研究科 修士演奏T 禅定由理(ソプラノ)

☆平成30年度 京都市立芸術大学大学院音楽研究科 修士課程
 修士演奏T

 独唱:禅定由理(ソプラノ)
 伴奏:生熊茜(ピアノ)
(2019年1月16日19時から/京都市立芸術大学講堂)


 Prima la Musica,Poi le Parole
 まずは音楽、お次は言葉
 とは、オランダ総督夫妻のための祝宴にあわせてヨーゼフU世が作曲をサリエリとモーツァルトに依頼した音楽劇のうち、サリエリが作曲したオペラ・ブッファの題名であり、のちにリヒャルト・シュトラウスが歌劇『カプリッチョ』の下敷きにした言葉でもあるのだけれど、京都市立芸術大学大学院音楽研究科の修士演奏T、禅定由理の歌唱を聴いているうちにふとその言葉を思い出した。

 と、こう記すと、禅定さんの歌唱が言葉なんて知ったことか、歌ってものは歌ってなんぼ、声まずありきのもの、と早とちりする向きがいるかもしれないが、もちろんそういうことじゃない。
 修士演奏のための冊子の「はじめに」で禅定さん自身が記しているように、林光の四つの夕暮の歌、マスネのエレジーと歌劇『ル・シッド』より「泣け、泣け、わが瞳よ」、ワーグナーのヴェーゼンドンク歌曲集と歌劇『ローエングリン』より「ただ一人もの悲しい日々に」と並べたプログラムは、人生においての「夜」、「孤独」そして「夢」をテーマに精緻に組まれたものであるし、中でも四つの夕暮の歌の2(誰があかりを消すのだろう)や4(死者のむかえる夜のために)、そしてワーグナーのヴェーゼンドンク歌曲集や『ローエングリン』における表出表現の強さは、深いテキストの読み込みによるものでもあるだろう。
 ただ、そうした表出表現やプログラミングの背景というか、基礎、根底には、禅定さんの歌唱、歌声の特性魅力があることもやはり否めまい。
 事実、今回のプログラムは彼女の伸びがあってリリカルで清澄な声質を十全に発揮させるために適切な内容だったと思う。
(禅定さんの特性魅力については、2017年12月22日に京都市立京都堀川音楽高等学校音楽ホールで開催されたクリスマスチャリティーコンサート『親子で楽しむオペラの世界』で歌った、モーツァルトの歌劇『ドン・ジョヴァンニ』の二重唱でも感じたことだ)
 いずれにしても、禅定さんの今後の研鑽と活躍が愉しみだ。
 特に、彼女が歌うシューベルトの『夜と夢』やリヒャルト・シュトラウスの4つの最後の歌を聴いてみたい。

 なお、生熊茜は禅定さんの歌唱に副って抒情性をためた伴奏。
 『ローエングリン』のアリアでの、第1幕への前奏曲にも登場する聖杯(ローエングリン)の旋律が強く印象に残った。
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2019年01月09日

クレール=マリ・ル・ゲ ピアノ・リサイタル

☆クレール=マリ・ル・ゲ ピアノ・リサイタル

 座席:7列29番
(2019年1月9日19時開演/京都コンサートホール アンサンブルホールムラタ)


 フランス出身のピアニスト、クレール=マリ・ル・ゲのリサイタルを聴いたが、一言でいえば、知性を感性で抑制するということになるか。
 もしくは、情に棹させば流されるが、智に働けば角が立つことも識ったクレバーさというか。
 前半はヨハン・セバスティアン・バッハのパルティータ第1番に始まり、ラヴェルの組曲『鏡』から第2曲の「悲しげな鳥たち」と第4曲の「道化師の朝の歌」、そして再びバッハのイタリア協奏曲の3(4)曲。
 公演プログラムにある正統、上品、厳格という惹句に首肯するが、例えばパルティータ第1番の第3曲あたりからの表出意欲や道化師の朝の歌のエネルギッシュな表現には、それだけにとどまらないル・ゲの音楽の幅の広さを感じた。
 休憩を挟んだ後半のリストのピアノ・ソナタでは、さらにそうしたル・ゲの特性魅力が存分に発揮されていたのではないか。
 全体的な構成を見据えつつ、強靭さやデモーニッシュな雰囲気、ロマンティックでときに宗教的ですらある静謐さといった作品の持つ多様な性格が明晰に再現されていた。
 大きな拍手に応えてアンコールは、ショパンのノクターン第7番とスクリャービンの左手のための前奏曲の2曲。
 抒情性をためた美しい演奏だった。

 ピアノを聴く愉しみに満ちたリサイタル。
 ああ、面白かった!!!
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2018年12月15日

歌心は疾走する もしくは、煉獄的な長さ パーヴォ・ヤルヴィ指揮ドイツ・カンマーフィル(西宮公演)

☆パーヴォ・ヤルヴィ指揮ドイツ・カンマーフィル(西宮公演)

 指揮:パーヴォ・ヤルヴィ
 独奏:ヒラリー・ハーン

 座席:3階LA列18番
(2018年12月15日14時開演/兵庫県立芸術文化センター大ホール)


 パーヴォ・ヤルヴィが率いるブレーメンを本拠地とするドイツの室内オーケストラ、ドイツ・カンマーフィルを聴きに西宮の兵庫県立芸術文化センターまで足を運んだ。
 ドイツ・カンマーフィルの実演に接するのは、かつてのケルン滞在中にハインツ・ホリガーとハインリヒ・シフの2回のコンサート以来だから、約25年ぶりになる。
(ちなみに、兵庫県立芸術文化センターの大ホールのほうは今回が初めて。オペラを主目的にするホールなだけに残響は豊かではないが、その分、音の分離がよい。個々の楽器の音の動きがよく聞き取れた)

 前半はモーツァルトが2曲。
 まずは、歌劇『ドン・ジョヴァンニ』序曲から。
 パーヴォ・ヤルヴィの『ドン・ジョヴァンニ』といえば、NHK交響楽団との演奏会形式のライヴ録音をFMで聴いたことがあるけど、今日の序曲もいわゆるピリオド・スタイルを援用しつつ、ドラマティックでスタイリッシュな演奏に仕上げていた。
(なお、楽器の配置は、第1ヴァイオリンの真向かいに第2ヴァイオリンが置かれた対抗配置。コントラバスはお客さんから向かって左側の斜め後ろ。その横にホルンが座り、真ん中奥に木管楽器群。トランペットとトロンボーンは向かって右側の奥、ティンパニは右側の斜め後ろという陣構えだった)

 続く、2曲目は、ヒラリー・ハーンがソロを務めたヴァイオリン協奏曲第5番「トルコ風」。
 ハーンの実演を聴くのも今回が初めてだけど、終演後の「ヴァイオリンをやっている人が彼女の演奏を聴いたときどんな気持ちになるんだろう」というある女性のお客さんの言葉が全てを表しているような気がした。
 優れたテクニックはもちろんのこと、あるは激しくあるは流麗にと、その柔軟性に富んだ表現表出の幅の広さに感嘆する。
 特に、ホール全体を一手に惹き付けるかのようなカデンツァの集中力。
 ヴァイオリンの弱音の魅力を再認識させられた。
 パーヴォ・ヤルヴィとドイツ・カンマーフィルも快活で精度の高い伴奏を行っており、第3楽章のトルコ風の部分でのりのよさ、ハーンとの丁々発止の掛け合いにはわくわくした。
 ハーンのアンコールは、ヨハン・セバスティアン・バッハの無伴奏ヴァイオリン・パルティータ第3番のプレリュードと同第1番のパルティータ。
 一気呵成の前者、余情にあふれた後者と彼女の魅力がここでも発揮されていた。

 休憩を挟んで後半は、シューベルトの交響曲第8番「ザ・グレート」。
 よくよく考えてみたら、生の「ザ・グレート」も約25年ぶりということになる。
 大好きな交響曲なのに、うっかり聴く機会を損ねていたのだ。
 この交響曲に関しては、シューマンの「天国的な長さ」という言葉が有名だが、パーヴォ・ヤルヴィとドイツ・カンマーフィルが演奏すれば、(よい意味で)「煉獄的な長さ」ということになるのではないか。
 第1楽章冒頭からして、実にスピーディー。
 澱んでなんかいられますか、てな具合にさくさくさくさく進んでいく。
 もちろん、だからといって雑さとも無縁。
 ライヴ特有の細かい傷はありつつも、強弱緩急よくコントロールされた音楽がしっかりと生み出されていく。
 第2楽章など、かつての演奏スタイルであれば情緒纏綿、たっぷり歌わせるところだけれど、パーヴォ・ヤルヴィはここでも速いテンポで音楽を進める。
 だから、ゲネラルパウゼでは、パーヴォ自身が指揮したブルックナーの交響曲をすぐに思い起こしたほどだ。
 当然、続く第3楽章、第4楽章と音楽の流れは停滞することなく、華々しいフィナーレを迎えた。
 小林秀雄をもじれば、シューベルトの歌心は疾走する。
 とても聴き応えがあった。
 で、こうしたパーヴォ・ヤルヴィの音楽づくりの基本にピリオド・スタイル、オーセンティックな楽曲解釈、綿密なテキストの読み込みがあることは言うまでもないが、(これはハーンにも繋がるはずだけれど)それと共にパーヴォ・ヤルヴィという音楽家が、現代世界・現代社会に生きる一人の人間であるということも大きいように感じる。
 それをグローバリズムという言葉でくくってしまうと、あまりにも単純で陳腐に過ぎるものの、けれど彼彼女らが、インターネットで世界中が繋がり、昨日はヨーロッパ、今日は日本、明日はアメリカといった速いテンポでの移動を日々行い、クラシック音楽ばかりでなく、ロックや何やら様々な音楽、ばかりか様々なメディアに囲まれて生きていることも当たり前の事実であろう。
 その意味でも、僕はこの演奏を「煉獄的な長さ」と呼びたくなるのだ。
(弦楽器は、第1ヴァイオリンから8、7、5、5、3)

 アンコールは、シベリウスのアンダンテ・フェスティーヴォ。
 パーヴォ・ヤルヴィのテンポの取り方にぶれはなかったが、弦楽器の歌わせ方やティンパニの荘厳な響きには、モーツァルトやシューベルトよりなお音楽への共振性を感じた。

 と、音楽を聴く愉しみに満ち満ちたコンサートでした。
 ああ、面白かった!!!
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2018年12月07日

日本センチュリー交響楽団第231回定期演奏会(後半のみ)

☆日本センチュリー交響楽団第231定期演奏会(後半のみ)

 指揮:川瀬賢太郎
管弦楽:日本センチュリー交響楽団

 座席:2階RF列1番
(2018年12月6日/ザ・シンフォニーホール)


 コンサート前にたまたま入ったカフェで、マスターと常連とおぼしき男性のお客さんが今年ヒットしたDA PUMPのU.S.A.とジョー・イエローが歌ったオリジナルのほうの歌詞についてしばらく話をしていたが、常連のお客さんの「(カバーの歌詞は)これぞ日本人が感じるアメリカ!って確信犯的にやってるね」という言葉が中でも印象に残った。
 日本人が感じるアメリカ!
 いやいや、そればかりじゃない、トランプのアメリカもあれば、先ごろ亡くなった父ブッシュらのアメリカ、知識人たちのアメリカ、「アフリカ系アメリカ人」のアメリカ、ユダヤ系のアメリカ、アイルランド系のアメリカ、イタリア系のアメリカ、ヒスパニック系のアメリカ、アジア系のアメリカ…。
 様々なアメリカが存在する。
 そして、アメリカという国がそうした様々なアメリカに変容する契機はやはり19世紀末に始まり、20世紀に入って急速に進んだ社会的諸状況の変化、近代化に大衆社会化やそれと軌を一にした対外的伸長にあることは言うまでもあるまい。
 そうした変化の中、アメリカ楽壇の主流の枠外で作曲活動を続け、結果それがアメリカそのものの諸相を体現するかのような独自の語法に達した作曲家こそ、チャールズ・アイヴズその人だろう。
 そんなアイヴズが20世紀初頭に完成させながら、1951年になってようやく初演された交響曲第2番を川瀬賢太郎指揮日本センチュリー交響楽団が演奏するというので、大阪のザ・シンフォニーホールまで足を運んだ。
 って、それらしいこと書きやがってこの!
(ちなみに、大切な予定があったため、前半のアイヴズの答えのない質問にバーバーの弦楽のためのアダージョ、あのマハン・エスファハニが独奏を務めたマイケル・ナイマンのチェンバロ協奏曲の日本初演はパスする)

 で、今は亡き志鳥栄八郎もびっくりの大風呂敷の前説を書き連ねると、どれだけ奇怪で卦体な交響曲かとおののくむきもあるかもしれないけれど、なんのなんの、曲調それ自体は後期ロマン派風でもあり、ドヴォルザークの新世界よりなどの国民楽派風でもあり、アイヴズが育ったニューイングランドの自然を感じもさせる耳馴染みのよいものとなっていて、もっとずっと演奏されてもちっともおかしくない。
(先日、川瀬さんの師匠にあたる広上淳一がNHK交響楽団の定期公演で取り上げてはいたが)
 ただ、そうした耳馴染みのよさがフォスターだとか讃美歌だとか、先行の諸作品の引用と変容によるものであるとか、単になだらかで美しいだけで終わらない不穏さがそこここに潜んでいるとか、全体的な結構であるとか、一筋縄ではいかない仕掛けがあれこれ施されていることも事実だ。
 川瀬さんは、そうした作品の要所急所を的確に押さえつつ、歌うところは歌い祈るところは祈り、盛り上げるところは激しく盛り上げた、実に聴き応えのある音楽づくりを行っていたし、日本センチュリー交響楽団もしなやかな弦楽器をはじめ、木管金管打楽器、ソロ・アンサンブルともに精度の高い演奏でよく応えていた。
(なお、最後のちゃぶ台返しは、初演者のレナード・バーンスタインとは異なり、さっと切り上げるもの。それにしても、公演プログラムの服部智行の解説で知ったけど、あの不協和音って初演・出版直前にアイヴズが書いたものだという。なるほど、そうだったのか)

 と、大いに愉しんだ演奏であり作品だった。
 ああ、面白かった!!!

 後半のみの「あと割り」で1500円、交通費をあわせても2300円は安いや!!!
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2018年10月06日

平松晶子&中川さと子 ヴァイオリンデュオコンサート2018

☆平松晶子&中川さと子 ヴァイオリンデュオコンサート2018

 出演:平松晶子、中川さと子(ヴァイオリン)

 座席:H-1
(2018年10月6日14時半開演/青山音楽記念館バロックザール)


 かれこれ25年も昔の話になる。
 僕が文学部から大学院の国際関係研究科に進学した頃、立命館大学の国際関係学部は今とは違って衣笠キャンパスから少し離れた山道の半ば辺り、西園寺記念館という建物に居を構えていた。
 学部は一家学生は皆兄弟、などと言えば大袈裟に過ぎるけれど、設置されてからまだ数年で比較的少人数、しかも独立したスペースでひと塊になっていることもあってか、学生教職員揃って国際関係学部はインティメートな空間を築き上げていたものだ。
(ちなみに、研究科は衣笠キャンパスのほうに研究室があったので、学部と合同の加藤周一先生の講義など、えっちらおっちら山道を登っていかなければならなかった)

 学生オーケストラに所属しつつ、専門にヴァイオリンを学んでいる平松晶子さんという学部生が存在するということを知ったのも、そうした国際関係学部の精緻なネットワークの賜物だった。
 その頃からクラシック音楽に関してちまちま文章を書いていたこともあって、早速平松さんとお話する機会を設けてもらったのだけれど、府立府民ホール・アルティで接したリサイタルの演奏ともども、音楽に向き合う彼女の真摯さにはいたく感心したものである。
 卒業後は、当然の如く距離もできたが、それでも小林道夫さんが指揮するアマチュア・オーケストラのコンサートなど、何度かばったりすることがあって、お互いの近況を話し合ってはいた。
 確か一番最後に会ったのは、ニコラウス・アーノンクールの京都賞受賞を記念したワークショップではなかったか。
 その後、Facebookで「再会」した平松さんがなんとヴィオラ・ダ・ガンバに挑んでいることを知ったとき、思えば小林道夫さんやアーノンクールと、彼女の音楽的な変化にそれとなく立ち会っていたんだなと感慨を覚えたりもした。

 そんな平松さんからお誘いのあった「平松晶子&中川さと子 ヴァイオリンデュオコンサート2018」を聴きに、青山音楽記念館バロックザールまで足を運んだ。
 ちなみに共演の中川さんは、平松さんと同じく故阿部靖さんにヴァイオリンを学んでおり、ナゴヤシティ管弦楽団(現セントラル愛知交響楽団)のコンサートミストレスを務めたほか、オーケストラや室内楽、リサイタルと幅広く活躍している。

 今回のコンサートは、18世紀前半のフランスの作曲家でヴァイオリニストでもあったルクレールの2つのヴァイオリンのためのソナタ第4番イ長調作品12-4に始まり、古典派のボッケリーニの2つのヴァイオリンのための2重奏曲ホ長調G.64、初期ロマン派のドイツの作曲家でこれまたヴァイオリニストでもあったシュポアの2つのヴァイオリンのための2重奏曲ト短調作品67-3、後期ロマン派のレーガーの古風な様式による2重奏曲(カノンとフーガ)ホ短調作品131b-1、そしてバルトークの44の2重奏曲BB104より第4巻(8曲)で終わる意欲的なプログラム。
 音楽様式の時代的な変化ももちろんそうだし、ルクレールやシュポアといった自らヴァイオリンを弾く作曲家による「痒いところに手が届くような」作品とバッハを意識したレーガーや細かく仕掛けてくるバルトークの作品との作りの共通性、もしくは違いを知ることのできる構成にもなっていた。
 いずれも興味深かったが、ボッケリーニの陽の中にふと現れる翳りのようなものや、バルトークの手をかえ品をかえ式の工夫が特に印象に残った。

 平松さんと中川さんのデュオは、同門という共通理解・共通認識は当然ありつつも、単に良く言えばインティメート、悪く言えばべったりと同質の音楽に終わることのない、お互いの「違い」が明瞭に示され、その上で何をどう擦り合わせたかがよく窺える演奏だった。
 それは、いわゆるピリオド・スタイルをどう捉えるかといった音楽的スタイルばかりでなく、火花が散るようなストレートな中川さんと、芯にある確固としたものがじわじわと燃えていくような平松さんの特性本質の「違い」でもあるように僕には感じられた。
 今後、二人がさらにどのようなデュオを形作っていくのか愉しみだ。

 横浜(10月19日)と名古屋(11月7日)のコンサートが残っているので詳しくは触れないが、アンコールは聴き心地のよい音楽が一曲。

 いずれにしても、継続は力なりと痛感したコンサートだった。
 ああ、面白かった!!!
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2018年06月10日

アルテミス・カルテット

☆アルテミス・カルテット

 座席:1階LD列6番
(2018年6月10日14時開演/兵庫県立芸術文化センター小ホール)


 アルテミス・カルテットの来日公演を聴きに、西宮の兵庫県立芸術文化センターまで足を運んだ。
 1989年に結成され、ベートーヴェンの弦楽4重奏曲全集などVirginレーベル(現Warner)に鮮烈な録音を残してもいるアルテミス・カルテットだが、ヴィオラのフリーデマン・ヴァイクルの早世等、幾度かの交代を経て、現在のメンバーはヴィネタ・サレイカ(第1ヴァイオリン)、アンシア・クレストン(第2ヴァイオリン)、グレゴール・ジーグル(ヴィオラ)、エッカート・ルンゲ(チェロ)の4人である。
 今日演奏されたのは、ベートーヴェンの弦楽4重奏曲第3番、ヤナーチェクの弦楽4重奏曲第1番「クロイツェル・ソナタ」、モーツァルトの弦楽4重奏曲第19番「不協和音」の3曲。
 アルテミス・カルテットは、意欲的なプログラムに相応しい、精度が高く密度の濃い演奏を繰り広げていた。

 1曲目は、実質的にベートーヴェンが最初に作曲した弦楽4重奏曲という第3番。
 栴檀は双葉より芳し、という言葉通り、ベートーヴェンの表現意欲が表された作品で、特に感心し感嘆したのが第2楽章だった。
 孤が孤であり個が個でありながら、というか孤が孤であり個が個であるからこそ、このアンサンブルが生まれてくるのだということがよくわかる、掛け合いの妙が発揮された演奏となっていて、ぐっと惹き込まれた。
 第3楽章、第4楽章の攻めの姿勢も強く印象に残る。

 続く、ヤナーチェクの弦楽4重奏曲第1番は、トルストイの『クロイツェル・ソナタ』の影響の下に作曲された作品。
 ギリギリガリガリという「雑音」も織り込んだヤナーチェクの音楽の先駆性とともに、後期ロマン派にも通じる抒情性、私小説ならぬ私音楽的な感情の劇的な変化をアルテミス・カルテットは巧みに再現していた。
 いやあ、なんと美しい音楽だろう。
 なんと美しい演奏だろう。

 休憩を挟んで、3曲目はモーツァルトの「不協和音」。
 「不協和音」という愛称のもとになった冒頭部分から一瞬にして長調に転じる明快さ、明晰さがこの曲の象徴ではないか。
 いわゆるピリオド・スタイルの影響云々かんぬんを抜きにして、アルテミス・カルテットの澱みない流れるような演奏を愉しんだ。
 もちろん、それいけどんどん、モーツァルト超特急なんて粗さとは無縁。
 細やかな目配りの届いた解釈であったことは言うまでもない。

 盛大な拍手に応えて、アンコールが2曲。
 まずは、メンデルスゾーンの弦楽4重奏曲第3番から第3楽章が演奏された。
 憂いとほとばしるような激情が同居した音楽で、サレイカのソロが光っていた。
 そして、最後にヨハン・セバスティアン・バッハの4声のコラール「聖霊の豊かな恵みを」BWV.295。
 それこそ音楽の基礎、本質とでも呼ぶべき作品であり、演奏だった。

 そうそう、アルテミス・カルテットの演奏スタイルを書いておかなきゃいけないんだ。
 チェロのルンゲ以外は立ったままの演奏。
 と、言ってもルンゲも落語の高座風の台の上の椅子に座っているので、目の高さは他の3人とそれほど変わらない位置にあり、アイコンタクトはばっちりである。
 譜面にi padを使うクレストンなど、楽器の弾き方に各々の特性が出る反面、ここぞというところでのアンサンブルのまとまりも耳・目でよくわかった。

 「革新的な音楽を創造する、世界屈指のアンサンブル」というチラシの惹句に掛け値なし、とても充実した聴き応えのあるコンサートだった。
 ああ、素晴らしかった!!!!
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2018年05月26日

日本センチュリー交響楽団 センチュリー豊中名曲シリーズVol.6

☆日本センチュリー交響楽団 センチュリー豊中名曲シリーズVol.6

 指揮:鈴木秀美
 独奏:鈴木秀美(チェロ)

 座席:1階C列17番
(2018年5月26日15時開演/豊中市立文化芸術センター大ホール)


 ピリオド楽器のチェロ奏者で指揮者としても活躍中の鈴木秀美が日本センチュリー交響楽団に客演するというのだから、これはピリオド・スタイル好きにはたまらない。
 なんとかスケジュールの調整がついたこともあり、センチュリー豊中名曲シリーズを聴きに豊中市立文化芸術センターまで足を運んだ。

 プログラムは、ボッケリーニのチェロ協奏曲ト長調G.480で始めて、モーツァルトの交響曲第35番「ハフナー」、ベートーヴェンの交響曲第8番が続くという鈴木さんらしいスタイルだ。
(ちなみに、オーケストラは第1ヴァイオリンと第2ヴァイオリンが向き合う「対向配置」。今回は前から3列目という直接音中心の場所ゆえ、ホールの音響に関してはとやかく言えまい。鈴木さんのソロを間近で接することができたのは大きな収穫だったが)

 一曲目は、上述した如くボッケリーニのチェロ協奏曲。
 自らチェロの名手として鳴らしたボッケリーニだけに、技巧的見せ場(聴かせ場)がはっきりするとともに、陽性の中に微かに窺える翳りのようなものも興味深い。
 鈴木さんのソロは、表面的な手わざでどうこうの域を脱した名優のモノローグを観聴きしているような感じで、第2楽章での歌いぶりが強く印象に残る。
 鈴木さんと高校大学で同級生という荒井英治(首席客演コンサートマスター)率いる弦楽器のアンサンブルも、ソロをよく支えていた。

 続いては、モーツァルトの交響曲第35番「ハフナー」。
 両端楽章の力感、劇的な表現には、まさしく機会音楽、祝祭性に富んでいるなあと感じたのだけれど、だからといって鈴木さんがそれいけどんどん、猪突猛進の音楽づくりを行っていたわけでは毛頭ない。
 その端的な現れこそ、細やかな表現が為された第2楽章だ。
 音楽の持つ美しさが、あざとさを排しながらよく示されていてとても聴き心地がよかった。

 休憩を挟んだ、ベートーヴェンの交響曲第8番も基本的にそれまでの二曲と同じスタンス、というか音楽に対する向き合い方によって再現されていた。
 ベートーヴェンの第8番といえば軽めの交響曲と目されがちだが、例えば第1楽章の激しく重々しさすら感じる表現には、この作品が、それまでのベートーヴェンの交響曲の成果であるとともに、のちの第9番の予兆とでも呼びたくなってくる。
 一方で、この第8番が第7番と対になる「リズム」を重視した作品であることもよく示されていた。
 クラリネットやホルンをはじめ、ソロ・アンサンブル両面で日本センチュリー交響楽団の面々は鈴木さんの意図に副う努力を重ねていたのではないか。

 アンコールは、再び鈴木さんのソロでハイドンの交響曲第13番の第2楽章。
 クールダウンに相応しい、しみじみとした音楽だった。

 と、土曜の午後に相応しいコンサートでした。
 ああ、面白かった!!!
(そうそう、ファースト・ヴァイオリンのベテラン相蘇哲の風貌雰囲気が落語の名人師匠のようで、台詞は一切口にしなくていいので、そういった役で映画かテレビドラマに出演していただきたいと思ったのだった)
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2018年05月20日

京都市交響楽団第623回定期演奏会

☆京都市交響楽団第623回定期演奏会

 指揮:広上淳一
 独奏:河村尚子

 座席:3階LB1列5番
(2018年5月20日14時半開演/京都コンサートホール大ホール)


 クラシック音楽を聴き出した頃だから、かれこれ35年近く前になる。
 松本清張原作、野村芳太郎監督の『砂の器』を初めてテレビで観た。
 物語は大詰め、加藤剛演じる主人公の作曲家が新作の交響曲『宿命』を自演することになる。
 と、なんとしたことか、指揮者であるはずの加藤剛がやおらピアノを弾き始めるではないか。
 こいじゃ交響曲じゃなくて、ピアノ協奏曲じゃなかね!
 ブラウン管に向かって僕が突っ込んだのは言うまでもない。
 それからしばらくして、レナード・バーンスタインの交響曲第2番「不安の時代」を知った。
 なるほど、こういう形式の交響曲もあるにはあるのだ。
 ようやく僕はそう納得することにした。
(同趣向のゲーデの交響曲第5番、ダンディのフランス山人の歌による交響曲やスクリャービンの交響曲第5番「プロメテウス」、シマノフスキの交響曲第4番を知ったのは、それからまたしばらくしてからのことだった)


 京都市交響楽団の第623回定期演奏会は、バーンスタインの生誕100年を記念して、彼の交響組曲『波止場』と交響曲第2番「不安の時代」の間に、ショスタコーヴィチの交響曲第9番を挟んだ、音楽的関係性から考えても、また彼が生きた戦争や冷戦など個人と社会が厳しい緊張関係に置かれた時代を振り返るという意味合いからも、非常に興味深く密度の濃いプログラムが組まれていた。
(今回は第1ヴァイオリンとヴィオラが向かい合う通常配置。なお、コンサートマスターに大阪フィルの須山暢大、第2ヴァイオリンの首席に読売日本交響楽団の瀧村依里、チェロの首席に広島交響楽団のマーティン・スタンツェライトが客演した)

 一曲目の交響組曲『波止場』は、エリア・カザン監督の同名の映画音楽(1954年)を演奏会用に編み直したもの。
 ちなみに柴辻純子の公演プログラムの解説では触れられていないが、エリア・カザンはいわゆる赤狩りの時代、ハリウッドの仲間たちを裏切っており、このマーロン・ブランド主演による『波止場』にも、そうした彼の複雑な心情が色濃く反映している。
 静謐さや抒情性とともに、荒々しい暴力的な表現も欠けることのない実にドラマティックな音楽である。
 曲の入りなど、京都市交響楽団には若干不安定さも感じたが、ホルンやサクソフォンが美しいソロを披露していたし、大管弦楽が一気呵成、エネルギッシュに鳴り響く部分では生のオーケストラに接する愉しみを実感することができた。

 続いては、ショスタコーヴィチの交響曲第9番。
 この曲にまつわるエピソードをあえて記すことはしないけれど、ショスタコーヴィチの諧謔性が十分十二分に発揮された小気味よい交響曲である。
 広上淳一は余分なもったいづけは排し、オーケストラを十全にコントロールして全てを音楽に語らせるという行き方ではなかったか。
 広上さんと京都市交響楽団のショスタコーヴィチといえば、2004年8月28日の第467回定期演奏会における交響曲第6番の清新な演奏が強く記憶に残っているが、今回の第9番ではそれ以降の京響の様々な変化がよく窺える内容となっていた。

 休憩を挟んだ後半は、バーンスタインの交響曲第2番「不安の時代」。
 オーデンの同名の詩にインスピレーションを受けて作曲されたピアノ独奏を含む大編成の管弦楽による交響曲で、プログラムの解説にも示唆されているような「都会における孤独と不安」、社会と個の葛藤、ユダヤ教的思考とユダヤ人としての宿命性、その他諸々が重なり合ったバーンスタインの憧憬、衝動、希求が明示されている。
(その意味で、本来は社会と対峙すべき内容が、結局のところ個人の記憶に、それも感傷的に昇華されてしまう作品世界によく副った、ウェットで感動的な旋律に満ちた交響曲『宿命』とは非常に対照的だ*注)
 と、こう書くとしんねりむっつり、ノーノもびっくり、ひりひりひりひり塩辛い、不協和音連続、ガシャンギウワンドワンといったいわゆる「現代音楽」を想起する向きもあるかもしれないけれど、そこはバーンスタイン。
 一曲目の『波止場』同様、抒情的な旋律に満ちていたり、ジャズのイズムが巧みに取り入れられていたりと、音楽的な仕掛けに不足はない。
 河村尚子はそうした作品の持つ多様な性質を的確に踏まえて、精度の高い独奏を聴かせた。
 ジャズのとこなんて、ほんとわくわくしたもんね。
 京都市交響楽団も広上さんの意図に応える努力を重ねていたのではないか。
 いずれにしても、刺激に満ち満ちたコンサートだった。
 ああ、面白かった!!!


 *注
 これは映画の良し悪しとは別の話だ。
 だいいち、原作のような前衛音楽の作曲家が超音波で殺人をおかすような内容だったら、あれほどの人気映画にはならなかったろう。
 それこそ、大映で増村保造が監督して怪作になってしまったのではないか。
 主人公の前衛音楽の作曲家は市川雷蔵(加藤剛。以下野村監督版キャスト)、追い詰めるベテラン刑事は伊藤雄之助(丹波哲郎)、若い刑事は本郷功次郎(森田健作)、愛人のホステスは万里昌代(島田陽子)、フィアンセとなる令嬢は藤村志保(山口果林)、殺される老巡査は伊達三郎(緒形拳)、野村監督版には出ない評論家や演劇関係者は高松英郎や川崎敬三…。
 あれ、ちょっと観てみたいな…。
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2018年04月08日

京都市交響楽団スプリング・コンサート

☆京都市交響楽団スプリング・コンサート

 指揮:高関健
管弦楽:京都市交響楽団

 座席:3階LB1列5番
(2018年4月8日14時開演/京都コンサートホール大ホール)


 卯月四月。
 京都市交響楽団も新年度の始まりということで、京都コンサートホールまでスプリング・コンサートを聴きに行ってきた。
 指揮台には常任首席客演指揮者の高関健が立ち、コンサートマスターは客演の三上亮(札幌交響楽団のコンサートマスターなどを歴任)が務めた。
 なお、オーケストラは第1ヴァイオリンと第2ヴァイオリンが向かい合う、いわゆる対向配置がとられていた。

 まずは、バーンスタインのミュージカル『キャンディード』序曲から。
 ミュージカルそのものはヴォルテールの小説をもとにした諷刺劇ということで、けっこう骨太な内容になっているが、序曲は軽快かつ抒情的な旋律がふんだんに盛り込まれた鳴りに鳴る音楽。
 京都市交響楽団はパワフルでエネルギッシュ、なおかつ精度の高い演奏でスタートを飾るに相応しい演奏を生み出していた。
 ちなみに、この曲はバーンスタイン生誕100年を記念してのチョイスである。
(そういえば、ヴォルテールの原作は、先日読み終えた亀山郁夫の『新カラマーゾフの兄弟』でも重要な役回りを果たしていたんだった)

 と、ここで高関さんがマイクを握り、『キャンディード』序曲について簡単に振り返り、ここからは本題の「オーケストラが描く物語」と、二曲目のサン・サーンスの交響詩『死の舞踏』について説明を始める。
 つまるところ、今回のコンサートの主題は、オーケストラの音楽を通して物語を描く作品が集められているということだ。
 で、その『死の舞踏』だが、高関さんは確かに物語の筋立てをしっかり押さえつつも、あえてあざとくどぎつく色付けすることはしない。
 喩えていえば、ヒッチコックの映画そのものというより、フランソワ・トリュフォーによるヒッチコックへのインタビューに接しているかの如き、明晰で目配りがよく届いた音楽づくりで、冒頭等々、この曲があのオルガン付きの交響曲と同じ作曲家によって作曲されたものだということがよくわかった。
 コンサートマスターの三上亮がソロで大活躍。

 前半最後は、デュカスの交響詩『魔法使いの弟子』。
 高関さんは公演プログラムに書かれているような曲の解説のほか、ディズニー映画の『ファンタジア』を持ち出す。
(わざとらしさはないのだけれど、高関さんには独特のフラというか滑稽さがあるなあと改めて思う)
 言わずもがな、物語性に富んだ作品だが、高関さんの細部まで行き届いた解釈に京都市交響楽団のバランスのよい演奏で接すると、ワーグナーをはじめとした先達や同時代の作曲家たちの影響もはっきりと聴こえてくる。

 休憩を挟んだ後半は、高関さんによる解説から。
 これから演奏される幻想交響曲のあらましや、舞台袖で鳴らされる鐘の説明も面白かったが、なんといってもベルリオーズがアブネック指揮パリ音楽院管弦楽団の演奏したベートーヴェンの交響曲に強い影響を受けていたこと、並びにこの幻想交響曲がサン・サーンスやデュカス、ワーグナーやヴェルディに強い影響を与えたことを強調していた点が重要だった。
 つまり、このコンサートの主題が、オーケストラによって描かれた個々の物語を愉しむだけではなく、如何にしてオーケストラによって物語を描いていくかという作曲技法の影響進化を辿ることであることが明らかにされていたのだ。
 実際、第3楽章をはじめ上述したベートーヴェンの交響曲の影響や、ベルリオーズによる様々な音楽的実験など、この交響曲の持つ革新性と古典性の両面によく配慮された音楽づくりが為されていた。
 一方で、ティンパニの鋭い強打をはじめ強弱緩急とメリハリもよく効いていて、まさしく音楽による「ドラマ」を愉しむことができた。
(4楽章が終わったあと、ちょっと拍手が起こったのは残念だ。高関さんが手で止めていたけど…)

 京都市交響楽団はアンサンブル、ソロとも好調で今年度も優れた演奏を繰り広げてくれるのではないか。
 しっかりとした基礎とたゆまぬ研鑽、そして精緻な解釈によって創り出された、これこそ本物の芸術と痛感した次第。
 ああ、面白かった!!!
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2018年03月18日

京都市交響楽団第621回定期演奏会

☆京都市交響楽団第621回定期演奏会

 指揮:ジャンルイジ・ジェルメッティ
 独奏:ルイジ・ピオヴァノ

 座席:3階LB1列5番
(2018年3月18日14時半開演/京都コンサートホール大ホール)


 1980年代から90年代にかけてクラシック音楽、中でもオーケストラ音楽をよく聴いていた人間にとって、イタリア・ローマ生まれの指揮者ジャンルイジ・ジェルメッティは、割合馴染み深い指揮者の一人ではないだろうか。
 手兵シュトゥットガルト放送交響楽団と来日していたし、EMIレーベルやカプリッチョ・レーベルなどから少なくないCDもリリースされていた。
 ジェルメッティがシュヴェツィンゲン音楽祭で指揮した上演のビデオで、ロッシーニの一幕物のオペラに慣れ親しんだ人も少なくあるまい。
 その後も国内のオーケストラには客演していたし、確かアジア・オーケストラ・ウィークの一環としてシドニー交響楽団とも来日していたはずだが、師匠のセルジュ・チェリビダッケに似てかレコード録音をあまり好まないらしく、今では若干知る人ぞ知るといった存在となっている。
 そのジェルメッティが京都市交響楽団の定期演奏会の指揮台に立つというので、迷わず足を運んだ。

 プログラムの1曲目は、ロッシーニの歌劇『ウィリアム・テル』序曲。
 とりわけ終曲の「スイス軍の行進」で膾炙された有名曲中の有名曲で、ジェルメッティにとっても得意の一曲ということになるのではないか。
 で、冒頭のチェロの独奏からぐっと惹き込まれる。
 音楽の要所急所を押さえた、劇場感覚に富んだ演奏であることにもちろん違いはないけれど、それとともに、ロッシーニならではの「何か」がしっかり伝わってくる演奏でもある。
 と、こう書くとあまりにも抽象的に過ぎるのだけれど、いわゆるロッシーニ・クレシェンドといった強弱の差異やリズム感、テンポ感とともに、チャララチャララチャララといったロッシーニの作品によく現れる音の流れというか、音型が明確に示されていたのだ。
 かなうことなら、『セミラーミデ』や『絹のきざはし』、『どろぼうかささぎ』といったほかの序曲も聴いてみたかった。

 続いては、ジェルメッティと同じくイタリア出身のピオヴァノをソロに迎えたドヴォルザークのチェロ協奏曲が演奏された。
 これまた有名曲中の有名曲だが、ルーティンに陥った演奏とはまさしく極北にあるかのような、清新で充実した内容の音楽が生み出されていた。
 ピオヴァノは、その容姿にぴったりなスタイリッシュでべとつかないクリアな音楽の造り手。
 それでいて、歌唱性、歌心にも非常に富んでいる。
 中でも第2楽章や第3楽章でのソロの美しさに、心を強く動かされた。
 ジェルメッティはチェロとオーケストラ(例えば木管楽器のソロ)の密接な関係など作品の構造をよく把握した上で、ドラマティックな音楽を再現していた。
 チェロが登場する直前のホルンのたっぷりとしたソロなど、聴かせどころをよくわかっている。

 休憩を挟んだ後半は、十八番とでも呼ぶべきラヴェルの道化師の朝の歌、亡き王女のためのパヴァーヌ、ボレロのこれまた有名曲3曲が間に拍手を入れない形で演奏されていた。
 近代オーケストラの機能美とともにグロテスクな音塊というか狂暴さをも示した道化師の朝の歌、粘らず情に棹ささず、それでも、いやだからこそノーブルで美しい亡き王女のためのパヴァーヌ、そして間を置かず始まるボレロ。
 いやあ、オーケストラっていいな、と改めて感じさせられた。
 京都市交響楽団も精度の高い演奏で、ジェルメッティの音楽づくりによく応えていた。

 最後は、盛大な拍手の中、今年度末で卒団となるコンサートマスターの渡邊穣と第2ヴァイオリンの後藤良平(どことなく浅田次郎に似ている人で、印象深い)を花束で労い幕を〆た。

 ああ、面白かった!!!
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2018年02月17日

京都市立芸術大学 院生オペラ公演 モーツァルトの歌劇『コジ・ファン・トゥッテ』

☆京都市立芸術大学 第157回定期演奏会 大学院オペラ公演
 モーツァルト:歌劇『コジ・ファン・トゥッテ』全曲

 指揮:奥村哲也
 演出:今井伸昭
 管弦楽:京都市立芸術大学アカデミーオーケストラ
(2018年2月17日14時開演/京都市立芸術大学講堂)


 道徳道徳と大仰に宣う人間にかぎって、因循姑息で忖度大好きと道徳のかけらもモラルのかけらもない、節操のない人間だったということがしばしばある。
 物事の上っ面や大きな声に惑わされちゃいけないという見本だが、モーツァルトの歌劇『コジ・ファン・トゥッテ』が19世紀のヨーロッパにおいてアンモラルの象徴であるかのように扱われていたことにも、何やら同じ臭いを感じないではいられない。
 哲学者ドン・アルフォンソの口車に乗せられた青年士官フェランドとグリエルモは、自らのいいなずけであるフィオルディリージ・ドラベッラ姉妹の操を確かめんがために、アルバニア人の貴族に扮して二人に恋のアタックを仕掛けるが…。
 という『コジ・ファン・トゥッテ』の筋書きは、一見確かに、んんんと???だらけだ。
 女性の貞節を試すってだけでもなんだかなあなのに、しかもその女性たちがころりと落ちてしまうなんてナンセンス。
 おまけにアルバニア人への変装などというご都合主義、プラウダでなくとも「音楽ではなく荒唐無稽」と糾弾したくなる向きもいるのではないか。
 だけど、よおく考えよう深読みは大事だと!
 女はみんなこうしたもの。
 ということは、裏返せば男もみんなこうしたもの、人間みんなこうしたものという含意があるのでは?
 小間使いデスピーナのはっちゃけた策謀も手伝って、自らの心の動きを正直に晒してしまうのは女性二人だけではなく、男性二人も同じこと。
 それに、いらんことしいのドン・アルフォンソだが、彼は彼でフェランド・グリエルモが扮した異邦人の二人を大親友と紹介して恥じるところがない。
 当然、同時代の枠組みに沿う形ではあるけれど、台本書きのロレンツォ・ダ・ポンテと組んだ他の二作品『フィガロの結婚』、『ドン・ジョヴァンニ』同様、『コジ・ファン・トゥッテ』もまた、攻めの姿勢に富んだ革新的で確信的なオペラなのだ。
 しかも、それを頭でっかち口先ばっかりに終わらせず、非常に美しい音楽でもって表現してみせたところがモーツァルトの素晴らしさである。

 と、なんだかそれっぽい言葉を書き連ねてしまった。
 17日、18日と二日にわたって開催される、京都市立芸術大学第157回定期演奏会、大学院オペラ公演『コジ・ファン・トゥッテ』のうち、青木美沙季(フィオルディリージ)、川口浩穂(ドラベッラ)、藤居知佳子(デスピーナ)、喜納和(フェランド)、宮尾和真(グリエルモ)、浦方郷成(ドン・アルフォンソ)が出演する17日の回を観てまず思ったことも、いやあ、モーツァルトの作曲した音楽ってなんて美しいんだろうということだった。
 アリアもそうだけど、特に『コジ・ファン・トゥッテ』は重唱、アンサンブルの旋律美というか、音楽の磨かれ方が半端ない。
(あと、レチタティーボがまたきれいなのだ)
 たとえそれが激しい憤りを表すものであったとしても、いぎたない音楽に陥ることはない。
 あれこれ想い、あれこれ考えつつも、結局音楽の魅力に心を動かされてしまった。
 アリアでの技量声質の長短をはじめ、歌唱演技両面での個々の課題も聴き受けられたが、それは院生の皆さんや指導の先生方が十分承知していることだろうからくどくどと記すことはしない。
 限られた時間の中で、一つの公演として成立させきった出演者の皆さんの努力と健闘をまずは大きく讃えたい。
 大石ではなく大橋吾郎っぽさをなぜだか感じたノーブルな声質の持ち主の宮尾君(彼は、こんにゃく座みたいな歌芝居やミュージカルにも向いているような気がする)、豊かな声量でコメディエンヌぶりを発揮した藤居さんが強く印象に残った。
(もし何か付け加えることができるとすれば「外側の視点」の重要性、言い換えれば、学校で基礎の部分をしっかり押さえつつ、そこに何を足していくかということだろうか。院生の皆さんに余裕がないことは承知の上で、オペラをよりよく演じていくためには、もっと他のジャンルの音楽、演劇、古典芸能、映画、美術といったものに触れておいたほうがよいと強く思う。今日接したすべての人がいわゆるプロの歌劇団にもし所属しないとしても、地域のオペラなどの中核を担うことはもちろんありうるだろうし、実はそちらのほうがなおのこと「オペラというパッケージ」以上の何かが必要とされるだろうから)

 ピリオド・スタイルとまでは言わないが、奥村哲也は要所急所をしっかり押えつつ、間然とするところのない引き締まった音楽をつくり出していた。
 大学院生を主体とするオーケストラも、それによく応えていた。

 オーソドックス中のオーソドックスというか、シンメトリーアンシンメトリーといった登場人物の配置に動き、くすぐりの仕掛け方等々、終演後直接お伺いした通り今井伸昭の演出は教育の場として基礎を踏まえることに主眼が置かれたものだったが、最後の最後の目配せに「全てわかっている」という演出家としての矜持を感じもした。

 そうそう、「外側の視点」という意味では、座席が相当埋まってきているというのに、職員の方から適切な案内がなかったことはとても残念だった。
 あと、バスの時間は貼り出してあったのだけれど、この時間だとここでは満員になってしまうので、どこまで歩けば別のバスに乗れるとか、そういった細かい案内も必要なのではないか。
 いくら無料招待の公演とはいえ、正直あれでは不親切に過ぎる。
 せっかく院生の皆さんが熱演を繰り広げているのだもの、それ以上のフォローを教職員の方々には切にお願い申し上げる。

 なんて偉そうなことを言いつつも、やっぱりモーツァルトのオペラはいいな。
 愉しい時間を本当にありがとうございました。
 ああ、面白かった!!!
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京都市交響楽団第620回定期演奏会

☆京都市交響楽団第620回定期演奏会

 指揮:オリ・ムストネン
 独奏:オリ・ムストネン(ピアノ)

 座席:3階LB1列5番
(2018年2月16日19時開演/京都コンサートホール大ホール)


 フィンランド出身のピアニスト、オリ・ムストネンの実演に接したのは2001年11月26日、というからもうすぐ20年前になる大阪音楽大学ザ・カレッジ・オペラハウスでの来日リサイタルでだった。
 DECCAからRCAにレーベルを移して録音が継続されていたベートーヴェンのピアノ作品のほか、ブラームスのヘンデルの主題による変奏曲とフーガがメインに据えられたリサイタルだったが、公演パンフレットの「透明を極めた天才的なピアニズム!北欧が生んだ驚異の鬼才…」という惹句に掛け値のない、クリアでクリティカル、非常に充実した演奏をムストネンは繰り広げた。
 その証拠に、このリサイタルが直接の購入の契機ではないものの、DECCAレーベルのベートーヴェンの変奏曲集やRCAレーベルの同じくベートーヴェンのディアベッリの主題による変奏曲は愛聴盤の一つとなっている。
 その後、指揮者としての活動を積極的に開始したムストネン(実際、yle=フィンランド放送のサイトでヘルシンキ・フィルを指揮したヒンデミットのウェーバーの主題による交響的変容を観聴きしたこともある)が、京都市交響楽団の第620回定期演奏会の指揮台に立つというので迷わず足を運んだ。

 北欧の貴公子といった風貌は昔、若干恰幅のよくなった容姿を目にするに、これは甲羅を経て音楽が幾分丸くなったかと訝ったのが大間違い。
 かつてのリサイタルと同様、いや、数々の経験を積み重ねたからこそ、なお音楽に対する姿勢は積極性に富んで刺激に満ちたものとなっていた。
 そうしたムストネンの特性がわかりやすい形で発揮されていたのが、二曲目、ムストネン自身が弾き振りしたベートーヴェンのピアノ協奏曲第3番だ。
(ちなみに、屋根を外したグランドピアノは、客席から見て左前側に鍵盤、右奥側に後尾という具合に斜めに置かれていた)
 ピリオド奏法の影響が色濃い切り込み鋭い序奏部分を指揮棒なし(ほかの2曲もそう)で立って振り終えて、やおらピアノに向かったムストネン。
 そうそう、これこれこの音だ、とかつてのリサイタルの記憶がぱっと脳裏に蘇った。
 フォルテピアノを意識しているのだろう、ぴよんぴよんと弾き飛ばすというか、一音一音が強調された独特の音色が生み出されていく。
 しかも、ぶつ切りになることなく音は繋がっていくし、激しく「強打」されても音が汚く濁ることはない。
 結果、作品の持つ劇性、革新性、攻めの姿勢、強い表現意欲が明晰に示されていた。
 特に、第1楽章のカデンツァ。
 オーケストラと対峙してきたときと同様、激しい独奏が披瀝されたあとの一瞬の弱音の美しさ。
 聴いていて強く心を動かされた。
 一方、京都市交響楽団もムストネンの解釈にそうようよく心掛けた演奏で、第3楽章のラストのあおられっぷりが強く印象に残った。

 アンコールはヨハン・セバスティアン・バッハのインヴェンション第14番。
 ムストネンというピアニストが強弱の弱の部分の表現にも秀でていることを教えてくれる演奏だった。
 メガネを忘れて途中で取りに戻るというアクシデントも、かえっていい熱醒ましになった。

 一曲目は、ムストネンの自作で日本初演となる弦楽オーケストラのためのトリプティーク。
 もともとチェロを愛した物理学者の亡き夫人に捧げられた3台のチェロのための作品を、弦楽オーケストラ用に編曲したものである。
 弦楽オーケストラのためのトリプティークといえば、すぐに芥川也寸志の作品を思い出して、第2楽章のフリオーソにはそれらしさを感じないではないが、どちらかといえば、作品の成立過程を考えても武満徹っぽいか。
 と、これは最近立花隆の『武満徹・音楽創造への旅』<文藝春秋>を読み終えたことが大きいかな。
 ロマン派、国民楽派、後期ロマン派から無調、12音音階を経てなお、抒情性と旋律美を兼ね備えた弦楽オーケストラのための作品が北欧ではよく作曲されてきたが、ムストネンのトリプティークもその流儀に則って耳にすっと入りやすい。
 シェーンベルクの浄められた夜なども想起する、祈りと美しさをためた音楽だった。

 休憩を挟んだ三曲目は、今夜のメインとなるシベリウスの交響曲第2番。
 基本は早めのテンポで鳴らすべきところを的確に鳴らす、非常に腑分けのはっきりした音楽づくりなのだが、一方で、ここぞというところではテンポを遅めにとって、明暗の暗の部分についてもしっかりと描き込んでいく。
 例えば、第2楽章では、音楽の持つ切実さ、痛切さと結構の妙の双方を同時に聴き取ることができた。
 それいけどんどんでもなく、しんねりむっつりでもない。
 この交響曲の多面性に光を当てた、充実した演奏だった。
 細部でライヴ特有の傷はありつつも、京都市交響楽団は全体的に精度の高いアンサンブルで濃密な音楽空間を造り上げた。

 オリ・ムストネンの指揮者、ピアニスト、作曲家という三つの側面を通して、一人の音楽家・表現者としての魅力が浮き彫りにされたコンサートと評して過言ではないだろう。
 ああ、面白かった!!!
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2018年02月09日

武満徹のノヴェンバー・ステップスを初めて聴いたとき

☆武満徹のノヴェンバー・ステップスを初めて聴いたとき


 立花隆の労作『武満徹・音楽創造への旅』<文藝春秋>のノヴェンバー・ステップスの作曲あたりの部分を読んでいて、この曲に初めて接したときのことを思い出した。
 1988年2月25日というから、ちょうど30年前。
 山田一雄指揮京都市交響楽団の第302回定期演奏会がそれだ。
 立命館大学に合格し、下宿先を探しに京都を訪れていた僕は、同行の母と別れて、一人京都会館へと向かた。
 そうそう、開演前に入った京都会館の食堂で、なんと指揮者のヤマカズさんにかち合って(あとちょっとでぶつかりそうになった。小さい人だなあと思ったが、指揮台のヤマカズさんは大きく見えた)、とてもどぎまぎしたものだ。
 プログラムは、モーツァルトのセレナード第10番「グラン・パルティータ」にシベリウスの組曲『恋人』、そして武満徹のノヴェンバー・ステップスと、ヨーロッパ・スタイルというか、プロのオーケストラの定期演奏会ならこうでなくちゃと言いたくなるようなラインナップだった。
 正直、奮発してS席を購入したものの、長崎市公会堂と「遜色のない」京都会館第1ホールのデッドな音響には辟易したし、演奏自体も、実力が格段にアップを果たした近年の京響と比べれば相当水準の劣るものでもあったが、管楽器のみのモーツァルト、弦楽器のみのシベリウス、和楽器の交じった編成の大きな武満徹という組み合わせは、静と動のコントラストやインティメートな雰囲気といった曲調も含めて、非常に優れていたと今になって思う。
 事実、ヤマカズさん自身が感極まったシベリウスの弦の震えにはぞくぞくっときたし、なんと言っても初演者である尺八の横山勝也、琵琶の鶴田錦史が顔を揃えたノヴェンバー・ステップスの濃密な音楽空間、特に横山さんと鶴田さんのやり取りには大きな衝撃を受けたものだ。
 よくよく考えてみたら、あれ以来、武満徹のノヴェンバー・ステップスは、実演はおろか、放送CDともに全曲をまともに一度も耳にしたことはないのだが、僕はそれでよいと思っているのである。
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2017年12月22日

京都市立芸術大学クリスマスチャリティーコンサート「親子で楽しむオペラの世界」

☆京都市立芸術大学サテライトコンサート
 クリスマスチャリティーコンサートvol.8
 「親子で楽しむオペラの世界」

 ソリスト:京都市立芸術大学大学院修士課程声楽専攻生
 指揮:中井章徳
 管弦楽:京都市立芸術大学アカデミーオーケストラ

 座席:F−21
(2017年12月22日19時開演/京都市立京都堀川音楽高等学校音楽ホール)


 京都市立芸術大学が開催している「響/都プロジェクト2017コンサートシリーズ」の一環である、京都市立芸術大学サテライトコンサート クリスマスチャリティーコンサートvol.8「親子で楽しむオペラの世界」を聴きに、堀川御池の京都市立京都堀川音楽高等学校音楽ホールまで行って来た。
 市芸の大学院生のオーケストラである京都市立芸術大学アカデミーオーケストラを伴奏に、同じく大学院の修士課程声楽専攻生がオペラのアリアやアンサンブルを歌うという趣向のコンサートで、「親子で楽しむ」と言う割には予想していたよりお子さんの数は少なかったものの、なかなかの入りでまずは何より。

 で、声楽指導で司会の久保和範准教授と出演者のトークを挟みながら、前半は歌劇『フィガロの結婚』序曲と「もう、飛ぶまいぞ、この蝶々」、『ドン・ジョヴァンニ』の「カタログのうた」に「奥様、お手をどうぞ」の二重唱、歌劇『コジ・ファン・トゥッテ』の「このハートをあげましょう」の二重唱、歌劇『魔笛』の「フムフムフム」の五重唱に「パ・パ・パ」の二重唱、とモーツァルトのオペラから7曲、後半はビゼーの歌劇『カルメン』第1幕への前奏曲と「ハバネラ」、グノーの歌劇『ファウスト』の「宝石の歌」、ベッリーニの歌劇『ノルマ』の「清らかな乙女よ」、ヴェルディの歌劇『リゴレット』の「慕わしい人の名は」、歌劇『椿姫』の「乾杯の歌」の二重唱、とフランス・イタリア物から6曲がそれぞれ演奏されていた。
 歌手名など詳細は省くが、若さや課題は当然感じつつも、流石は院生として学ぶだけあって、あるは声質であったり、あるは声量であったり、あるは技巧であったり、あるは安定性であったり等々、どこかにおっと思わせる聴かせどころを持った、一定の水準を超えた歌唱力の持ち主たちであり、全篇愉しく聴き終えることができた。
 一方、演技の面では若干拙さを覚えたところもあるのだけれど、それがかえってコンサートの趣旨に沿っているというか、清々しさ若々しさに繋がっていて好感を抱いた。
(その意味で、「ハバネラ」を歌った中谷明日香さんは見せるということを心得た歌いぶりのように感じられて強く印象に残った)
 なお、独唱はM2が務め、M1は重唱や合唱のみの出演となっていた。

 指揮は中井章徳さん。
 中井さんといえば、プロやアマのオーケストラばかりかオペラでも豊富な活動経験のある指揮者なので、あれ市芸の講師になったのかなと思っていたら、現在博士(後期)課程で研鑽中の由。
 活動経験が多いとは言い難いオーケストラの面々を相手に、要所急所を押えた音楽づくりを行っていた。
(ホールの音響の癖もあって、強弱の変化に苦心していたようにも思わないではない)

 そうそう、このコンサートをスケジュールに組み込んだあと、旧知の藤居知佳子さんが出演していることを知ったのだ。
 まだM1ということで、『コジ』の2重唱のドラベッラと『魔笛』の5重唱の侍女などを歌っていたのだけれど、久しぶりに耳にする藤居さんはこの間の研鑽を感じさせるもので、声域の幅と声量の豊かさに加え、歌そのものの安定感も増しており、今後の活躍を期待させるものだった。
 実は、来年2月の大学院のオペラ公演では同じ『コジ』でもデスピーナのほうを歌うことになっている。
 すでに応募のハガキを送っているので、なんとか抽選に当たらないかな。

 アンコールはクリスマスソングのメドレー。
 院生の皆さんの美しい歌声のおかげで、クリスマス気分を一足先に味わうことができた。

 と、聴いて大正解。
 とてもすっきり、とてもほがらかな気分になれたコンサートでした。
 ああ、面白かった!!
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2017年10月14日

京都市交響楽団 第617回定期演奏会

☆京都市交響楽団 第617回定期演奏会

 指揮:広上淳一
 独奏:ボリス・ベルキン(ヴァイオリン)

 座席:3階LB1列5番
(2017年10月13日19時開演/京都コンサートホール大ホール)


 サントリーホールでの第46回サントリー音楽賞受賞記念コンサートを成功裡に終えた広上淳一と京都市交響楽団だが、第617回定期演奏会もそうした両者の好調ぶりを証明する充実した内容となっていた。

 一曲目は、ウォルトンの『スピットファイア』の前奏曲とフーガ。
 英国空軍の戦闘機の開発を巡る映画『スピットファイア』の音楽の中から編曲されたもので、前奏曲ではシンフォニックに華々しく金管楽器が鳴り響き、フーガでは弦楽合奏が目まぐるしく交差するなど、ウォルトンらしさが十分に発揮された作品である。
 京都市交響楽団は明快壮麗な、コンサートの開幕に相応しい音楽を聴かせた。

 続いては、ロシア出身のボリス・ベルキンを独奏に迎えた、ショスタコーヴィチのヴァイオリン協奏曲第1番。
 同じ広上さんが指揮した7月の定期演奏会に登場したピンカス・ズーカーマンがつやつやとして滑らかな音色の持ち主とすれば、ベルキンは艶やかさを持ちつつもどこか鋭く苦みを感じる音色を奏でる。
 むろん、それをすぐさま彼が生まれ育った旧ソ連と結び付けて考えるのは単純で感覚的に過ぎるかもしれないが、こうしてショスタコーヴィチのヴァイオリン協奏曲を聴くと、どうしても作曲者とベルキンに共通する体験経験、同じ体制を生きた共時性、歴史的積み重ねを感じざるを得ない。
 特に、第3楽章の長いカデンツァ。
 その重さと真摯さ、そこに垣間見える抒情性には強く心を動かされた。
 加えて、それが高度な技術に裏打ちされたものであることも忘れてはなるまい。
 第2楽章や第4楽章の速い部分では目の醒めるようなソロをベルキンは聴かせていた。
 一方、京都市交響楽団はより音楽の持つモダンさを強調した機能的に秀でた伴奏を行っていたのではないか。
 チューバの武貞茂夫が大活躍だった。

 これだけでもお腹いっぱいという感じにもかかわらず、休憩を挟んだメインは、ブラームスの交響曲第1番。
 ちょっと重たくはないか、と少々心配していたのだけれど、なんのなんの。
 と、言って広上さんはピリオド・スタイルを援用したような速めのテンポで軽々と流していたわけではない。
 全体的にテンポ設定自体はゆったりとしたもので、細部まで目配りが届いている。
 ただ、流れのよさに京都市交響楽団の明るめの音色が相まって、重苦しく粘るようなことはなく、実に暖かみがあって見通しのよい演奏に仕上がっていたのだ。
 中でも、第2楽章の美しさが強く印象に残る(ヴァイオリンのソロはコンサートマスターの渡邊穣)。
 そして、終楽章の高揚感。
 広上さんの指揮の下、ソロ、アンサンブル両面で京都市交響楽団は精度の高い演奏を繰り広げていた。
 いやあ、聴き応えがあった、いやあ、よかったとショスタコーヴィチ同様、大きな拍手を贈ったことは言うまでもない。

 と、大満足大満腹のコンサートでした。
 ああ、面白かった!!!
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2017年10月01日

エリック・ホープリッチ&ロンドン・ハイドン弦楽4重奏団

☆エリック・ホープリッチ&ロンドン・ハイドン弦楽4重奏団

 出演:ロンドン・ハイドン弦楽4重奏団、エリック・ホープリッチ

 座席:1階RA列1番
(2017年10月1日14時開演/兵庫県立芸術文化センター小ホール)


 ロンドン・ハイドン弦楽4重奏団の来日コンサートを、西宮の兵庫県立芸術文化センター小ホールで聴いてきた。
 ロンドン・ハイドン弦楽4重奏団は、キャサリン・マンソン(ファースト・ヴァイオリン)、マイケル・グレヴィチ(セカンド・ヴァイオリン)、ジョン・クロカット(ヴィオラ)、ジョナサン・マンソン(チェロ)の四人組。
 2000年に結成されたピリオド楽器によるアンサンブルで、国際的に活躍するほか、hyperionレーベルでハイドンの弦楽4重奏曲集のリリースを進めるなどCD録音も活発に行っている。

 今回の公演の1曲目は、自らのアンサンブルにその名を冠しているハイドンの弦楽4重奏曲第67番「ひばり」を取り上げた。
 ひばりの囀りを想起させる第1楽章から「ひばり」の愛称の付いた有名作品で、実際冒頭のあのメロディが鳴り始めたとたん、ああ、いい曲、いい演奏だなあとわくわくするが、彼女彼らの場合、中間部分のちょっとした不穏な感じ、ハイドンの一筋縄ではいかない性質が丁寧に捉えられている点にも感嘆した。
 と、言って、ロンドン・ハイドン弦楽4重奏団の特性魅力は、ピリオド楽器のアンサンブルにありがちな強弱のメリハリを思い切りつけて作品の要所急所を強調することではない。
 その意味で、彼女彼らの魅力が存分に発揮されたのは、第2楽章の緩徐楽章ではなかったか。
 ファースト・ヴァイオリンが抒情的な旋律を奏で、他の奏者たちが細やかにそれを支える。
 まさしくインティメートな感覚に満ちた演奏で、強く印象に残った。
 もちろん、続く第3、第4楽章でも精度の高い演奏を披瀝していたことは言うまでもあるまい。

 2曲目は、最近この団体が積極的に演奏しているというベートーヴェンの初期の弦楽4重奏曲(作品18の6曲)の中から第6番。
 かつてはベートーヴェンの初期の弦楽4重奏曲はハイドンをはじめとした先達たちの影響を云々かんぬんされたりもしたが、こうやって重ねて聴くと、ベートーヴェンの音楽の手数の多さというか、新たな音楽世界を切り開こうとする意志が明確に示されているように感じる。
 特に、この第6番では、終楽章にラ・マリンコニアと題した序奏部分が置かれるなど、のちの中期や後期の作品にも繋がる「ベートーヴェン」的な要素がふんだんに含まれている。
 ロンドン・ハイドン弦楽4重奏団は、ここでもバランスがよくてインティメートなアンサンブルで、間然としない演奏を生み出していた。

 休憩を挟んだ後半は、ピリオド・クラリネットの名手ホープリッチをバセット・クラリネットのソロとして迎えて、モーツァルトのクラリネット5重奏曲が演奏された。
 なお、バセット・クラリネットとは、一般的に想像されるクラリネットと異なり、吸い口の部分はサックスのように斜めに曲がり、下のほうはでこっという感じで顎のように出っ張っている。
 質朴で暖かみのある音色と広い音域が持ち味だ。
 ホープリッチはそうした楽器の持つ特徴を存分に活かして、真摯で闊達、美しい演奏を繰り広げていた。
 一方、ロンドン・ハイドン弦楽4重奏団の面々も過不足のない演奏。
 実に素晴らしかった。

 アンコールは、モーツァルトの第2楽章。
 陳腐な言葉になるけれど、天国的な美しさを再び味わうことができた。

 そうそう、忘れてならないのが、この兵庫県立芸術文化センター小ホールの音響の良さだ。
 ホールも楽器の一つであるということを再認識させられた。

 ああ、面白かった!!!
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2017年07月15日

京都市交響楽団 第614回定期演奏会

☆京都市交響楽団 第614回定期演奏会

 指揮:広上淳一
 独奏:ピンカス・ズーカーマン

 座席:3階LB1列5番
(2017年7月15日14時半開演/京都コンサートホール大ホール)


 614回目となる京都市交響楽団の定期演奏会は、シェフの広上淳一の指揮。
 世界的な名ヴァイオリニストであるピンカス・ズーカーマンを迎え、ブラームスの大学祝典序曲、ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲、ブラームスの交響曲第3番の3曲が演奏された。

 一曲目の大学祝典序曲は、ブラームスが名誉博士号を授与された返礼としてブレスラウ大学のために作曲されたコンサート用の序曲で、学生歌の旋律が巧みに援用されている。
 タタタタタータータタタタタータータタタタタタタタータータタタ…というおなじみのメロディをはじめ、実に耳馴染みがよくて快活な音楽だが、一方でブラームスらしいリリカルさもためた作品だ。
 広上さんの指揮に応え、京都市交響楽団は鳴らすべきところはしっかり鳴らし歌うべきところは歌って堂々と演奏し切った。
 特に、弦楽器(コンサートマスターは客演の豊嶋泰嗣)の明るさに満ちた旋律美が印象に残った。

 続いては、ズーカーマンの独奏によるベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲。
 少し小さめの編成に刈りこまれたオーケストラが、機能性に富んでメリハリがよくきいたクリアでスマートな演奏を行ったのに対し、ズーカーマンはオールドスタイルというと言い過ぎかもしれないけれど、嘯き鳴るというのか、明快軽やかに鳴り響くソロを披瀝した。
 歌い崩したりはしないものの、節回しが自在なため、オーケストラとの演奏の違いに最初はちょっとおやと思っていたのだが、第1楽章のカデンツァにいたって、ああこのカデンツァならばそりゃああいう鳴らし方を続けなければ一貫性がないもんな、と大いに納得がいった。
 強いて喩えるならば、ラストの大団円を見据えて周囲の役者陣と全く異なる重た苦しい台詞遣いを続けた深作欣二監督の『柳生一族の陰謀』の萬屋錦之助の演技ということになるか。
 もちろん、ズーカーマンは重た苦しさとは正反対、軽やかに高らかなヴァイオリン・ソロだったが。
 そして、カデンツァ後、ソロと共にゆっくりと目醒めていくようなオーケストラの演奏がまた美しかったのだ。
 続く第2楽章の優美さ、第3楽章の軽快さも巧みに再現されていき、まさしく千両役者の名演技を観るかのような面白さだった。

 これだけでももうお腹がいっぱいなのだけれど、休憩を挟んだブラームスの交響曲第3番がまた聴き応えがあった。
 映画の『さよならをもう一度』で引用された第3楽章をはじめ、旋律美と抒情性に満ちあふれる一方、鬱屈した感情がときに放出されるようなウェットな激しさと全ての楽章を弱音で終えるといった作曲的な技巧が凝らされた一筋縄ではいかない交響曲でもある。
 広上さんはそうした作品の持つ多様な性質を、強弱緩急を適切にコントロールしながら細やかに再現していた。
 ここでも弦楽器の流麗な響きに魅せられたほか、第2楽章や上述した第3楽章ではホルンのソロ(垣本昌芳)をはじめ、木管楽器の掛け合いも魅力的だった。
(一つだけ残念だったのは、曲が終わってすぐに拍手をした人が結構いたこと。せっかくの余韻が…)

 名曲の名曲たる所以を存分に知ることのできたコンサート。
 ああ、面白かった!!!
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2017年07月02日

京都市立芸術大学音楽学部・大学院音楽研究科 第155回定期演奏会

☆京都市立芸術大学音楽学部・大学院音楽研究科 第155回定期演奏会

 指揮:下野竜也
 独奏:福田彩乃(サクソフォン)
管弦楽:京都市立芸術大学音楽学部・大学院管弦楽団
 合唱:京都市立芸術大学音楽学部・大学院合唱団

 座席:3階LB1列5番
(2017年7月2日14時開演/京都コンサートホール大ホール)


 この4月より教授に就任した下野竜也が指揮台に上がるというので、京都市立芸術大学音楽学部・大学院音楽研究科の第155回定期演奏会に足を運んだ。

 一曲目は、ベートーヴェンの交響曲第1番。
 どちらかといえばベートーヴェン・チクルスの前プロとして流されがち、というか、なかなか演奏される機会の少ない交響曲第1番だけれど、下野さんはこの第1番をベートーヴェンの「不滅の九つ」の出発点と位置づけ意欲的な表現を行っていた。
 通常配置、14、12、10、8、6という大型の弦楽器編成というところまでは先日の小泉和裕が指揮した京都市交響楽団の定期演奏会と同じだが、ティンパニの鋭い打ち込みや弦楽器の処理等、その演奏はいわゆるピリオド・スタイルを明らかに意識したもので、強弱のメリハリがきいてクリアでスピーディー、実に聴き心地がよいものだった。
 オーケストラも下野さんの指揮によく沿って、まとまりがよい躍動感に満ちた演奏を生み出していた。

 休憩を挟んだ二曲目は、学部4回生の福田彩乃がソロを務めたフランスの作曲家アンリ・トマジのサクソフォン協奏曲。
 フランスの名手マルセル・ミュールのために書かれたコンチェルトで、様々な技法が駆使されつつも、基本的には耳馴染みのよい旋律に満ちており、サクソフォンが独奏ということもあり良質の映画音楽を聴いているようだった。
 須川展也率いる「SAX PARTY!」に所属するほか学外での活動も活発な福田さんは、危うさを感じさせないテクニックで朗々として鳴りの良いソロを聴かせてくれた。

 三曲目は、ポディウム席に混声合唱を配置したラヴェルのバレエ音楽『ダフニスとクロエ』の第2組曲。
 管弦楽の妙技がこれでもかと発揮された『ダフニスとクロエ』だが、中でも「さわり」というか、ここぞという部分を集めたものがこの第2組曲である。
 個々の技量の長短やオーケストラとしての経験不足が感じられはしたものの、下野さんの薫陶のもと、静から動や強弱の変化をしっかりと描きつつ、パワフルでエネルギッシュ、切れ味の鋭い演奏を披瀝していた。
 中でも、盛り上がりつつも崩れを聴かせない終曲「全員の踊り」はとても聴き応えがあった。
 合唱もよくコントロールされていた。
(ちなみにハープは、多嘉代衣里のおなじみ松村姉妹。学生院生さんたちの演奏に華を添えた)

 と、予想以上に愉しめたコンサートだった。
 ぜひ下野さんと市芸の面々には、京都市芸(や下野さんが音楽総監督を務める広島交響楽団)と縁の深い安部幸明の作品を演奏してもらえればと思う。
 まずは交響曲第1番などどうだろう。

 ああ、面白かった!!
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2017年06月23日

京都市交響楽団 第613回定期演奏会

☆京都市交響楽団 第613回定期演奏会

 指揮:小泉和裕

 座席:3階LB1列5番
(2017年6月23日19時開演/京都コンサートホール大ホール)


 名は体を表すというけれど、顔もまた体を表すのではないか。
 例えば、その実演録音に接しながら古今東西の指揮者たちの面構えを改めて窺えば、確かにこの顔にしてこの音楽ありの感がしないではない。
 むろん、そこにはある種の偏見思い込みもないではないが、赤熊の如き相貌の御仁はやはりパワフルな演奏を、能面怜悧なかんばせの持ち主は研ぎ澄まされた精緻な演奏を、それぞれ繰り広げていることが少なくないだろう。
 その伝でいけば、少々えらが張って角張った顔立ちの小泉和裕という指揮者は、かくかくしかじか四角四面しかつめらしい音楽の造り手になる……。
 と一概に断定することはできないのだけれど、小泉さんと僕のファーストインプレッションはあまり好ましいものではなかった。
 あれは1989年の2月18日だから、もう30年近くも前になる。
 京都市交響楽団第311回定期演奏会(京都会館第1ホール)で初めて接した小泉さんの指揮からは、まとまりがよくて劇性に富んだ音楽を生み出そうという意志はよく伝わってきたものの、それ以上の何かが届いてこないもどかしさを覚えてしまったのである。
 一つには、当時の京響の技術的精神的な限界も大きかったとは思うが。
(ちなみにこの定期演奏会では、ベートーヴェンの交響曲第4番、エリック・テルヴィリガーを独奏に迎えたリヒャルト・シュトラウスのホルン協奏曲第1番、ラヴェル編曲によるムソルグスキーの組曲『展覧会の絵』が演奏された)

 そんな小泉さんへの評価が大きく変わったのは、2006年5月25日の大阪センチュリー交響楽団の第111回定期演奏会(ザ・シンフォニーホール)、特にメインのベートーヴェンの交響曲第3番「英雄」を聴いてからだ。
 この日のエロイカ・シンフォニーは本当に聴き応えがあった。
 カラヤン譲りの小泉さんのオーケストラコントロールに当時のセンチュリー響の精度も相まって、凝集力が高くて密度の濃い演奏に仕上がっていたからである。
(確かこの演奏は関西テレビが収録して、テレビでも放映されたはずだ)

 それから10年。
 『レオノーレ』序曲第3番に交響曲第2番、交響曲第7番とベートーヴェンばかりを並べた京都市交響楽団第613回定期演奏会は、小泉和裕という指揮者の表現と表出意欲の強まりが存分に示されたコンサートとなっていた。
 そしてそれは、作品の持つ力感の再現と音楽の強弱の変化への的確適切な反応とでも言い換えることができるのではないか。
 中でも、『レオノーレ』序曲の追い込み前のフルートを中心にオーボエやファゴットが絡んでくる部分での静謐さや、交響曲第7番の第3楽章の2度目の中間部でさらに音が大きさを増す辺りに、小泉さんの美点がよく表れていたように感じられた。
 と、ともに早めのテンポをとりつつ、音楽の流れにも配慮がなされていたことも忘れてはなるまい。
 ただ、両交響曲の第1楽章など、カラヤン風の指揮ぶりとは異なり、どこかスマートになりきれないぎくしゃくとした感じが付きまとっていたことも事実ではある。
 とはいえ、というか、だからこそか、一気呵成、というよりも、まるで話したいことがあり過ぎてせっかちに捲し立てているかのような第7番の終楽章の走りっぷりは強く印象に残った。
 当然そこに劇場感覚のケレン、音楽造りの妙がないとはいえないけれど、それより何よりあれは、小泉さんの強い表現欲求の表れだろう。
 ベートーヴェンの音楽の持つ狂気、きちがいぶりがよく再現されていた。
(そうそう、うっかりして忘れていたが、小泉さんはもともと山田一雄の弟子だったのだ)

 14、12、10、8、7という編成の弦楽器(通常配置。コンサートマスターは泉原隆志で、フォアシュピーラーに渡邊穣)、2管編成の管楽器という京都市交響楽団は、細かいミスは聴き受けられたものの、指揮者によく沿った音楽を生み出していたと思う。
 それにしても30年。
 京都市交響楽団も、演奏会場も大きく変わったなあ。

 ああ、面白かった!!
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2017年06月04日

川越塔子リサイタル

☆川越塔子リサイタル

 独唱:川越塔子(ソプラノ)
 ピアノ:細川智美

 座席:F-11
(2017年6月4日15時開演/青山音楽記念館バロックザール)


 以前よりお世話になっているプロデューサーで達人の館代表の橘市郎さんからお誘いのあった、ソプラノ歌手の川越塔子リサイタルに足を運んだ。
 締め切り等の関係でぎりぎりまで行けるかどうか危うかったのだけれど、これは足を運んで本当に大正解、密度が濃いのに押しつけがましさを微塵も感じさせることのない、知情意のバランスがよくとれた愉しいリサイタルだった。

 リサイタルの主人公である川越さんは、東大法学部を卒業後、武蔵野音楽大学の大学院で声楽を学び、ローマにも留学。
 さらにフランス、イタリアで研鑽を積み、現在は藤原歌劇団に所属しオペラを中心に活躍している。
 京都造形芸大の芸術劇場春秋座でのオペラ公演で度々ヒロインを演じるなど、京都でもよく知られた存在だ。
 加えて、2015年には、『パリの薫り〜コンセール・アペリティフ〜』と題されたフランス物を中心としたアルバムもリリースしている。

 さて、今日のリサイタルのプログラム。
 前半の一部はグノーの『ロメオとジュリエット』から「夢に生きたい」、オッフェンバックの『ホフマン物語』から「オランピアの唄」、マスネの『マノン』からガヴォット、同じくマスネの『エロディアード』から「甘く優しく」、プーランクの即興曲第15番「エディット・ピアフを讃えて」*、同じくプーランクの『ティレジアスの乳房』から「いいえ旦那様」とフランスの作曲家でまとめ、休憩を挟んだ後半の第二部は、團伊玖磨の『夕鶴』から「あたしのだいじな与ひょう」、プッチーニの『蝶々夫人』から「ある晴れた日に」と「可愛い坊や」、ドビュッシーの月の光*、クルト・ヴァイルの『ヴィーナスの接吻』から「愚かなハート」、メノッティの『泥棒とオールドミス』から「私を盗んで」、バーンスタインの『キャンディード』から「きらびやかに着飾って」と日本を舞台にした作品にアメリカで作曲された作品が並ぶという非常に意欲的なものとなっていた。
(ちなみに*は細川さんによるピアノ・ソロ)
 曲間のトークで、川越さんは自分が好きな歌、歌いたい歌を歌うことにしたとプログラミングについて説明していて、確かにそれはその通りなのだろうけれど、選曲(フランス語、日本語、イタリア語、英語の歌をあえて取り上げた点も含め)と全体的な構成には彼女の自負に矜持、知性と志向を強く感じたことも事実である。
 もちろん、それは川越さんの実力に裏打ちされたものであることは言うまでもない。
 バロックザールのホールを震わせるかのような声量の持ち主で、高音部の伸びもあり、強弱のコントロールもよくとれたその歌唱がまずもって魅力的な上に、作品、役柄を的確に演じ分ける演技力にも欠けていない。
 しかも、先述したトークも含めて機智とコケットリイ、サービス精神にも富んでいる。
 結果、いい歌だった、いいリサイタルだったとよい心持ちになることができた。

 ピアノの細川さんは過不足ない伴奏で、川越さんの歌をしっかりと支える。
 プーランクと月の光も、出しゃばらず、しかしリリカルさを失わないソロで、間奏曲的な役割を巧く果たしていた。

 なお、リサイタルの謎解きであり、川越さん自身のマニフェストともいえるプッチーニの『トスカ』から「歌に生き、恋に生き」、カスタネットでリズムを刻んだドリーブの『カディスの娘たち』、そして中島みゆきの『糸』の三曲がアンコールとして歌われた。


 オペラ好き、クラシック音楽好きはもちろんのこと、できれば演劇関係の人たちにも接して欲しかったリサイタルだ。
 ああ、面白かった!!
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2017年05月27日

日本センチュリー交響楽団 いずみ定期演奏会No.35

☆日本センチュリー交響楽団 いずみ定期演奏会No.35

 指揮:飯森範親
 独奏:水無瀬一成

 座席:2階LA列5番
(2017年5月26日19時開演/いずみホール)


 CDで聴き馴染んだハイドンの交響曲第90番、第76番、第92番「オックスフォード」が演奏されるので、大阪のいずみホールまで足を運んだ。
 本来の室内オーケストラ編成という持ち味を活かすとともに、オーケストラを鍛える目的もあって新首席指揮者の飯森範親が始めた日本センチュリー交響楽団のいずみ定期「ハイドン・マラソン」(ハイドンの交響曲全曲演奏)の9回目、今シーズン最初の演奏会である。
 ハイドンといえば、CDでも実演でもあまり客が集まらないと言われて久しいが、満席大入りとはいかずとも6割程度か、なかなかの入りでまずは何よりである。

 で、弦楽器は第1ヴァイオリンと第2ヴァイオリンが向かい合う対向配置で、8,8、6、5、3の編成。
 指揮者の正面にチェンバロ(パブロ・エスカンデ。適切な通奏低音を披瀝していた)が置かれ、その後ろにオーボエ2とフルート1、さらにその後ろにファゴット2、ホルン2が並ぶ。
 また、客席から見て右斜め後ろにティンパニとトランペット2が陣取っていた。

 一曲目は、交響曲第90番。
 フランスのドニィ伯爵のために作曲された交響曲の一つで、ハ長調という調性に相応しい晴れ晴れしい祝祭性を持つ一方、転調を活かした音楽的な仕掛けも施されるなど、ハイドンの機智が十全に示された作品となっている。
 強弱緩急のメリハリが効いてテンポが速く、ヴィブラートも控えめといういわゆるピリオド・スタイルが援用されていることは言うまでもないが、飯森さんの場合はそこにスタイリッシュというか表面的な精度の高さが加わってくる。
 そうしたスタイルはロマン派以降の作品ともなると、若干喰い込みの足りなさを感じさせる場合もあるのだけれど、古典派、特にハイドンの交響曲では効果的に発揮されているように思う。
 この交響曲では、第1楽章でのヴァイオリンのためや第3楽章のトリオでのオーボエ・ソロの即興的装飾(宮本克江が妙技を聴かせた。第1楽章の終盤にも同様の場面があって、宮本さんのほか、フルートの永江真由子も即興的な装飾を効かせていた)も巧く利用されており、聴き応えのある演奏に仕上がっていた。
 ただ、この交響曲の一番の聴かせどころである終楽章の転調後の偽終結は不発。
 というか、あえてあっさり流したような。
 飯森さんのことだから、一回どころか二回は仕掛けてくるかと待ち構えていたのだが。
 もしかしたらお客さんの多くもこの曲の騙しを知っていたのかもしれないし、まあ仕方ないか。

 続いては、昨シーズンより京都市交響楽団の副首席奏者からセンチュリーのトップに転じた水無瀬一成の独奏によるモーツァルトのホルン協奏曲第2番。
 若干不安定なところもあったけれど、鳴りのよい朗々としたソロを愉しむことができた。
 特に、第3楽章が強く印象に残る。
 飯森さんとセンチュリー響の面々も、同僚のソロをよく支えて過不足がなかった。

 休憩を挟んだ三曲目は、交響曲第76番。
 ロンドン訪問を当て込んで書かれた三曲中の一曲で、変ホ長調。
 モーツァルト同様、ティンパニとトランペットを除いた編成で書かれてはいるが、飯森さんとセンチュリー響は作品の持つ音楽的起伏(シンフォニックな部分と室内楽的な部分)や旋律の美しさをよく再現していた。

 そして、プログラム最後は交響曲第92番。
 ハイドンのオックスフォード大学名誉音楽博士号贈呈記念演奏会で演奏されたことから「オックスフォード」の愛称で知られる、ト長調の交響曲だ。
 なお、この曲ではチェンバロが退き、ティンパニとトランペット2が戻って来る。
 楽曲の構造構成や楽器の使用法などでハイドンの筆致はさらに進化を遂げており、第2楽章のヴァイオリン(首席客演コンサートマスターの荒井英治)とチェロ(首席奏者の北口大輔)の掛け合い等々聴きどころもたっぷりである。
 中でも、ぐいぐいと追い込んでいくエネルギッシュな終楽章に心動かされた。

 ソロ・アンサンブル両面で、日本センチュリー交響楽団は安定してまとまりのよい演奏を披瀝し、飯森さんの解釈によく応えていた。
 本音をいえば、ジョヴァンニ・アントニーニらバロック・ロック的な劇的な演奏でも触れてみたいが、まずはハイドンのこの3曲の交響曲の良質な実演に接することができたことに感謝したい。
 ああ、面白かった!!
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2017年05月21日

京都市交響楽団 第612回定期演奏会

☆京都市交響楽団 第612回定期演奏会

 指揮:高関健

 座席:3階LB1列5番
(2017年5月21日14時半開演/京都コンサートホール大ホール)

 へび、長すぎる
 とは、ルナールの『博物誌』の一節だけれど、その伝でいくと、
 ブルックナーの5番、長すぎる
 ではないか。
 初期の数曲を除けば概して長大なブルックナーの交響曲の中でも、第8番と並んで第5番は特に長い。
 で、へびは長さばかりが原因ともいえまいが、ブルックナーの交響曲第5番のほうは長さがとっつきにくさに直結している。
 じっくり耳を傾ければ実は聴きどころ満載なのだけれど、やはり構え見てくれが災いして、というやつだ。
 CDは置くとして、僕自身、ブルックナーの交響曲第5番の実演に接したのは、朝比奈隆指揮大阪フィルの第250回定期演奏会(1990年7月20日、フェスティバルホール)とハンス・フォンク指揮ケルンWDR交響楽団の定期演奏会(1993年10月29日、ケルン・フィルハーモニー)の二回きりである。
 前者は、とっつきにくいものはとっつきにくくて何が悪い、男は黙ってブルックナーの5番といった武骨な流儀、後者は作品の性質を大きく掴んで再現しようという意図はよくわかったものの、指揮者とオーケストラの嚙み合わせが今一つの感が強かった。
(というか、朝比奈さんのほうは開演前にフェスティバルホールの下のビュッフェでビーフカレーの大盛りを慌てて冷水で流し込んだせいで、第2楽章あたりからお腹の調子がおかしくなり、ああやっと曲が終わったと思ったら、なんと『ニュルンベルクのマイスタージンガー』第1幕への前奏曲がアンコールで始まるという地獄の責め苦のことばかり思い出す。僕の朝比奈さんに対する好感の薄さは、けっこうこのことによるものかもしれない)

 一方、今日聴いた高関健指揮京都市交響楽団のブルックナーの交響曲第5番は、目配り腑分けがしっかり行き届いており、耳馴染みのよい演奏に仕上がっていたのではないか。
 もちろん、上述したようなこの交響曲本来の堅固堅牢な構成構造がないがしろにされているわけ訳ではないのだけれど、それとともに、例えば第2楽章の叙情性、歌唱性(弦楽器が美しく響く)や第3楽章の跳ねるような感じというか舞曲性もしっかりクローズアップされるなど、様々な聴きどころが丁寧に再現されていたからである。
 そのおかげで、この第5番がそれまでの一連の交響曲の積み重ねの上にあることも再認識することができた。
 慌てず騒がず、けれど鳴らすべきところは鳴らし、テンポも細やかに変化させる。
 実に見通しがよくて、バランスのとれたブルックナーの交響曲第5番だった。
(ちなみに、高関さんはノンタクト=指揮棒なしでの指揮)

 コンサートマスターに石田泰尚、第2ヴァイオリン首席に長岡聡季、チェロ首席にルドヴィート・カンタをゲストで迎え、対向配置(第1、第2のヴァイオリンが向き合って座る。なお、コントラバスは舞台後方正面で、ティンパニは客席から見てその右隣)に陣取った京都市交響楽団はソロ、アンサンブル両面で精度の高い、高関さんの意図によく沿った明晰な演奏を繰り広げていた。

 プレトークでの高関さんのお願いも効いてか、フライングブラボーも一切なし。
 息を飲み込む一瞬の静けさも嬉しく、ブルックナーの交響曲第5番の魅力を改めて感じたコンサートでした。
 ああ、面白かった!!!
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2017年04月21日

京都市交響楽団 第611回定期演奏会

☆京都市交響楽団 第611回定期演奏会

 指揮:アレクサンダー・リープライヒ
 独奏:北村朋幹(ピアノ)

 座席:3階LB1列5
(2017年4月21日19時開演/京都コンサートホール大ホール)

 今年度最初となる京都市交響楽団の定期演奏会は、ドイツ出身の若手指揮者アレクサンダー・リープライヒがタクトをとった。
 NHK交響楽団や読売日本交響楽団、紀尾井シンフォニエッタ東京、大阪フィルへの客演ですでに日本でも知る人ぞ知るリープライヒは、ポーランド国立放送交響楽団のシェフとしてルトスワフスキやペンデレツキといった同国の現代音楽の作曲家を積極的に取り上げるとともに、昨年度まではミュンヘン室内管弦楽団とともにいわゆるピリオド・スタイルを援用した古典派や初期ロマン派の演奏で着実に評価を得てきた。
 今回の京都市交響楽団の定期演奏会は、そうしたリープライヒの特質が十二分に発揮されたコンサートとなっていた。
(なお、今回は第1ヴァイオリンの隣に第2ヴァイオリンが並ぶ通常配置。コンサートマスターには名古屋フィルの客演コンサートマスターの植村太郎、第2ヴァイオリンのトップには神奈川フィルの首席奏者直江智沙子が客演していたほか、前半のホルンには大阪交響楽団の細田昌宏がのっていた)

 まずは、メンデルスゾーンの序曲『フィンガルの洞窟』から。
 冒頭部分で、若干不安定さを感じたものの、徐々にリープライヒの解釈が効いてきて、終盤ぐっと心を動かされた。
 先述の如く、いわゆるピリオド・スタイルを援用した強弱緩急のメリハリがよく効いた演奏だが、それとともに、それであるからこそ、メンデルスゾーンの作品の持つ切れ味の鋭さや焦燥感を伴った飛び跳ねるような音の動き、甘やかさに留まらない抒情性が明示されていたのではないか。
 曲調の似通ったスコットランド交響曲のみならず、『夏の夜の夢』やイタリア交響曲のひな型というか、メンデルスゾーンの音楽の核というものを改めて知ることができた演奏だった。

 続いては、北村朋幹をソロに迎えたショパンのピアノ協奏曲第2番。
 国内外で受賞経験があり、現在はベルリンで学んでいるという北村朋幹だが、彼の魅力はその丹念で繊細な歌唱性にある。
 もちろん、第3楽章の速い音の動きやポーランド風のリズムののりのよさから彼の技量の高さは十分感じ取れたが、それより何より、第2楽章の歌い込みの美しさ、清澄さにはほれぼれとさせられた。
 次回はシューベルトやシューマンの作品にも接してみたい。
 一方、リープライヒ指揮のオーケストラはここでも切れ味の鋭いシャープな演奏を繰り広げていた。
 岩城宏之だったっけ、ショパンのピアノ協奏曲の伴奏部分のつまらなさを直截に記していたように記憶しているのだけれど、今夜のリープライヒと京都市交響楽団ならば一切退屈なし。
 第2楽章の管楽器のソロなどでは、ショパンが当時のオペラから大きな影響を受けていたことを強く感じたりもした。

 盛大な拍手に応えたアンコールは、メンデルスゾーンの無言歌作品番号38−6。
 上述したような北村さんの美質がよく表されていた。
 ショパンではなくメンデルスゾーンをチョイスした点にも彼の音楽的センスを感じる。

 休憩を挟んだ後半は、大編成によるルトスワフスキの管弦楽のための協奏曲で、この曲を生で聴くのは今回が初めて。
 公演パンフレットに柴辻純子が記しているように、バルトークの同名の作品を強く意識したものであることは言うまでもあるまい。
 ただ、あなたバルトークが亡命先のアメリカで作曲された諧謔皮肉の表出であるとすれば、こなたルトスワフスキは戦後の祖国ポーランドで作曲された実験性と同時代的緊張感と明晰明解さとのバランスの上に生み出された音楽的宣言とでも呼べるように思う。
 リープライヒは音楽の構成をしっかりと捉えた上で、細部への目配りにもかけない音楽づくりを行って、この曲の持つ妙味を存分に再現し切っていた。
 大音量での強奏部分でも楽器がごちゃつかずきっちりと腑分けされていた点には感心したし、特に第3楽章での表現の切実さ痛切さには息をぐっと詰まらされた。
 京都市交響楽団は、リープライヒの解釈に沿って精度の高い演奏を繰り広げた。
 ソロ、アンサンブルともに好調で、今年度も期待大だ。
 いずれにしても、聴き応え十分で大いに満足した。

 と、音楽を聴く愉しみに満ち満ちたコンサートでした。
 ああ、面白かった!!!

 そうそう、CDでの細やかで小回りの利いた演奏からリープライヒのことをどちらかといえば華奢で小柄な人だと思っていたが、長身の偉丈夫だったのにはちょっとびっくり。
 まさしく百聞は一見に如かずだなあ。
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2017年04月09日

ジャン・ロンドー チェンバロ・リサイタル

☆ジャン・ロンドー チェンバロ・リサイタル

 楽器:ヤン・カルスペック製作 ジャーマン2段チェンバロ(M.ミートケモデル)
 座席:1階B列1番
(2017年4月9日14時開演/兵庫県立芸術文化センター小ホール)


 この二年ほど二週間に一回の割合で、信頼のおける親しい友人に紹介してもらった整体院に通っている。
 ブログなどで身体のメンテナンスと記しているものだが、これが実にありがたい。
 ごりごりぐいぐいの力任せとは全く正反対、身体の不調のポイントをしっかり見極め、あるときは強弱のバランスをとりながら動かし、あるときは緩急のテンポを変えながらさすり、あるときは指をあてて固まり強張った場所をじっくり緩めていく。
 ここのところ、それなりにデスクワークが進んでいるのも、この身体のメンテナンスのおかげである。

 フランスの若手チェンバリスト、ジャン・ロンドーが弾くヨハン・セバスティアン・バッハのゴルトベルク変奏曲を聴いていて、僕はすぐに身体のメンテナンスのことを思い出した。
 一つには、座った席の加減で、ロンドーの両手の動きがしっかり目に入ったからでもあるのだが、その演奏の進め具合と生み出された音楽そのものに身体のメンテナンスと通じるものを感じたからだ。
 ロンドーが弾いたゴルトベルク変奏曲には、様々な仕掛けが施されいた。
 ただ、それは理知的にしっかりと構築されたものというよりも、感興感情に忠実というか、ロンドーの心の動きが透けて見える(聴こえる)ものともなっていた。
 だいいち、ロンドーはこの曲を一つの音楽の流れとして一気呵成に弾き切るのではなく、変奏変奏のまとまりごとに休止を挟んで演奏したのである。
 で、そうした休止・中断に若干のもどかしさを感じる反面、一つ一つの変奏の性質表情、音楽の旋律や構造の美しさがゆっくりとしたテンポで丹念に示されていた点には、それこそ心のメンテナンスというのか心地よさを感じたことも事実で、時折小さな寝息の音が客席から聞こえてきたこともやむをえないとまで思ったほどだ。
(そういえば、広上淳一さんが京都市交響楽団を指揮してエルガーのエニグマ変奏曲を演奏したときも、変奏ごとに休止が入って同様の感想を持ったのだった)
 もちろん、ロンドーの演奏が実は緩急自在のものであることは、ゴルトベルクの速いテンポの変奏やアンコール2曲目のラモーの未開人でよく証明されていたのではないか。
 いずれにしても、興味深く聴き心地のよい時間を過ごすことができた。

 なお、ちょっとしたスピーチののちに演奏されたアンコール1曲目はクープランの神秘的なバリケード(障壁)。
 遠目で調子のよい鍛冶屋さんかと見間違ったが、よくよく確かめてみるとフランス紳士だったといった曲調の美しい小品である。

 ああ、面白かった!!!
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2017年03月17日

ベルリン・フィルのメンバーによる室内楽

☆ベルリン・フィルのメンバーによる室内楽
 〜ピアノ三重奏の夕べ ラフマニノフ、ブラームス、シューマン〜

 座席:1階8列6番→同列3番(ブラームス〜)
(2017年3月17日19時開演/京都コンサートホール小ホール)


 舞台上、ライトが演奏者を中心にして楕円形の明かりを照らしている。
 その光景が、「ベルリン・フィルのメンバーによる室内楽」と題された今夜のコンサートを象徴しているように僕には感じられた。
 枠の外へと踏み出すことはないけれど、枠の中で自らの持てるものをしっかり出し尽くしたというか。

 〜ピアノ三重奏の夕べ ラフマニノフ、ブラームス、シューマン〜と副題が付された「ベルリン・フィルのメンバーによる室内楽」は、ベルリン・フィルのコンサートマスターのアンドレアス・ブーシャッツに首席チェロ奏者のオラフ・マニンガーと、ベルリンを拠点に活動するピアニストのオハッド・ベン=アリが加わったピアノ・トリオのコンサートで、ラフマニノフのピアノ3重奏曲第1番「悲しみの三重奏曲」、ブラームスのピアノ3重奏曲第1番、シューマンのピアノ3重奏曲第1番という意欲的なプログラム。
 もともと東京・春・音楽祭の企画が京都でも開かれたものだ。

 ブーシャッツとマニンガー、ベン=アリのトリオは、あえて役者で喩えれば、中村勘三郎と藤山直美、柄本明の三人がわかった上で芸の競い合いを重ねるような名人上手の集まりでもなく、かといってインティメートな演技を重ねる昔馴染みの劇団員同志の公演とも異なる、ベルーフ(職責)の意識を強く持ったアンサンブルとでも呼べるのではなかろうか。
 精度が高く、均整のとれたアンサンブル。
 ではあるが、技術偏重の機械的な演奏とは一線も二線も画していることは言うまでもない。
 例えば、ブラームスの第2楽章のスケルツォ アレグロ・モルトなど、ベン=アリのピアノをはじめ、音楽の構成ばかりでなくその背景にあるものが透けて見えるかのような演奏でほれぼれとした。
 また、同じブラームスの第1楽章やシューマンの終楽章などでの熱の入った激しい表現も見事だし、ラフマニノフを筆頭にブラームス、シューマンの緩徐楽章でのリリカルで艶やかな音色も実に魅力的である。
 そして、そうした諸々が表面的ではなく、より内面から均されている感じが冒頭の枠の内外の感想に繋がり、さらには彼らが所属するベルリン・フィルを想起させもした。
 まさしく「ベルリン・フィルのメンバーによる室内楽」だと痛感した次第である。

 いずれにしても、音楽を聴く愉しみに満ち満ちたコンサートでした。
 ああ、面白かった!!!
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2017年02月18日

第30回同志社女子大学音楽学科オペラクラス公演 モーツァルト:歌劇『フィガロの結婚』

☆第30回同志社女子大学音楽学科オペラクラス公演
 モーツァルト:歌劇『フィガロの結婚』

 指揮:森香織
 演出:井上敏典
 管弦楽:同志社女子大学音楽学科管弦楽団
(2017年2月18日14時開演/同志社女子大学新島記念講堂)


 昨年に続いて、今年も同志社女子大学音楽学科オペラクラスによるモーツァルトの歌劇『フィガロの結婚』の上演を観聴きした。
 30回目となる今回の指揮は、森香織。
 当初、関谷弘志の指揮とアナウンスされていたが、開演前に演出の井上先生に伺ったところ、授業や他のコンサートとの兼ね合いで森さんに変更することになったとのこと。
 吉本新喜劇や月亭八斗さん月亭八織さんとも共同作業を重ねている関谷さんがどんなブッファを生み出したか気になるところだけれど、これはまた別の機会を心待ちにしたい。
(余談だが、国際交流基金のケルン日本文化会館の業務実習生として当方がケルンに滞在していた頃、井上先生もケルン音大で学ばれていた。実は当時からそのことを知っていて、一度ご挨拶でもできればと思いつつ、結局機会を逸してしまった。今日、20年越しにその念願が叶えられた)

 森さんは大阪音大の指揮専攻科を修了後、ウィーン国立音大、さらにはイタリアのキジアーナ音楽院に留学し、名匠ジャンルイジ・ジェルメッティの下でオペラ指揮についても学んでいる。
 京都フィル室内合奏団やアマチュア・オーケストラのコンサートにオペラなど、関西各地で活動中だ。
 同志社がらみでは、確か同志社交響楽団OBによるアマチュア室内オーケストラ、カンマーフィルハーモニー京都の指揮者を務めているのではなかったか。
 森さん自身の音楽解釈に加え、オペラ慣れしていない学生によるオーケストラが相手ということもあって、昨日聴いた鈴木秀美指揮京都市交響楽団のようなピリオドピリオドした演奏とは全く異なってはいたが、快活でありながらもしなやかさとたおやかさを兼ね備えた音楽づくりが試みられていた。
 特に、要所要所での弦楽器の滑らかな動きが印象に残った。
 なお、昨年は指揮の瀬山智博が弾き振りしたチェンバロは、京谷政樹が担当。
 機智に富んだ伴奏を聴かせた。
(昨年も通奏低音はチェンバロだけだったかな? チェロが加わっていたような気がするんだけど)

 で、女性の独唱者は4年次生から選ばれる。
 まんべんなく学生さんを割り振らなければならないということで、声量歌唱力などどうしてももどかしさを感じる場面もなくはなかったが、それでも声質容姿は各々登場人物にぴったりで適材適所と呼べるキャスティングだった思う。
 中でも、それぞれの役回りの重要なアリアを受け持った伯爵夫人の百合純香、スザンナの鄭美來、マルチェリーナの藤居知佳子(第1、第2幕の田中由衣も艶やかな声の持ち主だった)は聴き応えのある歌唱を披歴していた。

 一方、男性の独唱者は教授の井原秀人(フィガロ)、講師の青木耕平(アルマヴィーヴァ伯爵)をはじめ、雁木悟(ドン・バルトロ)、孫勇太(ドン・クルツィオ)、佐藤彰宏(アントニオ)のベテラン勢が演じ、学生さんたちを巧みにリードした。
 そんな中、異彩を放っていたのは、ドン・バジリオを演じた谷浩一郎。
 ストレート・プレイだったら佐野史郎、柄本明、小日向文世あたりが適役のドン・バジリオの狂気を谷さんは激しく表現してまさしく「中村仲蔵」の趣きがあり、この人のミーメやローゲを聴いてみたくなった。
(上記のストレート・プレイだけど、ドン・クルツィオは三谷昇!)

 井上先生の演出は、昨年と同じく歌い手たちの歌い易さも考慮したものだったが、第3幕の婚礼の場面などの群衆のまとまりのよさに改めて感心した。

 などと、それらしいことをくどくど書き連ねてきたけど、上演が終わってカーテンコールとなってから出演者ばかりかスタッフ陣も加わって第4幕フィナーレ(伯爵が謝ったあと)を歌っているのを観聴きしていると、ああ、この手造り感はやっぱりいいなと強く心を動かされたのだった。
 むろん、それで難しいことはどうでもいいとはならなくて、上述したような日本の音楽大学におけるピリオド・スタイルの指導の問題とか、「音楽劇」としての演技の問題とか、どうしても考えざるをえないのだけれど、集団で一から何かを造り出すこうした経験は様々な課題に今後向き合う際に、必ず大きな糧になるとも思う。
 いずれにしても、この公演に関わった卒業生学生の皆さんのさらなる研鑚と活躍を心より祈願したい。

 ああ、面白かった!!
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京都市交響楽団第609回定期演奏会

☆京都市交響楽団第609回定期演奏会

 指揮:鈴木秀美
 独奏:鈴木秀美(チェロ)

 座席:3階LB列1−5
(2017年2月17日19時開演/京都コンサートホール大ホール)


 日本におけるピリオド楽器演奏の先駆者の一人で、チェリスト・指揮者として活躍する鈴木秀美が京都市交響楽団の定期演奏会に初登場し、カール・フィリップ・エマヌエル・バッハ、ハイドン、ベートーヴェンの「これぞ古典派!」と言いたくなるようなプログラムを指揮した。
(ちなみに、鈴木さんと京響の初顔合わせは2014年6月28日に小ホールのほうで開催されたコンサート。この時、ハイドンのオックスフォードとベートーヴェンのエロイカが演奏されているが、あいにく未聴である)

 まずは、大バッハの次男であるカール・フィリップ・エマヌエルのチェロ協奏曲イ長調Wq.172から。
 ガット弦を張り、エンドピンを外した状態の師匠井上頼豊譲りの楽器を手にした鈴木さんを、第1ヴァイオリン(コンサートマスターは渡邊穣)、第2ヴァイオリン(首席奏者にバロック楽器の演奏で著名な高田あずみが入っている)、ヴィオラ、チェンバロ(客演の上尾直毅)、チェロ、コントラバスによる小編成のアンサンブルが囲む。
 プレトークで鈴木さんが話していたように、カール・フィリップ・エマヌエルの作品の中では「古典派」的な明解さを持った曲調だけれど、第1楽章の終盤などの音楽進行には彼らしい毒っ気の片鱗を感じたりもした。
 ピリオド対応のチェロで弾き振りした鈴木さんだが、学究的な演奏とは正反対。
 それこそ師匠の井上頼豊を彷彿とさせる一曲入魂的な雰囲気さえたたえる独奏で、中でも第2楽章のソロの部分では、今は亡きくるみ座の名優北村英三(源三じゃないよ)をマイルドにしたような鈴木さんの風貌もあって、役者の一人語りを耳にしているような味わいがあった。
 一方、京響も統率がよくとれた演奏を披歴していた。

 続いて、第1ヴァイオリンの向かいに第2ヴァイオリンを配置する「対向配置」に弦楽器を並べ替えて(ただし、コントラバスは客席から見て左側奥)からハイドンの交響曲第82番ハ長調Hob.1:82の演奏が始まる。
 第82番は、パリの演奏家団体のために作曲されたいわゆる「パリ・セット」中の一曲で、コンサート・プログラムにも記されているが、第1楽章と第4楽章に熊の鳴き声のように聞こえる箇所があることから「熊」の愛称で知られている。
 速めのテンポ設定、効果的な強弱急緩(と、言うより、音が遠くから近くへとどんどん迫ってくるかのような音)の変化など、ピリオド・スタイルを援用した演奏で、祝祭性や劇性等々、この作品の持つ妙味が巧みに表現されていた。
 弦、管ともに京響の面々も精度が高く、ソロをはじめハイドンの音楽的な仕掛けがよくわかった。
 そうそう、仕掛けといえば、この交響曲には見せかけの終止が第1楽章と第4楽章にあるのだけれど、だましが何度も続いたせいで本当に曲が終わったときしばらく拍手が起こらなかったんだった。
 ハイドンもしてやったりだろう。

 休憩を挟んだ後半は、運命交響楽。
 言わずと知れたベートーヴェンの交響曲第5番ハ短調作品番号67。
 ここのところ、オットー・クレンペラーがフィルハーモニア管弦楽団を指揮したこの曲の録音を重ねて聴いているが、それとは対極的な…。
 いや、実はそうじゃないんじゃないかな。
 当然、ピリオド・スタイルを援用した演奏なんだけれど、一気呵成は一気呵成にしても、動静の静の部分、急緩の緩の部分、強弱の弱の部分といった細部までよく目配りの届いた演奏であることも確かで、そこらあたりはクレンペラーの解釈とも通じるものがある。
 そして、ハイドンのハ長調のシンフォニーとあわせて演奏することによって、この曲が古典派の総決算であるとともに、そこからはみ出すものを持った新しい潮流の中にある作品であることも改めて感じさせていた。
 京都市交響楽団は、ここでも好調。
 音の入りで若干スリリングな箇所がなくもなかったが、全体的に水準の高い演奏を繰り広げていた。
 特に、第3楽章での低弦から始まる弦楽器のざわめきや終楽章の華々しさが強く印象に残った。
 終演後、激しく暖かい拍手が起こったのも当然のことだと思う。

 音楽の愉しみに満ち満ちたコンサートで、心底わくわくできました。
 ああ、面白かった!!
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2017年01月21日

京都市交響楽団第608回定期演奏会(後半のみ)

☆京都市交響楽団第608回定期演奏会(後半のみ)

 指揮:下野竜也

 座席:3階LB列5番
(2017年1月21日14時半開演/京都コンサートホール大ホール)


 諸々すませて京都コンサートホールまで自転車を飛ばしたが、あと一歩で開演時間に間に合わなかった。
 パスカル・ロジェがソロを務めた大好きなモーツァルトのピアノ協奏曲第25番を聴けなかったのは残念だが、これはもう仕方ない。
 後半券を利用して、ブルックナーの交響曲第0番ニ短調を聴くことにした。

 第0番ってなんだぺ?
 と、訝る向きも少なくないだろうが、ブルックナーには番号付きの1番から未完成の第9番に到る9曲の交響曲の他に、番号の付かないヘ短調とニ短調の二曲の交響曲があってこなたニ短調は第0番の通称で知られているのである。
(ちなみに、あなたヘ短調は第00番)
 公演プログラムで山本美紀が記しているように作曲年代は特定されていないが、いずれにしても初期の交響曲に違いはない。
 後期の充実した筆致に比べれば当然密度の薄さ、書法のこなれなさを感じる部分は多々あるものの、一方でシューベルトやメンデルスゾーンといった初期ロマン派の交響曲に通じる(プレトークで、下野さんはシューベルトの交響曲第4番「悲劇的」との共通性に触れたということだ)清々しい叙情性をためた作品であることも事実だ。
 と、ともに第1楽章終盤のゲネラルパウゼや金管の強奏、ザンザンザンザンという弦の刻み、荒れ狂うスケルツォとブルックナーらしさが随所に表われていたりもする。
 一つ間違えれば、結構のちぐはぐさが目立つことにもなりかねないが、下野竜也は細分を丹念に詰めながら、強弱緩急のコントロールがよく効いて全体の流れをしっかりと見据えた音楽づくりで非常に聴き応えのある演奏を生み出していた。
 特に、ブルックナーのリリシズムが十二分に発揮された第2楽章の美しさが強く印象に残った。
 京都市交響楽団は今回も均整がとれて精度の高い演奏を披歴し、好調をキープし続けていた。
(オーケストラは第1ヴァイオリンの隣に第2ヴァイオリンのいわゆる通常配置、コンサートマスターは渡邊穣で、フルートのトップは客演の榎田雅祥が務めていた)

 物珍しさに終わらない作品であり演奏で、大いに満足がいった。
 後半だけでも聴いて本当に大正解だった。
 ああ、面白かった!!
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2017年01月12日

オーケストラ・アンサンブル金沢 ニューイヤーコンサート2017 in大阪

☆オーケストラ・アンサンブル金沢 ニューイヤーコンサート2017 in大阪

 指揮&バロック・ヴァイオリン:エンリコ・オノフリ
 独唱:森麻季(ソプラノ)
 チェンバロ:繻`亜樹子
 管弦楽:オーケストラ・アンサンブル金沢

 座席:2階LA列16番
(2017年1月11日19時開演/いずみホール)


 イル・ジャルディーノ・アルモニコのソロ・コンサートマスターをはじめ、いわゆるピリオド楽器やピリオド・スタイルの演奏で活躍し、鬼才の異名を持つエンリコ・オノフリがオーケストラ・アンサンブル金沢のニューイヤーコンサートを指揮するというので、迷わず大阪のいずみホールまで足を運んだ。
 一般的なニューイヤーコンサートいえば、ヨハン・シュトラウスらウィーンのワルツ・ポルカということになるが、そこはオノフリ、ヴィヴァルディにヘンデル、モーツァルトとバロック・古典派の、それも「祝祭」をイメージしたプログラムが組まれていた。

 まずは、ルイ15世の息子の誕生を祝して作曲されたヴィヴァルディのセレナータ『祝されたセーナ』のシンフォニア(劇の冒頭に演奏される器楽曲)が演奏されたが、黒いマフラー然としたものでバロック・ヴァイオリンを身体に固定したオノフリの弾き振りの下、オーケストラ・アンサンブル金沢がピリオド・スタイルの演奏を当為のものとして披歴していた点に感心した。
 ちなみに、指揮者と向き合う形で舞台中央にチェンバロが置かれたほかは、第1ヴァイオリンの隣に第2ヴァイオリンという通常配置がとられていた。

 続く、ヴァイオリン協奏曲ト長調(協奏曲集「調和の霊感」作品3より3)では、スリリングさとパッションに満ちたオノフリのソロを愉しむ。
 オーケストラ・アンサンブル金沢の弦楽器群は、コンサートマスターのアビゲイル・ヤングとともにオノフリのソロをよく支えていた。

 3曲目は、独唱の森麻季を迎えたヘンデルのオラトリオ『時として覚醒の勝利』より「神によって選ばれた天の使者よ」。
 森麻季の歌声とオノフリのヴァイオリン・ソロの掛け合いが実に魅力的だった。

 前半最後は、同じくヘンデルの王宮の花火の音楽。
 この曲からオノフリは指揮に専念したのだけれど(指揮棒は持たず)、狂気の沙汰は金次第ならぬ狂気の沙汰は指揮次第というのか、「祝祭」性というよりも良い意味での気違いっぷりが十分十二分に示された演奏に仕上がっていた。
 特に、グンナー・フラスの痛烈なティンパニ・ソロに始まる序曲は、目まぐるしいテンポで走る走る。
 トランペットに元N響の関山幸弘が加わったオーケストラの面々も、激しい身振り手振りのオノフリの指揮によく喰いついて無事ゴールに到着した。
 騒々しい、ではなく躁々しい演奏とでも呼べようか。

 後半1曲目は、再び森麻季が登場してモーツァルトのモテット『踊れ、喜べ、幸いなる魂よ』を歌う。
 前半のヘンデルもそうだったのだが、このモーツァルトでも、伸びがあって透明感のある声質とコントロールのよく聴いた歌唱という彼女の特性美質が十全に発揮されていた。
 中でも、有名な「アレルヤ」や協奏曲のカデンツァにあたるソロの部分に強く心を動かされた。
 オノフリ指揮のオーケストラ・アンサンブル金沢も目配りの届いた伴奏を行っていた。

 盛大な拍手に応えてのアンコールは、森麻季の十八番といえるヘンデルの歌劇『リナルド』より「涙の流れるままに」。
 上述した特性美質に情感の豊かさも加わって、「はあ」と喜びのため息が出そうな歌唱を堪能することができた。
 繻`亜樹子のチェンバロとルドヴィート・カンタのチェロによる低音も強く印象に残った。

 コンサート最後は、モーツァルトの交響曲第35番「ハフナー」。
 本来ザルツブルクのハフナー家の当主の爵位授与を祝うために作曲された作品で、ここでもオノフリは強弱緩急とメリハリのよく効いた演奏を生み出していた。
 ただ、それが単なるそれいけドンドン超特急ではないことは、抒情性と静謐さを感じさせた第2楽章を聴けば明らかだろう。
 なお、第1楽章では反復が省略されていたが、これは劇場感覚・コンサート感覚に則った判断だったと思う。

 と、音楽を聴く愉しみに満ち満ちたコンサートで、足を運んで本当に大正解。
 ああ、面白かった!!

 ところで、非常に残念だったのは空席がとても目立っていたこと。
 1階の後半三分の一以上やバルコンのほとんどが埋まっていなかった。
 趣向に富んで良質なコンサートだっただけに、もっとなんとかならなかったものか。
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2016年12月29日

京都市交響楽団 特別演奏会「第九コンサート」

☆京都市交響楽団 特別演奏会「第九コンサート」

 指揮:ステファン・ブルニエ
 独唱:横山恵子(ソプラノ)、手嶋眞佐子(メゾソプラノ)、高橋淳(テノール)、伊藤貴之(バス)
 合唱:京響コーラス
 合唱指揮:小玉晃
管弦楽:京都市交響楽団

 座席:3階LA1列6番
(2016年12月28日19時開演/京都コンサートホール大ホール)


 師走のクラシック音楽界の風物詩といえば第九、ベートーヴェンの交響曲第9番「合唱付き」だ。
 ひと頃ほどの勢いはないとはいえ、今年もプロアマ問わず12月に入ったとたん第九のコンサートが全国的に開催されている。
 僕自身、郷里の長崎とは違って当たり前にプロのオーケストラの第九を聴くことができる関西に移った大学の入りたての頃は、よく第九のコンサートに足を運んだものである。
 記録で確認してみると、1988年12月26日の第300回定期演奏会(デヴィッド・シャロン指揮)、1990年12月26日の第330回定期演奏会(井上道義指揮)と京都市交響楽団で2度第九を聴いている。
 前者のほうは、例の昭和天皇の自粛騒ぎの中ということで、ちょっとした覚悟を持って第九を聴いたはずだ。
(そうそう、かつて京都市交響楽団の12月の定期演奏会は例年第九がメイン、前プロに日本の作曲家に委嘱した新作という組み合わせで、88年は吉松隆のファゴット協奏曲「一角獣回路」、90年は北爪道夫のオーケストラのための「昇華」が初演された。それがいつの間に特別演奏会という形になったのだろう)
 その後、いろいろとあって年末の第九からは遠ざかっていたのだけれど、昨年の井上道義指揮大阪フィルのコンサートで「再会」、やっぱりこれはいいやと今年も生で第九を聴くことにした。
 今年は好調著しい京都市交響楽団の主催公演をチョイスする。

 指揮台に上がったのは、スイス・ベルンの出身で1964年生まれのステファン・ブルニエ。
 ベートーヴェン・オーケストラ・ボン(ボン・ベートーヴェンハレ管弦楽団)とボンの歌劇場を中心にコンサートにオペラと活躍中で、手兵とはMD+Gレーベルからベートーヴェンの交響曲をリリースしているし、2014年には来日してNHK交響楽団に客演を果たした。
(なお、今回はそのN響の大宮臨太郎がゲストコンサートマスターを務めていたほか、京響を卒団した清水信貴がフルートのトップを務めていた。ちなみに、今回のオーケストラはファースト・ヴァイオリンの隣にセカンド・ヴァイオリンが座る通常配置)

 まずは、日替わりのモーツァルトの序曲で、昨夜は『魔笛』の序曲が演奏される。
 まさしくコンサートの幕開けにぴったりのきびきびとして劇場感覚に満ちた演奏で、わくわくとした気分となる。
 とともに、一昨日の『ドン・ジョヴァンニ』の序曲も含めて、曲の造りや音型など第九に通じるものが感じられたのも面白かった。

 で、京響コーラスの面々が舞台上に現われたところで、再びブルニエが登場。
 メインの第九が始まる。
 見た目は取的力士、それもアンコ型に近いブルニエだが、造り出す音楽は実にクリアでスピーディー、ドラマティック。
 いわゆるピリオド・スタイルを意識した音楽づくりだけれど、教条主義的にそれを取り入れるのではなく、音楽の展開にあわせてそれを仕掛けていく。
 基本的には速めのテンポだったが、第3楽章はゆっくりとした歩みで旋律の美しさ、音楽の楽園的な雰囲気を醸し出す。
 加えて、忘れてはならないのが、腑分けがよく行き届いて強弱緩急のメリハリが効いた演奏を通じて、このベートーヴェンの交響曲第9番の全体的な構造、性格結構が巧みに再現されていたことだ。
 特に、第4楽章。
 第1楽章から第3楽章の主題が回想されるところで、それを否定するように低弦が強く鳴らされ、さらにおなじみの歓喜の主題で低弦が登場する辺り(終演後、ブルニエはがオーケストラの中でまずチェロとコントラバスの低弦パートを立たせていたのも当然だろう)、そうだそうだそうなのだと大いに納得した。
 そして、歓喜の主題が盛り上がってバスが高らかにソロを歌う辺りからの急激急速なテンポは、この曲の祝祭性、ばかりかよい意味での「気のふれた」感じが見事に表されていた。

 ライヴ特有の細かい傷はあったし、より掘り下げていえば、ブルニエの音楽づくりの核となるものを心底手の内に入れるにはもう少し時間が必要だったようにも感じるが、京都市交響楽団はブルニエの意図によく沿って、水準の高い演奏を繰り広げていた。
 座席の関係もあって独唱陣の歌声は若干聴き取りにくかったものの、彼彼女らの歌唱もまた祝祭性に富んだものだったし、京響コーラスも均整のとれた美しい歌声を聴かせてくれた。

 一年を振り返るに相応しい演奏で、聴きに行って本当に大正解。
 やっぱり年末の第九はいいや。
 ああ、面白かった!!
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2016年11月26日

妄想 2017年度ザ・シンフォニーホール・オーケストラコンサート(国内編)

☆妄想 2017年度ザ・シンフォニーホール・オーケストラコンサート(国内編)


 続いては、国内のオーケストラのコンサート。


*大阪フィル ザ・・シンフォニーホール定期演奏会

第1回「ドビュッシーとラヴェル」
 指揮:井上道義
 ドビュッシー:小組曲
 ドビュッシー:交響詩『海』
 ラヴェル:亡き王女のためのパヴァーヌ
 ラヴェル:ラ・ヴァルス
 ラヴェル:ボレロ

 ザ・シンフォニーホールで再開される大阪フィルの定期演奏会、その第1回目は井上道義が指揮するフランス音楽名曲選。
 まさしくドビュッシーとラヴェルのいいとこどり。


第2回「日本の夏 道義の夏」
 指揮:井上道義
 独奏:通崎睦美(木琴)
 独唱:藍川由美(ソプラノ)
 解説:片山杜秀
 伊福部昭:管弦楽のための日本組曲
 林光:木琴協奏曲「夏の雲走る」
 武満徹:3つの映画音楽から葬送の音楽(『黒い雨』より)
 古関裕而:長崎の鐘(管弦楽伴奏版)
 別宮貞雄:交響曲第4番「夏 1945年」

 ザ・シンフォニーホールでの大フィル定期第2回は「日本の夏 道義の夏」と題して、通崎睦美、藍川由美に片山杜秀を迎え、夏にちなんだ日本の作曲家の作品を特集する。
 NHKの『クラシックの迷宮』でも知られる片山氏の解説も愉しみである。


第3回「湯浅卓雄のエルガー」
 指揮:湯浅卓雄
 独唱:藤居知佳子(メゾ・ソプラノ)
 エルガー:行進曲『威風堂々』第1番
 エルガー:海の絵
 エルガー:交響曲第2番

 湯浅卓雄が指揮する、これぞエルガーと呼ぶべきプログラム。
 独唱の藤居知佳子も期待大だ。



*京都市交響楽団 大阪定期演奏会

第1回「最晩年のリヒャルト・シュトラウス」
 指揮:広上淳一
 独奏:小谷口直子(クラリネット)、中野陽一朗(ファゴット)
 独唱:松井亜希(ソプラノ)
 リヒャルト・シュトラウス:メタモルフォーゼン
 リヒャルト・シュトラウス:クラリネットとファゴットのための2重協奏曲
 リヒャルト・シュトラウス:最後の4つの歌
 リヒャルト・シュトラウス:『ヨゼフ伝説』による交響的断章

 進境著しい京都市交響楽団が満を持して臨む大阪定期演奏会の第1回は、リヒャルト・シュトラウスの最晩年の作品を集めた。
 楽団員である小谷口直子と中野陽一朗のソロが聴きもの。
 そして、松井亜希の美声がプログラムに彩りを添える。


第2回「古典派の変ロ長調の交響曲」
 指揮・レクチャー:鈴木優人
 ヨハン・クリスティアン・バッハ:交響曲作品番号9−1
 モーツァルト:交響曲第33番
 ベートーヴェン:交響曲第4番

 京響大阪定期第2回目は、古楽器界の新進気鋭鈴木優人のレクチャーコンサート。
 変ロ長調の交響曲3曲を通じて、古典派の音楽の変化を親しみ易く解説していく。


*日本のオーケストラ・シリーズ

第1回 神奈川フィル
 指揮:川瀬賢太郎
 ハイドン:交響曲第90番
 ブラームス:ハイドンの主題による変奏曲
 ブラームス:ピアノ4重奏曲第1番(シェーンベルク編曲)

 関西以外の日本のプロ・オーケストラを迎える日本のオーケストラ・シリーズ。
 栄えある第1回には、若手指揮者の代表格川瀬賢太郎が率いる神奈川フィルが登場し、ハイドン、ブラームス、シェーンベルク編曲によるブラームスと凝ったプログラムを聴かせる。
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妄想 2017年度ザ・シンフォニーホール・オーケストラコンサート(海外編)

☆妄想 2017年度ザ・シンフォニーホール・オーケストラコンサート(海外編)


 ザ・シンフォニーホールといえば、関西のみならず日本を代表するコンサートホール。
 開館以来、数々の名演奏を届け続けてきた。
 ただ近年は、通俗過ぎるというか、兵庫県立芸術文化センターと比較して正直物足りないプログラムが並んでいる。
 もちろん、経済的事情等考えればそれもやむを得ないことなのだろう。
 と、言うことで、妄想だけならただ。
 当方がもし億万長者でザ・シンフォニーホールを買い取ったら、一体どんなオーケストラのコンサートを企画するか考えてみた。
 採算度外視、集客度外視、実際のスケジュール無視、そんなプログラム(一部バランスとりあり)をご照覧あれ。
 まずは、海外のオーケストラから。


*世界のオーケストラ・シリーズ

1:ムジカ・エテルナ Aプログラム
 指揮:テオドール・クルレンツィス他
 モーツァルト:歌劇『フィガロの結婚』抜粋
 モーツァルト:歌劇『コジ・ファン・トゥッテ』抜粋
 モーツァルト:歌劇『ドン・ジョヴァンニ』抜粋

2:ムジカ・エテルナ Bプログラム
 指揮:テオドール・クルレンツィス
 独奏:パトリシア・コパチンスカヤ
 ムソルグスキー:歌劇『ホヴァンシチナ』から前奏曲「モスクワ河の夜明け」
 チャイコフスキー:ヴァイオリン協奏曲
 ストラヴィンスキー:バレエ音楽『春の祭典』

 ギリシャ出身の鬼才テオドール・クルレンツィスと手兵ムジカ・エテルナは、彼彼女らが一躍脚光を浴びるきっかけとなったモーツァルトのダ・ポンテ三部作抜粋に、コパチンスカヤのチャイコフスキーと春の祭典というボリュームたっぷりのAB2プログラム。
 いずれも、聴き逃せない。


3:カンマーアカデミー・ポツダム
 指揮:アントネッロ・マナコルダ
 メンデルスゾーン:交響曲第4番「イタリア」
 シューベルト:交響曲第8番「ザ・グレート」

 今年のラ・フォル・ジュルネびわ湖で清新な演奏を聴かせたドイツの室内オーケストラ、カンマーアカデミー・ポツダムは、シェフのマナコルダと共に再来日。
 CDでもおなじみメンデルスゾーンとシューベルトの交響曲の中から、「イタリア」と「ザ・グレート」の2曲をチョイスした。


4:ガリシア交響楽団
 指揮:ディーマ・スロボデニューク
 独奏:パブロ・フェランデス(チェロ)
 アリアーガ:歌劇『幸福な奴隷たち』序曲
 アリアーガ:交響曲ニ短調
 リヒャルト・シュトラウス:交響詩『ドン・キホーテ』

 youtubeの動画で優れた演奏を披歴しているのが、スペインのガリシア交響楽団。
 今回は一捻りしたお国物で、本領発揮を期待したい。
 俊英フェランデスのチェロ独奏も愉しみだ。


5:スタヴァンゲル交響楽団
 指揮:クリスティアン・バスケス
 独奏:田部京子
 スヴェンセン:祝祭ポロネーズ
 グリーグ:ピアノ協奏曲
 ベルリオーズ:幻想交響曲

 ノルウェーのスタヴァンゲル交響楽団は、エル・システマの申し子バスケスに引き連れられての登場。
 田部京子のグリーグに、バスケスお得意の幻想交響曲、いずれも興味津津である。


6:オランダ交響楽団
 指揮:ヤン・ヴィレム・デ・フリエンド
 ベートーヴェン:劇音楽『エグモント』序曲
 ベートーヴェン:交響曲第5番
 ベートーヴェン:交響曲第6番「田園」

 デ・フリエンドとオランダ交響楽団は、ピリオド・スタイルを駆使して王道中の王道、ベートーヴェンの第5番と田園に挑む。
 目から鱗、ならぬ耳から鱗のとびきりの体験をあなたに。
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2016年10月08日

京都市交響楽団 第606回定期演奏会

☆京都市交響楽団 第606回定期演奏会

 指揮:ラドミル・エリシュカ
管弦楽:京都市交響楽団

 座席:3階LB1列5番
(2016年10月7日19時開演/京都コンサートホール大ホール)


 クラシック音楽の世界には、遅れて来た巨匠、とでも呼ぶべき一群の演奏家たちがいる。
 さしずめ、チェコ出身の指揮者ラドミル・エリシュカなど、日本における近年の活躍ぶりからしても、その代表格といえるのではないか。
 1931年の生まれというから、今年で85歳。
 1968年から約20年間、チェコの地方オーケストラ、カルロヴィ・ヴァリ交響楽団のシェフを務める一方、1996年から2008年まではプラハ音楽大学指揮科教授として後任の指導にあたるなど着実に活動を続けていたものの、彼は知る人ぞ知る存在にすぎなかった。
 それが2004年の初来日からは一転。
 特に、首席客演指揮者となった札幌交響楽団とは少なからぬCDがリリースされたりして、好調な関係を築き上げている。
 また、大阪センチュリー交響楽団(現日本センチュリー交響楽団)や大阪フィルへの度重なる客演で関西でもすでにおなじみだ。
 そのエリシュカが京都市交響楽団と初めての共演を果たした。
 今回は「京都・プラハ姉妹由提携20周年記念」ということで、スメタナの『モルダウ』、ドヴォルザークの交響的変奏曲に交響曲第9番「新世界から」、とまさしく「おくにもの」が並ぶプログラムだったが、だからこそ、エリシュカという指揮者の特性魅力がひと際発揮されていたように感じた。
 その特性魅力を簡潔に言い表わすならば、的確な楽曲把握に裏打ちされた音楽の劇的再現とでもなるか。
 カレル・アンチェルやラファエル・クーベリック、ヴァーツラフ・ノイマンといった過去のチェコの指揮者たちとも通底しているが、ノイエ・ザッハリヒカイト(精度の高いアンサンブルの構築と正確なテンポ設定)という基本線の上で、歌わせるべきところは歌わせ、鳴らすべきところは鳴らす音楽づくり、と言い換えることも可能かもしれない。

 まず、スメタナの連作交響詩『わが祖国』から二曲目にあたる『モルダウ』。
 学校の授業等では描写音楽の典型と教えられることの多いこの曲を、「ナショナリズム」の宣言と解き明かしたのは今は亡き林光だったが(チェコの人々にとってはあまりにも当たり前なことであり、改めて説明する必要がない)、あの印象的な冒頭部分からエリシュカは比較的速めのテンポで演奏を始める。
 実演録音ともに、これまで何度も耳にしてきた曲だけれど、だからこそ、弦楽器が奏でるおなじみの美しい旋律をはじめとしたアクセントの置き方、リズム(舞曲性)の強調等々、エリシュカの細やかな指示が目に見えるように伝わってくる。
 もちろん音楽の全体的な展開がしっかりと把握されていたことは言うまでもない。
 若干反応の鈍さを感じた部分もなくはなかったが、京響の面々もそうしたエリシュカの意図をよく汲んだ演奏を行っていた。

 二曲目は、ドヴォルザークの交響的変奏曲。
 プログラムノートで増田良介が記しているように、ブラームスのハイドンの主題による変奏曲からの影響が色濃くうかがえる作品である。
 確かに両曲とも管弦楽の妙味が引き出された構成となっているが、ブラームスの作品がある種の諦念をためたものだとすれば、ドヴォルザークのほうはより熱情的というか、目まぐるしい感情の変化が強く印象に残る。
 自作の合唱曲による厳かさと滑稽さを兼ね備えた主題が、様々な舞曲のスタイルによって変奏されるというつくりで、エリシュカはその一つ一つの変奏の特徴を丁寧に明示していく。
 最終盤の音楽的高揚のエネルギッシュでパワフルな表現には、エリシュカの85歳という年齢が信じられないほどだった。

 休憩を挟んでのメインは、名曲中の名曲「新世界から」。
 ここでもエリシュカの表現にぶれはない。
 速めのテンポを維持しつつ、聴かせどころ、音楽のツボをよく心得た演奏を繰り広げる。
 加えて、通常慣らされて表現されることの多いフレーズ(土臭いというか、重たいというか、野暮たいというか)の強調もエリシュカはあえて辞さない。
 結果、凝集力に富んで新鮮な響きのする音楽が再現されていた。
 中でも、「家路」として有名な第2楽章の静謐な表現や、終楽章での畳みかけには強く心を動かされた。
 ゲストコンサートマスターに元N響の山口裕之を迎えた京響も、現在の持てる力でエリシュカの要求に応えていた。

 いずれにしても、音楽を聴く愉しみに満たされたコンサートで、適うことならば今一度エリシュカと京都市交響楽団の実演に接したい。
 ああ、素晴らしかった!!
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2016年09月22日

第6回関西の音楽大学オーケストラ・フェスティバルIN京都コンサートホール

☆第6回関西の音楽大学オーケストラ・フェスティバルIN京都コンサートホール

 指揮:秋山和慶
 独唱:岡本優香(ソプラノ・大阪音大)、藤居知佳子(アルト・同志社女子大)
管弦楽、合唱:大阪音楽大学、大阪教育大学、大阪芸術大学、京都市立芸術大学、神戸女学院大学、相愛大学、同志社女子大学、武庫川女子大学

 座席:3階LB1列5番
(2016年9月22日14時開演/京都コンサートホール大ホール)


 小澤征爾や山本直純ら数多くの門下生の中で、実は秋山和慶こそ斎藤秀雄が編み出した指揮法の元来の目的に沿った活動を続けてきた指揮者なのではないか。
 つまり、技量的に限界のある日本のオーケストラに対し、簡にして要を得た機能的なバトンテクニックでもって音楽の要所急所を指し示しつつ、一程度以上の水準の演奏を創り上げるという。
 中でも、財団解散に追い込まれ自主運営を余儀なくされた東京交響楽団の音楽監督・常任指揮者としての40年にわたる奮闘努力は、秋山和慶の指揮者人生の象徴ともいえるだろう。
 ただ、1980年代以降の日本のプロフェッショナルなオーケストラのレヴェルアップの中で、そうした秋山さんの特性はかえって見え(聴こえ)にくくなっていったのではないか。
 事実、NHK交響楽団の京都公演(1989年7月18日、京都会館第1ホール)を皮切りに、大阪フィルの第247回定期(1990年3月23日、旧フェスティバルホール)、札幌交響楽団の大阪公演(同3月30日、ザ・シンフォニーホール)、少し飛んで大阪フィルの第31回サントリー音楽賞記念公演(2001年2月19日、同/三善晃の特集)、そして大阪センチュリー交響楽団の第112回定期(2006年6月7日、同)と、何度か秋山和慶が指揮するコンサートに足を運んだが、均整がとれたオーケストラ・コントロールと、シャープでスマートな音楽づくりに感心しつつも、彼の真価に触れたと言い切れるほどには強く心を動かされてはこなかった。

 ところが、夕暮れ社弱男ユニットの公演で出会って度々その歌唱に接してきた藤居知佳子が独唱者として出演するというので足を運んだ、今日の第6回関西の音楽大学オーケストラ・フェスティバルでの秋山さんの指揮には心底感嘆させられた。
 プログラムは、マーラーの交響曲第2番「復活」。
 言わずと知れた大編成、しかもバンダに独唱合唱つきの大曲である。
 しかも、オーケストラは地の利もあってか京都市立芸大を中心とはしつつも、上述した如き混成軍(特に管・打楽器)というわけだから、当然一筋縄ではいかない。
 いや、こういう書き方をするとなんだか難曲演奏困難曲のように思われるかもしれないし、実際プロのオーケストラでも骨の折れる作品に違いはないのだけれど、大きな傷があろうとへっちゃらちゃら介、そこはフェスティバルなんだから炎立たせて大騒ぎして最後は「サライ」もびっくりの大感動で締めりゃあいいじゃん、というやり方をしても格好のつくつくりにもなっているのである。
 けれど、秋山さんはそういうやり方はしない。
 限られた時間の中で、どこをどう押さえればアンサンブルがまとまるか、シンフォニックに聴こえるか、今後の彼彼女らの演奏活動に繋がる指導を施すというか、技術面の問題というよりも経験不足のほうがより大きい若い音大生たちを相手にイロハのイとまではいかないけれど、出来得る限り明晰でなおかつ劇性にも富んだ音楽を生み出そうとしていく。
 冒頭の低弦の響きにまずそれを強く感じたし、以降の強奏の部分での鋭い表現などにもそれが垣間見えた(聴こえた)。
 一方で、弱音の部分でのリリカルな表現も強く印象に残る。
 例えば第2楽章の弦楽器の静謐で柔らかな演奏には、マーラーそのものというより彼に影響を受けた北欧の音楽を思い起こしたりもした。
 そして、そうした積み重ねがあるからこそ、終楽章の昂揚がひと際鮮明に浮かび上がってくるように思われた。
 ライヴ特有の傷は多々あったし、より密度の濃い表現を期待したい部分も少なくはなかったが、秋山さんの指揮者としての力量を痛感したことに間違いはない。
 副指揮の橋詰智博をはじめとしたサポートも加わってだろうが、音大生たちもそうした秋山さんの指揮に応える努力を重ねていた点に大きな拍手を送りたい。

 藤居さんの歌唱については、コンサートの記録で数回触れてきた。
 声量があった上で、深々としてなおかつ透明感のある声質の持ち主であることは言うまでもないが、今回のマーラーのアルトソロでは、高音部の美しさを再確認することもできた。
 これまでのイタリア物やフランス物ばかりでなく、こうしたドイツ・リートにまで彼女の守備範囲は及ぶのではないだろうか。
 研鑚をさらに積んだ藤居さんが歌う同じ曲や、大地の歌をぜひ聴いてみたい。
 一方、ソプラノソロの岡本さんは、清楚で芯のある声質の持ち主。
 すでにオペラでも活躍されているようだが、今度は彼女の日本歌曲にも接してみたいと思った。

 賛助メンバーを含む合唱団も、コーラスマスターの北村敏則、合唱指導の石原祐介両氏の指導の下、真摯でまとまりのある歌唱を創り出そうという意志を聴かせていた。

 若い音大生の熱意に加え、ベテランの音楽家の底力を目の当たりにしたコンサートでした。
 ああ、面白かった!
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2016年08月26日

シューベルト/レクチャー&コンサート「あこがれ、さすらい、そして成熟」

☆シューベルト/レクチャー&コンサート「あこがれ、さすらい、そして成熟」

 ナビゲート:堀朋平
 フォルテピアノ、お話:鈴木優人
 ソプラノ:松井亜希
 テノール:松原友
 フォルテピアノ:重岡麻衣
(2016年8月25日19時開演/いずみホール)


 今年度のいずみホールのテーマ企画「シューベルト こころの奥へ」のプレ企画として開催された、シューベルト/レクチャー&コンサートに足を運んだ。
 ちなみにこのレクチャー&コンサートは招待制のものだったが、座席交換の際、こちらの細かい希望を叶えてもらうことができて、本当にありがたかった。
 よく当日座席指定とかいって、料金を平然ととっておきながらプロでもない団体が得手勝手な座席を押し付けてくることがあるが、ああいったとち狂った団体の責任者は、爪の垢でも煎じて飲んで欲しい。

 さて、今回は、「あこがれ、さすらい、そして成熟」と題して、シューベルトの音楽の持つ憧憬の念や精神的な彷徨、31年という短い生涯における作曲家としての成熟を中心にレクチャーと演奏が繰り広げられていた。

 鈴木優人が弾く楽興の時第3番D.780-3(NHKラジオ第1の『音楽の泉』のテーマ曲でもある)でスタートした第1部「シューベルト−詩と音楽の出会い」では、シューベルトの友人ショーバーの詩による『音楽に寄せて』D.547(松原友独唱)、同じく友人のマイアホーファーの詩による『あこがれ』D.516(松井亜希独唱)、ゲーテの詩による『糸を紡ぐグレートヒェン』D.118(松井亜希独唱)、『月に寄せて』D.296(松原友独唱)、『ただあこがれを知る人は』D.877-1(松井亜希、松原友二重唱)が演奏され、ナビゲーターの堀朋平(先頃、『<フランツ・シューベルト>の誕生』が法政大学出版局から刊行された)と優人さんによって、シューベルトが友人たちの助力によって「職業音楽家」の道を歩んだことや、彼の自然や希望、理想に対する憧憬の念、精神的逡巡や彷徨、ゲーテの詩による歌曲の変遷からうかがえる作曲家としての成熟について語られた。

 休憩を挟んだ第2部「成熟と深淵−後期を聴く」では、優人さんによってフォルテピアノの説明が行われたのち重岡麻衣が登場し、4手(連弾)のための小品「4つのレントラー」D.814がまず演奏される。
 その後、題名にもある通り、ザイドルの詩による『窓辺にて』D.878(松原友独唱)、『春に』D.882(松井亜希独唱)、そして再び重岡さんと優人さんの連弾でファンタジーヘ短調D.940と、後期の作品が演奏された。
 第2部になると、俄然堀さんのトークのエンジンがかかり、ときに優人さんが抑えにまわる場面も。
 最後に演奏されたファンタジー、特に中盤から終盤にかけての激しい表情の変化には、確かに深淵を覗く想いがした。
 重岡さん(高音部。フォルテピアノの鍵盤の右側)と優人さん(低音部。同左側)も、破綻を怖れない果敢さでこの作品に向き合っていたと思う。

 実は、このレクチャー&コンサートに応募した大きな理由は、鈴木雅明(優人さんのお父さん)指揮京都市交響楽団のモーツァルト・ツィクルスNr.21(2009年11月14日、京都コンサートホール小ホール)で実演に接したのち、今年4月のNHK・FM『リサイタル・ノヴァ』で改めて感心した松井亜希が出演するためで、今回も彼女の透明感があって伸びのある美しい声質と歌唱を堪能することができた。
 また、『糸を紡ぐグレートヒェン』はじめ、彼女の音楽の持つ劇性をとらえる能力を再認識できたことは大きな収穫だった。
 一方、松原友も濁りのない声質の持ち主で清潔感のある歌唱を披歴していたし、鈴木優人は歌曲の伴奏、連弾で独唱者や重岡麻衣をよく支え、密度の濃い音楽空間を創り出していた。
 また、忘れてならないのが、各々の音楽スタイルが共通していることによって均整のとれた演奏が生れていたことだ。
 演奏の合間のトークでも語られていたように、松原さんと優人さんは東京藝大の先輩後輩にあたり小林道夫の下でバッハを学んでいたし、同じ藝大出身の松井さんは鈴木雅明率いるバッハ・コレギウム・ジャパンの公演に度々参加している。
 付け加えるならば、重岡さんも藝大出身で鈴木雅明にチェンバロ、通奏低音を学んでいた。
 特に、『ただあこがれを知る人は』とアンコールの『光と愛』D.352(コリンの詩による二重唱)での松井さんと松原さんの声が重なり合う部分の美しさには、強く心を動かされた。
(余談だけど、二人の独唱、優人さんの指揮で、メンデルスゾーンの交響曲第2番「讃歌」を演奏してはもらえないものか。日本センチュリー交響楽団あたりどうだろう?)

 ときにくすぐりの入る堀さんと優人さんの掛け合いも、専門に寄り過ぎず、かといって、安易に過ぎず、企画の趣旨によく沿っていたのではないか。
 ただ、シューベルトの音楽の持つ社会性(当時のオーストリアの抑圧的な状況等々)について一切語られなかったことに、若干物足りなさを覚えたりしたが。

 いずれにしても、休憩を挟んで2時間とちょっと、大満足でした。
 ああ、素晴らしかった!!
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2016年08月20日

京都市交響楽団第604回定期演奏会

☆京都市交響楽団第604回定期演奏会

 指揮:沼尻竜典
 独奏:石井楓子(ピアノ)
管弦楽:京都市交響楽団

 座席:3階LB1列5番
(2016年8月19日19時開演/京都コンサートホール大ホール)


 欧米のように9月からのシーズン・スタートというわけではないのだけれど、夏休みとの兼ね合いか、それより何より、暑いさ中にまじめなプログラムのコンサートもないだろうということか、この国のプロ・オーケストラも基本的に8月には定期演奏会を開催してこなかった。
 ところが、もう何年前からになるか、少しずつ8月に定期演奏会を開催するオーケストラが増えてきた。
 さしずめ京都市交響楽団など、その先駆けの一つということになるのではないか。
 それでも、軽めの作品を並べたり合唱曲をメインに置いたりするなど、8月ならではのプログラムが組まれてきたことも事実だ。
 それが、今年の第604定期演奏会は三善晃のピアノ協奏曲にショスタコーヴィチの交響曲第4番と、京都コンサートホールの舞台上に弦管打楽器ハープにチェレスタ、所狭しと楽団員が居並ぶ超大編成の本格的プログラムのコンサートとなった。

 なお、通常配置をとった今回の定期では、ゲストコンサートマスターにインテリヤクザかEXILEのメンバーかといった風貌の石田泰尚(神奈川フィル)を迎えたほか、チェロのトップにルドヴィート・カンタ(オーケストラ・アンサンブル金沢)が座るなど、要所を客演陣が固めていた。
 そうそう、余談だけれど、当方が初めて聴いた海外のオーケストラのコンサート、スロヴァキア・フィルの長崎公演(1987年5月5日、長崎市公会堂/武藤英明指揮)でドヴォルザークのチェロ協奏曲のソロを務めていたのだがこのカンタさんで、なんとも懐かしかった。

 プログラム前半の三善晃のピアノ協奏曲は、急緩急三部構成による1楽章形式の作品で、演奏時間は15分程度。
 ただし、その15分の中に作曲家の才気が凝縮されており、間然するところのない内容となっている。
 ショスタコーヴィチの交響曲第4番との対比という意味でも、興味深い選曲だと思う。
 特に、緊張が高まった第2部(緩)から第3部(急)でそれがぱっと開放されていくような感じが強く印象に残った。
 石井楓子は作品をよくその手の内におさめていて、安定した演奏。
 表現が硬質でないというか、抒情性に若干傾くというか、ロマンティックな作品が得意なように感じられた。
 指揮の沼尻竜典にとって三善晃は作曲の師にあたるわけだが(プレトークでも説明あり)、腑分けのしっかりした解釈で石井さんを支えるとともに、ときに独奏よりも雄弁に表現を行っている箇所もあったように思う。

 プログラム後半は、ショスタコーヴィチの交響曲第4番。
 間奏曲的な第2楽章を挟む長大な両端楽章というアンバランスな構成(演奏時間は約1時間)、先述した如き超大な楽器編成、おまけに作曲家自身がスターリン政権下の政治的な圧迫を慮って初演をキャンセルし、結局作曲から25年以上経った1961年に初演されるという曰く因縁つきと、どうにも一筋縄ではいかない作品である。
 20世紀後半以降、ようやく日本でも演奏される機会が増してはきたが、それでも頻繁にプログラミングされる作品とはいえない。
 当方も、生でこの交響曲を聴くのは今回が初めてだった。
 まずもって、聴く側にとっても演奏する側にとっても、労少なくない作品というのが、いっとう最初の正直な感想だ。
 三善晃のピアノ協奏曲とは対照的に、作曲家のあふれんばかりな才気、楽想、意志がこれでもかと言わんばかりに盛り込まれ、詰め込まれ、結果あるは舞台音楽か映画音楽のパスティーシュそのままのわっかりやすい旋律、あるは兇暴強烈な咆哮と次から次へと音楽が目まぐるしく変化していく。
 表面的技術的な難所急所も丸わかりだし(弦楽器の早弾きとか)、その上総体としての「ミスティフィケーション」というのか、単純にそれを政治的社会的なモティーフに還元することは避けたいものの、やはりショスタコーヴィチが置かれた諸状況が作品全体に靄をかけているかのようなとっつきにくさを与えていることも否めない。
 一つ間違うと、とっちらかってややこしい印象ばかりが残りかねないことになるのだが、沼尻竜典と京響の面々は、労を重ねることによって、作品の持つ特性や妙味を的確に描き出していたのではないか。
 上述したパスティーシュ的な楽想楽句ばかりでなく、シリアスな部分においても沼尻さんの劇場感覚(音楽の「劇性」の把握)は十全に発揮されていたと思うし、オーケストラもそうした沼尻さんの解釈に従って、ソロ・アンサンブル両面で高い水準の演奏を披歴していた。
 特に、今回こうやって実演に接することで、この曲のマーラーからの影響や、この曲が如何にして交響曲第5番に「改善」されていくのかを実感できたのは大きな収穫だった。
 というか、それより何より、第1楽章や第3楽章終盤の圧倒的な強奏。
 そして、全ての楽器が鳴り終えたあとの静寂。
 沼尻さんの祈るかのような姿勢と、まさしく息を殺すかのような20秒ほどの時間は、生ならではのものだろう。
 足を運んで本当によかった。

 それにしても、京都市交響楽団は掛け値なしにすごいオーケストラになってきているなあ。
 クラシックなんてようわからん、という人にもぜひご一聴いただきたい。

 ああ、素晴らしかった!!
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