2018年05月20日

京都市交響楽団第623回定期演奏会

☆京都市交響楽団第623回定期演奏会

 指揮:広上淳一
 独奏:河村尚子

 座席:3階LB1列5番
(2018年5月20日14時半開演/京都コンサートホール大ホール)


 クラシック音楽を聴き出した頃だから、かれこれ35年近く前になる。
 松本清張原作、野村芳太郎監督の『砂の器』を初めてテレビで観た。
 物語は大詰め、加藤剛演じる主人公の作曲家が新作の交響曲『宿命』を自演することになる。
 と、なんとしたことか、指揮者であるはずの加藤剛がやおらピアノを弾き始めるではないか。
 こいじゃ交響曲じゃなくて、ピアノ協奏曲じゃなかね!
 ブラウン管に向かって僕が突っ込んだのは言うまでもない。
 それからしばらくして、レナード・バーンスタインの交響曲第2番「不安の時代」を知った。
 なるほど、こういう形式の交響曲もあるにはあるのだ。
 ようやく僕はそう納得することにした。
(同趣向のゲーデの交響曲第5番、ダンディのフランス山人の歌による交響曲やスクリャービンの交響曲第5番「プロメテウス」、シマノフスキの交響曲第4番を知ったのは、それからまたしばらくしてからのことだった)


 京都市交響楽団の第623回定期演奏会は、バーンスタインの生誕100年を記念して、彼の交響組曲『波止場』と交響曲第2番「不安の時代」の間に、ショスタコーヴィチの交響曲第9番を挟んだ、音楽的関係性から考えても、また彼が生きた戦争や冷戦など個人と社会が厳しい緊張関係に置かれた時代を振り返るという意味合いからも、非常に興味深く密度の濃いプログラムが組まれていた。
(今回は第1ヴァイオリンとヴィオラが向かい合う通常配置。なお、コンサートマスターに大阪フィルの須山暢大、第2ヴァイオリンの首席に読売日本交響楽団の瀧村依里、チェロの首席に広島交響楽団のマーティン・スタンツェライトが客演した)

 一曲目の交響組曲『波止場』は、エリア・カザン監督の同名の映画音楽(1954年)を演奏会用に編み直したもの。
 ちなみに柴辻純子の公演プログラムの解説では触れられていないが、エリア・カザンはいわゆる赤狩りの時代、ハリウッドの仲間たちを裏切っており、このマーロン・ブランド主演による『波止場』にも、そうした彼の複雑な心情が色濃く反映している。
 静謐さや抒情性とともに、荒々しい暴力的な表現も欠けることのない実にドラマティックな音楽である。
 曲の入りなど、京都市交響楽団には若干不安定さも感じたが、ホルンやサクソフォンが美しいソロを披露していたし、大管弦楽が一気呵成、エネルギッシュに鳴り響く部分では生のオーケストラに接する愉しみを実感することができた。

 続いては、ショスタコーヴィチの交響曲第9番。
 この曲にまつわるエピソードをあえて記すことはしないけれど、ショスタコーヴィチの諧謔性が十分十二分に発揮された小気味よい交響曲である。
 広上淳一は余分なもったいづけは排し、オーケストラを十全にコントロールして全てを音楽に語らせるという行き方ではなかったか。
 広上さんと京都市交響楽団のショスタコーヴィチといえば、2004年8月28日の第467回定期演奏会における交響曲第6番の清新な演奏が強く記憶に残っているが、今回の第9番ではそれ以降の京響の様々な変化がよく窺える内容となっていた。

 休憩を挟んだ後半は、バーンスタインの交響曲第2番「不安の時代」。
 オーデンの同名の詩にインスピレーションを受けて作曲されたピアノ独奏を含む大編成の管弦楽による交響曲で、プログラムの解説にも示唆されているような「都会における孤独と不安」、社会と個の葛藤、ユダヤ教的思考とユダヤ人としての宿命性、その他諸々が重なり合ったバーンスタインの憧憬、衝動、希求が明示されている。
(その意味で、本来は社会と対峙すべき内容が、結局のところ個人の記憶に、それも感傷的に昇華されてしまう作品世界によく副った、ウェットで感動的な旋律に満ちた交響曲『宿命』とは非常に対照的だ*注)
 と、こう書くとしんねりむっつり、ノーノもびっくり、ひりひりひりひり塩辛い、不協和音連続、ガシャンギウワンドワンといったいわゆる「現代音楽」を想起する向きもあるかもしれないけれど、そこはバーンスタイン。
 一曲目の『波止場』同様、抒情的な旋律に満ちていたり、ジャズのイズムが巧みに取り入れられていたりと、音楽的な仕掛けに不足はない。
 河村尚子はそうした作品の持つ多様な性質を的確に踏まえて、精度の高い独奏を聴かせた。
 ジャズのとこなんて、ほんとわくわくしたもんね。
 京都市交響楽団も広上さんの意図に応える努力を重ねていたのではないか。
 いずれにしても、刺激に満ち満ちたコンサートだった。
 ああ、面白かった!!!


 *注
 これは映画の良し悪しとは別の話だ。
 だいいち、原作のような前衛音楽の作曲家が超音波で殺人をおかすような内容だったら、あれほどの人気映画にはならなかったろう。
 それこそ、大映で増村保造が監督して怪作になってしまったのではないか。
 主人公の前衛音楽の作曲家は市川雷蔵(加藤剛。以下野村監督版キャスト)、追い詰めるベテラン刑事は伊藤雄之助(丹波哲郎)、若い刑事は本郷功次郎(森田健作)、愛人のホステスは万里昌代(島田陽子)、フィアンセとなる令嬢は藤村志保(山口果林)、殺される老巡査は伊達三郎(緒形拳)、野村監督版には出ない評論家や演劇関係者は高松英郎や川崎敬三…。
 あれ、ちょっと観てみたいな…。
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2018年04月08日

京都市交響楽団スプリング・コンサート

☆京都市交響楽団スプリング・コンサート

 指揮:高関健
管弦楽:京都市交響楽団

 座席:3階LB1列5番
(2018年4月8日14時開演/京都コンサートホール大ホール)


 卯月四月。
 京都市交響楽団も新年度の始まりということで、京都コンサートホールまでスプリング・コンサートを聴きに行ってきた。
 指揮台には常任首席客演指揮者の高関健が立ち、コンサートマスターは客演の三上亮(札幌交響楽団のコンサートマスターなどを歴任)が務めた。
 なお、オーケストラは第1ヴァイオリンと第2ヴァイオリンが向かい合う、いわゆる対向配置がとられていた。

 まずは、バーンスタインのミュージカル『キャンディード』序曲から。
 ミュージカルそのものはヴォルテールの小説をもとにした諷刺劇ということで、けっこう骨太な内容になっているが、序曲は軽快かつ抒情的な旋律がふんだんに盛り込まれた鳴りに鳴る音楽。
 京都市交響楽団はパワフルでエネルギッシュ、なおかつ精度の高い演奏でスタートを飾るに相応しい演奏を生み出していた。
 ちなみに、この曲はバーンスタイン生誕100年を記念してのチョイスである。
(そういえば、ヴォルテールの原作は、先日読み終えた亀山郁夫の『新カラマーゾフの兄弟』でも重要な役回りを果たしていたんだった)

 と、ここで高関さんがマイクを握り、『キャンディード』序曲について簡単に振り返り、ここからは本題の「オーケストラが描く物語」と、二曲目のサン・サーンスの交響詩『死の舞踏』について説明を始める。
 つまるところ、今回のコンサートの主題は、オーケストラの音楽を通して物語を描く作品が集められているということだ。
 で、その『死の舞踏』だが、高関さんは確かに物語の筋立てをしっかり押さえつつも、あえてあざとくどぎつく色付けすることはしない。
 喩えていえば、ヒッチコックの映画そのものというより、フランソワ・トリュフォーによるヒッチコックへのインタビューに接しているかの如き、明晰で目配りがよく届いた音楽づくりで、冒頭等々、この曲があのオルガン付きの交響曲と同じ作曲家によって作曲されたものだということがよくわかった。
 コンサートマスターの三上亮がソロで大活躍。

 前半最後は、デュカスの交響詩『魔法使いの弟子』。
 高関さんは公演プログラムに書かれているような曲の解説のほか、ディズニー映画の『ファンタジア』を持ち出す。
(わざとらしさはないのだけれど、高関さんには独特のフラというか滑稽さがあるなあと改めて思う)
 言わずもがな、物語性に富んだ作品だが、高関さんの細部まで行き届いた解釈に京都市交響楽団のバランスのよい演奏で接すると、ワーグナーをはじめとした先達や同時代の作曲家たちの影響もはっきりと聴こえてくる。

 休憩を挟んだ後半は、高関さんによる解説から。
 これから演奏される幻想交響曲のあらましや、舞台袖で鳴らされる鐘の説明も面白かったが、なんといってもベルリオーズがアブネック指揮パリ音楽院管弦楽団の演奏したベートーヴェンの交響曲に強い影響を受けていたこと、並びにこの幻想交響曲がサン・サーンスやデュカス、ワーグナーやヴェルディに強い影響を与えたことを強調していた点が重要だった。
 つまり、このコンサートの主題が、オーケストラによって描かれた個々の物語を愉しむだけではなく、如何にしてオーケストラによって物語を描いていくかという作曲技法の影響進化を辿ることであることが明らかにされていたのだ。
 実際、第3楽章をはじめ上述したベートーヴェンの交響曲の影響や、ベルリオーズによる様々な音楽的実験など、この交響曲の持つ革新性と古典性の両面によく配慮された音楽づくりが為されていた。
 一方で、ティンパニの鋭い強打をはじめ強弱緩急とメリハリもよく効いていて、まさしく音楽による「ドラマ」を愉しむことができた。
(4楽章が終わったあと、ちょっと拍手が起こったのは残念だ。高関さんが手で止めていたけど…)

 京都市交響楽団はアンサンブル、ソロとも好調で今年度も優れた演奏を繰り広げてくれるのではないか。
 しっかりとした基礎とたゆまぬ研鑽、そして精緻な解釈によって創り出された、これこそ本物の芸術と痛感した次第。
 ああ、面白かった!!!
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2018年03月18日

京都市交響楽団第621回定期演奏会

☆京都市交響楽団第621回定期演奏会

 指揮:ジャンルイジ・ジェルメッティ
 独奏:ルイジ・ピオヴァノ

 座席:3階LB1列5番
(2018年3月18日14時半開演/京都コンサートホール大ホール)


 1980年代から90年代にかけてクラシック音楽、中でもオーケストラ音楽をよく聴いていた人間にとって、イタリア・ローマ生まれの指揮者ジャンルイジ・ジェルメッティは、割合馴染み深い指揮者の一人ではないだろうか。
 手兵シュトゥットガルト放送交響楽団と来日していたし、EMIレーベルやカプリッチョ・レーベルなどから少なくないCDもリリースされていた。
 ジェルメッティがシュヴェツィンゲン音楽祭で指揮した上演のビデオで、ロッシーニの一幕物のオペラに慣れ親しんだ人も少なくあるまい。
 その後も国内のオーケストラには客演していたし、確かアジア・オーケストラ・ウィークの一環としてシドニー交響楽団とも来日していたはずだが、師匠のセルジュ・チェリビダッケに似てかレコード録音をあまり好まないらしく、今では若干知る人ぞ知るといった存在となっている。
 そのジェルメッティが京都市交響楽団の定期演奏会の指揮台に立つというので、迷わず足を運んだ。

 プログラムの1曲目は、ロッシーニの歌劇『ウィリアム・テル』序曲。
 とりわけ終曲の「スイス軍の行進」で膾炙された有名曲中の有名曲で、ジェルメッティにとっても得意の一曲ということになるのではないか。
 で、冒頭のチェロの独奏からぐっと惹き込まれる。
 音楽の要所急所を押さえた、劇場感覚に富んだ演奏であることにもちろん違いはないけれど、それとともに、ロッシーニならではの「何か」がしっかり伝わってくる演奏でもある。
 と、こう書くとあまりにも抽象的に過ぎるのだけれど、いわゆるロッシーニ・クレシェンドといった強弱の差異やリズム感、テンポ感とともに、チャララチャララチャララといったロッシーニの作品によく現れる音の流れというか、音型が明確に示されていたのだ。
 かなうことなら、『セミラーミデ』や『絹のきざはし』、『どろぼうかささぎ』といったほかの序曲も聴いてみたかった。

 続いては、ジェルメッティと同じくイタリア出身のピオヴァノをソロに迎えたドヴォルザークのチェロ協奏曲が演奏された。
 これまた有名曲中の有名曲だが、ルーティンに陥った演奏とはまさしく極北にあるかのような、清新で充実した内容の音楽が生み出されていた。
 ピオヴァノは、その容姿にぴったりなスタイリッシュでべとつかないクリアな音楽の造り手。
 それでいて、歌唱性、歌心にも非常に富んでいる。
 中でも第2楽章や第3楽章でのソロの美しさに、心を強く動かされた。
 ジェルメッティはチェロとオーケストラ(例えば木管楽器のソロ)の密接な関係など作品の構造をよく把握した上で、ドラマティックな音楽を再現していた。
 チェロが登場する直前のホルンのたっぷりとしたソロなど、聴かせどころをよくわかっている。

 休憩を挟んだ後半は、十八番とでも呼ぶべきラヴェルの道化師の朝の歌、亡き王女のためのパヴァーヌ、ボレロのこれまた有名曲3曲が間に拍手を入れない形で演奏されていた。
 近代オーケストラの機能美とともにグロテスクな音塊というか狂暴さをも示した道化師の朝の歌、粘らず情に棹ささず、それでも、いやだからこそノーブルで美しい亡き王女のためのパヴァーヌ、そして間を置かず始まるボレロ。
 いやあ、オーケストラっていいな、と改めて感じさせられた。
 京都市交響楽団も精度の高い演奏で、ジェルメッティの音楽づくりによく応えていた。

 最後は、盛大な拍手の中、今年度末で卒団となるコンサートマスターの渡邊穣と第2ヴァイオリンの後藤良平(どことなく浅田次郎に似ている人で、印象深い)を花束で労い幕を〆た。

 ああ、面白かった!!!
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2018年02月17日

京都市立芸術大学 院生オペラ公演 モーツァルトの歌劇『コジ・ファン・トゥッテ』

☆京都市立芸術大学 第157回定期演奏会 大学院オペラ公演
 モーツァルト:歌劇『コジ・ファン・トゥッテ』全曲

 指揮:奥村哲也
 演出:今井伸昭
 管弦楽:京都市立芸術大学アカデミーオーケストラ
(2018年2月17日14時開演/京都市立芸術大学講堂)


 道徳道徳と大仰に宣う人間にかぎって、因循姑息で忖度大好きと道徳のかけらもモラルのかけらもない、節操のない人間だったということがしばしばある。
 物事の上っ面や大きな声に惑わされちゃいけないという見本だが、モーツァルトの歌劇『コジ・ファン・トゥッテ』が19世紀のヨーロッパにおいてアンモラルの象徴であるかのように扱われていたことにも、何やら同じ臭いを感じないではいられない。
 哲学者ドン・アルフォンソの口車に乗せられた青年士官フェランドとグリエルモは、自らのいいなずけであるフィオルディリージ・ドラベッラ姉妹の操を確かめんがために、アルバニア人の貴族に扮して二人に恋のアタックを仕掛けるが…。
 という『コジ・ファン・トゥッテ』の筋書きは、一見確かに、んんんと???だらけだ。
 女性の貞節を試すってだけでもなんだかなあなのに、しかもその女性たちがころりと落ちてしまうなんてナンセンス。
 おまけにアルバニア人への変装などというご都合主義、プラウダでなくとも「音楽ではなく荒唐無稽」と糾弾したくなる向きもいるのではないか。
 だけど、よおく考えよう深読みは大事だと!
 女はみんなこうしたもの。
 ということは、裏返せば男もみんなこうしたもの、人間みんなこうしたものという含意があるのでは?
 小間使いデスピーナのはっちゃけた策謀も手伝って、自らの心の動きを正直に晒してしまうのは女性二人だけではなく、男性二人も同じこと。
 それに、いらんことしいのドン・アルフォンソだが、彼は彼でフェランド・グリエルモが扮した異邦人の二人を大親友と紹介して恥じるところがない。
 当然、同時代の枠組みに沿う形ではあるけれど、台本書きのロレンツォ・ダ・ポンテと組んだ他の二作品『フィガロの結婚』、『ドン・ジョヴァンニ』同様、『コジ・ファン・トゥッテ』もまた、攻めの姿勢に富んだ革新的で確信的なオペラなのだ。
 しかも、それを頭でっかち口先ばっかりに終わらせず、非常に美しい音楽でもって表現してみせたところがモーツァルトの素晴らしさである。

 と、なんだかそれっぽい言葉を書き連ねてしまった。
 17日、18日と二日にわたって開催される、京都市立芸術大学第157回定期演奏会、大学院オペラ公演『コジ・ファン・トゥッテ』のうち、青木美沙季(フィオルディリージ)、川口浩穂(ドラベッラ)、藤居知佳子(デスピーナ)、喜納和(フェランド)、宮尾和真(グリエルモ)、浦方郷成(ドン・アルフォンソ)が出演する17日の回を観てまず思ったことも、いやあ、モーツァルトの作曲した音楽ってなんて美しいんだろうということだった。
 アリアもそうだけど、特に『コジ・ファン・トゥッテ』は重唱、アンサンブルの旋律美というか、音楽の磨かれ方が半端ない。
(あと、レチタティーボがまたきれいなのだ)
 たとえそれが激しい憤りを表すものであったとしても、いぎたない音楽に陥ることはない。
 あれこれ想い、あれこれ考えつつも、結局音楽の魅力に心を動かされてしまった。
 アリアでの技量声質の長短をはじめ、歌唱演技両面での個々の課題も聴き受けられたが、それは院生の皆さんや指導の先生方が十分承知していることだろうからくどくどと記すことはしない。
 限られた時間の中で、一つの公演として成立させきった出演者の皆さんの努力と健闘をまずは大きく讃えたい。
 大石ではなく大橋吾郎っぽさをなぜだか感じたノーブルな声質の持ち主の宮尾君(彼は、こんにゃく座みたいな歌芝居やミュージカルにも向いているような気がする)、豊かな声量でコメディエンヌぶりを発揮した藤居さんが強く印象に残った。
(もし何か付け加えることができるとすれば「外側の視点」の重要性、言い換えれば、学校で基礎の部分をしっかり押さえつつ、そこに何を足していくかということだろうか。院生の皆さんに余裕がないことは承知の上で、オペラをよりよく演じていくためには、もっと他のジャンルの音楽、演劇、古典芸能、映画、美術といったものに触れておいたほうがよいと強く思う。今日接したすべての人がいわゆるプロの歌劇団にもし所属しないとしても、地域のオペラなどの中核を担うことはもちろんありうるだろうし、実はそちらのほうがなおのこと「オペラというパッケージ」以上の何かが必要とされるだろうから)

 ピリオド・スタイルとまでは言わないが、奥村哲也は要所急所をしっかり押えつつ、間然とするところのない引き締まった音楽をつくり出していた。
 大学院生を主体とするオーケストラも、それによく応えていた。

 オーソドックス中のオーソドックスというか、シンメトリーアンシンメトリーといった登場人物の配置に動き、くすぐりの仕掛け方等々、終演後直接お伺いした通り今井伸昭の演出は教育の場として基礎を踏まえることに主眼が置かれたものだったが、最後の最後の目配せに「全てわかっている」という演出家としての矜持を感じもした。

 そうそう、「外側の視点」という意味では、座席が相当埋まってきているというのに、職員の方から適切な案内がなかったことはとても残念だった。
 あと、バスの時間は貼り出してあったのだけれど、この時間だとここでは満員になってしまうので、どこまで歩けば別のバスに乗れるとか、そういった細かい案内も必要なのではないか。
 いくら無料招待の公演とはいえ、正直あれでは不親切に過ぎる。
 せっかく院生の皆さんが熱演を繰り広げているのだもの、それ以上のフォローを教職員の方々には切にお願い申し上げる。

 なんて偉そうなことを言いつつも、やっぱりモーツァルトのオペラはいいな。
 愉しい時間を本当にありがとうございました。
 ああ、面白かった!!!
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2018年02月09日

武満徹のノヴェンバー・ステップスを初めて聴いたとき

☆武満徹のノヴェンバー・ステップスを初めて聴いたとき


 立花隆の労作『武満徹・音楽創造への旅』<文藝春秋>のノヴェンバー・ステップスの作曲あたりの部分を読んでいて、この曲に初めて接したときのことを思い出した。
 1988年2月25日というから、ちょうど30年前。
 山田一雄指揮京都市交響楽団の第302回定期演奏会がそれだ。
 立命館大学に合格し、下宿先を探しに京都を訪れていた僕は、同行の母と別れて、一人京都会館へと向かた。
 そうそう、開演前に入った京都会館の食堂で、なんと指揮者のヤマカズさんにかち合って(あとちょっとでぶつかりそうになった。小さい人だなあと思ったが、指揮台のヤマカズさんは大きく見えた)、とてもどぎまぎしたものだ。
 プログラムは、モーツァルトのセレナード第10番「グラン・パルティータ」にシベリウスの組曲『恋人』、そして武満徹のノヴェンバー・ステップスと、ヨーロッパ・スタイルというか、プロのオーケストラの定期演奏会ならこうでなくちゃと言いたくなるようなラインナップだった。
 正直、奮発してS席を購入したものの、長崎市公会堂と「遜色のない」京都会館第1ホールのデッドな音響には辟易したし、演奏自体も、実力が格段にアップを果たした近年の京響と比べれば相当水準の劣るものでもあったが、管楽器のみのモーツァルト、弦楽器のみのシベリウス、和楽器の交じった編成の大きな武満徹という組み合わせは、静と動のコントラストやインティメートな雰囲気といった曲調も含めて、非常に優れていたと今になって思う。
 事実、ヤマカズさん自身が感極まったシベリウスの弦の震えにはぞくぞくっときたし、なんと言っても初演者である尺八の横山勝也、琵琶の鶴田錦史が顔を揃えたノヴェンバー・ステップスの濃密な音楽空間、特に横山さんと鶴田さんのやり取りには大きな衝撃を受けたものだ。
 よくよく考えてみたら、あれ以来、武満徹のノヴェンバー・ステップスは、実演はおろか、放送CDともに全曲をまともに一度も耳にしたことはないのだが、僕はそれでよいと思っているのである。
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2017年12月22日

京都市立芸術大学クリスマスチャリティーコンサート「親子で楽しむオペラの世界」

☆京都市立芸術大学サテライトコンサート
 クリスマスチャリティーコンサートvol.8
 「親子で楽しむオペラの世界」

 ソリスト:京都市立芸術大学大学院修士課程声楽専攻生
 指揮:中井章徳
 管弦楽:京都市立芸術大学アカデミーオーケストラ

 座席:F−21
(2017年12月22日19時開演/京都市立京都堀川音楽高等学校音楽ホール)


 京都市立芸術大学が開催している「響/都プロジェクト2017コンサートシリーズ」の一環である、京都市立芸術大学サテライトコンサート クリスマスチャリティーコンサートvol.8「親子で楽しむオペラの世界」を聴きに、堀川御池の京都市立京都堀川音楽高等学校音楽ホールまで行って来た。
 市芸の大学院生のオーケストラである京都市立芸術大学アカデミーオーケストラを伴奏に、同じく大学院の修士課程声楽専攻生がオペラのアリアやアンサンブルを歌うという趣向のコンサートで、「親子で楽しむ」と言う割には予想していたよりお子さんの数は少なかったものの、なかなかの入りでまずは何より。

 で、声楽指導で司会の久保和範准教授と出演者のトークを挟みながら、前半は歌劇『フィガロの結婚』序曲と「もう、飛ぶまいぞ、この蝶々」、『ドン・ジョヴァンニ』の「カタログのうた」に「奥様、お手をどうぞ」の二重唱、歌劇『コジ・ファン・トゥッテ』の「このハートをあげましょう」の二重唱、歌劇『魔笛』の「フムフムフム」の五重唱に「パ・パ・パ」の二重唱、とモーツァルトのオペラから7曲、後半はビゼーの歌劇『カルメン』第1幕への前奏曲と「ハバネラ」、グノーの歌劇『ファウスト』の「宝石の歌」、ベッリーニの歌劇『ノルマ』の「清らかな乙女よ」、ヴェルディの歌劇『リゴレット』の「慕わしい人の名は」、歌劇『椿姫』の「乾杯の歌」の二重唱、とフランス・イタリア物から6曲がそれぞれ演奏されていた。
 歌手名など詳細は省くが、若さや課題は当然感じつつも、流石は院生として学ぶだけあって、あるは声質であったり、あるは声量であったり、あるは技巧であったり、あるは安定性であったり等々、どこかにおっと思わせる聴かせどころを持った、一定の水準を超えた歌唱力の持ち主たちであり、全篇愉しく聴き終えることができた。
 一方、演技の面では若干拙さを覚えたところもあるのだけれど、それがかえってコンサートの趣旨に沿っているというか、清々しさ若々しさに繋がっていて好感を抱いた。
(その意味で、「ハバネラ」を歌った中谷明日香さんは見せるということを心得た歌いぶりのように感じられて強く印象に残った)
 なお、独唱はM2が務め、M1は重唱や合唱のみの出演となっていた。

 指揮は中井章徳さん。
 中井さんといえば、プロやアマのオーケストラばかりかオペラでも豊富な活動経験のある指揮者なので、あれ市芸の講師になったのかなと思っていたら、現在博士(後期)課程で研鑽中の由。
 活動経験が多いとは言い難いオーケストラの面々を相手に、要所急所を押えた音楽づくりを行っていた。
(ホールの音響の癖もあって、強弱の変化に苦心していたようにも思わないではない)

 そうそう、このコンサートをスケジュールに組み込んだあと、旧知の藤居知佳子さんが出演していることを知ったのだ。
 まだM1ということで、『コジ』の2重唱のドラベッラと『魔笛』の5重唱の侍女などを歌っていたのだけれど、久しぶりに耳にする藤居さんはこの間の研鑽を感じさせるもので、声域の幅と声量の豊かさに加え、歌そのものの安定感も増しており、今後の活躍を期待させるものだった。
 実は、来年2月の大学院のオペラ公演では同じ『コジ』でもデスピーナのほうを歌うことになっている。
 すでに応募のハガキを送っているので、なんとか抽選に当たらないかな。

 アンコールはクリスマスソングのメドレー。
 院生の皆さんの美しい歌声のおかげで、クリスマス気分を一足先に味わうことができた。

 と、聴いて大正解。
 とてもすっきり、とてもほがらかな気分になれたコンサートでした。
 ああ、面白かった!!
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2017年10月14日

京都市交響楽団 第617回定期演奏会

☆京都市交響楽団 第617回定期演奏会

 指揮:広上淳一
 独奏:ボリス・ベルキン(ヴァイオリン)

 座席:3階LB1列5番
(2017年10月13日19時開演/京都コンサートホール大ホール)


 サントリーホールでの第46回サントリー音楽賞受賞記念コンサートを成功裡に終えた広上淳一と京都市交響楽団だが、第617回定期演奏会もそうした両者の好調ぶりを証明する充実した内容となっていた。

 一曲目は、ウォルトンの『スピットファイア』の前奏曲とフーガ。
 英国空軍の戦闘機の開発を巡る映画『スピットファイア』の音楽の中から編曲されたもので、前奏曲ではシンフォニックに華々しく金管楽器が鳴り響き、フーガでは弦楽合奏が目まぐるしく交差するなど、ウォルトンらしさが十分に発揮された作品である。
 京都市交響楽団は明快壮麗な、コンサートの開幕に相応しい音楽を聴かせた。

 続いては、ロシア出身のボリス・ベルキンを独奏に迎えた、ショスタコーヴィチのヴァイオリン協奏曲第1番。
 同じ広上さんが指揮した7月の定期演奏会に登場したピンカス・ズーカーマンがつやつやとして滑らかな音色の持ち主とすれば、ベルキンは艶やかさを持ちつつもどこか鋭く苦みを感じる音色を奏でる。
 むろん、それをすぐさま彼が生まれ育った旧ソ連と結び付けて考えるのは単純で感覚的に過ぎるかもしれないが、こうしてショスタコーヴィチのヴァイオリン協奏曲を聴くと、どうしても作曲者とベルキンに共通する体験経験、同じ体制を生きた共時性、歴史的積み重ねを感じざるを得ない。
 特に、第3楽章の長いカデンツァ。
 その重さと真摯さ、そこに垣間見える抒情性には強く心を動かされた。
 加えて、それが高度な技術に裏打ちされたものであることも忘れてはなるまい。
 第2楽章や第4楽章の速い部分では目の醒めるようなソロをベルキンは聴かせていた。
 一方、京都市交響楽団はより音楽の持つモダンさを強調した機能的に秀でた伴奏を行っていたのではないか。
 チューバの武貞茂夫が大活躍だった。

 これだけでもお腹いっぱいという感じにもかかわらず、休憩を挟んだメインは、ブラームスの交響曲第1番。
 ちょっと重たくはないか、と少々心配していたのだけれど、なんのなんの。
 と、言って広上さんはピリオド・スタイルを援用したような速めのテンポで軽々と流していたわけではない。
 全体的にテンポ設定自体はゆったりとしたもので、細部まで目配りが届いている。
 ただ、流れのよさに京都市交響楽団の明るめの音色が相まって、重苦しく粘るようなことはなく、実に暖かみがあって見通しのよい演奏に仕上がっていたのだ。
 中でも、第2楽章の美しさが強く印象に残る(ヴァイオリンのソロはコンサートマスターの渡邊穣)。
 そして、終楽章の高揚感。
 広上さんの指揮の下、ソロ、アンサンブル両面で京都市交響楽団は精度の高い演奏を繰り広げていた。
 いやあ、聴き応えがあった、いやあ、よかったとショスタコーヴィチ同様、大きな拍手を贈ったことは言うまでもない。

 と、大満足大満腹のコンサートでした。
 ああ、面白かった!!!
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2017年10月01日

エリック・ホープリッチ&ロンドン・ハイドン弦楽4重奏団

☆エリック・ホープリッチ&ロンドン・ハイドン弦楽4重奏団

 出演:ロンドン・ハイドン弦楽4重奏団、エリック・ホープリッチ

 座席:1階RA列1番
(2017年10月1日14時開演/兵庫県立芸術文化センター小ホール)


 ロンドン・ハイドン弦楽4重奏団の来日コンサートを、西宮の兵庫県立芸術文化センター小ホールで聴いてきた。
 ロンドン・ハイドン弦楽4重奏団は、キャサリン・マンソン(ファースト・ヴァイオリン)、マイケル・グレヴィチ(セカンド・ヴァイオリン)、ジョン・クロカット(ヴィオラ)、ジョナサン・マンソン(チェロ)の四人組。
 2000年に結成されたピリオド楽器によるアンサンブルで、国際的に活躍するほか、hyperionレーベルでハイドンの弦楽4重奏曲集のリリースを進めるなどCD録音も活発に行っている。

 今回の公演の1曲目は、自らのアンサンブルにその名を冠しているハイドンの弦楽4重奏曲第67番「ひばり」を取り上げた。
 ひばりの囀りを想起させる第1楽章から「ひばり」の愛称の付いた有名作品で、実際冒頭のあのメロディが鳴り始めたとたん、ああ、いい曲、いい演奏だなあとわくわくするが、彼女彼らの場合、中間部分のちょっとした不穏な感じ、ハイドンの一筋縄ではいかない性質が丁寧に捉えられている点にも感嘆した。
 と、言って、ロンドン・ハイドン弦楽4重奏団の特性魅力は、ピリオド楽器のアンサンブルにありがちな強弱のメリハリを思い切りつけて作品の要所急所を強調することではない。
 その意味で、彼女彼らの魅力が存分に発揮されたのは、第2楽章の緩徐楽章ではなかったか。
 ファースト・ヴァイオリンが抒情的な旋律を奏で、他の奏者たちが細やかにそれを支える。
 まさしくインティメートな感覚に満ちた演奏で、強く印象に残った。
 もちろん、続く第3、第4楽章でも精度の高い演奏を披瀝していたことは言うまでもあるまい。

 2曲目は、最近この団体が積極的に演奏しているというベートーヴェンの初期の弦楽4重奏曲(作品18の6曲)の中から第6番。
 かつてはベートーヴェンの初期の弦楽4重奏曲はハイドンをはじめとした先達たちの影響を云々かんぬんされたりもしたが、こうやって重ねて聴くと、ベートーヴェンの音楽の手数の多さというか、新たな音楽世界を切り開こうとする意志が明確に示されているように感じる。
 特に、この第6番では、終楽章にラ・マリンコニアと題した序奏部分が置かれるなど、のちの中期や後期の作品にも繋がる「ベートーヴェン」的な要素がふんだんに含まれている。
 ロンドン・ハイドン弦楽4重奏団は、ここでもバランスがよくてインティメートなアンサンブルで、間然としない演奏を生み出していた。

 休憩を挟んだ後半は、ピリオド・クラリネットの名手ホープリッチをバセット・クラリネットのソロとして迎えて、モーツァルトのクラリネット5重奏曲が演奏された。
 なお、バセット・クラリネットとは、一般的に想像されるクラリネットと異なり、吸い口の部分はサックスのように斜めに曲がり、下のほうはでこっという感じで顎のように出っ張っている。
 質朴で暖かみのある音色と広い音域が持ち味だ。
 ホープリッチはそうした楽器の持つ特徴を存分に活かして、真摯で闊達、美しい演奏を繰り広げていた。
 一方、ロンドン・ハイドン弦楽4重奏団の面々も過不足のない演奏。
 実に素晴らしかった。

 アンコールは、モーツァルトの第2楽章。
 陳腐な言葉になるけれど、天国的な美しさを再び味わうことができた。

 そうそう、忘れてならないのが、この兵庫県立芸術文化センター小ホールの音響の良さだ。
 ホールも楽器の一つであるということを再認識させられた。

 ああ、面白かった!!!
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2017年07月15日

京都市交響楽団 第614回定期演奏会

☆京都市交響楽団 第614回定期演奏会

 指揮:広上淳一
 独奏:ピンカス・ズーカーマン

 座席:3階LB1列5番
(2017年7月15日14時半開演/京都コンサートホール大ホール)


 614回目となる京都市交響楽団の定期演奏会は、シェフの広上淳一の指揮。
 世界的な名ヴァイオリニストであるピンカス・ズーカーマンを迎え、ブラームスの大学祝典序曲、ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲、ブラームスの交響曲第3番の3曲が演奏された。

 一曲目の大学祝典序曲は、ブラームスが名誉博士号を授与された返礼としてブレスラウ大学のために作曲されたコンサート用の序曲で、学生歌の旋律が巧みに援用されている。
 タタタタタータータタタタタータータタタタタタタタータータタタ…というおなじみのメロディをはじめ、実に耳馴染みがよくて快活な音楽だが、一方でブラームスらしいリリカルさもためた作品だ。
 広上さんの指揮に応え、京都市交響楽団は鳴らすべきところはしっかり鳴らし歌うべきところは歌って堂々と演奏し切った。
 特に、弦楽器(コンサートマスターは客演の豊嶋泰嗣)の明るさに満ちた旋律美が印象に残った。

 続いては、ズーカーマンの独奏によるベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲。
 少し小さめの編成に刈りこまれたオーケストラが、機能性に富んでメリハリがよくきいたクリアでスマートな演奏を行ったのに対し、ズーカーマンはオールドスタイルというと言い過ぎかもしれないけれど、嘯き鳴るというのか、明快軽やかに鳴り響くソロを披瀝した。
 歌い崩したりはしないものの、節回しが自在なため、オーケストラとの演奏の違いに最初はちょっとおやと思っていたのだが、第1楽章のカデンツァにいたって、ああこのカデンツァならばそりゃああいう鳴らし方を続けなければ一貫性がないもんな、と大いに納得がいった。
 強いて喩えるならば、ラストの大団円を見据えて周囲の役者陣と全く異なる重た苦しい台詞遣いを続けた深作欣二監督の『柳生一族の陰謀』の萬屋錦之助の演技ということになるか。
 もちろん、ズーカーマンは重た苦しさとは正反対、軽やかに高らかなヴァイオリン・ソロだったが。
 そして、カデンツァ後、ソロと共にゆっくりと目醒めていくようなオーケストラの演奏がまた美しかったのだ。
 続く第2楽章の優美さ、第3楽章の軽快さも巧みに再現されていき、まさしく千両役者の名演技を観るかのような面白さだった。

 これだけでももうお腹がいっぱいなのだけれど、休憩を挟んだブラームスの交響曲第3番がまた聴き応えがあった。
 映画の『さよならをもう一度』で引用された第3楽章をはじめ、旋律美と抒情性に満ちあふれる一方、鬱屈した感情がときに放出されるようなウェットな激しさと全ての楽章を弱音で終えるといった作曲的な技巧が凝らされた一筋縄ではいかない交響曲でもある。
 広上さんはそうした作品の持つ多様な性質を、強弱緩急を適切にコントロールしながら細やかに再現していた。
 ここでも弦楽器の流麗な響きに魅せられたほか、第2楽章や上述した第3楽章ではホルンのソロ(垣本昌芳)をはじめ、木管楽器の掛け合いも魅力的だった。
(一つだけ残念だったのは、曲が終わってすぐに拍手をした人が結構いたこと。せっかくの余韻が…)

 名曲の名曲たる所以を存分に知ることのできたコンサート。
 ああ、面白かった!!!
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2017年07月02日

京都市立芸術大学音楽学部・大学院音楽研究科 第155回定期演奏会

☆京都市立芸術大学音楽学部・大学院音楽研究科 第155回定期演奏会

 指揮:下野竜也
 独奏:福田彩乃(サクソフォン)
管弦楽:京都市立芸術大学音楽学部・大学院管弦楽団
 合唱:京都市立芸術大学音楽学部・大学院合唱団

 座席:3階LB1列5番
(2017年7月2日14時開演/京都コンサートホール大ホール)


 この4月より教授に就任した下野竜也が指揮台に上がるというので、京都市立芸術大学音楽学部・大学院音楽研究科の第155回定期演奏会に足を運んだ。

 一曲目は、ベートーヴェンの交響曲第1番。
 どちらかといえばベートーヴェン・チクルスの前プロとして流されがち、というか、なかなか演奏される機会の少ない交響曲第1番だけれど、下野さんはこの第1番をベートーヴェンの「不滅の九つ」の出発点と位置づけ意欲的な表現を行っていた。
 通常配置、14、12、10、8、6という大型の弦楽器編成というところまでは先日の小泉和裕が指揮した京都市交響楽団の定期演奏会と同じだが、ティンパニの鋭い打ち込みや弦楽器の処理等、その演奏はいわゆるピリオド・スタイルを明らかに意識したもので、強弱のメリハリがきいてクリアでスピーディー、実に聴き心地がよいものだった。
 オーケストラも下野さんの指揮によく沿って、まとまりがよい躍動感に満ちた演奏を生み出していた。

 休憩を挟んだ二曲目は、学部4回生の福田彩乃がソロを務めたフランスの作曲家アンリ・トマジのサクソフォン協奏曲。
 フランスの名手マルセル・ミュールのために書かれたコンチェルトで、様々な技法が駆使されつつも、基本的には耳馴染みのよい旋律に満ちており、サクソフォンが独奏ということもあり良質の映画音楽を聴いているようだった。
 須川展也率いる「SAX PARTY!」に所属するほか学外での活動も活発な福田さんは、危うさを感じさせないテクニックで朗々として鳴りの良いソロを聴かせてくれた。

 三曲目は、ポディウム席に混声合唱を配置したラヴェルのバレエ音楽『ダフニスとクロエ』の第2組曲。
 管弦楽の妙技がこれでもかと発揮された『ダフニスとクロエ』だが、中でも「さわり」というか、ここぞという部分を集めたものがこの第2組曲である。
 個々の技量の長短やオーケストラとしての経験不足が感じられはしたものの、下野さんの薫陶のもと、静から動や強弱の変化をしっかりと描きつつ、パワフルでエネルギッシュ、切れ味の鋭い演奏を披瀝していた。
 中でも、盛り上がりつつも崩れを聴かせない終曲「全員の踊り」はとても聴き応えがあった。
 合唱もよくコントロールされていた。
(ちなみにハープは、多嘉代衣里のおなじみ松村姉妹。学生院生さんたちの演奏に華を添えた)

 と、予想以上に愉しめたコンサートだった。
 ぜひ下野さんと市芸の面々には、京都市芸(や下野さんが音楽総監督を務める広島交響楽団)と縁の深い安部幸明の作品を演奏してもらえればと思う。
 まずは交響曲第1番などどうだろう。

 ああ、面白かった!!
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2017年06月23日

京都市交響楽団 第613回定期演奏会

☆京都市交響楽団 第613回定期演奏会

 指揮:小泉和裕

 座席:3階LB1列5番
(2017年6月23日19時開演/京都コンサートホール大ホール)


 名は体を表すというけれど、顔もまた体を表すのではないか。
 例えば、その実演録音に接しながら古今東西の指揮者たちの面構えを改めて窺えば、確かにこの顔にしてこの音楽ありの感がしないではない。
 むろん、そこにはある種の偏見思い込みもないではないが、赤熊の如き相貌の御仁はやはりパワフルな演奏を、能面怜悧なかんばせの持ち主は研ぎ澄まされた精緻な演奏を、それぞれ繰り広げていることが少なくないだろう。
 その伝でいけば、少々えらが張って角張った顔立ちの小泉和裕という指揮者は、かくかくしかじか四角四面しかつめらしい音楽の造り手になる……。
 と一概に断定することはできないのだけれど、小泉さんと僕のファーストインプレッションはあまり好ましいものではなかった。
 あれは1989年の2月18日だから、もう30年近くも前になる。
 京都市交響楽団第311回定期演奏会(京都会館第1ホール)で初めて接した小泉さんの指揮からは、まとまりがよくて劇性に富んだ音楽を生み出そうという意志はよく伝わってきたものの、それ以上の何かが届いてこないもどかしさを覚えてしまったのである。
 一つには、当時の京響の技術的精神的な限界も大きかったとは思うが。
(ちなみにこの定期演奏会では、ベートーヴェンの交響曲第4番、エリック・テルヴィリガーを独奏に迎えたリヒャルト・シュトラウスのホルン協奏曲第1番、ラヴェル編曲によるムソルグスキーの組曲『展覧会の絵』が演奏された)

 そんな小泉さんへの評価が大きく変わったのは、2006年5月25日の大阪センチュリー交響楽団の第111回定期演奏会(ザ・シンフォニーホール)、特にメインのベートーヴェンの交響曲第3番「英雄」を聴いてからだ。
 この日のエロイカ・シンフォニーは本当に聴き応えがあった。
 カラヤン譲りの小泉さんのオーケストラコントロールに当時のセンチュリー響の精度も相まって、凝集力が高くて密度の濃い演奏に仕上がっていたからである。
(確かこの演奏は関西テレビが収録して、テレビでも放映されたはずだ)

 それから10年。
 『レオノーレ』序曲第3番に交響曲第2番、交響曲第7番とベートーヴェンばかりを並べた京都市交響楽団第613回定期演奏会は、小泉和裕という指揮者の表現と表出意欲の強まりが存分に示されたコンサートとなっていた。
 そしてそれは、作品の持つ力感の再現と音楽の強弱の変化への的確適切な反応とでも言い換えることができるのではないか。
 中でも、『レオノーレ』序曲の追い込み前のフルートを中心にオーボエやファゴットが絡んでくる部分での静謐さや、交響曲第7番の第3楽章の2度目の中間部でさらに音が大きさを増す辺りに、小泉さんの美点がよく表れていたように感じられた。
 と、ともに早めのテンポをとりつつ、音楽の流れにも配慮がなされていたことも忘れてはなるまい。
 ただ、両交響曲の第1楽章など、カラヤン風の指揮ぶりとは異なり、どこかスマートになりきれないぎくしゃくとした感じが付きまとっていたことも事実ではある。
 とはいえ、というか、だからこそか、一気呵成、というよりも、まるで話したいことがあり過ぎてせっかちに捲し立てているかのような第7番の終楽章の走りっぷりは強く印象に残った。
 当然そこに劇場感覚のケレン、音楽造りの妙がないとはいえないけれど、それより何よりあれは、小泉さんの強い表現欲求の表れだろう。
 ベートーヴェンの音楽の持つ狂気、きちがいぶりがよく再現されていた。
(そうそう、うっかりして忘れていたが、小泉さんはもともと山田一雄の弟子だったのだ)

 14、12、10、8、7という編成の弦楽器(通常配置。コンサートマスターは泉原隆志で、フォアシュピーラーに渡邊穣)、2管編成の管楽器という京都市交響楽団は、細かいミスは聴き受けられたものの、指揮者によく沿った音楽を生み出していたと思う。
 それにしても30年。
 京都市交響楽団も、演奏会場も大きく変わったなあ。

 ああ、面白かった!!
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2017年05月27日

日本センチュリー交響楽団 いずみ定期演奏会No.35

☆日本センチュリー交響楽団 いずみ定期演奏会No.35

 指揮:飯森範親
 独奏:水無瀬一成

 座席:2階LA列5番
(2017年5月26日19時開演/いずみホール)


 CDで聴き馴染んだハイドンの交響曲第90番、第76番、第92番「オックスフォード」が演奏されるので、大阪のいずみホールまで足を運んだ。
 本来の室内オーケストラ編成という持ち味を活かすとともに、オーケストラを鍛える目的もあって新首席指揮者の飯森範親が始めた日本センチュリー交響楽団のいずみ定期「ハイドン・マラソン」(ハイドンの交響曲全曲演奏)の9回目、今シーズン最初の演奏会である。
 ハイドンといえば、CDでも実演でもあまり客が集まらないと言われて久しいが、満席大入りとはいかずとも6割程度か、なかなかの入りでまずは何よりである。

 で、弦楽器は第1ヴァイオリンと第2ヴァイオリンが向かい合う対向配置で、8,8、6、5、3の編成。
 指揮者の正面にチェンバロ(パブロ・エスカンデ。適切な通奏低音を披瀝していた)が置かれ、その後ろにオーボエ2とフルート1、さらにその後ろにファゴット2、ホルン2が並ぶ。
 また、客席から見て右斜め後ろにティンパニとトランペット2が陣取っていた。

 一曲目は、交響曲第90番。
 フランスのドニィ伯爵のために作曲された交響曲の一つで、ハ長調という調性に相応しい晴れ晴れしい祝祭性を持つ一方、転調を活かした音楽的な仕掛けも施されるなど、ハイドンの機智が十全に示された作品となっている。
 強弱緩急のメリハリが効いてテンポが速く、ヴィブラートも控えめといういわゆるピリオド・スタイルが援用されていることは言うまでもないが、飯森さんの場合はそこにスタイリッシュというか表面的な精度の高さが加わってくる。
 そうしたスタイルはロマン派以降の作品ともなると、若干喰い込みの足りなさを感じさせる場合もあるのだけれど、古典派、特にハイドンの交響曲では効果的に発揮されているように思う。
 この交響曲では、第1楽章でのヴァイオリンのためや第3楽章のトリオでのオーボエ・ソロの即興的装飾(宮本克江が妙技を聴かせた。第1楽章の終盤にも同様の場面があって、宮本さんのほか、フルートの永江真由子も即興的な装飾を効かせていた)も巧く利用されており、聴き応えのある演奏に仕上がっていた。
 ただ、この交響曲の一番の聴かせどころである終楽章の転調後の偽終結は不発。
 というか、あえてあっさり流したような。
 飯森さんのことだから、一回どころか二回は仕掛けてくるかと待ち構えていたのだが。
 もしかしたらお客さんの多くもこの曲の騙しを知っていたのかもしれないし、まあ仕方ないか。

 続いては、昨シーズンより京都市交響楽団の副首席奏者からセンチュリーのトップに転じた水無瀬一成の独奏によるモーツァルトのホルン協奏曲第2番。
 若干不安定なところもあったけれど、鳴りのよい朗々としたソロを愉しむことができた。
 特に、第3楽章が強く印象に残る。
 飯森さんとセンチュリー響の面々も、同僚のソロをよく支えて過不足がなかった。

 休憩を挟んだ三曲目は、交響曲第76番。
 ロンドン訪問を当て込んで書かれた三曲中の一曲で、変ホ長調。
 モーツァルト同様、ティンパニとトランペットを除いた編成で書かれてはいるが、飯森さんとセンチュリー響は作品の持つ音楽的起伏(シンフォニックな部分と室内楽的な部分)や旋律の美しさをよく再現していた。

 そして、プログラム最後は交響曲第92番。
 ハイドンのオックスフォード大学名誉音楽博士号贈呈記念演奏会で演奏されたことから「オックスフォード」の愛称で知られる、ト長調の交響曲だ。
 なお、この曲ではチェンバロが退き、ティンパニとトランペット2が戻って来る。
 楽曲の構造構成や楽器の使用法などでハイドンの筆致はさらに進化を遂げており、第2楽章のヴァイオリン(首席客演コンサートマスターの荒井英治)とチェロ(首席奏者の北口大輔)の掛け合い等々聴きどころもたっぷりである。
 中でも、ぐいぐいと追い込んでいくエネルギッシュな終楽章に心動かされた。

 ソロ・アンサンブル両面で、日本センチュリー交響楽団は安定してまとまりのよい演奏を披瀝し、飯森さんの解釈によく応えていた。
 本音をいえば、ジョヴァンニ・アントニーニらバロック・ロック的な劇的な演奏でも触れてみたいが、まずはハイドンのこの3曲の交響曲の良質な実演に接することができたことに感謝したい。
 ああ、面白かった!!
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2017年05月21日

京都市交響楽団 第612回定期演奏会

☆京都市交響楽団 第612回定期演奏会

 指揮:高関健

 座席:3階LB1列5番
(2017年5月21日14時半開演/京都コンサートホール大ホール)

 へび、長すぎる
 とは、ルナールの『博物誌』の一節だけれど、その伝でいくと、
 ブルックナーの5番、長すぎる
 ではないか。
 初期の数曲を除けば概して長大なブルックナーの交響曲の中でも、第8番と並んで第5番は特に長い。
 で、へびは長さばかりが原因ともいえまいが、ブルックナーの交響曲第5番のほうは長さがとっつきにくさに直結している。
 じっくり耳を傾ければ実は聴きどころ満載なのだけれど、やはり構え見てくれが災いして、というやつだ。
 CDは置くとして、僕自身、ブルックナーの交響曲第5番の実演に接したのは、朝比奈隆指揮大阪フィルの第250回定期演奏会(1990年7月20日、フェスティバルホール)とハンス・フォンク指揮ケルンWDR交響楽団の定期演奏会(1993年10月29日、ケルン・フィルハーモニー)の二回きりである。
 前者は、とっつきにくいものはとっつきにくくて何が悪い、男は黙ってブルックナーの5番といった武骨な流儀、後者は作品の性質を大きく掴んで再現しようという意図はよくわかったものの、指揮者とオーケストラの嚙み合わせが今一つの感が強かった。
(というか、朝比奈さんのほうは開演前にフェスティバルホールの下のビュッフェでビーフカレーの大盛りを慌てて冷水で流し込んだせいで、第2楽章あたりからお腹の調子がおかしくなり、ああやっと曲が終わったと思ったら、なんと『ニュルンベルクのマイスタージンガー』第1幕への前奏曲がアンコールで始まるという地獄の責め苦のことばかり思い出す。僕の朝比奈さんに対する好感の薄さは、けっこうこのことによるものかもしれない)

 一方、今日聴いた高関健指揮京都市交響楽団のブルックナーの交響曲第5番は、目配り腑分けがしっかり行き届いており、耳馴染みのよい演奏に仕上がっていたのではないか。
 もちろん、上述したようなこの交響曲本来の堅固堅牢な構成構造がないがしろにされているわけ訳ではないのだけれど、それとともに、例えば第2楽章の叙情性、歌唱性(弦楽器が美しく響く)や第3楽章の跳ねるような感じというか舞曲性もしっかりクローズアップされるなど、様々な聴きどころが丁寧に再現されていたからである。
 そのおかげで、この第5番がそれまでの一連の交響曲の積み重ねの上にあることも再認識することができた。
 慌てず騒がず、けれど鳴らすべきところは鳴らし、テンポも細やかに変化させる。
 実に見通しがよくて、バランスのとれたブルックナーの交響曲第5番だった。
(ちなみに、高関さんはノンタクト=指揮棒なしでの指揮)

 コンサートマスターに石田泰尚、第2ヴァイオリン首席に長岡聡季、チェロ首席にルドヴィート・カンタをゲストで迎え、対向配置(第1、第2のヴァイオリンが向き合って座る。なお、コントラバスは舞台後方正面で、ティンパニは客席から見てその右隣)に陣取った京都市交響楽団はソロ、アンサンブル両面で精度の高い、高関さんの意図によく沿った明晰な演奏を繰り広げていた。

 プレトークでの高関さんのお願いも効いてか、フライングブラボーも一切なし。
 息を飲み込む一瞬の静けさも嬉しく、ブルックナーの交響曲第5番の魅力を改めて感じたコンサートでした。
 ああ、面白かった!!!
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2017年04月21日

京都市交響楽団 第611回定期演奏会

☆京都市交響楽団 第611回定期演奏会

 指揮:アレクサンダー・リープライヒ
 独奏:北村朋幹(ピアノ)

 座席:3階LB1列5
(2017年4月21日19時開演/京都コンサートホール大ホール)

 今年度最初となる京都市交響楽団の定期演奏会は、ドイツ出身の若手指揮者アレクサンダー・リープライヒがタクトをとった。
 NHK交響楽団や読売日本交響楽団、紀尾井シンフォニエッタ東京、大阪フィルへの客演ですでに日本でも知る人ぞ知るリープライヒは、ポーランド国立放送交響楽団のシェフとしてルトスワフスキやペンデレツキといった同国の現代音楽の作曲家を積極的に取り上げるとともに、昨年度まではミュンヘン室内管弦楽団とともにいわゆるピリオド・スタイルを援用した古典派や初期ロマン派の演奏で着実に評価を得てきた。
 今回の京都市交響楽団の定期演奏会は、そうしたリープライヒの特質が十二分に発揮されたコンサートとなっていた。
(なお、今回は第1ヴァイオリンの隣に第2ヴァイオリンが並ぶ通常配置。コンサートマスターには名古屋フィルの客演コンサートマスターの植村太郎、第2ヴァイオリンのトップには神奈川フィルの首席奏者直江智沙子が客演していたほか、前半のホルンには大阪交響楽団の細田昌宏がのっていた)

 まずは、メンデルスゾーンの序曲『フィンガルの洞窟』から。
 冒頭部分で、若干不安定さを感じたものの、徐々にリープライヒの解釈が効いてきて、終盤ぐっと心を動かされた。
 先述の如く、いわゆるピリオド・スタイルを援用した強弱緩急のメリハリがよく効いた演奏だが、それとともに、それであるからこそ、メンデルスゾーンの作品の持つ切れ味の鋭さや焦燥感を伴った飛び跳ねるような音の動き、甘やかさに留まらない抒情性が明示されていたのではないか。
 曲調の似通ったスコットランド交響曲のみならず、『夏の夜の夢』やイタリア交響曲のひな型というか、メンデルスゾーンの音楽の核というものを改めて知ることができた演奏だった。

 続いては、北村朋幹をソロに迎えたショパンのピアノ協奏曲第2番。
 国内外で受賞経験があり、現在はベルリンで学んでいるという北村朋幹だが、彼の魅力はその丹念で繊細な歌唱性にある。
 もちろん、第3楽章の速い音の動きやポーランド風のリズムののりのよさから彼の技量の高さは十分感じ取れたが、それより何より、第2楽章の歌い込みの美しさ、清澄さにはほれぼれとさせられた。
 次回はシューベルトやシューマンの作品にも接してみたい。
 一方、リープライヒ指揮のオーケストラはここでも切れ味の鋭いシャープな演奏を繰り広げていた。
 岩城宏之だったっけ、ショパンのピアノ協奏曲の伴奏部分のつまらなさを直截に記していたように記憶しているのだけれど、今夜のリープライヒと京都市交響楽団ならば一切退屈なし。
 第2楽章の管楽器のソロなどでは、ショパンが当時のオペラから大きな影響を受けていたことを強く感じたりもした。

 盛大な拍手に応えたアンコールは、メンデルスゾーンの無言歌作品番号38−6。
 上述したような北村さんの美質がよく表されていた。
 ショパンではなくメンデルスゾーンをチョイスした点にも彼の音楽的センスを感じる。

 休憩を挟んだ後半は、大編成によるルトスワフスキの管弦楽のための協奏曲で、この曲を生で聴くのは今回が初めて。
 公演パンフレットに柴辻純子が記しているように、バルトークの同名の作品を強く意識したものであることは言うまでもあるまい。
 ただ、あなたバルトークが亡命先のアメリカで作曲された諧謔皮肉の表出であるとすれば、こなたルトスワフスキは戦後の祖国ポーランドで作曲された実験性と同時代的緊張感と明晰明解さとのバランスの上に生み出された音楽的宣言とでも呼べるように思う。
 リープライヒは音楽の構成をしっかりと捉えた上で、細部への目配りにもかけない音楽づくりを行って、この曲の持つ妙味を存分に再現し切っていた。
 大音量での強奏部分でも楽器がごちゃつかずきっちりと腑分けされていた点には感心したし、特に第3楽章での表現の切実さ痛切さには息をぐっと詰まらされた。
 京都市交響楽団は、リープライヒの解釈に沿って精度の高い演奏を繰り広げた。
 ソロ、アンサンブルともに好調で、今年度も期待大だ。
 いずれにしても、聴き応え十分で大いに満足した。

 と、音楽を聴く愉しみに満ち満ちたコンサートでした。
 ああ、面白かった!!!

 そうそう、CDでの細やかで小回りの利いた演奏からリープライヒのことをどちらかといえば華奢で小柄な人だと思っていたが、長身の偉丈夫だったのにはちょっとびっくり。
 まさしく百聞は一見に如かずだなあ。
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2017年04月09日

ジャン・ロンドー チェンバロ・リサイタル

☆ジャン・ロンドー チェンバロ・リサイタル

 楽器:ヤン・カルスペック製作 ジャーマン2段チェンバロ(M.ミートケモデル)
 座席:1階B列1番
(2017年4月9日14時開演/兵庫県立芸術文化センター小ホール)


 この二年ほど二週間に一回の割合で、信頼のおける親しい友人に紹介してもらった整体院に通っている。
 ブログなどで身体のメンテナンスと記しているものだが、これが実にありがたい。
 ごりごりぐいぐいの力任せとは全く正反対、身体の不調のポイントをしっかり見極め、あるときは強弱のバランスをとりながら動かし、あるときは緩急のテンポを変えながらさすり、あるときは指をあてて固まり強張った場所をじっくり緩めていく。
 ここのところ、それなりにデスクワークが進んでいるのも、この身体のメンテナンスのおかげである。

 フランスの若手チェンバリスト、ジャン・ロンドーが弾くヨハン・セバスティアン・バッハのゴルトベルク変奏曲を聴いていて、僕はすぐに身体のメンテナンスのことを思い出した。
 一つには、座った席の加減で、ロンドーの両手の動きがしっかり目に入ったからでもあるのだが、その演奏の進め具合と生み出された音楽そのものに身体のメンテナンスと通じるものを感じたからだ。
 ロンドーが弾いたゴルトベルク変奏曲には、様々な仕掛けが施されいた。
 ただ、それは理知的にしっかりと構築されたものというよりも、感興感情に忠実というか、ロンドーの心の動きが透けて見える(聴こえる)ものともなっていた。
 だいいち、ロンドーはこの曲を一つの音楽の流れとして一気呵成に弾き切るのではなく、変奏変奏のまとまりごとに休止を挟んで演奏したのである。
 で、そうした休止・中断に若干のもどかしさを感じる反面、一つ一つの変奏の性質表情、音楽の旋律や構造の美しさがゆっくりとしたテンポで丹念に示されていた点には、それこそ心のメンテナンスというのか心地よさを感じたことも事実で、時折小さな寝息の音が客席から聞こえてきたこともやむをえないとまで思ったほどだ。
(そういえば、広上淳一さんが京都市交響楽団を指揮してエルガーのエニグマ変奏曲を演奏したときも、変奏ごとに休止が入って同様の感想を持ったのだった)
 もちろん、ロンドーの演奏が実は緩急自在のものであることは、ゴルトベルクの速いテンポの変奏やアンコール2曲目のラモーの未開人でよく証明されていたのではないか。
 いずれにしても、興味深く聴き心地のよい時間を過ごすことができた。

 なお、ちょっとしたスピーチののちに演奏されたアンコール1曲目はクープランの神秘的なバリケード(障壁)。
 遠目で調子のよい鍛冶屋さんかと見間違ったが、よくよく確かめてみるとフランス紳士だったといった曲調の美しい小品である。

 ああ、面白かった!!!
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2017年03月17日

ベルリン・フィルのメンバーによる室内楽

☆ベルリン・フィルのメンバーによる室内楽
 〜ピアノ三重奏の夕べ ラフマニノフ、ブラームス、シューマン〜

 座席:1階8列6番→同列3番(ブラームス〜)
(2017年3月17日19時開演/京都コンサートホール小ホール)


 舞台上、ライトが演奏者を中心にして楕円形の明かりを照らしている。
 その光景が、「ベルリン・フィルのメンバーによる室内楽」と題された今夜のコンサートを象徴しているように僕には感じられた。
 枠の外へと踏み出すことはないけれど、枠の中で自らの持てるものをしっかり出し尽くしたというか。

 〜ピアノ三重奏の夕べ ラフマニノフ、ブラームス、シューマン〜と副題が付された「ベルリン・フィルのメンバーによる室内楽」は、ベルリン・フィルのコンサートマスターのアンドレアス・ブーシャッツに首席チェロ奏者のオラフ・マニンガーと、ベルリンを拠点に活動するピアニストのオハッド・ベン=アリが加わったピアノ・トリオのコンサートで、ラフマニノフのピアノ3重奏曲第1番「悲しみの三重奏曲」、ブラームスのピアノ3重奏曲第1番、シューマンのピアノ3重奏曲第1番という意欲的なプログラム。
 もともと東京・春・音楽祭の企画が京都でも開かれたものだ。

 ブーシャッツとマニンガー、ベン=アリのトリオは、あえて役者で喩えれば、中村勘三郎と藤山直美、柄本明の三人がわかった上で芸の競い合いを重ねるような名人上手の集まりでもなく、かといってインティメートな演技を重ねる昔馴染みの劇団員同志の公演とも異なる、ベルーフ(職責)の意識を強く持ったアンサンブルとでも呼べるのではなかろうか。
 精度が高く、均整のとれたアンサンブル。
 ではあるが、技術偏重の機械的な演奏とは一線も二線も画していることは言うまでもない。
 例えば、ブラームスの第2楽章のスケルツォ アレグロ・モルトなど、ベン=アリのピアノをはじめ、音楽の構成ばかりでなくその背景にあるものが透けて見えるかのような演奏でほれぼれとした。
 また、同じブラームスの第1楽章やシューマンの終楽章などでの熱の入った激しい表現も見事だし、ラフマニノフを筆頭にブラームス、シューマンの緩徐楽章でのリリカルで艶やかな音色も実に魅力的である。
 そして、そうした諸々が表面的ではなく、より内面から均されている感じが冒頭の枠の内外の感想に繋がり、さらには彼らが所属するベルリン・フィルを想起させもした。
 まさしく「ベルリン・フィルのメンバーによる室内楽」だと痛感した次第である。

 いずれにしても、音楽を聴く愉しみに満ち満ちたコンサートでした。
 ああ、面白かった!!!
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2017年02月18日

第30回同志社女子大学音楽学科オペラクラス公演 モーツァルト:歌劇『フィガロの結婚』

☆第30回同志社女子大学音楽学科オペラクラス公演
 モーツァルト:歌劇『フィガロの結婚』

 指揮:森香織
 演出:井上敏典
 管弦楽:同志社女子大学音楽学科管弦楽団
(2017年2月18日14時開演/同志社女子大学新島記念講堂)


 昨年に続いて、今年も同志社女子大学音楽学科オペラクラスによるモーツァルトの歌劇『フィガロの結婚』の上演を観聴きした。
 30回目となる今回の指揮は、森香織。
 当初、関谷弘志の指揮とアナウンスされていたが、開演前に演出の井上先生に伺ったところ、授業や他のコンサートとの兼ね合いで森さんに変更することになったとのこと。
 吉本新喜劇や月亭八斗さん月亭八織さんとも共同作業を重ねている関谷さんがどんなブッファを生み出したか気になるところだけれど、これはまた別の機会を心待ちにしたい。
(余談だが、国際交流基金のケルン日本文化会館の業務実習生として当方がケルンに滞在していた頃、井上先生もケルン音大で学ばれていた。実は当時からそのことを知っていて、一度ご挨拶でもできればと思いつつ、結局機会を逸してしまった。今日、20年越しにその念願が叶えられた)

 森さんは大阪音大の指揮専攻科を修了後、ウィーン国立音大、さらにはイタリアのキジアーナ音楽院に留学し、名匠ジャンルイジ・ジェルメッティの下でオペラ指揮についても学んでいる。
 京都フィル室内合奏団やアマチュア・オーケストラのコンサートにオペラなど、関西各地で活動中だ。
 同志社がらみでは、確か同志社交響楽団OBによるアマチュア室内オーケストラ、カンマーフィルハーモニー京都の指揮者を務めているのではなかったか。
 森さん自身の音楽解釈に加え、オペラ慣れしていない学生によるオーケストラが相手ということもあって、昨日聴いた鈴木秀美指揮京都市交響楽団のようなピリオドピリオドした演奏とは全く異なってはいたが、快活でありながらもしなやかさとたおやかさを兼ね備えた音楽づくりが試みられていた。
 特に、要所要所での弦楽器の滑らかな動きが印象に残った。
 なお、昨年は指揮の瀬山智博が弾き振りしたチェンバロは、京谷政樹が担当。
 機智に富んだ伴奏を聴かせた。
(昨年も通奏低音はチェンバロだけだったかな? チェロが加わっていたような気がするんだけど)

 で、女性の独唱者は4年次生から選ばれる。
 まんべんなく学生さんを割り振らなければならないということで、声量歌唱力などどうしてももどかしさを感じる場面もなくはなかったが、それでも声質容姿は各々登場人物にぴったりで適材適所と呼べるキャスティングだった思う。
 中でも、それぞれの役回りの重要なアリアを受け持った伯爵夫人の百合純香、スザンナの鄭美來、マルチェリーナの藤居知佳子(第1、第2幕の田中由衣も艶やかな声の持ち主だった)は聴き応えのある歌唱を披歴していた。

 一方、男性の独唱者は教授の井原秀人(フィガロ)、講師の青木耕平(アルマヴィーヴァ伯爵)をはじめ、雁木悟(ドン・バルトロ)、孫勇太(ドン・クルツィオ)、佐藤彰宏(アントニオ)のベテラン勢が演じ、学生さんたちを巧みにリードした。
 そんな中、異彩を放っていたのは、ドン・バジリオを演じた谷浩一郎。
 ストレート・プレイだったら佐野史郎、柄本明、小日向文世あたりが適役のドン・バジリオの狂気を谷さんは激しく表現してまさしく「中村仲蔵」の趣きがあり、この人のミーメやローゲを聴いてみたくなった。
(上記のストレート・プレイだけど、ドン・クルツィオは三谷昇!)

 井上先生の演出は、昨年と同じく歌い手たちの歌い易さも考慮したものだったが、第3幕の婚礼の場面などの群衆のまとまりのよさに改めて感心した。

 などと、それらしいことをくどくど書き連ねてきたけど、上演が終わってカーテンコールとなってから出演者ばかりかスタッフ陣も加わって第4幕フィナーレ(伯爵が謝ったあと)を歌っているのを観聴きしていると、ああ、この手造り感はやっぱりいいなと強く心を動かされたのだった。
 むろん、それで難しいことはどうでもいいとはならなくて、上述したような日本の音楽大学におけるピリオド・スタイルの指導の問題とか、「音楽劇」としての演技の問題とか、どうしても考えざるをえないのだけれど、集団で一から何かを造り出すこうした経験は様々な課題に今後向き合う際に、必ず大きな糧になるとも思う。
 いずれにしても、この公演に関わった卒業生学生の皆さんのさらなる研鑚と活躍を心より祈願したい。

 ああ、面白かった!!
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京都市交響楽団第609回定期演奏会

☆京都市交響楽団第609回定期演奏会

 指揮:鈴木秀美
 独奏:鈴木秀美(チェロ)

 座席:3階LB列1−5
(2017年2月17日19時開演/京都コンサートホール大ホール)


 日本におけるピリオド楽器演奏の先駆者の一人で、チェリスト・指揮者として活躍する鈴木秀美が京都市交響楽団の定期演奏会に初登場し、カール・フィリップ・エマヌエル・バッハ、ハイドン、ベートーヴェンの「これぞ古典派!」と言いたくなるようなプログラムを指揮した。
(ちなみに、鈴木さんと京響の初顔合わせは2014年6月28日に小ホールのほうで開催されたコンサート。この時、ハイドンのオックスフォードとベートーヴェンのエロイカが演奏されているが、あいにく未聴である)

 まずは、大バッハの次男であるカール・フィリップ・エマヌエルのチェロ協奏曲イ長調Wq.172から。
 ガット弦を張り、エンドピンを外した状態の師匠井上頼豊譲りの楽器を手にした鈴木さんを、第1ヴァイオリン(コンサートマスターは渡邊穣)、第2ヴァイオリン(首席奏者にバロック楽器の演奏で著名な高田あずみが入っている)、ヴィオラ、チェンバロ(客演の上尾直毅)、チェロ、コントラバスによる小編成のアンサンブルが囲む。
 プレトークで鈴木さんが話していたように、カール・フィリップ・エマヌエルの作品の中では「古典派」的な明解さを持った曲調だけれど、第1楽章の終盤などの音楽進行には彼らしい毒っ気の片鱗を感じたりもした。
 ピリオド対応のチェロで弾き振りした鈴木さんだが、学究的な演奏とは正反対。
 それこそ師匠の井上頼豊を彷彿とさせる一曲入魂的な雰囲気さえたたえる独奏で、中でも第2楽章のソロの部分では、今は亡きくるみ座の名優北村英三(源三じゃないよ)をマイルドにしたような鈴木さんの風貌もあって、役者の一人語りを耳にしているような味わいがあった。
 一方、京響も統率がよくとれた演奏を披歴していた。

 続いて、第1ヴァイオリンの向かいに第2ヴァイオリンを配置する「対向配置」に弦楽器を並べ替えて(ただし、コントラバスは客席から見て左側奥)からハイドンの交響曲第82番ハ長調Hob.1:82の演奏が始まる。
 第82番は、パリの演奏家団体のために作曲されたいわゆる「パリ・セット」中の一曲で、コンサート・プログラムにも記されているが、第1楽章と第4楽章に熊の鳴き声のように聞こえる箇所があることから「熊」の愛称で知られている。
 速めのテンポ設定、効果的な強弱急緩(と、言うより、音が遠くから近くへとどんどん迫ってくるかのような音)の変化など、ピリオド・スタイルを援用した演奏で、祝祭性や劇性等々、この作品の持つ妙味が巧みに表現されていた。
 弦、管ともに京響の面々も精度が高く、ソロをはじめハイドンの音楽的な仕掛けがよくわかった。
 そうそう、仕掛けといえば、この交響曲には見せかけの終止が第1楽章と第4楽章にあるのだけれど、だましが何度も続いたせいで本当に曲が終わったときしばらく拍手が起こらなかったんだった。
 ハイドンもしてやったりだろう。

 休憩を挟んだ後半は、運命交響楽。
 言わずと知れたベートーヴェンの交響曲第5番ハ短調作品番号67。
 ここのところ、オットー・クレンペラーがフィルハーモニア管弦楽団を指揮したこの曲の録音を重ねて聴いているが、それとは対極的な…。
 いや、実はそうじゃないんじゃないかな。
 当然、ピリオド・スタイルを援用した演奏なんだけれど、一気呵成は一気呵成にしても、動静の静の部分、急緩の緩の部分、強弱の弱の部分といった細部までよく目配りの届いた演奏であることも確かで、そこらあたりはクレンペラーの解釈とも通じるものがある。
 そして、ハイドンのハ長調のシンフォニーとあわせて演奏することによって、この曲が古典派の総決算であるとともに、そこからはみ出すものを持った新しい潮流の中にある作品であることも改めて感じさせていた。
 京都市交響楽団は、ここでも好調。
 音の入りで若干スリリングな箇所がなくもなかったが、全体的に水準の高い演奏を繰り広げていた。
 特に、第3楽章での低弦から始まる弦楽器のざわめきや終楽章の華々しさが強く印象に残った。
 終演後、激しく暖かい拍手が起こったのも当然のことだと思う。

 音楽の愉しみに満ち満ちたコンサートで、心底わくわくできました。
 ああ、面白かった!!
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2017年01月21日

京都市交響楽団第608回定期演奏会(後半のみ)

☆京都市交響楽団第608回定期演奏会(後半のみ)

 指揮:下野竜也

 座席:3階LB列5番
(2017年1月21日14時半開演/京都コンサートホール大ホール)


 諸々すませて京都コンサートホールまで自転車を飛ばしたが、あと一歩で開演時間に間に合わなかった。
 パスカル・ロジェがソロを務めた大好きなモーツァルトのピアノ協奏曲第25番を聴けなかったのは残念だが、これはもう仕方ない。
 後半券を利用して、ブルックナーの交響曲第0番ニ短調を聴くことにした。

 第0番ってなんだぺ?
 と、訝る向きも少なくないだろうが、ブルックナーには番号付きの1番から未完成の第9番に到る9曲の交響曲の他に、番号の付かないヘ短調とニ短調の二曲の交響曲があってこなたニ短調は第0番の通称で知られているのである。
(ちなみに、あなたヘ短調は第00番)
 公演プログラムで山本美紀が記しているように作曲年代は特定されていないが、いずれにしても初期の交響曲に違いはない。
 後期の充実した筆致に比べれば当然密度の薄さ、書法のこなれなさを感じる部分は多々あるものの、一方でシューベルトやメンデルスゾーンといった初期ロマン派の交響曲に通じる(プレトークで、下野さんはシューベルトの交響曲第4番「悲劇的」との共通性に触れたということだ)清々しい叙情性をためた作品であることも事実だ。
 と、ともに第1楽章終盤のゲネラルパウゼや金管の強奏、ザンザンザンザンという弦の刻み、荒れ狂うスケルツォとブルックナーらしさが随所に表われていたりもする。
 一つ間違えれば、結構のちぐはぐさが目立つことにもなりかねないが、下野竜也は細分を丹念に詰めながら、強弱緩急のコントロールがよく効いて全体の流れをしっかりと見据えた音楽づくりで非常に聴き応えのある演奏を生み出していた。
 特に、ブルックナーのリリシズムが十二分に発揮された第2楽章の美しさが強く印象に残った。
 京都市交響楽団は今回も均整がとれて精度の高い演奏を披歴し、好調をキープし続けていた。
(オーケストラは第1ヴァイオリンの隣に第2ヴァイオリンのいわゆる通常配置、コンサートマスターは渡邊穣で、フルートのトップは客演の榎田雅祥が務めていた)

 物珍しさに終わらない作品であり演奏で、大いに満足がいった。
 後半だけでも聴いて本当に大正解だった。
 ああ、面白かった!!
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2017年01月12日

オーケストラ・アンサンブル金沢 ニューイヤーコンサート2017 in大阪

☆オーケストラ・アンサンブル金沢 ニューイヤーコンサート2017 in大阪

 指揮&バロック・ヴァイオリン:エンリコ・オノフリ
 独唱:森麻季(ソプラノ)
 チェンバロ:繻`亜樹子
 管弦楽:オーケストラ・アンサンブル金沢

 座席:2階LA列16番
(2017年1月11日19時開演/いずみホール)


 イル・ジャルディーノ・アルモニコのソロ・コンサートマスターをはじめ、いわゆるピリオド楽器やピリオド・スタイルの演奏で活躍し、鬼才の異名を持つエンリコ・オノフリがオーケストラ・アンサンブル金沢のニューイヤーコンサートを指揮するというので、迷わず大阪のいずみホールまで足を運んだ。
 一般的なニューイヤーコンサートいえば、ヨハン・シュトラウスらウィーンのワルツ・ポルカということになるが、そこはオノフリ、ヴィヴァルディにヘンデル、モーツァルトとバロック・古典派の、それも「祝祭」をイメージしたプログラムが組まれていた。

 まずは、ルイ15世の息子の誕生を祝して作曲されたヴィヴァルディのセレナータ『祝されたセーナ』のシンフォニア(劇の冒頭に演奏される器楽曲)が演奏されたが、黒いマフラー然としたものでバロック・ヴァイオリンを身体に固定したオノフリの弾き振りの下、オーケストラ・アンサンブル金沢がピリオド・スタイルの演奏を当為のものとして披歴していた点に感心した。
 ちなみに、指揮者と向き合う形で舞台中央にチェンバロが置かれたほかは、第1ヴァイオリンの隣に第2ヴァイオリンという通常配置がとられていた。

 続く、ヴァイオリン協奏曲ト長調(協奏曲集「調和の霊感」作品3より3)では、スリリングさとパッションに満ちたオノフリのソロを愉しむ。
 オーケストラ・アンサンブル金沢の弦楽器群は、コンサートマスターのアビゲイル・ヤングとともにオノフリのソロをよく支えていた。

 3曲目は、独唱の森麻季を迎えたヘンデルのオラトリオ『時として覚醒の勝利』より「神によって選ばれた天の使者よ」。
 森麻季の歌声とオノフリのヴァイオリン・ソロの掛け合いが実に魅力的だった。

 前半最後は、同じくヘンデルの王宮の花火の音楽。
 この曲からオノフリは指揮に専念したのだけれど(指揮棒は持たず)、狂気の沙汰は金次第ならぬ狂気の沙汰は指揮次第というのか、「祝祭」性というよりも良い意味での気違いっぷりが十分十二分に示された演奏に仕上がっていた。
 特に、グンナー・フラスの痛烈なティンパニ・ソロに始まる序曲は、目まぐるしいテンポで走る走る。
 トランペットに元N響の関山幸弘が加わったオーケストラの面々も、激しい身振り手振りのオノフリの指揮によく喰いついて無事ゴールに到着した。
 騒々しい、ではなく躁々しい演奏とでも呼べようか。

 後半1曲目は、再び森麻季が登場してモーツァルトのモテット『踊れ、喜べ、幸いなる魂よ』を歌う。
 前半のヘンデルもそうだったのだが、このモーツァルトでも、伸びがあって透明感のある声質とコントロールのよく聴いた歌唱という彼女の特性美質が十全に発揮されていた。
 中でも、有名な「アレルヤ」や協奏曲のカデンツァにあたるソロの部分に強く心を動かされた。
 オノフリ指揮のオーケストラ・アンサンブル金沢も目配りの届いた伴奏を行っていた。

 盛大な拍手に応えてのアンコールは、森麻季の十八番といえるヘンデルの歌劇『リナルド』より「涙の流れるままに」。
 上述した特性美質に情感の豊かさも加わって、「はあ」と喜びのため息が出そうな歌唱を堪能することができた。
 繻`亜樹子のチェンバロとルドヴィート・カンタのチェロによる低音も強く印象に残った。

 コンサート最後は、モーツァルトの交響曲第35番「ハフナー」。
 本来ザルツブルクのハフナー家の当主の爵位授与を祝うために作曲された作品で、ここでもオノフリは強弱緩急とメリハリのよく効いた演奏を生み出していた。
 ただ、それが単なるそれいけドンドン超特急ではないことは、抒情性と静謐さを感じさせた第2楽章を聴けば明らかだろう。
 なお、第1楽章では反復が省略されていたが、これは劇場感覚・コンサート感覚に則った判断だったと思う。

 と、音楽を聴く愉しみに満ち満ちたコンサートで、足を運んで本当に大正解。
 ああ、面白かった!!

 ところで、非常に残念だったのは空席がとても目立っていたこと。
 1階の後半三分の一以上やバルコンのほとんどが埋まっていなかった。
 趣向に富んで良質なコンサートだっただけに、もっとなんとかならなかったものか。
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2016年12月29日

京都市交響楽団 特別演奏会「第九コンサート」

☆京都市交響楽団 特別演奏会「第九コンサート」

 指揮:ステファン・ブルニエ
 独唱:横山恵子(ソプラノ)、手嶋眞佐子(メゾソプラノ)、高橋淳(テノール)、伊藤貴之(バス)
 合唱:京響コーラス
 合唱指揮:小玉晃
管弦楽:京都市交響楽団

 座席:3階LA1列6番
(2016年12月28日19時開演/京都コンサートホール大ホール)


 師走のクラシック音楽界の風物詩といえば第九、ベートーヴェンの交響曲第9番「合唱付き」だ。
 ひと頃ほどの勢いはないとはいえ、今年もプロアマ問わず12月に入ったとたん第九のコンサートが全国的に開催されている。
 僕自身、郷里の長崎とは違って当たり前にプロのオーケストラの第九を聴くことができる関西に移った大学の入りたての頃は、よく第九のコンサートに足を運んだものである。
 記録で確認してみると、1988年12月26日の第300回定期演奏会(デヴィッド・シャロン指揮)、1990年12月26日の第330回定期演奏会(井上道義指揮)と京都市交響楽団で2度第九を聴いている。
 前者のほうは、例の昭和天皇の自粛騒ぎの中ということで、ちょっとした覚悟を持って第九を聴いたはずだ。
(そうそう、かつて京都市交響楽団の12月の定期演奏会は例年第九がメイン、前プロに日本の作曲家に委嘱した新作という組み合わせで、88年は吉松隆のファゴット協奏曲「一角獣回路」、90年は北爪道夫のオーケストラのための「昇華」が初演された。それがいつの間に特別演奏会という形になったのだろう)
 その後、いろいろとあって年末の第九からは遠ざかっていたのだけれど、昨年の井上道義指揮大阪フィルのコンサートで「再会」、やっぱりこれはいいやと今年も生で第九を聴くことにした。
 今年は好調著しい京都市交響楽団の主催公演をチョイスする。

 指揮台に上がったのは、スイス・ベルンの出身で1964年生まれのステファン・ブルニエ。
 ベートーヴェン・オーケストラ・ボン(ボン・ベートーヴェンハレ管弦楽団)とボンの歌劇場を中心にコンサートにオペラと活躍中で、手兵とはMD+Gレーベルからベートーヴェンの交響曲をリリースしているし、2014年には来日してNHK交響楽団に客演を果たした。
(なお、今回はそのN響の大宮臨太郎がゲストコンサートマスターを務めていたほか、京響を卒団した清水信貴がフルートのトップを務めていた。ちなみに、今回のオーケストラはファースト・ヴァイオリンの隣にセカンド・ヴァイオリンが座る通常配置)

 まずは、日替わりのモーツァルトの序曲で、昨夜は『魔笛』の序曲が演奏される。
 まさしくコンサートの幕開けにぴったりのきびきびとして劇場感覚に満ちた演奏で、わくわくとした気分となる。
 とともに、一昨日の『ドン・ジョヴァンニ』の序曲も含めて、曲の造りや音型など第九に通じるものが感じられたのも面白かった。

 で、京響コーラスの面々が舞台上に現われたところで、再びブルニエが登場。
 メインの第九が始まる。
 見た目は取的力士、それもアンコ型に近いブルニエだが、造り出す音楽は実にクリアでスピーディー、ドラマティック。
 いわゆるピリオド・スタイルを意識した音楽づくりだけれど、教条主義的にそれを取り入れるのではなく、音楽の展開にあわせてそれを仕掛けていく。
 基本的には速めのテンポだったが、第3楽章はゆっくりとした歩みで旋律の美しさ、音楽の楽園的な雰囲気を醸し出す。
 加えて、忘れてはならないのが、腑分けがよく行き届いて強弱緩急のメリハリが効いた演奏を通じて、このベートーヴェンの交響曲第9番の全体的な構造、性格結構が巧みに再現されていたことだ。
 特に、第4楽章。
 第1楽章から第3楽章の主題が回想されるところで、それを否定するように低弦が強く鳴らされ、さらにおなじみの歓喜の主題で低弦が登場する辺り(終演後、ブルニエはがオーケストラの中でまずチェロとコントラバスの低弦パートを立たせていたのも当然だろう)、そうだそうだそうなのだと大いに納得した。
 そして、歓喜の主題が盛り上がってバスが高らかにソロを歌う辺りからの急激急速なテンポは、この曲の祝祭性、ばかりかよい意味での「気のふれた」感じが見事に表されていた。

 ライヴ特有の細かい傷はあったし、より掘り下げていえば、ブルニエの音楽づくりの核となるものを心底手の内に入れるにはもう少し時間が必要だったようにも感じるが、京都市交響楽団はブルニエの意図によく沿って、水準の高い演奏を繰り広げていた。
 座席の関係もあって独唱陣の歌声は若干聴き取りにくかったものの、彼彼女らの歌唱もまた祝祭性に富んだものだったし、京響コーラスも均整のとれた美しい歌声を聴かせてくれた。

 一年を振り返るに相応しい演奏で、聴きに行って本当に大正解。
 やっぱり年末の第九はいいや。
 ああ、面白かった!!
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2016年11月26日

妄想 2017年度ザ・シンフォニーホール・オーケストラコンサート(国内編)

☆妄想 2017年度ザ・シンフォニーホール・オーケストラコンサート(国内編)


 続いては、国内のオーケストラのコンサート。


*大阪フィル ザ・・シンフォニーホール定期演奏会

第1回「ドビュッシーとラヴェル」
 指揮:井上道義
 ドビュッシー:小組曲
 ドビュッシー:交響詩『海』
 ラヴェル:亡き王女のためのパヴァーヌ
 ラヴェル:ラ・ヴァルス
 ラヴェル:ボレロ

 ザ・シンフォニーホールで再開される大阪フィルの定期演奏会、その第1回目は井上道義が指揮するフランス音楽名曲選。
 まさしくドビュッシーとラヴェルのいいとこどり。


第2回「日本の夏 道義の夏」
 指揮:井上道義
 独奏:通崎睦美(木琴)
 独唱:藍川由美(ソプラノ)
 解説:片山杜秀
 伊福部昭:管弦楽のための日本組曲
 林光:木琴協奏曲「夏の雲走る」
 武満徹:3つの映画音楽から葬送の音楽(『黒い雨』より)
 古関裕而:長崎の鐘(管弦楽伴奏版)
 別宮貞雄:交響曲第4番「夏 1945年」

 ザ・シンフォニーホールでの大フィル定期第2回は「日本の夏 道義の夏」と題して、通崎睦美、藍川由美に片山杜秀を迎え、夏にちなんだ日本の作曲家の作品を特集する。
 NHKの『クラシックの迷宮』でも知られる片山氏の解説も愉しみである。


第3回「湯浅卓雄のエルガー」
 指揮:湯浅卓雄
 独唱:藤居知佳子(メゾ・ソプラノ)
 エルガー:行進曲『威風堂々』第1番
 エルガー:海の絵
 エルガー:交響曲第2番

 湯浅卓雄が指揮する、これぞエルガーと呼ぶべきプログラム。
 独唱の藤居知佳子も期待大だ。



*京都市交響楽団 大阪定期演奏会

第1回「最晩年のリヒャルト・シュトラウス」
 指揮:広上淳一
 独奏:小谷口直子(クラリネット)、中野陽一朗(ファゴット)
 独唱:松井亜希(ソプラノ)
 リヒャルト・シュトラウス:メタモルフォーゼン
 リヒャルト・シュトラウス:クラリネットとファゴットのための2重協奏曲
 リヒャルト・シュトラウス:最後の4つの歌
 リヒャルト・シュトラウス:『ヨゼフ伝説』による交響的断章

 進境著しい京都市交響楽団が満を持して臨む大阪定期演奏会の第1回は、リヒャルト・シュトラウスの最晩年の作品を集めた。
 楽団員である小谷口直子と中野陽一朗のソロが聴きもの。
 そして、松井亜希の美声がプログラムに彩りを添える。


第2回「古典派の変ロ長調の交響曲」
 指揮・レクチャー:鈴木優人
 ヨハン・クリスティアン・バッハ:交響曲作品番号9−1
 モーツァルト:交響曲第33番
 ベートーヴェン:交響曲第4番

 京響大阪定期第2回目は、古楽器界の新進気鋭鈴木優人のレクチャーコンサート。
 変ロ長調の交響曲3曲を通じて、古典派の音楽の変化を親しみ易く解説していく。


*日本のオーケストラ・シリーズ

第1回 神奈川フィル
 指揮:川瀬賢太郎
 ハイドン:交響曲第90番
 ブラームス:ハイドンの主題による変奏曲
 ブラームス:ピアノ4重奏曲第1番(シェーンベルク編曲)

 関西以外の日本のプロ・オーケストラを迎える日本のオーケストラ・シリーズ。
 栄えある第1回には、若手指揮者の代表格川瀬賢太郎が率いる神奈川フィルが登場し、ハイドン、ブラームス、シェーンベルク編曲によるブラームスと凝ったプログラムを聴かせる。
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妄想 2017年度ザ・シンフォニーホール・オーケストラコンサート(海外編)

☆妄想 2017年度ザ・シンフォニーホール・オーケストラコンサート(海外編)


 ザ・シンフォニーホールといえば、関西のみならず日本を代表するコンサートホール。
 開館以来、数々の名演奏を届け続けてきた。
 ただ近年は、通俗過ぎるというか、兵庫県立芸術文化センターと比較して正直物足りないプログラムが並んでいる。
 もちろん、経済的事情等考えればそれもやむを得ないことなのだろう。
 と、言うことで、妄想だけならただ。
 当方がもし億万長者でザ・シンフォニーホールを買い取ったら、一体どんなオーケストラのコンサートを企画するか考えてみた。
 採算度外視、集客度外視、実際のスケジュール無視、そんなプログラム(一部バランスとりあり)をご照覧あれ。
 まずは、海外のオーケストラから。


*世界のオーケストラ・シリーズ

1:ムジカ・エテルナ Aプログラム
 指揮:テオドール・クルレンツィス他
 モーツァルト:歌劇『フィガロの結婚』抜粋
 モーツァルト:歌劇『コジ・ファン・トゥッテ』抜粋
 モーツァルト:歌劇『ドン・ジョヴァンニ』抜粋

2:ムジカ・エテルナ Bプログラム
 指揮:テオドール・クルレンツィス
 独奏:パトリシア・コパチンスカヤ
 ムソルグスキー:歌劇『ホヴァンシチナ』から前奏曲「モスクワ河の夜明け」
 チャイコフスキー:ヴァイオリン協奏曲
 ストラヴィンスキー:バレエ音楽『春の祭典』

 ギリシャ出身の鬼才テオドール・クルレンツィスと手兵ムジカ・エテルナは、彼彼女らが一躍脚光を浴びるきっかけとなったモーツァルトのダ・ポンテ三部作抜粋に、コパチンスカヤのチャイコフスキーと春の祭典というボリュームたっぷりのAB2プログラム。
 いずれも、聴き逃せない。


3:カンマーアカデミー・ポツダム
 指揮:アントネッロ・マナコルダ
 メンデルスゾーン:交響曲第4番「イタリア」
 シューベルト:交響曲第8番「ザ・グレート」

 今年のラ・フォル・ジュルネびわ湖で清新な演奏を聴かせたドイツの室内オーケストラ、カンマーアカデミー・ポツダムは、シェフのマナコルダと共に再来日。
 CDでもおなじみメンデルスゾーンとシューベルトの交響曲の中から、「イタリア」と「ザ・グレート」の2曲をチョイスした。


4:ガリシア交響楽団
 指揮:ディーマ・スロボデニューク
 独奏:パブロ・フェランデス(チェロ)
 アリアーガ:歌劇『幸福な奴隷たち』序曲
 アリアーガ:交響曲ニ短調
 リヒャルト・シュトラウス:交響詩『ドン・キホーテ』

 youtubeの動画で優れた演奏を披歴しているのが、スペインのガリシア交響楽団。
 今回は一捻りしたお国物で、本領発揮を期待したい。
 俊英フェランデスのチェロ独奏も愉しみだ。


5:スタヴァンゲル交響楽団
 指揮:クリスティアン・バスケス
 独奏:田部京子
 スヴェンセン:祝祭ポロネーズ
 グリーグ:ピアノ協奏曲
 ベルリオーズ:幻想交響曲

 ノルウェーのスタヴァンゲル交響楽団は、エル・システマの申し子バスケスに引き連れられての登場。
 田部京子のグリーグに、バスケスお得意の幻想交響曲、いずれも興味津津である。


6:オランダ交響楽団
 指揮:ヤン・ヴィレム・デ・フリエンド
 ベートーヴェン:劇音楽『エグモント』序曲
 ベートーヴェン:交響曲第5番
 ベートーヴェン:交響曲第6番「田園」

 デ・フリエンドとオランダ交響楽団は、ピリオド・スタイルを駆使して王道中の王道、ベートーヴェンの第5番と田園に挑む。
 目から鱗、ならぬ耳から鱗のとびきりの体験をあなたに。
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2016年10月08日

京都市交響楽団 第606回定期演奏会

☆京都市交響楽団 第606回定期演奏会

 指揮:ラドミル・エリシュカ
管弦楽:京都市交響楽団

 座席:3階LB1列5番
(2016年10月7日19時開演/京都コンサートホール大ホール)


 クラシック音楽の世界には、遅れて来た巨匠、とでも呼ぶべき一群の演奏家たちがいる。
 さしずめ、チェコ出身の指揮者ラドミル・エリシュカなど、日本における近年の活躍ぶりからしても、その代表格といえるのではないか。
 1931年の生まれというから、今年で85歳。
 1968年から約20年間、チェコの地方オーケストラ、カルロヴィ・ヴァリ交響楽団のシェフを務める一方、1996年から2008年まではプラハ音楽大学指揮科教授として後任の指導にあたるなど着実に活動を続けていたものの、彼は知る人ぞ知る存在にすぎなかった。
 それが2004年の初来日からは一転。
 特に、首席客演指揮者となった札幌交響楽団とは少なからぬCDがリリースされたりして、好調な関係を築き上げている。
 また、大阪センチュリー交響楽団(現日本センチュリー交響楽団)や大阪フィルへの度重なる客演で関西でもすでにおなじみだ。
 そのエリシュカが京都市交響楽団と初めての共演を果たした。
 今回は「京都・プラハ姉妹由提携20周年記念」ということで、スメタナの『モルダウ』、ドヴォルザークの交響的変奏曲に交響曲第9番「新世界から」、とまさしく「おくにもの」が並ぶプログラムだったが、だからこそ、エリシュカという指揮者の特性魅力がひと際発揮されていたように感じた。
 その特性魅力を簡潔に言い表わすならば、的確な楽曲把握に裏打ちされた音楽の劇的再現とでもなるか。
 カレル・アンチェルやラファエル・クーベリック、ヴァーツラフ・ノイマンといった過去のチェコの指揮者たちとも通底しているが、ノイエ・ザッハリヒカイト(精度の高いアンサンブルの構築と正確なテンポ設定)という基本線の上で、歌わせるべきところは歌わせ、鳴らすべきところは鳴らす音楽づくり、と言い換えることも可能かもしれない。

 まず、スメタナの連作交響詩『わが祖国』から二曲目にあたる『モルダウ』。
 学校の授業等では描写音楽の典型と教えられることの多いこの曲を、「ナショナリズム」の宣言と解き明かしたのは今は亡き林光だったが(チェコの人々にとってはあまりにも当たり前なことであり、改めて説明する必要がない)、あの印象的な冒頭部分からエリシュカは比較的速めのテンポで演奏を始める。
 実演録音ともに、これまで何度も耳にしてきた曲だけれど、だからこそ、弦楽器が奏でるおなじみの美しい旋律をはじめとしたアクセントの置き方、リズム(舞曲性)の強調等々、エリシュカの細やかな指示が目に見えるように伝わってくる。
 もちろん音楽の全体的な展開がしっかりと把握されていたことは言うまでもない。
 若干反応の鈍さを感じた部分もなくはなかったが、京響の面々もそうしたエリシュカの意図をよく汲んだ演奏を行っていた。

 二曲目は、ドヴォルザークの交響的変奏曲。
 プログラムノートで増田良介が記しているように、ブラームスのハイドンの主題による変奏曲からの影響が色濃くうかがえる作品である。
 確かに両曲とも管弦楽の妙味が引き出された構成となっているが、ブラームスの作品がある種の諦念をためたものだとすれば、ドヴォルザークのほうはより熱情的というか、目まぐるしい感情の変化が強く印象に残る。
 自作の合唱曲による厳かさと滑稽さを兼ね備えた主題が、様々な舞曲のスタイルによって変奏されるというつくりで、エリシュカはその一つ一つの変奏の特徴を丁寧に明示していく。
 最終盤の音楽的高揚のエネルギッシュでパワフルな表現には、エリシュカの85歳という年齢が信じられないほどだった。

 休憩を挟んでのメインは、名曲中の名曲「新世界から」。
 ここでもエリシュカの表現にぶれはない。
 速めのテンポを維持しつつ、聴かせどころ、音楽のツボをよく心得た演奏を繰り広げる。
 加えて、通常慣らされて表現されることの多いフレーズ(土臭いというか、重たいというか、野暮たいというか)の強調もエリシュカはあえて辞さない。
 結果、凝集力に富んで新鮮な響きのする音楽が再現されていた。
 中でも、「家路」として有名な第2楽章の静謐な表現や、終楽章での畳みかけには強く心を動かされた。
 ゲストコンサートマスターに元N響の山口裕之を迎えた京響も、現在の持てる力でエリシュカの要求に応えていた。

 いずれにしても、音楽を聴く愉しみに満たされたコンサートで、適うことならば今一度エリシュカと京都市交響楽団の実演に接したい。
 ああ、素晴らしかった!!
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2016年09月22日

第6回関西の音楽大学オーケストラ・フェスティバルIN京都コンサートホール

☆第6回関西の音楽大学オーケストラ・フェスティバルIN京都コンサートホール

 指揮:秋山和慶
 独唱:岡本優香(ソプラノ・大阪音大)、藤居知佳子(アルト・同志社女子大)
管弦楽、合唱:大阪音楽大学、大阪教育大学、大阪芸術大学、京都市立芸術大学、神戸女学院大学、相愛大学、同志社女子大学、武庫川女子大学

 座席:3階LB1列5番
(2016年9月22日14時開演/京都コンサートホール大ホール)


 小澤征爾や山本直純ら数多くの門下生の中で、実は秋山和慶こそ斎藤秀雄が編み出した指揮法の元来の目的に沿った活動を続けてきた指揮者なのではないか。
 つまり、技量的に限界のある日本のオーケストラに対し、簡にして要を得た機能的なバトンテクニックでもって音楽の要所急所を指し示しつつ、一程度以上の水準の演奏を創り上げるという。
 中でも、財団解散に追い込まれ自主運営を余儀なくされた東京交響楽団の音楽監督・常任指揮者としての40年にわたる奮闘努力は、秋山和慶の指揮者人生の象徴ともいえるだろう。
 ただ、1980年代以降の日本のプロフェッショナルなオーケストラのレヴェルアップの中で、そうした秋山さんの特性はかえって見え(聴こえ)にくくなっていったのではないか。
 事実、NHK交響楽団の京都公演(1989年7月18日、京都会館第1ホール)を皮切りに、大阪フィルの第247回定期(1990年3月23日、旧フェスティバルホール)、札幌交響楽団の大阪公演(同3月30日、ザ・シンフォニーホール)、少し飛んで大阪フィルの第31回サントリー音楽賞記念公演(2001年2月19日、同/三善晃の特集)、そして大阪センチュリー交響楽団の第112回定期(2006年6月7日、同)と、何度か秋山和慶が指揮するコンサートに足を運んだが、均整がとれたオーケストラ・コントロールと、シャープでスマートな音楽づくりに感心しつつも、彼の真価に触れたと言い切れるほどには強く心を動かされてはこなかった。

 ところが、夕暮れ社弱男ユニットの公演で出会って度々その歌唱に接してきた藤居知佳子が独唱者として出演するというので足を運んだ、今日の第6回関西の音楽大学オーケストラ・フェスティバルでの秋山さんの指揮には心底感嘆させられた。
 プログラムは、マーラーの交響曲第2番「復活」。
 言わずと知れた大編成、しかもバンダに独唱合唱つきの大曲である。
 しかも、オーケストラは地の利もあってか京都市立芸大を中心とはしつつも、上述した如き混成軍(特に管・打楽器)というわけだから、当然一筋縄ではいかない。
 いや、こういう書き方をするとなんだか難曲演奏困難曲のように思われるかもしれないし、実際プロのオーケストラでも骨の折れる作品に違いはないのだけれど、大きな傷があろうとへっちゃらちゃら介、そこはフェスティバルなんだから炎立たせて大騒ぎして最後は「サライ」もびっくりの大感動で締めりゃあいいじゃん、というやり方をしても格好のつくつくりにもなっているのである。
 けれど、秋山さんはそういうやり方はしない。
 限られた時間の中で、どこをどう押さえればアンサンブルがまとまるか、シンフォニックに聴こえるか、今後の彼彼女らの演奏活動に繋がる指導を施すというか、技術面の問題というよりも経験不足のほうがより大きい若い音大生たちを相手にイロハのイとまではいかないけれど、出来得る限り明晰でなおかつ劇性にも富んだ音楽を生み出そうとしていく。
 冒頭の低弦の響きにまずそれを強く感じたし、以降の強奏の部分での鋭い表現などにもそれが垣間見えた(聴こえた)。
 一方で、弱音の部分でのリリカルな表現も強く印象に残る。
 例えば第2楽章の弦楽器の静謐で柔らかな演奏には、マーラーそのものというより彼に影響を受けた北欧の音楽を思い起こしたりもした。
 そして、そうした積み重ねがあるからこそ、終楽章の昂揚がひと際鮮明に浮かび上がってくるように思われた。
 ライヴ特有の傷は多々あったし、より密度の濃い表現を期待したい部分も少なくはなかったが、秋山さんの指揮者としての力量を痛感したことに間違いはない。
 副指揮の橋詰智博をはじめとしたサポートも加わってだろうが、音大生たちもそうした秋山さんの指揮に応える努力を重ねていた点に大きな拍手を送りたい。

 藤居さんの歌唱については、コンサートの記録で数回触れてきた。
 声量があった上で、深々としてなおかつ透明感のある声質の持ち主であることは言うまでもないが、今回のマーラーのアルトソロでは、高音部の美しさを再確認することもできた。
 これまでのイタリア物やフランス物ばかりでなく、こうしたドイツ・リートにまで彼女の守備範囲は及ぶのではないだろうか。
 研鑚をさらに積んだ藤居さんが歌う同じ曲や、大地の歌をぜひ聴いてみたい。
 一方、ソプラノソロの岡本さんは、清楚で芯のある声質の持ち主。
 すでにオペラでも活躍されているようだが、今度は彼女の日本歌曲にも接してみたいと思った。

 賛助メンバーを含む合唱団も、コーラスマスターの北村敏則、合唱指導の石原祐介両氏の指導の下、真摯でまとまりのある歌唱を創り出そうという意志を聴かせていた。

 若い音大生の熱意に加え、ベテランの音楽家の底力を目の当たりにしたコンサートでした。
 ああ、面白かった!
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2016年08月26日

シューベルト/レクチャー&コンサート「あこがれ、さすらい、そして成熟」

☆シューベルト/レクチャー&コンサート「あこがれ、さすらい、そして成熟」

 ナビゲート:堀朋平
 フォルテピアノ、お話:鈴木優人
 ソプラノ:松井亜希
 テノール:松原友
 フォルテピアノ:重岡麻衣
(2016年8月25日19時開演/いずみホール)


 今年度のいずみホールのテーマ企画「シューベルト こころの奥へ」のプレ企画として開催された、シューベルト/レクチャー&コンサートに足を運んだ。
 ちなみにこのレクチャー&コンサートは招待制のものだったが、座席交換の際、こちらの細かい希望を叶えてもらうことができて、本当にありがたかった。
 よく当日座席指定とかいって、料金を平然ととっておきながらプロでもない団体が得手勝手な座席を押し付けてくることがあるが、ああいったとち狂った団体の責任者は、爪の垢でも煎じて飲んで欲しい。

 さて、今回は、「あこがれ、さすらい、そして成熟」と題して、シューベルトの音楽の持つ憧憬の念や精神的な彷徨、31年という短い生涯における作曲家としての成熟を中心にレクチャーと演奏が繰り広げられていた。

 鈴木優人が弾く楽興の時第3番D.780-3(NHKラジオ第1の『音楽の泉』のテーマ曲でもある)でスタートした第1部「シューベルト−詩と音楽の出会い」では、シューベルトの友人ショーバーの詩による『音楽に寄せて』D.547(松原友独唱)、同じく友人のマイアホーファーの詩による『あこがれ』D.516(松井亜希独唱)、ゲーテの詩による『糸を紡ぐグレートヒェン』D.118(松井亜希独唱)、『月に寄せて』D.296(松原友独唱)、『ただあこがれを知る人は』D.877-1(松井亜希、松原友二重唱)が演奏され、ナビゲーターの堀朋平(先頃、『<フランツ・シューベルト>の誕生』が法政大学出版局から刊行された)と優人さんによって、シューベルトが友人たちの助力によって「職業音楽家」の道を歩んだことや、彼の自然や希望、理想に対する憧憬の念、精神的逡巡や彷徨、ゲーテの詩による歌曲の変遷からうかがえる作曲家としての成熟について語られた。

 休憩を挟んだ第2部「成熟と深淵−後期を聴く」では、優人さんによってフォルテピアノの説明が行われたのち重岡麻衣が登場し、4手(連弾)のための小品「4つのレントラー」D.814がまず演奏される。
 その後、題名にもある通り、ザイドルの詩による『窓辺にて』D.878(松原友独唱)、『春に』D.882(松井亜希独唱)、そして再び重岡さんと優人さんの連弾でファンタジーヘ短調D.940と、後期の作品が演奏された。
 第2部になると、俄然堀さんのトークのエンジンがかかり、ときに優人さんが抑えにまわる場面も。
 最後に演奏されたファンタジー、特に中盤から終盤にかけての激しい表情の変化には、確かに深淵を覗く想いがした。
 重岡さん(高音部。フォルテピアノの鍵盤の右側)と優人さん(低音部。同左側)も、破綻を怖れない果敢さでこの作品に向き合っていたと思う。

 実は、このレクチャー&コンサートに応募した大きな理由は、鈴木雅明(優人さんのお父さん)指揮京都市交響楽団のモーツァルト・ツィクルスNr.21(2009年11月14日、京都コンサートホール小ホール)で実演に接したのち、今年4月のNHK・FM『リサイタル・ノヴァ』で改めて感心した松井亜希が出演するためで、今回も彼女の透明感があって伸びのある美しい声質と歌唱を堪能することができた。
 また、『糸を紡ぐグレートヒェン』はじめ、彼女の音楽の持つ劇性をとらえる能力を再認識できたことは大きな収穫だった。
 一方、松原友も濁りのない声質の持ち主で清潔感のある歌唱を披歴していたし、鈴木優人は歌曲の伴奏、連弾で独唱者や重岡麻衣をよく支え、密度の濃い音楽空間を創り出していた。
 また、忘れてならないのが、各々の音楽スタイルが共通していることによって均整のとれた演奏が生れていたことだ。
 演奏の合間のトークでも語られていたように、松原さんと優人さんは東京藝大の先輩後輩にあたり小林道夫の下でバッハを学んでいたし、同じ藝大出身の松井さんは鈴木雅明率いるバッハ・コレギウム・ジャパンの公演に度々参加している。
 付け加えるならば、重岡さんも藝大出身で鈴木雅明にチェンバロ、通奏低音を学んでいた。
 特に、『ただあこがれを知る人は』とアンコールの『光と愛』D.352(コリンの詩による二重唱)での松井さんと松原さんの声が重なり合う部分の美しさには、強く心を動かされた。
(余談だけど、二人の独唱、優人さんの指揮で、メンデルスゾーンの交響曲第2番「讃歌」を演奏してはもらえないものか。日本センチュリー交響楽団あたりどうだろう?)

 ときにくすぐりの入る堀さんと優人さんの掛け合いも、専門に寄り過ぎず、かといって、安易に過ぎず、企画の趣旨によく沿っていたのではないか。
 ただ、シューベルトの音楽の持つ社会性(当時のオーストリアの抑圧的な状況等々)について一切語られなかったことに、若干物足りなさを覚えたりしたが。

 いずれにしても、休憩を挟んで2時間とちょっと、大満足でした。
 ああ、素晴らしかった!!
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2016年08月20日

京都市交響楽団第604回定期演奏会

☆京都市交響楽団第604回定期演奏会

 指揮:沼尻竜典
 独奏:石井楓子(ピアノ)
管弦楽:京都市交響楽団

 座席:3階LB1列5番
(2016年8月19日19時開演/京都コンサートホール大ホール)


 欧米のように9月からのシーズン・スタートというわけではないのだけれど、夏休みとの兼ね合いか、それより何より、暑いさ中にまじめなプログラムのコンサートもないだろうということか、この国のプロ・オーケストラも基本的に8月には定期演奏会を開催してこなかった。
 ところが、もう何年前からになるか、少しずつ8月に定期演奏会を開催するオーケストラが増えてきた。
 さしずめ京都市交響楽団など、その先駆けの一つということになるのではないか。
 それでも、軽めの作品を並べたり合唱曲をメインに置いたりするなど、8月ならではのプログラムが組まれてきたことも事実だ。
 それが、今年の第604定期演奏会は三善晃のピアノ協奏曲にショスタコーヴィチの交響曲第4番と、京都コンサートホールの舞台上に弦管打楽器ハープにチェレスタ、所狭しと楽団員が居並ぶ超大編成の本格的プログラムのコンサートとなった。

 なお、通常配置をとった今回の定期では、ゲストコンサートマスターにインテリヤクザかEXILEのメンバーかといった風貌の石田泰尚(神奈川フィル)を迎えたほか、チェロのトップにルドヴィート・カンタ(オーケストラ・アンサンブル金沢)が座るなど、要所を客演陣が固めていた。
 そうそう、余談だけれど、当方が初めて聴いた海外のオーケストラのコンサート、スロヴァキア・フィルの長崎公演(1987年5月5日、長崎市公会堂/武藤英明指揮)でドヴォルザークのチェロ協奏曲のソロを務めていたのだがこのカンタさんで、なんとも懐かしかった。

 プログラム前半の三善晃のピアノ協奏曲は、急緩急三部構成による1楽章形式の作品で、演奏時間は15分程度。
 ただし、その15分の中に作曲家の才気が凝縮されており、間然するところのない内容となっている。
 ショスタコーヴィチの交響曲第4番との対比という意味でも、興味深い選曲だと思う。
 特に、緊張が高まった第2部(緩)から第3部(急)でそれがぱっと開放されていくような感じが強く印象に残った。
 石井楓子は作品をよくその手の内におさめていて、安定した演奏。
 表現が硬質でないというか、抒情性に若干傾くというか、ロマンティックな作品が得意なように感じられた。
 指揮の沼尻竜典にとって三善晃は作曲の師にあたるわけだが(プレトークでも説明あり)、腑分けのしっかりした解釈で石井さんを支えるとともに、ときに独奏よりも雄弁に表現を行っている箇所もあったように思う。

 プログラム後半は、ショスタコーヴィチの交響曲第4番。
 間奏曲的な第2楽章を挟む長大な両端楽章というアンバランスな構成(演奏時間は約1時間)、先述した如き超大な楽器編成、おまけに作曲家自身がスターリン政権下の政治的な圧迫を慮って初演をキャンセルし、結局作曲から25年以上経った1961年に初演されるという曰く因縁つきと、どうにも一筋縄ではいかない作品である。
 20世紀後半以降、ようやく日本でも演奏される機会が増してはきたが、それでも頻繁にプログラミングされる作品とはいえない。
 当方も、生でこの交響曲を聴くのは今回が初めてだった。
 まずもって、聴く側にとっても演奏する側にとっても、労少なくない作品というのが、いっとう最初の正直な感想だ。
 三善晃のピアノ協奏曲とは対照的に、作曲家のあふれんばかりな才気、楽想、意志がこれでもかと言わんばかりに盛り込まれ、詰め込まれ、結果あるは舞台音楽か映画音楽のパスティーシュそのままのわっかりやすい旋律、あるは兇暴強烈な咆哮と次から次へと音楽が目まぐるしく変化していく。
 表面的技術的な難所急所も丸わかりだし(弦楽器の早弾きとか)、その上総体としての「ミスティフィケーション」というのか、単純にそれを政治的社会的なモティーフに還元することは避けたいものの、やはりショスタコーヴィチが置かれた諸状況が作品全体に靄をかけているかのようなとっつきにくさを与えていることも否めない。
 一つ間違うと、とっちらかってややこしい印象ばかりが残りかねないことになるのだが、沼尻竜典と京響の面々は、労を重ねることによって、作品の持つ特性や妙味を的確に描き出していたのではないか。
 上述したパスティーシュ的な楽想楽句ばかりでなく、シリアスな部分においても沼尻さんの劇場感覚(音楽の「劇性」の把握)は十全に発揮されていたと思うし、オーケストラもそうした沼尻さんの解釈に従って、ソロ・アンサンブル両面で高い水準の演奏を披歴していた。
 特に、今回こうやって実演に接することで、この曲のマーラーからの影響や、この曲が如何にして交響曲第5番に「改善」されていくのかを実感できたのは大きな収穫だった。
 というか、それより何より、第1楽章や第3楽章終盤の圧倒的な強奏。
 そして、全ての楽器が鳴り終えたあとの静寂。
 沼尻さんの祈るかのような姿勢と、まさしく息を殺すかのような20秒ほどの時間は、生ならではのものだろう。
 足を運んで本当によかった。

 それにしても、京都市交響楽団は掛け値なしにすごいオーケストラになってきているなあ。
 クラシックなんてようわからん、という人にもぜひご一聴いただきたい。

 ああ、素晴らしかった!!
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2016年07月31日

京都市交響楽団第603回定期演奏会(後半のみ)

☆京都市交響楽団第603回定期演奏会(後半のみ)

 指揮:ユージン・ツィガーン
管弦楽:京都市交響楽団

 座席:3階 LB2列4番
(2016年7月31日/京都コンサートホール大ホール)


 京都コンサートホールまで足を運んだついでに、と言ってはなんだけれど、休憩以後の後半部分を格安(B席なら3500円が1000円に)で聴けるという「後半券」を利用して、京都市交響楽団第603回定期演奏会のメインとなるマーラーの交響曲第5番を聴いた。
 後半券の発売は、前半の一曲目が演奏され始めた時点ということで、定時より5分ほどおした14時36分頃に無事チケットを手に入れる。
 で、後半券待ちのときに前に並んでいた男性と、前半のシューベルトの交響曲第7番「未完成」が終わるまでホールの入口のところで、例えば男性は朝日新聞の夕刊で後半券のことをお知りになったとか、あれこれおしゃべりをして愉しく待ち時間を過ごした。
 男性はこちらより少し先輩になるか。
 福田康夫元首相をもっと柔らかく優しくしたような雰囲気のノーブルで知的な物腰語り口のお方で、クラシック音楽をはじめ、様々な文化芸術に親しまれているようだった。

 さて、今回指揮台に上がったのは、アメリカ出身のユージン・ツィガーン(父親がアメリカ人で、母親が日本人)。
 東京都交響楽団や読売日本交響楽団(そういえば、客演コンサートマスターは読響の小森谷巧だった)のほか、京都市交響楽団にもすでに2013年6月の第569回定期演奏会で客演している。
 1981年の12月生まれだから現在34歳、ありきたりな言葉だけれど、ここぞというところで両手を高々と突き上げるなど、実に若々しい指揮ぶりだ。
 そんな指揮から生み出された音楽も、実に若々しくドラマティックでパワフルなものとなっていた。
 と、こう記すと、力任せのヤンキードゥードゥルドゥーを想像される向きもあるかもしれないが、それは大間違い。
 ツィガーンは細部をきっちりと把握して、よくコントロールの効いた音楽づくりを目指していたように感じられた。
 ただ、ときとして作品やオーケストラが御し切れていないというか、指揮をし過ぎるというか、音楽の流れに若干たどたどしさ、かくかくしかじかしかつめらしさを覚えた部分があったことも事実だ。
 とはいえ、作品の妙味、面白さを存分に味わうことのできた演奏であったことも確かで、特に第4楽章のアダージェットで弦楽器が歌い切ったあと、すかさず第5楽章のホルンのソロが始まった一瞬の雰囲気の変化は、本当に聴くことができてよかった。
 トランペットのハラルド・ナエスとホルンの垣本昌芳はじめ、管楽器弦楽器打楽器と、ソロ、アンサンブルともに京都市交響楽団も高水準な演奏を行っていた。

 コンサートはできるだけ全部を聴いておきたいという人間だけれど、たまには「後半券」を利用するのもありかなと思った次第。
 ああ、面白かった!
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2016年07月24日

ロームミュージックファンデーション音楽セミナーコンサート2016

☆ロームミュージックファンデーション音楽セミナーコンサート2016年

(2016年7月24日14時開演/ロームシアター京都サウスホール)


 ロームミュージックファンデーション音楽セミナーコンサート2016を聴きに、ロームシアター京都サウスホールまで行って来た。
 実は、ロームシアター京都に足を運ぶのは、今日が初めて。
 旧第一ホールでは数年前に夏川りみのリサイタルを聴いているが、旧第二ホールのほうは、日本共産党がらみの今は亡き河島英五のライヴに接して以来だから、25年以上ぶりということになる。
 もちろん、改装によってホールは全く新しくなっているのだけれど、ドリンクコーナーに備え付けられた給水器の生ぬるい水を含め、いなたいというか野暮たいというか、良くも悪くも京都会館の雰囲気が濃厚に残っていた。
 で、はじめは2階一列目に陣取っていたが、バルコニー(舞台から見て横向きの席)を見つけてそちらに移る。
 ここは、2階から直接行くことはできなくて、いったん1階席のほうまで降りなければならないので、要注意だ。
 無粋な手すり等、視覚的に難はあるものの、予想外にクリアな音が届いていて、音楽を愉しむ分に問題はなかった。

 さて、1992年以来、プロの音楽家の育成を目的に継続されてきたロームミュージックファンデーション音楽セミナーだが、最終日には、一週間のセミナーの成果発表として例年コンサートが行われることになっている。
 25回目となる今年は、去年に続いて管楽器(フルート、オーボエ、クラリネット、ホルン、ファゴット)のセミナーが開催され、25人の受講生が参加していた。
(ちなみに、2名以外は全て女性)

 まず第1部では、各楽器から一人が選抜されてソロの演奏を披露した。
 演奏者と曲目は以下の通りだ。
 フルートの瀧本実里(東京音楽大学)とピアノの大堀晴津子による、タファネルの『魔弾の射手』の主題による変奏曲。
 オーボエの高橋早紀(東京音楽大学大学院)の独奏による、テレマンの無伴奏オーボエのための12の幻想曲より第6番とハインツ・ホリガーの無伴奏オーボエ・ソナタより第1楽章。
 クラリネットの本田有里恵(東京芸術大学大学院卒業)とピアノの小澤佳永による、フランセのクラリネット協奏曲より第3、第4楽章。
 ホルンの藤井春香(東京音楽大学卒業)とピアノの浅川真己子による、リヒャルト・シュトラウスのホルン協奏曲第1番より第1、第3楽章。
 ファゴットの柿沼麻美(東京芸術大学大学院卒業)とピアノの三輪郁による、ブルドーのプルミエ・ソロ。

 続く第2部では、受講生が5つの木管5重奏にわかれて、タファネルの木管5重奏曲より第1、第2楽章、ヒンデミットの小室内楽曲より第1、第2、第4楽章、ダンツィの木管5重奏曲作品番号56−1より第1、第2、第4楽章、クルークハートの木管5重奏曲より第1、第2楽章、ラヴェルの『クープランの墓』よりプレリュード、メヌエット、リゴードンが演奏された。

 ソロ、アンサンブルともに、まだ磨き切れていない原石といった粗さを感じる部分はあったが、一人一人が真摯に演奏、作品、音楽そのものに向き合っていることがよくわかる内容となっていて、今後の活躍が本当に愉しみである。

 最後は、セミナーの講師陣であるフルート・ピッコロの工藤重典、オーボエの古部賢一、クラリネットの山本正治、ホルンの猶井正幸、ファゴットの吉田将が木管5重奏用に編曲されたヴェルディの歌劇『ナブッコ』序曲を演奏して華やかに〆た。

 表現することに対する刺激を受けたコンサートで、聴きに行って正解だった。
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2016年07月09日

同志社女子大学学芸学部音楽学科オーケストラコンサート(2016)

☆同志社女子大学学芸学部音楽学科オーケストラコンサート(2016)

 独唱:鄭美來(ソプラノ)、藤居知佳子(アルト)
 独奏:森田侑里奈(フルート)、花田佳奈(ピアノ)
 指揮:関谷弘志
吹奏楽:同志社女子大学音楽学科ウインドオーケストラ
管弦楽:同志社女子大学音楽学科管弦楽団
 解説:椎名亮輔
(2016年7月9日14時開演/同志社女子大学京田辺キャンパス・新島記念講堂)


 夕暮れ社 弱男ユニットの公演で出会った藤居知佳子が今年も出演するというので、昨年に続いて同志社女子大学学芸学部音楽学科のオーケストラコンサートに足を運んだ。
 会場は、京田辺キャンパスの新島記念講堂。
 クラシック音楽専用のコンサートホールとまではいかないが、思った以上に響く会場である。
 昨年はウインドオーケストラを関谷弘志、オーケストラを山下一史と、二人の指揮者が振り分けたが、今年はいずれも関谷さんが指揮台に立った。

 で、第1部はウインドオーケストラから。
 マクベスの『マスク』、コープランドの『アパラチアの春』(コンサートバンド用の抜粋)、ジェイガーの『シンフォニア・ノビリッシマ』、ヤン・ヴァン・デル・ローストの『カンタベリーコラール』、ショスタコーヴィチの祝典序曲(吹奏楽用編曲)の5曲が演奏されていた。
 速めのよく鳴る曲−静かで穏やかな感じの曲…が交互に置かれるなど、よく考えられたプログラムだ。
 関谷さんは要所急所を押さえた音楽づくりで、ウインドオーケストラの面々もそれによく応えていた。
 ライヴ特有の傷に加え、静かな曲のほうでは若干粗さも目立ったが、ここぞというところでの鳴りっぷりはやはり爽快だった。
(そうそう、ジェイガーの曲はなんだか映画かドラマか、いずれにしても安っぽいエンタメ風の曲調で、ちょっとしっくりこない)

 第2部では、まさしく劇的なヴェルディの歌劇『ナブッコ』序曲ののち、選抜された学生たちによるオペラ・アリアや協奏曲の一部が披露された。
 まず、ソプラノの鄭美來とアルトの藤居知佳子によるオペラ・アリアが2曲。
 ちなみに、鄭さんと藤居さんといえば、今年(昨年度)のオペラクラスの『フィガロの結婚』で村娘を歌い合った二人である。
 鄭さんが歌ったのは、トマの歌劇『ミニョン』からフィリーヌのアリア『私はティターニア』。
 コロラトゥーラの技巧が肝のポロネーズ風のアリアだが、まずもって鄭さんの透明感があって伸びのある声がいい。
 すでに何度も繰り返しているように、僕は声の好みのストライクゾーンが極端に狭い人間なのだけれど、鄭さんの軽みのある声質は非常にしっくりくる。
 終盤の難所も強く印象に残った。
 続いて、藤居さんがドニゼッティの歌劇『ラ・ファヴォリータ』からレオノーラ(タイトルロール)のアリア「私のフェルナンド」を歌った。
 メゾソプラノ、アルト、中でも「ベルカント」歌いにとっては十八番とでも呼ぶべきアリアだが、藤居さんは深みのある低音部から澄んだ高音部という広い音域の声質と豊かな声量を駆使して密度の濃い歌唱を生み出していた。
 声のコントロールという面でも、この間の研鑚がよく示されており、その点でも非常に感心した。
 9月22日のマーラーの交響曲第2番「復活」のソロ(秋山和慶指揮/京都コンサートホール大ホール)など、今後の活躍が本当に愉しみである。
 第2部の三人目は、フルートの森田侑里奈。
 昨年のコンサートで、モーツァルトのフルートとハープの協奏曲のフルートを吹いた長谷川夕真が、笛ありき笛愉しというか、フルートを吹いているのが愉しくて愉しくて仕方ないという感じのする演奏であったとすれば、こなた森田さんは他者にどう聴かれているか(ばかりか、人にどう見られているか)をしっかり心得た吹き手という感じがした。
 その意味でも、楽器の聴かせどころが巧く設けられたライネッケにとって晩年の作品、フルート協奏曲(の第1楽章)は森田さんにぴったりだったのではないか。
 最後は、花田佳奈の独奏で、ベートーヴェンのピアノ協奏曲第4番から第1楽章。
 オーケストラが比較的速めのテンポでザッハリヒに進行していくのに対し、花田さんは一音一音を力まず丁寧に、粘らないけれどもリリカルに演奏していた。
 揉みおこしのないマッサージ、とでも喩えたらちょっと変かな。
 曲によっては、また雰囲気も変わってくるのだろうけれど、こちらも力むことなく聴き終えることができた。
(そんな演奏だったからこそ、かえって花田さんはパンツスタイル、上は燕尾服でもいいし、タートルネックのシャツでもいい、あっ、色は黒を基調、でもいいんじゃないかと思ったりもした)

 第3部はオーケストラのメインディッシュ、チャイコフスキーの交響曲第4番。
 昨年の感想にも書いたっけ。
 関谷さんはアマチュア・オーケストラとも活発に関わっており、関西の指揮者陣ではオーケストラ・ビルダーの一人と目されている。
 事実、今日のコンサートでも縦の線の揃え方や、楽器のバランス等で、彼の特質がよく表われていた。
 ただ、ショスタコーヴィチの祝典序曲でもちらと感じたことだけれど、このチャイコフスキーのシンフォニーでは関谷さんの表現意欲が強く出ていたのではないか。
 比較的ゆったりとしたテンポで進んだ第1楽章に、まずそのことを感じた。
 当然、オーケストラの技量についても考えた上での判断でもあったのだろうが、終楽章コーダでの一気呵成の追い込みを聴くと、やはりこの作品の持つ劇性を強調した解釈だったのだと思う。
 アンコールは、同じくチャイコフスキーのバレエ音楽『白鳥の湖』第3幕から「チャルダーシュ」。
 曲調が途中で変化して、ラストで華々しく盛り上がるこの「チャルダーシュ」に、僕は交響曲の解釈の答え合わせを聴くような気がした。

 14時に始まって、17時20分頃終了というから、約3時間半。
 解説の椎名さん、そしてスタッフさんを含め、皆さん長丁場本当にお疲れ様でした。
 たっぷり愉しむことができました。
 ああ、面白かった!
(アンケートにもちょっと記したのだが、3時間半はちょっと長いかなあ。ウインドオーケストラを別にすると、またいろいろ大変だろうし。何かよい解決法はないだろうか)
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2016年05月01日

ラ・フォル・ジュルネびわ湖2016 01-L-3 カンマーアカデミー・ポツダム

☆ラ・フォル・ジュルネびわ湖2016 01-L-3 カンマーアカデミー・ポツダム

  独奏:ユキ・カサイ(ヴァイオリン)
 管弦楽:カンマーアカデミー・ポツダム

 会場:滋賀県立芸術劇場びわ湖ホール大ホール
 座席:2階2RA列9番
(2016年5月1日16時開演)


 ラ・フォル・ジュルネびわ湖2016。
 カンマーアカデミー・ポツダムの二日目は、今年のテーマ「ナチュール(自然)」に沿ったバロック音楽中心のプログラムとなっていたが、昨夜に増して彼女彼らの妙味を愉しむことができた。

 まずは、有名曲中の有名曲、モーツァルトのセレナード第13番「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」から。
 で、第1楽章冒頭がチャンチャチャンチャチャチャチャチャチャン、と快活に始まったところで僕はもう嬉しくなった。
 いわゆるピリオド・スタイルを援用した、というだけではなく、その団体名通り室内楽的な、細部まで目配りの届いた実にまとまりのよいカンマーアカデミー・ポツダムのアンサンブルで聴いていると、この曲の旋律の美しさばかりでなく、作品全体の構造がはっきりとわかってくる。
 『後宮からの逃走』を聴いたヨーゼフU世の「音符が多すぎる」という感想に対する、「不必要な音符は一つもありません」というモーツァルトの返答を思い出したほど。
 例えば、第2楽章のはじまりの部分。
 チェロやコントラバスの低声部の動きの上で、ヴァイオリンが主旋律を奏でるところには、ふと『後宮からの逃走』のベルモンテのアリアを思い起こしたりまでした。
 まあ、これはこちらの思い込みとしても、目を洗われる、ならぬ耳を洗われるが如き清新で、なおかつ愉しい演奏だった。

 続いては、チェンバロが加わったヴィヴァルディのヴァイオリン協奏曲ト短調RV.439「夜」。
 公演案内のチラシには、「夜のヴェネツィアを疾走する幽霊と、それに慄く心が描かれるユニークな作品」とあるが、バロックアクロバティックとでも呼びたくなるような細かく激しい音楽の動きが肝の作品である。
 実は、僕は昔、ヴィヴァルディの音楽がとても苦手だった。
 と、言うのも、1980年代初頭までのイ・ムジチ流の緩やかなスタイル(良く言えば春風駘蕩、悪く言えばどこかの街の文化芸術状況みたいなぬるま湯的な)でヴィヴァルディのあの乱高下するようなうねうねとした旋律を演奏されると、なんとも居心地の悪いしっくりとこない感じにとらわれてしまったからだ。
 ところが、メリハリがよく効いて劇性に富んだピリオド・スタイルならば無問題。
 ヴェネツィアの幽霊だろうがなんだろうが、ユキ・カサイの独奏とカンマーアカデミー・ポツダムの一糸乱れようとしないアンサンブルにはうきうきわくわくさせられた。

 プログラム三番目は、オーボエ2とファゴット1が加わったテレマンの組曲「水の音楽 ハンブルクの潮の干満」から序曲、メヌエット「吹きすさぶ風」、ジグ「潮の干満」、カナリー「愉快な舟人たち」の4曲。
 水にまつわる情景が巧みに描写された愉悦感にあふれた音楽で、テレマンの高度な職人技が十分十二分に発揮されている。
 カンマーアカデミー・ポツダムは、要所急所をしっかり押さえつつ伸びやかな演奏を繰り広げていていとおかし。

 最後は、再び弦楽器とチェンバロのみでヴィヴァルディのヴァイオリン協奏曲変ホ長調RV.253「海の嵐」。
 演奏の面白さはもちろんのこと、夜同様、ユキ・カサイの独奏者としての力量とともにアンサンブルのリーダーとしての力量も聴き取れた(観てとれた)のも大収穫だった。

 密度が濃いのに軽快で、大満足。
 ああ、素晴らしかった!!

 カンマーアカデミー・ポツダムには、ぜひ近いうちにまた来日してもらいたい。
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2016年04月30日

ラ・フォル・ジュルネびわ湖2016 カンマーアカデミー・ポツダム

☆ラ・フォル・ジュルネびわ湖2016 30-L-4 カンマーアカデミー・ポツダム

 管弦楽:カンマーアカデミー・ポツダム

 会場:滋賀県立芸術劇場びわ湖ホール大ホール
 座席:2階2RA列9番
(2016年4月30日18時45分開演)


 明解なテーマの下、名曲を中心としたプログラムの1時間弱のコンサートを同時多発的に開催し、低価格で提供する。
 そんなラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポンは、もはやゴールデンウィークの風物詩の一つといってよいばかりでなく、金沢や新潟と東京以外の都市でも慣れ親しまれるようになった。
 びわ湖ホールを中心とするラ・フォル・ジュルネびわ湖も今年でもう7回になるというが、7回目にしてようやっと僕も足を運ぶことにした。
 と、言うのもドイツはポツダム(ポツダム会議で有名なベルリン近郊の都市)を本拠とする室内オーケストラ、カンマーアカデミー・ポツダムが登場すると知ったからだ。
 カンマーアカデミー・ポツダムといえば、イタリア出身の指揮者アントネッロ・マナコルダとのシューベルトの交響曲全集の鮮烈清新な演奏が印象深く、すでに何度かCDレビューも投稿してきたが、ラ・フォル・ジュルネびわ湖では、ヴァイオリンのユキ・カサイをリーダーとした小編成のアンサンブルで、バロック音楽中心のプログラムを演奏する。

 カンマーアカデミー・ポツダムにとって一日目となる今日は、ヘンデルの水上の音楽から第1組曲と第2組曲が取り上げられていた。
 おなじみ第2組曲のア・ラ・ホーンパイプをはじめ、有名な水上の音楽の中でも特に耳なじみのよいナンバーが並んだ、まさしくいいとこどりのプログラムである。
 第1ヴァイオリン5、第2ヴァイオリン5、ヴィオラ3、チェロ2、コントラバス1、オーボエ2、ファゴット1、ホルン2、第2組曲からトランペット2、チェンバロ1の編成で、ホルンとトランペットはピリオド楽器(ナチュラルホルンとナチュラルトランペットと呼ぶ)、対向配置の上にチェロとチェンバロ以外は立っての演奏。
 ということで、それってピリオド・スタイル?
 と思った方は大正解だ。
 弦楽器のビブラートは抑制され、強弱の変化ははっきりとし、テンポは速い…。
 といったことをくどくどくだくだと記さなくってもいいか。
 モダン楽器のオーケストラであろうと、バロック期の音楽を演奏する際はピリオド奏法をとるのがもはや当たり前(欧米では?)ということがよくわかる。
 ホルンなど演奏の難しさを感じさせる部分もあったのだけれど、カンマーアカデミー・ポツダムはインティメートで伸びやかなアンサンブルでもって、ヘンデルの水上の音楽の持つ特性魅力(例えば、この曲のトリオ・ソナタやコンチェルト・グロッソ的要素であるとか)を巧みに表していた。
 中でも、弱音部分での表情の豊かさが強く印象に残った。
 そうそう、演奏者たちの愉しげな様子も嬉しかったんだった。

 びわ湖ホールの大ホールは大きなホールだが、クリアに響いて聴きやすかった。
 その分、若干空席が多かったのは残念でならないが。
 あとわかってはいるんだけれど、やっぱり1時間弱では食い足りなさが残ってしまう。
 次回は、ぜひマナコルダとともに来日して、シューベルトの交響曲など古典派や初期ロマン派の作品も聴かせて欲しい。

 ああ、愉しかった!!
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2016年04月16日

京都市交響楽団 第600回定期演奏会

☆京都市交響楽団 第600回定期演奏会

 指揮:広上淳一
管弦楽:京都市交響楽団

 会場:京都コンサートホール大ホール
 座席:3階LB1列5番
(2016年4月15日19時開演)


 創立60周年を迎える京都市交響楽団の新年度初の定期演奏会を聴いた。
 今回はちょうど600回と、これまた記念すべき定期演奏会だったが、30年近く京都市交響楽団を聴き続けてきて、いわゆるキリ番のコンサートに足を運ぶのはこれが初めてである。

 で、プレトークでは、当夜の指揮者で第12代常任指揮者兼ミュージック・アドヴァイザーの広上淳一が、チューバ奏者でベテランの武貞茂夫を交えながら、京都市交響楽団の昔話をひとしきり。
 広上さんは、京響初登場の際(特別演奏会/1990年10月22日、京都会館第1ホール/ハイドンの交響曲第100番「軍隊」とチャイコフスキーの交響曲第6番「悲愴」)の想い出、特に京都会館の音響の悪さに辟易した話を披歴していたのだけれど、実はこのコンサートを聴いて、京都市交響楽団の音が断然違うと感心し、広上淳一という指揮者をできるだけ追っていこうと思ったものだった。
(他に、関西二期会の『リゴレット』の公演で京都市交響楽団を指揮した大野和士にも同じことを感じた)

 一曲目は、コープランドの市民のためのファンファーレ。
 金管楽器とティンパニ・打楽器による荘厳なファンファーレで、広上さんは常任指揮者就任後初となる第511回定期演奏会(2008年4月18日、京都コンサートホール大ホール)でも同じ曲を取り上げている。
 始まってしばらくひやっとする場面が続くも、最後は華々しく〆た。

 続いては、広上さんの十八番でもあるモーツァルトの交響曲第41番「ジュピター」。
 大編成の弦楽器(チェロも8、コントラバスも8。一方、管楽器はフルート1、オーボエ2、ファゴット2、ホルン2、トランペット2)に、ゆっくりと急がないテンポ、と記すとオールドファッショな行き方を想像する向きもあるだろうが、弦の鳴らし方やティンパニの強めの打ち方、それより何より、目配りのよく届いた音楽づくりと、これはピリオド・スタイルの洗礼を明らかに受けた演奏だった。
 全体のまとまりとともに横の音楽の流れを重視しつつ、さらに細部の構成もしっかりと押さえる。
 中でも、第3楽章のメヌエットを遅めのテンポで運び、第4楽章のフーガで頂点を築くという音楽の劇的な構成には、とてもわくわくさせられた。

 休憩を挟んだ後半は、リヒャルト・シュトラウスの大作『ツァラトゥストラはかく語りき』。
 ニーチェの哲学を音楽化した交響詩…。
 と、言うよりも、スタンリー・キューブリック監督の『2001年宇宙の旅』で効果的に使われた冒頭部分が有名で、昨夜もゾワゾワと何かが蠢き出しそうな雰囲気が十分にとらえられており、まさしくつかみはばっちり。
 が、その後も難所急所の続く作品だけれど、広上さんの的確なコントロールの下、京都市交響楽団は力感があって、なおかつ肌理細やかな音楽を生み出していく。
 例えば、官能美というか、旋律の美しさ、濃厚さが前面に押し出されてリヒャルト・シュトラウスの劇場感覚を改めて思い知らされる「踊りの歌」や、厳粛なラスト等々、ただ単に大きく鳴らすのではなく、何を如何に演奏するかが大切な作品であるということを実感することができた。
 チェコ出身のオルガニスト、アレシュ・バールタ、コンサートマスターの渡邊穣、ヴィオラの小峰航一、チェロの上村昇らソロ、客演陣を含むアンサンブル、ともに大健闘だった。

 と、オーケストラを聴く喜びをたっぷりと味わうことができたコンサート。
 ああ、面白かった!

 そして、さらなる京都市交響楽団の充実とステップアップを心より愉しみにしたい。
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2016年04月11日

京都市交響楽団 スプリング・コンサート

☆京都市交響楽団 スプリング・コンサート

 指揮:高関健
 独奏:松田華音(ピアノ)
管弦楽:京都市交響楽団

 会場:京都コンサートホール大ホール
 座席:3階LB1列5番
(2016年4月10日14時開演)


 今年の京都市交響楽団のスプリング・コンサートは、常任首席客演指揮者の高関健が指揮台に立ち、グリンカ、チャイコフスキー、ラフマニノフ、ストラヴィンスキーと、ロシアの作曲家の作品によるプログラムを指揮した。

 まずは、グリンカの歌劇『ルスランとリュドミラ』序曲で、華々しくコンサートがスタートする…。
 てな書き方は、あまりにも陳腐というか、常套句の乱用に過ぎるな。
 えてしてスピード競争に陥りがちな曲だけれど、高関さんは楽器の受け渡しなど、音楽の構成がよくわかる演奏に仕上げていた。
 もちろん、終盤の盛り上げも充分だった。

 続くは、チャイコフスキーのバレエ音楽『くるみ割り人形』組曲。
 クリスマスを舞台としたバレエだけに、ちょちょっと季節にずれを感じなくもないが、そこは大好きな作品ゆえに全く無問題。
 ソロ・アンサンブルとチャイコフスキーの作曲の妙味が十全に発揮されており、高関さんと京都市交響楽団の面々もそうした作品の特性をよく再現していた。

 休憩を挟んで、後半は松田華音を独奏に迎えたラフマニノフのパガニーニの狂詩曲から。
 パガニーニの24の奇想曲の終曲の主題による変奏形式の楽曲で、ピアノ・ソロは当然のこと、これまたオーケストラを聴く愉しさにも満ちた作品だ。
(てか、改めて言うまでもなく、今回のプログラム全部がそうした傾向の作品だったのだけれど)
 幼少期からロシアで学んだという松田華音は、まずもって的確適切、精度の高いテクニックが強く印象に残る。
 もちろん、有名な第18変奏などリリカルで旋律美にあふれた部分では、細やかな演奏を披歴していたが。

 プログラム最後の、ストラヴィンスキーのバレエ音楽『火の鳥』組曲(1919年版)も聴きどころに富んでいる。
 春の日中(ひなか)のコンサートということもあってか、若干緩さを感じないでもなかったが、歌うべきところは歌い鳴らすべきところは鳴らす、きっちり要所を押さえた演奏となっていて、特に終盤ひき込まれた。

 アンコールは、ドヴォルザークのスラヴ舞曲第2番。
 迫力満点、パワフルにコンサートを〆た。

 これだけ聴けて、B席1500円は本当に安い。
 ああ、愉しかった!
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2016年03月12日

京都市交響楽団 第599回定期演奏会

☆京都市交響楽団第599回定期演奏会

 指揮:高関健

 会場:京都コンサートホール大ホール
 座席:3階LB1列5番
(2016年3月12日14時半開演)


 京都市交響楽団の定期演奏会を聴くのは、2010年6月19日の第536回以来だから、約5年ぶりとなる。
 今回の定期では、奇しくもそのときと同じ高関健(常任首席客演指揮者)が、自らにとってライフワークの一つと呼ぶマーラーの交響曲第6番「悲劇的」を指揮したのだけれど、高関さんの成熟と京響の好調を感じさせる、非常に聴き応えのある演奏となっていた。

 高関さんの実演には、京都会館時代の京都市交響楽団の定期や、かつてシェフの座にあった大阪センチュリー交響楽団の定期で、度々接してきた。
 機智に富むプログラミングと、細部まで目配せの届いたオーケストラ・コントロールには、常々感心し、見通しのよい音楽を聴くことができたと大いに納得したものだ。
 ただ一方で、智に働けば−角は立たないものの、エモーションに不足するというのか、腹の底から揺り動かされるには、何かが僅かに欠けるもどかしさを感じていたことも事実である。
 例えば、先述した第536回定期で演奏された、同じマーラーの交響曲第7番「夜の歌」など、高い水準の演奏である反面、狂躁的には陥らない音楽づくりに、それが高関さんの美質と知りつつも、若干物足りなさを覚えたりもした。
 ところが、今回の「悲劇的」には、掛け値なしに圧倒された。
 と、言っても高関さんの音楽性が表面的に大きく変化したわけではない。
 それどころか、プレトークやレセプションでのトークで高関さんの言葉にもあったように、第2楽章にアンダンテ、第3楽章にスケルツォを置くなど最新の楽譜を使用し、マーラー協会とやり取りを重ねた上で、自分自身の書き込みも加える等、徹底した楽譜、ばかりか音楽の行間の読み込みは一層精緻さを増している。
 だからこそ、神は細部に宿る、ではないけれど、そうやって再現された音楽そのものが、作曲家の意図や作品の持つ正負のエネルギーを余すところなく顕現させるのである。
 マーラーが単に交響楽の優れた作曲家であるばかりではなく、秀でた劇場感覚の持ち主であることを証明する楽曲の構造構成はもちろんのこと、アンダンテ等での抒情性、旋律美、スケルツォ等での確信犯的な悪ふざけ、そしてそうした全曲を通底する劇性、悲劇性。
 マーラーの交響曲第6番「悲劇的」とはなるほどこういう音楽であったかと腑に落ちるとともに、その圧倒的な力に強く心を動かされた。

 当然、ソロ、アンサンブル両面で高関さんの意図によく沿った京都市交響楽団の充実した演奏を忘れてはなるまい。
 世評通り、京響は現在一つの音楽的なピークを迎えていると痛感した。
 それだけに、僕ら聴き手もまた、音楽の余韻をもっとたっぷり愉しめるようになって(それは、音が鳴り終わったとたん拍手をしてしまう、といった表層的なことだけではなく)、京都市交響楽団のさらなる進化を支えていければと思う。

 ああ、素晴らしかった!
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2016年02月27日

村上敏明リサイタル

☆村上敏明リサイタル

 独唱:村上敏明(テノール)
 伴奏:福田和子(ピアノ)

 会場:京都コンサートホール小ホール アンサンブルホールムラタ
 座席:1階 4列8番
(2016年2月26日18時半開演)


 京都芸術劇場春秋座等でいろいろとお世話になった橘市郎さんからお招きを受けて、橘さんが代表を務める一般社団法人 達人の館が主催する、テノール歌手村上敏明のリサイタルを聴いた。
 「魂を揺さぶる情熱の歌声!!」
 とは、公演チラシの惹句だが、それが全てを表していると言っても過言ではないだろう。
 歌声の喜び、歌声の愉しさに満ち満ちた、とても聴き応えのあるリサイタルだった。

 村上敏明は国立音楽大学声楽学科を卒業後、長くイタリアで研鑚を積んで帰国し、藤原歌劇団に所属して同団の公演に出演するほか、新国立劇場などオペラを中心に活躍している。
 2012年以降、NHKのニューイヤーオペラコンサートに連続して登場しているから、そちらでご存じの方も少なくないのではないか。
 村上さんの特性魅力は、なんと言っても強靭な声帯(しっかりとした首周り!)から生み出される声量があって、張りと伸びのある美しい歌声だろう。
 特にフォルテの高音部分では、魂とともにホール全体がびりびりと震えるかのような迫力である。
 今夜は、『帰れソレント』や『カタリ・カタリ』といったナポリ民謡に始まり、リストの難曲『ペトラルカの3つのソネット』に挑んだ一部と、日本歌曲とオペラ・アリアを並べた二部の、二部構成だったのだけれど、冒頭から喉全開という感じだったのに、歌を重ねるごとにさらにテンションが高まって、150パーセント、200パーセントのパワーとでも呼びたくなるような歌いっぷりになっていた。
 中でも、二部後半のヴェルディの歌劇『ルイザ・ミラー』から「穏やかな夜には」〜「私に祭壇と墓場が用意された」と歌劇『イル・トロヴァトーレ』から「ああ、愛しい人よ」〜「見よ、あの恐ろしい炎を」、プッチーニの歌劇『トゥーランドット』から「誰も寝てはならぬ」は、村上さんの十八番ということもあってか、手放しで興奮。
 そして、村上さんのショーマンシップが十二分に発揮された4曲のアンコール、河野進作詞、川口耕平作曲の『よかった』、プッチーニの歌劇『トスカ』から「星は光りぬ」、ヴェルディの歌劇『リゴレット』から「女心の唄」、『オー・ソレ・ミオ』(ラストの部分を最後にもう一度歌った!)には、脱帽するほかなかった。

 出会ってから15年ほど経つという関西のベテラン福田和子は、村上さんの歌唱によく沿ったピアノ伴奏を行っていた。
 ピアノ・ソロのマスカーニの歌劇『カヴァレリア・ルスティカーナ』の間奏曲(一部)、レスピーギの6つの小品から「間奏曲−セレナーデ」も、出しゃばり過ぎず退き過ぎず、滋味あふれた演奏だった。

 そうそう、ショーマンシップといえばマイクを手にしてのおしゃべりを忘れちゃいけない。
 ユーモアを交えながら、音楽の要所を簡潔に説明する村上さんのおしゃべりは、全く邪魔になっていなかった。
(福田さんもレスピーギのあとに話をされていて、予想外に軽い語り口にちょっと驚く)

 いずれにしても、足を運んで大正解のリサイタルでした。
 ああ、素晴らしかった!!
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2016年02月20日

第29回同志社女子大学学芸学部音楽学科オペラクラス モーツァルトの『フィガロの結婚』

☆第29回同志社女子大学学芸学部音楽学科オペラクラス
 モーツァルト:歌劇『フィガロの結婚』(全4幕)

 指揮:瀬山智博
 演出:井上敏典
管弦楽:同志社女子大学音楽学科管弦楽団
(2016年2月20日14開演/同志社女子大学新島記念講堂)


 夕暮れ社 弱男ユニットの藤居知佳子さんが花娘役で出演するということもあって、同志社女子大学の新島記念講堂までモーツァルトの歌劇『フィガロの結婚』の全幕公演を観聴きしに行って来た。
 あいにくの雨、それも本降りの悪天候の中、ほぼ満席の大盛況で本当に何より。
 湿度、気圧のWパンチは歌い手陣にも、オーケストラのメンバーにも辛いところだが、なべてそうしたハンディを感じさせない健闘ぶりに、まずは大きな拍手を贈りたい。

 同志社女子大学の『フィガロの結婚』といえば、学芸学部音楽学科のオペラクラスの卒業生(4年次生)をメインキャストに据えた2月、3月の恒例行事で、今年で29回目を迎える。
(なお、男性キャストは、教授講師の先生や関西二期会関西歌劇団所属のベテラン勢が演じる)
 一から自分たちで創り上げた上演、という手造り感に好感を抱いた。

 で、伯爵夫人、スザンナ、ケルビーノ、マルチェリーナの四役は声質に合わせて、幕ごと、もしくはシーンごとに4年次生が歌い分ける。
 誰がどの場面を歌うかによって、彼と我、ならぬ彼女と我の差があったように思われたし、これからオペラを生業としそうな人とそうならなさそうな人の違いも聴き受けられたが、舞台に立ってオペラを歌い演じることへの真摯さ初々しさを感じ取ることができた。
 中でも、第3幕で伯爵夫人を歌った浦山慶子(昨年7月のオーケストラ・コンサートでも接した)の声量と歌唱力が印象に残った。
 青木耕平(アルマヴィーヴァ伯爵)、井原秀人(フィガロ)、雁木悟(ドン・バルトロ)、谷浩一郎(ドン・バジリオ)、平松実留(ドン・クルツィオ)、佐藤彰宏(アントニオ。遠目だと、どじょう野田佳彦みたい)の男声陣も、そうした彼女たちをよく支えていた。

 チェンバロを兼ねた指揮の瀬山智博は、速めのテンポ設定。
 ただし、ほとんどが学部生で編成されたオーケストラのソロ、アンサンブル両面の限界を考えてか、いわゆるピリオド・スタイルを援用した強弱の変化の激しい音楽づくりは避けられていたし、男声陣も含め歌唱においても、装飾音等は加えられていなかった。
(バジリオのアリアの中で、ちょっとした「逸脱」はあったが。谷さんは爪痕を残すというか、トリッキーな役回りを美声を駆使して演じ切っていた)

 また、井上敏典の演出も、プレトークで触れられていたような社会性(革命)の芽のようなものを少しずつ仕掛けてはいたが、基本はオペラクラスの面々の歌い易さ、一定以上の水準で上演を成立させることに重きを置いたものだったと思う。
 その分、若干歌芝居としての面白さの不足、物足りなさを覚えたことも事実だが、公演の性格を考えれば充分理解はいく。
(そのことに関して、音楽大学の中で何がどこまで教えられるべきなのか? 逆に、音大生の側が学校以外の場所で何を学び取り、吸収しておくべきなのか? といったことをついつい考えてしまう。基礎の研鑚は当然学内にある。だがしかし…)
 と、記しつつ、終演後、キャストばかりかスタッフ(裏方)に先生方揃ってラストの部分を歌ったのには、じんときた。

 いずれにしても、今回の公演に参加した皆さん、特に卒業生の皆さんの今後のさらなるご研鑚、ご活躍を心より祈ります。


 そうそう、座った場所が悪くて、記録写真を撮影しているパシッパチッという音がしばらく気になって仕方なかった。
 演奏に集中しだすとそれほど気にならなくなったし、担当の人もずっとしんどそうだったので文句を言うつもりはないけれど、これは本来ゲネの際にすませておくべきことなのではないか。
 まさしく記録すべき内容だとも思うから、何がなんでもゲネですませとは言わないが。
 無料とはいえ、いや無料だからこそ留意すべきことだと僕は思う。
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2016年02月05日

神戸市室内合奏団独自の定期演奏会の回数がカウントされるようになった

 暦の上では、立春。
 ということでもないだろうが、関西のホールや劇場、楽団の2016年度の公演予定が次々と発表されている。
 ワーグナーの『ニーベルングの指環』四部作の上演など、中でも沼尻体制下のびわ湖ホールのプログラミングが非常に興味深いが、これまで日本のオーケストラの動向を付かず離れず見続け聴き続けてきた人間にとっては、神戸市室内合奏団が独自の定期演奏会(公演)の回数をカウントし始めるようになったことが非常に嬉しい。

 詳しくは、こちらの「神戸市室内合奏団定期演奏会 平成28年度シーズン・プログラム」をご覧いただきたい。

 あまりの嬉しさに、思わず主管の神戸市演奏協会にお電話をかけお話をうかがったところ、これまで合唱団の演奏会などとあわせた演奏回数しかカウント(記載)してこなかったが、2016年度のシーズン・プログラムを作成するに際して、長らく活動してきた神戸市室内合奏団の業績をさらに多くの方に知っていただくためにも独自の公演回数を記載してはということになったそうだ。
 奇しくも先日亡くなられた初代音楽監督の岩淵龍太郎さんやゲルハルト・ボッセさんとの演奏をはじめ、今年で設立35年目を迎える神戸市室内合奏団の活動を数字として表すという点で、今回の独自の演奏会回数の記載は、些細なようで実は大きな意味を持つものに違いない。

 2016年度は、現音楽監督の岡山潔さんの下、おなじみ石川星太郎さんやライナー・ホーネックさんが定期に登場する予定だ。
 神戸市室内合奏団は、1997年の野平一郎さんが指揮した定期以来接することができていなかったのだけれど、これを機に神戸まで足を伸ばしてみようかと思う。
 神戸以外にお住まいの皆さんも、よろしければぜひ。
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2015年12月31日

大阪フィルハーモニー交響楽団 第9シンフォニーの夕べ

☆大阪フィル 第9シンフォニーの夕べ

 指揮:井上道義さん
 独唱:小林沙羅(ソプラノ)、小川明子(アルト)、福井敬(テノール)、青山貴(バリトン)
管弦楽:大阪フィルハーモニー交響楽団
 合唱:大阪フィルハーモニー合唱団
(2015年12月30日19時開演/フェスティバルホール)


 ネオ落語関係の人と一緒に大阪はフェスティバルホールまで、井上道義さん指揮大阪フィルの第9シンフォニーの夕べを聴きに行ってきた。
 よくよく考えてみたら、年末にベートーヴェンの交響曲第9番「合唱付き」のコンサートを生で聴くのは6年ぶりになる。
 そして、改装されたフェスティバルホールに足を運ぶのは今回が初めて。
 いっとう安い3000円の席で、確かに演奏者陣の姿は小さく見えたが、響きは想像していた以上にクリアでシャープなもので、全く不満はなかった。
(一つ前に座った子供連れのおじさんが、やたら頭を動かしたため、せっかくの井上さんの姿がよく見えなかったのはちょと残念。そうそう、井上道義さんとフルネームに敬称を付けるのは、20年以上前に日本音楽家ユニオンのオーケストラ協議会のレセプションでご挨拶したことがあるためである。井上さんはお忘れだろうが)

 で、第1楽章から遅めのテンポ。
 最近流行りの快速スタイル(例えば、パーヴォ・ヤルヴィとNHK交響楽団のような)とは大きな違いを聴かせる。
 と、言ってもかつての巨匠風の大どかな雰囲気というのではなく、じっくりはっきり音楽の構造、音の鳴りを示すというような行き方だったと思う。
 第2楽章も同様。
 指揮の姿は情熱的だが、音楽そのものには踊り狂うような感じがない。
 旋律をたっぷりと歌わせた第3楽章から集中度が増し、福井敬をはじめとした独唱陣やよく訓練された合唱団の熱演も加わった第4楽章には大きく心を動かされた。
 いずれにしても、井上道義さんの第九との向き合い方、強い意志が表された演奏で、大阪フィルもそれによく応える努力を重ねていたのではないか。
 そして、大フィルの第9コンサートの恒例、合唱団による『蛍の光』には、感無量となった。

 やっぱり生の第九、生のオーケストラ、生の歌声、生のコンサートはいいや。
 ああ、素晴らしかった!
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2015年11月25日

来年度の京都市交響楽団の自主公演が発表された 京都国際舞台芸術祭のことも少し

☆来年度の京都市交響楽団の自主公演のコンサート情報が発表された


 来年2016年度の京都市交響楽団の自主公演のコンサート情報が発表された。
 詳しくは、楽団のホームページで確認していただければと思うが、近年の京響の好調ぶりを象徴した、均整のよくとれたラインナップではないだろうか。
(以下、会場が未記入なものは全て京都コンサートホール大ホールでのコンサート)

 まずは、シェフの広上淳一が指揮する4月の定期(15日。第600回。モーツァルトの交響曲第41番「ジュピター」、リヒャルト・シュトラウスの交響詩『ツァラトゥストラはかく語りき』他)と大阪特別公演(17日。ザ・シンフォニーホール。『ツァラトゥストラ』、サン・サーンスの交響曲第3番「オルガン付」)、9月のスーパーコンサート(11日。楽団60周年記念のツアーのしめくくりで、五嶋みどりのソロによるチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲、リムスキー=コルサコフの交響組曲『シェエラザード』他)、17年3月の定期(25、26日。第610回。マーラーの交響曲第8番「千人の交響曲」)。
 そして、今さら多くを語る必要もないチェコの遅咲きの巨匠ラドミル・エリシュカが振る10月の定期(7日。第606回。スメタナの「モルダウ」、ドヴォルザークの交響曲第9番「新世界から」他)。
 また、沼尻竜典が指揮する8月の定期(19日。第605回。三善晃のピアノ協奏曲、ショスタコーヴィチの交響曲第4番)、常任首席客演指揮者の高関健が指揮する11月の定期(26、27日。第607回。メシアンのトゥーランガリラ交響曲)、常任客演指揮者の下野竜也が指揮する17年1月の定期(21、22日。第608回。パスカル・ロジェのソロによるモーツァルトのピアノ協奏曲第25番、ブルックナーの交響曲第0番)も興味深いプログラムだし、ピリオド・スタイル万歳の人間には17年2月の鈴木秀美の定期初登場(17日。第609回。鈴木さんの弾き振りでカール・フィリップ・エマニュエル・バッハのチェロ協奏曲、ハイドンの交響曲第82番「熊」、ベートーヴェンの交響曲第5番)も嬉しい。
 定期の2回開催と1回開催の番組がちょっとだけ逆かな(4月の広上さんや、エリシュカは1回のみ)と感じたりもしないではないが、ニューイヤーコンサート(17年1月8日。角田鋼亮の指揮)やオーケストラ・ディスカバリー(川瀬賢太郎等)も含めて、聴きどころ満載だとも思う。
 ここ数年、京響のコンサートからは足が遠のいていたが、来年は京都コンサートホールに足を運ぶ機会が増えそうだ。

 そうそう、京都国際舞台芸術祭(KEX)2016SPRINGのプログラムの全容も発表されたんだった。
 こちらはいつもの如く刺激的な顔ぶれで、特にアート好きな方々には堪えられない内容だろう。
 ただ、せっかくロームシアター京都が開館になるのだから、オペラが組み込またらいいのにと思ったりもしなくはない。
 例えば、ドイツ・オーストリアやスペイン、フランスなどの歌劇場で評価され始めた若手の演出家とこれはという歌手だけを招聘して、あとは国内の音大・芸大からオーディションで選出されたメンバーなどと長期にわたって一つの公演を造り上げるとか。
 もっと手っとりばやい方法では、ロシアの地方都市ペルミで大活躍中のテオドール・クルレンツィスとムジカ・エテルナ、並びに少数の歌手を呼んで室内オペラを上演するとか。
 それにクルレンツィスとムジカ・エテルナならばバレエもいけるし。
(順当にいけば、演出は三浦基になるのかもしれない。ただ、杉原邦生のオペラ演出とか面白いんじゃないかな)
 まあ、ロームシアターでオペラとなると運営面での諸々、もっと率直にいうと小澤征爾たちとの絡みもあるだろうから、なかなか簡単に進みはしないのかもしれないが。
 でも、クルレンツィスとムジカ・エテルナならば、小澤さんと同じレコード会社(SONY)なので、まだ可能性が高いかも。

 いずれにしても、コンサート(オーケストラだけじゃなく)、オペラ、演劇、落語、映画等々、興味深いもの面白そうなもの、満遍なく通おうとするには、あまりにもお金と時間が足りない。
 来年は、ますます「厳撰」する一年になりそうだ。
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2015年07月12日

同志社女子大学学芸学部音楽学科オーケストラコンサート

☆同志社女子大学学芸学部音楽学科オーケストラコンサート

 吹奏楽指揮:関谷弘志
 吹奏楽:同志社女子大学音楽学科ウインドオーケストラ

 管弦楽指揮:山下一史
 管弦楽:同志社女子大学音楽学科管弦楽団
(2015年7月11日14時開演/同志社女子大学京田辺キャンパス・新島記念講堂)

 夕暮れ社 弱男ユニットでも活躍中の藤居知佳子さんが出演するということで、同志社女子大学の京田辺キャンパスまで同志社女子大学学芸学部音楽学科のオーケストラコンサートを聴きに行って来た。
 同志社女子大学といえば、もう15年以上も前になるか、野入志津子がゲスト出演したリュートアンサンブルのコンサートを聴いたことがあるが、あのときは小ぶりな頌啓館ホールが会場。
 新島記念講堂は千人規模の大ホールで、ほわんほわんとよく反響していた。

 で、第1部は、関谷弘志指揮による同志社女子大学音楽学科ウインドオーケストラの演奏。
 ネリベルのフェスティーヴォ、ホルストの吹奏楽のための組曲第2番、リードのアルメニアン・ダンス パートTと、ブラバン・ファンにはおなじみの作品が並ぶ。
(ちなみに、クラシック音楽のファンとブラバン・ファンには、純然たる境界があるように思う。コーラス・ファンとの間にあるような)
 オーケストラの指揮でも知られる関谷さんは、音楽の角をしっかり詰めるというか、まとまりのよいアンサンブルを築きつつ、鳴らすべきところを大いに鳴らして、半歩先に進んだようなネリベル、イギリスの伝統的な様式に則りながらソロの聴かせどころをきちんと設けたホルスト、エンタメ性に富んで愉しいリードという、各々の楽曲の特性魅力をよく表していた。
 ウインドオーケストラもそれによく応えて、響きのよい演奏を披露する。

 休憩を挟んで第2部は、山下一史指揮の管弦楽団とソリストたちの協演。
 まずは、フルートの長谷川夕真とハープの松井夕佳の独奏でモーツァルトのフルートとハープの協奏曲の第1楽章と第3楽章が演奏されたが、作品の持つインティメートな雰囲気がよく再現されていたと思う。
 特に、単に技術的に完璧に吹きこなすというのではなく、「笛を吹く」楽しさ心地よさをうかがうことのできた長谷川さんのフルートに好感を覚えた。

 続いては、ソプラノの浦山慶子が、ドニゼッティの歌劇『ドン・パスクヮーレ』からノリーナのアリア「騎士はあの眼差しを」を歌う。
 女性の恋心を歌った軽快でコケットリーなアリアで、平場というか語りが勝った箇所では少しだけたどたどしさを感じたものの、高音部分では浦山さんの澄んで伸びのある声質がいかんなく発揮されていた。

 メゾソプラノの藤居知佳子さんが歌ったのは、サン=サーンスの歌劇『サムソンとデリラ』からデリラのアリア「あなたの歌声にわが心は開く」。
 藤居さんの声量の豊かさは夕暮れ社の公演ですでに承知していたけれど、今回大ホールで耳にして、さらにそのことを痛感した。
 サムソンに愛を訴えながら、それが大きな策略となっているという一筋縄ではいかないアリアだが、藤居さんは幅が広くて深みのある声と真摯な感情表現で充分に納得のいく歌唱を繰り広げていた。
 強弱など、細部のコントロールが一層の緻密さを増せば、さらに活躍の場が増していくように思った。

 第2部最後は、林あゆみのピアノ独奏で、シューマンのピアノ協奏曲の第1楽章が演奏される。
 林さんの演奏スタイルもあって、作品の持つ歌唱性叙情性よりも、ヴィルトゥオージ性をより感じた。

 再び休憩を挟んだ第3部は、山下一史指揮の管弦楽団がシューマンの交響曲第1番「春」に挑んだ。
 外枠をしっかり固めるというか、弦管ともに厚みのある音色を築いた上でエネルギッシュにパワフルに鳴らす山下さんの音楽づくりは、相対するオーケストラが技術的に高い場合、作品によっては幾分表層的に聴こえるきらいがなくはなく、例えば京都市交響楽団第528回定期演奏会(2009年9月4日/京都コンサートホール大ホール)のシューマンの交響曲第2番など、強奏がよい意味での狂奏になりきらないもどかしさを感じたりもした。
 だが、今回の場合、アンサンブルを一から丁寧に造り上げていかなければならないという制約が、山下さんの特性をひときわプラスに働かせる結果となっていたのではないか。
 若干ごたついて聴こえる箇所もなくはなかったが、作品の構造や劇性はよくとらえられ、再現されていたと思う。
 ソロの部分を含めて、オーケストラも大健闘だった。
 第1楽章の繰り返しなどの省略も、コンサートの時間(3時間近く)を考えれば適切だろう。

 アンコールは、ブラームスのハンガリー舞曲第1番。
 上述した時間の関係上、相当まきの入った演奏だったが、土台がしっかりしている分、良い意味であおりがついてドラマティックな仕上がりとなっており、わくわくすることができた。

 と、予想していた以上に密度が濃くて、聴き応えのあるコンサートだった。
 ああ、面白かった!
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2014年08月14日

フランス・ブリュッヘンのこと

☆フランス・ブリュッヘンのこと


 昔、四条通から木屋町通を南側・五条京都駅方面に少し入ったところに、コンセール四条というクラシック音楽専門のレコード・ショップがあった。
 大学に入ってすぐのことだから、もう25年以上も前になるか、長崎にいた頃から『レコード芸術』の広告で見知っていたこの店に僕は足を運び、アルバイトを募集していませんかと突然口にした。
 お店のご主人は、「今、人が足りてるんですよ」と申し訳なさそうに応えたが、こちらがあまりに無念そうな表情をしているからだろう、「本来一人でやるものだから、アルバイト料は払えませんが、試しに物販の手伝いをしてみますか。まあ、手伝いといっても長椅子を並べたり片づけたりする程度だけど」と言葉を続けた。
 そうして手伝いに出かけたのが、完成したばかりの京都府長岡京記念文化会館で開催されたフランス・ブリュッヘン指揮18世紀コンサートの来日コンサート(1988年5月20日。このコンサートがこけら落としだったかもしれない)だった。
 物販の手伝いなのだから、当然音楽のほうは聴けないと思い込んでいたら、ご主人が1曲目のハイドンの交響曲第86番が終わったところで、「協奏曲だけど聴いてきたらいいよ」と言ってくれたのである。

 ブリュッヘンが亡くなったことを知ってすぐに思い出したのも、あのときのことだ。
 あのときは、コンラート・ヒュンテラーがソロを務めたモーツァルトのフルート協奏曲第1番を聴くことができたのだが、初めて生で接するオリジナル楽器の質朴な音色を愉しんだという記憶が残っている。
 その後だいぶん経ってから、ヒュンテラーとブリュッヘン&18世紀オーケストラはモーツァルトのフルート協奏曲集のCDをリリースしたのだけれど、あの時ほどの感慨を覚えることはなかった。
(その間、ヨーロッパ滞在中にオリジナル楽器による演奏や、ピリオド・スタイルによる演奏に慣れ親しんだということも大きいと思う)
 それにしても、ブリュッヘンの実演に接することができたのは、結局あの一曲限りになってしまった。

 1934年10月30日にアムステルダムで生まれたフランス・ブリュッヘンは、はじめリコーダー、フラウト・トラヴェルソ(フルートのオリジナル・スタイルで、まさしく木管)の名手として活躍した。
 その後、指揮者に転じ、1981年にはオリジナル楽器のオーケストラ、18世紀オーケストラを結成し、母国オランダのPHILIPSレーベルから数々のCDをリリースするなど、世界的に脚光を浴びた。
 また、モダン楽器のオーケストラの指揮にも進出し、最晩年には新日本フィルとも何度か共演を果たしていた。

 ブリュッヘンの音楽の特徴をどう評するべきか。
 ちょっと観念的な物言いになって嫌なのだが、それは、リコーダーにせよフラウト・トラヴェルソにせよ、指揮にせよ、彼自身が信じる音楽の真髄(神髄)を綿密真摯に再現するということに尽きるのではないか。
 例えば、同時期にオリジナル楽器の一方の雄として立ったニコラウス・アーノンクールのような、激しい強弱やアクセントの変化を多用してアクの強い音楽を確信犯的に再現する行き方とは、一見対極にあるように感じられるブリュッヘンだが、その実、自らの核となるものを遮二無二再現するという意味では、やはり相似たものを僕は感じずにはいられない。
 オリジナル楽器とモダン楽器の共演というコンセプト云々以前に、音楽の持つ尋常でなさとブリュッヘンの意志の強さとが絡み合ったベートーヴェンの交響曲第9番「合唱付き」、青空の中に薄墨色の雲が時折混じっていつまで経っても消えないようなシューベルトの交響曲第8番「ザ・グレート」、ハイドンの音楽の活き活きとした感じがよく表わされた交響曲第86番&第88番<いずれもPHILIPS>。
(表現のあり様の違い、オーケストラの向き合い方の違いもあって、ブリュッヘンはアーノンクールやロジャー・ノリントンらほどには、いわゆるメジャー・オーケストラとは共演していないのではないか。その分、オランダ放送室内フィルやノルウェーのスタヴァンゲル交響楽団といったオーケストラと興味深い演奏活動を繰り広げてもいたが)

 ただし、僕自身は、ブリュッヘンのあまりよい聴き手だったわけではない。
 と、いうのも一つには、ブリュッヘン指揮のCDのほぼ全てがライヴ録音によるものだったからだ。
 単に好みの問題ではあるのだけれど、初めの頃のような拍手つきの一発録り(たぶん)ならばまだしも、ライヴ録音を継ぎ接ぎするという行為になんとも曰く言い難い割り切れなさを感じる。
 おまけに、交響曲第29番&第33番<PHILIPS国内盤>での弦楽器のみゅわみゅわみゅわみゅわした音色がどうにも気持ち悪く、以来ブリュッヘンのCDは敬遠しがちだった。

 それならば実演で。
 と、いうことになりそうなのだが、上述したヨーロッパ滞在中(1993年9月〜1994年3月)にもブリュッヘンの生のコンサートに接する機会はなく、それ以降も結果としてブリュッヘンの実演を耳にする機会は逸してしまった。

 数年前、最初の新日本フィルへの客演が決まった頃から、音楽関係の何人かの方に「ブリュッヘンはもう危ない」といった趣旨の話を聞かされていた。
 昨年の来日が告別の挨拶代りのものであったということや、18世紀オーケストラの解散、それからyoutubeでアップされた彼の最近の姿を目にし、その音楽を耳にするに、彼の死は充分予想されたものだった。
 だから、先日のロリン・マゼールの死ほどに激しい驚きを与えられることはなかった。
 けれど、何か大きなものを失ってしまったという重さを強く感じたことも事実である。
 そしてそれは、彼の実演を避けて来た自分自身のとり返しのつかなさ、深い後悔とも大きくつながっている。

 昨夜、彼の死を知ってから、2013年7月14日にアムステルダム・コンセルトヘボウで行われたオランダ放送室内フィルの解散コンサートでの演奏をRadio4の音源とyoutubeにアップされた動画で繰り返し聴いた。
 マルティン・ルターによる讃美歌『神はわがやぐら』を引用したヨハン・セバスティアン・バッハのカンタータ第80番とメンデルスゾーンの交響曲第5番「宗教改革」には、音楽的な関連性云々ばかりでなく、オランダ放送室内フィル解散への「プロテスト」を感じる。
 そして、日本の最後の客演でも演奏されたアンコールのヨーゼフ・シュトラウスの『とんぼ』。
 幾重にも別れを告げているかのようで、なんとも美しく哀しい。

 深く、深く、深く、深く黙祷。
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2014年02月15日

フライブルク・バロック・オーケストラの来日コンサート(ブランデンブルク協奏曲全曲)

☆フライブルク・バロック・オーケストラ
 J.S.バッハ:「ブランデンブルク協奏曲」全曲

 演奏:フライブルク・バロック・オーケストラ
 音楽監督:ペトラ・ミューレヤンス、ゴットフリート・フォン・デア・ゴルツ
 会場:京都コンサートホール大ホール
 座席:3階 LB−1列9番
(2014年2月14日19時開演)


 雪は降ったし、寒さは厳しいし。
 どうしよっかなあ、正直バッハって言うほど好みじゃないし。
 と、一応当日券の有無は確認しておいたものの、迷いに迷ったコンサートだったが、先頃ハルモニアムンディ・フランス・レーベルからリリースされたフライブルク・バロック・オーケストラが演奏したブランデンブルク協奏曲のCD録音のさわりをネットで試聴して、初志貫徹、これは聴いておくべしと決断した。

 で、やっぱり足を運んで大正解。
 音楽の愉しみに満ちあふれた、とっても聴き応えのあるコンサートだった。

 今日は、ホルン2にオーボエ3、ファゴットと編成の大きな第1番に始まり、ヴァイオリン抜きでヴィオラ・ダ・ガンバが混じった極小編成の第6番、トランペット、オーボエ、リコーダー、ヴァイオリンがソロを務める第2番(ここで休憩)、弦楽器のみの第3番、チェンバロ、フラウト・トラヴェルソ、ヴァイオリンのソロによる有名な第5番、そしてリコーダー2本とヴァイオリンがソロの第4番という順番で全曲が演奏されたが、ソロとリーダーを分けあったヴァイオリンのミューレヤンスとフォン・デア・ゴルツのもと、ピリオド楽器の腕扱き奏者が集まったフライブルク・バロック・オーケストラは、スタイリッシュでスポーティー、なおかつインティメートな雰囲気も豊かなアンサンブルでもって、バラエティに富んだブランデンブルク協奏曲の要所急所、音楽のツボ(例えば、音楽の舞踊性であるとか)を巧みに押さえた優れた演奏を生み出していた。
 また、トランペットやトラヴェルソ、リコーダー、チェンバロといったソロの名技に加え、それを支える楽器との掛け合いも見事で、ああもっともっとこの音楽、この演奏を聴いていたいと思ってしまったほど。
 2時間があっという間に過ぎてしまった。

 しかも、これだけ愉しめたというのに、チケット料金はたったの3500円!
 一番高い席でも4500円。
 お客さんの入りがあまりよくなかったのが、本当に申し訳ないくらい。

 ああ、面白かった!
 ああ、愉しかった!
 ああ、素晴らしかった!

 そして、できれば今度はフライブルク・バロック・オーケストラが演奏する古典派や初期ロマン派の作品にも接してみたい。
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2013年12月07日

活き活きとしたモーツァルト 二重奏&ソロの光と影

☆モーツァルト 未来へ飛翔する精神
 3・二重奏&ソロの光と影

 フォルテピアノ:アンドレアス・シュタイアー
 ヴァイオリン:佐藤俊介
(2013年12月6日19時開演/いずみホール 2階RB列20番)

 *招待


 今年度、いずみホールが企画主催している「モーツァルト 未来へ飛翔する精神」シリーズのうち、その第3回目にあたる、二重奏&ソロの光と影を聴きに行って来た。
 実は、応募ハガキを送って招待券が当たったからなのだけれど、3年ぶりのコンサートに、まずは「生の音楽ってやっぱりいいな」というのが率直な感想。
 そして、これは掛け値なしに愉しく面白いコンサートだった。

 あいにくケルン滞在時には聴き逃したアンドレアス・シュタイアーといえば、1996年10月2日・京都コンサートホールでの、クリストフ・プレガルディエン(テノール)とのシューベルトの『冬の旅』をすぐに思い起こすが、あの時同様、ソロを支えつつ、自らも鋭い読み込みであるは雄弁に語りあるは柔らかに優しく歌いと、見事な演奏を繰り広げていた。
(まあ、この当時のヴァイオリン・ソナタといえば、鍵盤楽器のほうに力点が置かれていたりもするんだけど)
 一方、ヴァイオリンの佐藤俊介も、抑えるところはきちんと抑えつつ、主張するところはしっかり主張して、シュタイアーとインティメートな雰囲気に満ちていながら、よい意味での距離感も保ったデュオを生み出していた。
 前半のK.303とK.304のソナタでは、作品の持つ性質にあわせてクラシカルなアプローチを心がけ、後半の「ああ、私は恋人をなくした」の主題による6つの変奏曲(終盤の追い込み)、K.306のソナタ(軽快で陽性)では、モダン楽器での蓄積を活かしてロマンティックな表情づけも行うなど、その才気を充分に感じた。

 また、前半の2曲目に、シュタイアーのソロで、ピアノ・ソナタ第8番イ短調が演奏されたが、急緩急というテンポ設定を明確に意識した劇性に富んだ音楽となっていた。
 楽器の特性(限界)もあって、正直スリリングな箇所もあったのだけれど、だからこそ楽曲の構造、音楽の造りがよく見通せたことも事実であり、しかもそれが単なる学識の提示に終わらず、作品の持つ感情面での変化、及びシュタイアー自身の強い表現欲求、作品との向き合い方と密接につながっている点に深く感心し深く感嘆した。

 いずれにしても、長調と短調を組み合わせるなどモーツァルトの作曲内容の如実な変化にも配慮した意欲的なプログラムも素晴らしく、生命感にあふれて活き活きとした音楽を愉しむことができ、本当に満足がいった。
 ああ、面白かった!

 なお、アンコールはK.380のソナタの第2楽章。
 使用楽器は、フォルテピアノが2002年製作のアントン・ワルター・モデル(1800年頃、ウィーン)のレプリカ、ヴァイオリンが2009年パリ製作のバロック・ヴァイオリンである。
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2010年09月17日

大阪センチュリー交響楽団の日本センチュリー交響楽団への改名を知って

 さる9月12日、大阪センチュリー交響楽団のコントラバス奏者奥田一夫さんが亡くなられた。
 コンサートは別にして、僕自身、奥田さんと直接お目にかかる機会はほとんどなかったが、そのお人柄とオーケストラにかける熱意については、友人知己から幾度となく耳にしていた。
 まだ57歳での死。
 深く、深く、深く、深く、深く黙祷である。
(奥田さんがマウンテンバイクを運転中に事故で亡くなられたことを知ったとき、僕はすぐに、日本フィル事務局におられた中島賢一さんのことを思い出した。演奏者と事務方の違いはあったにせよ、お二人ともオーケストラをこよなく愛された方たちだったと思う)


 ところで、奥田さんが所属されていた大阪センチュリー交響楽団が来年4月から日本センチュリー交響楽団に名前を変えるということが、今朝の朝日新聞朝刊に報じられている。
 橋下大阪府知事の「改革」の名の下、大阪センチュリー交響楽団への補助金が打ち切られる中、なんとか楽団の生き残りをはかった結果が、今回のこの改名なのだろう。
 名称その他、様々に考えることはあるのだが、まずは大阪センチュリー交響楽団改め、日本センチュリー交響楽団の今後の活動を、一人のオーケストラファンとして応援していきたいと考える。


 ただ、「将来は76人編成への拡大を目指す」というオーケストラの目標に対しては、やはりどうしても疑問が残る。
 朝日新聞の記事にもあるように、センチュリー交響楽団の持ち味は、「55人編成と小規模だが、精密で透明度の高いアンサンブル」というところにあるのではないか。
 プログラムによって編成が拡大すること、エキストラを入れることは当然仕方ないとしても、何ゆえ常時76人の編成を目指さなければならないのだろう。
 もしそれが、前々からの発言の通り、現音楽監督小泉和裕さんの強い意志によるもので、彼がギャラの多くを返上し、この日本センチュリー交響楽団と心中する覚悟でそれを目指すというのであれば、僕はそれはそれで大いに納得するところであるが。
(オーケストラにかぎらず、自らが率先して何かを為そうとする場合は、その何かと心中するぐらいの覚悟、もしくは最後の最後になってちゃぶ台をひっくり返すぐらいの覚悟がなければ事は為せない、逆に言えば、ちょっとしたことで逃げを打つようでは事は為せない、と最近僕は強く思う。もちろん、これは僕自身の自省の言葉であるのだけれど)
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2010年06月20日

京都市交響楽団第536回定期演奏会

 ☆京都市交響楽団第536回定期演奏会

  指揮:高関健

  会場:京都コンサートホール大ホール
  座席:2階P5列23番(休憩前)、3階LB2列3番(休憩後)


 高関健という指揮者の名前を耳にしてまず思い出すことといえば、かつての大阪センチュリー交響楽団時代の知的で洗練されたプログラムと演奏の数々である。
 その高関健が、京都市交響楽団の定期演奏会でウェーベルンの管弦楽作品とマーラーの交響曲第7番「夜の歌」をとり上げるというので、迷わず聴きに行って来た。

 会場に足を踏み入れて、舞台上の楽器やら何やらの数の多さに圧倒される。
 いや、演奏される作品が作品だけに、頭ではある程度想像していたのだけれど。
 やはり、百聞(百想)は一見に如かず、か。

 一曲目は、ウェーベルンの管弦楽のための5つの小品。
 ただし、管弦楽とは称しつつも、これは非常に刈り込まれた小編成による作品。
 ウェーベルンらしい点描画的短詩的な音楽を、高関さんと京響のピックアップメンバーが巧みに再現していた。

 続く二曲目は、同じくウェーベルンの大管弦楽のための6つの小品。
 こちらはタイトルに偽りなし。
 まさしく大編成による作品で、先の5つの小品と同様のスタイルなのだけれど、「大管弦楽」を活かして音量、音響、音色の面で、様々な仕掛けが施されている。
 音楽とのつき具合慣れ具合というものは感じさせつつも、作品の構造や聴きどころをしっかり押さえた演奏になっていたのではないか。
 てか、ウェーベルンをこうして生で聴くことができるだけでも嬉しいかぎり。

 そして休憩後は、本日のメイン、マーラーの交響曲第7番「夜の歌」。
 「夜の歌」なんだから、夜に聴きたかった。
 なんて無茶なことは言わないことにする。
 なにしろ、ウェーベルンと同じく、この交響曲を生で聴くことができるだけでも嬉しいかぎりなのだから。

 そうそう、余談だけれど、細々と記し続けているオーケストラのコンサート記録のノートで確認したが、マーラーの交響曲第7番の実演に接するのは、1990年5月20日のギュンター・ヘルビッヒ指揮トロント交響楽団の大阪公演(どうにもバブルの臭いがする)以来だから、なんと20年ぶりということになる。
 それ以後も、CDでは何度も耳にした作品だが、これは生でないとちょっと白けてしまうというか。
 今では、大好きなブラームスの8つのピアノ小品作品番号76−2(カプリッチョ)にどことなく音型が似ていることもあって、第4楽章(二つ含まれた「夜の歌」のあとのほう)だけを聴くことが多くなった。

 で、マーラーの交響曲第7番に関して、ここで無い知恵を振り絞ってぐだぐだくどくどと書き記すことはしない。
 非常に大がかりで、非常に大げさ(フィナーレの狂躁ぶり!)、しかも過度にロマンティックで、先述した第4楽章のように親密な雰囲気を醸し出しつつ、一方で諧謔的な志向も事欠かない。
 まったくもって一筋縄ではいかない、実に厄介な交響曲だ。

 高関健と京都市交響楽団は、そうした作品の持つ魅力(それは音量的なものもあれば、旋律的なものでもあり、さらに構造的なものでもある)を丁寧に、なおかつ破綻なく表現しきっていたように僕は思う。
 作品が作品だけに、どうしてもとっちらかった印象を与えてしまう部分や、ライヴ特有の傷もなくはなかったが、終楽章の大騒ぎを聴きながら、「生きること、死ぬこと」についてあれこれ感じ考えていると、そんな細かいことどうでもよくなった。
 管楽器、弦楽器、打楽器(第4楽章のギターにマンドリンも含む。それと、ヴィオラのソロは菅沼準二さんだったのか。どうりで)、なべて大健闘。

 終演後の熱くて力強い拍手を耳にしながら、ああやっぱり生のコンサートはいいなと改めて痛感した次第。
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2010年05月22日

京都市交響楽団第535回定期演奏会

 ☆京都市交響楽団第535回定期演奏会

  指揮:広上 淳一
  独奏:ボリス・ベルキン(ヴァイオリン)

  会場:京都コンサートホール大ホール
  座席:2階P−4列32番(休憩前)、3階LB−2列4番(休憩後)


 私事で恐縮だが、ってここの文章そのものが私事だけれど、シューマンの交響曲第3番「ライン」を聴くと、どうしても15年以上前のケルン滞在中のことを思い出してしまう。
 と、言うのも、ケルンがライン河畔の大都市だから、ということももちろんあるが、それより何より、この曲の第5楽章のパパーパーパーパパーパーパーというファンファーレがケルンのフィルハーモニーの開演近くを知らせる音楽として使用されていたからだ。
 で、今日も「ライン」のその箇所を聴きながらケルンに住んでいた頃のことがいろいろと思い出されて、なんとも言えない気持ちになった。

 まあ、それはそれとして。

 今夜は、北山の京都コンサートホールまで、京都市交響楽団の第535回定期演奏会を聴きに行って来た。
 指揮は常任の広上淳一で、シューマンの交響曲第3番「ライン」にチャイコフスキーの幻想曲『フランチェスカ・ダ・リミニ』、ボリス・ベルキンをソロに迎えたブラームスのヴァイオリン協奏曲というプログラム。

 まずは、シューマンの交響曲第3番「ライン」だが、広上さんのプレトークによると、どうやら京都市交響楽団の自主演奏会では、今日が初めての演奏とのこと。
 それが原因ということもあるまいが、同じ広上さんの指揮で聴いた大阪フィルとの演奏(第399回定期演奏会。2006年6月15日)に比べると、あちらのそれいけどんどん調のパワフルなのりに対し、今日の京響はいくぶん重心が低く、細部まで丁寧に腑分けが行われた演奏という印象を持った。
(例えば、第1楽章では、のちのブラームスへの影響がよくわかったりした)
 ライヴ特有の傷もなくはなかったが、一気呵成のフィナーレなど、広上さんらしいドラマティックで爽快な音楽が生み出されていたとも思う。

 休憩を挟んで、二曲目はチャイコフスキーの幻想曲『フランチェスカ・ダ・リミニ』。
 ダンテの神曲中の愛憎もつれて嗚呼無情といったヨーロッパではおなじみのエピソードを音楽化した作品で、これはもうオーケストラの醍醐味を満喫することができた。
 CDなんかで聴くと、どうにもうるさくて心むなしうなることもときにあるのだが、そこは生。
 大団円のくどさもなんのその、オーケストラの全ての楽器が鳴りきる魅力は、やはり何物にも代え難いと痛感した次第。
 抒情的な部分での情感あふれるクラリネットをはじめとした管楽器のソロもなかなか見事で、硬軟・強弱両面で聴き応えのある演奏に仕上がっていた。

 そして、メインのブラームスのヴァイオリン協奏曲。
 ボリス・ベルキンといえば、今から20年以上も前に同じ京都市交響楽団の定期演奏会(第310回。1989年1月27日)でショスタコーヴィチのヴァイオリン協奏曲第1番を聴いたことがあるが、確かショスタコーヴィチのけっこう込み入った音楽を鬼気迫る勢いで演奏していたような記憶があるような、ないような。
(同じ日、ショスタコーヴィチの交響曲第15番の第1楽章で、指揮の井上ミッチーがいつもの如く踊り狂っていたことはより鮮明に覚えているのだが)
 今回のブラームスは、そのときに比べると、いくぶん落ち着いたというか、テクニックももちろんだが、それより音色と雰囲気で聴かせるという感じが強かったように思った。
 若干、音が細いように感じられもしたが、カデンツァなどの美しさはやはり印象に残る。
 広上さん指揮の京響は少し粗さを感じる部分がありはしたものの、ボリス・ベルキンのソロに伍して堂々たる演奏を行っていたのではないだろうか。

 いずれにしても、生でオーケストラを聴く愉しみを改めて強く感じたコンサートだった。
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2010年05月04日

読売日本交響楽団名曲シリーズ(大阪公演)

 ☆読売日本交響楽団名曲シリーズ(大阪公演)

  指揮:シルヴァン・カンブルラン

  会場:ザ・シンフォニーホール
  座席:2階 RC列4番


 他人には開場45分前にはどうのこうのと偉そうなことを言っておきながら、いざ蓋を開けると自分がちんたらちろりろと遅れてしまってはいけないと思い、開場30分前の16時半ごろにザ・シンフォニーホールに着いたのだが、いや皆さんよくわかってらっしゃる。
 招待状のチケット交換窓口の前に並ぶわ並ぶわ、すでに30人ほどの人が列をつくって並んでいた。
 一瞬その列の長さと当日券売切れの立て札になんともいえない気持ちになりつつも(結局それほど多くはなかったが、最後までいくつか空席が残っていた)、主催者側による並ぶ人たちへの冷たいお茶のサービスという心遣いや、チケット交換を15分繰り上げて16時45分に開始するという機転には大いに感心した。
(「やはり読売やなあ」という声が他のお客さんから漏れていた)

 で、先日来の当方の言動も含めて、担当の方に一言詫びておかなければと思い、主催者側の男性の方(事務局の人か?)に声をかけたが、どうにも忙しそうなので休憩時にでもまたと断り、その場をあとにする。


 さて、読売日本交響楽団の新しい常任指揮者シルヴァン・カンブルランのお披露目公演でもある本日のコンサートの一曲目は、バルトークの2つの映像。
 どちらかといえば、後期ロマン派、フランス印象派の影響が色濃い作品で、第1曲の「花ざかり」は、カンブルランは音楽のアトモスフェアとムードをよく掴んでいるように思ったが、オーケストラとのさぐり合い状態というか、特に管楽器など若干アンサンブルのまとまりに欠ける演奏となっていた。
 一方、第2曲の「村の踊り」では、強奏時のパワフルな表現や軽快な音の動きを愉しむことができた。

 続いては、モーツァルトの交響曲第41番「ジュピター」。
 いわゆるピリオド・スタイルの援用に、フレーズの処理やパウゼにおける仕掛けなど、読売日本交響楽団はカンブルランの意図を表面的には適切に汲んでいて、例えば第4楽章ではスポーティーでスピーディーな表現を行っていたと思うし、管楽器のソロなども含めて、時折音楽の美しさに惹き込まれそうになるときもあった。
 その反面、これは座った場所の関係もあるかもしれないが、弦楽器がやけにきつく聴こえてしまったことも事実だし、それより何より、カンブルランが本来イメージしているほどには音楽の愉悦感や活き活きとした感情をオーケストラの側が表現しきれていないもどかしさを感じてしまったことも事実だ。
 むろん、こうした点は、今後カンブルランとの共同作業を重ねていくことで、徐々にクリアされていくものと信じてもいるが。


 休憩中、開演前に声をかけた男性に再び声をかけると、読売新聞の企画事業部の担当の方はすでに帰ってしまったとのこと、さらにこちらに電話をくれた上司の方も誰かわからないとの返事がある。
 別の男性が口を挟んだときの仕草や表情や、こちらがその場を離れたあとに偶然、その男性が別の男性に耳打ちをしているのを観てしまったことから、いろいろと察することはあったが、もとはといえばこちらの言動にも問題があることゆえ、終演後、別の女性に「よろしくお伝え下さいますよう」と伝言するに留めた。
 連休明けにでも電話をし、さらに手紙を認めておこうとも思う。


 休憩後は、メインのストラヴィンスキーのバレエ音楽『春の祭典』。
 演奏開始とともに、おっさんとおぼしき人物の大きないびきの音が響いて、もしやこのおっさんは招待の客ではないだろうな、と少しいたたまれなくなったが…、これはまあ仕方ない。
(でも、テレビの放映時はどうするんだろう)
 その影響もあってか、はじめのほうでは若干アンサンブルが不安定だったが、徐々にエンジンがかかってきたようで重心の低い、力のこもった熱演を繰り広げていた。
 ただ、個人的には、ちょっと重たすぎるかなと感じた部分もあったりしたのだけど。
 重たさと言っても、ロシア的土俗的な重たさなんかではなく、もっと都会的な、言い換えれば、ヴァレーズの作品を思い出すようなとっちらかった重たさというか。
 いずれにしても、この曲の「現代性」と「難しさ」を再認識させられた。

 満場の拍手に応えて、アンコールは同じくストラヴィンスキーのサーカス・ポルカ。
 途中シューベルトの軍隊行進曲のいびつな引用も飛び出すユーモラスな小品で、肩の力が抜けた演奏ともども、よいアンコールのチョイスだったのではないか。


 なにはともあれ、カンブルランと読売日本交響楽団に一層密度が濃くて一層充実した関係が築かれることを心より祈りたい。
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2010年05月01日

招待するならゲネプロに?  もしくは、中瀬宏之の本音を申せば

 中学の3年生以来だから、ほぼ25年もの間コンサートに足を運び続けていると、だいたいコアなクラシック音楽ファン(コンサート・ゴア)と呼ばれる人種の心の動きは、手に取るようにわかるようになってくる。
(ちなみに、僕は自分自身のことをコンサート・ゴアだとは思っていない。もう一つ言えば、シアター・ゴアとも思っていない)

 例えば、招待客へのちょっとしたジェラシーだとか。
 いわゆる関係者に対してもそうだけど、新聞やらホームページやらのプレゼントコーナーで運よく招待券を手にした、あまりクラシック音楽に通じていなさそうなお客さんに対する、「なんであんたらここにおんの」と軽く突っ込みを入れたくなるような気持ちは、身銭を切ってコンサートに通い詰めている人ならば、一度は感じたことはないだろうか?
 それも、チケット料金がけっこう高くて、しかもファンなら絶対に聴き逃せないあの指揮者やあのソリストが登場するコンサートならば。
(ことこのことにかぎらず、生身の人間だもの、ジェラシーがあること自体、僕は仕方がないことだと思う。問題なのは、それを面と向かって陽性に毒づくこともできず、かといって、自分の気持ちを隠しおおせることもできず、結局正論を装ってねちねちねちねちと相手を攻撃することではないか。あと、一番怖いのが、自分にはジェラシーなんて一切ないと信じ込んでいる人間の無意識のジェラシー!)

 だから、今回の読売日本交響楽団の大阪公演の招待状で問題が起こったとき、読売日本交響楽団のチケットセンターや昨夜の読売新聞大阪本社の企画事業部の方との電話で強調したのは、いったん招待客のための席は設けられないと決まったのであれば、無理に割り込んでまで自分の席を確保したいわけではないということだった。
(いやごとめかしてここには書いたが、そこらあたりに関しての自分の判断は、一応記しておいたつもりだ)

 ただ、一方で、シルヴァン・カンブルランの読売日本交響楽団の常任指揮者就任のお披露目コンサートを聴けるという願ってもないチャンスをみすみす棒に振るのも悔しいかぎり。
 僕がどうにも残念に感じたことも、それこそコアなクラシック音楽ファン、特にオーケストラのファンの方なら、ある程度は理解してもらえるものとも思う。

 そこで、手ごねハンバーグじゃあるまいしごねごねごねて自分だけコンサートに潜り込むような卑劣漢となることなく、なおかつ当日券を手に入れたいと願う人たちの想いをできるだけ適える(なぜなら、招待客が減れば、その分当日券に回せるので)という方法はないかということで、一つ思いついたことがあった。
(というか、はじめに電話をもらった段階ですぐにひらめいたのだけれど、担当のYさんに説明してもたぶんわかってもらえなさそうだったので、改めて直接読売日本交響楽団のほうに電話をしたのである)

 で、このことは昨夜読売新聞の方にも話したことだし、もはや実現の可能性もなさそうなのでこの場で明かしてしまうと、それは、招待状や招待券を送った人たちにかぎってゲネプロを公開するということだ。
 むろん、ゲネプロだから、まるまるコンサートのままというわけにはいかないし、指揮のカンブルランや読売日本交響楽団のメンバー、さらには関係者一同の承認が必要なことは重々承知しているが、招待状や招待券を持った人を門前払いにしたり、逆に当日券が出なくなってしまうよりも、まだましなのではないかと僕は思ったのである。
(加えて、このコンサートではテレビ撮影も予定されているから、その「プロ―べ」に接する愉しみまであるわけだ)

 それと、ここでみそなのは、(こうやって中瀬宏之が提案者であるにもかかわらず)これを、招待状や招待券に関する一連の経緯を耳にしたシルヴァン・カンブルランが自分から「ゲネプロを公開したらどうか?」と提案したという体にするということだった。
 そうすれば、招待状・招待券に関する読売新聞側の不手際を謝罪しつつ、「カンブルランの決断」といった記事をホームページに掲載できるだろうから、「カンブルランってええ人やん」と新常任指揮者のイメージも上昇し、まさしく災い転じて福となすこともできる。
 もちろん、やらせっちゃやらせだけど、これぐらいなら「メディア戦略」の一端、許容範囲のうちなんじゃないかな。
(しかも、あくまでもこれって僕の妄想だしね。それに、カンブルランが「そんな嘘はつけない」といえばいったで、彼の人柄がわかるチャンスになるし)

 それにしても、昨夜読売新聞の方とも少し話しをしたが、チケットの売れ行きを読むというのは大切なことだ。

 単に読売新聞の購読者(あまりクラシック音楽を聴かない)に読売日本交響楽団というオーケストラの存在を知らしめるためだけなら、例えば外山雄三や手塚幸紀、円光寺雅彦や梅田俊明といった手堅い日本人指揮者を起用してもなんの問題もない。
 それこそ心おきなく招待状や招待券を送りまくればいい。
(あっ、これは読売新聞の方には話したことではないので)
 けれど、残念ながらここに挙げた指揮者の顔触れだと、クラシック音楽の熱心なファンが集まりにくいだろうから、今度は読売日本交響楽団のコンサートが事業として成り立たない。
 まあ、上記指揮者のコンサートであれば、一般学生問わず、開演10分前から全ての残席を1000円で売り出せばいいと、僕なんかは思ってしまうけど。
(それだったら、僕も並ぶし)
 でも、そうしたらそうしたで、前売り券を購入したお客さんがジェラシーを持つだろうからなあ。
 ほんと、物事は簡単ではない。

 いずれにしても、今回の読売日本交響楽団の大阪公演は別として、オーケストラのコンサートの招待状や招待券を出すならばゲネプロに、というアイデア、関係者の皆さんにご高察いただければ幸いである。


 *追記
 過去のあれこれを僕も全く知らないわけではないし、僕自身、実はあまりそういう「売り方」は好きじゃないんだけど、今読売日本交響楽団が指揮台に上げるべき日本人の指揮者は、もしかしたら山岡重信なのではないかとふと思う。
 ただし、万一実現しても、定期演奏会ではなく、東京芸術劇場でのコンサートや深夜の音楽会の公開録音ということにはなるだろうが。
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2010年04月30日

速報:読売日本交響楽団大阪公演の招待状は無効というわけではなかった!!

 今さっき、読売新聞大阪本社の企画事業部の方(昨夜のYさんの上司にあたる)から電話が入り、ホームページで当選した招待状は無効ではないということがわかった。

 詳しく述べると、今回の読売日本交響楽団の大阪公演に関して、当初読売新聞のほうから多数の招待状や招待券を送っていたが、終盤チケットが完売状態となり、できるだけ多くの方にコンサートを聴いていただきたいこともあり、招待状や招待券を得た人たちが5月3日当日、どれだけ来場するのか確認する意味合いが昨夜の電話は大きかったと、企画事業部の方から説明があった。
(その意味で、今回のコンサートのチケットの売れ行きに対する見込み違いがあったことは事実と謝れられてもいた)

 そして、昨夜の電話では「立ち見か入場できない場合もある」ので、別の展覧会の招待券を送るという代替案も提示をしたが、今回のコンサートを心から愉しみにしている人がいることも当然事業部のほうでも承知しており、読売日本交響楽団側の対応もあるかもしれないが、招待状や招待券を持って実際コンサートに来られた方の来場をお断りすることはできないという話もされていた。

 で、こちらは、こちら側の勘違いももちろんあるかもしれないが、昨夜のYさんの口調やニュアンスからはどうしてもそのように受け取ることができなかったことや、電話をかけ直したあとの説明もあまり丁寧でなかったことを指摘した上で、昨夜の電話の真意並びに招待状の取り扱いに関しては承知しましたと伝えておいた。

 いずれにしても、招待状の件がこういう形で明瞭になってまずはほっとした。
 そして、5月3日の読売日本交響楽団の大阪公演を心から愉しみたいと思う。


 *追記
 ただし、いくら招待状や招待券を持っていたとしても、開演直前にホールへ到着した場合は、立ち見や来場できないケースもありうると思う。
 遅くとも、開演45分前ごろには、ホールにお着きになられんことを。
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