2017年05月24日

第24次笑の内閣『日・韓・米 春のツレウヨまつり』日本編

☆第24次笑の内閣『日・韓・米 春のツレウヨまつり』日本編

 作・演出:高間響
 ドラマトゥルク:神田真直
 演出補佐:小原藍、吉岡ちひろ
(2017年5月23日19時開演の回/アトリエ劇研)


 2012年5月(第15次、吉田寮食堂)、2014年3月(第18次、KAIKA)と上演を重ねてきた笑の内閣の『ツレがウヨになりまして』だが、この度、そこに韓国編とアメリカ編が加わり、その名も『日・韓・米・春のツレウヨまつり』に改めパワーアップを果たして戻って来た。
 で、まずは先月のソウル公演を大盛況で終えたばかりのオリジナル・バージョンと呼ぶべき日本編から観劇する。

 地域警察署の生活安全課の係長を父に持つ日向あおい(土肥希理子)は女子大生。
 そんなあおいの彼氏でニートの富山蒼甫(池川タカキヨ)が、中学時代の先輩に感化されてウヨってしまい、近所のスーパーマーケットの韓流フェアへと抗議に出向く…。
 といった本筋はこれまでの上演と変わりがない。
 いわゆるネトウヨ連中をおちょくりつつ、あおいと蒼甫のつたなくてもどかしくもある恋愛関係を通しながら、それじゃあ国を愛するってどんなもんじゃいなと尋ね直した作品であり、表面的な設定やくすぐりの極端さに反して、その実高間響という劇の作り手のバランス感覚とともに集団で何かをやり遂げることへの強い愛着もよく示されている。
 強引さやまどろこしさを感じる場面・展開は残るものの、新たな座組もプラスに働いて、台詞のやり取りや出はけ・暗転の処理等々全体的に洗練され、精度が増したように感じられた。
(最近、長谷川康夫の『つかこうへい正伝』<新潮社>を読んだこともあってか、ところどころつか作品のパロディっぽく感じた部分もあったんだった)

 演者陣では、蒼甫役の池川君を第一に挙げたい。
 雰囲気そのものがまずぴったりなのだけれど、そこに細やかな感情のギアチェンジが効いて、蒼甫の情けなさ、弱さ、甘さ、終盤以降の激昂を見事に演じ切っており、ああこれだこいつだと大いに納得がいく。
 初演再演であおいのゼミ友中道真実を巧みに演じた高瀬川すてらは、今回あおいのゼミ担当でリベラルな教授赤田小夜子に回ったが、ここでも演技達者ぶりを発揮する。
 キャラクターに徹している上に、細かいけれど過剰ではない所作が愉しい。
 初演以来の蒼甫の先輩内藤洋吉役の髭だるマン(全公演出演お疲れ様)、あおいの父親の部下金村聖斗役の由良真介はこの間の研鑽がよく出て厚みが増していたし、あおいの父親成彬役の松田裕一郎も甲羅を経た存在感を出していた(中でも強い発声の際、この人の出自というか狂言の素養が表れる)。
 また、頑なで芯が強そうながらどこかで脆さと危うさを持ったヒロイン役の土肥さん、おバカさの再現を心掛けていた真実役のしらとりまなも、他の演者陣に伍して努力を重ねていた。
 役柄を掘り下げるか、類型典型に徹するか、自分自身を前面に押し出すか、もしくはそういったもの全てのバランスをとるか。
 技術技量というより、経験の長短もあって迷う部分は少なくないだろうが。
 できないものはできないのだから、そうした今現在のできなさを役柄の弱さ、感情のふわふわとした変化に、あえて構えず気楽にあててみてもよいのではないか。
 舞台上でも、いや実人生でも嘘をつくより、そのほうが何層倍も誠実だと思うし好感が持てる。
 ほかに、スーパーマーケットの店長役を高間上皇が高間上皇らしく演じていた。

 そして、忘れてはならないのがゲスト出演した黒川猛だ。
 かつてベトナムからの笑い声で大いに鳴らし、今もTHE GO AND MO’Sで闘い続ける黒川さんだけれど、今夜も大奮闘。
 危険な時事ネタの本家は俺だとばかりのネタのチョイスに、逆説的な愛情ある仕掛け、いじりと黒川さんならではの場面を作っていて嬉しかった。

 あと、アフタートークは香山リカ。
 ネトウヨの性質(ネット上では攻撃を続ける割に、ちっとも金は出したがらない等々)について自らのエピソードを交えながら高間上皇と快活に語り合ったほか、会場からの質問(共謀罪の問題等々)に対しても丁寧に返答していた。

 と、本篇、ゲスト、アフタートークと盛りだくさんな上演でした。
 ああ、面白かった!!!
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2017年04月30日

努力クラブのやりたくなったのでやります公演『フォーエバーヤング』

☆努力クラブのやりたくなったのでやります公演
 『フォーエバーヤング』

 作・演出:合田団地
(2017年4月29日19時開演の回/人間座スタジオ)


 大声が席捲し、臆面のなさが美徳とされるような状況の中では、含羞の持ち主はつくづく評価がされにくい。
 だからと言って、自分自身の在り様を変えるとすれば、それではそれこそ恥も外聞もなさ過ぎる。
 やりたくなったのでやります公演と銘打たれた努力クラブの『フォーエバーヤング』は、そのタイトルから幕切れに到るまで合田団地という人のそうした矜持がよく示された作品となっていた。

 舞台はとある駅。
 どうやら終電を逃してしまったらしい女友だち二人が会話を始めて…。
 日曜日も公演が残っていることもあり、あえて詳細については触れないけれど、一聴とりとめのないやりとりの中に、30歳を迎えようとする彼女彼の今がこれ見よがしにではなく、けれどはっきりと描き込まれている。
 さらにその上で、喩えるならば表面は凪いでいるのに、その実水中では留まることなく水が動いているかのような行間の豊かさというか、細やかな表現丹念な作劇にも心をぐっと動かされた。
 加えて、お客さんを喜ばせる術はむろんのこと、合田団地という劇の作り手の投球配分の計算の高さ、緻密さもやはり忘れてはならないだろう。

 あて書きや演出があってのことだが、演者陣も合田君の意図によく応えていたのではないか。
 川北唯は台詞づかいばかりでなく一人の無言の場面での佇まいにも強く魅かれたし、楠海緒も再スタートを切るに相応しい演技を行っていた。
 また、大石英史も劇全体をよく捉えた演技を心掛けていた。

 いずれにしても、脚本・演出・演技の各面で、それぞれの特性美質が十分十二分に発揮された公演であり、ぜひとも多くの方々にご覧いただければと思う。

 ああ、面白かった!!!
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2017年04月28日

丸山交通公園ワンマンショー 第6回定期公演

☆丸山交通公園ワンマンショー 第6回定期公演

 脚本・出演:丸山交通公園
(2017年4月28日19時半開演/K’s office-京都二条の館-)


 K’s office-京都二条の館-に会場を移した丸山交通公園ワンマンショーは、今回6回目。
 毎回熱心な常連さんやご新規さんが集まっているのは、何よりだ。

 で、笑の内閣の韓国公演が終了したとの近況報告に続いて、前半のネタ『無職が怒って何が悪い』が始まる。
 時折派遣など仕事はやっているが基本はいわゆるニート、無職と宣言した丸山君。
 日ごろいらいらすることばかり。
 そうしたいらいらの在り様をまずはぼやき節で笑わせる。
 そして中盤以降、エネルギーが高じた「待ってました!」と声をかけたくなるようなきれっきれっのきれ芸が展開。
 特に、終盤は中江兆民の『三酔人経綸問答』もびっくりの大爆発で大笑いだった。

 ちょっとした休憩を挟んだ後半は、『鬼の独白』。
 前回の『僕の好きな先生』に続いて、ペーソス、さらにはシリアスを押し出した作品だ。
 鬼といえば、丸山君も好きな筒井康隆の『死にかた』という短篇小説があるのだけれど、あちらの鬼が厳然とした存在であるとすれば、こちらの鬼は異形の存在の鬼の中でもはじかれ者の鬼。
 ついには鬼ヶ島も逃げ出して…。
 虐げられる者がさらに自らより弱く低い立場に在る者を虐げる。
 丸山君の一連の作品に通底する主題がはっきりと盛り込まれており、笑うに笑えないでも笑ってしまうといった内容になっている。
 丸山君の落語好きがよくわかる、おかかなしいラストも作品にぴったりだった。

 と、今回も笑いどころ聴きどころ見どころの豊富なワンマンショーでした。
 ああ、面白かった!!
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2017年04月23日

ブルーエゴナク『ふくしゅうげき京都ver.』

☆ブルーエゴナク『ふくしゅうげき京都ver.』

 作・演出:穴迫信一
(2017年4月22日19時開演/アトリエ劇研)


 現在視聴者の注目を集めているテレビドラマの一つに、テレビ朝日が連日お昼過ぎから放映している『やすらぎの郷』がある。
 脚本はあの倉本聰で、彼自身を仮託したと思しき脚本家がテレビ界をリタイアした人々の共住する「やすらぎの郷」へと居を移すものの、やすらぎの郷とは名ばかり、日々ややこしい人間関係と諸々の雑事に振り回されて…。
 といった具合にドラマは続いている。
 あいにく動画サイトにアップされたものを拾い観した程度だが、脚本家を演じる石坂浩二(小林信彦も指摘していたように倉本さんそっくり)をはじめとした贅沢なキャスティングはもちろんのこと、ゆったりとしたテンポの噛んで含めるような台詞のやり取りから窺える倉本聰の人間観察の鋭さと時に噴出する激しい感情、切実な願望には大いに興味をそそられる。

 北九州を拠点とするブルーエゴナクにとってアトリエ劇研での三度目の公演となる『ふくしゅうげき京都ver.』を観ながら、僕はふとその『やすらぎの郷』のことを思い出した。
 舞台は、その街では結構な歴史を有しており、評判もなかなか悪くないらしい中華料理店の半月。
 とある出来事から、そこに集う人々の関係は崩れ始め…。
 テレビドラマと演劇の違いはひとまず置くとしても、『やすらぎの郷』に対してこちらはアップテンポで台詞も基本的には要所急所を押えていくスタイル、出演者が若い分エネルギーの量も大きいし、『ふくしゅうげき』というタイトルに相応しく、集団組織に発生する無意識の悪意や欲求欲望が、ときに滑稽さをまぶしながら身体表現や場面や時系列の跳躍を効果的に活かしつつ綿密に描かれていく。
 当然、『やすらぎの郷』とこの作品をそっくり似通ったものだなどと評するつもりは毛頭ない。
 ただ、アフターイベントで穴迫君自身が語っていた如く、かつてのアルバイト先の実話をもとにしてこうした一つの虚構を仕立て上げる冷静な観察眼やストーリーテリングの妙には、倉本聰という劇の作り手表現者と相通じるものがあるように思わないでもない。
 それに、この『ふくしゅうげき京都ver.』は、終盤大きな転調を行う。
 正直、それ以降繰り広げられる「変奏」には、若干長さを感じないでもない。
 けれど、それが単なる物語の説明や伏線の回収に留まるものでないこともまた事実だ。
 この「変奏」を通して、それまで用意周到に距離を保ち続けていた登場人物と穴迫君自身(そっくりさんどころではない、彼自身が出演しているにもかかわらず、出演しているからこそ)、登場人物と彼の切実な願い、彼の痛切な想いがこれ見よがしにではなく、だがしっかりと重なり合う。
 きっとその切実な願いや痛切な想いは、上述したアルバイト先の実話ばかりでなく、より根深く根強いこれまでの経験や体験の記憶の反映でもあるだろう。
 そして、その切実な願いや痛切な想いがフィクションの中でしか適わないもの、現実には適いようのない儚いものであるゆえに、穴迫君個人のものからより普遍的で一般的なものへと拡がっていくようにも感じた。
 その意味で、僕はこの「変奏」に十分納得と理解がいった。
(そうそう、この『ふくしゅうげき京都ver.』を観て、穴迫君の作品の基盤となるものがリズム、韻律、音律というか、「音楽性」であることを改めて確認することができたことを付け加えておきたい)

 高杉征司や西村貴治(アクシデントへの対応に何日もの長を感じる)のベテラン勢、田崎小春や平嶋恵璃香(劇団員)の北九州勢とともに、野村明里、倉橋愛美(倉橋さんの演技に接するのは初めてだが、役回りのつき具合もあって強く印象に残った)、小川晶弘、佐々木峻一の演者陣は、ライヴ特有の傷や経験技量の長短はありつつも、役柄に沿った演技を行いながら各々の特性魅力を発揮する努力を重ねていた。
 もちろんそこには、穴迫君の個々の演技者と全体的なアンサンブルに対する細やかな目配りとコントロールも忘れてはなるまいが。

 いずれにしても、あえて劇場まで足を運ぶに足る作品であり公演だった。
 ああ、面白かった!!!
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2017年04月14日

丸山交通公園ワンマンショー 第5回定期公演(後半のみ)

☆丸山交通公園ワンマンショー 第5回定期公演(後半のみ)

 出演:丸山交通公園
(2017年4月14日19時半開演/K’s office-京都二条の館-)


 諸般の事情で、開演から30分ほど遅れてK’s office-京都二条の館-へ。
 ちょうど休憩に入ったところだったらしく、顔見知りのお客さんと話や挨拶をしているうちに、丸山交通公園君が登場、ワンマンショーの後半がスタートした。

 後半は、努力クラブの合田団地君の所望に応じて「泣ける」ネタ、笑いよりもペーソスに重きを置いた作品を造ってみたとの前口上から始まる。
 その名も『僕の好きな先生』とくれば、どうしてもRCサクセション(忌野清志郎)の名曲を思い出すが、あちらが生徒に好かれるかっこよさをためた人物だとすれば、丸山君が取り上げる先生はなんともかっこが悪い。
 これからも上演の可能性が大なのでネタは割らないけれど、途中まではなんとも情けない先生の姿が一種シニカルな笑いをまぶしながら描かれていく。
 が、終盤、それこそ一瞬その先生の姿が大きく変化する。
 後光が射すなんて言ったら大げさかもしれないが、その一瞬のとらえ方がとてもぐっときて、おかかなしい。
 たぶん小説化してもいけるし、終演後、山本周五郎や藤沢周平流に時代劇にアレンジした別ネタにも出来るんではと丸山君と話をしたりもした。
 いずれにしても、再演が非常に愉しみだ。

 ああ、面白かった!!
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2017年04月07日

アガリスクエンターテイメント 第23回公演『時をかける稽古場2.0』(京都)

☆アガリスクエンターテイメント 第23回公演(京都)
 『時をかける稽古場2.0』

 脚本・演出:冨坂友
 文芸助手:淺越岳人
 演出助手:倉垣まどか
(2017年4月6日19時半開演の回/KAIKA)


 1937年(昭和12年)に封切られた五所平之助監督の『花籠の歌』という映画がある。
 東京のとんかつ屋を舞台に、そこに集う田中絹代や佐野周二、徳大寺伸といった人々の日常を幾ばくかのリリシズムと幾ばくかのユーモアを交えてウェットに描いたいわゆる松竹大船調の佳品だが、実はそのラストが非常に印象的だ。
 あえてネタを割ると、河村黎吉演じる主人が「あと4年だ、みていろ」と意気軒昂に語るのである。
 だが、1937年から4年後の1941年が一体どんな年だったかといえば、それこそ真珠湾攻撃によって太平洋戦争が開戦した年なのだ。
 当然そのことを、映画の作り手たちや公開と同時にこの作品に接した人々のほとんどは予想していなかっただろう。
 そして、彼彼女らのその後を考えるとき、僕はどうにもたまらない気持ちになってしまうのだ。
 いや、『花籠の歌』に関係する人々だけではない、生身の人間であるかぎり、時の流れを超えることは出来ない。
 だからこそ、時よお前は美しいとばかり、少なくともフィクションの世界では時の流れに逆らい時をかけようと僕たちはする。
 するのだけれど、そこに人は一定のルールを持ち込もうともしてしまう。
 そうしてあるは悲劇が生まれ、あるは喜劇が生まれ、僕たちの前にはタイムトラベル物とでも呼ぶべき作品が山積みにされて来た。

 アガリスクエンターテイメントにとって23回目の公演となる『時をかける稽古場2.0』(2014年に初演された作品の「リメイク」)もまた、その名の通り時をかけた人々が登場する作品だ。
 舞台はとある若手小劇団の稽古場。
 本番2週間前というのに、劇団の作家はほとんど台本を執筆することが出来ていない。
 ところがひょんなことから彼彼女らは、タイムマシンとでも呼ぶべきものを発見し…。
 と、ここから先はぜひとも劇場で確認してもらいたい。
 題名のもととなった『時をかける少女』など先行する諸作品のネタをそこかしこに織り込みつつ、バーバルギャグにサイトギャグをふんだんに盛り込んで、なんとしてでも公演を成功させたいと願う人たちのときに狂おしくときに哀しくときに意地の悪い姿を笑いも豊かに描き切っていて、2時間強全く飽きが来ない。
 歌舞伎もかくやと思わせる趣向も嬉しいかぎりだし、この集団の特性となっているある種の「屁理屈」も要所要所で見事に決まっている。
 加えて、『ナイゲン』でも重要なモティーフとなっていた集団と個人の関係や集団に発生する無意識の悪意がここでもこれ見よがしにではなく表されている点や、『笑の太字』の終盤でも描かれていた自己予測というか自己確認が明らかに示されている点は、やはり忘れてはなるまい。
 というか、着実に受賞を重ね、劇団員も増え、『ゴッドタン』に劇団として出演するなどメディアへの露出もこれからさらに増してくるやに思えるアガリスクエンターテイメント(冨坂さん)がこうした自己予測と自己確認を見せている部分こそ、(実は同様の予測、予感を抱いていた)僕にはこの作品の大きな肝のように思えてならないのである。
 むろん、そうでありながら、いやそうだからこそ、諦念断念に終わらず、「それじゃあ今をどうするのか?」という彼彼女らの姿に強く心を動かされるのだけれど。
 それに、「我々の作品に対するノスタルジーとか、我々の(3年ばかし延びた)演劇人生に対する考えとか、ついついしんみりしてしまいそうになりますが、時をかけると大抵のものは勝手に切なくなるので、感傷につかまらない速度でふざけていこうと思います」との公演パンフレットの冨坂さんのご挨拶に全く偽りはない。
 まさしく一粒で何度も美味しい作品だ。

 さいとう篤史に代わって突然の出演となった古屋敷悠をはじめ、劇団員の淺越岳人、榎並夕起、鹿島ゆきこ、熊谷有芳、甲田守、塩原俊之、沈ゆうこ、津和野諒、前田友里子、矢吹ジャンプ、客演の斉藤コータ、ハマカワフミエは、登場人物のキャラクターに沿いつつ均整のとれたアンサンブルを生み出すとともに、個々の魅力をよく発揮していたのではないか。
 お芝居の観方としては邪道かも知れないが、台詞を発していないときの役者の皆さんの表情演技にも僕はとても魅かれた。

 演劇を信じる人はもちろんのこと、そうでない人にもお薦めしたい作品であり公演である。
 日曜まで、残り6公演。
 ご都合よろしい方はぜひ!
 ああ、面白かった!!!
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2017年03月31日

丸山交通公園ワンマンショー 第4回定期公演

☆丸山交通公園ワンマンショー 第4回定期公演

 出演:丸山交通公園
(2017年3月31日19時半開演/K’s office-京都二条の館-)


 ぜん息の発作という危機的状況で横山清正君が援助に入った前回とは一転、丸山交通公園ワンマンショーの第4回定期公演(このカウントは当方独自のもので、オフィシャルなものではありません)は新ネタ三題が披露された。

 で、今回はネタが詰まっているということで、恒例の近況報告はパスし、早速『地下アイドル探訪の発端』が始まる。
 ひょんなことから地下アイドルのショーに接する機会を得た丸山君だったが、地下アイドル自身よりも、奇矯な行動に走る彼女らのファンのほうにどうしても目が行ってしまった。
 その一種異様な雰囲気を面白おかしく説明したのち、それではアイドルの側はどう思い、ファンの側はどう思っているのか、これから詳しく迫っていきたいと丸山君は今後の方向性について語った。
 清水富美加ネタ同様の丸山君の取材力に期待したい。

 続く二題目は、『街場の妖怪論』。
 妖怪といっても、水木しげるや荒俣宏、京極夏彦のあれではない。
 笑福亭鶴瓶のいう、街でよく見かけるちょっとおかしくちょっと危ない人たちのことだ。
 まずは、周囲で見かけた「妖怪」のスケッチで丸山君は笑わせる。
 が、マクドで居合わせた中年の男性と高齢の母親のやり取りから徐々に話は陰りを帯びていく。
 てか、その男性と同世代な上にぶらりひょうたん的な生き方を送っている当方にとっては笑いつつも、身につまされることである。
 そして、動画で有名になった「性の喜びおじさん」(「性の喜びを知りやがって」と怒りの声を発する男性)のエピソードに至って、一気に話は死に近づく。

 そして、ラストの『くたばれ!エイプリールフール』は、自らを仮託したと思しき男性が主人公の寸劇。
 はじめはエイプリールフールをくさしたあるあるネタかと思っていると、逃げ場がなくなった男性が自殺願望を口にするなど、またもや死の気配が濃厚となって…。
 その笑うに笑えない、でも笑ってしまうところが、丸山君らしい。
 友達図鑑などの一連の作品をついつい思い出してしまった。
 ぜひともこれは、もっとじっくりと見たいネタだった。

 まさしくワンマンショーと名乗るに相応しい内容の三題で、次回も非常に愉しみだ。
 ああ、面白かった!!
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2017年03月18日

BokuBorg vol.2『幸のナナメ』

☆BokuBorg vol.2『幸のナナメ』

 脚本・演出:川本泰斗
(2017年3月18日14時開演の回/スタジオヴァリエ)


 川本泰斗が主宰する演劇カンパニーBokuBorgの第2回公演『幸のナナメ』は、劇中の台詞ではないけれど客入れの音楽からして昭和の香りが強い。
 そして、きっと川本君は自覚してのことだろうが「妊娠小説」(by斎藤美奈子)ならぬ「妊娠戯曲」とでも呼ぶべき展開ともなっていた。

 『幸のナナメ』は、扇の要となるハルコと彼女を取り巻く周囲の人々の関係を通して、公演パンフレットにも記されているような「親子の話、家族の話、そして恋人の話」を描いていく。
 その人間関係のあり様、物語の運び様は、観ていて「いーっ」となったり「いりいり」したりする部分も含めて線がはっきりしているというか、実にわかりやすいもので、冒頭にも記した通り、強く昭和を感じさせる。
 また、あえて女性を物語の中心に置くことで、逆に川本君の意図や意識、切実さが浮き彫りにされているようにも思われた。
 と、こう書くと、何やらべたで古めかしいホームドラマを想像する向きもあるだろうが、結構配役等々、そこはそうならないような演劇的な仕掛けも随所に施されている。
 で、そうした仕掛けが巧く決まってすとんと腑に落ちる部分があった反面、無理から細工を弄してしまったような、ぎくしゃくとした感じを覚えた部分がところどころ観受けられたことも事実だ。
 しかしながらそれは、単に技術的な問題ばかりではなく、川本君の嗜好や志向の問題と密接に繋がっているようにも僕は考える。
 べたを恐れず一層オーソドックスな方向に筆を進めていくのか、自らの良い意味での歪み偏りをひと際デフォルメして破天荒を極めるのか、もしくはバランス配分にさらに留意するのか。
 川本君の今後の作品に注目していきたい。
(実は、この『幸のナナメ』は今から4年前、川本君がまだ学生劇団に所属していた時期に書かれた作品なのだそうだけれど、学生劇団時代の彼が何をどのように吸収したかがよくわかる台本であると思った)

 それこそ万華鏡のように変化に富んだピンク地底人2号をはじめ、藤居里穂、土肥希理子、勝二繁、野村眞人、堀内綜一郎の演者陣は、川本君の意図によく沿って与えられたキャラクターを演じ分ける努力を重ねるとともに、個々の特性魅力もよく発揮していたのではないか。
 川本君自身が演者であることもあってだろう、作中演じがいのある場面が多々設けられていた。
 ただ一方で、過去の役回りに引きずられていたり、類型の表現が過剰であるように感じられたりする箇所もいくつかあり、その点は川本君の今後の演出面での課題のように思われた。

 いずれにしても、vol.3、vol.4…とこれからのBokuBorgの公演が愉しみである。
 月曜までの公演。
 ご都合よろしい方はぜひ。
 ああ、面白かった!
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2017年03月13日

M☆3文化庁京都移転記念特別公演『かえりのかい』

M☆3 文化庁京都移転記念特別公演『かえりのかい』

 作:ブルーバード
 演出・美術:杉原邦生
(2017年3月12日18時開演/元・立誠小学校音楽室)


 文化庁京都移転記念特別公演と銘打ったM☆3の『かえりのかい』を観たが、これは足を運んで本当に大正解。
 あえて文化庁云々などと名乗る意味が何重にも感じ取れた、作品・演出・演技諸々、すこぶる充実した出来の芝居を観る愉しみに満ちた公演だった。
 ああ、面白かった!!!

 と、こう記してしまえばそれで十分だと思うのだけれど、それではまあちょっぴり不親切か。

 とある小学校の教室。
 少々エキセントリックな先生のもと、これまた少々エキセントリックなクラスの面々がかえりのかいを始めるが…。
 といった展開で、元・立誠小学校の音楽室という場所ありきと終演後のアフターイベント「かえりのかい」でも作者のブルーバードが語っていたから、なんだ機会音楽ならぬ機会演劇か。
 と思ったら大間違い。
 いや、機会演劇的側面は多分にありつつも、元・小学校が舞台であることが大きな意味を持った結構内容となっている。
 で、前半はあるあるネタを盛り込んで笑いをとりながら、今現在の諸状況を指し示すようなエピソードを積み重ねていく。
 伏線・含みとしても、作品の瑕疵としても、時折小首を傾げたくなるところはいくぶんあるものの、そこはメリハリ強弱が効いて(シャウトシャウトシャウト)スピーディーな杉原君流儀のスタティックでスタイリッシュな処理がよい具合にカバーする。
 ただその分、変拍子や不協和音の多い巧緻な曲をよくコントロールされた合唱団で耳にしているような感じというか、本や演出の計算の高さ、役者陣の演技の達者さ健闘ぶりにまず関心がいったことも事実で、それほど心は動かない。
 だが後半、物語が大きく跳躍を果たし、それまで単に指し示されていたものが、より深く抉られるというか、ぐっと刺し示されるようになって、その切実さ痛切さに強く魅かれ囚われた。
 いやあ、こういうことがあるから芝居を観るのはやめられない。
 むろん、ここでもグロテスクな笑いがふんだんに仕掛けられていたことは言うまでもないが。

 良い意味でのグロテスクさといえば、12人の役者たちもそう。
 緑川史絵(存在感と柔軟さ)、熊川ふみ(『ありがとう』の頃の水前寺清子のはっちゃけ感とドライないやらしさ)、森田真和をはじめ、御厨亮、松岡咲子、金子仁司、稲森明日香、長南洸生、合田団地(くせ球隠し玉を要所要所で決めてホールド達成)、九鬼そねみ、石原慎也、丹羽菜緒という東京勢と関西勢混成の座組みだが、均整がとれてまとまったアンサンブルを生み出す一方で、なべて個々の特性魅力を見事に発揮しており、一人一人の登場人物と集団(社会)の関係を描いたこの作品によく沿った演技を披歴していたのではないか。
 当然そこには、杉原君の役者のチョイスと目配りのよく届いた演出が大きく寄与していることも忘れてはなるまい。
 そうそう、この作品では衣装その他細かい部分も見落とすことなく愉しんでいただければ。

 いずれにしても、足を運んで大正解。
 ああ、面白かった!!!
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2017年03月10日

丸山交通公園ワンマンショー 第3回定期公演

☆丸山交通公園ワンマンショー 第3回定期公演

 出演:丸山交通公園
 ゲスト:横山清正
(2017年3月10日19時半開演/K’s office-京都二条の館-)


 会場をJR二条駅近辺のフリースペース、K’s office-京都二条の館-に移して三回目となる丸山交通公園ワンマンショーだが、今夜は主役の丸山君が持病のぜん息の発作に見舞われるという危機的状況!
 と、いうことで、盟友である「じゃがまさ」こと横山清正のゲスト出演が決まった。

 で、お約束の近況報告から始まったワンマンショーだが、息せき切って丸山君がべしゃりに乗りかかったところで早速咳込みが。
 と、横山君がスクランブル発進。
 丸山君のべしゃりをなんとか受けたあとは、用意された「お題」に挑戦する必死のぱっちぶりが横山君らしくおかしい。
 ひとしきりして、丸山君が復活。
 前回披露したネタの清水冨美加がらみの話題で盛り上げる。

 さて、今回の本題は『サッカーが世界を滅ぼす』。
 高校時代、スクールカーストの上位にあったサッカー部の連中と下位も下位の自分とのおかかなしいエピソードをマクラにしつつ、サッカーなんてものが人気だとろくなことがないとおなじみ丸山節が炸裂する。
 が、炸裂すると、どうしても気管に負担がかかって小休止。
 そこを横山君がどうにかアシストしていって、無事丸山君はゴールを決めた。
 一方、一捻りどころか二捻り三捻りほどはあるお題に四苦八苦していた横山君も最後のお題で大きな笑いを生んでいた。

 なかよきことはよきことかな。
 ではないが、こうしたワンマンショーもまたよきかな。
 体調快復を期す次回は、新ネタ3題を披歴するとの言葉も丸山君よりあり。
 定期公演化が実現した丸山交通公園ワンマンショーの第4回を心待ちにしたい。
 ああ、面白かった!!
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2017年02月24日

丸山交通公園ワンマンショー

☆丸山交通公園ワンマンショー

 出演:丸山交通公園
(2017年2月24日19時半開演/K’s office-京都二条の館-)


 体調は今一つだったが、家から自転車ですぐという地の利もあって、JR二条駅近くのフリースペース、K’s office-京都二条の館-まで足を運び、丸山交通公園ワンマンショーを愉しんだ。
 今夜もなかなかの集客で、まずは重畳重畳。

 冒頭の近況報告は、終電を逃して入った吉野家での出来事でぐっと笑いを掴む。

 で、前半の『ルサンチマン太郎』に入る。
 どうやら、ここのところ丸山君は哲学をワンマンショーの題材にしようとしているようで、この『ルサンチマン太郎』はニーチェが主題。
 ニーチェが唱えるところのルサンチマンとは何かということを噛み砕いて説明したのち、そんなルサンチマンの持ち主ルサンチマン太郎の日常を描いてみせる。
 男のルサンチマンがふつふつと募っていき、一気に爆発する展開は丸山君の真骨頂で、大いに笑う。
 中でも、声の音量の変化が巧妙だった。

 小休止を挟んだ後半は、『清水富美加ちゃん』。
 芸能界引退と幸福の科学への出家で世情を賑わしている清水富美加だが、丸山君はtwitterの騒ぎで初めて彼女のことを知った、どストライクの女の子だった、ところが出家をするという、なんでなん?という体で話を進めて行く。
 ここでは、まず丸山君の取材っぷりに驚く。
 これがあるのとないのとでは、ネタのリアリティが大きく変わってくるからだ。
 もちろん、それだけではなく終盤の妄想ぶりにも丸山君らしさが発揮されているが。
 いやあ、これまた笑わされた。

 休憩を除けば、正味40分強。
 こうやって客前でワンマンショーを重ねて行うことで(今月2回目)、上岡龍太郎ばりのおしゃべりが着実に練れてきていると感じた。
 丸山君が語っていた制作のお手伝いをするワンマンショー(丸山交通公園)・ギャルズと共に、ネタのブレーンというべき人材も加われば鬼に金棒、一層充実したワンマンショーが出来あがっていくと思う。
(上岡龍太郎には、盤石なブレーン集団が控えていたはずだ。なかなか丸山君の面白さに匹敵する人材は見つけにくいかもしれないが、ぜひ一考願いたい)

 いずれにしても、ああ、面白かった!!
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2017年02月09日

丸山交通公園ワンマンショー

☆丸山交通公園ワンマンショー

 出演:丸山交通公園
(2017年2月8日19時半開演/K’s office-京都二条の館-)


 先月下旬に自らが主催するオール京都の『沼楽屋大爆発』を無事終えた丸山交通公園が、本業とでも呼ぶべきワンマンショーを開催するというので迷わず足を運んだ。
 会場のK’s office-京都二条の館-は二条駅から歩いてすぐ、千本通北向きを小さな道に入ってすぐの三階建ての瀟洒な住宅の二階、もとはダイニングキッチンと思しき場所をフリースペースに活用した部屋である。
 本寸法の公演を打つことは難しいだろうが、今回のようなソロライヴや小ぶりな一人芝居二人芝居、ワークショップには使い勝手のよいスペースではなかろうか。

 で、冒頭の近況報告のトークは、twitterの宣伝では一切触れなかった今日が誕生日という「カミングアウト」から。
 自らの免許証をお客さんに回して見てもらい、それが事実であることを確認してもらう。
 丸山君、お誕生日おめでとうございます!
 これからの一年が今まで以上に幸多く充実した一年となりますように!
 その後、『沼楽屋大爆発』のことやワンマンショーのお手伝いをする人材募集などを話したのち、前半のネタ「プラトンのイデア」に突入する。
 どうしても賢ぶりが持て囃される傾向に小劇場界隈、ここは哲学、プラトンのイデアでも題材にして見返してやろうという趣向。
というのはもちろん前口上だけど、それでも『饗宴』を引用しつつプラトンのイデア論をネタにトークを展開していく。
 中でも就職面接の寸劇、面接を受けに来たイデア論を体現した青年の妄想暴走ぶりが肝となっていた。

 小休止を挟んだ後半は、「でぶ」の話。
 かつては痩せていた丸山君も今は身長181センチの体重98キロ。
 まごうことなき「でぶ」ではあるが、痩せたり明るいでぶになったりするのは社会に屈するようでそんな真似は是が非でも避けたい、自分は思索するでぶでありたい、それではどんな手があるか。
 ということで、再び妄想が暴走し始める。
 上岡龍太郎ばりの流れるおしゃべりで、語る語る。
 特に、でぶが着々と勢力を拡大し遂には国政に打って出ることになった国民の生活が第一ならぬ国民の食生活が第一の選挙演説は、丸山君のバーバルセンスも十分に発揮されて大いに笑わせられた。
 とともに、丸山君の一連の作品、公演に共通する差別される者、迫害される者の弱さと強さ、卑しさと美しさがその根底に垣間見えたことも事実で、その点笑いつつあれこれと感じ考えたりもした。

 しめて45分。
 丸山君の怒濤の如きおしゃべりを愉しんだ。
 ああ、面白かった!!

 さて、今度はどんなネタが飛び出してくるか。
 次回のワンマンショーが待ち遠しい。
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2017年01月21日

オール京都『沼楽屋大爆発』

☆オール京都『沼楽屋大爆発』

 脚本・演出:丸山交通公園
(2017年1月20日19時開演/元・立誠小学校音楽室&音楽準備室)


 丸山交通公園率いるオール京都の『沼楽屋大爆発』は、元・立誠小学校の音楽室と音楽準備室の二部屋を使った同時進行のお話。
 どうやら演劇公演の舞台と楽屋という設定で、出演者が二つの部屋を行き来すれば、お客さんも行き来自由。
 というから非常に大胆で意欲的な試み…。

 てな書き方をすると、なんだか演劇的趣向と志向の強い作品のように聴こえるかもしれないけれど、それより何より僕が感じたのは、彼彼女らの稽古場、それも余所行きの公開稽古なんかじゃなくて本息真剣勝負の素の稽古場の姿をじっくり眺めることができたというものだった。
(前に何度か記したことだが、演劇にせよオーケストラにせよ、僕はそうした素の稽古場をほわんと眺めているのがとても好きなのだ)
 もちろん、そこは丸山君を皮きりに石田達拡、小林欣也(久しぶり。稀有な「フラ」の持ち主)、西村花織(これまた久しぶり。「がばい」の片鱗が窺えた)、ピンク地底人2号、山下ダニエル弘之、横山清正という手だれ足だれ病だれのおもろおかしい連中が揃っているから笑いどころは要所要所にたっぷり仕掛けてあるし、逆に静謐さに裏打ちされたタナトスへの憧憬(タナトスそのものでなく、あくまでも憧憬である)や切実さの反映も丸山君ならではのものだ。
 しかしながら、そうだとしても、そうであるからこそ、個々の演者陣がふとした隙に垣間見せる人柄特性本性が強く印象に残る。
 日頃はどうしても物語の筋や作品の結構精度を追いがちになるところを、何歩も距離を置いて接することができたのは、僕にとって大きな収穫だった。

 正直、同時進行ゆえ「笑い場」が重なって一方を観逃してしまったもどかしさを覚えたり、お客さんがうろちょろと動く様子にちょっとうっとうしさを感じたり(そう言いながら、ある場面でずっとお客さんのほうばかり見つめていた自分も相当うっとうしいが)、移動を続けることに疲れをためたりしたことも事実だが、丸山君という劇の造り手や一筋縄ではいかない七人の演者陣に興味関心好感愛情を抱く方々にはやはり一見をお薦めしたい。

 観方は100人100通り、周囲に流されず自分なりの愉しみ方を見つけてもらえれば。
(2500円はちょっとという方は、「応相談」らしいので迷わずご連絡のほど)
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2016年11月13日

N₂ Tab.1『水平と婉曲』

☆N₂ Tab.1『水平と婉曲』

 作・演出:杉本奈月
(2016年11月12日19時開演の回/人間座スタジオ)


 ルービックキューブという昔一世を風靡した玩具がある。
 実物を知っている人ならば、すぐさま、ああ、あれかと思い浮かぶはずのものだけれど、ご存じない方にはどう説明すればよいか。
 小さい立方体のピース9個で形成された正方形6面を有するリンゴ大の立方体形のパズルで、各面は白、橙、緑、青、赤、黄で彩色されている。
 で、ピース3個で構成された各列を縦横に何度も自由に回転させて本来の色をばらばらにした上で、再び各列を回転させることで本来の色に戻していく…。
 ええい、まどろっこしいわ(実際、まどろっこしいパズルなんだけど)。
 百聞は一見に如かず。
 こういう場合、言葉の不便さを本当に痛感するが、「書き言葉と話し言葉の物性を表在化する試み」と副題の付いたN₂にとって初めての京都公演となるTab.1『水平と婉曲 Horizontality and Euohemism』を観ながら、ああ、もしかしたらこれってルービックキューブみたいな仕掛けの作品であり、公演なんではないかとふと思ったりした。
 と、言うのも、アフタートークで前回の公演『居坐りの日』の出演者である木村聡太が語っていたように、個々のピースそれ自体はわかりやすいものであるにもかかわらず、総体としてなんともややこしい表現がとられているからだ。
 より詳しく述べれば、いくつかのモティーフ(思考の連なりや意識の流れ。今回の公演では女優陣が書いた作文も活用されてはいるが、杉本奈月の意識や意志、思考や志向、試行の反映という意味で、やはり私戯曲の要素が強い)が、台詞の分割や変奏曲的な場面のリフレインをはじめとした「役者」間のやり取りを重ねることによって絡み合い、交り合い、姿を変えていく。
 当然そこには杉本さんの演劇的計算も働いているのだけれど、「役者」陣を通過することで、良くも悪くも予想外の回転が加わるというか、新たなニュアンスも付加される。
 結果、ルービックキューブをばらばらにしたときのようなモザイク状態で作品は再現されるのである。
 ルービックキューブの喩えにこだわるならば、それはまた多面性多義性の提示とも言い換えることができるかもしれない。
 『居坐りの日』の記録用映像について少し触れたこともでもあるが、今回の『水平と婉曲』(まさに名は体を表わす)においても、開きながら閉じ、閉じながら開く、明かしながら隠し、隠しながら明かす、信じながら疑い、疑いながら信じるといったアンビバレンツな感情が担保されている。
 そこにはある種の挑発や諧謔も多分に含まれているのだけれど、しかしながら、創作、表現活動、演劇という行為そのものに対する杉本さんの根本的な信頼の表われであることも否めまい。
 そうした意味で、小説と演劇とジャンルは異なる(実は大きく異なる)といえども、同じ表現活動を続けている者にとって、この『水平と婉曲』に僕は強い刺激を受けたし、公演の途中、そうした作品の結構がぱっと目の前に見開けたかのような一点が存在したことを面白く感じた。
 ナカメキョウコ、南條未基、三村るな(こういうことを記すと「観劇おじさん」っぽくなるが、彼女は要注目ではないか)、浦賀わさびの「役者」陣は、こうした造りの作品だからこそ、その特性個性魅力をよく発揮していた。
 また作品世界に沿う努力も重ねていたが、ところどころ、実際はウェーベルンやブーレーズ流儀の手法で作曲された声楽作品なのに、林光や宇野誠一郎を素通りしてベルカント・オペラ風や浪花節風、福山雅治風といった具合に歌われているかのような齟齬や違和感を覚えたことも指摘しておきたい。
 むろん、そうした齟齬や違和感は個々の演者のフラ(おかしみ)ともなるわけだけれど、それが自覚化されているかそうでないかは彼女彼らの今後の演劇活動においても重要だろうし、そういった部分をどう馴らしていくかが杉本さんの演出面の課題であるようにも感じた。
 その意味でも、杉本さん(N₂)が自らの表現活動をどう収斂させていくのか、腕っこきのプレーヤーを揃えた精度の高いアンサンブルで勝負に出るのか、ベテランから若手が集まったバランスのよい座組みで演出演技両面の着実なステップアップを計るのか、それともあえて京都的なアマチュアリズム、「永遠の未完成」を大いに酌み入れるのか、僕には非常に興味深い。
 いずれにしても、杉本さんとN₂のこれからの活動に注目していきたい。

 なお、杉本さん、ナカメさん、木村君、ガトータケヒロ(『居坐りの日』に出演)によるアフタートークは、木村君、ガトーの秀逸な突っ込みもあって上演の緊張を巧く解きほぐしていた。
 事実、笑いも多かったし。
 もしかしたら『水平と婉曲』自体も、「難しいものを観るのだ」「演劇だ」と必要以上にしゃっちょこばるのではなくて、よりくだけた感じで向き合って観てもいいんじゃないのかな。
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2016年09月11日

ブルーエゴナク『ラッパーRapper』

☆ブルーエゴナク『ラッパーRapper』

 作・演出:穴迫信一
 演出助手:杉本奈月
(2016年9月11日15時半開演の回/アトリエ劇研)


 すこぶる面白くってめっぽう心を動かされたので、終演後あれこれ語りたい。
 と、ここまでは同じでも、さらに細かく書き連ねていきたいお芝居と、あえてくどくど書きたくないお芝居の二種類がある。
 昨日のアガリスクエンターテイメントの『七人の語らい(ワイフ・ゴーズ・オン)/心の太字』が前者の代表格とすれば、北九州の劇団ブルーエゴナクが第二の拠点とも呼ぶべき京都で今回上演した『ラッパーRapper』は、さしずめ後者の典型といえるだろう。
 題名が作品を象徴する、とは『心の太字』の劇中の台詞だけれど、その題名通り『ラッパーRapper』は、ラッパーから演劇に転じた穴迫信一の渾身の直球勝負。
 野村明里演じるラッパー、メイコと彼女を取り巻く人々を通してラッパー=ラップそのものが語られ、それと不可分のものとして人の一生、人の生き死にが描かれていく。
 劇が始まって、登場人物たちがラップで掛け合うそのリズム感、ビートにまずもってすっと惹き込まれる。
 そして、メイコをはじめとした登場人物たちの言葉や姿に強く心を動かされる。
 しかも、劇の途中では、登場人物の呼びかけに僕(ら)が応じる場面まであって、ラップのライヴさながら舞台と客席の一体感がひと際生み出されまでもする。
 と、こう記すと、「なあんだそういうことね」としたり顔の訳知り顔をする向きもあるかもしれないが、この『ラッパーRapper』が神頼みならぬ感性頼み、感情一直線とは一線を画す、どころかそれとは正反対の視座が保たれた作品であることはやはり指摘しておかなければなるまい。
 いずれ再演されるだろうから、わざと詳細は省くのだけれど、ちょうどよい頃合いで跳躍する展開や、あと一歩でお涙頂戴に終わるところをさっとかわして切り上げる捻りとくすぐりを見れば、穴迫信一が全体を見通しつつ細部に到るまで目配りを届かせることのできる冷静さを兼ね備えた創作者であることがよくわかるはずだ。

 当然のことながら、そうした穴迫君のバランス感覚は演出面、俳優の起用そのものや動かし方にも十全に発揮されている。
 また、野村(普通姓だけの場合は敬称をつけるんだけど、いろいろあって演劇に関係する前から彼女のことをよく知っているので、敬称略がどうにもしっくりくる)、鈴木晴海(ただ一人、九州からの来演)、しらとりまな、佐々木峻一、月亭太遊、楳山蓮の演者陣も穴迫君の意図や作品世界に沿うべく、彼女彼らにとって最良の、といえば言い過ぎになるかもしれない(し、これまでの経験が今回の演技に繋がっている)ので、それに近い演技を披歴していた。
 むろんラップ面での努力は言うまでもないが、そこに留まるのではなく、個々の特性を表しながら各々の役柄を演じ切っていた点、並びに限られた時間の中で非常にインティメートなアンサンブルを生み出していた点を高く評価したい。

 などと気がつけば長々と記してしまっていた。
 いずれにしても、本当に観ておいてよかったと思える作品であり、公演だった。
 これでラップに目醒める人も少なくないんじゃないのかな。
 ああ、面白かった!!
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2016年09月10日

アガリスクエンターテイメント 第22回公演『七人の語らい(ワイフ・ゴーズ・オン)/笑の太字』(大阪公演)

☆アガリスクエンターテイメント 第22回公演
 『七人の語らい(ワイフ・ゴーズ・オン)/笑の太字』

 脚本・演出:冨坂友
 文芸助手:淺越岳人
(2016年09月10日14時半開演/in→dependent theatre 1st)


 昨年の京都公演『ナイゲン(全国版)』(10月10日、元・立誠小学校音楽室)がすこぶる面白かったアガリスクエンターテイメントが大阪公演を行うというので、迷わずin→dependent theatre 1stまで足を運んだ。
 今回は、昨年の黄金のコメディフェスティバル2015で優勝した『七人の語らい(ワイフ・ゴーズ・オン)』と新作の『笑の太字』の二本立て(45+45分。間に休憩10分)だったのだが、いずれも「自分たちが今現在何ゆえシットコム(シチュエーションコメディ)を演じるのか」という姿勢がはっきりと示された興味深く刺激的な作品となっていた。
 もちろん、仕掛けが豊富ですこぶる面白かったことは言うまでもないことだけど。

 で、前半は『七人の語らい(ワイフ・ゴーズ・オン)』。
 舞台はロンドン。
 デヴィッド=スミス(矢吹ジャンプ・客演)は妻のメアリー(鹿島ゆきこ)と共に仲睦まじい生活を送っている。
 ところがこのデヴィッド、実はもう一人バーバラ(沈ゆうこ)という女性とも婚姻関係を結んでいたのだった。
 そんなバーバラがメアリーを訪ねてやって来る。
 なんと、二人は友人関係にあるらしく…。
 と、ここまでは、例えばノエル・カワードはちょっと古いかな、アラン・エイクボーン調の××××事務所が好んで取り上げそうな典型的なウェルメイドのシットコム。
 ただし、そこはアガリスク、そのまま幕切れまで進んでいくわけがない。
 明日まで公演中なので、詳しくはぜひとも劇場でご覧になっていただきたいが、シットコムの「お約束」のあれやこれやを逆手にとって次から次へと笑いを仕掛けていく。
 で、ありながら、というより、だからこそか、シットコムの長所や魅力を十分に踏まえた作品となっている。
 加えて、自己言及性に富むというか、結構、設定、展開、キャラクター、いずれにおいても自らが寄って立つものが明快に示されていることも忘れてはならない点だろう。
(もしかしたら、アガリスクの作品を観続けてきた人には嬉しいくすぐりも結構あったのでは)
 上述の面々に加え、客演の斉藤コータ(『ナイゲン』にも出演)、劇団員の津和野諒、塩原俊之、淺越岳人は作品世界によく沿ったアンサンブルを創り上げていた。
 特に、翻訳調の部分とそうでない部分の切り換えのよさが印象に残った。

 後半の二人芝居『笑の太字』ではひときわ自己言及性、てか、ぶっちゃけ三谷幸喜への想いが強く噴出する。
 舞台は、大学の演劇学科の劇作コースの教員の部屋。
 向い合うのは、教員と学生。
 問題となるのは、二人の間に置かれた一冊の戯曲。
 と、言うのも、学生が卒業制作として提出したこの戯曲というのが、ある有名な二人芝居をそのまま書き取ったもので…。
 劇中のある台詞ではないけれど、『笑の太字』というタイトルが全てを表している。
 もうあれは15年以上も前になるか、実は、僕も学生と同じ「作業」を手間暇かけてやったことがあって、学生の畳みかける台詞に、そうだそうだもっともっと言ってやれ、と思ったほどだ。
 まあ、これは冗談半分としても、シットコム、てか三谷幸喜に魅せられた表現を志す人間にとっては他人事とは言えない内容となっている。
 大いに笑いながら、でも、オリジナリティとは何か(これは『ナイゲン』でも触れられていた)といったことや、戯曲演劇はいったい誰のためのものかといったこと、そして創作表現そのものについて改めて考えさせられた。
 もう一つ付け加えるならば、『ナイゲン』がそうであったように、この作品にもまた冨坂友という劇の造り手の「私戯曲」的要素が強く盛り込まれていたように思う。
 ABCD4チームのうち、僕が観たのは、学生:沈ゆうこ、教員:鹿島ゆきこの女性二人組のDチーム。
 ライヴ特有の傷は若干ありつつも、先ほどまでのバーバラ、メアリーとは一転、「本家」さながらの人物像を演じ切る努力を重ねていた。
 中でも、沈さんからは、劇中にはそんな台詞一切ないにもかかわらず、「やってみなきゃあわかんねえだろう」というあの声が聴こえてくるような気がしてならなかった。

 と、二粒で何度も美味しくおかしい二本立てでした。
 来年の京都公演が本当に待ち遠しい。
 ああ、面白かった!!
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2016年09月02日

Hauptbahnhof Gleis7『和え物地獄変』

☆Hauptbahnhof Gleis7『和え物地獄変』

 作・演出:金田一央紀
(2016年9月2日14時開演の回/アトリエ劇研)


 もうしばらく前になるか、石田衣良がモーツァルトのガイドブックを監修するか何かした中で、モーツァルトの音楽と自らの創作を重ね合わせて語っていた。
 詳しい文章は忘れてしまったが、どうして自分がモーツァルトの音楽を好むかといえば、しんねりむっつりと内面のことどもを描き表そうとするのではなく音楽は音楽としてスタイリッシュで美しいものに徹しているからであり、自分自身の小説もそうであると石田さんは言い切った。
 作品の好き嫌いは置くとして(いや、筋運びがスピーディーで文体も簡潔、キャラクター設定も巧みだし、落としどころもきちんと心得ている彼の作品は、読み物として実に面白い)、石田衣良のその割り切り具合には、大いに感心し、ある種の羨ましさを覚えたりもした。
 と、言うのも、日頃はモーツァルト大好き、ばかりでなく、父親のヨハン・セバスティアン・バッハなんかより息子のヨハン・クリスティアン・バッハの陽性で聴き心地のよい音楽が大好きなんて公言してはばからないくせに、深夜明け方にふと目が醒めたりなんかすると、人生とはなんぞや? 死とはなんぞや? 表現とはなんぞや? などなどとない頭を悩ませ、はては己の浅薄さを再認識して落ち込むこと度々だからである。
 果たして、そうした逡巡や懊悩を重ねているか否かは定かではないが、主宰するHauptbahnhofのGleis7『和え物地獄変』を観るに、金田一央紀という作家・演出家もまた、自らの立ち位置や在り方について真摯に向き合っている表現者の一人のように思える。
 深淵をのぞくことができない人間が、表現者であってよいのか?
 と、一言でまとめてしまうと、こちらに引き寄せ過ぎだろうか。
 けれど、この『和え物地獄変』という作品が金田一央紀の表現者としてのマニフェストであり、自問自答の解答であることはまず間違いないだろう。
 先達からの引用援用や繰り返される言葉遊びには彼の来し方が、勝川春朗改め葛飾阿北斎らの姿には彼の行く末への想い(当然、ここ京都でどういった活動を行っていくかということも含む)が如実に示されている。
 と、こう記すと、なんだか芸術至上主義でペダンティックな内容のように思われるむきもあるかもしれないが、実はこれが正反対。
 プロの現場で培った手法骨法を活かしつつ、お客さんが観て愉しめるように心掛けたエンターテインメント流儀の舞台となっていた。
 そうした金田一さんの創作姿勢や作品の結構には大いに共感し、深く好感を抱いた。
 しかしながら一方で、書かれたテキストはしっかり線が通っているようにうかがえるのに、実際の舞台にはどこかピースピースを見せられているような、もどかしさを覚えたことも事実だ。
 演者ごとの見せ場もあって、おっと思わせられたり、うんうんと納得したりする場面も少なくないのだけれど、それがどうしても全篇持続しきれていないように思われるのである。
 結果、二時間という上演時間が若干長く感じられてしまった。

 総勢十九人の演者陣は、各々の特性魅力を発揮しつつ、限られた時間の中で面白く愉しい舞台を造り上げようという努力を重ねていた。
 その点、全く疑いようがない。
 ただ、表面的な演技の技量技術の長短や経験の差よりももっと内面的な部分、個々の演劇や表現に対するスタンスや方向性の違い、齟齬、無自覚無意識が透けて見えていたことが、僕にはどうしても気になった。
 いったいなんのために舞台に立つのか? いったいなんのために演劇に携わるのか? 自分にとって表現するということはいったいどのような意味を持つのか?
 演劇とは、舞台とは、単なる自己顕示の場であってよいのか?
 この『和え物地獄変』とは、本来演技者一人一人にとってそのことが厳しく問われる作品だったのではないか。
 各々の努力健闘を認めるだけに、そうした点を今後の課題にしていってもらえればと思う。
(もちろん、全ての演者陣がそうだと指摘したいわけではない)

 若々しさと向日性をためた再生の物語でもあり、「小劇場」という狭い枠に囚われない方々にこそ、ぜひともご覧いただければと願う。
 そして、金田一さんとHauptbahnhofの今後の活動に大いに注目していきたい。
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2016年08月07日

下鴨車窓#14『旅行者』

☆下鴨車窓#14『旅行者』

 脚本・演出:田辺剛
 演出助手:ニノキノコスター
 舞台監督:山中秀一
 舞台美術:川上明子
 照明:葛西健一
(2016年8月7日14時開演の回/伊丹AI・HALL)


 初演(下鴨車窓#2/2006年3月19日、京都芸術センターフリースペース)、再演(同#3/2008年3月22日、精華小劇場)、日韓合同プロジェクト(演出:ウォン・ヨンオ/2010年6月19日、アトリエ劇研)と、都合三度にわたって接してきた田辺剛脚本による『旅行者』が下鴨車窓の#14として上演されるというので迷わず足を運んだのだけれど、これはもう観応えに腹応え胸応え、さらには聴き応えのある充実した舞台に仕上がっていた。

 いついずことは知れぬ荒漠とした土地に、夫(三遊亭はらしょう。今は亡き斎藤晴彦か、お師匠の三遊亭圓丈かといった雰囲気)と妻(大熊ぱんだ)が住んでいる。
 どうやら二人の仲は、あまり芳しいものではないらしい。
 そんな二人のもとに、夫を「おじ」と呼ぶ三人の姉妹(大沢めぐみ、たかはしまな、今井美佐穂)がやって来て…。

 といった具合に物語は進んでいくのだが、はっきりと上演が始まる前の大熊ぱんだの表情仕種から、ああこれは「当たり」だなと強く確信がいった。
 下鴨車窓にとっては再再演となる今回の『旅行者』は、田辺剛という演劇人、ばかりでなく一個の人間のこの間の積み重ね、変化変容が如実に示された内容となっている。
 もちろん、初演再演の際も魅力的で真摯な演者陣が揃っていたこともあり、いずれも好感の持てる公演にはなっていたのだけれど、田辺さんの演出面での課題に演者間の技量の差が相俟って、テキストに対する手探り感が多々観受けられたし、表現がシリアスに傾くなど作品の持つ主題(テーマとモティーフ。すでに初演と再演の際の観劇記録で述べたので、ここでは繰り返さない)が前面に押し出され過ぎるきらいがなくもなかった。
 ところが今回は、例えば妻と夫の弟子(松原佑次)の関係をストレートに示すことによって、夫の情けなさやおかかなしさを浮き彫りにする等、登場人物個々の感情や意識、登場人物感の齟齬や距離を明晰に、なおかつ細やかに描こうとする努力が重ねられていた。
 また、弁護士(F.ジャパン。美声といでたちもあって、喪黒福造=先日亡くなった大平透のことをすぐに思い起こす)をはじめ、個々の演技の滑稽味を増すことによって、テキストそのものの持つ喜劇性が一層的確に再現されてもいた。
 結果、主題がドラマに自然に入り込むというのか、まずもって劇を劇として愉しむという、お芝居の妙味をたっぷりと味わうことができた。

 加えて忘れてはならないのは、田辺作品における「声」の重要性を確認できたことである。
 特性のある声質と比較的均整のとれたエロキューションの持ち主が揃っていたことも大きいのだが、緩急の適切なテンポ設定をとることで、モノローグ、ダイアローグともに、テキストの持つ「音楽性」が可視化、ならぬ可聴化されていたことを、僕は今回の公演の大きな成果の一つとして挙げておきたい。

 上述した面々に加え、笠井幽夏子、邁の役者陣は、各々の経験の差やライヴ特有の傷はありつつも、田辺さんの意図をよくくみ取って個々の与えられた役柄を演じ切るとともに、インティメートでバランスのよいアンサンブルを創り出していた。

 AI・HALLの幅広の舞台を巧く活かした川上明子の舞台美術、葛西健一の照明など、作品世界に沿ったスタッフワークが効果的だったことを最後に付け加えておきたい。

 今月20日、21日には、座・高円寺で東京公演が予定されているので、ご都合よろしい方はそちらにもぜひ!
 ああ、面白かった!!
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2016年08月06日

努力クラブ第11回公演『ピエロどうもありがとうピエロ』

☆努力クラブ第11回公演『ピエロどうもありがとうピエロ』

 作・演出:合田団地
(2016年8月5日19時15分開演の回/アトリエ劇研)


 白く塗り固めたかんばせに、派手派手しい身形。
 と、言っても最近どこかの知事となった女性のことではない、ピエロである。
(いやいや、もしかしたら彼女もそのうちの一人なのかもしれないが)
 滑稽な風貌仕種とは裏腹に、素顔がしかとは窺い知れないそのあり様には、曰く言い難い哀しさと不気味さがいつも付きまとう。
 実際、そんなピエロの存在は多くの表現者の創作意欲を掻き立ててきた。
 シェーンベルクの『月に憑かれたピエロ』にフェデリコ・フェリーニの『フェリーニの道化師』、江戸川乱歩の『地獄の道化師』。
 そういえば、さだまさし主演の映画に『翔べイカロスの翼』なんてものもあった。
 努力クラブにとって11回目の本公演となる『ピエロどうもありがとうピエロ』もまた、タイトル通り、ピエロが重要な役回りを果たす作品だ。
 むろんそこは合田団地のことだから一筋縄ではいかず、定石を外れてなんぼの劇運びでもあるのだけれど、それでも先達が指し示してきた印象感覚をしっかり受け継いでいたのではないだろうか。

 どうにも生き辛い男(大石英史)がいる。
 仕事先でも上司(酒井信古)になじられてばかりいる。
 しかしながら、男はそのことに得心がいっていない。
 謝れと言われれば、ただ謝るばかり。
 どうやら男は、自分に何かが欠けていることに気づけていないようだ。
 そんなとき、男は彼女(ヒラタユミ)から気晴らしにでもとサーカスに誘われる。
 そこで男はピエロ(丸山交通公園)に出会って…。

 といった具合に、『ピエロどうもありがとうピエロ』は進んで行く。
 ある種通過儀礼的な巡礼彷徨が設けられていたり、男を包み込もうとする女性が存在したりと、これまでの一連の作品に通じるモティーフがそこここに嵌め込まれていることは確かだが、今回の作品では「男芝居」というのか、男とピエロそれぞれを取り巻く状況や、両者の関係に主眼が置かれている。
 正直、いつも以上に好みが大きく分かれる内容だと思うし、物語の進行上の都合もあってだろう、若干停滞する箇所もなくはない。
 また、僕の観た回は、初日ということで、まだ巧く笑いがはまっていない部分も多々見受けられた。
 それでも、この『ピエロどうもありがとうピエロ』は掛け値なしに面白い。
 中でも、中盤の一見突拍子もなく見える「跳躍」や、男とピエロの「対峙」、諸々を経た上でのラストは大きな見どころだし、それより何より、合田君の真情が一層ストレートに表出されている点に強く心を動かされた。
(アフタートークで落語家の月亭太遊さんが鋭い指摘を加えつつ、男やピエロに何が仮託されているのかを合田君より巧く訊き出していた。合田君と長い付き合いもあってだが、流石は道化中の道化の一人、笑いのプロであると改めて感心した)
 あと、肝の部分以外、例えばピエロとインタビュアー(杉本奈月)のやり取りなど、細かな台詞にも注意を払っていただければ幸いである。

 演者陣では、まずもって男を演じた大石君とピエロの丸山君の二人。
 男のどうしようもなさと危うさを体現した大石君、辛抱立役とはちょっと違うけれど、はじめの飛車角落ち手足を縛られたような状態から我慢を重ね、悲哀を滲ませた丸山君、いずれも合田君の真情をくみ取りながら、そこに自分自身の真情をどう重ねていくか、「努力」を重ねていた。
 もちろん上述した人々のほか、池浦さだ夢団長、西野恭一、安藤ムツキ、熊谷みずほ(どちらかというと今回は軽い役回りだったが、どうしても彼女には「ヒロイン」的な雰囲気が漂う)、キタノ万里、佐々木峻一(またもがなる人に戻っていた)の演者陣も、それぞれの役柄にあった演技を行っていた。
 ただ、今回は努力クラブに初出演の人が多いこともあり、それがプラスに働く反面、個々の技量の長短の前に個々の演者間の齟齬というのか距離が気になったことも事実だ。
 それでも、結果的には際どい部分でバランスがとれていたと思うが、今後さらに新しい顔触れが座組みに加わる可能性は高く、肩書は別として、例えばかつての長坂ひかるさんのような、合田君の意図や気持ちを忖度できる人材が新たに必要なのではないかと思ったりもした。

 いずれにしても、ご都合よろしい方はぜひ!
 ああ、面白かった!!
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2016年07月02日

第23次笑の内閣『ただしヤクザを除く』(菊組)

☆第23次笑の内閣『ただしヤクザを除く』(菊組)

 作・演出:高間響
(2016年7月1日19時10分開演の回/アトリエ劇研)


 誠意って何かね。
 とは、頭を下げ続ける田中邦衛と吉岡秀隆の黒板父子に向かって、菅原文太が問いかける言葉である。
 おなじみ『北の国から』シリーズ中でも屈指の名場面の一つだが、あの『仁義なき戦い』での誠意のかけらも見えない田中邦衛の槙村政吉を知る人間にとっては、広能昌三・文太兄ぃとのこのシーンはまた違った面白みがある。
 それでは、誠実って何かね。

 という言葉を皮切りに、笑の内閣を観てのドキドキぼーいずの本間広大君のツイートを題材に、演劇への誠実さに始まって、高間上皇と本間君の違い、より具体的にいえば自らが率いる集団における関係性の築き方、さらには表現者のジェラシーの発露などについて細かく記していこうかと思ったが、本間君が観たのは蓮組な上に、彼が比較の対象としたしようよの公演も観てないくせに、それらしいことを書き連ねるのはそれこそ不誠実の極みなわけで、これはあえて別の機会に譲ろうと思う。
 ただ、本間君の考えに首肯できる部分は多々ありつつも、演劇そのものへの誠実さと、演じることへの誠実さ、お客さんへの誠実さ、共にお芝居を創り上げていく人たちへの誠実さは時に別物なのではないかと感じ考え思う、ということだけは記しておきたい。
(誠実さという言葉は使われていないけれど、こうした点に関しては林達夫と久野収の対話対論集『思想のドラマトゥルギー』<平凡社ライブラリー>において様々な形で語られている。西洋哲学や歴史学と専門性の強い内容でもあるが、演劇に対して誠実に向き合おうとする人たちにはぜひともお薦めしたい)

 さて、第23次笑の内閣『ただしヤクザを除く』の菊組である。
 単刀直入に言って、とても面白かった。

 すでに桜組は観ているから物語の展開そのものは充分に承知している。
 承知していても、いや、承知しているからこそ、二つの組の違いがよくわかる。
 桜組の場合は、高間上皇自身が売りにもしているように、演技面での技術が安定している分、作品の持つ含意がよりはっきりと見えてくる。
 言い換えれば、主題の「ヤクザと人権」に加えて、この作品が単なるくすぐりだけではなく、演劇そのもの、並びに笑の内閣、高間響という人とその周囲の人々についても語ったものであることが見えてくる。
 ただ、演技面である線までクリアしているからこそ、演技に加え、テキストや演出面でもさらなるステップアップを望みたくもなってくるし、実際そのことを観劇記録にも記した。

 一方、菊組に関しては今までの笑の内閣流儀というふれ込みだった。
 確かに技量という点では、桜組に何日もの長がある。
 だけれど、それが相乗効果を生み出していたというか、自分たちなりの面白い舞台を創り上げていこうという菊組の面々の熱意が僕の観た回ではよく表われていた。
 例えば、俊恵さん役の山下みさお。
 桜組の森田祐利栄を高く評価していた分、僕は彼女と山下さんを一層比較するのではないかと思っていた。
 事実、比較していないといえば嘘になるのだけれど、自らの役柄に対する山下さんの真摯さや、この間の笑の内閣での積み重ねが彼女の演技から伝わってきて充分納得がいった。
 桜組とは役回りが違う、工藤役の丸山交通公園も大車輪の活躍。
 ワンマンショー後にも関わらず、アドリブを続々かまして笑いを生んでいた。
 そして、ラスト間際のアクシデントの活かし方(山下さんも見事に応じていた)。
 かつて月面クロワッサンの公演時にも同種のアクシデントが発生して腹を抱えて笑ったが、丸山君はこういう場面に本当に強い。
 笑いという意味では、じゃが正横山清正も負けてはいない。
 ここぞというところでしゃかりきコロンブスぶりを発揮していた。
(彼は愚直な風貌、シリアスな雰囲気が持ち味であることも事実で、そこが疎かになると笑いのための空回りが悪目立ちしてしまうかもしれない)
 丸山君同様、清水役の髭だるマンも「連投」が続いているが、彼は回を重ねるごとに役がますます身についてきているのではないか。
 終盤、そのことにもちょっとぐっときた。
 しらとりまなの危うさに対して、土肥希理子のヒロインは頑なさと芯の強さが信条。
 藤井直樹も自分なりの稲川刑事を造り出す努力を重ねていたし、下楠絵里の松葉も若さゆえの正義感が柄に合っていた。
 結果、笑いが豊富で作品の主題、結構のよくわかる舞台に仕上がっていた。

 あいにく蓮組を観ていないので断言はできないものの、窮余の策としてとられたトリプルキャスト・組分けという方法は、今後何度か試みられてもよいのではないかと僕には感じられた。
 ただ、本間君のツイートにも関連してくる問題であり課題ではあるのだけれど、そうしたトリプルキャストなり組分けがもし継続的に行われるとしても、それは、笑の内閣の今後の方向性を決めるための一過性のもの、プロセスであるということも忘れてはなるまい。
 誰と何をどのように創り上げ、それを誰に観てもらうのか。
 一つの集団としてどのようにステップアップしていくのか。
 そして、高間上皇の迷いや惑いも含めた今後の様々なプロセスこそ、お客さんへの誠実さ、共にお芝居を創り上げていく人たちへの誠実さ、表現することへの誠実さ、ひいては演劇そのものへの誠実さに直結していくのではなかろうか。
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丸山交通公園ワンマンショー『24世紀の21世紀学 ヤクザについて』

☆丸山交通公園ワンマンショー『24世紀の21世紀学 ヤクザについて』

 出演:丸山交通公園
(2016年7月1日15時15分開演/アトリエ劇研)


 笑の内閣の公演の合間を縫って、丸山交通公園ワンマンショーが開催されるというのでアトリエ劇研まで足を運んだ。

 開演前の15分間ほど前説というかBGMがわりに、丸山君自身の昨年7月の日記が読み上げられていたのだけれど、これがまず面白い。
 当然日記だから、パーソナルで内輪受け的な箇所もなくはないのだが、赤裸々な世事のあれこれと表現欲求のコントラスト、丸山君の自嘲と自負の大きな振れ幅がはっきりと表れていて実におかかなしい。
 徳川夢声その他、丸山君が吸収している事どものチョイスも興味深く、筒井康隆らの日記作品を耳にしているような趣があった。

 で、本篇は『24世紀の21世紀学』。
 24世紀の人間が21世紀の風俗、歴史を講義のスタイルで語っていくという体のシリーズで、テーマは笑の内閣の公演とも重なる「ヤクザ」だ。
 僕はvariety kyotoでの初演にも接している。
 その初演と比べて、上岡龍太郎ら先達たちの要領をさらに巧くとらえた語り口に、細かいくすぐりも決まり序盤は快調。
 だが、中盤以降はネタの選択も関係してか、丸山君のべしゃりのテンポとは裏腹に笑いそのものは失速していった。
 すでに初演の感想でも記したが、虐げられた者の憤りが根底に置かれていること自体には必然性が感じられて大いに納得がいく。
 非常に刺激的で興味深い内容である。
 ただ、それが即グロテスクな笑いに結びつくかといえば、なかなか難しいというのが正直な感想だ。
 例えば、先に名前を挙げた筒井康隆にも通じる嗜虐の比喩の連打など痛快ですらあるのだけれど、字面を想像することなく聴覚のみで接すると印象は大きく変わってくるのではないか。
 また、アトリエ劇研の間尺では、密室でよからぬことを共有するといった丸山君とお客さんとの共犯関係が薄れてしまったことも確かだろう。
 加えて、variety kyotoのロケーションを活かした肝の部分を別の形に変えざるをえなかった点も惜しかった。
 そうした意味で、丸山君に大きな笑いを求めるお客さんにとってはどうしても不完全燃焼気味な結果となり、丸山君本人にとっても不本意な結果となっていたように思う。

 笑いとシリアスな部分のバランスをどうとっていくか、丸山君にとって「とっておき」のネタをどう笑いに結び付けていくか。
 いずれにしても、ネタの取捨選択が今後のワンマンショーの鍵になると改めて感じた。
 次回以降もぜひ愉しみにしたい。
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2016年06月30日

まいごの地底人1F『stop making ABE』

☆まいごの地底人1F『stop making ABE』

 作・演出:ピンク地底人3号
(2016年6月30日19時開演/元・立誠小学校TRAVELING COFFEE)


 ピンク地底人の公演を初めて観たのが、2008年の8月10日。
 次に観たのが、2012年7月1日。
 そして、その次が今日、2016年6月30日だから、僕はほぼ4年ごとにピンク地底人の公演に接していることになる(ただし、C.T.T.での試演は除く)。
 正直、彼彼女らのよい観客とはとうていいえないが、だからこそ、彼彼女らのこの間の変化がよくわかるようにも感じられる。

 先月から12月にかけて、毎月30日に公演を行うというピンク地底人逍遥の地獄めぐり「まいごの地底人」の第二弾となる1F『stop making ABE』は、ピンク地底人5号(男)とピンク地底人2号(女1)、井戸綾子(女2)、九鬼そねみ(女3)が織り成す物語。
 男と女1の間に、ABE(あべ)さんなる子供が生まれるが、男にはABEさんが見えない。
 それでもABEさんは成長を重ね、一方で男は女1のもとを離れ、女2や女3との生活を始めるが…。
 といった展開やABEさんに写真師といった設定が、先行する諸作品を踏まえたものであることは確かだろう。
 加えて、妊娠のモティーフに僕はピンク地底人でいっとう最初に接した『サイケデリック妊婦症』のことをすぐに思い起こした。
 あのとき、ピンク地底人3号は「ファルス」というものにこだわっていたはずだけれど、その伝でいけば、『stop making ABE』は、一層タガが外れて、しかしより洗練されたファルスと評することができる。
 ただしそうした結構、意匠が単に表面的なものではなく、自己言及性というのか、自己のこれまでの経験を示すこととなっていることも忘れてはなるまい。
 そして、過剰な滑稽さのそこここから、切るに切れない思い、切実さが現われていた点にも、僕は大きな刺激を受けた。

 細かい傷はありつつも、3号君の演出に応えて、演者陣は振れ幅の大きい役回りをよく演じ切っていた。
 ピンク地底人2号の強弱の細やかな切り換えや、ピンク地底人5号の生きるのに不器用そうな佇まいが印象に残ったのはもちろんのこと、これまでにはない台詞遣いや動作の井戸綾子にも目を見張ったし、逆に、九鬼そねみの激しい身体の動きや表情の変化はおなじみのものだったが、努力クラブでのようなちょっとした違和感を覚えることはなかった。
 と、言うのも、努力クラブでの場合は合田団地君が求めるものと九鬼さんの演技との間にどうしても若干の齟齬が見受けられるのに反して、今回のピンク地底人では必然というのか、求められているものに巧く沿っている感じがしたからだ。

 8ヶ月連続の公演というのは、なかなか厳しいものがあるだろうが、追い込まれれば追い込まれるほど、その集団の特性真価が発揮されるようにも思う。
 この「まいごの地底人シリーズ」がどのような道を辿るのか、そして辿った先に何が待っているのか、本当に興味深い。
 次回は29日に追加公演も予定されている。
 ご都合よろしい方はぜひ!
posted by figarok492na at 22:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 観劇記録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年06月26日

第23次笑の内閣『ただしヤクザを除く』(桜組)

☆第23次笑の内閣『ただしヤクザを除く』(桜組)

 作・演出:高間響
(2016年6月25日18時40分開演の回/アトリエ劇研)


 先日、朝日新聞の朝刊で、エノケンこと榎本健一の特集が組まれていて、最晩年の稽古時に「喜劇ではなく悲劇をやれ」と語った旨、記されていた。
 同じエピソードが、矢野誠一の『エノケン・ロッパの時代』<岩波新書>では、次のように紹介される。
 自身にとってあたり狂言であった『最後の伝令』(三谷幸喜の『笑の大学』の椿一のモデル、菊谷栄作)の演出を頼まれた榎本健一は、その幕切れ、戦場で瀕死の重傷を負ったトムが死んでいく場面の稽古で、自ら90度の角度で倒れて見せ、トム役の財津一郎に向かって、「ここまで演らなきゃ駄目なんだ」と叫び、「喜劇を演ろうと思うな」とつづけたという。
 昨夜、第23次笑の内閣の『ただしヤクザを除く』(桜組公演)の後半のある場面に接しながら、僕はふとこのエノケンの遺言とでもいうべきエピソードのことを思い出した。

 『ただしヤクザを除く』は、ドキュメンタリー映画『ヤクザと人権』に触発された作品。
 ヤクザというだけで、銀行口座が作れない、子供が幼稚園に入れない。
 もちろん、違法行為をしているヤクザは逮捕されるべきだけれど、こんな人権侵害を許していると、行きつく先はどうなるのか?
 と、こういったあたりは、公演パンフレットの高間上皇の言葉や作品そのものにあたっていただくとして、いつもながら題材を見つけ出す彼のセンサーの敏感さにまずは感心する。

 舞台は広島県の呉市、ピザの全国チェーン・ピザマッチョのエリアマネージャー住吉欣也(瓜坂勇朔)は、呉中央署の稲川信雄(丸山交通公園)から、今後一切暴力団員にピザを打ってはならないと命じられる。
 しかし、呉店の店長山口芽衣子(しらとりまな)は、人一倍の愛社・愛ピザ精神の持ち主で…。
 といった具合に、作品は展開していく。
 物語、劇の構造は、実に明快。
 細かいくすぐり(上述の如く、登場人物の名前からしてそう。あと、アゴラでの上演を見越した設定もある)を放り込みつつ、徐々に笑いを膨らませる。
 で、話が煮詰まったところで、感情が大きく動く、とこれはウェルメイドプレイのオーソドックスなスタイルである。
 個々の登場人物の書き込みや場面転換の処理等、隙間というか物足りなさ、粗さを感じたことは事実だけれど、ツボにはまって大いに笑ったし、終盤ではぐっときたりもして、愉しく全篇を観終えることができた。

 ただ一方で、観た目と違って、演じる側には面倒な芝居だなと思ったことも確かだ。
 と、言うのも、この作品では「人権」がそうなのだけれど、登場人物に主題説明や信条説明、状況説明が生の台詞として多く配されているし、登場人物がキャラクター、記号に徹さなければならない場面が多々あるし、それでいてここぞという場面では表面的でない真情吐露、切実な表現が求められるし(それこそ、「喜劇を演ろうと思うな」)。
 しかも、高間上皇の筆力の変化もあったりして、以前以上に細やかな感情表現、関係性の表現も求められるし、それより何より、笑いをしっかりとらねばならない!
 そうした幾重ものギアチェンジをこなしながら、記号的な演技とリアルな演技のバランスを見事にとって存在感を示していたのが、パートの俊恵役の森田祐利栄だ。
 高森和子か野中マリ子か、単に芝居が達者というだけではなく、プラスマイナス両面で作品の特性をよく押さえた演技が嬉しかった。
 『仁義なき戦い』の大友勝利風の衣装もぴったりな山下ダニエル弘之のいきらない軽み、健気で危うい笑の内閣のヒロイン像にぴったりなしらとりさん、一見普通でありながら、その実変さ奇妙さが醸し出される瓜坂君、笑いのとりどころの多い松田裕一郎(終演後、何人かで松田さんと話をしたが、演じ方についてどうやら開眼した模様。今日以降の公演が一層愉しみ)、みっともなさの色気がとみに増す髭だるマン、昨夜は「連投」の疲れがもろに出ていたが、東映プログラムピクチュアからの役の創り込みが観受けられた丸山君と、他の演者陣も健闘好演。
 だからこそ、さらに森田さんの線に皆が近付けば、ひと際観応えのある舞台になると思う。

 いや、果たしてその方向だけが笑の内閣の進むべき道なのか?
 高間上皇自身、まだそこら辺り、はっきりと決め切れていないのではないか。
 それは、台本や演出の端々に現われているような気がするし、当然配役の都合もあるだろうけれど、窮余の策で組まれたトリプルキャストの菊組に「今までの笑の内閣流儀の演出を行って」いる点にもそれは若干窺える。
 今回に続いて、2週間の公演となる来年5月の第24次笑の内閣に、高間上皇がどのような作品と陣立てでのぞむかが非常に興味深く愉しみである。
(2週間の公演をどう乗り切るか。窮余の策である、ダブル・トリプルキャスト=組ごとの公演というのは大きな手。あと、近々アトリエ劇研で行われる青年団リンクの京都公演や、9月のアガリスクエンターテイメントの大阪公演の手法=短めの作品をいくつか上演するというのも一つの手かもしれない)

 そうそう、ご都合よろしい方は、桜組以外の蓮組、菊組の公演もぜひ。
 ああ、面白かった!
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2016年06月18日

ドキドキぼーいず#06『Re:じゅんすいなカタチ』

☆ドキドキぼーいず#06 『Re:じゅんすいなカタチ』

 作・演出:本間広大
(2016年6月18日14時開演の回/アトリエ劇研)


 高橋源一郎の『「あの戦争」から「この戦争」へ』<文藝春秋>を読んでいる。
 『文學界』の2012年4月号から2014年8月号に連載された文章をまとめたこの本には、以前とは異なり、「なにをどう読んでいいのか、まるでわから」なくなってしまった高橋さんにとって、それではどのようなものであれば「読める」のか、もしくは「読めない」のかがてらうことなく、自らの感覚に正直に記されてある。
 もちろんそこは高橋さんだけに、話は狭義の「小説」に留まらない。
 会田誠の作品展や福島県双葉町の井戸川克隆町長(当時)の言葉、平田オリザの試み、劇団態変の公演、今日マチ子のマンガ原作を劇化したマームとジプシー(藤田貴大)の『cocoon』へと対象は拡がっていく。
 そして、この本を読み進めていく中で、高橋さんにとって「読める」もの、もしくは「読めない」ものには、表現者が表現しようとする「もの」や「こと」への彼彼女らの向き合い方、距離のとり方が深く関係しているのだということがよりはっきりとわかってくる。

 昨年、調布市せんがわ劇場演劇コンクールグランプリ受賞記念として上演された『じゅんすいなカタチ』の再演となる、ドキドキぼーいずの#06『Re:じゅんすいなカタチ』もまた、表現しようとする「もの」や「こと」への向き合い方、距離のとり方が強く意識された作品である。
(なお、本間君によるとテキスト自体は初演時と同様で、キャストの変更等にあわせて演出を改めたとのこと)

 物語はある家族の「今」から始まる。
 一見どこにでもあるような何気ない風景、けれど何かがざらつき、何かがひっかかる。
 物語が進む(遡る)に連れて、そうしたざらつきやひっかかりは、徐々に明らかになっていく。
 家族関係の歪みであるとか、登場人物一人一人の抱える悩みや弱さ、葛藤であるとか。
 加えて、そうしたドメスティックな問題が、単に彼彼女ら個別の問題ではなく、社会的な諸状況と密接に関わっていることも具体的に描かれる。
 というか、時にそれは露骨なほどに明示される。
 と、こう記すと、それって社会性に満ちた家庭劇、ホームドラマの類いなんじゃないと思う向きもあるかもしれない。
 事実、テキストそのもの、登場人物の台詞だけに目を通せば、岸田國士から永井愛あたりにいたる一連の作品との共通性を強く感じる人も少なくないだろう。
(ただし、劇の半ばでそうした結構をひっくり返す台詞も用意されているのだけれど)
 だが、実際の舞台上での演者陣の演技から受ける印象は大きく異なったものとなる。
 なぜなら、いわゆる新劇的なリアリズムが意図的に排除される、より詳しくいえば、身体の余分な動作が加えられたり、過度に発声が強調されたりすることによって、登場人物の感情表現が結果的にずらされ、デフォルメされているからである。
 当然のことながら、その分、観る側は物語に没入したり、登場人物に自己を同化させたりすることを妨げられる。
 妨げられるからこそ、舞台上の「もの」や「こと」、登場人物たちと自分自身の距離とを考えるきっかけを掴みやすくもなっていたのではないか。
 それでいて、いや、なおのことか、本間君という劇の創り手の、表現者の、一人の人間の心性本質が如実に示されているように感じられたことも、僕には非常に興味深く面白かった。

 ライヴ特有の細かな傷はありつつも、佐藤和駿、ヰトウホノカ、松岡咲子(副代表、スーパーサブに相応しい役回り)、勝二繁、片岡春奈、諸江翔太朗の演者陣は、本間君の意図によく沿う努力を重ねていた。
 そして彼彼女らの演技からも、その心性本質が垣間見えていた点がまた、僕には非常に興味深く面白かった。
(身体や台詞のコントロールという点では負荷は大きいだろうが、演じ手と演じる役との間に、だけではなく、演じるという行為そのものに「齟齬がある」ことを前提とした演出である分、実は演者陣には親切な演出であるように僕には思える)

 月曜日までの公演。
 演劇、のみならず表現に携わる方々には特にお薦めしたい。


 あえて詳しくは触れないが、この作品は今の自分にとって「他人事」ではない内容となっていた。
 その意味でも、今回の本間君の演出のほうが、今の僕には受け入れやすかった。
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2016年06月12日

気持ちのいいチョップ 第2回『定刻開演マシン00分交換日記』

☆気持ちのいいチョップ第2回『定刻開演マシン00分交換日記』

 出演:小川晶弘、横山清正
(2016年6月12日16時開演の回/Antenna Media)


 所属していた月面クロワッサンのほか、数々の客演でも活躍中の小川晶弘と横山清正による演劇ユニット、気持ちのいいチョップの第2回公演『定刻開演マシン00分交換日記』を観に、五条河原町近くのAntenna Mediaまで足を運んだ。
(途中退場が自由で、連絡もとり易そうという「保険」があったこともあり)

 タイトルの通り、昨日11日、今日12日の二日間、11時〜20時45分まで、毎時00分ごとに必ず上演をスタートさせ、つごう20ステージをこなそうとする怒涛の企画だが、こちらが観た回は16ステージ目、心身両面で疲労困憊の中、小川君、横山君の二人は見事に45分間を演じ切った。

 内容はといえば、これまたタイトルの通り4月以降始めた交換日記の、各々が各々の書いた文章を読んでいくというもの。
 ちなみに、フラットなAntenna Mediaのスペースの半分程度を上演スペースに割り当て、小川君、横山君の部屋といったセットが組まれていた。
 また、この交換日記をプリントアウトしたものが、上演中参照できるよう客席に準備されてもいた。
 途中から公開されたということも加わって、当然「他人の目」を意識した内容なのだけれど、だからこそか、二人の実生活がまざまざと表現されていて、非常におかかなしい。
 ユーモアをまぶしつつも、演劇活動を続ける傍ら労働や学業に勤しまざるをえないその日常の描写と筆致は、純文学の新人賞の応募作品と言われてもなんら不思議ではないほどの代物だ。

 もちろんそこは、演者が存在するライヴであるからして、いろいろと仕掛けも施されている。
 メタ的趣向もあれば、擬即興的趣向その他もろもろ。
 ただ、そうした趣向が意図した以上にぐだぐだとなって、やけのやんぱち必死のぱっちに観えたのと、それでもお客さんの前でやっているというラインを守っていこうとする二人の姿がどうにも面白かった。
 まさしく、交換日記のリアルさと、ライヴならではのリアルさの、二重のリアルさを愉しむことができた。
 その意味でも、これは本当に接しておいてよかったと思う。

 正直、自分のことは棚において、それじゃあ、これからどうしていくの?という疑問はどうしても付きまとってしまうのだけれど、まずは小川君と横山君の今後のさらなる活躍と研鑚を心から祈っていきたい。
 できうるならば、二人を知らない人にも、人にこそ観て欲しい。
 残すところ、あと2回。
 まだ間に合います。

 ああ、面白かった!
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2016年05月15日

丸山交通公園ワンマンショー『24世紀の21世紀学』

☆丸山交通公園ワンマンショー『24世紀の21世紀学』

 出演:丸山交通公園
(2016年5月14日20時スタート/Variety Kyoto)


 脱乞食コメディアン宣言を果たした丸山交通公園のワンマンショー。
 Variety Kyotoでの今回は、『24世紀の21世紀学』が開講された。
 前回のAKB48に続くテーマは、ずばり「ヤクザ」。
 そこは丸山君のこと、大好きな東映のプログラムピクチュアあたりを良い意味でねちっこく描写するかと思ったら、さにあらず。
 映画についてはエピソードの一つとして、さらりと流していた。
 というか、玉木青とのアフタートークや、その後の『愛も救いもない24時間テレビ』(ユーストリーム中継)でも触れられていたように、本来70分はかかるはずが、45分ほどで終わってしまったわけで、その「まき」具合を想像していただけると思う。
 正直、笑いを得ようとすればするほど前のめり感が強まり、空回り気味のきらいも少なくなく、ああ、惜しいともったいなさを感じる箇所が多々あった。
 けれど、一方で、どうして丸山君がこの題材に挑んだのか、ばかりでなく、彼が何ゆえこうして表現活動を行っているのか(そこには当然、彼が笑いを追い求めることも含まれている)、その切実な想いが痛いほど伝わってきたことも事実だ。
 あえて詳しくは記さないが、支配被支配の関係、虐げられてきた者の執念というか。
 特に終盤、Variety Kyotoのロケーションを活かした仕掛けが強く印象に残った。
 その意味で、僕は今回のワンマンショーに接しておいてよかったと本当に思う。
 そして、次回のワンマンショーが愉しみだ。

 そうそう、単に笑いという点だけでいえば、合田団地や横山清正、玉木君のアシストもあってだけれど、『愛も救いもない24時間テレビ』のほうで、より丸山君の本領は発揮されていたのではないか。
 中でも、横山君の恋愛トークの際の丸山君の見得の連発は腹がよじれるほどおかしかった。
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2016年05月05日

THE JOKE AND MO's

☆THE JOKE AND MO’s

 出演:筒井加寿子、堀江洋一、黒川猛
(2016年5月5日17時開演の回/Variety Kyoto)


 二日続けて、Variety Kyotoへ。
 かつてベトナムからの笑い声で鳴らし、今はTHE GO AND MO’sで笑いへのあくなき挑戦を続ける黒川猛に加え、同じくベトナムからの笑い声で活躍し、GOMO’sの喜劇王でもある堀江洋一、さらには昔衛星で研鑚を積んだ筒井加寿子が、コント・ライヴを開催するというのだから、これはもうマスト!
 その名もTHE JOKE AND MO’sで、おなじみの忌野清志郎の歌に迎えられた。

 で、ほぼ満席となったところで、スタートする。
 まずは、『題名だけの発表会』だ。
 『吾輩は猫である』(余談だけど、今朝日新聞の朝刊に連載されていて欠かさず読んでいるが、やっぱり面白い)や『ノルウェイの森』と、読んだことのない作品の題名を頼りに黒川さんが書きつづった文章を朗読していくというもの。
 じわじわ効いてくる内容で、黒川さんの散文能力の高さがよく表われている。
 そうそう、堀江さんがただただフリップ(画用紙)に書かれた題名を読んでいるのもちょっとおかしい。

 続けては、『物凄い人』。
 黒川さんが読む紙芝居『マッチ売りの少女』の途中に「○○な人」と書かれたフリップが挿入されていて、それに堀江さんが当意即妙に応じるという内容。
 堀江さんのきれきれっぷりには、笑うほかない。

 最後は、『仮面夫婦』。
 あれは本人当てゲームとでも呼ぶのかな、人の名前が書かれた画用紙のついた輪っかを自分には見えないように頭にはめて、それぞれ質問などしながら名前を当てていくというゲームは。
 あのゲームの要領で繰り広げられたのが、このコント。
 男女一人ずつ、お客さんからいただいた名前を「仮面」に書いて、仮面夫婦という体でやり取りを重ねていきながら、離婚届へ印鑑を押すまでに自分の名前を見つけるという内容だ。
 しかも外れてしまったほうは、書かれた名前の人の物真似をしなければならないというのだから、これは屈辱の罰ゲームでもある。
 まずは、筒井堀江夫妻から。
 広瀬すずと吉岡秀隆というお題はやはり難しかったようで、ある種苦悶のうちに罰ゲームへ。
 続く、筒井黒川夫妻は、途中でお題のドナルド・トランプをわかった黒川さんがここぞとばかり飛ばしに飛ばす。
 大竹しのぶの筒井さんは、黒川さんがヒントとして出した「愛し合ってるかい」を物真似た。
 オーラスは、堀江(妻)黒川夫妻で、北川景子と門川市長の対決。
 途中黒川さんがKDとイニシャルっぽいことを口にしたときは、「おお」の声がお客さんから上がったものの二人ともあえなく敗北し、ぎりぎりの物真似をやらざるをえなくなった。

 と、大いに笑った1時間弱でした。
 黒川さん、堀江さんは言うまでもないことだけれど、やってるやってる感が前に出ない、良い意味で「退き」を知っている筒井さんも二人に伍していい感じだった。
(そういえば、コントの中で女性が必要以上にやってるやってる感を出してしまうと観る側が辛くなってしまうことがある、ということは、ベトナムからの笑い声にいた山方由美さんと、ドリフのコントにおける森光子を引き合いに出しながら話をしたことがあったっけ)
 THE GO AND MO’sとともに、THE JOKE AND MO’sもぜひいずれまた!
 ああ、面白かった!!
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2016年04月25日

強く印象に残る京都小劇場の演者さんを記そうとしたが断念した

 十年ひと昔というが、十五年以上も前のことになると、それも相当トリビアルな内容ともなると、なかなかネットの世界では詳細な情報が手に入りにくい。
 先日、本当に観ておいてよかった京都小劇場の公演について記したが、「それじゃあ、あそこに書かれているほかに、あなたの記憶に残った演者さんはいませんか」という問い合わせをいただいた。
 それで、せっかくだから改めてそこらあたりのことを記してみようかと思って、作業を始めたのだけれど、すぐに挫折した。
 と、言うのも何を観劇したかという記録はしっかりメモしているのだけれど、キャスト等演者さんの名前は全くメモしていない。
 しかも、十年前の引っ越しの際に、昔のチラシやパンフ類はえいままよとばかり、あらかた始末してしまった。
 だから、ネットが全盛となる前の公演に関しては、演者さんの正確な名前が思い出せないのである。
 舞台上の彼彼女らの演技は、はっきりと覚えているのにだ。
 例えば、2001年の2月に京都府立文化芸術会館のホールで観た、劇団飛び道具の『改訂版 茜雲』。
 もちろん、藤原大介、山口吉右衛門、伊沢はるひ、山本麻貴(以上敬称略)といった人たちは言うまでもない。
 あの頃から達者な演技だったし、彼彼女らも非常に印象的だった。
 ただ、それにも増して僕の記憶に強く焼き付いているのは、出演シーンも台詞も少なかったはずの、医者か何かの小僧を演じていた女性だ。
 呉竹さんだか、若竹さんだか、そんな名前だったような気もするが、残念ながらちゃんとした名前を思い出せない。
 そして、あえて僕が記しておくのであれば、今や小劇場からはいなくなってしまったそういった人たちのほうこそではないかとも思い、問い合わせへのお答えを断念することにした。
 僕自身、とても残念でならないが。
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2016年04月23日

本当に観ておいてよかった京都の小劇場公演

☆本当に観ておいてよかった京都(関係)の小劇場公演

 昨日、親しい友だちと話をしていてふと、それでは自分にとって小劇場の公演とはなんだったのかなと考えてしまいました。
 それで、1999年から昨年2015年まで自分が観てきた京都(関係)の小劇場公演の中で、本当に観ておいてよかったと思える公演を振り返ってみました。
 作品・公演として優れたもの、面白いものや魅力的な演者さんが出演した公演もそうですが、当時厳しい感想を持ったにも関わらず強く印象に残る公演や、造り手の側の本質特性がはっきりと感じ取れた公演、自分自身の創作に大きな刺激を与えた公演も含まれています。
 なお、敬称は略、作演出家の方以外の名前は、非常に印象に残った演者さんです。

1999.03 三角フラスコ『鈴虫のこえ、宵のホタル』(花田明子作・演出)

1999.10 三角フラスコ『オレンジ・ブルース』(花田明子作・演出)安井きよ子

2001.06 弾丸列車構想『ハラダリャンの脳について』 ハラダリャン

2001.11 さらん『虹を見た』(杉山準構成・演出)

2002.09 寺×子屋’02『そして校庭を走った』(田辺剛作・演出)

2003.10 『宇宙の旅、セミが鳴いて』(鈴江俊郎作、高瀬久男演出)豊島由香、岡嶋秀昭

2004.07 ハラダリャン『尺八鮫』 ハラダリャン

2004.09 ニットキャップシアター『男亡者の泣きぬるところ』(ごまのはえ作・演出)

2004.11 ベトナムからの笑い声『643ダブルプレー』〜「元チャンネル団地」

2005.01 笑の内閣『間男はつらいよ』(高間響作・演出)

2005.09 厄プロジェクト〜高野明子とハラダリャンのスケッチ

2006.01 ベトナムからの笑い声『ブツダンサギ』〜「ずっこけ3人組」

2006.03 ニットキャップシアター『家屋全壊』(ごまのはえ作・演出)

2006.05 劇団地下宣誓『売り言葉』(野田秀樹作、あきやまはるか演出)

2006.08 ベトナムからの笑い声『サンサンロクビョウシ』〜「オリエンタル歌劇団」

2006.11 遊劇体『闇光る』(キタモトマサヤ作・演出)

2007.06 昼ノ月『顔を見ないと忘れる』(鈴江俊郎作・演出)二口大学

2007.10 『生きてるものはいないのか』(前田司郎作・演出)宮部純子

2008.12 France_pan『家族っぽい時間』(伊藤拓作・演出)

2010.01 鉄人漁船『Plant』(田中遊作・演出)

2010.03 夕暮れ社 弱男ユニット『教育』(村上慎太郎作・演出)

2010.05 正直者の会『ゲーム1』 田中遊、豊島由香

2010.07 トリコ・A『せりふのないガラスの動物園』(山口茜構成・演出)

2010.11 France_pan『ありきたりな生活』(伊藤拓作・演出)

2010.12 ベトナムからの笑い声『チェーンデスマッチ』

2011.02 劇団西一風『誰?』(市川タロ作・演出)

2011.04 ニットキャップシアター『ピラカタ・ノート』(ごまのはえ作・演出)

2011.06 努力クラブ『牛だけが持つ牛特有の牛らしさ』(合田団地作・演出)タカヒー

2011.06 ルドルフ『ルドルフのまっしろけでゴー』(筒井加寿子作・演出)岩田由紀

2011.12 劇団テンケテンケテンケテンケ『雪もつもれば』(勝二繁作・演出)

2011.12 月面クロワッサン『望遠鏡ブルース』〜冬編(作道雄作・演出)

2012.02 劇団西一風『話の時間』(田中次郎作・演出)

2012.02 ドキドキぼーいず『ブサイクハニーベイベー』(本間広大作・演出)

2012.02 友達図鑑『友達図鑑のかたくなにゆでる』(丸山交通公園作・演出)丸山交通公園

2012.04 ドキドキぼーいず『ブサイクハニーベイベー』 福田きみどり

2012.07 ピンク地底人『明日を落としても』(ピンク地底人3号作・演出)

2012.09 monocon『カラフルメリィでオハヨ…』(ケラリーノ・サンドロヴィッチ作、山崎彬演出)

2012.10 京都ロマンポップ『ピュア・アゲイン』(よりふじゆき作、向坂達矢演出)

2012.11 正直者の会.lab『ライトスタッフ』(田中遊作・演出)

2012.12 ニットキャップシアター『Strange』(ごまのはえ作・演出)

2012.12 イッパイアンテナ『バードウォッチングダイアリーズ』(クールキャッツ高杉作・演出)

2013.01 絶対、大丈夫か『NEVER WEDDING STORY』(筒井加寿子作・演出)岩崎果林

2013.03 吉田寮しばい部『きずあと』(中西良友作・演出)五分厘零児、辻斬血海

2013.03 コロボックル企画『すぐ泣く』(若林りか作・演出)

2013.03 ドキドキぼーいず『Zoo』(本間広大構成・演出)島あや

2013.03 劇団ケッペキ『夢みるナマモノ』(内山航作・演出)永榮紘実

2013.03 ひげプロ企画『飛龍伝』(つかこうへい作、たにかわはる演出)

2013.09 劇団愉快犯『今日のおばんざい』〜「昼食同盟」(ヒラタユミ作、石濱芳志野演出)

2013.09 THE ROB CARLTON『フュメ・ド・ポワゾン』(村角太洋作・演出)

2013.10 HOME『わたしのあいだ』

2013.11 「」会〜『肝っ玉おっ母とその子どもたち』終景 永榮紘実、横山清正

2013.11 K.I.T.『地中』(角ひろみ作、柏木俊彦演出)

2014.03 月面クロワッサン『強く押すのをやめてください』(丸山交通公園作・演出)浅田麻衣、西村花織、森麻子

2014.08 柳川『奥さん!柳川がまたおかしなものを作ったらしいわよ』(津野允作・演出)帝釈天アニー

2014.09 劇団ACT『めまい』(一人静作・演出)

2014.09 コントユニット左京区ダバダバ『ゴリラ殺人事件』(寺岡慎一郎、谷畑仁作)

2014.09 ルサンチカ『星の王子さま』(寺山修司作、河井朗演出)

2014.09 劇団西一風『いちごパンツを撃鉄に』(岡本昌也作・演出)

2014.12 日本海『カゾクノカタマリ』(勝二繁作・演出)

2015.05 THE GO AND MO’S『野村の論』 黒川猛、堀江喜劇王
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2016年04月11日

アトリエ劇研 創造サポートカンパニーショーケース 笑の内閣 Hauptbahnhof 努力クラブ

☆アトリエ劇研スプリングフェス
 創造サポートカンパニー ショーケース Bプログラム
 笑の内閣、Hauptbahnhof、努力クラブ

*出演団体
 居留守、笑の内閣、Hauptbahnhof、努力クラブ
(2016年4月10日19時開演の回/アトリエ劇研)


 アトリエ劇研の創造サポートカンパニー ショーケースのBプログラム。
 続いては、笑の内閣が『はしょり笑の内閣』(高間響作・演出)を上演した。
 で、これは高間響が笑の内閣の10年の歴史をはしょりまくって語ると称し、ハイスピードでぼやき倒す30分。
 高間上皇の口舌、のみならず身体も回りに回る内容で、当然そこが見どころなんだけど、時折急ブレーキがかかるというか、技術的にスリリングな部分が散見されるのは、上皇自身織り込み済みだろう。
 僕には、笑の内閣の今とこれからに対する高間上皇のストレートで切実な想いが語られているのも面白かった。
 楠海緒、中本友菜、山下ダニエル弘之は、単なる助演以上の役割を与えられていた。


 休憩を挟んで、Hauptbahnhofによる『あの人だけの名前』(米内山陽子脚本、金田一央紀演出)。
 とある出来事をきっかけにして、それからずっと一人の男性を想い続ける女性。
 その女性の心の動きが丹念に描かれたテキストを、稲森明日香で上演するという金田一さんの趣向がまずいい。
 と、言うのも夕暮れ社 弱男ユニットなどでコメディエンヌ的な役割を演じながらも、稲森さんの演技からは複雑な女心の機微が垣間見えることがままあったからだ。
 今回の上演では金田一さんの演出と稲森さんの特性が重なり合う部分と、そうではない部分のせめぎ合いも興味深かった。


 最後は、努力クラブの『見せたいヘタな手品ショー』(合田団地作・演出)の上演。
 西マサト国王演じる男が、次から次へと現われる人物たちに自殺を勧められ、どんどんどんどん追い込まれていくが、しかし最後に…。
 といった展開で、笑うに笑えない、でも笑えよ、いやそれだけとちゃうわという二重底三重底、合田君らしさが十分十二分に発揮された作品だった。
 特に、ラストの「凄さ」。

 演者陣。
 まずは、西マサト国王というおかかなしさを体現したような人物あってこその結構構成だろう。
 辛抱立役、ならぬ辛抱しない立役を演じ切った。
 努力クラブのメンバー佐々木峻一は抑制の効いた演技で良い意味での驚きだったし、九鬼そねみも強張りの少ない演技で存在感を示していた。
 また、前回の公演と同じく、川北唯ははじけた。
 一方、月亭太遊は、youtubeドラマの『フェイク・ショウ』同様、やってるやってる感を排して、あえてその場(ここでは努力クラブ)に合わせた演技を心掛けていた。
 あさのふみ、篠原涼は若さの見える初々しい演技。
 ほかに、無農薬亭農薬の舞台姿を久しぶりに観ることができた。

 ただだからこそ、こうした顔触れが揃ったからこそ、ラストに向かう一つ一つの部分がより丹念に磨き上げられていたらと思わないでもなかった。


 と、2時間、盛りだくさんな内容だったのだけれど、京都市交響楽団を聴いたあとということもあって、正直予約2500円はちょっと高いかなというのが僕の偽らざる本音だ。
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アトリエ劇研 創造サポートカンパニーショーケース 居留守『ベルナルダ家』

☆アトリエ劇研スプリングフェスVol.1
 創造サポートカンパニー ショーケース Bプログラム
 居留守『ベルナルダ家』

*出演団体
 居留守、笑の内閣、ハウプトバンホフ、努力クラブ
(2016年4月10日19時開演の回/アトリエ劇研)


 京都コンサートホールで京都市交響楽団のスプリング・コンサートを愉しんだあと、カナート洛北で時間を潰してから、今度はアトリエ劇研へ。
 アトリエ劇研のスプリングフェスVol.1 創造サポートカンパニー ショーケースBプログラムを観劇した。
 この企画は、劇研の創造サポートカンパニーに選ばれた団体が30分の短篇作品を上演して各自の手見せを行うという、まさしくショーケースとなっている。


 まずは、居留守の『ベルナルダ家』(ガルシア・ロルカ作、山崎恭子演出)から。
 「スペインの詩人であり劇作家でもあるガルシア・ロルカの『ベルナルダ・アルバ家』の読み直しをはかるために戯曲を解体し再構築しながら作品を制作します」と公演パンフレットにはあって、付け加えれば、昨年元立誠小学校での公演(1時間もの。未見)をはしょって再演するのではなく、今回のショーケース用に新たに組み直したバージョンだという。
 『ベルナルダ・アルバ家』といえば逆『犬神家の一族』、と評するとちょっと違うか。
 スペインの田舎の因襲的な家族下で起こるドラマを通して、スペインの風土とそこに生きる人(女性)たちが置かれた状況を透かせて見せた作品だ。
 演出の山崎さんは、そうした原テキストの持つ核となる部分や雰囲気を演者陣の動きや言葉、姿を通じて再現するとともに、彼女たちの手によって今現在演じられる意味もはっきりと示していた…。

 と、これは「公式見解」。
 正直、上演が始まってすぐ、彼女たちが椅子の昇り降りをやりだしたところで、ああ、自分は「演劇」を観る耐性が本当になくなってきているのだなあ、ということを思い知らされた。
 いや、山崎さんの意図は十分伝わってきたし、随所に仕掛けられた目配せも気づかないではない。
 気づかないではなかったが、それが微妙というか、あと0.8(レイ・コンマ・ハチ。まるまる1ならやり過ぎになるかもしれないから)は余分に仕掛けて欲しい、といったもどかしさにとらわれたことも事実だ。
 言い換えれば、そのもどかしさは、本来は理智によって計られるべきところが感性(センス)で押し進められ、感性で動かされるべきところが理智に任されたちぐはぐさ、ということになるだろうか。
 実は、そのことは演者陣の演技、のみならず身体性にも繋がっている。
 降矢菜採、野村明里、重実紗香は、それぞれ明確な個性と魅力を持った演者であり、山崎さんの意図に沿う努力もしっかりと重ねていた。
 山崎さんもまた、彼女たちのそれをきちんと踏まえた演出を行っていた。
 けれど、彼女たちと作品の結構心性の間には、どうしても想定された以上の齟齬がある。
 その齟齬を活かしきるためには、やはりあと0.8の目配せが必要で、その齟齬を埋めきるためには、0.8以上では留まらない配慮が必要ではなかったか。
 その中で、単に技術面だけではなく、シリアスさと独特のフラ(おかしみ。エロキューション!)を兼ね備え、些細な動きも含めて作品に沿った演技と身体を見せていた仲谷萌が強く印象に残った。


「別にあなたを責めようというんじゃないんですよ、ベルナルダ。
ただ、あたしの言いたいのは、大きく目を見ひらけばわかるってことです」
(ガルシア・ロルカ『ベルナルダ・アルバの家』から、岩波文庫『血の婚礼』他二篇所収より)
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2016年04月09日

丸山交通公園ワンマンショー2DAYS 再演B『平成ぼやき講座』

☆丸山交通公園ワンマンショー2DAYS 再演B『平成ぼやき講座』

 出演:丸山交通公園
(2016年4月9日15時頃開演/スタジオヴァリエ)


 今日明日と二日間に渡って開催される、丸山交通公園ワンマンショー2DAYSのうち、今日15時からの再演B『平成ぼやき講座』に足を運んだ。
 『平成ぼやき講座』といえば、昨年11月(21日)の京大NFでの丸山節全開の初演、中でも中盤のチェーホフの『煙草の害毒について』っぽい(と言ったら、ちょっと違うかな)、妄想の部分が強く印象に残っている。
 で、今回はその再演というふれ込みだったのだが、ぼやきの、それも捨てネタがいくつか重なる程度で、ほとんど新作と言ってもよいような内容となっていた。
 まずは、分厚いフリップ(画用紙)を持って丸山交通公園が登場。
 ひとくさりあったのち、フリップを使ったぼやきが始まったと思ったら…。
 と、ここから先は明日もあるので記さないけど、フリップを「相手」にして丸山君という人間の自虐と自尊がよく表われており、とても興味深く、とてもおかかなしかった。
 一つには、密室芸というか、ブラックボックス・タイプのスタジオヴァリエの閉じられた空間の中で、内心これってほんまは笑ってええんかな、いんや笑うで、という丸山君とお客さんとの「共犯関係」が生み出されていたことも大きいのだろうが。
 いずれにしても、やたけたさと計算のあいまった、丸山ワールドを愉しむことができた。

 アンケートの「(丸山君は)これからどうしたらいいか?」といった趣旨の設問じゃないけど、それじゃあここから先、どのような企画を打ち出していくのか、言葉を換えれば、自虐と自尊とともに、自律と自負をどうしっかり築いていくべきかが丸山君の課題だと思うが、彼自身それも織り込みずみだろう。
 無料カンパ制。
 ご都合よろしい方は、ぜひ。
 ああ、面白かった!
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2016年04月05日

劇核自覚コウシロー第5回公演『キャン・ユー・ライト?』(妄想演劇館)

☆劇評三態

*劇核自覚コウシロー第5回公演
 『キャン・ユー・ライト?』
 (東渦岡若手演劇祭大会参加作品)

 書けない書かない書きたくない。
 劇核自覚コウシローの第5回公演『キャン・ユー・ライト?』(角谷甲子郎作・演出)は、そんな物書きの複雑な真情を通して、今現在を切り取ってみせる。
 書けない作家の物語といえば、小川洋子の小説『原稿零枚物語』<集英社>をすぐに思い起こすが、こちらコウシローは自称三文文士の私小説作家花町凡太(西村賢太へのオマージュ)が主人公。
 今日も今日とて原稿の書けない凡太は、嫌がる編集者草村繁子(くさむらしげるこ)を伴って西の方へと旅に出る。
 向かうは、秘境の温泉街世毎(よごと)。
 そこで二人が目にしたものは? そして凡太は原稿を書き切ることができるのか?
 前半、凡太と繁子の凹凸コンビが七転八倒する様は、いつもの角谷節全開でくすっと笑えたし、中盤のだれ場も効果的だ。
 けれど、後半、話が弾まない。
 いや、ライトにライトでライトしようとしたって、ライトにライトがあたっていては、という角谷君の意図はよくわかる。わかるんだけど、終盤のもたつきは厳しい。
 もしあの展開を活かしたいのであれば、繁子ではなく女将でお上の岡見拝子(おかみおがみこ)を前面に押し出してもよかったのではないか。それか、全ては嘘っぱちのホラ話ですよと居直ってしまうとか(角谷君の含羞はそれを許さないだろうな、きっと)。
 それでも、だからこそ、ただ在ろうとする凡太の姿が神々しくも見えてくる。
 凡太役の漁灯健吉(いざりびけんきち)が好演。この平平凡凡たる作家の非凡さをあるは飛び跳ねあるは歌いあるは黙り込んで演じ切った。
 拝子のきらほしよも奮闘。見た目と違ってシリアスな役どころ向きの演者さんだが、トリックスターに徹していた。
 繁子の足利山女(あしかがやまね)も巧くなった。ただ、渦岡小劇場界の作家演出家に好んで起用される足利さんだけど、僕には今ひとつしっくりこない。
 足利さんはルックスもよいし、その努力も買う。しかし、その努力は果たして演劇で発揮されるべきものなのだろうか。言葉を換えれば、足利さんにとっては、自分自身を「見せる」ことができさえすれば他の何かでもよいのではないか。小劇場という世界に付け入る隙が余りにもあるから演劇を選んだだけなのではないか。
 もちろんそのこと自体僕は否定しない。
 けれど、もし今後も演劇を続けていくのだとすれば、彼女はもっとそのことに自覚的になるべきだと思う。
[芸術アドヴァイザー・中瀬宏之]


 ううん。どうしてこの題材なんだろう。
 上演中、ずっとそのことを考えていた。
 考えてもわかんない。てか、わかるんだけど、やっぱりわかんない。
 他にもやり方はあると思う。少なくとも、中途半端な笑いなんかいれないで、もっと素直にやっていいんじゃないかな。
 役者は作品にあってる人とあってない人の差がはっきりしてた。
 きらさんとは一度一緒に作品を創ってみたい。
 あと、ラストの照明はもっと落として欲しかった。
 あれでは、ほんとにしらけるから。
 評価6点。
[劇団五十歩百歩代表・東渦岡若手演劇祭大会審査員伊坂へん子]


コウシロー見たよ。ちょっとよくわかんない。小説家さんが編集者さんと旅する話。まねちゃんが今回もサイコー。あのサングラスほしい!!
[むうむう@マカロン大好きさんのツイート]
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2016年03月27日

ルサンチカ『霧笛』

☆DIVE 2016 京都造形芸術大学卒業生優秀作品展参加作品
 ルサンチカ『霧笛』

 作:イトウモ(象牙の空港)
演出:河井朗
原作:レイ・ブラッドベリ『霧笛』
出演:近藤千紘
(2016年3月27日16時上演の回/ART ZONE)


 先ごろ京都造形芸術大学を卒業したルサンチカの河井朗と近藤千紘が、河原町三条の展示スペースART ZONEで公演を行うというので足を運んだ。
 テキストは、レイ・ブラッドベリの短篇小説『霧笛』を、河井君の依頼でルサンチカとは浅からぬ関係にあるイトウモが一人芝居に仕立て直したもの。
 原作(創元SF文庫の『ウは宇宙船のウ』で手軽に読むことができる)は、「ぼく」(ジョニー)とマックダンの会話や行動を通して、灯台に引き寄せられる怪物(恐竜)の姿を描いたものだけれど、イトウモはそうした作品の結構と核となる部分を活かしつつ、ルサンチカの面々が今どうしてこの作品を取り上げるのかということを一層際立たせる改作を行っていた。
(余談だが、確かこの『霧笛』という作品によって、自分はジョン・ヒューストン監督の『白鯨』の脚本に加えられることができた旨をブラッドベリ自身が語っていたはずだ)

 なぜ今この『霧笛』を上演するのか。
 それを、惜別であり告別であるという言葉で表してしまうと、あまりにも単純に過ぎるかもしれない。
 けれど、作中の怪物のあり様や、それを語る人の姿に、僕はどうしても「何かが終わってしまったこと」への痛切さを感じざるにはいられない。
(その意味でも、この『霧笛』は、卒業制作の『春のめざめ』と「対」になっている)

 と、言っても、そうした痛切さが、大仰にこれ見よがしに振りかざされているわけではない。
 入口ばかりか片側横面ガラスばりで、3階まで吹き抜け、さらにスペース中央には2階までの小ぶりならせん階段が設置されたART ZONEをあるときは駆け上がり駆け下り、あるときは留まりながら、近藤千紘は少年らしさと少女らしさが入り混じった容姿と声である種の軽みも保ちながら演じ切る。
 ただ、だからこそ、なおのことじわじわと伝わってくるものがあるのだ。
 もちろんそれは、ART ZONEの構造、それより何より近藤さんという演じ手の特性魅力を十二分に知り尽くした河井君の演出の力によるものでもあるのだけれど。

 先週の冨士山アネットの企画中に急遽思い立った公演だけに、稽古時間等々、大変さはうかがえたし、ライヴ特有の傷も観受けられたが、かえってその分、近藤さんや河井君の長所プラスの部分を再確認することもできたのではないか。
 僕は、こうして彼女彼らの公演を目にすることができて、本当によかったと思う。

 河井君、近藤さん、改めてご卒業おめでとうございます。
 そして、二人の今後のさらなるご活躍を心より祈っています。
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2016年03月20日

日本海の渦〜第二渦〜『しょーじしげるの尺八鮫』

☆日本海の渦〜第二渦〜「一人ぼっちの日本海 しょーじだけで大丈夫!?」
 『しょーじしげるの尺八鮫』

 原作:三遊亭はらしょう
 構成・演出・出演:勝二繁
(2016年3月20日20時開演/喫茶店uzuビバレッヂ)


 今や三遊亭圓丈の弟子であり、第三の落語家(古典でも新作でもなくドキュメンタリー落語の演じ手)として多方面に活躍する三遊亭はらしょうだが、かつてはハラダリャンの名で京都演劇界を大いにわかせていた。
 2002年の9月(21日、アトリエ劇研観劇)というから15年近くも前に、C.T.T.か何かで小品として発表され、2004年7月(4日、アトリエ劇研観劇)に一本の作品として上演された『尺八鮫』は、そうしたハラダリャンの一人芝居役者としての評価を高めた作品である。
 その『尺八鮫』を、ハラダリャンより直接薫陶を受けた勝二繁が、『しょーじしげるの尺八鮫』のタイトルのもと「一人ぼっちの日本海 しょーじだけで大丈夫!?」なる日本海の企画として演じるというので、迷わず足を運んだ。
 ちなみに、会場は日本海のホームグラウンドである壬生団地内の喫茶uzuビバレッヂ。
 今回もガラス張りの入口側を舞台に、併せて外の景色も効果的に使われていた。

 ただし、『尺八鮫』は『尺八鮫』でも、そこは「しょーじしげるの」と名付けるだけはある。
 終演後確認したのだけれど、今回ははらしょうから送られてきたメモを下敷きに、登場人物はそれに基づきながらも、ほぼ勝二が新たに書き改める形になったという。
 記憶を辿れば、オリジナルの『尺八鮫』が太平洋戦争下の沖縄戦を直接描いているのに対し、勝二は沖縄出身の登場人物たちはそのままに、時代を現代へと移し変えており、そこにも彼の切実な想い、明確な意図が表されているように僕には感じられた。
 男のナニをナニする「尺八」鮫(初演の際、この作品を観た演劇関係の女子高生に「尺八ってなんですか?」と尋ねられ、答えに苦しんだことを思い出す)という設定からして下ネタで、もちろんそれが今夜も笑いに繋がっていたのだけれど、勝二は自分の特性がハラダリャン(はらしょう)のそれとは全く違うことを引き受けた上で、シリアスな含意と感情表現を前面に押し出していたように思う。
 中でも、終盤の痛切さは、強く印象に残った。
 ところどころ粗さや危うさは感じたが、勝二繁の演劇との向き合い方、ばかりではなく社会との向き合い方を識る上でも観ておいてよかったと思える公演だった。

 ああ、面白かった!
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2016年02月14日

第22次笑の内閣『朝まで生ゴヅラ2020』

☆第22次笑の内閣『朝まで生ゴヅラ2020』

 作・演出:高間響
(2016年2月13日19時開演の回/アトリエ劇研)

 なんと今年初めての観劇。
 で、そんなお芝居リハビリ期間中の人間には、どどんと重くなく、笑いどころもたっぷりで、その実考える芽もしっかりある笑の内閣はぴったりの内容だった。

 西暦2020年、北海道は恥骨湖の湖底で深い眠りにあるはずのゴヅラが、突如目醒めようとしていた。
 けれど、そんなゴヅラを商売のダシに使っている地元温泉旅館宝屋の面々は、政府関係者の避難要請の声にも耳を傾けず…。
 といった具合に、第22次笑の内閣『朝まで生ゴヅラ2020』は進んでいく。

 残念ながら旗揚げ公演の『朝まで生ゴヅラ』は観逃してしまったが、今回の作品はそのテイストや枠組みを受け継ぎながらも、99パーセント書き直したという、ほぼ新作となっている。
 時事ネタから下ネタ(だいたい恥骨湖だもんね)、ドリフへのオマージュ等々、あちらこちらに笑いを仕掛ける一方で(向坂達矢の怪演と丸山交通公園の笑い達者さを忘れてはなるまい)、それがまたこの国の様々な現状の寓意ともなっているあたり笑の内閣らしい。
 それとともに、小さな共同体における人と人との繋がり、関係性が高間上皇の作品において重要な位置を占めていることも、改めて確認することができた。
 もちろんそれは、演劇的な構成からくるものでもあるんだろうけど、やはり高間上皇にとって大事なことなんじゃないかなとも思う。
 よい意味でとっちらかる反面、意図せぬだれや冗長さ、粗さを感じたりもしたが、全篇飽きることなく愉しむことができた。
 そうそう、「ゴヅラ」だけあって登場人物名にも工夫が凝らされているんだった。

 初々しい横田絢と土肥未友紀をはじめ、向坂君、ピンク地底人2号、土肥嬌也、丸山君、髭だるマン(妙な色気がとみに増している)、しゃくなげ謙治郎、石田達拡、楠海緒、山下ダニエル弘之(彼は映像作品にもいいんじゃないか)の演者陣は、各々の個性特性をよく発揮していた。
 加えて、劇団メンバーの山下みさおと由良真介のほか、松野井雅、福山哲郎(おお)、中本友菜、迎旭人(!!)が映像出演していた。

 で、ここからは近衛虚作君と高間上皇のアフタートークにもちょこっと関係してくるかな。
 今回の公演を観ながら、これからの笑の内閣って、どういう方向に進んでいくのかなと思ったことも確かだ。
 例えば、笑いや政治性、社会性に重きを置きつつも、「人と人との関係性」や「人の心の動き」がより鮮明に作品の中心となったとき、演者の陣立てに変化があるのかとか。
 もっと単適にいえば、劇団メンバーはもちろんのこと、誰と一緒に新たなステップに上がっていくのか、それとも今はまだ留まるのか、もしくはあえて後ろに戻るのか、とか。
 もしかしたら、今年から来年にかけて、笑の内閣の大きな転機になるのではないか。
 いずれにしても、これからの笑の内閣がますます愉しみである。
 ああ、面白かった!

 17日まで京都公演が開催中で、3月4日〜6日にかけては札幌公演も控えている。
 ご都合よろしい方はぜひ!!
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2016年01月20日

中村梅之助さんの死を悼む

☆中村梅之助さんの死を悼む


 劇団前進座の代表で歌舞伎俳優の、四代目中村梅之助が亡くなった。85歳。
 前進座の看板役者で設立者の一人である三代目中村翫右衛門の長男として生まれ、自らも前進座に入り活躍、さらには代表として劇団の維持運営に尽力した。
 また、テレビドラマや映画にも数多く出演し、中でも『遠山の金さん捕物帳』や『伝七捕物帳』、NHKの大河ドラマ『花神』(村田蔵六=大村益次郎)で知られる。
 ほかに、NHKの大河ドラマ『峠の群像』(近松門左衛門)、同じくNHKのドラマ『真田太平記』(徳川家康)に出演したり、必殺シリーズのナレーションを務めたりもした。
 三谷幸喜に大きな影響を与えたはずの『花神』(長い頭!)には間に合わなかったものの、遠山の金さんや伝七には再放送で子供の頃から親しんだ。
 非人=同和問題に切り込む回(川谷拓三がその他大勢で出演していた)すらあった前進座らしい前者、「よよよいよよよいよよよいよい、めでてえなあ」のフレーズでおなじみ後者(少し前に、AKB48のオールナイトニッポンで誰かがこのフレーズを突然口にしていて、びっくりした)と、いずれも忘れ難い。
 政治的社会的にリベラルな姿勢をとり続けた人でもあった(何せ、戦前の前進座は座員全てが日本共産党員になったような劇団だもの)。
 なお、長男は同じく俳優の二代目中村梅雀。
 深く、深く、深く、深く黙祷。

 十八番の『魚屋宗五郎』の宗五郎や『勧進帳』の弁慶は観逃したけれど、2000年9月13日に、今はなくなってしまった吉祥寺の前進座劇場での『芝浜の革財布』で梅之助さんの姿に接することができたのは、僕にとってよい劇場体験の一つだ。
 実は、この日の一番目の出し物、三好十郎の『噛みついた娘』は、大切な役回りを演じたベテランの女優さんが噛みまくって、これじゃあ『噛みついた娘』じゃなくて、『噛みまくった女優』やないかと内心唖然としていたのだが、梅之助さん演じる熊五郎を目にして、そんな不満はどこへやら、小判を数える熊五郎、花道を颯爽と駆け抜ける熊五郎にはほれぼれとしたものである。
 そして、改めてルーティン(演技の水準を保つこと)の凄さを思い知らされた。
(そういえば、この日は三遊亭鳳楽をロビーで見かけたんだった)

 そうそう、梅之助さんに北のご首領様に、小沢昭一に日本で拉致されて死刑を宣告されたこともある南の大統領に、岡田真澄に北の大国の偉大なる同志に扮してもらい、三人が肩を組み、握手をしあっている姿を撮影してみたかった。
 加えて、有島一郎に日出る国のやんごとなきお方に、芦屋小雁に大陸の革命家に扮してもらえれば最高だったが…。
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2015年12月25日

ふつうユニットの未来会議〜みんなで未来を妄想しよう!〜withネオラクゴ

☆ふつうユニットの未来会議〜みんなで未来を妄想しよう!〜withネオラクゴ

 出演:月亭太遊さん
(2015年12月24日20時スタート/喫茶フィガロ)


 廣瀬信輔君主宰、月亭太遊さん出演の、ふつうユニットの未来会議〜みんなで未来を妄想しよう!〜withネオラクゴだが、元田中(田中大久保町)の喫茶フィガロでのライヴによる開催はこれが一応の最終回。
(来年以降は、廣瀬君が毎回ゲストを招いてのニコニコ動画での中継企画に変わる)
 今夜はなんとクリスマス・イヴということで、喫茶フィガロに足を運ぶまで参加者の人数が心配だった(事と次第によっては、野坂昭如や四宮正貴、水道橋博士、横山ノック、上岡龍太郎、中田久美らのマジギレシーンを再現する覚悟だった)が、なんと久方ぶりの大盛況でまずは何よりだった。

 で、ユーストリーム中継も行われたので詳しくは語らないけれど、未来会議のお題は直球勝負の「恋愛」。
 途中、またもや廣瀬信輔の一人舞台ならぬ一人講義に危なくなりかけたが、太遊さんの必死のフォローや参加者さんからの言葉もあったりして、ここ数回の厳しい状態を回避することはできたのではないか。
(終了後、直接話もしたが、廣瀬君は興に乗ると、どうしても一方的に走ってしまうきらいがあり、大勢のお客さんのいる形より動画中継のほうが柄に合っているように感じる)

 太遊さんが演じたネオラクゴの新作は、『メゾン・ド・ヴィサージュ』。
 クリスマス・イヴに相応しからぬ(いや、相応しい?)、ある種行ききった内容だった。
 そして、前回の『ホログラムの恋人』とまた異なる意味で趣向結構が大きな意味を持つ作品なのだけれど、再演を重ねることでそこら辺りがよりはっきりと見えてくるのではないかと感じた。
 それにしても、こうやって一週間に一作、太遊さんのネオラクゴの新作に接することで、僕自身、創作活動に関して強く大きな刺激を受け続けてきた。
 そのことに、心から感謝したい。

 終了後、前宣伝通り、廣瀬君よりドイツのクリスマスケーキ、シュトーレン(懐かしい!)が振る舞われた。
 実に美味しうございました!

 そして皆さん、メリー・クリスマス・イヴ!!
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2015年12月20日

ないすばでぃプロジェクト『憧れたブラックコーヒー』

☆ないすばでぃプロジェクト
 演劇展示企画『当たり前の風景』から「憧れたブラックコーヒー」

 脚本:ピンク地底人5号
(2015年12月20日18時スタート/siroiro)


 先月末に京都での企画を終えた、ないすばでぃプロジェクトの演劇展示企画『当たり前の風景』を身に、大阪のレンタルスペースsiroiroまで足を運んだ。
 レンタルスペースsiroiroは、地下鉄の中崎町駅から歩いてすぐ、細い道を入ったところにあるその名の通り白色のフラットなスペースで、僕の観た「憧れのブラックコーヒー」ではそれを喫茶店に見立てて舞台として使っていた。

 で、「憧れのブラックコーヒー」は、登場人物の台詞でも言及されているように、「ハードボイルド」や『探偵物語』(探偵役のたっちゃん石田達拡の雰囲気も加わって、『名探偵コナン』ぽくもある)のオマージュ風の展開なんだけど、実は、登場人物の細かい心の動き、心の綾のほのめかしが作品の肝のような気がした。
 ときに寒さや空回りも辞さないやり取りも含めて好感を覚えたが、京都のような掌篇(集)と異なり、一時間近くの尺の作品ということもあり、意図された以上の隙間の埋まらなさというか、時間の不足を感じたことも事実だ。
 そしてそれは、演技を練り上げたりトレースしたりするための時間の不足というより、ピンク地底人5号が狙う自然さ、当意即妙さ、即興性をアンサンブルとして一層高めるための時間の不足だとも思う。
 それと、自然さ、即興性との繋がりからいえば、中盤一度だけ「場面転換」にあたる部分が設けられていたことに、僕はおやと感じた。
 作品の流れから考えればそのまま話を続けてもおかしくないはずだし、もしあそこで流れを切る必要があるとするのであれば、冒頭のように「ラジオ」を挿入してもよかったのではないか。
 そうすれば、冒頭触れられていた事件も伏線として回収することが可能だろうし。
 ただ、全体的にピンク地底人5号の「あるようなないような」「ないようなあるような」作品世界は、僕にとってとてもしっくりくるものであると改めて思った。

 そうした作品世界によく沿った高田美沙希をはじめ、石田達拡、島あや、峰桜花、ガトータケヒロ、ピンク地底人5号の演者陣は、各々の特性魅力を発揮していた。

 ないすばでぃプロジェクトの次回の公演(企画)も愉しみだ。
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2015年12月18日

ふつうユニットの未来会議〜みんなで未来を妄想しよう!〜withネオラクゴ

☆ふつうユニットの未来会議〜みんなで未来を妄想しよう!〜withネオラクゴ

 出演:月亭太遊さん
(2015年12月17日20時スタート/喫茶フィガロ)


 急に寒さが増して、雨まで降り出した今宵も、廣瀬信輔君主宰によるふつうユニットの未来会議withネオラクゴはしっかり開催された。
 今夜のお題は、「映画」。
 なお、先週から会議に関してはユーストリーム中継が始まったので、詳しくはそちらのほうをご確認のほど。
(てか、未来会議だけなら、ユーストリームで接してもおんなじじゃん、という気がしないでもない。まあ、喫茶フィガロのなかなか美味しいコーヒーを味わえたりはするんだけどね。ラディカル!)

 で、太遊さんのネオラクゴの新作は『ホログラムの恋人』。
 それこそ、映画『生きていた男』のように捻りの効いた作品なので、あえて詳細については触れないことにする。
 今後肉付けされるだろうバージョンで、改めて聴いてみたい。
(残念ながら、ネオラクゴのユーストリーム中継はなし。ぜひ、喫茶フィガロへお越しくださいませ)

 来週は、クリスマス・イヴということで、ドイツのケーキ・シュトーレンもあるそうです。
 そして、来週(年内)で太遊さんは未来会議を卒業されるとのこと。
 また、未来会議はネット中継の企画に改まるとのこと。
 その点、皆様ご了解くださいまで。
 と、いうことで来週木曜20時には、喫茶フィガロへぜひ!
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2015年12月11日

気持ちのいいチョップ 第1回

☆気持ちのいいチョップ 第1回

*『頼むから叱ってください』
作・演出:丸山交通公園

*1000本チョップ-戯曲に挑戦-『命を弄ぶ男ふたり』
作・岸田國士
演出:気持ちのいいチョップ
(2015年12月11日15時開演の回/アンテナメディア)


 元月面クロワッサンの横山清正と小川晶弘の二人が、気持ちのいいチョップなる演劇企画を立ち上げたというので、その第1回目の公演を観た。
 公演のメインは、これまた元月面クロワッサンの丸山交通公園の作・演出による『頼むから叱ってください』。
 ほかに、1000本チョップ-戯曲に挑戦-と題して、岸田國士の『命を弄ぶ男ふたり』の前半部分が上演された。
(ちなみに、会場のアンテナメディアは、ギャラリー用の長方形のフラットなスペース。その三方を囲むように丸椅子を置いて、真ん中を素舞台として気持ちのいいチョップは使っていた。なお、会場はガラス扉とガラス窓で道路に面しているため、外から中が、中から外がよく見える)

 さて、西園寺桜子をゲストに迎えた『頼むから叱ってください』は、どうやら学生劇団のOBとその後輩による三人芝居、という体で始まる。
 で、明日まで公演が控えていることもあって、あえて詳細は省略するが、心身両面でのアクロバティックな展開に、作者自身や演者自身の切実な想い、さらには演劇的趣向が盛り込まれた笑いの仕掛けの多い作品で、演者陣も奮闘…。
 であることは確かなのだけれど、一方で、打ち上げ花火の打ち上げられる間隔がどこかずれているというか、作品の結構内容が完全に活かされきっていないもどかしさを感じてしまったことも、残念ながら事実だ。
 そしてそれは、単なる技術的な巧拙だけではなく、脚本と実際に演じられたものとの齟齬(より詳しくいえば、丸山君が演者陣に「あてて」書いた部分の演技と、丸山君が自身を仮託した部分における演技の齟齬)も大きく関わっているのではないかと感じられた。
 一例を挙げれば、じゃがまさ横山君。
 中盤、東映プログラムピクチュアもかくやと思わせる演技を、横山君は見せる。
 どうにも不器用で上手く生ききれてなさをためた横山君には、まさしくぴったりの場面であり、いいぞ! じゃがまさ行け! 行ききれ! と僕は内心念じる。
 が、そこで彼は観客の視線を過度に意識してしまう。
 と、いうかどこかで笑いをとろうとすることに意識が向かう。
 むろんそのこと全てを否定するわけではないが、やはりシリアスに徹しきるからこそ、「笑い」の部分がもっとずっと活きてくるのではないか。
 たぶん、丸山君自身が演じるとまた印象も変わってくるはずだが。
(「ここまで演らなきゃ駄目なんだ」、「喜劇を演ろうと思うな」と、最晩年のエノケンこと榎本健一は『最後の伝令』の稽古に立ち会った際、叫んだという)
 他方、一歩脇に回った感のある小川君は、作品の要所を押さえた演技を心掛けていた。
 この作品で一端が示された、小市民的善良さの内面に潜む悪意を、次回以降は存分に発揮してもらいたい。
 西園寺さんは、ある意味損な役回りなのだけれど、ラストで大いに救われている。

 『命を弄ぶ男ふたり』は、正直言って「興行的」には蛇足というほかない。
 いや、彼らが過去の名作戯曲に挑むという企画の意味合いは充分理解できるし、『頼むから叱ってください』と通ずる切実な想いもよく伝わってきたのだが。
 作品に相応しい演出(演技指導)を得ないままの上演であれば、身体性の問題や癖、テキストの読み込みをはじめとした演技的課題がそのまま提示されるだけに終始してしまい、結果二人にとってもお客さんにとっても全く損だ。
 もちろん諸々事情もあるだろうから、すぐに強制することは出来ないが、それならそれで、例えば岸田國士を演じるならどの映画なりなんなりが参考になるといった情報を伝えることも可能だ。
 せっかくの挑戦なのだから、出来得るかぎりの体制で臨んでもらえればと思う。

 横山君、小川君の今後のさらなる飛躍と活躍を心より、本当に心より祈りたい。
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ふつうユニットの未来会議〜みんなで未来を妄想しよう!〜withネオラクゴ

☆ふつうユニットの未来会議〜みんなで未来を妄想しよう!〜withネオラクゴ

 出演:月亭太遊さん
(2015年12月10日20時スタート/喫茶フィガロ)


 今回のお題は、「電話(通信手段)」。
 と、いうことで、太遊さんの提唱で急遽ユーストリーム中継が行われた、ふつうユニットの未来会議withネオラクゴだが、夕方からの雨もあってか、参加者がちょっと少なかったのは非常に残念だった。

 で、ユーストリーム中継を大いに意識しつつ、ふつうユニット主宰の廣瀬君と太遊さんが未来の電話、並びに通信手段、さらには臭覚と感触など、幅広く話を繰り広げていった。

 そして、最後に太遊さんがネオラクゴの新作『男は黙ってサイレントコール』を演じた。
 女性のもとに突然意味不明な電話がかかってくる、果たして電話の相手の正体とは…。
 突拍子もない人物設定と展開で、ネオラクゴの旧作と大きく関わる作品であるとともに、新たなシリーズの誕生でもある作品となっていた。
 今後の進化が実に愉しみだ。

 もちろんユーストリームもいいけれど、やっぱり生で参加していただければ。
 来週も木曜夜20時から、元田中の喫茶フィガロで開催予定です。
 お題は「映画」で、皆さんもぜひ!
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2015年12月06日

ルサンチカ『春のめざめ』

☆ルサンチカ『春のめざめ』

 作:フランク・ヴェデキント
 構成・演出:河井朗
(2015年12月6日16時開演の回/京都芸術劇場春秋座)


 河井朗と近藤千紘を中心とした演劇ユニット、ルサンチカが今年度の京都造形芸術大学舞台芸術学科の卒業公演として上演したのは、フランク・ヴェデキントの『春のめざめ』だ。
 『春のめざめ』は、少年期から青年期へと移り行く中で性(生と死)の衝動に目醒め、大人たちとの桎梏に葛藤する十代半ばの若者たちの姿を描いた、ヴェデキントの出世作として知られている。
 河井君はそうした作品の性質を当然踏まえつつ、今現在に、それも卒業制作としてこの『春のめざめ』が上演されることの意味を示すべく様々な仕掛けを施していたし、登場人物の言葉や、舞台上の彼らの姿(疾走!)から、そうした切実な想いはよく伝わってきた。
 特に、少年少女たちが望むと望まざるとに関わらず、自らの変化に直面し、家族や社会と対峙せざるをえなくなったあたりには、それではお前は何をしてきたのか? 何をしているのか? と問われているように感じられてならなかった。
 また、若干邪劇風に傾きつつも、表現主義的な表現を現在に移し変える試みも為されていたし、それより何より、終盤のリリカルで感傷的でありながら、ある種向日的でもある表現は、京都学生演劇祭での『星の王子さま』や京都演劇フェスティバルでの『楽屋』とも共通する、ルサンチカの持ち味であり強みであるとも思った。
 ただ、そうした彼彼女らに好感を覚えるからこそ、そして、今回の上演から強い問いかけを感じ取ったからこそ、僕は彼彼女らとは異なる「スタイル」と異なる「心性」でもって表現活動を続けていくということを、あえてここに記しておきたい。

 近藤さんや永井茉梨奈(近藤さんで『サロメ』を観てみたいなら、永井さんでは『トスカ』を観てみたい)、高市章平、木村さやか、寺尾実里、伊藤帆乃香、河井君の演者陣は、各々の特性魅力や舞台芸術学科での研鑚のあり様と、作品公演に対する真摯さがよくわかる演技を重ねていた。

 最後に、河井君や近藤さんをはじめ、この公演に関わった全ての人たちの今後の一層の活躍を心より祈願したい。
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2015年12月05日

ふつうユニットの未来会議〜みんなで未来を妄想しよう!〜withネオラクゴ

☆ふつうユニットの未来会議〜みんなで未来を妄想しよう!〜withネオラクゴ

 出演:月亭太遊さん
(2015年12月4日20時スタート/喫茶フィガロ)


 廣瀬信輔君主宰の、ふつうユニットの未来会議withネオラクゴだが、今夜のお題は「画ジェット」(道具)。

 まず、ドローンに自分の荷物を繋げて一緒に移動する(道具)という廣瀬君の提案を肴に、廣瀬君と太遊さんがいろいろと話を拡げたところで、太遊さんがネオラクゴの新作『言葉言語郎(ことのはげんごろう)』を演じた。
 「はじめに言葉ありき」
 というヨハネ福音書の一節から、話は始まる。
 で、会話によるコミュニケーションをスムースに行うための道具の実験へと、話は進んでいく。
 言葉を扱う作業を続けているからこそ、ここのところ言葉の限界について考えている人間にとって、ぐっと刺さるもののある内容だった。
 そして、上っ面な言葉をいくら重ねても内実が伴わなければ一緒だということも改めて強く感じた。
 もちろん、登場人物の造形など、笑いの仕掛けもしっかりあったのだけれど。

 その後、ガジェットに関する会議が続いたが、未来のガジェットは、コンパクトであること、(それぞれの道具を開発することで)「退化(後退)」しないことが大切であるという結論に達した。
 また、指の動きと対応した道具の開発、進化の重要性についても触れられていた。

 最後に、遅れて来たお客さんのために、太遊さんが古典落語の『拾得』をテンポよく演じて、会を〆た。

 来週のふつうユニットの未来会議withネオラクゴは、いつもの通り木曜日の20時からスタート。
 皆さん、フィガロにぜひ!
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2015年11月29日

ないすばでぃプロジェクト 演劇展示企画『当たり前の風景』

☆ないすばでぃプロジェクト 演劇展示企画『当たり前の風景』

 脚本とか:ピンク地底人5号
 出演:浅田麻衣、木村駿平、島あや、畑迫有紀、ピンク地底人5号、峰桜花
(2015年11月28日20時半頃入場、22時過ぎ退場/a.room)


 菅一馬とピンク地底人5号が主宰するユニット、ないすばでぃプロジェクトが演劇展示企画なる企画を開催するというので、足を運んだ。
 場所は、大宮通を南に下って松原通を西に入った、壬生川松原の西北角にあるビルの3階・303。
(って、言葉だけではちょっとわかりにくいので、ないすばでぃプロジェクトのHPやtwitterをご確認のほど)
 お客さんが座る木製の長椅子や、上演用の椅子、小道具類のほかは、これといって飾り立てられていない、まさしく展示用のギャラリー・ルームが会場となっている。
 ちなみに、上演部分をぎゅぎゅっと凝縮した定時開演の回もあるんだけれど、こちらはあえて平場、というか平常展示のほうを選んだ。

 で、場所の確認でお手数をかけたのち、会場へ入ると、演者陣がめいめい立ったり座ったり。
 と、こちらの間合いをはかった感じで、一組目が10分ほどの掌篇作品を演じ始めた。
 今夜拝見したのは、『サンタ目撃』(浅田さん、木村君。木村君、好漢なり)、『ハナが見る世界』(峰さん、5号君)、『橙色に揺れる』(島さん、畑迫さん、5号君)の三篇。
 あえて詳しい内容には触れないけれど、『当たり前の風景』というタイトルそのままに日常の一コマを切り取り、ながら、そこに捻りと工夫が加えられているという展開。
 滑稽さ、おかしさが盛り込まれていて、時折くすっとするが、逆に細やかな心の動きにはっとさせられるところもある。
 強弱など、演者間の丁寧なやり取りも心掛けられていて、全篇好感を抱いた。

 演者陣も、そうした作品世界に沿う努力を重ねていたのではないか。
 身近な場所で拝見したこともあって、個々の特性や魅力がよく表われているように感じた。

 上演のやり方や終わらせ方、繋ぎ等々、手さぐり状態の部分も大いに見受けられたが、それが面白くもあったし、それより何より、今後の演劇公演のあり方を考える上で非常に興味深い企画だとも思った。

 これ見よがしでない絵画を愉しむような感覚で、ご都合よろしい方はぜひ!
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2015年11月27日

ふつうユニットの未来会議〜みんなで未来を妄想しよう!〜withネオラクゴ

☆ふつうユニットの未来会議〜みんなで未来を妄想しよう!〜withネオラクゴ

 出演:月亭太遊
(2015年11月26日20時スタート/喫茶フィガロ)


 今夜の、ふつうユニットの未来会議withネオラクゴのお題は、「勉強」。
 高校までの学校の勉強には四苦八苦したが、こんな勉強ならば大いに嬉しいかぎりだ。

 で、廣瀬君のほうから、ネットと市井の人材を組み合わせた新しい教育システムの提言があったのち、太遊さんがネオラクゴの新作『妨げマーラ』を演じた。
 勉強に打ち込む青年のもとに現われた留学生の少女は、色仕掛けで彼を籠絡しようとするが…。
 OO7シリーズなど、ネタふりがマクラで丁寧に行われたり、いわゆる「下ネタ」が効果的に盛り込まれたりと、笑いどころの多い作品に仕上がっていた。
 もちろん、そこはネオラクゴのこと、考えどころがきちんと用意されていたり、「不確実性」の試み(って、小難しく書いてるけど、そこは接してのお愉しみ)がなされていたりと、単簡には終わらない。
 ああ、面白かった!

 その後も教育に関するトークが続いたが、興味深かったのは、「共感して共に動く」、「おだてて動かせる」、「畏怖で強制する」という趣旨の教育の三つ要素。
 そうそう、あと「シェアおっさん」なるシステムが気になった。

 と、今夜も盛りだくさんのふつうユニット未来会議withネオラクゴでした。
 ちなみに、来週は12月4日・金曜20時から、同じく元田中の喫茶フィガロさんで開催の予定です。
 皆さん、お間違えなく!
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2015年11月23日

日本海 短編朗読っぽい劇『日本海のuzu〜第一渦〜』

☆日本海 短編朗読っぽい劇『日本海のuzu〜第一渦〜』

 出演:小嶋海平、勝二繁(以上、日本海)、木下圭子、小中太
(2015年11月22日19時半開演/uzuビバレッジ)


 川端康成に『掌の小説』という作品集がある。
 意味は全く異なるけれど、朗読にちょっとした演技や小道具を加えた日本海の短編朗読っぽい劇『日本海のuzu〜第一渦〜』は、物質的にも精神的にも自分たちの出し得る限りの力で、お客さんたちに出来得る限り愉しんでもらいたいという気持ちがしっかり感じ取れた、それこそ「掌の劇」と呼びたくなるような内容だった。
(ちなみに、会場のuzuビバレッジは壬生団地内にある喫茶店で、上演スペースはガラス張りの入口側。ドアを開けた野外も効果的に使用されていた)

 まずもって、広辞苑の言葉の解説に独自の言葉を加えてユーモラスな味わいの小嶋君作による前口上『広辞苑』からして、そうした彼彼女らの姿勢がよく示されていて嬉しい。

 で、続く室生犀星の『しゃりこうべ』は死の気配を強く感じる作品だが、そこにおかかなしさを見ようともした解釈で、お店の方が特別出演。
 昨年12月の『カゾクノカタマリ』と繋がる赤い糸、ならぬ赤い紐も印象に残った。

 夢野久作の『ガチャガチャ』は虫の世界を通した寓話。
 面白うて、やがていろいろと想う、含みのある掌篇だ。

 そして、岸田國士の『ここに弟あり』を四人が演じ分ける。
 岸田國士自身ばかりか、演者陣の来し方もまた想起させるような設定の一幕物で、兄弟間の心の行き違いが、弟と同居する女性の感情を交えながら、滑稽さをためて描かれており、最後は心がすっと動かされる。
 兄小嶋君、弟勝二、弟と同居する女性小中さん、ト書き木下さんという配役の妙もあって、すっと物語が耳に、心に入っていった。
 やっぱり岸田國士は面白いな。

 声質という意味でもバランスのよくとれた顔ぶれで、全篇良い音楽を聴くようにしっくり愉しむことができた。
 日本海は、今後も継続的にuzuでの企画を予定しているそうで、次回以降も心待ちにしたい。
 ああ、面白かった!
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京都大学NF・自主制作演劇企画 舞台芸術研究会『終合唱』

☆NF 舞台芸術研究会『終合唱』

 原作:ボート・シュトラウス
 脚本・構成:一人静
 演出:野村眞人
(2015年11月22日16時20分開演/京大吉田南構内4共11教室)


 昨年の京都学生演劇祭(ウトイペンコ)で鮮烈な印象を残した野村眞人が初演出を披露すると知り、二日続けて京都大学の学園祭NFまで足を運んだ。
 企画団体は自らの所属する舞台芸術研究会で、テキストはドイツのボート・シュトラウスの『終合唱』を、これまた昨年今年の京都学生演劇祭で鳴らした一人静が構成・脚色した非常に刺激的なもの。
 初演出の気負いと同時に、野村君の美的感覚や演劇的志向が全面的に表わされた上演だったと思う。

 舞台芸術研究会のツイートには、「当時のドイツの強すぎる時代性、政治性から戯曲を開放し、現代日本において上演される意味を追及した意欲作となっています」とあったが、テキストそのものとしてはベルリンの壁崩壊辺りから、ドイツ統一以降の諸状況への原作者の政治的意図、思想信条が慮れるとともに、一人静らしい工夫が施されるなど、それに対して今回の上演者側の姿勢がどのようなものであるかも充分に理解できるような内容となっていた。
(実は、僕がケルンに滞在していた1993年〜1994年当時、ボート・シュトラウスの言動がドイツ国内でいろいろと問題になっていたのだけれど、そのことはここではあえて省略する)
 また、演出面でもテキスト同様の姿勢が表層的には明確に示されていたと感じた。
 特に、原作を反転させるというか、一層のカリカチュアライズが意図されていた点は、非常に興味深かった。
 ただ一方で、そうした表層的な姿勢と演者陣の内面との齟齬、乖離を強く覚えたことも事実だ。
 そして、僕には、シアトリカルな意匠と実際の演者陣の演技との齟齬、乖離以上にその点のほうが気になりもした。
 もちろん、NF演劇企画という枠組での一回限りの上演に、限られた稽古時間等々、そもそもの厳しい条件もあるわけで、だからこそ、より演者と観客の関係性を破壊するような無謀無茶な試みが行われてもよかったのではないかと感じた。

 圧倒的な存在感を示したベテランの柳原良平や、独特のフラが嬉しい中西みみずをはじめ、アライキシコ、すっ太郎といった演者陣は、演出の意図に沿う努力を重ねていた。
(そうそう、最終盤の長台詞は奥村奈緒に任せることが、座組的な事情としても、演劇的な効果としても、確かに「正解」ではあるのだけれど、あさのふみやショートカットの眼鏡の女性にスライドさせても面白かったのではないだろうか)

 いずれにしても、稽古時間や会場等、より好条件の中で野村君の演出がどのように為されていくのか、次回の公演を愉しみにしたい。
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2015年11月21日

丸山交通公園ワンマンショーinNF『平成ぼやき講座』

☆丸山交通公園ワンマンショーinNF『平成ぼやき講座』

 出演:丸山交通公園
(2015年11月21日17時20分開演/京都大学吉田南4号館4共11講義室)


 11月といえば、京都大学の学園祭NF。
 その演劇企画に、我らが丸山交通公園が参戦するというので、おっとり刀で駆け付けた。
(やっぱり、自転車がないのは辛い)

 で、今回のネタは、自作のフリップ(画用紙にマジックで字を書いたもの)を使った『平成ぼやき講座』。
 人生幸朗・生恵幸子のぼやき漫才をパクったと冗談交じりで言うように、ぼやきの部分はどちらかというとありがちなものもあったりするんだけれど、そのチョイスの端々に丸山君らしい深淵がのぞいていたりもする。
 が、それより何よりエネルギーとパワー。
 粗さもなんのその、その熱気が凄い。

 けれど、僕自身は途中の劇中劇、というか話中話にさらなる丸山交通公園らしさを観、聴き、感じた。
 おかかなしいねえ。
 そして終盤、彼のこととしてだけではなく、我がこととしても笑うに笑えない、でも笑ってしまう一コマも用意されていた。

 いずれにしても、丸山君の輝かしい未来を心より願いつつ、次回のワンマンショーを愉しみにしたい。
 ああ、面白かった!
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2015年11月20日

ふつうユニットの未来会議〜みんなで未来を妄想しよう!〜withネオラクゴ

☆ふつうユニットの未来会議〜みんなで未来を妄想しよう!〜withネオラクゴ

 出演:月亭太遊さん
(2015年11月19日20時スタート/喫茶フィガロ)


 廣瀬信輔君主宰による、ふつうユニットの未来会議〜みんなで未来を妄想しよう!〜withネオラクゴの今夜のお題は、「ペット」。
 諸事情で月亭太遊さんの出演は後半からとなったりもしたが、そこは勝手知ったる常連の参加者たち、各々未来のペットを妄想して、大いに盛り上がった。

 まずは、廣瀬君のほうより未来のペットの代表例としてある動画が流され、説明が行われる。
(あえて詳細は省略)
 その後、手のりポニーであるとか、成長しないヒヨコといった妄想に、ある種の粘菌や3Dプリンター、有機ナノ(ポケベルが鳴らなくて、じゃないよ)といった理工的知識を駆使して廣瀬君が解説を加えれば、それに対して参加者さんも丁々発止と応じる。
 ロボット型猫(猫型ロボット、じゃないよ)や、サラブレッドの自動車化(足にタイヤを付けて)、性的な意味ではない異性の代わりとなるペット(コミュニケーション可能)といった妄想が続き、ついには反物質ペットにまで会議は到った。

 と、ここで太遊さんが登場。
 ネオラクゴの新作『お庭の奥のマムー』を演じた。
 人工知能マムーを転移させられた大きな大きなバイソンは、とある屋敷で飼い置かれることとなるが…。
 といった具合で、打ち合わせがなかったにもかかわらず、今夜の会議とも深く繋がる内容となっていた。
 終盤、ネオ度が一気に上昇したが、「疑う」という一連の作品との共通する主題も、しっかり込められていたと思う。

 以上、非常に密度が濃いい、ふつうユニットの未来会議withネオラクゴだった。
 ああ、面白かった!

 そして、来週のお題は「お勉強」。
 太遊さんのネオラクゴの新作ともども、実に愉しみだ。
 ご都合よろしい方はぜひ!!
posted by figarok492na at 02:04| Comment(0) | TrackBack(0) | 観劇記録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする