2024年06月14日

熊谷みずほプレゼンツ4「グッナイ」

☆熊谷みずほプレゼンツ4「グッナイ」

1・終わりが無かったら良かったのにな(熊谷みずほ作)
2・替えがないのに汚れた(丸山俊吾作)
 演出:丸山俊吾

 出演:ヤマナカサヨコ、熊谷みずほ
(2024年6月14日17時開演の回/the SITE)


 前も書いたことだが、50を前後してワーグナーの楽劇『トリスタンとイゾルデ』がぐっと身に沁みるようになってきた。
 と言って、突然老いらくの恋に覚醒したわけではない。
 自らコントロールしたくともできない、やむにやまれぬ心の動きの強さ、痛切さ、人生のはかなさが我が身のこととしてようやく実感できるようになったからである。

 そういえば、熊谷みずほさんがnoteにアップしたある文章に目を通したとき、『トリスタンとイゾルデ』の旋律がすぐに脳裏を過った。
 なぜなら、あの楽劇の筋書きと通じるような出来事、真情が赤裸々に書き連ねてあったからだ。
 そこには、それを率直に吐き出さざるを得ない弱さとともに、傍からどう見られても構わないという覚悟というか自負というか強さもあって、思わずかなわんなと呟いたほどだった。

 熊谷さん企画による演劇公演、熊谷みずほプレゼンツ4『グッナイ』の前半、熊谷さんの自作「終わりが無かったら良かったのにな」にもまた、そうした弱さと強さをはじめ、虚と実、危うさと安らかさ、静と動、生と死といった一見相反するようでありながら、その実コインの裏表のような感情や関係が繊細に織り込まれていて、ぐっとひき込まれた。
 もちろん、この作品、ヤマナカさんと熊谷さんの演技には『トリスタンとイゾルデ』のようなときに過剰ですらある音楽は必要ない。
 二人の言葉、声がすでに音楽のように聴こえてきたから。
 今時、性別を分けて記すのもなんだが、女性の演者さんへの丸山君の演出の確かさは、すでに月面クロワッサン番外公演 月面クロワッサンのおもしろ演劇集『強く押すのをやめて下さい』(2014年3月/人間座スタジオ)などで証明済だ。
 「終わりが無かったら良かったのにな」では、なおのこと作品演者との関係性が活かされていたのではないか。

 緊張と緩和。
 後半、丸山君の自作「替えがないのに汚れた」は一転してファルス的な構え。
 それでいて、まさしく一期一会の余韻が残る。
 僕は、友達図鑑2回目『友達図鑑のかたくなにゆでる』(2012年2月/人間座スタジオ)以来、丸山君が書いて演出するお芝居が大好きで仕方ないのだが、僕にとっての彼の芝居の魅力は色川武大言うところの「おかかなしさ」だ。
 おかしさの中に深淵がのぞく。
 弱さと強さ、強さと弱さの同居。
 笑いにまぶしつつも何かを吐き出さずにはいられないもの狂おしさ。
 熊谷さんが丸山君を信頼するのもよくわかる。
 で、ここで感嘆したのは、ヤマナカさんと熊谷さんの顔がさっと変わったこと。
 あえて演技とは書かない。
 もうまるで別人というような。
 熊谷さんが時折丸山君のような台詞遣いをする箇所があったのもおかしかった。
 そして、だからこそ、そういう設定はないだろうに、「終わりが無かったら良かったのにな」と「替えがないのに汚れた」の二人は同じ人物なのではという錯覚に陥った。
 人には様々な側面があって、いつどのようにコインが裏返ってしまうかわからない。
 観終えたあとしばらく経って、じわじわとそのようなことを考えてしまった。

 二作で40分弱というのも、個人的にはありがたかった。
 明日までの公演。
 お時間おありの方はぜひ!!
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2022年12月16日

熊谷みずほプレゼンツ3「五里夢中」

☆熊谷みずほプレゼンツ3「五里夢中」

 作・演出:熊谷みずほ
(2022年12月16日15時半開演/the SITE)


 うつし世はゆめ
 夜の夢はまこと

 とは、江戸川乱歩の言葉だけれど、熊谷みずほプレゼンツ3「五里夢中」ってまさしくそれだなとふと思った。
 1.死んでしまった恋人の夢のはなし、2.まだチューリップにならないで、3.27時の恋、+毒を仕込まば待つだけ、いずれも夢が大きな意味を持つ小品四篇だが、それとともに死や告別もまた色濃く描かれた作品だった。
 熊谷さん個人をある程度知っている上に、ほんの少し前に身近であった出来事もあって観るこちら側がどうしてもうつし世に引きずられてしまいもしたけど、より抽象的で普遍的な寓話ともなっていたし、それこそ毒のある滑稽さも仕込まれていて、第1回目の『墓入り娘』からこの間の熊谷さんの芝居の作り手としての変化がよくわかった。
 言い換えれば、もとよりの熊谷さんの強さと弱さ、賢さと愚かさ、かわいさと意地悪さが一層洗練されて表現されたというか。
 それをまた飯坂美鶴妃、藤村弘二、横山清正がよく演じていたし、熊谷さんがそうした三人の魅力をよく引き出してもいた。
(『墓入り娘』の感想でも記したのでくどくどと繰り返さないが、当然それは熊谷さんのプラスばかりでなく、自分はこう演じたかった、自分ならこう演出するのにといった演劇的なマイナスの経験の反映でもあるだろう)
 まずは、四篇全てに出演した飯坂さん。
 一つ一つの内容にあわせて表現を細かく変化させる一方で、演じ手としての核になる部分がしっかり窺えてとても嬉しかった。
 また、藤村君は単純に技量をつけるだけでなく、よい意味で初めて接した頃の不器用さ、生きづらさを演技の中に未だに保ち続けて役柄に合っていたし、横山君はシリアスさの中に怪しさうさん臭さ、やってるやってる感があって観ていて愉しい。
 あと忘れちゃいけない、勝手に京都小劇場の千葉繁と呼んでいる横山君の声がまたよかったんだ。
 いずれにしても、僅か30分間とは思えない濃密さを感じることができた公演で、足を運んで本当によかった。
 そうそう、全てが終わっても、よかったらすぐには席を離れず、劇の余韻に耳をすませてもらえればと思う。
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2022年09月17日

第30次笑の内閣『なんであんたはんは市会議員になれへんのか』

☆第30次笑の内閣『なんであんたはんは市会議員になれへんのか』

 作・演出:高間響
(2022年9月17日18時開演の回/THEATRE E9 KYOTO)


 昨年7月の第29次笑の内閣『マクラDEリア王』以来、1年以上ぶりの観劇である。
 ただし、自分自身舞台上の美術(選挙の「ため書き」)に写真出演している上に、服用している薬のせいで1時間以上観劇できない状態のため途中退座した部分があることもあり、今回の感想はあくまで参考記録であることを最初に断っておきたい。

 助駒市中央区にある寄席三十三堂亭が存続の危機を迎えた。
 そんな中、芸人たちが考え付いたのは、次期市会議員選挙に自分たちの三十三堂亭を護るべき存在を立候補させること。
 そして、かつて三十三堂亭で活躍し、今は東京を活動拠点とする漫談家漫画武郎こと、龍池裕士に白羽の矢が立った。

 といった筋書きを初めに目にしたとき、市会議員選挙開票の日に高間響とともに最後まで選挙事務所に残った一人(ほかに山野博生君もいた)として、家庭的個人的あれこれを経て、ようやく彼も自分の選挙戦を創作化することができたかと感慨を覚えたものだ。
 そう、この『なんであんたはんは市会議員になれへんのか』は、高間君の作品の中で最近とみに色濃くなってきた「私戯曲」的性格が一層強く反映した内容となっている。
 むろんそこは、喜劇の書き手という矜持に加え、今後の展望へのふくみもあってだろう、演劇から演芸へ舞台を移すばかりでなく、高間君の投影である龍池裕士をはじめとした登場人物の造形や、さらには劇団員である髭だるマンや由良真介の役の与え方など様々なバランスもとられてはいるのだが。

 作品自体、ここ数年の高間君の変化がよく示されており、ときにはっとさせられるような見せ場聞かせ場があった反面、シラスでのラジオドラマの放送という構成もあってか、核となるものが詰まり切っていない物足りなさを感じたことも否定できない。
 後述講談で自虐的に語っていた玉田玉山の大声張り声は藝のうちとして、あの飯坂美鶴妃や松田裕一郎その他が大劇場並の大きな声で喧しかったのは、そういった詰まり切らない部分を熱量で押し切ろうとしているんじゃないかとすら僕には思われて仕方なかった。
(3回目の上演回、実況中継の回ということも考慮に入れなければなるまいけれど)
 これが昔の笑の内閣のぐだぐだ上等(誉め言葉でもある)の演者陣ならまだしも、真面目に本寸法の芝居を心がけているだけに、戯曲と演者、演出と演者、演者どうしの齟齬が目立ってしまったのかもしれない。
 その意味で、ガチンコとプロレスのあわいにある高間君のぐだった演技が僕には一番おかしかった。

 当夜の白眉はアフターイベントのミニ寄席。
 トップバッターBANRIの歌謡ショーでは、彼女が自分の自己顕示欲を意識的に外向けに発していることがよくわかった。
 実は、彼女のことをちょっとちゃんみお楠海緒さんみたいな人かと思っていたのだ。
 楠さんの場合は、自己顕示欲を秘めようとするがそうならず、その反動が内側(自分の内面と舞台裏)に向かっていた気がする。
 そして、頓服亭座薬こと松田さんの落語『酒の粕』、焼酎亭ロックこと谷屋俊輔の落語『ぜんざい公社』を挟んだ圧巻は、玉田玉山の講談『玉田玉山物語〜高間響との戦い〜』。
 かつての丸山交通公園としての体験とプロの講談師玉田玉山としての研鑽が重なり合って、心底愉しくおかしくわくわくする出し物になっていた。
 ああ、面白かった!!!

 そうそう、他に高瀬川すてらと宗岡茉侑が耳なじみのよい声を聞かせてくれていたのも嬉しかった。
(宗岡さんがナレーションの中で京都三条会商店街のお店を「ケーキのあっくん」と呼んでいたようだが、「ケーキとあっくん」が本来のお店の名前なので、もしそう呼んでいたら高間君あたり、一言訂正を入れておいたほうがよいと思う)
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2021年07月23日

第29次笑の内閣『マクラDEリア王』

☆第29次笑の内閣『マクラDEリア王』

 作・演出:高間響
(2021年7月23日13時開演の回/THEATRE E9 KYOTO)

 東京から地方都市鰤天(ブリテン)市に拠点を移した演劇界の大物演出家千葉ジョーは、公営劇場イルミネーションシアターの次期館長に選ばれるが、彼はハラスメントの常習犯で…。

 といった具合に、昨年9月の第28次笑の内閣『東京ご臨終〜インパール2020+1〜』からちょうど10ケ月ぶりの観劇となる同じ笑の内閣の『マクラDEリア王』は進んで行く。
 シェイクスピアの四大悲劇の一つおなじみ『リア王』に、地点の三浦基さんが劇団員に起こしたパワーハラスメントとロームシアター京都への館長就任にまつわる騒動や、北九州におけるセクシャルハラスメントの問題など演劇界が抱える様々なハラスメントの問題を重ね合わせた趣向結構というわけだが、そこは高間君のこと、各種くすぐりやプロレス等々、邪劇性にも十分十二分に飛んでいて笑の内閣らしい芝居になっていた。

 などと、それらしいことを書いているけれど、幕が開くまでは、笑の内閣ならぬ、自分は笑の無い客になってしまうのではないかと内心強く心配していたことも事実だ。
 一つは、昨今のコロナやオリンピックがらみのグロテスク極まる現実の悲喜劇喜悲劇の連打もあって、小劇場界というミニマムな問題を織り込んだ虚構を自分が心底愉しめるのかという疑問があったからなのだけれど、もう一つは、高間君自身や笑の内閣(集団としてもそうだし、個々の公演としてもそうだ)のこの間のあり様に大きく関わっている。

 旗揚げ公演はひとまず置くとして、僕が親しく接するようになった頃の笑の内閣と高間君の作劇の特性を単純にまとめるとすれば、短いスパンでの場面転換で交差し混交する社会的時事的主題を担保するための長めの「説明台詞」と高間君の真情が前面に押し出されたり背後に隠されたりするエモーショナルな言葉を、演技力ではばらつきはありつつも、個性に富んだ若い演者陣がやたけたさ全開で面白いものに仕上げていたということに尽きる。
 だが、それから10年近くが経ち、上述したような性質は未だに残しつつも、高間君のスタイルに大きな変化が起こった。
 メタ的な仕掛けなど演劇的志向が一層試行されるようになってきたし、周囲の人々への強い想いに裏打ちされた人間観察にも磨きがかかってきた。
(当然それは、政治的活動も含めた社会的認知度の上昇による自負や自覚、他方での家庭的な「破綻」の小さからぬ反映でもあろう)
 同時に、それに伴って笑の内閣の座組みも、それまでの良くも悪くも共同体的ゲマインシャフト的(まあ、高間君がやる芝居だから出るっきゃないか!)なものから、より利益性機能性が増したゲゼルシャフト的(この公演は自分にとってこれこれこういうプラスがあるので出演したい)なものへと傾き始めた。
 その分、演技力の高い演者が顔を並べるようになったのだが、ここがお芝居の難しいところで、ただ巧いだけじゃあ愛嬌がなくなる。
 かえって上述した高間君の本の要所急所も露わになったりもして、主題の選択の妙から玄人受けは増してきたものの、学芸会的な愉しさにも精度を極めた三谷幸喜流儀のウェルメイドプレイにも振り切れない宙ぶらりんの状態がここ数年間、笑の内閣は続いてきたのではないか。

 ところが、今回の『マクラDEリア王』では、リア王ならぬ千葉ジョーの萬谷真之をはじめ、山岡美穂、熊谷みずほ、斉藤ひかり、杉田一起、飯坂美鶴妃、白石幸雄、野口萌花、中路輝、三鬼春奈、松田裕一郎、由良真介ら演者陣の均整がなべてとれていた。
 二日目の昼ということもあってかライヴ特有の傷はあったが、緩急強弱といった感情面台詞面のギアのチェンジなど作品に副う努力が重ねられていたし、色気やフラ(おかしみ)といった個々の魅力も明確に出ていた。
 結果、作品としての面白さはもちろんのこと、今演劇に関わるということの意味や意義もよく伝わってきたように感じた。
 中でも、感心したのが実質上の悪役瀬戸主水を演じた髭だるマン。
 以前はそれいけどんどん押し一辺倒だったのが、アクの抜き方、引き方が見事で、演じる役柄の陰影がぐっと濃くなった。
 今後の彼の活躍にますます期待したい。

 一つないものねだりをするとすれば、千葉ジョーの「凄さ」を知らしめるシーンか。
 それこそ三浦基風の本気の演技の本気の場面をどこかに挟めば、小林賢太郎も真っ青の苦い笑いが生まれた気がする。
(なんなら飯坂さんや三鬼さんあたりに「仮面」をつけてやってもらえばいい)

 ああ、面白かった!!!
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2020年09月21日

第28次笑の内閣『東京ご臨終〜インパール2020+1〜』

☆第28次笑の内閣『東京ご臨終〜インパール2020+1〜』

 作・演出:高間響
(2020年9月21日13時開演の回/THEATRE E9 KYOTO)


 COVID19。
 いわゆる新型コロナウイルスの影響もあって半年以上ぶりの観劇となった、第28次笑の内閣『東京ご臨終〜インパール2020+1〜』では、それこそコロナ禍何するものぞと東京オリンピックに血道をあげる東京都知事らと、第二次世界大戦中にインパール作戦を狂行した牟田口廉也らを重ね合わせつつ、この日本という国で合理的な判断が上意下達や情実の組織力学、空虚な精神論によって無視され、排除されていく様が克明に描かれている。
 前回の配信公演『信長のリモート・武将通信録』での経験も活かした、ZOOM会議風の設定(前面にアクリル板を張った正方形のマス目上段3下段3、総計6つの中に椅子と机が置かれ、演者はその中で「ほぼ」演技を行う。今年51歳となった当方にとっては、ZOOMというより子供の頃に放映されていた『うそつきクイズ』や『クイズスクエア』、『逆転クイズスーパービンゴ』を思い起こす趣向である)が、そうした状況の歪さや滑稽さをまずもって象徴していた。
 とともに、そこは笑の内閣・高間君のこと、学生時代に歴史学を専門に学んだことからくる「歴史認識」(よくも悪くも柳沼昭徳さんと大きく違う)やトリビアルな知識の披瀝、それより何よりマイク片手の歌うパフォーマンスに細かいくすぐりとエンターテイメント性にも欠けていない。
 加えて、『そこまで言わんでモリエール』と同様、演劇的な仕掛けがいくつか施されていることも指摘しておかなければなるまい。
 佐藤幸徳他役の髭だるマンや牟田口廉也他役の熊谷みずほはじめ、ベテランの藤原大介、西分綾香、由良真介、和泉聡一郎の演者陣も、そうした作品の結構をよく押さえて硬軟ふり幅の広い役回りを丹念に演じ切った。
 また、日替わりゲストのユリオカ超特Q(面識はないものの、学部は違えどちょうど同じ頃立命館大学に学んでいた関係。学園祭でのプロレス同好会の勝負でインパクトあるべしゃりをしていたのが、彼であったことを今頃にして気がついた)も、さすがはプロの返しで会場を沸かせた。

 と、ここまでは公式見解。
 だし、この作品のお行儀よい感想でもある。
 ただ、正直言うと、僕はこの作品、特に終盤にいたたまれない想いをしたことも事実だ。
 なぜなら、この作品の大きな肝が、高間君と夫人との婚姻関係の破綻を直截に表すことにあるからである。
 もちろんそこは高間君のこと、機械仕掛けの「神」を登場させるなど、単なる真情吐露に終わらせぬ工夫もしてはいたけれど。
 やはりどうしても、曰く言い難い感情を抱いてしまうことは否めない。
 そして、2013年6月9日に京大西部講堂で開催された笑の内閣プロレス復活特別公演『高間家 平井家 結婚お披露目パーティー』に足を運んだ人間だからこそ、高間君のこの一年のあり様や心の内を慮る反面、夫人のゆき枝さんやその母親側から見たら果たしてこれはどうなのかといったことや、高間君と彼自身の母親との関係、さらには高間君とゆき枝さんを仮託された髭君や熊谷さんの内なるせめぎ合い(きちんとそうした回路が働くだろうと信頼できるから、二人には好感を抱く)にまで思いが到ってしまい、観ていて少々辛かった。

 その意味で、アフタートークでのこの部分に関するユリオカさんのやり取り、高間君への適切な突っ込みには大いに笑い、解放され開放される気分となった。
 本間龍のゲスト出演が取りやめになったことを残念に感じる向きもあるかもしれないが、僕はユリオカさんとのアフタートークで本当によかったと強く思う。
 流石は、同じ時期に立命館大学に通った人だけはある…。
 いけないいけない、こういう意識がインパール作戦を生み出す根底にあるんだと描かれていたじゃないか。
 忌むべし忌むべし。

 火曜日まで公演開催中。
 実は、映像、というか写真で当方もほんの少しだけ出演していますので、ご都合よろしい方は直接なり配信なりでぜひぜひご高覧のほどを!!!
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2020年03月15日

THE GO AND MO’S 黒川寄席vol.3

☆THE GO AND MO’S 黒川寄席vol.3

 作・演出・出演:黒川猛
(2020年3月15日14時開演/スタジオ松田の家)


 THE GO AND MO’Sの黒川猛が、旧知の松田裕一郎さん宅の1階フラットスペース・スタジオ松田の家で毎月二本の創作落語を演じるという黒川寄席も今回ではや三回目。
 世は新型コロナウイルスで持ち切りで、演劇音楽その他あれこれ、各種イベントの延期中止が続いているが、アルコール消毒の徹底とマスクの完備、さらには空調設備のフル稼働によって、無事黒川寄席は開催されることとなった。
 といったあたりについて、開口一番代わりにそうした事どもが黒川さんより語られる。

 さて、今回演じられたのは『杜子春』と『パパとママ』の二作品。
 一本目の『杜子春』は、題名通り前々回前回の『蜘蛛の糸』と『鼻』同様、芥川龍之介の小説を下敷きにしたもの。
 いろいろあって放蕩息子の杜子春は仙人の弟子となるのだけれど…。
 まずは原作の梗概が丁寧に語られる。
 で、本題は一転、原作よりもなお放蕩息子ぶりが激しい杜子春ならぬ「としはる」が登場し、仙人とのおかしなやり取りを繰り広げる。
 そして、肝は中盤以降、原作の梗概が仕込みとなった黒川さんのマイム(無言劇)だろう。
 先日、ルドルフの『隕石の栞』で久しぶりに黒川さんのストレートプレイでの演技を目にしたが、いずれの場合も内なる表出欲求ならぬ笑出欲求こそがその根底にあるのだということを改めて強く感じさせられた。
 今だからこそのサゲも、その延長線上にあることは言わずもがなだろう。

 小休止を挟んだ二本目の『パパとママ』は、最近放送日が金曜から土曜に変わって視聴率がどうなっているのか気になるところの国民的アニメ番組(と原作の漫画)のパパとママが主人公となるお話。
 ママが二階の胡散臭い居候を体よく追い出したまではよかったが、これ幸いとあいつもこいつもやってきて、にんにんころころにんにんころころとかまびすしいかぎり。
 仕事柄、子供と接する機会の多い黒川さんならではの。
 いや、だけじゃないな。
 ベトナムからの笑い声での元チャンネル団地なんか見てもわかるように、自分がたぶん子供の頃からテレビ好きだったはずの黒川さんならではの作品に仕上がっていた。

 と、こういう時世だからこそ、生の笑いの大切さを改めて痛感する黒川寄席だった。
 ああ、面白かった!!

 次回vol.4は、三遊亭はらしょうの京都公演と合体して4月19日の14時から開催の予定。
 また、3月29日の14時からは、伏見いきいき活動センター会議室305で、延命聡子をゲストに迎えた黒川の笑その17も予定されているので、ご都合よろしい方はそちらもぜひ!!
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2020年02月23日

ルドルフvol.7『隕石の栞』

☆ルドルフvol.7『隕石の栞』

 脚本・演出:筒井加寿子
(2020年2月23日14時開演の回/THEATRE E9 KYOTO)


 子供の頃から星を見るのが好きだ。
 冬の風呂上がり、夜空の星を飽かずに眺めていて、何度風邪をひきかけたことだろうか。
 それから年を経るごとに、宇宙とは? とか 生命とは? といったことを徐々に考えるようになっていった。
 そんな人間にとって、ルドルフのvol.7『隕石の栞』はど真ん中もど真ん中。
 自分の興味関心とどんぴしゃの内容だった。

 ひょんなことから共同生活を送る先生こと柴本(二口大学)と要(森脇康貴)のもとに、行方不明の父親を捜索する栞(渡辺綾子)という女性が突然現れる。
 実は、柴本にも要にも複雑な事情があって…。

 といった展開の『隕石の栞』だけれど、感情表現のギアは大きく入るものの、はじまってしばらくは、ところどころおおと思わせられたり、くすっとさせられたりしつつも、物語そのものは激しく動かない。
 だが、そうした布石が俄然意味を持ってくるのが中盤以降だ。
 中でも、筒井さんの持つ思考嗜好、誉め言葉としてのきちがいっぷりも全開となった幻想的なシーンには、そうそうこれこれと大いに頷いたし、大いに心も動かされた。
 そして、それを、はじめは目につかなかった星々がどんどん光り輝き出して、遂には夜空一面に拡がっている様に例えても過言ではないだろう。
 加えて、こうした表現の構成が、ルドルフのvol.0『結婚申込み』(2008年11月、チェーホフ作・筒井さん演出)ですでに試行されていたことを改めて思い起こし、この間の筒井さんの変化と成果を強く感じたりもした。

 2010年5月4日の京都芸術センターの明倫ワークショップで、ルドルフがvol.2の『授業』(イヨネスコ作・水沼健演出)の公開稽古を行った際、所要で参加できなかった永野宗典の代役をその場で志願したのが、当時イッパイアンテナに所属していた渡辺綾子だった。
 それが引き金となって、翌年6月のルドルフvol.3『ルドルフのまっしろけでゴー』で渡辺さんは、筒井加寿子自身が投影された娘役を演じることとなる。
 今回の『隕石の栞』でも、渡辺さんは筒井さん自身の一端が仮託された役回り・栞を演じている。
 その意味で、これは筒井さん自身の物語である。
 しかしながら、それとともに、栞はまた、演劇的にも紆余曲折を続けてきた渡辺さんの姿とも重なる。
 つまり、これは渡辺さん自身の物語でもある。
 いや、それだけではない、今回、筒井さんが二口大学、森本研典、飛鳥井かゞり、黒川猛、森脇康貴という演者陣を集めたのも、彼彼女らが「ずっと一緒にやりたかった俳優さん」(公演プログラムより)だったのは当然として、この面々がなんらかの痛切、切実な体験や大きな転機を重ねてきたからでもあったのではないかと僕には思えてならない。
 そう、これは彼彼女ら自身の物語でもある。
 そして、そうだからこそ、この『隕石の栞』は私、私たち自身の物語にもなったのではないか。
 いずれにしても、崇拝と支配の狭間からでは生み出されることのない共同作業、作品世界を愉しんだ。
 ああ、面白かった!!!
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2020年02月15日

除目に利害なき人 もしくは、ロームシアター京都の夢想人事

除目に司得ぬ人じゃないや。
直接利害関係のない人間にとって除目をあれこれ夢想することは実に愉しいことだ。
プロ野球の監督にオーダー、交響楽団の音楽監督に客演陣。そういや、中高生の頃なんて自分勝手な閣僚人事まで政治好きの友人連中と夢想したものだった。
ならば、劇場人事も夢想しちゃえ!

ロームシアター京都の自分勝手得手勝手な人事案。
現実なんてお構いなし。
で、まずは一部の世情を賑わしている館長には、竹内銃一郎さん。
演劇的業績もあれば、京都在住だし、近畿大学で教育にも携わっていた。
ついでにいえば、一連の騒動にも直接かかわっていない。
1年もしくは2年の暫定で。

館長補佐は、杉山準さん。
人望はないし、「中瀬君の言うことなんて誰も聴くわけないじゃない」と図星刺されて正直含むところはあるんだけど。このまま腐らせておくのはもったいない。
でも、ほんとは杉山さんには演出やってもらいたいんだよね、もう一回。

あと、館長の下で芸術関係のプログラムを専門に担う人は、青柳敦子さん(もしくは山谷典子さん/青柳さんならオペラ込み)、いいむろなおきさん、スズキ拓朗さん(もしくは柏木俊彦さん)、田上豊さん。
直接接してこの人はと思ったり、気になるなと思った人たちだ。
ただ、スズキさんの枠は別の女性がいいかとも思う。

いやあ、利害関係がないって得手勝手なことが夢想できて愉しいなあ。
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2020年01月26日

下鴨車窓『散乱マリン』

☆下鴨車窓『散乱マリン』

 脚本+演出:田辺剛
(2020年1月26日14時開演の回/京都芸術センター講堂)


 2016年8月の『旅行者』以来だから、約3年半ぶりに下鴨車窓の公演を観た。
 作品は、『散乱マリン』。
 ここは自転車の保管場所か。
 冒頭、ばらばらになってごちゃごちゃとなった自転車の部品を目の前に、女性(福井菜月)が自分の自転車の残骸を必死に探している。
 付き従う職員(北川啓太)は、実に申し訳なさそうだ。
 と、不穏な犬の鳴き声が響き、二人は一目散に逃げ始める。
 ところがやって来たのは、芸術家のアシスタントたち。
 せっかくのオブジェの材料がカラスどもらに奪われてしまうと言う…。

 2014年に書かれた『scattered(deeply)』を改題した作品で、自分にとって大切な自転車をなんとか元通りにしようとする女性には相手が野犬に見えてしまい、一方、芸術作品を生み出そうとする人々には相手がカラスに見えてしまう。
 もともと、東日本大震災による様々な分断を強く意識した設定なのだろうが、5年の歳月を経て、その震災が一つの引き金となった現在の諸状況がそこに大きく重なって、実にアクチュアリティに富んだ作品となっている。
 とともに、記憶(クロノス)への留意、マジックリアリズムと言ってしまうとかえって陳腐になってしまいそうな、リアリズムに基盤を持ちながら幻想性や寓話性を効果的に取り入れた展開、詩的言語の挿入等々、田辺さんの一連の作品に通底する諸要素がより強靭に、かつ柔軟性を失わない形で進化を遂げている点も忘れてはなるまい。
 加えて、上述したモティーフを表現するに際して、登場人物間の距離感、齟齬、志向嗜好の違いを巧みにクロスさせていたことにも大いに感心した。

 田辺さんの柔軟性、進化は、座組み・配役という面にもよく表れているのではないか。
 シリアスな側面からコメディエンヌ性とふり幅の広い役回りを的確にこなした福井さんをはじめ、ベテランの西村貴治、北川君、澤村喜一郎、岡田菜見、コメディリリーフの西マサト国王、坂井初音(この役は、かつてだったら飯坂美鶴妃が演じたかもしれない)という演者陣も、個々の特性を活かして田辺さんの意図に応える努力を重ねていた。
 そして、トリックスターのF・ジャパン。
 ずるいや。

 3月には広島公演、4月には津での公演が予定されているとのこと。
 ご都合よろしい方はぜひ。

 ああ、面白かった!!!
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2019年12月14日

○○企画 束の間公演『風と黙って座ってて』

☆○○企画 束の間公演『風と黙って座ってて』

 作:鈴江俊郎
 演出:にさわまほ
(2019年12月14日18時の回/Social Kitchen Space)


 かつて京都小劇場に、鈴江俊郎、松田正隆、土田英生という三人の劇作家が並び称される時代があった。
 細かく言えば異論はあるだろうけれど、鈴江さん松田さんのお二人が同時に岸田戯曲賞を受賞した1996年頃から、三浦基を招聘するなど京都造形芸術大学が演劇方面での進出を積極的に仕掛けてくる2000年代前半あたりまでの都合10年弱を、その三人の時代ととらえてまず間違いはあるまい。
 僕が京都小劇場に接し始めたちょうど20年前、1999年は、そうした三人の時代の最盛期だった。
 鈴江さんの劇団八時半、土田さんのMONOは着実に公演を重ねていたし、すでに時空劇場は活動を停止していたとはいえ、松田さんの作品もよく上演されていた。
 事実、京都小劇場で観た僕の初めての公演は1999年1月の鈴江さんの『よるのたかさで光をのぞむ』(創造集団アノニム、菊川徳之助演出によるもの)だったし、同じ年の5月に観た松田さんの『夏の砂の上』(平田オリザ演出。デビュー仕立ての占部房子が鮮烈で、以降僕は彼女のファンになった)など未だに忘れ難い。
 作風としては、平田オリザに始まる「静かな演劇」、会話劇の系譜に連なることになるだろうが、結構主題意匠において均整のとれた劇世界の完成を目指す平田さんに比して、鈴江松田土田の三人は、エロス・タナトスへの傾斜や共同体・集団・組織(そこには家族を含む)内における人間的葛藤という共通性を持つとともに、より人間臭さを感じさせるというか、各々のよい意味での性質性癖傾向歪みを強く突出させたものとなっていた。
 本来のアングラ演劇に対する志向や嗜好がそれとなく垣間見える松田さん(だからマレビトの会にはちっとも驚かなかった)、ウェルメイドプレイ・エンタメ的趣向にも秀でた土田さんに対し、鈴江さんの場合は、滑稽さをにじませつつ登場人物が口にする言葉と心中にある感情の齟齬があるはほのめかされあるは直截に表された上で、結果悲劇的結末・終末を迎えるといった曰く言い難いいじいじとしたいーっとなるような感じに特徴があった。
 とともに、遅れて来た世代とでも呼びたくなるような先鋭的な「政治性」もそこに加味されていたりもした。
 そうそう、旧明倫小学校の京都芸術センター化をはじめ、京都小劇場の権利獲得のための運動活動を牽引する役割を果たしたのもこの三人、中でも鈴江さんであったことはやはり忘れてはならないだろう*1。
(思想信条においてはかつての日本共産党の教条主義に反対を示しながら、劇団運営や対人関係においてはオールドボルシェビキ的というかスターリニズム的というか、「敵味方」をはっきりと色分け、激しく攻撃的な姿勢をとって退かないのが鈴江さんだった。そうした側面は教え子の柳沼昭徳にも多分に受け継がれているのではないか)

 その鈴江さんの戯曲を○○企画が束の間公演として上演するというので、迷わず足を運んだ。
 作品は、『風と黙って座ってて』。
 1970年代から80年代の小説や映画を思わせる叙情性もまた鈴江さんの特性の一つである。

 夏の夜、何をやらせてもダメ男丸出しの兄(市毛達也)はまたぞろ妹(久米杏奈)のマンションへと転がり込んでいる。
 そんな二人の下を、妹が親しく接しているらしい会社の同僚の山形さん(畑迫有紀)が尋ねてくる。

 あいにく初演は未見だが、兄=長谷川源太(現シアターリミテ)、妹=山岡徳貴子、山形=中村美保というその布陣を知れば、おおよその察しはつく。
 はじめ、成瀬巳喜男か『男はつらいよ』かといったシチュエーションで軽快でおかしなやり取りが続くも、「異分子」の登場をきっかけにそれぞれの内面がさらけ出され、やがて…。
 といったまさしく上述した如き鈴江さんらしい展開である。
 演出のにさわさんは、鈴江さんの演出公演に直に接していない分(終演後確認)、唯物論ならぬ唯テクスト論というか、テキストに真摯に向き合うことで、適度な距離感を保ちつつ、かえって、だからこそ鈴江さんの作品の持つ面白さ、要所急所、肝となる部分を巧く再現し、浮き彫りにしていたし、演者陣もそうしたにさわさんによく副った演技を心掛けていたのではないか。
 まずは、兄を演じた市毛君。
 かろさの中に漂う哀しさや屈折したシャイさには、鈴江さん自身の演技*2をついつい思い起こしたほどだ。
 また、まるで市毛君の実の妹かと思えてくる久米さんの、感情のギアの入れ換えも強く印象に残った。
 一方、山形役の畑迫さんは剣呑剣呑、彼女の特性に演出の加減も加わってだろう、むき身の刀ではないむき身の包丁ぶり。
 もう少し遊びがあってもいいかなと思わなくもないものの、絶望に裏打ちされた、インティメートな世界への侵入者、異物としてのトリッキーさと狂気がよく出ていた。
 いずれにしても、鈴江俊郎という劇作家の力量とその作品の愉しさ魅力を改めて認識できることのできた公演だった。
 ああ、面白かった!!!


*1 こうした三人の活躍を下支えしたのが杉山準だが、ここではあえて詳述しない。

*2 ただし、市毛君は鈴江さんのように噛みまくりはしていない。そう、稽古場で演者陣には厳しい言葉を繰り返す割に、自分自身はここぞというところで噛みまくる鈴江さんに対し、僕は内心「あんたが一番噛んでるやん」と突っ込みを入れていたものだ。
 むろんそこには鈴江さんの演技の巧拙ばかりではなく、それらしさばかりを追求して実の伴わない演技に対する不満、違和感があったのだろうと想像もつくが。
 そういえば、2003年10月の京都ビエンナーレの公演で鈴江さんの『宇宙の旅、セミが鳴いて』を早世してしまった高瀬久男がそれこそ文学座流儀の精度の高い演出で仕上げた際(豊島由香、岡嶋秀昭ら好演)、鈴江さんが拒否反応を示したのも(実際、鈴江さんに「面白かったですよ」と声をかけたときに見せた複雑極まる彼の表情を僕は覚えている)、神経質で繊細という二人の共通点からくる同族嫌悪ではなく、劇の造りや演技に対する考え方の違いからくる似て非なる者への嫌悪だったと僕は思っている。
 もしかしたら鈴江さん自身をカリカチュアライズしたとも思えなくもないある登場人物の造形も、鈴江さんには不愉快だったのかもしれないけれど。
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2019年12月01日

第27次笑の内閣『ただしヤクザを除く』

☆第27次笑の内閣『ただしヤクザを除く』

 作:高間響
 演出:髭だるマン
(2019年12月1日15時半の回/THEATRE E9 KYOTO)


 笑の内閣の一連の公演や、和田謙二で作演出をつとめた『食い合わせのグルメ』に『カーニバルの朝』と、印象に残る髭だるマンの舞台は数々あれど、なんと言ってもいっとう忘れがたいのは丸山交通公園ワンマンショー名作選2での一人芝居である。
 一見私戯曲かと疑いたくなるような、亡くなった弟に対する複雑な感情の表出は、髭だるマンという一人の人間の核そのもののように思われて僕には仕方なかった。
 で、京都市議選出馬で代表交代まではまだしも、『ツレがウヨになりまして。』じゃない、『ツレがうつになりまして。』でもない、『前代表高間響がうつになりまして。』という緊急事態の中で行われた『ただしヤクザを除く』の再演でも、登場人物の造形やラストの処理など、リリカルさとシニカルさが綯い交ぜになったかのような髭君の特性が垣間見えていたのではないか。
 と、ともに、楷書のつくりというか、演劇に対する真摯さ、丁寧さを求める彼の真面目さもまたよく表されていたように感じた。
 結果、なんでもあり、やたけた、やったもん勝ちの笑いは抑制されていたものの、その分、高間君の作品の肝、主題、主張はより明確に示された。
 また、主人公(というか、大まかに言えば黒澤明監督の『酔ひどれ天使』の三船敏郎的な役回り)の髭君自身はもちろんのこと、ヒロイン役の近藤珠理、杉田一起、田宮ヨシノリ、和泉聡一郎、熊谷みずほの演者陣も、個々の特性を発揮しつつ、そうした髭君の意図にそったアンサンブルを生み出す努力を重ねていた。
 ただ、要所急所の集中に比して、平場においてめの詰まらなさというか、隙間というか、空白というか、空気の薄さを感じてしまったことも事実だ。
 その意味で、ファックジャパンの数日の長を改めて痛感したりもした。
(前回の『そこまで言わんでモリエール』は論外として、今回の公演は座組みの人間関係の良さという点では笑の内閣の公演の中でも五本の指には入るはずだろうことは指摘しておきたい)
 そして、そうした空気の薄さ、空気の希釈は、高間響の不在(今回の出演シーンでの破壊力たるや!)によるものではあるのだけれど、一方でその全てを髭君の演出の責任に帰するのはあまりにも酷だろう。
 なぜなら、そうした空気の変化は、確かに高間君の不在が決定打となって一層顕現化されたにせよ、実はこの間の演者陣の変化や高間君の作品の意匠、表層の変化によって良くも悪くも徐々に進んでいたことだからだ。
 要は、高間君の寛解を待った上で、そうした変化をどう受け留め、どう対応していくかが今後の笑の内閣という「集まり」、「形」、「場」の課題ということである。
 いずれにしても、代表であり演出兼出演者、まさしく座長として今回の公演を乗り切った髭君をはじめ、演者陣スタッフ陣にまずは大きな拍手を送りたい。
(こうした諸々は、お客さんから「そんなん知らんがな」と言われても仕方のないことでもある。あるのだけれど、僕は髭君や高間君、笑の内閣をしっかり観護っていきたいとも強く思う)

 それにしても、ヤクザなんてクズもクズ、義理や人情の任侠道なんて真っ赤な嘘、欲と欲との醜い争いといった事どもは上述した『酔ひどれ天使』や深作欣二監督の『仁義なき戦い』シリーズ等々でこれでもかと描かれていたが、この『ただしヤクザを除く』はその先、そうしたクズの人権の問題についてしっかり言及している点でさらにアクチュアリティを持っていると強く感じる。
 なにせ、関西では暗雲が何やら立ち込めているばかりか、桜を見る会の問題が取り沙汰されているのだから。
 でも、それより僕が驚き感じ入るのは、例えば『名誉男性鈴子』での楠海緒の役回りもそうであったように、ここでも高間君の身近な未来がそれとなく予見されていることだ。
 高間君自身は全く自覚がないだろうけれど、僕は彼のそうした勘の強さ、予測力は馬鹿にはできないと思っている。

 ああ、面白かった!!
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2019年11月03日

ナントカ世代『のけもの』

☆ナントカ世代『のけもの』

 原作:エマニュエル・ボーヴ『のけ者』
 脚本・演出:北島淳
(2019年11月3日15時の回/THEATRE E9 KYOTO)

>この社会の核には「悲しみ、懊悩、神経症、無力感」などを伝染させ、人間を常態として萎縮させつづけるという統治の技法がある。日本近代史のある時点で、統治がうまく活用することを学んだ技法である<
 シンクロニシティ、とはちょっと違うか。
 読みかけの『読書実録』<河出書房新社>の中で、保坂和志が酒井隆史の『通天閣』<青土社>の一節を引用している。
 ナントカ世代の原作シリーズの4年ぶりの新作となる『のけもの』を観ながら、僕はこの一節をすぐに思い出した。

 実の姉を頼って京都に戻って来た母と娘だが、この母娘、気位が高いのかなんなのか、屁理屈をこねまくるばかりで一切働くなんてことはしない。
 そのうち姉の家を飛び出したはよいが、借金は返さず、家賃も払わず。
 まさしく貧すれば鈍するの極み。
 転々とするうちに衣類持ち物はどんどんと少なくなり、二人は悲惨の底へと転げ落ちていくが、それでも性根が入れ替わるわけではなく…。

 原作は、エマニュエル・ボーヴの小説『のけ者』。
 ボーヴはフランス人の作家で、幼少の頃から貧富の差が極端に激しい人生を歩んでおり、『のけ者』にもまた彼の経験や体験が色濃く反映されている。
 というのは、この『のけもの』を観るにあたって、昔目を通しておいた書籍やらネットやらで仕入れた付け焼刃の知識…。
 で、物語はパリから現在の京都に移し替えられているのだが、舞台一面には京都市域の縮尺地図が張り巡らされており、5つの幕ごとに場面(聚楽廻→五条大橋→久世→釈迦谷→京都駅付近)が変わっていくという作品の流れを理解する手助けとなっていた。

 前口上も勤め、終幕で狂気の笑いを発していた金田一央紀ではないけれど、ぶらりひょうたんな生き方を長年続けてきた人間にとっては、なんとも身につまされるお話。
 などと書いてしまうと、身も蓋もないか。
 そこは、ナントカ世代、北島淳という書き手だから、ヨーロッパの不条理演劇風な雰囲気と共に、くすぐりやら登場人物の生き方その他に落語的な滑稽さ、乾いた無常感が窺えたんだけど、やっぱりなんだかねえ。
 冒頭の引用の話に繋げると、相当はしょって書けば、保坂さんは上述した統治の外にある人々、「ちゃんとしてしまう」ことを避ける人々、アフリカやスラムの人々の姿についてもいろいろと考察しているのだが、残念ながら無理無体無法無謀を続けて破滅の淵に立つこの母娘はそうした人々とは大きく異なっている。
 そして、統治の内にあり、たぶん統治の外にある人とは自分たちは全く異なるという自尊心を持っているだろうからこそ、あの二人は結果として「のけもの」となってしまうのだ。
 実は、各場面ごとに異なるリズムでメトロノームを鳴らすという趣向があったのだが、作り手の意図はひとまず置くとして、それが母娘二人の置かれた状況を象徴しているかのようで、とても印象に残った。

 演者陣では、まずは母を演じた延命聡子と娘を演じた土肥希理子ということになるか。
 作品自体、そういうつくりになっており、延命さん、土肥さん共にそれによく応えていたが、真野絵里、御厨亮、松野香澄、勝二繁、永榮紘実も二人を支えたり、二人と対峙したりしてそれぞれの役割を十分に果たしていた。
 そして、金田一君。
 彼は舞台上に存在するだけで大きな意味があった。

 ああ、面白かった!!
(THEATRE E9 KYOTOの舞台の寸法や作品の結構、演技の方向性、女性陣のメイクといった劇の「構え」だけからいうと、あと1幕程度、エピソードがあってもよかったかもしれない。作品の流れ的には不満はなかったが)
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2019年10月27日

B級演劇王国 ボンク☆ランドvol.7『まるだし純情フォークロア』

B級演劇王国 ボンク☆ランドvol.7『まるだし純情フォークロア』

 作・演出:西マサト
(2019年10月27日15時の回/人間座スタジオ)


 シュトルム・ウント・ドランク。
 疾風怒濤。
 であり、疾風怒頭。
 そして、疾風努禱。
 B級演劇王国 ボンク☆ランドにとって久しぶりの公演となるvol.7『まるだし純情フォークロア』をそれらしい言葉で表すとすればこうなるか。

 罪悪感を抱きながらも、オネショタと呼ばれるジャンルのエロ漫画家としてなんとか生きている男は、謎めいた手紙に導かれて永く離れた郷里の町へと戻って来る。
 ところがそこにはすでに実家はなく、男は途方に暮れる。
 周囲の人々の厚意でようやく人心地は着くものの、『八つ墓村』の寺田辰弥も真っ青の怪しげな展開で謎は深まるばかり…。

 開演前からすでに舞台上(左右扇型風に分かれた客席に向かって、いわゆる素舞台。ただし、奥に段差が設けられている)に、西国王以外の演者陣が集まり、おしゃべりを続ける合間、西国王に対する不満をあからさまに口にする。
 と、開演の口上にあわせて西国王が登場。
 メタ的なやり取りを挟んだのち、本篇に入る。
 で、ここからはまさしく西国王の独壇場、妄想が炸裂しまくる。
 いや、もちろんその他の演者陣も適宜、必須の演技を行うのだが、やはり肝はほとんど出ずっぱり、しかもモノローグも多数の西国王ということになるだろう。
 まさしく、疾きこと風の如く、動くこと雷霆の如し。
 滑稽な邪劇的要素にも事かかないが、当然そこには激しい心情と信条と身上の吐露がある。
 痛切な嘆きがある。
 ただ、それを単にまるだしの純情、ならぬ垂れ流しの感情と理解するのも大きな誤りだ。
 以前、フランスのピアニスト、クレール=マリ・ル・ゲの演奏について「知性を感性で抑制する」と評したことがあるのだけれど、西国王の場合も同様に、完璧を期せば知的で巧緻な結構・仕掛けにさらに徹するところをあえて…。
 いや、ちょっと違うか。
 自分自身の公演をはじめ、京都ロマンポップや努力クラブといった演劇的経験、それから、作中でも言及されている、横溝正史や江戸川乱歩等々(諸星大二郎や京極夏彦もそうか?)、本格派にオカルトミステリー的蓄積に裏打ちされた…。
 いや、それだけじゃない。
 そうした経験蓄積は、知的創作的背景のみならず、西国王にとって生き延びるための糧なのである。
 とうてい彼の想いや思いと不可分、切り離すことのできない両輪のうちの一つなのだ。
 いずれにしてもこの作品が、与えられた人生を辛く息苦しく惨めに感じ打ちひしがれている人たちにとって大きな救いになるように思えて僕には仕方ない。

 斉藤ひかり(いつもながらのオフビートかつパワフルな演技)、深草友紀子(重要な役。彼女がこの役を演じたことは大正解だった)、福原由惟(エネルギー全開)、坊俊幸(落ち着いた感じ)、美土路朝太郎(役が柄に合っている)、諸岡航平(どことなく若き日の高坂正堯のような鼻持ちのならなさ。誉め言葉)と、西国王以外の演者陣は、各々の特性を発揮しつつ、役回りにあわせた演技を心掛けていた。
 一方で、意図された以上に西国王や作品とのそれぞれの距離や齟齬、ばかりか、個々人の実人生で抱えた諸々が垣間見えてしまったこともあえて記しておきたい。

 安易に記せる言葉でないと思いつつ、西国王の次回作を心待ちにしたい。
 ああ、面白かった!!!
posted by figarok492na at 20:23| Comment(0) | 観劇記録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年10月20日

宗岡茉侑のハムレットマシーン

☆宗岡茉侑のハムレットマシーン


 作:ハイナー・ミュラー
 演じる人:宗岡茉侑
(2019年10月20日/alternative space yuge)


 2009年の8月というから、もう10年も前になるのか。
 高田ひとしがハイナー・ミュラーの『ハムレットマシーン』を構成・演出した劇団tabura=rasa第二回公演『儀式』を観たのは。
 あのときは、高田君たちの強い表現・表出欲求は感じつつも、それに対する精度の不足がどうにも目について、非常に厳しい感想を抱いてしまった。
 ただ、だからこそ未だに心に刺さった棘というのか、忘れられない公演の一つともなっていて、今日、宗岡茉侑が演じる『ハムレットマシーン』を目にしてすぐ思い出したのも、そのときのことだった。

 alternative space yugeは、下鴨高木町というから元のアトリエ劇研や人間座スタジオの近く、北大路通に面したコンクリート打ちっ放しのうなぎの寝床式のスペースだが、宗岡さんはそこにミラーライトや額縁を釣ったり、絨毯を敷いたり、キャンドルを用意したりと、西洋風の室内に仕立てていた。
 展示にも使われるアートスペースらしく北大路通に面する側はガラス戸で開放されているし、入退場も自由ということだったのだけれど、僕が会場に訪れたときには(終演1時間ほど前)、とても密度が濃いというか、切迫しているというか、何かクローズドされている印象を受けた。
 で、最後の最後に訪れたこともあって、これまでどのような上演が行われていたのか、把握できていないとろこもあるものの、『ハムレットマシーン』の断章(というか、この作品自体が断章で構成されている)を宗岡さんが適宜発するとともに、宗岡さんが手を加えたテキストを観客に手渡し、彼女と演じることを促すというスタイルとなっていた。
 宗岡さんは、僕がこれまで観てきた彼女の演技の中で最も…。
 などとそれらしいことを書き連ねているのだが、正直、僕自身の中では今もって曰く言い難い感情にとらわれ続けている。
 と言うのも、僕が入ってすぐに演じることを促されたあるお客さんが激しい感情的な反応を示した(その理由はある程度承知している)上に、次に指名された市川タロ君がそれを拒んだあとに、僕がテキストを演じることになったからだ。
 そのプロセスがある分、それじゃあここはやるのが筋だろうという想いもそうだし、宗岡さんとの距離をどうとるかという感情もそうだし(当然そこでは、演劇という枠組みばかりでなく、プライベートな部分での宗岡さんのあれこれが蘇ったりもする)、テキストをどう読んでみせようかよいう自己顕示欲・自意識との対峙もそうだし(中村伸郎風にやろうとしたがすぐに諦めて、彼女に近づけようとして、でもやはり自分の中でそれは違うなと思ったり)、それらすべてをどう今後の創作活動に活かそうかという物書きとしての観察もあったり、それはどうにも浅ましいことだなと省みたり…。
 結局、意識無意識両面で、今回の出来事が僕自身の作品に反映されることだけは間違いないことだが。
 いずれにしても、10年前の『儀式』同様、今回の宗岡さんによる『ハムレットマシーン』もまた僕にとってとうてい忘れることのできない公演になるだろう。
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2019年10月10日

バスに乗り遅れろ5(参考)

☆バスに乗り遅れろ5
(2005年11月16日に第2CLACLA日記に投稿分)


 京都芸術センターの舞台芸術賞をはじめとする、芸術的シンパシーや芸術的相互理解を隠れ蓑とした、太田省吾、松田正隆さん、森山直人、太田耕人らの癒着構造(ありていにいえば、京都造形芸術大学に関連する人間が京都演劇界の「政治的」地位を占める構造)の形成は、青年団から独立した三浦基が京都に拠点を移したことと、同じく青年団の田嶋結菜さんが京都芸術センターの演劇担当のコーディネーターに就任したことで、一つの頂点に達したと、僕は思う。

 CLACLA日記ではいくぶん辛らつに評したものの、三浦基の演劇的な存在意義に関しては、僕も大きく認めるところだ。
 特に、チェーホフや鈴江俊郎さん、松田正隆さんの作品において観せた、作品構造そのものに対する批判的・批評的演出は、演劇に通じる者に小さからぬ刺激と示唆を与えたと言ってよい。
 これまで当為として行われてきた舞台演出への「アンチテーゼ」としての三浦基の存在は、もっと積極的に評価されるべきだろうし、彼の京都演劇界への本格的進出も、その点からは、喜ぶべきものと僕は考える。

 しかし、あくまでも「アンチテーゼ」は「アンチテーゼ」でしかない。
 「アンチテーゼ」である者が、芸術的にばかりか、「政治的」にも主たる地位を占めようとすれば、そこには自ずと無理が生じる。
 結局、「アンチテーゼ」であった者は、主たる地位を占める代わりに、本来彼彼女らが持っていた、批判精神や批評性*を失うという大きな代償を払うことになるだろう。
 つまり、彼彼女らは、現実的な地位と引き換えに、表現者としての存在意義そのものを失うのだ。
(*テキストに対するそればかりでなく、広義の社会全般に対するそれもである)

 だが、こうした危険は、本来志しの高い表現者であれば、僕などが指摘せずとも、はじめから充分承知しているはずである。
 それがわかっていないように見える段階で、三浦基の志しは、あまり高いものではないと、僕には判断せざるをえない。

 実際、CLACLA日記にも記したことだが、京都芸術センターの玄関口で、我を忘れて女性を叱責する三浦さんの姿には、公私の場所のけじめもつかない*、彼の人格的な稚拙さ、それが言い過ぎならば、コモンセンスの欠落を感じてしまうし、それより何より、「京都芸術センターをよりよくするための公開会議」における、
>(京都芸術センターの使用者の選択等に関する)情報をオープンにする必要はない<
といった趣旨の三浦さんの発言には、たとえそれが芸術的な理由から発したものであると言われたにせよ、こちらの顔から火が出るような気恥ずかしさと、彼の独善性、志しの低さを感じてしまうのである。
(*京都芸術センターは、演劇関係者の専有物ではない。こまばアゴラ劇場などとは違うのだ)

 むろん、表現者の人格(それも一面的な)と表現された結果を同列に並べることはアンフェアでもあるが、一方で、表現された結果は、表現者の思想、思考、理想、理念、人格、識見の象徴であることもまた事実であろう。
 その観点からも、三浦基が何ゆえあのような形での表現活動しかとりえないかが明らかになってくるのではないか。
 ここでは、一つ一つの作品について詳細に触れることはしないけれど、彼が対象とするテキストから「ドラマ」を描き出そうとしないのは、あえて描き出すことを拒否しているのではなく、彼自身「ドラマ」を描き出すことができないからだと、僕には思えてならない。

 いずれにしても、三浦基が現在の状態に固執するかぎり、彼の表現者としてのこれまで以上の成果は、あまり望めないのであるまいか。
 それは、彼本人にとっても、彼とともに表現活動を行う人たちにとっても、さらには京都演劇界にとっても、不幸な出来事となる。
 それが僕には、本当に心配でたまらない。
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2019年10月06日

少し怪しい祭り・亥

☆少し怪しい祭り・亥

(2019年10月6日15時開演の回/あとりえミノムシ)


 昨年に続いて、あとりえミノムシまで少し怪しい祭りを観に行って来た。
 ちなみに今年は亥年なので、タイトルにきちんと亥の文字が付いている。

 で、よいとなの演劇作品に、JIJOの人形劇、尾上一樹のマイムというラインナップは前回と同じなんだけど、連日お昼の回は、尾上さんが振付・構成に徹し、maz(黒木夏海、豊島勇士)の二人がマイムを演じる。
 黒木さんも豊島君もいいむろなおきさんにマイムを学んでいるから、尾上さんとは同門ということになる。

 まずは、開演前に前座としてD.D.コーヒーのオープニングアクトが行われる。
 ラヴェルのボレロにのせて、ダンスを挟みつつコーヒーをいれていくという内容で、ついついボレロに耳が行ってしまいそうになるが、そこは踏ん張ってアクトのほうに集中する。
 スネアドラムのリズムにあわせて動く足首が美しかった。

 さて、開演だ。
 よいとなの『あしたもあそぼ』は、メンバーの殿井歩(作・演出)と申芳夫のほか、久貝亜美、田辺泰信の出演。
 いずれも濱口竜介監督の映画『ハッピーアワー』の出演者であり、勝手知ったる仲といって間違いはない。
 冒頭、銃撃戦すら繰り広げられる三人組の破滅的な旅路におやっと思っていると、これは「つかみ」の部分。
 どうやら求職中の彼氏が毎晩真夜中まで観続けている映画のDVDに影響された、彼女の夢という趣向らしい。
 ということで、その後は舞台に現れない彼氏の誕生日を祝おうとする彼女やその仲間たちの淡々とした会話が続いていく。
 もちろん、そこは殿井さんのこと、途中脱臼脱線飛躍はあるし、たぶん子供のお客さん向けの工夫も仕掛けられているが。
 そして、劇中劇や使用されている歌からアメリカン・ニューシネマや、そこから派生したと思しき日本のテレビドラマ『俺たちの旅』や『俺たちの朝』をすぐに思い起こしたことは言うまでもない。
 言うまでもないけれど、ここで描かれているのはノスタルジーの世界なんかではちっともなくて、僕らが直面している今現在の諸々である。
 ラスト、舞台の上に転がる三人の姿が切実で胸に迫ってきて仕方なかった。

 続いては、JIJOの作・美術・操演による『ひだりうで』。
 「私」に対して、どうして自分が左腕を失ったかをおばあさんが語っていくという内容で、昔話や御伽噺に共通するような、原初的な悪意というか恐怖、リアルを越えたリアルさを感じた。
 人形劇と上述したが、作品の多くは、砂(?)と映写機を利用した映像を中心に描かれている。
 だからこそ、かえって終盤の人形の動きがとても印象に残る。
 「私がいつか見た生々しい夢の話」と公演パンフレットにはただ一行書かれているが、この『ひだりうで』もまたどこかで必ず今現在の僕らと強く結び付いているはずだ。

 最後は、mazの二人が演じた尾上さん振付・構成による短編マイム二編(音源が藪本浩一郎のアコーディオン演奏他)。
 百聞は一見に如かずだし、百文は一見に如かずで、これはもう直接目にして確認してもらいたいわけで、正直なんとももどかしいのだけれど、尾上さんのマイムが自らの生活に根ざしたというか、地に足のついたというか、日常性に裏打ちされて人柄がよく出たものだとすれば、mazの二人のマイムは、より形而上的というか非日常的というか、よい意味で無機的というか、マイムがそこにまずあるような感じがした。
 黒木さんと豊島さんは一糸乱れぬよく合った動き、一編目の『オルゴール・ノイズ』や二編目の『Junction Junky』の「夢に落ちる」等々、無声映画を観ているかのような美しさだった。
(一つには、ヴァレンチノかキートンかといった、豊島君の彫りの深い容貌から受ける印象も大きいのかもしれない)

 と、さらに怪しさが増し増した少し怪しい祭りを今年も存分に愉しみました。
 ああ、面白かった!!!
 そして、来年の開催も心待ちにしています!!!
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2019年10月05日

まめだのきかく リーディング公演『カラシニコフ不倫海峡』

☆まめだのきかく リーディング公演『カラシニコフ不倫海峡』

 出演:西村花織、藤原大介
 演出:山口浩章
 作:坂元裕二
(2019年10月5日14時開演の回/KAIKA)


 西村花織の演技に初めて接したのは、2011年2月の第一回京都学生演劇祭における月面クロワッサンの『どっちみち阪急河原町』(作道雄作・演出)だった。
 時の流れは速いもので、あれからもう8年もの歳月が経って、阪急の河原町駅など先日京都河原町駅に改名までしてしまった。
 その8年間、紆余曲折はありつつも京都小劇場で演者として長く活動を続けてきた西村さんが、この度「自分のために芝居しよう」とまめだのきかくなる企画を立ち上げた。
 で、いっとう最初の公演となる今回は、劇団しようよと共に西村さんが現在所属する劇団飛び道具の山口浩章、藤原大介両先輩の胸を借りて、『カラシニコフ不倫海峡』なる二人朗読劇のリーディング公演に挑んだのだけれど、まずもってこの本の選択で八割方芝居勝負に勝ったと評しても過言ではないだろう。

 地雷除去のボランティアのためにアフリカへと旅立った妻が、少年兵のカラシニコフ銃で撃たれて死んだ。
 はずが、実はその妻は生きている、しかも自分の夫と暮らしているとのメールが男のもとに届く。
 不審の念を抱きはするものの、どうしても相手の女とやり取りを重ねる男。
 そのうち男と女の間には、曰く言い難い感情の変化が訪れて…。

 全篇メールのやり取りで人の心の動きを描いていくといえば、マット・ボーモントの小説『e.』<小学館>や土田英生のリーディング劇『Re;』をすぐに思い出すが、ときにシュールさすら覚える滑稽なくすぐりをまぶしながら、社会性を十二分に持ち、なおかつ人の心の動きを丁寧に追い、人の心の謎を解き明かしていくこの『カラシニコフ不倫海峡』も面白さ、愉しさにおいて負けてはいない。
 かつてのトレンディドラマから時間を置いて、近年の『カルテット』や『anone』等、意欲的な作劇を続けている坂元裕二だけはある。
 また、登場人物の掛け合いの緩急強弱に目配り耳配りを行いつつ、山口さんは「リーディング劇」に相応しい劇場的なアクセントを加えていた。
 一方、演者陣もそうした作品によく副った演技を行っていて、全く観飽きない聴き飽きない。
 藤原さんの中年男のやるせなさ、おかかなしさの付き具合は言うまでもないだろうが、対する西村さんも作品や役柄に対する真摯さで今回の企画の意図を改めて強く感じさせる。
 例えば、感情が激しく前面に出る場面での表現など、これからの課題となる部分もなくはないだろうけれど、西村さんにとって諸々の課題がはっきりとするという点もまめだのきかくを始めた目的の一つだろうし、そうした課題云々を越えて痛切さ、切実さが伝わってきたことも忘れてはなるまい。
 それより何より、かつてのよい意味では柔らかいけれど、裏返すとどこかふらふらへらへらした感もないではなかった西村さんが、こうして舞台にすっくと立っていることを目にできただけでも、僕には嬉しくて仕方がなかった。

 いずれにしても、目にし耳にして大正解の公演だった。
 ああ、面白かった!!!
 公演は、明日のお昼にもう一回。
 ご都合よろしい方はぜひ!!!
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2019年08月17日

空降る飴玉社のクラックシアター『銀皮の中のY(M)は、88℃の熱さを知っている。』

☆空降る飴玉社『銀皮の中のY(M)は、88℃の熱さを知っている。』

 脚本:加藤薫
 演出:加藤薫
(2019年8月17日13時の回/人間座スタジオ)


 ただより高いものはない!
 個人情報抜き取られるぞ、とわかっていてもネットの無料配信の映画やテレビドラマを重宝している。
 最近では、GYAO!一本鎗。
 サンテレビで放映された島田角栄監督の超カルトドラマ『元町ロックンロールスウィンドル』が引き金になって、テレビドラマを観るわ観るわ。
 何せ、テレビのない生活を送っているもので。
 今季では、定番の『科捜研の女』に『サイン』(篠井英介とおかやまはじめの壮絶な争い!)、『刑事7人』(刑事たちの大仰な演技は好みじゃないけど、先日の大地康雄はすこぶるよかった)、『名探偵ポワロ』のオリジナル版なんかを欠かさず観ている。
 中でも、黒木華や高橋一生、市川実日子らの『凪のお暇』は映像の感じも含めて大いにお薦めだ。
 そして、映画も忘れちゃいけない。
 ついつい敬遠してしまったメジャーどころの邦画を観ることができる。
 一度とばし観して、これは全部きちんと観ておこうと観直したのが、深川栄洋監督の『洋菓子店コアンドル』だ。
 正直、伝説のパティシェというのにどこがそんなに凄いのか今一つわからない等々、せっかく美しい映像に興味深い設定な割にあれあれと思う部分が少なくなかったのは残念なのだが、田舎もんのいやたらしさと図々しさ、強さと弱さを演じ切った蒼井優をはじめ、江口洋介、江口のりこ、戸田恵子、加賀まりこ、佐々木すみ江、鈴木瑞穂ら役者陣の演技が与えられた役回りに実にぴったりでそれを存分に愉しむことがきた。


 さて、今回初めて足を運んだ空降る飴玉社の公演『銀皮の中のY(M)は、88℃の熱さを知っている。』の話。

 常麻メイ子は、かつてコンクールで入賞した経験もあるバリスタ。
 今は石川県でカフェを営んでいるが、祖母の敦津が怪我をしたとの連絡があり、急いで地元の京都へと戻って来る。
 そんなメイ子を迎えたのは、弟の桔太や敦津のほかに、敦津が寮母を務める寮の一癖も二癖もある住人たちで…。
 どうしても納得のいくコーヒーを淹れることができず葛藤するメイ子を中心に、登場人物たちが抱えた悩みや傷が徐々に明らかになっていく。

 自分に誠実であろうとすればするほど息苦しく辛くて、それこそ一杯のコーヒーのようにほろ苦くもあるし、周囲の人々とときにはぶつかったりもするのだけれど、それでも人と人との関係がやはり救いにもなって、なんとか日々を生きていくことができる。
 実に向日性に富んで、好感の持てる作劇であり、展開だった。
 とともに、演劇だからこその仕掛けや表現は当然ありながらも、一方で丁寧に造り込まれた美術や、リリカルで効果的なBGMの使用には、上述した映画やテレビドラマの表現に近しいものを感じたりもした。
 ただ、せっかく丁寧に造り込もうという意欲がはっきりしているからこそ、台詞の選択や小道具の処理など、一層細やかさを求めたい部分があったことも事実だ。
(これは舞台上の問題ではないけど、公演パンフレットでせっかく登場人物の設定が細かく書かれているのに、それを誰が演じているかがわからないのは、やっぱり不親切だと思う)
 それと、約130分の上演時間には、どうしても長さを感じてしまう。
 伝えたいことがいろいろとある上に、出演者一人一人に見せ場を与えたいという想いは十分十二分に理解がいくのだが、それがかえって物語が都合よく流れ過ぎる腑に落ちなさに繋がっているように思えてしまった。
 少なくとも、登場人物間のやり取りやシーンごとのラストの処理等、よりテンポアップがはかられるべきではなかったろうか。

 ベテラン中のベテラン菱井喜美子を筆頭に、谷内一恵、音蔵乙葵、大谷彩佳、青木琴音、出町平次、坂口弘樹、ナカメキョウコ、藤村弘二の演者陣は、各々の特性魅力を発揮しつつ、作品世界にそう努力を重ねていた。
 特に、あちらで誰かがしゃべり、こちらで誰かがしゃべっているようなアンサンブルシーンでのインティメートな雰囲気は観ていてとても愉しかった。
 反面、個々の登場人物の真情吐露のような見せ場になると、感情表現のギアのチェンジの難しさを痛感したりもした。
 ただこれは、演者の技術技量の問題より以前に、一つ一つの役に求められるキャラクター、記号的要素、さらには内面の感情の動きと個々の演者の現時点でのあり様との齟齬がまずもって大きいように思われる。
 言い換えれば、江口洋介なり蒼井優なり黒木華なり高橋一生なり江口のりこなり戸田恵子なりに求められている事が今回の演者陣に即求められているというか。
 それでは、そうした齟齬をどう解決していくのか。
 演者陣の「等身大」の特性魅力に寄せるのか、あえてワークインプログレスと割り切り作家の表出表現欲求を優先するのか、もしくは両者のバランスを慎重にとっていくのか。
 いずれにしても、加藤さんにとっては本当に大変な作業だと思うが、脚本演出両面での今後の一層の研鑽とさらに精度の高い作品の上演を心より願ってやまない。
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2019年07月20日

ナントカ世代『粗忽長屋』(完全版)

☆ナントカ世代『粗忽長屋』(完全版)

 原作:古典落語「粗忽長屋」
 脚本:北島淳
 演出:北島淳
(2019年7月20日14時の回/京都市東山青少年活動センター創造活動室)


 抱かれているのは俺だけど
 抱いてる俺は誰なんだ

 おれがあいつであいつがおれで、じゃない、粗忽長屋のサゲの部分である。
 粗忽長屋といえば、江戸上方双方でおなじみの古典落語で、錦湯さんの落語会でも何度も演じられている。
 そそっかしい八五郎(江戸バージョン)が、行き倒れの死体を友人の熊五郎(同)だと見間違え、本人に確認させるからなどと無理無体なことを言い始める。
 はじめは、ええっ、俺が死んでる、と怪訝な表情の熊五郎だったが、八五郎のあまりの勢いに押されてだんだんその気になってきて、八五郎ともども自分の死体を引き取りにのこのこと皆の前に現れる。
 そこで、死体を抱えた熊五郎が最後に口にするのが、冒頭の言葉なのだ。
 全くもって粗忽の極み、それこそ馬鹿は死ななきゃなおらない…。
 だけど、そこに主体性、アイデンティティの危機を見出すことも可能なわけで、かの今は亡き立川談志家元は「粗忽長屋」を「主観長屋」と読み換えて…。
 なんて具合な調子で、毎度馬鹿馬鹿しい観劇記録のマクラの部分を綴ってみせようと思っていたら、この回だけ玉子亭掛御飯(桐山泰典)さんの粗忽長屋の口演に代わる前説レクチャー<永榮紘実の『粗忽長屋』そうだったのか!!>の中で、簡潔的確なストーリー展開の説明とともに、永榮さんがそこら辺りのことをしっかり言及していた。
 エレクトラ、お前は賢い、じゃない、永榮紘実、お前は賢い!

 で、本題『粗忽長屋』(完全版)のお話。
 右横左横前面の三方を花道風の通路、舞台奥を黒幕に囲まれた舞台は、枯れ草が敷き詰められた野外の一角。
 後方にはシンメトリーにベンチが置かれ、客席から見て左手には延命聡子演じる女1、右手には土肥希理子演じる女2がそれぞれ座っている。
 そして、前方中央には海老(ロブスターっぽい)のハサミに胸を刺された死体が横たわっていて、その様子を撮影しているのが松野香澄演じる女3だ。
 そこに遅れて登場するのは、勝二繁演じる男1であり…。

 落語をそのまま芝居にしても、なかなか面白さにはつながらないんだよね。
 とは、複数のプロの落語家さんから直接うかがったことだけれど(理由は、あくまでも一人の人間が大勢の人間を自由自在に演じるためにつくられた話=噺だから、それを複数の人間に割り振ってしまうとどうしても間が悪くなってしまう等々)、その点ナントカ世代は無問題。
 粗忽長屋は粗忽長屋でも、談志家元の主観長屋もびっくり、自らの存在とは? 生と死とは? といったシリアスな問いを突き付ける、別役実風の不条理劇に仕立て直されている。
 と、言っても、落語同様くすぐりは豊富だし、それより何より屁理屈こねまくりの言葉の応酬がおかしい。
 で、音楽的ですらある台詞のやり取りを愉しんでいるうちに、劇は京極夏彦のような、けれど残念ながらちっとも憑物の落ちないカタストロフィを迎える。
 正直、くすぐりで示される笑いの中身であったり、カタストロフィの表現方法には当方の好みに合わない部分もあるのだけれど、しっかり伏線は回収されているし、滑稽さの中にも垣間見えるほの暗さ、不安感、不穏さはやはり首尾一貫しているとも感じた。

 だめ男加減が真に迫る勝二、芯の強い土肥さん、反応のよい松野さんと、上記の演者陣は作品世界によくそったアンサンブルを生み出していた。
 中でも、延命さんの延命聡子であることへのぶれなさの凄みが強く印象に残った。
(だからこそ、彼女の60代、70代の演技をぜひ観てみたい)

 これで1500円は安い。
 公演は明日まで。
 参議院選挙の投票前投票後に皆さんもぜひ!
 ああ、面白かった!!
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2019年06月23日

演劇企画<部屋>

☆演劇企画<部屋>(○○企画)

(2019年6月23日17時開演の回/WRIGHT商會三条店2階ギャラリー)


 笑うのが苦手な人
 人ごみが苦手な人
 会社が苦手な人
 学校が苦手な人

 それからあとは、恋が終わった人、恋が始まりそうな人、とか、人を誤解してしまう人、人に誤解されてしまう人、といった感じで毎回違った言葉が続く。
 もう20年近くも前になってしまうのか。
 今も現役で活躍中のaikoがオールナイトニッポンのパーソナリティーを務めていた頃、番組のおしまいにそうやってリスナーに呼び掛けていた。

 笑うのが苦手だったり、人ごみが苦手だったり…。
 もしも順風満帆で何事もハッピー、お気楽C調、この世は春なんて人(でも、そんな「おめでたい人」なんているのだろうか?)は別にして、何かを抱えて日々を生きている人にはきっと大きな慰めとちょっとした勇気を与える言葉ではなかったろうか。
 そして、aikoの歌に耳を傾けているだけでは足りなくて、まだ足りなくて、それでも生きていこうと想う人が、aikoと同じように歌ったり、演じたり、書いたり、描いたりするのだろうとも思う。
 WRIGHT商會のギャラリーで行われた演劇企画<部屋>に出演した4人の女性たちも、きっとそうだろう。

 毎回企画名を変えつつ公演を重ねている「○○企画」だが、今回は4人の女性の演者一人一人がそれぞれの部屋で過ごしている姿を描き出そうという趣向の、その名も<部屋>。
 まさしく4者4様のバラエティに富んだ内容になっていた。

 一室目<八三二>号室は、振付・構成:ゆざわさな、出演:畑迫有紀による「ノクターン」。
 フォルムへの傾斜、完璧主義と、他者との齟齬や自分自身の限界をよく認識する知性、内面の鬱屈や大きな揺れ、激しい動きが絡まって、ときに演技にこわばりというか硬さを若干感じることもある畑迫さんだが(って、役を割り振ってる側の問題も大きいんだけど。自戒をこめて記せば)、この「ノクターン」は彼女のバレエの素養も相まって、表現表出の両面で優れた演技(踊り)を見せていた。
 て、なんだかそれらしい言葉だなあ、もっと率直に言えば、彼女の抱えているものが高い精度を保ってストレートにたたき付けられ投げかけられているようで、非常に心を動かされた。

 続く<一〇二号室>は、雛野あきの朗読による小川未明作の「青い時計台」。
 読み聞かせ風の淡々とした朗読で、演技という意味ではもっとも「仕掛け」は少ないのだけれど、小川未明の作品自体にとても含みがあり、なおかつこの作品を選んだことにも含みがある。
 外から「部屋」を眺める少女さよ子が感じ取っていくことと感じ取ったことが、作品の大きな肝だ。

 三室目の<一〇三号室>は、平野啓一郎訳のオスカー・ワイルドの『サロメ』をもとに私道かぴが脚本化し、稲垣綾菜が出演した「サロメ」。
 3月の○○企画の公演/集団迷子の『星の王子さま』でも存在感を示した稲垣さんだが、ここでも、少女と大人の端境にあるサロメを感情の振れ幅激しく演じ切った。
 ただし、稲垣さんをいわゆる憑依型の演者だと判断するのは大きな間違いのような気がする。
 例えば、ヨカナーンに模された林檎を齧るあたりの演技にもよく表されていたけれど、彼女の特性は自分自身の内側にあるだろう狂気だとか、エロスだとか、自己顕示だとか、そういったあれこれを手の内に入れて反芻した上で改めて演じてみせるところにあるのではないか。
 いずれにしても、強く印象に残った。

 最後は<四〇四号室>で、柴幸男作、にさわまほ出演による「反復かつ連続」。
 ラヴェルのボレロ、とはちょっと違うか、四人の娘と母親をにさわさんが演じ分けていくのだけれど、同時に五人を演じるのではなく、まず一番下の娘から演じていって、次の登場人物のパートを演じる際は前の登場人物のパートは録音されたものとなっている。
 つまり、録音されたパート(二人目、三人目と重ね録りされているということ。音響監修は武田暢輝。ちなみに武田君も私道さんもにさわさんと同様、安住の地のメンバーだ)にあわせて、にさわさんは演技を連続させていくのだ。
 それこそ安住の地という演劇的な「前衛」(アヴァンギャルド)の地で活躍しているにさわさんらしい選択であり、自ら演出を手掛けているだけあってぶれのない演技でもあったのだが、それが頭でっかちに終わっていないのは、彼女の持つフラ(おかしみ)も大きいと感じた。
 そして、それは技のための技に終わらない、柴幸男の本にもよく合っているとも感じた。

 いずれにしても、観てよかったと思える公演だった。
 ああ、面白かった!!!

 そうそう、aikoの呼び掛けの最後の言葉を書き忘れていた。
 あしたもよい日でありますように!
 この公演に出演した4人をはじめ、関わった皆さん、観客の皆さん、そしてこの記事をご覧いただいている皆さん。
 あしたもよい日でありますように!
posted by figarok492na at 20:12| Comment(0) | 観劇記録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年06月15日

熊谷みずほプレゼンツ『墓入り娘』

☆熊谷みずほプレゼンツ『墓入り娘』

 作・演出:熊谷みずほ
(2019年6月15日17時40分開演の回/spaceF)


「いい指揮者の下で演奏すれば、いやあ、あんな風に音楽がつくりたいなあって思うし、ひどい指揮者の下で演奏すれば、ぜえったいこんな風にはならないぞって思うし。つまるところ、どっちにしても指揮がしたくなるんだよね」
 今から25年ほど前のドイツのケルン滞在中だ。
 指揮者としての活動をスタートさせようとしていたあるプロのオーケストラ・プレーヤーが、こんなことを語っていた。
(ちなみに、当時ケルンWDR交響楽団にオーボエ奏者として在籍していた宮本文章さんではない)
 それからしばらくしてお芝居に深く関わるようになって、これってたぶん戯曲の執筆や演出、さらには公演のプロデュースにも繋がるなあと痛感したものだ。

 大阪や京都で活発に演者として活動中の熊谷みずほが自ら企画・作・演出・制作を一手に引き受けた熊谷みずほプレゼンツ『墓入り娘』を観ながら、当然熊谷さんもそういった想いに強くとらわれたのだろうなと多いに首肯がいった。
 二言で言い表すならば「自負と畏怖」ということになるか。
 『墓入り娘』は、強さと弱さ、正は正、邪は邪と言わずにはいられない正義感と自分自身への迷いや戸惑い、細やかな心遣いとテリトリーを侵されないための線引き、観察力と賢慮に裏打ちされた見切りのよさとフラ、甘え、とぼけた感じ、危うさ…等々、熊谷さんの持つ特性が十分十二分に表された上演となっていたのではないか。
 spaceFは中会議室程度のフラットなスペース、そこに敷物を敷いて、照明は会場の蛍光灯のみ使用するといういたってシンプルな舞台設定も、手見せ顔見世となる第1回目の公演には相応しい。
 内容は、約10分程度の掌篇『夢のお兄ちゃん』と『痣』の二本に、フィナーレ代わりの『打ち上げ』、そしてアンコールというものだったが、日常っぽさの中に歪みというか、エロス(生と性)とタナトス(死)が混在しており、宙ぶらりんの気持ちのまま終わってしまう展開ともども強く印象に残った。
 まさしく『墓入り娘』のタイトルもだてではない。

 加えて、この『墓入り娘』で作・演出に徹した熊谷さんにとって、今回の座組みが組めた段階で八割方、いや九割方本望だったのではなかろうか。
 いずれにしても、自ら演者の側にあるだけあって、演じる者の機微をよくわかった本であり、演出だった。
 と、言っても演技のための演技、大向うを唸らせる見せ場の連続とは無縁、抑制の効いた、あくまでも作品の性質に副った演出を熊谷さんは施していたし、演者陣もまたそうした演技を心掛けていた。
 その意味でも、アンコールでの筒井茄奈子の激しい感情表現は非常に効果的であった。
 また、木ノ下歌舞伎の『桂川連理柵』(2009年6月/アトリエ劇研)やイッパイアンテナの『バードウォッチングダイアリーズ』(2012年12月/スペースイサン)や『遠野物語』(2014年8月/元立誠小学校)で確かに技量は優れているが、その技量に淫している感が若干あって、当時の楠海緒さん同様、必要以上に自己顕示の強い演者さんではないかと疑っていた三鬼春奈も、ここでは役回りにぴったりの肩肘張らない演技を披瀝していた。
 いや、三鬼さんに関しては、アンサンブル勢の一員としてよく舞台を支えていたHauptbahnhofの『和え物地獄変』(2016年9月/アトリエ劇研)を観て、自らの考えを大いに改めて、いたく反省してはいたのだけれど。
 一方、笑の内閣など、自らのてまり以外では三の線の演技を要求されがちなしらとりまなだが、『痣』の殴られる女はウェットで底の見えにくい、負の積極性を体現したような役回りであり、殴る女の葛川友理が見せた一瞬の怯えと好一対をなしていた。
 『夢のお兄ちゃん』の兄役の銭山伊織、『痣』の横恋慕役の亮介は、適度な自意識と自覚は持ちながらも、強引なマチズモを感じさせない演技。

 回を重ねて本寸法の作品・公演を目指す場合は、オムニバス形式にせよ、長尺物にせよ、一つ一つのエピソードの置き方や台詞の選択について、一層彫琢していく必要もあるだろうが、まずはこうして熊谷さんが自らの志向や思考、嗜好や試行をストレートに表現してみせたことに敬意を表するとともに、次回以降の公演を心待ちにしたい。
 ああ、面白かった!!
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2019年06月09日

努力クラブ第13回公演『どこにも行きたくないしここにもいたくない』

☆努力クラブ第13回公演『どこにも行きたくないしここにもいたくない』

 作・演出:合田団地
(2019年6月9日14時開演の回/人間座スタジオ)


 どこにも行きたくないし
 ここにもいたくない

 名は体を表す。
 題名は作品を表す。
 ああ、面白かった!!!
 と、書けば、それで事足れり。
 なんだけれど、それだけではちょっと説明不足に過ぎるかな。

 短篇小品にラジオドラマ等々、合田団地=努力クラブの作品に長く接してきた人たちにはおなじみのストーリー展開(それは、セックスを含めた合田君の人と人との関係性に対する感じ方考え方の反映でもある)を重要なモティーフにしつつ、作品は形作られている。
 人間の弱さに強さ、無意識の悪意、いーっとなる感じ、ばかばかしさ、しょうもなさ、生き辛さ、憎めなさといった事どもが、登場人物の言動を通して細やかに、根底から排除や否定されることなく描かれるとともに、なおかつそれが笑いやおかかなしさに密接に繋がっていて、ぐっと惹き込まれた。
 感情表現の振幅の激しさや「くすぐり」という意味から考えても、ほぼ全員が中学生(あとは高校生が一人)という設定は、実に効果的だったのではないか。
 途中だれ場もあるし、あえて観る側に「辛抱」を求める部分もありはするが、約110分を飽きることなく愉しむことができた。
 作品世界を象徴する存在である藤枝カスミを演じた斉藤ひかり(眼鏡をかけた感じとか、語尾のおさめ方とか、愉快犯にいた笹井佐保さんをすぐに思い出した。ただし、斉藤さんはより「確信犯」的な演技だが)をはじめ、西マサト国王(必見!)、田崎小春(一瞬の怖さがいい)、重実紗果、佐々木峻一、北川啓太、小野寺未季の演者陣も、各々の特性魅力を十分に発揮していた。
 もちろん、合田君のバランスよい布陣も忘れてはなるまいが。

 そうそう、終演後、合田君に直接聴いたが、ラストは今泉力哉監督の『愛がなんだ』を観る前に出来上がっていたそう。
 そこのところ、お間違えなきように。

 すでに前売りは完売だそうだけれど、明日14時の回も当日券が出るとのことで、お時間おありの方はぜひ!!!
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2019年03月23日

集団迷子『星の王子さま』

☆集団迷子『星の王子さま』

 脚本:寺山修司
 演出:にさわまほ
(2019年3月23日15時開演の回/京都市東山青少年活動センター創造活動室)


 少し前か、朝日新聞のテレビ・ラジオ欄に今月末放映予定の2夜連続スペシャルドラマ『名探偵・明智小五郎』のプロデューサーによる文章が何回か連載されていた。
 曰く、江戸川乱歩の名作や同じテレビ朝日の土曜ワイド劇場『江戸川乱歩の美女』シリーズ(天知茂主演)の面白さは認めつつ、それをそのまま現代に演じても多くの人たちには通じないのではないかとのことで、実際、西島秀俊演じる明智小五郎はサイバーセキュリティ対策のプロ、怪人二十面相はサイバーテロ集団に置き換えられるなど、このドラマでは現代向けのアレンジが様々に施されている。
 その伝でいけば、2014年8月の京都学生演劇祭でルサンチカが演じた『星の王子さま』などスペシャルドラマ『名探偵・明智小五郎』流儀、と言い切ってしまうと言い過ぎかもしれないものの、当然テキストの特性本質をくみ取りながら、現代を生きて、しかも現代演劇の先端と切り結んでいる河井朗以下彼女彼ららしい精度の高い上演に仕上がっていたのではないだろうか。

 一方、集団迷子の面々が今回演じた『星の王子さま』は、どちらかといえば、江戸川乱歩の原作や『江戸川乱歩の美女』シリーズにも通じるような邪劇性見世物性というか、寺山修司的訥弁の能弁というか、アンダーグラウンド的粗雑さ猥雑さの力というか、いずれにしても初演時を想像させる内容となっていた。
 正直、技術的な限界を感じたことは否定できないし、舞台で演じられている事どもとまもなく50歳になる自分との間の距離を覚えたことも事実だが、そんなことは全て承知の上、稽古を重ねて自分たちに今できることをやって見せるという意識、それより何より、何がなんでも演劇を芝居をやり続けたいんだという彼女彼らの想いも十分に伝わってきた。
 演者陣では市毛達也が潔さの極み。
(あの役をああ演じさせた演出のにさわさんも、演じ切った市毛君も偉い)
 また、稲垣綾菜、井深誌文、雛野あき、それぞれの配役にも納得がいった。
 ほかに、大谷彩佳、奈良光彩希、畑迫有紀、坂本美音、篠原夏美、森田万利奈、松原淘汰、森實春香らも要所要所で顔を出す。

 上演時間は約60分。
 明日までの公演で、ご都合のよろしい方はぜひ!
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2019年03月10日

ラスタライズ第二回 新作戯曲朗読会(殿井歩作品の分)

☆ラスタライズ第二回 新作戯曲朗読会
 殿井歩作品の分

(2019年3月10日12時スタート/Social Kitchen 2F SPACE)


 「演劇経験も作風もバラバラな劇作家が、俳優さんたちをお招きし、自作の戯曲を朗読」(公演プログラムより)するという企画、ラスタライズ第二回 新作戯曲朗読会のうち、殿井歩の作品分に接してきた。
 会場は、京都市営地下鉄の鞍馬口駅から歩いて5分ほどのところにあるSocial Kitchen の2階のSPACE。
 ちなみに今日は、現在助監督兼制作として撮影に関わっている自主制作の短篇映画『あしたのねがい』のササハラユウキ監督もせっかくだからと同道した。

 今回朗読されたのは、戯曲講座の課題として執筆したという『とおり雨』、昨年10月の「少し怪しい祭り【戌】』(アトリエみのむし/8日に観劇)で上演された『夜ふかしする人々』、この企画のために書き下ろされた『かごのとら』の三作品。
 空調設備の関係もあってか、はじめの『とおり雨』で少し聴きにくさを感じたのは残念だったが、こうやって初見に近い状態、しかもあえて感情をこめず素読みに近い形での朗読を通すことで、殿井さんの作風、特性美質といったものを改めてよく知ることができた。
 ユーモア感覚、観る側に喜んでもらおうという意識はもちろんだけれど、例えば『夜ふかしする人々』など、実演以上に不穏さというか、殿井さんの心の中に滞留するもの、一方で矜持というか臆面のありようが明確に感じ取れたと想う。
(なお、『夜ふかしする人々』では、朗読の前に初演に出演していた出村弘美、申芳夫の二人が解説としてアクション場面を披露していた)
 臆面があるといえば、朗読を行った演者陣、久貝亜美、椎橋怜奈、柴田修平、申さん、田辺泰信(ササハラ監督がいたく気に入って、帰りがけもしばらくその話をした)、出村さんもそう。
 殿井さんも含めて濱口竜介監督の『ハッピーアワー』の出演者仲間であるが、各々がしっかり違いつつ、均整のとれた顔触れだった。
 いずれにしても、演劇はもちろんのこと、ラジオドラマや映像といった形でも、殿井さんの作品に親しんでいければと強く感じた。

 諸般の事情で、14時からの英衿子作品、16時からの高木由起作品に接することはできなかったが、こうした新作戯曲を気軽に親しめる会はこれからもどんどん行って欲しい。
 ああ、面白かった!!
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2019年02月23日

あっしにもかかわりのあることで 中村敦夫の朗読劇『線量計が鳴る』

☆中村敦夫 朗読劇『線量計が鳴る』

 脚本・主演:中村敦夫
(2019年2月23日14時開演/京都教育文化センターホール)


 あっしにゃあかかわりのねえことで。
 40代後半から60代ぐらいまでの人、特に男性ならば、子供の頃、中村敦夫演じる木枯し紋次郎の真似をして、竹串か何かを口からぷっと吹き飛ばした経験がおありではないか。
 あいにく紋次郎風の長い竹串がないものだから、巻きすを一本抜きとってあとでこっぴどく叱られたこともあったっけ。
 こんな馬鹿な経験をお持ちの方も中にはいらっしゃるかもしれない。
 ただ、そんな風に物真似の対象ではありつつも、正直、僕は中村敦夫という演技者が今一つ好きではなかった。
 紋次郎流儀、斜に構えたというか、ニヒルというか、どこか格好つけて壁をつくっているかのような感じがどうにも苦手で、それよりは、それこそ『はんらん狂騒曲』(菅孝之の戯曲。この作品の上演騒動がもとで、中村さんや市原悦子、原田芳雄、菅貫太郎、鶴田忍らが俳優座を去った)を地で行くようなジャーナリスト、テレビキャスター、参議院議員としての硬派な活動ぶりにより好感を抱いたものだ。

 そんな中村敦夫への印象が変わったのは、市川崑監督のリメイク版『犬神家の一族』での古舘弁護士を演じた頃からか。
 ちょうど中村さんが俳優として積極的な活動を再開し始めた時期で、はっきり言ってこのリメイク版自体、ウッチャンナンチャンのコントか何かとみまごうばかりのキッチュな作りに残念な想いがしたし、中村さんの演技にも違和感は残ったのだが、一方で中村さんってこういうコミカルっぽい演技もするんだなと意外に感じたりもしたのだった。

 で、今日旧知の松田裕一郎さんの誘いで足を運んだ自作の朗読劇(一人朗読劇)『線量計が鳴る』で、初めて中村敦夫の実演に接したのだけれど、いやあこれは足を運んで本当に大正解。
 中村敦夫という演技者、表現者に大いに感服した。

 副題に「元・原発技術者のモノローグ」とある『線量計が鳴る』は、東日本大震災の原発事故に到る道筋や震災後の状況、福島の人たちの苦境、さらには原子力発電を取り巻く利権構造が、かつて技術者として東京電力・福島原子力発電所に関わった老人の言葉を通して明確に浮き彫りにされていく。
 と、こう記すと、なんだそれって政治講演みたいなもんじゃんと斜に構える向きもあるかもしれず、実際中村さんというより今日のお客さんの側にもそのノリがなかったとは言えないけれど、そこは中村さん、かつての『チェンマイの首』などの小説同様、取材等で手に入れたデータを巧みにエンタメの手法に落とし込んでおり、聴きどころ見どころに不足しない「劇」に仕立て上げていた。
 加えて、劇場感覚に富むというか、生のお客さんの反応に敏感なユーモア感覚も十分十二分に発揮していた。
 そして、もっとも感嘆したのが中村さんが自らの老いをしっかりと引き受けた上でこの休憩を挟んだ二時間ほどの朗読劇に挑んでいたことだ。
 舞台上のあの人物は福島の元技術者の老人であるとともに、俳優座から何から、これまで様々なことを積み重ねて生きてきた中村敦夫自身でもあった。
 だから、途中何か所か言い間違いやウロもまた、あるべくしてあるものであり、この作品のリアルさを補強していたように感じた。

 終演後のトークで、79歳になった(!)自分がこうして演じ続けられるのは、公憤と義憤があるからと口にしていたけれど、原発に関する様々な問題は確かに他人事ではない。
 あっしにゃあかかわりのないことどころか、あっしにもかかわりのあることだ。
 むろん、原発に対する意見は人それぞれで、中村さんの考え方が即全て受け入れられるとは言えないだろうが。
 それでも、今一度この問題についてはよくよく考え直さねばならないとは強く思う。

 とともに、原発どうこうはひとまず抜きにしても、演劇演技に関する人たちにはぜひ観ておいて欲しかったなと感じずにはいられなかった。
 なにせ、いろいろ事情があってとはいえ、僅か1000円でこの公演に接することができたのだから。

 ああ、面白かった!!!
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2019年02月02日

後付け第5回公演『めだまやきくん大集合(再演)』

☆後付け第5回公演『めだまやきくん大集合(再演)』

 作・演出:高嶋Q太
(2019年2月2日16時開演の回/スタジオヴァリエ)


 後付けなんて、なんて思わせぶりな。
 なんて思わせて、北川啓太君も出てたからどうせ麻雀から来てるんじゃないの。
 と、思ったり思わなかったり、最初からこう書いてやろうと思ってたり。
 信頼する人たちから薦められていながら、なかなか観ることができないでいた後付けの第5回公演『めだまやきくん大集合(再演)』を観たんだけれど、ちっとも思わせぶりなんかじゃなかった。
 確かに、「幕間」を挟んで演じられた10の小品は、一筋縄じゃいかない。
 突然あんなこと言い出したり、何やらわけわからんちんのままフェイドアウトしたり。
 あえて「説明」を排した行き方だ。
 だけど、演劇的な先達からの影響もそうだし、それより何よりそれぞれの小品が自分たちの身近な出来事、実感から生み出されたものであることは、それこそくどくど口にする必要もないほど明らかなことだろう。
 シュルレアリスムが現実/リアルの反映であると定義するなら、『めだまやきくん大集合(再演)』はシュルレアリスムと…。
 いやいや、そんな風に訳知り顔に後付けされても…。
 と、もしかしたら高嶋君たちは苦い笑いを浮かべて両手を前に出して小刻みに振りながら困ったような困っていないようなふりをするかもしれないな。
 いずれにしても、強引さや臆面のなさ、教条主義的な決めつけとは正反対の含羞、引き、微妙な間合いが後付けの身上であり魅力特性なのではないか。
(というか、自分自身の体験経験に基づく実感から、特に『バルサン』や『青』などそっと匕首を突き付けられたみたいな曰く言い難い気持ちになったことも事実だ)
 「マクドナルド」をぶつけて、「Go to hell」で〆る結構にも感心した。

 訥弁の雄弁というか、不器用さの器用さが印象に残るじゅういちはじめ、アパ太郎(笑の内閣の『そこまで言わんでモリエール』とはまた違った感じ。ところで、余計なお世話だけれど、彼女はこのままアパ太郎の芸名で通すんだろうか)、山根悠の演者三人は、そうした作品世界によく副って、演じることとリアルに見せることとの間のバランスをとる努力を重ねていた。

 笑いに笑って幕が閉じたあと、はて今日は一体どんな話だったっけといったシャンペンの泡のようなコメディーもいいが、この『めだまやきくん大集合(再演)』のような終わったあとで何かがもやもやと残るコメディーもやっぱり悪くない。
 次回の後付けの公演も愉しみだ。
 ああ、面白かった!!
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2019年01月02日

京都ロマンポップ 解散公演・丙『FINAL FUNTASY 僕の厭離穢土』

☆京都ロマンポップ 解散公演・丙『FINAL FUNTASY 僕の厭離穢土』

 脚本・演出:向坂達矢
(2019年1月1日19時開演/UrBANGUILD)


 作品そのものについても、京都ロマンポップという劇団についても、向坂達矢という劇の創り手についても、演者陣についても語り出せばきりがない。
 でも、それをくどくどと記すとどうにも嘘くさい気がして仕方がない。
 だから、あえてこれだけ。
 足を運んで本当によかった。
 ああ、面白かった!!!!!
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2018年11月25日

THE GO AND MO'S第26回公演『岡本の耳』

☆THE GO AND MO’S第26回公演『岡本の耳』

 脚本・演出・出演:黒川猛
 構成:黒川猛、中川剛
 制作・他:丸井重樹
(2018年11月25日13時開演/京都市東山青少年活動センター創造活動室)


 ここのところご無沙汰していたTHE GO AND MO’Sの第26回公演『岡本の耳』に足を運んだんだけれど、これぞまさしく視聴者参加番組ならぬ観劇者参加公演。
 というか、体験型脱出ゲームにすら近い趣向もあって、大いに愉しんだ。

 で、受付で丸井さんから白のチケットを選ぶか赤のチケットを選ぶかと尋ねられて、んん??と首を捻ったら(赤を選択。そりゃ赤でしょ。これでも学生時代は立命館大学で…以下自粛。粛清じゃないよ)、舞台や客席を目にしてまたびっくり。
 舞台の真ん中にランウェイ、ほらファッションショーでモデルが歩いて来る岬の突端みたいなやつ、が設けられていて、客席はといえば、そのランウェイに並行するように、上手下手各2列計4列が、見切りの配慮も行われた上で整然と置かれているのだ。
 ますます首を捻っていると、開演時刻になって黒川さんが登場、片手には拳銃、片手にはバッグを持っている。
 俺はバスジャックだ、お前たちは言うことを聴け!
 すかさず黒川さんが声を上げた。
 つまるところ、客席はバスの座席って設定。
 スマホ携帯の電源を切れではなく、切ってくださいなんて語尾が丁寧になっているのもおかしい。
 さらに、お菓子など差し入れを要求されたので、さっき半額引きクーポンを使って買い込んだピーナッツブロックチョコ一袋を投げ込んだ。
 こうして前説を兼ねた『バスジャック』は終わった。

 ちなみに暗転中は、運転手という設定の丸井さんの突っ込み風のナレーションが入る。
 内容もあってだろうが、それにしても今回はいつにも増して丸井さんが大活躍だったなあ。

 続いては、黒川さんがファッションモデルよろしくランウェイを練り歩く『何コレ』。
 録音撮影、どんどんやってくださいと、黒川さんが煽る煽る。
 一回目は、あっ一発落ち?と思っていたけど、そこは笑いにひつこい黒川さん、二回三回とブリッジ風の『何コレ』があった。
 三回目など、絶賛上映中の『ボヘミアン・ラプソディ』を彷彿とさせるコスチューム!

 さて、ラインナップ三本目は『講談師藤子紋之丞』。
 最近流行りのねっとりとした語り口の講談師も顔負け、張り扇ではない張り板調(落語の『東の旅』発端みたいな風に板を叩く。ただし、黒川さんは長めの板切れを使用)で、あの国民的な漫画のストーリーを強弱緩急のデフォルメをたっぷりつけながら読んでいく。
 さすがは「藤子」「紋」之丞。

 四本目は、『モグラ叩き』。
 お手伝いの西河君(ベトナムからの笑い声!)が空気を入れて机の上に立たせた紙袋には、あれやこれや世情を賑わせた出来事や人どもの名前が貼り付けてある。
 それを黒川さんがプラスチック製のバットで一刀両断叩きつけたり叩きつけなかったりするというネタで、世の炎上騒ぎ、バッシングの不毛さを…。
 って、小難しく考え過ぎる必要もないか。
 ただ、こういう黒川さんの至極真っ当さはベトナムからの笑い声の頃から続いてるなあと改めて思ったりもした。

 五本目のネタ、『ドッペルゲンガー』はドッペルゲンガーという題材をああだこうだと捻くり回しこねくり回し、結局そう落とすんかいという作品。
 今回のラインナップの中では、もっとも「演劇」寄りの内容だったかも。
 そうそう、ナレーションの女性は山方さんではないか。
 彼女の声に、再びベトナムからの笑い声のことを思い起こした。

 六本目の『旗』は、丸井さんの指示にあわせて黒川さんが赤い旗を上げたり白い旗を上げたり(赤上げて、白上げて、白下げないで赤下げないといったやつ)しているうちに、丸井さんの独り合点・ボケが強くなっていって…。
 途中、丸井さんのアゴ攻撃が炸裂。
 最後は白と赤のチケット=お客さんとの絡みが黒川さんを救った。

 が、白と赤の魔力効力はなおも続く。
 ラインナップおしまいの『炎雷球-Fire Thunder Ball』は、まず白いチケットのお客さんが上手側、赤いチケットのお客さんが下手側に移る客席移動から。
 そして、黒川さんの説明が続く。
 曰く、赤白各組一人ずつ舞台に上がって、エアボーリング(ボーリングの球を投げる真似)をしながら、例えば「阪神ファンの人」といった質問をして、自分の組のお客さんに挙手してもらう。
 つまり、お客さんがボーリングのピンということで、お客さんの数によってストライクになったりスペアになったり、挙手が0か10以上だとガーターになったりという、まさしくゲームである。
 で、全部で3フレーム計6人のお客さんが臆せず舞台に上がって、しっかりゲームに参加した。
 むろん、そこは黒川さんの巧みな誘導もあってのことだけど、ほんと盛り上がったなあ。

 と、実に盛りだくさんな内容だった。
 そして、印象深い役者さんで優れたエッセイの書き手でもあった殿山泰司の、「映画はヒトリではできない、大ぜいの人間がいる、だけどそこには孤独の影がある。芝居はヒトリでもできる、だけど孤独ではない、そうかァ、観客がいるからなんだ」(『JAMJAM日記』<ちくま文庫>より)という言葉をふと思い出したりもした。
 まあ、黒川さんは芝居やコント自体、ヒトリでやるより大ぜいでやりたいような気もするけれど。
 いずれにしても、ああ、面白かった!!!
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2018年11月04日

高間響よどこへゆく 第26次笑の内閣『そこまで言わんでモリエール』

☆第26次笑の内閣『そこまで言わんでモリエール』

 作・演出:高間響
 助演出:河井朗
(2018年11月4日15時半開演の回/京都芸術センター・フリースペース)


 かつて今は亡き三遊亭圓生は、ある藝人について天皇陛下に見せられない云々と評したという。
 昭和天皇の天覧口演を一生の誉れと感じた圓生らしい物言いではある。
 それでは、高間響率いる笑の内閣の公演はどうだろう。
 諷刺皮肉が散りばめられているし、お下劣お下品な台詞もふんだんだし、アフタートークのゲストも相当やばい人たちが多いし…。
 けれど、今回のアフタートークで劇団洒落乙のぶった斬れのベティさんが口にしていたように、高間君といえば両極端に振り切ら(れ)ないバランス感覚の持ち主、昭和天皇や今上天皇は無理にせよ、次代の天皇ならば…。
 いや、『君の名は』があるからアウトか。

 なんてことを考えてしまったのも、高間君が第26次笑の内閣で『そこまで言わんでモリエール』のタイトルの下、フランスを代表する劇作家の一人モリエール(ちなみに、江守徹って彼からきてる芸名。江戸川乱歩や谷啓みたい)に挑んだからだ。
 このモリエールという男、国王ルイ14世の庇護を受けながら、諷刺皮肉に当てこすりのオンパレード、こいつは敵だとみれば徹底的にたたきまくって争うし、大の女好き。
 京都芸術センターのプログラムという基本的な枠はありつつも、高間君が好んで取り上げたくなるのがよくわかる。
 舞台は、1665年12月、モリエール率いる劇団は…。
 といった梗概は、公演チラシをご照覧あれ。
 モリエールという一人の劇作家・演出家・座長と彼を取り巻く人々の大騒動に仮託して、高間君の演劇そのものに対しての想いや人間関係に対しての想い(ぶっちゃけて言うなら、俺は喧嘩はするけど、ほんとはそんなもんしたくねえんだよ、みんなで仲良く愉しく芝居をやって、甘えたいときは甘やかしてくれってんだ、そら我がままだろうけどさ)がストレートに描かれている。
 関西小劇場界、というか高間君周辺のあれやこれや(極私的な内輪ネタだって、モリエールならばまあありだ)を際どくぶちまいて問題提起をしていたし、ここぞというところでは真情を吐露するような台詞も用意されていたが、そこは上述した如きバランス感覚の持ち主でもあるわけで、ほどよく捻りを加えて感情過多を避けていた。
 また、モリエールの作品・台詞も効果的に引用されていたのではないか。
 学生時代に接した岩波文庫版に比して、青山学院大学の秋山伸子教授の翻訳も笑の内閣の動き(身体のみならず感情)の多い芝居にぴったりだった。
(秋山先生訳のモリエールをぜひ一度読んでおかないと)

 もちろん、そうした高間君のテキストをそれこそドラマティックな舞台に仕立て上げるにおいては、河井朗の助演出(共同演出と呼んだほうがよいか)と演者陣の存在を忘れてはなるまい。
 正直、演者陣の所作や構成等、相当な部分で河井君の手つき手さばきを感じたことも事実だ。
 加えて、モリエールを演じ切った髭だるマンを筆頭に、高瀬川すてら、澤田誠、上原日呂、アパ太郎、熊谷みずほ、しらとりまな、土肥希理子、由良真介、BANRI、岡本昇也、山下ダニエル弘之、亮介の演者陣も各々の特性魅力を発揮していたのではないか。
 踏み込んでいえば、技術技量の長短はひとまず置くとして、高間君のテキストやあり方との齟齬、河井君の演出スタイルとの齟齬、ばかりか演者間の齟齬もいろいろと垣間見えていたのだけれど、そうした部分も込みの『そこまで言わんでモリエール』なのかもしれない。

 いずれにしても、内閣初出演初参加の顔触れが増していく中で、高間君がどのような作品を生み出し、笑の内閣としてどのような人間関係を創り出していくのか。
 公演そのものを大いに愉しんだ分、その点に関して非常に気になったということを最後に付記しておきたい。

 ああ、面白かった!!!
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2018年10月21日

O land Theater『しあわせな日々』

☆O land Theater『しあわせな日々』

 作:サミュエル・ベケット
 演出・美術:苧環凉
(2018年10月21日14時開演/京都市東山青少年活動センター創造活動室)


 O land Theaterがベケットの『しあわせな日々』を上演するというので、京都市東山青少年活動センターまで足を運んだ。

 舞台上にはウィニー(坂東恭子)が地中、というよりも布を効果的に利用した苧環さんの美術を観れば強固な土中といったほうがより適切か、胸元まで埋まった状態になっている。
 開演とともに時計のベルが鳴り、ウィニーは目醒める。
 そして、歯を磨き、祈り、おしゃべりを始める。
 だが、夫のウィリー(竹ち代毬也)は、彼女に顔を見せようともしない…。

 といった展開の『しあわせな日々』は、ウィニーの一種狂躁的なおしゃべりやウィリーとのコミュニケーション/ディスコミュニケーションを軸にしながら、そこにグロテスクな滑稽さを交えつつ、人間関係の不毛さや不安定さ、ばかりではなく社会的な圧迫、危機的状況を描いた、切実で痛切な作品である。
 苧環さんは部分部分で仕掛けを施しつつも、基本的には作品の要所を丁寧に押さえてバランスのよいオーソドックスな演出を心掛けていた。
 と記すことができるのは、かつて学生時代に『しあわせな日々』を書籍で何度か読んだことがあるからだろう。
(たぶん、苧環さんが今回の公演で利用したものと同じだと思う)

 正直、僕の観た回では演者さんの技術的限界が大きく、何度も集中が途切れてしまい、ある意味いたたまれなさすら感じていたが、最終盤の竹ち代さんの激しい動きでようやく解き放たれた(むろん、そうした意味合いの演技ではないとも思いつつ)気分になることができた。
 と、こう記すと、僕がウィニーを演じた坂東さんを責めているととる向きの方もいるかもしれないが、そうではない。
 約1時間半以上しゃべりっぱなしであり続ける坂東さんの苦労は、当然想像に難くないからである。
 まずもってこの『しあわせな日々』という大きな課題に正面から向き合った坂東さんには、竹ち代さんへと同じく大きな拍手を送りたい。
 それに、どこか岸恵子っぽくて1970年代までの洋画や海外ドラマの吹き替えっぽい坂東さんの声質は、ウィニーという登場人物のあり様によく合っていたし、表情の豊かな動きも強く印象に残った。
 ただ、だからこそ、坂東さんの限界をより巧く活かす、もしくは庇う方法はなかったかと思ってしまうことも事実だ。
 例えば、いっそ台詞の「切断」をデフォルメしきって、異化効果を生み出すとか。
 もしくは、坂東さんはもちろんのこと、竹ち代さんにももっともっと「ぶち壊し」てもらって(それこそ黒澤明の『用心棒』のラストの藤原釜足のような)、ベケットの邪劇性を強調するとか。
 逆に、そうしたべたべたなやり方が苧環さんの求めるものではないとすれば、苧環さんの表現欲求が十全に発揮された上で、個々の演者の負担の少ないものを上演していくか、もしくは、テキストに見合ったシビアなキャスティングを行っていくか、という判断が必要になってくるのではないだろうか。
 いずれにしても、演出、演者陣ともども意欲的であり、それぞれの特性魅力が窺えた公演であっただけに、非常に残念でならなかった。

 次回のO land Theaterの公演を心待ちにしたい。
posted by figarok492na at 19:26| Comment(0) | 観劇記録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年08月04日

仲良きことはおかかなしきことなり 煤ズ「大バラエティ企画」

☆煤ズ「大バラエティ企画」

 出演:横山清正、丸山交通公園ワンマンショー、鯖ゼリー、玉木青
(2018年8月4日10時スタート/松田の家)


 気持ちのいいチョップの横山清正を座長に、丸山交通公園ワンマンショーの丸山交通公園、飄々舎の鯖ゼリーと玉木青の四人が集まって、なんと10時間にも及ぶイベント・煤ズ「大バラエティ企画」を開催するというので、壬生の「松田の家」まで足を運んだ。
 ちなみに、「松田の家」は演劇関係者でもある壬生近辺の松田裕一郎さんの自宅で、1階にイベント会場兼稽古場対応のスペースが設けられている(30人弱は集客可能だ)。

 10時前より玉木君が登場。
 今回の企画のコンセプトを知らせるような動画をそれとなくPCで流す親切さはいつもの通りだ。

 で、イベントスタート。
 動画と同様、会場が会場だけにここは玉木君の部屋、夏休みに友だちが遊びに来るという設定で、横山君、鯖君、丸山君の順番でばらばらと中に入ってくる。
 10時〜はずばり「集合」。
 みんなが集まって、企画の趣旨をざくっと紹介しながらくっちゃべったり、動いたりという展開。
 様子見もあってか序盤は低速、が、そこは今は懐かし「 」会や飄々舎で馴染んだ四人だけに、徐々にアンサンブルが決まり出す。
 開場直前に迷ってしまった座長横山君の本領が、時計など見ずに「1分間」を当てるというゲームで発揮されていた。

 小休止を挟んで、11時〜は「クイズ@」。
 玉木君が質問して、残りの三人が回答するというスタイルである。
 まずは、相対性クイズ。
 誰でもすぐに答えられるクイズ(例えば、今は何月か? とか、今の総理大臣の苗字は? とか)を普通に回答してもらい、同じ答えの中で誰が一番正解なのかをアピールするというバーバルセンス(屁理屈センス)が問われるもの。
 「ユーモアを面白さで判断するのは違う」といった名言を繰り出すなど、横山君がハッスル。
 負けじと丸山君、鯖君も丁々発止のやり取りを繰り広げる。
 続いては、英語クイズ。
 英語で質問し、英語で答えるというパターンのクイズで、四人の悶えっぷりが見物だった。

 12時〜はお昼休憩。
 いったん帰宅し、13〜の「飄々」はパスする。

 14時〜は「即興劇」。
 お客さんから、舞台は公園という設定だけいただいて、泣かせる内容、物語を紡ぐをコンセプトに即興劇を四人が始める。
 が、そこは笑いが一番の面々のこと、劇が始まらぬうちから笑い声が漏れ聞こえる。
 結局、あちゃらか臭ふんぷんの物語に仕上がった。
 ラストは横山君の大芝居!
 後半は、謝罪会見がネタに。
 鯖君演じる某医科大関係者や、生産性をすぐ口にする横山君演じる某政党の代議士が、謝罪なんて屁の河童、傲岸不遜に自説を強調する時節にそった内容となる。

 15時〜は「大喜利」。
 ここではなんと言っても、就職のために東京に移った気持ちのいいチョップの相棒、小川晶弘君が電話出演したのがクライマックス。
 横山君、丸山君、鯖君がlineで送って来た「東京に行って嫌な風に変わった人間の電話の第一声」というお題の答えを小川君が読み演じる形で、小川君の熱演ぶりが光った。

 16時〜の「昼寝」は諸般の事情でパス。

 17時〜の「クイズA」は、途中から。
 本気で答えるクイズということで、丸山君が声を張る張る。

 18時〜は「アフレコ」。
 プロジェクターを設置してアニメなどの動画に声を好き勝手にあてていこうという趣向だ。
 が、開始から8時間。
 出演者陣もだれ始め、名作アニメのラストやタモリの弔辞、上岡龍太郎の弔辞、千鳥の爆笑漫才をただ観てしまうという大脱線に終わる。

 19時〜は「リーディング」。
 過去に四人が書いた劇作品(含むラジオドラマのテキスト)のうち、これぞと思う作品を他の三人が演じてみせるというもの。
 ここでは、やはり横山君がかつて書き下ろした作品が強く印象に残る。
(学生演劇祭で観たんだよ、横山君の作品。段ボールが家かなんかになってるやつじゃなかったかな)
 恥ずかしさ極まった横山君の身もだえぶりがおかしい。
 ほかに、丸山交通公園ワンマンショーは当然のことながら丸山君あってのものだと再認識した。

 20時〜は「打ち上げ」。
 と言っても、お客さん含めてお酒やドリンク、お寿司やお菓子が振る舞われる本当の打ち上げには非ず。
 打ち上げをやっているという体での振り返りの時間だったが、ここでもまた横山君が芯をとり、お母さんの話で盛り上げた。

 いやあ、随所随所で大いに笑った。
 でも、こうして書き並べてみると、今回の煤ズ「大バラエティ企画」が横山清正という、どちらかと言えば通常は脇に回されがちな人物を真正面に押し出したそれこそ「座長芝居」ならぬ「座長バラエティ企画」であるとともに、(電話出演した小川君やサポートメンバーの葛川友理も加わった)適度な距離を保った友情の証明であったこともよくわかるのではないか。
 そして、最後の最後、今後の企画についての「30年後にやれたら」、「いや、それよりももう少し早く」といった言葉を耳にするに、まだ8月始めだというのに夏休みが終わってしまったような切なさと、大量に買い込んだ花火セットを全部燃やし尽くしてしまったような儚さを感じてしまったことも事実だ。
 仲良きことはおかかなしきことなり。

 いずれにしても、出演者の皆さん、10時間お疲れ様でした。
 ああ、面白かった!!!
posted by figarok492na at 23:15| Comment(0) | 観劇記録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年07月28日

真魔間磨 ママママ コント公演B『AUGUST』

☆ママママ コント公演B『AUGUST』

 作:志村耕太朗
 演出:木之瀬雅貴
(2018年7月28日18時開演の回/KAIKA)


「忘却とは忘れることなり 忘れ得ずして忘却を誓う心の悲しさよ」
 といえば、昭和20年代の人気ドラマ『君の名』の冒頭のナレーションだけど、木之瀬雅貴によるママママのコント公演B『AUGUST』は、その題名の如く「夏」を舞台にしつつ、記憶と忘却について描いた作品となっていた。

 明日明後日も公演が残っているので、あえて詳細については記さないが、今回の『AUGUST』はいわゆる演芸的なコントと言うより、フランスの掌篇的なコントに実体は近いか。
 無関係に見える断章・情景が、その実、関係性を持っているという構成で、「ああ、こういうことあったあった」とノスタルジーに浸りかけているうちに、すっと異次元に連れ込まれてしまう。
(志村君は、もしかしたらけっこう映画が好きなのではと思ったりもした)
 木ノ瀬君の演出に接するのは、京都造形芸大舞台芸術学科の卒制であるMAWARUの『裸足で散歩』(2014年11月2日)以来だが、あのとき同様、真摯にテキストと向き合いつつ、そこに爪痕を残すというか、幾重にも捻りをきかせていこうというスタイル。
 もちろん、この4年間の研鑽変化を十分に感じたことは言うまでもない。
 ただ、あえてふわっと粗めにつくっている部分との対比という意味でも、演技面を含む断章情景ごとの変化等、一層細やかに詰めて欲しいと思ったことも事実である。
 例えば、往年のコント55号を彷彿とさせるサディスティックな場面など、笑いのためにもより貪欲によりしつこく攻めてもよかったのではないか。

 演者陣では、なんと言っても井上向日葵のギアのチェンジの巧みさに感心した。
 未だ造形芸大に在学中というが、後生畏るべしどころの出来じゃない。
 これからの活躍が本当に愉しみだ。
 一方、合田団地、渡邉裕史の年長男性チームは各々の個性特性を前面に押し出した。
 それにしても、合田君はずるいな。
 ある場面で女性を演じていたんだけど、それがなんとも京塚昌子にそっくりでツボにはまり、ついつい本筋に関係のない笑い声をあげてしまった。

 ああ、面白かった!!

 そうそう、『夏祭り』って歌、なんだか『君が代』にそっくりですね!
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2018年07月20日

オフビートなおかかなしさ 爆劇戦線⚡和田謙二『カーニバルの朝』(ゲネプロ)

☆爆劇戦線⚡和田謙二『カーニバルの朝』(ゲネプロ)

 脚本・演出:髭だるマン
(2018年7月20日19時開始/京都東山青少年活動センター創造活動室)


 劇的細胞分裂爆発人間から爆劇戦線⚡に名前を改めたのちも、長くしゃくなげ謙治郎路線を続けていた和田謙二が久方ぶりに髭だるマンの脚本・演出の公演を行うというので、東山青少年活動センターの創造活動室まで足を運んだ。
 当方が観たのは急遽開催が決まった公開ゲネプロということで、あえて詳細は語らないけれど、これは足を運んでおいて正解だった。

 いわゆるコント(というか、それより少し長めのスケッチ)集。
 洗練されてこじゃれた生き方をしたいと願いつつ、その実どうにもそうならず、結果いびつで歪んでしまう人間の様が、時にグロテスクなほどのデフォルメを加えつつ、おかかなしく描かれている。
 学生時代の作品に書き下ろしを加えたというラインナップで、例えば2012年の京都学生演劇祭の『未開・踏襲・座敷童子』をはじめとした龍谷大学の未踏座の公演に接した人たちにとっては「ああ、懐かしい」と思える内容であるとともに、丸山交通公園ワンマンショーで髭だるマンが演じた一人芝居にも通じる死の気配というか、ただただ笑ってすませられない後味が残るのも事実だ。
 髭君のほか、しゃくなげ君、てんま1/2、白瀬次郎の和田謙二オリジナル・メンバー男性4人は、各々の特性を発揮しつつオフビートな作品世界を生み出す努力を重ねていたのではないか。
 妙な言葉になるけれど、和田謙二のVol.1『食い合わせのグルメ』に比べて粗さ、抜け、にも磨きがかかっているように感じた。

 土日で計4回公演。
 ご都合よろしい方はぜひ!
 ああ、面白かった!!
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2018年07月07日

笑の才覚 京都コントレックスVol.1

☆アガリスクエンターテイメントPresent
 全国コントレックス《京都公演》
 京都コントレックスVol.1

(2018年7月7日17時開演の回/スペースイサン)


 色川武大の『なつかしい芸人』<新潮文庫>の[ロッパ・森繁・タモリ]の章に、色川さんと若き日のタモリが夜を徹して語り合った際、タモリが森繁久彌の役者・芸人としての生き方に関して感嘆していたことが詳しく記されている。
 タモリ曰く、
「森繁さんはすごいですよ。あの人はほかの役者とちがう。実にしのぎがうまいです」。
 どういうことかといえば、森繁久彌は他の役者と違って自分の座を揺るがすようなライバルが出て来ても遠ざけたり蹴落としたりすることなく、自分にとっていちばん危険な奴を手なずけてしまうというのだ。
 さらに、タモリは言葉を続ける。
「森繁さんはその上を行きますね。山茶花究と三木のり平、自分のまわりでもっとも怖い才能の持主を、逆に引き寄せちゃう」
 それに、色川さんもこう受ける。
>(森繁久彌は)一緒に芝居に出て、絶えず山茶花やのり平の演じ所を作ってやる。つまり手柄を立てさせるのだ。そうして、森繁自身が彼等の手柄を利用して、さりげなく自分の受け場にする。最終的には森繁がいちばん映えるようになっているのである<
 で、今夕の京都コントレックスを観て、ああ、アガリスクエンターテイメントのスタンスってそんな森繁久彌とそっくりだなあとふと思ってしまった。


 今や上がり調子の屁理屈シチュエーションコメディ劇団・アガリスクエンターテイメントがこれぞと思う劇団集団と共にコントの場を分かち合うコントレックスだけれど、今回はホームグラウンドの東京のほか、ここ京都や名古屋でも開催される。
 あいにく降り続く雨の悪天候のゆえ、昨日の回は残念ながら公開ゲネプロといった形となってしまったものの、今日は無事決行。
 足元が悪いにも関わらず、大勢のお客さんが集まっていた。
 もちろん、『ナイゲン(全国版)』(2015年10月10日、元・立誠小学校音楽室)以来の俄かアガリスクエンターテイメント・ファンの当方が足を運んだことは言うまでもない。


 開演10分前に前座として登場したのは、丸山交通公園(MCも兼ねる)。
 企画に合わせた前説を行いつつも、ワンマンショーと通じる毒を仕掛けていた。
『椿三十郎』への言及が嬉しかったなあ!


 さて、ここからが本番。
 いっとう最初は、笑の内閣(高間響上皇作・演出。さらには出演)で、『史上最大の高プロ』、『対案を出せ』、『現代口語AV』、『ひびちゃん、ごなちゃんのアフタートーク』のコント三本。
 名古屋があるのであえて詳しいことは書かないが、時事的演劇的な題材に下ネタも辞さないくすぐりはいつもの如き笑の内閣流だ。
 ぐだった感じの緩い演技も内容にあっている。
 なんといっても久々に接するごなえことピンク地底人2号の曲者ぶりがいい。
 また、HIROFUMI、しらとりまな(先日てまりを観ていたこともあってだが、彼女にはシューマンが似合う)も熱演健闘。


 続いては、夕暮れ社.lab(村上慎太郎作・演出)の『まごうことなき予言者』、『ないものねだり』、『かなり前の8月31日の』のコント三本。
 夕暮れ社 弱男ユニットの村上君らと若い演者さんによるユニットで、これが向井咲江だったら、稲森明日香だったら、小林欣也だったらとついつい思ってしまったというか、正直演者さんの力が本にまだ追いついてない印象を持ってしまったりもしたのだけれど、公演パンフの「サッカーのU-23みたいなイメージ」で若い人たちに演技の場所を与えるいう意味では大いに効果を上げていたのではないか。
 メガネをさがしまくる女性の演者さんのキュートさや、キスか壺かと迫りまくる男性の演者さんの必死さなど彼女彼らの努力を讃えたい。
 それにしても、南志穂はいい演者になったなあ。
(ほかに、岡本昇也、山根悠、吉田香月、わっしょい、の出演)


 三団体目は、THE GO AND MO’S。
 かつてベトナムからの笑い声でならした黒川猛の登場である。
 その黒川(あえて敬称略。敬意を表するにはそれこそが相応しい)はおめず臆さずGOMO流を貫いた。
 まあ、会場のスペースイサンは黒川さんのフランチャイズといっても過言ではないからね。
 機智に富んだ発想が活きた漫談『サイボーグ』、どこかで聴いたようなNov.16の軽快なメロディと歌にあわせて踊る『体操のお兄さん』、身体を張りまくった必死のぱっちのコント『検査』、駄目押しの『体操のお兄さん〜ファイナル』と、この俺を見よ!! とばかり果敢に攻めを繰り返す黒川の姿に大いに笑いながら、強く心を動かされもした。
 そうそう、丸井重樹の存在も忘れちゃいけないんだGOMO’Sは!


 四団体目はユニット美人×ソノノチによるユニット「ビジノチズム」で、『さよならアリアドネの絲をギュッとね!』。
 ユニット美人のいききった乗りのよさやソノノチのファンタジックで静謐な雰囲気を基調にしながら、今回の企画や内輪受けを逆手にとったセルフパロディを仕掛けることで、大きな笑いを生んでいた。
 黒木陽子の存在感は言うまでもないが、引きのよさというか(今から15年ほど前のコックピットなど押せ押せな感じがちょっと苦手だった)紙本明子の落ち着き、大人な感じにも好感を抱く。
 ソノノチの中谷和代、藤原美保もそれによく伍して同じ熱量の作品世界に馴染んでいた。


 と、ここまででもう盛りだくさん。
 なのだけれど、トリのアガリスクエンターテイメントの『切ない恋』(冨坂友作・演出)はやっぱり待ってましたと声をかけたくなるような面白さ。
 格の違いを十分に感じさせる内容となっていた。
 まずもって、例えばチェーホフの『結婚申し込み』や『熊』のような一幕ファルスの規矩に則りつつ、そこに屁理屈シチュエーションコメディ劇団と名乗るだけの「棘」をも仕込んだストーリー展開。
 かてて加えて、劇団のピックアップメンバーである鹿島ゆきこ、熊谷有芳、甲田守、津和野諒、前田友里子、矢吹ジャンプという役者陣の演技が達者だ。
(京都勢はあえての部分もあるけれど、概して役を演じるのではなく、まずもって演者自身が前面に出て来ていた。アガリスクの面々とは非常に対照的である)
 結果、じわじわがんがんと笑いの波が押し寄せた。
 つまるところ、京都勢に演じる所見せ場を存分に与えつつ、最後はアガリスクエンターテイメントが映えるような構成。
 まさしく、森繁流のしのぎではないか。


 と、こう記すと、まるで冨坂さんをはじめアガリスクエンターテイメントのメンバーが世知に富んで小賢しい人間のように思う向きもあるかもしれないが、僕はそうとは考えない。
 むろん、表現者なのだから人並みの上昇志向や自己顕示欲はあるだろう。
 ただ、彼彼女らの公演作品に接するかぎり、いわゆる演劇界における政治的計算を第一義にするような集団とは到底思えないことも事実だ。
 というか、世過ぎ身過ぎの面ではどちらかといえば正直に過ぎる部分もあるような気がしてならない。
 塩原俊之の休団に続く沈ゆうこの退団は残念でならないが(二人とも好きな役者さんなんだ!いずれもその決断に驚きはなかったけれど)、集団が生み出す無意識の善意と悪意も描いてきた劇団だけに、無理な拡大などはからず、精度の高い作品とアンサンブルをこれからも保ち続けて欲しいと切に願う。


 いずれにしても、笑いに笑った公演でした。
 ああ、面白かった!!!!


 そうだ、やっぱり2時間強の上演時間は生理的に辛い。
 もうちょっと刈り込んでもらうか、小休止を挟んでもらうと助かった……。
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2018年06月30日

白鳥の歌にはまだまだ遠い てまり第三回公演『からの箱』

☆てまり第三回公演『からの箱』

 作・演出:しらとりまな
(2018年6月30日17時開演の回/シアターカフェNyan)


 最近、弘美の『森へ行きましょう』<日本経済新聞出版社>、未映子の『ウィステリアと三人の女たち』<新潮社>と、両川上の作品を続けて読んで、当然その志向や嗜好は違えど、どう足掻いたところでこの与えられた一回の生を生きていかなければならない人間にとって、別にあり得た人生について言葉を紡ぐ、小説を書くということは、時に武器であり、時に護符であるのだと強く感じた。
 ただし、言葉のみではすべての感情を表し切ることはできない。
 だからこそ、その齟齬にもどかしさを感じた人は、ただ言葉を紡ぐだけではなくて、踊り、歌い、演じるのではないか。
 しらとりまなの一人芝居、てまりの第三回公演『からの箱』(しらとりさん自身の作・演出)を観て思ったのもそのこと、しらとりさんもまた本来は言葉を紡ぐ人、書く人でありながら、それだけでは汲み上げることのできない自分の心の内を歌い、演じることでなんとか表現しようとする人だということだった。
(ちなみに、会場のシアターカフェNyanは大阪メトロの長堀鶴見緑地線・西大橋駅から歩いてすぐ。シアターカフェと名乗るだけあって、プレイングスペースがしっかりとってある。加えて、インティメートな空間でありながら、天井が吹き抜けで開放感も強い。しらとりさんは、そうした小屋の性質を巧く活かしていた)

 いくつかの歌も交えながら演じられた40分弱の濃密な寓話風の作品については、あえて詳細を記さない。
 詩的で繊細な台詞や照明、音楽を通して、しらとりまな自身の、こうありたかった、こうあって欲しかった、こうありたいといった切実な想いがよく伝わってくるとともに、しらとりさんのこれまでや今現在もはっきりと浮き彫りにされていて、強く心を動かされる。
 正直冒頭部分のモノローグなど、例えば優れたシャンソン歌手の歌であっても、聴き出してすぐのうちはその激しい感情表現に違和感と滑稽さを感じるのに似たような感情過多が気になったことも事実だ。
 それに、万一この本をしらとりさん以外の第三者が演じる機会があるとすれば、より距離感を持った演技が求められるのも確かだろう。
 だが、作品が進み、しらとりさんの言葉や声、表情に接するうちに、彼女にとってこれはこう演じられ、こう表現されねばならないものだということが十分十二分に腑に落ちたし、彼女の本領はこの一人芝居、てまりの公演にあるのだなとも痛感した。
 いずれにしても、観に行ってよかったと思える公演であり、作品だった。

 ところで、残念なことにシアターカフェNyanはクローズしてしまうのだという。
 それもあってか、しらとりさんもしばらくてまりの公演はお休みにするらしい。
 けれど、白鳥の歌にはまだまだ遠い(だいいち、この『からの箱』だってリスタートを祈る作品のはずだ。アレルヤ!)。
 リーディングや朗読、二人芝居その他、しらとりさんの本領が十全に発揮される企画や公演の開催を心待ちにしたい。

 ああ、面白かった!!!
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2018年06月10日

丸山交通公園ワンマンショー新作ネタおろし公演26

☆丸山交通公園ワンマンショー新作ネタおろし公演26

 出演:丸山交通公園
 ゲスト:しらとりまな
(2018年6月10日19時半開演/K’s office-京都二条の館-)


 梅雨真っ盛り。
 あいにくの雨だが、JR二条駅近くのK’s office-京都二条の館-には、丸山交通公園ワンマンショーに足を運ばねば気がすまないというワンマンショー・フリークの方々が集まった。

 今夜は、丸山君の新ネタ2本の間に、しらとりまなさんの一人芝居が挟まるという構成。
 で、近況方向を兼ねたトークののち、丸山君の1本目のネタが始まる。
 題して、『こんなオナニーは嫌だ』。
 だが、題だけは決めたものの、どうしても本を書ききれない。
 これは仕方ないと、怪しげな薬を飲んで…。
 と、ベルリオーズの幻想交響曲も真っ青な設定で丸山君が取り出したのは、一冊の画用紙帳。
 次から次へと「マニアック」な嫌なオナニーの数々が続いていく。
 そして、辿り着くのは自問自答。
 タイトルも含めて、やたけたさを利用した作品に仕上がっていた。

 しらとりさんの一人芝居は、『夢女子になれない』。
 ようやく推しメンと呼べる若手男優を見つけたものの…。
 前回同様、しらとりさん自身の抱えたものを巧くずらして、より普遍性を持たせたおかかなしいスケッチだ。
 最後の歌がなんともキュート!
 そうそう、しらとりさんといえば、今月28日〜30日まで大阪・シアターカフェNyanで一人芝居、てまりの第三回公演『からの箱』が予定されているので、皆さんそちらのほうもご都合よければぜひ!!
(てめえ自身観に行けよ!! と、呼ぶ声あり)

 そして、丸山君の新作2本目は、『私が代わりにみてきました』。
 Twitterのアンケート結果に従い、誰も観ないだろう映画を丸山君が代わりに観てリポートするおなじみのシリーズである。
 今回は、『さらば青春、されど青春』。
 ん? 森田健作主演のドラマの焼き直し?
 と思った方は大間違い。
 実はこの映画、かの幸福の科学の大川隆法の自伝、その青春時代を描いたものだという。
 そらそんな映画、関係者か含むところがある人以外、なかなか観にいかんやろう…。
 そこは丸山君のデフォルメ、くすぐりは目いっぱいでついつい笑ってしまったが、映画自体はとんでもはっぷんの内容だったよう。
 推して知るべしというやつだ。
 それにしても、信じる者は救われるのかしら……。

 と、今回の丸山交通公園ワンマンショーも盛りだくさんでした。
 ああ、面白かった!!
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2018年06月03日

丸山交通公園ワンマンショー新作ネタおろし公演25

☆丸山交通公園ワンマンショー新作ネタおろし公演25

 出演:丸山交通公園
(2018年6月3日19時半開演/K’s office-京都二条の館-)


 二週続けての丸山交通公園ワンマンショー新作ネタおろし公演である。
 今日の午前中など予約はたった一人だったそうだが、蓋を開ければほぼ満員のお客さんで、まずは何より。

 で、そうしたことどもも含めた近況報告、状況報告を終えたのち、丸山君は新作のネタおろしに入る。
 前半は、『朝、駅でフレッシュジュース買って会社行くような女は俺の事絶対嫌い』なるやけに長いタイトルの新作。
 当然、そのタイトル通りのくだりから作品は始まるが、その後はロンド形式というか、西川のりお上方よしおの漫才形式というか、『上沼恵美子のこころ晴天』の上沼さんのおしゃべり的というか、「…といえば、何々は」といった具合に話の主題が変わって行く。
 そして、最後はふりだしに戻って…。

 後半は、『女子高生と付き合いたい』。
 53歳になった丸山俊吾(とは、丸山君の本名で、これは「フィクション」だからこその使用であろう)が何をとちくるったか、女子高生と付き合いたいと一念発起する。
 が、そこは何をやらしても駄目な男、やることなすこと無茶苦茶で、しかも付き合いたいと思った相手というのは…。
 虚と実の皮膜がどうこう、なんて小難しいことは書く必要はないか。
 自らの実を明け透けに語るというより、それでもなお虚に留まろうとする意志の窺えた作品だった。

 今日のツイキャス、丸山交通公園のウキウキラジオなどを聴いても、なかなか好調とは言い難い丸山君だが、それでもなおこうやってワンマンショーの舞台に立つ彼はやはり見物だ。
 ああ、面白かった!!
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2018年06月02日

百物語の館

☆百物語の館

(2018年6月2日15時開演/誓願寺2階講堂)


 日本怪談研究と朗読公演の一座「百物語の館」の朗読公演を聴きに、新京極の誓願寺まで足を運んだ。
 あいにく(?)の晴天だったが、今回の演目は梅雨時ということで、雨や水にちなんだ作品が並んだ。

 まずは、岡本綺堂の同名作品による『河童小僧』(喜多はも台本)。
 五月雨の降り続く中、侍はドンドン(溜池からの水が流れる堰)辺りで一人の小僧を見かけるが…。
 亀山笑子さんは会の皮きりに相応しく丁寧に読み上げた。

 続いては、新御伽婢子による『宗玄火』(仙崎耕助台本)。
 壬生寺を舞台にした怪異譚で、高杉詩音さんは透明感のある声質で端正な読みを披露した。
 壬生寺は近所なのだけれど、不勉強ゆえこういった逸話があるとは知らなかった。

 前半最後は、上田秋成の雨月物語による『吉備津の釜』(大道悠姫台本)。
 前妻の恨みつらみが身持ちの悪い女好きの男を破滅に至らしめるという、おなじみの怖ろしい話。
 三輪涼さんはここぞというところで表現のデフォルメを効かせ、物語を盛り上げた。

 ここで、ちょっとした休憩を挟み、怪談研究者で百物語の館の元締である堤蛇彦先生と美術史家の鈴木堅弘さん『牡丹燈籠』に関するトークを繰り広げる。
 こうやっていろいろと学べるところも、この百物語の館の愉しみの一つだ。

 後半は、百物語の館オリジナルで鰆屋塩見台本による『紫陽花の君』から。
 現代を舞台にした、甘酸っぱく切ないストーリーで、柚木琴音さんの声質や淡々とした読み方にぴったりだと感じた。

 最後は、今昔物語による『鬼一口』(藤原有津馬台本)。
 在原業平がらみのエピソードで、黒川茜さんのウェットさを含んだ語り口にあっていた。

 と、今回も各人各様の朗読を愉しみました。
 ああ、面白かった!!
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2018年05月27日

丸山交通公園ワンマンショー新作ネタおろし公演24

☆丸山交通公園ワンマンショー新作ネタおろし公演24

 出演:丸山交通公園
 ゲスト:横山清正
(2018年5月27日19時半開演/K’s office-京都二条の館-)


 肉を斬らして骨を断ち、骨を斬らして髄を断つ。
 ではなく、骨を斬らして肉を断ち、髄を斬らして骨を断つ、とは小林秀雄流の批評術に対して花田清輝が言い放った自己の批評家宣言であるが、まさしく今夜の丸山交通公園ワンマンショーの丸山君にはそうした無手勝流儀、首が飛んでも笑わせてみせるのおもむきがあった。

 久しぶりに足を運んだ丸山交通公園ワンマンショー新作ネタおろし公演24は、いつもの如き近況報告のトークなどなく、いきなり新ネタの『24世紀の21世紀学〜スモウについて〜』が始まる。
 丸山交通公園ワンマンショーでは、初期の頃から中心の一つとなっている、24世紀という未来の視点から21世紀(現在)の諸事を考察してみようという講義形式のネタである。
 その名の通り、昨今何かと世情を賑わしているスモウ、大相撲がテーマで、例の式守伊之助だとか京都府舞鶴市の騒動だとか日馬富士の問題だとかを織り込みながら、どんどん話はスケールを増して行く。
(これまた昨今話題のアメフトもくすぐりの一つとなっていた。そういえば、ピンクのネクタイにジャケット姿とまるで日大の監督のような格好を丸山君はしていたんだけど、ネタ中では一切触れられてなかったなあ)
 まさしく荒唐無稽という展開だが、そこに哀しみのようなものが窺えてしまうのが丸山君らしい。

 で、後半はこの『24世紀の21世紀学〜スモウについて〜』すらも伏線にしてしまう、やっちゃけ、必死のぱっちのネタがさく裂。
 今、自分は本当にスランプなんですわ。
 と、丸山君が嘆くぼやく吐露する激昂する…。
 先日の京都コントにまつわるエピソードなどを盛り込むわ、途中アクシデントが見事に決まるわと、葛西善蔵もびっくりの私小説、ならぬ私ワンマンショーぶりに大きな笑いが起こっていた。
 こちらも当然笑ってしまったなあ。
 もちろん、私小説=私ワンマンショー=事実・真実ってこっちゃないことは、言うまでもあるまいが。

 さらに、ゲストの横山清正君との小劇場のアフタートーク風のトークもお互いの柄によく合っていて、これまた大いに笑ってしまった。

 以上、足を運んで正解の丸山交通公園ワンマンショーだった。
 ああ、面白かった!!!

 ところで、魂だのなんだのとふざけたことをぬかす奴はどこのどいつだ。
 聴いていて、本当にむかっ腹が立ってきた。
 スリッパで頭ひっぱたいたるぞ!!!
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2018年04月23日

丸山交通公園ワンマンショー新作ネタおろし公演20

☆丸山交通公園ワンマンショー新作ネタおろし公演20

 出演:丸山交通公園
(2018年4月22日19時半開演/K’s office-京都二条の館-)


 日曜14時からのツイキャス『ウキウキラジオ』は何度か愉しんでいたものの、ここのところ生の丸山交通公園君に接していない人間としては、まさしく干天の慈雨。
 とまで記すと大げさに過ぎるけど、やっぱりワンマンショーがあるならマスト、ということで、2ケ月ぶりとなる丸山交通公園ワンマンショーを観にJR二条駅近くのK’s office-京都二条の館-までおっとり刀で足を運んだ。

 さて、20回目となる新作ネタおろし公演は『北朝鮮の漫談家』と『ドラゴンボールの話』の二本。

 まず、先週終わったコント公演の打ち上げの席で、「また次の公演観に行くよ」「また会おう」と語り合った熱も醒めぬ間の今週というのに、関係者が一人も来ていないのはどういうこと?
 と冒頭のトークで語って早速大きな笑いを生み出す。
 で、一本目の『北朝鮮の漫談家』へ。
 北朝鮮の住みます芸人となった男、どうすればかの地に受け入れられるかと悩みに悩んだ末思い付いたネタというのが…。
 といった展開を辿る新作で、当然時事性、諷刺性も加味された作品なんだけど、それより何より道化の魂というか、人前で笑いをとることへの丸山君の想いがそこここに垣間見られた内容となっていたのではないか。
 ラストも丸山君らしい。

 続く二本目の『ドラゴンボールの話』は、ふと『ドラゴンボール』に興味を持った丸山君だったが、漫画全巻読むのもテレビアニメのDVD全部を観るのもいかんせん無理がある。
 と、そこで、僅かなお金で『ドラゴンボール』の世界を知ることのできるあるものを発見した。
 それは何かといえば、ハリウッドで製作された『ドラゴンボール』の映画で…。
 正直、世代的にはどんぴしゃなれど、橋本潮が歌うテレビアニメのエンディングテーマ『ロマンティックあげるよ』が大好きな以外は野沢雅子が主人公の声をやっている程度しか知らない当方にとっても興味津々なテーマのネタだが、まあ噂に名高い、ではない名低いハリウッド版を選んだ段階で勝ちは見える。
 原作とはたぶん似ても似つかぬだろう荒唐無稽なつまらないあらすじを語って聴かせる、丸山君の語り口の面白いこと。
 だめさの中のだめさの指摘もばっちりで、いやあおもろおかしかったなあ。
 ああ、面白かった!!

 そして、次回の丸山交通公園ワンマンショー・丸山君の新作が本当に愉しみだ!!
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2018年03月23日

気持ちのいいチョップ第4回公演『メン・イン・ブラック』

☆気持ちのいいチョップ第4回公演『メン・イン・ブラック』

 作・演出:飄々舎
(2018年3月23日/social kitchen)


 横山清正、小川晶弘という演者二人にマネージャーの葛川友理を加えて活動を続けてきた気持ちのいいチョップだが、小川君がこの春から東京へ移ることとなった。
 そんな気持ちのいいチョップの一区切りを記念して開催されたのが、飄々舎の面々を作・演出に迎えた第4回公演『メン・イン・ブラック』だ。
 自らの声の出演はひとまず置くとして、月面クロワッサン時代より慣れ親しんだ(あれこれ迷惑をかけた)二人だもの、やはり足を運んでおかなければ。
 ということで、青空の下、烏丸鞍馬口近くのsocial kitchenまで自転車を走らせた。

 まずは、12時より開演のオリジナル版から。
 名は体を表すじゃないけれど、映画『メン・イン・ブラック』を下敷きにしていることは言わずもがな。
 そこに、飄々舎らしい京都ネイティブな感覚が盛り込まれたり、小川君への惜別の辞が刻み込まれたりと、革新汎、もとい確信犯とでも呼びたくなるようなよい意味であざとい茶番劇が仕組まれていた。
 横山小川両君もそんな意図によく応えて(堪えて?)、熱演を繰り広げた。
 途中、あかごひねひねもエチュード・シーンに参戦した。
 それにしても、横山君の声ってやっぱり千葉繁に似てるなあ。

 休憩を挟んで、13時より吹き替え版。
 ヨーロッパ企画の諏訪雅、永野宗典のお二人をはじめ、横山小川両君や飄々舎と縁の深い方々が吹き込んだオリジナル版の台詞の録音にあてて、横山君と小川君が演技を行うというもの。
 丸山交通公園のアクロバティックな声技、横山清隆(清正父)の昭和の名脇役風のエロキューションなど印象深い。
 で、当方はといえば恥じ入るばかり…。

 14時よりは、飄々舎エディション。
 ひつじのあゆみも加わって、ディベートだのエチュードだのをやりちらかすという飄々舎がかつて行ったイベントのショート・バージョンで、これは観ているよりも参加したいとついつい思ってしまう内容だった。

 と、盛りだくさんな3パターンでした。
 ああ、面白かった!!
 そして、気持ちのいいチョップよ、また会う日まで!!
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2018年02月25日

丸山交通公園ワンマンショー新作ネタおろし公演19

☆丸山交通公園ワンマンショー新作ネタおろし公演19

 出演:丸山交通公園
 ゲスト:横山清正
(2018年2月25日19時半開演/K’s office-京都二条の館-)


 二週続けての丸山交通公園ワンマンショーは、新作ネタおろし公演の19回目。
 ゲストはもうおなじみ、丸山君の盟友であるじゃがたらじゃがまさこと横山清正だ。

 定刻19時半に二人が舞台へ。
 近況報告などを掛け合いで語って笑わせる。

 で、まずは丸山君のネタ『金の亡者』から。
 最近の話題、とくれば当然冬季オリンピック。
 冬季オリンピックってなんじゃいと、丸山君はぐいぐいそのおかしさ、不可思議さに突っ込んでいく。
 すると、途中で方向が変わる。
 このなんでもかでもオリンピック、みんなではしゃごうオリンピックというのりは、高校時代の文化祭のクラスの面々に通じるのではないか…。
 と、ここから怒濤の如く、丸山君の記憶が発火して大きな笑いを生んだ。
 なお、オチは落語の如く題名によるもの。

 続いては、丸山君が書き下ろした本による横山君の一人芝居。
 紙に書いた言葉を売り付ける、自称路上詩人のお話。
 だが、この路上詩人、いらっしゃいいらっしゃいという口上はまさしく啖呵売。
 いわゆる『男はつらいよ』・寅さんの流儀である。
 ところが、この男、やることがどうにもせこくって…。
 横山君といえばもともと北海道出身で、それが江戸っ子口調を使っているものだから、まずもってそのギャップが笑える。
 しかも、横山君は全身汗まみれの全力投球だ。
 一見滑稽の極み、その実おかかなしい話であった。

 三本目は、丸山君が再び登場し『ざっくり日本の歴史』を講じた。
 丸山交通公園ワンマンショーでは初期の頃よくとられていた講義形式のネタで、4万年前に滅んだ日本という国ついて語るという体で話は始まる。
 もちろんそこはワンマンショーのネタ、日本の歴史が漫然と紹介されるわけもなく。
 筒井康隆の短篇小説を読んでいるかのような、落語の『源平盛衰記』を聴くかのような、あちゃこちゃらへと歴史が飛ぶ飛ぶ、嘘偽りが並べられる…。
 そして、最後はワンマンショー自体、丸山交通公園自身へと語りは収斂されていく。
 まさしく、丸山交通公園ワンマンショーらしいネタとなっていた。

 最後は、再び横山君を交えてのトーク。
 おかしく語ってショーを〆た。
 ああ、面白かった!!

 ちなみに、3月のワンマンショーは1回程度とのこと。
 その分、練りに練ってパワーアップをはかるそうで、4月からの丸山交通公園ワンマンショーがますます愉しみだ。
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2018年02月18日

丸山交通公園ワンマンショー新作ネタおろし公演18

☆丸山交通公園ワンマンショー新作ネタおろし公演18

 出演:丸山交通公園
 ゲスト:しらとりまな
(2018年2月18日19時半開演/K’s office-京都二条の館-)


 前回観逃してしまった丸山交通公園ワンマンショーだが、新作ネタおろし公演の18回目となる今夜は、しらとりまながゲストに迎えられていた。

 で、しらとりさんを紹介し、軽い近況報告(安住の地を観に行ったが、京都マラソンのせいで自分が走らされるめにあったということと、出演した大阪での公演について)ののち、一本目のネタ『地下アイドル探訪−インタビュー編−』に入る。
 地下アイドルのイベントを訪れた昨年の続編で、今回は一歩進んで地下アイドルへのインタビュー…。
 をやるつもりだったが、結局インタビュー相手が見つからず、自分でインタビュー内容を考えてしまったと種を明かす。
 本当は、長めのネタを準備したのだけれど、時間配分を考えるとこれは無理と悟り、短く流したとのことで、このために用意した原稿とプロットノートの一部を目にすることもできた。
 ワンマンショーにかける丸山君の意欲がよくわかる。

 続いては、しらとりさんの一人芝居。
 恋愛したい結婚したい、という願いは強いのにそれがどうしてもかなわない女性の焦りを描いた作品。
 まさしく同世代の等身大の女性像がよく描かれていた、というか、しらとりさんの想いがよく表わされていたが、そこは伊達に演劇経験を重ねてきたわけではない物語の紡ぎ手である、歌を歌ったり、ある本の一節を利用したりとデフォルメを効かせ、笑いにも事欠かない小品に仕上がっていた。
 この間観る観る詐欺を繰り返している、しらとりさんの本公演を今年こそは拝見したい。

 ちょっとした二人のトークを挟んで、最後は丸山君の『私が代わりに観てきましたー八年越しの花嫁ー』。
 どうやら人気はありそうだけど、ワンマンショーに集まるお客さんにはなかなか接する機会がなさそうな映画を丸山君が観て、浜村淳よろしく解説して聴かせようというシリーズの第二段である。
 今回取り上げられたのは土屋太鳳と佐藤健主演による実話をもとにした『八年越しの花嫁』で、いやあこれは抱腹絶倒、次々と笑いが巻き起こる、大ネタとなっていた。
 張り扇をぽんぱんと叩きながら丸山君は舌好調。
 きちんと映画の設定やら筋運びを押さえながらも、そこに自らの深読み裏読み斜め読みをたっぷり付け加え、この『八年越しの花嫁』のとんでもぶりを余すところなく説明し尽くしていく。
 佐藤健演じる八年越しに愛する人を待ち続けた主人公が××だろうと指摘するあたりは丸山君の読みの真骨頂。
 そして、大団円に到るファンタジックな展開への強烈な突っ込みには特に大きな笑い声を上げてしまった。
 丸山君のこのシリーズ、バラエティに富んだ作品を選びながら今後もどんどん続けていって欲しい!

 と、いつも以上に笑いに満ち満ちたワンマンショーでした。
 ああ、面白かった!!!
 皆さんも、ぜひ一度丸山交通公園ワンマンショーへ!!
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2018年01月20日

丸山交通公園ワンマンショー新作ネタおろし公演16

☆丸山交通公園ワンマンショー新作ネタおろし公演16

 出演:丸山交通公園
(2018年1月20日19時半開演/K’s office-京都二条の館-)


 昨日までは、なんと僅か一人だけの予約。
 これは丸山交通公園ワンマンショーにとって最大の危機到来か!?
 と、心配していたが、今日になってこちらも足を運ぶ目途がつき、その後も予約は増えて、蓋を開ければほぼ満席の入り。
 と、いうことで本当に何より。

 で、新作ネタおろし公演の16回目となる今夜はいつもと趣向を変えた「丸山交通公園のワンマン・ショート・ショー」。
 30分ほどネタが二つ続く丸山交通公園ワンマンショーだけれど、今回は5分ほどのネタが6つとお客さんから集めた質問に丸山君が答える質問コーナーという番組となっていた。
 ネタの題名を参考までに記すと、「5分のネタが始まるよ」(非常に短い近況報告に続いて、今夜の趣向をお知らせする意味も込めたネタ)、「天皇の漫談」、「落語大好き その1」、「落語大好き その2」、「座りたい」、「日本に欲情する男」。
 公演案内の紙に書かれている如く、いわゆる下ネタが大きな位置を占めていたが、それにとどまらず不条理風というか消耗の笑いを扱った「座りたい」もあれば、自らの落語好きを巧く活かしたその名も「落語大好き その1」「その2」もあるなど、丸山交通公園という人物のエッセンスが凝縮されており、バラエティにも富んでいる。
 中でも、上方落語界の巨塔、じゃない巨頭桂文枝師匠に敬意を表した「落語大好き その2」のネタのさばきっぷりは笑ったなあ。

 と、新たな趣向を愉しんだ丸山交通公園ワンマンショーだった。
 ああ、面白かった!!
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2018年01月13日

丸山交通公園ワンマンショー新作ネタおろし公演15

☆丸山交通公園ワンマンショー 新作ネタおろし公演15

 出演:丸山交通公園
(2018年1月13日19時半開演/K’s office-京都二条の館-)


 いやあ、寒い寒い。
 本当に寒い。
 寒さがとてつもなく厳しい京都だが、JR二条駅近くにあるK’s office-京都二条の館-には、丸山交通公園ワンマンショーのコアなファンが集まっていた。

 新年一発目となる今夜は、新作ネタおろし公演15。
 丸山交通公園君出ずっぱりということで、まさしくワンマンショーである。

 で、定刻19時半頃につつがなくショーはスタート。
 ここのところ、大阪は吹田で芝居の稽古に勤しんでいると近況を語って笑わせてから、自然とネタの『あけまして…』へ。
 あけまして、と新年の挨拶をしようと思ったが、どうにも挨拶ができないと語る丸山君。
 さて、その理由とは…。
 丸山交通公園ワンマンショーの新年にぴったりな「論理」が繰り広げられていた。

 水分補給の小休止を挟んだ後半は、『成人式オブザデッド』。
 とある市の市長が明日に控えた成人式に頭を悩ませている。
 今年もまた新成人どもらに暴虐の限りを尽くされてしまうのか…。
 といった感じの設定で始まる、一人コント、というか誉め言葉として「小芝居」と呼びたくなるような内容だ。
 なんだか市長が『仁義なき戦い』の金子信雄やら何やら風に見えてくるのはご愛嬌。
 また、市長が新成人に悪口雑言並びたてるところなど、丸山君らしい展開になっていた。
 途中、丸山君のあまりの迫真の演技に思いもよらないサプライズ(アクシデント)が起こったりしたものの、それも巧くネタに織り込んで無事乗り切った。

 と、ワンマンショーの一年の門出を祝うに相応しい回だった。
 ああ、面白かった!!
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2017年12月18日

THE JOKE AND MO'S vol.2

☆THE GO AND MO’Sの番外公演 その2
 「THE JOKE AND MO’S vol.2」

 脚本・出演:黒川猛、丸山交通公園
 構成:黒川猛・中川剛・丸山交通公園
 音楽:Nov.16
 制作・他:丸井重樹
(2017年12月17日19時半開演/喫茶フィガロ)


 伏見いきいき市民活動センターで毎月『黒川の笑』を開催していることは重々承知していながら、なかなか足を伸ばすことのできないでいた黒川猛のワンマンライヴ・THE GO AND MO’Sだが、この度喫茶フィガロの冬の文化祭2017の一環として公演を行うということで、迷わず足を運んだ。
 今回は番外公演の2回目となる、THE JOKE AND MO’S vol.2。
 すでに喜劇王との映像対決にも出演し、ルドルフで黒川さんとの共演も果たした丸山交通公園がゲストとして選ばれていたのだけれど、小男ではないが痩身の黒川さんと長身でぷよっとした丸山君のコンビは、ローレル&ハーディこの方、笑いにとってはうってつけの組み合わせ。
 全編、喫茶フィガロの厨房というか、カウンターの接客側のみが使われていて、狭いスペースの中で大の男二人があれやこれややっているだけで、まずもっておかしい。
 そうそう、受付の丸井さんがいつもの如くコントのタイトルを読み上げていたのだが、これまでの会場のように影アナではなく、まんま目にすることができたのも新鮮で嬉しかった。

 で、まずはACT1の『豆好』から。
 マスター然とした黒川さんに、バイト然とした丸山君。
 まさしく喫茶店といった風情の状況のもと、二人の会話は進んでいく。
 よくもまあこんなに物を知らないものと丸山君でなくとも呆れたくなるような黒川さん、ところが当てずっぽうの答えがなかなかいいところを突いてくる。
 時事ネタをぽいぽい放り込んでくるあたりも、黒川さんらしい(ただし、北のほうのお方についての言及はなし。ちと残念)。
 設定をくるっとひっくり返して話は終わった。

 続く、ACT2の『警部と部下』は丸山君の脚本だ。
 カウンター内に転がる遺体を前にして、捜査に取り掛かる丸山君演じる警部と黒川さん演じるその部下。
 あなたマルクス兄弟はポケットからありとあらゆる物を取り出していったが、こなた警部と部下はカウンターへとあれやこれやを並べていく。
 実はその遺留品には大きな共通点があって…。
 途中、その趣向に気付くとともに、遺留品のチョイスがらしいなと思った。
 こちらも、最後に設定をひっくり返して話を終えた。

 ACT3の『カクテル』は、GOMO’Sファンならおなじみの「追い込み」ネタ。
 黒川さんが、開演前にお客さんから集めた様々な言葉=お題の書かれた紙の中から2枚を選んでもらい(選ぶのは黒川さんが指名したお客さん)、そこから何か「答え」を捻りだすというものだ。
 なにゆえ『カクテル』かといえば、バーテン風の格好をした黒川さんがお題の紙をシェーカーに入れて振りながら答えを考え、カクテルグラスにその紙を落としてまさしくカクテルであるかの如くに差し出し答えを口にするからである。
 黒川さんにしてみれば、当然すとんと答えを決めたいところだろうが、どうにも難しいお題に四苦八苦する必死のぱっちの表情がまたおかしかった。

 ACT4の『パペットクレイジーショー』は、金髪茶髪のウィッグを被り、あちゃら流の服装をした黒川さんと丸山君が、今流行りのユーチューバーも真っ青というようなショーに挑み続けるというこれまた黒川さんらしい作品。
 時にすべるも辞さない、そのくだらなさ(誉め言葉)がツボに入ること度々で思わず笑ってしまった。
 途中、ACT5として記されていた『リトルロケットマンVS金髪ツイッター』の種明かしがあったのち、最後はGOMO’Sならこれだろうという例のあれ(○○詐欺ですよ、いわゆる)で〆た。

 と、盛りだくさんの約1時間でした。
 ああ、面白かった!!

 次回のTHE JOKE AND MO’Sの開催を心待ちにするとともに、黒川の笑も一度観ておかなければと思った次第。
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2017年12月10日

丸山交通公園ワンマンショー名作選その3〜人間・丸山交通公園〜

☆丸山交通公園ワンマンショー名作選その3〜人間・丸山交通公園〜

 出演:丸山交通公園
 ゲスト:玉木青
(2017年12月10日19時半開演/K’s office-京都二条の館-)


 怒濤の三週連続となる丸山交通公園ワンマンショー。
 それでも会場は座席を増設するほどの大入りで、まさしく重畳重畳。
 今夜は丸山交通公園君がこれぞと思う厳撰したネタを再演する名作選の三回目で、副題は「人間・丸山交通公園」。

 まずはワンマンショーの生みの親と言っても過言ではないゲストの玉木青君(何せ、丸山君にワンマンショーという舞台を与えた人こそ彼なのだ)を交えてのトークから。
 丸山君の人生にまつわる30枚の紙(例えば、「靴かくし」といったトピックが書かれている)がボード一面に貼られている。
 で、その中より玉木君が気になるものを選んで、丸山君が一つ一つエピソードを語っていくというスタイルがとられていた。
 前回ネタおろしされた『ワンマンショーと私』を、さらに細分化させたものとでも呼べるだろうか。
 保育園の頃から、現在のワンマンショー期に到る丸山君の来し方が、そのエピソードの数々によって浮かび上がってくるのがおかかなしい。
 そこに、玉木君が淡々としてドライで、なおかつ鋭い茶々を入れていった。

 後半は、そうした来し方とも密接に関係する『僕の好きな先生』の再演だ。
 加古川という町の中学校で、いじいじいりいりするような毎日を送る丸山君にとってもっとも好きな先生はどういう先生だったのか?
 周囲の同級生たちや自分自身の苦い想い出にも触れながら、丸山君はじっくり語っていく。
 初めて接したときにも感じたことだが、終盤の一瞬の「逆転の可能性」とその後日譚は、山本周五郎風の時代小説に仕立てられそうなエピソードで、実に印象に残った。

 ラストは、丸山君と玉木君によるアフタートーク。
 丸山君の要所急所を的確に指摘して、安易な持ち上げでお茶を濁さないのは、やはり長い付き合いのある玉木君だからこそであろう。
 それに対する、丸山君の「前座の経験がない」(修行経験がない)旨の自省の言葉も重要だと感じた。

 と、今夜も盛りだくさんな丸山交通公園ワンマンショーでした。
 ああ、面白かった!!
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2017年12月03日

丸山交通公園ワンマンショー 新作ねたおろし公演その13

☆丸山交通公園ワンマンショー 新作ねたおろし公演その13

 出演:丸山交通公園
 ゲスト:土肥希理子
(2017年12月3日19時半開演/K’s office-京都二条の館-)


 二週続けての丸山交通公園ワンマンショーは、毎度の如く大入り。
 まずは予約制の賜物か。
 加えて、ゲストの土肥希理子さん効果もあったようで、ご新規のお客さんもちらほら。

 で、今回は新作ねたおろし公演の13回目。
 丸山君のちょっとした挨拶ののち、土肥さんが登場してオカリナを吹く。
 そう、土肥さんはオカリナ演奏でのゲスト出演なのだ。
 一曲目は、twitterのアンケート結果によるもので、ジブリ映画『千となんとか』のテーマソング(あえて詳しくは書きません。万一のJA●●●●対策)。
 スマホの音源を伴奏に、土肥さんの吹くオカリナの音色の滋味あふれること。
 あと、折り目正しいというか楷書の芸というか、彼女の演技を彷彿とさせた。

 続く丸山交通公園君の一本目のネタは、そもそも何ゆえ自分がワンマンショーを始めるに到ったかの契機について説明した『ワンマンショーと私』。
 就職活動に苦戦し、一転演劇でプロを目指したが挫折、落語家への弟子入りを志願するも拒否され…。
 といった自らの来し方を、ときに脱線を交えながらもテンポよく語って大きな笑いを生んでいた。
 ワンマンショー初心者のご新規さんにもぴったりのネタではなかったか。

 土肥さんのオカリナ演奏二曲目は、眼鏡が印象的なアンジェラなんとかの過去や未来の自分に呼びかける有名な歌。
 土肥さんはここでも丁寧な演奏を聴かせる。
 歌の内容もあって、甘酸っぱいノスタルジーを感じさせられた。

 さて、トリは丸山君の新作二本目、『私が代わりにみてきました −先生!、、、好きになってもいいですか?−』。
 あまり人が触れようとしないだろう映画、イベント等々に丸山君が足を運び、それをネタとして語っていこうというシリーズの一作で、今回は広瀬すず、生田斗真主演の『先生!、、、好きになってもいいですか?』をこれまたtwitterのアンケートにとらえる形で取り上げた。
 本来自分の映画ベストワンは、役所広司主演のあの快(怪)作『シャブ極道』という丸山君にとって、漫画原作のこの映画は相当な苦痛だったのでは…、と思っていたが、そこはワンマンショー魂、くすぐりをたっぷりと放り込んでデフォルメを効かせつつもけなすことなく全篇語り切る。
 映画語りといえばすぐに上岡龍太郎さんを思い出すわけだけれど、当然丸山君もそれを意識したネタの構成(攻勢)。
 そこに、自分が好きな落語などの仕掛け、話法語法を巧みに織り込んでいた。
 このシリーズ、これからも本当に愉しみだなあ。
 そうそう、丸山君が強調する広瀬すずのかわいさが丸山君の語りによってほの見えてきたこともおかしかったんだ。

 最後は、丸山君と土肥さんのほのわかとしたトークで〆た。

 と、今夜もバラエティに富んだ丸山交通公園ワンマンショーでした。
 ああ、面白かった!!
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2017年11月26日

丸山交通公園ワンマンショー名作選2 〜考えすぎ〜

☆丸山交通公園ワンマンショー名作選2 〜考えすぎ〜

 出演:丸山交通公園
 ゲスト:髭だるマン
(2017年11月26日19時半開演/K’s office-京都二条の館-)


 2週間とちょっとぶりとなる丸山交通公園ワンマンショーは、名作選。
 2回目となる今回は、髭だるマン君をゲストに迎え、過去のネタ2本が再演されていた。

 まずは、丸山君が登場。
 幕開けの口上代わりのちょっとしたトークから、するりと本題の『サッカーが世界を滅ぼす』に入る。
 実は初演時は丸山君の体調が非常に悪く、盟友じゃがたらじゃがまさこと横山清正君が助っ人に駆け付けたという曰く因縁付きの作品でもある。
 が、今回は冒頭から丸山君はとばすとばす。
 自分が嫌いなものから苦手なものを語り、ついでサッカーがどうして嫌いかを語って大きな笑いを巻き起こす。
 中でも、三浦和義、じゃない三浦知良の服装のセンスの喩えに倉林明子の名前を出してきたのには笑ってしまったなあ。
 後半は、サッカーが世界を滅ぼす様を語ってみせたが、すっと落とす結末も含めて落語の味わいがあった。

 続いては、暗転を挟んで髭だるマン君が一人芝居を演じた。
 喪服と思しきスーツ姿の男が一人、ただ漫然と生きて来た自分と実に出来のよい弟について語り始めたと思ったとたん、弟が亡くなって…。
 ラストのトークで内容は全然本当のことではないと語っていて、確かに設定は虚構なんだろうけど、そのモノローグ、とどめの弔辞には髭君の特性魅力というか、本質が全面に表されていたようにも思った。
 そうそう、今やしゃくなげ謙治郎君ワールド全開の和田謙二だけれど、僕はいっとう最初の公演のぼそりと面白いことを呟こうとしてるような雰囲気にとても好感を抱いたのだった。

 丸山君の2本目は、『露出狂について』。
 元立誠小学校の講堂の壇上を舞台と客席にして開催された、栄えある丸山交通公園ワンマンショー第1回目のネタである。
 2年ぶりの再演ということだが、今と違ってまだワンマンショーが講演講義のスタイルをとっていた頃の作品で、前半の露出狂を例示するあたりにその趣向がよく現れている。
 し、その露出狂のケースとそれに対する丸山君のちゃちゃの入れ方が面白い。
 そして、中間部の「虐げられた男のさらなる転落」という主題を持った一人芝居は、現在のワンマンショーにそのまま繋がっている。
 終盤は再び講義講演形式に戻り、屁理屈を屁理屈と思わせぬような怒濤の論理展開で終わった。

 ああ、面白かった!!

 さて、来週は土肥希理子さんをゲストに迎えた新作公演だ。
 こちらも愉しみ!!
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2017年11月11日

第25次笑の内閣『名誉男性鈴子』(娘編)

☆第25次笑の内閣『名誉男性鈴子』(娘編)

 作・演出:高間響
(2017年11月11日17時半開演の回/KAIKA)


 第25次笑の内閣の『名誉男性鈴子』の娘編を観に、KAIKAまで足を運んだ。
 ちなみに、『名誉男性鈴子』の初演は2015年の5月(シアトリカル應典院)。
 それまでの情実を重視するキャスティングから、演者の演技力を優先するキャスティングにシフトするなど、制作の前田瑠佳による「改革路線」が勢いを増しており、それに伴い高間上皇も劇作の研鑽を重ねていた時期の作品である。
(その前田さんが道半ばで去ってしまったことは、笑の内閣にやはり少なからぬ影響を与えた。それを初日のアフタートークゲストを引き合いに出せば、「学芸会」的なのりの中島らものリリパから「演劇」色の強いわかぎゑふのリリパに移行中だったのに、結局ゑふさんが去ってらもさんが残ったようなものと喩えることができる)

 舞台は岡山県の架空の都市、南アンタレス市(南ア!)。
 衆議院補選に出馬する現市長の指名を受けて後継市長候補となった黄川田鈴子だったが…。

 選挙に絡む人間の感情の変化を描いた作品といえば、すぐにジェームス三木の映画『善人の条件』(怪作)を思い出すが、この『名誉男性鈴子』はそれとともに、男性中心の状況で社会的進出を果たそうとする女性が結果として保守的反動的言動を繰り返し、現状肯定主義に陥る様を鋭く描いている。
 当然、フェミニズムの問題や各種格差と差別の問題について言及されていることは言うまでもない。
 と、こう記すと、何やらしんねりむっつりとしたかつての新劇的な内容を思い起こす向きもあるかもしれないが、そこは「笑」の内閣、高間響上皇である。
 時勢を受けたくすぐりをはじめ、再演にあわせた改作が徹底されたこともあり、会場には大きな笑いが巻き起こっていた。

 飄逸とした池川タカキヨ、笑の内閣の骨法をよく知った髭だるマンやしゃくなげ謙治郎、エロ親父ぶり全開の松田裕一郎をはじめ、中谷和代、熊谷みずほ、土肥希理子、諸江翔大朗、延命聡子、横山優花の演者陣も、そうした作品の意図に沿う努力をよく重ねていた。
 高間上皇の作品にとって忘れてはならない小さな集団組織の中で感情があちらこちらへと揺れ動く場面でのシリアスな演技には、その基礎的な力というか説得力を感じた。
 また、おもろおかしい部分、キャラクターが物を言う部分での健闘も讃えたいが、概してソリッドというか、硬さがあるというか、個々の経験や技量がある分なおのこと、与えられた役柄や求められるキャラクターと個々の演者の本質の齟齬、笑いをとるために頑張っていますという内面の負荷や無理が若干垣間見えてしまったことも事実だ。
 これまで何度も記してきた方向性の問題とも関係してくるが、高間上皇の作品的変化と演者陣・キャスティングの変化にどうバランスをつけていくかは、笑の内閣にとって今後の重要な課題ではなかろうか。
 大きな笑いを生んでいた公演だけに、あえて長い視点でそのことを記しておきたい。

 公演は火曜日まで。
 ご都合よろしい方はぜひ!!
 息子編を観ることができないのが本当に残念だ!!!
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