2025年01月18日

京都市交響楽団第696回定期演奏会

☆京都市交響楽団第696回定期演奏会

 指揮:ヤン・ヴィレム・デ・フリーント
 独奏:会田莉凡(ヴァイオリン)
管弦楽:京都市交響楽団

 座席:3階LB1列5番
(2025年1月18日14時半開演/京都コンサートホール大ホール)


 今年最初の京都市交響楽団の定期演奏会は、首席客演指揮者のヤン・ヴィレム・デ・フリーントが指揮台に上がった。
 と、初っ端から嘘を書いてしまった。
 フリーントは指揮台なしで指揮をしたんだった。
 当然長身ということが一番の理由だろうが、かつてヴァイオリンを手にしてコンバッティメント・コンソート・アムステルダムを率いていたフリーントだけに、心の中では未だに自分もオーケストラのメンバーの一人という意識があるのかもしれない。
 ちなみに、ピリオド・スタイルの泰斗フリーントだけに、オーケストラは前回同様第1ヴァイオリンと第2ヴァイオリンが向かい合う対抗配置。

 まずは、メンデルスゾーンの序曲『夏の夜の夢』から。
 もとは独立した演奏会用序曲として作曲された作品だが、あまりの出来のよさにプロイセンの王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世によって劇音楽の作曲が依頼された、というエピソードは増田良介さんも公演プログラムに書いている。
 それこそ夢の世界が浮き現れるような冒頭部分が終わると、一気に音楽は流れ出す。
 まるでパックが飛び跳ね回っているような躍動感、清澄なリリシズム、さらに起伏のはっきりした物語性。
 この作品の持つ特性魅力が存分に表現されていて、とても愉しい。
 とともに、後半、すっとテンポが落とされて音楽の表情も深い翳りを持った部分では、暗い森の中に取り残されたかのような、奈落の底を覗くかのようなたまらない気持ちになった。

 2曲目は、エストニア出身の作曲家アルヴォ・ペルトが作曲した『フラトレス』。
 今回は、ヴァイオリン独奏と弦楽合奏、打楽器(大太鼓)という編成による演奏で、コンサートミストレスの会田莉凡がソロをつとめる。
 バルトークの弦楽器・打楽器・チェレスタの音楽の第3楽章をさらに洗練させたような音楽、というとかえってわかりにくいか。
 静謐でありながら、停滞することのない音楽で、ぐっと惹き込まれる。
 会田さんをはじめとした弦楽器の精度の高さはもちろんだが、音楽にメリハリをつける打楽器の中山航介の存在も忘れてはなるまい。
 後半のシューマンでも切れ味抜群のティンパニを聴かせていた。

 休憩後は、少数編成の弦楽5部が抑制されつつも哀しさをためたダウランドの『あふれよ、涙』を弾き終えると、そのままシューマンの交響曲第2番が始まった。
 序奏の靄が徐々に消えていくと、音楽は晴れやかに力強く鳴り響く。
 一気呵成という言葉そのまま、前へ前へと音楽は進む。
 これぞピリオド・スタイルの醍醐味とでも言いたくなるような、スピーディーでスリリング、かつドラマティックな演奏だ。
 それでいて、楽曲の解釈は万全だし、オーケストラのコントロールもしっかりととれており、粗暴さや粗雑さを感じさせることは一切ない。
 実は、フリーントが指揮したシューマンの交響曲第2番は、スタヴァンゲル交響楽団との録音がリリースされていて、昨日久しぶりにながら聴きして感嘆したところだが、やはり生だと断然迫力が違う。
 第1楽章が終わったところで、ある程度のお客さんが拍手をしたのも無理はない。
 続く第2楽章は、狂気と紙一重の疾走。
 速いテンポでありながら、ここでもオーケストラは乱れない。
 『あふれよ、涙』と通じる弦楽器の悲嘆から始まる第3楽章は、焦がれに焦がれる音楽がどうにも切ない。
 ことに木管のソロや重なり合いのなんと美しかったこと!
 そして、そんな悲しみを乗り越えるかのように、終楽章は高らかに堂々と歌われる。
 フリーントと京都市交響楽団の実力が十全に発揮された演奏で、本当に素晴らしかった。

 プログラミングも含めて、大いに満足のいったコンサートだった。
posted by figarok492na at 22:48| Comment(0) | TrackBack(0) | コンサート記録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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