☆京都市交響楽団第689回定期演奏会
指揮:ヤン・ヴィレム・デ・フリーント
独奏:デヤン・ラツィック(ピアノ)
管弦楽:京都市交響楽団
座席:3階LB1列5番
(2024年5月25日14時半開演/京都コンサートホール大ホール)
2020年の1月18日以来というから、約4年半ぶりに京都市交響楽団の定期演奏会をフルで聴いた。
ヤン・ヴィレム・デ・フリーントにとって首席客演指揮者としては初の定期にあたるし、プログラムも魅力的、おまけに昨日だめ元で調べてみたらなんとこれまでの定席が残っていた。
これは行かないわけにはいかない。
で、足を運んで大正解。
非常に充実した演奏を聴くことができた。
まずは、ベートーヴェンのピアノ協奏曲第4番。
ベートーヴェンのピアノ協奏曲の中では優美さやリリカルさが持ち味とされる曲で、例えば第1楽章の冒頭をはじめ、確かにそうした側面は今日の演奏でも的確に再現されていたが、ラツィックとフリーントのコンビだとそれだけに留まらない激しく情熱的な感情が噴き出してくる。
特にぞくぞくとしたのは、第2楽章。
少なくとも実演でここまで力強く重々しく圧迫するように弦楽器が鳴らされるのを聴いたのは初めてだ。
それに向き合うラツィックの繊細でありながら硬質で強さをためたピアノがまた魅力的で、それこそ息を呑むほど集中して聴いた。
そうした緊張から解放されるかのように始まる第3楽章だが、第1楽章同様、ここでもベートーヴェンの一連の作品と共通するドラマティックで振幅の大きな音楽を聴くことができた。
今日の演奏で非常に印象に残るといえば、ラツィック自作の長いカデンツァだろう。
第1楽章、第3楽章ともこの曲の旋律を巧みに引用しつつ、自らのヴィルトゥオージティを発揮させる一方、まるでこのピアノ協奏曲が今現在生まれたかのような狂おしいばかりの表現表出欲求が感じられるカデンツァだ。
実は、昨日amazon music unlimitedで聴いてはいたのだけれど、やはり生で聴くと格別である。
終演後、大きなブーイング(たぶん)を発する男性がいたが、もしかしたらこのカデンツァに対するものだったのか。
もちろん僕はブラボーを捧げる側に与したい。
京都市交響楽団も、フリーントの求めるピリオド奏法、強弱緩急の変化を自らのものにして、全く間然としない。
ソロでラツィックと掛け合いをしたチェロの首席客演、櫃本瑠音や切れ味抜群のティンパニー・中山航介そのほか、変わらずいいオーケストラだと思う。
なお、ラツィックのアンコールは、ショスタコーヴィチの3つの幻想的舞曲から第1曲「行進曲」。
休憩を挟んだ後半は、シューベルトの交響曲第1番。
16歳のシューベルトが作曲した若書きの作品で、いわゆるオーソドックスな演奏だと冗長に感じたり、第4楽章の冒頭なんて橋田壽賀子あたりのホームドラマのテーマ曲風で安っぽく聴こえたりして、昔は正直好んで聴く曲ではなかった。
ところがピリオド奏法が主流となって、この曲の魅力が俄然クローズアップされるようになった。
今日のフリーントの演奏などまさしくそう。
第1楽章は序奏が終わったとたん、きびきびはきはきと音楽が始まりそこからは一気呵成。
切れば血が出るような音楽で、聴いていて本当にわくわくしてくる。
シューベルトらしい歌謡性が発揮された第2楽章、緩やかに管楽器が絡み合う第3楽章の中間部、いずれも美しい。
そして、青春の感情の迸りそのものの終楽章、中でも音楽が軋み出すというのか終盤の転調にはぞくぞくとした。
京都市交響楽団はここでも好調だった。
アンコールは昨夜演奏されたモーツァルトのセレナード第13番「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」の第3楽章。
と、大いに満足したコンサートだった。
どうにも残念だったのは、けっこう空席が多かったこと。
これだけの演奏、これだけの音楽、なかなか生では聴けないもの。
2024年05月25日
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