今年亡くなった小澤征爾が、2年ほど前にサイトウ・キネン・オーケストラを指揮してベートーヴェンの劇音楽『エグモント』序曲を指揮したことがあった。
宇宙の若田光一に音楽を届けるという企画だったが、いずれにしても小澤さんはなんとしてでも指揮をしたかったのだろう。
何度キャンセルを重ねても現役であり続けようとした小澤さんの強い意志は十分に理解できたが、正直その感想はつらいの一語に尽きる。
短調から長調へ、暗から明へという意思のはっきりした音楽こそこうした企画に相応しいということでの選曲だったのだろうが、テンポの速さとよくコントロールされた総奏が求められる曲だけに、必要以上に小澤さんの老いが目立った。
これが、恩師の斎藤秀雄が亡くなる直前に演奏し、小澤さんも好んで取り上げていたモーツァルトのディヴェルティメントK.136の第2楽章なら、テンポが遅かろうと粗はそれほど目立たないだろうし、何よりもっと気兼ねなく感動に浸れたのにとすら思った。
たぶん小澤さんはなお現役であり続けたかったのだろう。
人間は老いる。
もちろん、老い方はそれぞれで大村崑ちゃんや草笛光子のように90を過ぎても元気ハツラツな人もいる。
音楽の世界でも、映画音楽の巨匠ジョン・ウィリアムズは矍鑠として未だ指揮台に立っているし、レオポルド・ストコフスキーが最晩年に録音したブラームスの交響曲第2番やメンデルスゾーンの交響曲第4番、ビゼーの交響曲を耳にしたときはそのあまりの若々しさにびっくりした。
でも、なかなかそうはいかない。
老いとともに体力も、精神力も衰えていく。
今夜オットー・クレンペラー指揮ニュー・フィルハーモニア管弦楽団が演奏したシューマンの交響曲第2番<WARENER>を聴いた。
1968年だから、クレンペラーが亡くなる5年前、80を越えた最晩年の録音だ。
非常にゆっくりとしたテンポの大きな構えの音楽である。
であるけど、これをクレンペラーの至芸、巨匠の楽曲把握と単純に評価してよいのかといえば、僕は否と答える。
ライヴ録音ではなくスタジオで行ったセッション録音、しかもきちんと編集が行われた上でリリースされているにもかかわらず、音楽の進み具合はよたよたとしているし、オーケストラにも粗が多い。
それがかえって、シューマンのこの交響曲の持つ奇妙な部分、特異な部分を強調することにもなっているが、それは結果としてそうなったということであって、手放しでは誉め難い。
ただ、それでも、第2楽章の中間部など時折美しさにはっとなることもあったし、もつれつつもなお歩き続けるのをやめず、遂にゴールに到着したような終楽章には感動もした。
それは、やはりこの演奏に、何度も悲惨な出来事にあいながら、それでもなお生き続けたクレンペラーの長い人生が反映しているからだろう。
そうそう、この演奏を聴きながら久しぶりに旧EMIの音の悪さを思い出したんだった。
ちなみに、<WARENER>と毎回記しているが、WARENERレーベルが配信しているクラシック音楽の音源の大半、例えばここでよく取り上げているグイド・カンテッリだとか昨夜聴いたヴァルター・ギーゼキングなど、その多くがEMIを吸収して手に入れたものである。
で、はじめステレオ録音に消極的だったこともあるのか、旧EMIレーベル、ことに1960年代後半から1970年代のオーケストラ絡みの録音の中に、やけに音質の悪いものがあるのだ。
もともとじがじがしているところに、割れるというのか、極端に音が粗くなっている。
JEUGIA四条店でクラシック音楽担当のアルバイトをしていたとき、グランドマスターという日本のEMIがリマスタリングして再発したCDのシリーズを買ったお客さんから、あまりの音の悪さに苦情があったことを思い出した。
リマスタリングでだいぶん改善されているとはいえ、やっぱり音がよくない。
2024年03月12日
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