イギリスの室内アンサンブル、ナッシュ・アンサンブルが演奏したチャイコフスキーの弦楽6重奏曲「フィレンツェの想い出」とコルンゴルトの弦楽6重奏曲<hyperion>を聴く。
今年リリースされたばかりのアルバムである。
まずは、チャイコフスキー。
実にかっこいい演奏だ。
歯切れがよくて、それでいて歌うべきところは流れるように歌う。
しかも、民俗音楽的な装飾風の処理も加味されている。
いわゆるピリオド奏法の影響もあるかもしれないが、そのスタイリッシュで洗練されたスタイルには、ネマニャ・ラドゥロヴィッチらが積極的にやっている「クロスオーバー」な音楽をすぐに思い起こした。
このフィレンツェの想い出は、リズムとテンポの組み合わせを間違えると、ただただ泥臭くいなたい音楽になってしまうのだが、ナッシュ・アンサンブルの演奏ならば無問題。
第3楽章の急所などもやすやすと越えているし、終楽章の追い込みもよくコントロールされている上にエネルギッシュに決める。
だが、こちらの心は動かない。
ついつい、そんなにかっこつけんでもと口にしたくなるのだ。
この前、グールドが弾いたバッハのフランス組曲について書いたとき、音楽への反応が生み出した感興といった言葉を記したと思う。
もちろん、ナッシュ・アンサンブルの演奏にそれがないとは言わない。
けれど、この演奏からはそれが二義的以下のものに感じられてしまうのも事実である。
本来の表現欲求とは異なる、後付けによる演奏スタイルというか、あまりにも完璧にスタイルが決まり過ぎているというか。
これが実演ならば、ノリのよい演奏にきっと興奮するだろうに。
それこそPCやスマホで動画の炎を目にしているような感じなのだ。
確かに、その炎は赤々と燃えている。
この動画を映している人間は、その熱を間近で直接受けていることも想像に難くない。
しかし、炎の熱を液晶画面を通している自分は全く実感できない。
ただただ燃えているなあという認識が生まれるだけだ。
そんなもどかしさに囚われて、最後まで違和感を覚えたままだった。
コルンゴルトも基本のスタイルは同じだが、上述した装飾風の処理がないことや、作品の音楽性の違いもあって、こちらはチャイコフスキーほどの違和感を持つことはなかった。
コルンゴルトの旋律美には、ちょっと塩辛い音色だなと思う反面、彼がシェーンベルクら新ウィーン楽派の人々と同じ時代を生き、同じ空気を吸ったことをうかがうことができた。
2024年03月09日
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