ディミトリ・ミトロプーロスがニューヨーク・フィルを指揮したチャイコフスキーの交響曲第6番「悲愴」<SONY>を聴いた。
1957年11月のステレオ録音。
実は、この録音は国内盤の廉価盤LPを持つには持っているのだが、大学生の頃に帰省した際中古屋で見つけて買いはしたものの、当時モノラルのポータブルプレーヤーしか実家にはレコードを聴くシステムがなく、第3楽章だけ拾い聴きしてあとは聴かないままだった。
だから、きちんと聴くのは今回が初めてである。
一言でいえば、突き抜けたドライさとなるか。
素っ気ないとか、感情がないというわけではない。
じっくり耳を傾ければ、細やかな感情の変化が窺える。
けれど、旋律を歌わせてなんかいられるものか、なんとしてでも前に進まねばならぬといった風で、音楽の進め方が徹底してドライなのだ。
第1楽章などあまりのせかせかした始まりに、マスターテープの回転数が間違っているのではないかと思ったぐらい。
そのおかげで、かえって第2主題の甘やかさを強く感じたほどである。
以降も、前へ前へのテンポは続く。
結果、40分ほどで全曲が終わった。
これでオーケストラが精緻にコントロールされていれば、それこそ肝胆寒からしめる低音冷淡の極致のような音楽が生み出されたのだろうが、良くも悪くも雑然とした感じで人間らしさを覚える。
時折、聴き直したくなるような気がしないでもない。
2024年03月06日
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