オランダ出身の指揮者、ベルナルト・ハイティンクの実演には一度だけ接したことがある。
今からちょうど30年前のヨーロッパ滞在中、1994年1月16日の本拠地ムジークフェライン大ホールでのウィーン・フィル定期演奏会だ。
プログラムはハイドンの交響曲第86番、ベルクの管弦楽のための3つの小品、シューベルトの交響曲第8番「ザ・グレート」の3曲で、まさしくウィーン・フィルらしい組み合わせだった。
ハイドンは編成を絞らないオーソドックスな演奏で、ベルクはロマン派の残滓を色濃く感じる若干古めかしくすらあるスタイル…。
それより何より、ムジークフェライン大ホールのほわふわとした残響の豊かさに圧倒されたというのが正直な感想である。
その点、ゆったりとしたテンポで進むシューベルトはまさしくホールの音質との相性がどんぴしゃだったので、それこそシューマンによる「天国的な長さ」というこの曲への言葉に大いに納得がいったものだ。
実際、ハイティンクも、そうしたホールの響きとウィーン・フィルの特性を活かした音楽づくりを行っていた。
そういえば、ハイティンクの評価が徐々に変化し始めたのもこの頃のことではなかったか。
30代前半でアムステルダムのコンセルトヘボウ管弦楽団の首席指揮者に抜擢されたことで、世界的な知名度を得ることはできたものの、かえってそれが仇ともなり、ハイティンクの音楽的評価が高まることはなかった。
それがコンセルトヘボウ管弦楽団を退任し、ベルリン・フィルとマーラーの交響曲の、ウィーン・フィルとブルックナーの交響曲の録音を進めた1990年代半ばあたりから、彼の大柄で小細工を弄さない音楽性の真価が発揮されるようになってきたのである。
と言っても、そのマーラーの交響曲やボストン交響楽団とのブラームスの交響曲には、PHILIPSレーベルの若干もやつく音質もあって、重たさを感じたことも事実だが。
今夜聴いた、バイエルン放送交響楽団とのライヴ録音(ただし、拍手など会場のノイズは聴き取れない)<BR>は、1981年11月のものだから、それより15年近く前のことになる。
上述したようなハイティンクの音楽性は、例えば第1楽章のコーダ―や第2楽章のクライマックス、そして全曲のラストによく表されているように感じた。
あえてはからず、頂点に向かって音楽を歩ませて行くといった。
ただ、その分、オーケストラの細部が詰まりきっていない感じは否めなかったし、第2楽章の前半であるとか、第3楽章などにはことにさくさくと進み過ぎている感じもしないではなかった。
一つには、あまりクリアとはいえない音質も影響しているようにも思う。
いずれにしても、最晩年の円熟に向かう過程の一つのドキュメントといえるだろう。
2024年03月05日
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