それまでちっともぴんとこなかったくせに、40代の終わりごろになって、ワーグナーの楽劇『トリスタンとイゾルデ』の第1幕への前奏曲と愛の死を聴く機会が急に増えた。
といって、突然愛だのなんだのの世界に目醒めたということではない。
人生の先、人生という砂時計の砂がどんどん流れ落ちていく感覚と、この音楽の持ついわく言い難い「たまらなさ」が重なり合うように思えてきたからだ。
今夜は、ヴィルヘルム・フルトヴェングラーがベルリン・フィルを指揮した1938年2月の録音<WARENER>を聴いた。
リマスタリングが施されているとはいえ、SP録音ゆえの音質の古さは否めないし、セッション録音のために音楽との間に距離があるというか、ライヴ録音のような没入感には若干不足する。
それでも、特に愛の死のエロスとタナトスがないまでになってうねり上がっていくような音楽の様はよくわかる。
ベルリン・フィルも分厚い響きを聴かせている。
ところで、当時のドイツは、ご存じのとおりナチス・ヒトラーの政権下にあった。
この録音の翌月、ドイツはオーストリアを併合し、10月にはミュンヘン会談でチェコスロヴァキアからズデーテン地方を割譲された。
そして翌年には第二次世界大戦が始まる。
愛と官能の世界に耽溺する音楽であり演奏であったとしても、いやそうだからこそなおのこと僕はそのことについて考えざるをえない。
とともに、そうした演奏を今の日本で、今の世界の中で聴くことについても考えざるをえない。
そうした意味でもアクチュアリティを持った演奏であり録音である。
2024年02月27日
この記事へのコメント
コメントを書く
この記事へのトラックバック