アイネ・クライネ・ナハトムジークの愛称で知られるセレナード第13番やオペラの序曲など、ブルーノ・ワルターがコロンビア交響楽団を指揮して録音したモーツァルト・アルバム<SONY>を聴いた。
現在の古典派演奏の主流である、いわゆるピリオド・スタイルに比べれば確かにゆっくりとしたテンポだし、旋律を歌わせることに長けていることも事実だが、ウェットで過度に情感を込めたそれこそ情緒綿々とした演奏とは一線を画すことは言うまでもない。
例えば、セレナード第13番の第1楽章が快活に演奏されることは十分予想ができることだけれど、抒情性に富んだ第2楽章においてもワルターは節度を持って音楽を進めていく。
とともに、大きな構えというか外に開かれたというのか、線が明快でシンフォニック、なおかつメリハリが効いて冗長に陥らない演奏にもなっている。
それと、弦楽器だけの編成であることによって、吉田秀和が『世界の指揮者』<ちくま文庫>で指摘しているようなワルター特有の低弦の強調が一層わかりやすくもあった。
ただ、こうしたことは今回初めて気づいたのではなく、改めて思い出したと記すほうが正しい。
と、言うのは、クラシック音楽を聴き始めたころ、初めて買ったCDのうちの一枚が、ワルターとコロンビア交響楽団によるモーツァルトの交響曲第40番と第41番「ジュピター」で、今のように具体的な言葉で表せなかったとしても、日々熱心に聴き返す中で漠然と感じていたことではあるからだ。
ワルターが演奏するモーツァルトの明快さは、続く『劇場支配人』、『コジ・ファン・トゥッテ』、『フィガロの結婚』、『魔笛』の各序曲でさらによく示される。
加えて、ワルターの劇場感覚が発揮されていることも指摘しておきたい。
最後は、フリーメーソンのための葬送音楽。
押しつけがましくない厳粛さがモーツァルトの音楽によくあっていた。
ワルターのために編成された録音用のオーケストラ、コロンビア交響楽団には粗さや弱さを感じる面もなくはないが、ワルターの意図をよく汲む努力を行っている。
2024年01月16日
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