昨日、石川県沖で発生した大きな地震の影響で、例年同時中継されているウィーン・フィルのニューイヤーコンサートのNHKでの放送は中止された。
状況を考えればそれも当然だろう。
しばらくニュースを聴いていたが、どうにもたまらなくなりORF(オーストリア放送協会)のストリーミング配信でニューイヤーコンサートを聴くことにした。
当然、被災地のことが気になる。
それとともに、ガザ地区やウクライナなどのことも考える。
そして、コンサートが終わりそのままORFを聴いていたら、日本の地震のことが一番に報じられていた。
地震関連の情報を確かめたあと、午前中、過去のニューイヤーコンサートのライヴ録音から何曲かずつ拾い聴きをした。
その中でもっとも印象に残ったのは、リッカルド・ムーティが指揮した2021年の演奏で、おなじみ美しく青きドナウやラデツキー行進曲もよかったが、それよりスッペの喜歌劇『詩人と農夫』の序曲が素晴らしかった。
「線路は続くよどこまでも」にそっくりな旋律が出てくることでも知られる序曲だが、ムーティがこの曲を指揮すると、まるでロッシーニやヴェルディの序曲、それもシリアスなドラマの序曲に聴こえてくるから不思議だ。
ここぞというところでの盛り上げ方、追い込み方、逆に抒情的な部分での優美さ。
それにウィーン・フィルがよく応えていて、弦の柔らかい音色には心底聴き惚れた。
夕方、スラヴの家系に生まれウィーンで音楽を学んだジョージ・セル指揮クリーヴランド管弦楽団が演奏したロッシーニの序曲集<SONY>を聴く。
セルといえば、アメリカの一地方オーケストラだったクリーヴランド管弦楽団を相手に、インターナショナルというより、第二次世界大戦によって去らざるをえなくなったヨーロッパに向けて高精度の室内楽的なアンサンブルによる音楽づくりを目指した指揮者だけれど、1967年に録音されたこの序曲集では、もちろんよくコントロールされてはいるものの最上級のアンサンブルとまでは聴こえない。
その理由の一つとして、例えば、『ランスへの旅』や『絹のはしご』、『イタリアのトルコ人』のような緩やかな部分から急速な部分へ移る序曲の場合、出だしのほうがどうしても重たく聴こえてしまうことが挙げられるのではないか。
しかも、一転、速い部分になるとこれでもかというくらい切れ味鋭く(ドンシャリ気味に)一気呵成に音楽は走る。
結果、音楽はぎくしゃくとしたものになる。
これが、『アルジェのイタリア女』や『どろぼうかささぎ』のように、同じ作曲家の歌曲『踊り』みたく全身これ躁状態の曲となると、齟齬を感じる暇もなくあれよあれよという間に音楽が終わってしまう。
それを、セルのスラヴ系の血によるものだと断じるのは、早計にすぎるかもしれない。
何しろ、セルはオペラ指揮者としても鳴らした人だ、こうした激情の発露は劇場感覚の発揮でもあるだろうから。
ただ、まるでドヴォルザークのスラヴ舞曲のように血沸き肉躍る感じのするロッシーニではあった。
他の一連の録音のようにオーケストラがもっとぎゅっとまとまっていれば、そうしたセルの解釈をより愉しめたのではないか。
2024年01月02日
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