☆藤居知佳子メゾソプラノリサイタル
出演:藤居知佳子(メゾソプラノ)、森脇涼(ピアノ)
(2023年11月18日18時半開演/青山音楽記念館バロックザール)
初めて藤居知佳子の歌声に接したのは2013年6月23日の夕暮れ社 弱男ユニット『夕暮れ社、海のリハーサル』だから、ちょうど10年前ということになる。
で、声量があって美しい声質の持ち主が参加しているなと感心感嘆して、夕暮れ社の公演にとどまらず、藤居さんがオペラ・アリアを歌う同志社女子大学のオーケストラ・コンサートや同女名物の『フィガロの結婚』、関西の音楽大学オーケストラ・フェスティバルでのマーラーの復活のソロ、さらに彼女が京都市立芸術大学の院に進学しても、院生によるオペラ公演と、度々彼女の歌を聴いてきた。
そういえば、錦湯での落語会・座錦湯に夕暮れ社が出演した際(藤居さんの歌うシューマンの女の愛と生涯がメインで、他の面々がその背景を演じてみせるスタイル)は、その橋渡しをやったりもしたっけ。
ただ、2019年1月の修士演奏を最後に、新型コロナやこちらの健康状態の変化(服薬)もあって、びわ湖ホール声楽アンサンブルでの彼女の活躍に触れることができず非常に残念な思いをしていた。
その彼女が、初めてのリサイタルを開催するという。
藤居さん本人に演奏時間などを確認し、それなら大丈夫だと判断して足を運ぶことにした。
藤居さんの歌唱の特性魅力をあげるとすれば、まずは豊かな声量と幅広い声域だろうが、そこに向日的な歌声、歌いぶりをどうしても加えたい。
陽キャと呼ぶには、ちょっとおっとりした感じがするし、コミカルともやはり違う。
その意地の悪さのなさには、向日的という言葉がぴったりだ。
プログラム最初のシューベルトの3曲、『シルヴィアに』、『羊飼いの嘆きの歌』、『憩いなき愛』は、そんな彼女の名刺代わり。
ああ、藤居さんの歌だなあとちょっとだけ懐かしく思った。
しかし、バロックザールだと彼女の歌声はなおのことよく響くなあ。
続いては、マーラーの若き日の歌から第1集の5曲。
マーラーが青年時代に作曲した歌曲で、若々しくて屈折が少ないところは、藤居さん向きか。
ここでは、彼女の高音も強く印象に残る。
中では、マーラー自身が詞を書いた民謡調の『ハンスとグレーテ』が愉しい。
そうそう、グレーテルが出てくるからもあってだけれど、藤居さんはフンパーディンクの『ヘンゼルとグレーテル』には出ていなかったっけ。
前半最後は、ヴォルフの、ゲーテの『ヴィルヘルム・マイスターの修業時代』による4つの歌曲。
一転、ここではシリアスな表現が必要とされる。
最後の「あの国を知っていますか」には、ついつい絶唱という言葉を使いたくなるほど。
森脇さんも藤居さんの歌に負けじと激しいピアノで応じていた。
しかし、この感情の高まりを耳にすると、今度はどうしても彼女が歌うワーグナーを聴いてみたくなる。
休憩を挟んだ後半は、深尾須磨子の詞による高田三郎の『パリ旅情』から。
この曲では、もちろん日本語の歌曲をどう歌うかということが主眼となるが、それとともに、自分自身の歌唱を如何に意識してコントロールしていくかも試されていたように感じた。
高田三郎の旋律の美しさ、ストレートさは藤居さんの柄と齟齬がないし、台詞風の箇所では彼女のびわ湖でのこの間の研鑽が窺えた。
(藤居さんが歌う高田三郎の歌曲を聴きながら、日本語の歌曲・ソングを作曲することや、歌うことについてかつて林光さんが話されていたことを思い出した。その意味でも、藤居さんが『森は生きている』にどう取り組んだかはとても興味深い)
プログラム最後は、マスネの歌劇『ウェルテル』の手紙の歌。
同じくびわ湖ホールでの研鑽がうかがえる熱唱であり劇唱だった。
アンコールは、藤居さんが大好きな武満徹の『うたうだけ』。
「むずかしいことばはいらないの、かなしいときにはうたうだけ」
という谷川俊太郎の歌詞が、彼女の歌の全てを象徴しているようだ。
森脇さんは現在京都市立芸術大学で指揮を学んでいるそうだが、細部に目配りの効いた伴奏で、藤居さんをよく支えていた。
伴奏、コレペティトゥアと昔のドイツ流儀の研鑽を積んでいるようで、できれば実際のオペラ指揮も聴いてみたい。
今回のリサイタルは、藤居さんの今が100パーセント示されるものになっていた。
その分、いろいろと課題も明らかになっただろうが、そうした課題をクリアしながら藤居さんがどのような声楽家、音楽家、表現者となっていくか愉しみでならない。
オペラもそうだけれど、今度はブラームスのアルト・ラプソディやエルガーの海の絵など、管弦楽との共演をキャパの広いホールで聴いてみたい。
2023年11月18日
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