☆京都市交響楽団第641回定期演奏会
指揮:ジョン・アクセルロッド
独奏:アンドレアス・ブラウ(フルート)
管弦楽:京都市交響楽団
座席:3階LB1列5番
(2020年1月18日14時半開演/京都コンサートホール大ホール)
2020年いっとう最初の京都市交響楽団の定期演奏会に足を運んだ。
指揮はこれまで何度も客演しており、来シーズンからは首席客演指揮者への就任が決まっているジョン・アクセルロッド。
それにしても、今回のプログラムはアクセルロッド側の希望か、それともアクセルロッドのレパートリーから京響側の担当者が選んだものか。
19世紀初頭に長い眠りを醒ました女神アテーナ―が、オスマン帝国の支配によって廃墟となったアテネよりハンガリーのペストへと移動するという劇音楽『アテネの廃墟』の序曲。
シナイ半島で戦車の中で死んだイスラエルのフルーティスト、ヤディンの追悼のために作曲されたバーンスタインの「ハリル」。
第二次世界大戦中、ドイツ軍に攻囲されたレニングラードでその第3楽章までが書かれ、初演されるや否や連合国側で数多く演奏されることとなったショスタコーヴィチの交響曲第7番。
昨今のきな臭い状況を考えれば実に意味深い、しかし逆にアクセルロッドがアメリカ出身ということもあって、より政治性の強さを批判される可能性もなくはない、いずれにしてもはっきりとした主題を持ったプログラミングだ。
(ちなみに、ショスタコーヴィチの交響曲第7番の作曲や初演の過程については、ひのまどかの労作『戦火のシンフォニー』<新潮社>をご参照のほど)
だが、アクセルロッドは的確な楽曲把握やオーケストラとの固い信頼関係によって、そうした主題に寄りかかることなく、音楽の持つ力、作品の魅力をまずもって示してくれた。
一曲目の『アテネの廃墟』序曲は、ピリオド・スタイルの影響もうかがわせるクリアで軽快な演奏。
見事なソロを披露したオーボエやファゴット奏者とともにティンパニの中山航介に一人で立つようアクセルロッドが促したのも大いに頷ける。
続く、独奏フルートと弦楽オーケストラ、打楽器のためのノクターン「ハリル」は、ヘブライ語でフルートの意味のあるハリルという名に恥じぬ、フルートの技巧が発揮されるように工夫された内容で、基本の旋律は耳馴染みがよい。
独奏は、長くベルリン・フィルのソロ・フルート奏者をつとめたアンドレアス・ブラウ。
抜群の妙演であることは言うまでもないのだけれど、そこはオーケストラで活躍してきたブラウだけあって、それが己の巧さをひけらかすためのものではないこともしっかりと伝わってくる。
アルトフルートとピッコロ、打楽器群との絡みも素晴らしかった。
アンコールは、ドビュッシーのシランクスで、こちらも惚れ惚れとする音色だ。
加えて、長年の経験から培ったブラウの揺るぎのなさをひと際感じさせられた。
そして、休憩を挟んだメインのショスタコーヴィチの交響曲第7番には強く心を動かされた。
と、言っても、アクセルロッドがこれ見よがしの大爆演、身も世もあらぬ大芝居ではったりかましたわけではないことは、上述した通りだ。
会場の盛大な拍手を受けて最後にスコアを手にした如く、アクセルロッドは作品をよく読みこんで全体の結構をよく捉え、鳴らすべきところは壮大に鳴らしつつ、抑えるべきところは精緻に抑えるなど、要所急所をよく押さえた音楽づくりに徹していた。
例えば、かつてアーノルド・シュワルツェネッガーと宮沢りえが「ちちんぷいぷい」とCMで歌ったことのある第1楽章の戦争の主題の暴力性に圧倒されるのは、その前の平和の生活の主題のゆったりと美しい表現や、戦争の主題の開始のスネアドラムと弦のピチカートの弱音があってこそのものだと改めて思い知らされた。
とともに、この部分がラヴェルのボレロに影響されたものであろうことも改めて思い起こされた。
そう、今回の演奏では、この作品の持つ諧謔性や旋律の美しさもよく再現されていたのである。
ソロ・アンサンブル両面で京都市交響楽団はアクセルロッドによく応えており、今後のさらなる共同作業が愉しみで仕方ない。
いやあ、本当にいいものを聴いた。
ああ、素晴らしかった!!!
2020年01月19日
この記事へのコメント
コメントを書く