2019年12月14日

○○企画 束の間公演『風と黙って座ってて』

☆○○企画 束の間公演『風と黙って座ってて』

 作:鈴江俊郎
 演出:にさわまほ
(2019年12月14日18時の回/Social Kitchen Space)


 かつて京都小劇場に、鈴江俊郎、松田正隆、土田英生という三人の劇作家が並び称される時代があった。
 細かく言えば異論はあるだろうけれど、鈴江さん松田さんのお二人が同時に岸田戯曲賞を受賞した1996年頃から、三浦基を招聘するなど京都造形芸術大学が演劇方面での進出を積極的に仕掛けてくる2000年代前半あたりまでの都合10年弱を、その三人の時代ととらえてまず間違いはあるまい。
 僕が京都小劇場に接し始めたちょうど20年前、1999年は、そうした三人の時代の最盛期だった。
 鈴江さんの劇団八時半、土田さんのMONOは着実に公演を重ねていたし、すでに時空劇場は活動を停止していたとはいえ、松田さんの作品もよく上演されていた。
 事実、京都小劇場で観た僕の初めての公演は1999年1月の鈴江さんの『よるのたかさで光をのぞむ』(創造集団アノニム、菊川徳之助演出によるもの)だったし、同じ年の5月に観た松田さんの『夏の砂の上』(平田オリザ演出。デビュー仕立ての占部房子が鮮烈で、以降僕は彼女のファンになった)など未だに忘れ難い。
 作風としては、平田オリザに始まる「静かな演劇」、会話劇の系譜に連なることになるだろうが、結構主題意匠において均整のとれた劇世界の完成を目指す平田さんに比して、鈴江松田土田の三人は、エロス・タナトスへの傾斜や共同体・集団・組織(そこには家族を含む)内における人間的葛藤という共通性を持つとともに、より人間臭さを感じさせるというか、各々のよい意味での性質性癖傾向歪みを強く突出させたものとなっていた。
 本来のアングラ演劇に対する志向や嗜好がそれとなく垣間見える松田さん(だからマレビトの会にはちっとも驚かなかった)、ウェルメイドプレイ・エンタメ的趣向にも秀でた土田さんに対し、鈴江さんの場合は、滑稽さをにじませつつ登場人物が口にする言葉と心中にある感情の齟齬があるはほのめかされあるは直截に表された上で、結果悲劇的結末・終末を迎えるといった曰く言い難いいじいじとしたいーっとなるような感じに特徴があった。
 とともに、遅れて来た世代とでも呼びたくなるような先鋭的な「政治性」もそこに加味されていたりもした。
 そうそう、旧明倫小学校の京都芸術センター化をはじめ、京都小劇場の権利獲得のための運動活動を牽引する役割を果たしたのもこの三人、中でも鈴江さんであったことはやはり忘れてはならないだろう*1。
(思想信条においてはかつての日本共産党の教条主義に反対を示しながら、劇団運営や対人関係においてはオールドボルシェビキ的というかスターリニズム的というか、「敵味方」をはっきりと色分け、激しく攻撃的な姿勢をとって退かないのが鈴江さんだった。そうした側面は教え子の柳沼昭徳にも多分に受け継がれているのではないか)

 その鈴江さんの戯曲を○○企画が束の間公演として上演するというので、迷わず足を運んだ。
 作品は、『風と黙って座ってて』。
 1970年代から80年代の小説や映画を思わせる叙情性もまた鈴江さんの特性の一つである。

 夏の夜、何をやらせてもダメ男丸出しの兄(市毛達也)はまたぞろ妹(久米杏奈)のマンションへと転がり込んでいる。
 そんな二人の下を、妹が親しく接しているらしい会社の同僚の山形さん(畑迫有紀)が尋ねてくる。

 あいにく初演は未見だが、兄=長谷川源太(現シアターリミテ)、妹=山岡徳貴子、山形=中村美保というその布陣を知れば、おおよその察しはつく。
 はじめ、成瀬巳喜男か『男はつらいよ』かといったシチュエーションで軽快でおかしなやり取りが続くも、「異分子」の登場をきっかけにそれぞれの内面がさらけ出され、やがて…。
 といったまさしく上述した如き鈴江さんらしい展開である。
 演出のにさわさんは、鈴江さんの演出公演に直に接していない分(終演後確認)、唯物論ならぬ唯テクスト論というか、テキストに真摯に向き合うことで、適度な距離感を保ちつつ、かえって、だからこそ鈴江さんの作品の持つ面白さ、要所急所、肝となる部分を巧く再現し、浮き彫りにしていたし、演者陣もそうしたにさわさんによく副った演技を心掛けていたのではないか。
 まずは、兄を演じた市毛君。
 かろさの中に漂う哀しさや屈折したシャイさには、鈴江さん自身の演技*2をついつい思い起こしたほどだ。
 また、まるで市毛君の実の妹かと思えてくる久米さんの、感情のギアの入れ換えも強く印象に残った。
 一方、山形役の畑迫さんは剣呑剣呑、彼女の特性に演出の加減も加わってだろう、むき身の刀ではないむき身の包丁ぶり。
 もう少し遊びがあってもいいかなと思わなくもないものの、絶望に裏打ちされた、インティメートな世界への侵入者、異物としてのトリッキーさと狂気がよく出ていた。
 いずれにしても、鈴江俊郎という劇作家の力量とその作品の愉しさ魅力を改めて認識できることのできた公演だった。
 ああ、面白かった!!!


*1 こうした三人の活躍を下支えしたのが杉山準だが、ここではあえて詳述しない。

*2 ただし、市毛君は鈴江さんのように噛みまくりはしていない。そう、稽古場で演者陣には厳しい言葉を繰り返す割に、自分自身はここぞというところで噛みまくる鈴江さんに対し、僕は内心「あんたが一番噛んでるやん」と突っ込みを入れていたものだ。
 むろんそこには鈴江さんの演技の巧拙ばかりではなく、それらしさばかりを追求して実の伴わない演技に対する不満、違和感があったのだろうと想像もつくが。
 そういえば、2003年10月の京都ビエンナーレの公演で鈴江さんの『宇宙の旅、セミが鳴いて』を早世してしまった高瀬久男がそれこそ文学座流儀の精度の高い演出で仕上げた際(豊島由香、岡嶋秀昭ら好演)、鈴江さんが拒否反応を示したのも(実際、鈴江さんに「面白かったですよ」と声をかけたときに見せた複雑極まる彼の表情を僕は覚えている)、神経質で繊細という二人の共通点からくる同族嫌悪ではなく、劇の造りや演技に対する考え方の違いからくる似て非なる者への嫌悪だったと僕は思っている。
 もしかしたら鈴江さん自身をカリカチュアライズしたとも思えなくもないある登場人物の造形も、鈴江さんには不愉快だったのかもしれないけれど。
posted by figarok492na at 20:53| Comment(0) | 観劇記録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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