2019年12月01日

第27次笑の内閣『ただしヤクザを除く』

☆第27次笑の内閣『ただしヤクザを除く』

 作:高間響
 演出:髭だるマン
(2019年12月1日15時半の回/THEATRE E9 KYOTO)


 笑の内閣の一連の公演や、和田謙二で作演出をつとめた『食い合わせのグルメ』に『カーニバルの朝』と、印象に残る髭だるマンの舞台は数々あれど、なんと言ってもいっとう忘れがたいのは丸山交通公園ワンマンショー名作選2での一人芝居である。
 一見私戯曲かと疑いたくなるような、亡くなった弟に対する複雑な感情の表出は、髭だるマンという一人の人間の核そのもののように思われて僕には仕方なかった。
 で、京都市議選出馬で代表交代まではまだしも、『ツレがウヨになりまして。』じゃない、『ツレがうつになりまして。』でもない、『前代表高間響がうつになりまして。』という緊急事態の中で行われた『ただしヤクザを除く』の再演でも、登場人物の造形やラストの処理など、リリカルさとシニカルさが綯い交ぜになったかのような髭君の特性が垣間見えていたのではないか。
 と、ともに、楷書のつくりというか、演劇に対する真摯さ、丁寧さを求める彼の真面目さもまたよく表されていたように感じた。
 結果、なんでもあり、やたけた、やったもん勝ちの笑いは抑制されていたものの、その分、高間君の作品の肝、主題、主張はより明確に示された。
 また、主人公(というか、大まかに言えば黒澤明監督の『酔ひどれ天使』の三船敏郎的な役回り)の髭君自身はもちろんのこと、ヒロイン役の近藤珠理、杉田一起、田宮ヨシノリ、和泉聡一郎、熊谷みずほの演者陣も、個々の特性を発揮しつつ、そうした髭君の意図にそったアンサンブルを生み出す努力を重ねていた。
 ただ、要所急所の集中に比して、平場においてめの詰まらなさというか、隙間というか、空白というか、空気の薄さを感じてしまったことも事実だ。
 その意味で、ファックジャパンの数日の長を改めて痛感したりもした。
(前回の『そこまで言わんでモリエール』は論外として、今回の公演は座組みの人間関係の良さという点では笑の内閣の公演の中でも五本の指には入るはずだろうことは指摘しておきたい)
 そして、そうした空気の薄さ、空気の希釈は、高間響の不在(今回の出演シーンでの破壊力たるや!)によるものではあるのだけれど、一方でその全てを髭君の演出の責任に帰するのはあまりにも酷だろう。
 なぜなら、そうした空気の変化は、確かに高間君の不在が決定打となって一層顕現化されたにせよ、実はこの間の演者陣の変化や高間君の作品の意匠、表層の変化によって良くも悪くも徐々に進んでいたことだからだ。
 要は、高間君の寛解を待った上で、そうした変化をどう受け留め、どう対応していくかが今後の笑の内閣という「集まり」、「形」、「場」の課題ということである。
 いずれにしても、代表であり演出兼出演者、まさしく座長として今回の公演を乗り切った髭君をはじめ、演者陣スタッフ陣にまずは大きな拍手を送りたい。
(こうした諸々は、お客さんから「そんなん知らんがな」と言われても仕方のないことでもある。あるのだけれど、僕は髭君や高間君、笑の内閣をしっかり観護っていきたいとも強く思う)

 それにしても、ヤクザなんてクズもクズ、義理や人情の任侠道なんて真っ赤な嘘、欲と欲との醜い争いといった事どもは上述した『酔ひどれ天使』や深作欣二監督の『仁義なき戦い』シリーズ等々でこれでもかと描かれていたが、この『ただしヤクザを除く』はその先、そうしたクズの人権の問題についてしっかり言及している点でさらにアクチュアリティを持っていると強く感じる。
 なにせ、関西では暗雲が何やら立ち込めているばかりか、桜を見る会の問題が取り沙汰されているのだから。
 でも、それより僕が驚き感じ入るのは、例えば『名誉男性鈴子』での楠海緒の役回りもそうであったように、ここでも高間君の身近な未来がそれとなく予見されていることだ。
 高間君自身は全く自覚がないだろうけれど、僕は彼のそうした勘の強さ、予測力は馬鹿にはできないと思っている。

 ああ、面白かった!!
posted by figarok492na at 20:01| Comment(0) | 観劇記録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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