2019年11月16日

京都市交響楽団第640回定期演奏会(後半のみ)

☆京都市交響楽団第640回定期演奏会(後半のみ)

 指揮:シルヴァン・カンブルラン
管弦楽:京都市交響楽団

 座席:3階LB―2列1番
(2019年11月16日/京都コンサートホール大ホール)


 京都市交響楽団の第640回定期演奏会の後半のみ、メインのストラヴィンスキーのバレエ音楽『春の祭典』を聴いてきた。
 京都市交響楽団の定期演奏会でハルサイを聴くのは、小林研一郎が指揮した1988年6月25日の第305回定期演奏会以来だから、なんと30年以上ぶりということになる。
 今のようにゴッホの如く炎、炎と喧伝される前だったとはいえ、コバケンさんが師匠昭和のヤマカズ山田一雄譲りのやたけた上等、おまけに歌うところはむせび歌う式の音楽づくりな上に、当時の京響の精度の問題があり、さらには会場の旧京都会館第1ホールの劣悪な音響まで加わって、まさしく野蛮の極み、かつ土着性を強く感じる演奏だった、と記憶している。
 それでは、フランス出身のシルヴァン・カンブルランが指揮した今日のハルサイはどうだったか。
 実は、ともったいをつける必要はないだろうが、カンブルランが指揮したハルサイに僕は一度実演で接したことがある。
 2010年5月3日に大阪のザ・シンフォニーホールで開催された読売日本交響楽団の大阪公演がそれで、このコンサートに関しては読売新聞関係の招待チケットに絡んだややこしい出来事があったのだけれど、ここでは省略。
 重心が低いというか、テンポも含めて重さを覚えたことがいっとう最初に思い出すことだが、あとは2階左サイド、オーケストラの真横という席があてがわれたこともあり、大管弦楽の音響に圧倒されたというのが正直なところだ。
 で、京都市交響楽団に対しても、カンブルランは同様の解釈をとっていた。
 ただ、京都コンサートホールの音響の特性のおかげか、今回のほうがよりカンブルランの意図をくみ取ることができたようにも思う。
 ファゴット(首席奏者中野陽一朗)のソロからじわじわゆっくりと音楽を始めるあたり、そうそうあのときもこうだったと読響の演奏をすぐに思い起こす。
 一方で、カンブルランが音楽の構造をしっかりと腑分けし、要所急所を的確に押さえた、非常にクリアで明晰な、それでいて音楽の持つ暴力性の表現においても秀でた演奏に仕上げていたことも事実だ。
 ただし、その暴力性はバーバリズム(野蛮性)や土着性を前面に押し出した前近代的なそれとは大きく異なり、より純音楽的、もしくは音塊的とでも呼べようか。
 いや、今回の演奏でもバーバリズムや土着性が無視されていたわけではない。
 けれど、そのバーバリズムや土着性は、大いなるセンセーションを巻き起こすための意匠、といえば言い過ぎになるかもしれないが、やはり次のステップアップを果たすための試行であり志向の一端ように思われてならない。
 いずれにしても、この春の祭典という音楽の持つ前衛性、音楽史のエポックメーキングとしての意味と意義を再認識させられた。
 とともに、劇場感覚にも富んでいたことも事実で、ここぞというところでは大いにわくわくすることができた。
 もちろん、それはストラヴィンスキーの楽譜を丁寧に読み込んだ結果であり、カンブルランがあざとさと無縁であることは改めて言うまでもあるまいが。

 京都市交響楽団(コンサートマスターは客演の豊嶋泰嗣)はそうしたカンブルランによく応えて、ソロ・アンサンブル両面で精度の高い演奏を聴かせていた。
 大管弦楽の妙味ってこういうことなんだよなあ、と強く感じた次第。
 ああ、面白かった!!!
posted by figarok492na at 22:21| Comment(0) | コンサート記録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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