2019年11月03日

ナントカ世代『のけもの』

☆ナントカ世代『のけもの』

 原作:エマニュエル・ボーヴ『のけ者』
 脚本・演出:北島淳
(2019年11月3日15時の回/THEATRE E9 KYOTO)

>この社会の核には「悲しみ、懊悩、神経症、無力感」などを伝染させ、人間を常態として萎縮させつづけるという統治の技法がある。日本近代史のある時点で、統治がうまく活用することを学んだ技法である<
 シンクロニシティ、とはちょっと違うか。
 読みかけの『読書実録』<河出書房新社>の中で、保坂和志が酒井隆史の『通天閣』<青土社>の一節を引用している。
 ナントカ世代の原作シリーズの4年ぶりの新作となる『のけもの』を観ながら、僕はこの一節をすぐに思い出した。

 実の姉を頼って京都に戻って来た母と娘だが、この母娘、気位が高いのかなんなのか、屁理屈をこねまくるばかりで一切働くなんてことはしない。
 そのうち姉の家を飛び出したはよいが、借金は返さず、家賃も払わず。
 まさしく貧すれば鈍するの極み。
 転々とするうちに衣類持ち物はどんどんと少なくなり、二人は悲惨の底へと転げ落ちていくが、それでも性根が入れ替わるわけではなく…。

 原作は、エマニュエル・ボーヴの小説『のけ者』。
 ボーヴはフランス人の作家で、幼少の頃から貧富の差が極端に激しい人生を歩んでおり、『のけ者』にもまた彼の経験や体験が色濃く反映されている。
 というのは、この『のけもの』を観るにあたって、昔目を通しておいた書籍やらネットやらで仕入れた付け焼刃の知識…。
 で、物語はパリから現在の京都に移し替えられているのだが、舞台一面には京都市域の縮尺地図が張り巡らされており、5つの幕ごとに場面(聚楽廻→五条大橋→久世→釈迦谷→京都駅付近)が変わっていくという作品の流れを理解する手助けとなっていた。

 前口上も勤め、終幕で狂気の笑いを発していた金田一央紀ではないけれど、ぶらりひょうたんな生き方を長年続けてきた人間にとっては、なんとも身につまされるお話。
 などと書いてしまうと、身も蓋もないか。
 そこは、ナントカ世代、北島淳という書き手だから、ヨーロッパの不条理演劇風な雰囲気と共に、くすぐりやら登場人物の生き方その他に落語的な滑稽さ、乾いた無常感が窺えたんだけど、やっぱりなんだかねえ。
 冒頭の引用の話に繋げると、相当はしょって書けば、保坂さんは上述した統治の外にある人々、「ちゃんとしてしまう」ことを避ける人々、アフリカやスラムの人々の姿についてもいろいろと考察しているのだが、残念ながら無理無体無法無謀を続けて破滅の淵に立つこの母娘はそうした人々とは大きく異なっている。
 そして、統治の内にあり、たぶん統治の外にある人とは自分たちは全く異なるという自尊心を持っているだろうからこそ、あの二人は結果として「のけもの」となってしまうのだ。
 実は、各場面ごとに異なるリズムでメトロノームを鳴らすという趣向があったのだが、作り手の意図はひとまず置くとして、それが母娘二人の置かれた状況を象徴しているかのようで、とても印象に残った。

 演者陣では、まずは母を演じた延命聡子と娘を演じた土肥希理子ということになるか。
 作品自体、そういうつくりになっており、延命さん、土肥さん共にそれによく応えていたが、真野絵里、御厨亮、松野香澄、勝二繁、永榮紘実も二人を支えたり、二人と対峙したりしてそれぞれの役割を十分に果たしていた。
 そして、金田一君。
 彼は舞台上に存在するだけで大きな意味があった。

 ああ、面白かった!!
(THEATRE E9 KYOTOの舞台の寸法や作品の結構、演技の方向性、女性陣のメイクといった劇の「構え」だけからいうと、あと1幕程度、エピソードがあってもよかったかもしれない。作品の流れ的には不満はなかったが)
posted by figarok492na at 19:09| Comment(0) | 観劇記録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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