2019年08月13日

ジャズ大名

☆『ジャズ大名』(1986年)

 監督:岡本喜八
 脚本:岡本喜八、石堂淑朗
 原作:筒井康隆


 自ら『不良少年の映画史』<文春文庫>をものしているように、筒井康隆という人は幼少の頃から映画に慣れ親しんでいた。
 だから、その作品も映像化に適している…。
 と、考えるのは果たしてどうだろう。
 確かに、筒井康隆は物語の骨法というものをよく掴み、よく押さえている小説の書き手だ。
 若き日のSF短篇小説しかり、中間小説しかり、後年の純文学的長篇小説しかり。
 まさしくストーリーテラーと評して間違いはあるまい。
 だけど、一方で筒井作品といえば実験なんて言葉を軽く超越した言語文章のアクロバティックな躍動が持ち味でもあって、さらにそこに透徹したロマンチシズムやセンチメンタリズムの要素が加わり、しかも躁状態丸出しのやりたい放題な展開まで待っているわけだから、『世にも奇妙な物語』的な掌篇映像ならまだしも、長尺の作品となると、なかなか一筋縄ではいかない。
 『時をかける少女』のようなジュブナイルならいざ知らず、スラプスティックを売りにした原作の映像化は、筒井康隆の側にそおうという意図が明確である分、かえって様々な齟齬が現れてしまっているのではないか。

 それでは、筒井康隆自身が大いに影響を受けた岡本喜八が映画化した、『ジャズ大名』はどうだろう。
 たぶん筒井康隆の小説を愛する向きには、いろいろと残念さを覚える内容となっているのではないか。
 けれど、筒井康隆は筒井康隆であり、岡本喜八は岡本喜八、原作は原作であり、映画は映画、である。
 『ジャズ大名』もまた岡本喜八らしさが全面に押し出された作品となっている。

 幕末、薩長と幕府が最後の争いを繰り広げる中、アメリカ出身の三人の黒人たちが楽器とともに東海道の交通の要所である駿河国庵原藩内に漂着する。
 好奇心旺盛な藩主海郷亮勝は三人が奏でる音楽に魅了され、そのうち家臣一堂もジャズのセッションにのめり込む。
 薩長と幕府の争いなど知ったことか。
 遂には、ええじゃないかの集団までがセッションに加わって…。

 まさしくアナーキー極まる展開だ。
 でも、そこには、戦争経験からくる苦い感情、屈折が多分に含まれている。
 薩長・幕府がお互いの大義の下に無駄な殺し合いを重ねる。
 なのに、一方の親玉である徳川慶喜はいつの間にか大阪城から船に乗って江戸へと逃げ帰る…。
 そして、この『ジャズ大名』においては、その曰く言い難い悲憤、鬱積の反動として、「ええじゃないか」とジャズ・セッションの狂奏、狂躁が対置される。

 そうそう、これは石堂淑朗のアイデアかもしれないが、古谷一行(久しぶりに彼の演技に感心した)演じる殿様と財津一郎演じる家老のやり取りで、「耐え難きを耐え…」などという言葉を聴くと、どうしても『日本のいちばん長い日』のことを思い出してしまう。
 それもあって、責任を感じて切腹しようとする財津一郎がまた阿南惟幾に重なって見えて仕方がなかった。
(ここでの財津一郎の演技がいい。「喜劇をやろうと思うな」という榎本健一の教えを守っているかのようだ)
 あと、この作品が米ソ冷戦下の1986年につくられたということも忘れてはなるまい。

 役者陣はほかに、本田博太郎、神崎愛、殿山泰司、今福将雄、ミッキー・カーチス、唐十郎、小川真司(声でわかる)、利重剛、樋浦勉、香川良介、六平直政、野崎海太郎といった人々。
 喜八一家のほか、ラストのジャズセッションには筒井康隆繋がりの山下洋輔や細野晴臣も参加。
 同じく筒井康隆と親しいタモリもちょっとだけ顔を出していた。
(ちなみに、殿様の妹の姫様役の岡本真実は岡本監督の娘である)
posted by figarok492na at 20:24| Comment(0) | 映画記録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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