☆ナントカ世代『粗忽長屋』(完全版)
原作:古典落語「粗忽長屋」
脚本:北島淳
演出:北島淳
(2019年7月20日14時の回/京都市東山青少年活動センター創造活動室)
抱かれているのは俺だけど
抱いてる俺は誰なんだ
おれがあいつであいつがおれで、じゃない、粗忽長屋のサゲの部分である。
粗忽長屋といえば、江戸上方双方でおなじみの古典落語で、錦湯さんの落語会でも何度も演じられている。
そそっかしい八五郎(江戸バージョン)が、行き倒れの死体を友人の熊五郎(同)だと見間違え、本人に確認させるからなどと無理無体なことを言い始める。
はじめは、ええっ、俺が死んでる、と怪訝な表情の熊五郎だったが、八五郎のあまりの勢いに押されてだんだんその気になってきて、八五郎ともども自分の死体を引き取りにのこのこと皆の前に現れる。
そこで、死体を抱えた熊五郎が最後に口にするのが、冒頭の言葉なのだ。
全くもって粗忽の極み、それこそ馬鹿は死ななきゃなおらない…。
だけど、そこに主体性、アイデンティティの危機を見出すことも可能なわけで、かの今は亡き立川談志家元は「粗忽長屋」を「主観長屋」と読み換えて…。
なんて具合な調子で、毎度馬鹿馬鹿しい観劇記録のマクラの部分を綴ってみせようと思っていたら、この回だけ玉子亭掛御飯(桐山泰典)さんの粗忽長屋の口演に代わる前説レクチャー<永榮紘実の『粗忽長屋』そうだったのか!!>の中で、簡潔的確なストーリー展開の説明とともに、永榮さんがそこら辺りのことをしっかり言及していた。
エレクトラ、お前は賢い、じゃない、永榮紘実、お前は賢い!
で、本題『粗忽長屋』(完全版)のお話。
右横左横前面の三方を花道風の通路、舞台奥を黒幕に囲まれた舞台は、枯れ草が敷き詰められた野外の一角。
後方にはシンメトリーにベンチが置かれ、客席から見て左手には延命聡子演じる女1、右手には土肥希理子演じる女2がそれぞれ座っている。
そして、前方中央には海老(ロブスターっぽい)のハサミに胸を刺された死体が横たわっていて、その様子を撮影しているのが松野香澄演じる女3だ。
そこに遅れて登場するのは、勝二繁演じる男1であり…。
落語をそのまま芝居にしても、なかなか面白さにはつながらないんだよね。
とは、複数のプロの落語家さんから直接うかがったことだけれど(理由は、あくまでも一人の人間が大勢の人間を自由自在に演じるためにつくられた話=噺だから、それを複数の人間に割り振ってしまうとどうしても間が悪くなってしまう等々)、その点ナントカ世代は無問題。
粗忽長屋は粗忽長屋でも、談志家元の主観長屋もびっくり、自らの存在とは? 生と死とは? といったシリアスな問いを突き付ける、別役実風の不条理劇に仕立て直されている。
と、言っても、落語同様くすぐりは豊富だし、それより何より屁理屈こねまくりの言葉の応酬がおかしい。
で、音楽的ですらある台詞のやり取りを愉しんでいるうちに、劇は京極夏彦のような、けれど残念ながらちっとも憑物の落ちないカタストロフィを迎える。
正直、くすぐりで示される笑いの中身であったり、カタストロフィの表現方法には当方の好みに合わない部分もあるのだけれど、しっかり伏線は回収されているし、滑稽さの中にも垣間見えるほの暗さ、不安感、不穏さはやはり首尾一貫しているとも感じた。
だめ男加減が真に迫る勝二、芯の強い土肥さん、反応のよい松野さんと、上記の演者陣は作品世界によくそったアンサンブルを生み出していた。
中でも、延命さんの延命聡子であることへのぶれなさの凄みが強く印象に残った。
(だからこそ、彼女の60代、70代の演技をぜひ観てみたい)
これで1500円は安い。
公演は明日まで。
参議院選挙の投票前投票後に皆さんもぜひ!
ああ、面白かった!!
2019年07月20日
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