2019年06月15日

熊谷みずほプレゼンツ『墓入り娘』

☆熊谷みずほプレゼンツ『墓入り娘』

 作・演出:熊谷みずほ
(2019年6月15日17時40分開演の回/spaceF)


「いい指揮者の下で演奏すれば、いやあ、あんな風に音楽がつくりたいなあって思うし、ひどい指揮者の下で演奏すれば、ぜえったいこんな風にはならないぞって思うし。つまるところ、どっちにしても指揮がしたくなるんだよね」
 今から25年ほど前のドイツのケルン滞在中だ。
 指揮者としての活動をスタートさせようとしていたあるプロのオーケストラ・プレーヤーが、こんなことを語っていた。
(ちなみに、当時ケルンWDR交響楽団にオーボエ奏者として在籍していた宮本文章さんではない)
 それからしばらくしてお芝居に深く関わるようになって、これってたぶん戯曲の執筆や演出、さらには公演のプロデュースにも繋がるなあと痛感したものだ。

 大阪や京都で活発に演者として活動中の熊谷みずほが自ら企画・作・演出・制作を一手に引き受けた熊谷みずほプレゼンツ『墓入り娘』を観ながら、当然熊谷さんもそういった想いに強くとらわれたのだろうなと多いに首肯がいった。
 二言で言い表すならば「自負と畏怖」ということになるか。
 『墓入り娘』は、強さと弱さ、正は正、邪は邪と言わずにはいられない正義感と自分自身への迷いや戸惑い、細やかな心遣いとテリトリーを侵されないための線引き、観察力と賢慮に裏打ちされた見切りのよさとフラ、甘え、とぼけた感じ、危うさ…等々、熊谷さんの持つ特性が十分十二分に表された上演となっていたのではないか。
 spaceFは中会議室程度のフラットなスペース、そこに敷物を敷いて、照明は会場の蛍光灯のみ使用するといういたってシンプルな舞台設定も、手見せ顔見世となる第1回目の公演には相応しい。
 内容は、約10分程度の掌篇『夢のお兄ちゃん』と『痣』の二本に、フィナーレ代わりの『打ち上げ』、そしてアンコールというものだったが、日常っぽさの中に歪みというか、エロス(生と性)とタナトス(死)が混在しており、宙ぶらりんの気持ちのまま終わってしまう展開ともども強く印象に残った。
 まさしく『墓入り娘』のタイトルもだてではない。

 加えて、この『墓入り娘』で作・演出に徹した熊谷さんにとって、今回の座組みが組めた段階で八割方、いや九割方本望だったのではなかろうか。
 いずれにしても、自ら演者の側にあるだけあって、演じる者の機微をよくわかった本であり、演出だった。
 と、言っても演技のための演技、大向うを唸らせる見せ場の連続とは無縁、抑制の効いた、あくまでも作品の性質に副った演出を熊谷さんは施していたし、演者陣もまたそうした演技を心掛けていた。
 その意味でも、アンコールでの筒井茄奈子の激しい感情表現は非常に効果的であった。
 また、木ノ下歌舞伎の『桂川連理柵』(2009年6月/アトリエ劇研)やイッパイアンテナの『バードウォッチングダイアリーズ』(2012年12月/スペースイサン)や『遠野物語』(2014年8月/元立誠小学校)で確かに技量は優れているが、その技量に淫している感が若干あって、当時の楠海緒さん同様、必要以上に自己顕示の強い演者さんではないかと疑っていた三鬼春奈も、ここでは役回りにぴったりの肩肘張らない演技を披瀝していた。
 いや、三鬼さんに関しては、アンサンブル勢の一員としてよく舞台を支えていたHauptbahnhofの『和え物地獄変』(2016年9月/アトリエ劇研)を観て、自らの考えを大いに改めて、いたく反省してはいたのだけれど。
 一方、笑の内閣など、自らのてまり以外では三の線の演技を要求されがちなしらとりまなだが、『痣』の殴られる女はウェットで底の見えにくい、負の積極性を体現したような役回りであり、殴る女の葛川友理が見せた一瞬の怯えと好一対をなしていた。
 『夢のお兄ちゃん』の兄役の銭山伊織、『痣』の横恋慕役の亮介は、適度な自意識と自覚は持ちながらも、強引なマチズモを感じさせない演技。

 回を重ねて本寸法の作品・公演を目指す場合は、オムニバス形式にせよ、長尺物にせよ、一つ一つのエピソードの置き方や台詞の選択について、一層彫琢していく必要もあるだろうが、まずはこうして熊谷さんが自らの志向や思考、嗜好や試行をストレートに表現してみせたことに敬意を表するとともに、次回以降の公演を心待ちにしたい。
 ああ、面白かった!!
posted by figarok492na at 23:13| Comment(0) | 観劇記録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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