2019年05月28日

ほそゆきのパイロット版25

☆ほそゆきのパイロット版25


 結局、雪子と詠美が笑顔を見せたのは、約二時間半にも及ぶ上演の間、それが最初で最後であった。あとは、またもや自己顕示と自己満足と自己懐疑と自己卑下のオンパレード。雪子や詠美ばかりか、たぶん大多数のお客さんにとって、地獄の責め苦が続きに続いたのである。
 四度も続いた偽のフィナーレの末、はい、おわります、の一言で尻切れトンボに上演が終わったとき、ずっと生理現象を我慢していたと思しき最前列左端の頭髪の薄い男性は、阿修羅の如き形相で会場入口横のトイレへと向かって行った。
 最前列真ん中の派手な女性はささっとアンケートを書き上げると、着信音を鳴らした中年女性を睨みつけつつ憤然とした様子で会場を後にした。
「なあ、ともちゃんどこに出てた」
「ううん、わからんかったなあ」
「にしても、あれやなあ」
「ほんまやな」
 という疲れ切った親御さんたちの会話も聞こえてくる。
 詠美は雪子と顔を見合わせて、はあ、と大きなため息を吐くと、
「杉浦さんとあさがおちゃんはよかったな」
と言った。
「杉浦さんって」
「おじいちゃん。杉浦さんは、スタジオ・カホウって劇場の小屋主さんなんやけど、昔すぐり座って劇団の劇団員やってたんよ」
「へえ、そうなん。あの歌、ほんまよかったなあ」
「うん。それに、あさがおちゃんも流石やな」
「十五役やってた子やんね」
「そう。舞台芸術学科の後輩なんやけど、彼女ほんま凄いわ」
 と、トイレから出て来た頭髪の薄い男性が、雪子や詠美と同じ列に座った若い女性に声をかけられ苦笑いを浮かべた。
「あっ、トイレ行ってくるわ」
 そう言って詠美が席を立ったので、雪子はアンケート用に配られた鉛筆をくるくると左手で器用に回しながら、会場中を見るとはなしに見ていた。
 すると、それまでアンケートを書き続けていた平原が急に後ろを振り返った。雪子が一人であることに気づいた平原は、これ幸いと彼女のほうにやって来る。
「なあ、野川さん、隣にいたのは野川さんの妹さんなんやろ。野川さんなあ、あんなんではあかんで。社会的常識ってもんがなさ過ぎるんとちゃう。映画の世界で生きようって段階で、普通の女性とはいろいろと異なってはいるんやろうから、そこはまあしゃあないとして、それでもやっぱり日本人としての、日本の女性としての道徳観念と貞操観念はしっかり持たせなあかんよ。妹さんは、異常者や。残念ながら正真正銘の異常者や。それで、そんな妹さんを野放しにしている野川さんも異常者や。正常極まる僕のような人間から見たら、もうこれは恐怖でしかないよ。異常者は矯正していかなあかん。矯正が不可能やったら排除していかなあかん」
 などと言い募ることに必死な平原は、迫り来る恐怖を一切察知することはなかった。
「何が異常者じゃ、この異常者のちんかす野郎が」
 詠美の蹴りがストレートに腰に決まった平原は、ひでぶぶぶう、と意味不明な叫びを上げて、最前列まで吹っ飛んだ。
「二度と私の前に近づくな。ゆっこちゃんの前にも近づくな。佐田の前にも近づくな」
 平原は慌てて起き上がり、
「めろう、覚えてろ」
と陳腐な捨て台詞を残すと、腰を擦り擦り荷物をまとめて、脱兎の勢いで逃げ去った。
 集中する周囲の視線を意識して、ほんま怖かったわあ、あのストーカー、と声を上げた詠美に、
「ほんまに怖いんは、詠美ちゃんのほうや」
と、雪子はたまらず呟いた。
posted by figarok492na at 16:48| Comment(0) | 創作に関して | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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