2019年05月23日

ほそゆきのパイロット版23

☆ほそゆきのパイロット版23


 京都の底冷えはとても厳しい。
 だから、しっかり厚着をして出て来はしたのだけれど、古屋の「来てくれると思ってたんだ」という笑顔に案内されて入った劇場内のあまりに閑散とした様子に、雪子は激しい寒気に襲われた。
 東大路通から近衛通を東に歩いて五分ほど。劇団あぶらむしの公演会場ステージ・ヴァリアンテは、開演十五分前というのに、お客さんの数が自分と詠美を入れてたったの四人。胸元が広く開いた真っ赤な薄手のブラウスを着た三十代と思しき女性が最前列の真ん中に陣取り、同じ列の左端には頭髪の薄い四十代後半と思しき男性が苦虫を噛み潰したような表情で腕を組んでいる。
 何がヴァリアンテか。結局詠美に押し切られてやって来はしたものの、雪子の微かな勇気はすぐさま萎えた。
「言うてた通りやね」
 詠美がにやりとする。
「えっ」
「古屋さん」
「ああ、詠美ちゃんは人が悪いなあ」
「どっちが」
 雪子が公演プログラムを開くと、あぶらむしの主宰で劇作家・演出家の柴辻健作という人のあいさつが書かれている。

 俺の心の襞を見ろ、などと大見得を切ってはいるものの、ストレートに自分の心の襞を見せるなんて思っていたら大間違いである。世の中はそんなに思い通りに行くものではない。演劇というのは、そうした世の思い通りに行かない様、世の不条理を情理を尽くして定離させる作業の集積なのだ。今回の公演では、約三十人もの出演者たちがその作業に快く加わってくれた。これほどの喜びがあるだろうか。まさしく奇跡だ。奇跡なのだ。皆さんには、この奇跡の軌跡を心して目にして欲しい。それは大いなる輝石とも

 雪子は途中で読むのをやめて、分厚いチラシの束に目を移す。
 演劇集団汚点、新浦纏演出、レッシング『賢者ナータン』。
「好みやないけど、観て損はないな」
 詠美が解説を加える。
 こじつけ、『泳げぬたいやきくん沈没』。
「そこはおもろいよ」
 怒頭倶楽部、『何かを問えば何かがかえってくる』。
「当たりやな。ただ、そこは苦手な人がいんねん」
 上賀茂社中、『放浪者の群れ』。
「ゆっこちゃん好きやと思うわ。そこの作演の鍋島さん、京大の出身やねん」
「大学とか関係ないんと違う」
「関係してるんやてそれが」
「そうなんや」
「そうなんよ」
 劇団ポップコーン、『愛の騒めき』。
「外れやな」
 玉出家天宙、ヌーベルバーグラクゴ公演『アートの祭り』。
「その落語家さん、お芝居とかも出てはんねん」
 三ヶ島薫一人芝居京都公演、『KYO KO MACHI』。
「これは観なあかん、絶対に観なあかん。三ヶ島さんの一人芝居が三千円なんてありえへん」
 と、詠美が興奮していると、ようやく何人かお客さんが入って来た。知り合いに声をかけられた最前列左端の男性は、急ににこやかな顔付きになった。
「ともちゃん、どんな役なんやろう」
「さあなあ、ようわからん」
 などと語り合っている中年の男女は、出演者の親御さんだろうか。
「あっ、野川さん」
 という声がして雪子と詠美が振り返ると、そこには平原がいた。
「またお前か、いね、ぼけが」
 雪子よりも前に、詠美が平原に強い言葉を浴びせかけた。お客さんの目が一瞬にして詠美に集まる。
「ああっ」
 と唸ったきり、平原の声は出ない。そして、ひきつった表情のまま、平原はそそくさと最前列右端の席に腰掛けた。
「詠美ちゃん、知ってんの」
「知ってるどころやないよ、あいつほんまくずやわ」
「まあ、くずやなあ」
「ゆっこちゃんの知り合い」
「ほら、とびうめのイベントのとき遅れてしまったやろ、あのときの原因」
 雪子が平原を指差す。
「まじか、あれがあいつか」
 雪子が黙って頷いた。
「ほんま、死んだらええねん」
 詠美の声が劇場中に響き渡るとともに、平原が大きく身体を震わせた。
posted by figarok492na at 19:22| Comment(0) | 創作に関して | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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