2019年05月02日

ほそゆきのパイロット版13

☆ほそゆきのパイロット版13


 定時を三十分ほど過ぎたあたりで、沙織は会館を出た。
 本当はあと少しだけ処理しておきたい案件があったのだが、無理をするほどでもないかと判断し切り上げることにした。極力残業はしない、させないという佐々部の方針もあるからだ。
「あの人は特別ですよ」
 演劇の世界にも詳しい栃尾はそう言って笑う。
 佐々部が特別かどうかはわからないけれど、学生劇団にどっぷりはまっていた沙織の男友達やその仲間たちは、確かに時間にルーズだった。むろん、それはあくまでも沙織の知る範囲でのケースにすぎないが。そういえば、俺はプロの役者になるんだと意気込んでいた彼は、今どこで一体どうしているのか。
「野川さん、こんばんは」
 振り返ると、長身の青年が立っていた。
「ああ、ベルンハルト。お久しぶり」
 ベルンハルトは、ケルン大学で日本学を専門に学んでいる。会館主催の日本語教室に熱心に通っていて、沙織もそこで知り合った。
「お久しぶりです」
「日本には、どれぐらい滞在してたの」
「四ヶ月です」
「日本はどうだった」
 ベルンハルトはしばらく考え込んでから、
「一言では言い表せません」
と答えた。
「印象に残ったところは」
「いろいろです。秋葉原、靖国神社、福島、広島、長崎、それから京都。野川さんは京都のご出身ですよね」
「そう、京都の出身よ。下鴨神社の近くに住んでいたの」
「私、下鴨神社も行きました」
「本当に」
「はい、夕方でした。森、森がとても神秘的でした」
「子供の頃、私はあの森がとても怖かったの」
「怖かった。恐怖ですか」
「恐怖もだけど。畏怖」
「イフ」
「畏怖の念。エアフルト」
「ああ」
 ベルンハルトが大きく頷いた。
「そうだ、野川さん。京都で撮影した映像があります」
 リュックの中からビデオカメラを取り出して、ベルンハルトが言った。
「今から友人の家で、私が撮影した京都の映像を観る予定なんです」
 ビデオカメラには、金閣寺や銀閣寺、清水寺や平安神宮、下鴨神社や二条城といったおなじみの名所旧跡に加え、京都大学の熊野寮や吉田寮、百万遍の立て看板、さらには東九条やウトロ地区まで収められていた。
「あと、ここはなんと言いますか」
 ビデオカメラの画面に、寺町通りが映っている。
「ここは寺町通り」
「おお、テラ。お寺、テンプル」
 急に映像は、ハンプティダンプティか京都のご当地キャラクターのまゆまろの頭に三つ編みのウイッグをちょこんとのっけたような身体つきをした女性が両手を大きく振り回している姿に切り替わった。
「これは何」
「アニメショップの前で、この女性が大きな声で叫んでました。日本のクレーマーだと思い、私、撮影しました」
「クレーマー、確かにクレーマー。あっ」
 急に、沙織が驚きの声を上げた。
「どうしました、野川さん」
「この二人、私の妹」
 沙織が指し示した先に、雪子と詠美がいた。
「ヴンダバールヴンダヴェルト」
 と、ベルンハルトが感嘆の声を漏らした。
posted by figarok492na at 15:54| Comment(0) | 創作に関して | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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