2019年04月29日

ほそゆきのパイロット版12

☆ほそゆきのパイロット版12


「失礼します」
「どうぞ」
 館長室から、佐々部のよく響くバリトンの声がした。
「デュッセルドルフ、お疲れ様でした」
 と言って、佐々部は沙織を来客用のソファに促した。かつては自らも舞台に立っていたというだけあって、佐々部は身のこなしが実に美しい。
「それで、例の件なんですが」
 対面のソファに腰を下ろした佐々部が切り出した。
「書類上の不備さえなければ、大丈夫かと。念のため、沓脱さんにも確認のほうをお願いしておきました」
「そうですか、それは助かりました。本当にありがとうございます」
 佐々部が深々と頭を下げた。
「そんな、私はただ当たり前のことをしているまでですから」
「いいえ、その当たり前のことができない人が多いんです。多過ぎるんですよ。いや、これは失礼しました」
 佐々部はそこで言葉を断ち切った。
「でも、どうして館長は」
 一瞬怪訝そうな表情をして、ああと頷くと、
「彼彼女らに才能があると思ったからです。むろん、ああいうことを書かれちゃ、正直私だって何をこの野郎ってかちっときますよ。佐々部正太は前世紀の遺物だ、もはや才能は枯渇して過去の栄光に縋り付くしかない哀れな存在だ、かつての反権力者はどこに消えた、なんて。それがたとえレトリックだとしてもね、もっと表現の仕方があるだろうがお前たちはって。だけど、それは一面の真理でもあるわけです。少なくとも、彼彼女らにそう思わせてしまっているのが私であることも事実なんですよ。それに、私だって若い頃は彼彼女らと同じような、いやもっと激しい、もっとひどい言葉を先輩たちに投げ付けてきたんです。気負い、青臭い。それでも、そんな私を受け止めてくれた人たち、真正面からぶつかってくれた人たちがいたんです。そのおかげで、まかりなりにも私は表現活動を続けてこられたんですよ。今度は、私が彼彼女らにそれを返す番だと思いましてね。もう一ついえば、真っ当な表現活動を行っていくことがこれからますます難しくなっていくはずなんです、日本という国では。だからね、ほんの少しでも、雨宿りのできる場所をつくっておきたいというのが私の願いなんですよ。まあ、私も表現者という自己顕示欲の強い人種の一人ですから、人によく思われたいという気持ちがないといえば嘘になりますね。それと、私だってまだまだ現役のつもりです。彼彼女らに迎合する気なんてさらさらないけれど、彼彼女らから貪欲に吸収してやろうって気は満々なんですよ。いや、これは私のつまらない話に時間をとらせてしてしまって、本当に失礼しました」
と佐々部は続け、再び深々と頭を下げた。
「珍しいですね、佐々部さんが長話をするなんて」
 執務室に戻った沙織に栃尾が不思議そうに尋ねたが、沙織は、いえ、まあ、と言葉少なに応えただけだった。
posted by figarok492na at 11:08| Comment(0) | 創作に関して | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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