☆大つごもり
もしくは、一場のコント
四時半を過ぎたあたりから白いものがちらつき始めた。
「雪か」
窓の外を眺めながら、木佐貫が呟く。
「降ってきましたね」
そう言って、志織がデスクの上にコーヒーの入ったカップをゆっくりと置いた。
「ありがとう」
木佐貫は志織に軽く頭を下げると、コーヒーを口に含んだ。ふうと大きなため息が出る。
「来ませんね、石野さん」
「いつものことだよ」
木佐貫が苦笑いする。
「でも、今日は」
「あいつらしいじゃないか」
「そうですけど」
「いいよ、先に上がってもらって」
「そんな」
と、志織が言いかけたところで、ドアの開く音がした。
「噂をすればだね」
志織が黙って頷く。
「丼、いただきに参りました」
「なんだ、善ちゃんか」
つい立の陰から現れたのは、長寿庵の長男坊渋谷善吉だった。
「なんだじゃないですよ、先生」
と言いながらも、善吉はいつもの如く嬉々としている。
「善さん、忙しいんじゃないの」
「忙しいっちゃ忙しいんだけど、忙中閑ありってやつさ」
志織の言葉に、善吉がすかさず応える。
「はい、ごちそうさま」
水切りを済ませて布巾で拭いた丼を二つ、志織が善吉に手渡した。
「毎度ありがとうござい」
ますまで言わず出て行こうとした善吉が、そうだ志織ちゃん、と声をかけた。
「うん、どうしたの」
「志織ちゃん、今夜はどうしてる」
「寝正月」
「なんだよ、若い娘が」
「悪かったわね」
「ごめんごめん、寝る子は育つっていうからね」
「何言ってんの」
「あのさ、みんなで初詣に行くんだけど、志織ちゃんもどうだい」
「みんなって」
「葛西や田所、駒ちゃんに和美、溝川さん、あっあと久太郎」
「ふうん、なら行ってもいいかな」
「だったら、年が明けたらうちの前に集合ってことで」
「OK」
「それじゃあ、また今夜。先生も、よいお年を」
善吉は駆け足で出て行った。
「善ちゃんはその名の通り善人だからな」
「いい人過ぎますよ」
「いい人は嫌いかい」
「好きでも嫌いでも」
「そうか」
という木佐貫の言葉にあわせたかのように、電話機が鳴った。
「はい、木佐貫探偵事務所です。はい、木佐貫ですね、少々お待ちください」
通話口を右手で押さえた志織が、男性の方ですと木佐貫に告げた。
「はい、お電話変わりました、木佐貫保です。はい、なるほど、そうですか。どちらで。ああ、石野の。はい、はい、お名前は、峰松、はい、警察には、なるほどそういうことですか、それではお待ちしています。そちらの番号は、はい、はい、はい、×××の××××ですね」
受話器を置くと、木佐貫はデスクの上のメモ用紙に書き留めた会話の要点を改めて確認した。
「どうしたんですか」
「娘さんが家出したらしいんだ」
「家出」
「部屋に書き置きがあったって」
「今日ですか」
「うん。朝のうちは家にいたそうなんだけどね」
「娘さん、お幾つです」
「十八歳」
「多感な年ごろですね」
「家出したいなんて思ったことあるかい」
「そりゃありますよ、私にも」
志織は呟くように言うと、窓の外に視線を移した。
「雪、降ってますね」
「本当だ」
すると、ゆっくりとドアの開く音がする。
「石野かな」
だが、つい立の陰から現れたのは、見知らぬ若い女性だった。志織より少し若いか、同じくらいだろう。
「あのお、探偵さんに用事があって来たんですけどお」
女性の言葉には強い訛りがあった。
「私が探偵の木佐貫保ですが」
「ああ、あなたがあ探偵の木佐貫さんですかあ」
「そうですよ」
「よかったあ、これを届けてくれってえ頼まれたんでえ」
女性は、肩にかけた萌黄色のバッグの中から分厚い封筒を取り出した。
「誰からですか」
「それが私にもわかんないんですよお。今さっき近くを歩いてたらあ、じゃがいもみたいな男の人があ、このビルの二階に探偵事務所があるからあ、そこの探偵さんにこれ渡してくれってえ」
「もしかして、こんな顔の男」
木佐貫は、左右の目を左右の人差し指でぎゅっと真横に引っ張った。
「そうそう、そんな顔の人ですよお」
女性は大きな笑い声を上げながら頷いた。
「石野だな」
木佐貫が志織に向かって言った。
「そうみたいですね」
「彼は、他に何か言ってなかったかい」
「いいええ、なんにも言ってなかったですよお。ただあ、お礼にこれをあげるよってえ千円札二枚くれましたあ。早めのお年玉だってえ」
今度は財布の中から千円紙幣二枚を取り出した。
「なるほどね」
「それじゃあ、これから私い用があるんでえ」
「ありがとう」
「いいええ」
女性は右手を大きく横に振った。
「そうだ、あなたのお名前は」
「名乗るほどのおもんじゃありませんよお」
ひょこりと頭を下げると、
「よいお年をお」
と言って、女性は出て行った。
「多過ぎるな、これは」
封筒の中には、一万円札が三十枚ほど入っている。
「石野さん、奮発したんじゃないですか」
「あいつが、まさか。いくらなんでもこれは」
と、またもやドアの開く音がする。
「いやあ、失敬」
つい立の陰から現れたのは、シルクハットにフロックコートを身に纏った、モノクルに八の字髭の五十前後の紳士である。紳士は手にした蝙蝠傘を傘立てに入れると、おほんと大きく咳をした。
「これまた失敬」
「どちらさまでしょう」
志織が尋ねる。
「ああ、これは重ね重ねの失敬。わたくし、大日本譴責推進協会総裁の等々力大造と申します」
等々力は胸ポケットから名刺を取り出し、木佐貫に手渡した。
「大日本、譴責、協会、総裁」
「はい、その通りです」
「一体どのようなご用件でしょう」
「馬鹿もんが、ももんが、大久保彦左衛門があ」
等々力は木佐貫を大音声で一喝すると悠然とつい立の陰に去って行った。が、すぐに戻って来ると、傘立ての蝙蝠傘を手にした。
「こいつは失敬」
聞こえるか聞こえないかの小声に続いて頭を下げた等々力は、良いお年をと呟くと、そのままそそくさと部屋を出て行った。
「なんです今の。気違いですか」
「まあ、ある意味気違いだろうね」
木佐貫が等々力の名刺を軽く手で弾いた。
すると、間髪入れずドアの開く音がして、つい立の陰から三十前後の女性が登場した。
女性は、チャーチャラチャラチャーチャララーとラヴェルのボレロの旋律を、時に鼻歌風に唸りながら、時に詠嘆調と歌いながら、時にシュプレッヒシュテンメ風に朗唱しながら、事務所の中を縦横無尽に踊りまくる。唖然とする、木佐貫と志織。
そして、一しきり踊り終えると、女性は、
「お粗末様でした。よいお年を」
と、カーテンコールに応えるダンサーであるかのように深々とお辞儀をすると、軽やかに退場して行った。
「なんです今の、怖い」
「まあ、ある意味彼女も気違いだろうね」
志織を宥めるかのように、木佐貫が言った。
「本当に、先に上がっていいよ」
「嫌ですよ。今出て行くのは」
ぎぎぎーっと大きな音を立ててドアが開く。
志織が、ぎゃあっと叫んだ。
「何、何かあったの」
と言いながら現れたのは、木佐貫の旧友石野だ。
「いやあわりいわりい、なんとか最後で大逆転してさ。いやあ、ほんと焦ったわ」
石野は、よれよれのコートの中から裸でしわくちゃの一万円札を十枚ほど取り出した。
「馬鹿な真似するなよ」
木佐貫の鋭い声に、一瞬目をぱちくりとした石野は、
「そりゃばれるか。名探偵だもんな。ほんと悪かった。時間稼ぎに、近所のちんどん屋の親父に頼んだんだ。あっあと、踊り踊ってたのは、今度の公演に出てくれる女優さん、石井漠の弟子の従兄の知り合いの嫁さんの妹さんなんだ」
と言って頭を下げる。
「えっ、あれってみんな石野さんの知り合いなの。もう、びっくりしたんだから」
「ああ、わりいわりい、勘弁勘弁」
「じゃあ、三十万円も」
志織が重ねて尋ねる。
「えっ、三十万円。何、それ」
「石野、お前、福井弁を真似するのが得意な女の子を知ってるだろ」
「うん、知ってるよ峰ちゃんって言ってさ、今度うちの劇団に入ることになったんだ。ブルジョア、相当ええとこしの娘さんでさ、親父さんは商工会議所の会頭務めてるんだぜ。もともと俺が家庭教師やっててさ、って、どうしてお前そんなこと知ってんの」
「訳はあとだ、早く駅に行け。まだ今なら間に合うはずだから。いいか、もし峰松さんを見つけたら、必ずここまで連れて来るんだぞ」
木佐貫の言葉に圧された石野は、わかった、わかったよと応えると慌てて事務所を飛び出した。
「一体どういうことなんです、全然意味がわからない」
「意味、意味ね、降る雪に意味はありますか」
「えっ、なんですか」
「いや、なんでもない。独り言さ。まあ、二人が帰ってくれば、全てわかるよ」
「そうなんですか」
「意味なんて、全てわかればいいってものでもないけどね」
「はあ」
と答えたものの、志織は今一つ釈然としていない。
「本格的に降ってきたね」
木佐貫が窓の外を見つめながら言う。
「積もりそうですね」
志織も窓の外を見つめる。
「大つごもりらしいな」
「大つごもり」
「大晦日のことだよ。樋口一葉って知らないかな」
「知ってますけど、読んだことは」
「そうか」
「ああーあ、初詣やめとこうかな」
木佐貫は志織の言葉に返事をしない。
ますます雪は強くなってくる。
2018年12月31日
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