清水元 黒澤明監督『悪い奴ほどよく眠る』
物言えば唇寒し秋の風 芭蕉
桃李もの言わざれども下自ずから蹊を成すという、沈黙は金という、はては雉も鳴かずば撃たれまいという。
確かに、べちゃらくちゃらと唾まき散らかしておしゃべりに狂じる様は見苦しい。
ましてや、自慢傲慢の自己顕示に人様の悪口陰口噂話ならなおさらのこと。
男も女も黙ってサッポロビール。
って古いや。
が、ことは時と場合によりけり、ものには限度がある。
いかな理不尽にも忍従忍耐、無法無謀の無理無体にも唯々諾々と従うなんてまさか奴隷じゃあるまいし。
目醒めよ惰眠は貪るな、この世の不正義には抗え立ち向かえ!!
と、激しく叫び続けるかの如き映画が、黒澤明監督の『悪い奴ほどよく眠る』だ。
ここでの三船敏郎は黙ってビールを飲み干す真似などせず、圧殺された父親の復讐を遂げるべく、政官財の癒着構造に対し敢然と起ちあがり、闘いを挑む。
元ネタとなったハムレットの懊悩ぶりなんて糞くらえ、闘うべきだ闘うべきだどこが問題だ!? の勢いである。
けれど、同じゲリラ戦でもメディアコントロールも含めた組織力を誇ったベトコンとでは比較にもならぬ三船チーム(加藤武はまだしも、残る一人は藤原釜足だもの)は多勢に無勢、大きな力の前に圧し潰される。
これでいいのか!!
「よし、わかった!」と訳知り顔になる前の加藤武の絶叫は、まさしく黒澤明の憤りそのものだろう。
(『花田清輝評論集』<岩波文庫>所収の『胆大小心録』で、花田清輝が「カツドウヤ」である黒澤明の「集団の組織者としての自覚」に言及しているのは、もしかしたら『七人の侍』を受けてのものかもしれない。ただ、シナリオの共同執筆といったその創作姿勢はひとまず置くとして、黒澤明という人は、『静かなる決闘』や『生きる』、『生きものの記録』等々、「個」の闘いを良しとする人でもあった。それにはもしかしたら、左翼時代の苦い経験も影響しているのかもしれないが)
そうした『悪い奴ほどよく眠る』において、沈黙は当然金ならず、禁である。
追及されても口を割らない志村喬、『北の国から』ならぬ北の国か東の国の手先もびっくり荒唐無稽な殺し屋田中邦衛、何事も知らず頭を下げる葬儀の場での千石規子、自分のせいで愛しい相手を殺してしまい心ここに非ず、どころか気がふれてしまった香川京子…。
(2010年にテレビドラマとしてリメイクされた『悪い奴ほどよく眠る』は、その造りのあまりのチープさに辟易したものだけれど、三橋達也がとよだ真帆/男性→女性に置き換えられていた点や、深作欣二の『暴走パニック 大激突』や『バトルロワイアル』を想起させるラストは興味深かった。だいたい、本来のシナリオの穴を香川京子/女の愚かさに収斂させる映画版の展開はちょっとね)
そして、もっとも哀れな沈黙者は映画の序盤あたり、一言も発さず自殺す建設会社の経理担当の重役三浦だろう。
検察の厳しい取り調べに対し黙秘を貫いてようやく釈放されたと思ったら、そこに現れる検察事務官(土屋嘉男!)たち。
再逮捕してまたぞろ厳しく絞ろうということだ。
そんな三浦に対して、中村伸郎演じる会社の弁護士はそっと社長の言葉を告げる。
「あなたを信頼しているからよろしく」
進退窮まった三浦は鬼気迫る表情で車に飛び込む。
ああ、忖度、忖度、忖度…。
この三浦を演じていたのが、清水元(1907年〜1972年)である。
宮本顕治の目をちょっと大きくして好人物にした感じ、遠藤太津朗や冨田仲次郎から狡さを抜いて不器用さを加えた感じ、と言ってもわかりにくいだけかな。
要するにブルドック顔にブルドック体形の人物だ。
清水さんは父親が経営する広告代理店の勤務を経て新劇の世界に入り、戦後も映画やテレビドラマに出演する傍ら、表現座という劇団を主宰していたという。
役の軽重はあれど、当然の如く台詞を宛がわれた役者さんだったが、どうしても『悪い奴ほどよく眠る』で意識した人だけに、成瀬巳喜男監督の『乱れる』の警察署長役で高峰秀子相手に普通にしゃべっているのを目にしたときは、あっあの人が! と心底びっくりしたものだ。
それから、東宝やら大映やらの映画で何度もその演技に接したわけだけど、やっぱり清水さんといえば、『悪い奴ほどよく眠る』のなんとも言えない表情に尽きる。
正直、器用とは言えない、けれど切羽詰まった曰く言い難いあの顔は、何行何十行もの台詞を費やしても伝えきれないどうしようもない感情をためていた。
(あの清水さんの顔には、ずばりサイレント時代の怪奇映画などに通ずる表現主義的な誇張を感じる。『羅生門』の本間文子、『生きる』の志村喬や伊藤雄之助、『白痴』に『生きものの記録』、『蜘蛛巣城』の三船敏郎、『用心棒』のラストの藤原釜足、『乱』の炎城の際の仲代達矢、『八月の狂詩曲』のラストの村瀬幸子…。挙げだせばきりがない)
あと『悪い奴ほどよく眠る』では、笠智衆演じる検事も忘れられないなあ。
小津作品のくたびれた中年男性や『男はつらいよ』の御前様、ブラームスの室内楽を思わせるかのような山田太一のドラマでの渋さも渋い姿とは対照的に、ここでの彼は隆々としたキレる検事を演じている。
それがはまり役かどうかは別にして。
そうそう、『男はつらいよ』といえば、第一作で、あの口から先に生まれて来たような広川太一郎がつんとすましかえっているのがおかしかったんだ。
倍賞千恵子演じるさくらのお見合いを寅さん渥美清が木っ端みじんにぶち壊すのだけれど、あのときの見合いの相手こそ広川さんなのである。
この無言の青年が、後年寅さんの啖呵とは違った形の名調子を聴かせることになるとは誰が予想しただろう!
あっ、声優繋がりで思い出した、テレビ草創期に活躍した、というより、鉄腕アトムの吹き替えで鳴らした清水マリは清水元の娘さんなのだった。
あの清水元が家庭においては、どんな人だったのか。
むすっと仏頂面の口を噤んで寡黙な人だったのか、それともおしゃべり好きの陽気な人だったのか。
かなうことならば、清水さんに伺ってみたいものだ。
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