☆ネオラクゴ・マーベリック
後編『ネオラクゴが当たり前になり、先入観にまみれてしまっても、それをはるかに凌駕する新しさ』
出演:月亭太遊さん
(2018年10月29日20時開演/錦湯)
京都国際舞台芸術祭KEXのオープンエントリー作品(正確に言うと、すでにKEXは終了しているので、その連動公演ということになるだろう)であるネオラクゴ・マーベリックの後編『ネオラクゴが当たり前になり、先入観にまみれてしまっても、それをはるかに凌駕する新しさ』を観た。
端的に評すれば、徹頭徹尾、月亭太遊さんらしい企画であり会であった。
いや、それでは不親切に過ぎるかもしれないので、やはり大まかな内容や思ったところについて記しておくことにする。
(あいにく見逃した10月1日の前編が序であり問いであれば、今回の後編は結であり解ということになるだろう)
定刻20時頃に月亭太遊さんが登場し、もし常連さんだけだったら通常のネオラクゴを演じるところだったが、KEXのアナウンスを参考にしてお越しになったお客さんも少なくないので、予定通りネオラクゴ・マーベリックを行うことにする旨、簡単な説明がある。
(三代目月亭太遊が女流落語家という設定は、女性性や女性アーティストに焦点をあてた今年のKEXのテーマにそったものとの説明もある)
さて、ここから作品がスタートする。
まず、ゲラウェイまさおなるピン芸人(に扮した太遊さん)が登場して、ネオラクゴの現状なるものを説明する。
曰く、初代月亭太遊に始まるネオラクゴは今や「落語」を凌駕して芸能芸術の一大ジャンルとなっている。
今夜は、そのネオラクゴの生誕の地である錦湯で三代目月亭太遊が独演会を行う。
と、途中ネオラクゴの成立の事実を交えながら、作品の結構を伝えた。
で、初代月亭太遊の弟子で、女流落語家の三代目月亭太遊(元は月亭太子という設定。演じているのは、もちろん太遊さん。無精髭が生えた上に、橙色の着物に黒の羽織といういつものスタイル。話し方のみ女性女性している)が高座へ上がる。
演じるのは、初代太遊の持ちネタ(の体)、『ドナドナ』、『場末のバステト(ただし熊本弁ではなく標準語っぽくなおされたバージョン)』、『幻影百貨店』、『たまげほう』…。
女性らしい口調の強調をはじめ、嘘くさい標準語の『場末のバステト』、わざとらしい関西弁の『幻影百貨店』、そして感極まって泣き出す『たまげほう』と、あえてやってる感が濃厚に漂う内容だったが、それでも『幻影百貨店』の中盤、宇宙やブラフマーが飛び出すなどネオラクゴらしさが浮かび上がった部分では大きな笑いが起こっていた。
ラストは、『たまげほう』で泣き出した三代目を初代月亭太遊が叱りつけて、客前に登場し謝るという形。
つまるところ、「茶番」を通して、落語(界)とそれを取り巻く状況・人々について太遊さんがどう考え、どう対峙していきたいかということが示されていたのではないか。
ちなみに、僕自身が一番ツボにはまったのは、(冒頭の説明で「自分がアーティストになった」という言葉を受けてもいるのだけれど)作品が終わったあと月亭太遊さんが、今夜の作品にこめた想いをはっきりと語っていた点だ。
言葉をかむことの何が悪いのか、かむほうが自然なのではないかと問題提起をしたり、あえて笑いに走らない内容に努めたと暴露したり。
あっ、そこまで明け透けに語るのか、と思わず笑ってしまった。
そして、そうした言いたいことを隠さずに言ってしまうところもまた太遊さんらしいと改めて痛感したりもした。
ただ、そうした太遊さんの趣向志向が的確に理解されるためには、意図的に「拙い」部分とあえて「精度の高い」部分の差をよりはっきりと付ける必要があるのではないかと感じたことも事実だ。
それと、作品の内容や全体的な結構にせよ、アーティスト宣言にせよ、九州に移動して以降の太遊さんの苦戦が窺えるとともに、次のステップというか今後の方向性に対する太遊さんの懊悩葛藤が強く窺えたことも指摘しておかなければなるまい。
太遊さん本人の意志は意志として、ネオラクゴがより浸透しやすい場所に拠点を構え直すことも今後の選択肢に加えておいたほうがよいのではないかと僕は考える。
いずれにしても、今現在の月亭太遊さんがよく示された興味深い作品であり会だった。
これからの太遊さんの活動を注視したい。
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