2018年04月08日

京都市交響楽団スプリング・コンサート

☆京都市交響楽団スプリング・コンサート

 指揮:高関健
管弦楽:京都市交響楽団

 座席:3階LB1列5番
(2018年4月8日14時開演/京都コンサートホール大ホール)


 卯月四月。
 京都市交響楽団も新年度の始まりということで、京都コンサートホールまでスプリング・コンサートを聴きに行ってきた。
 指揮台には常任首席客演指揮者の高関健が立ち、コンサートマスターは客演の三上亮(札幌交響楽団のコンサートマスターなどを歴任)が務めた。
 なお、オーケストラは第1ヴァイオリンと第2ヴァイオリンが向かい合う、いわゆる対向配置がとられていた。

 まずは、バーンスタインのミュージカル『キャンディード』序曲から。
 ミュージカルそのものはヴォルテールの小説をもとにした諷刺劇ということで、けっこう骨太な内容になっているが、序曲は軽快かつ抒情的な旋律がふんだんに盛り込まれた鳴りに鳴る音楽。
 京都市交響楽団はパワフルでエネルギッシュ、なおかつ精度の高い演奏でスタートを飾るに相応しい演奏を生み出していた。
 ちなみに、この曲はバーンスタイン生誕100年を記念してのチョイスである。
(そういえば、ヴォルテールの原作は、先日読み終えた亀山郁夫の『新カラマーゾフの兄弟』でも重要な役回りを果たしていたんだった)

 と、ここで高関さんがマイクを握り、『キャンディード』序曲について簡単に振り返り、ここからは本題の「オーケストラが描く物語」と、二曲目のサン・サーンスの交響詩『死の舞踏』について説明を始める。
 つまるところ、今回のコンサートの主題は、オーケストラの音楽を通して物語を描く作品が集められているということだ。
 で、その『死の舞踏』だが、高関さんは確かに物語の筋立てをしっかり押さえつつも、あえてあざとくどぎつく色付けすることはしない。
 喩えていえば、ヒッチコックの映画そのものというより、フランソワ・トリュフォーによるヒッチコックへのインタビューに接しているかの如き、明晰で目配りがよく届いた音楽づくりで、冒頭等々、この曲があのオルガン付きの交響曲と同じ作曲家によって作曲されたものだということがよくわかった。
 コンサートマスターの三上亮がソロで大活躍。

 前半最後は、デュカスの交響詩『魔法使いの弟子』。
 高関さんは公演プログラムに書かれているような曲の解説のほか、ディズニー映画の『ファンタジア』を持ち出す。
(わざとらしさはないのだけれど、高関さんには独特のフラというか滑稽さがあるなあと改めて思う)
 言わずもがな、物語性に富んだ作品だが、高関さんの細部まで行き届いた解釈に京都市交響楽団のバランスのよい演奏で接すると、ワーグナーをはじめとした先達や同時代の作曲家たちの影響もはっきりと聴こえてくる。

 休憩を挟んだ後半は、高関さんによる解説から。
 これから演奏される幻想交響曲のあらましや、舞台袖で鳴らされる鐘の説明も面白かったが、なんといってもベルリオーズがアブネック指揮パリ音楽院管弦楽団の演奏したベートーヴェンの交響曲に強い影響を受けていたこと、並びにこの幻想交響曲がサン・サーンスやデュカス、ワーグナーやヴェルディに強い影響を与えたことを強調していた点が重要だった。
 つまり、このコンサートの主題が、オーケストラによって描かれた個々の物語を愉しむだけではなく、如何にしてオーケストラによって物語を描いていくかという作曲技法の影響進化を辿ることであることが明らかにされていたのだ。
 実際、第3楽章をはじめ上述したベートーヴェンの交響曲の影響や、ベルリオーズによる様々な音楽的実験など、この交響曲の持つ革新性と古典性の両面によく配慮された音楽づくりが為されていた。
 一方で、ティンパニの鋭い強打をはじめ強弱緩急とメリハリもよく効いていて、まさしく音楽による「ドラマ」を愉しむことができた。
(4楽章が終わったあと、ちょっと拍手が起こったのは残念だ。高関さんが手で止めていたけど…)

 京都市交響楽団はアンサンブル、ソロとも好調で今年度も優れた演奏を繰り広げてくれるのではないか。
 しっかりとした基礎とたゆまぬ研鑽、そして精緻な解釈によって創り出された、これこそ本物の芸術と痛感した次第。
 ああ、面白かった!!!
posted by figarok492na at 18:41| Comment(0) | コンサート記録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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