パーシヴァル将軍に迫ったかの山下奉文ではないけれど。
イエスか? ノーか?
ニュートラルな立場などない。そのどちらかで決めてしまえ。
という発想ほどうっとうしくて不愉快なこともない。
もちろん、この世に生きているかぎり、絶対的な中立などというものがありえないということや、どんなに判断に窮する事柄でも、イエスかノーかの何れかを選びとらなければならないことがあるということは百も承知のうえである。
それでも、いや、そうであるからこそ、有無も言わせぬイエスかノーかの強制にはたとえようもない拒否反応を示したくなるのだ。
そしてそれは、単にイエスかノーの判断を強いる「システム」そのものに対してと言うよりも、そうしろそうしろそれが当為のことだと、まるでそれが最高善の絶対善であるかのようにはなから決めつけておかしがらない人間に対する拒否反応であり、不快感であると言い換えることもできるだろう。
加えてそれは、人の生命に関わるような重大な判断(例えば、軍事的な戦略に関して、死刑制度に関して、脳死問題に関して等々)までを、何の躊躇もなく即断即決することができ、なおかつ自らと同様に為すことを他者に強いる人間への絶対的な不信感と大きくつながっているとも言える。
ひるがえって、ニュートラルとは現にかく在る状態ではなく、どうしてもイエスかノーかの判断を行わざるをえない、結果としてどちらかに偏らざるをえない人間が、揺らぎ躊躇し迷いながらいったん留まって、自らの判断について深く考察しようとする強い意志をこそそう呼ぶべきなのではないだろうか。
だからこそ僕は、我はニュートラルなり、と広言してはばからない人間に対しても、うさん臭さと嘘臭さを感じてしまう。
ニュートラルって、それほど簡単なことじゃあるまいに!
2018年03月02日
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