2017年10月31日

『ほそゆき』のパイロット版9

☆『ほそゆき』のパイロット版9





 烏丸で古城戸と別れた佳穂は、そこから地下鉄に乗り換えて北山へ向かった。地下鉄は仕事帰りの乗客で混雑していたが、それも概ね北大路までで、北山に着く頃には三分の二程度に減った。
 急な階段を上って出口を出ると、沈む陽が山の稜線を照らしている。
 はあ、と佳穂は思わず声を漏らした。
 しばらくその場に佇んで、薄水色と橙色のあわいをしっかりと目に焼き付けてから、佳穂は下鴨中通りを北のほうへと歩き始めた。
 吹く風が肌に冷たい。佳穂は薄手のカーディガンのボタンをかけた。
 自転車に乗った洛北高校の女の子が二人、歌いながら目の前を走り去る。前の高音と後ろの低音が巧く重なり合っていてとても心地よい。後輩たちにつられて、佳穂もスピッツの『空も飛べるはず』のサビの部分を口ずさんだ。
 数年前にリニューアルされた老舗の洋食レストランの横の小さな通りを左に曲がり、四軒ほど入った瀟洒な洋館の前に立ち止まると、佳穂はインターホンを押す。
「はい」
 という苑子の張りのある声に、
「野川です」
と佳穂は応じた。
「どうぞ」
「失礼します」
 佳穂が玄関の扉を開けると、いつものように薄茶色のスリッパが用意されていた。キッチンからは、ハーブティーの微かな香りが漂ってくる。
「お借りします」
 と一言断って、佳穂は洗面所で手を洗った。
「こんばんは」
「いらっしゃい」
 苑子は軽い笑みを浮かべて振り返ると、手で椅子に腰掛けるよう促した。下唇の左端がほんの少しだけ引きつっているのは、お転婆だった頃の勲章だと苑子は皮肉交じりに口にする。
 佳穂に少し遅れて、苑子が対面の椅子に腰を下ろした。
「いただきます」
 どうぞと言って苑子が差し出したティーカップを受け取ると、佳穂はゆっくりとカモミールティーを口に含んだ。
「ああ、ほっこりします」
「お疲れ様」
 苑子もカモミールティーを口に含んだ。
「どう、調子のほうは」
「まあ、相変わらずです」
「そう」
「苑子さんは」
「まあ、相変わらず。でもないか」
 佳穂の無言の問いかけに、
「もうちょっとしたらね」
と応じて、苑子はもう一度カモミールティーを口に含んだ。
「そうそう、タルトタタンなんだけど」
「はい」
 佳穂はほんの少し姿勢を正した。
「今日は林檎じゃなくて、棗を使おうかと思うの」
「棗、ですか」
「そう。うちの庭に棗の木があってね、たくさん実が生るの。いつもはシロップで漬けたり、干したりしてるんだけど、佳穂さんからタルトタタンのお話があったでしょう。だったら、ちょうどいいかなと思って。ほら」
 苑子が指し示したシンクの上には、棗の実が山盛りになったステンレス製のザルが置いてあった。
「さっき捥いでおいたの」
 棗の実はほんのりと赤みがかかっていた。
「熟れ過ぎて落ちてしまうのも嫌だから」
「私、生の棗を見るの初めてかもしれません」
「だったら、齧ってみたら」
 言うが早いか、苑子はザルの中から棗を二個摘まみ上げると、一個を佳穂に渡し、残りのほうは自分の口に運んだ。
「いただきます」
 佳穂が棗を齧ると、口の中にほのかな甘みと酸味が広がった。食感は林檎に比べるとしゃくしゃくした感じが強いというか、けっこう粗い。
「生の棗もいけますね。ちょっと野暮ったい感じもしますけど、私は好きです」
「ならよかった。下ごしらえがそこそこ面倒なんだけど、佳穂さんだったら大丈夫でしょう」
「よろしくお願いいたします」
 佳穂は神妙な面持ちで頭を下げた。
posted by figarok492na at 13:28| Comment(0) | 創作に関して | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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