2017年09月06日
京都映画百景 北山「しのぶ堂」
先日、北山を舞台にした映画のシナハンを行っている際に、しのぶ堂という一軒の喫茶店を見つけた。
コンサートホール側の出口から地下鉄の駅を出て、横断歩道を東に向かって渡り、二つ目の通りを南に入ってしばらく歩くと三階建ての小ぶりなビルがあって、その一階がしのぶ堂である。
焦げ茶色地に白でしのぶ堂と記された木製の看板よりも、その横に貼ってある市川雷蔵主演、田中徳三監督の『眠狂四郎 女地獄』のポスターのほうがとても目立つ。
現に私もそのポスターに釣られた口で、思わずガラス戸を開けると、ブラームスの弦楽六重奏曲第一番の第二楽章と、いらっしゃいませというマスターの低くて落ち着きのある声に迎えられた。
マスターの名は、信夫謙介。
つまり、しのぶ堂とはマスター自身の名前にちなむものだ。
敗戦の年、一九四五年の十月生まれだそうだが、銀髪長身の飄々然としたその容姿を目にすれば、一回りは若いと口にしても満更お世辞にはあたるまい。
シックで落ち着いた店内には、大映京都で制作された田中徳三監督の作品のポスターが程よい具合に貼り付けられてある。
「全部、本物ですよ」
私の視線に気がついたのだろう、マスターがそう言った。
「恥ずかしながら、全部私が出演した映画なんです」
訊けば、マスターは忍剣介の芸名で大映京都撮影所に所属していたという。
地元洛北高校から京大法学部へストレートで入学。
そんな前途洋々な信夫さんには、中学生の頃から秘めた想いがあったそうだ。
「とにかく映画が好きだったんですよ。できればそっちの世界で仕事がしたくて」
と言いながら、信夫さんはブレンドコーヒーを差し出した。
香り、味わいともに絶妙のバランスで、実に美味しい。
「たまたま私の父が田中徳三監督の関学時代の同期だったんです。子供の頃から、何度もお会いしてましたしね」
それで、日参直談判を繰り返した末に、大映撮影所に入所することが適ったというのだから、まさしく一念岩をも通す。
「はじめはあかんあかんの一点張りで。けど、そのうち徳三先生も音を上げて。お父さんには内緒やでって申し訳なさそうに。自ら泥舟に乗るなんて君もあほやなとも言われました」
信夫さんが入所したのは、一九六七年の春。
その年の秋には、大映の経営不振が明らかになるわけで、確かに信夫さんの乗った永田ラッパ丸は泥舟だった。
「本当は裏方志望だったんですけど、お前たっぱあるから役者やれって言われて。そうなったら、嫌も応もありません。本名が信夫謙介やから、荒木忍さん(大映京都のベテラン俳優)にあやかって忍剣介はどないやって芸名のほうもするすると。名前の件で荒木さんにご挨拶に伺ったら、いいよいいよ、ちっともかまわんよって。優しい方でした」
初出演作は、恩人田中徳三監督の『ひき裂かれた盛装』。
黒岩重吾の『夜間飛行』を原作とした、成田三樹夫、藤村志保、安田(現大楠)道代出演による現代劇だ。
中でも、悪女役を演じた藤村志保が強く印象に残る。
「出演といっても、その他大勢の一人なんですが。それでも緊張しましたよ。一応、中学高校大学と演劇はやってましたけど。プロと学生では違うじゃないですか。それに、映画では芝居の質も違いますし」
以降、忍剣介は数々の作品に出演を重ねる。
けれど、なかなか芽が出ない。
いや、芽が出ないどころか、出演するといっても台詞などないエキストラばかりが続く。
そうした中、あの市川雷蔵が信夫さんにとって忘れられない一言を発する。
「君な、図体のでかい人間が縮こまって見せたら、それだけで目立ってしまうんや。電信柱は電信柱でええやないか。ぼそっとね、聞こえるか聞こえない感じで。それこそ眠狂四郎にばっさりやられたような気分でした」
それでも信夫さんは必死で努力した。
寝る間も惜しんで演技の稽古に勤しんだ。
殺陣に乗馬、舞踊に歌唱と励みに励んだ。
しかし、もがいてももがいても道は開けて来なかった。
「努力すれば夢は適うって言うでしょう。あるところまでは確かに適うんです。でも、そこから先が難しいんですね」
そうこうするうち、市川雷蔵は亡くなり(同じ一九六九年に荒木忍も亡くなっている)、大映の経営はますます悪化していった。
「最後の頃はやること為すこと裏目裏目でした。みんな、なんともぎすぎすした感じでね」
そして、一九七一年の大映の倒産を機に信夫さんは映画の世界を後にする。
「中途半端な形になって申し訳ありませんと頭を下げたんです。せっかくお骨折りいただいたのにもかかわらずと。先生は、いや、こっちこそすまんことしたな。ぽつりとそうおっしゃったんです。思わず涙が零れました」
信夫さんは友人の伝手である私立大学の事務職員に採用され、定年までそこで務めた。
夫人の優子さんと出会ったのも、その私立大学でだ。
「ここもね、もとはといえば妻の実家の土地なんですよ。彼女が一人娘だったもので。何が幸いするかわかりませんね」
信夫さんはそう微笑む。
「しんどいことも嫌なこともたくさんあったけれど、やはり撮影所時代の生活は懐かしいですよ。雷蔵さんや勝新さんはもちろんのこと、南部(彰三)さん、水原(浩一)さん、伊達(三郎)さん、伴(勇太郎)さん、一癖も二癖もある方が揃ってましたしね。テレビなどで平泉(成)さんの活躍を目にすると、なんだか我が事のように嬉しいですね。あとは、木村(元)さんや上野山(功一)さんがご存命なのかな男優では。ただね、徳三先生も亡くなられたし、五味龍(太郎)さんも亡くなられたし、どんどん寂しくなっていって。場所は北山ですが、大映京都の記憶をちょっとでも伝えられたらなと私は思っているんです」
もしかしたら、しのぶ堂とは偲ぶ堂でもあるのかもしれない。
この記事へのコメント
コメントを書く