2017年08月27日

『ほそゆき』のパイロット版8

☆『ほそゆき』のパイロット版8





 定時で庁舎をあとにした佳穂は、いったんマンションに戻って準備をすませてから阪急の駅へと向かった。特急の先頭車両に乗り込むと、ちょうど四人掛けの席の通路側が一つ空いている。譲るべき相手もいなさそうだったので、佳穂はそのまま腰を下ろした。
「野川さんやろ」
 佳穂がトートバッグの中からレシピを記したノートを取り出して眺め始めたとき、左斜め前から男性の声がした。
「古城戸君」
「やっぱり野川さんや」
 古城戸はくしゃくしゃっと相好を崩すと、
「久しぶりやんな」
と続けた。
「ごめん、気付かんかった。ほんま久しぶりやね」
「卒業式以来やから、五年ぶりにはなるんやないかな」
「そっか、もう五年かあ」
「あっという間やね」
「そやね。最近、時間が過ぎるのがほんと速いわ」
「確かにね」
 古城戸は小さく頷いた。
「仕事帰り」
「ううん、ちょっと用事があって。古城戸君は」
「取引先との打ち合わせ」
 佳穂は古城戸の膝の上に載ったクリーム色の封筒に目をやった。封筒には、住所や電話番号と共に近畿経済ネットワークという会社名がプリントされていた。
「これから」
「まあ、打ち合わせといっても、祇園で飲むだけやけどね」
「祇園で」
「接待ってやつ」
「ああそっか。大変やねえ」
「野川さんはどうしてんの」
「一応公務員。詳しく言うと、市役所の外郭団体の職員ってことになるんやけどね」
「へえ、野川さんがねえ」
 古城戸が心底驚いたような表情を見せた。
「自分でも、まさか自分が公務員って感じやわ」
「言うても、安定してるからなあ」
「ありがたいことやけど、でも、まあ」
 そこで佳穂は言葉を止めた。
「そうそう、お姉さんと妹さんはどうしてんの」
「あっ、覚えてた」
「覚えてるよ。あれってゼミの自己紹介のときやったかな。私は四人姉妹の二番目ですって野川さんが言って。こっちが三人兄弟の長男ですって言ったとたん、うわあ、誰かトレードして欲しいわって野川さんが」
「えっ、そんなことあったっけ」
「あったよ、大きな声で」
「そんな大きな声やなかったよ」
「覚えてるやん」
「今思い出した」
「もう。そういうとこちっとも変わってへんね」
 古城戸が苦笑した。
「姉は今ドイツ」
「ベルリン」
「いや、ケルン。国際交流基金かな、そこに出向してる」
「へえ」
「すぐ下の妹は京大の院生で、末っ子は造形の映画学科に入った」
「映画学科」
「うん、俳優コース」
「凄いなあ、黒木華とか吉岡里帆を目指してるんかな」
「本人は、シナリオの書ける俳優になるんやって言うてるわ」
「ふうむ」
 と言って腕組みするのは、何か感心することがあったときの古城戸の癖だ。
「古城戸君はどんな仕事してんの」
「僕か。僕は、京都の街のリノベーションとイノベーションのお手伝いやなあ」
 佳穂の反応を見て、
「わかりやすく言うと、再開発ってこと」
と古城戸は言い換えた。
「再開発」
「ほら、今度京都に文化庁が移転するやろ」
「なんかそうみたいやね」
「あれにあわせて、京都市の南っかわ、あの辺りを文化芸術に特化した地域に再生しようって動きがあんねん。市芸を移転させたりして。うちもそれに関係することになって」
「へええ、私は左京の人間やから、あっこら辺のことはようわからんなあ」
「そうなんや」
「うん。だいいち、京都駅から南側ってそもそも行く機会がないし」
「そっか。まあ、うちはホテルとか民泊とか、観光客の誘致を狙ってるんやけどね」
「なるほどなあ。確かにあっこら辺は京都以外の人のほうがなじみやすいかもな」
 佳穂は小さく咳をした。
「そうや、野川さんって長池の連絡先知らんかな」
「雅人の」
「うん、ちょっと確認したいことがあってね」
「そっか。ごめんやけど、私もあの人の連絡先知らんのよ。もう三年以上会ってへんし」
「野川さんも知らんのか」
「わからへんなあ」
 佳穂は大きく首を横に振った。
「いや、それならしゃあないね」
 そう言いながらも、古城戸はとても残念そうな顔をした。
posted by figarok492na at 22:14| Comment(0) | 創作に関して | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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